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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

40ギア:2017/02/15(水) 14:36:26 ID:bg4kX3n.
流れに流されながらも多少は自分の思い通りにしたい内容ってのが、まだブラック化がマシな人達(公務員)をブラックな世界に放り込みたいって話なら歪んでるどころの話じゃないですよ…

そんな極端な成果主義が横行しても、虚偽報告とリタイアが増えるだけで、生き残った『使える』人材も遠からず潰れちゃいます。
だからこそ、働く気のある全員がちょっとでも今よりマシな環境で働けるような雰囲気、世論を作っていくのが大事なのであって、まだマシな世界にいる人を限界ラインまで引きずり下ろすなんて論外でしょうw

41感想下記:2017/02/15(水) 22:28:30 ID:zCvGIqq6
マシな環境で働けるような雰囲気、世論を作るためには
まずは倒さないといけない理論があると思うんですよね

「同じ給料で働きたがる人間と働きたくない人間、どちらを雇うか?」

まずこの質問をした時ほぼ100%の人間が働きたがる人間を選ぶと思います。
では次にこの質問を少し変えます

「同じ給料で働きたがる外国人と働きたくない日本人、どちらを雇うか?」

ここが今の世の中の最大の問題の一つだと思っています。
結局グローバル化社会によって日本の多くの企業はこの問題と戦っているんじゃないでしょうか?
実際に日本で雇うとかのレベルではなく外国で安価でものを作ることに関してだって突き詰めればこれになる。
外国はブラックでやれるから日本でも同等の効率のためブラック染みたものになるのはしょうがない面もある気がします

我ながら下劣な考え方だと思いますが
これからの世の中社会は世界基準で人間を評価するようになるとおもいます
技能もない人間に対しては途上国の労働者と天秤にかけるような存在になってしまうんじゃないかと思います。
そしてさらに時代がすすめば技能がある人間すらもAIと天秤にかけられるような存在になっていくのではないかと思います。

そこに歯止めをかけるためには上記理論倒さないといけないんですが…どう倒せばいいか見当がつかない
いっそのことこれと戦わない方向で進むようにするのが正解な気もするレベルです

42修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/02/15(水) 22:31:56 ID:MDyIz2QM
だからお前はしゃべるな。全てに耳をふさいで何も考えず、年をとって死んでいってください

43pppp:2017/02/15(水) 22:36:36 ID:0/iFzJjk
>感想下記さん
私、出版界の労働組合でいろいろやってますがもっとなんかこう、身近なところから少しずつ議論してますよ。
まあ、組織率が15%程度のご時世、組合が機能してるだけで恵まれた環境にいると思うのですが、
現実に低賃金から在職死まで幅広く苦しい労働条件や理不尽な就労環境のあるなか、
一つひとつ同じ立場の人で話し合ったりより苦しい人を助けたり、弁護士さんなど専門家の助けも借りて会社と交渉したりしてます。

突き詰めれば、とおっしゃるのは簡単なんですけど、どうも飛躍が大きいように思えて
結局のところ何を問題と(自分の問題と)感じてらっしゃるのかがよくわからないです。

44感想下記:2017/02/15(水) 22:36:43 ID:zCvGIqq6
健康で年をとって死んでいけるほど幸せなものはないですね、ありがたい

45ギア:2017/02/15(水) 22:39:02 ID:5oA7I9Bo
とりあえずキツい言葉は使わないでいきましょうよ…

46感想下記:2017/02/15(水) 22:40:14 ID:zCvGIqq6
>>43 ppppさん
実際自分としても頭の中でシミュレーションしてやっているので実践とは遠いところにあるとは思います。
ただ理論的に感情をあまりのせずに物の動き方みたいなものをやっていき、極論が過ぎるような事態になればこうなると思いました。

実際はppppさんが言うようにそういった自分の立場、価値を守るために生きていくのがやっぱり大事なんだと思います。

47修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/02/15(水) 23:02:35 ID:MDyIz2QM
まぁ感想ゲスの極みさんは、これからの世の中がどうなろうと生き残っていく自信たっぷりの強者なんでしょう。
強者だから弱者のことなんてどうでもいいのでしょう。
そしてこの書き込みに対しても、理屈だけで中身のない返しをしてくれるのでしょう

48感想下記:2017/02/15(水) 23:06:18 ID:zCvGIqq6
そう多分僕は社会的に強者のカテゴリーに入る
ただ強者の立場から物を語ることも許してもらいたいと思います
こういう考えを持つ人間がいるということも知ってほしい

49修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/02/15(水) 23:10:12 ID:MDyIz2QM
知ったから嫌いになったんですよ。
強者の割には、あんまり頭がいいとも思えないし。
こういう考えを持つ人間がいることも知ってほしい

50感想下記:2017/02/15(水) 23:12:30 ID:zCvGIqq6
頭が良くなくたって強者になれる
だから若い人には強者になるための努力をしてほしい
あと僕がいえるのはこの程度ですね

暴言が過ぎました、申し訳ない

51最果て:2017/02/16(木) 12:56:50 ID:pF0wQdFQ
修斗さんはそろそろ一度くらいはこの掲示板のローカルルールを読んできたらいいんじゃないすかね

52satoS:2017/02/16(木) 20:50:38 ID:/6E5lQI2
この話題に関しては自分は修都さんに同意ですね

53唯野:2017/02/17(金) 14:02:52 ID:DtSv65C6
この人自説を批判されると安倍信者自民信者って喚くからどうにもならん

54pppp:2017/02/17(金) 16:30:45 ID:iPZr90k6
忍殺ほんやくチームの本兌さんの大変良い記事があったので、皆さまご一読いただきたいと思い紹介ペタリ
ttps://diehardtales.com/n/n6c3361868002

55税収総額(さて、半分政経スレとして……):2017/02/18(土) 11:09:08 ID:AjLN4w8c
 日本の極右と極左って、主張の第一歩は同じなんですよね。いわく「米国追従はけしからん!」……(私や貴方が極右だとか極左だとか述べているのではありませんよ。念のため)……で、極右は(だから)憲法を変えると言い、極左は(なぜか)憲法を守ると語る。確かに、9条があることで(それを盾にして)いくつかアメリカに対して抵抗してきましたが、9条があることで防衛はもちろん、外交もアメリカに頼り切ってきた、頼らざるをえなかった部分も相当存在するわけで……。私個人としてはそんなに積極的な改憲論者というわけではないのですが、理屈だけなら前者のほうに理があるように思います。
 また、憲法学者全般もいい加減なところがあると感じていて、なにか問題があるたびに憲法の理想に照らしてこうこうこういうふうになってないから改善を、などと話していますが、それをやっていると待っているのは際限のない大きな政府というか、ある種の国家主義ではないかと。
 まあ、私はちょい右で、しかも少し変わっていることは自覚していますが。いわゆる左の人が多いサイトで、日本はもう少し難民や移民を受け入れるべき(今はいくらなんでも少な過ぎ)と発言したら、右からも左からも黙殺されました。

56税収総額:2017/02/18(土) 11:39:43 ID:AjLN4w8c
さて、格差社会をどうにかするために左右合同して、以下のようなことができれば……1、消費税を5%に戻す。2、法人税と、所得税の累進課税を上げる。3、公共工事と防衛費を(少し)減らして、その分を社会保障と教育関連に回す。

消費税が財政再建の役に立っているか? というと、数字を見る限りまったく役目を果たしているようには思えませんし、格差社会拡大の始まりは1990年ごろからの法人税減税、所得税の累進課税の低下にあると見ているので、そこにメスを入れます(過激なことを言いますと、法人税が高いから出ていくなどとのたまう企業は皆で不買運動をすればよいと思うし、タックスヘイブンのようにもともと人も産業も少ないから法人税を低くして金を集めようなんて仕組みは潰したいところです。そのお金は社会インフラに使うべきものでしょう? 人の多いところに使うべきです)。
防衛費を減らしてもどこも攻めてこないなら、右も左もwin-winですし、もしも隙を見せることによって攻めてきたらそれを機に憲法改正に進むという二段構えです(苦笑)。

57レモングラス:2017/02/18(土) 11:57:05 ID:wi9/0NN6
西村京太郎の十津川警部シリーズはとても読みやすくてオススメ。 ドラマは主演の俳優の演技がひどくて観る価値がない。
なんていうか西村京太郎の文章って基本に忠実って感じでよくあるすごく気取った文章みたいなのが全然ないのが凄い。西村京太郎は過小評価されている。個人的には村上春樹よりよっぽど素晴らしい小説家だと思う。

58レモングラス:2017/02/18(土) 12:04:11 ID:wi9/0NN6
ガソリン生活 伊坂幸太郎の作品の中で個人的にはワースト。伊坂幸太郎の作品は大好きなんだけどな。車が喋る設定の物語の必然性があまり感じられなかった。別に車を喋らせなくても同じような物語かけたよね?って思っちゃう。
いじめっこが大して罰を受けないままおわるのが正直物足りない。ちょっと脅かすぐらいじゃ全然
足りないでしょ…

59修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/02/18(土) 12:05:11 ID:MDyIz2QM
僕も一時期、西村京太郎にはまっていたことがあります。
ただ、ドラマの方が先だったので、どうしても渡瀬恒彦のイメージになってしまっていますね。
でも、実を言うと電車のダイヤを利用したトリックはいまいち理解できてなかったりもします。

横溝正史にはまってたこともありますが、やっぱりこれも市川崑の方が先ですね

60税収総額(そうそう、):2017/02/18(土) 12:08:36 ID:AjLN4w8c
非常に即物的なことを言うと、富裕層は中産階級からうまくお金を集めることで成り立っていると思うので、中産階級没落→1、社会全体の機能不全2、テロや犯罪など治安が悪くなる→「新自由主義」は間違っていると悟って改心していただきたいものである。

61レモングラス:2017/02/18(土) 12:12:38 ID:wi9/0NN6
演技がくどいと書くつもりだったが間違えてひどいと書いてしまった。別にあの俳優自体は好きですが十津川役はあっていないと感じる。

村上春樹も嫌いなわけではないしむしろ好きですが、自分は西村京太郎が好きすぎる。

62お茶妖精:2017/02/18(土) 12:15:56 ID:ZIZd89s2
・リヒテンベルグ先生の控え帳
科学者の日記のつぶやきを本にしたものだけど天才のにおいがあふれてる。
「本はその著者が燃やして完成する」
「彼は生涯に10冊の本を書いた。子供を10人作るか木を10本植えたほうがマシだった」
面白いのは作者が本を誰にも見せず、死後に家族が一部を廃棄したあとで出版されたこと。

63ギア:2017/02/18(土) 12:28:23 ID:uhefj1Js
秋山 香乃さんの『新選組藤堂平助』ってよまれたことある方います?

読んでみたいのですが、本屋さん曰く出版社に問い合わせても在庫がないとのことで、アマゾンで中古買っちゃおかなーと迷ってるんですが……
お読みの方がおられれば感想をお聞きしたいです。


ちなみに新選組物は司馬遼太郎と浅田次郎くらいしか読んだことはないです。

64レモングラス:2017/02/18(土) 12:50:08 ID:wi9/0NN6
海堂尊はアクアマリンの神殿と
モルフェウスの領域以外は楽しめた。
何でリアル路線からSF路線にしたの…💀

作中の子供達のおっさんが考えた子供感がしん
どい。ドロン同盟とかノリがいちいち古くさい。
主人公が好きになれない。

65感想下記:2017/02/18(土) 13:06:49 ID:zCvGIqq6
>>60税収総額さん
経済関連は苦手で税制関連は何をどうすればいいのかサッパリだったので勉強になりました。
実際中産階級まで没落し始めるとアウトっていうのは感覚的にわかりますね。
社会というものを動かし続けるのに必要なパーツがおかしくなれば社会は機能不全になると思います。

ただ一方で逆にいうとそこまで必要でないパーツにどこまで社会が支援をするかといところは凄い難しい話になると思います。
必要なパーツには支援、必要性がそこまで高くないパーツへの支援はおざなりになる
格差の原因としては社会にとっては必要性のないパーツというものが多くなってきたというのもある気はしますね

66修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/02/18(土) 13:42:41 ID:MDyIz2QM
せっかくスレの方向性が変わってきたのに一々反応してしまって申し訳ないのですが…。

必要でないとか必要だとか誰が決めるんですか。だいたい、国民をパーツ扱いするのもおかしな話だ。
ヤン・ウェンリー的な考え方でいえば、必要でない国民は支援しなくてもいいなんていう国家になるのであれば、そんな国家は早々に滅びたほうがいい。
歴史的に見たって、必要な人間が多かった時代なんて時代が果たしてどこにあるのか

森見登美彦は、『夜は短し歩けよ乙女』はすごい面白いなと思ったのですが、『四畳半神話大系』はいまいちだったんですよね。
アニメだと面白いなと思ったのですが、小説でああいう展開っていうのは途中で飽きちゃうなと思いました

67園田英:2017/02/18(土) 15:33:11 ID:42CQa91o
>>59修都さん
メタ視点推理小説”名探偵の掟”で軽侮と探偵がそこら辺のこと言ってましたね
時刻表モノで時刻表見てる奴なんて少数。アレは電車の旅楽しむものであって
警察のトリック解説なんて殆どがほうほうなるほどと流してるよと

んでその後「本格モノファンもそんな感じかもですね。後僕、館モノの見取り図とか読んだこと無いですし」「ああそれ俺もだ」
とヤバイ会話になるわけですがw

十津川警部だと昔読んだのが
連続強姦殺人事件発生。ある警部が一人の政治家秘書を犯人だと”確信”
証拠が無いんで「被害者やご遺族に申し訳ないと思わないのか」「自首すれば楽になれるぞ」と追い込み開始
秘書が自殺した時も「良心に耐えられなかったか」とほざいてましたが
無罪の訴えと警部の追い込みを非難した遺書が出てきて
警部は最後まで秘書が犯人だ言ってましたが当然懲戒免職と

で数年後十津川警部たちが調査するんですか真犯人は政治家のホモ息子
(女とのHに慣れる為に犯行を)秘書はそれを庇う為に怪しい行動をとっており
その免職喰らった警部がそうとうな駄目野郎と確定したと
…けど何故か悲運の警部扱いなんですよね

ついでに十津川も架空の人物使って罠に嵌めようとしたら偶然それにぴったりと当て嵌まる人物が出てきて
それが犯人に狙われるハメになるって駄目っぷりでしたが
(しかも危うく殺されかけた)

68修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/02/18(土) 22:57:19 ID:MDyIz2QM
実際にダイヤが気になる人って鉄オタだけなのかもなぁ

69税収総額:2017/02/19(日) 17:48:32 ID:AjLN4w8c
>>56どうしてこのような考えに至ったか、どんな本を読んでいたのかは逐次書きたいと思います(本の内容紹介と感想の比率はなかなか難しいですね)。修都さんやレトさん始めとするリベラルな人たちとも共有しているであろう日本における課題(世界的な課題も含む)……「新自由主義」「企業の内部留保の増加」「労働者の賃金低下」「消費増税。法人減税。所得税の累進課税低下」など……。1990年ごろからの法人減税は顕著で、所得税(日本の場合所得税プラス住民税)の最高税率も近年少し戻して55%になったのですが、かつては70%を超えていたわけで、これらが格差拡大の元凶ではないでしょうか。法人税や所得税があるところから取るのだとしたら、消費税はあるところからはもちろん、ないところからも無理矢理取るイメージです(逆進性が高い)。

防衛費を減らして云々のあたりは左右合同だけではなく、与党とりわけ安倍さんにもメリットらしきものがないと動かないだろうなあと考えてのものです。安倍さんは「お試し改憲(変えやすいところから変える)」を狙っているなどともいわれていますが、お試し改憲ならば、それこそ今年中にも行おうと思えば行えそうですが、それだけで終わりそうです。「本命」は違うでしょう。

70税収総額(ネタもと):2017/02/19(日) 18:46:54 ID:AjLN4w8c
 ネタ本は『財務省と大新聞が隠す本当は世界一の日本経済』(上念司著。去年出た本です)と『日本人はなぜ貧乏になったか』(村上尚己著。2013年の1月に出た本です)。
 前者には、以下のような記述があります。Q消費税を一%増税すると、必ず二・五兆円、税収がアップするのですか? Aいいえ、税収トータルで見れば、必ずしもそうではありません。
 もし、消費税を一%増税することによって二・五兆円の税収が増えるのであれば、次のような税収増が観察されるはずです。1989年 〇%→三% 七・五兆円増 1997年 三%→五% 五・〇兆円増 2014年 五%→八% 七・五兆円増
 では、増税の翌年に、本当にそれだけ税収が増えたかどうか確認してみましょう。1989年プラス五・二兆円 1997年マイナス四・五兆円 2014年プラス二・四兆円
 これは目の錯覚でしょうか? 過去三回の消費税増税において、一回も目標金額に達したことがありません。財務省の人は高い大学を出た立派な人だと聞いていたのですが、いったいどうしたことでしょう? 新聞記者の方々は、なぜ指摘しないのでしょう? (中略)実際に、アベノミクスによって二〇一三年は絶好調だった日本経済が、二〇一四年の消費税増税によって、急に失速したのは記憶に新しいところです。。(後略)

 以下、私の意見。1997年はトータル税収が前年度比マイナスでした。消費増税による景気低迷の結果でしょう。同時に行われた法人減税などの影響もあります(だからこそ、そこは是正したいものです)。また、このマイナスはアジア金融危機などが要因であるとの説明も一部にはありますが、日本以外の他の国々はほんの数年で経済を立て直しています。消費増税による悪影響は大きいといわざるをえません。

71税収総額(逆進性という意味からしても):2017/02/19(日) 20:54:32 ID:AjLN4w8c
>>70あ、しまった。一部訂正。正しくは「偏差値の高い大学を出た」です。
今朝の京都新聞社説には〈ポスト真実post truth「事実は二の次」という風潮の強まりに、えも言われぬ恐怖を感じる〉などと書かれていますが、「消費税増税で減収のケースも」といった事実を平気で無視するマスコミも、困ったものです。
また、同じく書評欄には『教育劣位社会』という著書内の「日本の教育費の公的負担はOECD諸国の中で最低水準である」「1%の消費増税ですべての大学の授業料を無料にできる」との文章を紹介しています。前者については、だから教育への公費支出増加を、という訴えで賛成できますが、後者は先ほど見てきた通り、消費税を1%上げたら2・5兆円分の税収増があるだろう、という現実に即していない単なる思い込みが堂々と披露されています。実に頭の痛い問題です。消費税に「過剰な期待」をかけるのはやめていただきたいものです(逆進性という面から見ても、本当に元凶だと思うけどなあ……)。

72修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/02/19(日) 21:08:56 ID:MDyIz2QM
税収総額さんの意見にはイマイチ納得できない部分があったんですが、なんとなく分かりました。
元ネタになってる上念司は、知恵袋レベルでも「言い訳はいつも消費増税が良くなかった」とか書かれてますけど、
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12154589682
税収総額さんがなんでもかんでも消費税の話にもっていくのは、この人が元ネタだったからなんですね。
でも、逆に言わせてもらえばむしろ消費増税賛成の人の本も一度ちゃんと読むべきじゃないかなとは思いましたね。
まぁ僕も、消費税は上がらないほうが嬉しいですけど、社会保障費や教育費の話とかされると上げるもやむなしか?と思うこともあるし、答えは未だ出ていません。
税収総額さんは、消費増税反対派の意見をそのまんま使いすぎじゃありません?

73税収総額(補足):2017/02/20(月) 11:12:50 ID:AjLN4w8c
いやあ、少なくともリベラルな人たちも、消費税収(の負担)ばかりが増え、法人税収は激減していることを問題として認識されているので、そこは共闘できるのではないでしょうか。

以下、上念さんの本から抜粋。
p.21〈たとえば、有価証券のうち一二八兆円は外国為替資金特別会計のものです。この特別会計は為替介入の資金をプールするためにありますが、変動相場制の日本において為替介入が一体どれだけ必要かは、はなはだ疑問です。
 ですから、ここにたまった資金はすべて取り崩し、減税してもいいのではないでしょうか? 他の先進国では、そもそもこうした特別会計が存在している国が少ない。仮にあったとしても、その規模は日本の数分の一です。なぜなら、変動相場制においては中央銀行の金融政策のスタンスが中長期的な為替レートを決定するため、為替介入そのものが一時的な緊急避難以外には使われないからです(私の補足。確かに、為替介入なんかしても、ほんのわずかな一時的な効果しかありませんよねー)〉
p.64〈日々の為替レートの変動について、マスコミは適当な理由を付けて説明していますが、これもまったくアテになりません。
 たとえば、消費税増税をめぐって、「増税しなければ日本の財政に対する国際的な信頼が地に落ちる」などと報道していたマスコミは、イギリスのEU脱退決定の際には、「比較的安全資産とされる円が買われ……」などと、まるで正反対の解説をしていました。
 きっと、マスコミの人はつい数日前に自分たちが何をいっていたかも覚えていないのでしょう。こういう人たちに騙されてはいけません〉

74税収総額:2017/02/20(月) 11:37:13 ID:AjLN4w8c
「心優しい左派的な人たちこそ日銀に金融緩和を求めなければ」

『日本人はなぜ貧乏になったか?』という本の宣伝の一環として、著者である村上尚己さん本人がネットにあげられていた文章を紹介します(2013年1月発刊ですから、少し古いんですけどね。字数制限に引っかかりそうなので2分割します。まずは、ある大手新聞のダメダメな元旦社説です)。
〈「ゼロ成長への適応」と「成長への努力」という相反するような二つの課題を、同時にどう達成するのか。歴史的にみて、経験したことのない困難な道である。そのさい、「持続可能性」を大原則とすることを提案する。(省)財政支出や金融拡大に頼った「成長の粉飾」はもうしない。(略)取り組むべきは、社会保障と税の一体改革を実現させて、成熟社会の基盤をつくることだ。(略)増税や政府支出のカットはつらい。成長率の押し下げ要因になるが、将来世代のことを考え甘受しなくてはいけない。(略)それは成長から成熟へ、社会を切り替えることでもある。成長の時代を享受してきた私たちは、変化していく歴史の行方を長い目で見つめながら、いまやるべきことを着実に実行していかねばならない〉

75税収総額(以下、続きの反論):2017/02/20(月) 11:57:20 ID:AjLN4w8c
(中略)「金融拡大で『成長の粉飾』をする」とはまさに「本書で提唱している日本経済の回復のために絶対に欠かすことの出来ない政策を否定すること」であるし、「増税や政府支出の削減の話」はさきほどまさにその愚を説いたばかりだ。(中略)例えば仮に「脱成長」が実際に達成されてしまった場合、日本にはどのような未来が待っているのか? 本当に競争のない、皆が温かくわかちあう社会が待っているのか? 本当に残念ながら、そんなことは一切ないというのが現実なのだ。それはなぜか? 「脱成長」とは「経済成長をやめること」「ゼロ成長・マイナス成長を助長すること」である。それは今まさに日本が陥っているこの不況をさらに加速させることだ。
 その先に待っているものは? 「皆が温かくわけあう競争のない社会」なんかでは決してない。あるのは「不況が進展し、企業は更なる価格引き下げ競争を強いられ(=競争の激化)、そして多くの国民は、減り続ける職を求めて、他を蹴落とす凄惨な社会である。(後略)

76修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/02/20(月) 18:53:08 ID:MDyIz2QM
たしかにリベラルと保守は反新自由主義という点では共通しているかもしれませんが、逆にいうとそこしか共通点は無いんじゃないでしょうか。
はっきり言って僕は経済成長論者の主張には全く魅力を感じません。経済成長したら国全体が豊かになるなんていうのは、発展途上国にしか通用しない夢物語です。そんなものをいつまで信用すればいいのでしょうか。
マルクス主義やケインズ主義が魅力を失ったから新自由主義が台頭し、その新自由主義も魅力を失ってきたから脱経済成長論の本が売れはじめたわけで、その意味はちゃんと考える必要はあると思います。
マルクス主義もケインズ主義も新自由主義も脱経済成長論も、いずれもが理論でしかありません。理論どおりに歴史が動かないことはこれまでに色んな史実で実証されてきました。
ただ、その理論の中で脱経済成長論が魅力を感じられてきていることは、それだけ経済成長論に魅力を感じない人が増えてきたからでしょう。
僕自身、今ある考え方の中では、公共事業のために政府支出を増やす考え方より、社会補償や教育のために政府支出を増やす考え方の方に魅力を感じます。
経済成長すれば、みんなが幸せになるかといえば、それも嘘でしょう。他を蹴落とす社会は、資本主義社会であれば必然的です。
だからこそ、蹴落とされた人のためにお金を使うべきだと思いますね

77感想下記:2017/02/20(月) 20:36:52 ID:zCvGIqq6
>>74 税収総額さん
そこに書かれている成熟というのがフワフワしまくっている要素だと思うんですよね
成熟することにより社会を良い方向にもっていくとはすごい難しいことじゃないかと思います

僕としてはもう政府と一線を置く新たな政府を同人的に作るべきじゃないかなぁと最近思っています。
ちょいちょい儲けた人間が独自にネットワークを作り、お互いに助け合う
社会が助けてくれないなら友達づきあいで助け合えばいい、特殊ルールで動く環境をローカルに作る

書くと凄く原始的でバカっぽい内容なんですがこの小規模な政府を作り、その政府内ではみんな仲良くお互いのwin-win
時には無償の友愛をささげる…宗教っぽいですが
これをしあえることで精神的な成熟、経済的な困難の解消ができる可能性があるのではと考えます

78修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/01(水) 23:10:03 ID:MDyIz2QM
武内善信「秀吉の朝鮮侵略における降倭部将沙也可と「雑賀孫市」」をめぐって」『和歌山地方史研究72』
書籍というより、研究雑誌の論文なのだけど結構面白い内容だったのでちょっと紹介。
朝鮮で日本と朝鮮王朝が戦っていた時、朝鮮に降った日本人武将である沙也可という人物がいたのは間違いないけれども、それが誰だったのかは未だにわかっていません。
しかし、和歌山では政治家や行政までが絡む形で沙也可=雑賀孫市の息子孫市郎だったという説が事実化されようとしている。
武内氏は、そのことに危機感を抱いて、沙也可=雑賀孫市郎という説がいかに史料に基づいていないかということをこの論文で語っています。
以下、面白かったことを挙げていくと、沙也可は加藤清正の配下だったという史料があるし、そのことについての研究もある。
しかし、孫市郎説の人はそのことについて全く触れようとしていない。
また、そもそも戦国時代の史料には「雑賀孫一」などという人物は登場しない。登場するのは「鈴木孫一」である。
さらにヤタガラスが雑賀の旗印だったという史実もないようです。

79ギア:2017/03/02(木) 01:06:57 ID:bg4kX3n.
そもそもサヤカの話自体の信憑性は高めなんでしょうか。
いや、全然素人なので詳細を知らないんですが、もし1000人規模の降倭兵を率いた加藤家の家臣がいるとしたら日本側にもそのような記述が残ってそうなもんですが…

80税収総額(「アベノミ 雇用環境」で検索なさってください):2017/03/02(木) 20:46:54 ID:AjLN4w8c
>>76でもね、経済成長しないでよいというなら、失われた20年がそうだったわけですし、予算の組み替えをやっただけでもかなりよい方向に行くだろうという思い込みは民主党政権の瓦解で多くの人が目を覚ましたはずです。失われた20年の時期でいえば、世界の経済規模上位60か国で、GDPにほとんど変化のないのは日本ぐらいのものでした(日本以外の国は成長しています。ひどいものです)。
 なにしろ、ほんの数年前まではブラック企業、ブラックバイト全盛でしたからね(もちろん今でも完全にはなくなっていませんが)。雇用環境は、買い手市場だったのが、売り手市場となるまで変化しています。やはり金融緩和はプラスで、消費増税はマイナスです。

ネットより…『脱成長神話』の誤謬
〈(前略)アベノミクス等、デフレ圧下での金融緩和を支持するリフレ派経済学者は、高度経済成長時代に戻そうとしている訳ではありません。
 単に、デフレ下では経済が廻らない(マネーは投資するよりタンス預金が有利→仕事・職が減る)ため、何とかしてインフレ環境(マネーは投資しないと損→仕事・職が保たれる)を実現しようとしているだけです。
 すべての害を解決した高度経済成長の魔法を期待しているのではなく、せめてデフレは何とかしなきゃ!と思っているだけなのです。(中略)
「成長がすべての問題を解決したのは戦後50年だけのことなのに、アベノミクスはその特殊時代の法則を一般化して、無理やり現代に当てはめようとしている」という主張を、武田氏は行います。
 私は、「デフレが人々から仕事と職を奪い、インフレがそれを取り戻すのは近代経済史数百年でずっと当てはまり続けたことですよ?」と、指摘したいと思います。(後略)〉

81税収総額:2017/03/02(木) 21:19:05 ID:AjLN4w8c
京都新聞2月28日の記事より抜粋。「消費税下げ必要 所得向上策語る」
〈京都政経文化懇話会の2月例会が27日、京都市下京区のホテルで開かれた。大阪経済大客員教授の岩本沙弓氏が「2017年の経済展望」と題して講演し、日本の家計所得向上に向けて「消費税の引き下げが最も効果的だ」と主張した。
 岩本氏は、外資系金融機関で外国為替などの取引に携わった経験を踏まえ、持論を展開。日本の貯蓄率が低下傾向にあることに着目し、「家計の所得が伸び悩み、貯蓄を取り崩す状況が続いている」と指摘した。
 家計所得を向上させる方法として「預金金利上昇による利子所得増」「株式の配当増額」「賃上げ」を挙げたが、「いずれも難しい」として、消費税率引き下げが必要と強調した。また、消費税は「米国にないため、事実上の関税とみられている。そうした視点が今の日本の議論には欠けている」と述べた〉時々、消費税反対の記事も載るんですよねえ。消費税反対派…高橋洋一、田中秀臣、田村秀男、宮崎哲弥(週刊文春で連載中!)、長谷川幸洋、左派の松尾匡さんや、保守派だけど安倍政権には批判的な平松禎史さんも……。皆さん頑張ってください!

82修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/02(木) 22:42:09 ID:MDyIz2QM
>>79
沙也可に関する史料は早稲田大学図書館にあるものがネットでも見れるようですが、これは子孫が祖先を顕彰するために書いたものだとされています。
ですから、細かい数字などは信憑性は薄いでしょう。
また、日本側の史料にも朝鮮に降った武将が登場するので、沙也可の存在自体は否定されるほど信憑性が薄いものではないと思いますね
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he20/he20_02463/index.html

83修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/04(土) 09:37:24 ID:MDyIz2QM
確かに日本の戦前でも緊縮財政の浜口政権から積極財政の犬養政権に変わり、上手くいったと評価されていたりしますね。
でも、それでも貧富の差は拡大したままだったし、テロリズムを止めることはできませんでしたし、ましてや戦争を止めることもできませんでしたよ。
その前にさかのぼれば、積極財政の大隈財政が上手くいかなかったから緊縮財政の松方財政で調整しなければいけなかったということもありました。
近代以前にさかのぼれば、積極財政の田沼政権は上手くいかず、その後緊縮財政の定信政権で調整しなければいけませんでした。まぁ田沼と定信の評価は色々ありますが。

結局のところ、インフレさえ起こればなんとかなるんだという理論を言っているだけだと思うんですけど、物価が上がろうが消費税が下がろうが、賃金が上がらなければどうにもならんでしょう。
絶対、インフレについていけない層が出てくるんだから。だから、そのついていけない人のために政府はお金を使うべきではないですか?ということなんですけどね。
賃金が上がったとしても、ついていけない層は絶対に出てきますよ

84修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/18(土) 22:50:59 ID:MDyIz2QM
昔はスパロボの攻略本って3つぐらいの会社から出てたけど、今は1社だけなんですよねぇ。
まぁファミ通以外のところは最後の方はやたらでかいやつを出したり、あきらかに方向性を模索してた感じがあったしなぁ。

というか今となってはネットがあるから攻略本なんか無くてもいいんでしょうね

85園田英:2017/03/19(日) 01:58:18 ID:KZu.T1U2
>>84修都さん
FF9が当初アルティマニア無しだったのもそれが理由らしいです
>ネットがあるから攻略本なんか無くてもいい

86修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/19(日) 14:00:18 ID:MDyIz2QM
FF9の時代からそうでしたっけね。
最近の攻略本はむしろ、イラストとかを収録してるとか開発陣のインタビューが載ってるとかそういうのが売りなんでしょうね

87修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/25(土) 15:14:08 ID:MDyIz2QM
鈴木邦男「三島由紀夫(作家)」(『ひとびとの精神史5巻 70年前後』)
 1970年11月25日、45歳の三島由紀夫は自衛隊市谷駐屯地で割腹自決した
 2年後、連合赤軍事件がおき、若者から変革も革命も取り上げられたが、この事件の参加者は「三島が生きていたら」と言っていた
 →三島は東大全共闘とも議論していた。三島は敵として呼ばれたのではなく、左右を通して全共闘と話が出来る人が三島しかいなかったのである
 楯の会は事件に参加した5人以外は平和的なサークルだった。楯の会は初めは三島ファンクラブだったが、民間防衛を目指したりと試行錯誤があった
 三島の小説(『英霊の聲』)や映画(『憂国』)は右翼から批判、攻撃されたものが多く右翼には「不敬な作家」と警戒されていた
 60年「風流無譚」事件(小説「風流無譚」が不敬だとして掲載した中央公論社の社長宅が右翼に襲われお手伝いさんが死亡、妻が重傷を負った事件)
 →三島がこの作品を絶賛していたという噂が流れ三島宅にも右翼が攻撃に行った→三島は右翼嫌いになる。三島の自決後、一転して右翼は三島絶賛に変わる
 70年頃は、左翼運動が潰れていたが同時に敵がいなくなった右翼運動もほとんどなくなっていた時期だった。だからこそ、三島の事件は衝撃的だった
 三島は自衛隊が一緒に行動してくれるとは思っていなかっただろう。自決することは決まっていた
 一緒に自決した森田必勝は自決を命じられたのではなく、むしろ森田の方が積極的に行動していた
 よど号ハイジャック事件を三島は「先を越された」と感じた→同じ時代を生きた右翼と左翼は同じように思いつめ、一つはハイジャックになり、一つは自衛隊立て籠もりとなった
 現代には連合赤軍もオウム真理教もない→しかし連合赤軍やオウム真理教の排他性、攻撃性、非寛容性は日本全体に拡散しているのではないか
 三島は、愛国心という言葉があまり好きでない。愛ではなく恋でいいと言っている。恋は見返りを求めないが、愛は見返りを求める
 三島は寺山修司との対談で、石原慎太郎は功業しようと思って政治家になった、自分は忠義をするつもりだから政治家にならないとも語っていた

88修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/27(月) 19:21:24 ID:MDyIz2QM
椹木野衣「岡本太郎(芸術家)」(『ひとびとの精神史5巻 70年前後』)
 1980年11月、東京国立近代美術館に飾られていた岡本太郎の絵画「コントルポワン」が刃物で斬りつけられた
 →91年、川崎市に岡本太郎の主要な作品が寄贈された時、アクリルのガラスで保護する案が練られた→太郎は激怒。「作品が壊されても文句を言うな。俺が直す」、と言った
 旧東京都庁にあった太郎の作品も、太郎自身が取り壊しに同意したので反対運動の甲斐もなく、絵は建物と一緒に壊された
 「太陽の塔」に関しても、大阪万博が終われば、取り壊されるものとして作っていた→しかし、結果的には他の建物は取り壊されていったのに太陽の塔だけが残った
 岡本太郎は、自作を長く保存することに重きを置いていない→太郎が重視したのは「呪術」
 太郎はパリに勉強に行っていたが、戦争で帰国を余儀なくされ、中国戦線にも派遣された→あらゆる価値の転倒
 →戦場を経験したので自作が切り裂かれることには動じない、保存にも懸命にならない、人の心に留まり生き方それ自体を変えてしまうような呪術へと気持ちが向かう
 万博での「アイジャック事件(目玉男)」:太陽の塔の右目の部分に8日間、男がいすわった
 →さらに事件を知った男が全裸で出現(パフォーマンスアートの先駆者であるダダカンこと糸井貫二)
 →太郎は、目玉男について「いかすね」「自分の作品がこういう形で汚されてもかまわない」とコメントを残した
 太郎にとっては、作品が穢されることがあったとしても、人を刺激し、触発し、ありえない行動に走らせることのほうが重要→呪術
 2011年5月1日、渋谷駅と京王井の頭線の発着場を結ぶ通路の岡本太郎の作品に福島原発事故を連想させる貼り絵がなされた→太郎はむしろ喜んだのではないか
 この貼り絵がなされた作品「明日の神話」は第五福竜丸事件をモチーフにしたものである

89修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/27(月) 19:23:01 ID:MDyIz2QM
事件があると「この作品の影響が〜」とかいう話になって、「そんなわけない」とかいう議論にもなるけど、
もしも何らかの作品をきっかけにして人が行動を起こしていたのだとしたら、その作品はそれだけ素晴らしい作品だということなのかもしれないですね

90レト:2017/03/28(火) 19:36:30 ID:hElrqMRI
何度も書いてますけど、社会を動かすほどのメッセージ性を持った作品はこの20年でほとんど見られなくなってしまった印象が強いんですよね。
ドラマも映画もことごとく牙を抜かれたというか。

91HALK:2017/03/28(火) 20:37:36 ID:mt.kwqvg
どうですかね。個人的には物凄い毒を持った作品は生まれていると思うんですよ。
自分としてはここ数年で一番衝撃と社会性とやるせなさとリアリティを感じたのは相棒の
「ボーダーライン」です。

92修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/29(水) 19:00:09 ID:MDyIz2QM
仲程昌徳「仲宗根政善(教育者、言語学者)」(『ひとびとの精神史5巻 70年前後』)
 1945年3月24日、教師であった仲宗根政善は沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒たちである準看護要員(ひめゆり学徒隊)を引率して陸軍病院へ向かった
 45年6月23日、仲宗根は生徒たちと共に米軍に包囲され、捕虜となり、収容所に連行された→収容所で、重傷を負い壕に残していった生徒が生き残っていたことを知らされる
 →仲宗根の戦後は、引率した教師の責任を自身に問うことから始まった
 仲宗根は、米軍統治下での教科書編集への参加を要請されたが、とても再び教育にたずさわる気にはなれなかった
 →チリ捨て場に子どもたちが群がっている姿を見て教育に戻る事を決意、教科書編集を行う
 48年、本土から教科書が送られてきたが、まったく沖縄のことが触れられていないことを知り、落胆する
 51年7月、生き残った生徒たちの手記を集めて『沖縄の悲劇―姫百合の塔をめぐる人々の手記』を刊行→戦争へと生徒たちを引率した教師の責任
 52年、琉球大学に就任、教壇に再び立つことになる。もともと仲宗根は方言を研究していた
 56年、第二次琉大事件(53年にも学生が退学処分になっている)→共産主義的学生を処分しなければ大学をつぶすとアメリカ側から警告され、退学処分学生を出した
 →この時期、仲宗根は副学長であり、学生を罰した罪を自身に感じていた
 63年、推薦があってハワイ大学で研究する機会を与えられる。80年、『今帰仁方言辞典』の原稿を入稿、83年に刊行
 89年、ひめゆり平和祈念資料館の館長に就任するなど平和のための運動にも尽力

93園田英:2017/03/29(水) 22:48:07 ID:KZu.T1U2
>>89修都さん
パンシザで眼鏡がその手の事言ってましたね
「本の影響?それと逆の事言ってる本も当然あるんだが。」

その上で「本は酒と同じ。読み手の受け取り方こそが肝心だ」と

94修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/03/30(木) 19:47:59 ID:MDyIz2QM
南衣映「マリー(ロック歌手)」(『ひとびとの精神史5巻 70年前後』)
 マリー(眞理子)はオキナワン・ロックの女王と呼ばれる人物で、1981年の本土デビュー以来、沖縄を代表するロックミュージシャンとして愛されてきた
 米軍兵士と沖縄女性の間に生まれたマリーの半生は本や映画にもなっている
 マリーは、ずっと「アメリカー」と言われ、いじめられた→沖縄では、基地にすがっていた女性と子どもが差別にあった
 マリーは小さいときから、米軍の前で歌う歌手になりたかった。本土での芸能界デビューを目指していたわけではない
 →アメリカで暮らし、故郷への思いを募らせながら死んでいった母のこと、母の悲しみを沖縄の人々に伝えたいと考えるようになっていく
 母は、コザで米兵を相手にし、子どもが出来たが、その米兵は朝鮮戦争で戦死。マリーは祖母に育てられた。そしてその祖母には混血の孫が数人いた
 マリーにとって沖縄は息苦しいところで、安心できる場所はコザだけだった→同じような境遇のハーフがたくさんいたから
 マリーは高校生の時、喜屋武幸雄に出会い、妊娠・結婚・出産。幸雄のバンドが解散すると、新しいバンドに入れさせてもらった→音楽は素人であり、練習に明け暮れた
 米兵が求めていた音楽は、魂を救う癒しの薬だった。バンドの音楽はコピーであるが真似ではなかった→マリーは、バンドを通して戦争の実情と兵士の心情が分かるようになった
 バンドは米兵の暴力から誰も守ってくれなかったので、米兵に気に入られるためにも必死に演奏しなければならなかった→公演は米兵との戦争だった
 70年12月10日、コザ事件。幸雄も群集に混じり、車を破壊した。マリーの心境は複雑だった、アメリカと沖縄の間で行き場を失うかのようであった
 →コザ事件以後、ベトナム戦争も下火になり、歓楽街は不況に陥った。沖縄の本土復帰も成り、幸雄は音楽を辞め、マリーは主婦になった
 →トラック運転手だった幸雄が交通事故で大怪我を負い、入院していると旧友が音楽活動に誘った→マリーは自分を歌手にさせて欲しいと幸雄に言った→幸雄の猛訓練が始まる
 →練習のし過ぎで声帯がつぶれ、ロックにふさわしい声になった→マリーのバンドは米兵から最高の評価をもらい、各地の基地を回った。マリーは、基地の町の生母と崇められた
 沖縄の人々の前でも歌ったが、ハーフであることが忘れられず、気乗りはしなかった→そんな時、アメリカに移住していた母が死んだ→自律神経失調症になる
 →母のこと、自分の思っていることを沖縄の人々、日本の人々に伝えたいと考えるようになる→沖縄ツアー講演。米兵相手の活動を辞める
 本土の芸能界は、金が成る木を探すかのように沖縄からの芸能人を物色し始めていたが、マリーは応じる気にはならなかった→混血児が求められていることを知っていたから
 79年、NHKの『若い広場』で好評を受けたことをきっかけに、本土での活動に乗り出したが、満足できず沖縄に戻った→本土では、大衆受けすることを求められた
 マリーが本土の人々に聞いてもらいたかったのは、米兵と戦いながら研磨してきた音楽、ロックだった
 →日本なのかアメリカなのか解らない沖縄のアイデンティティーを音楽にしたアルバムを出した『I was born in OKINAWA』
 本土のマスコミは、インタビューで決まったように基地問題と混血児に焦点を当てた→強い責任感から沖縄の現実を伝えた
 →反戦を叫んでいるかのようにシャウトするアメリカ人の顔を持つウチナー女というイメージが固まっていった→イメージを固めるだけで終わりの状況に疲れを感じていた
 格好いいハーフとして持ち上げられたが、それにも疑問を感じていたし、ロックの女王という賛辞にも抵抗を感じていた→マリーにとって本土は矛盾そのものだった
 ミュージカルに挑戦することをきっかけに東京に本拠地を移す
 →そこで、本土が作りあげたイメージをそのまま内面化している沖縄の方にも問題があるということを思い、14年間沖縄に帰らなかった
 2003年、ドキュメンタリー番組で沖縄に帰ったことをきっかけに、沖縄で音楽活動を再開した→母と祖母、沖縄の女性たちのために曲をつくった
 →オキナワン・ロックの女王にふさわしくない曲だという批判もあったが、マリーは冠を自ら降ろした

95修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/01(土) 12:23:48 ID:MDyIz2QM
千田有紀「田中美津(ウーマン・リブ運動家)」(『ひとびとの精神史5巻 70年前後』)
 70年代の日本のウーマン・リブは田中美津がいなかったら、まったく違うものになっていただろう。日本のウーマン・リブは世界的にもかなり特異。輸入品ではない
 日本のウーマン・リブはむしろ欧米の女性運動から距離をとろうとしてきた側面さえある→権利獲得ではなく、女である自分が決定主体になることができる社会環境づくり
 日本のウーマン・リブは他国と同様、新左翼運動で裏切られた多くの女たちによって担われた→新左翼運動の内部でも性役割や搾取が女性に押し付けられた
 田中も、新左翼の男に抱いていた「男らしさ」という幻想は、幻想でしかなかったということに気づく
 連合赤軍の永田洋子のような「ゲバルト」型の女性
 →男らしさの幻想を自分も男になることで「男らしさ願望」へと煮詰めていき、抑圧された自分の内なる女らしさの願望が反革命的であることに引き裂かれている
 →それによって、他の女の「女らしさ」を憎悪し、軽蔑する。田中は、男より主体的に男の革命理論を奉ろうとすれば、女はみんな永田洋子だとしている
 →イヤリングしながら革命する道もあったと田中は述べている。永田を理解し、それにはなりたくない女たちがリブであり、田中だった
 新左翼運動は、革命が起こり、階級の問題が解決すれば、女は自動的に解放されるとしていた→その考えも乗り越える必要があった→恵まれた女とされる主婦の抑圧を理論化した
 田中のウーマン・リブは女を被害者とし、男を一方的に告発する思想ではない。しかし、男も生き難いと男を免責する実践でもない
 →女は抑圧されることによって、男性社会の大儀や願望を支えている(女の共犯性)。被害者でもあるし、加害者でもある。主人を主人たらしめているのは奴隷

96修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/02(日) 12:04:29 ID:MDyIz2QM
高峰武「川本輝夫(水俣病患者)」(『ひとびとの精神史5巻 70年前後』)
 水俣病の補償制度は本人の申請で始まる→被害者自ら手を挙げねばならない→魚が売れなくなると、申請に対し漁協から圧力。子どもの結婚のために申請を自粛することも起きた
 川本輝夫は68年に申請。翌年、棄却されたため再申請。さらに棄却されたため、厚生省に行政不服審査請求を行った
 水俣病の認定患者は60年度末で85人。71年度末で181人だった→川本らの行動の後の86年度末、認定患者は2161人になる
 71年8月7日、新しい環境庁長官の医師大石武一は川本の認定申請を棄却した熊本、鹿児島両県知事の処分を破棄、差し戻した
 →有機水銀の影響が否定できない場合、主要症状のいずれかがある場合も水俣病の認定に含むとした。疑わしきは認定と説明
 →これに対し、水俣病認定審査会委員たちが猛反発。大石が出した裁決と通知の精神の徹底は不十分なものとなった
 水俣病と認定された川本らは、71年10月、チッソと交渉を始める。チッソは川本らを新認定と呼んだ→チッソが取り合わなかったため、水俣工場前で座り込み
 →12月6日、東京のチッソ本社に乗り込む。水俣に戻るのは約2年後になる。要求は患者に対する補償として一律3千万円
 →「チッソを守れ」の住民大会も企画されるようになる→水俣はビラ合戦となった。チッソ擁護の意識は、患者支援のために水俣に来た若者に対してよそ者という視線になった
 73年3月、熊本地裁は患者勝訴の判決を言い渡した→チッソの責任を全面的に認め、1800万円、1700万円、1600万円の三ランクの賠償を命じた
 →チッソは本社を放棄、移転したりなどしたが、73年7月9日、補償協定書が結ばれた。補償額は判決と同様、年金や医療費などの恒久対策がついた
 川本はチッソ社員に傷害を負わせたとして72年に起訴されているが、川本もチッソ幹部を殺人と傷害罪で告訴している
 →76年、チッソ元社長と元工場長は業務上過失致死傷害で起訴され、88年に有罪が確定している
 川本の方は75年、東京地裁で罰金5万円、執行猶予一年という判決を出されている→77年6月、東京高裁は本件公訴を棄却した→司法が患者側に立った
 83年、川本は水俣市議に当選。以後、1回の落選をはさみながら、3期務める
 川本は90年、「昭和」を終わらせるために天皇に水俣に来てもらう請願を出すことを考えた→不発に終わったが2013年、天皇皇后が水俣訪問。川本の長男愛一郎が面会した
 2015年、水俣病認定患者は2981人。認定はされていないが一定の症状があり一時金の対象になる人は約4万人

97修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/05(水) 17:42:02 ID:MDyIz2QM
開沼博「木村守江(福島県知事)」(『ひとびとの精神史5巻 70年前後』)
 かつて福島県は、木村王国と呼ばれていた→1964年から76年まで福島県知事を務めた木村守江
 1900年、石城郡大浦村(現・いわき市四倉町)に木村は生まれ、慶應義塾大学医学部を卒業して、25歳で伯父の木村医院の経営を任された
 37年、戦地に召集→二等兵として中国戦線に従軍。39年、軍医となって帰郷→県議会議員に当選→41年、再び召集され南方戦線に
 →復員→49年、参議院議員当選→58年、衆議院議員当選→64年、福島県知事当選
 木村は原発導入の張本人とされることもあるが、そう言い切る根拠となる史料はない→むしろ一連の戦後の地域開発の流れの中で原発導入が進んだ
 福島県では原発以前にも巨大開発を断続的に実現していた(只見川電源開発、いわき・郡山への新産業都市指定)
 →戦後の福島県の地域開発が急速に進められていった背景には、福島県と中央との相互コミュニケーション、歴代有力政治家・行政のチームプレイがあった
 →その一連の地域開発の動きの中に原発建設もあった
 木村は、福島版ロッキード事件と呼ばれた汚職事件で逮捕される
 88年から福島県知事を務めた佐藤栄佐久は2006年9月に収賄の容疑で逮捕された→佐藤は冤罪を主張し、司法プロセスに疑義がはさまれる事態にまでなる
 →佐藤は90年代末頃から原子力政策へ抵抗の動きをみせていたため逮捕に関する陰謀論も存在する
 76年に木村を逮捕した検事宗像紀夫が、30年後の06年佐藤の弁護人であった

98修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/06(木) 20:07:32 ID:MDyIz2QM
早野透「田中角栄(首相)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
 1918年5月4日、田中角栄は新潟県刈羽郡二田村(現柏崎市西山町)で農家(牛馬商)の家に生まれた
 小学校高等科を卒業後、土方の仕事についたが東京に勉強に行けるといわれた→34年、上京するも住み込むはずだった家にあしらわれ、東京で職を転々とする
 39年、徴兵されて満洲に向かう→新兵いじめにあう→肺炎になり生死の間をさまよって41年除隊
 その後、坂本はなと結婚し、田中土建工業株式会社を設立。終戦時、朝鮮にいたが、全資産を朝鮮に寄付すると宣言して日本に帰った
 戦後、事業の顧問にしていた政治家大麻唯男に誘われて立候補する→落選→47年4月の衆院選で新潟3区を3位当選
 角栄は衆院建設委員会で国土総合開発法づくりに取り組んだ→政府提案の形で成立。角栄の議員提案で公営住宅法、住宅金融公庫法改正が成立
 角栄は議員立法で道路法を改正させた→旧道路法では東京と由緒ある神宮や師団司令部を結ぶ路線が国道だった
 →交通の発達に寄与すること、公共の福祉を増進することを道路の目的とするように変えさせた→国家のための道路から国民のための道路へ
 議員立法で「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」(ガソリン税が道路財源に)も成立させた→道路総延長はぐんぐん伸びた→ガソリン税は臨時ではなく半世紀にわたって延長
 48年、炭鉱を国家管理する法案に反対していた時、業者から収賄したとして逮捕された→49年1月、衆院選で2位で当選。この時の選挙運動の中核が後の越山会につながる
 収賄事件に関しては2審で無罪となった
 もともと新潟では農民運動が盛んで共産党や社会党の支持は強かった→角栄が登場するとその支持層が越山会に変わった→抵抗より陳情のほうが話が早い
 57年、角栄は岸信介内閣で初入閣、郵政大臣となった→特定郵便局拡大(地域の名望家を特定郵便局長にする)、テレビの大量免許公布(テレビ局の増大)
 池田勇人内閣になると62年、大蔵大臣として入閣(44歳、史上最年少)、在任3年→65年、自民党幹事長に就任→71年、佐藤栄作内閣の通産大臣に
 アメリカは日本の繊維を輸入制限しようとしていた→角栄はアメリカが輸入規制すれば余剰織機を政府が全部買上げるとした
 72年6月20日、『日本列島改造論』が初版発行。7月5日、自民党総裁になる→7月7日、田中角栄内閣
 →日中国交正常化は成功。しかし石油危機で経済は不調、立花隆の「田中角栄研究」で金権政治を指弾され退陣に至った→石油危機で角栄の列島改造の夢は打ち砕かれた
 角栄は石油のためにアラブ寄りになろうとしたが、アメリカが反対、さらにアメリカは石油もまわさないとした→ロッキード事件アメリカ陰謀説
 74年12月、首相辞任、2年後、ロッキード事件で逮捕→83年、一審判決で有罪、懲役4年。85年、脳梗塞で倒れ、93年12月16日に死亡した
 地方創生は角栄の夢の続きなのか。角栄が生きていたら、原発は無くてもいいんじゃないかと言うのか、安全確保をすればいいと言い続けるのか

99修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/06(木) 20:09:44 ID:MDyIz2QM
最近はどういうわけか田中角栄ブームだったりもするようですが、こういうタイプの政治家が待望されてるんですかねぇ。
その割には、東京都知事は正反対のタイプだし、小沢一郎とかは人気ないですが。

でも角栄の経歴見ると首相になる前のほうが活躍してますよね

100修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/07(金) 23:03:27 ID:MDyIz2QM
小泉英政「小泉よね(運動家・農家)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
 1907年、小泉よねは千葉の貧農の3女として生まれた(よね自身は、母親の妹の子で、もらわれてきたと語っている)→7歳で子守奉公に出る→19歳で家を出て職を転々
 →42年頃、大木実と出会い、実の家で暮らすようになる。実は米、落花生などの仲買を行っており、芋焼酎の密造も行っていた。小作争議にも関わっていた
 47年、実は50歳で急死→よねは1人で生きていくことになる
 66年7月、新空港の位置が地元住民に説明もなく閣議決定された→8月、三里塚芝山連合空港反対同盟結成。よねも他の村人達が賛成の中、反対だった
 →よねは反対同盟と一緒なら生活を守ってもらえると考えた。反対同盟は、一歩もひるまないよねの姿を借りて存在を示そうとしていた
 よねに最初に接触したのは日中三里塚援農隊(日中)だった→毛沢東思想に共鳴したグループ。よねも彼らを信頼していた
 よねの宅地、住居に対する強制代執行は71年9月20日に行われる予定だった→地盤が雨で弱くなっている、機動隊員の疲労が激しいなどの理由で21日以降に行うと発表
 →農民たちと支援の人々はよねの家の周辺から引き揚げた→20日、強制代執行実施。だまし討ちだった→よねも機動隊に無理やり排除された
 →よねは仮説のプレハブに住むようになる→日中のメンバーは反対運動を強固なものにするには生産を上げる必要があると考えた→三里塚で有機農業が始まるきっかけ
 73年春、よねは倒れた。9月には末期の胆管がんであると診断され、闘病生活に入った(よね自身にはがんであることは伝えられていない)。12月17日、死亡
 最後によねが帰りたかったのはプレハブではなく、潰されてしまった家だったが、それはかなわない願いだった
 よね亡き後、国、空港公団、千葉県相手の訴訟、相手から起こされた訴訟、直接交渉が42年続いた→最終決着は2015年5月だった

101修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/07(金) 23:07:05 ID:MDyIz2QM
最近、LCC使うことが多くなったので成田に行く機会も増えたのですが、成田の歴史を知っていると色々と面白い場所なんですよね成田って。
他の空港でも反対運動は起こっていますが、成田ほどのところは無かったですからね。
そういう歴史があったのだということを理解しておくことは重要じゃないかなと思いますね

102修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/09(日) 17:07:46 ID:MDyIz2QM
アン・エリス・ルアレン「宇梶静江(詩人・古布絵作家・運動家)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
 70年代、日本国内にも暴力革命を主張する極左団体はおり、彼らはアイヌに対する日本の支配をプロパガンダに取り入れた
 →多くのアイヌは暴力的な革命運動に引っ張り込まれることに激怒し、困惑した。一方で、アイヌ社会は差別と歴史的トラウマの中にいた
 東京に移り住んだアイヌたちは民族的出自を隠すことを余儀なくされた→1972年2月8日、宇梶静江は朝日新聞でアイヌの交流を呼びかけた→73年、東京ウタリ会結成
 →調査によってアイヌと日本人の平均収入の差は47〜60パーセント開きがあるということがわかった
 75年、東京には401世帯679人のアイヌが在住、そのうちの94パーセントが55年以降に上京していた。独身世帯は60.3パーセント
 16歳から30歳までの割合は東京在住アイヌの44.8パーセント。平均収入は世帯で月12万5千円、個人は9万7千4百円程度だった(都民の平均収入は月20万9千円)
 調査に協力したほとんどがアイヌ文化についての知識は少なかった
 東京ウタリ会は、アイヌたちの集会などに使える生活館設立を考えた。東京都はアイヌに対する生活相談員としてウタリ相談者を任命。初代は宇梶
 →約1年間、過度の労働→別の方法でアイヌをサポートする方向に進んでいく
 77年、初めて公共の場で祖先を敬い祖先の魂を送るイチャルパを開催。東京ウタリ会は解散→イチャルパは2003年まで行われなかった
 80年代、4つのアイヌの団体が発足
 2008年、北海道洞爺湖のG8サミットでアイヌたちは協働して先住民族サミットアイヌモシリを開催、世界各地の先住民族が集まって提言をまとめ、G8首脳団に提出した
 →宇梶も共同代表として参加
 70年代のアイヌの政治的結集は男性によって主導されがちで、法廷闘争や糾弾が行われていた
 →アイヌ女性たちは異なるアプローチをとった→伝統的な着物の刺繍や布を使った作品づくり。意義主張を文化活動によって表現
 97年、アイヌ文化振興法→日本に民族マイノリティがいるという事実を認めたが、先住民族の権利の確立などには触れられていない
 →また、この法律の範囲は北海道アイヌに焦点があてられている。政府の責任は文化復興を支援することのみ
 宇梶は、アイヌの知恵と文化が深く尊いのであって、私や個人個人のアイヌが偉いのではないと述べている

103修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/09(日) 17:09:03 ID:MDyIz2QM
>>102
この宇梶静江さんの息子が俳優として活躍している宇梶剛士さんですね

104修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/10(月) 20:22:21 ID:MDyIz2QM
白井聡「吉本隆明(評論家)と藤田省三(政治学者)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
 『世界』1960年8月号での座談会(藤田省三らが参加)→60年安保には非組織性(組織動員ではない)があったという議論→2015年安保との共通性
 →60年安保は立憲主義や民主主義を日本社会に根づかせる機会になるということも議論されていた→これも2015年安保との共通性
 推進側と反対側の議論の嚙み合わなさも60年安保と2015年安保の共通性→岸信介にとって安保条約改定は条約を対等にするものでありなぜ反対されるのか理解できなかった
 →60年安保で抗議を惹起させた契機は改定の内容よりも強行採決したこと。反対派にとっては外交の問題ではなく内政の問題→これも現在とほとんど変わらない
 60年安保は敗北したものの戦後民主主義の定着と強化に多大な貢献をしたという歴史観があったが、それは今日崩壊している→2015年にほぼ同じことをやっている
 60年安保は深刻な敗北を喫していたのである
 『日本読書新聞』1960年9月5日、12日号の座談会(藤田や吉本隆明らが参加)→藤田と吉本の意見はところどころで対立→吉本は60年安保を評価していない
 →吉本は、家族の幸福を絶対的に追求する。天下がひっくり返ってもいい。おれに関係がなければいいというところで追求するほうがいいと主張→現実的にはそうなった
 吉本は家族の幸福を追求し天地がひっくりかえったって知ったことじゃない都市小市民を肯定していた
 →私的利害の優先が当然とされる状況が出現することではじめて日本社会はブルジョア民主段階に到達する→既成左翼や戦後民主主義派知識人に対する批判
 60年安保は革命という観念が実在性を伴って受け止められる時代の終幕を告げさせた
 吉本は、日本の知識人は大衆を理解していないと主張→終戦時に支配層を打ちのめすこともしなければ徹底抗戦をしようともしなかった大衆を理解できていない
 →大衆は徹底的にニヒリストであると吉本は主張→吉本の主張どおり現在の日本社会は途轍もなく強靭なニヒリズムが蔓延しているといえる
 →吉本が肯定したニヒリズムが日本をよくしたとは言えない
 藤田は両方の座談会で、一人ひとりの人間が独立した民主主義者となることで、総和としての一般意思を形成するべきだと主張していた
 →80年代、藤田は大衆消費社会を批判的に分析するようになる→大衆がニヒリズムを深める世界は安楽への全体主義が蔓延する世界
 →ニヒリズムと闘わなければいけないのではないか

105修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/10(月) 20:23:57 ID:MDyIz2QM
>>104
ある意味、未来を言い当てていた吉本隆明はさすがだなと思いますが、吉本の主張どおりになった日本がよくなったとはやはり言いがたいと思いますので、
吉本隆明は乗り越えなければならない存在ではないかなぁと思いますね

106修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/13(木) 20:58:38 ID:MDyIz2QM
林英一「小野田寛郎(残留日本兵)と横井庄一(残留日本兵)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
1972年1月、グアム島で在留日本兵横井庄一が発見された→報道加熱、横井庄一ブーム
74年2月、捜索隊によって小野田寛郎は発見された→ちょうど日比友好通商条約が批准された後だったので、小野田は日比友好関係の象徴扱いされた→帰国すると小野田ブーム
→報道は横井の時以上に英雄扱いした
ブームの背景→戦中派はありし日の自分の姿を重ね合わせた。若い世代は、戦中と戦後がいかに異なるのかを確認した(横井の天皇観→戦後の日本人はこれを拒絶)
小野田はブラジルに移ると天皇について積極的に発言しはじめた→天皇は責任をとるべきだった→小野田は戦争犠牲者視されることも天皇崇拝者視されることも拒否した
日本人は横井や小野田は未開で野蛮な原始から、豊かで文明の現代にタイムスリップしたかのように受け止めた
→横井が、グアムに比べて日本は「遅れている。自動車が少ない。道路がせまい。家がきたない」と発言したのは強烈な皮肉であった
横井に対しては戦争の犠牲者、被害者というまなざしが向けられがちだった(横井が民兵2人を殺害した話をすると波紋を呼び、横井はそれをなかったと否定した)
→次第に、奇妙な言動をする異人というまなざしに
小野田は、軍国主義の亡霊と批判もされたが意に介さなかった。小野田は戦争の英雄として振る舞った
→小野田の自伝は、ルバング島民に対して差別的であり、島民殺傷の話を得意げに語っていた→やがて小野田に関する記事や論評は見られなくなり、世間の熱狂も冷めていった
ブラジルにいた小野田は80年、浪人生が両親を金属バットで殺害する事件が起こると日本で自然塾の活動を始める
2000年代、一部の日本人の間で小野田は復権した。小野田は首相の靖国神社8月15日公式参拝を支持し、若者にも参拝を呼びかけた
アジア各地に離散した残留日本兵の数は推定1万人にのぼるとされる(その中には、戦後日本人ではないとされた者もいる。台湾出身の中村輝夫(李光輝)など)
→これらの人々の存在に対して日本人は無関心であった

107修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/14(金) 23:13:52 ID:MDyIz2QM
石坂浩一「金芝河(詩人)と日韓連帯運動を担ったひとびと」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
 72年10月、朴正熙大統領は戒厳令を発動した状態で、事実上の永久執権のための新憲法を公布(維新憲法)→73年末から改憲署名運動、学生運動も計画されていく
 74年4月3日、全国民主青年学生総連盟(民青学連)はソウル市内でのデモを呼びかけた→不発、関係者も検挙される(民青学連事件)
 同時期、「民衆の声」という詩が配布されていた→作者は金芝河であろうとされた(実際は違った)
 金芝河は70年、権力者を批判する詩「五賊」を書いたことで拘束された→肺結核のため保釈→72年、風刺詩「蜚語」でふたたび拘束→金芝河救援国際委員会が結成される
 →鶴見俊輔ら日本人3人が国際委員会の一員として療養所に送られていた金芝河に会っている
 73年8月8日、金大中事件→日本政府は韓国政府に譲歩し、拉致された金大中の来日と自由な活動の保障を認めさせないまま政治決着させた
 →74年4月18日、「日本の対韓政策をただし、韓国民主化運動に連帯する日本連絡会議」(日韓連)結成
 74年4月、金芝河も民青学連事件で逮捕されており、死刑判決が下された→金芝河らを助ける会発足→75年2月15日、釈放される
 →獄中での体験記を新聞に寄稿し、拷問によって民青学連事件は共産党によるものだというふうにでっち上げられたことを書く
 3月1日、「宣言 日本民衆への提案」を発表→植民地支配は朝鮮民族だけでなく日本民族まで非人間化したのだと主張。両国民衆の反独裁共同戦線を提起した(三・一アピール)
 →日本で初めて、朝鮮語(韓国語)を学習しようという動きが起こる
 金芝河は75年に再投獄され80年まで獄中にいた→良心宣言を発表。自分が意に反することを言うかもしれないが本心ではないということをあらかじめ宣言した
 韓国の反共体制下で運動している人びとと協力していくには日本側の担い手が左翼運動と見られてはいけない
 →日韓連帯運動は明らかに共産主義者でないといえる者たちによって代表されなければならなかった→日韓連の運動は次第に継続が難しくなる
 70年代、韓国民主化運動が盛り上がると在日韓国・朝鮮人にも帰国して貢献しようとした人たちがいた→拷問を受け、獄中生活を送った人びとも少なくない
 91年、学生が民主化進展を訴え焼身自殺する事態が続くと、金芝河は学生運動を批判した。2012年には、金芝河は朴槿恵候補を支持している

108修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/14(金) 23:15:44 ID:MDyIz2QM
>>107
しかしまぁ40年ほどたって朴正熙の娘がデモで倒されることになると予想している人はそうそういなかっただろうなぁ

109修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/15(土) 16:37:24 ID:MDyIz2QM
三上喜孝『落書きに歴史をよむ』を読みました。
落書きも歴史資料になるのではないかということから書かれた本なのですが、著者が調査していくと色々なことが落書きから分かるのだということがことが明らかになります。
というのも、だいたい戦国時代頃に各地の村の仏堂に落書きが残されているということが分かってきたからです。
しかも、同じ書式で同じ歌が各地で書かれているということも明らかになります。さらに時期的に聖地巡礼が行われていく時期であることから、聖地巡礼者は仏堂に落書きをするものであり、書くことも決まっていたのではないかということが言えてくるわけです。
アンコールワットに日本人武士の落書きがあることは有名ですが、それも聖地巡礼の際には落書きを残すということで説明できるのではないかということが述べられています。

個人的に面白かったのは、武士が残したと思われる落書きで、謙信が死んで内乱が起こったとか伊達政宗が会津に攻めてきたとか書かれている落書きも残されているようです。
また、男性武士が男性武士を愛しく思った落書きも結構残されており、仏堂という場所がどのような意味を持つ場所だったのかということも暗示されています。

近代社会では落書きは犯罪ですが、現代の落書きも同じような場所に同じようなことが書かれているのではないか、
その落書きを調べると現代の何かが明らかになってくるのではないかなと思いましたね

110修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/22(土) 15:36:07 ID:uq8Rg0iQ
保阪正康「中曽根康弘(首相)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 1918年、中曽根康弘は群馬県高崎市の木材業の次男として生まれた。東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省→海軍の経理学校に入り主計将校となる
 →敗戦後は内務省に戻り、警視庁などに勤務→内務省を辞めて政治家を目指す
 →協同党から出馬したかったが支持者に拒否され、47年、民政党の流れを引く民主党から群馬3区に出馬し29歳で当選
 →吉田政治批判で名をあげていくことになるが、田中角栄のように庶民的人気を得る人物ではなかった。最初から中曽根は思想や信条を全面に出す政治家だった
 中曽根は有権者の利益を代弁する政治であっては意味がないと考え、青雲塾をつくった
 中曽根は、鳩山一郎総裁の政友会の流れを引く自由党には関心を持たなかった(自由党は自由社会の建設を目ざすと謳った)が、河野一郎には共鳴しており後に河野派に入る
 一方で日本進歩党(→民主党)の政治方針は旧勢力に近い体質だった。保守勢力の最左派には日本協同党があった(資本主義、社会主義とは異なる第三の道)
 中曽根の思想的特徴→強烈なナショナリズム。戦争への反省、自省は個人レベルで行い、国家のレベルに引き上げない
 中曽根の吉田批判→吉田茂は擬似一国平和主義者。政権維持のためなら何でも行うずるい官僚
 中曽根は、国民が厭戦思想を捨てなければ独立自衛国家は無理だと判断した。中曽根は政界では特異な存在でありタカ派の代弁者だったがしだいに実力をつけていった
 中曽根内閣は82年11月から87年11月まで続いた→もともと田中派の支えによって成立し、新自由クラブの協力を得て政権を維持した内閣
 戦後政治の総決算→吉田ドクトリン(軽武装、経済重視、憲法擁護)への批判。大政翼賛会型の政治方式→大統領的首相、民間人を中心とする諮問委員会設置
 戦争体験者中曽根の政治哲学(戦後民主主義の否定、軍事国家化)が実行できなかったのは後藤田正晴ら田中派が賛成しなかったから
中曽根が首相を退任してから30年、戦争を知らない世代が軍事国家化を進めている

111修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/22(土) 15:37:22 ID:uq8Rg0iQ
現在の自民党の中にも一応田中派とかハト派の流れを引く人たちっているんですけど、全く存在感は無いですね

112修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/23(日) 12:04:45 ID:uq8Rg0iQ
北田暁大「上野千鶴子(社会学者)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 80年代の昭和軽薄文体。上野千鶴子も昭和軽薄文体の戦略的使用者だった
 糸井重里のような男性は論争ゲームから降りることが出来た→女性は降りることが出来ない。降りると男性的論争ゲームを温存させてしまうだけ
 アグネス論争(アグネス・チャンの子連れ出勤をめぐる女性間の論争)で上野はアグネスを擁護した
 →女による女の子連れ出勤批判を高みの見物して喜ぶ人の認識枠組みが温存されてしまうことへの危機感
 上野にとって昭和軽薄文体は、論争ゲームから降りる・上がるの対立項を崩すための理論装置だった
 上野は「わたしたちの世代」を語ることを禁じていた→世代論は特権意識丸出しの凡庸な自己肯定か、反省的なヒロイズムに陥るしかない
 3・11や反安保で、降りた男性たちが降りることをやめた(降りつづけている糸井は突き抜けた強度を持っているのかもしれない)。これも男性の特権だった
 →上野の場合、女性革命兵士たちの記憶が蘇ってくる。女性研究者が、国会前デモでの女性参加者のスピーチに違和感を表明するとデモ賛同者に批判された事件
 →運動のなかにある性差別批判、マイノリティ差別批判を運動の足を引っ張る敵対行為とバッシングする人たちがいる、いつかどこかで見た景色と、上野はツイッターに投稿
 →お母さんがご飯を用意してくれる日常をめぐる議論→上野は、ささやかな日常の持つ政治性を問いかけつづけてきた
 →反原発デモや集会に行くと集まっているのは女性が大半で「お母さん」という呼びかけが圧倒的。母性主義そのもの。母親ではない女は、ここに存在しないのかと上野は反発
 →上野にとって母性主義との闘いは小さなことではない→社会運動における母性主義→上野がこういった運動から遠ざかった理由の一つ

113修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/24(月) 21:11:55 ID:uq8Rg0iQ
西尾漠「高木仁三郎(物理学者)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 脱原発という言葉は、1986年のチェルノブイリ原発事故の後で、原子力資料情報室代表だった高木仁三郎が日本の運動に導入した
 東京都立大学を辞職していた高木は、79年3月28日のスリーマイル島原発事故が起きていなかったら、運動に深入りすることはなかったかもしれない
 スリーマイル島原発事故は日本の電力会社や自治体にも動揺をもたらしており、徳島県の阿南原発と山口県の豊北原発は幻に終わっている
 →もともと強い反対があったところに事故がとどめを刺した。70年代以降に浮上した原発計画は強い反対運動がおきており、現在も実現していない
 公開ヒアリング阻止闘争→住民の声を聞いたとする見せかけ、国が前面に出ることで勝ち目がないと住民のあきらめを誘うこと、この2つをともに突き崩すのがねらい
 加害国としての脱原発運動→放射性廃棄物の海洋投棄反対(海洋投棄は現在、完全に禁止されている)など
 86年のチェルノブイリ原発事故の際、日本での反原発運動は大きな盛り上がりは見せなかった→盛り上がるのは事故の2年後
 →事故によって汚染された食品が輸入され、送り返されるという報道が出てきたことと四国電力の伊方原発2号機で出力調整試験が行われたことがきっかけ
 →反対運動で調整試験の日程は1日のみとなり、急激な出力上げ下げは行われないようになった
 高木は脱原発法制定を呼びかけた→すぐに署名運動を始めず議論を行った→署名運動が始まる頃には運動が落ち着いてしまっていた
 →328万人ほどの署名を提出したが、成果をもたらせなかったため、高木はうつ病になった
 高木は2000年に死亡しているが、11年でも72歳であったから福島原発事故の後「高木が存命だったら」と言われた→健在であっても、国は変わらなかっただろう
 →いまの反原発・脱原発運動は高木のように先を、さらにその先を見通せていないのではないか。推進側に振り回されている

114修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/28(金) 17:06:35 ID:Ylvok7Dc
長谷正人「宮崎駿(アニメーション監督)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 1979年、宮崎駿初めての映画監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』を発表したとき、世界的映画監督として成功するような可能性はほとんどなかった
 →82年まで次回作品の企画は次々と頓挫した→アニメは未だ子供向けの文化でしかないと思われていた。80年前後のSFアニメブームからも宮崎は疎外されていた
 →宮崎の映画作品はアニメ文化のオタク的・サブカルチャー的な変容プロセスのなかでは最も周縁的な位置にいた
 →さらに当時は映画産業が衰退していた。東映動画も辞めていた宮崎らには長編フルアニメーションを作るだけの製作環境がなかった
 宮崎は背景に徹底的にこだわった→背景の自然描写がそのまま思想や世界観になっているような作品になった
 →宮崎的エコロジー世界は、アニメーション表現の困難な条件を乗り越えようとした結果生み出された
 主人公を飛翔させることでマンガ的なキャラクターに生きているかのような躍動感を与える。落下の危機を乗り越えさせることで登場人物に生命感を与える
 宮崎が目指したのは、実験的な短編作品ではなく、大衆文化的な長編アニメーション映画だった→大勢のアニメーターが分業体制を取るしかない
 アメリカ(ディズニーなど)のやり方→人間の動きをそのままアニメーションにする。日本(手塚治虫など)のやり方→止め絵やバンクの多用などによる省力化
 →アメリカのやり方はリアルだがアニメーターの個性は失われる。日本のやり方は絵の代わりに作家の演出が重視されるが動きが少なくなる
 →宮崎は、絵をダイナミックに動かして見せるアニメーションの職人労働に徹底的にこだわった。機械的合理化や作家的知性ではなく職人的知性にこだわった
 →職人的アニメーターであると同時に作家でもあるというのは宮崎独特の立ち位置
 宮崎らが東映動画と対立しながらつくった『太陽の王子ホルスの大冒険』は緻密な動きを伴った長編アニメーションを大勢の労働者が集団で助け合って作ったもの
 →この経験以来、集団的な職人労働によるアニメーション製作にこだわり続けた→85年、スタジオジブリ設立
 →宮崎は集団で絵を描く共同労働を演出と結びつけてアニメーション製作の中核に据え続けようとした→これは最も困難な道でもある
 『未来少年コナン』や『カリオストロの城』は一般的な評価を得ることはできなかった。子供向け作品としてしか扱われなかった
 →宮崎なりの青年向けアニメとして作られたのが『風の谷のナウシカ』→ハッピーエンディングは不可能な設定。ナウシカはアンチ・ヒロイン→そこがそれまでの映画と違う
 →アニメのエンディングは鈴木敏夫と高畑勲の意見で、妥協案的な擬似ハッピーエンディング的な終わり方になっている→作家としての宮崎は妥協せず漫画で続きを描いた
 →ナウシカを転機として、ハッピーエンディング的な作品(職人的)と、意味がよくわからないエンディングの作品(作家的)の両方を生みだしていくことになる
 『風の谷のナウシカ』は同時代のハリウッド映画の変貌とシンクロしていたとも言える→60年代のアメリカン・ニューシネマや79年の『地獄の黙示録』など、それまでの映画のお約束や定番を突き崩した映画

115修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/28(金) 17:10:22 ID:Ylvok7Dc
>>114
「職人」と「作家」の違いは他のアニメ監督と比較すればわかりやすいかもしれない。
例えば、富野監督は「作家」はあっても現状では「職人」とは言えないと思いますし、
押井守も庵野も神山健治も細田守も深海誠も現状では「作家」とは呼べても「職人」とは呼びにくいのではないでしょうか。
「作家」でもあるし「職人」でもあり続けているアニメーターってジブリ系以外だとやはりそんなにいない気がしますね

116修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/30(日) 12:03:55 ID:Ylvok7Dc
想田和弘「奥崎謙三(元日本平)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 奥崎謙三は太平洋戦争でニューギニアに工兵として送られ、戦友のほとんどを失いながら奇跡的に命拾いをした
 →復員した後は、昭和天皇と日本社会の戦争責任を過激に追及し続けた。数々の事件を起こしたため、24年間以上を刑務所の独房で過ごしている
 1956年、金銭トラブルから不動産業者を殺害、懲役10年。69年、一般参賀で天皇にパチンコ玉を打ち、暴行罪で懲役1年6ヶ月
 76年、皇室の顔写真をポルノ写真とコラージュしたビラをデパート屋上からばらまき、猥褻図画頒布で懲役1年2ヶ月
 81年、『田中角栄を殺すために記す』を自費出版、殺人予備罪で書類送検、不起訴
 83年、ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公となる→その撮影過程で、元中隊長の殺害を決意、応対に出た長男に発砲。殺人未遂で懲役12年
 奥崎は良い結果をもたらす暴力を肯定し、積極的に行使した。テロリストと呼ぶことも十分可能である
 奥崎は日本兵たちの怨霊のメディア(代表者)であり、怨霊そのもの。訴えから逃げようとする人間に対しては激烈な暴力を振るうが、訴えに向き合う人には礼儀正しくなる
 →日本兵が仲間を殺して食べた事件の真実を話そうとしなかった元軍曹に対して暴力を振るったが、真実を話し始めると謝り救急車も呼んだ(『ゆきゆきて、神軍』の後半)
 奥崎は、1920年兵庫県明石市に生まれた。家が貧しかったため、小学校を出るとすぐに木綿問屋で住み込みで働き始めた→職を転々とする
 19歳になると、早い内に兵役義務を果たしておきたいと考え、戦死者がゼロに近かった海軍に志願するが、身体検査の結果門前払いを食らった
 →しかし翌年の40年、徴兵検査で合格(状況が変わっており、本来は不合格の者も合格になっていた)。41年、中支九江工兵隊に入る
 →上官に呼ばれた時に「忙しいから」と断ったら殴られそうになったので営外に脱走、売春宿で一泊→部隊の体面を保つために何の制裁も受けなかった(出すぎた杭は打たれない)
 →反抗するなら派手に大胆に反抗すべき→戦後もそれを実行していた
 43年、貨物船の中で5度頭上をまたいだ軍曹を殴った→これも不問になったどころか、一目置かれるようになった。以来、上官に暴力を振るうことを躊躇しなくなる
 ニューギニアでは戦った相手は米軍ではなく、マラリアと飢餓だった(それどころか、身軽になるため兵隊の大部分は銃を捨てていた)
 →奥崎は仲間とはぐれ単独で行動することになる。右手の小指も失い、餓死寸前にまでなった→殺してもらうつもりで現地住民の村に投降したが捕虜となって助かった
 →今まで両親以外からは受けたことのないような親切を米軍からは受けた→オーストラリアでの捕虜収容所生活も奥崎にとっては幸福だった
 復員船の中では食糧を横領しようとした船長に対して刃物で傷害を加えた→復員兵から感謝され、食糧配給も改善された→正しい目的のための暴力の必要性を確信
 復員後は人なみの生活を送っていた。バッテリー商を開業→不動産業者とトラブルになり復員船の時と同じ要領で刺してしまうと相手が死んでしまい、自首した
 →独房で奥崎は、殺したくもない不動産業者を殺すことになったのは、自分のことだけを考える動物的な生き方をしてきた天罰だと考えるようになった
 →さらに、悪因そのものを除去しなければ、悪果としての人間が次々と生まれるはずだと考えるようになる→悪因は、天皇や天皇的な存在、不平等な構造の社会
 奥崎は、天皇や権力者たちは死刑になるか社会的に抹殺されると確信していた→現実はそうではなかった。奥崎にとってそれは許しがたかった
 天皇へのパチンコ玉発射は、世の中の人々を目覚めさせるために行った→マスコミは、ムシャクシャしてマスコミを騒がせるために事件を起こしたと論じ、すぐに忘れられた
 2005年6月、奥崎は85歳で死んだ。奥崎と奥崎が背負っていた戦死者たちの怨霊はいまだ鎮まっていないのではないか

117修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/30(日) 17:57:03 ID:Ylvok7Dc
そういや世にも奇妙な物語で「ウミガメのスープ」という話があるそうですね。見たことはないですが

118レト:2017/05/01(月) 19:24:05 ID:hElrqMRI
不思議の国のアリスでもネタにされていますが、
英国には安価な子牛で作られたウミガメ「風味」のスープがあるそうで。
日本にもがんもどきとかあるんですからうなぎ風味のナマズとかが定番商品になってもいい気がします。

119修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/02(火) 17:18:08 ID:Ylvok7Dc
輪島裕介「美空ひばり(歌手・女優)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 1937年、美空ひばり(加藤和枝)は横浜市に生まれた
 →43年、父の出征の際に歌ったことが評判となり、しばしば壮行会や慰問に招かれるようになった→父の復員後、素人楽団を作り、近所で演奏するようになる
 →46年、地元の劇場に出演→47年から美空ひばりと名乗るようになる(それまでは美空和枝)→48年、横浜国際劇場と専属契約
 49年、日本コロビアム所属歌手による公演に笠置シヅ子の代役として出演→そこでディレクターから認められる
 →松竹の『踊る竜宮城』に出演。挿入歌を日本コロビアムから発売→日本コロビアムと専属契約
 →松竹『悲しき口笛』で初主演。主題歌も大ヒットし、一躍脚光を浴びる→50年、ハワイでのロケを含む『東京キッド』が大成功
 51年、横浜国際劇場副支配人だった福島通人社長がつくった新芸術プロダクションに所属。52年が美空の最初のキャリア絶頂期
 戦時中、壮行会や慰問という場での演奏は天才少女のみに開かれた場所では当然なかった。敗戦後に美空が出演した劇場も、戦後急ごしらえに作られたアマチュア劇場である
 →敗戦直後は素人の唄が娯楽になった(象徴的なのがNHK「のど自慢」)→戦時中の壮行会・慰問からの連続性
 美空は「のど自慢」予選で失格になっている→何を歌ったのかは諸説あるが、子供が歌謡曲を歌うということが望ましくないとされた
 美空は松竹を中心にしながらも、58年の東映と専属契約以前は日活以外の各社に出演→きわめて異例
 →ちょうど、五社協定が確立する狭間の時期だった。所属する新芸術プロダクションが制作機能も有していた→新芸プロ自社製作、福島社長がプロデューサーの映画に多く出演
 美空の音楽映画は、その時々の流行をいち早く取り入れ、あらゆる役柄、あらゆる曲調を歌いこなすものだった(ただし全て「ひばり調」になる)→和洋折衷
 57年、ファンに塩酸をかけられる事件→山口組との関係が深まる
 →山口組興行部は神戸芸能社と改称。58年、福島通人を排除する形で設立されたひばりプロダクションの会長に山口組3代目組長の田岡一雄が就任
 →東映と専属契約。福島がいなくなったためだと考えられる→当時の東映で美空は実質的に唯一の主演女優(男役や男装も多かった)
 62年、小林旭と結婚→この頃、日本映画が退潮していき出演映画数も激減→64年、離婚。活動場所を舞台に移し、テレビ出演も行うようになる
 当時は古臭い曲調が流行だった(村田英雄、森進一ら)→それに対応したのが「柔」「悲しい酒」
 GSブーム→「真赤な太陽」。このヒットを最後に美空がヒット曲を出すことはなくなる→弟の暴力団との関与が取沙汰され会場使用禁止、紅白歌合戦落選などのトラブルや批判
 美空が「女王」だったのは、ありとあらゆる曲調を歌いこなしたからである→美空の楽曲のなかで「演歌」と呼べるものは必ずしも主流ではない
 →そもそも美空全盛期に「演歌」というジャンルは存在しない。60年代末から70年代にGSやフォークと区別するために用いられるようになったのが「演歌」という言葉
 65年、竹中労『美空ひばり』→ひばり礼賛。美空は日本の民衆的な、民族的な音楽の伝統を守ってきた存在として描かれる
 →竹中は当時の左翼系音楽運動の論理に美空を当てはめている(黒人ジャズの民族性賞賛、日本の音律「七五調」重視)。美空側は竹中のパイプ・人脈を利用したかったと思われる
 →竹中は「演歌」という言葉は使用していないが、竹中の主張は「演歌」ジャンルの成立において決定的な役割を果たしていく
 70年代以降の美空は、新語である「演歌」に包摂されること(演歌の女王)でキャリアの延命が可能になったが、見失われたものは小さくない
 87年4月、美空は倒れる→本田靖春『戦後―美空ひばりとその時代』刊行→美空は戦後という時代と結びつけられるようになった
 美空が死去した89年、日本の大衆音楽は大きな転換の最中にあった→『夜のヒットスタジオ』(90年終了)や『ザ・ベストテン』終了
 →日本レコード大賞も「ポップス/ロック部門」と「演歌/歌謡曲部門」が分離。90年代前半にJポップという呼称が定着
 →演歌ジャンルは主に高齢者を中心とするニッチ市場に追いやられていった
 →その中で、美空を「演歌の女王」や「戦後の象徴」として語ることに対しての批判も出てきた(都はるみ、小林信彦)
 →小林による「美空ひばりのオリジナリティは、えたいの知れぬ和洋折衷だ」という主張は熱心な音楽愛好家の共通認識となってゆく
 現在、名曲とみなされている「愛燦燦」や「川の流れのように」は90年代以降のJポップの音楽語法と共通する特徴をもっている
 →美空は死後、「演歌の女王」というイメージから解放された→美空の別の側面が注目されるようになった

120修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/02(火) 17:22:45 ID:Ylvok7Dc
>>119
長文になってしまったのですが、1人の歌手だけでもこれだけのことを語れるんだなぁと思いました。
もはや演歌の時代は終わったといえますが、そもそも演歌というジャンル自体が作られたものであるということから考えても衰退していくのはしょうがなかったのではないですかね。
ただ、Jポップの時代ももう終わりを迎えつつあるのではないかなぁと思ったりもします。
90年代頃の音楽と今の音楽はジャンル的にはちょっと違うんじゃないかなと思わないでもないんですが、そうなるとまた新しいジャンル分けのための言葉が作り出されるのかなぁと考えたりもします。

それにしても暴力団と関係があったことが公然になっている有名人だけど別に本人の名はいまだ傷ついていない人物というのは結構いるような気がしますね。
今だって、大御所演歌歌手で暴力団との関係が確実にあるだろうと言われている人はいますしね

121修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/05(金) 12:09:26 ID:YbuHQj7w
水島久光「中田鉄治(夕張市長)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 現在、北海道夕張市は日本国内でただ一つの財政再生団体。中田鉄治市長の対外的なアピールポイントは「炭鉱から観光へ」だった
 中田が市長になって2年ごろの81年10月16日、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故。戦後3番目の犠牲者数(93名)、59名の安否不明者を残したまま注水が行われた
 →石炭の時代の終焉を印象づけた
 87年、青野豊作『夕張市長まちおこし奮戦期―超過疎化からの脱出作戦』→中田肯定論
 しかし中田の計画は無謀だった。全部で179プロジェクト、総額6000億円→政府からの補助、起債、民間資金導入で賄う→荒唐無稽だった
 →91年『追補夕張市史』の記述→トーンダウンしている。計画の原資調達の目途が立っていない
 新生イメージの核になったのが、90年のゆうばり国際ファンタスティック映画祭だった。ふるさと創生事業の1億円を原資にした(使い方の建設的な例として高く評価された)
 →映画によって町を根底から作り変える、映画のような街にしようとしていた
 →合宿所の名前が黄色いリボン。2000年、中心市街地の建物に映画の絵看板を掲げ、ゆうばりキネマ街道と命名、などをおこなった→張りぼて感が拭えない
 中田は「演じる」ことが好きだった→『西部警察』や『仮面ライダーBLACK』にも出演。「市長」という役を演じ、パフォーマンスする市長だった
 中田が支持されていたのは政策の是非よりも愛されていたからだった。しかし観光客数はピーク時でも水増しされていた
 →成長に転じるイメージを描きつづけるため無計画な投資をつづけた。中田は夢の舞台で踊り続けた
 夕張市の財政破綻が報じられ、不正経理が明るみに出ると既に故人となっていた中田には独裁者、ワンマンのレッテルが貼られた→最晩年は、恫喝を繰り返していたという
 なぜ夕張だけがエスカレートしたのか。なぜ人々は彼を愛し、首長にまで押し上げ、踊らせ続けたのか。パフォーマンス好き、低学歴からの立身出世は彼だけの個性ではない
 高度経済成長の最後のバトンを受け取ったのが中田だった。そのバトンを受け取ったのは中田だけではない→自治体はさらなる経済成長にすがった
 生キャラメルブームもあったが、そのブームが去るとまた負の遺産が出てくる。市長は2人連続で一期で降り、東京都から派遣職員で来た30歳の人物が市長になった
 →なぜ夕張は、繰り返しメディアのネタになるのか。この町の宿命なのか

122修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/05(金) 12:12:55 ID:YbuHQj7w
夕張が仮面ライダーBLACKに出てきたのは有名な話ですが、それも市長の政策の一環だったんですねぇ。
パフォーマンスを演じて、支持を得るというタイプの首長は何もここ数年で出てきたわけではなく、30年ほど前に既にいたんですね。

それにしても最近は、聖地巡礼やゆるキャラ(一部は萌えキャラ)でお金を稼ごうとしている自治体がすごい多いですが個人的には疑問を感じるんですよね。
聖地巡礼は作品が人気になってから自然と増えていくものなのだから、行政が主導で行うようなものではないし、ゆるキャラ・萌えキャラにしても人気があるのは極々一部のキャラなんだからそのキャラに使うお金を別のところに回せばいいのになぁと感じることが多々あります

123修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/06(土) 12:55:47 ID:z68wRE6o
堀江宗正「島田裕巳(宗教学者)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 島田裕巳は柳川啓一の講義を聴いて宗教学を志した→柳川はゼミの教え子を新宗教団体に潜入調査させており、島田の担当はヤマギシ会だった
 ヤマギシ会→養鶏を核に共同体を建設し、強引な勧誘で不法監禁や殺傷事件に至り、狂信者集団とされた団体
 →島田は、我執や固定観念から解放され一体的関係に生きるヤマギシ会の理想を広げれば社会の諸問題が解決されると納得した→しかし共同体を抑圧的に思い、離れた
 島田はコミューン(共同体)自体が矛盾や対立を生むと結論した。精神的転換は洗脳に近く、集団固有の言葉は恣意的に利用され、理想的共同体は一時的だと批判した
 →宗教学は、もっとも自由を阻害する宗教から人を解放するものだと考えた
 1991年春、幸福の科学が急成長していた→島田は批判的コメントを続けた。講談社『現代』に批判文章を掲載→会員たちから訴えられる
 島田の幸福の科学批判→数を誇示するバブル宗教(雑誌を取るだけの会員が9割だとも指摘)。拡大神話に取りつかれている。子どもの空想の宗教
 島田は、オウム真理教を子どもの集団、ディズニーランド宗教だとした。子どもじみた宗教だと見下したことが危険性の過小評価にもつながってしまった
 島田は90年、熊本県にあったオウムの精舎を訪問(この時点でオウムには数々の疑惑があり、すでに殺人も犯していた)→島田は、信者は一般の若者と変わらないとした
 麻原彰晃とも面会し、思っていた以上に理性的とし、洗脳もないとした→ヤマギシ会の時の考え方から大幅な後退
 →自説も修正し、オウム信者は子どもだが麻原は障害ゆえ社会との葛藤から処世術を身につけた大人だと主張(大川隆法を徹底的に子どもだとしているのと対照的)
 幸福の科学によって批判されている時には、オウム信者が島田をホテルまで護衛している。「朝まで生テレビ」にも出たほうがいいと島田が教団に伝えている
 →番組では麻原VS幸福の科学になった(島田は幸福の科学との直接対決を避けた)。島田が麻原に助け船を出す場面もあった
 →番組最後の視聴者感想では、自分の考えの押し付け、子どものけんか、マスコミが持ち上げている、一時期のブーム、金集め等の意見が出た
 →島田はその後も、学園祭で麻原と対談したり、上祐史浩とシンポジウムで同席するなどを行った
 →ゼミの学生から島田がオウムに入信させたと騒がれるようになる→『噂の真相』も島田が詐欺に協力したと報じた(この頃オウムは犯罪を重ねている)
 95年3月19日、恩人であるはずの島田の旧自宅前に捜査攪乱のためオウムは爆発物を仕掛けた。3月20日、地下鉄サリン事件→島田はオウムを擁護した
 →科学薬品が見つかったことでだまされていたと認めたが、教団の未来を未だ信じていた。9月25日から島田バッシングが始まる→10月2日、日本女子大学から休職処分
 →11月30日、退職。島田をオウムで幹部扱いだった等と報じた『日刊スポーツ』を名誉毀損で訴え、98年に全面勝訴している
 2001年『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』を発表→オウム事件に関する基本文献となった。これで島田が責任を取れたのかの評価は難しい
 →麻原より幹部の責任を強調。検察の主張を徹底的に批判。殺された村井秀夫が地下鉄サリン事件を主導したと主張。麻原は止めようとしたのだとしている
 麻原とはじめて会った時点で完全に失明していたと島田は言っているが、これも疑問がある。洗脳も麻原の責任ではないと主張
 島田は麻原が殺人の指示を直接出したのは事実だと認めるが、教祖としての責任は殺人の隠蔽、正当化、幹部独走の部分にあるとする
 →検察や江川紹子に比べると相当免責している。島田は麻原が殉教者として神話化されるのを恐れて死刑にさせないようにしている
 幹部独走論→麻原が無力だったと示し、麻原の脱神話化と教団弱体化を狙っている
 宗教学者は研究対象に一定の共感を持ち、宗教固有の価値を評価する傾向があった?→島田や中沢進一は宗教学の成果の上に成り立っていたオウムに共感し評価した
 →しかし、新宗教研究者の井上順孝、島薗進、塚田穂高は市民社会の倫理からオウムを批判している。島薗はオウム事件以前から島田と中沢を批判していた
 島薗は島田らの研究は客観的ではないとしていた→島田は完全な客観性などないと反論しているが、島田の場合は主観・客観の問題以前のレベルだった
 島田は決して新宗教研究者でないのに取材を引き受け、テレビにまで出演するようになり、教団に対して極端な態度をとった
 現在、島田の嫌う日本社会の抑圧的性格は強化され、日本では新宗教団体の新たな台頭は見られなくなった。若者はスピリチュアリティへの関心も隠している
 重要なのは見解の多様性の維持

124修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/06(土) 12:57:04 ID:z68wRE6o
架神さんも宗教のことで本を書いているし、それを読んで宗教に興味をもつ人もいるでしょうけど、
共感を持つ部分はあったとしてもその宗教から一定の距離は絶えず保つということは気をつけてほしいなぁとおもいますね

125修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/08(月) 20:11:30 ID:z68wRE6o
中西新太郎「小林よしのり(漫画家)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 戦後五〇年から戦後六〇年は右傾化の10年→小林よしのりのパフォーマンスが果たした役割は大きい
 衝撃と言えるほど大きな反響を呼んだのは98年の『戦争論』→それまでの戦争認識を公然と否定した→「自虐」と「反日」を非難
 →反日勢力と日本、日本人という図式を描き、正義は後者にあるとした→作品では、日本人の立場を代表するのはキャラクターとしての〈小林よしのり〉
 小林は私欲追及を左翼思想としたが、左派は高度成長期の生活変容を批判している
 小林の場合、公=国→国=歴史の積み重ね=伝統→この考え方は小林独自の主張とは言えない。小林の主張は保守右派思想の系譜上にある
 →小林は、規範や道徳が自分たちの中に宿っているとし、日本人として覚醒せよと呼びかける
 『戦争論』が取り上げた個々の話も、描き出された戦争体験も、大東亜戦争肯定論なども戦後持続的にあったもの
 小林は知識人対大衆という対立図式をおき、反エリート主義の論法につなげる→庶民と地続きに自分の主張があるとし、その点が読者の共感を集めた
 『戦争論』は大衆の意識、その意識を操作(洗脳)している世論、メディアを攻撃対象とし、横暴な多数派と戦うとした→これは現在のネット右翼にも継承されている
 →世論、メディアの洗脳を解くという自己操作が自己の絶対的優位を確信させる→タブー破りにつながる→弱者を非難してもいい
 →小林は同意していないが、『戦争論』は乱暴な敵対者狩りにつながった
 小林は、主役キャラとして登場する自分、サヨク等の敵役キャラ、味方キャラ等を設定し、作者小林が論争の舞台を取り仕切る→それが若者にうけた
 →小林自身もこの手法の危険性に対する自覚はあった→この手法は山野車輪『マンガ嫌韓流』(2005)で成功を収めた(主役としての作者キャラはいない)
 →小林「キャラが立って読者が感情移入できたら その漫画は成功しヒットする」を証明した
 『マンガ嫌韓流』は作者を匿名化しても「ごーまんをかます」ことができることを顕わにした→小林の手法は真実性の判断や倫理的判断の基準からも解放させてしまった
 →もはやネット上ではフィクションと現実を弁別する意識はない
 『戦争論』の主張は、「つくる会」からも右に寄った意見として認められていなかったのに大ヒットした→右派言説に引き寄せられる心情をとらえた
 右傾化の10年と新自由主義構造改革の10年は重なっており、右派言説と新自由主義擁護は連携し補完しあっている(小林は反新自由主義)
 →ただ、右派言説を受容する層は下層に限られないし、若者のみの話でもない。新自由主義等に由来する不安だけでは説明できない点がある
 肯定したい実体が定かでなくても肯定してしまえる際限ない自己肯定への欲望が存在している

126わんのねこ:2017/05/08(月) 20:35:11 ID:YwyhNITU
 一応なりにも民族学を趣味と自称する私が、
今のいままで赤松啓介の著作に目を通しておらぬのは痛恨であった。
で、とりあえず「性・差別・民族」(河出文庫)を読んでみたけど、
このおっさん、面倒くさいな。
なるほどと思う反面、いやそれは納得できない、ということもある。
初夜問答についての報告は興味深かったですよ。

・初夜問答:「この世界の片隅に」でやってたやつが「木登り型」
他にも「馬乗り型」があるとかないとか。

127修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/08(月) 22:46:06 ID:z68wRE6o
『性・差別・民俗』は新刊なんですなぁ。まぁこのクラスの人だと死後も新刊が出ることは珍しくないですが。
性関連の民俗は最近はやる人も減ったのかなというイメージがありますが、そもそも今現在そんな風習は残ってないということが大きいんでしょうな

128修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/09(火) 17:05:34 ID:z68wRE6o
山下英愛「金学順(元慰安婦)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 金学順の証言は数種類のものが出ている→慰安所生活に関してはほぼ一致しているが、慰安婦になる前の語りには若干食い違う部分もある→聞く人等によって語りは変わり得る
 学順は満洲吉林で生まれ、すぐに父親を亡くした。母親と平壌で暮らしていたが非常に貧しかった→14歳の時に母親が再婚→他の家の養女になった
 →養女になった家が妓生修行をさせる家だった。実際は身売りのようなものだったのかもしれない→1941年頃、学順ともう1人の養女は中国北京に行かされる
 →北京に着くと日本軍将校に引き渡され慰安所に連れて行かれた→ある日忍び込んできた朝鮮人の男について行き脱出→1年後妊娠、上海のフランス租界に定住
 →2人の子どもを産んでいる。質屋を経営していた→46年6月、帰国→ソウルの収容所で生活中、娘を失う→52年、夫が死亡→夫には苦しめられていたので悲しくなかった
 →息子も小学校3年生の頃に死亡→その後の20年間についてはほとんど語られていない→80年代初め頃にソウルで住み込み家政婦になっている
 →7年後、1人暮らしを始める。故郷が平壌なので韓国に身寄りはなかった。生活保護で暮らしていた
 その頃(90年11月)、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が結成されていた→日本でも参議院予算委員会で慰安婦について質問があり、政府は民間がやったことだとしていた
 学順は日本政府が慰安婦問題に対する責任を否定していることを知った→名乗り出ることを決意する
 挺対協は慰安婦ではない勤労挺身隊の存在を知りつつもそのまま挺身隊を使用していた
 →韓国では挺身隊が慰安婦の意味で使われていた。挺身隊も慰安婦も未解決の問題であり、挺身隊を女性受難の代名詞にしようとした
 →日本と韓国では挺身隊という言葉の表現の意味合いが違う
 学順は91年12月6日、原告の1人として日本国を相手に慰安婦被害に対する補償を求めて提訴(元慰安婦で実名を公表したのは学順だけ)
 →日本政府も資料調査を行うようになった。92年1月10日、吉見義明が日本軍の関与を示す資料が多数存在することを発表
 →当時の軍の関与は否定できないという政府談話が発表される。1月17日、宮沢喜一首相が韓国の国会で謝罪
 挺対協は国連にもこの問題を訴えた。日本政府は93年8月4日、河野談話を発表→軍の要請により慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことを認めた
 →慰安所での生活は強制的な状況のもとでの痛ましいものであったこと、総じて本人たちの意思に反して行われたことを認めた
 →画期的な前進だったが、表現のあいまいさが指摘された。94年6月、学順はフィリピン人被害者たち11人とともに羽田孜首相と面会(非公式な面会、偶然会っただけ)
 村山富市政権の基金構想(女性のためのアジア平和国民基金)→謝罪ではなく見舞金事業→アジア女性基金は慰安婦問題解決のための努力のたまものだったとも言える
 →しかしアジア女性基金は国が責任を認めて謝罪するというものではなく、学順には受け入れられなかった
 97年12月16日、学順は73歳で死亡した。その後も続いた裁判では、学順ら女性原告たちが慰安婦とされたことは事実として認められたが、補償請求は退けられた

129修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/11(木) 20:10:12 ID:z68wRE6o
吉岡忍「筑紫哲也(新聞記者・キャスター)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 筑紫哲也は1935年生まれの戦中派だが戦争中や戦後の体験については高校生の頃に書いた作文にしか書いていない
 →小中高の全てで入学した学校と卒業した学校が違う。2度の疎開もあった→東京、大分県日田、静岡県沼津、東京と移り住んでおり、故郷がなかったとも言える
 早稲田大学に入学した筑紫は学生運動には参加せず、ボランティア活動を行っていた→アメリカのクウェーカー教徒とともに戦災孤児のための活動を行った
 →アメリカからやってきた活動家たちとぶつかり、自前の団体を立ち上げる→59年、朝日新聞社に入社→池田勇人首相の番記者となる
 →政治家と番記者が酒を酌み交わしながら議論をするというやり方に疑問を抱く
 那覇支局勤務時代(米軍統治下の沖縄)、ワシントン総局時代(ウォーターゲート事件発生)、『朝日ジャーナル』副編集長時代(ロッキード事件発生)が記者生活の山場
 78年、テレビ朝日「こちらデスクです」のキャスターに抜擢される→79年4月1日、報道番組でエイプリルフール企画を敢行。やりたいことをやる制作チームだった
 ベトナム戦争後の日米貿易戦争の取材でも、帰還米兵が軍法会議にかけられるという話を聞くとテーマを変えてしまうぐらい自由だった
 →日本の関税批判をやっている政治家の集会にも出かけ、このオレンジは30セントだが東京では35セント。関税の話は誇張しすぎではないか、という質問をした
 「こちらデスクです」を欠かさず見ていたのが久米宏→84年、テレビ朝日の番組で共演(この時の筑紫は『朝日ジャーナル』編集長として誌面改革を行っていた)
 85年、テレビ朝日は久米宏をキャスターとして「ニュースステーション」を始める
 89年、ニューヨーク駐在員だった筑紫のもとにTBSの2人の幹部が訪れる→筑紫は朝日新聞社を退職し、「筑紫哲也NEWS23」のキャスターとなった
 筑紫はテレビの全体主義性を警戒していた
 →TBSの損失補填事件(株の損失を証券会社から補填してもらっていた事件)、ビデオテープ事件(オウム真理教幹部にオウムに批判的な弁護士の取材テープを見せた事件)
 →自分の番組内でTBSを批判した
 筑紫はゲストを怒らせたことは一度もなかった(首相を辞任した後の森喜朗を呼んだ時も長々と話を聞くなどしており、窮地に陥った政治家が出演することはよくあった)
 →久米宏との違い。久米はスタジオ以外で政治家と絶対に会わなかったし番組内でいきなり質問するタイプだった(黒柳徹子とも食事すらしていなかった)
 筑紫と久米の似ているところ→反自民、反権力(反日、反米)と言われるが、直接的に権力批判はしていない→結論を言わずに番組を終える→視聴者に考えさせる

130修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/11(木) 20:11:08 ID:z68wRE6o
今の若い人だと、筑紫哲也も久米宏も知らないという人結構いそうですね。
というか、めざましテレビの大塚さんも知らない人いそう

131修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/13(土) 12:23:52 ID:z68wRE6o
椹木野衣「岡崎京子(漫画家)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 1996年5月19日、岡崎京子はスピード違反・飲酒運転の車にはねられた→一命は取り留めたが、作品をかけなくなったことで宙吊りのような存在になってしまった
 戦後50年を迎えた95年は、阪神淡路大震災が起き、地下鉄サリン事件が起きた。『ヘルタースケルター』はそんな時期の作品だった
 94年『リバーズ・エッジ』で岡崎の作風は変容したと強調されているが、そうでもない→腐乱死体を発見した秘密を共有する若者たちも心の空虚は埋められていない
 →『リバーズ・エッジ』は80年代的。本当に90年代的になったのは『ヘルタースケルター』
 80年代とは→死などに対する肉体的なリアリティの希薄さ。世界の終わりを予感するようなことが「ちょっとだけ起こった(岡崎)」(チェルノブイリなど)
 『リバーズ・エッジ』の死体も無力であり、「何も起こらなかった」→次にかいたのは、生きながら死んでいる「女優」だった
 女優りりこは最新の医学=科学技術で生き、中身には「詰め物」しかない「ぬいぐるみ」になっている
 →震災やサリン事件で、日本は表皮が剥がれ、日本人が隠し持ってきたもうひとつの顔が露呈した。95年以降、00年代や10年代という言い方はもはや意味をなしていない
 →りりこのように、長期にわたって過酷である一方、一時的な快楽でかろうじて担保される詰め物のような生の渦中(日常)に投げ込まれている

132修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/13(土) 12:25:41 ID:z68wRE6o
今、テレビ版のエヴァを振り返ることはエヴァの時代にマジンガーZを振り返ることと時間的には同じようですが、
70年代や80年代に比べると95年以降ってやっぱり何か違うというか、95年以降という時代がずっと続いているんじゃないかという気はしますね

133唯野:2017/05/22(月) 17:30:37 ID:XQef5M/g
「無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教」 鵜飼 秀徳

タイトルは釣りです。
多様化する葬儀・埋葬方法のカタログ的ルポと仏教学者佐々木閑ロングインタビューが内容。

以前かがみさんが言っていた「初期仏教は社会に対して特に見返りを行うことはないんだけど(葬式とかやりだしたのは後年)、修行している姿を見せることで寄付を得た」っていう話がよくわからなかったのだけど、
それは現代の科学者が研究費を得ているのと同じだ、という本書の記述で納得。
ビッグバン宇宙論とか研究しても、直接的に社会の役に立つわけではないが、その思索や研究をする姿そのものにかっこよさや尊さを感じてお金を出すのと一緒だと。
そして畏敬の念オンリーというわけでもなく、宗教的修行や科学的探求に援助をすることで、自分の来世にご利益が発生したり、数百年後に何か実用性が発生するかもしれない可能性への投資としての意味もある。
同時に僧侶と科学者には清廉潔白さと組織の自浄作用も強く求められるので、破戒僧や捏造科学者にはひときわ強力な社会的制裁が行われる、と。

134P4:2017/05/22(月) 21:21:34 ID:05iCaUEY
1995年というとネットが普及した年ですね。ウインドウ95だっけ?
ネット社会になって、情報が簡単に手に入るようになって、物作りも影響を受けたのかも知れませんね。
ネットより携帯電話が普及した事が影響したのかも知れませんね。
ちなみに携帯とネットが合体したのは2001年頃でスマホ登場は2007年らしいです。

135修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/22(月) 22:47:42 ID:z68wRE6o
清水克行『日本神判史』を読みました。
室町時代の100年間のみ熱湯のなかに手を入れて火傷で有罪無罪を判定する湯起請が流行った。
さらに戦国から江戸初期にかけてのみ焼けた鉄片を握って火傷で有罪無罪を判定する鉄火起請が流行った。
これはどちらも神仏の力で正邪が判断されると考えられていたもので神判と呼ばれている。なぜこの時期だけにこのような神判は流行ったのか。その疑問を解き明かそうとしているのがこの本です。
結論から言うと、この方法を行えば白黒を確実につけられるというのが1点。湯起請の場合、有罪になるかどうかは五分五分のようですが、仮に有罪の者がいなくても有罪の者は身近にいないという答えを得ることができた。
実を言うとこの時期は証拠主義・文書主義に転換していく時代なので、そうなると不利になる人たちが一発逆転をかけて行っていたというのが2点目。実際、間違いなく有罪であろうものが神判の結果、無罪になったことがあったようです。
さらに権力者が自分の思い通りにならない時に、自分のやりたいことを押し通すためにこの神判を使ったというのが3点目になるようです。
この3点が語られているわけですが、さらにこの時代は神仏の力が弱まっていた、神仏の力に頼らない人たちが出てきた時代であり、だからこそ逆にこのような過激な神判が出てきたのではないかとも語られています。
しかし、江戸時代になると裁判制度が全国的に整えられていく。そうなればもはや神仏の力などは無力であり、神判も消えていったという話になるようです。

面白かったのは、なぜ湯起請では絶対に火傷を負うとは限らないのかという話で、どうやら単純にお湯がぬるかったために誰も火傷を負わなかったということが実際にあったようです。
また外国との比較で、中国はかなり早い時期から法制度が整えられたので、少数民族を除いて神判は早々に行われなくなったということも語られています

136ZAPZAPZAP:2017/05/23(火) 23:15:46 ID:2lZCzHvc
鉄火起請は去年の真田丸で行われていましたね。大河ドラマでこの手の話題を扱うことが珍しいので妙に記憶に残っています。
一方、今年の大河ではアジール(世俗権力に対する宗教勢力が持つ治外法権的特権)が扱われており、この時代における裁判制度が俄かにスポットを浴びることとなり、非常に興味深いです。
鉄火起請はなかなか面白いモノでしたが、行われていた期間が非常に短いというのは知らなかったので驚きです。一過性のブームみたいなものだったのでしょうか。

湯起請については古代における神判で盟神探湯というものがありこの流れを汲むのでは、と私は思いましたが果たして・・・。

>中国はかなり早い時期から法制度が整えられたので、少数民族を除いて神判は早々に行われなくなったということも
実は日本でも飛鳥〜平安時代ぐらいにいったんこの手のものが無くなった(盟神探湯が行われなくなった、文献上確認が出来ていない)のですが、室町時代になって再び行われるようになっているので、
この時代はやはり特異点的なナニカがあるかもしれないですね。

137修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/24(水) 11:14:49 ID:z68wRE6o
>>136 ZAPZAPZAPさん
真田丸の鉄火起請は話題になりましたね。ちなみにNHKはタイムスクープハンターでも取り扱ったことがあるようです。

それで盟神探湯と湯起請の関係性なのですが、これに関してはつながっているという説と断絶しているという説があるようで、歴史学では断絶しているという説が有力のようです。
というのも、やはり700年近くも間があって登場したのが湯起請なので、その間を埋めるものがなければつながっているとは言えないだろうというのが大方の結論のようです。
ちなみにこの本の著者の清水さんは、盟神探湯と湯起請は別物だろうということも言っていて、湯起請の「起請文を書く」という行為に注目していますね。
起請文というのは誓約書なのですが、これは神仏に誓いを立てるもので中性に特有のもののようです。
清水さんはそこに注目して、中世的な宗教思想を背景にしたものが湯起請だと考えているようです。

ただ、135にも書いたように室町時代から段々と宗教勢力の力が弱くなり、裁判制度も証拠主義・文書主義に変わっていくので、そういう狭間の時代だからこそ湯起請や鉄火起請のような過激なものが登場したのではないかと考えているようですね

138修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/24(水) 17:04:58 ID:z68wRE6o
生田武志「貧困と野宿の縮図・釜ヶ崎での三十年」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 釜ヶ崎は大阪市西成区北端にあり、戦前から日本最大の日雇労働者の街として、そして現在でも毎晩500人ほどが野宿する日本で最も野宿者が集中する街として知られている
 バブル期だった1989年でも釜ヶ崎の結核発病者は1500人を越え、発病率は全国平均の48倍、死亡率は43倍だった
 生活保護の医療扶助を狙う貧困ビジネスの病院も乱立しており、不必要な手術、過剰な投薬、医療ミスなどが頻発していた
 役所(市立更正相談所)に行っても、住む家がない、まだ働ける等の理由で追い返された→日本全国で野宿者には65歳まで生活保護は受けさせないという暗黙の基準があった
 日雇労働者は早朝3時、4時にあいりん総合センターに行く→人材派遣業者(手配師)が労働条件を提示して車で待っている→労働者は直接契約し、車に乗せられて現場に行く
 →夕方に賃金を受け取り契約終了。基本的にこのパターンが繰り返される。建築・土木業界は仕事が多いときに釜ヶ崎に求人に来ている
 →いつでも建築・土木の仕事があるわけではない。日雇労働は究極の不安定雇用。建設業については労働者派遣は認められていないが、黙認され続けていた
 建築・土木の現場では、危険な仕事は日雇労働者にやらせるということがあたり前になっていた→原発関連、アスベスト関連の求人も釜ヶ崎にはある
 釜ヶ崎では労働者による激しい抵抗運動も起こってきた。61年以来、数十回もの暴動が起こっている→暴動のイメージから危ない場所だと思われている
 91年バブル崩壊の時には釜ヶ崎の求人数は半数以下に急落した。98年になると、多くの人々が全国で野宿するようになり、女性と若者の野宿も増えていった
 →野宿者が激増すると行政は強引な排除を行いはじめたが、追い出された野宿者は他の場所に移るだけなのだから問題は何も解決しない
 野宿者への襲撃も続いた。野宿者の40%が被害経験があると答えた調査もある。襲撃は10代の少年たちによってよく起こされるが、少年たちも問題を抱えていることがある
 2007年、世界金融危機が起こり、08年末に年越し派遣村が注目を浴びると「65歳以下」「住む家がない」人でも生活保護を受けられるように改善されていった
 →日本の野宿者数は08年から減り続けている。現在、日本全国で野宿している人は1万人程度だと思われる
 ただ、生活保護申請によってアパートに入った結果、支援者とコミュニケーションが取りにくくなり、行政窓口にも行けない精神疾患の人々の割合が急激に増えている
 野宿している人にも精神疾患の人は多いと思われ、池袋駅周辺の調査では精神疾患の可能性がある人41%、知的障害の可能性がある人は30%だった
 施設やアパートに入っても飛び出して行方不明になってしまう人も多い。若者の野宿者には虐待経験者や発達障害の人もおり、周囲の人と関係を保つことが困難なことがある
 →野宿者支援団体にとって、人間関係の貧困が重要な課題になっている
 12年、西成特区構想→日雇労働市場の縮小、再開発→それは野宿・貧困問題を解決するのではなく、排除し、見えなくするだけではないか

139修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/24(水) 17:12:15 ID:z68wRE6o
>>138
この『ひとびとの精神史』シリーズは2000年以降は、いろんな人の論文集・活動記録になってます。

今現在、釜ヶ崎の辺りって実は外国人観光客の増加もあって外国人宿泊者が増えてるんですよね。外国人からしてみればものすごい安く泊まれる場所だし、外国人的にはそこまで気にするような場所でもないみたいですね。
さらに新今宮駅のあたりに高級ホテルを建設する計画もあるようですし、いつのまにかすっかりかつての面影を無くしていく可能性はあるんですよね。
天王寺なんかはかつては野宿者がいっぱいいたし、天王寺動物園周辺なんてダンボールハウスだらけでしたけど、再開発が進むうちにそういう人たちは全て追い出されていきましたからね。
東京もオリンピックが近付けば一気に野宿者追い出しが進むんでしょうけど、結局のところやっぱり追い出したところでいなくなったわけではなく、ただ見えなくなっただけなのだから解決はやっぱりしてないんですよね。
というか天王寺にいた人達はどこに行ったんだろうか。新今宮のほうに移動していったのだろうか


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