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【原泰久】キングダム総合Part.43【週刊ヤングジャンプ】
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原泰久さんがヤングジャンプで連載しているキングダムについて語りましょう
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【原泰久】キングダム Part.19【アニメ】
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実写映画スレ
【実写映画】キングダムpart.1【原作:原泰久】
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前スレ
【原泰久】キングダム総合Part.42【週刊ヤングジャンプ】
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●前279年
秦昭襄王(前306年即位)時代、国尉(軍司令官)・大良造と昇格した白起は楚を攻め、
百里(40km)離れた夷水から水を引き、城内を深く水没させる水計によって死者数十万人。
翌年、楚の国都を陥落させ秦南郡を置いたことにより、白起は武安君の称号を得る。
●前269年
秦の公孫胡昜は、趙恵文王時代の閼与を攻めると、廉頗と楽乗は救援不可と判断したが、趙奢の奇策にはまり、大敗した。
●前260年
長平の戦いで秦側が発した趙総大将更迭に関する流言は、藺相如によって反対されたが孝成王の決断により、
老将廉頗と交代した趙括(趙奢の子)が率いる趙軍に対し、白起は、兵糧攻めに追い込み大勝。
さらに趙都・邯鄲を攻略しようとする白起に対し、その目覚ましい戦功を警戒した
秦宰相・范雎(はんしょ)は、趙と和議を結んだ。
遠交近攻策を取る范雎は、「近く(魏・韓)」をまず優先的に攻略することを主張した。
●前259年
秦は、王陵を起用して邯鄲(人口20万人)を包囲し、さらに指揮官を王コツに交代させたが、
趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。
この危機を打開するために、白起に出兵するよう命令が下るが、白起は范雎の一連の行動に
不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。
●前257年
范雎からの讒言により昭襄王は、白起を罷免し、自害に追い込んだ。
秦の張唐が、王コツを副将として寧新中(魏の安陽)を攻略する。
秦が孝成王時代の邯鄲を攻めた際、異人(昭襄王の孫で政の父)は
呂不韋の手引きで邯鄲を脱し、秦に帰国。
●前256年
秦の将軍・摎(キョウ)が韓を攻めて、陽城などを取り、4万人を斬首する。
さらに、趙を攻めて20余県を取り、9万人を斬首・捕虜に。
韓への侵攻を周に妨害されたので、秦の昭襄王の命を受けた摎が、西周を滅亡させる。
燕出身の蔡沢は、「白起の例を出して、絶頂期に高転びする史実」を指摘すると、
范雎は宰相を引退し、代わりに蔡沢が秦宰相に就任するも、嫉妬の声があったので、
讒言を恐れた蔡沢は、地位を落として秦王朝を支えた。
●前251年
秦の昭襄王が崩御。
同王の55年間の在位において、史書に記録されているだけでも、秦は119万6千人の他国人を殺戮。
太子の安国君(孝文王)が即位するが、在位三日で崩御し、呂不韋の支援を受けた荘襄王が即位する。
政が秦国太子になったことを知ると、趙の孝成王は邯鄲の貧民窟に潜んでいた趙姫と政(数えで9歳)の
母子を秦に帰国させた。
●前247年
魏の信陵君は、五ヶ国の軍をまとめて秦に侵攻し、秦将の蒙ゴウ・王コツを破った。連合軍は函谷関まで攻め寄せた。
●前246年 始皇元年
三年の在位で荘襄王が崩御したので、政がわずか13歳で即位する。
秦将・蒙ゴウが趙の晋陽を平定し、太原郡を置く。 秦は太行山脈沿いの上党郡一帯を制圧した。
秦の侵攻を恐れた韓の間諜による人・財を戦争外に費消する提案であるが、その実利を重視し着工した「鄭国渠」
(120km長の灌漑水路)の完成による華中の肥沃化が、秦の天下統一の基盤となる。(前350年、商鞅の中央集権化政策)
●前245年 始皇2年
ヒョウ公が魏を攻めて、三万人を斬首する。
即位したばかりの趙悼襄王(孝成王の子)は、秦からの攻撃を受けたので、魏に亡命していた廉頗
(魏を攻撃中に悼襄王によって更迭され、楽乗と交代)を呼び戻そうとしたが、廉頗の仇敵・郭開の策略により失敗。
●前244年
蒙ゴウが韓を攻めて、12城を落とす。
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●前243年 始皇4年
趙悼襄王は、孝成王の代に匈奴への守備隊長(弓兵を中心にした堅固な正面陣と左右両翼からの
騎馬包囲作戦)として名を馳せていた李牧を将軍として起用し、燕を攻撃させ、武遂と方城を攻略する。
蒙ゴウが、魏の2地区を攻略する。
●前242年 始皇5年
秦大将蒙ゴウが魏を攻め、山陽(河南修武)・長平(河南西華東北)等
20城を落とし、そこに東郡(河南北部、山東西北部)を置き、中原の支配を進めた。
●前241年 始皇6年
趙・楚・魏・韓・燕は、春申君を総司令として五ヶ国合従軍で函谷関を攻めたが、失敗した。
ホウ煖を大将とし、趙・楚・魏・燕4ヶ国の精兵を率いて連合軍で秦のサイを攻めたが、
抜けなかったので、代わりに斉を攻め、饒安(陝西省西安)を落とす。
●前240年 始皇7年
秦が趙を攻め、龍(河北行唐境)・孤(河北唐県北)・慶都(唐県東北)を占領した。
また魏を攻めて、汲(河南汲県西南)を攻略した。
●前239年 始皇8年
成キョウ(秦王の弟)が、兵を率いて趙の上党を攻め、屯留(山西屯留南)に
進駐すると、秦に謀叛して趙に寝返り、反乱を起こしたが鎮圧された。
宦官ロウアイが長信侯に封じられ、山陽・太原郡の地が与えられた。
(翌年のロウアイ反乱で三族皆殺し。また騒動の真因である呂不韋を流刑処分。)
秦は蔡沢を燕に派遣すると、蔡沢は3年かけて同盟を成功させ、燕は太子・燕丹を人質に送ってきた。
魏が趙に大都市ギョウ(西門豹による灌漑で農業発展)を譲渡する。
●前238年 始皇9年
秦王が楊端和に魏を攻めさせ、首垣・蒲・衍氏(いずれも河南長垣付近)を占領した。
●前237年 始皇10年
趙と斉の使者が秦を訪れ、酒宴を開く。
●前236年 始皇11年 (ギョウ攻略戦)
趙悼襄王がホウ煖に燕を攻めさせ、狸(河北任丘東北)と陽城(河北保定西南)を占領した。
秦は同盟国・燕救援を名目に、王翦・桓騎・楊端和等の連合3軍に2路から趙を攻めさせた。
大将王翦軍は、上党(陝西北部)から北進し、閼與(山西和順)と
撩陽(山西左権)を落とした。
桓騎・楊端和の軍が、安陽(河南安陽西南)等、趙第二都市ギョウ周辺の
9城を落とした後、3軍が合流した。
全軍の中から武功者のみに食料を支給する振るい落としにかけ、兵数を
五分の一とした少数精鋭軍で王翦指揮のもと、ギョウを攻略した。
ホウ煖は、順調な燕攻撃を中止撤兵し、急ぎ帰国したが、間に合わなかった。
この年、悼襄王が崩御し、寵愛愛人への執着から、嫡男である公子嘉を廃嫡し
暗愚の幽繆(嘉の異母弟)が第10代君主となる。
●前234年 始皇13年
秦大将桓騎が趙を攻め、平陽(河北磁県東南)・武城(磁県西南)を攻略し、
趙大将扈輙(コチョウ)を討ち、十万人を斬首する。
●前233年 始皇14年
秦大将桓騎が、上党(陝西北部)を攻め太行山を越えて、
宜安(ギアン 河北藁城)・平陽・武城(磁県西南)を落とす。
この時、桓騎は趙の深部にまで侵入し、邯鄲を包囲する形になった。
趙幽繆王は、北方で対匈奴防衛をしていた李牧を呼び戻し
大将に任じて、秦に反撃させた。
国家存亡の危機に李牧は、匈奴討伐の精鋭軍を死戦覚悟で指揮し、
趙軍は宜安・肥下(藁城西)で桓騎軍に大勝する。
桓騎死亡説(by戦国策)、または敗走説(by史記)
幽繆王は、その功で李牧を武安君に封じる。
最弱国の韓を郡県化しようという議論の際、秦王は韓非を人材登用しようとしたが
才能に嫉妬した李斯の讒言により、韓非は投獄され服毒自殺に追い込まれた。
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●前232年 始皇15年
秦は大軍を派遣して、両路から趙を攻めた。
南路軍はギョウ(河南臨)を討ち、北路軍は太原(山西太原)を攻め、
狼孟・番吾(共に太原境)を落とす。
しかし趙大将李牧が反撃し、秦軍を撃退する。
李牧は秦に連勝したが、趙軍の損害も大きく、邯鄲に戻って守りを固めた。
●前229年 始皇18年
秦軍は2路から趙を攻めた。
王翦は上党(陝西北部)の兵を率いて、井ケイ(河北井ケイ西)に向かい、
楊端和は河内(黄河以北、河南新郷、安陽地区)の兵を率いて、邯鄲を包囲した。
趙王幽繆は李牧・司馬尚に反撃させた結果、秦軍は敗北した。
秦は3連敗を喫した李牧を恐れ、大金を趙の嬖臣・郭開に贈る。
郭開が幽繆王に「李牧が趙を裏切り、秦に降ろうとしている」と
讒言をしたので、趙王が李牧・司馬尚を呼び戻し、交代で趙葱・顔聚を派遣しようとした。
この命令を無視した李牧は、捕縛され誅殺された。司馬尚は解任。
●前228年 始皇19年
秦は李牧死亡の報に歓喜し、大将王翦に趙を攻めさせる。
楊端和・羌カイの攻撃に趙軍は大敗し、趙葱・顔聚は逃走。
趙都邯鄲が陥落し、幽繆王は捕えられ、趙は滅亡する。(李牧誅殺の3ヶ月後)
始皇帝は、幼年時代に邯鄲でいじめを受けた相手を探し出し、皆殺しにする。
趙嘉(悼襄王の嫡男)が代郡(察哈爾蔚県)に奔走し、代王を称す。
趙の旧臣が代に集まる。 代は燕と結んで秦に対抗したが、前222年王賁に滅ぼされた。
・紀元前260年の戦国七雄 (大都市ギョウが魏国の領土時代)
http://blog-imgs-71.fc2.com/w/s/h/wsh1420/20150503175518aed.jpg
・前250年の戦国七雄
https://ahurohornet.com/wp-content/uploads/2018/02/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%9C%B0%E5%9B%B31.jpg
・前246年の勢力図 (政が即位した年)
http://blog-imgs-71.fc2.com/w/s/h/wsh1420/201505161930446e1.png
・前236年から前233年 (秦から趙への侵攻)
http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images_chin/chugenmap.JPG
http://livedoor.blogimg.jp/waruneko00326-002/imgs/7/7/7722e512.jpg
・前230年の戦国七雄 (秦によるギョウ攻略後の領土関係)
http://i.imgur.com/vbGwJ1S.jpg
・前230年から前221年の中華統一の過程 (戦国六雄への侵攻ルート)
http://blog-imgs-71.fc2.com/w/s/h/wsh1420/201505162130491a0.png
前210年の統一秦国 (始皇帝が崩御した年)
http://blog-imgs-71.fc2.com/w/s/h/wsh1420/China_Qin_Dynasty.jpg
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キングタフの新しいホームはここスね
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再開は再来週だっけ?
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ッス
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でもあっちのサイトに2ページだけ上がってるのが不思議だよ
いったい何処から漏れてんだろ
ただの会話シーンで朝鮮語読めんから内容分からんけど
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ageるッス
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将軍なったら仕事めっちゃ増えそう
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安倍政権、検察庁法改正案断念してやんのw原将軍つええワロタ
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このスレ以前は原を右翼扱いしてかかったか?掌クルクルだな
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>それより太子嘉は自分の廃嫡と引き換えに李牧の助命嘆願しそうな気がする
俺も嘉太子が助けるってのは1つの予想して考えてるけど
廃嫡して何か王にメリットはあるの
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廃嫡された側の代王嘉に理由がある
嘉は趙の悼襄王の嫡長子として生まれ、太子に立てられた。
悼襄王は寵愛していた倡后の産んだ公子遷を後を継がせるために
太子嘉を廃嫡し、公子遷を太子に立てた。
前236年、悼襄王が死去すると、遷が即位して幽繆王となった
…史実悼襄王の評価が低い事の理由のひとつと考えられる
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>>13
愛妾の機嫌がよくなる→たっぷりサービスしてくれる→もっとショタショタ!
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この後は周知の通り、
前228年に趙は滅亡し
公子嘉は一族を連れて逃れ、亡命政権である代を建て
そこで王を名乗った(代王嘉)。
その後、嘉は燕王と結んで秦に抵抗する事になる
つまり後の展開を考えて趙王二人を早々に見限り
周囲の側近の助けの元、代を建てる下準備を整えていた?
秦からの狙いをそらす為にあえて廃嫡されたという流れも?
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もう秦一強は確定だから、どっかに逃げるしかないだろうけど
逃げる場所が…
どこまでも追ってきそうだしな、秦軍
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安倍、黒川今井二階らを率い
ペーニョを攻むる
不抜。
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何か鄴攻めや朱海平原の話がグダグダ化して、無駄にダラダラ長期化してると思ったら、
急にブツ切りみたいに終わったな。
もしかして原はここのスレを秘かに覗いてるんじゃ?
ストーリー進行のテンポのノロさと原の独りよがりぶりが、ここじゃ想像以上に評判悪くて
叩かれまくってるのに驚いて、焦って急激に話まとめたのか?
それとも編集からドヤされたのか?
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それ合掌軍より前から定期的に言われてる事だから
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いちいちネットの掲示板覗くような暇な連載漫画家って実在するのか?w
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マンガ板発のスレは定期的に言われてるな
まあ各作者からすれば大抵
自分に対する叩きが入ってるから見ない方がいいとは
マンガ家間や編集間で言われてる様だが
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逆張りでこねくり回す系の作者とか
裏かいて悦に入ってそう、なお面白いかどうかは別な模様
ゲーム板なんかは結構作者いたりするみたいだけど
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将軍になると、部下が一万人ぐらいに増えるのか?
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>>16
代王嘉を支える仮面の宰相「赤彗星(中身は生き延びた李牧)」とか登場しても
俺は全く驚かない
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>>24
一万から五万くらいまでじゃないかな。
五万以上になると大将軍クラス。
白老大将軍の副将だった桓騎や王翦は
三万、四万率いてたね。
信の場合、すでに羌かい3千人もいるから五千人将だったけど八千人配下がいたので一万人配下からスタートかね。
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>>13
可愛がってる方の息子に継がせてやれる
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>>16
たぶん代が生き残ったのは秦の戦略だよ
代は趙の北方地域で匈奴と争い続ける地域だ。もともと李牧とカイネがいた雁門も代に属する。
秦が邯鄲を落とした勢いで代を手中にしたら、代で今度が秦が匈奴と戦わなくてはいけない。
中華統一のために秦は他の国々と戦わなくてはいけないのに、余計な手間だ。だから代を残した。
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軍長と将軍はどっちが上なんだろ
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>>27
李牧が王命で投獄されたが、王が出てきた描写がない
本当は趙王が意識不明か死んでいるか
でも趙王の周囲はカクカイと王妃の手の者で固められ、太子でも近づけない。
カクカイが王妃と結託して、太子と李牧の失脚を画策。そこで太子が自分の太子位放棄を条件に、李牧の助命をカクカイと王妃に求めて実現と予想。
史実で政が死んだ時に偽勅で太子が自刃し蒙恬が投獄された事に、原ぴょんがヒントを得たと。
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>>30
日本史では安政の大獄が近い。
7月5日に井伊直弼大老が将軍家定の命令だとして、政敵の一橋、水戸、越前、尾張、土佐の有力大名を一斉に処罰して失脚させる。翌日7月6日に将軍家定病死を発表。
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>>28
秦側の思惑と趙側のそれはまた別だからね
史実とキングダムの流れもまた別
原はそこらを改変する可能性あるだろうなって感
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>>29
ロクオミさんは軍長時代すでに2万率いてたね。第一軍長が2万なら当時副官の謄はどれくらい部下がいたんだろう?
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>>19
俺は原先生はこの戦をストーリー的にかなり大きな区切りになる大戦として最初から構想してたが
それが読者にはうまく伝わらなかったんだと思う
俺もずっと普通の戦の1つとして見てたが、妙に進行が遅いからおかしいと思って考えてたら途中でそういう結論に至った
実際結論を見ると李牧を倒し、難攻不落の城を落とし、ホウ煖も死に、おそらく若手3人は将軍になるという大きな転換点だ
戦の前に飛信隊に新人を入れたり、信が王騎の鉾を持ち始めたことも
新たなストーリーの始まりを感じさせられたので、原先生の思惑とギャップを生んだと思う
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ハラペーニョ曰く、ようやく折り返しらしいからな
年表ではまだ折り返しだなんて段階に到ってないが
まあひとつの区切りにしてる可能性はあるだろう
今のペースのままじゃここから何十年経っても
中華統一回に到達しないけどな
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ここから李牧が盛り返して李信がやられ役になるたった一つの冴えた方法が俺にはわかっている。冥界編とかいう精神世界を突然持ち出したのも全て伏線だ。
「俺たち」「私たち」「「入れ替わってる!?!?」」
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それもうカビ生えて時代遅れだからやめれ
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長平の戦いの時、秦の工作によってレンパを更迭し、名将の息子とはいえ経験ゼロの若造を大将にして負けた趙
(しかもその息子は、親父から「あいつは口先は達者だが、ダメなヤツだ。間違っても将軍にしてもらったらいかんぞ」といわせたほどの…)
そんな苦い経験から、何も学んでないのが…李牧の最期もソレだし
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