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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

208修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/09(月) 18:58:16 ID:u3TFDYPk
趙景達「武断政治と朝鮮民衆」
 武断政治は、絶大な権力を誇る総督と厳烈な憲兵警察によって、苛酷に遂行された。総督は、軍事・司法・行政・立法を掌握
 警察署長や憲兵隊長は、微罪については刑罰を即決する裁判業務を担っていた
 王朝時代は、移住や流浪、訴願はありふれていた→武断政治下では禁止・制限された
 憲兵は恐怖の対象ではあったが、官僚・両班支配に喘いでいた民衆にとっては、秩序維持の象徴でもあった
 農民は規律化を強いる総督府に苦しめられたが、直接的には、重税と賦役の負担となって襲いかかった
 王朝時代は温情主義も機能していたが、総督府は個人的事情を考慮しない徴税システムを持ち込んだ
 社会は訴訟文化に代わったが、朝鮮人と日本人の間で公平な裁判が行われたかは疑わしい→異議申し立ての文化を否定された朝鮮民衆→三・一運動で爆発

209修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/10(火) 18:47:41 ID:u3TFDYPk
岡本真希子「植民地期の政治史を描く視角について」
 植民地政権と接触をもち、参加・参入をした人々→官僚になるという選択肢。朝鮮では朝鮮人官僚がいたが、台湾では台湾人はほとんど採用されなかった
 →台湾では、エリートたちは弁護士や医師になった
 議員になるという選択肢→これも台湾ではほぼ不可能。朝鮮では、なれる人となれない人との間に亀裂
 戦時期、朝鮮人の権利・義務関係の平等化、処遇改善が行われたが、この恩恵に浴したのは、農民たちではない
 →朝鮮総督府・本国政府は下からの突き上げに対して応答を試みたが、その相手は多大な犠牲を払う農民たちではなかった→朝鮮人間の亀裂を深める

210修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/11(水) 18:55:34 ID:u3TFDYPk
須田努「江戸時代 民衆の朝鮮・朝鮮人観」
 朝鮮通信使は、大坂・京都に立ち寄ることが決められており、大坂・京都では異国人に対する関心が高まっていた→近松門左衛門などによる朝鮮を題材とした浄瑠璃作品
 近松の『本朝三国志』→日本の武将たちの圧倒的な武力、残虐さ。従属する朝鮮王と殺されていく朝鮮王の家臣
 →征服された朝鮮、日本に服属した朝鮮王という歴史認識、朝鮮観
 18世紀後半期、日本に滅ぼされ、恨みを持つ朝鮮人という話がテンプレートになる(天竺徳兵衛というキャラクター)

211修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/12(木) 18:54:38 ID:u3TFDYPk
山田昭次「今日における関東大震災時朝鮮人虐殺の国家責任と民衆責任」
 1923年9月1日、関東大震災。夕方には早くも警察官が朝鮮人暴動の誤認情報を流している→内務省警保局長後藤文夫が、朝鮮人が暴動を起こしたと認定(9月2日?)
 →誤認情報の信憑性が強められた
 9月5日、官憲は朝鮮人暴動の確証を全くもっていなかったが、誤認を認めれば国家責任になる→証拠が発見できなければ、捏造も辞さない方針に
 10月2日、司法省は一部の朝鮮人の暴動の存在を主張→しかし、調査書には名前すら不明の者が書かれ、軽犯罪ばかりである
 朝鮮人を虐殺した者の検挙方針→虐殺は誤認情報によるものだから、厳しく検挙しない。警察署にいた朝鮮人を襲撃したものは厳しく検挙する
 裁判では、執行猶予になった者が多い。最高の刑罰でも懲役3年余。一方で、警察署を襲撃した者、日本人を誤殺した者で最高の刑罰は懲役5年以上で実刑率も高かった

212修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/13(金) 18:45:41 ID:u3TFDYPk
板垣竜太「日韓会談反対運動と植民地支配責任論」
 日朝協会の日韓会談反対運動→日韓台軍事同盟結成反対というもので大衆的な運動にはほど遠い
 安保国民会議が日韓会談粉砕を掲げたのは1962年3月→日韓会談を日米新安保の一環と位置づけた
 日本朝鮮研究所(朝研)発足→寺尾五郎は、日朝協会などの運動は朝鮮総連の考えが強すぎることから朝研をつくった
 寺尾は、日本人の手による日本人の立場での日朝友好を目指した
 朝研は、日韓会談を日・韓・台軍事同盟をつくるための仕上げだと位置づけ、日本が韓国に経済進出すると日本国民の首切り・賃下げが進むとした
 朝研は、日本と朝鮮の関係のあと始末をきれいにする必要性も説いた→植民地支配責任論

213修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/15(日) 22:40:21 ID:u3TFDYPk
池内敏『竹島』を読みました。竹島に関する日韓両国の主張を歴史学的に考察している一冊です。

まず、韓国が主張する「歴史的文献に現れる于山島は竹島である」という主張が成り立たないことを実証し、それを根拠にして竹島が韓国領であると主張することはできないとしています。
次に、日本が主張する「17世紀なかばには竹島の領有権を確立していた」とする主張も成り立たないことを実証しています。寛永2年(1625)の竹島渡海免許は鬱陵島への渡海免許でしかないからです。
さらにいえば、元禄竹島渡海禁止令(1696年)で、竹島(鬱陵島)渡海の歴史は一旦幕を閉じています。
もっといえば、明治10年の太政官の指示では、竹島は日本の版図外であるとされています。
江戸時代の地図を使って竹島が日本領であることを説明しようとする意見もありますが、地図はあくまでも補助史料であり、地図を使って竹島が日本領であったかどうかなどを説明することはできないと明言もされています。
1905年に竹島が日本領に編入されると、竹島経営は鬱陵島の日本人漁業者の一部が独占しました。そして日本人に雇用された朝鮮人が実際に竹島へ行って漁業活動を行っていたようです。
戦後、鬱陵島の日本人が日本へ引き揚げると、鬱陵島の朝鮮人が主体的に竹島へ行くようになったという流れがあるようです。
戦後、一旦竹島は日本の操業区域から除外されますが、サンフランシスコ条約で除外は無くなります。
しかし、韓国は占領維持を開始して日韓両政府は議論を棚上げしたまま現在に至るということのようです。

著者の池田さんは、竹島に関する日韓両国の前近代史部分の主張は意味が無いものであり、重要なのは1895年から1905年までの約10年間だけだとしています。
実は、当時の日本政府も竹島は韓国領かもしれないと考えていたが、日露戦争・韓国植民地化を進めていく中で竹島の編入を一方的に行った。その点が重要であり、それをどう考えるのかということが竹島問題にとって重要なことなのでしょう。

214修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/15(日) 22:46:28 ID:u3TFDYPk
一番上の部分が若干分かりにくくなっているかもしれないので補足。
于山島を根拠にして竹島が韓国領であると主張することはできないという意味であって、
于山島を否定すれば韓国の主張を全て否定できるということではないです。

215修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/23(土) 16:40:49 ID:/XJTTU3k
朝鮮半島が色々と動いているので国立歴史民俗博物館編『「韓国併合」100年を問う』を読んでいる。気になった論文をちょっとまとめてみる。

具仙姫「1880〜90年代における朝清朝貢関係の性格」
 朝鮮が日本と締結した日朝修好条約(江華島条約)は、表面的には独立国同士で結ばれる条約だった
 →伝統的に受け継がれてきた朝鮮と清の朝貢関係、日本との近代国際法的関係という性格の異なる国際関係が併存
 1882年8月、朝清商民水陸貿易章程→前文で朝鮮が清の属邦であることを明文化。朝鮮は、単に朝貢関係の再確認だと考えていた
 →しかし清の李鴻章は、伝統的朝貢関係の属邦概念を、近代の属国概念へと変質させようとしていた
 朝清商民水陸貿易章程は不平等条約→朝鮮の市場は外国の商人に解放。清の船が朝鮮の港を警備・防衛するなど→朝鮮と清の伝統的朝貢関係は実質的に瓦解
 清と日本はロシアの南下を危惧していた→日本の井上馨は、ソウルに駐在する清の代表として有能な人物を要求→1885年10月、袁世凱を派遣
 袁世凱は朝鮮に対し、清との関係を以前のように維持すれば富国自強できるが、そむけば滅びると言った
 朝鮮に対する清の圧迫が強まると、朝鮮政府は反清政策を推進→朝鮮政府は袁世凱の召還を李鴻章に要請
 →朝鮮の高宗は、李鴻章は伝来的な朝貢体制のもとで朝鮮政策を推進し、袁世凱は李鴻章の朝鮮政策にそむいていると誤認していた
 1890年、朝鮮の大王大妃死去の際、清の勅使を拒絶しようとしたが清の強圧で失敗に終わる
 清は朝鮮が清以外の国から募債することを阻止、清が直接朝鮮に借款を貸与した→朝鮮は清への経済的隷属状態に→清のやり方は近代植民地のやり方
 清は朝貢関係で貫徹していた属邦関係を利用して朝鮮を近代国際法的な属国にしようとしていた。日本は属邦問題を取り上げた→日清戦争のきっかけ
 日清戦争後、朝鮮を近代植民地にしようとした清に対して朝鮮は、対等なレベルでの条約締結を要求→1899年、清と対等に韓清通商条約を締結
 日清講和条約で朝鮮と清の朝貢関係が撤廃されたというのは、清と日本の間でのはなし。朝鮮からすれば、1882年の朝清商民水陸貿易章程で朝貢関係は瓦解している
 朝鮮と清の対等関係が実現したのも日清講和条約ではなく1899年の韓清通商条

朝貢関係での属邦と近代的な属国は違うというのは最近では色々な本でも出てきているけれど、ここを理解できていないと近代以降期の外交関係はトンチンカンになっちゃうんだよね

216修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/24(日) 12:19:15 ID:/XJTTU3k
松尾尊兊「大日本主義か小日本主義か」
 韓国併合直後の大正政変期に小日本主義は顕在化する→日露戦争後の経済不況の中で帝国主義の放棄を主張→第一次世界大戦がおこったことで、小日本主義はおさまっていった
 原敬首相は朝鮮議会の設置を排除し、内地延長主義をとった→日本本土同様な制度を布くことで同化を行う→一方で朝鮮総督府内部から朝鮮議会設置構想が主張される
 →構想された朝鮮議会は自治機関ではなく、新たな日本の統治機関にすぎなかったが、それでもまともに議論されなかった
 『東洋経済』の石橋湛山は、一切の植民地と勢力範囲の放棄を主張していた→大日本主義による支配は日本経済に貢献しない、むしろ戦争を招くおそれがあると主張
 →早く捨てる方が、被圧迫民族の支持が集まり、経済・国防の安全が確保されるとも主張していた
 三浦銕太郎は、韓国併合を日本の罪悪と認め、朝鮮独立の意義を強調

今回の銀英伝じゃないですが、占領地域の支配を行うにはそれだけ経済や資源が必要になるわけで、
むやみやたらに拡大していくのは危険なんですよね

217修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/25(月) 18:42:02 ID:/XJTTU3k
内海愛子「日本は植民地支配をどう清算したのか」
 2010年に成立したシベリア特措法案では、シベリアに抑留された韓国人たちは給付金支給から排除されている
 1948年12月、生き残った朝鮮人シベリア抑留者2300人(シベリアに抑留されていた朝鮮人は7700〜1万人と推定されている)は北朝鮮に送還された
 →そこからさらに38度線をこえて南に戻った人は約500人→韓国ではスパイと疑われ拷問を受けた者もいた
 東京裁判で植民地支配の責任は問われなかった。BC級戦犯裁判では戦犯になった朝鮮人(148人)もいたが、日本の援護措置からは排除されてきた
 捕虜収容所の事務、監視などの業務は朝鮮人が担っていた→BC級戦犯裁判では、捕虜虐待が徹底的に追及された
 →BC級戦犯になった朝鮮人はスガモプリズンに送られたが、ほとんどの人はそれが初めての日本であり、釈放で見ず知らずの地に放り出された
 戦犯になった朝鮮人や遺族たちは韓国でも親日派と罵倒されてきた。韓国政府が戦犯も被害者だと認定したのは2006年

218修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/27(水) 18:39:29 ID:/XJTTU3k
永原陽子「「韓国併合」と同時代の世界、そして現代」
 日本による韓国併合は、世界史上で、新たに植民地を獲得したという意味でほぼ最後。先に植民地支配を開始していた国々は、このころ体制の方向転換を模索し始めていた
 →イギリスは、南アフリカ連邦、オーストラリアやニュージーランドなどを一定程度自立した領域として切り離した
 第一次世界大戦後、ドイツとオスマン帝国の領土は国際連盟の委任統治下におかれた→列強の植民地支配とは異なる理念を掲げた
 →住民の福祉を理念として掲げ、個別の国が自らの意のままに支配するわけにはいかなくなった
 世界的な植民地体制は福祉や開発を打ち出したが、抵抗を予防するための方策は精巧になった→南アフリカではアパルトヘイト
 敗戦で植民地を失った日本では、植民地支配の問題が視野に入らざるを得なかったが、ヨーロッパでは植民地独立は喪失と被害の経験として記憶された
 →植民地支配が文明化・近代化をもたらしたとする認識は一般的だった→90年代以降、アフリカ諸国やアフリカ系住民から植民地支配の責任を問う声があげられるようになった
 2001年、ダーバン会議→植民地支配を断罪しようとする国々と、欧米諸国との間で激しい応酬(アメリカの代表は会議をボイコット)
 →宣言文書は奴隷貿易・奴隷制を人道に対する罪と認め、植民地主義に遺憾の意を表明した
 ナミビアの人々の声を受けて、ドイツは2004年、ドイツ帝国が行ったことはジェノサイドにあたると認め、謝罪した。07年、補償と言える資金提供も約束した
 →ただし、ドイツ統治時代に比してはるかに広汎な犠牲をもたらした南アフリカ統治時代の植民地責任への問いかけは表面化していない
 日本の植民地責任を問うさい、日本と韓国、日本と中国、というような個々の国家間の関係にとどまらず、世界史的な同時性の中で、考えることが必要

219修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/28(木) 18:23:47 ID:/XJTTU3k
小沢弘明「新自由主義・新帝国主義・「韓国併合」」
 19世紀を古典的自由主義の時代、20世紀を社会的自由主義の時代ととらえ、1970年前後に新自由主義が出現し、90年代なかばに体制として確立したとする時代認識
 →20世紀の福祉国家体制は解体され、所得の再分配機能は放棄された。新自由主義の時代はファシズムの時代より長期となっている
 新自由主義の本質は新帝国主義→自由主義の名のもとに展開される帝国主義。帝国主義が近代化の名のもとに展開されたことと連続性がある
 韓国併合は、他の帝国の植民地を参照して行われている

220修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/16(月) 14:56:26 ID:/XJTTU3k
岡本隆司『世界史序説』を読みました。何十年も西洋中心史観ではいけないと歴史学会は言っている割にいまだに西洋中心史観ではないかという怒りが著者にはあり、それを克服するためにこの本を書いたように思われます。
まず、古代ギリシア・ローマはオリエント(旧メソポタミア文明)の後継者であり、それをヨーロッパだとするのはおかしいと主張しています。さらに言えばインドもオリエントの後継者である。
また、キリスト教もオリエントから生まれた宗教であり、ローマカトリックが昔から中心であったかのように言うのもおかしいとしています。もともとキリスト教の中心は東ローマ側であると。
イスラムがヨーロッパを圧迫してたと考えるのはまさにヨーロッパ中心史観で、イスラムはむしろオリエントを再び統一したのだし、ユーラシア大陸の東西を安定させたのはイスラムと中国の唐王朝だとしています。
ただ、モンゴルが滅びて以降はユーラシアを1つにするような動きは歴史的に現れなくなります。その代わり、大航海時代で今まで完全に脇役だった西ヨーロッパが主役に躍り出ることになります。
しかし、大航海時代の初期に活躍したイタリア・スペイン・ポルトガルもオリエントと関わる国だった。イタリアは地理的にオリエントの影響を受けており、スペイン・ポルトガルはもともとオリエントに支配されていた。
だから、オランダが大航海時代の主役になった時こそが歴史の大きな転換点だったようです。
ではなぜ、オランダやイギリスがこの時代に発展できたのか。それは西ヨーロッパは領土も小さく、経済的に豊かでなかったからこそだとしています。
経済的に豊かでないから政治と経済が一体となった仕組みを作っていかなければならなかった。しかし、ペルシアや中国は領土も大きくもともと豊かだったから政治と経済を一体化させた制度をつくる必要がなかった。
ここで登場するのが日本で、日本も西ヨーロッパと同じように領土が小さくもともと豊かな国ではなかった。だから政治と経済を一体化させた仕組みをつくる必要があった。
その点で西ヨーロッパと日本は共通点があり、だからこそ日本は西洋風の近代化を達成できたし、それこそが絶対的に正しいのだと思い込んでしまったのだとしています。

この本で語られていることは実はそこまで新しいことでもないように思います。ただ、今後成果意思を考えていく際には西洋中心史観にならないような視点が必要だと思いますね。

221修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/17(火) 18:28:42 ID:/XJTTU3k
岡本隆司さんは上の本と同時期に『近代日本の中国観』も出しています。
この本では最初に石橋湛山の小日本主義が取り上げられているのですが、手放しで評価されがちな湛山の小日本主義について再検討をしています。
戦後の視点から見れば間違いなく正しかった小日本主義がなぜ当時は受け入れられなかったのか?という視点で岡本さんは書いているのですが、
湛山は中国の内部構造にまで踏み込めていなかったという評価をしています。
当時でも中国の専門家はいたわけですが、湛山は日本の利益について語っており、中国については語っていなかった(語れなかった)ので説得力がなかったのではないかと評価しています

222修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/21(土) 17:38:02 ID:/XJTTU3k
武田知己「日本外務省の対外戦略の競合とその帰結」(「年報日本現代史」編集委員会『検証アジア・太平洋戦争』2011年)
 30年代の外務省の主流はアジア派。メンバーの中核は有田八郎と重光葵→アジア派と対立したのが革新派、白鳥敏夫が中心
 アジア派以外の主要メンバーは欧米派。幣原喜重郎や広田弘毅など
 白鳥は満州事変拡大の過程で幣原外交と訣別し、事変の拡大を支持した
 欧米局長東郷茂徳の国際情勢判断→東郷はリアリスト、イギリスとの協調に可能性を見出し、日英関係を通じて対米関係の改善を構想
 東郷はソ連との不可侵条約締結を強硬に主張→これを締結すればアメリカの警戒心も緩和されると考えていた
 重光の構想→東郷が中国本土への進出を戒めていたのに対し、重光は満州国周辺への勢力拡大を目指していた。アジア・太平洋をアメリカと分割することも考えていた
 重光路線への批判→中国通の外交官は中国の国家統一を日本は援助すべきだとしていた。東郷も重光を批判
 ただ、重光らアジア派の路線は、欧米派や革新派と緩やかに提携していく→アジア派と欧米派は英米協調・反ソで共通性。東郷もイギリスとの協調で共通性
 →革新派は対ソ戦争を辞さないという点以外で重光の路線とほぼ同じ
 →重光の路線は日中全面戦争開始で挫折する→英米を敵に回してしまった。重光は中国との戦争など想定していなかった
 →重光の路線は、ソ連・中国内部の共産勢力との対立を利用して英米と協調すること

223修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/22(日) 10:05:33 ID:/XJTTU3k
鹿錫俊「日独伊三国同盟をめぐる蔣介石の多角外交」
 蔣介石の基本方針は、日本以外の全ての国と友好関係を結ぶというもの→ドイツが満州国を承認して以降は、ドイツを区別するようになる
 想定外の事態→独ソ不可侵条約、欧州戦争でドイツが快進撃→蒋介石外交は、どっちつかずの静観になる
 日本が独伊と同盟条約を締結するという第一報→蔣介石にとっては望んでいた局面→ただ、ソ連がどのような態度をとるのか計りかねている
 →日独伊三国同盟については沈黙し、日本を南進に向かわせる方針になる。国民党は共産党との対決にそなえて戦力を温存する方針
 →日本のみを敵国とする方針を堅持、欧州戦争に介入しない、ドイツによる日中戦争の調停を拒否しない、ソ連の態度表明を待つ
 日独伊三国同盟は日本が公式に独伊陣営に参加したことを意味する→英米は日本を牽制するために中国を支えなければならなくなる
 中国共産党だけは英米と提携してはいけないと主張→蔣介石はソ連の意志によるものと見た→蔣介石はソ連の援助を獲得したかったが、ソ連に支配されることは避けたかった
 ただ、蔣介石は独ソ関係は破綻すると予測、ソ連が日独伊に対抗することを期待していた。欧州戦争も英が勝つことを予測→対日平等講和の可能性を見出す
 →蔣介石は日本を甘く見ていた。日本は蔣介石の予測とは違う方向に進んでいく→ただ、日本との講和以外は蔣介石の試みは大方成功している
 →英米の援助獲得、ソ連の動向予測は当たった、欧州戦争でドイツが苦境に陥る予測も当たった→日本側の予測は蔣介石の予測より認識が甘かった

224修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/23(月) 18:39:10 ID:/XJTTU3k
手嶋泰伸「海軍の対米開戦決意」
 日本の南部仏印進駐→アメリカの経済制裁(石油禁輸、在米日本資産の凍結)→海軍は対米戦を現実的に検討。海軍で強硬な意見を持っていたのは、永野修身と中堅層
 海軍省首脳部は対米戦に極めて慎重。海軍が要求していたのは万一のための準備→時間をかせぎつつ、石油を獲得する手段が現れることを期待した
 →ただ、対米戦に消極的な発言をすると軍備整備に遅れが生じるというジレンマから、ストレートに対米戦反対の意思表示ができなかった
 帝国国策遂行要領では、期限の10月15日がきたら何らかの行動を起こさねばならないとなっていたので、対米戦に慎重な勢力は焦っていた
 10月17日、近衛内閣は閣内不一致で総辞職する→東条内閣に嶋田繁太郎が海相として就任
 10月30日、嶋田は開戦不可避と判断している。嶋田の政治力では対米開戦の流れは覆せないという判断。嶋田は国際情勢の好転にも期待していなかった
 →開戦責任は海軍単独の責任ではないということも、あっさり対米開戦を決意させた要因

225修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/24(火) 18:52:45 ID:/XJTTU3k
春日豊「戦争と財閥」
 日中戦争の拡大・長期化→三井は政府要請に応じて重化学工業投資を急増させる。41年4月30日には、三井化学工業が設立された
 →国策に呼応しつつ三井内の事業を整備し、国家的援助を引き出しつつ重化学工業への進出を強化した
 三井は、日本の中国占領地域の拡大とともに、軍・官の出資要請に応じて対中国投資を増大させていった
 日中戦争以前の三井財閥本社は借入金がまったく無かった→日中戦争以降、状況が一変する
 →組織改革。三井本社設立、事業体制の再編成→戦後の企業グループの萌芽が形成される。企業間の株式相互持ち合い、中核銀行の融資
 →ただ、財閥解体までは本社と三井家が圧倒的に株式を所有していた
 組織改革で三井同族の経営への関与は後退していた→ただ、三井本社社長は三井同族会議長→財閥解体の意義は大きい

226修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/25(水) 18:46:24 ID:/XJTTU3k
戸ノ下達也「音楽のアジア・太平洋戦争」
 日中戦争期、音楽も国家による統制がなされた→出版統制、公的流行歌である国民歌の発表
 アジア・太平洋戦争初期は音楽も攻めの諸相、戦意高揚。健全娯楽としてクラシック音楽がその象徴となる
 1943年になると、演奏に対する規制も顕著となる→米英楽曲の演奏禁止、クラシック音楽にも一部規制→真珠湾攻撃で一気にアメリカ文化が排撃されたわけではない
 1944年、大都市の多くの劇場が閉鎖される
 オフィシャルでない歌(替え歌)では、国民の本音が歌われていた

227修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/26(木) 18:39:59 ID:/XJTTU3k
官田光史「「応召代議士」をめぐる前線と銃後」
 大政翼賛会内部グループの清新クラブは東条内閣を支持。過去の政党政治を批判して当選したグループ→しかし、翼賛会の主導権が旧二大政党系の議員にあることに不満
 →東条内閣の提出法案に激しく抵抗→清新グループの濱田尚友らは召集される→濱田の選挙区民にとっても深刻な問題→地元の要望に応える人がいなくなる
 濱田は硫黄島に送られ一旦帰ってきている→選挙区民の感情的にも、陸軍省は濱田を2度も硫黄島に送ることはできなかった
 →議員に復職した濱田は、自らを硫黄島の戦友の代弁者だとして兵器の増産を求めた
 濱田は岸信介の新党結成の動きに呼応→翼賛会へ脱退通告書を提出→濱田の選挙区の選挙を無効とする判決が下ったので、濱田は岸グループの護国同志会には参加できず
 →再選挙。選挙では、戦友とともに国家の苦難に立ち向かう自分をアピールした→濱田は再選→護国同志会に参加
 戦後、東条内閣による懲罰召集を乗り越え、戦局の実相を伝えようとした濱田という政治家のイメージができあがる

228修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/09/30(日) 17:23:28 ID:HdaWEsTU
成田龍一『「戦後」はいかに語られるか』を読みました。
「戦後」を歴史としていかに語っていくかを考えている本です。まだ、こう語っていくべきだという結論は著者にも出せていないようですが。

『ゴーマニズム宣言』も『永遠の0』も『小さいおうち』も祖父・祖母と孫の話であって「戦後」世代である父母の話が消去されているというのは、なるほどなと思いました。
現政権や現政権シンパは「戦後」を全否定するような言動を繰り返しているし、だからこそ「戦後」をしっかりと歴史的に位置づけていかなければいけないのだろうと思いましたね。
ただ、著者もあとがきで、「「戦後」を変えつつ、しかし「戦後」を破壊する権力の暴挙を批判するという、ねだれともだえがある」と書いていますが、
『三丁目の夕日』みたいに「戦後」のある時期を美化するようなことは避け、新しい時代を考えながらも「戦後」を全否定するようなことは避けるということが必要なのでしょう

229修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/10/15(月) 22:14:04 ID:HdaWEsTU
三谷博『維新史再考』を読みました。
幕末から明治初期までの政治史をかなり丁寧に書いてあるというところがこの本の特徴なのかな。
特定の人物や大名(藩)を英雄視せずに公儀(幕府)や藩の動きをそれぞれ丁寧に描いているというところも特徴なのだろう。
ただ、「再考」とまで言っていいのかは疑問、帯に「維新史観を根底からくつがえす」と書いてあるのも疑問。
幕府が色々と考えていたということは結構知られてきていると思うし。
まぁ、長州が幕末の政治史的にはろくな活躍をせず、ただただ混乱を引き起こしていただけというのが分かるのはいいけど。
あと、鹿児島に多大な犠牲をもたらした西郷が英雄視され、大久保が非難されているのが謎と著者が書いているのもよかった。
それにしてもこの本、いきなり人類の移動から始まり、世界史の話になって、江戸時代がどのような時代かをくどいぐらいに書いてから幕末が始まるので、なかなか本題が始まらない。
しかも、最後に再び世界史の話に戻るので風呂敷を広げまくっている気がしてしょうがない。
あと、「維新史再考」と言うぐらいならむしろ庶民視点こそ必要だったのではないか。政治史の話だけだと、いうほど「再考」してないような

230修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/10/21(日) 16:41:48 ID:HdaWEsTU
岡本隆司『歴史で読む中国の不可解』を読みました。
歴史のことを知らずに中国のことを語っても深みがないということを危惧して多くの本を出している著者の新しい本。
日経から出しているということでサラリーマン向けに書いたとことであろうか。

内容としては、現在の日本の基準、考え方というのは西欧近代的なものなので、それを唯一の基準として中国を見てはいけないのだということだと思う。
中国には「中華思想」というかなり長い基準、考え方があるのであり、社会主義国家になっても文化大革命があってもその考え方は実は変わってない。
それを理解しなければ中国のことはいつまでも理解できないということなのだと思う。
面白かったのは、ロシアも西欧近代的な考え方ではないと主張しているところ。
ロシアもモンゴルの系譜につながる国家なのであって、ヨーロッパだけれども西欧近代とは違うのだというところはなるほどなと思わされましたね。

231修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/11/07(水) 21:43:29 ID:HdaWEsTU
本郷恵子『怪しいものたちの中世』を読みました。
中世という時代は、権力が弱く「セーフティネット」と呼べる者もなかったので、人びとは宗教の力に頼るしかなかった。
しかし、宗教の中核にいる人たちは庶民と接することはない。庶民と接するのは、現代人からすれば「怪しい」宗教者達だった。
そんな「怪しいものたち」に注目した本…ということなのですが、内容的には段々違う方向に進んでいきます。
怪しいものの話というよりは、時代の表舞台に立てなかった不遇な人たちの話になっていきます。
そういう意味では少し残念な本ですが、平安末から鎌倉初期の政争を知りたい人にはお勧めの本かもしれません。

ところで、権力が弱く「セーフティネット」も無かったから宗教に頼ったのが中世だとするならば、
近世は権力が強く「セーフティネット」も(一応)存在するようになった時代だった。だから、宗教の力が弱くなったと考えることもできそうですね。

232オリバ:2018/11/08(木) 12:08:04 ID:BdrAuH5Q
ttps://is.gd/zFczvD

233修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/01/06(日) 17:42:32 ID:E3jCVgGk
最近は『応仁の乱』が売れたことをきっかけにちょっとした日本中世史ブームらしいですが、
日本中世史の学会の世界では有名だけど一般的にはあまり知られていないであろう「権門体制論」の論文を読んでみました。
僕もちゃんと読むのは初めてでしたが、江戸時代までのことを考えた内容だったというのははじめて知りました。
簡単にまとめると中世は天皇が国王だが、絶対的な権力を持つものは天皇を含めて存在しない時代。近世は天皇が国王でなくなり、絶対的な権力を持つ存在がいる時代ということでしょう。

黒田俊雄「中世の国家と天皇」
 権門勢家(権威・勢力のゆえに国政上なんらかの力をもちえたいくつかの門閥家)が国政を支配する国家体制→権門体制。天皇家・貴族・寺社・武家が権門勢家
 権門の経済的基礎は荘園制的土地所有
 公家・寺家・武家、どの権門も独自に国家全体を掌握するだけの勢力を確立するまでにはいたらない→王位を簒奪することではなく、国王を交代させることで国政を掌握する
 権門は、官職として国政に参加するのではなく、権門勢家であることをもって国政に関与する→権門体制の第1段階は院政。上皇という存在は律令にはない
 →第2段階は鎌倉幕府。幕府は公家・寺家と相互補完的。守護は国王の名で幕府に所管されている、幕府の地方官ではない
 →守護・地頭を幕府の地方官とし、官衙の役人や国郡司と対立する存在として単純に説明することはできない
 ただ、官人は天皇の名によって任免されるが、天皇は自由な任免権をもたず、権門の競合と妥協によって決められる。天皇の権力は、無力であり、形式的なもの
 →院政を始めたときにはじめて、権利行使能力を得る
 天皇の政治的地位の形式化が著しくなると神国思想が広まる。天皇の権威は宗教的尊厳性に依拠するものとなる
 後醍醐天皇の建武政権は上皇・摂関家・幕府など権門を一切否定した→権門体制の否定→しかし、権門的支配者は存在し、領地は安堵された
 室町幕府も1個の権門。守護大名も中央権力と依存関係にある。ただ、幕府以外の権門は政治的にも経済的にも幕府に従属して存続している
 →国家権力の主要な機能は幕府が掌握。ただ、公家・寺社は儀礼など幕府では果たせない機能をもっていた→権門体制を克服していない
 →権門体制が荘園制とともに消滅するのは、事実上幕府が存在しなくなる応仁の乱のとき→職豊政権、江戸幕府はあらゆる領主を従属させる強力な封建王政として君臨する
 →この時代では、天皇は国王の地位にはない

234修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/01/06(日) 17:46:06 ID:E3jCVgGk
ちなみに、権門体制論批判として存在するのが「2つの王権論」でこちらの説では国王は天皇と将軍の2人いるということになります

235修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/02/19(火) 22:39:32 ID:E3jCVgGk
松沢裕作『自由民権運動』を読みました。
まぁ西郷どんの後の話とも言えますかね。

この本の論調としては、江戸時代が終わった後、どういった国をつくりあげていくかという流れがあって、
政府内では主流になれなかった人たちが自由民権運動で自分達が主導権を握ろうとした。それに期待した人々がいたから盛り上がったということだと思います。
この評価は正しいと思いますね。
そんな自由民権運動は、国会開設にしても憲法制定にしても政府に先手を打たれてしまい、何もすることができなかった。
そうして自由民権運動は終わったということのようです。

著者はあとがきで、2011年以降に起こったデモと自由民権運動を重ねつつ、自由民権運動の失敗などから学ぶことがあるのではないかとしていますが、これも同感かな

236修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/03/04(月) 22:43:30 ID:E3jCVgGk
高橋修『熊谷直実』を読みました。
熊谷直実って源平合戦の後に出家してたんだね。初めて知った。

直実は「武士」とは呼べないような身分だったようだけど、頼朝の前では御家人としてみんな平等であるという考えで戦っていたけれど、
源平合戦後、実際は御家人の間に差があったという現実から頼朝のもとを去ったようですね。
あと、殺人を生業とすることへの罪悪感も出家の理由としては考えられるようですね。

237修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/04/07(日) 23:02:32 ID:E3jCVgGk
福田千鶴『後藤又兵衛』を読みました。
後藤又兵衛について、数少ない史料から確実に言える事だけを検討した本です。

なぜ、又兵衛は豊臣方として戦ったのか?という理由は示されてはいませんが、
黒田は江戸時代の大名として変化して生きていくことができたが、又兵衛は戦国時代でしか生きられなかったということは本のなかで示されているように思います。
又兵衛に限らず、大坂の陣で豊臣方として戦った人たちは戦国時代でしか生きられなかった人たちなのかもしれません。
「真田丸」は、そういう視点でつくられていたように思う

238修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/06(月) 23:45:39 ID:ddOzpFck
岡本隆司『腐敗と格差の中国史』を読みました。
おそらく、現在の中国近現代史研究者ではトップクラスの位置にいる著者の新たな一札。
今回は主に「腐敗」をテーマにしながら、中国の官僚について周の時代から現代までを論じています。

「腐敗」とは汚職などを指すわけですが、元来中国では「官吏」の「官」と「吏」が分かれていて、そこには大きな格差があったのだということが一番重要になってきます。
「官」は管理職みたいな人達の事で、正式な給料をもらってはいますが、ぎりぎり生活ができるかできないかの額しかもらっていませんでした。
「吏」は実務を担当する人たちなのですが、なんと彼らは給料を一切もらえない立場だった。しかし、彼らがいなければ当然支配は行えない、特に「吏」になるような人たちは地方のことをよく知っている人達だったりするので余計に重要な存在になっている。
しかし、給料はもらえない。何より「官」もたいした額はもらっていない。だから、賄賂というかたちで民衆からお金を取らなければいけなかった。というか、そうしなければまともに地方の行政は成り立たなかったとのことです。

著者は以前から中国社会は上と下が大きく分離した社会だということを論じていますが、それは今回の本でもそうで、中央と地方、官吏内部と官吏と民衆がいかに大きく分離していたかということを論じています。
そしてこれも著者が以前から論じていることですが、孫文も毛沢東も上下の分離状態を何とかして改革しようとしたが、いずれも失敗し、現在に至っているのだとしています。

とりあえず、紋切り型の嫌中本を読むぐらいなら、岡本先生の本を読もう

239レト:2019/05/21(火) 22:33:46 ID:5xDgiNaU
幻冬舎社長の騒動がきっかけでウェブ出版のメリットについての議論が活発化してるけど、
編集者の存在意義はともかくピンハネするような悪質な出版社が淘汰されていく良い機会かもしれない。

240修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/22(水) 19:58:32 ID:ddOzpFck
ワンマン社長の悪さが一番典型的に出たケースでしたね

241修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/22(水) 21:00:31 ID:ddOzpFck
苅部直『「維新革命」への』道を読みました。
簡単に言えば、明治時代の文明開化は江戸時代の段階で準備されていたのだという内容になります。
江戸時代の思想家の考え方、社会のあり方、それらが既に文明開化への準備を整えていた。
商業の発展をどう考えるか、いろいろな考え方が江戸時代にあったのだということも分かります。
面白かったのは、幕末のオールコックの日本評。「豊かで幸福だがfreedomのない社会」、そうオールコックは言っています。
一応、明治維新で「自由」は与えられるわけですが、その自由が「freedom」だったのかは気になるところですね。
というか、戦後改革を経た現代日本の「自由」は「freedom」なのでしょうかね

242修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/06/09(日) 22:02:07 ID:ddOzpFck
坂井孝一『承久の乱』を読みました。
『応仁の乱』が売れて以降、中世の戦乱を扱った本がたくさん出ましたが、これもその1冊。
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした戦いだと思われているが、実際は北条義時を倒そうとした戦いなのだというのがこの本の1番の主張でしょうか。
源実朝が将軍としていた時は、朝廷と幕府の関係はとても良かった。しかし、実朝が暗殺され、北条氏が権力を握ると幕府は朝廷のコントロールをどんどん離れていった。
だから、後鳥羽上皇は北条氏を倒そうとしたのだが、北条氏の方が一枚上手。上皇は幕府を倒そうとしているのだという論理にもっていって御家人達の支持を得、一気に上皇軍を倒したということのようですね。
承久の乱後の動きがとても重要で、鎌倉幕府が出来た段階では幕府の方が朝廷より上というような状態でもなんでもなかった。
それが承久の乱後、幕府は完全に朝廷の上になり、後醍醐天皇の時期があったけれども、基本的には大政奉還まで幕府はずっと朝廷よりも上の立場にいた。
そういう意味で、承久の乱はとても重要な戦いだったということですね。

243chi:2019/06/22(土) 04:43:32 ID:HJWBqy3g
  再投稿 沖の島 祭祀の研究図書目録

*河瀬文庫「宗像・むなかた沖の島展」1977
*河瀬文庫「古代沖の島の祭祀」・「東大三十余年」著者・発行 井上光貞1978
*河瀬文庫「海の正倉院 宗像沖の島 古代の旅3」著 弓場紀知(ゆばただのり) 平凡社1979
*河瀬文庫1576 抜粋「宗像市史第1章」旧石器時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 平ノ内幸治1997
*河瀬文庫1577 抜粋「宗像市史第2章」縄文時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 清水比呂之 木下尚子1997
*河瀬文庫1578 抜粋「宗像市史第3章」弥生時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 安部裕久1997
*河瀬文庫1579 抜粋「宗像市史第4章」古墳時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 原俊一 花田勝広1997
*河瀬文庫1580 抜粋「宗像市史第5章」特色ある古墳文化・付宗像地域考古文化財文献一覧『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 原俊一 白木英敏 大澤正巳 田中良之 本田光子 木下尚子 花田勝広 松本肇 岡崇1997
*「沖の島と津屋崎古墳群」重住真貴子 池ノ上宏 ・「古代の福岡」 アクロス福岡文化誌編纂委員会2009
*「沖ノ島」・「伊勢神宮と三種の神器」著 新谷尚紀 講談社2013

244chi:2019/06/22(土) 06:05:59 ID:abphGKwQ

○縄文人とは九州北部の鬼刀禰(オオトネ)族
鬼刀禰族は、西アジア・アフリカでシュメール人と呼ばれ。古代支那では倭国(鬼・オオ)やツングースなどの十支族同盟。現在の日本でアジア北方騎馬民族と呼んだ。彼らは北極星を知っていて、古代の舟(貴布禰)を操りヨーロッパ・アジアを含め、七つの海を巡った。北極星を中心に一周する恒星を観て「一年」を知り。製鉄を行い、米・麦を刈り取る「鎌」を造った。製鉄遺跡を調べると、「通風こう、出入り口」は遺跡内部より夜空を見ると「外側が円や真四角であったら」中心に北極星がある。これは、北極星に近い恒星が時計の短針となっている。エジプトのピラミットも、前方後円墳の円(半球体・通風こう)も同形。この形は、台風、サイクロンの接近を知らせてくれる。吹き込む「音」(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド)の最後の音の「ド」。彼らは音(声)に感謝して「土偶」を祀っている。明治から昭和のはじめに東北地方で偽物がたくさん作られたが、見分け方は「青年女性で口を開き声出ししている」これが土偶。名は「雨 カンムリ 龍」。読み方は「オカミ・古事記(於迦美娘)」。「オカミ」発見場所は日本だけでなく、インドの遺跡やメソポタミアの遺跡から。外務省のデータのサイクロン発生と進行状況を地図表されたものと「オカミ」発見遺跡とが、線上にある。紀元前15世紀、メソポタミアで千年続いた最初の王朝は、インド北部からやって来た「戦車に乗り鉄剣をもった者」に滅ぼされた。ユダヤ・ソロモン王(紀元前12世紀)に「鉄は赤い土から採る」の名言もある。話が時間的に前後するが、花粉の権威、高知大学・中村純教授らによると、福岡市博多区の「板付遺跡」の近郊・近隣地層から発見された「花粉」は3700年前に水耕栽培があったとしている。注)稲の花粉は一度水中に入っても、動き出すので、そこに田があったとは、言えないが、花粉の直径(厚さ)から自然界の物でなく、人手による物としている。このことは、紀元前17世紀には九州北部に文明開化していた事になる。昼、北極星に向けられた穴の前の広場でガラス(レンズ)で「火」を熾し「製鉄」の業をした。のちの人々は、たたら製鉄と呼んだ。

 鬼刀禰族は「たたら製鉄」を業うまえに「金(昆)刀比羅の社」を建立した。

245chi:2019/06/22(土) 06:19:04 ID:abphGKwQ

「板付遺跡」を探る・図書目録   
*河瀬文庫3914-142「板付周辺遺跡調査報告書1福岡県福岡市博多区板付」福岡市教育委員会1974
*河瀬文庫3915-142「板付周辺遺跡調査報告書2福岡県福岡市博多区板付」福岡市教育委員会1975
*河瀬文庫2814-111「板付 上巻(本編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫「板付 下巻(本編図版・付編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫「板付 下巻(付編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫3286-122「板付」県道505号線改良に伴う発掘調査報告書 福岡市教育委員会1977
*河瀬文庫 401-14「古代の顔」開館10周年 図録第7集 福岡市立歴史資料館1982
*「最古の農村 板付遺跡」著 山崎純男 新泉社2008

246chi:2019/06/22(土) 06:31:18 ID:abphGKwQ
「オリエント」を探る・河瀬文庫「オリエント学会図書目録」
*河瀬文庫773-4「オリエント 第18巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1975
*河瀬文庫774-4「オリエント 第18巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1975
*河瀬文庫775-4「オリエント 第19巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1976
*河瀬文庫776-4「オリエント 第19巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1976
*河瀬文庫0114「オリエント 第20巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫1354「オリエント 第20巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫0115「オリエント総目録」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫1355「オリエント 第21巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1978 P13〜23「テル・サラサートⅡ号丘出土の女性土偶について・メソポタミアの土偶」堀晄。
*河瀬文庫0116「オリエント第21巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1978
*河瀬文庫1357「オリエント 第22巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1979
*河瀬文庫778-4「オリエント 第22巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1979
*河瀬文庫1358「オリエント 第23巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫1360「オリエント 第23巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫1361「第23巻 附録 資料室所蔵欧文雑誌目録 Ⅷ」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫0117「オリエント 第24巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1981
*河瀬文庫780-4「オリエント 第24巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1981
*河瀬文庫781-4「オリエント 第25巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1982
*河瀬文庫782-4「オリエント 第25巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1982
*河瀬文庫783-4「オリエント 第26巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1983
*河瀬文庫784-4「オリエント 第26巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1983 P61〜74「ある未発表のファーラ時代の土地購入契約文書・紀元前第三千年紀半ば 土地あるいは家屋の売買契約」ネンド版 五味亨。
*河瀬文庫785-4「オリエント 第27巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984
*河瀬文庫786-4「オリエント 第27巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984
*河瀬文庫788-4「オリエント 第28巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫1362「オリエント  第28巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984

247chi:2019/06/22(土) 06:35:51 ID:abphGKwQ
「オリエント」を探る・河瀬文庫「オリエント学会図書目録」②
*河瀬文庫0118 「オリエント 第29巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫1364 「オリエント 第29巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫789-4「オリエント 第30巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫790-4「オリエント 第30巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫791-4「オリエント 第30巻別巻総目録」発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫792-4「オリエント 第31巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1988
*河瀬文庫793-4「オリエント 第31巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1988
*河瀬文庫794-4「オリエント 第32巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1989
*河瀬文庫1365「オリエント 第32巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1989
*河瀬文庫1366「オリエント 第33巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1990
*河瀬文庫795-4「オリエント 第33巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1990
*河瀬文庫796-4「オリエント 第34巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1991
*河瀬文庫161-2「オリエント 第34巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1991
*河瀬文庫797-4「オリエント 第35巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1992
*河瀬文庫798-4「オリエント 第35巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1992
*河瀬文庫0119 「オリエント 第36巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1993
*河瀬文庫799-4「オリエント 第36巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1993
*河瀬文庫787-4「オリエント 第37巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1994
*河瀬文庫800-4「オリエント 第37巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1994

248chi:2019/06/22(土) 08:52:15 ID:vmKSualw
「遠賀川・筑後川」「博多」「壱岐・対馬」を探る・図書目録。
*河瀬文庫1700「嘉穂地方史 先史編」編集者 児島隆人 藤田等 嘉穂地方史編纂委員会1973 P249〜255福岡県筑穂町「小瀬隈土壙墓」遺物の「刀」。P497〜499 503〜506筑穂町大分「大分廃寺」。
*河瀬文庫「嘉穂地方史 古代 中世編」編集者 川添昭二 表現研究社 嘉穂地方史編纂委員会1968
*河瀬文庫556「研究紀要 8」 竹中岩夫氏収蔵資料の紹介(4)福岡県遠賀郡芦屋町山鹿貝塚採集土器の紹介(2)北九州市立考古博物館2002
*河瀬文庫364「九州考古学 第67号」 西平式土器に関する諸問題-福岡県築上郡築城町所在,松丸遺跡(D地区)出土縄文土器の位置づけ 九州考古学会1992
*河瀬文庫664「九州考古学 第70号」 広形銅矛の鋳造技術に関する二・三の研究-連結式鋳型の製品を中心にして 九州考古学会1995
*河瀬文庫「筑穂町誌上巻」福岡県嘉穂郡筑穂町 2003
*河瀬文庫「北九州市史 総論 先史・原始」北九州市1985 P839金刀比羅山;八幡東区八王寺町
*河瀬文庫「筑後市史 第1巻」筑後市1997

*河瀬文庫0942「博多」著 武野要子 岩波書店2000

*河瀬文庫194-8「壱岐・原の辻遺跡 国指定特別史跡」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2002
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター18」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2004
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター23」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2005
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター30」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2008
*河瀬文庫2811-111「対馬の考古学」 木坂石棺群:長崎県上県郡峰町大字木坂 著 坂田邦洋 縄文文化研究会1976
*河瀬文庫2805-111「対馬越高尾崎における縄文前期文化の研究」別府大学考古学研究室報告第三冊 長崎県上県郡上県町大字越高字尾崎 著 坂田邦洋 広雅堂書店1979

249chi:2019/06/22(土) 08:57:11 ID:vmKSualw
「大分 国東(クニサキ)」を探る・図書目録。

*河瀬文庫1293-14「み仏の里国東半島を訪れる人々へ」国東半島観光協会 (発行年不明・登録2011)
*河瀬文庫2744-107「国東町文化財調査報告書・大分県東国東郡国東町大字成仏」国東町教育委員会1972
*河瀬文庫1849「羽田遺跡(A地区)国東富来地区県営圃場整備事業関係発掘調査概報」国東町教育委員会1987
*河瀬文庫682「羽田遺跡(I地区)国東富来地区県営圃場整備事業関係発掘調査報告書」国東町教育委員会1990
*河瀬文庫「国東地区遺跡群発掘調査概報 1由井ヶ迫製鉄炉跡・安近炭窯跡」国東町教育委員会1990
*河瀬文庫237「国東由井ヶ迫遺跡地区遺跡群発掘調査報告書」国東町教育委員会1997
*河瀬文庫3347-126「浜崎寺山遺跡県営圃場整備富来南部地区関係発掘調査報告書」国東町教育委員会1993
*河瀬文庫662国東町「飯塚遺跡東国東郡広域連合総合文化施設建設に伴う発掘調査報告書」国東町教育委員会2002
*河瀬文庫2201大分県西国東郡香々地町「香々地の遺跡 1過ノ本遺跡・御霊遺跡・信重遺跡」香々地町教育委員会1994
*河瀬文庫3600-135「姫島用作(ひめしまようじゃく)遺跡大分県東国東郡姫島村」姫島村教育委員会1991
*河瀬文庫「国見町の考古資料縄文時代編」国見町教育委員会1987
*河瀬文庫「伊美崎遺跡大分県東国東郡国見町所在遺跡の発掘調査報告書」国見町教育委員会1989
*河瀬文庫2366「遺跡が語る大分の歴史大分県の埋蔵文化財」大分県教育委員会1992
*河瀬文庫2415「先史時代の日韓交流と大分水稲農耕文化の伝播と成立」大分県教育委員会1994
*河瀬文庫26-1「豊後府内南蛮の彩り 南蛮の貿易陶磁器」大分市歴史資料館2003
*河瀬文庫「大分県史 先史篇1」大分県1983

250chi:2019/06/22(土) 21:06:42 ID:IlHuHeSA
*河瀬文庫0068「インド考古学の新発見」B.K.ターバル著、 訳 小西正捷(まさとし),小磯学 雄山閣出版1990 この中でダーイマーバード出土品13銅製の象,14サイ,15水牛,16 2頭の牛に引かれた御者付き車。(戦車)、リンガヴェーラブラ:ハーリーティーの出土品25土偶(鬼子母神)。
*河瀬文庫0464「シベリア極東の考古学1」著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 岩本義雄 ほか 河出書房新社1975 鉄器時代P306〜316.
*河瀬文庫「シベリア極東の考古学2 」著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 萩原眞子ほか 河出書房新社1982
*河瀬文庫「シベリア極東の考古学3」 著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 岩本義雄 ほか 河出書房新社1983

*河瀬文庫「研究論集Ⅵ」奈良国立文化財研究所学報第38冊1980 日本古代の鬼面文鬼瓦 毛利光敏彦P29〜65 東北アジアのツングース民族{願い事を形にして屋根の上にあげ魔除けや福を呼ぶまじないとして永く親しみ愛されてきた}。

*「鬼瓦 ルーツを尋ねて」著 平田芳蔵 東京書籍2000 鬼瓦は世界に拡散①アジア古代支那・モンゴル・シベリア。②古代支那・インド経由(陸路&海路)でメソポタミア・ヒッタイト、ギリシャ、イタリア。③海路太平洋・大西洋よりメキシコ・アステカ。④海路太平洋、南半球ニュージーランド。

251chi:2019/06/22(土) 22:22:56 ID:IlHuHeSA
投稿250
小アジアのトルコからギリシャ、イタリアの伝播は、「鬼瓦」から「屋根飾り瓦」に変化している。
単なる「ヘレニズム」による伝播だけでなく。縄文人=鬼刀禰(オオトネ)人の影響も大きい。
また古代支那の三国志時代の孔明や張飛の扱う青銅剣の時代に「鬼刀禰人」は「オビ川」河口付近に到達。そこで「たたら製鉄」の業・実施。遺跡より鉄器の発掘がある。ということは、メソポタミア、シベリア、オビ川河口では、川砂鉄が採れ、古代支那には川砂鉄が採れなかった事がわかる。

252chi:2019/06/22(土) 22:33:17 ID:IlHuHeSA
「花粉」を探る・図書目録 再投稿

かふん 「岡山県津島遺跡の花粉学的研究」藤則雄・「考古学研究 第16 巻第2号(通巻62号)」考古学研究会 1969
かふん①「花粉分析」著 中村純 古今書院1967
かふん②「花粉は語る 人間と植生の歴史」著 塚田松雄 岩波書店1974
かふん③「花と花粉の世界」著 岩波洋造 玉川大学出版部1977
かふん④「花粉の世界をのぞいてみたら 」宮澤 七郎/監修 -- エヌ・ティー・エス 2012
かふん⑤「花粉が語る多様な食物」・「史跡でつづる 京都の歴史」門脇禎二 編 法律文化社1977
かふん⑥「世界で一番美しい花粉図鑑」著 マデリン・ハーレー ロブ・ケスラー 監修 奥山雄大 訳者 武井魔利 創元社2011

253chi:2019/06/24(月) 00:17:31 ID:eTgCSwak
国名に「中国」を使用するのに「違和感」有り
1300年前「記紀」「萬葉集」「出雲國風土記」が書かれる前、勢力分野。鬼(おお)族は、二大勢力。①鬼刀禰(おおとね)族。出目は九州北部。金属を生産。主に川砂鉄から「たたら」で鉄生産。多量の木炭を使用する。最低80人くらいで、土を半球状に盛り上げ通風こうをもうけ、中をくりぬいて、生産場所、生活場所とした。稲作の米と鉄器(鎌・刀剣)を貴布禰(古代の舟)で大陸や韓半島へ輸出した。
②鬼山衹(おおやまつみ)を祀り、米の生産や魚・貝を採った。保存のきく米は大陸や韓半島へ輸出した。住んだのは、①の残した穴。この集団を「出雲族」・「物部族」と呼んだ。この集団の住む地域を「穴津國(なかつくに)」、「記紀」「萬葉集」「出雲國風土記」を書き上げるのに墨の倹約・節約から「中國(なかのくに)」した。「中」は日本でつくられた名。「国名・中国」は、古代・出雲にあたる。明治政府は、「古事類苑 外交部」の中で、「古代支那」の表記。

・最初書「古事記」を観ると、「出雲族」。――>「八十神」。「出」の字を書くのに、1「八」を書き、2「十」を書き3「一」を書いた。
・「魏志倭人伝」を読むと「刺青(いれずみ)」をしている。貢物をもってきた人を裸にする訳がないので、顔に「龍」の文字の「刺青」。墨の倹約・節約から「龍」の文字は「神」に書き換えている。
・住人がいなくなった製鉄遺跡に「ヤドカリ」のように住んだ。それで、「ウ カンムリ 八」――>「穴(なか)」。出雲族の住んだ地域を「穴津國(なかつくに)」としたが、墨の倹約・節約から「中國(なかのくに)」。古代出雲族の住んだ地域を「中國」。「穴」も「中」も日本でつくられた文字。
アジアの「あの国」は「古代支那」がよい。「元都知事・石原慎太郎」氏と明治政府の考えは違う。

254修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/06/27(木) 22:08:46 ID:ddOzpFck
倉本一宏『内戦の日本古代史』を読みました。
日本の弥生時代から後三年の役まで、古代の戦乱を扱った本です。

特に面白かった部分を2点、1点目は平将門と藤原純友についてのところ、少しまとめておきます。
2人が国家に対して反逆行為をおこなっていたのは、天慶年間の3ヶ月から1年半のことに過ぎない。
戦闘に参加した兵士の数も多数ではない。純友は恒常的に戦闘行為を行っていたわけではない。
日本古代においては、これくらいの規模の内戦が最大級。しかも、将門や純友は一方的に謀叛だと騒ぎたてられ内戦に至った存在だった。

2点目は前九年の役・後三年の役のところから、「おわりに」までの部分。
この戦乱になると急に大量虐殺や残虐性が登場してくる。この時期に作者は時代の転換点を見ています。
武士は本来貴族であったのに、暴力集団となっていく。しかもその暴力集団が政治の中心を担っていく。
明治維新後も、武士は善、貴族は悪というようなイメージが出来上がる。しかもそのイメージは現在でも続いたまま。
どうしてそうなってしまったのか?それを解き明かさなければいけないというのが作者の一番の主張のようですね。

255chi:2019/07/07(日) 15:50:50 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。①

*「升田幸三名局集」日本将棋連盟 販売元 マイナビ2012
*「古事記傳」1(古事記の一之巻〜六之巻) 、2(七之巻〜十四之巻)著 本居宣長 1764年(明和元年)に起稿し1798年(寛政10年)に脱稿した。版本としての刊行は1790年(寛政2年)から宣長没後の1822年(文政5年)当館では古事記傳1〜5有。
*「野竹遺跡群 広島県三良坂町文化財調査報告書第5集」広島県三良坂町教育委員会2002
*「百済滅亡と古代日本」―白村江から大野城へ― 著 全榮來(ジョン ヨンラエ)2004
*「お江戸でござる」杉浦日向子(すぎうらひなこ)監修 新潮社2006
*「杉谷遺跡群 三良坂町文化財調査報告書」 第6集広島県三良坂町教育委員会2003
*一部写し「石見の郷土史話上巻」編著者 山根俊久 石見郷土研究懇話会1978
*「大田植の習俗と田植歌 牛尾三千夫著作集2」著 牛尾三千夫 名著出版1986
*「備中神楽」衣装の色彩 著 坪井有希 吉備人出版2011 P50陣羽織の金刺繍をめぐる図柄展開(明治〜昭和)表。 坪井有希[ツボイユキ] 1980年岡山市生まれ。徳島大学大学院人間環境研究科修了。民俗学、文化人類学を学ぶ。在学中よりカラーの勉強をはじめ、企業タイアップ作品選考会で佳作受賞。Web関連会社勤務。
*「金髪碧眼の鬼達」著 中村昴コウ JDC出版2015 読み;きんぱつへきがんのおにたち 副題;鬼・天狗・山姥は白人的特徴を持っていた
*「古代イラク」ナショナルジオグラフィック考古学の探検 著 ベス・グルーバー 監修 トニー・ウィルキンソン 訳 日暮雅通 BL出版2013 2つの大河とともに栄えたメソポタミア文明。
*「古代アフリカ」ナショナルジオグラフィック考古学の探検 著 ヴィクトリア・シャーロー 監修ジェイムズ・デンボー 訳 赤尾秀子 BL出版2013 400万年前の人類と消えた王国――巨大大陸の謎を追う。
*「奥備後の民俗」著 山田次三 山田次三遺稿集刊行会1979
*「徐福と日本神話の神々」著 前田豊 彩流社2016 「じょふく」。
*「森と神と日本人」著 上田正昭 藤原書店2013
*「塩・ものと人間の文化史07 」著 平島裕正 法政大学出版1995(初版1973)
*「賤民の異神と芸能」――山人ヤマビト・浮浪人ウカレビト・非人―― 著 谷川健一 河出書房新社2009
*「君田村史」君田村1991
*「古代の光通信」著 横地勲イサオ 図書出版のぶ工房2004
*「江戸時代 人づくり風土記35山口」農山漁村文化協会1996
*「荘園史研究ハンドブック」編 荘園史研究会 東京堂出版2013
*「神話に隠されている日本創世の真実」著 関裕二 文芸社2005
*「三次地方史論集」著 堀江文人 三次地方史研究会1979
*「三次の歴史」編 三次地方史研究会 菁文社1985 執筆者 藤村耕市・米丸嘉一ヨシカズ・新祖隆太郎シンソリュウタロウ・向田裕始ムカイダユウジ。
*「三次郷土史の研究」著 藤村耕市 三次地方史研究会2008 P82三次町の成立と旭堤。
*「歌人たちの遺産」著 池田勇人イケダユウト 文芸社2011 よみがな「うたびとたちのいさん」。
*「鬼瓦 続 ルーツを尋ねて」著 玉田芳蔵 東京書籍2009
*「江戸時代人づくり風土記 6山形」農山漁村文化協会1991
*「日本のうた 第5集」野ばら社1998 昭和53〜63年
*「日本のうた 第6集」野ばら社1998 平成01〜07年
*「日本のうた 第7集」野ばら社2001 平成08〜12年
*「金属伝説で日本を読む」著 井上孝夫 東信堂2018
*「古里の民話と伝説 改訂版」著 池峠繁治 池峠英夫 菁文社1998 著者;いけとうはんじ広島県甲奴郡総領町。著者;いけとうひでお広島県甲奴郡総領町。
*「熊 ものと人間の文化史144」著 赤羽正春 法政大学出版局2008
*「日本抒情歌全集 3」編著者長田暁二 オサダギョウジ ドレミ楽譜出版社2001(初版1997)
*「江戸時代人づくり風土記 15 新潟」農山漁村文化協会1988 監修 牧野昇 会田雄次 大石慎三郎 編纂 加藤秀俊 谷川健一 稲垣史生 石川松太郎 吉田豊。

256chi:2019/07/07(日) 15:58:55 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。②

*「山怪 1 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2015 SANKAI。
*「山怪 2 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2017
*「山怪 3 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2018
*「荘園 日本史小百科」編 安田元久 東京堂出版1993(初版1978) P234島津庄しまづのしょう;日本最大の荘園。建久八年(1197)に作成された「図田帳ずでんちょう」によると、総田数八千七百余町から成る。日向、大隅、薩摩にまたがる、「近衛家領の荘園」。
*「マタギ奇談」著 工藤隆雄 山と渓谷社2016
*「伝承怪異譚」著 田中螢一 三弥井書店2010 聞き取り収集収録地島根県全域(出雲・石見・隠岐)。
*「海の熊野」編 谷川健一・三石学 森話社2011
*「世界で一番美しい花粉図鑑」著 マデリン・ハーレー ロブ・ケスラー 監修 奥山雄大 訳者 武井魔利 創元社2011
*「武士と荘園支配」著 服部英雄 山川出版社2004
*「寺社と芸能の中世」著 安田次郎 山川出版社2009
*「杉 1・ものと人間の文化史141」著 平島裕正 法政大学出版2010
*「杉 2・ものと人間の文化史141」著 平島裕正 法政大学出版2010
*「紫式部の父親たち 中級貴族たちの王朝時代へ」著 繁田信一 笠間書店2010
*「日本のうた 第4集 1965〜1978」野ばら社1998 昭和③40〜53年。
*「土偶のリアル」著 譽田亜紀子こんだあきこ 監修 武藤康弘 山川出版社2017 絵 スソアキコ。
*「日本抒情歌全集 2」編著者 長田暁二オサダギョウジ ドレミ楽譜出版社2001(初版1991) 編集協力 (株)パイン・プロデュース。
*「江戸時代人づくり風土記 1 北海道」農山漁村文化協会1991 監修 牧野昇。会田雄次・大石慎三郎 編纂 加藤秀俊・谷川健一・稲垣史生・石川松太郎・吉田豊。
*「図説 日本古地図コレクション」著者 三好唯義タダヨシ 小野田一幸 河出書房新社2014(初版2004) 
*「古代史の思い込みに挑(いど)む」著 松尾光ヒカル 笠間書店2018

257chi:2019/07/07(日) 16:09:05 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。③

*「演目別にみる能装束 一歩進めて能観賞」著 観世喜正・正田夏子 撮影 青木信二 淡交社2004
*「神社の至宝 洋泉社MOOK 別冊歴史REAL 2017年1月16日」発行 洋泉社 執筆者 小倉一邦カズクニ・渋谷申博ノブヒロ。
*「江戸時代 人づくり風土記17石川」農山漁村文化協会1991
*「本瓦葺の技術 復刻版」監修 太田博太郎 著 井上新太郎 彰国社2009(初版1974)
*「風呂で読む 万葉挽歌 湯水に耐える合成樹脂使用」著 上野誠 新潮社1998
*「万葉びとの奈良」著 上野誠 新潮社2010
*「京都 鬼だより」著 梅原猛 淡交社2010
*「東アジア世界と古代の日本」著 石井正敏 山川出版社2003
*「紫式部と平安の都」著 倉本一宏 吉川弘文館2014

258chi:2019/07/07(日) 16:11:19 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。④

*「能のちから 生と死を見つめる祈りの芸能」著 観世銕之丞カンゼテツノジョウ 青草書房2012
*「恋する能楽」著 小島英明 東京堂出版2015
*「古代文字で遊ぼう」著 鈴木響泉 発行 可成屋 発売元 木耳社2005
*「墨のすべて」著 為近磨巨登 木耳社2010 ためちかまこと。
*「日本の書と紙 古筆手鑑[かたばみ帖]の世界」編者 石澤一志 久保木秀夫 佐々木孝浩中村健太郎 三弥井書店2012
*「江戸時代 人づくり風土記 5秋田」農山漁村文化協会1989
*「三次地方史研究 第1号」編集発行 三次地方史研究会1987
*「江戸の天文学 渋川晴海と江戸時代の科学者たち」監修 中村士ナカムラツコウ 角川学芸出版2012
*「古代の星空を読み解く キトラ古墳天文図とアジアの星図」著 中村士 東京大学出版会2018
*「紫式部伝 その生涯と[源氏物語]」著 角田文衞 法蔵館2007 つのだぶんえい; 1913年4月9日 - 2008年5月14日)は、日本の歴史学者(古代学専攻)。文学博士。従四位勲三等。大阪市立大学教授、平安博物館館長兼教授、古代学研究所所長兼教授、財団法人古代学協会理事長を歴任。 研究分野は文献史学と考古学の両分野で、その論考には日本・東アジア・ヨーロッパ・北アフリカ(地中海世界)にまたがる幅広いものがあった。 福島県伊達郡桑折町出身。成城高等学校在学中から濱田耕作の学問を慕い、京都帝国大学に進学し濱田の指導により考古学を学んだ。濱田の在職中での病没と、梅原末治との確執が無ければ、濱田の後継者となっていたとの説もあるほど将来を期待された学徒であった。 世界史的な視座に立って考古学と文献史学を統合した「古代学」を提唱。主要な研究テーマは、日本の奈良・平安時代史、古代学方法論、古代ギリシア・ローマ考古学、ヨーロッパ・アフリカの旧石器考古学、ユーラシア北方考古学など広範囲に及ぶ。 妻・有智子は陸軍大将・岸本綾夫の次女であり、手塚治虫とは義理のいとこに当たる。
*「世阿弥の中世」著 大谷節子 岩波書店2007 成城大学 文学研究科 / 国文学専攻職位:教授 学位:博士(文学),京都大学,2003年03月 専門分野:中世文学 主な担当科目:中世文学 最近の研究テーマ:能、狂言 研究内容:能及び狂言を中心とする中世日本文学。享受史、文化史の問題としての、謡曲研究。 略歴:1988年、京都大学大学院文学研究科国語学国文学専攻博士後期課程退学 学位:博士(文学) 主要業績:[著書]『世阿弥の中世』(岩波書店、2007年) 『無辺光 片山幽雪聞書』(共著、岩波書店、2018年) [編著]『伊藤正義中世文華論集』第一巻 謡と能の世界(上)(和泉書院、2012年) [論文]「狂言「拄杖」と『無門関』第四四則「芭蕉拄杖」」(『成城国文学論集』第41集、2019年)「狂言「八句連歌」の「をかし」——狂言と俳諧連歌——」(『国語と国文学』95巻9号、2018年)「毘沙門堂本古今集と能「女郎花」「姥捨」」(『中世古今和歌集注釈の世界——毘沙門堂本古今集注をひもとく——』、勉誠出版、2018年)「狂言「かくすい」考」 『成城国文学論集』第三十九集、2017年)「世阿弥、その先達と後継者——融をめぐって」(天野文雄編『世阿弥を学び、世阿弥に学ぶ』(2016年、大阪大学出版会)「狂言「釣狐」と『無門関』第二則「百丈野狐」」(『禅からみた日本中世の文化と社会』ぺりかん社、2016年)「弘安元年銘翁面をめぐる考察——能面研究の射程——」(『能面を科学する』勉誠出版、2016年)「世阿弥自筆本「カシワザキ」以前——宗牧独吟連歌注紙背「柏崎」をめぐって」(『国語国文』83巻12号、2014年)「「頼政」面を溯る——能・狂言面データベースの可能性——」(『デジタル人文学のすすめ』勉誠社、2013年)「細川幽斎と能」(『細川幽斎——戦塵の中の学芸』笠間書院、2010年)
*「源氏物語事典」編集 林田孝和 原岡文子 他 大和書房2002
*「能のおもて」著 中西通 玉川大学出版部1998
*「新源氏物語1上」著 田辺聖子 新潮社1985(初版1984)
*「新源氏物語2中」著 田辺聖子 新潮社1984
*「新源氏物語3下」著 田辺聖子 新潮社1985(初版1984) 主な参考文献下記のとおり。
・山岸徳平校注 「源氏物語」<日本古典文学大系>岩波書店刊
・阿部秋生、秋山虔、今井源衛校注・訳「源氏物語」<日本古典文学全集>小学館刊
・石田穣二、清水好子校注「源氏物語」<新潮日本古典集成>新潮社刊
・円地文子訳「源氏物語」新潮社刊
・谷崎潤一郎訳「源氏物語」中央公論社刊
・与謝野晶子訳「源氏物語」<日本の古典>河出書房新社刊
解説者 石田百合子。
*「田辺聖子全集第1巻」集英社2004

259::::2019/08/04(日) 21:30:51 ID:5nhpwGXA
あげ

260修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/09/20(金) 19:26:02 ID:3Lreac3U
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』を読みました。
現在の歴史学が、「武士」がどのように誕生したのかを説明できていない事に絶望した著者が武士の起源論に挑戦した挑発的な一冊です。

著者の主張をまとめると、武士というのは弓馬術に優れた人達の事で、その術を学ぶことが出来たのは中央貴族と地方郡司層だった。百姓がこのような技術を学ぶことはない。
地方の収奪を目論む中央貴族と中央貴族の血統を求める地方郡司層、この2つが結びつくことで武士団が生まれた。
ただ、彼らに武士という名前を与えたのは朝廷(滝口武士)で、その点では朝廷の役割も重要だった。

中央と地方の対立という視点、弓馬術という視点はおもしろく、今後の武士起源論において論争の種になる一冊なのかなと思いました。
中央と地方の対立だけで説明できるのかとか思う面もありましたが、面白かったです。

261修都:2020/04/05(日) 16:49:21 ID:2jZy2d7Q
久々にここを使う。

山田朗『日本の戦争Ⅲ 天皇と戦争責任』を読みました。
昭和天皇の史料としては『独白録』と『実録』があります。どちらも貴重な史料であることは変わりませんが、
昭和天皇=平和主義者というストーリーに成り立っているということを理解し、何が書かれていないのかを分析することが重要だということが分かりました。

昭和天皇が政治に口を出した事例としては田中義一首相辞職と2・26事件が有名ですが、それ以外にも多く口を出していたということがよくわかりましたね。
特に沖縄戦では、もっと積極的に反撃すべきと昭和天皇が言ってたりもしていたようです。

あと、日本には社会主義・共産主義以外に共和勢力というのがいなかったので昭和天皇をマッカーサーが理解するしかなかったという話も興味深かったです。
少年天皇にするつもりもなかったので、昭和天皇退位論者であった近衛文麿は戦犯になり自殺したという話もあり得るなぁと思いました。

262修都:2020/04/05(日) 16:50:17 ID:2jZy2d7Q
>>261
×理解するしかなかった
〇利用するしかなかった

263修都:2020/06/20(土) 20:14:59 ID:2jZy2d7Q
岡本隆司さんや木村幹さんが執筆者にいるのが気になって購入した『日本近現代史講義』
なんとこれ、自民党の勉強会で行った講義をまとめたものなんですね。執筆者が現実主義的な人ばかりなのはそういうことか
しかし、「特定の歴史観やイデオロギーに偏らず」というのを売りにするのはどうなのか。
自民党向けに現実主義の学者たちが行った講義をまとめた本は「特定の歴史観やイデオロギーに偏」っていないのか?
それ以上に気になるのは、一部自民党議員も現実主義の学者たちですら主張しないことを自分たちは主張しているということを分かってて言っているのではないかということ
まぁ自民党議員全員がこの勉強会に参加してたのかは知らんが

264修都:2020/06/24(水) 21:54:33 ID:2jZy2d7Q
『日本近現代史講義』の木村幹「日本植民地支配と歴史認識問題」が植民地というものについてわかりやすくまとめていくれていますね。
日本の植民地支配は西洋とは違うんだということを主張する人達がいるけれど、そもそも植民地支配とは何か?をちゃんと理解しているとは思えないということを木村さんは言っているわけです。

日本は西洋と違って朝鮮に大規模な投資を行ったという主張があるが、それはあの時代の植民地支配では当然のことである。
ただただ搾取するだけの時代はその前の時代であって、日本が西洋を見習っていた時代にはもはや西洋でも植民地に大規模な投資が行われるようになっているということですね。

また、そもそも植民地とはどういった場所を指すのかということも解説してくれています。
これは1つのことで説明できるようです。
つまち、本国とは違う法が適用されているということ。
台湾や朝鮮では明らかに日本本国とは違う法が適用されていたということですね。

265修都:2020/07/26(日) 14:37:33 ID:y7S32/wE
岡本隆司『「中国」の形成』を読みました。
岩波のシリーズ物の最終巻で、清王朝から現代までを論じています。

清王朝は、多元的な中国を多元的なまま地方に任せて支配することで、東アジアに安定と平和をもたらしました。
中央政府と地方の政治・経済はまとまっていなかったのですが、それでも安定はしていました。
それが決定的に崩壊してしまったのは西洋の進出、そして日清戦争でした。
近代的な1つにまとまった国家をつくらなければいけなくなったのです。
しかし、清王朝にその力はなく、中央支配の強化に地方が反発した結果、軍閥化や「独立」が進むことになります。
辛亥革命以降、中国を1つにまとめることを一気に進めたのは中国共産党でした。
中華人民共和国は、海外の経済に頼ることが出来なかったので、自前の経済制度をつくる必要があり、そのことが社会経済を1つにすることを進めたわけです。
しかし、未だに中国が1つになっていないことは説明するまでもなく皆さんお分かりでしょう。

今の中国が清王朝の時代に戻ることは難しそうですが、果たしてどうなっていくのか、そんなことを考えさせられる1冊です

266イル:2020/09/01(火) 05:05:51 ID:cxJJ3dxw
マガジン連絡変更いってこおい

267修都:2020/10/09(金) 18:18:12 ID:RDu1ZCCo
岡本隆司『教養としての中国史』を読みました。

近年、必ず毎年1冊は中国史の本を出す著者の新しい本。
まぁ基本的に言ってることは、どの本でもほとんど変わらないのだが、この本では講義調の文章になっている。
著者の主張としては中国の3つの特徴がある。
「官民乖離(政治と民衆の間が離れすぎている)」、「コミュニティへの強い帰属意識(国家よりコミュニティ)」、「一つの中国(ばらばらだからこそ一つになることにこだわる)」
以上の3つは、どの本でも言っていることであり、これを理解できなければ中国を理解することは難しいということですね。

内容的には、そんなに異論はないのだけど、ちょっと気になったのは気候の話かなぁ。
元が滅んだのは寒冷化だったという話はどこまで実証できるんだろうとは思った。

268修都:2020/10/17(土) 12:51:57 ID:y7S32/wE
早島大祐『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』を読みました。

今年の大河放送にあわせて出された本の1冊ですね。
タイトルに牢人医師とありますが、それについての記述は最初の方のみになります。
当時は武士に医術の知識が必要だったが光秀は特に豊富だったのではないかということですね。

謀反に関しては、光秀は異例の出世を遂げた1人だが、織田政権が段々と織田一族を中心に据える組織になっていくなかで、光秀の立場が段々と苦しくなっていたことにあったのではないかとしています。
そう考えると、秀吉も織田政権では途中までしか出世しなかったのではないかとも考えられますね。

個人的に面白かったのは、裁判に関する部分。
織田政権の裁判方針は現状追認。正当なことが書かれた書類であっても現状を変えるものは採用されないというやり方だったようです。
普通に考えたら裁判としてはおかしいのですが、それでも織田政権の裁判が求められていたというのが面白かったですね。

269真ナルト信者:2021/02/10(水) 15:38:23 ID:???
▽ぶんしょうを狂きにしないための3のこつ(対人)文章の問題地図 上坂徹著
・「ありがとう」からはいーる
・かならずけーごにする
・よけいなかんじょうをのせない

ダメなれい「こんなことすら、わからないの?」「きいてませんよ」「みんながそういってるんです」
ほんらいのことはいがいにひにくなどめっせーじをこめようとしないとこです。

じんせいはおべんきょうのひいび


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