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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

173修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/25(月) 20:45:05 ID:byLobR8.
上横手雅敬さん(1931年生まれ)は、大学時代マルクス主義的な史的唯物論に違和感みたいなものを感じ、研究的にも無条件に武家政権を賛美すべきではないという考え方の人だったようですね。
承久の乱についての研究はなかなか面白くて、頼朝は公武融和的な考え方で3代将軍実朝はその継承者みたいなものだった。
一方で、実質的に権力を握った北条氏が自分たちの政治を成り立たせるためには御家人達の権利を保護する以外になかった。ましてや朝廷が権利の保護者となるようなことはあってはならなかった。
だから、北条氏と朝廷との融和は成り立つわけはなく、実朝の死などをきっかけとして承久の乱が起こった。しかしこの乱は後鳥羽院が前もって用意していたようなものではなかったから朝廷軍は幕府軍の敵ではなかった。
それでも、乱で滅亡したのはあくまでも後鳥羽院と一部の貴族だけで、外の貴族は影響を受けていないし、西国に地頭が設置されたのも数が増えただけで質的に変化があったわけではない。
むしろ数が増えたことで地頭の非法も増えたので、幕府は地頭の非法を抑止しなければならなかった。
鎌倉幕府は荘園制を破壊するようなことはしなかったんだという研究は面白いなと思いましたね

174P4:2017/09/30(土) 06:52:19 ID:gVk8kjHE
■お父さんが教える優しいサイエンス

2001年著なので情報的には古いけど、結構面白かった。
例えば
・水に含まれているカルキ。カルキ臭を消すためには沸騰させればいいが、沸騰させるとトリハロメタン(発がん物質)が発生するし、CO2が蒸発して清涼感が無くなる。
・軟水は含まれてるミネラル(CA/NA/MG/K)の量が少ないが、硬水はミネラルの量が多いけど下痢しやすい。
・河川や海を汚す油は、流した量を20万倍の量の水で薄めないと魚は住めなくなる。また、生活排水(N2/P)は海や河川を富栄養化して、植物プランクトンを爆発的に増加させ、水中の酸素を奪い、これまた」魚が住めなくなる。

・魚には硬い背骨を持つ「硬骨魚類(タイ・サバ)」と柔らかい背骨の「軟骨魚類(サメ・エイ)」がある。魚の生臭さは古くなり細菌が多くなったことにより発生する「トリメチルアミン」が原因で赤身魚より白身魚に多い。これは塩や酢で防げる。
・赤身魚は色素タンパク質の含有量が多く、酸素を多く体に取り入れることができ、疲れにくい。主に回遊魚(マグロ・サケ)・(クジラも持っている)。白身魚(タイ・スズキ)は疲れやすく、深い所であまり移動しない。
・背の青い赤身魚にはDHA・EPAが多く、これは血液サラサラ効果がある。頭もよくなるという噂も。

・渋柿は「ジブオール」が原因で、アルコールと温度を上げて柿に呼吸をさせてCO2と反応させることで「渋抜き」ができる。ただし80度以上の温度で熱すると再び渋柿に戻る。
・農薬を使わない栽培には「緑肥(豆と一緒に植える)」「合鴨農法(鴨を水田に放つ)」「不耕起栽培(放置する)」。化学肥料の代わりに「窒素固定細菌による豊土化」「雷によるN2の固定化」などの研究も。

この他にも「海を汚す漁法」「花粉症について」「地球温暖化」「ダイオキシン」「日本人の病気の原因について」「細胞のアポトーシスと癌」「材木について」「紫外線」「寄生虫」「免疫システム」「エイズ」「風邪・インフルエンザ」「口蹄疫」や「簡単な物理(仕事量・浮力など」「地震について」などなど書いてあります。
科学に興味のある子供にとっての入門の入門程度だけど、きっかけにはなると思います。もちろん大人が読んでも十分に面白いし暇つぶしになると思います。ただし、情報が古い(2001年著)から最新事情は自分で調べましょうw

175修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/07(土) 10:42:13 ID:byLobR8.
この本もまさに今こそ読むべきかなと思い福永文夫『日本占領史』を読みました。
文字通り、日本がアメリカに占領されていた時期のことについて論じた本なのですが、単純にアメリカに一方的に政策を押し付けられたという先入観を排し、日本本土とは違う戦後史を歩まされた沖縄のことについても触れていくという点がこの本の特徴でしょうか。

アメリカが民主化・非軍事化推進から転換して日本を反共の砦にしようとしたことは有名ですが、それも単純にそうなったわけではなく当初の路線を進めようとしたマッカーサーと政策転換・日本の再軍備化を進めようとしたアメリカ政府との対立もあったようですね。
ちなみにフィリピンとオーストラリアは日本の再軍備化に強烈に反対していたようですね。
吉田茂の自由党は最保守として見られていたようですが、吉田自身は経済優先のために再軍備化に反対し、そのために社会党の支援を求めたりもしていたようです。吉田自身は社会党が嫌いだったようですが。
ただ、公職追放から復帰してきた鳩山一郎らが自由党に戻ってくると改憲・軍備化を進めようとする勢力が同時に自由党内に存在するということになっていくわけですね。
民主党(改進党)は再軍備化には賛成だったようですが、経済政策的には資本主義を絶対視せず社会主義的な政策も必要だという考え方だったようで、芦田均は社会党を共産党の側に行かせてはいけないという考えだったようです。
そしてその社会党は右派と左派では考え方が大分違う点もあったようで、特に右派はほぼ保守という立場だったようですね。実はGHQが一番中道として期待していたのは社会党だったようです。
ただ、右派と左派は対立と分裂を何度か行い、最終的には右派の中心人物の1人だった西尾末広が民社党をつくるというところまでいきますね。
共産党に関しては政党として禁止される可能性もあったようですが、とりあえずは所感派が追放されるという形になったようですね。

あとがきで著者は、6年8ヶ月ばかりの占領で日本・日本人が駄目になったという考え方こそ自虐史観ではないかと書いているのですが、これは全くその通りだと思いますね

176P4:2017/10/10(火) 18:48:10 ID:gVk8kjHE
■筋トレが最強のソリューション(ソリューションとは解決策の事です)

ふと、本屋で見咎めて、立ち読みしていたら、内容が馬鹿馬鹿しくて笑えて楽しかったので投稿。
某漫画の「猫好きのマフィアのボス」のような作者キャラから笑ったわ。
笑えるけど本に書いてあることは多少大げさだけど、大体は合ってます。
実は昔、筋トレやっていて、同じようなことを思いました。筋トレ続けてると心が広くなるというか、妙な自信がついて、世界なんて何時でも取れるような気分になれます。

ストレスや悩みも吹き飛ぶのも合ってますし、少々のストレスやダメージなど蚊に刺されたくらいになりますw何かに悩んでいる人、鬱気味の人には医者に行くのもいいけど、この本に書いてあることを読んで実践してみてはいかがでしょうか。

ただ、スポーツするならラグビーやアメフトを・・・は無理!そこは同意できませんでしたw筋トレは体と心の薬になることは確かだと思います。無理はいけないけどね。

凄く、ラノベより読みやすい(早読みの人なら1時間ぐらいで読んでしまうだろうなあ)で笑える文章なので、お暇があったらどうぞ。なんかいっぱい同じ人の筋トレシリーズ本があるようですね。

177せき:2017/10/22(日) 18:50:55 ID:cOCjBrdw
ゾルタクスゼイアンの事はSiriに聞いてはいけない

検索してはいけないワード → bit.ly/2kJFRlx

178P4:2017/10/22(日) 21:51:32 ID:gVk8kjHE
とある本読んでいたら、勘違いに気付く。

例えば、「袖振り合うも他生の縁(絆を大切にしましょう)」を「多少の縁」とずっと思っていたり、
「ああ言えばこう言う(他人の意見を素直に聞かず、いちいち理屈をつけて言い返すこと」が実はことわざだったって事や
「南無三」は本当は「南無三宝(仏に救いを求めること)」で一か八か賭ける時の常套句だと思っていたり、
「美人薄命」は本当は「佳人薄命(美人または立派な人は幸薄く短命である)」で女性の美人以外にも使うとか、
その他に「大盤振る舞い」は「椀飯振舞」っても書くらしい。
多分まだ勘違いして使ったり覚えたりした言葉がありそうだw

あまり実生活に役立たない無駄知識だけど、話のタネにはなるね。

179なかよし:2017/10/24(火) 18:56:06 ID:cOCjBrdw
〇ウルトラマンジード
一種の胎内回帰みたいなもんか
ベリアル男だけど

検索で見られる ⇒ bit.ly/2kJFRlx

180園田英:2017/10/25(水) 00:28:43 ID:b/RTQnPw
>>178P4さん
その手のネタだと
・情けは人の為”のみ”ならず
人に情けかければ巡り巡って自分に返ってくる。
決して情けをかけて甘やかす事はその人の為にはならないと言うような意味ではない

…そしてこういう勘違いはするなはよく聞くが実際にこういう勘違いを見たことは無い
ついでにギブ&テイクでもない。見返りを期待するモンじゃないんだkら

・健全なる精神は健全なる肉体に宿れ”かし”
本来は健全なる肉体に健全ある肉体が宿れば「良いのにねえ(けど実際は)」
と言う皮肉を込めた言葉

体だけ上部で精神面がアレな人ほど好んで誤訳します

・天上天下唯我独尊
天の上にも天の下にも我(自分)というにおは唯独り。だから尊いのだ
という仏様のありがたい言葉

もう一般どころか商業でも誤訳氾濫。これが仏の言葉だと言うと
「え、仏様ってこんな恥ずかしい製革してるの(ププ)」
と反応する奴多数


後は爆笑とか破天荒とかかな

181ぺんぼー:2017/10/25(水) 22:27:22 ID:b2JT5ebk
個人的には、言葉の誤用は
誤用している人が多数派になれば
誤用じゃない認定をしてあげてもいいんじゃないかと思いますなー

極論であるのを承知で申し上げますと
言葉の変化ダメ絶対、というのは
類人猿のようにウッホウッホで話さなきゃ、というのと大して変わらない気が

でも敬語の使い方には気を付けよう!

182修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/25(水) 22:38:22 ID:byLobR8.
まぁ言葉の意味なんて100年前と今じゃ大分変わってますからね。
「正しい言葉」っていうのは絶対的なものじゃないですから

183園田英:2017/10/26(木) 00:12:55 ID:b/RTQnPw
>>181べんぼーさん
実際に誤用の方が正しい方より多数になり
正しい方が逆に誤用扱いされて駆逐されたってのもあるらしいです

自分も爆笑x笑うの更に上の表現→○”大勢で”笑う事
だと知ってもとても笑えることは爆笑と表現しますし

184うふふ:2017/10/26(木) 00:58:57 ID:w61nDR9.
「ブタもおだてりゃ木にのぼる」が諺じゃなかったと知った時の衝撃

185P4:2017/10/26(木) 02:34:14 ID:gVk8kjHE
ことわざや漢字や熟語の勉強をすると良く仏教用語に突き当たるなあ。
深い所で仏教と漢字は繋がってるのかなあ。

あと、健全なる精神は健全なる肉体に宿れかし”は元ネタはローマの詩人でしたか。
でも今は多分、健全な肉体には健全な精神が育つ的な意味で使っていいと思いますよ。

実際、体が健康的な方が性格いい人が多い気がします。病人や不健康な人で性格の良い人、気持ちいい人、爽やかな人にあまり会ったことはありませんし、まずは精神(こころ)も健康が基本。
少々お馬鹿(人に迷惑を掛ける馬鹿は除外)の方が斜めった人ひねくれ者より好かれますし、素直で正直馬鹿の方が話していて気持ちがいいものです(あくまでも持論)。
「衣食足りて礼節を知る」ってのも人間の本質(嫌な面だけど)をついてるなあって思います。

それに、体を丈夫にする体を鍛える健康を維持するってのはそれなりに辛くて苦労や努力がいるものです。それらが健康な精神の育成に結構影響を与えてる気がします。


あと「豚もおだてりゃ・・」の元ネタはアニメの「ヤッターマン」ギャグですねw

186幻獣ハンター:2017/10/29(日) 01:52:51 ID:mdR/LWI6
>>184-185
念のためですが「豚もおだてりゃ木にのぼる」はヤッターマン由来じゃないですよ。
元々地方にあった諺(というより言い回し)がヤッターマンで全国区になっただけです。
少なくとも自分はヤッターマン以前に聞いた事がありました。
しかしタイムボカン由来の「能ある豚は鼻隠す」をどういう意味ですか?と知恵袋で聴いているのも
衝撃だったがそれにもっともらしい回答(フランスの諺だと)をしている人がいて驚いた。
民明書房じゃないけど、あれ信じる人いるぞ。そして何十年か後には広辞苑に・・・
聞くなら「空からブタが降ってくる」を作詞した山本正之に聞くがよろしい。

187園田英:2017/10/29(日) 19:59:18 ID:b/RTQnPw
ジャンプならこれがあったな
汚名挽回 
キン肉マン(ガチ)
アイシル
「汚名を挽回されても困るんだがな」
「ええと…名誉返上で頑張るッス!」
「おい、誰かその猿に日本語教えてやれ」

188園田英:2017/10/29(日) 20:14:12 ID:b/RTQnPw
さて閑話休題(意訳;寄り道してるから本題戻ろう)

・人狼城の恐怖
犯人は恐らくアレ。と言うかアレしか考えられない
ただしそれを否定する展開あり

トリックの方は恐らく使うと読者に馬鹿にされるアレ…
しかし言外に「そのトリックは使用不能です」と言われてる

第一部第二部通して読むとおぼろ気に上記の問題点をどうしたか分かるが
それをやるには文字通りの”物理的障害”がある

と言うのを4部解決編で見事に解決します。いやあ壮大すぎて金田一にパクられるわけですよ
(金田一では○○を参考にしたとかありましたが)

只第一部ドイツ編、第二部フランス編で城に招かれた人物の共通点は?って謎の答えに
名探偵が「それはあまりに大きすぎて逆に盲点となった」偉そうに言った答えが

「彼らは皆ドイツ人(フランス人)だったのです」

は一寸…。それつまりドイツ(フランス)人なら誰でも良かったって事だし(実際そうだった)
日本の連続殺人モノで「被害者の共通点は全員日本人だ」とかほざいたら
かませ警察にすら「はいはい帰りましょうねえw」扱いされると思うぞ

189修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/29(日) 20:39:29 ID:byLobR8.
川添昭二『北条時宗』を読みました。
江戸時代から賞賛され、特に幕末以降はずっと賞賛され続けた時宗についての本ですね。
実際、元(モンゴル)軍を撃退した時の指導者だったわけで、その点での功績は大きいですが、時宗以降に得宗(北条氏嫡流)独裁専制体制が確立していったようですね。
あと、元の使者を無視したり切ったりしたのは元からすればめちゃくちゃだったわけで、さらにいえば元(モンゴル)軍とはいえ実質は高麗軍だったり南宋軍で士気も低かったので暴風がなかったとしても日本は勝てたんじゃないかと、この本を読んでたら思いましたね。
それにしても時宗のお兄さんの時輔かわいそう

190園田英:2017/10/30(月) 22:41:07 ID:b/RTQnPw
ああアレを忘れるとは
追記
ドイツ編ではロンギヌスの槍の探索もあり「その本質を考えなければ分からない」言われてたが
…第3部か第4部で詐欺グループの名前だけ主犯の髭親父処刑したとある小隊長さんのグチ話が載ってたが
これが一応ヒントらしかったがあれだけじゃ
「作者さん散々キリスト教作中で使ったくせに盛大にディスるなあ」としか思えないって
(前に使ったのも「先代神父はキリスト教よりも仏教が優れてるから改宗した。
それがこの修道院の最大の秘密だ!」だったが)

後「”妖精のように可憐””頼りな気なおどおど顔”…これは同じ表現です」
もどこがだ!?と突っ込みたい(とりあえず作者に表現能力が低い事は分かった)
どこぞのバッドマンとダースベイダーは似てるから誤魔化せると同レベルじゃねーか
(これの場合、聞き役が「そんな似てるの?」と問い突っ込み役が「気になるならウチでビデオ借りてください」
言ってるので分かってやってますが)

191P4:2017/11/02(木) 19:08:35 ID:gVk8kjHE
あれはヤッターマンのギャグじゃなかったんだ・・

教えてくれてありがとうございます。

192修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/03(日) 12:36:42 ID:mMM/Egmk
峰岸純夫『新田義貞』を読みました。
この本では、新田義貞は実直な東国武士が鎌倉幕府を滅ぼしてしまったために中央政界に躍り出ざるを得なくなり、足利尊氏とも対立してあっけなく死んでしまったという評価のようですね。
幕府を滅ぼしたのも、尊皇心があったとかそんな話では当然無く、北条氏先生の鎌倉幕府がいると新田家は守護になることはできなかったところに幕府の徴税の仕方に不満をもったということが大きな要因だったようですね。
面白かったのは、あまりにあっ気なく死んだので、太平記では悲劇性を盛り上げるために義貞の遺族の話を書いているというところかな

193修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/03(日) 18:05:21 ID:mMM/Egmk
井上智勝『吉田神道の四百年』という本も読みました。
明治時代まで神道界のトップに居続けた吉田家について論じた本です。
吉田家は戦国時代以降、勢力を強くしていくのですがその理由は、もののけ姫じゃないですがそれぐらいから人間が自然や宗教儀礼に手を加え出したからのようです。
というのも、人間がそういったものに手を出しても大丈夫だという理屈を考えたり神に対してお札や称号を与えたりする役割を吉田家が担っていたからのようです。
ただ、吉田家を有名氏にするために伊勢の御神体が自分達のところにやってきたということを言っていたので伊勢からは嫌われ続けていくことになるのですが。
吉田家は神をつくることも行っていたようで、秀吉も吉田家がいなければ神にはなれなかったようです。
家康に関しては仏教の説がだいぶ取り入れられてしまって吉田家としては面目を潰されたようですが、神職者を統括する役割を幕府から与えられて江戸時代においても神道界のトップにいるはずでした。
ただ、吉田家がそのような役割を担わされたことに不満をもつ神職者は伊瀬をはじめとして数多く、そのような神職者たちは吉田家の神道の考え方がいかに間違っているかを主張するようになります。
また、吉田家に対抗する存在としてかつぎされたのが白川家で、吉田家と白川家は勢力争いをはじめていきます。
吉田家が神職専門者だけを配下にしていたのに対し、白川家は神職専門ではないものまで神職者として配下にしていたようですが、吉田家も勢力争いのためにそうせざるを得なくなっていくようです。
そして近代へのつながりでいうと、幕府は仏教は統制下におくことはできたけれど実は神道に関してはそれができていない。
あくまでも神道は朝廷につながるものだった。しかも白川家が神職者をどんどん増やしたので結果的に明治時代になってから朝廷につながる神職者がすごい増えていたということになるようですね

194修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/09(土) 12:33:17 ID:mMM/Egmk
藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造』を読んでいます。まだ途中ですがなかなか面白いですね。
内容的には本能寺の変前後から始まっていますけど、まず足利義昭は信長の傀儡ではないという視点の本のようですね。
さらに言えば、義昭追放後も将軍の権威は無くなったわけではない。近年、本能寺の変は義昭と光秀が通じていたことから起こったと言われていますけど、これは妥当な見解かもしれませんね。
ちなみに光秀は農民に殺されますが、落ち武者狩りというのはむしろ勝者側が村を動員して行わせていたんだという考え方になってきているようですね。
そして義昭の権威が一気に落ちたのは賤ヶ岳の戦いのようです。というのも義昭が通じていた柴田勝家が負けてしまった。さらに義昭と通じていた毛利家が意思統一できず何も出来なかったということが大きかったようです。

話としてはここから小牧・長久手になっていくんですけど、小牧・長久手は天下分け目の戦いだったのだというのがこの本の視点のようです。
というのも、家康は軍勢的には明らかに劣っていたので色々な勢力に応援を要請していた。それに対して秀吉も色々な勢力に応援を要請した。
だから結果的には小牧・長久手の戦いは、小牧・長久手だけで戦闘が行われていたわけではなく、色々な所で家康方か秀吉方に分かれて戦っていた。
そういう意味で、天下分け目の戦いと呼ぶにふさわしい戦いだったようですね。

195修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/25(月) 21:51:23 ID:mMM/Egmk
沢山美果子『江戸の乳と子ども』を読みました。
人類が存続するためには子どもを当然育てなければいけませんが、子どもを育てるには当然乳が必要になる。
では江戸時代ではどのように乳が子どもに与えられていたのかを史料から明らかにしている一冊です。

結論から言えば、母親が母乳で子どもを育てるという考え方は実に近代的な考え方で大正時代に日本では当然の考え方になったようですね。
江戸時代では、必ずしも母親の母乳で子どもを育てていたわけではなく、乳の売買が行われていたわけです。
ただ、自分が生きていくためにお金を貰って他人の子どもに乳を与えた結果、自分の子どもを死なせていた母親というのもいたようで、それだけ江戸時代は生きていくのに大変な時代でもあったという事なんですね。

196感想下記:2017/12/30(土) 00:17:10 ID:3ILS2jFg
北欧神話と伝説 ヴィルヘルム・グレンベック 山室静 訳

神話関係が気になり北欧神話というものはどういうものかというのを上の本で勉強してみました。

北欧神話はエッダとサガというものに分かれています
エッダはオーディンとかロキとかいう日本でも割とメジャーな神様が登場するやつです
サガはいまでいうデンマークとかスウェーデンとかにいた英雄の話がメインです

サガはまったく知識がない状態で読んだのですが結構エグい話が多いです
子殺し近親相姦レイプとか当然の権利のごとく出現します
文章が緻密じゃないので淡々としていますが割とオイオイそれでいいのかと突っ込みたくなる話です

特にアレだったのがこの本の中にあったウォルスング家の物語
ウォルスング家の伝説をまとめて作ったものとのこと
ちなみにニーベルンゲンの歌もウォルスング家の伝説をもとに作ったとのことで兄弟みたいなものやろ(こなみ)

シグムンドとシグニイという男女の双子がいるのだがこいつらがヤバイ
彼らの親は王様だったのが敵国に滅ぼされシグムンド、シグニイ以外の兄弟含め親族は全部殺されちゃうのだ
そしてシグニイちゃんは敵国の王妃になる、シグムンド君は森の奥で隠れて雌伏するのだった

ただこのシグニイちゃんがやばい、敵国の王と自分の間に産んだ子供を殺しちゃったり
大好きなシグムンドお兄ちゃんのとこに変装して会いに行ってセッ○ル、子供作って育てちゃう
(ちなみに生まれた子は割と長い間シグムンドお兄ちゃんの子であるということを隠していました)

とかなり凄いキャラである、作中自分の子供を躊躇なく殺しまくっているのだがナンダコイツ!?とツッコまざるをえない
まあ敵国の王との子供だから愛情がなかったのかもしれないがいや…いくらなんでも…といいたい

ただ最期は敵国の王はシグムンドにぶっ殺されるのだがあんなに不義を重ねて憎んでいたのに
「長く連れ添ったのでそいつと一緒に死にます!」
といいはじめる…女心はわからん

またシグムンドは色々あってシグルドという子供を生むのだが
この子はニーベルンゲンの歌でいうジークに相当、ドラゴンを倒したりとつよいやつである
が、こいつの活躍が霞むぐらい強力なキャラが登場

そいつの名はブリュンヒルド!
これがまたヤバイ女である

シグルドがドラゴンを倒した後にとある城に立ち寄るのだがそこで倒れていた女性にあう
彼女の名はブリュンヒルド、オーディン神に使える戦女神だったのだが
国を勝たせる戦女神の仕事をミスって負ける予定の国を勝たせてしまった
そのせいで戦女神を首になってしまいさらに夫のいうことに従うようオーディンに決められてしまった
なので彼女は自分はすっごい勇敢な人と結婚するからいいもん!と誓いを立てていた

そこにシグルドが来たので一目惚れ、婚約してふたりはそれぞれの国に帰る(なんでそれぞれの国いったのかはよくわからん)
でそのあと色々あってブリュンヒルドはかぐや姫のごとく自分の夫選びのために無理難題を出し結婚相手を探しているのだが
そこにあらわれたのがグンナールという王族とそいつの妹のグドルンと既婚者になったシグルドなのであった(昔の約束なにそれおいしいの?)
で無理難題をシグルドに解かせてグンナールとブリュンヒルドが結婚する流れになる

結婚後のブリュンヒルドはかなり問題児で無理難題をグンナールが解いてないことが判明すると
「マジグンナールはクソ、シグルドみたいな英雄がよかったのになんでこいつと結婚するハメになったんだよ!」
みたいなこと言い出してグンナールを刺し殺そうとしたり
「グンナールには一生塩対応確定」
とか言い出したり
そうかと思えば
「自分を忘れて結婚したシグルドはマジクソ。おい、グンナールこいつを自分の親族の中に混じらせとくと害になるから殺したほうがいいよ」
などとけしかけてくる
この結果グンナールは間者をつかってシグルドを殺すのだが殺したあとにブリュンヒルドはグンナールに対して
「義兄弟になったシグルドを殺したグンナールはクソ」
とか言い出す(いやけしかけたのあんたやないかい!)
さらにさらにシグルドが火葬されるとき自分も一緒に死んで火葬されてついていくとかいいはじめる
その際にも「私と一緒に死にたい人いませんかー」などと召使いに言い出したり…

ちょっと面倒くさすぎませんかねぇ…この子
こんな個性的なキャラが出る北欧神話は面白いと思いました。
同じような名前がでてきてわかりづらかったりするとこもありますが結構サクサクと読めます。

197修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/27(土) 15:28:04 ID:6LiIbOJg
ジェンダーの歴史もちゃんと学んだほうがいいかなと思ったので『新体系日本史9 ジェンダー史』(2014年)を読み始めました。

西野悠紀子「原始社会とジェンダー」
 日本列島が大陸と陸続きであった更新世末期、食料資源の確保が第一の課題であり、役割の多様化が進んでいたかは疑問
 縄文時代になると分業意識が出現してきたとされる。人口維持のためには15歳前後から30代前半のあいだに平均8回、2年に1度の割合で出産することが必要だった
 土偶は女性の姿をしているが、集団秩序の回復・維持・発展のために女性の力が必要とされていた
 一方、男性性器の姿をした石棒は集団に侵入してくる悪を防ぐ役割があったとされている→一種の役割分担意識
 1980年代以後、古墳被葬者の性別を再検討する作業が進み、男性とされていた被葬者のなかに女性が存在することが明らかになってきた
 →前期古墳の時代までは女性首長は例外ではなかった。弥生時代後期から古墳時代前期、首長は男女を問わず存在し、性別に関わらず祭祀は首長の重要な任務だった
 古墳時代中期以降になると、女性首長の数が急速に低下する→朝鮮半島への軍の派遣。軍事、特に騎馬軍団から女性が排除されたとみられる
 日本の場合、父系で家を継承しているように見えて、事実上女系で継承するという例が古代から近代まで続く
 朝鮮半島経由で最新技術が到来すると女性の多くはそこから排除され、男女分業体制が形成されていく
 しかし、高度な技術は支配者層に独占されていたから、地方の民衆社会まで高度な生産技術から女性を排除するのには時間がかかった

198修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/28(日) 12:20:00 ID:6LiIbOJg
服藤早苗「「家」の成立とジェンダー」
 中世は長い時間をかけて、家が形成され変容していく時代。政治的地位や財産が父―男子に継承される家が成立するとジェンダー構造は差別的になっていく
 平安初期、天皇家で母方親族を外、父方親族を内とする祭祀が始まり、男性優位のジェンダーが構築される。ただ、系譜や血統意識から母系が確実に排除されるのは院政期
 平安期に理念的には父系直系皇統家筋への祖先祭祀が成立。上級貴族でも父系直系家筋が他を圧倒していく(摂関家)
 ただ、女子を媒介にした縁戚関係、女子の出産による天皇家縁戚の生成などによって家筋は安定化されており、女性の有用価値は高かった
 平安中期、農民層でも未熟ながら家父長制的家族が萌芽している。世襲的な家は未成立
 10世紀前期、貴族層ではいまだ当事者同士の意志で性愛関係が開始されていた。10世紀中頃になると両親が結婚の決定を行うようになる
 妻方同居が確実に始まるのは10世紀後半で、それまでは夫はどの妻とも別居している
 12世紀頃まで田畠は男女が均分に近く相続していた。ただし、女性は官職に就任できなかったから相続した財産を用いて経営を行うことは制限されていた
 院政期になると母の出自が問題にならなくなってくる。天皇の父である上皇が天皇家の家長として権力を掌握する父系的家父長権成立
 武士層では、基本的に男性優位相続。ただ、武家層では妻の財産は妻自身が知行した。14世紀になると嫡子単独相続が強まっていく
 院政期、公家・武家・一般民衆層まで夫優位の家父長制家族がほぼ成立
 11世紀中頃の貴族層の妻に対する3つの役割→父母の財力・家治能力・性能力。院政期、性能力は遊女・白拍子に期待されるようになり、蔑視イデオロギーも萌芽する
 農民層では、男性は年貢を生み出す田地の耕作責任負担者で、女性は私的所有性の強い屋敷畠を耕作する
 天皇は男女を問わなかったが、8世紀後期の称徳天皇を最後として女性の皇位継承は終焉する。しかし、摂関期は女性は国母(天皇の母)として政治上からは排除されていない
 貴族層では、男児には官職上昇を期待し、女児には天皇と結婚することが期待された
 10世紀後半以降、貴族層は一夫一婦制になり、同居の妻以外は妾となる。10世紀中頃には密通が成立している。妻の夫以外の男性との性関係は許容されなくなった
 10世紀以降、強姦史料もでてくる。男色史料もこの時期から。夫は多くの妻妾をもち、遊女を買い、同性との性愛も積極的に展開していた
 10世紀前後から明確に遊女が登場する
 女性老人は地主神にはなれなかった。地主神はすべて男性老人。また、鬼婆はいても鬼爺はいない→家父長制的家の成立
 老人女性には否定的なイメージの説話が多い
 10世紀以降、夫を亡くした妻は後家と呼ばれ出家することもあるが、男性が妻死後に出家したりするようなことはない
 商業では、決して男女が対等ではなかったが、他の社会よりは女性も経営権を得ることが出来た
 漢字は男手とされ、仮名は女手とされた→仮名は考え感じたことを理論化しそのまま文章表現できることができた→女性による平安文学
 鎌倉後期、女性作家による文芸作品は姿を消した→公的な場からの女性たちの退場を象徴
 女性による芸能は買売春と深く関わり残っていかなかった。田楽・猿楽が能として男性の伝統芸能として現代まで残っているのとは対照的

199修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/29(月) 19:26:49 ID:6LiIbOJg
大口勇次郎「近世のジェンダー」
 近世の女性は、古代・中世と比べて、歴史の表舞台に立つことが少ない
 近世は秀吉の軍事的な全国制覇から始まったが、武家の家督は男性が独占し、武士がつかさどる政治の分野から女性は排除された
 一方で、庶民の家が成立した近世では、家の経営が重視され、女性も経営に参与するために経済性・合理性を身につけることが必要だった
 近世農家の女性の地位は低かった。女性が家督を継ぐことは無かった。男性がいなくなり女性が当主になっても前当主の男性との関係が帳面に記された

200修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/30(火) 17:25:04 ID:6LiIbOJg
大口勇次郎「幕末のジェンダー」
 江戸後期、豪農の息子は遊学の機会を与えられ、娘は奉公に出された後近隣の農家に嫁がされた。女性は寺子屋で学んだ後、学ぶ道は閉ざされていた
 お蔭詣りでは、女たちも家の縛りを振りほどいて伊勢へ向かっている。女性の男装は処罰の対象だったが、お蔭踊りでは男女の衣装の交換が行われている
 戊辰戦争において少なからぬ役割を果たしたのが和宮など江戸城大奥の女性たちだった。和宮は京都との接触をはかることに力をつくしている
 出島に住む外国人商館員が相手にできる女性は遊女か、遊女の鑑札を受けた名付遊女(一般女性を遊女ということにする)に制限されていた
 →出生した子どもは性別に関わりなく日本人になり出国することは許されない。家族を形成することは許されなかった
 開国後、外国人居留地がつくられると遊郭が設けられた。要求すれば居留地でも名付遊女が派遣された
 外国から要求されると幕府は、妻子の本国連れ帰りを自由とした
 1872年、マリア・ルス号事件。日本が、横浜に入港したペルーのマリア・ルス号の船長を奴隷売買の罪で有罪とした
 →イギリス人弁護士は、遊女も人身売買であって日本が奴隷売買を告発することは出来ないと主張
 →政府は解放令を出している。一時的に売春宿廃業。しかし、女性本人が契約しているという体裁をとることで売春業を存続させた

201修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/31(水) 17:06:11 ID:6LiIbOJg
成田龍一「総力戦とジェンダー」
 20世紀、平塚らいてうなど、男性社会へ挑戦する新しい女の登場→男性たちは揶揄・誹謗、中傷した
 婦人参政権獲得要求の議論は、男性による普通選挙運動の高揚のなかで起ってくる
 20世紀初頭、女性向けの雑誌が刊行される→新中間層家族・核家族向け。女性側がどのような男性を望むかということも記事になる
 →男性も意思を持つ女性を求めるようになる。女性は自らを認め、家庭を重んじる男性を求めた→恋愛の賞揚。男性の側でも自己改革が生み出された→家父長制の拒絶
 20世紀初頭、消費社会形成→男性は生産、女性は消費→性別役割分担
 1936年、安倍定事件→男性を思い続ける女性愛を阿部にみようとしたところに男性の欲望が投影されている
 総力戦体制下になっていくと女性の動員も実施され、女性の側もそれに積極的に呼応した。総力戦体制では下位におかれているものを上位にあげるという幻想が振りまかれる
 →左派の女性たちも積極的に参加。反資本主義・反共産主義で社会民主主義とも違う路線。国家への貢献、国家社会主義
 戦闘は男性、銃後は女性という役割分担。女性は男性の論理に参加すること、男性に従うことが求められた→ジェンダー秩序はかわっていない
 戦闘に直面した女性は、従軍看護婦、従軍慰安婦、従軍作家
 敗戦後の引き揚げの経験→日本人が被害者として自らの経験を語るようになる。一方で、夫不在の植民地で敗戦を迎えた女性の解放感もあった
 敗戦後、平和の担い手として女性が利用される→女性が利用されるという点では戦時と戦後はかわらない
 戦後の女性雑誌の特徴→女性が男性を論じる。しかし、ジェンダー秩序を変更することはできていない。性別役割分担も問題化されていない
 占領期、日本政府によって特殊慰安施設協会(RAA)が設置される→占領軍向け慰安婦

202修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/02/01(木) 17:09:28 ID:6LiIbOJg
吉澤夏子「消費社会とジェンダー」
 1955年以降、日本の前近代的な風景は急速に消えつつあった。60年代の高度経済成長期、日本人は単純な価値観を共有していた
 →経済成長がいつまでも続き、子どもたちのほうが楽で豊かな生活を享受できる。男性は社員として、女性は主婦として働き、家族をつくることが当たり前
 →近代家族の成立。情緒的絆を基盤とする性別役割分業のシステム。主婦の大衆化、核家族化
 ロマンティック・ラヴ・イデオロギー→女性は一生に一度愛する人とめぐりあう。女性の幸福は結婚して母となること→女性たちは男なみの生き方を理想としなかった
 戦後の家族は、家族というものは、こういうふうでなくてはならないという枠を押しつけた。家族の戦後体制(落合恵美子)
 しかし、主婦になることに抗う動きもあった。55年から65年の10年間で大学へ進学する女性は2倍半に増加した
 →しかし、女子労働を補助労働としてのみ必要とする日本経済、根強い男尊女卑思想が存在し、女性が進学や就職を望んだとしても阻まれた
 純潔主義→女性は結婚するまでは処女でいなければならない→女性にだけ厳しい性規範。60年代までは性=隠微なものというメッセージが伝えられた→純潔主義の肯定
 →69年から71年にかけて、処女喪失の物語として女性の意思が重要視されるようになる→処女をいつどのように捨てるのかが関心事となった
 →処女は守るものから、自分の意志で捨てるものとなった。処女性という価値に関心が失われた。70年代前半、ロマンティック・ラヴ・イデオロギー崩壊の兆し
 ウーマン・リブ運動は、男社会にまともに受け入れられず、からかいや揶揄の対象となった
 連合赤軍の男たちは、かわいい女を求め評価する一方、女らしい振舞いを瑣末でくだらない少女趣味だと糾弾した
 →連合赤軍の女性のなかで唯一、男社会の論理の側に立ち、総括に加担した永田洋子。永田の心の葛藤は、当時の女性の状況の反映だった
 ウーマン・リブ運動は賛否両論の意見を呼び起こしたが、あからさまな性差別的言動は差し控えるべきだという社会的な了解がえられる程度にまでは主張の正当性が認められた
 80年代には、多くの女性たちに主婦という役割に枠づけられることへの不満が芽生えた。子どもたちの社会問題の原因はすべて母親にあるという議論が当時あった
 77年、テレビドラマ「岸辺のアルバム」→壊れるはずがないと信じてきた家族がいとも簡単に崩れ去っていく姿。近代家族の抱える矛盾はすでに隠しようもなかった
 →ドラマの母親はなぜ不倫をしたか→家族は誰も彼女をみていなかったが、不倫相手は彼女を1人の女性としてみていたという簡単な理由
 →主婦の日常には誰かとまともな会話をする機会すらほとんどないという事実を明らかにした→主婦の日常が幸福だとは思われなくなった
 ドラマでの父と娘の価値観のずれ→レイプされ妊娠中絶し負け組の高校教師と付き合う娘を批判する父と、自分はこれで幸せだと主張する娘
 77年に創刊した『クロワッサン』は近代家族向けに創刊されたがまったく売れず、翌年モデルチェンジし、女の自立をテーマにするようになると支持をえた
 →『クロワッサン』は専業主婦が外に出ることの罪悪感を払拭した。主婦となった団塊世代の女性たちに考えなおすきっかけをあたえた

203修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/02/01(木) 17:10:09 ID:6LiIbOJg
吉澤夏子「消費社会とジェンダー(続)」
 86年、男女雇用機会均等法が施行されるが、近代家族を単位とする社会制度に固執し、性別役割分担の規範を維持しようとする力は依然として強かった
 88年、アグネス論争→職場に託児所を求めるアグネスと子どもを連れて仕事に行くのは恵まれた女性の甘えだとする林真理子
 →母親の権利を要求するアグネスと男社会を肯定する林という対立構図としてとらえられたが、むしろアグネスの言動の方が男性優位社会を前提にしている
 →林が問題にしたのは、アグネスの子連れ出勤を美化し、祭りあげ権威づけようとした社会の仕組み。女性のなかにも優位に立つもの、劣位にあるものという差別がある
 95年以降、それまでに比べると人びとは結婚しなくなり、子どもを産まなくなった。典型的な近代家族を営もうとする時代は過ぎ去り、結婚が女性の幸福だとは思わなくなった
 現代社会では、主婦は強制されてなるもの、屈辱と忍耐のなかで家事労働をするものと考える女性たちはどれくらいいるか
 →みずから選択して主婦となるのだとみなし、選択の結果に責任をおうべきと考えているのでは。現代社会において、主婦になることは1つの選択肢である
 性の商品化は男性による性的搾取、性差別の現象として告発されてきた。しかし、現代の性の商品化で他者の強要は介在しない
 →お金という空疎な実体を介在させて、交感の対等な相手として承認されている。そこで承認されているのは女性としての価値
 →性の商品化に身をおくという選択的な行為によってはじめて私が私であることができるという現代社会
 現代社会では、ロマンティック・ラヴは虚構として理想化されている。現実にできない純愛を虚構で代替している
 あえて専業主婦を選ぶのは、主婦になることが幸福であるという神話を虚構と知りつつ、それでもなお、その虚構に賭ける生き方を選択することを意味している
 2004年、負け犬論争→30代、未婚、子なしの女性が負け犬だとみなす伝統的な価値観があるということを認識したうえで、みずから選択した生き方を肯定する

204Q5:2018/02/15(木) 17:51:46 ID:gVk8kjHE
健康に関する本を読んで、気になった事をふたつ。

・免疫力をつけるには、体を温めること。シャワーよりゆっくり湯船に浸かる事。(自分は風呂派なので大丈夫。)
・芋は熱すると発がん物質を生じる。ファストフード店のフライドポテトを食べるときは癌になる覚悟をして食べろ。(ヒエー!俺毎日、芋を熱して食べてるぞー、まあ、フライドポテトは食べてな・・ポテトチップも駄目なのかなあ。)

と言うことで、芋(低コストで調理しやすいからいっぱい買ってる)はどうすりゃいいのよ!w

205修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/03/20(火) 08:39:56 ID:jYkYEvMY
松永久秀の実像に迫る本が出るようですね

ttp://www.heibonsha.co.jp/book/b356715.html

206修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/07(土) 15:42:56 ID:u3TFDYPk
朝鮮半島が大きく動きそうな気配もありますが、2011年の「韓国併合」100年に出されていた『「韓国併合」100年を問う』を読んでみようと思いました。

宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために」
 儒教モデル:儒教=朱子学を理念として掲げ、理念の実現を目指す国家、社会体制(科挙)→東アジアの諸国家は儒教モデルの受容を推進したが、日本のみが同調しなかった
 徳川期の儒者たちは、日本は封建制の社会であるととらえ、郡県制である同時代の中国より理想的な社会であると認識していた
 →しかし日本の儒者たちは、中国や朝鮮の政治体制が儒教モデルであったということには無関心だった
 明治維新以降、儒教は克服されるものとなり、脱亜が目指された→儒教は遅れたものとみなされた
 戦後日本歴史学の日本封建制論:日本は西欧的な封建制であり、だから近代化が可能だったという説。儒教は後進性を象徴するものとされた
 →いまだに儒教は遅れたものだとする考えもあるが、それを克服しようとする動きもある


儒教の評価は色々とありますが、実は近代的な考え方と変わらない要素があるということは言われるようになってきてますね。
まぁこの考え方も「近代」を評価基準にしてしまっていますが、儒教が本当に遅れたものなのか?という問いは必要でしょうね

207修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/08(日) 12:20:08 ID:u3TFDYPk
小川原宏幸「伊藤博文の韓国統治と朝鮮社会」
 伊藤博文の韓国併合構想は、自治植民地に類似した形式で韓国を日本に編入しようとするもの
 伊藤が韓国の漸進的併合構想を選んだのは、日本財政の負担とならないよう韓国の財政自立を優先したから。また、支配の同意を朝鮮社会から得ようとしていた
 伊藤は、支配の同意を近代文明化を推し進め、韓国皇帝の権威を利用することで獲得しようとした
 都市知識人を中心に行われた韓国の愛国啓蒙運動は日本の侵略に妥協的な側面をもっていた→最たるものが一進会。伊藤の唱える自治論に取り込まれた
 義兵闘争はそうではなかった。義兵闘争の反日の論理は、儒教的文明観→忠愛と信義を果たさない日本を批判する→伊藤は義兵闘争には武力弾圧
 義兵闘争は、韓国皇帝からの使節にも反日義兵闘争を呼びかけた→義兵は皇帝に政治的正当性を認めつつも、義兵こそが社会正義を代弁しているとしていた
 民衆の反発も義兵に共鳴・合流。ただ、民衆の反日運動は生活防衛的な動機→生活基盤を破壊するものとして日本の支配が実感されると抵抗感が強まる
 伊藤による韓国皇帝南北巡幸→愛国啓蒙団体の幹部クラスは、伊藤の民心帰服策に取り込まれた→しかし、朝鮮社会に影響を与えることはなかった
 →巡幸は日常生活を営む民衆にとっては迷惑な出来事でもあった。また、皇帝存続の危機を招来するものと理解する民衆も多くいた
 →皇帝権威を利用しようとする伊藤の意図は、裏目に出た→皇帝が日本に利用されていることが可視化された

208修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/09(月) 18:58:16 ID:u3TFDYPk
趙景達「武断政治と朝鮮民衆」
 武断政治は、絶大な権力を誇る総督と厳烈な憲兵警察によって、苛酷に遂行された。総督は、軍事・司法・行政・立法を掌握
 警察署長や憲兵隊長は、微罪については刑罰を即決する裁判業務を担っていた
 王朝時代は、移住や流浪、訴願はありふれていた→武断政治下では禁止・制限された
 憲兵は恐怖の対象ではあったが、官僚・両班支配に喘いでいた民衆にとっては、秩序維持の象徴でもあった
 農民は規律化を強いる総督府に苦しめられたが、直接的には、重税と賦役の負担となって襲いかかった
 王朝時代は温情主義も機能していたが、総督府は個人的事情を考慮しない徴税システムを持ち込んだ
 社会は訴訟文化に代わったが、朝鮮人と日本人の間で公平な裁判が行われたかは疑わしい→異議申し立ての文化を否定された朝鮮民衆→三・一運動で爆発

209修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/10(火) 18:47:41 ID:u3TFDYPk
岡本真希子「植民地期の政治史を描く視角について」
 植民地政権と接触をもち、参加・参入をした人々→官僚になるという選択肢。朝鮮では朝鮮人官僚がいたが、台湾では台湾人はほとんど採用されなかった
 →台湾では、エリートたちは弁護士や医師になった
 議員になるという選択肢→これも台湾ではほぼ不可能。朝鮮では、なれる人となれない人との間に亀裂
 戦時期、朝鮮人の権利・義務関係の平等化、処遇改善が行われたが、この恩恵に浴したのは、農民たちではない
 →朝鮮総督府・本国政府は下からの突き上げに対して応答を試みたが、その相手は多大な犠牲を払う農民たちではなかった→朝鮮人間の亀裂を深める

210修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/11(水) 18:55:34 ID:u3TFDYPk
須田努「江戸時代 民衆の朝鮮・朝鮮人観」
 朝鮮通信使は、大坂・京都に立ち寄ることが決められており、大坂・京都では異国人に対する関心が高まっていた→近松門左衛門などによる朝鮮を題材とした浄瑠璃作品
 近松の『本朝三国志』→日本の武将たちの圧倒的な武力、残虐さ。従属する朝鮮王と殺されていく朝鮮王の家臣
 →征服された朝鮮、日本に服属した朝鮮王という歴史認識、朝鮮観
 18世紀後半期、日本に滅ぼされ、恨みを持つ朝鮮人という話がテンプレートになる(天竺徳兵衛というキャラクター)

211修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/12(木) 18:54:38 ID:u3TFDYPk
山田昭次「今日における関東大震災時朝鮮人虐殺の国家責任と民衆責任」
 1923年9月1日、関東大震災。夕方には早くも警察官が朝鮮人暴動の誤認情報を流している→内務省警保局長後藤文夫が、朝鮮人が暴動を起こしたと認定(9月2日?)
 →誤認情報の信憑性が強められた
 9月5日、官憲は朝鮮人暴動の確証を全くもっていなかったが、誤認を認めれば国家責任になる→証拠が発見できなければ、捏造も辞さない方針に
 10月2日、司法省は一部の朝鮮人の暴動の存在を主張→しかし、調査書には名前すら不明の者が書かれ、軽犯罪ばかりである
 朝鮮人を虐殺した者の検挙方針→虐殺は誤認情報によるものだから、厳しく検挙しない。警察署にいた朝鮮人を襲撃したものは厳しく検挙する
 裁判では、執行猶予になった者が多い。最高の刑罰でも懲役3年余。一方で、警察署を襲撃した者、日本人を誤殺した者で最高の刑罰は懲役5年以上で実刑率も高かった

212修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/13(金) 18:45:41 ID:u3TFDYPk
板垣竜太「日韓会談反対運動と植民地支配責任論」
 日朝協会の日韓会談反対運動→日韓台軍事同盟結成反対というもので大衆的な運動にはほど遠い
 安保国民会議が日韓会談粉砕を掲げたのは1962年3月→日韓会談を日米新安保の一環と位置づけた
 日本朝鮮研究所(朝研)発足→寺尾五郎は、日朝協会などの運動は朝鮮総連の考えが強すぎることから朝研をつくった
 寺尾は、日本人の手による日本人の立場での日朝友好を目指した
 朝研は、日韓会談を日・韓・台軍事同盟をつくるための仕上げだと位置づけ、日本が韓国に経済進出すると日本国民の首切り・賃下げが進むとした
 朝研は、日本と朝鮮の関係のあと始末をきれいにする必要性も説いた→植民地支配責任論

213修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/15(日) 22:40:21 ID:u3TFDYPk
池内敏『竹島』を読みました。竹島に関する日韓両国の主張を歴史学的に考察している一冊です。

まず、韓国が主張する「歴史的文献に現れる于山島は竹島である」という主張が成り立たないことを実証し、それを根拠にして竹島が韓国領であると主張することはできないとしています。
次に、日本が主張する「17世紀なかばには竹島の領有権を確立していた」とする主張も成り立たないことを実証しています。寛永2年(1625)の竹島渡海免許は鬱陵島への渡海免許でしかないからです。
さらにいえば、元禄竹島渡海禁止令(1696年)で、竹島(鬱陵島)渡海の歴史は一旦幕を閉じています。
もっといえば、明治10年の太政官の指示では、竹島は日本の版図外であるとされています。
江戸時代の地図を使って竹島が日本領であることを説明しようとする意見もありますが、地図はあくまでも補助史料であり、地図を使って竹島が日本領であったかどうかなどを説明することはできないと明言もされています。
1905年に竹島が日本領に編入されると、竹島経営は鬱陵島の日本人漁業者の一部が独占しました。そして日本人に雇用された朝鮮人が実際に竹島へ行って漁業活動を行っていたようです。
戦後、鬱陵島の日本人が日本へ引き揚げると、鬱陵島の朝鮮人が主体的に竹島へ行くようになったという流れがあるようです。
戦後、一旦竹島は日本の操業区域から除外されますが、サンフランシスコ条約で除外は無くなります。
しかし、韓国は占領維持を開始して日韓両政府は議論を棚上げしたまま現在に至るということのようです。

著者の池田さんは、竹島に関する日韓両国の前近代史部分の主張は意味が無いものであり、重要なのは1895年から1905年までの約10年間だけだとしています。
実は、当時の日本政府も竹島は韓国領かもしれないと考えていたが、日露戦争・韓国植民地化を進めていく中で竹島の編入を一方的に行った。その点が重要であり、それをどう考えるのかということが竹島問題にとって重要なことなのでしょう。

214修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/15(日) 22:46:28 ID:u3TFDYPk
一番上の部分が若干分かりにくくなっているかもしれないので補足。
于山島を根拠にして竹島が韓国領であると主張することはできないという意味であって、
于山島を否定すれば韓国の主張を全て否定できるということではないです。

215修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/23(土) 16:40:49 ID:/XJTTU3k
朝鮮半島が色々と動いているので国立歴史民俗博物館編『「韓国併合」100年を問う』を読んでいる。気になった論文をちょっとまとめてみる。

具仙姫「1880〜90年代における朝清朝貢関係の性格」
 朝鮮が日本と締結した日朝修好条約(江華島条約)は、表面的には独立国同士で結ばれる条約だった
 →伝統的に受け継がれてきた朝鮮と清の朝貢関係、日本との近代国際法的関係という性格の異なる国際関係が併存
 1882年8月、朝清商民水陸貿易章程→前文で朝鮮が清の属邦であることを明文化。朝鮮は、単に朝貢関係の再確認だと考えていた
 →しかし清の李鴻章は、伝統的朝貢関係の属邦概念を、近代の属国概念へと変質させようとしていた
 朝清商民水陸貿易章程は不平等条約→朝鮮の市場は外国の商人に解放。清の船が朝鮮の港を警備・防衛するなど→朝鮮と清の伝統的朝貢関係は実質的に瓦解
 清と日本はロシアの南下を危惧していた→日本の井上馨は、ソウルに駐在する清の代表として有能な人物を要求→1885年10月、袁世凱を派遣
 袁世凱は朝鮮に対し、清との関係を以前のように維持すれば富国自強できるが、そむけば滅びると言った
 朝鮮に対する清の圧迫が強まると、朝鮮政府は反清政策を推進→朝鮮政府は袁世凱の召還を李鴻章に要請
 →朝鮮の高宗は、李鴻章は伝来的な朝貢体制のもとで朝鮮政策を推進し、袁世凱は李鴻章の朝鮮政策にそむいていると誤認していた
 1890年、朝鮮の大王大妃死去の際、清の勅使を拒絶しようとしたが清の強圧で失敗に終わる
 清は朝鮮が清以外の国から募債することを阻止、清が直接朝鮮に借款を貸与した→朝鮮は清への経済的隷属状態に→清のやり方は近代植民地のやり方
 清は朝貢関係で貫徹していた属邦関係を利用して朝鮮を近代国際法的な属国にしようとしていた。日本は属邦問題を取り上げた→日清戦争のきっかけ
 日清戦争後、朝鮮を近代植民地にしようとした清に対して朝鮮は、対等なレベルでの条約締結を要求→1899年、清と対等に韓清通商条約を締結
 日清講和条約で朝鮮と清の朝貢関係が撤廃されたというのは、清と日本の間でのはなし。朝鮮からすれば、1882年の朝清商民水陸貿易章程で朝貢関係は瓦解している
 朝鮮と清の対等関係が実現したのも日清講和条約ではなく1899年の韓清通商条

朝貢関係での属邦と近代的な属国は違うというのは最近では色々な本でも出てきているけれど、ここを理解できていないと近代以降期の外交関係はトンチンカンになっちゃうんだよね

216修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/24(日) 12:19:15 ID:/XJTTU3k
松尾尊兊「大日本主義か小日本主義か」
 韓国併合直後の大正政変期に小日本主義は顕在化する→日露戦争後の経済不況の中で帝国主義の放棄を主張→第一次世界大戦がおこったことで、小日本主義はおさまっていった
 原敬首相は朝鮮議会の設置を排除し、内地延長主義をとった→日本本土同様な制度を布くことで同化を行う→一方で朝鮮総督府内部から朝鮮議会設置構想が主張される
 →構想された朝鮮議会は自治機関ではなく、新たな日本の統治機関にすぎなかったが、それでもまともに議論されなかった
 『東洋経済』の石橋湛山は、一切の植民地と勢力範囲の放棄を主張していた→大日本主義による支配は日本経済に貢献しない、むしろ戦争を招くおそれがあると主張
 →早く捨てる方が、被圧迫民族の支持が集まり、経済・国防の安全が確保されるとも主張していた
 三浦銕太郎は、韓国併合を日本の罪悪と認め、朝鮮独立の意義を強調

今回の銀英伝じゃないですが、占領地域の支配を行うにはそれだけ経済や資源が必要になるわけで、
むやみやたらに拡大していくのは危険なんですよね

217修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/25(月) 18:42:02 ID:/XJTTU3k
内海愛子「日本は植民地支配をどう清算したのか」
 2010年に成立したシベリア特措法案では、シベリアに抑留された韓国人たちは給付金支給から排除されている
 1948年12月、生き残った朝鮮人シベリア抑留者2300人(シベリアに抑留されていた朝鮮人は7700〜1万人と推定されている)は北朝鮮に送還された
 →そこからさらに38度線をこえて南に戻った人は約500人→韓国ではスパイと疑われ拷問を受けた者もいた
 東京裁判で植民地支配の責任は問われなかった。BC級戦犯裁判では戦犯になった朝鮮人(148人)もいたが、日本の援護措置からは排除されてきた
 捕虜収容所の事務、監視などの業務は朝鮮人が担っていた→BC級戦犯裁判では、捕虜虐待が徹底的に追及された
 →BC級戦犯になった朝鮮人はスガモプリズンに送られたが、ほとんどの人はそれが初めての日本であり、釈放で見ず知らずの地に放り出された
 戦犯になった朝鮮人や遺族たちは韓国でも親日派と罵倒されてきた。韓国政府が戦犯も被害者だと認定したのは2006年

218修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/27(水) 18:39:29 ID:/XJTTU3k
永原陽子「「韓国併合」と同時代の世界、そして現代」
 日本による韓国併合は、世界史上で、新たに植民地を獲得したという意味でほぼ最後。先に植民地支配を開始していた国々は、このころ体制の方向転換を模索し始めていた
 →イギリスは、南アフリカ連邦、オーストラリアやニュージーランドなどを一定程度自立した領域として切り離した
 第一次世界大戦後、ドイツとオスマン帝国の領土は国際連盟の委任統治下におかれた→列強の植民地支配とは異なる理念を掲げた
 →住民の福祉を理念として掲げ、個別の国が自らの意のままに支配するわけにはいかなくなった
 世界的な植民地体制は福祉や開発を打ち出したが、抵抗を予防するための方策は精巧になった→南アフリカではアパルトヘイト
 敗戦で植民地を失った日本では、植民地支配の問題が視野に入らざるを得なかったが、ヨーロッパでは植民地独立は喪失と被害の経験として記憶された
 →植民地支配が文明化・近代化をもたらしたとする認識は一般的だった→90年代以降、アフリカ諸国やアフリカ系住民から植民地支配の責任を問う声があげられるようになった
 2001年、ダーバン会議→植民地支配を断罪しようとする国々と、欧米諸国との間で激しい応酬(アメリカの代表は会議をボイコット)
 →宣言文書は奴隷貿易・奴隷制を人道に対する罪と認め、植民地主義に遺憾の意を表明した
 ナミビアの人々の声を受けて、ドイツは2004年、ドイツ帝国が行ったことはジェノサイドにあたると認め、謝罪した。07年、補償と言える資金提供も約束した
 →ただし、ドイツ統治時代に比してはるかに広汎な犠牲をもたらした南アフリカ統治時代の植民地責任への問いかけは表面化していない
 日本の植民地責任を問うさい、日本と韓国、日本と中国、というような個々の国家間の関係にとどまらず、世界史的な同時性の中で、考えることが必要

219修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/28(木) 18:23:47 ID:/XJTTU3k
小沢弘明「新自由主義・新帝国主義・「韓国併合」」
 19世紀を古典的自由主義の時代、20世紀を社会的自由主義の時代ととらえ、1970年前後に新自由主義が出現し、90年代なかばに体制として確立したとする時代認識
 →20世紀の福祉国家体制は解体され、所得の再分配機能は放棄された。新自由主義の時代はファシズムの時代より長期となっている
 新自由主義の本質は新帝国主義→自由主義の名のもとに展開される帝国主義。帝国主義が近代化の名のもとに展開されたことと連続性がある
 韓国併合は、他の帝国の植民地を参照して行われている

220修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/16(月) 14:56:26 ID:/XJTTU3k
岡本隆司『世界史序説』を読みました。何十年も西洋中心史観ではいけないと歴史学会は言っている割にいまだに西洋中心史観ではないかという怒りが著者にはあり、それを克服するためにこの本を書いたように思われます。
まず、古代ギリシア・ローマはオリエント(旧メソポタミア文明)の後継者であり、それをヨーロッパだとするのはおかしいと主張しています。さらに言えばインドもオリエントの後継者である。
また、キリスト教もオリエントから生まれた宗教であり、ローマカトリックが昔から中心であったかのように言うのもおかしいとしています。もともとキリスト教の中心は東ローマ側であると。
イスラムがヨーロッパを圧迫してたと考えるのはまさにヨーロッパ中心史観で、イスラムはむしろオリエントを再び統一したのだし、ユーラシア大陸の東西を安定させたのはイスラムと中国の唐王朝だとしています。
ただ、モンゴルが滅びて以降はユーラシアを1つにするような動きは歴史的に現れなくなります。その代わり、大航海時代で今まで完全に脇役だった西ヨーロッパが主役に躍り出ることになります。
しかし、大航海時代の初期に活躍したイタリア・スペイン・ポルトガルもオリエントと関わる国だった。イタリアは地理的にオリエントの影響を受けており、スペイン・ポルトガルはもともとオリエントに支配されていた。
だから、オランダが大航海時代の主役になった時こそが歴史の大きな転換点だったようです。
ではなぜ、オランダやイギリスがこの時代に発展できたのか。それは西ヨーロッパは領土も小さく、経済的に豊かでなかったからこそだとしています。
経済的に豊かでないから政治と経済が一体となった仕組みを作っていかなければならなかった。しかし、ペルシアや中国は領土も大きくもともと豊かだったから政治と経済を一体化させた制度をつくる必要がなかった。
ここで登場するのが日本で、日本も西ヨーロッパと同じように領土が小さくもともと豊かな国ではなかった。だから政治と経済を一体化させた仕組みをつくる必要があった。
その点で西ヨーロッパと日本は共通点があり、だからこそ日本は西洋風の近代化を達成できたし、それこそが絶対的に正しいのだと思い込んでしまったのだとしています。

この本で語られていることは実はそこまで新しいことでもないように思います。ただ、今後成果意思を考えていく際には西洋中心史観にならないような視点が必要だと思いますね。

221修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/17(火) 18:28:42 ID:/XJTTU3k
岡本隆司さんは上の本と同時期に『近代日本の中国観』も出しています。
この本では最初に石橋湛山の小日本主義が取り上げられているのですが、手放しで評価されがちな湛山の小日本主義について再検討をしています。
戦後の視点から見れば間違いなく正しかった小日本主義がなぜ当時は受け入れられなかったのか?という視点で岡本さんは書いているのですが、
湛山は中国の内部構造にまで踏み込めていなかったという評価をしています。
当時でも中国の専門家はいたわけですが、湛山は日本の利益について語っており、中国については語っていなかった(語れなかった)ので説得力がなかったのではないかと評価しています

222修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/21(土) 17:38:02 ID:/XJTTU3k
武田知己「日本外務省の対外戦略の競合とその帰結」(「年報日本現代史」編集委員会『検証アジア・太平洋戦争』2011年)
 30年代の外務省の主流はアジア派。メンバーの中核は有田八郎と重光葵→アジア派と対立したのが革新派、白鳥敏夫が中心
 アジア派以外の主要メンバーは欧米派。幣原喜重郎や広田弘毅など
 白鳥は満州事変拡大の過程で幣原外交と訣別し、事変の拡大を支持した
 欧米局長東郷茂徳の国際情勢判断→東郷はリアリスト、イギリスとの協調に可能性を見出し、日英関係を通じて対米関係の改善を構想
 東郷はソ連との不可侵条約締結を強硬に主張→これを締結すればアメリカの警戒心も緩和されると考えていた
 重光の構想→東郷が中国本土への進出を戒めていたのに対し、重光は満州国周辺への勢力拡大を目指していた。アジア・太平洋をアメリカと分割することも考えていた
 重光路線への批判→中国通の外交官は中国の国家統一を日本は援助すべきだとしていた。東郷も重光を批判
 ただ、重光らアジア派の路線は、欧米派や革新派と緩やかに提携していく→アジア派と欧米派は英米協調・反ソで共通性。東郷もイギリスとの協調で共通性
 →革新派は対ソ戦争を辞さないという点以外で重光の路線とほぼ同じ
 →重光の路線は日中全面戦争開始で挫折する→英米を敵に回してしまった。重光は中国との戦争など想定していなかった
 →重光の路線は、ソ連・中国内部の共産勢力との対立を利用して英米と協調すること

223修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/22(日) 10:05:33 ID:/XJTTU3k
鹿錫俊「日独伊三国同盟をめぐる蔣介石の多角外交」
 蔣介石の基本方針は、日本以外の全ての国と友好関係を結ぶというもの→ドイツが満州国を承認して以降は、ドイツを区別するようになる
 想定外の事態→独ソ不可侵条約、欧州戦争でドイツが快進撃→蒋介石外交は、どっちつかずの静観になる
 日本が独伊と同盟条約を締結するという第一報→蔣介石にとっては望んでいた局面→ただ、ソ連がどのような態度をとるのか計りかねている
 →日独伊三国同盟については沈黙し、日本を南進に向かわせる方針になる。国民党は共産党との対決にそなえて戦力を温存する方針
 →日本のみを敵国とする方針を堅持、欧州戦争に介入しない、ドイツによる日中戦争の調停を拒否しない、ソ連の態度表明を待つ
 日独伊三国同盟は日本が公式に独伊陣営に参加したことを意味する→英米は日本を牽制するために中国を支えなければならなくなる
 中国共産党だけは英米と提携してはいけないと主張→蔣介石はソ連の意志によるものと見た→蔣介石はソ連の援助を獲得したかったが、ソ連に支配されることは避けたかった
 ただ、蔣介石は独ソ関係は破綻すると予測、ソ連が日独伊に対抗することを期待していた。欧州戦争も英が勝つことを予測→対日平等講和の可能性を見出す
 →蔣介石は日本を甘く見ていた。日本は蔣介石の予測とは違う方向に進んでいく→ただ、日本との講和以外は蔣介石の試みは大方成功している
 →英米の援助獲得、ソ連の動向予測は当たった、欧州戦争でドイツが苦境に陥る予測も当たった→日本側の予測は蔣介石の予測より認識が甘かった

224修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/23(月) 18:39:10 ID:/XJTTU3k
手嶋泰伸「海軍の対米開戦決意」
 日本の南部仏印進駐→アメリカの経済制裁(石油禁輸、在米日本資産の凍結)→海軍は対米戦を現実的に検討。海軍で強硬な意見を持っていたのは、永野修身と中堅層
 海軍省首脳部は対米戦に極めて慎重。海軍が要求していたのは万一のための準備→時間をかせぎつつ、石油を獲得する手段が現れることを期待した
 →ただ、対米戦に消極的な発言をすると軍備整備に遅れが生じるというジレンマから、ストレートに対米戦反対の意思表示ができなかった
 帝国国策遂行要領では、期限の10月15日がきたら何らかの行動を起こさねばならないとなっていたので、対米戦に慎重な勢力は焦っていた
 10月17日、近衛内閣は閣内不一致で総辞職する→東条内閣に嶋田繁太郎が海相として就任
 10月30日、嶋田は開戦不可避と判断している。嶋田の政治力では対米開戦の流れは覆せないという判断。嶋田は国際情勢の好転にも期待していなかった
 →開戦責任は海軍単独の責任ではないということも、あっさり対米開戦を決意させた要因

225修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/24(火) 18:52:45 ID:/XJTTU3k
春日豊「戦争と財閥」
 日中戦争の拡大・長期化→三井は政府要請に応じて重化学工業投資を急増させる。41年4月30日には、三井化学工業が設立された
 →国策に呼応しつつ三井内の事業を整備し、国家的援助を引き出しつつ重化学工業への進出を強化した
 三井は、日本の中国占領地域の拡大とともに、軍・官の出資要請に応じて対中国投資を増大させていった
 日中戦争以前の三井財閥本社は借入金がまったく無かった→日中戦争以降、状況が一変する
 →組織改革。三井本社設立、事業体制の再編成→戦後の企業グループの萌芽が形成される。企業間の株式相互持ち合い、中核銀行の融資
 →ただ、財閥解体までは本社と三井家が圧倒的に株式を所有していた
 組織改革で三井同族の経営への関与は後退していた→ただ、三井本社社長は三井同族会議長→財閥解体の意義は大きい

226修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/25(水) 18:46:24 ID:/XJTTU3k
戸ノ下達也「音楽のアジア・太平洋戦争」
 日中戦争期、音楽も国家による統制がなされた→出版統制、公的流行歌である国民歌の発表
 アジア・太平洋戦争初期は音楽も攻めの諸相、戦意高揚。健全娯楽としてクラシック音楽がその象徴となる
 1943年になると、演奏に対する規制も顕著となる→米英楽曲の演奏禁止、クラシック音楽にも一部規制→真珠湾攻撃で一気にアメリカ文化が排撃されたわけではない
 1944年、大都市の多くの劇場が閉鎖される
 オフィシャルでない歌(替え歌)では、国民の本音が歌われていた

227修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/26(木) 18:39:59 ID:/XJTTU3k
官田光史「「応召代議士」をめぐる前線と銃後」
 大政翼賛会内部グループの清新クラブは東条内閣を支持。過去の政党政治を批判して当選したグループ→しかし、翼賛会の主導権が旧二大政党系の議員にあることに不満
 →東条内閣の提出法案に激しく抵抗→清新グループの濱田尚友らは召集される→濱田の選挙区民にとっても深刻な問題→地元の要望に応える人がいなくなる
 濱田は硫黄島に送られ一旦帰ってきている→選挙区民の感情的にも、陸軍省は濱田を2度も硫黄島に送ることはできなかった
 →議員に復職した濱田は、自らを硫黄島の戦友の代弁者だとして兵器の増産を求めた
 濱田は岸信介の新党結成の動きに呼応→翼賛会へ脱退通告書を提出→濱田の選挙区の選挙を無効とする判決が下ったので、濱田は岸グループの護国同志会には参加できず
 →再選挙。選挙では、戦友とともに国家の苦難に立ち向かう自分をアピールした→濱田は再選→護国同志会に参加
 戦後、東条内閣による懲罰召集を乗り越え、戦局の実相を伝えようとした濱田という政治家のイメージができあがる

228修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/09/30(日) 17:23:28 ID:HdaWEsTU
成田龍一『「戦後」はいかに語られるか』を読みました。
「戦後」を歴史としていかに語っていくかを考えている本です。まだ、こう語っていくべきだという結論は著者にも出せていないようですが。

『ゴーマニズム宣言』も『永遠の0』も『小さいおうち』も祖父・祖母と孫の話であって「戦後」世代である父母の話が消去されているというのは、なるほどなと思いました。
現政権や現政権シンパは「戦後」を全否定するような言動を繰り返しているし、だからこそ「戦後」をしっかりと歴史的に位置づけていかなければいけないのだろうと思いましたね。
ただ、著者もあとがきで、「「戦後」を変えつつ、しかし「戦後」を破壊する権力の暴挙を批判するという、ねだれともだえがある」と書いていますが、
『三丁目の夕日』みたいに「戦後」のある時期を美化するようなことは避け、新しい時代を考えながらも「戦後」を全否定するようなことは避けるということが必要なのでしょう

229修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/10/15(月) 22:14:04 ID:HdaWEsTU
三谷博『維新史再考』を読みました。
幕末から明治初期までの政治史をかなり丁寧に書いてあるというところがこの本の特徴なのかな。
特定の人物や大名(藩)を英雄視せずに公儀(幕府)や藩の動きをそれぞれ丁寧に描いているというところも特徴なのだろう。
ただ、「再考」とまで言っていいのかは疑問、帯に「維新史観を根底からくつがえす」と書いてあるのも疑問。
幕府が色々と考えていたということは結構知られてきていると思うし。
まぁ、長州が幕末の政治史的にはろくな活躍をせず、ただただ混乱を引き起こしていただけというのが分かるのはいいけど。
あと、鹿児島に多大な犠牲をもたらした西郷が英雄視され、大久保が非難されているのが謎と著者が書いているのもよかった。
それにしてもこの本、いきなり人類の移動から始まり、世界史の話になって、江戸時代がどのような時代かをくどいぐらいに書いてから幕末が始まるので、なかなか本題が始まらない。
しかも、最後に再び世界史の話に戻るので風呂敷を広げまくっている気がしてしょうがない。
あと、「維新史再考」と言うぐらいならむしろ庶民視点こそ必要だったのではないか。政治史の話だけだと、いうほど「再考」してないような

230修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/10/21(日) 16:41:48 ID:HdaWEsTU
岡本隆司『歴史で読む中国の不可解』を読みました。
歴史のことを知らずに中国のことを語っても深みがないということを危惧して多くの本を出している著者の新しい本。
日経から出しているということでサラリーマン向けに書いたとことであろうか。

内容としては、現在の日本の基準、考え方というのは西欧近代的なものなので、それを唯一の基準として中国を見てはいけないのだということだと思う。
中国には「中華思想」というかなり長い基準、考え方があるのであり、社会主義国家になっても文化大革命があってもその考え方は実は変わってない。
それを理解しなければ中国のことはいつまでも理解できないということなのだと思う。
面白かったのは、ロシアも西欧近代的な考え方ではないと主張しているところ。
ロシアもモンゴルの系譜につながる国家なのであって、ヨーロッパだけれども西欧近代とは違うのだというところはなるほどなと思わされましたね。

231修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/11/07(水) 21:43:29 ID:HdaWEsTU
本郷恵子『怪しいものたちの中世』を読みました。
中世という時代は、権力が弱く「セーフティネット」と呼べる者もなかったので、人びとは宗教の力に頼るしかなかった。
しかし、宗教の中核にいる人たちは庶民と接することはない。庶民と接するのは、現代人からすれば「怪しい」宗教者達だった。
そんな「怪しいものたち」に注目した本…ということなのですが、内容的には段々違う方向に進んでいきます。
怪しいものの話というよりは、時代の表舞台に立てなかった不遇な人たちの話になっていきます。
そういう意味では少し残念な本ですが、平安末から鎌倉初期の政争を知りたい人にはお勧めの本かもしれません。

ところで、権力が弱く「セーフティネット」も無かったから宗教に頼ったのが中世だとするならば、
近世は権力が強く「セーフティネット」も(一応)存在するようになった時代だった。だから、宗教の力が弱くなったと考えることもできそうですね。

232オリバ:2018/11/08(木) 12:08:04 ID:BdrAuH5Q
ttps://is.gd/zFczvD

233修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/01/06(日) 17:42:32 ID:E3jCVgGk
最近は『応仁の乱』が売れたことをきっかけにちょっとした日本中世史ブームらしいですが、
日本中世史の学会の世界では有名だけど一般的にはあまり知られていないであろう「権門体制論」の論文を読んでみました。
僕もちゃんと読むのは初めてでしたが、江戸時代までのことを考えた内容だったというのははじめて知りました。
簡単にまとめると中世は天皇が国王だが、絶対的な権力を持つものは天皇を含めて存在しない時代。近世は天皇が国王でなくなり、絶対的な権力を持つ存在がいる時代ということでしょう。

黒田俊雄「中世の国家と天皇」
 権門勢家(権威・勢力のゆえに国政上なんらかの力をもちえたいくつかの門閥家)が国政を支配する国家体制→権門体制。天皇家・貴族・寺社・武家が権門勢家
 権門の経済的基礎は荘園制的土地所有
 公家・寺家・武家、どの権門も独自に国家全体を掌握するだけの勢力を確立するまでにはいたらない→王位を簒奪することではなく、国王を交代させることで国政を掌握する
 権門は、官職として国政に参加するのではなく、権門勢家であることをもって国政に関与する→権門体制の第1段階は院政。上皇という存在は律令にはない
 →第2段階は鎌倉幕府。幕府は公家・寺家と相互補完的。守護は国王の名で幕府に所管されている、幕府の地方官ではない
 →守護・地頭を幕府の地方官とし、官衙の役人や国郡司と対立する存在として単純に説明することはできない
 ただ、官人は天皇の名によって任免されるが、天皇は自由な任免権をもたず、権門の競合と妥協によって決められる。天皇の権力は、無力であり、形式的なもの
 →院政を始めたときにはじめて、権利行使能力を得る
 天皇の政治的地位の形式化が著しくなると神国思想が広まる。天皇の権威は宗教的尊厳性に依拠するものとなる
 後醍醐天皇の建武政権は上皇・摂関家・幕府など権門を一切否定した→権門体制の否定→しかし、権門的支配者は存在し、領地は安堵された
 室町幕府も1個の権門。守護大名も中央権力と依存関係にある。ただ、幕府以外の権門は政治的にも経済的にも幕府に従属して存続している
 →国家権力の主要な機能は幕府が掌握。ただ、公家・寺社は儀礼など幕府では果たせない機能をもっていた→権門体制を克服していない
 →権門体制が荘園制とともに消滅するのは、事実上幕府が存在しなくなる応仁の乱のとき→職豊政権、江戸幕府はあらゆる領主を従属させる強力な封建王政として君臨する
 →この時代では、天皇は国王の地位にはない

234修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/01/06(日) 17:46:06 ID:E3jCVgGk
ちなみに、権門体制論批判として存在するのが「2つの王権論」でこちらの説では国王は天皇と将軍の2人いるということになります

235修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/02/19(火) 22:39:32 ID:E3jCVgGk
松沢裕作『自由民権運動』を読みました。
まぁ西郷どんの後の話とも言えますかね。

この本の論調としては、江戸時代が終わった後、どういった国をつくりあげていくかという流れがあって、
政府内では主流になれなかった人たちが自由民権運動で自分達が主導権を握ろうとした。それに期待した人々がいたから盛り上がったということだと思います。
この評価は正しいと思いますね。
そんな自由民権運動は、国会開設にしても憲法制定にしても政府に先手を打たれてしまい、何もすることができなかった。
そうして自由民権運動は終わったということのようです。

著者はあとがきで、2011年以降に起こったデモと自由民権運動を重ねつつ、自由民権運動の失敗などから学ぶことがあるのではないかとしていますが、これも同感かな

236修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/03/04(月) 22:43:30 ID:E3jCVgGk
高橋修『熊谷直実』を読みました。
熊谷直実って源平合戦の後に出家してたんだね。初めて知った。

直実は「武士」とは呼べないような身分だったようだけど、頼朝の前では御家人としてみんな平等であるという考えで戦っていたけれど、
源平合戦後、実際は御家人の間に差があったという現実から頼朝のもとを去ったようですね。
あと、殺人を生業とすることへの罪悪感も出家の理由としては考えられるようですね。

237修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/04/07(日) 23:02:32 ID:E3jCVgGk
福田千鶴『後藤又兵衛』を読みました。
後藤又兵衛について、数少ない史料から確実に言える事だけを検討した本です。

なぜ、又兵衛は豊臣方として戦ったのか?という理由は示されてはいませんが、
黒田は江戸時代の大名として変化して生きていくことができたが、又兵衛は戦国時代でしか生きられなかったということは本のなかで示されているように思います。
又兵衛に限らず、大坂の陣で豊臣方として戦った人たちは戦国時代でしか生きられなかった人たちなのかもしれません。
「真田丸」は、そういう視点でつくられていたように思う

238修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/06(月) 23:45:39 ID:ddOzpFck
岡本隆司『腐敗と格差の中国史』を読みました。
おそらく、現在の中国近現代史研究者ではトップクラスの位置にいる著者の新たな一札。
今回は主に「腐敗」をテーマにしながら、中国の官僚について周の時代から現代までを論じています。

「腐敗」とは汚職などを指すわけですが、元来中国では「官吏」の「官」と「吏」が分かれていて、そこには大きな格差があったのだということが一番重要になってきます。
「官」は管理職みたいな人達の事で、正式な給料をもらってはいますが、ぎりぎり生活ができるかできないかの額しかもらっていませんでした。
「吏」は実務を担当する人たちなのですが、なんと彼らは給料を一切もらえない立場だった。しかし、彼らがいなければ当然支配は行えない、特に「吏」になるような人たちは地方のことをよく知っている人達だったりするので余計に重要な存在になっている。
しかし、給料はもらえない。何より「官」もたいした額はもらっていない。だから、賄賂というかたちで民衆からお金を取らなければいけなかった。というか、そうしなければまともに地方の行政は成り立たなかったとのことです。

著者は以前から中国社会は上と下が大きく分離した社会だということを論じていますが、それは今回の本でもそうで、中央と地方、官吏内部と官吏と民衆がいかに大きく分離していたかということを論じています。
そしてこれも著者が以前から論じていることですが、孫文も毛沢東も上下の分離状態を何とかして改革しようとしたが、いずれも失敗し、現在に至っているのだとしています。

とりあえず、紋切り型の嫌中本を読むぐらいなら、岡本先生の本を読もう

239レト:2019/05/21(火) 22:33:46 ID:5xDgiNaU
幻冬舎社長の騒動がきっかけでウェブ出版のメリットについての議論が活発化してるけど、
編集者の存在意義はともかくピンハネするような悪質な出版社が淘汰されていく良い機会かもしれない。

240修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/22(水) 19:58:32 ID:ddOzpFck
ワンマン社長の悪さが一番典型的に出たケースでしたね

241修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/22(水) 21:00:31 ID:ddOzpFck
苅部直『「維新革命」への』道を読みました。
簡単に言えば、明治時代の文明開化は江戸時代の段階で準備されていたのだという内容になります。
江戸時代の思想家の考え方、社会のあり方、それらが既に文明開化への準備を整えていた。
商業の発展をどう考えるか、いろいろな考え方が江戸時代にあったのだということも分かります。
面白かったのは、幕末のオールコックの日本評。「豊かで幸福だがfreedomのない社会」、そうオールコックは言っています。
一応、明治維新で「自由」は与えられるわけですが、その自由が「freedom」だったのかは気になるところですね。
というか、戦後改革を経た現代日本の「自由」は「freedom」なのでしょうかね

242修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/06/09(日) 22:02:07 ID:ddOzpFck
坂井孝一『承久の乱』を読みました。
『応仁の乱』が売れて以降、中世の戦乱を扱った本がたくさん出ましたが、これもその1冊。
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした戦いだと思われているが、実際は北条義時を倒そうとした戦いなのだというのがこの本の1番の主張でしょうか。
源実朝が将軍としていた時は、朝廷と幕府の関係はとても良かった。しかし、実朝が暗殺され、北条氏が権力を握ると幕府は朝廷のコントロールをどんどん離れていった。
だから、後鳥羽上皇は北条氏を倒そうとしたのだが、北条氏の方が一枚上手。上皇は幕府を倒そうとしているのだという論理にもっていって御家人達の支持を得、一気に上皇軍を倒したということのようですね。
承久の乱後の動きがとても重要で、鎌倉幕府が出来た段階では幕府の方が朝廷より上というような状態でもなんでもなかった。
それが承久の乱後、幕府は完全に朝廷の上になり、後醍醐天皇の時期があったけれども、基本的には大政奉還まで幕府はずっと朝廷よりも上の立場にいた。
そういう意味で、承久の乱はとても重要な戦いだったということですね。

243chi:2019/06/22(土) 04:43:32 ID:HJWBqy3g
  再投稿 沖の島 祭祀の研究図書目録

*河瀬文庫「宗像・むなかた沖の島展」1977
*河瀬文庫「古代沖の島の祭祀」・「東大三十余年」著者・発行 井上光貞1978
*河瀬文庫「海の正倉院 宗像沖の島 古代の旅3」著 弓場紀知(ゆばただのり) 平凡社1979
*河瀬文庫1576 抜粋「宗像市史第1章」旧石器時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 平ノ内幸治1997
*河瀬文庫1577 抜粋「宗像市史第2章」縄文時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 清水比呂之 木下尚子1997
*河瀬文庫1578 抜粋「宗像市史第3章」弥生時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 安部裕久1997
*河瀬文庫1579 抜粋「宗像市史第4章」古墳時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 原俊一 花田勝広1997
*河瀬文庫1580 抜粋「宗像市史第5章」特色ある古墳文化・付宗像地域考古文化財文献一覧『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 原俊一 白木英敏 大澤正巳 田中良之 本田光子 木下尚子 花田勝広 松本肇 岡崇1997
*「沖の島と津屋崎古墳群」重住真貴子 池ノ上宏 ・「古代の福岡」 アクロス福岡文化誌編纂委員会2009
*「沖ノ島」・「伊勢神宮と三種の神器」著 新谷尚紀 講談社2013

244chi:2019/06/22(土) 06:05:59 ID:abphGKwQ

○縄文人とは九州北部の鬼刀禰(オオトネ)族
鬼刀禰族は、西アジア・アフリカでシュメール人と呼ばれ。古代支那では倭国(鬼・オオ)やツングースなどの十支族同盟。現在の日本でアジア北方騎馬民族と呼んだ。彼らは北極星を知っていて、古代の舟(貴布禰)を操りヨーロッパ・アジアを含め、七つの海を巡った。北極星を中心に一周する恒星を観て「一年」を知り。製鉄を行い、米・麦を刈り取る「鎌」を造った。製鉄遺跡を調べると、「通風こう、出入り口」は遺跡内部より夜空を見ると「外側が円や真四角であったら」中心に北極星がある。これは、北極星に近い恒星が時計の短針となっている。エジプトのピラミットも、前方後円墳の円(半球体・通風こう)も同形。この形は、台風、サイクロンの接近を知らせてくれる。吹き込む「音」(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド)の最後の音の「ド」。彼らは音(声)に感謝して「土偶」を祀っている。明治から昭和のはじめに東北地方で偽物がたくさん作られたが、見分け方は「青年女性で口を開き声出ししている」これが土偶。名は「雨 カンムリ 龍」。読み方は「オカミ・古事記(於迦美娘)」。「オカミ」発見場所は日本だけでなく、インドの遺跡やメソポタミアの遺跡から。外務省のデータのサイクロン発生と進行状況を地図表されたものと「オカミ」発見遺跡とが、線上にある。紀元前15世紀、メソポタミアで千年続いた最初の王朝は、インド北部からやって来た「戦車に乗り鉄剣をもった者」に滅ぼされた。ユダヤ・ソロモン王(紀元前12世紀)に「鉄は赤い土から採る」の名言もある。話が時間的に前後するが、花粉の権威、高知大学・中村純教授らによると、福岡市博多区の「板付遺跡」の近郊・近隣地層から発見された「花粉」は3700年前に水耕栽培があったとしている。注)稲の花粉は一度水中に入っても、動き出すので、そこに田があったとは、言えないが、花粉の直径(厚さ)から自然界の物でなく、人手による物としている。このことは、紀元前17世紀には九州北部に文明開化していた事になる。昼、北極星に向けられた穴の前の広場でガラス(レンズ)で「火」を熾し「製鉄」の業をした。のちの人々は、たたら製鉄と呼んだ。

 鬼刀禰族は「たたら製鉄」を業うまえに「金(昆)刀比羅の社」を建立した。

245chi:2019/06/22(土) 06:19:04 ID:abphGKwQ

「板付遺跡」を探る・図書目録   
*河瀬文庫3914-142「板付周辺遺跡調査報告書1福岡県福岡市博多区板付」福岡市教育委員会1974
*河瀬文庫3915-142「板付周辺遺跡調査報告書2福岡県福岡市博多区板付」福岡市教育委員会1975
*河瀬文庫2814-111「板付 上巻(本編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫「板付 下巻(本編図版・付編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫「板付 下巻(付編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫3286-122「板付」県道505号線改良に伴う発掘調査報告書 福岡市教育委員会1977
*河瀬文庫 401-14「古代の顔」開館10周年 図録第7集 福岡市立歴史資料館1982
*「最古の農村 板付遺跡」著 山崎純男 新泉社2008

246chi:2019/06/22(土) 06:31:18 ID:abphGKwQ
「オリエント」を探る・河瀬文庫「オリエント学会図書目録」
*河瀬文庫773-4「オリエント 第18巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1975
*河瀬文庫774-4「オリエント 第18巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1975
*河瀬文庫775-4「オリエント 第19巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1976
*河瀬文庫776-4「オリエント 第19巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1976
*河瀬文庫0114「オリエント 第20巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫1354「オリエント 第20巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫0115「オリエント総目録」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫1355「オリエント 第21巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1978 P13〜23「テル・サラサートⅡ号丘出土の女性土偶について・メソポタミアの土偶」堀晄。
*河瀬文庫0116「オリエント第21巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1978
*河瀬文庫1357「オリエント 第22巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1979
*河瀬文庫778-4「オリエント 第22巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1979
*河瀬文庫1358「オリエント 第23巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫1360「オリエント 第23巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫1361「第23巻 附録 資料室所蔵欧文雑誌目録 Ⅷ」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫0117「オリエント 第24巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1981
*河瀬文庫780-4「オリエント 第24巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1981
*河瀬文庫781-4「オリエント 第25巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1982
*河瀬文庫782-4「オリエント 第25巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1982
*河瀬文庫783-4「オリエント 第26巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1983
*河瀬文庫784-4「オリエント 第26巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1983 P61〜74「ある未発表のファーラ時代の土地購入契約文書・紀元前第三千年紀半ば 土地あるいは家屋の売買契約」ネンド版 五味亨。
*河瀬文庫785-4「オリエント 第27巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984
*河瀬文庫786-4「オリエント 第27巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984
*河瀬文庫788-4「オリエント 第28巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫1362「オリエント  第28巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984

247chi:2019/06/22(土) 06:35:51 ID:abphGKwQ
「オリエント」を探る・河瀬文庫「オリエント学会図書目録」②
*河瀬文庫0118 「オリエント 第29巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫1364 「オリエント 第29巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫789-4「オリエント 第30巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫790-4「オリエント 第30巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫791-4「オリエント 第30巻別巻総目録」発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫792-4「オリエント 第31巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1988
*河瀬文庫793-4「オリエント 第31巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1988
*河瀬文庫794-4「オリエント 第32巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1989
*河瀬文庫1365「オリエント 第32巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1989
*河瀬文庫1366「オリエント 第33巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1990
*河瀬文庫795-4「オリエント 第33巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1990
*河瀬文庫796-4「オリエント 第34巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1991
*河瀬文庫161-2「オリエント 第34巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1991
*河瀬文庫797-4「オリエント 第35巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1992
*河瀬文庫798-4「オリエント 第35巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1992
*河瀬文庫0119 「オリエント 第36巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1993
*河瀬文庫799-4「オリエント 第36巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1993
*河瀬文庫787-4「オリエント 第37巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1994
*河瀬文庫800-4「オリエント 第37巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1994

248chi:2019/06/22(土) 08:52:15 ID:vmKSualw
「遠賀川・筑後川」「博多」「壱岐・対馬」を探る・図書目録。
*河瀬文庫1700「嘉穂地方史 先史編」編集者 児島隆人 藤田等 嘉穂地方史編纂委員会1973 P249〜255福岡県筑穂町「小瀬隈土壙墓」遺物の「刀」。P497〜499 503〜506筑穂町大分「大分廃寺」。
*河瀬文庫「嘉穂地方史 古代 中世編」編集者 川添昭二 表現研究社 嘉穂地方史編纂委員会1968
*河瀬文庫556「研究紀要 8」 竹中岩夫氏収蔵資料の紹介(4)福岡県遠賀郡芦屋町山鹿貝塚採集土器の紹介(2)北九州市立考古博物館2002
*河瀬文庫364「九州考古学 第67号」 西平式土器に関する諸問題-福岡県築上郡築城町所在,松丸遺跡(D地区)出土縄文土器の位置づけ 九州考古学会1992
*河瀬文庫664「九州考古学 第70号」 広形銅矛の鋳造技術に関する二・三の研究-連結式鋳型の製品を中心にして 九州考古学会1995
*河瀬文庫「筑穂町誌上巻」福岡県嘉穂郡筑穂町 2003
*河瀬文庫「北九州市史 総論 先史・原始」北九州市1985 P839金刀比羅山;八幡東区八王寺町
*河瀬文庫「筑後市史 第1巻」筑後市1997

*河瀬文庫0942「博多」著 武野要子 岩波書店2000

*河瀬文庫194-8「壱岐・原の辻遺跡 国指定特別史跡」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2002
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター18」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2004
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター23」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2005
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター30」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2008
*河瀬文庫2811-111「対馬の考古学」 木坂石棺群:長崎県上県郡峰町大字木坂 著 坂田邦洋 縄文文化研究会1976
*河瀬文庫2805-111「対馬越高尾崎における縄文前期文化の研究」別府大学考古学研究室報告第三冊 長崎県上県郡上県町大字越高字尾崎 著 坂田邦洋 広雅堂書店1979

249chi:2019/06/22(土) 08:57:11 ID:vmKSualw
「大分 国東(クニサキ)」を探る・図書目録。

*河瀬文庫1293-14「み仏の里国東半島を訪れる人々へ」国東半島観光協会 (発行年不明・登録2011)
*河瀬文庫2744-107「国東町文化財調査報告書・大分県東国東郡国東町大字成仏」国東町教育委員会1972
*河瀬文庫1849「羽田遺跡(A地区)国東富来地区県営圃場整備事業関係発掘調査概報」国東町教育委員会1987
*河瀬文庫682「羽田遺跡(I地区)国東富来地区県営圃場整備事業関係発掘調査報告書」国東町教育委員会1990
*河瀬文庫「国東地区遺跡群発掘調査概報 1由井ヶ迫製鉄炉跡・安近炭窯跡」国東町教育委員会1990
*河瀬文庫237「国東由井ヶ迫遺跡地区遺跡群発掘調査報告書」国東町教育委員会1997
*河瀬文庫3347-126「浜崎寺山遺跡県営圃場整備富来南部地区関係発掘調査報告書」国東町教育委員会1993
*河瀬文庫662国東町「飯塚遺跡東国東郡広域連合総合文化施設建設に伴う発掘調査報告書」国東町教育委員会2002
*河瀬文庫2201大分県西国東郡香々地町「香々地の遺跡 1過ノ本遺跡・御霊遺跡・信重遺跡」香々地町教育委員会1994
*河瀬文庫3600-135「姫島用作(ひめしまようじゃく)遺跡大分県東国東郡姫島村」姫島村教育委員会1991
*河瀬文庫「国見町の考古資料縄文時代編」国見町教育委員会1987
*河瀬文庫「伊美崎遺跡大分県東国東郡国見町所在遺跡の発掘調査報告書」国見町教育委員会1989
*河瀬文庫2366「遺跡が語る大分の歴史大分県の埋蔵文化財」大分県教育委員会1992
*河瀬文庫2415「先史時代の日韓交流と大分水稲農耕文化の伝播と成立」大分県教育委員会1994
*河瀬文庫26-1「豊後府内南蛮の彩り 南蛮の貿易陶磁器」大分市歴史資料館2003
*河瀬文庫「大分県史 先史篇1」大分県1983

250chi:2019/06/22(土) 21:06:42 ID:IlHuHeSA
*河瀬文庫0068「インド考古学の新発見」B.K.ターバル著、 訳 小西正捷(まさとし),小磯学 雄山閣出版1990 この中でダーイマーバード出土品13銅製の象,14サイ,15水牛,16 2頭の牛に引かれた御者付き車。(戦車)、リンガヴェーラブラ:ハーリーティーの出土品25土偶(鬼子母神)。
*河瀬文庫0464「シベリア極東の考古学1」著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 岩本義雄 ほか 河出書房新社1975 鉄器時代P306〜316.
*河瀬文庫「シベリア極東の考古学2 」著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 萩原眞子ほか 河出書房新社1982
*河瀬文庫「シベリア極東の考古学3」 著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 岩本義雄 ほか 河出書房新社1983

*河瀬文庫「研究論集Ⅵ」奈良国立文化財研究所学報第38冊1980 日本古代の鬼面文鬼瓦 毛利光敏彦P29〜65 東北アジアのツングース民族{願い事を形にして屋根の上にあげ魔除けや福を呼ぶまじないとして永く親しみ愛されてきた}。

*「鬼瓦 ルーツを尋ねて」著 平田芳蔵 東京書籍2000 鬼瓦は世界に拡散①アジア古代支那・モンゴル・シベリア。②古代支那・インド経由(陸路&海路)でメソポタミア・ヒッタイト、ギリシャ、イタリア。③海路太平洋・大西洋よりメキシコ・アステカ。④海路太平洋、南半球ニュージーランド。

251chi:2019/06/22(土) 22:22:56 ID:IlHuHeSA
投稿250
小アジアのトルコからギリシャ、イタリアの伝播は、「鬼瓦」から「屋根飾り瓦」に変化している。
単なる「ヘレニズム」による伝播だけでなく。縄文人=鬼刀禰(オオトネ)人の影響も大きい。
また古代支那の三国志時代の孔明や張飛の扱う青銅剣の時代に「鬼刀禰人」は「オビ川」河口付近に到達。そこで「たたら製鉄」の業・実施。遺跡より鉄器の発掘がある。ということは、メソポタミア、シベリア、オビ川河口では、川砂鉄が採れ、古代支那には川砂鉄が採れなかった事がわかる。

252chi:2019/06/22(土) 22:33:17 ID:IlHuHeSA
「花粉」を探る・図書目録 再投稿

かふん 「岡山県津島遺跡の花粉学的研究」藤則雄・「考古学研究 第16 巻第2号(通巻62号)」考古学研究会 1969
かふん①「花粉分析」著 中村純 古今書院1967
かふん②「花粉は語る 人間と植生の歴史」著 塚田松雄 岩波書店1974
かふん③「花と花粉の世界」著 岩波洋造 玉川大学出版部1977
かふん④「花粉の世界をのぞいてみたら 」宮澤 七郎/監修 -- エヌ・ティー・エス 2012
かふん⑤「花粉が語る多様な食物」・「史跡でつづる 京都の歴史」門脇禎二 編 法律文化社1977
かふん⑥「世界で一番美しい花粉図鑑」著 マデリン・ハーレー ロブ・ケスラー 監修 奥山雄大 訳者 武井魔利 創元社2011

253chi:2019/06/24(月) 00:17:31 ID:eTgCSwak
国名に「中国」を使用するのに「違和感」有り
1300年前「記紀」「萬葉集」「出雲國風土記」が書かれる前、勢力分野。鬼(おお)族は、二大勢力。①鬼刀禰(おおとね)族。出目は九州北部。金属を生産。主に川砂鉄から「たたら」で鉄生産。多量の木炭を使用する。最低80人くらいで、土を半球状に盛り上げ通風こうをもうけ、中をくりぬいて、生産場所、生活場所とした。稲作の米と鉄器(鎌・刀剣)を貴布禰(古代の舟)で大陸や韓半島へ輸出した。
②鬼山衹(おおやまつみ)を祀り、米の生産や魚・貝を採った。保存のきく米は大陸や韓半島へ輸出した。住んだのは、①の残した穴。この集団を「出雲族」・「物部族」と呼んだ。この集団の住む地域を「穴津國(なかつくに)」、「記紀」「萬葉集」「出雲國風土記」を書き上げるのに墨の倹約・節約から「中國(なかのくに)」した。「中」は日本でつくられた名。「国名・中国」は、古代・出雲にあたる。明治政府は、「古事類苑 外交部」の中で、「古代支那」の表記。

・最初書「古事記」を観ると、「出雲族」。――>「八十神」。「出」の字を書くのに、1「八」を書き、2「十」を書き3「一」を書いた。
・「魏志倭人伝」を読むと「刺青(いれずみ)」をしている。貢物をもってきた人を裸にする訳がないので、顔に「龍」の文字の「刺青」。墨の倹約・節約から「龍」の文字は「神」に書き換えている。
・住人がいなくなった製鉄遺跡に「ヤドカリ」のように住んだ。それで、「ウ カンムリ 八」――>「穴(なか)」。出雲族の住んだ地域を「穴津國(なかつくに)」としたが、墨の倹約・節約から「中國(なかのくに)」。古代出雲族の住んだ地域を「中國」。「穴」も「中」も日本でつくられた文字。
アジアの「あの国」は「古代支那」がよい。「元都知事・石原慎太郎」氏と明治政府の考えは違う。

254修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/06/27(木) 22:08:46 ID:ddOzpFck
倉本一宏『内戦の日本古代史』を読みました。
日本の弥生時代から後三年の役まで、古代の戦乱を扱った本です。

特に面白かった部分を2点、1点目は平将門と藤原純友についてのところ、少しまとめておきます。
2人が国家に対して反逆行為をおこなっていたのは、天慶年間の3ヶ月から1年半のことに過ぎない。
戦闘に参加した兵士の数も多数ではない。純友は恒常的に戦闘行為を行っていたわけではない。
日本古代においては、これくらいの規模の内戦が最大級。しかも、将門や純友は一方的に謀叛だと騒ぎたてられ内戦に至った存在だった。

2点目は前九年の役・後三年の役のところから、「おわりに」までの部分。
この戦乱になると急に大量虐殺や残虐性が登場してくる。この時期に作者は時代の転換点を見ています。
武士は本来貴族であったのに、暴力集団となっていく。しかもその暴力集団が政治の中心を担っていく。
明治維新後も、武士は善、貴族は悪というようなイメージが出来上がる。しかもそのイメージは現在でも続いたまま。
どうしてそうなってしまったのか?それを解き明かさなければいけないというのが作者の一番の主張のようですね。

255chi:2019/07/07(日) 15:50:50 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。①

*「升田幸三名局集」日本将棋連盟 販売元 マイナビ2012
*「古事記傳」1(古事記の一之巻〜六之巻) 、2(七之巻〜十四之巻)著 本居宣長 1764年(明和元年)に起稿し1798年(寛政10年)に脱稿した。版本としての刊行は1790年(寛政2年)から宣長没後の1822年(文政5年)当館では古事記傳1〜5有。
*「野竹遺跡群 広島県三良坂町文化財調査報告書第5集」広島県三良坂町教育委員会2002
*「百済滅亡と古代日本」―白村江から大野城へ― 著 全榮來(ジョン ヨンラエ)2004
*「お江戸でござる」杉浦日向子(すぎうらひなこ)監修 新潮社2006
*「杉谷遺跡群 三良坂町文化財調査報告書」 第6集広島県三良坂町教育委員会2003
*一部写し「石見の郷土史話上巻」編著者 山根俊久 石見郷土研究懇話会1978
*「大田植の習俗と田植歌 牛尾三千夫著作集2」著 牛尾三千夫 名著出版1986
*「備中神楽」衣装の色彩 著 坪井有希 吉備人出版2011 P50陣羽織の金刺繍をめぐる図柄展開(明治〜昭和)表。 坪井有希[ツボイユキ] 1980年岡山市生まれ。徳島大学大学院人間環境研究科修了。民俗学、文化人類学を学ぶ。在学中よりカラーの勉強をはじめ、企業タイアップ作品選考会で佳作受賞。Web関連会社勤務。
*「金髪碧眼の鬼達」著 中村昴コウ JDC出版2015 読み;きんぱつへきがんのおにたち 副題;鬼・天狗・山姥は白人的特徴を持っていた
*「古代イラク」ナショナルジオグラフィック考古学の探検 著 ベス・グルーバー 監修 トニー・ウィルキンソン 訳 日暮雅通 BL出版2013 2つの大河とともに栄えたメソポタミア文明。
*「古代アフリカ」ナショナルジオグラフィック考古学の探検 著 ヴィクトリア・シャーロー 監修ジェイムズ・デンボー 訳 赤尾秀子 BL出版2013 400万年前の人類と消えた王国――巨大大陸の謎を追う。
*「奥備後の民俗」著 山田次三 山田次三遺稿集刊行会1979
*「徐福と日本神話の神々」著 前田豊 彩流社2016 「じょふく」。
*「森と神と日本人」著 上田正昭 藤原書店2013
*「塩・ものと人間の文化史07 」著 平島裕正 法政大学出版1995(初版1973)
*「賤民の異神と芸能」――山人ヤマビト・浮浪人ウカレビト・非人―― 著 谷川健一 河出書房新社2009
*「君田村史」君田村1991
*「古代の光通信」著 横地勲イサオ 図書出版のぶ工房2004
*「江戸時代 人づくり風土記35山口」農山漁村文化協会1996
*「荘園史研究ハンドブック」編 荘園史研究会 東京堂出版2013
*「神話に隠されている日本創世の真実」著 関裕二 文芸社2005
*「三次地方史論集」著 堀江文人 三次地方史研究会1979
*「三次の歴史」編 三次地方史研究会 菁文社1985 執筆者 藤村耕市・米丸嘉一ヨシカズ・新祖隆太郎シンソリュウタロウ・向田裕始ムカイダユウジ。
*「三次郷土史の研究」著 藤村耕市 三次地方史研究会2008 P82三次町の成立と旭堤。
*「歌人たちの遺産」著 池田勇人イケダユウト 文芸社2011 よみがな「うたびとたちのいさん」。
*「鬼瓦 続 ルーツを尋ねて」著 玉田芳蔵 東京書籍2009
*「江戸時代人づくり風土記 6山形」農山漁村文化協会1991
*「日本のうた 第5集」野ばら社1998 昭和53〜63年
*「日本のうた 第6集」野ばら社1998 平成01〜07年
*「日本のうた 第7集」野ばら社2001 平成08〜12年
*「金属伝説で日本を読む」著 井上孝夫 東信堂2018
*「古里の民話と伝説 改訂版」著 池峠繁治 池峠英夫 菁文社1998 著者;いけとうはんじ広島県甲奴郡総領町。著者;いけとうひでお広島県甲奴郡総領町。
*「熊 ものと人間の文化史144」著 赤羽正春 法政大学出版局2008
*「日本抒情歌全集 3」編著者長田暁二 オサダギョウジ ドレミ楽譜出版社2001(初版1997)
*「江戸時代人づくり風土記 15 新潟」農山漁村文化協会1988 監修 牧野昇 会田雄次 大石慎三郎 編纂 加藤秀俊 谷川健一 稲垣史生 石川松太郎 吉田豊。

256chi:2019/07/07(日) 15:58:55 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。②

*「山怪 1 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2015 SANKAI。
*「山怪 2 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2017
*「山怪 3 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2018
*「荘園 日本史小百科」編 安田元久 東京堂出版1993(初版1978) P234島津庄しまづのしょう;日本最大の荘園。建久八年(1197)に作成された「図田帳ずでんちょう」によると、総田数八千七百余町から成る。日向、大隅、薩摩にまたがる、「近衛家領の荘園」。
*「マタギ奇談」著 工藤隆雄 山と渓谷社2016
*「伝承怪異譚」著 田中螢一 三弥井書店2010 聞き取り収集収録地島根県全域(出雲・石見・隠岐)。
*「海の熊野」編 谷川健一・三石学 森話社2011
*「世界で一番美しい花粉図鑑」著 マデリン・ハーレー ロブ・ケスラー 監修 奥山雄大 訳者 武井魔利 創元社2011
*「武士と荘園支配」著 服部英雄 山川出版社2004
*「寺社と芸能の中世」著 安田次郎 山川出版社2009
*「杉 1・ものと人間の文化史141」著 平島裕正 法政大学出版2010
*「杉 2・ものと人間の文化史141」著 平島裕正 法政大学出版2010
*「紫式部の父親たち 中級貴族たちの王朝時代へ」著 繁田信一 笠間書店2010
*「日本のうた 第4集 1965〜1978」野ばら社1998 昭和③40〜53年。
*「土偶のリアル」著 譽田亜紀子こんだあきこ 監修 武藤康弘 山川出版社2017 絵 スソアキコ。
*「日本抒情歌全集 2」編著者 長田暁二オサダギョウジ ドレミ楽譜出版社2001(初版1991) 編集協力 (株)パイン・プロデュース。
*「江戸時代人づくり風土記 1 北海道」農山漁村文化協会1991 監修 牧野昇。会田雄次・大石慎三郎 編纂 加藤秀俊・谷川健一・稲垣史生・石川松太郎・吉田豊。
*「図説 日本古地図コレクション」著者 三好唯義タダヨシ 小野田一幸 河出書房新社2014(初版2004) 
*「古代史の思い込みに挑(いど)む」著 松尾光ヒカル 笠間書店2018

257chi:2019/07/07(日) 16:09:05 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。③

*「演目別にみる能装束 一歩進めて能観賞」著 観世喜正・正田夏子 撮影 青木信二 淡交社2004
*「神社の至宝 洋泉社MOOK 別冊歴史REAL 2017年1月16日」発行 洋泉社 執筆者 小倉一邦カズクニ・渋谷申博ノブヒロ。
*「江戸時代 人づくり風土記17石川」農山漁村文化協会1991
*「本瓦葺の技術 復刻版」監修 太田博太郎 著 井上新太郎 彰国社2009(初版1974)
*「風呂で読む 万葉挽歌 湯水に耐える合成樹脂使用」著 上野誠 新潮社1998
*「万葉びとの奈良」著 上野誠 新潮社2010
*「京都 鬼だより」著 梅原猛 淡交社2010
*「東アジア世界と古代の日本」著 石井正敏 山川出版社2003
*「紫式部と平安の都」著 倉本一宏 吉川弘文館2014

258chi:2019/07/07(日) 16:11:19 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。④

*「能のちから 生と死を見つめる祈りの芸能」著 観世銕之丞カンゼテツノジョウ 青草書房2012
*「恋する能楽」著 小島英明 東京堂出版2015
*「古代文字で遊ぼう」著 鈴木響泉 発行 可成屋 発売元 木耳社2005
*「墨のすべて」著 為近磨巨登 木耳社2010 ためちかまこと。
*「日本の書と紙 古筆手鑑[かたばみ帖]の世界」編者 石澤一志 久保木秀夫 佐々木孝浩中村健太郎 三弥井書店2012
*「江戸時代 人づくり風土記 5秋田」農山漁村文化協会1989
*「三次地方史研究 第1号」編集発行 三次地方史研究会1987
*「江戸の天文学 渋川晴海と江戸時代の科学者たち」監修 中村士ナカムラツコウ 角川学芸出版2012
*「古代の星空を読み解く キトラ古墳天文図とアジアの星図」著 中村士 東京大学出版会2018
*「紫式部伝 その生涯と[源氏物語]」著 角田文衞 法蔵館2007 つのだぶんえい; 1913年4月9日 - 2008年5月14日)は、日本の歴史学者(古代学専攻)。文学博士。従四位勲三等。大阪市立大学教授、平安博物館館長兼教授、古代学研究所所長兼教授、財団法人古代学協会理事長を歴任。 研究分野は文献史学と考古学の両分野で、その論考には日本・東アジア・ヨーロッパ・北アフリカ(地中海世界)にまたがる幅広いものがあった。 福島県伊達郡桑折町出身。成城高等学校在学中から濱田耕作の学問を慕い、京都帝国大学に進学し濱田の指導により考古学を学んだ。濱田の在職中での病没と、梅原末治との確執が無ければ、濱田の後継者となっていたとの説もあるほど将来を期待された学徒であった。 世界史的な視座に立って考古学と文献史学を統合した「古代学」を提唱。主要な研究テーマは、日本の奈良・平安時代史、古代学方法論、古代ギリシア・ローマ考古学、ヨーロッパ・アフリカの旧石器考古学、ユーラシア北方考古学など広範囲に及ぶ。 妻・有智子は陸軍大将・岸本綾夫の次女であり、手塚治虫とは義理のいとこに当たる。
*「世阿弥の中世」著 大谷節子 岩波書店2007 成城大学 文学研究科 / 国文学専攻職位:教授 学位:博士(文学),京都大学,2003年03月 専門分野:中世文学 主な担当科目:中世文学 最近の研究テーマ:能、狂言 研究内容:能及び狂言を中心とする中世日本文学。享受史、文化史の問題としての、謡曲研究。 略歴:1988年、京都大学大学院文学研究科国語学国文学専攻博士後期課程退学 学位:博士(文学) 主要業績:[著書]『世阿弥の中世』(岩波書店、2007年) 『無辺光 片山幽雪聞書』(共著、岩波書店、2018年) [編著]『伊藤正義中世文華論集』第一巻 謡と能の世界(上)(和泉書院、2012年) [論文]「狂言「拄杖」と『無門関』第四四則「芭蕉拄杖」」(『成城国文学論集』第41集、2019年)「狂言「八句連歌」の「をかし」——狂言と俳諧連歌——」(『国語と国文学』95巻9号、2018年)「毘沙門堂本古今集と能「女郎花」「姥捨」」(『中世古今和歌集注釈の世界——毘沙門堂本古今集注をひもとく——』、勉誠出版、2018年)「狂言「かくすい」考」 『成城国文学論集』第三十九集、2017年)「世阿弥、その先達と後継者——融をめぐって」(天野文雄編『世阿弥を学び、世阿弥に学ぶ』(2016年、大阪大学出版会)「狂言「釣狐」と『無門関』第二則「百丈野狐」」(『禅からみた日本中世の文化と社会』ぺりかん社、2016年)「弘安元年銘翁面をめぐる考察——能面研究の射程——」(『能面を科学する』勉誠出版、2016年)「世阿弥自筆本「カシワザキ」以前——宗牧独吟連歌注紙背「柏崎」をめぐって」(『国語国文』83巻12号、2014年)「「頼政」面を溯る——能・狂言面データベースの可能性——」(『デジタル人文学のすすめ』勉誠社、2013年)「細川幽斎と能」(『細川幽斎——戦塵の中の学芸』笠間書院、2010年)
*「源氏物語事典」編集 林田孝和 原岡文子 他 大和書房2002
*「能のおもて」著 中西通 玉川大学出版部1998
*「新源氏物語1上」著 田辺聖子 新潮社1985(初版1984)
*「新源氏物語2中」著 田辺聖子 新潮社1984
*「新源氏物語3下」著 田辺聖子 新潮社1985(初版1984) 主な参考文献下記のとおり。
・山岸徳平校注 「源氏物語」<日本古典文学大系>岩波書店刊
・阿部秋生、秋山虔、今井源衛校注・訳「源氏物語」<日本古典文学全集>小学館刊
・石田穣二、清水好子校注「源氏物語」<新潮日本古典集成>新潮社刊
・円地文子訳「源氏物語」新潮社刊
・谷崎潤一郎訳「源氏物語」中央公論社刊
・与謝野晶子訳「源氏物語」<日本の古典>河出書房新社刊
解説者 石田百合子。
*「田辺聖子全集第1巻」集英社2004

259::::2019/08/04(日) 21:30:51 ID:5nhpwGXA
あげ

260修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/09/20(金) 19:26:02 ID:3Lreac3U
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』を読みました。
現在の歴史学が、「武士」がどのように誕生したのかを説明できていない事に絶望した著者が武士の起源論に挑戦した挑発的な一冊です。

著者の主張をまとめると、武士というのは弓馬術に優れた人達の事で、その術を学ぶことが出来たのは中央貴族と地方郡司層だった。百姓がこのような技術を学ぶことはない。
地方の収奪を目論む中央貴族と中央貴族の血統を求める地方郡司層、この2つが結びつくことで武士団が生まれた。
ただ、彼らに武士という名前を与えたのは朝廷(滝口武士)で、その点では朝廷の役割も重要だった。

中央と地方の対立という視点、弓馬術という視点はおもしろく、今後の武士起源論において論争の種になる一冊なのかなと思いました。
中央と地方の対立だけで説明できるのかとか思う面もありましたが、面白かったです。

261修都:2020/04/05(日) 16:49:21 ID:2jZy2d7Q
久々にここを使う。

山田朗『日本の戦争Ⅲ 天皇と戦争責任』を読みました。
昭和天皇の史料としては『独白録』と『実録』があります。どちらも貴重な史料であることは変わりませんが、
昭和天皇=平和主義者というストーリーに成り立っているということを理解し、何が書かれていないのかを分析することが重要だということが分かりました。

昭和天皇が政治に口を出した事例としては田中義一首相辞職と2・26事件が有名ですが、それ以外にも多く口を出していたということがよくわかりましたね。
特に沖縄戦では、もっと積極的に反撃すべきと昭和天皇が言ってたりもしていたようです。

あと、日本には社会主義・共産主義以外に共和勢力というのがいなかったので昭和天皇をマッカーサーが理解するしかなかったという話も興味深かったです。
少年天皇にするつもりもなかったので、昭和天皇退位論者であった近衛文麿は戦犯になり自殺したという話もあり得るなぁと思いました。

262修都:2020/04/05(日) 16:50:17 ID:2jZy2d7Q
>>261
×理解するしかなかった
〇利用するしかなかった

263修都:2020/06/20(土) 20:14:59 ID:2jZy2d7Q
岡本隆司さんや木村幹さんが執筆者にいるのが気になって購入した『日本近現代史講義』
なんとこれ、自民党の勉強会で行った講義をまとめたものなんですね。執筆者が現実主義的な人ばかりなのはそういうことか
しかし、「特定の歴史観やイデオロギーに偏らず」というのを売りにするのはどうなのか。
自民党向けに現実主義の学者たちが行った講義をまとめた本は「特定の歴史観やイデオロギーに偏」っていないのか?
それ以上に気になるのは、一部自民党議員も現実主義の学者たちですら主張しないことを自分たちは主張しているということを分かってて言っているのではないかということ
まぁ自民党議員全員がこの勉強会に参加してたのかは知らんが

264修都:2020/06/24(水) 21:54:33 ID:2jZy2d7Q
『日本近現代史講義』の木村幹「日本植民地支配と歴史認識問題」が植民地というものについてわかりやすくまとめていくれていますね。
日本の植民地支配は西洋とは違うんだということを主張する人達がいるけれど、そもそも植民地支配とは何か?をちゃんと理解しているとは思えないということを木村さんは言っているわけです。

日本は西洋と違って朝鮮に大規模な投資を行ったという主張があるが、それはあの時代の植民地支配では当然のことである。
ただただ搾取するだけの時代はその前の時代であって、日本が西洋を見習っていた時代にはもはや西洋でも植民地に大規模な投資が行われるようになっているということですね。

また、そもそも植民地とはどういった場所を指すのかということも解説してくれています。
これは1つのことで説明できるようです。
つまち、本国とは違う法が適用されているということ。
台湾や朝鮮では明らかに日本本国とは違う法が適用されていたということですね。

265修都:2020/07/26(日) 14:37:33 ID:y7S32/wE
岡本隆司『「中国」の形成』を読みました。
岩波のシリーズ物の最終巻で、清王朝から現代までを論じています。

清王朝は、多元的な中国を多元的なまま地方に任せて支配することで、東アジアに安定と平和をもたらしました。
中央政府と地方の政治・経済はまとまっていなかったのですが、それでも安定はしていました。
それが決定的に崩壊してしまったのは西洋の進出、そして日清戦争でした。
近代的な1つにまとまった国家をつくらなければいけなくなったのです。
しかし、清王朝にその力はなく、中央支配の強化に地方が反発した結果、軍閥化や「独立」が進むことになります。
辛亥革命以降、中国を1つにまとめることを一気に進めたのは中国共産党でした。
中華人民共和国は、海外の経済に頼ることが出来なかったので、自前の経済制度をつくる必要があり、そのことが社会経済を1つにすることを進めたわけです。
しかし、未だに中国が1つになっていないことは説明するまでもなく皆さんお分かりでしょう。

今の中国が清王朝の時代に戻ることは難しそうですが、果たしてどうなっていくのか、そんなことを考えさせられる1冊です

266イル:2020/09/01(火) 05:05:51 ID:cxJJ3dxw
マガジン連絡変更いってこおい

267修都:2020/10/09(金) 18:18:12 ID:RDu1ZCCo
岡本隆司『教養としての中国史』を読みました。

近年、必ず毎年1冊は中国史の本を出す著者の新しい本。
まぁ基本的に言ってることは、どの本でもほとんど変わらないのだが、この本では講義調の文章になっている。
著者の主張としては中国の3つの特徴がある。
「官民乖離(政治と民衆の間が離れすぎている)」、「コミュニティへの強い帰属意識(国家よりコミュニティ)」、「一つの中国(ばらばらだからこそ一つになることにこだわる)」
以上の3つは、どの本でも言っていることであり、これを理解できなければ中国を理解することは難しいということですね。

内容的には、そんなに異論はないのだけど、ちょっと気になったのは気候の話かなぁ。
元が滅んだのは寒冷化だったという話はどこまで実証できるんだろうとは思った。

268修都:2020/10/17(土) 12:51:57 ID:y7S32/wE
早島大祐『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』を読みました。

今年の大河放送にあわせて出された本の1冊ですね。
タイトルに牢人医師とありますが、それについての記述は最初の方のみになります。
当時は武士に医術の知識が必要だったが光秀は特に豊富だったのではないかということですね。

謀反に関しては、光秀は異例の出世を遂げた1人だが、織田政権が段々と織田一族を中心に据える組織になっていくなかで、光秀の立場が段々と苦しくなっていたことにあったのではないかとしています。
そう考えると、秀吉も織田政権では途中までしか出世しなかったのではないかとも考えられますね。

個人的に面白かったのは、裁判に関する部分。
織田政権の裁判方針は現状追認。正当なことが書かれた書類であっても現状を変えるものは採用されないというやり方だったようです。
普通に考えたら裁判としてはおかしいのですが、それでも織田政権の裁判が求められていたというのが面白かったですね。

269真ナルト信者:2021/02/10(水) 15:38:23 ID:???
▽ぶんしょうを狂きにしないための3のこつ(対人)文章の問題地図 上坂徹著
・「ありがとう」からはいーる
・かならずけーごにする
・よけいなかんじょうをのせない

ダメなれい「こんなことすら、わからないの?」「きいてませんよ」「みんながそういってるんです」
ほんらいのことはいがいにひにくなどめっせーじをこめようとしないとこです。

じんせいはおべんきょうのひいび

270真ナルト信者:2021/04/26(月) 00:28:19 ID:???
あげ

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273<削除>:<削除>
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274修都:2022/03/05(土) 20:13:47 ID:hOsKLosY
現在、岩波講座世界歴史シリーズが発刊されているので、日本歴史シリーズに引き続き、メモ代わりに。

佐藤正幸「人は歴史的時間をいかに構築してきたか」『岩波講座世界歴史01』
世界という概念は地球上の陸地に生息する人類全てを指示する概念ではなかった
→世界はいくつものエクメネ(人類居住圏)から形成されていたから→各エクメネでは、それぞれが独自の紀年法と暦法。多くの場合、複数の紀年法が併用・併記
→世界史と呼べるものは誕生すべくもなかった
キリスト紀年はキリストの死後500年以上たった紀元6世紀に創案された→キリスト紀年法がキリスト教会で広く使われ始めたのは10世紀以降。一般の人は14世紀以降
→それ以外の紀年法も18世紀まで使用されている
17世紀の科学革命→地球は世界が創造された年より以前に存在していたことが証明された→キリスト紀年法による紀元前という考え方
キリスト紀年法は宗教色を排除して世界に広まった→20世紀に入ってからキリスト生誕年は起源元年より前ではないかという疑義→宗教性がそがれる
アラビア(インド)数字の優位性→ゼロという表記と位取りの原理→0のおかげで左から羅列表記するだけで位取りが可能
10世紀にアラビア数字はヨーロッパに伝わり、12世紀頃から使用されるようになり、16世紀にはヨーロッパ全域に拡大
ヨーロッパ科学が世界を席巻することが出来たのは10個の記号を並べるだけで表現できるアラビア数字のおかげ

275修都:2022/03/06(日) 15:37:31 ID:hOsKLosY
西山暁義「世界史のなかで変動する地域と生活世界」
地域社会と住民によるしたたかな主体性が国境の形成、機能に重要な役割→フランスとスペインに分かれたピレネー山脈南東部、東西ドイツ
地域社会の主体性は国民国家形成のプロセスを下から後押しする可能性もあれば、国境をまたぐトランス・ナショナルな地域・地帯を形成することもある
→ピレネー山脈西北部はフランス・スペインをまたいで慣習、東西ドイツの親族による越境的ネットワーク
アフリカや北中米の国境線は人工的、恣意的だが、ヨーロッパの国境も人工的
地域意識や郷土理念も、ナショナリズムと同様、想像の共同体
世界史は国民国家史の寄せ集めではなく、地域史の寄せ集めでもない

276修都:2022/03/07(月) 22:18:21 ID:hOsKLosY
長谷川貴彦「現代歴史学と世界史認識」
19世紀の近代歴史学(実証史学)を批判して登場してくる20世紀以降の現代歴史学→近代歴史学の基調は方法論的ナショナリズム、ヨーロッパ中心主義
マルクス主義史学→社会的構成体の発展段階。発展段階論の基礎は生産様式。階級闘争によって移行していく→1930年代から主流
近代化理論→伝統社会から近代社会へ移行していく。第二次世界大戦後に登場する理論
従属理論→すべての社会に適応される普遍的な発展段階論を批判。世界を中核・半周縁・周縁と分節化
1970年代以降、転回が始まる→経済的・社会的な関係が文化的・政治的表現の基礎を提供するという前提に異議申し立て
ポストコロニアル研究→征服されたものの視点に基づく。ヨーロッパ中心主義的な世界史叙述を批判→ポストコロニアル批判→植民地主義への対抗がナショナリズムを内包している
歴史学のナショナリズムを克服するために登場したのがグローバル・ヒストリー
近代以降の世界史叙述の基本的な単位は国民国家であった。マルクス主義は国際主義の理念にもかかわらず、革命への経路は国民国家単位。近代化理論も同様
従属理論も均衡ある国民経済の確立が世界資本主義からの離脱の戦略。グローバル・ヒストリーの近年、国民史の位相も回復しつつある
近代の世界史は進歩の目的地として近代のヨーロッパを設定、マルクス主義や近代化理論も欧米の近代性が進歩の座標軸
グローバル・ヒストリーも進歩主義とヨーロッパ中心主義が前提とされている

277修都:2022/03/08(火) 22:19:36 ID:hOsKLosY
三成美保「ジェンダー史の意義と可能性」
歴史学も男性の男性による男性のための歴史であることに無自覚だった→男性歴史学者が男性が残した文字記録に基づいて研究を公表し、男性教授によって評価を受ける
フェミニズム第1の波(19世紀後半〜20世紀初頭)→女性参政権と高等教育を求めた。白人中流女性を中心とするリベラル・フェミニズム。性別役割分担を受け入れていた
第2の波(1960年代後半〜90年代)→フェミニズムの多様化。多くの成果
第3の波→60〜70年代アメリカで生まれた世代が中心。個人主義・多様性を重視。第2波は世界全体で共有されたが、その後は各国・各地域で自律的に発達
女性社会史は白人中産階級女性を無自覚に普通の女性たちとみなしがち
→ジェンダー史は、人種・民族・階級などによるバイアスを反省的に検討。逸脱的存在とみなされてきた性的マイノリティの歴史もテーマとする
社会主義国は第2波フェミニズムに否定的だった。社会主義は女性解放理念を含んでおり、受容に値しないとされた
→台湾は中国との政治的緊張関係から国連での地位の上昇を目指して、ジェンダー政策を積極的に展開

278修都:2022/03/09(水) 20:45:46 ID:AY2wDrvM
粟屋利江「「サバルタン・スタディーズ」と歴史研究・叙述」
サバルタン→従属的階級
インドにおけるマルクス主義の学問伝統を引いた初期サバルタン・スタディーズ・グループ(70年代末から80年初頭)→既存のインド史研究はエリート主義であると総括
→同時にマルクス主義的歴史研究も非エリートを階級意識への発展という物差しで測る機械的な応用、分析であると批判
1980年代以降、後期サバルタン・スタディーズ→近代西洋社会に由来する概念や価値、啓蒙主義的理性への批判
サバルタン・スタディーズへの批判→ヨーロッパからの差異を強調すると土着主義に近似する。発展や進歩を批判したのちの歴史像はどのようなものか

279修都:2022/03/10(木) 20:58:18 ID:AY2wDrvM
金沢謙太郎「環境社会学の視点からみる世界史」
更新世(氷河時代)は旧石器時代→新石器時代(日本では縄文時代)。縄文人は狩猟栽培民→定住集落を形成しつつも、一定の遊動性を発揮して食料を共有
現在でもボルネオの先住者は恵まれた自然環境で、低い人口密度で遊動的な生活様式を志向
縄文時代には地域集団間の社会的ネットワークができている

280修都:2022/03/11(金) 20:54:29 ID:AY2wDrvM
飯島渉「「感染症の歴史学」と世界史」
感染症は世界を変えた→代表例はペストだがヨーロッパ中心主義的な考え方
ペストは中世を崩壊に導いたのか→14世紀、ペストによる人口の減少恒常化はしだいに経済的影響→農産物価格低落、手工業製品価格高騰
→農民の都市流入激化、都市の人口は農民の移住で補充。村落の共同体は動揺、紛争→ペストの影響は過大ではないが構造的変化の背景にはなった
19世紀後半のペスト流行時、アジアで死者が多かったのはインドのみ。しかし、インドの歴史を変えたとする研究はほとんどない
感染症の流行はたびたびあったにもかかわらず、今後もそれが起こりうるにもかかわらず、歴史に決定的な影響を及ぼした感染症は多くなかった
世界を変えたという表現がぴったりなのは、ヨーロッパから感染症が、免疫性のない南北アメリカに持ち込まれ、先住民社会の人口を激減させ、植民地化を促進したこと
感染症が世界を変えたことはあまりないが、感染症が変化を促したことはたくさんあった→コロナで明らかになったように、感染症の流行は、既存の制度などの持つ構造的な問題を顕在化させる

281修都:2022/03/14(月) 19:58:51 ID:AY2wDrvM
吉岡潤「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解」
ヨーロッパ統合の過程は、和解の共同体を構築する試みだった→歴史認識の相違を自覚し、自民族美化を忌避することがヨーロッパ・スタンダードに
東欧では、ヨーロッパ統合への参加を求めていた間はヨーロッパ・スタンダードを受容しようとしていた→2000年代半ば以降、ポピュリズムが勢いを増すにつれ歴史認識の乖離が目立つようになる
バルト諸国やポーランドは、社会主義化を全体主義による支配の確立過程とみなし、戦後の社会主義を全否定している→西欧にもこの考え方が拡大
→言論自由化後のポーランドでは、保守的で自国中心主義的な歴史認識とリベラルでヨーロッパ志向の歴史認識の2つが競合→どちらも社会主義期を否定
2000年、ポーランド系ユダヤ人学者ヤン・トマシュ・グロスが、1941年7月のユダヤ人虐殺事件に普通のポーランド人が関わっていたことを指摘
→逆に保守的で自国中心主義的な歴史観を台頭させるきっかけともなった→「法と公正」政権は自国史中心主義的な政策を行う

282修都:2022/03/15(火) 20:04:17 ID:AY2wDrvM
笠原十九司「東アジアの歴史認識対立と対話への道」
2000年ころ、史上最も良好といわれた日韓関係、経済を中心に活況を呈した日中関係→2001年、新しい歴史教科書をつくる会の歴史・公民教科書が検定で合格
→韓国政府は。82年の近隣諸国条項に反しているとしてつくる会の教科書の記述について修正要求を日本政府に提出。中国政府も訂正要求を提出
→文科省は「明白な誤りとはいえない」と回答、両国の反発を招く→韓国政府は日本文化の開放政策を停止、交流事業も中止された
つくる会の歴史教科書は採択率0.04%、公民教科書は0.1%→韓国や中国の反発は鎮静化
2005年、中国の抗日戦勝利60周年、韓国の独立達成60周年。この年に検定合格した歴史教科書から従軍慰安婦の記述が消えた→中国各地で抗議デモ。韓国政府は憂慮を表明
2002年、第1期日韓歴史共同研究委員会発足→日本側は教科書検定制度の問題であって歴史研究とは別という立場、韓国と対立→事実上決裂して終わった
2007年、第2期日韓歴史共同研究委員会→成果なく終わる
2006年、安倍首相は胡錦濤国家主席に日中歴史共同研究を提起→友好な雰囲気で研究報告・討論→日中戦争は日本の中国侵略戦争と規定、南京大虐殺も事実と認定
→安倍政権は評価せず、無視した

283修都:2022/03/16(水) 20:56:57 ID:AY2wDrvM
勝山元照「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る」
2022年から高校地理歴史は歴史総合・地理総合必修、地理探求・日本史探求・世界史探求選択制に移行
1950年代、高校社会科で自分の頭で考え自分の言葉で表現する歴史学習が希求された→60年代、そういった学習は後退する
→80年代、知識詰め込み授業が大勢を占め、高校社会科は地理歴史と公民に分割
2006年、500校を超える高校で世界史未履修問題→世界史は受験に不利との風潮→2011年、学術会議による提言→歴史総合ができる
2018年新指導要領→歴史的な見方・考え方を強調

284修都:2022/03/17(木) 21:59:45 ID:AY2wDrvM
吉本道雅「「中華帝国」以前」『岩波講座世界歴史5』
前2500年ころに始まる龍山期には階級分化、都市・文字の出現などがほぼ出そろっている→前1900年からの二里頭文化は中国本土全域に影響力
→夏王朝は二里頭期以降の諸王権に関わる伝説が春秋戦国時代に一個のイメージに結晶したもの
→前1600年頃、殷王朝成立→前1350年頃から甲骨文出現。甲骨文で殷王朝は大邑商と自称→邑とは城壁で囲まれた集落
殷王の支配が及ぶのは河南北部・南部(内服)、諸侯に対する支配は緩やか→殷王朝は王位継承が不安定だった→2大支族が交代で王位
天の観念は周人にはじまり、周王は天子を称する。周公旦は中原支配の拠点として成周(洛陽)を建設、天下の中心
王が諸侯に賜与すべき邑田の枯渇→権益や家産の分配→権益創出のため外征→内紛や紛争の中で西周王朝滅亡→東遷(東周)
→中原の有力諸侯国は小国を併合して領域を拡大→有力諸侯国の紛争慢性化→諸侯は最有力の諸侯を盟主に戴く同盟を結成し、紛争停止を図る
→前中原的な覇者(盟主)体制と各同盟国の世族支配体制→中原覇者晋が中原外の斉・楚・秦に対抗するという構図が前4世紀戦国中期まで持続
中原諸国は晋に貢納することを義務づけられていたが、前546年晋楚講和の結果、根拠が失われる→内乱続発。晋の覇者体制解体の危機
孔子は客観的規範(道)に基づく君臣関係を主張、君主が道を逸脱した場合、臣下は自由にやめることができるとした→官僚制
前453年晋の正卿知伯敗死→ここから戦国とする研究者が多い
趙・韓・魏(三晋)は晋から実質的な独立→それぞれ斉・楚・秦と提携。趙・韓は周を東西に分裂される→周王朝・晋侯を奉じて覇者体制を維持することは不可能
春秋期から郡・県はあったが、秦漢的郡県制の形成は戦国中期
前349年、晋断絶→周王朝は秦を覇者に認証→前334年、斉と魏は王号を相互に承認、周王朝と秦の覇権を否定。前325年、秦は独自に王号を称す
孟子が新たな政治的秩序(王道)を提唱。王の1人が天下を統一し、新しい王朝を開くことを期待
秦の独走→前256年、周王朝が断絶すると昭襄王は周に代わる王朝樹立を宣言し、秦を天子とする封建制を志向→統一はなかなか進まなかったが前221年天下統一
→郡県制施行、全領域を皇帝の直轄領とした→前206年、秦滅亡で封建が復活
中国→官僚制が編成、礼によって秩序づけられた支配層、高い農業生産力、他国との外交関係を持続しうる存在→夷は政治的文化的未成熟
『論語』は異民族にも適応しうる儒家的倫理の普遍性を強調、異民族同化の可能性を主張

285修都:2022/03/21(月) 17:13:16 ID:AY2wDrvM
宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」
中国史上最初の帝国とされる秦は軍事的な拡大傾向を持ち、幾多の戦役を勝ち抜いた
荀子は秦の軍功褒章制度を評価
春秋時代、兵役は士以上の階層が特権的に担っており主役は馬の戦車→前6世紀後半から主力は歩兵に→広い階層の人間を徴発→戸籍がつくられる
秦の兵力→職業軍人・専門兵・応募兵・徴集兵・刑徒
新占領地には罪人、一般人を移住させる→兵站の拠点になり、兵員徴発地となる
秦王政は6国との共存を放棄し、16年で斉を滅亡させ戦いは終結→それまでの戦いとは違う全面的な総動員
→台所事情が苦しくなる、限界→拡大した領土を支配する軍事体制は確立できなかった
漢の皇帝が直接支配したのは秦の元々の支配領域を中心とした帝国の西半→劉邦最大の脅威は帝国東半の諸侯王、功臣たち→粛清後も直轄化されず、親族が封建された
→諸侯王にある程度の自由裁量を認め、間接的に統治するやり方→軍事力動員において、各王国が兵を徴発・組織し、費用も各王国が負担する
→皇族出身諸侯王との関係も悪化し、前154年呉楚七国の乱が起こる→皇帝は全土の直轄地化を進めてゆく→ただし、軍事費の一定部分を王や列侯が負担するという体制は存続する

286修都:2022/03/22(火) 21:43:53 ID:AY2wDrvM
鷹取祐司「漢帝国の黄昏」
漢帝国は物資と労働力を民衆から徴発した→民衆はたやすく逃亡する存在→帝国存続のためには民衆の生活を守ることが必須
武帝崩御、昭帝即位→武帝期の軍事的成果からの負担軽減と休息が政治課題→次の宣帝期頃までに夷狄が帝国西北辺の諸郡に少なからざる規模で移住していた
→一部は選抜されて漢軍に編入
元帝は節約、税の減免を実行→儒学が政治に深く入り込んでいたので経済振興による民衆の生活向上が推進されることはなかった
→元帝が崩御すると王皇后の実子成帝が即位→外戚王氏が権勢→哀帝は高級官僚や豪族が広大な田宅と多くの奴婢を保有していることを問題とした
前漢晩期には辺境防備の傭兵化が進行
王莽が皇帝となると改革が強行されたため、混乱に陥る→文書行政が徹底していたため、その命令は確実に遂行されていた→王莽の混乱で多くの人々が逃亡、流民化
光武帝は郡国の常備兵を廃止→移住していた夷狄の軍事利用が加速→中華と夷狄の混淆
章帝→10歳の和帝→13歳の安帝。安帝の代行として鄧太后→鄧太后が生きている時は鄧氏の専横は抑制されていたが、死去すると外戚と宦官の横暴
安帝の時代107年、羌の大反乱→西域遠征に使役されたことがきっかけ→鎮圧するも帝国の国庫は空となる→134年にも反乱
→郡国の常備兵が廃止されているので鎮圧の戦力は夷狄と募兵
儒学が政治に深く浸透しているので経済積極政策はできない→財政状況は改善しない
安帝期以降、漢人の反乱も発生するようになる→反乱はいずれも帝号や王号を称する→漢帝国はすでに民衆から見限られている
→漢帝国立て直しの最後の希望は清流士大夫→専横を極める宦官を批判→逆に排除される
疫病の流行→人々の不安→太平道などに救いを求める→184年、太平道信者大反乱(黄巾の乱)→各地で反乱
190年、多くの胡兵を率いた董卓が献帝擁立→実質的に後漢王朝滅亡→220年、献帝が曹丕に禅譲、後漢王朝滅亡

287修都:2022/03/23(水) 20:25:50 ID:AY2wDrvM
石井仁「漢人中華帝国の終焉」
曹操直属軍が地方の要地に駐留し、治安維持を開始したのが都督府の始まり→都督制は魏晋南北朝期を通して基幹的な制度・体制
董卓、曹操が勢力をのばしたのは偶然ではない→後漢帝国の最重要課題だった西方・北方政策、非漢人対策を担った人材だった
三国時代、中国の勢力は南北に拡大した→非漢人との関係が多様化、深化
州都督は支配地域の官民に人員・物資の供出を強要できる→流民、非漢人にも支配の網→都督制は後漢末以来の社会変動に対応し、人の直接把握を狙った統治体制
→定住民と流民、漢人と非漢人を区別しない平等な制度→北宋まで残存。魏晋の都督制は普遍的、完成度の高い政治制度だった
漢末の群雄、三国政権は漢人中華帝国維持という点で一致している→一方、都督制は都市から農村への人口移動、胡漢の雑居を前提に適用される政治制度→漢人中華帝国の終焉

288修都:2022/03/24(木) 19:27:14 ID:AY2wDrvM
髙村武幸「漢代地方官吏の日常生活」
漢の官僚機構の基礎は戦国期から発展した秦の官僚機構。漢代の地方行政機構は郡と県→郡は前4世紀末までに秦で設置されたと考えられ、県を管轄
郡県の長官・次官は中央政府が任命。この他、諸侯王国・列侯国もある→紀元前154年、呉楚七国の乱以後は、諸侯王国は郡、列侯国は県と大差ない権限しかない
県の下に郷と里。郷の主要業務は民衆の把握と徴税。前106年、全国は13の州に分けられてもいる
下級官吏は各官府長官が任用→経済的に中流以上が多い→長官・次官らは地域事情に詳しいとは限らず地域に影響力を行使できる人物を任用する傾向
優れた地方長官の転任→地域性の均質化。ただし、地方長官は地域の事情に詳しいとは限らないので地方少吏らが地域社会の利害を優先しても抑えられないケースが多々
→地域有力者との関係は党派として機能
前漢末以来広域地域社会成立→184年、黄巾の乱以後、漢の統治能力が著しく低下すると州を単位とする地域意識

289修都:2022/03/25(金) 20:12:44 ID:AY2wDrvM
釜谷武志「漢魏晋の文学に見られる華と夷」
前漢の詩歌として伝わる烏孫公主の歌→西域の烏孫王国に嫁いだ女性の歌→中国の生活習慣と異なる住と食の例を挙げる
北方の匈奴に嫁いだ王昭君の物語→烏孫公主の物語も王昭君の物語も望郷の念にかられながら異国で生涯を終える同一の類型
西晋時代の王昭君を題にした歌→異民族は人以外の動物に相当しているという表現
後漢時代、南匈奴に連行されて王の妾となった蔡琰の物語→北方の陰鬱さ、ことばの通じない人種の野蛮性
南朝の梁では北方の地や民族を内容とする歌がたくさん制作された→北方を異民族から奪還したいと願いつつ、かなわないことからノスタルジアを覚えるしかない

290修都:2022/03/26(土) 16:36:24 ID:AY2wDrvM
古勝隆一「礼秩序と性差」
殷以来の礼制があり、孔子と後継者が礼を革新し思想的に深め、後世へと引き渡した→殷王には帝に対する信仰があり、それが西周王の天信仰のもと
周の礼→天命が王の権力の源泉で、王は臣下や諸侯に青銅器を下賜し、その命を再分配していた
中国を統一した秦は、周の天命を完全に断ち切ったという意味で礼においても画期→始皇帝は東方の名山をめぐり祭祀→礼による権力の誇示
漢は武帝期以降、儒教が漢の制度に導入された→後漢から西晋にかけての諸王朝も礼制の整備に熱心→秦漢に作られた統一王朝的な礼制が引き継がれた
春秋時代、男女の別は社会通念だった→孔子の前から成立していた→秦代の思想家には中国の太古や異民族には男女の別がないという思想がある
婚姻は男系の家を中心とした視点のもと、礼において重視される→中国古代では、夫婦は対等ではない
礼の基本的な構想は、それぞれの人が与えられた立場(分)に応じて行動すべきというもの→男女の役割分担
新石器時代では男系ではない双系的な社会→二頭里文化の儀礼は男性中心だったのではないか→殷時代の王妃は王陵区に埋葬されていない
→西周時代は夫人墓が王墓と並んでおり地位が上昇したと思われるが男性優位は変わらない
春秋時代の男女の服喪規定は対等に近い→戦国時代の夫婦墓は妻の墓が小さくなる

291修都:2022/03/27(日) 16:47:07 ID:AY2wDrvM
田中俊明「楽浪と「東夷」世界」
中国東北にいちはやく置かれた遼東郡は戦国時代、燕の時代(前300年前後)→郡設置以前から燕人の入植があった
漢の時代、燕国は諸侯廃絶策で瓦解し、燕王に仕えていた満は朝鮮に逃げ、王となった→衛氏朝鮮国成立→朝鮮は漢の外臣として認められる
→前108年、外臣にふさわしくないとして武帝に滅ぼされる。国としては王を中心に土着中国人と在地首長層が結集したものだった
→武帝は楽浪・真番(後に廃止)・臨屯(後に廃止)・玄菟郡を置く→後漢末、董卓の遼東太守公孫度が自立→子の公孫康が帯方郡を設置
高句麗には公孫氏に通じる勢力と魏に通じる勢力とがあった→魏が公孫氏を滅ぼし楽浪・帯方郡を接収→魏と高句麗の対立
卑弥呼は魏が公孫氏を平定した時に使者を送っている

292修都:2022/03/28(月) 20:39:30 ID:AY2wDrvM
荒川正晴「漢晋期の中央アジアと中華世界」
紀元前後頃、パミール以東のタリム盆地周辺に大小様々なオアシス国家。パミール以西には一都市一国家的なオアシス諸国
秦漢代、中央アジアの草原地帯に現れたのが、遊牧国家匈奴
シルクロード→中央アジアを中心にしたユーラシア大陸における前近代の交流・交易のネットワーク
遊牧国家はオアシス国家を支配していた→漢の武帝は匈奴を討滅する目的でパミール以西まで使者として張騫を派遣→これ以後、漢は西域に進出→西域支配は比較的安定
クシャン朝勃興→シルクロードの主要ルートはイランへ延びるルートではなく、インドへ南下してゆくルートに
後漢の班超はクシャン朝の勢力進出を押しとどめる→班超が中国本土に帰還すると西域経営が急速に悪化、西域から完全撤退。クシャン朝全盛時代
中国への仏教伝来は、クシャン商人の東方活動が活発化し始める時期
タリム盆地周縁のオアシス国家は中華世界の政治的な統治を受け入れても、文化・宗教的にはインド文化の影響下。オアシス国家では仏教を信奉
三国魏の時代に中国と西域との関係は再構築される→大月氏(クシャン朝)に新魏大月氏王を授与(この称号は知られている範囲では大月氏以外では倭国のみ)
→当時、呉の孫権が皇帝になり、東南アジアとの結びつきを強めていた→呉との対抗上、魏は西域の大月氏、東方の倭国に称号

293修都:2022/03/29(火) 21:47:05 ID:AY2wDrvM
佐川英治「十六国北朝隋唐政権と中華世界」
十六国期ほど華北が分裂した時代はない→劉淵が漢の劉氏の後裔として皇帝に即位→漢の将軍だった石勒は趙王になるが撤回されたことで袂を分かち、漢は分裂(漢と前趙)
→劉氏を倒し石勒が皇帝に即位(後趙)→やがて内乱が起こり、好機として前燕が河北に進撃→皇帝に即位
関中では後趙の滅亡後、前秦が建国される→皇帝に即位→前燕を滅ぼす→やがて華北を統一→東晋に敗れる
→皇帝・天王が複数いたのは前燕と前秦が対峙した18年間のみ→前秦敗北後は皇帝・天王を称する国が常時併存する状況
鮮卑の拓跋部は曹操の時代に勢力を築き、4世紀の初めには晋から援軍を要請されるようになっていた→338年、後趙の人質だった什翼犍が戻って王となると君健安定
→376年、前秦に滅ぼされる→386年、前秦崩壊後、魏を名乗る→398年、皇帝に即位(北魏)→北魏は十六国のなかで唯一モンゴル高原の草原世界に君臨
436年、北魏が華北の全域を支配、北は柔然、南は宋と対峙した。北魏では皇帝と可汗の称号を併用(これまでは併用されなかった。可汗は非漢民族の称号)
十六国期は華北に仏教が普及。仏教振興は前秦崩壊後。中華を相対化する仏教を王権に取り込む素地は北魏にはあった→皇帝・可汗を併用する北魏はもともと中華を相対化している
466年、宋の皇位継承をめぐる乱で逆臣となった人物が北魏に降伏してきたことで北魏の領土拡大→膨大な兵力が必要→兵役の公平化と租税の負担軽減→均田制
→兵力を民に担わせる反対給付としての均田制
孝文帝は洛陽に遷都し、宮中での鮮卑語を廃止、漢化政策
北魏内で爾朱氏の力が強くなる→爾朱氏を高歓が倒す→孝武帝が宇文泰の下に出奔→高歓は孝静帝を擁立(東魏)。宇文泰は孝武帝を殺し、文帝を擁立(西魏)
東魏では高歓の子が即位(北斉)。西魏では宇文泰の子が即位(北周)→574年、北周の武帝は仏教と道教を禁止→577年、北斉を滅ぼす
→幼帝を補佐した楊堅は仏教・道教禁止を解く→581年、楊堅が即位(隋)→589年、陳を滅ぼして中国統一
都城制は北魏の洛陽城にはじまる

294修都:2022/03/30(水) 20:10:34 ID:AY2wDrvM
鈴木宏節「トルコ系遊牧民の台頭」
遊牧民についてはウイグルを過渡期として遊牧社会が古代から中世に移行したという時代区分が共有通認識
トルコ系遊牧民も世俗王権は世襲。君主はカガン(可汗)
遊牧国家ではカリスマ的な君主のもと、強大な王権の求心力が発生する→時代の経過とともに中央の権力は分散
突厥はユーラシア東西に勢力拡大→部族集団をつなぎとめるための方策としてタルカン制

295修都:2022/03/31(木) 21:27:20 ID:AY2wDrvM
辻正博「隋唐国制の特質」
隋の文帝は州と県の間の郡を廃止、州―県とした→地方間の任免権を中央に回収→地方統治は中央派遣の官員が担う
煬帝は二百数十年ぶりに統一された中華の皇帝だった→李淵は煬帝の母方の従兄弟。北方防衛を任されていた李淵は突厥と結び、長安に進軍→入城すると煬帝の孫を皇帝に擁立
→煬帝が死ぬと自身が皇帝に即位(唐の高祖)→隋朝官人は別の煬帝の孫を皇帝とする→隋が滅亡しても鄭や夏では隋の官制を用いた→唐は差別化を図るため律令で独自色
隋唐は身分秩序で成り立っていた
文帝は各地に置かれていた軍府を大幅に削減、兵籍につけられていたものを民籍に編入
唐王朝は軍役を課した→衛士に選抜されなかったものは防人→負担に耐え切れなくなった農民は逃亡しだす
衛士は宮城の警備で戦闘要員ではない。防人は辺境警備。戦時にのみ行軍を召集・組織して兵員を大量動員する→8世紀前半になると職業兵士が中心になる
北周から隋、隋から唐への変革はそれまでと違い、前朝国制の継承を拒絶するものだった

296修都:2022/04/01(金) 20:41:48 ID:AY2wDrvM
戸川貴行「南朝の天下観と伝統文化」
4世紀初頭、永嘉の乱→騎馬遊牧民が西晋の都を攻略し、皇帝を殺害→漢族は江南に避難、東晋が成立→国家儀礼と雅楽の大部分が失われたと思われる
→中原を恢復するまでは国家儀礼や雅楽の整備を控えるべしとされた→東晋につづく宋の孝武帝は中原恢復をあきらめ健康を新たな天下の中心にしようとした→国家儀礼の整備
北魏では530年、権臣の爾朱栄が孝荘帝に殺された後、従子の爾朱兆が洛陽を襲撃→雅楽器が略奪・燃やされた→新たな雅楽がつくられた

297修都:2022/04/03(日) 20:13:57 ID:AY2wDrvM
桃木至朗「東南アジア世界と中華世界」
東南アジアが歴史学会の市民権を獲得したのは、1990年前後
東南アジアで、仏教・ヒンドゥー教やサンスクリット語などインド文明の摂取が始まるのは4世紀末以降→国家成立
紀元前千年紀から10世紀までに形成された東南アジアの諸歴史圏は現代の諸国家の記憶の中に残っていない→9〜14世紀(憲章時代)の諸国家は歴史叙述の中に多くが姿を見せる
→憲章時代は唐宋変革の時代とほとんど重なる
東アジアの一部と見なされていたベトナムは、80年代の東南アジア地域研究の発展で東南アジアの一員であることが強調されるようになった
ベトナムは陳朝になると中国と対等な南国(南の中華帝国)というイデオロギーと歴史を練り上げていく

298修都:2022/04/04(月) 20:42:48 ID:AY2wDrvM
岩尾一史「チベット世界の形成と展開」
吐蕃の中核となったのはヤルルン川周辺のプゲェル氏、東チベットコンポのコン・カルポ、チベット東南部の諸勢力
ソンツェン・ガンポが統一→この後、チベットは拡大路線。唐軍に勝利して一時期はタリム盆地を支配→皇位継承をめぐり国内が安定しないなか、唐軍により押さえ込まれた
→755年、安禄山の乱が勃発すると吐蕃が再び進出。763年には吐蕃軍が長安を2週間占領→790年代、唐軍に大敗。9世紀初めには拡大路線は手詰まり
→唐と長慶会盟→吐蕃は最大の版図、吐蕃とウイグルが崩壊するまでユーラシア東方に平和
吐蕃は農耕の経済的安定性と牧畜民の機動力を併せ持つ国家。チベットは多民族国家
吐蕃が仏教を公式に受け入れたのは779年→普遍的な宗教権威による王権正当化のため世界宗教を選んだ
→ただし、吐蕃期は仏教がチベット社会に完全に浸透する前段階。古代信仰が残っている
842年以降、後継者をめぐって南北に対立→分裂していき吐蕃の栄光を取り戻すことはなかった→ただし、吐蕃崩壊後も支配地域ではチベット語が利用され続け、チベット仏教文化圏が残った

299修都:2022/04/05(火) 21:31:04 ID:AY2wDrvM
李成市「朝鮮史の形成と展開」
韓国と北朝鮮は936年の高麗王朝を最初の国家統合としている→新羅の時代の渤海を朝鮮史の一部とみなし、南北国時代とするから
高句麗の広開土王は永楽太王と号した→中国の冊封体制では通用しない独自の王号→高句麗を中心とする政治秩序→独自の天下観は五胡十六国時代という華北の変動のなかで生まれた
百済は360年代末、近肖古王の時代、高句麗に勝利→372年、東晋に朝貢。支配層は高句麗系、新羅系、倭系、中国系など多様な出自
新羅は377年、前秦に朝貢→高句麗に朝貢を強いられるが、百済と同盟を結び、高句麗に抵抗→漢江下流域を奪取→564・568年、南北朝(北斉・陳)に外交
642年、高句麗の権臣泉蓋蘇文と百済の義慈王は連携して新羅を攻撃→新羅は唐の支援を求める→唐は女王統治を非難→女王廃位・唐依存派と自立派(春秋)の対立→春秋の勝利
→春秋は衣冠制を唐制に改め、唐年号を採用→政治的実権は権力を掌握した金春秋と一部の近親者集団のもとに
新羅は670年から6年にわたって唐と抗争、それに勝利→684年、朝鮮半島全土を支配
景徳王は759年、官司を名を唐風に改める
新羅後半期は王位争奪戦がくり広げられ、地方では反乱が頻発→高句麗の再興を訴えた勢力は朝鮮半島独自の年号を用いた

300修都:2022/04/06(水) 21:43:18 ID:AY2wDrvM
冨谷至「中華と日本」
2000年に及ぶ帝政中国で中華帝国が周辺諸国に賜与した称号は一貫して王
後漢光武帝の時代、倭の首長は倭王の称号を与えられた→「漢倭奴国王」は漢の倭奴国の王と読むべき
6世紀に入ると、倭と中国南朝の交渉は疎遠
『日本書紀』には隋からの国書に「倭皇」と書かれている→倭王を隠ぺいするために書きかえている。倭王の称号は、もはや忌むべきものとなっていた
→もとから倭皇だったのではなく、『日本書紀』が書写されていく過程で書きかえられた可能性が高い
倭が日本に国号変更したことを唐へ正式に告げたのは702年第8回遣唐使→701年に初めての年号大宝を制定した翌年
すでに漢語として存在していた日本を倭国が東方の国である自国の国名に転用した
天皇の称号が飛鳥浄御原令に記されていた可能性。少なくとも天智朝では日本という国号も天皇号も成立していない→天武朝に天皇号、国号日本。読みとしては日本もヤマト
中国王朝は一貫して王・日本国王という呼称を維持→天皇の読みスメラミコトを姓・号と見なした可能性

301修都:2022/04/07(木) 20:45:55 ID:AY2wDrvM
下倉渉「交拝する夫婦」
経書の婚礼→男家が女家に婚姻を申し込む→女性の名前を聞く→占う→結納→輿入れの日を決める→新郎が女家に向かう→花嫁が男家に至る
→男家に至るまでに婦が夫に付き従う存在であることを可視化したパフォーマンスが行われる
漢の時代は皇帝の娘公主と結婚するときは公主の居宅に通った→魏の時代に公主であっても夫尊妻卑の論理が適用されていく
後漢代後期あたりから夫婦交拝の儀式→通常は身分差のある者同士で交わされる拝礼ではない→宋代は新郎の寝室で行われ、元代以降もこれに準じていた
男尊女卑・夫尊妻卑を基本理念とした儒家的な婚礼は婚礼儀礼上における絶対的なスタンダードではなかった
→宋代以降、新郎の寝室で行われるようになった→成婚の儀礼が儒家の説くものになっている(夫尊妻卑)

305真ナルト信者:2022/07/08(金) 11:16:51 ID:???
age

306修都:2022/07/09(土) 16:45:35 ID:sO0X8N3w
佐々木憲一「北アメリカにおける先史時代社会の諸相」
アメリカ大陸へはベーリング海峡が陸地であった氷河期末期にシベリアから現生人類が大型哺乳類を追いかけて移動してきたというのがアメリカ考古学会のほぼ一致した見解
極北(アラスカ州北部からカナダ北部、グリーンランド沿岸地域)→ヨーロッパ人入植まで海獣や海鳥の狩猟と若干の漁労→極北東部域で人々が生活を始めたのは紀元前2500年頃
北西沿岸(アラスカ州南端からカリフォルニア州北端)→気候変動のため多くの遺跡が水没
北部では唇飾りを装着した人々、南部では頭蓋変形を受けた人々が社会的に高位の人々→社会的不平等。北部海岸地域では戦争の証拠
→ヨーロッパ人がこの地を初めて訪れた時には社会的な階層分化が存在
南西部のチャコ・キャニオン遺跡群には食人の習慣も含めて暴力の考古学的証拠が顕著
ヨーロッパ人入植以前の北アメリカ大陸先住民は金属器の鋳造技術を有することはなかったが、自然銅で道具を作ることはできた
紀元前10世紀頃、土器の使用の開始は北東部と南東部で大きな変革→定住化が起こったからこそ土器製作が容易になった
紀元前1050年頃、南東部のミシシッピ文化→マウンド(墳丘墓)築造に精魂を傾けた時代→大遺跡をトップとする階層構造は地域ごとに完結
→地域を超えて築造規格が共有される日本の古墳時代とは違う
北アメリカ大陸の多くの地域はヨーロッパ人入植のときも狩猟採集経済で土器もなかったが、南西部・南東部・北東部(北部を除く)は紀元前4世紀までに農耕、定住化

307修都:2022/07/10(日) 15:45:22 ID:sO0X8N3w
関雄二「アンデスとメソアメリカにおける文明の興亡」
メソアメリカ→メキシコ中部からホンジュラス、ニカラグア、コスタリア西部。アンデス→ペルーとボリビアの一部
更新世の末頃、アジアからアメリカ大陸に人類到達、拡散→完新世初期に植物栽培は開始されるが、農耕に依存した社会は4000年以上も後
アンデスは定住、公共建造物の出現でメソアメリカに先行→平等性が高い社会で、埋葬に差異が認められない。いずれの遺跡でも、王宮や王墓などが見つからない
→公共建造物が出現して、2000年以上経って集団内の差異が明確化
メソアメリカは公共建造物よりも土器の出現が早い→前1400年頃オルメカ文化では大規模な公共建造物の建設と支配者の存在を示唆する証拠
アンデスでは国家が誕生していなかった時期、オアハカ地域では国家レベルの社会。マヤでは王権が成立
前100〜後700年のナスカ文化(ペルー南海岸)→国家ではない。地上絵は儀礼の際に歩いた通路とする見方が強い
マヤは各都市に王を戴く国家が成立。都市国家間で同盟が結ばれ、抗争も絶えなかった→マヤの崩壊。人口急増による環境破壊、戦争による社会疲弊などによると考えられている
アンデスでは国家や都市は限られた地域であり、王はいない→ワリ文化。アンデスの広い範囲を影響下においた初めての政体、帝国とする論もある
スペイン人が到来した当時、アンデスのインカ帝国は地球上最大の帝国→中央集権的ではなく間接的支配→王の親族集団の生活は私有地からの物資
インカ帝国は1532年、160名あまりのスペイン人との数時間の戦いで崩壊
マヤはスペイン人が到来してもすぐに征服されず、滅ぼされたのは1697年
メキシコ高原のアステカは人身供犠を行ったことで知られる→1521年、スペイン人に滅ぼされる
アメリカ大陸の古代文明では財を蓄えていくような王があらわれない→軍事行動においても祭祀や世界観の具現化を求めた行動が底流。祭祀の精緻化に伴って階層構造

308修都:2022/07/11(月) 20:06:16 ID:sO0X8N3w
大越翼「マヤ人から見たスペインによる征服と植民地支配」
マヤ文明の王や貴族らと平民との間に財に関して大きな差はない→王の権力基盤は労働力の多寡→王は人口の大多数を占める農民の意向を無視することができない
→王は一方的な収奪を行っておらず、農民への還元がある→農民が王権をくつがえすほどの力を持っている
ユカタン半島東海岸のマヤ人はスペイン人を平和に迎えスペイン国王に忠誠を誓った→1527年のモンテホの征服は成果を得られず、ユカタン半島を放棄
→半島西海岸から進軍、北部低地西半分の王国群を支配下に収めた→モンテホは先住民同盟軍の必要性を認める→1546年、北部低地の征服終了
マヤ地域の主だった征服戦は16世紀半ばまでにすべて終了→南部低地の大半は手つかず→南部低地はスペインが実効支配していた地域から逃れてくる人々が住む地域
スペイン側の思惑通りに先住民社会が改編され、スペイン王国の臣民としてのキリスト教原理に基づいた社会が創造されたわけではない
マヤ人すべてが、暗黙のうちに2つの宗教を矛盾することなく生きていた→スペイン人による征服がマヤ社会を崩壊させたのではない、マヤ人が主体的に新しい時代を乗り切っていこうとした
ピラミッドは壊され教会が建てられたが、道は手をつけられなかった→先住民にしてみれば、道の行きつく先が異教の教会だろうと、既知の精神世界に教会を包摂していく行為
マヤの人々は、スペイン人邸宅で働く者が多く、女性はスペイン料理に伝統的なマヤ料理を組み合わせた新しい料理を作りだした
乳母はスペイン人の子供たちにマヤの伝統や儀式などを語り聞かせた→事実上、子供たちはスペイン語とマヤ語のバイリンガルとなった
スペイン人がマヤ人たちを冷酷に扱い、人とも思っていなかったというのは必ずしも正しくない
マヤ地域の征服はスペインとメソアメリカの人々との共同事業

309修都:2022/07/12(火) 21:50:53 ID:sO0X8N3w
網野徹哉「トレント公会議とアンデスにおける先住民布教」
インディオを委託されたエンコメンデーロには先住民の教化義務が課せられ、聖職者を雇う必要があった
アンデスの伝統的宗教実践については、一概に排毀するのではなく、積極的に取り込んでゆくという柔軟な適応精神
1545〜1563年トレント公会議→公共要理を土着の言葉で伝える方針→先住民言語の習得が義務づけられた
インディオは法務文書を運用する能力も身につけている→司祭を訴えるインディオたち

310修都:2022/07/13(水) 20:50:56 ID:sO0X8N3w
横山和加子「一六世紀メキシコからみたグローバルとローカル」
メキシコ市は西半球随一の都市であった→スペイン人は都市、先住民は村という住み分け→異人種間の婚姻に法的な問題は無し。先住民女性との結婚は珍しくない
アステカ王国モクテスマ二世娘イサベル・モクテスマはアステカ王の血と姓をスペインの貴族の中に注ぎ込んだ
17世紀、多くのカシケ(先住民首長)がメスティーソ(先住民とスペイン人の子)、カスティーソ(メスティーソとスペイン人の子)だった
自由な黒人(征服に同行した黒人奴隷)と先住民の混血も始まる→17世紀半ば、メキシコ市に黒人は一定割合いたが、18世紀になると減少、ほぼゼロ→混血者の中に吸収された
混血の複雑化と白人化の可能性→北米とは異なる緩やかな人種観の形成

311修都:2022/07/14(木) 21:32:05 ID:sO0X8N3w
金井光太朗「「先住民の黄金時代」とセトラー・コロニアリズムの衝撃」
セトラー・コロニアリズム→「野蛮人」を殲滅排除して勤勉なる入植者が定住を進めて文明社会を再現するのが正当だというイデオロギー
アメリカ先住民の黄金時代→季節に応じて生態系をめぐり移動しながら生きる生活
オランダは宗教的寛容や経済的繁栄により多民族・多文化社会で、植民地入植者も多様
フランス入植者にとっては封建的な農地の生活より野蛮人生活の方が魅力的だった→先住民首長との結婚に積極的
オランダもフランスも先住民と入植者の相互関係に落ち着いていた
イギリスのヴァージニア植民地は入植から数年間危機的。入植者の半分以上が一年経たずして死亡→入植者による先住民からの強奪→1609年、アングロ・ポーハタン戦争
→1614年、ポカホンタスがイギリス人ジョン・ロルフと結婚して一旦は和平成立→1622年、第二次アングロ・ポーハタン戦争→32年、イギリス勝利、民族浄化
ニューイングランド植民地→(入植者にとって)「空いた土地」への入植侵入→1634年、ピークォト戦争→1637年、イギリス勝利、民族浄化

312修都:2022/07/18(月) 16:11:59 ID:sO0X8N3w
大峰真理「一七世紀フランスの初期植民会社と小アンティル諸島」
16世紀半ばまで中南米地域にむかう船団の積み荷は、カリブ海域の船乗りたち(フリビュスティエ)の格好の略奪対象だった→スペインの覇権は略奪者集団を存続させる要因
1626年フランス王国史上初めて植民のための特権会社サン=クリストフ会社→サン=クリストフ島をイギリスと二分割していたがフランスの植民は上手くいかなかった
→国家から許可を与えられ敵国の船を襲撃して積み荷を奪う私掠をフランスのブランはイギリスに行い、イギリスとの勢力均衡を図った→結局、植民は失敗。1634年サン=クリストフ会社は解散
→1635年アメリカ諸島会社設立→グアドループ島の開墾を目指す→年季奉公人と黒人奴隷労働力を投入する典型的なプランテーション社会

313修都:2022/07/19(火) 19:57:35 ID:sO0X8N3w
小原正「アメリカ植民地の経済とスペイン黄金世紀」
17世紀スペインは文化的には黄金世紀。一方で有力貴族が深刻な財政難の時代→疫病による農業危機、銅貨改悪による通貨危機、国債利払い停止→銀の価値上昇
→アメリカ植民地の銀を入手できるエンコミエンダの権利に注目→スペイン本国の有力貴族にエンコミエンダの権利が与えられるようになる
→現地の商人がエンコミエンダの管理を委託される→責務を果たさない商人もいた

314修都:2022/07/20(水) 21:28:35 ID:sO0X8N3w
清水有子「徳川家康のメキシコ貿易交渉と「鎖国」」
文禄元年(1592)、豊臣秀吉がルソンに投降を呼びかけた→ルソンの修道士が使節として日本に来る。日本とスペインの関係の契機
→秀吉の死後、倭寇がルソンに跋扈→家康はそれに対処。1606〜09年、マニラ市内で日本人暴動が起きると家康は日本人暴徒の処刑を命じた
家康は慶長7年(1602)禁教を表明したが、宣教抜きでの外国人の日本滞在は認めた→ルソン側は名目的なものと誤解した可能性。家康も積極的な宣教取締りはしていない
家康はルソンに関しても格下の国から進物が送られていると都合よく解釈→日本型華夷意識の萌芽
1609年、ビベロ漂着→家康と貿易交渉→協定案謝絶。家康は南蛮通行全般を見直し始めている→オランダ人との通行関係が成立している
1611年、使節ビスカイノ冷遇→貿易構想放棄。1612年、禁教令。1615年、スペイン使節を無視、スペインとの外交は途絶えた

315修都:2022/07/25(月) 21:36:15 ID:0jMA5iFU
三田昌彦「南アジアにおける国家形成の諸段階」
前6世紀頃ガンジス川中流域に都市→前3世紀マウリヤ朝が南アジアほぼ全域を統合。マウリヤ帝国は湿潤な稲作地帯から発した世界的に特異な帝国
首都パータリプトラは世界最大級の都市。マウリヤ朝は画一化を目指す施策をほとんど行っていない
マウリヤ帝国はガンジス川流域と重要地点とを結ぶ点と線の統治。領域内の経済的格差は極めて大きい
マウリヤ帝国崩壊→デカンにサータヴァ―ハナ朝、中央アジアから北インドにクシャーナ朝→4世紀初頭グプタ朝が北インド統合
グプタ朝崩壊→7世紀前半ハルシャが北インド統合→崩壊後、小勢力割拠→8世紀後半プラティーハーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝並立期
北のプラティーハーラ朝は辺境勢力。中央部のラーシュトラクータ朝は南アジア最大勢力→10世紀後半、地域国家並立→この時代の王朝は安定的で約300年継続

316修都:2022/07/26(火) 20:58:07 ID:0jMA5iFU
鈴木恒之「インド洋・南シナ海ネットワークと海域東南アジア」
前2世紀末、漢の武帝はベトナム北・中部を支配下に置き3郡を置いた→南シナ海交易の玄関口→ローマ、インド、中国を結ぶ海上交易路海のシルクロード
8世紀、マラッカ海峡域でスマトラ南東岸のシャリーヴィジャヤ王国が交易ネットワーク形成。中部ジャワではシャイレーンドラ家がマハーラージャを名乗り、シャリーヴィジャヤの王位に就く
877年、東西交易の拠点だった広州が黄巣の反乱軍に襲撃され、居留していた外国人12万人が殺される→ムスリム商人の拠点はクダーに
1025年頃、南インドのチョーラ軍の襲撃でシャリーヴィジャヤは中心的役割を失う→北隣のスマトラのジャンビ王国が中心に
13世紀末から東南アジアのイスラーム化→ムスリム商人の活動を反映

317修都:2022/07/27(水) 21:38:22 ID:mLoZKEwA
馬場紀寿「サンスクリット語とパーリ語のコスモポリス」
サンスクリット語が政治の言語として用いられ、サンスクリット語の聖典をもつヒンドゥー教と仏教が主要な宗教→サンスクリット・コスモポリス
インドではアラビア語のクルアーンを正典とするイスラム教が浸透。スリランカから東南アジア大陸部にはパーリ語の仏典を伝承する仏教→パーリ・コスモポリス
1世紀から3世紀、外来民族の王朝である北インドのクシャーナ朝でサンスクリット語の使用が始まる
4世紀、北インドのグプタ朝は本格的にサンスクリット語を政治的発話に採用→4世紀から13世紀、南アジアと東南アジアの関係の緊密化とともにサンスクリット語が広まる
密教は儀礼をもたなかった仏教の弱点を克服し、仏教がサンスクリット・コスモポリスの主要宗教となる原動力となる
→7,8世紀、サンスクリット仏教は南アジア・東南アジアという地域を超え(中国・日本など)、サンスクリット語すら超えて(翻訳)世界最大の宗教となった
サンスクリット化に抵抗する仏教の一派による変革がスリランカで起こり、影響が東南アジア大陸部に波及→パーリ語こそが正しい仏典の言葉であるという言語論
11〜12世紀、アフガニスタンのガズナ朝やゴール朝がインドへ進出→北インドを中心にペルシア語が知識人の言語としての地位を獲得→ゴール朝によってインドの仏教拠点も破壊される
13〜14世紀、東南アジア大陸部の新たな王権は改革後のスリランカ仏教を導入。パーリ語はサンスクリット語とは異なり、仏典言語にとどまった

318修都:2022/07/28(木) 21:52:08 ID:mLoZKEwA
二宮文子「南アジアにおけるムスリムの活動とイスラームの展開」
ムスリムはインド洋の海の道を利用して南アジアに進出。アフガニスタンに拠点を置いたガズナ朝は10世紀末から11世紀に南アジアへ侵攻。ゴール朝は北インドを中心に征服活動
デリーを根拠としたムスリム政権はスルタンを称した(デリー・サルタナト)→13世紀末から14世紀初頭、征服活動→トゥグルク朝の時代にデリー・サルタナトは南アジア最南端以外を支配下
南アジアのムスリム社会は異なるルーツを持つ多様な人々から構成。デリー・サルタナト時代の農村部の人口の大部分は非ムスリム→支配は多くの非ムスリムに支えられている
後宮の女性たちの中にも非ムスリム出身者がいた。宗派の違いが政治的・社会的な対立に必ず結びつくわけでもない
デリー・サルタナトにおける行政や文芸活動は主にペルシア語。14世紀以降は各地の言語を用い、地域文化に根ざした素材を用いる文学作品がムスリムによって著される

319修都:2022/07/29(金) 22:16:13 ID:mLoZKEwA
小磯学「南アジアの古代文明」
前2600年〜前1900年頃、南アジア北西部で興亡したインダス文明→西南アジア交流圏の東方に展開した諸文化を結び付け統一したのがインダス文明
→交流圏の中の関係性が失われたことが文明が衰退し崩壊した原因と考えられる
インダス文明では長文の文書資料が発見されていない。王宮・王墓に否定できる建築物や遺構も不在・未発見。紛争の痕跡も欠如している
周壁をもつ都市ともたない都市が存在しており、文明内に一定の社会的格差はあった

320修都:2022/07/30(土) 20:12:38 ID:mLoZKEwA
山形眞理子「ドンソン文化とサーフィン文化」
ドンソン遺跡はベトナム北部、サーフィン遺跡はベトナム中部
ドンソン文化の紅河平野には中国の南下に圧倒される前に、東南アジアのどの地域と比べても複雑な社会が出現していたと思われる
地域ごとに成長した首長制社会の集合体がサーフィン文化の社会
鉄器時代の東南アジアには、考古学的な知見から推測される様々な道が交錯し、ネットワークが広がっていた
ドンソン文化とサーフィン文化は、交易ネットワークを通じて東南アジア各地の鉄器時代文化とつながっていた

321修都:2022/07/31(日) 23:04:43 ID:mLoZKEwA
田畑幸嗣「東南アジアの古代国家」
東南アジアは少なくとも紀元前4・5世紀以降にはインドとの明瞭な接触→インド的ないしはインドにインスパイアされた文化をもつ諸国家が成立するまでの約千年間は長い助走期間
漢籍に登場する扶南→真臘。扶南は後の真臘とよく似た価値観をもつ人々の政体。統一国家ではなく、カンボジア・ベトナム南部の政治的なまとまりの総称だったのではないか

322修都:2022/08/01(月) 20:02:57 ID:mLoZKEwA
横地優子「女神信仰とジェンダー」
日常生活に根ざした女神たち、普遍的な女神概念となった戦闘女神・死の女神、抽象概念を神格化した女神たち(シャクティ)の3階層が南アジアにはある
戦闘女神成立の中核は、ヴィンディヤ山の女神と水牛の魔神を殺す女神→『デーヴィー・マーハートミャ』では戦闘女神は最高神格であり、処女神であるため男性の神に従属することもない
死の女神は七母神の主神格→七母神はそれ以前の母神群たちをヒンドゥー化・サンスクリット化したもの→7番目の女神は対応する男性神格を持たない(死の女神)
戦闘女神と死の女神は軍事的・政治的権力や呪術的権力を求める者たちが力を獲得し維持するための有効な手段として信仰が受容され広まった
→女神信仰が野心的な男性に権力を授ける手段に変容した→女神信仰が力を求める男性に搾取された

323修都:2022/08/02(火) 20:45:46 ID:mLoZKEwA
松浦史明「アンコール朝の揺れ動く王権と対外関係」
802年、ジャヤヴァルマン2世が即位、王都をハリハラーラヤに定めた→15世紀ごろまでアンコール地方が国家の中心
1113〜1150年のスーリヤヴァルマン2世はアンコールワットを建立。この王の時代に814年から途絶していた中国との朝貢を再開
1181年に即位したジャヤヴァルマン7世の時代に王朝の最大版図。中国製品の流入と消費も大きく発展

324修都:2022/08/03(水) 21:28:53 ID:mBv4sMcs
和田郁子「インド洋海域史から見た南インド」
前2世紀前半、エジプトや西アジアと直接航路で結ばれていたのはインド北西部→前1世紀末にインド西岸中部へ直行することが可能に
ローマ帝国のエジプト船によるインド洋交易は1世紀末には衰退→3世紀、ササン朝のもとでペルシア湾沿岸が整備されると様々な商人が海上交易に
5世紀頃までにはインド洋の東西海域でモンスーン航海が発展
ササン朝時代、南アジアへ移住するキリスト教徒商人もいた。12〜13世紀にかけてムスリム商人の海上交易活動拡大、複数の港市にムスリムのコミュニティ

325修都:2022/08/06(土) 15:39:26 ID:mBv4sMcs
佐藤彰一「中世ヨーロッパの展開と文化活動」
西ヨーロッパ世界は8世紀にポスト・ローマ世界から離脱→寒冷多雨な気候から温暖で乾燥した気候へ→人口の増加、取引の活発化
カールが800年、西ローマ皇帝になったとき、領土は大陸では現在のEUに匹敵(カロリング帝国)→870年、東フランク王国(ドイツ)、西フランク王国(フランス)、イタリア王国に三分
カロリング帝国の政治は帝国貴族層の合意に基づく営みであった
8世紀、徴税は国王権力が直接所掌する事業となった→ポスト・ローマ的都市機能の停止。王権は教会を徴税対象から除外、徴税が不斉一に
→フランク国家は分節化された構造をもち、斉一的な統治、行政が困難

326修都:2022/08/07(日) 16:55:30 ID:mBv4sMcs
森山央朗「ウラマーの出現とイスラーム諸学の成立」
7世紀末から8世紀前半は、ウマイヤ朝の統治が安定した時代で、神に帰依する国家や社会とはいかにあるべきかをめぐる議論が本格的に開始された
→預言者ムハンマドと父祖たちの記憶を語る物知りとしてウラマー(学者たち)が出現
ムハンマドの死後、アラビア半島を出て広範な地域に移住していったアラブムスリムたちはアラビア半島では見ることのなかった事物や慣習を多く目にすることとなった
→それらを利用できるものは取り入れていった→ウラマーはコーランの啓示に言及されていないあまたの実利的な判断や裁定を神の意思と預言者の教えに照らして正当であることを示す作業
10世紀後半から11世紀は、ムスリムの多数派の中の学派や思想潮流が合流し、スンナ(慣行)派という宗派意識が確立・浸透していった時代
ウラマーは僧侶や神父・牧師などの役割をイスラム社会で担った。ウラマーとしての地位を支えるのは学識。都市富裕層出身の男性が多い
10世紀頃まで、ウラマーは家の財産や他の生業で生活を支えていた→マドラサ(学ぶ場所)の普及によって教員という職
政治・軍事支配者とウラマーとは緊張感をともなった協力関係

327修都:2022/08/08(月) 21:02:06 ID:mBv4sMcs
森本一夫「山々に守られた辺境の解放区」
ハサン・イブン・ザイドはカスピ海南岸タバリスターンを制圧、アームルに拠点を定めた→アリー裔政権→ハサン死去、娘婿アブー・フサインが君主に
→ハサン兄弟のムハンマドがアブーを倒し君主に。グルガーンを拠点に→サーマーン朝と戦い敗死、支配される→第一次政権終わり
ハサン・ウトルーシュがサーマーン朝の勢力を駆逐、アームルを拠点に→第二次政権→ウトルーシュ死亡→軍人のハサン・イブン・カースィムとウトルーシュ息子たちとの勢力争い
→ダイラム人武将マーカーン・イブン・カーキーによってカースィムが君主となる→サーマーン朝と戦ってカースィム敗死→政権争いの中、アリー裔政権は命脈が尽きていく
アリー裔政権の君主たちのほとんどはメディナからの移住者と子孫であった(ザイド派)→イスラーム圏東方の諸地域へのアリー一族の拡散と在地社会への定着を加速させる働きも持った

328修都:2022/08/09(火) 20:36:19 ID:mBv4sMcs
三佐川亮宏「ヨーロッパにおける帝国観念と民族意識」
ドイツ人・ドイツという民族的・地理的名称が初めて自称として使用されたのは、1000年頃。ドイツ王国・国王は1070年代以降
843年のヴェルダン条約でルートヴィヒ2世が得た東フランク王国がドイツの空間的枠組み。シャルル2世の西フランク王国はフランスの母胎→ドイツ人という概念はこの頃存在しない
885年、東フランク国王カール3世が西フランク国王の地位も獲得して大フランク帝国がよみがえる→887年、クーデター、再度分裂→東・西フランク、ブルグント、プロヴァンス、イタリアに
→東以外、カロリング家ではなかったが、東カロリング家も断絶する。東フランク王国はフランケン、ロートリンゲン、ザクセン、バイエルン、シュヴァーペンの5つの分国から成る
→ザクセン、バイエルン、シュヴァーペンは非フランク系
919年、ザクセン人のハインリヒ1世がオットー朝樹立。西フランク王国では王位を取り戻した西カロリング王家がフランク的伝統の独占を主張→東の非フランク人国王はローマを志向する
962年、オットー1世が皇帝戴冠→1806年まで存続した帝国は13世紀半ば以降神聖ローマ帝国と自称するが、それ以前は単に帝国・ローマ帝国
オットー3世は、支配の中心をローマに移し、教皇との提携により普遍的・キリスト教的皇帝権を樹立するというローマ帝国の改新を構想→22歳で死去したため中断
オットー朝によるイタリア遠征への動員は南の大公領も巻き込んだ→対外活動を共に遂行する過程で、それまでの枠組みを超越した我々意識を育んでいった
北イタリアのランゴバルド人でオットー1世の側近となったクレモナ司教リウトプランドが東フランク王国の住民の総体をドイツ人と呼んだ
→イタリア人=他者による差異化の視点から、包括的に1個の言語=民族共同体として認識された他称概念→1000年頃、オットー3世と側近たちによってドイツ人が自称として受容される
イタリア人という語もオットー1世の遠征が始まる10世紀半ばまで存在しなかった
→ドイツ人のローマ帝国という現実に直面する中で、よそ者に対する差異化の裏返しとしてイタリア人という共通の民族感情
ドイツ王国という名称もイタリア人による命名→ローマ帝国を志向する皇帝権と、それをドイツ王国に限定しようとする教皇権の対立の中でドイツ王国という名称が使われる

329修都:2022/08/10(水) 11:09:27 ID:mBv4sMcs
中谷功治「聖像と正教世界の形成」
古代末期、聖遺物崇拝は批判的な言説があったものの確実にキリスト教社会に定着していった→7世紀にかけて、東ローマ帝国では聖画像が尊崇を集めるようになってゆく
→8世紀、イコノクラスム(聖なる画像であるイコンの破壊)、聖像論争→偶像崇拝の疑いを回避するため、イコンには厳格な様式が求められることになった

330修都:2022/08/15(月) 18:06:17 ID:mBv4sMcs
亀谷学「初期イスラーム時代の史料論と西アジア社会」
610〜730年のムスリムは、口頭で伝達したものを記憶し、口頭で別の者に伝えるという方法が主→中東各地を支配していくと、ギリシア語やペルシア語で行政文書
→ウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクの時代からアラビア語に
730〜830年、中国から紙の製法が中東へ伝わる
ムハンマド時代の記録はほとんど利用できない。また、考古学による発掘も進展していない
イスラム征服史料は年代や順序が正確に再構築できない。ウマイヤ朝はムスリムが書き残した歴史叙述は現存していない
ムスリム征服に関する考古学の成果では、ほとんどの都市に激しい攻撃や破壊の跡は見いだせない

331修都:2022/08/16(火) 21:54:11 ID:mBv4sMcs
佐藤健太郎「アンダルスの形成」
アンダルス→イスラーム期のイベリア半島
711年、イスラーム教徒軍がイベリア半島に上陸、西ゴート王国を滅ぼした→714年までには半島の大部分がイスラーム教徒の支配下
征服軍との間に和平協定が結ばれた場所では、西ゴート期の在来社会は大きな打撃を受けることなく存続
西ゴート王国を滅ぼしたのは、イスラームに改宗したばかりの兵士からなる軍勢
8世紀半ば、半島在来の有力家系はシリア軍征服者の家系に吸収される。言語や文化も変容、イスラームへの改宗者も増加していった
→9世紀後半から10世紀初頭に内乱。アラブ化・イスラーム化しながらも征服者集団との系譜や主従関係を持つことが出来ず、疎外されていた者たちの反抗
→国家が直接徴税する後ウマイヤ朝への所領貴族による反抗という見方もある

332修都:2022/08/17(水) 20:43:38 ID:mBv4sMcs
三村太郎「イスラーム科学とギリシア文明」
アッバース朝7代目カリフマアムーン(813〜833年)の頃からギリシア科学書のアラビア語翻訳が活発化→ギリシア語原典では失われてしまった作品の訳もある
→12世紀頃、これらの著作がラテン語へと翻訳される→12世紀ルネサンス
アッバース朝で政治権力者たちの助言者として活躍していた学者たちは、強力な議論法を求めており、見出したのが論証という議論形態
→アッバース朝宮廷は論証科学研究の受け皿、ギリシア科学研究が活発化→イスラーム科学は論証への関心から形成されたため、ギリシア科学を乗り越えて独自の論証科学の形成を目指す

333修都:2022/08/18(木) 21:28:27 ID:mBv4sMcs
高野太輔「初期イスラーム時代のカリフをめぐる女性たち」
カリフ世襲体制確立以前、正統カリフ時代の4人の正統カリフはいずれもムハンマドと姻戚関係→ウマイヤ朝時代はカリフは父系相続→父方の血筋がカリフとして即位する絶対条件に
ウマイヤ朝時代の特徴として、カリフの母親がアラブ人女性ということもある→アラブ至上主義→12代カリフから非アラブ人の母から生まれたカリフが出てくる
→12代カリフヤズィード3世はクーデタで即位→アラブ至上主義の形骸化→アッバース朝時代になるとほとんどのカリフが女奴隷を母にもつ。女奴隷は制限なく性的な対象とすることができた
前イスラーム時代のアラブ社会は、男性が女性の家に入る通い婚が多かった→これに対し、ムハンマドは女性の家を転々とすることはなかった
ウマイヤ朝カリフの娘はウマイヤ家の男性とアッバース朝カリフの娘はアッバース家の男性とのみ結婚している

334修都:2022/10/02(日) 22:14:15 ID:zAErYo6E
丸橋充拓「唐後半期の政治・経済」
唐の玄宗の時代710年代、常設の軍事指揮官として節度使が設けられ、辺境各地に派遣された→軍事力の調達は義務労働から雇用労働へと転換
玄宗の時代、本籍地で生産物と労働力を収取する方式から、市場経済を利用しつつ財物や労働力を臨機に調達する財政運営へ
北辺の六節度使のうち、東方の三節度使を安禄山が独占→755〜763年、反乱→ほぼ全土に節度使を布置→半ば独立した藩鎮化→反乱頻発→憲宗から穆宗の時代に鎮静化(805〜824年)
農業税に依存できなくなっていた唐は758年塩の専売制度を導入→格好の財源
780年、雑税を両税に一本化→夏・秋のいずれかに銅銭と穀類それぞれを納める→貧富に応じて負担に差、本籍地でなく現住地で納税者を把握→塩の専売とともに財源
憲宗が宦官に恨まれて殺されると後の歴代皇帝のほとんどは宦官によって擁立された→宦官は皇帝権に依拠することで力を持ち得る存在であるため、結果的に皇帝権は強化された
9世紀前半の40年間、唐の官僚は牛党と李党に分かれて対立
塩専売制に伴い塩の密売→密売商人は武装し、政府と時には武力衝突→社会不安→9世紀後半、各地で反乱→唐は長安周辺を実効支配するのみ

335修都:2022/10/03(月) 20:12:46 ID:zAErYo6E
舩田善之「キタイ・タングト・ジュルチェン・モンゴル」
唐とモンゴル帝国との狭間の時代→多国体制、盟約の時代。キタイ(契丹)・ジュルチェン(満洲)が覇権国家として国際秩序の安定を主導
10〜13世紀、東アジアの覇権はキタイ、ジュルチェンを経てモンゴルへ
東北ユーラシアにおける政治と南北交通の重心は東へ移動、間隙を縫ったのがタングト→モンゴル高原の覇権を握ったテムジンは、1205〜09年、タングトを屈服させる
→モンゴルとジュルチェンは長い交戦、戦乱の時代が続くが覇権はモンゴルへと
クビライの時代、クビライは唯一のカーン位を保持するが、各ウルスの自立傾向が進む→各ウルスの統治に介入することはなく、帝国はウルスの連合

336修都:2022/10/04(火) 20:10:36 ID:zAErYo6E
井黒忍「宋金元代の華北郷村社会」
金代から家族の歴史が記された石碑が増える
宋代依頼、人口増加が継続。金代において山地や丘陵地の開発が加速。灌漑水利開発も進展→石碑には人々が村を基礎として結束を強める姿が描かれる
金元代、地縁的集団が基本単位となる中、村々に信仰の中心となる村廟が成立→村の信仰の伝統が石碑を通して後世に継承される
水利に関しての権利や主張も石碑に刻まれている

337修都:2022/10/05(水) 20:10:19 ID:f50dInU2
伊藤正彦「江南郷村社会の原型」
宋代、職役の重役化→土地所有額と成丁数の多い人戸から賦課される→大家族世帯の減少→族人が分散してゆく過程で族譜編纂
郷役賦課・負担→義役という社会組織を結成。人戸が結集し、穀物・金銭を共同出資し、共同の役田を設置し、その収益で役費を援助
宋・元朝以来の動きに商業的農業とは無縁の江南郷村社会の原型がある

338修都:2022/10/06(木) 19:56:27 ID:f50dInU2
金文京「士大夫文化と庶民文化、その日本への伝播」
本来、反権力、脱政治、超世俗的存在であったはずの隠遁は、時代と共に権力、政治、世俗と融和的になり、批判的視点を失う
宋代は士大夫、士人(官僚、またはそれを目指す人)の時代であると言われているが、実は隠遁の時代であった→在野の隠遁の士が重視される
隠遁の本来の場所である山林の大自然が都会に持ち込まれる→庭園文化の誕生。水墨山水画の誕生
官途につくことのできない多くの不遇士人は隠遁のポーズをとりながら、世俗の中で活動するようになり、山人と称し、称された
山人の生業→売薬。詩文などを献上し援助を得る。医術。音楽。書画。占術。法術。飲茶
鎌倉、室町期、宋元の最新文化、山人的・文人的な文化など新たな文学や朱子学などがもたらされた。人的交流は遣唐使の時代をはるかに凌駕した
→宋元代のサブカルチャーから生まれた山水画や茶道などが日本に伝来して、文化の主流になった
東アジアの近世は、社会階層の多様化が進み、中国の士大夫、士人、日本の武士、朝鮮の両班など中間的な知識階級が勃興、さまざまな文化を生み出した

339修都:2022/10/10(月) 18:13:37 ID:f50dInU2
山崎覚士「「五代十国」という時代」
907年4月18日、朱全忠は即位し後梁朝を建てた→後唐→後晋→契丹第2代皇帝が華北王朝の皇帝として君臨(大遼)→後漢→後周。華北王朝の直接支配する領域は中国と呼ばれた
華南で独自政権を築き上げたのは呉・呉越・閩・楚・蜀・漢→呉は乗っ取られて唐になる。呉・唐・蜀・漢は皇帝を称して華北王朝と対抗した。華北王朝より特別待遇を受けたのは呉越
分裂時代でも天下秩序は存続した。また、天下外で新たな国家構造を模索する国家・国家秩序が芽生える時期でもあった(契丹)

340修都:2022/10/11(火) 19:56:21 ID:f50dInU2
徳永洋介「宋代官僚制の形成」
北宋前半期、令の規定する官制は職責を失っても形骸を保っていた。律令官制の本質に関わる箇所には手をつけず、皇帝直属の行政機関を現状に即して再編していた
元豊の官制改革→既存の行政組織を大幅に分割、併合、改廃。官名と職務が一致する官僚組織に改めた

341修都:2022/10/12(水) 20:46:08 ID:f50dInU2
渡辺健哉「元の大都」
クビライは国号の典拠を経典に求めた→観念的な名称を国号としなければ、多様なエスシティや階層の心理的合一を図れないと制定に関わった人々が判断
北京地区が初めてチャイナプロパーの国都となるのが元の大都
漢族式の校祀に対してモンゴルは消極的→儀礼施設の建設は後回し。しかし儀礼施設の建設を拒んだわけではない
遊牧諸政権は季節に応じて移動を続ける→元朝も冬の大都と夏の上都(内モンゴル自治区)を移動している

342修都:2022/10/13(木) 20:02:40 ID:f50dInU2
川村康「法構造の新展開」
唐後半、戦乱と社会変動が律令格式の編纂の継続を不可能にした→社会変動への対応は制勅
漢人王朝では、刑罰法の基本法典は実質的には唐律であり続けた。非刑罰法では基本法典が唐令から『天聖令』へ変遷
遼は、遊牧民に適用する法と漢人に適用する律令があった→金王朝で漢人王朝の法構造へ→元王朝は漢人王朝の法構造に冷淡。元には単行指令があるだけで法典が存在しない
征服王朝では唐律は現行法ではなかったけれども、参照価値をもつ中核的存在であり続けた

343修都:2022/10/15(土) 12:52:58 ID:f50dInU2
佐々木愛「中国父系性の思想史と宋代朱子学の位置」
宋代以降、気はガス状の物質で、自己運動し、天地の間を周流し、凝固して万物を構成し、生命や活力を与えるエネルギーを意味する
宋代以降、気という概念が儒教思想の最重要概念の1つになる。宋代においては父系男子でなければ祭祀権がないという観念は徹底してはいない
気の概念では、母系親族や姻族などの祭祀を否定・排除することはできない→気は否定排除の理論を構成することはできない。男女がともに並列して儀礼に参加するのが当然の規定であった
儒教思想が中国社会の父系制強化を牽引したのではない。社会の方が父系制を望み、その影響をうけて儒教の理論上無理な父気の優越を説く人物が出現した

344修都:2022/10/16(日) 13:08:49 ID:f50dInU2
矢木毅「高麗国とその周辺」
918年、王建が高麗国を建てる→高句麗の継承を謳った。年号は天授→中国の冊封に頼らないことを意味する。936年、朝鮮半島を統一
933年には、中国5代の唐から冊封を受けており、天授の年号を停止している→その後も中国5代、北宋の冊封を受けている→一方で、独自の年号を使うこともあった
993年、契丹が高麗に侵攻→994年、契丹に朝貢し、契丹の年号を使う。高麗と北宋の国交は途絶→高麗国王は契丹の冊封を受けながらも国内的には皇帝を気取るようになる
1070年、高麗から北宋に使者が遣わされ、1071年、北宋に朝貢→一方で、女真族の金朝とも軍事同盟
→金とは対等な関係だったが、金が遼(契丹)を破ると朝貢を要求される→現実的な情勢判断として、1126年、金に朝貢
→遼や金に服属していた時代、国内的には高麗国王は皇帝を気取っている
→モンゴル(元)の冊封を受ける→遼・金の時代とは違い、国内的に皇帝を気取ることはしていない→遼や金と違い、元は中国本土・天下を統一している

345修都:2022/10/17(月) 20:12:17 ID:f50dInU2
中島楽章「大交易時代のアジアの海域世界」
13世紀後半以降、モンゴル支配の時代、中国から西ユーラシアへ銀が流出→気候寒冷化とペスト大流行による14世紀の危機→銀流出途絶。ユーラシア全域で銀不足
15世紀末以降になると温暖化、ユーラシア各地で経済が拡大、ヨーロッパにおける銀生産も急増
1570年前後、朝貢・互市(交易)などの多様な貿易ルートが併存するようになる。16世紀中期以降、貿易利潤の集積と西洋式火器の導入により、東アジア海域では軍事国家が成長
16世紀中期以降、日本銀・アメリカ銀の生産急増とともに膨大な銀が海域アジアに流入。特に中国は産品需要により銀が最終的に流れ込む排水口となる

346修都:2022/10/18(火) 20:11:53 ID:f50dInU2
岡本隆司「清朝をめぐる国際関係」
16世紀まで、モンゴルを除くと明朝に自立的な政治勢力は存在しなかった→17世紀、南海上の「倭寇」後裔・大陸北東のジュシェン(女真)が自立的な勢力に
1644年、明朝は自滅→清朝に。清朝は明朝の制度をそのまま受け継いだ→明朝からの対抗勢力を一掃するのに40年かかった→海上勢力も制圧すると交易を認める
→明朝は朝貢一元体制だったので交易は密輸にならざるを得なかったが、清朝では交易(互市)は現地の人間に任せた
18世紀半ば、現在の中華人民共和国の領域が清朝の領域になる→難局に対処をくりかえした結果、モンゴル・チベット世界も併せることになったにすぎない
→多元的な勢力は、多元的なまま存続し、共存する体制になった。従前の慣例・構成に手をふれない
18世紀後半、西洋貿易が拡大し、膨大な銀が流入、未曽有の好況となった→爆発的な人口増加→未開地の開拓→開拓民と現地民の摩擦、治安悪化

347修都:2022/10/19(水) 19:54:27 ID:f50dInU2
岩井茂樹「明朝の中央政治と地域社会」
明朝を建てた朱元璋の課題→中華の恢復。モンゴル語、トルコ語などや遊牧騎馬民の風俗禁止。皇帝独裁体制
宋代以降、郷や村などを賦税課徴の単位としようとしていた→明代、里甲が基層組織として全国画一に編成された。里は百数十戸からなる
徴税運搬を行う糧長の公務は代行役に請け負われ私的な営利事業となる。里をまとめる里長の職も請け負われるようになった→職務の負担が大きく、代行者に請け負わせた方が得だった

348修都:2022/10/20(木) 19:56:29 ID:f50dInU2
大木康「明代中国における文化の大衆化」
宋代までの科挙では、文学的な能力、政治家としての資質が試された→明代から安易な文章でもよい試験になる。詩人の大衆化
明末から文人趣味の指南書があらわれる→文人趣味なども庶民の間へ伝わっていく。新興成金が指南書を求めた。明末、経済的先進地域である江南地方では印刷の普及で大衆伝達社会が成立
『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』などは明末に完成

349修都:2022/10/21(金) 20:11:27 ID:f50dInU2
杉山清彦「マンジュ大清国の支配構造」
マンジュ国を興したヌルハチは、1616年ハン位について金という国号を立てた→ホンタイジは1635年ジュシェンからマンジュに民族名を定め、36年皇帝位につき、大清国の国号を定めた
八旗制→それぞれをまとめる旗王たちの代表として皇帝がいる
支配は在来の統属関係を維持し、現地支配層を統治組織に組み込み間接支配するもの。マンチュリア、モンゴル、チベット、東トルキスタンには漢人の入植・移住を禁じる
清代、マンジュ人支配層内部の反乱は一切起こっていない→強い求心力と厳格な統制→マンジュ人が区別される存在であり続けることが必須→漢人との通婚禁止、居住地も区別
大清皇帝はマンジュのハン、明皇帝を継承した天子、モンゴルを従える大ハーン、チベット仏教の保護者、ムスリムを是認する君主である
大清王権の政治は、独裁的な権力をもつ皇帝が、身辺に集めた側近によって運営する側近政治であった→その体制を自らは統御できない幼帝となったときが西太后らの時代

350修都:2022/10/22(土) 20:11:23 ID:f50dInU2
柳澤明「清朝時代のモンゴル社会」
1636年、ホンタイジが皇帝を称する頃には漠南モンゴルの大部分の集団は大清の傘下に入った→清帝国は満洲人と漠南モンゴル人が連合し、漢人勢力の協力を得つつ、中国内地を併合した
1696年、康熙帝が漠北に親征→清帝国とロシア帝国の勢力圏がモンゴルでも接触→1728年、キャフタ条約で国境定まる
18世紀前半から、モンゴル語ができないモンゴル旗人(八旗に構成されたモンゴル人)が目立つようになる
1881年、サンクトペテルブルク(イリ)条約→ロシア人のモンゴル全域での商業活動が認められる→漠北モンゴルがロシアとの連携のもとに独立を果たすことになる背景の一つ

351修都:2022/10/25(火) 19:56:14 ID:f50dInU2
岡田雅志「近世後期の大陸部東南アジア」
18世紀、中国経済成長と人口の増加→流出人口の受け皿が東南アジア→東南アジア諸政権は、財政を立て直す機会として中国商人を歓迎→華人の現地経済への関与が強まる
大陸部西部のビルマ、中央部のシャム、東部の大越は大国化していく
日本の銅輸出制限→雲南〜内陸山地にかけての鉱山開発進展→移住集団と在来社会の間に対立

352修都:2022/10/26(水) 20:47:00 ID:f50dInU2
六反田豊「朝鮮時代の国家財政と経済変動」
朝鮮史上最も高度な中央集権的支配体制を実現した朝鮮王朝は、経済への管理・統制が一層顕著だった
朝鮮初期の国家財政は徹底した現物主義→商業的な物資調達は抑圧
15〜16世紀、農地開発→官人・士族層の私有地拡大
様々な形態で賦課されていた税物は15世紀末以降、米・綿布へ一元化されていく→米や綿布の生産拡大
大同法→100年かけて各種負担を地税化

353修都:2022/10/27(木) 19:29:08 ID:f50dInU2
松井洋子「近世日本の対外関係と世界観」
織田信長の天下は京都あるいは畿内を指す→信長後、日本全国を統一した秀吉は、ルソンや高山国(台湾)へ服属を求める書簡で統一は天命であるとしている
キリスト教に対峙する論理としては神国を持ち出す
秀吉の構想では明にかわって日本が中華となる→講和では秀吉は明の冊封を受けている→冊封が華夷秩序に入るものだと理解されていない
徳川政権が日本人と異国人を区別する指標となったのは住居や家族を持ち住み着いていること→支配領域に住み続ける人々が非キリスト教徒であることを証明することが制度化
徳川政権の対外関係の枠組みは関係修復が実現しなかった中国を中心とする華夷秩序の傍らに、日本中心の華夷の関係が存立しているというもの

354修都:2022/10/28(金) 19:47:17 ID:f50dInU2
太田淳「グローバル貿易と東南アジア海域世界の「海賊」」
マレー海域の貿易を主導したブギス人→オランダ東インド会社はこの貿易を敵視、攻撃→ブギス人のラジャ・アリはスカナダに要塞を備え貿易を行った
→オランダ東インド会社はラジャ・アリを海賊と呼んだ→しかし、海賊行為と商業活動が混然とした小規模な港市は数多くあり、スカナダだけがそうだったわけではない
実際のところ海賊は商業軍事集団であり、利益を長期的に得るために場合によって略奪か購入かを選んだ
イギリスの進出を警戒するオランダ→海賊の鎮圧は貿易促進のためであると同時に平和と秩序をもたらすために必要として植民地支配を正当化
→しかし、現地制圧のために海賊である現地有力者を近代的体制の中に取り込んでいる→海賊鎮圧のために商業軍事集団に独立国を与える

355修都:2022/10/31(月) 18:58:07 ID:f50dInU2
秋葉淳「オスマン帝国の諸改革」
19世紀、タンズィマート(改革)→課税の対象が地域ではなく個人に→免税特権を認めないことから有力者の反感、税負担が軽減されなかったことから農民層の不満
中央から地方に官吏を派遣し、評議会を組織してその協力のもと改革を進めた
1856年、官立学校が非ムスリムに開放される→オスマン国民の養成→しかし、非ムスリムには共同体の学校があり、外国の支援を受けた学校などもあったため政府の学校は魅力に乏しかった
1876年のオスマン帝国憲法公布と翌年の帝国議会開設はタンズィマート改革の一つの到達点→しかし、1878年ロシアとの対立で批判が高まると議会は閉鎖される
→スルタンのアブデュルハミトは専制体制→しかし、地方に官職が作り出され、在地の名望家や知識人が職に就いた→国家による統合と住民の国家制度への参入→地方社会のオスマン化
新しい教育→教育や儀礼などを通じて、また学校建築によっても地方社会もオスマン帝国の一部であるという事実を意識させる
マケドニアでは民族主義者の武装組織がゲリラ戦→オスマン政府は対処できず→この混乱の中でマケドニアに配属された将校の反乱から青年トルコ革命が始まる
19世紀の改革によりオスマン帝国の国家権力はかつてないほどに浸透した→しかし、マケドニアなどの農民が自らをオスマン国家の一員と意識したかどうかは疑わしい

356修都:2022/11/07(月) 19:28:31 ID:QPJxpke.
井坂理穂「一九世紀インドにおける植民地支配」
東インド会社は19世紀前半までに、インド亜大陸の大部分を支配下においた→1857年、インド大反乱→ムガル帝国滅亡、1877年ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位
18世紀後半のインドにおけるイギリスの司法→刑事訴訟はイスラーム法。民事訴訟はヒンドゥーにはシャーストラの法、ムスリムにはクルアーンの法
→それまでのインドでは、統一的な法が無かったが、ヒンドゥーとムスリムはそれぞれ同じ法が共有されることとなった
1780年イスラーム法に通じた人材育成のためのカルカッタ・マドラサ設立、1791年ヒンドゥー法に通じた人材育成のためのサンスクリット・カレッジ設立
→それまでの知の伝統を引き継ぎつつ、東インド会社の統治体制や権威を築くという会社の方針
19世紀半ば以降、社会・宗教改革運動→推進派、反対派ともに訴訟に関わる→統治のために導入された司法制度は、在地社会の状況にあわせて利用され、インド社会に根づいていった
インド各地でヨーロッパ人と現地のエリートの協力のもとに教育活動発展→在地の知の伝統を重視する人々と西洋の知を積極的に取り入れることを目指す人々の両者がいた
もともとインドのエリート層は複数の言語に精通している→英語はそのなかに加わった一つの言葉にすぎない→英語を重視する主張が優勢に
→ただし、英語教育を受けることのできた層は限られている→そのエリートたちが集う場としてインド国民会議→のちにインド独立運動を率いる
インドでは、在地社会の構造や慣習などを反映しながら多様な教育活動が展開。特定の宗教コミュニティやカーストと結びついた教育機関が存在
在地エリートは女子校を設立→イギリスによるインド社会批判のなかで女性の地位の低さが強調されていたから→しかし、そのエリート達も女性が過度に西洋化することは警戒

357修都:2022/11/08(火) 21:05:35 ID:QPJxpke.
石川亮太「朝鮮の経済と社会変動」
17世紀半ば1000万人程度であった朝鮮の人口は、18世紀末に1800万人程度でピーク、19世紀初めの大飢饉で1600万人程度まで急減
→18世紀末までの人口増加が環境制約を悪化させた可能性→燃料材の需要や耕地拡大による山林の荒廃
19世紀に多発した民乱は租税の過重や不公平への不満を引き金としたもの。人口圧が高まり耕作地も零細化していた
商業では市場の秩序を維持し商人の権力を保証する役割を公権力が集中的に担っていた
1876年日朝修好条規→交隣関係の回復であり西欧的な条約体制への参加という意識は希薄。日清戦争勃発まで、清朝との宗属関係と条約関係は矛盾をはらみつつ併存
朝鮮と日本では、衣料品と食料品の分業=綿米交換体制が植民地化を待たずして形成→食糧需給との摩擦→防穀令(穀物搬出禁止措置)
→商品米の一部が日本に向かい、価格の上昇→人々の窮迫、地域社会の緊張

358修都:2022/11/09(水) 19:48:38 ID:QPJxpke.
黒木英充「変容する「アラブ社会」」
オスマン帝国では、総督と都市民との間に暴力的紛争が発生しても、都市民はイスラーム法官を通じて正義を主張し、秩序を維持していた
→19世紀には、その法官も社会の柱石たりえなくなっていた。シリア内陸部では徴税請負が浸透しており、農村の矛盾は都市の暴動で解決されることがあった
→19世紀半ば以降、タンズィマート改革で徴税請負が廃止され、直接的徴税の仕組みが整うと、大規模な都市暴動はなくなった
エジプトでは奴隷軍人マムルークが支配層を形成し続けていたが、アルバニア出身のムハンマド・アリーはマムルーク有力者層を一掃し、徴兵制など近代国民国家に特有の制度を導入
→エジプトの事実上の独立国家化→ムハンマド・アリーの息子イブラーヒーム・パシャはオスマン政府からの解放者としてシリアに乗り込み占領。キリスト教徒・ユダヤ教徒を優遇した
→イギリスはロシア、オーストリア、プロシアと連合し、オスマンも従えてエジプト軍を攻撃、シリアから撤退させた
レバノンでは、マロン派(カトリック)・キリスト教徒・エジプト軍・フランスとドルーズ派(イスラム)・ムスリム・オスマン・イギリスが対立・内戦→内戦後、行政会議定員が宗派別に配分された
→これがレバノンの政治体制を規定する宗派主義の起源
ムハンマド・アリーの支配権が認められた1840年以降、オスマン政府の言論統制を嫌う知識人らはエジプトに渡った。レバノンは30〜40万人規模の人口のうち10万人程度が流出した
→人口増による土地所有細分化、日本・中国産の安価な生糸との競争に敗れたのが移住の主要因
19世紀から第一次世界大戦までは南欧・東欧から膨大な人口が新大陸に向かった時代であり、レバノン・シリアからの移民もヨーロッパ移民と同じくニューヨークやリオデジャネイロなどを目指した

359修都:2022/11/10(木) 19:48:05 ID:QPJxpke.
阿部尚史「イランの一九世紀」
19世紀、イランを支配したのはトルコ系のカージャール朝。シーア派信徒の守護者としての統治理念を正当性の根拠においた
中央ユーラシア地域をめぐるイギリスとロシアの覇権闘争→イラン=ロシア戦争→第一次ではイランはイギリス・フランスの支援を受けた→第二次でコーカサス南東部を失う
→トルコマンチャ―イ条約は関税自主権喪失など不平等な内容→以後、ロシアは圧力をかける存在となる
19世紀イランでは、民事司法は法学者の独自な法廷で解決されていた→強制執行には国家権力に協力してもらう
イランで近代化改革を始めたのは、アゼルバイジャン州総督アッバース・ミールザー→軍制改革など→ミールザーの死後、継続しなかった
19世紀後半以降、イランの近代的知識人はイスラーム以前の起源を研究→シーア派信仰と並んで現在もイランの国民意識として機能
イランのナショナリズムは伝統と近代が絡み合うなかで創り上げられていった

360修都:2022/11/11(金) 20:03:09 ID:QPJxpke.
宇山智彦「ロシアと中央アジア」
ロシアは、ユーラシア国家としての性格を当初から持っていた→ピョートル1世期(1682〜1725)以降、ヨーロッパ諸国に倣った改革を進める→近代化と専制権力の維持という二面性
中央アジアでは、住民のほとんどが異族人の身分に入れられ、現地有力者が帝国の貴族層に組み込まれることは一部の例外を除いてなかった
大部分がロシア支配下に入っていた中央アジア民族はカザフ人だが、カザフ草原東部はロシアと清に両属していた→ロシアはカザフ人に対する支配権を確立していく
ロシアは、草原地帯では安全な国境線を設けられないために領土を広げたが、占領地を守るにはその向こうも占領しなければ安心できないということになり、拡張を続けていった
英露は中央アジアでは、大国中心の国際秩序、帝国競存体制を作ろうとしていた
ロシアは、イスラーム法の適用範囲を限定し、文書主義・判例主義を導入した→ヨーロッパ諸国に植民地化、圧力を受けたイスラーム諸国と共通
イギリスのインド統治に比べ、ロシアは現地人協力者の育成・活用に消極的
ロシアが中央アジアに領土を得たのは安全保障上の動機によるところが大きく、利益を集めることを重視したイギリスとは大きく異なる
→1880年代以降は、モスクワなどの繊維産業を支えるために中央アジアでの綿花生産が急速に伸びる
ロシア帝国のヨーロッパ部は人口増加・土地不足に直面しており、20世紀に入る頃には中央アジアへの移住を奨励→現地民との緊張が高まる→知識人を中心に自治運動
→国民国家形成の萌芽。ソ連の時代を経て、実際に独立国家が成立していく

361修都:2022/11/14(月) 19:35:29 ID:QPJxpke.
小林亮介「一九世紀の清・チベット関係」
ダライ・ラマ政権の母体であるチベット仏教ゲルク派は新興勢力→カルマ・カギュ派の勢力を打ち破り、1642年ラサにダライ・ラマ5世を最高権威とする政権樹立
→カムの東半分やアムドには多くのチベット系在地有力者が割拠、多くはグーシ・ハーン一族の支配を受けていた
乾隆帝の時代は清とダライ・ラマ政権の関係が良好に保たれた時代→背景にアムドの僧侶達の活躍→以後の皇帝には、乾隆帝のチベット仏教への敬意は必ずしも継承されていない
ダライ・ラマ九世以降はラサの一握りの寺院出身の僧たちが摂政として代々大きな力を振るうようになる
カムの争乱→中央チベットに対する清の影響力後退、内地との交通が阻害された。ダライ・ラマ政権も四川からの茶の輸入が断絶した
→カムの秩序回復が必要→チベットはカムの多くの首長に服属を誓わせた→管轄をめぐり、ダライ・ラマ政権と清四川当局の間で紛糾→イギリスがヒマラヤ・チベットで情報活動
→ダライ・ラマ政権は英軍に敗北→ダライ・ラマ政権は反英姿勢を貫いたが、清内部ではチベット喪失の事態に備えてニャロンを四川省へ回収すべきという強硬論→実行
→清はもはやチベット仏教の護持者ではなかった→ただし、清も関係悪化は回避すべきと判断し、ニャロンを返還→ダライ・ラマ13世はロシアと接触→イギリスはラサへ進撃、ラサ条約締結
→イギリスの経済進出。しかし、ダライ・ラマ政権にとって最大の脅威は、清だった→清はチベットを支配しようとした→ラサに進軍、ダライ・ラマ13世はインドに逃れる
1912年に誕生した中華民国は清朝版図の継承を唱え、チベットにも新国家への参加を呼びかける→1913年ダライ・ラマは独立宣言

362修都:2022/11/15(火) 19:49:02 ID:QPJxpke.
小泉順子「近代シャムにおける王権と社会」
19世紀前半のシャムは活発な交易を行う多数の中国人を有し、米や塩など競争力のある輸出品を有する国とイギリスに思われていた
1826年、イギリスと条約締結→米、武器、アヘンを除く貿易→1855年、バウリング条約。イギリスはシャム船・中国船と同じ条件で貿易参入。アヘンは徴税請負人以外に販売すること禁止
→アヘン税は賭博税に次ぐ財源に
シャムは英領との国境制定には関心が薄かったが、ビルマやベトナムなどには軍事力を行使→カンボジアはベトナムとシャムの両方に朝貢
1852年、第二次英緬(ビルマ)戦争が始まるとイギリスが戦う様子を見せてほしいと希望。フランスとはカンボジアをめぐって交渉→1867年、フランスのカンボジアに対する保護権を認める
1893年、フランスと衝突、イギリスの介入も得られず、メコン川左岸は仏領となった→英仏両国が国境制定交渉を行い、シャム中核域の中立化を宣言

363修都:2022/11/16(水) 21:03:18 ID:QPJxpke.
村上衛「清朝の開港の歴史的位相」
18世紀の中国はかつてない規模の人口増大。しかし、農業の技術革新は緩慢で農業生産性の向上には限界
広州貿易に制限はなく、18世紀後半からの茶貿易発展で対欧米貿易が急速に拡大。貿易管理は困難になっていった。アヘン貿易も拡大し、銀流出を招き、中国経済の停滞を引き起こした
清朝は王朝創設期に設定された国家財政に拘束されていた→18世紀の物価の上昇により国家財政は縮小、小さな政府となっていった
→経費が不足していた地方政府は非公式の収入をおこなったが、それが不公平な徴税や腐敗を招いた
アヘン戦争後の南京条約→低関税による自由貿易が実現するはずだった→密輸と海賊により自由貿易は機能しなかった
貿易赤字は拡大し、銀と銅の交換レートは著しい銀高となり、農民や手工業者は打撃を受け、治安悪化→太平天国拡大の原因
イギリスは輸出拡大をねらい、フランスと第二次アヘン戦争を引き起こし、天津・北京条約で自由貿易を実現するための要求をほぼ実現した
密輸については、外国人税務司制度を導入し、概ね解決。清朝地方官がイギリスに依頼する形で海賊の掃討も進んだ
開港場は、業務を委託された欧米人を利用しつつ、中国におけるネットワークの中心となり、開港場システムが成立
1850年代後半から生糸と茶の輸出が本格化。国産アヘンの大量生産によってアヘンの輸入減少→1864年には貿易黒字。銀の流入をもたらし、中国経済復調。関税収入は増大し続けた
太平天国などの諸反乱による膨大な犠牲は人口圧を緩和した
東南アジアなどへの海外移民も大幅に拡大→19世紀後半以降、華南沿海諸都市は東南アジアからも米の供給を受けることが可能になり、食糧供給安定
中国の小農経営には制約が少なく、清末においても有利な商品作物を選択して作付けし、場合によっては移民先で生産を行い、多様な一次産品生産に貢献
華人は欧米や日本が開港場や植民地に張り巡らせた銀行などのインフラを利用してネットワークを拡大
開港場貿易を円滑ならしめたのは、開港前から存在した経済的制度であり、欧米の技術と制度をもとに生まれた開港場のインフラと結びついて開港場貿易の発展をもたらした
→しかし零細な生産体制に変化は無い→茶などの国際的な競争力の低下。外部の衝撃は内地に伝わらなかった
華人のネットワークは同郷・血縁関係をもたない人々には閉鎖的なネットワークであり、ましてや外国人は入り込めず租界に押し込められ、内地経済へのアクセスにはつながらなかった
義和団事件まで欧米は中国における権益を拡大したものの、影響力は点と線にとどまり、内地の利権構造に手をふれることは無かった
→イメージとは異なり、20世紀の世紀転換期、外国の影響力は中国内部に浸透するどころか、外縁に押し出されていく→日本のみが例外的に領域支配を拡大、内地への浸透を図る
→中国ナショナリズムと衝突することになる

364修都:2022/11/17(木) 20:46:30 ID:QPJxpke.
谷本雅之「日本経済発展の始動」
17世紀、近世日本は人口が顕著に増加→耕地面積の大幅な拡大。城下町の建設・拡充→18世紀に上限→肥料(魚肥)となる水産資源を求めて蝦夷地へ
18世紀、民間需要の拡大・成熟→海外との技術知識の交流は極めて乏しい→日本列島内での技術知識の普及。農村への生産の場の移動
関税自主権が無いという意味でも開港によって自由貿易が始まった→新たな生産受容(生糸)と中間投入財の供給源(輸入綿糸)
→1870~80年代以降、ヨーロッパの産業技術移転→1890年代半ば、国産綿糸による国内市場の輸入代替達成
農家は自家労働力の戦略的な配分先として工場労働を選択→繊維大工場も小農経営の論理の中に位置づけられている
維新政府の果たした役割は、西欧の産業技術導入。明治維新後の実際の産業発展を主導したのは民間
中央財政は軍事支出に傾斜。物的インフラや人的資本の形成で地方政府による財政支出の果たした役割は大きい
地方財政の基盤は在地の資産家の担税力→19世紀以降の農村・地方経済の活性化の中で影響力を強めた豪農が地方資産家・名望家層

365修都:2022/11/20(日) 15:41:56 ID:QPJxpke.
鶴島博和「中世ブリテンにおける魚眼的グローバル・ヒストリー論」
ローマ属州時代のブリテンでは淡水魚や沿岸の漁労が活発。魚食は一般的でなかった→8世紀、司教ウィルフリドが南サクソンで漁労を教えた
→漁業のためには防腐剤の塩が必要→製塩のためには燃料が必要→森から資源を切り取る。海岸線から目の前のある所までの水域は所領に属していた→漁場の成立
1000年、出土する海水魚の魚骨が急増。この時期は、温暖化が進み人口が増加した→鰊漁が主要産業に
中世のイングランドは塩の一大生産地。人間に必要な塩を除いても相当の余剰が発生しており、余剰が鰊漁を支えた
鰊漁師たちは武装集団であり海賊行為におよぶ可能性がある→海事に関する役務を課し、見返りとして漁業権を保証する

366修都:2022/11/21(月) 21:04:39 ID:QPJxpke.
藤井真生「帝国領チェコにみる中世「民族」の形成と変容」
現在のチェコの領域に国家が登場したのは9世紀後半→ボヘミア統一→東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)が進出→970年代、支配を受け入れる→ボヘミア大公領
→ボヘミアは部族連合から国として認識される政体に成長→チェコ族からチェコ人へ
チェコ東方はモラヴィアで別の領邦→皇帝への奉仕で遠征するとボヘミア人とモラヴィア人は一括して扱われる→チェコ人という区分。聖ヴァ―ツラフ崇敬でも両者は共通している
14世紀、ボヘミアの人口の6分の1はドイツ人植民者であったという→宮廷の高官、各地の領主層から都市の上層市民までが「外国人」を嫌悪の対象とした→外国人は「ドイツ人」とほぼ同義
1306年、9世紀以来続いてきたボヘミア王のプシェミスル家が断絶→国外勢力が入り乱れ、王位継承をめぐる争い→皇帝の長子を迎える→ルクセンブルク朝→チェコの貴族は2度の反乱
かつて、異端とされたフス派はチェコ人固有の信仰・思想とされた→実際はチェコ内部で等しく受け入れられたわけではない
フス派がチェコ語で説教などをおこなったのは重要だが、ラテン語やドイツ語でもチェコ人説教師は活動していた。フス派に参加するドイツ系住民も多数いた

367修都:2022/11/22(火) 21:02:14 ID:QPJxpke.
五十嵐大介「西アジアの軍人奴隷政権」
1000年から1500年頃まではアラブ系やイラン系ムスリム住人とは言語的にも民族的にも文化的にも遊離した外来の支配者集団が西アジアを支配
→支配の基盤はイクタ―制。徴税権を軍人に委ねる→イクター制で獲得した富をウラマー(イスラーム知識人)に寄進する
マムルーク朝(1250〜1517)はマムルーク(軍人奴隷)のみが支配層を占めていたわけでも、軍人奴隷という出自が重視されたわけでもなかった
有力軍人が実力でスルターン位を獲得した時代→カラーウーンの息子ナースィルが絶対的な権力を確立し、彼の血縁者が世襲した時代→ナースィル期を実力で変えようとした時代
→実力でスルターン位に就くことが確立した時代。これらの時代にマムルーク朝は分けられる
→ただ、実力で即位しても前任者と姻戚関係を結ぶことは地位に正当性を与える一つの手段だった
イスラーム法では、男性は4人まで妻を持てたが、15世紀のエジプト・シリアでは、一夫一婦制が主流→スルターンにもその波。妾を持たないスルターンもいた→ペストの流行もあり、少子化
→実力でスルターンになる背景には少子化があったのでは

368修都:2022/11/23(水) 19:24:29 ID:QPJxpke.
小澤実「異文化の交差点としての北欧」
スウェーデンを出自とする東方へ拡大した北欧人が東方ヴァイキング。東スラヴ人らを核とした集団がルーシ。ビザンツ帝国と関係を深めた集団がヴァリャーギ
9世紀、ノルウェーヴァイキングが拡大し、ブリテン諸島北部沿岸部と北大西洋諸島は北欧人が定住する空間に
グリーンランド植民(15世紀に放棄)→鷹の産地、シロクマの産地、セイウチの産地(牙が貴重)
中世アイスランドは「サガ」と総称される特異な文献を大量に生産した→一定程度以上の事実が物語の核になっている。異集団(中東や新大陸など)との接触と交渉が描かれている

369修都:2022/11/24(木) 19:13:38 ID:QPJxpke.
黒田祐我「レコンキスタの実像」
イベリア半島北に分立したキリスト教諸国が展開したアンダルス(イスラーム支配域)に対する軍事活動は十字軍運動の西方戦線
イベリア半島の征服では、既存のモスクを再利用する方法が採られた→教会へ転用→キリスト教が都市景観の主役であることを明示する
ムワッヒド朝が1212年の敗北後、内紛によって瓦解していくなか、大レコンキスタと称される征服活動が遂行されていく→この時期でもモスクは教会として再利用される
→大聖堂を建て直す事例もこの時期にはある
13世紀半ば、イスラームのナスル朝はカスティーリャ王の家臣として振る舞いつつ友好関係を維持しようとした。ナスル朝でも西欧化が進行した
1492年、グラナダ降伏でナスル朝は滅亡。約800年続いたアンダルスの終わり→それでもモスクは教会として再利用された

370修都:2022/11/25(金) 19:58:47 ID:QPJxpke.
三浦徹「宗教寄進のストラテジー」
イスラームのワフク→寄進(寄付)する行為
ワフクは11世紀以降に活発となり、一般民も家族や宗教・慈善を目的としてワフクを行っていた
ワフクの目的→来世での救済。名声・名誉の獲得。墓所の確保。財産の継承→財産の継承目的での寄進はヨーロッパではほとんどみられない
ワフクは市場経済的な合理性をもつ→ワフクの管財人は寄進財の収益を使って新たな財をワフクとすることができる。ワフクの特徴は、任意の規模で寄進や経営ができること

371修都:2022/11/26(土) 15:46:22 ID:QPJxpke.
久木田直江「「女性の医学」」
キリスト教では、人間が病から回復するには改悛と罪の赦しが不可欠と考えられた→キリストを霊的な医師、薬剤師と考える伝統
同時に西洋中世はギリシア医学を継承している→宇宙をマクロコスモス、身体をミクロコスモスと捉えて人体の働きを説明する。4大元素説→病気の原因は体液バランスの崩れ
4大元素説→男性は優れた性質、女性は劣った性質
キリスト教会は、霊の在り方において男女は平等であるとしながらも、人間の罪はエヴァに始まるという認識に縛られていた
神学者はヴァージニティ(処女性)を魂の救済と結びつけ、純潔を憧憬。古代以来、月経は有害と受けとめられ、女性蔑視の思想を先鋭化させた
中世における治療者のイメージは圧倒的に女性→しかし、女性に学問的権威が与えられることはない
女性の医学の男性化→女性医師が書いた女性の身体と健康に関する『トロチュラ』の大多数の写本は女性の生殖機能に関心を持つ男性読者に所有されていた

372修都:2022/11/27(日) 13:17:38 ID:QPJxpke.
辻明日香「イスラーム支配下のコプト教会」
アラブの支配者たちはエジプトで、村落共同体の内的自治に干渉することはなかった。キリスト教徒やユダヤ教徒は自治権を与えられた→ジズヤ(人頭税)を支払う限り教会法に従ってよい
8世紀、イスラーム教への改宗が増える→税回避目的→コプト教会(エジプトのキリスト教会)は殉教者の教会というアイデンティティを確立していく
教会とイスラーム政権との関係は良好とは言い難かったが、コプト(イスラーム支配下のエジプト人キリスト教徒)を官僚として積極的に登用
マムルーク朝期にはコプトの総司教は影の薄い存在になり、政権と教会の間を取り持つ信徒らが改宗していくと教会は窮地にさらされる
マムルーク朝の1301年、ズィンミー取締令→キリスト教徒は青、ユダヤ教徒は黄色のターバンを着用
→抵抗があったが、14世紀後半になるとターバンはキリスト教・ユダヤ教の証として誇りをもって受け入れられるようになる

373修都:2022/11/28(月) 19:55:59 ID:QPJxpke.
佐々木博光「中世のユダヤ人」
13世紀以前、ユダヤ人は商業特権によって保護されていた→13世紀以降、特権が剥奪され、やがて都市を退去させられる
→ユダヤ人の地位低下は11世紀末には始まっており、十字軍に襲撃されている。また、キリスト教徒のこどもの失踪や殺害があるとユダヤ人に嫌疑がかかった
→ユダヤ人の儀式にキリスト教徒のこどもの血が使われているという言い伝え
ユダヤ人は地域社会の一員として、キリスト教徒と共生関係にあった。しかし、激しい差別にさらされての共生→その共生もやがて破綻

374修都:2022/12/17(土) 18:01:46 ID:QPJxpke.
寺嶋秀明「狩猟採集民の世界」
アフリカは地球上のどこよりも早く人類が登場し、今日まで生き抜いてきた大陸→多様性
現在のピグミー人口は、およそ20~30万人で、世界で最も多い狩猟採集民。今日では生活のあり方は一様ではない→小柄なのは森林に適応したからではないかという説
アフリカ狩猟採集民では、男は狩猟、女は採集といった分業が普通→ただし、女も参加する狩猟や女だけの漁もある。男も採取を手伝うし、子守する。ほとんどが一夫一婚
食物はバンド(生活集団)全体に分配される。バンド内は平等主義、個人や家族の自立が尊重される。元来リーダーはいないが、現在、行政上の理由で名目的に代表とされる人がいる
バンド内での争いの有効な解決方法は、バンドを離れること→ほとぼりがさめると戻ってくる。バンド間にも優劣はない
このようなあり方は、世界各地の狩猟採集社会で認められる
テレビで砂漠の狩猟民と紹介されてきたサン(ブッシュマン)は、実際は草や灌木におおわれた砂の大地に住んでいる→外来勢力の迫害によって極限的な環境に追いやられたが生き抜いてきた
→1970年代から始まったボツワナ政府の定住化政策で試練の時代→原野に分散して自由に暮らしていたのが、指定された地区に集住して暮らすことになった
数千年かかった熱帯雨林への農耕民進出→ピグミーとの混血。ピグミーは農耕民を通して鉄器やバナナを入手した→農作物と森の産物との交換→ピグミーの農耕民への隷属化には至らなかった

375修都:2022/12/18(日) 13:53:13 ID:QPJxpke.
坂井信三「トランスサハラ交易と西アフリカ諸国家」
サハラが砂漠化するにしたがってアフリカ南北の交流は制限されていった。7世紀のイスラーム勢力による北アフリカ征服以後、サハラ越え交易→南北の人種的・文明的対比は鮮明
希薄な人口、低い生産力、文字記録の不在などのためサハラ以南は未開とみなされた
トランスサハラ交易の上に立って統一交易国家が繫栄した時代がアフリカにはあった(マリ王国など)→マリが衰退すると政治権力が拡散していく

376修都:2022/12/19(月) 19:31:53 ID:QPJxpke.
鈴木英明「沿岸部スワヒリ世界の形成と展開」
1世紀半ばには沿岸部スワヒリ(アフリカ東岸)で渡海者男性と現地女性との通婚が一定程度あり、そうした人々が媒介者となって遠隔地交易が展開されていた
11世紀前後、アフリカ大陸東部沿岸は海洋資源や海上活動に高く影響されている→サンゴやマングローブを建築に用いる→内陸部との文化的紐帯は弱まる
18世紀までの沿岸部スワヒリ世界は外部と接触する機会も相手も限られていた→19世紀、ブー・サイード朝がザンジバル島に拠点形成
→欧米商人の大陸沿岸での商業活動を認めない一方、ザンジバル島ストーン・タウンからの輸出を無税にし、一極集中を試みる
沿岸部の港町では象牙などの需要が増加するに伴い、沿岸部の人々がアフリカ奥地まで赴くようになる→沿岸部と内陸の長距離交易網
沿岸部からの奴隷輸出は19世紀に最盛期。奴隷は他の商品と異なり、ザンジバル島を経由しなかった
奴隷供給については、奴隷狩りと同程度に自らや家族を奴隷として売ることで生き延びようする事例も少なくなかった
1880年代以降、植民地化が進んでいくとザンジバル島は商業の中心で無くなっていった
1879年、ザンジバル島とペンバ島で奴隷制廃止→解放証明書を受け取ったのは全奴隷の1、2割→元奴隷は納税の義務、居所と収入源を証明する必要
→奴隷たちにとっては、自由身分と奴隷身分を天秤にかける行為だった

377修都:2022/12/20(火) 19:57:52 ID:QPJxpke.
網中昭世「植民地主義の展開」
アフリカの植民地建設初期の抵抗と弾圧は第一次世界大戦前後まで続いた。植民地軍や警察の側にもすでに相当数のアフリカ人が組み込まれていた
イギリスとオランダ系アフリカーナーとの南アフリカ戦争後、イギリスはアフリカーナーの共和国トランスヴァ―ルとオレンジ自由国を軍政下に置く
→1910年、2つの共和国とケープ、ナタール植民地をそれぞれ州として南アフリカ連邦成立。ドイツの植民地だった南西アフリカは第一次世界大戦後、南アフリカの委任統治領となる
→1946年、南西アフリカを事実上併合。南部アフリカでは、第二次世界大戦後、脱植民地化に逆行した植民地国家が形成された
南アフリカはイギリス植民地最大の金産地であった→南部アフリカでは1920年代には、金産地への移民労働を経験することが一人前の男として確立する儀礼とみなされていた
農村部では生産手段を奪われて鉱山の労働市場に参入せざるを得ない→移民労働システムの廃止を求めはしなかった
南アフリカでは、2017年時点でも白人所有の農地がアフリカ系南アフリカ人に移転されたのは10%程度

378修都:2022/12/21(水) 21:06:50 ID:QPJxpke.
武内進一「中部アフリカ」
中部アフリカの熱帯雨林周辺部には、植民地期以前、数多くの国家があった→16世紀以降、大西洋奴隷貿易が本格化すると奴隷獲得のための戦争や混乱で、これらの国々は衰退
熱帯雨林では、集権的な王国は成立しなかった
ルワンダの内戦でクローズアップされたトゥチとフトゥは社会階層を含意する言葉→トゥチが貧困化すればフトゥ、フトゥが豊かになればトゥチ
ルワンダ王国周辺部の人々がそうした自己認識を強く持つこともなかった→19世紀後半、トゥチの支配が強まると集団間対立が起こるようになる
中部アフリカ北部にはイスラームを受容した王国が多数存在したが、熱帯雨林地域への浸透は限定的。ヨーロッパ勢力の侵入も遅れた
コンゴ自由国を誕生させたベルギーのレオポルド2世はアフリカ人に狩猟・採集させ、低価格でゴム・象牙を買い付けた
→1890年代以降、ゴムの採集は義務化され、量を集められなければ刑罰が科せられた→糾弾の国際世論が高まると1908年正式な植民地であるベルギー領コンゴとなった
→ベルギー領コンゴではコンゴ自由国の反省からアフリカ人の保護と生活改善がうたわれた→中部アフリカでは多様な集団が移動を繰り返していたが、領域とメンバーシップが固定化された
ヨーロッパではトゥチがフトゥを征服して国家が成立し、人種が異なると考えられていた→ベルギーは両者を明確に区別し、トゥチに行政ポストや近代教育を与え、フトゥをそこから排除した
1960年、コンゴの独立が決まるが、洞掘採集の権益が独立国家の手に渡ることを恐れたベルギー資本が政治指導者チョンベを焚き付けた結果、コンゴ動乱が起こる
ルワンダでは、政治権力が一部トゥチに独占されていることが好ましくなかったベルギーはフトゥと親密な関係を築く→フトゥがトゥチ達を襲撃、追放→10万人を超えるトゥチが国外に放逐された
コンゴ動乱を収拾したのはアメリカの支援を受けたモブツだった→モブツ個人が国家を操作する仕組みをつくり、国名はザイールとなった
ルワンダなど中部アフリカでは一党体制の国々が次々と成立。いずれもモブツ政権と同様の性格で冷戦体制のなか、先進国から支えられた
→冷戦が終結すると西側諸国は民主化しない国には援助しない政策を打ち出したので、複数政党制に移行する国々が続出
1990年、30年前にウガンダに亡命したルワンダ難民の第2世代(RPF)が祖国に侵攻した→一旦は戦いは止まったが、94年ルワンダのハビャリマナ大統領の搭乗機がロケット砲で撃墜された
→政権はRPFによると主張し、報復→民兵らがRPFとトゥチを同一視し、トゥチ市民を無差別に殺戮。少なくとも50万人が殺害された
→和平協定を訴えたフトゥ政治家も多数暗殺されている→RPFと交渉するかどうかの対立が、エスニックな装いをまとって急進化した→殺戮が進むなか、RPFは首都を制圧し、新政権樹立
→政権側の勢力がザイールなどに逃亡。多数の難民キャンプが建設される→RPFがザイール国内ルワンダ系住民(AFDL)を動員して難民キャンプ掃討作戦
→AFDLはザイールのモブツ政権打倒を掲げて進軍開始。モブツ体制崩壊→カビラが政権を握り、国名がコンゴに戻った→政権の軍事部門はルワンダとウガンダが掌握
→カビラは両国と衝突、内戦→アフリカ大戦→2002年に紛争が終結したが、東部の治安は現在も回復していない
ルワンダは、RPFの統治下で軍事的性格を帯びるようになった。社会変革への強烈な指向があり、ルワンダの国会議員の女性比率は世界最高水準

379修都:2022/12/25(日) 18:23:02 ID:QPJxpke.
米田信子「歴史言語学からみるバントゥ系移民の移動」
アフリカ大陸の言語はアフロアジア大語族、ナイル・サハラ大語族、ニジェール・コンゴ大語族、コイサン大語族の4つに分けられる
バントゥ諸語はニジェール・コンゴ大語族に属するベヌエ・コンゴ語派の中のバントイドと呼ばれる語群の下位に分類される言語群→しかしアフリカ大陸の赤道以南に広く分布
ニジェール・コンゴ大語族の歴史は1万~1万2000年と推定。ベヌエ・コンゴ語派からバントゥ諸語という分派が始まったのは6000~7000年前
バントゥ諸語は祖地カメルーン西部から1500~2000年かけて200キロ程度移動。熱帯雨林の手前まで→その後、南アフリカまで移動
バントゥ移民は干ばつによって熱帯雨林にサバンナが出現すると南側へ移動した

380修都:2022/12/26(月) 18:01:42 ID:QPJxpke.
苅谷康太「アラビア語史料から見るアフリカ」
8世紀からアフリカに関する外部史料はあったが、12世紀頃からの外部史料はアフリカとそこに住む人々を劣った存在とみなす思想がより強固になっている

381修都:2022/12/27(火) 19:31:51 ID:QPJxpke.
杉山祐子「女性・ジェンダーからみるアフリカ史」
狩猟採集社会で肉を獲るのは男性だが、権力を行使するわけではない。子どもの養育も共同
アフリカの王国では王族女性が政治的な権力を与えられ、重要な官職を担っていた。女性の政治権力は、霊的な力と深く結びついていた
11世紀以降、イスラーム化の進展→父系原理が持ち込まれ、13世紀頃までに多くの国々が父系制に移行。それでも母系親族は力をもちつづけた
植民地化→出稼ぎに行った農村男性が現金を持ち帰ることで発言力が強まり、地域や世帯の長とされていく。女性よりも男性労働力に価値が置かれる
植民地政府は女子割礼を前近代的で野蛮として廃絶に動き出す→女性たちは自己割礼をして抵抗
植民地からの独立後も女性の位置づけは変わらなかった→それでも「伝統」(女性婚という女性同士の結婚など)を応用して女性の連帯がつくられている

382修都:2023/01/03(火) 17:05:22 ID:QPJxpke.
正木響「植民地経済の形成とアフリカ社会」
ヨーロッパでは18世紀後半には反奴隷貿易運動も盛んだった→アフリカ社会では奴隷制は一般的であり、奴隷制のような野蛮な制度を文明化するという植民地化を正当化する論拠となった
ヨーロッパはアフリカ側の首長と協定を結んで河口部を確保し、川を遡る戦略をとった→多くの川が大西洋に流れ出る西アフリカでは、主な河川ごとに支配国が異なる
セネガルではアフリカ内陸部に親族関係を持つメティス(ヨーロッパ化したアフリカ系住人)がアフリカの君主や商人との間で関係を形成し、植民地政府やフランス商人との間に介在した
1830年、セネガルで生まれた自由民の男性をフランス市民と同等に扱う政令。フランス市民でないものは臣民となり、アレテ(省令)やデクレ(政令)が適用
→フランスで共和制の実現に燃えるリーダー達は、植民地の住民にも自由・平等の精神を認めた。一方で、植民地拡張政策
フランスは、アフリカの君主に貢納を支払って領土を利用させてもらう立場だったが、徐々に保護協定で支配地を拡大。保護協定が締結されない場合は武力で征服
セネガルはフランスに植民地化されたが、セネガルの人々は内陸部の植民地化に加担→歩兵部隊への入隊は社会的上昇を可能とする
1912年、コルベと呼ばれる労働賦役が導入される→成年男性に1年に1〜2週間無償労働を義務づける→フランスは1930年、強制労働を禁止するILO強制労働条約採決を棄権
→1937年に批准するが、強制労働を義務労働という言葉に置き換えて第二次世界大戦終結まで制度を維持

383修都:2023/01/04(水) 20:02:51 ID:QPJxpke.
荒木圭子「パン・アフリカニズムとアフリカ」
19世紀以降、ロンドンには多岐にわたる分野で黒人たちが集った→人種差別的待遇を共有し、パン・アフリカニズム的思考を形成・発展させた
1897年、ロンドンにアフリカ協会が設立される→1900年、ロンドンでパン・アフリカ会議→米国内の黒人への参政権等の付与、ハイチやリベリアといった黒人国家の独立保障などが求められた
→会議後、パン・アフリカ協会となるが、数年後に活動休止
第一次世界大戦後、黒人たちは連帯して人種主義的な国際秩序の是正を求めた→従軍して連合国の勝利に貢献した見返りとして、黒人たちは自決権を旧ドイツ領アフリカへ適用することを訴えた
1919年、パリでパン・アフリカ会議→政治的権利に関しては、漸進的にアフリカ人に参政権を付与することが求められたのみ
1921年、第二回パン・アフリカ会議→黒人労働者問題への注意喚起、委任統治委員会への黒人任命などを求める程度
パン・アフリカ会議は欧米のエリート黒人、植民地経営に取り込まれたアフリカ人エリートによる会合という性格が強い
1914年、マーカス・ガーヴィーが英領ジャマイカで万国黒人向上協会(UNIA)設立→ガーヴィーは旧ドイツ領アフリカの独立を求める
19世紀末、教会における人種差別に不満を抱いたアフリカ人牧師は独立教会を設立、エチオピアニズムと呼ばれる黒人教会独立運動を広めた
→エチオピアニズムはアフリカ人たちを政治化し、主体的に参加する初めての組織抵抗運動となる
南アフリカではアフリカ内で最も多くのUNIA支部が設立される→異なる民族集団に属するアフリカ人がひとつの集団として地位向上を目指すとき、ガーヴィーのメッセージは有効だった
南アフリカの黒人たちの関心事はあくまで国内の人種問題だったが、パン・アフリカニズム的要素を含みながら展開された

384修都:2023/02/05(日) 18:16:56 ID:QPJxpke.
山下範久「一四-一九世紀における「パワーポリティクス」」
10世紀、中世温暖期→13世紀世界システム=モンゴル帝国→14世紀の危機、小氷期→統一的な世界帝国によるグローバルな一体化の時代から複数の帝国の並存割拠が常態の時代へ
→オスマン帝国、サファヴィー帝国、ムガル帝国、明朝、モスクワ大公国。近世ヨーロッパは、複合的な要素の入り組んだ国家が、互いに貫入して国際システムが成り立っていた
18世紀まで、ヨーロッパを含む世界の各地域の経済的パフォーマンスには本質的な差異が無かった→19世紀、ヨーロッパの技術革新の連鎖
ヨーロッパの17世紀後半から18世紀は、巨大な普遍的帝国の出現を阻止するための同盟関係が進行した→ヨーロッパが非ヨーロッパ世界に対して帝国として立ち現れるようになる

385修都:2023/02/06(月) 20:09:25 ID:QPJxpke.
守川知子「宗派化する世界」
宗教改革によってドイツは宗派化へと向かい、地域や領主ごとにルター派、カルヴァン派、カトリックへの一元化が進展
宗教改革と時を同じくして、西アジアではスンナ派とシーア派の激闘→オスマン朝はスンナ派を強化する施策、サファヴィー朝はシーア派に転向させる施策→西アジアの宗派化
日本では、キリスト教の教義ではなく、既存の信仰対象への攻撃が受け入れがたかった。キリスト教禁教令と歩を一にして、伝統宗教である仏教へのシフトが図られている→国家主導の宗派化
シャムでも、キリスト教の既存宗教への攻撃や国王の転向が受け入れられず、鎖国体制となる
インドのムガル朝は最大版図となった時に、宗教の相違が抜き差しならなくなると、異質性(ヒンドゥー教など)を排除し、イスラーム法に反する行為を戒めた
多様な宗教を内包し共存・並存する社会から宗教マイノリティは改宗を選ぶか、移住するしかない時代へと移り変わった
19世紀、世界各地で聖地巡礼が盛り上がる→個々人の内面に侵攻が根ざし、社会の中に宗教が内在化した。16世紀からの宗派化が完遂した
宗教と政治、宗教界と国家が密接な関係をもっていた時代は終わり、宗教勢力が政治において、むしろ足かせとなる

386修都:2023/02/07(火) 20:02:19 ID:QPJxpke.
ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子「奴隷たちの世界史」
ポルトガル人が大西洋奴隷貿易を開始する前、アフリカ大陸を南北に繋ぐサハラ交易では、最も大規模で継続的な奴隷取引
ヨーロッパでは昔から奴隷が重要な役割。ヴァイキングの時代は奴隷貿易が盛ん
ポルトガルが海洋進出すると、もともと存在した奴隷取引が国際商業の循環へと引き込まれた
重労働が主流になるのは17世紀後半以降で、それまでの世界的な人身売買では仕事内容は多岐にわたった
ポルトガルとスペインがアメリカ大陸に進出して最初に労働力として認識したのはインディオだった。しかし、持ち込まれた疫病によって人口が激減→アフリカ人奴隷が連れてこられる
ポルトガルのプランテーションにはユダヤ人資本が投下されていた。ポルトガルを出た改宗ユダヤ人は多くがアメリカ大陸へ向かう
もともと捕虜など奴隷にされるのには理由があった→それが理由のない人々を奴隷にするようになる→神学者達は奴隷保護を訴えるようになる→奴隷制廃止論へつながる

387修都:2023/02/08(水) 19:29:10 ID:QPJxpke.
山崎岳「アジア海域における近世的国際秩序の形成」
モンゴル帝国は13世紀初頭までに発展を遂げた国際商業が生み出し、世界的好景気の中で膨れ上がったバブル
14世紀、東アジア・東南アジアで、農村社会とそれに基盤を置いた政権は混乱の兆候。海洋的性格を帯びた勢力が、活動範囲を広げつつあった
14世紀は、国際交易路の主軸が陸路から海路へと移行する転換期。モンゴル帝国は没落→14・15世紀にアジア各地で政治統合→国際関係再編、国家意識の再定義→明の朝貢体制
→ただし、諸国はそれぞれの国際的な位置づけに応じた通行通商網と自国中心的世界観を築いている

388修都:2023/02/09(木) 21:04:49 ID:QPJxpke.
関哲行「近世スペインのユダヤ人とコンベルソ」
14~15世紀、ペストによる大幅な人口減少などで封建制社会の危機となるとユダヤ人との共存は不可能とされ、ユダヤ人政策が追求される
1391年、スペインで大規模な反ユダヤ運動。全国規模でユダヤ人虐殺→15世紀末までに約15万人が改宗したといわれる(14世紀末のスペインのユダヤ人は約25万人)
1492年、スペインで王国全域からのユダヤ人追放令→目的はユダヤ人の改宗→7~10万人のユダヤ人は信仰を遵守し、逃れた
多くの資本と情報ネットワークをもち、金融業務に通じたポルトガル系有力コンソルベ(改宗ユダヤ人)なしにはスペイン帝国を維持することはできなかった
コンベルソの大多数はスペイン社会に同化した
オランダのアムステルダムに西ヨーロッパ最大のユダヤ人共同体→寛容な宗教政策、スペインへの憎悪
オランダはブラジル北東部にユダヤ人を入植させ、砂糖貿易→ポルトガル軍侵攻→ユダヤ人の一部はニューアムステルダム(ニューヨーク)に定住、北アメリカ最初のユダヤ人共同体
イベリア半島を追放されたユダヤ人の多くが亡命したのがオスマン帝国の首都イスタンブル。世界最大のユダヤ人居住都市

389修都:2023/02/10(金) 19:45:28 ID:QPJxpke.
小林和夫「商品連鎖のなかの西アフリカ」
ヨーロッパ人が西アフリカを訪れる以前から、さまざまな素材を用いて布が生産されていた。衣服の着用は、イスラームの共同体への参加と同時に、非ムスリムとの差異化を意味していた
→イスラームへの改宗者が増えると布に対する需要が増加する→ヨーロッパはインド綿布を持ち込む→西アフリカの消費者にも受け入れられる綿布が名産された

390修都:2023/02/13(月) 18:01:42 ID:QPJxpke.
大橋厚子「東南アジアにおける植民地型政府投資の光と影」
近世東南アジアでは、森林管理は誰も行わず、救貧は、様々な首長が金品を貸与え、労働で返済させる社会関係だった
オランダ東インド会社は、香辛料価格の下落により、1660年頃より高利潤を得られなくなった→少しずつジャワ島を領土としていき、現地人首長たちに胡椒などの引渡を要求
1823年、コーヒー・砂糖などの国際価格急落→オランダ商事会社、ジャワ銀行を設立し、1830年、強制栽培制度を導入
強制栽培制度では、住民に栽培報酬が支払われる。また、地方官僚制度の導入は、在地社会に抑圧的だったが平和と秩序をもたらした
ただし、植民地政庁は財政支出を抑えるためインフラ建設などをほとんど実施せず、森林管理は全くなされなかった→ジャワ島の森林は1930年までに全土の20%まで減少
商業は主に華人が担うようになったので、首長は救貧に対する意欲を失い、住民に搾取的となった
東南アジアの女性は相対的に地位が高いと言われるが、オランダ植民地支配下では、男性が労働に引出された後の生活維持の責任を負わされていた

391修都:2023/02/14(火) 19:20:25 ID:QPJxpke.
永島剛「感染症・検疫・国際社会」
イタリア都市国家はヨーロッパにおける公衆衛生行政のモデルとなった→患者隔離や行動制限など
19世紀、コレラが世界的に脅威となった。19世紀中に6回のコレラ・パンデミック→都市への人口集中、移動の広域化・大量化・迅速化によるリスク
→ヨーロッパ諸国が検疫と環境対策のどちらを重視したかは固定的ではない。インド・中東に近い地域ほど、検疫への意識が高い傾向にあったという意見もある
19世紀末は帝国主義的な勢力争いの最中で、自国第一主義が前面に出つつも、感染症に対しては列強間で一定の国際協調が図られた
→ヨーロッパ中心主義的でオリエントからヨーロッパをいかに防衛するかが主要課題

392修都:2023/02/15(水) 20:02:15 ID:QPJxpke.
矢部正明「グローバル・ヒストリーと歴史教育」
2022年、歴史総合設置→教科書を見ると、これまでの世界史の記述を受け継ぐ内容が多い
教科書が先行して、学習指導要領の内容が刷新される傾向はある。1973年、教科書に遅れて世界史をヨーロッパ・東アジア・イスラームの3つで区分することが提示される
1982年、西洋中心の歴史観見直し。1994年、世界史Aと世界史Bに分かれる→一番多く採択されている山川出版社の世界史B教科書は各国史的に叙述
2003年、進取の教科書で書かれていた地域間の交流・つながりが世界史学習で重視され、日本が世界史に組み込まれる
2014年、どのような能力を育むのかという点が重視される。2022年、歴史総合→地域間の多様な関係性を浮き彫りにし、多角的な視点を持って授業を組み立てなければならない

393修都:2023/02/25(土) 19:21:34 ID:I9ttHEEY
藤波伸嘉「オスマン帝国の解体」
オスマン帝国は自主独立のため、19世紀半ば以降、西欧法の継受を試みた→専制政治が続いたため、1908年、青年トルコ革命→革命直後の多幸感が醒めると現実的な利害対立が表面化
1923年10月、トルコ共和国成立、共和人民党のムスタファ・ケマルが大統領に→近代オスマン法学に抗するため、1925年アンカラ法学校新設
→トルコ法制史の特徴:近代オスマン法学では多民族多宗教性が前提だったが、トルコ法制史は非トルコ系諸民族を無視。オスマン人の学問上の独創性を否定
→国民主権とカリフ制の共存を目指した近代オスマン法学を否定
近世以来、西欧諸国とオスマン帝国は外交上の規範を共有していたにもかかわらず、イスラームのカリフを戴くオスマン帝国は野蛮の象徴だった
→キリスト教列強は、イスラーム法しか知らない野蛮なムスリムの下では国民の平等は不可能だと信じた
普通の主権国家として再生したいトルコ共和国は世俗主義を国是とする必要があった→列強から自主独立を護るにはオスマンの遺産は否定されなければならない
オスマン的イスラームが持つ普遍性の否定と表裏一体で進められたトルコ法の創造は、西欧近代との一体化の願望に基づくものでもあった

394修都:2023/02/26(日) 14:41:38 ID:I9ttHEEY
中村元哉「中華民国における民主主義の模索」
中国語の民主は、民の主宰者(帝王や君主)を意味する言葉→20世紀初頭、清末民初に国家の主権=人民に属する政体を意味する言葉に
当時の政治家や知識人たちは、立憲君主か立憲共和かを争った→立憲君主(立憲派)は専制(政体)で立憲民主(革命派)は共和制(国体)だという論点→双方とも憲政に立脚
1908年、憲法大綱→皇帝の権力を一部制限したが、権力を日本の天皇以上に認める。1911年、イギリスの責任内閣制に通じる制度を採用したが、時すでに遅し→1912年、中華民国成立
中華民国臨時約法→強い議会制が誕生(議会専制)→袁世凱は1914年の中華民国約法で行政権を強化しようとした→大総統に日本の天皇以上に強い権力(事実上の立憲君主制復活)
→袁世凱死去後、旧約法復活→議会は継続したが、孫文らは南方に拠点を移し、中華民国は南北分裂→1920年代半ば、北京の国会は解体を余儀なくされる
→各界の職能団体を介して憲法を制定すべきとする機運が盛り上がる
南京国民党中華民国政権の立法院は任命制→選挙制に基づく議会としていくつもりだったが日中戦争で中断→国民参与会が設置されるが諮問機関でしかない
→第二次世界大戦後はデモクラシーが世界を席巻すると予測→憲政への移行を本格化させる→中華民国憲法の土台完成
→国民党は敵対していた共産党や政治グループを排除して1946年11月、制憲国民大会→憲法には孫文の三民主義を明記
国民大会と立法院という2つの議会が誕生。国民大会が形式的な議会、立法院が実質的な議会

395修都:2023/02/27(月) 20:17:36 ID:I9ttHEEY
高橋均「第二次世界大戦後ラテンアメリカ民主化の「春」」
ブラジル大統領ジェトゥリオ・ヴァルガスは第二次世界大戦が終わると1945年10月にクーデターで倒された→1946年、新憲法。1950年、普通選挙
→この選挙の結果、ヴァルガスは当選する→やや左寄りになったが、軍部が圧力をかけてきたので1954年、自殺→1964年、軍部が全権を掌握。85年まで軍政
グアテマラでは1944年、ウビコ政権が倒れ、自由選挙でアレバロ政権となった→後を継いだアルベンス政権は、農地改革法制定→アメリカはアルベンス政権を敵視
→CIAの支援を受けた反乱軍によりアルベンス政権は倒れ、アルマス政権に→ラテンアメリカの春がアメリカによって潰された事例、ラテンアメリカの春の終わり
キューバは全面的に親米的な国として始まった。フルヘンシオ・バティスタは労働者の権利や社会福祉を盛り込んだ1940年憲法で普通選挙を実施し、大統領となった
→1944年選挙では、後継候補がグラウに敗北→グラウ後継のプリオ・ソカラス政権は腐敗政治→1952年、バティスタがクーデター
→1958年、バティスタを倒し、武闘派をも圧倒して、すべてをさらっていったのがカストロ→ハバナの知識層が馳せ参じ、アメリカべったりの文化に異を唱えた
59年秋からカストロはソ連に関係強化の意向。60年、アメリカ人所有の全資産を接収。61年4月、社会主義革命宣言→20万人の大量出国発生
チリは右派・中道・左派が鼎立する国であった→1970年、左派連合のアジェンデ当選→→社会主義へのチリの道→経済混乱→1973年、軍部が動き、アジェンデは自殺。軍事政権に

396修都:2023/02/28(火) 18:39:27 ID:I9ttHEEY
林田敏子「女性と参政権運動」
世界ではじめて女性に参政権が与えられたのは1893年、英領ニュージーランド、マオリ族も含まれる。1902年、オーストラリア連邦でアボリジナル以外の女性に参政権付与
ヨーロッパでの先駆的な例は1906年フィンランドと1913年ノルウェー
第二次世界大戦まで国際的な女性組織は欧米偏重
1903年、イギリスで結成されたWSPU(女性社会政治同盟)は戦闘的戦術をとった→第一次世界大戦では戦争協力
1918年、30歳以上の女性に参政権。男女平等の参政権になるのは1928年
インドでは、無力な植民地女性の救済を支配国としての責務と考える白人女性達がいた→インドで実質的な女性組織をつくったのはアイルランド人女性、そこにインド人女性も加わる
→1930年までにはインドのすべての州で制限つき女性参政権が認められる(有権者の割合は成人女性の1%に満たない)→インドで男女普通選挙が実現するのは独立後の1950年

397修都:2023/03/01(水) 19:57:15 ID:I9ttHEEY
塩出浩之「帝国日本と移民」
1866年、英米仏蘭公使が日本人の国外渡航解禁を要望→徳川政権は受け入れる。1868年、ハワイ王国へ最初の移民労働者約150人。もっとも多くの大和人移民を吸収したのは国内の北海道
ハワイや南北アメリカへの日本人移民は、中国人移民が制限された後の代替労働力だった→移民先よりも日本のほうが物価も賃金も低いから苛酷な環境でも移民する
20世紀初頭、アメリカやカナダでは排日運動。日本からアメリカへの新規移民は禁じられ、24年には全面的に禁止→移民先は南米が主となり、フィリピンへも増加
ブラジルが34年以降、移民を大幅に制限すると、満州国への移民が推進される
沖縄人の日本国籍保有者としての初の移民は1899年のハワイ。台湾人移民は華南など中国にもっとも多い。朝鮮人は日本本国を移民先とし、満州国建国後は移民が激増
日本から支配領域への移民は、原住者に対して支配的な地位に立った。台湾に移民した沖縄人は植民者として台湾人と差異化した
南洋群島では、一等日本人、二等沖縄人・朝鮮人、三等島民という序列があった。満州国では、朝鮮人は、漢人から敵視されるという板挟みだった
日中戦争からアジア太平洋戦争中、朝鮮人は労働力が不足した日本に強制動員された。アメリカやカナダでは、日系市民は収容所へ移送された
戦後、沖縄から現地人以外の日本人(大和人)が日本に送還された。沖縄人・台湾人・朝鮮人は日本への残留か、送還かを強いられた
→沖縄人は日本戸籍・国籍が維持されたが、台湾人・朝鮮人は52年、日本国籍を剥奪された

398修都:2023/03/02(木) 20:03:26 ID:I9ttHEEY
小野容照「近代朝鮮の政治運動と文化変容」
日本が日露戦争後、韓国支配を進めていくと義兵闘争と愛国啓蒙運動が展開される→義兵闘争は武力運動、愛国啓蒙運動は民衆の啓蒙を通して国権を回復する運動
愛国啓蒙運動では体育の奨励と愛国心涵養の手段としてスポーツが導入された
少年男子に国家的危機に立ち向かうための精神力や近代的知識を身につけさせるためには、健康な身体とともに母親の役割も重要という認識が愛国啓蒙運動で広がる
→良妻賢母として愛国啓蒙運動に貢献することを求められるようになった
朝鮮が植民地となると朝鮮人の言論、結社、集会の自由は厳しく制限された→知識人や独立運動家は海外に亡命
朝鮮人による政治運動は、朝鮮の歴史や文化を保存しつつ、よりどころとして民衆に民族意識をもたせることで、将来的な開放に備えることだった
第一次次世界大戦が終わるとアメリカにいた李承晩らはウィルソン大統領に独立請願書を送り、朝鮮民族に民主主義国家を運営する能力があることをアピールした
朝鮮半島にいた朝鮮人はウィルソンが民主主義を重視していたことを理解していなかった→朝鮮で起草された独立宣言書には独立国家のビジョンが示されていない
→この独立宣言書を手にした民衆がデモ行進を繰り広げたのが三・一独立運動→この後、日本は文化政治に転換。言論、集会、結社の自由を一定程度認める
→朝鮮人の政治運動は、民族意識に目覚めた民衆の暮らす朝鮮半島に独立国家の建設という意識をもつ知識人らが戻ってくることで活性化する
1920年代初頭の政治運動は、朝鮮民族の文化、生活、思想を世界レベルへと高めることで、将来的な独立のための実力を養成しようとした
日本からの社会主義思想の流入、朝鮮独立運動を支援することを表明したコミンテルン→社会主義者が増加→朝鮮の政治運動は左(社会主義系列)右(民族主義系列)に文化
朝鮮総督府は、民族主義系列は親日派に転換させる余地があると認識。民族主義系列の自治派は朝鮮人と朝鮮在住日本人で朝鮮議会を設置し、朝鮮人の政治参加実現を目指した
社会主義運動は1920年代を通して影響力を増大→治安維持法で大量検挙
日中戦争以降、植民地支配に協力的な知識人は、内鮮一体に朝鮮人に対する差別が撤廃される可能性を見出し、同等の権利を得ることを期待して、戦時動員に協力
社会主義者も相次いで転向→内鮮一体に民族差別が撤廃される可能性を見出した

399修都:2023/03/03(金) 19:46:32 ID:I9ttHEEY
根本敬「東南アジアのナショナリズム」
20世紀前半、東南アジアでは、宗主国による国境線の画定によって生まれた領土を土着エリートたちが国土として認識し、国民としての同胞意識を形成しようとする過程が見られた
宗主国による人口調査と分類作業で民族という枠組みも創出された
独立を維持したタイでは、国王権力によって国家の合理化がすすめられた
1927年、スカルノらによって結成されたインドネシア国民党→インドネシア語を採用→多数派が使用していたジャワ語ではなく、誰にとっても母語ではないムラユ語をインドネシア語と名付けた
→インドネシアの一体性を可能にするため
タイのラーマ6世は、タイ民族の王、上座仏教を擁護する王であることを強調した。さらにタイ在住中国人を民族の敵とし、タイナショナリズムの強化を狙った。次のラーマ7世の1932年に立憲革命
第二次世界大戦期、イギリスは英領ビルマ政府に国防費の支出増を求め、見返りとしてドミニオン(英連邦に属するが主権を有する)と同等の地位を与えることを約束した
→ビルマのナショナリズム運動を和らげようとしたが、具体的な時期に触れていなかったので歓迎されず
ビルマで反英ナショナリズムが台頭するのは1910年代後半、多数派であるビルマ人がなぜ自分の国で主役になれないのかという反発
1948年の独立以降、ビルマは第一次英緬戦争前年の1823年以前からビルマ領土内に住んでいた人々の子孫を土着民族とした→インド人、中国人、英系ビルマ人などはビルマ国民の外側

400修都:2023/03/06(月) 18:44:18 ID:I9ttHEEY
石田憲「ファシストの帝国」
第一次世界大戦後、イタリア領となったエーゲ海のドデカネス諸島→ファシズム体制になると、近代化のため、オスマン時代から保護されていた慣習を否定し、イタリア語を押し付けた
帝国主義が他者に対する優越意識に基づき支配を貫徹させるものならばファシストの植民地と欧米諸国の植民地に本質的な差はないかもしれない
→しかし、ファシスト帝国では、議会や世論、各統治機構を軽視する

401修都:2023/03/07(火) 19:48:34 ID:I9ttHEEY
村田奈々子「模索する現代ギリシア」
1830年、ギリシアは独立したが、国家を建設する資金もなければ、まとめあげる指導者もいなかった→ヨーロッパ列強の介入を許した
ギリシアの国境外にはギリシア語を母語とする正教徒が国内の3倍残されていたと言われる→領土を拡張し、かれらを包摂することが国家の使命であるとみなされた(メガリ・イデア)
→1879年、ギリシア初の戦争としてクレタでオスマン帝国と戦う→30日足らずで惨敗→ただし、クレタは実質的にオスマン帝国支配から脱し、1913年にギリシア領となる
マケドニアはヨーロッパの火薬庫として危険視され、1912~13年のバルカン戦争で、オスマン帝国の手を離れ、ギリシア・セルビア・ブルガリアに分割された
第一次世界大戦→連合国側での参戦を主張するヴェニゼロス首相と中立を望む国王の対立→ヴェニゼロス解任→ヴェニゼロスは別の政府を樹立→イギリスとフランスが介入してヴェニゼロス勝利
→第一次世界大戦で戦勝国となったがトルコ革命政府軍との戦闘中に反ヴェニゼロス派政権樹立→国民には厭戦気分が高まっていた→ただし、戦いは続きギリシア大敗
→紀元前から続く小アジアのギリシア世界消滅。1923年、ローザンヌ条約でギリシアは獲得した領土のほぼすべてを失う→ギリシア人の居住地は歴史上はじめてバルカン半島南端に集約された
→ヴェニゼロス派のクーデタ。1924年、国民投票でギリシアは共和制となる→この時期の最大の問題は、小アジアから流入した大量の難民
ヴェニゼロス首相はメガリ・イデアを完全に放棄。ギリシア領の現状維持を支持したのはトルコ大統領ムスタファ・ケマル→トルコとの和解
世界恐慌→1933年、反ヴェニゼロス派の人民党が政権掌握→ヴェニゼロスはパリに亡命、1936年死亡→1935年、国王支持勢力により共和制廃止、君主制復活
1936年、国王は極右政党党首メタクサスを首相とする。第二次世界大戦では、連合国側で参戦→1941年、全土が枢軸国に占領される→政府と国王は亡命
民族解放戦線(EAM)の設立に主導的役割を果たしたのはギリシア共産党→ただし、EAMは多様な思想信条を持つ人々が参加している
イギリスはEMAの共産主義者がソ連と手を組むことを恐れていた→EMAの支援を控える→1943年、EMAは他の抵抗組織の殲滅を開始する
→ドイツは共産主義の脅威からギリシアを防衛するとしてEMAへの攻撃を正当化→1944年、ドイツ撤退。亡命政府帰還→EMAと政府の対立
→白色テロ。左翼・共産主義思想を疑われた者、EMAで抵抗運動に参加した者が、暴力の餌食となった→標的となった人々は山岳地帯に逃れた→1946年、民主軍結成
→1947年、全面的な内戦→アメリカのトルーマン・ドクトリン。ギリシアは自由世界防衛の最前線としてアメリカが政府を経済的・軍事的援助→共産党が非合法化される
→1949年、民主軍潰走→8~10万人と言われる左翼・共産主義者が政治難民に→1974年、軍事独裁政権崩壊後、共産党は合法化される。政治難民が帰国を認められたのは1981年

402修都:2023/04/29(土) 15:46:05 ID:I9ttHEEY
上野雅由樹「近世のオスマン社会」
16世紀以降、オスマン帝国の3分の2程度がムスリム、3割ほどがキリスト教徒、数パーセントがユダヤ教徒。帝国領土拡大の中で、すべての村にモスクを建設することを命じた
→公共空間へのムスリム女性の表出も大きく制限。非ムスリムはムスリムと同じ服装を禁じられる→ただし、ムスリムと非ムスリムで交流は続いている
オスマン帝国では、宗教によって明確な居住制限はない→ゆるやなか分住を前提としながらも、各地で宗教的な混住が生じる
オスマン帝国は、キリスト教徒高位聖職者の権限公認と引き替えに、奉仕や貢納金の義務を課している
18世紀のオスマン帝国は、各地域の自律性を前提としつつ、中央政府が帝国各地を監督し、利害関係を調整する役割を担う形へと発展していった
オスマン社会は、キリスト教徒やユダヤ教徒を、担税者、生産者、経済活動の担い手という不可欠の構成員として抱えた

403修都:2023/04/30(日) 13:11:46 ID:I9ttHEEY
近藤信彰「サファヴィー帝国におけるシーア派法秩序の形成」
サファヴィー帝国はサファヴィー教団という神秘主義教団を母体としていた→初代君主イスマーイールは征服した住民に十二イマーム・シーア派を強制。イラン高原にシーア派法学が導入される
サファヴィー帝国は宗務・司法組織を導入した→しかし、シーア派法学は組織となじまず、組織の外に法学者が法務を司る余地を生んだ
サファヴィー帝国はさまざまな民族や宗派によって構成されており、社会は多様性を持っていた→宗教的少数派は一定の自治を行っていたと考えられるものの、単位は地域ごとのコミュニティ
非ムスリムの権利は擁護されていたが、帝国権力が迫害を加える場合もあった

404修都:2023/05/01(月) 20:17:49 ID:I9ttHEEY
真下裕之「ムガル帝国における国家・法・地域社会」
ムガル帝国ではイスラーム教徒は少数派、多様な宗派の信徒を擁していた
地域社会の法秩序で、宗派の所属は決定的な重みをもたなかったし、宗派に根ざした権威的な法典が援用された形式も乏しい→有意だったのは各社会集団が維持していた慣習や慣行
形式上のイスラーム帝国は非ムスリムに対する宗教的慈善制度(生計補助)でムスリムと別個のやり方をしていない
→いずれの宗派の信徒であれ、給付の対価として帝国が求めたのは王朝の永続のための祈りに従事すること
→このような非宗派性に潜んでいるのは、多様な諸集団を包摂する帝国の支配体制の原理

405修都:2023/05/07(日) 19:14:38 ID:I9ttHEEY
小笠原弘幸「オスマン王権とその正統性」
オスマン王家は系譜操作し、トルコ系の人々に支配の正統性をアピールした(オグズ族のカユ氏族出身)→オグズは預言者ノアの息子、ヤペテの子孫(トルコ系はヤペテの子孫とされている)
15世紀末になるとオスマン王家はノアの息子セムの子孫、エサウを始祖とする→オスマンによれば、エサウには王権があたえられたとされている→エサウ=カユともなっていく
→16世紀半ば以降になると、ヤペテが始祖になっている→トルコ系にエサウ説は受け入れがたかった
オスマン帝国君主の聖なる顔をもっともよく示す称号は、マフディー(神に導かれし者)。サーヒブ・キラーン(合の持ち主)という称号とも結びついた
オスマン帝国の王権は、神秘主義に基づいた、神により聖性を付与されたカリスマ的な権威を帯びることで形成されていった→しかし、カリスマ性は失われていく
→カリフ(スンナ派ムスリム共同体の指導者)という称号の登場→聖性に基づく正統性から伝統的イデオロギーに基づいた正統性へ

406修都:2023/05/08(月) 19:57:36 ID:I9ttHEEY
藤井守男「シーア派世界の深化」
シーア派ウラマー(法学者)による神秘主義批判→スーフィーたちの活動減衰、社会的立場悪化
17世紀、イラン社会にシーア派の定着が図られる過程で、ペルシア語の書物が民衆の間に普及し、シーア派教義がイラン社会に浸潤した
サファヴィー帝国末期、スーフィーに代わって、奇跡の持ち主のシャイフ(導師)として民衆から崇拝されるシーア派法学者も現れ始める

407修都:2023/05/09(火) 20:02:28 ID:I9ttHEEY
太田信宏「デカン・南インド諸国家の歴史的展開」
17世紀初頭、ムガル帝国のデカン進出はしばらく停滞したが、アフマドナガル王国の名宰相マリク・アンバルが1626年に没するとデカン進出は再開された
→一時は勢力を強めたが、ムガル帝国が衰退に向かうとデカン・南インドのほぼ全域がムガル帝国中央政府の指揮・命令から離脱する
18世紀中頃までには、ヨーロッパ勢力が、利権を確保・拡大するために現地諸政権の勢力争いや内紛に介入し、行方を左右するまでになる
交易の拡大で、大量の金と銀が流入、貨幣経済が広く浸透した→商機を求めてデカンに渡り、王国政治でも活躍するムスリムが目立つようになる
ムスリムは現地出身者とインド域外の出身者に分かれてしばしば対立した
ムガル帝国のデカン・南インド支配は期間も短く、帝国支配体制の扶植は不十分なものにとどまった
デカン・南インドでは、ムスリム文化と現地の文化との邂逅が、北インドとは異なる独自の混淆的な文化を生み出してきた

408修都:2023/05/10(水) 19:56:38 ID:I9ttHEEY
米岡大輔「バルカンにおけるイスラム受容」
ボスニアでは長らく全土を統一する勢力が現れなかった→オスマン帝国は在地の有力層を徐々に従属させ、段階的に征服した
→15世紀後半から16世紀にかけてイスラム教が漸進的に受容される。戦争の最前線だったボスニアには域外から住民移動→社会の不安定化→ムスリム住民の暴動多発
ヨーロッパ諸国によるバルカン情勢への介入→ボスニアは、ハプスブルク帝国の統治下におかれる→ムスリムにとって、生き方を問い直さねばならない時代の到来

409修都:2023/05/11(木) 19:56:03 ID:I9ttHEEY
桝屋友子「絵画に描かれた女性たち」
イスラムの預言者伝では、女性は頭光を帯びたり、顔面に白いヴェールを垂らして描かれている→男性預言者と同様の扱いが女性に対してもなされている
絵画では、当時の男女別の居住のあり方が反映されている。物語の叙述が必要ならば、挿絵で男女問わず被り物や衣服を伴わない姿で描くことは可能
オスマン朝では王朝の歴史書挿絵に宮廷の女性たちが描かれることは一切なかった→歴史の表舞台に女性は出されなかった
ムガル朝では限られた場面ではあるが、宮廷の女性たちが描かれる。サファヴィー朝では宮廷女性の表現がほぼ制約なく行われていた
オスマン朝の歴史書は公式の歴史で、ムガル朝の歴史書は皇帝にとって私的な所有物。サファヴィー朝の人物画は理想的な姿で描かれており、人物像の実在性は希薄
17世紀後半以降、ヨーロッパ人の訪問により多様な階級の人々の姿が描かれるようになり、オスマン朝では女性表現が新たな段階を迎えた

410修都:2023/05/12(金) 19:23:47 ID:I9ttHEEY
鴨野洋一郎「地中海」
地中海周辺やヨーロッパの原料でつくられていた亜麻織物や毛織物、東方から届く高級品だった絹織物や綿織物は、千何百年にもわたって地中海地域の重要な交易品であり続ける
中世前期には、絹織物工業が地中海域で始まっていく→ヨーロッパに多くのビザンツ帝国の織物が入り込む
11世紀、イタリア商人が地中海の交易を拡大させると、ヨーロッパでは綿織物、毛織物、絹織物をつくる工業が勃興
→紡車も水平の織機も東方で生まれたものをヨーロッパが導入し、改良したものだった
イタリアにおける毛織物・絹織物工業の成長は15世紀に入っても続くが、大きな役割を果たしたのがオスマン帝国→イタリア製品の市場
オスマン領内の原綿はヨーロッパ各地の綿工業に使われていった。オスマンは、日本と同じく生糸の一大輸出国ともなる

411修都:2023/05/13(土) 19:14:18 ID:I9ttHEEY
熊倉和歌子「ナイル灌漑をめぐる近世エジプト社会と帝国」
近世以前のエジプトの村々は、ナイルの増水の際にも浸水しない高台に形成された
オスマン帝国の統治を特徴づけるのが、台帳による記録管理→水利行政に関わる情報も台帳に保存されていった→水利行政確立
エジプトのナイル川流域では、個人の財産として水利権が扱われた形跡は史料上確認できない

412修都:2023/07/02(日) 17:33:46 ID:Iwso9WKY
池田嘉郎「ソヴィエト社会主義の成立とその国際的文脈」
1873年、ヨーロッパと北アメリカは長い不況に入った→社会主義者は資本主義の最後が間近であると受け取った→しかし、1896年に好景気
1889年、ヨーロッパの社会主義政党を中心にした社会主義インターナショナル(第二インター)結成→第一次世界大戦が始まると社会主義政党も戦時予算を受け入れたので崩壊
ドイツ社会民主党内の右派には、戦時統制経済を国会社会主義とみなすものもいた。レーニンも戦時統制経済がある程度確立されたロシアで、社会主義に移行することは可能と認識した
1917年、二月革命が起こるとレーニンはドイツから帰国→10月25日、十月革命→平和に関する布告を採択→イギリス・フランス・ドイツ労働者の応答もなかったことはレーニンの期待を裏切った
→ドイツ側同盟国のみとブレスト・リトフスク講和条約
1918年、ロシア社会主義ソヴィエト共和国という国名が打ち出される。モスクワに首都移転。党名はロシア社会民主労働党からロシア共産党に→民主主義自体を見直している
5月、チェコスロヴァキア軍団が反乱→軍団の救出を名目に連合国も軍事干渉
6月、重要工場企業の全面的国有化
1919年、モスクワで第三インターナショナル(コミンテルン)創立大会→西方では革命の展望が開けなかったが、シベリア・極東ではソヴィエト化の展望
トロツキーは軍隊を労働軍に改組、労働義務制と組み合わせた→レーニンは、トロツキーを抑える。農村では穀物徴発に対する放棄があいつぐ→食糧税へ転換。残った穀物は市場で取引できる
1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。レーニンはこの年から政治活動から遠ざかり、1924年死去した
トロツキーの永続革命論に対して、スターリンは一国社会主義論を打ち出した→実際にはトロツキーの構想とあまり異ならない
トロツキーは農産品を輸出し、工業機械を輸入することを主張→要職を追われる。スターリンは1928年、強制的に穀物を供出させる→農業集団化への展開
→農村は飢餓に苦しむが、穀物を輸出して工業化の原資獲得→トロツキー派の多くが支持
1937年・38年、157万5259人が逮捕され、68万1692人が銃殺判決。ただ、ソ連体制が、総力戦を耐え抜いたこともたしか
第二次世界大戦後、ソ連は帝国主義廃絶・世界社会主義革命という第一次世界大戦時の課題に回帰する

413修都:2023/07/03(月) 20:11:15 ID:Iwso9WKY
中野耕太郎「二〇世紀アメリカの勃興」
1893年、シカゴ万博→資本主義文明の最先端を誇示→開幕の4日後、ニューヨーク株式市場大暴落→万博会場の外には貧困と暴力が渦巻く世界。全米の貧困者の数は1000万人
→生活状態の物質的な底上げへの議論。アメリカの後進性の自覚→ヨーロッパから社会福祉を学ぶ
セオドア・ローズヴェルトは市場規制を推進した政治家。社会的な問題に、集権的な国民国家の行政で対応しようとした。ヨーロッパに倣い、帝国主義的な政策も展開
第一次世界大戦によってアメリカが世界の金融や海運を支配する力を持つようになった。ウィルソン政権の国際主義への変革には、ヨーロッパを指導する立場に立ったという強い自負心
第一次大戦によって、アメリカ政府は鉄道や鉱山を国家の管理下に置くなど前例のない産業・社会統制
黒人は前線から排除→地域的な人種慣習が国策として受容された。分断の深化
戦後、労働者保護政策や社会福祉は後退→かわりに排外的な社会保守運動が活況→禁酒法→白人至上主義団体KKKと密接に結びついていた
大恐慌下のフランクリン・ローズヴェルト政権は、労働者保護と貧困対策に舵を切るニューディールが新しかった→はじめて労働組合を法的に承認。失業保険と老齢年金を制度化
→社会保障法は非白人の労働を制度の対象外とする→新たな分断
ニューディールは一国主義的→帝国支配からも撤退。フィリピンの独立公約。ただし、現地に一定の軍事力を残す

414修都:2023/07/04(火) 19:48:38 ID:Iwso9WKY
飯塚正人「イスラーム主義の盛衰」
ムスリム諸王朝の近代化は、国家財政の破綻を招き、列強への従属を深めてしまった→イスラーム主義者は、没落はムスリム個々に非があると発想した
エジプトは1876年、財政破綻→イギリス人、フランス人がそれぞれ国家の収入と支出を管理するヨーロッパ内閣に→民族運動
→運動は成功したかに見えたが、イギリスの侵攻を受け、70年に及ぶイギリス占領期→第一次世界大戦が起こると、反乱を恐れて、保護国とし、戒厳令を布く→戦後、反英運動
→1922年、イギリスはエジプトの独立を宣言。エジプト王国誕生→独立は形式的なもの
オスマン帝国が第一次世界大戦で敗北すると、ムスタファ・ケマルが武力反乱。勝利→スルタン・カリフ制をスルタン制とカリフ制に分離、スルタン制廃止→1924年にはカリフ制も廃止
→政教分離への決意→新たなカリフの選出をめぐって各所で議論。1928年、エジプトでムスリム同胞団が生まれる
→1930年代、イスラームを後進的と非難してきたヨーロッパは混沌としており、ムスリム側にヨーロッパの先進性に関する疑問が生じていた→真に優れているのはイスラームなのではないか
同胞団は政治に一定の距離を置いていたが、パレスチナにユダヤ人移住者が急増すると、ジハードを強調するようになり、イギリスに警戒される存在となっていった
同胞団は、女性と男性が同じ空間で一緒に教育を受けることには反対だったが、服装と行動さえイスラーム道徳に則っていれば、何にでもなれると説いた
第二次世界大戦後、エジプトは極めて深刻な不況→政府との決定的な対立だけは回避する構えだった指導部の意思を無視して政府関係者を襲撃する同胞団
1952年、エジプト革命→同胞団はクーデタに協力したがやがてクーデタ側と対立→クーデタ指導者ナーセルが亡くなるまで同胞団冬の時代
ナーセルは同胞団がイスラームを歪める者だとして弾圧。ナーセルは67年の第三次中東戦争でイスラエルに惨敗→同胞団など大衆イスラーム主義運動の復活
1970年、ナーセルが急死すると同胞団幹部は大量釈放された→大統領サーダートは左翼勢力に対する勢力として同胞団を利用
→サーダートが対イスラエル単独和平路線を歩むと、81年、同胞団幹部は一斉検挙された→81年、サーダートはジハード団員によって暗殺される
→エジプトのイスラーム主義運動は、法の枠内でイスラーム国家を目指すムスリム同胞団と武装闘争派の地下組織に分かれる
2011年、30年続いたムバーラク政権が倒れると、同胞団は自由公正党を結成、政権を獲得→13年、軍事クーデタで非合法化、テロ組織に指定される。再び冬の時代となっている

415修都:2023/07/05(水) 19:24:20 ID:Iwso9WKY
石井香江「労働とジェンダー」
第一次世界大戦中、軍需産業で働く女性の増加は各国で確認できる→未熟練労働者のため戦時福祉や労働の機械化の導入→戦時中に限定的な代替労働力であるという印象を強めた
戦後、女性は失業するか、女の仕事へと戻っていった→ジェンダー秩序を本質的に変化させることはなかった
ナチスなどファシズムは、男女の役割を二分したが、女性を労働市場から完全に排除することはできなかった→ただし、これはファシズム国家に限られた現象ではない
ナチスは、労働動員しなかった中・上層階級女性には無駄を排する主婦を期待

416修都:2023/07/06(木) 19:48:10 ID:Iwso9WKY
篠原琢「中央ヨーロッパが経験した二つの世界戦争」
第一次世界大戦時、オーストリアにおける政治と社会の軍事化、軍部独裁は極端であった。二重帝国の東側ハンガリー王国では議会も文民政府も機能を続ける
オーストリア=ハンガリーは最も早く配給制度を導入した→1916年の冬から、必要最低限の栄養すら供給できなくなる→1917年春、飢餓暴動
→日常生活に直接介入した帝国権力は、介入の使命を果たせないまま支配の正統性を失っていった
1916年11月フランツ・ヨーゼフ1世死去→新帝カールは軍部独裁廃止、帝国議会を召集→1918年、帝国の連邦化案を発表
1918年、チェコスロヴァキア国民委員会はチェコスロヴァキア共和国の独立を宣言。新国家は市民権の認定にあたってネイションへの帰属を問うた
1939年、ミュンヘン協定により、ドイツ人が集住するチェコスロヴァキア西部国境地域ズデーテンはドイツに併合された。翌年にはスロヴァキアがチェコスロヴァキアから独立
→翌日にはドイツ軍がチェコを占領してボヘミア・モラヴィア保護領が設置された→ユダヤ人コミュニティは破壊された→保護領総督はドイツに同化可能なチェコ人を選別
→チェコの抵抗運動はチェコスロヴァキアからのドイツ人の大規模追放を要求→1945年9月、ドイツ人の追放、財産の略奪が始まる
→チェコスロヴァキアはナチスドイツの人種主義を拒絶したが、市民権の付与・剥奪でその実践を継承→チェコ的価値に忠実かが問われた
→ユダヤ人も占領中の反ファシスト活動を証明しなければ市民権を獲得できず、7500人のうちチェコスロヴァキアに残ったのは500人程度とされる
チェコスロヴァキア西方の国境地域の新しいチェコ人は出自が非常に多様であった→地域コミュニティの中に差異をつくりだした

417修都:2023/07/07(金) 18:57:38 ID:Iwso9WKY
野村親義「インドにおける工業化の進展」
近代的製造業がインドに次々に出現したのはインド大反乱前後の19世紀半ば以降→近代的製造業の発展を主導したのは綿ジュートの二大繊維産業
日本との競争にもかかわらずインドの機械制綿糸は1920年代以降も100%自給率→ただし、近代的製造業はインドの一人当たり国民総生産を大幅に上昇させるには不十分だった
植民地期インド政府は小さな政府に固執し、政府の積極的な関与に基づく近代的製造業の発展を実現するための財政的基礎を欠いていた
インドと日本の名目賃金は1900年以降、ほぼ同水準。短期資金と労働力に関しては印日間に大きな違いがなかった可能性
日本やドイツで重要な役割を果たした銀行による長期資金融資は、植民地期インドでは稀

418修都:2023/07/08(土) 16:41:13 ID:Iwso9WKY
平井健介「日本植民地の経済」
台湾と朝鮮は総督府を行政府とする外地である。外地では経済的近代化をもたらす開発が志向された
内地では19世紀末に米の自給が困難となり、政府は外国米を輸入して米価安定を図る外米依存政策を採っていた→第一次世界大戦で外国米の輸入が不安定化
→帝国内自給策に転換。需給のギャップは外地米の移入で埋められ、内地の米自給は1930年代前半に達成された
外地では第一次世界大戦期以降に工業部門が成長。外地は内地の重化学工業の市場としても重要な役割を果たした
戦時期の内地で需要された原料や燃料の供給での寄与は乏しく、中華民国・東南アジア侵略が進められる背景の一つとなった
朝鮮の一人当たり穀物・イモ類摂取カロリーは、1920年頃を頂点に停滞・低下。1920年代は一人当たり実質GDPの成長が最も低く、在内地朝鮮人が4万人から42万人へ急増

419修都:2023/07/09(日) 12:33:00 ID:Iwso9WKY
中村隆之「ネグリチュード運動の形成」
ネグリチュード運動の中心人物は、この語を発明したマルティニックのエメ・セゼールと、この語を普及させたセネガルのレオポル・セダール・サンゴール
アフリカ系住民は、西洋の人種イデオロギーを通じて形成された白と黒の優劣意識を長らく内面化してきた
→カリブ海の黒人エリートは文明の地はヨーロッパ、アフリカは未開で野蛮の土地だという社会進化論的な考え方を身につけていった
→しかし、黒人エリートも宗主国に渡ると野蛮な黒人として多数の白人に見られることに気づく
→マルティニック出身のナルダル姉妹がパリ郊外クラマールで開いたサロンが黒人意識の目覚めを可能とする交流の場となる→ここから『黒人世界評論』という雑誌が出る
→この雑誌やそれ以外のさまざまな交流と影響のもとに『黒人学生』が刊行される
1944年、ドゴール将軍は植民地諸制度の改革を約束した→第四共和政は植民地住民にフランス人と同等の市民権を認める
セゼール(共産党)とサンゴール(社会党)も政治家としてのキャリアをスタートさせた
しかし、フランスは独立運動は容赦なく弾圧した→セゼールがカリブ海の四つの植民地を県に昇格させる法案を提出し可決される
1956年、セゼールは、スターリン主義に追従し、アルジェリアの武力弾圧を支持するフランス共産党を批判し、離党を表明→マルティニック進歩党結成
1958年、ドゴールが、フランス共同体に加盟する是非を植民地や海外県に問うた→加盟を拒否したのはギニアのみ
1960年、セネガルではフランスとの関係を維持したままサンゴールが初代大統領となる。セゼールはフランス共同体加盟に賛成した
→サンゴールとセゼールは後続の世代からの支持を得られなくなった

420修都:2023/07/10(月) 19:48:28 ID:Iwso9WKY
田中ひかる「アナーキストによる国境を越えた連帯」
国境を越えてアナーキズムの理念を共有した最初の運動は、1870年代に形成される第一インターナショナルにおける反権威派
→マルクスらはインターナショナルを権威主義的に運営していると非難→運動を引き継ぎながらアナーキストを自認する人々が現れる
→1880年頃から提起されたのが、各人はその能力に応じて働き、その欲求に応じて消費する共産主義
1886年5月、シカゴでヘイマーケット事件。全米一斉ストライキで警官により労働者に死者が出ると、アナーキストが抗議集会開催→解散させようとした警官隊に爆弾が投げ込まれた
→4名のアナーキストが公開処刑→共通の記憶とシンボルとなり、国境を越えて共有されることとなる
幸徳秋水が1907年、直接行動を支持すると宣言した要因として、アメリカのアナーキストたちとの交流がある→処刑後、遺族支援の義援金がアメリカやヨーロッパから送られている
アナーキズムから影響を受けた労働運動サンディカリズム運動は、19世紀末からフランスで始まり、世界各地に広がる→労働者階級が政党と国家から自律し、直接行動を行う
アナーキズムとサンディカリズムの対立は世界各地で見られる→サンディカリストは特定の政治運動を否定する。アナーキストはサンディカリズムが労働条件改善だけにとどまっていると批判
アナーキストは国家が他の国々や地域の人々に支配を拡大する帝国主義戦争に反対した→反植民地闘争のナショナリストとの連帯
→しかし、第一次世界大戦が始まると、アナーキストに戦争を支持する人々が現れ、アナーキスト間での対立が生まれる
→クロポトキンは、ドイツによる勝利がリベラルな政治体制を破壊するという理由から、連合国の勝利が必要と主張した→多数のアナーキストは支持せず、戦争を肯定しなかった
ロシア革命以降、ロシアでは弾圧を受け、ヨーロッパでもアメリカでもアナーキズム運動は沈滞するが、1936年からのスペイン内戦で刺激を受け活性化する

421修都:2023/07/22(土) 17:28:30 ID:Iwso9WKY
後藤明「太平洋世界の考古学」
太平洋世界の全貌を明らかにしたのは、1768年に始まるイギリスのジェームズ・クックによる3度の探検
1950年代から始まった放射性炭素による年代測定法で、太平洋の島々にも数百年から数千年の歴史があることが証明された
後期更新世、氷河期の海面低下でインドネシアの島々は大陸とつながりスンダランドを形成していた。オーストラリア大陸とニューギニア島もサフル大陸を形成していた
完新世、海面上昇すると、島嶼世界では貝類、ネズミ、コウモリ、爬虫類が食されていた。ニューギニア島高地では紀元前4000年頃には初期農耕が始まる
→穀物の導入はなく、豚は紀元前1000年頃、サツマイモは1000年以降、もたらされるので、サツマイモを食べ、豚を飼育するニューギニア島高地の生活は伝統ではない
放射性炭素年代の基準が示されると、中央・東部ポリネシアの居住は今から1000年前以降という結果となった→急速に東進してきたラピタ集団はなぜ1000年以上そこへの移動をしなかったのか
人類は安全を考えて東進した可能性が高い→安全に帰ることができる風があるか
リモート・オセアニアに入植した集団は持ち込んだ資源と新しい島で動植物を効率よく利用しようとしたが、いくつかの島では貝類や鳥類が減少し、または絶滅した
アオテアロアの鳥モアが絶滅したのは森林伐採と火入れで環境が変革されたことが大きい
アジア起源のオーストロネシア集団は、西部ポリネシアの長い滞在期間で階層的な社会や宗教体系の原型が形成されたのだろう→14世紀頃までは、島間の交流が盛ん
→15世紀以降、各諸島は孤立する傾向となり、人口増加、社会階層化、戦争などが起こり、一部の島では国家に匹敵するレベルにまで発展した

422修都:2023/07/23(日) 12:31:57 ID:Iwso9WKY
風間計博「ヨーロッパ人との初期接触から新たな太平洋島嶼世界の生成へ」
ラピタ人を除くと、アジアから東へ大洋に漕ぎ出す人々はいなかった。西から航海に挑んだのはヨーロッパ人だった。ヨーロッパ人と在地住民との初接触の多くは敵対的であり、頻繁に流血をみた
スペインのグアム支配を除くと、ヨーロッパ人は資源の乏しいミクロネシアには進出しなかった
太平洋の全体像を明らかにしたジェームズ・クックの探検→プロテスタント諸宗派は異教徒の習俗に身震いした
ポリネシアにおける外来者との邂逅は、衝突を回避できた場合には、訪問客を庇護することとなった。しかし、実際は頻繁に衝突が起こった
ヨーロッパ人は、一方的に理想的な人間像を無垢な島嶼出身者に投影した。一方、探検船に乗った島嶼の人々は、新たな世界を経験し、事物や知識を貪欲に吸収した
欧米の探検は海軍を動員した国家事業であった。18世紀後半以降、商人、宣教師等の民間人が本格的に太平洋に進出
ポリネシア人は、19世紀初頭から船員になっていた。在地住民は、ビャクダン交易の活動的な参加者だった
太平洋島嶼各地では、男性船員と在地女性の性的接触が起こり、未知の感染症がもたらされた。在地住民に免疫はなく、極度な人口減少が起こった。労働交易も人口減少の主要因

423修都:2023/07/24(月) 19:31:01 ID:Iwso9WKY
藤川隆男「移民国家オーストラリア」
イギリスによるオーストラリア入植が始まったのは、フランス革命の一年前。オーストラリアが本格的に発展するのは、ナポレオン戦争以降
1830年、植民地オーストラリアの人口の約70%が流刑囚と元流刑囚→識字率はイギリスの労働者の平均をかなり上回っている。8割が窃盗犯、その半数が初犯
イギリスでは1833年、奴隷制廃止。流刑制度にも批判が高まった→オーストラリアへの移民の主力が流刑囚から自由移民に→先住民から無償で奪い取った土地が、移民補助の原資となった
ゴールドラッシュを契機に中国からも移民流入→1850年代から移民制限。1880年代末までには、中国人移民を制限する移民制限法制定
1901年、オーストラリア連邦成立。有色人種の移民に言語テストを課し、非白人を事実上排除した→白豪主義
1902年、連邦選挙法→すべての女性が男性と同等の選挙権。先住民の選挙権を否定。太平洋諸島労働者法→1906年までに全メラネシア人労働者を国外に輸送する
アボリジナル政策→混血の児童の多くを親から引き離し、施設に収容→実際は十分な教育が与えられず、非熟練労働者となった→現在も補償が課題となっている
旧来の歴史が批判的に検討されるようになったが、戦略的に先住民や女性の国民国家への貢献を強調する研究が増やされている
第二次大戦後、資本主義諸国が人種差別的だという批判を封じる必要性、アジア諸国との経済的関係の拡大などを背景として、1958年、言語テスト廃止、移民制限措置緩和

424修都:2023/07/25(火) 19:36:15 ID:Iwso9WKY
矢口祐人「ハワイの内側から見るハワイ史」
ポリネシア系と呼ばれる人びとがハワイに渡ったのは、今から1500から1800年ほど前と言われている。ジェームズ・クックが1778年に辿り着くまで西洋では知られていなかった
1893年のクーデター→在ホノルル駐米公使ジョン・スティーブズが白人男性たちと共謀し、アメリカ海軍とも協力してリリウカラーニ女王を王座から降ろした
→1900年にアメリカの領土となる。ほとんどのハワイアンは、女王を支持し、併合に反対した。アメリカが標榜する自由や民主主義の理念を用いてアメリカを批判した
→1993年、アメリカ合衆国連邦議会はハワイアンが主権を直接放棄したことは一度もないと謝罪
1959年、ハワイはアメリカの州となるが、それまで連邦議会に代表を送ることもできず、選挙人を選ぶこともできなかった。州知事も選挙ではなかった。事実上の植民地
→州になることは名実ともにアメリカの一部に組み込まれることを意味しており、強く反対した者もいた。州になれば白人とアジア系住人が利益を得ることも明らかだった

425修都:2023/07/28(金) 19:47:43 ID:Iwso9WKY
深山直子「先住民マオリのアオテアロア・ニュージーランド史」
ヨーロッパ人として初めてNZを確認したのは、1642年のアベル・タスマンら→上陸したのは、1769年のジェームズ・クック一行→ヨーロッパ人とマオリとの接触は浅く断続的なもの
→宣教師が赴くようになると、文字や知識も浸透
ヨーロッパからの来訪者が増加し治安が不安定化するなかで、1832年、イギリスはジェームズ・バスビーを駐在事務官に任命した
→1835年、北島北部のマオリ首長たちにニュージーランド部族連合として独立宣言に署名させ、保護者となった
→1839年、ウィリアム・ホブソンを副総督として実質的に植民地化する方針に→1840年、ホブソンはマオリにワイタンギ条約締結を迫った→500人以上の首長から署名を集めた
→条約によって、NZはイギリスの直轄植民地となり、ホブソンは総督に任命された→自治の要求が高まると、1852年、自治植民地となる
→条約では、マオリに権利や資源を認めるとあったが、実質的にほとんど効力を発揮しなかった
→1858年、イギリスの王制に対抗するため、フェロフェロがマオリ王として擁立され、マオリ王運動が組織される
1860年、マオリと植民地政府との間で戦争(ニュージーランド戦争)→1863年、マオリを制圧
原住民土地裁判所設立→マオリの土地は、個人所有化され、1939年までに北島の約半分がマオリの手を離れた
NZの選挙権は大半のマオリに認められなかった→1867年、マオリ議席が4席確保され、マオリ議席への選挙権は認められる
→1893年、世界に先駆けてマオリを含む全ての成人女性に選挙権が認められる。1967年、一般議席とマオリ議席いずれにも立候補することが可能になる
1907年、ドミニオン(自治領)になり、国際連盟の初代加盟国にもなる
1975年、ワイタンギ条約法。ワイタンギ審判所→条約の原則に合致しない国王(NZ政府)による不利益を被った蔡、申し立てができる
→近い将来に過去の植民地主義的な収奪に関して全て和解に至る見通し

426修都:2023/07/29(土) 19:45:07 ID:Iwso9WKY
馬場淳「パプアニューギニア史におけるホモソーシャルな政治と女性たち」
ニューギニア高地に白人が入っていくのは1930年代以降。植民地化は、1884年、ドイツとイギリスが東部ニューギニア島および周辺を保護領とすることからはじまる
→イギリス領ニューギニアは1906年からオーストラリアの領土パプア。ドイツ領ニューギニアは1921年からオーストラリアの国際連盟委任統治領となる
→異なる政治的地位にあった二地域だが、日本軍の侵攻に対抗するため一元化される
1950年代、キリスト教の教理や白人の性別役割分業にもとづき、現地人女性に、家庭を守る母・妻として、主婦的なスキルが教えられる
→性差を絶対化し、公的領域に男性を、私的領域に女性を配置する→しかし、伝統的社会では、女性も経済や儀礼を担っていた
パプアニューギニアは1973年11月、高地出身の保守系議員の多くが反対するものの、内政自治へ移行が決定し、1975年9月16日独立する
パプアニューギニアは地方分権主義→住民は国家よりも出身集団のアイデンティティを強く保持している
1980年代後半からのブーゲンヴィル問題→強引な鉱山開発による環境破壊と補償への不満を背景にした爆破事件から始まる独立戦争→2001年、和平協定。05年、自治政府発足
パプアニューギニア憲法は男女平等や女性の政治参加を掲げているが、絵に描いた餅→女性議員は数えるほどしかいない

427修都:2023/07/30(日) 18:44:13 ID:Iwso9WKY
桑原牧子「フランス領ポリネシアの歴史」
1767年、サミュエル・ウォリス船長のドルフィン号が西洋船として初めてタヒチ島を訪れた→イギリスの占領を宣言
→1768年、ブーガンヴィルがタヒチ島に訪れる→ウォリスのことを知らず、フランスが占領したと信じた
1788年、バウンティ号がタヒチ島に到着→船員の多くは島の女性たちと性関係を持った→89年、島を出発すると船員が叛乱→船員たちは島に滞留した
→首長トゥは船員を味方につけ義兄との戦いに勝利→ポマレと改名して王朝を樹立→船員の叛乱はタヒチ島への楽園幻想を西洋社会に広めた
ポマレ2世は宣教師団を全面的に支援した→島民は疫病や死傷に対してオロ信仰が無力であると疑念を抱き始めておりキリスト教を信仰する人々が現れる
1815年、反キリスト教を掲げてポマレ2世に対抗する首長オプハラがキリスト教礼拝の現場を攻撃→ポマレ2世は勝利を収め、全島を支配する
→キリスト教への改宗が進むなかで、伝統信仰は異教徒の信仰となっていく→1836年、フランス人カトリック宣教師が上陸
→女王ポマレ4世助言者のイギリス人プロテスタント宣教師はカトリック宣教師らを追放する→1838年、フランスはカトリック宣教師追放の賠償請求を行う
→女王は賠償に応じるが、イギリスはカトリックの締め出しを強化→フランスは女王不在時に他の首長たちに保護領化同意の署名をさせ、女王にタヒチ島をフランス保護領とする条約を締結させた
→ポマレ4世は逃亡。1844年、ポマレ王朝を支持する首長たちがフランスに反発、フランコ・タヒチ戦争勃発→1847年、フランス勝利→ポマレ4世はタヒチに戻り、77年に死ぬまで政権掌握
→保護領ではポマレ王朝とフランス人総督による執政が併存→ポマレ5世は80年、主権をフランスへ譲渡→第二次大戦後、海外領土となり、住民にフランス国籍が与えられる
20世紀後半、ポリネシア人による植民地統治への抵抗が起こったが、1958年、国民投票が実施され、フランス残留支持率が64%だった
アルジェリアが独立するとフランスの核実験地はアルジェリアからツアモツ諸島となった→核実験は1992年まで行われたが95年に再開決定されると暴動まで勃発した。96年までに193回の核実験

428修都:2023/07/31(月) 19:56:38 ID:Iwso9WKY
丹羽典生「民族の対立と統合への可能性からみたフィジーの20世紀の歴史」
1874年、フィジーは大英帝国の植民地となる→先住系首長13人が、イギリスへ主権を受け渡す方式で植民地化
→プランテーションでの雇用の中心は契約労働者で、太平洋諸国からの移民労働者は賃金が上昇していた→インド人契約移民労働者導入
1910年代、先住系からもインド系からも反植民地主義的な運動。この頃は両者の連帯は無い→1959年のストライキではじめて先住系とインド系が連携した
1970年、フィジーは独立。1987年、フィジー労働党・国民連合党(インド系)が連携し、独立以降フィジーを牽引してきた同盟党(先住系)に選挙で勝利
→首相は先住系、閣僚の半数が先住系だったが、先住系の人々から警戒された→軍隊がクーデタ→インド系宗教施設の破壊など、民族対立の感情が衆目にさらされた
→このクーデタをきっかけとして、現在に至るまで政治的混乱が絶えない

429修都:2023/08/01(火) 19:55:02 ID:Iwso9WKY
石森大知「ソロモン諸島史にみる社会運動の系譜」
イギリスがソロモン諸島の全領土を保護領としたのは1899年。1910年代までには、イギリスの武装警官らによって集団的な武力衝突は影を潜める
1920年代、植民地政府が統制を強め、数々の武力闘争が発生する→30年代になると、非暴力的な手段となっていく
第二次世界大戦では、ソロモン諸島民は関係のない戦争に苦しめられた→ガダルカナル島では、病気や飢餓で14%の住民人口が失われた
ソロモン諸島民は、アメリカ軍が運んできた大量の物資に圧倒され、分け与えられるものを喜んで受け取った→イギリス人とは違い、アメリカ人とはいい関係を作れた
→戦後、戻ってきたイギリス人はアメリカ軍がもたらした物資を没収する
西ソロモン行政区での反植民地主義的な運動は、反政府というよりも反教会だった。西ソロモンでは、教会が交易者および政府に代わる存在だった
イギリスは経済的利益をもたらさないソロモン諸島の早期の独立を望んだ→独立は与えられたものだった→1978年、ソロモン諸島はエリザベス2世を国家元首とする立憲君主制国家として独立
ソロモン諸島では、1998年末からの民族紛争を契機として各州で州政府への移行および分離独立を求める機運が高まっており、現在に至っている

430修都:2023/08/02(水) 19:34:45 ID:Iwso9WKY
今泉裕美子「太平洋分割のなかの日本の南洋群島統治」
1898年の米西戦争後、スペインはグアム島をアメリカに売却、北マリアナ諸島とカロリン諸島をドイツに売却
スペインの統治はキリスト教の布教活動に重点を置いたことに比して、ドイツは産業開発に着手→日本人も生活の糧を求めて渡航し、植民地社会の一員となっている
→日本人移民たちの仕事ぶりは、仕事を奪われるのではないかとの不安を移民先の社会に生み、対日脅威論を強めることにもなる
第一次世界大戦は、日本が太平洋分割に初めて参加する機会となり、南進を実現する好機と捉えられた→日本は南洋群島の領有を強く希望した
日本の委任統治政策は、東南アジアへの経済的進出、対米軍事戦略上の要地としての活用を現地住民の福祉及発達の履行であると説明して行うもの
委任統治開始時、沖縄は困窮状況(ソテツ地獄)にあり、移民や出稼ぎを求める人々が急増していた→南洋群島は格好の移民先→現地住民が、開拓事業に従事する機会は、限定されていた
暗黙の序列:一等国民内地人、二等国民沖縄人・朝鮮人、三等国民島民→現在も、日本統治時代を経験した人びとはトーミンと呼ばれることに嫌悪感を示す
→賃金は内地、沖縄、中国人、チャモロの順に低い
現地住民は、成績優秀者の中のごく僅かに認められた児童のみが小学校での就学を許された

431修都:2023/08/03(木) 19:50:52 ID:Iwso9WKY
石原俊「小笠原諸島史」
小笠原群島の発見に関する最古の記録は、1670年→徳川幕府は1675年、探検家の島谷市左衛門を派遣
硫黄列島の発見は、1543年のスペイン。北硫黄島には、紀元前1世紀から紀元後1世紀頃にかけて定住者がいた
1830年、シチリア島出身とされるマテオ・マッツァーロがハワイ・駐ホノルル英国領事から支援を引き出して約25人の移民団を組織し、小笠原群島に渡航
→小笠原群島には、入植者・寄港者・逃亡者・漂流者・掠奪者がいた
ペリーは1853年、小笠原群島の領有宣言をしている→英国からの強い抗議と米本国での政権交代で白紙
→日本は1862年、咸臨丸を小笠原群島に派遣→父島に幕府の役所を設置し、統治業務を開始→英仏との軍事的緊張から1863年、官吏と入植者を引き揚げさせる
1875年、明治政府は官吏団を小笠原群島に派遣→先住者に服従を求め、外国からの移住を禁じた。先住者は1882年までに日本国民に編入→扱いは帰化人
先住者は経済的に豊かであったが、1911年、世界初の本格的な野生生物保護条約でラッコとオットセイの海上捕獲全面禁止、第一次大戦後の米国との軍事的緊張
→1920年代には、先住者の子孫の多くが貧困層に転落
硫黄列島は1887年、巡航団が派遣され、91年、領有宣言→硫黄の採掘事業が行き詰まると、糖業が主産業に。開拓農民の大多数は小作人
→1920年代半ば、糖業危機が起こると、コカの生産地となり、コカインも精製された。コカインは、インドの闇市場やナチスドイツにも密輸された
1920年代、日本は父島に米国を仮想敵国とする要塞建設→帰化人と呼ばれた人びとは、潜在的スパイとみなされた
1944年、小笠原群島で本格的な島民疎開開始→先住者系島民は疎開先の本土でも潜在的スパイとみなされ、地域住民から暴力を受けることもあった
一方で、16歳から59歳までの小笠原群島・硫黄島民男性は軍属として徴用された。地上戦に動員された103人の硫黄島民のうち、生存者は10人
戦後、小笠原群島・硫黄列島には島民も日本軍関係者もいない状態になった→1946年、日本併合以前から小笠原群島に居住していた先住者の子孫に限り、再居住が許可された
1968年、小笠原群島・硫黄列島を含む南方諸島の施政権が日本に返還された。本土系島民にも居住が認められた
硫黄島は海上自衛隊の駐屯が始まり、硫黄列島のインフラ整備を行わないことで民間人の再居住を事実上阻んだ
硫黄列島民は、約80年にわたって全島民が帰還を認められないという状況に置かれ続けている

432修都:2023/09/02(土) 17:00:37 ID:Wvozer8s
踊共二「宗教改革とカトリック改革」
ルターは「信仰のみ」。カトリック教会は人間の主体的な意思や努力を強調する。ルターの宗教改革は体制的に新しかった→ザクセン選帝侯が改革を支持し、新しい教会創始を認めた
ドイツ語圏スイスではルター主義とは異なる宗教改革が進展(改革派)。ツヴィングリが指導者→信仰によって個人の生活と社会のあり方が変わる
ルターが死去した年の1544年、神聖ローマ皇帝カール5世はプロテスタント諸侯に攻撃→皇帝側の勝利→協議も礼拝も再カトリック化しなければならなくなった
→1555年、カール5世弟フェルディナントはプロテスタント諸侯の抑圧は難しいと考え、アウクスブルク宗教平和令公布→諸侯にカトリックかルター派か選択を許す
ルター派の重心はドイツ諸領邦と北欧でローカルな性格が濃かったが、カルヴァンの改革派は国際的
カトリック改革の成功は新しい修道会や修道団体によるところが大きい→イエズス会の活動によって西欧各地で再カトリック化が成功

433修都:2023/09/03(日) 12:34:48 ID:Wvozer8s
小野塚知二「産業革命論」
産業革命はまず機械革命としてドーヴァー海峡の両岸で認識され始め、ヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国、日本に及んだ
伝統的な再生可能エネルギーのみの状態からの大きな転換(エネルギー革命)でもある。また、原料革命でもあった→木材から鉄へ
産業革命は、欧米による世界支配の完成を意味している。産業革命とは、過去の自然と他国の自然に依存した産業社会が世界規模で確立するための長い過程
産業革命は産業による相違と地域による相違が大きいため、全産業・全地域で一斉に革命的変化が進行したということは、できない
それ以前とは断絶した技術・組織・基盤を獲得した産業と、在来の技術・組織・基盤の上に成立した産業とが併存している
産業革命によって時間規律が発生した。産業革命期までの人びとの時間はもう少し自由で、時間の進行を主体的に決定できていたが、産業革命以降、時計にしたがって生きるようになった
当初は女性と子どもが長時間労働で、近世まで続いた家庭のあり方は産業革命期に危機に瀕するが、その後、男女の分業、子どもとの関係が再編され、近代家族が生みだされる
18世紀後半から19世紀前半、イングランド食文化の伝統は途絶え、食文化を育んできた人的基盤の再生産もできなくなった
→産業革命期、もともとあった祭が楽しまれることもなくなった。利用可能なのは大量生産食材と輸入食材に限られるようになった
イギリス以外の産業革命では、これほどの変化は無く、農村と祭も維持され、食の能力は維持された

434修都:2023/09/04(月) 19:47:03 ID:Wvozer8s
松浦義弘「大西洋世界のなかのフランス革命」
フランス経済全体の中核となったのは対外貿易(植民地貿易)で、商業資本主義の発展だった→18世紀後半、民衆層へも贅沢品が普及→中間層としてのブルジョワジーの増加
印刷物の増大、識字率上昇。1720年代、パリでフリーメイソン創設→ネットワークの形成。18世紀後半の大西洋世界では印刷物や書簡が流通、地域人などが頻繁に往来した
革命前のパリでは、フランス人、ヨーロッパ諸国からの亡命者、アメリカの革命家などが交流するサークルが存在し、大胆な変革が構想された
1780年代のフランスではアメリカ革命論が共和政を争点として展開され、体制批判も出版され流通した

435修都:2023/09/05(火) 19:47:18 ID:Wvozer8s
小山啓子「ルネサンス期の文化と国家」
ルネサンスは商業活動や戦争等を介してヨーロッパ諸地域に広まり、影響を与えていった→イタリアの文化はそのまま輸入されたのではなく、土地の風土や価値にあわせて修正・再構築された
ルネサンスという16世紀の文芸復興運動に、それまでの時代に起こった文化的な変革と異なる要素があったとするなら、それは印刷術という媒体を持っていたこと
文化の創造を支え、発展・伝播に寄与したのが宮廷→都市や農村は、財産、パトロン、政治的党派などのつながりによって、宮廷に結び付けられていた

436修都:2023/09/06(水) 19:32:16 ID:Wvozer8s
後藤はる美「ブリテン諸島における革命」
三王国(スコットランド王国、イングランド王国、アイルランド王国)は、それぞれの独立性を完全には失わない同君連合の状態に置かれ続けていた
イングランド宗教改革は上からだったが、スコットランドの宗教改革はそうではなかった。植民地状態に置かれていたアイルランドでは、人口の大半が根強くカトリック教会を信奉した
チャールズ1世は三王国の統合を推進した→三王国戦争。1637年、イングランド国教会のやり方に抵抗したスコットランドの反乱から始まる→スコットランドの勝利
1641年、スコットランドの勝利に刺激されたアイルランドのカトリックが蜂起→軍隊指揮権をめぐり、イングランド内戦
→チャールズ1世のたび重なる裏切り行為にイングランド軍は共和国を宣言→イングランドで王は処刑された→スコットランドは王の遺児チャールズの即位を宣言
→イングランドのクロムウェルの征服
説示→イングランドは契約王政。王は統治を委託されたにすぎず、内戦開始時点でチャールズは王の政治的身体から去っていた

437修都:2023/09/07(木) 18:54:34 ID:Wvozer8s
豊川浩一「ロシアの「大航海時代」と日本」
ロシアのシベリア進出は11世紀以来の植民運動に始まり、本格的な領土拡張は16世紀の軍事植民
アジアと北アメリカは陸続きであるか、皇帝ピョートルはその答えを見出そうとし、18世紀ロシアの探検が始まる。ロシア帝国はウラル以東をアジアとして征服し植民することになった
1739年、ロシア船が初めて日本の沿岸に現れ、仙台藩領に上陸した。同年、安房国の沖合(現在の千葉県鴨川市)にもロシア船が停泊、上陸
極東の行政役人は首都と密に連絡を取りながら日本と丁寧な交渉を行っていた

438修都:2023/09/08(金) 19:22:36 ID:Wvozer8s
弓削尚子「啓蒙主義とジェンダー」
18世紀、スコットランド啓蒙主義のヒュームの議論において、共感は女性や異教徒、世界の諸民族へ向けられることはなかった
モンテスキューは、ムスリム男性にはリスペクトの姿勢を示したが、女性は不貞な存在で、男性の監視が必要だとしていた
フランス革命期の国民議会では女性の権利をめぐる議論は争点にならず、政治的支持組織もなかった
女性がフランス革命から獲得したのは、夫婦の平等な財産管理権および親権などの一部保障だったが、政治的権利は認められなかった
→ジャコバン派は、女性の政治結社を禁じ、政治的論陣を張った女性たちを徹底的に取り締まり、女性の権利を唱えたグージュは処刑された
→1804年、ナポレオン法典では、女性の諸権利は制限され、女性は男性の権利に従属させられた

439修都:2023/09/12(火) 20:02:46 ID:Wvozer8s
中野勝郎「アメリカ独立」
フレンチ・インディアン戦争後、自治に委ねられていたアメリカ植民地は、ブリテンの直接的な統治におかれた→植民地の反発
帝国内の反乱を国家間の戦争に転じるためには、国際社会から認められる政治体、国家を創設しなければならなかった→アメリカの植民地は独立を宣言しなければならなかった
→1778年、米仏条約→独立した国家として事実上認定された→1783年、パリ講和条約で独立が承認される
→諸邦連合は独立反対派やブリテンの商人に対して財産、債権の返還、補償をしなければならなかったが、それができなかったためブリテン軍は駐留し続け、インディアン部族を支援
→スペインは西フロリダの領有権を主張、西部地域が諸邦連合から離反。フランスも、アメリカの農産物を大量に輸入することはなかった
1787年、連邦憲法→連邦共和国建設。主権を有する諸邦の連合国家。人びとの間にブリテン人という意識は消えていったが、アメリカ人という意識は生まれていない
1794年、ジェイ条約でブリテンは駐留軍を引き揚げた。1795年、サン・ロレンツォ条約でスペインとの国境線を明確化。1803年、フランスからルイジアナを購入し、領土はほぼ倍増
1831年、最高裁で、諸邦連合が先住諸部族の居住地を事実上の植民地とすることが認められる
ブリテンが勢力均衡を主導し、綿花の市場となったから諸邦連合は拡大することができた→発展は、ブリテンの現実政治により可能になった
むしろ発展を阻むのは、産業社会化している北部だった→諸邦連合内の北部と南部の異なる体制の対立→南北戦争を契機に、国民国家化が進んでいく

440修都:2023/09/13(水) 19:16:39 ID:Wvozer8s
小俣ラポー日登美「17-18世紀ヨーロッパにおける日本情報と日本のイメージ」
ルネサンス期にいたるまで、ヨーロッパに存在した世界観の中では、アフリカ大陸の未知の部分、極東地域までもがインドであった
→日本が地図上の実態として認識されるようになったのは、イエズス会の宣教師が来日した後の1550年代以降
日本への宣教が積極的に展開されていた時期の刊行物は、日本人を好意的に語り、知的好奇心が強い、礼儀正しい、侮辱を我慢できないという日本人像はその後にも継承された
1717年、ケンペルの『日本誌』はザビエル以降のポジティヴな日本観の到達点で、ヨーロッパに劣らない日本像が普及した
一方で、過去の宣教師の情報に基づき刊行され続けた殉教伝的性格の強い布教史(キリスト教徒への磔刑、拷問)は、日本の為政者の残虐さを印象づけていた
→モンテスキューは専制主義の国の代表として日本を非難→マルクスのアジア的専制に連なっていく
『ロビンソン・クルーソー漂流記』では日本が残酷な土地して言及され、『ガリヴァー旅行記』では日本の踏み絵が登場する

441修都:2023/09/18(月) 18:49:31 ID:Wvozer8s
芝崎祐典「冷戦と地球規模環境問題」
国境を越えた環境意識の萌芽が最初に見られたのが、核実験反対運動→開発過程で環境へ過大な負荷をもたらすという有害性に注目が集まった
→反核運動は1964年前後から求心力が失われる→1963年の部分的核実験禁止条約で一つの節目。国際社会の最大の関心事はベトナム戦争に集中する
ベトナムの環境は、戦争によって激しい破壊に直面した。ベトナム反戦を含む60年代の社会運動は急進化し、70年代に入るころには広範な運動としてのダイナミズムはほぼ消滅した
→しかし環境意識は次の時代にも受け継がれた。日本が公害防止を公的な関与を法で規定したことは、国際的に見ても早い動きであった
60年代の急速な経済発展は、因果が環境破壊として姿を現すことになり、環境に対する意識の水準を上昇させる契機となった→後押ししたのは60年代の社会運動
→一方で、環境問題に対して異議申し立てをすることは、特殊な勢力による特殊な行為という見方が根強かった
地球の有限性に意識が向かうようになったのは1960年代末頃から→1972年、国連人間環境会議→環境問題への対処は地球的広がりを持たねばならないと公式文書に記された
70年代以降、環境意識は一般市民の関心対象となりうる問題へと移行していく→西ドイツで緑の党の支持が拡大する可能性→既存政党は環境問題も取り込まざるを得なくなった
→西ドイツが環境問題について積極姿勢に転じたことで国際協調の動きがヨーロッパ地域において姿を現す。ただし英米は積極的ではない
1980年のアメリカ大統領カーターは環境諮問委員会がまとめた報告書を出した→その年の大統領選でレーガンに替わり、逆に環境規制は緩和されていった
フロンガス問題について各国の政治指導者たちが理解を示した点は、環境問題においてこれまでにない新しい動きだった→世界が協力して化学物質を排除したのは人類初の試み

442修都:2023/09/19(火) 19:47:16 ID:Wvozer8s
齋藤嘉臣「冷戦と東西文化外交」
東西間の文化交流が本格的に始動する契機となったのは、1953年スターリンの死去と、その後のソ連による文化攻勢
アメリカは政府主体の文化外交には積極的ではなかったが、50年代半ばまでに東西交流がソ連における個人の自由や福祉、安全を求める圧力を下から高めることになるとの期待をもった
日本は米ソ文化冷戦の最前線でもあった→アメリカは日本でのソ連文化攻勢に焦り。アメリカからも音楽家やバレエ団が送り込まれる
グローバルに芸術家を派遣し続けたソ連の文化攻勢は60年までに多くの実績を残した。ただ、その文化外交は芸術家が西側文化に魅了される危険と隣り合わせであった
アメリカがクラシック音楽家や楽団を最も多く派遣したのはヨーロッパだったが、ジャズ音楽家の主な派遣先はアジアやアフリカだった
→ジャズの人種混成バンドにはアメリカの人種関係が改善しつつあることを訴える役割が期待された
→しかし、アメリカにおけるジャズや黒人の社会的地位は低いままであり、ジャズ音楽家らは時に憤りを示していた
60年代よりソ連・東欧ではジャズの現地化が進み、脱アメリカ化が進んだ→国家主導の文化外交はメッセージがそのまま受容されるのではなく、受容者側で再解釈される
ソ連が文化外交で重視したのはクラシック音楽とバレエ→バレエについては東西バレエ観の相違が表出→西側からは保守性を批判される
バレエ外交では、ソ連の社会主義リアリズム対アメリカのモダニズムの争いが時に前景化した→ソ連ではアメリカバレエ団の「若さ」が指摘された

443修都:2023/09/20(水) 20:02:48 ID:Wvozer8s
小沢弘明「グローバリゼーションと新自由主義」
1970年前後の世界は、経済成長の黄金時代が終焉していく過程にあった→決定的だったのが73年10月のオイルショック→世界経済は不況とインフレが同時進行(スタグフレーション)
→福祉国家(社会的自由主義)の再分配政策の危機→70年代までに経済学の主流派は新自由主義→80年前後、英米は福祉国家から政策転換
85年には世界銀行が政策を転換させ、第三世界における国営企業の私有化、労働市場の自由化、福祉国家の縮減を融資の前提条件とした→グローバリゼーション政策の始まり
ニュージーランドの新自由主義化はケインズ主義的介入国家の政策を完全に放棄するもので、モデルとして各国から参照される
中国やベトナムの市場社会主義は、自由主義ではない政治体制と新自由主義は両立すること、国家は新自由主義の制度化・安定化権力として機能していることを示している
東欧の体制転換も新自由主義革命的。南アフリカではアパルトヘイト転換後、新自由主義アパルトヘイトが取って代わった
新自由主義は90年代前半には世界体制となった

444修都:2023/09/21(木) 19:57:30 ID:Wvozer8s
松井康浩「ソ連の異論派と西側市民の協働」
1968年、モスクワ赤の広場でチェコスロヴァキア侵攻に抗議したソ連市民の行動→ソ連も世界を席巻した社会運動の渦中にあった
1965年から人権の擁護を掲げた異論派と呼称される集団が、モスクワを中心に出現しはじめていた
ゲルツェン財団から出版された『時事日誌』はソ連の人権侵害情報を広め、ソ連国内に加え西側の政界、メディア、世論に働きかけた
人権擁護を貫いたモスクワの運動とそれを支えた西側市民の事業は、1970年代に活発化したが、80年代初頭に終焉を迎えた
→異論派はソ連の大衆の中に影響を持ち得なかった、代わってナショナリズム「ロシア・ファースト」がソ連で顕著になった

445修都:2023/09/24(日) 19:16:35 ID:Wvozer8s
福田宏「東欧のロック音楽と民主主義」
68年頃には長髪族やロック文化は東欧でも珍しいものではなくなっていたが、地方では70年代に入ってからも一定のアレルギーが見られた
チェコスロヴァキアのバンドPPU(プラスチック・ピープル・オブ・ジ・ユニヴァース)のイロウスには、ロックによって正面から体制に抵抗するという意図はうかがえない
76年3月16日PPUなどのメンバー19名が逮捕された→この後の裁判が体制に批判的な人びとを集結させる役割を果たし、出会いの場となる
同年12月、人権規約の遵守をチェコスロヴァキア政府に要求する憲章七七が公表される→国営テレビ局はミュージシャンを攻撃する番組を繰り返し放送、彼らは放蕩の限りを尽くしていると説明
→憲章七七のきっかけを作ったロックバンドという位置づけにPPUはなるが、明確な政治的メッセージを含む曲は作品にはほとんど見られない

446修都:2023/09/25(月) 19:59:14 ID:Wvozer8s
原山浩介「日本経済」
洗濯機・冷蔵庫・テレビは1973年までに90%の普及率に達した。91年になると、自動車は79.5%、エアコンは68.1%、電子レンジは75.6%、ビデオデッキは71.5%
→物質面での生活様式の骨格が広く浸透するのは、実際には概ね90年頃。農村と都市両方でハイペースで耐久消費財が普及した日本はグローバルにみれば特殊例
60年代末から70年代にかけて、均質・平等な消費社会像は揺らいでいる→公害への恐れや怯え、食への不安感→物質的な豊かさを求め続けたことへの反省
86年末からの急激な地価の上昇で、マイホームの購入を諦めざるを得なくなる人が大都市を中心に出てきた→リゾートマンションブーム。各地でリゾート開発
→不動産購入・売却できる者とできない者の格差が歴然と開く。80年代半ばにかけて、東南アジア出身の女性たちが繁華街などで増えていき男性外国人労働者も増えていく
→外国人労働者は円高の進行によって日本で稼ぐことが有利になったこと、バブル期の人手不足が呼び水になった
経済大国という自画像を追い風にしながら、共生・多様性が模索され、諸問題を克服していかねばならないとする言説が示されていく
経済大国となった日本に対して、市場開放を求める外圧が強まる→トイザらスの日本への出店は、象徴的だった

447修都:2023/09/26(火) 21:00:54 ID:Wvozer8s
高木佑輔「アジア新興諸国の発展」
新興国に定義はないが、高い経済成長率、世界経済への影響、リスクに対する関心は共通している
アジア新興国の李承晩、スカルノ、ホー・チ・ミンなどの指導者は戦争指導者の顔を持ち、祖国統一や独立が政治課題であった。特に韓国と台湾は、米国からの援助の維持に関心が集中
植民地経済の主役は宗主国資本であったので、独立直後の政府は外来者の所有が多かった民間資本の国有化と輸入代替工業化政策を進めた→多くの国は国際収支危機や過度なインフレ
→独立直後の指導者が退くと、新たな指導者の下で生産性の政治が広まる→経済成長によって階級対立などを相対化する→日本、韓国、台湾は政府主導で産業政策
製品を製造するための企業内貿易や産業内貿易が増加した結果、アジア諸国の貿易相手がアジア諸国という現象が生じた
→円高の結果、経済特区を整備し、政情も安定していたタイ、マレーシア、インドネシアなどへの投資が加速したから→最終財は米国市場が主な輸出先
97年のアジア通貨危機は、東南アジア諸国と北東アジア三ヶ国との結びつきを強めた。通貨危機後、タイ、インドネシア、フィリピンでは有力な経済閣僚は政権交代が起きても残留・再任された
新興国化に伴い、アジア諸国は都市中心の社会に変貌した。2015年の東南アジアの都市人口比率は56.5%。タイもインドネシアも高位中所得国であるが、首都圏は高所得国化している
計算では、2030年にはASEANの中間層は51%に達し、中間層が人口の多数を占めることになる。逆に、アメリカ、EU、日本は中間層が減少する

448修都:2023/09/27(水) 20:04:14 ID:Wvozer8s
丸川知雄「中国の変貌と大国への道」
1972年、ニクソン大統領訪中、日本や西ドイツなどと国交回復→中国は戦争準備に傾斜していた投資の方針を、国民生活の向上を目指す方向へ転換しようとする
78年、西側先進諸国からの設備導入によって大規模工場を全国に築き上げるという計画→期待したのは日本
→日本の企業と契約を行うが支払い困難に陥り、79年、契約を見合わせようとする→日本政府も巻き込んで中国のキャンセルを思いとどまらせた
90年代末には委託加工が輸出産業で主流となる→外国企業が材料を提供して製品を外国企業が引き取る→委託加工工場は民主化も経済制裁もどこ吹く風だった
78年から85年までの時期に目覚ましい成功を見せたのが農業と農村の改革→集団農業をやめて戸別経営を導入。一人当たり農業生産は77年を100とすると85年は165となった
戸別経営は国家に対する食糧売却義務を果たせば、生産した作物は自由に処分できる→83年にはほとんどの農村で戸別経営が採用された
戸別形成に先行する生産請負制(集団の農地を農家に分けて、ノルマを超えて生産した農作物は請け負った農家に多く配分する)は鄧小平、趙紫陽、胡耀邦らによって推進された
→生産請負制も戸別経営も資本主義だという批判があったが、82年には生産請負制も戸別経営も社会主義の集団経済に属すると規定された
78年頃から従業員が7名以下の民間企業は個人経営として認められるようになる→中国経済を牽引する企業も生まれる

449修都:2023/09/28(木) 19:20:25 ID:Wvozer8s
藤永康政「ブラック・パワーとリベラリズムの相剋」
1930年代のニューディール労働政策は、急進的な労働組合の興隆を助けた→しかし労働組合は白人性を確証し他者を排斥する組織であり、黒人の不信感は強かった
デトロイト郊外のフォード自動車は黒人労働者を組合運動の防波堤としていた。デトロイトの黒人成年男子の半数以上がフォードと何らかの労使関係を持っていた
UAW(統一自動車労働組合)には新たな黒人指導層(ホレス・ホワイト、チャールズ・ヒルなど)がおり、彼らはフォードから金銭の提供を受けている黒人指導者たちを批判した
1941年4月のフォード車工場でのストライキでは黒人労働者約2000名がスト参加を拒否→ヒルが説得
デトロイトが白人住宅地が多い地区の隣接地に200戸の黒人向け住宅建設計画発表→UAWには黒人と居住地を共有したくない者もいたが、黒人入居を支持した
→開明的な労働組合と黒人自由闘争の共闘の成立→しかし1943年6月20日流言がきっかけとなって約1万人の白人と数千人の黒人がダウンタウンで激突→死者34名
→逮捕者の85%、死者の25名が黒人、そのうち17名の死には警官が関与→UAWは黒人市民側だった
UWA右派の労働運動家(ウォルター・リューサー)にとって、急進的なことが組合の外から持ち込まれることは大問題だった
→46年UWA会長となったリューサーは左派を追放→黒人労働者の同盟者が失われた。60年代、黒人自由闘争が急進化していくとUAWと黒人労働者の対立が増えていく
57年にデトロイトで結成されたTULC(労働組合指導者会議)は61年のデトロイト市長選でUAW幹部に逆らって対立候補を支援→黒人有権者から支持を受けた候補が当選
63年、デトロイトで自由への行進という大集会が企画されると新世代の黒人たちは運動が黒人だけのものになることを強く要求→10万人ともいわれる黒人がダウンタウンを行進
60年代後半の黒人運動は、自らを第三世界の労働者としている。LRUW(革命的労働者組合連盟)の黒人労働者にとって、UAW幹部は労働貴族だった
→UAWにしてみればLRUWの主張は黒人の利害だけに関心を持つもの

450修都:2023/09/29(金) 19:40:49 ID:Wvozer8s
佐藤千登勢「福祉国家とジェンダー」
戦後の世界的なベビーブーム→核家族が標準家庭とされ、男性稼ぎ主モデルが定着した。50年代末に就労していた既婚女性の割合はイギリス、ドイツ、アメリカいずれも30%程度
欧米諸国で形成された社会保障制度は、男性稼ぎ主モデルを確立した→被扶養配偶者に関する規定→被扶養者でない女性は経済的な困難に見舞われる可能性が高い
ケインズ主義的福祉国家は経済成長によって労働力が不足するようになり、女性の就労を促すという側面があった
→70年代には、世界的に景気が後退し、男性労働者の失業も増えたため、働く女性の数は増え続け、男性稼ぎ主モデルは変化を余儀なくされる
女性は非正規雇用が圧倒的多数を占め、家庭では無償労働の大半を担うことが当然とされた→新自由主義が台頭すると、家族の価値という保守的な道徳観も復活する
スウェーデンは90年代までに最も共働き家族モデルへと移行した。フランスとドイツは子どもを持つ家庭への支援は進んだが、男性稼ぎ主モデルが部分的に修正されただけだった
イギリスとアメリカは社会福祉の受給資格が厳格化されたが、アメリカでは家族・児童手当が存在しないのに対し、イギリスは子どものいる家庭への経済支援が重視されている

451修都:2023/10/01(日) 12:58:32 ID:Wvozer8s
森本あんり「宗教と現代政治」
1979年イランでのイスラム革命。アメリカでは77年に福音派のカーター大統領登場→20世紀の終わりが近づくにつれて世界各地で宗教と政治の連関を示す出来事が起こる
民主主義の前進は、キリスト教右派、ヒンドゥー至上主義、イスラム主義などが勢力を獲得する格好の手段となった
20世紀後半以降、先進工業国では脱工業化社会→宗教は存在意義を増すようになった。21世紀、世界の宗教人口は増加することが予想されている
アメリカのイラン観では、民主国家には起こるはずのなかった革命がイスラム革命だった→宗教の影響力を軽視していた
後進国の第一世代の指導者が退くと、混乱と空白の中で、伝統的な宗教が復権し、政治的な舞台へ再進出する→西洋の後追いの結果は、抑圧と不平等と紛争だった
九・一一テロの実行犯の多くは上中流階層の出身だった→西洋の民主主義と資本主義でテロをなくすという指摘は説得的ではない
イスラム世界には、国家や国籍や国境という概念は希薄。アメリカは宗教的熱狂は歴史的進歩への反動と西洋的な無理解を示している

452修都:2023/10/01(日) 12:59:15 ID:Wvozer8s
森本あんり「宗教と現代政治」
1979年イランでのイスラム革命。アメリカでは77年に福音派のカーター大統領登場→20世紀の終わりが近づくにつれて世界各地で宗教と政治の連関を示す出来事が起こる
民主主義の前進は、キリスト教右派、ヒンドゥー至上主義、イスラム主義などが勢力を獲得する格好の手段となった
20世紀後半以降、先進工業国では脱工業化社会→宗教は存在意義を増すようになった。21世紀、世界の宗教人口は増加することが予想されている
アメリカのイラン観では、民主国家には起こるはずのなかった革命がイスラム革命だった→宗教の影響力を軽視していた
後進国の第一世代の指導者が退くと、混乱と空白の中で、伝統的な宗教が復権し、政治的な舞台へ再進出する→西洋の後追いの結果は、抑圧と不平等と紛争だった
九・一一テロの実行犯の多くは上中流階層の出身だった→西洋の民主主義と資本主義でテロをなくすという指摘は説得的ではない
イスラム世界には、国家や国籍や国境という概念は希薄。アメリカは宗教的熱狂は歴史的進歩への反動と西洋的な無理解を示している

453修都:2023/10/07(土) 17:01:07 ID:Wvozer8s
青野利彦「国際関係史としての冷戦史」
戦後構想の相違はあったものの、戦後一定の時期まで米英ソには互いに強調する用意があった→相違が明らかになりはじめたのはドイツ降伏の頃→ソ連はドイツの弱体化を目指していた
47年6月マーシャル・プラン→米国は対ソ協調を放棄して、英仏と共にドイツ・欧州を経済復興させる計画→スターリンは提案を拒絶し、東欧諸国にも参加を禁じる
50年代前半までに米ソは多くの国々と同盟を形成していった。西欧諸国は主体的に米国を招き入れる努力を行った。東欧はソ連によって支配体制が強制された側面が強い
→スターリンが死ぬと、ソ連は東欧諸国に政治的抑圧の緩和と生活水準向上を命じた。56年、フルシチョフがスターリン批判
→ハンガリーで反政府暴動が起きるとソ連は軍事介入。ソ連は東欧における同盟の揺らぎを繰り返し軍事的に押さえつける
戦後の脱植民地化に米ソは、支援する側に軍事・経済的支援を与えたり、秘密作戦を実施したりする形で介入した
ベトナムとインドネシアは独立戦争で米国に支援を求めたが米国は応じなかった→ベトナムのホー・チ・ミンは中ソに接近。インドネシアのスカルノは反共主義者だと米国に示す
エジプトのナーセルは非同盟主義で米ソ対立を利用
50年代中ごろから核戦争防止の観点からデタントを模索するようになる→現状を固定化、安定化する
英外交は固定化・安定化志向だったが、60年代半ば以降、欧州冷戦を終わらせるビジョンでデタントを追求したのがド・ゴール仏大統領
デタントはニクソン政権で新局面→ソ連をデタントへ誘導するために中国を利用する→ニクソン訪中と訪ソ→ブレジネフ訪米
米ソ関係は79年12月のソ連のアフガニスタン侵攻で決定的に悪化した→この時期の米国を牽引したのが反ソ強硬派のレーガン
85年にゴルバチョフが書記長に就任すると米ソ関係は大きく変化する→レーガンとゴルバチョフは互いに訪米・訪ソする
東欧の社会変動にゴルバチョフのソ連は不介入だった→東欧はソ連にとって負債となっていた

454修都:2023/10/09(月) 17:03:38 ID:Wvozer8s
難波ちづる「脱植民地化のアポリア」
第一次世界大戦で文明を体現するヨーロッパで悲惨な戦闘が繰り広げられたことはヨーロッパの威信に打撃をもたらした
また、戦争協力を求めた植民地住民に与えられた見返りは、期待とは大きく乖離していた。戦後にウィルソンが示した民族自決の概念もヨーロッパに限定されていた
第二次世界大戦で日本の攻撃によって宗主国が不在となると、民族主義者達が活動を活発化させた。一方でフランスは植民地改革は決定したが、自治の可能性は否定した
戦後、オランダとフランスは不在の間に奪われたアジアの重要拠点を手放すわけにはいかなかった→現地住民にとって、宗主国の復帰は受け入れがたい
1947年、スカルノが共産主義運動を弾圧するとアメリカはオランダ政府へ圧力を強め、スカルノへの政権譲渡を働きかけた→49年インドネシア連邦共和国成立
インドシナではフランスが敗北し撤退したが、共産化を阻止するため、アメリカがその戦争を引き継ぐことになる。アメリカの優先事項は共産主義国家誕生阻止
インドではイギリスはもはや抵抗運動を阻止できるだけの軍事力は無かった。経済的にもインドは不可欠な存在ではなくなっていた
インドでもパレスチナでもイギリスは宗教対立に巻き込まれることを恐れ、撤退する
50年代半ばまでヨーロッパ経済復興のための植民地開発が続く(第二次植民地占領)→重視されたのはアフリカ
→戦後の一定期間、植民地は西ヨーロッパの経済復興に貢献したが、長くは続かなかった。アフリカにおける急激な経済開発はインフレを引き起こした
フランス連合への参加を拒否したチュニジアとモロッコでは反仏運動が盛んとなり56年に独立。アルジェリアには約100万のヨーロッパ系住民が住んでいたが、大半が短期間でフランスに退去した
→フランス側についたアルジェリア人は、退去したヨーロッパ系住民以上にフランスでは差別され、アルジェリアに残された多くが虐殺された
1956年スエズ戦争は、アメリカからの強い圧力もあり、英仏はエジプトから撤退した→帝国主義的介入は国際的支持がえられない
イギリスは植民地を直接支配するより、旧植民地と友好関係を維持するメリットの方が大きいとした→イギリスのアフリカ撤退。フランスもアフリカ植民地は利益をもたらさないとして撤退
→ド・ゴールの思惑はアフリカに多数の小国を誕生させ、それぞれと結びつきを強化し、軍事や財政の実権を維持すること→実際に成功している
長期独裁政権が続いていたポルトガルの植民地独立は70年代をまたなくてはならなかった→民主化が達成されるとアフリカから素早く撤退
アフリカに新たに誕生した国民国家は、あらゆる差異を架空の共同体のなかに押し込め、時に強引な統治を行い、内戦や民族浄化につながった
国を独立に導いたという正統性を盾に、政権をとった立役者たちは、しばしば単一政党・長期政権によって、権威主義的な体制をしいた
→独立後の新たな国家は、国民国家という制度だけでなく、軍や非民主的な統治制度、植民地主義そのものをも踏襲した

455修都:2023/10/10(火) 19:47:31 ID:Wvozer8s
川嶋周一「地域統合の進展」
1949年成立した欧州審議会(CE)は史上初めて成立した欧州共同体→政府間協議の場に過ぎず、統合の中心とはならない
50年仏外相シューマンによるシューマン・プラン→独仏の石炭鉄鋼資源共同管理→伊ベネルクス3ヶ国を加えた6ヶ国で欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)成立
→50年代前半、ECSC以外の統合は失敗に終わる。欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(ユートラム)が成立するのは58年
ド・ゴールはフランスにとって有利な政策は加速しつつ、加盟国の意見が反映されやすいように統合を運用しようとした→イギリスの加盟には政治的に反対
67年、ECSC、EEC、ユートラムが合併し、ECと呼ばれるようになる→EECはド・ゴールという政治家に振り回されたが、69年の退場後、統合は質的転換し始める
→イギリスの加盟が認められる。70年代に最重視されたのは通貨統合→ニクソンショックで混乱→79年に首相となったサッチャーがさらに混乱させる
86年、単一欧州議定書成立→欧州委員会委員長ジャック・ドロールが統合を牽引→サッチャーは反発するも92年、広範な政治体としてのEU成立

456修都:2023/10/11(水) 20:02:39 ID:Wvozer8s
南塚信吾「さまざまな社会主義」
スターリン型社会主義→農業集団化、重工業化、計画経済、一党制、個人崇拝など。ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアは複数政党制で社会主義を目指した
ユーゴスラヴィアは一党制の社会主義を目指した→結果的に、スターリンと対立したユーゴ以外は、スターリン型社会主義になる。ユーゴは個人農を基礎とし、共同化を図った(自主管理社会主義)
ベトナムではスターリン型社会主義の中国的変種が定着した→中国の人民公社をモデルとする。カンボジアは王制社会主義(仏教社会主義)を目指した
インドは社会主義型社会を目指した。エジプトも社会主義を導入。中ソが対立するとモンゴルはソ連を支持した。北朝鮮は朝鮮式社会主義を目指し、主体思想を打ち出した
ラオスはソ連にならったが、カンボジアは中国にならっていた→75年にポル・ポト政権になると性急な社会主義を目指した。市場経済を否定し、貨幣を廃止した
→混乱を招き、79年にポル・ポト政権は打倒される。ビルマは、軍制の仏教社会主義であった。キューバは、ソ連と歩調を合わせた
→ラテンアメリカではペルーとチリで社会主義の試みが短期に終わり、キューバだけが残った。アラブでは、イラクとシリアがアラブ社会主義を実現しようとした
→70年に実権を握ったイラクのフセインはソ連に接近した。リビアのカッザフィーは、イスラームとアラブ民族主義と社会主義を融合した体制(ジャマーヒリーヤ)を推進した
アフリカで社会主義を本格的に取り入れたのはタンザニアが最初→中国の影響。60~70年代、東欧各国では改革が試みられたが、順調には進まなかった
→89年にはポーランド、ハンガリー、東ドイツ、チェコ、ブルガリア、ルーマニアで共産党一党制終焉→新自由主義が導入される
→ソ連・東欧で社会主義が崩壊し、途上国社会主義は終焉。91年、アフリカの社会主義が消滅。ラテンアメリカでも社会主義はほぼ消滅したがキューバは市場社会主義を維持している

457修都:2023/10/15(日) 18:03:19 ID:Wvozer8s
久保亨「中国のソ連型社会主義」
共産党政権は、社会主義に向かうのは将来の課題であると当初は言明している→1950年6月25日朝鮮戦争→10月参戦→130万人を派兵し36万人が死傷
→政治的にも経済的にも世界から孤立。西側諸国との国交樹立は困難に陥る→打開策としてソ連型社会主義をめざす路線が52年秋頃から模索され、56年1月社会主義化達成を宣言
→56年スターリン批判→中国はスターリンの貢献を評価しつつ、個人独裁を批判するという二面的な評価を行った
→ポーランドに関してはソ連の介入に異を唱える一方、ハンガリーに対するソ連の介入は支持するという微妙な立場をとった
同年、政権への批判も積極的に受け止める姿勢を示したが、批判の高まりに驚き、一転して思想統制を強化する
58年大躍進政策→無残な失敗。工業生産は低迷、大凶作。2000万人以上が飢餓や栄養失調で死亡した→60年代、ソ連の対中援助は停止→60年以降、市場経済が部分的に復活した
66年文化大革命の展開が宣言させる→全国に混乱→軍によって秩序が回復され、林彪が毛沢東の後継者に指名されたが、文革派によって71年失脚させられる
72年ニクソンが訪中、毛沢東、周恩来らと会談した。76年周恩来が死去すると、周恩来を追悼する形で文革派批判が広がる。同年、毛沢東も死去→文革派は逮捕される
→鄧小平が実権を握り、ソ連型社会主義からの離脱を開始する。ただし、鄧は政治改革の流れは押しとどめている
84年までに全国の農家の96%が小農経営に戻り、集団農業は解体された→市場経済が展開され、豊かになる者が生まれたが、物価高に追いつかない都市住民に不満が鬱積していた
89年胡耀邦前総書記が死去すると、追悼しながらデモ行進が始まった→100万人を超えるデモが行われるようになっていく→戒厳令が北京に施行され、軍によって鎮圧される(天安門事件)
→中国は国際的に孤立→社会主義市場経済の発展を目標とするようになる

458修都:2023/10/16(月) 19:31:04 ID:Wvozer8s
砂野幸稔「アフリカ諸国の「独立」とアフリカ人エリート」
アフリカのナショナリズムを主導したのは、ヨーロッパ語などを学び、西欧型の近代主義を身につけたアフリカ人エリートたちだった→人種的ナショナリズム
植民地体制の中ですでに一定の位置を占めていたアフリカ人エリートは、独立後、植民地宗主国との政治的関係を大きく変えることはなかった
ガーナのクワメ・ンクルマはアフリカ合衆国を目指したが、大多数のアフリカ人エリートは、自らの地域での政治権力獲得に関心があった
選挙を通じて植民地後継国家の政権が成立した国々では、多くが複数政党制をとっていたが、70年代には大多数の国が独裁の体制に移行した→統合ではなく、権威主義と抑圧が選択された
サハラ以南のアフリカでは、ほとんどの国で、アフリカ人エリートは植民地支配の言語を公用語として選び、教育制度も植民地支配者が作り上げた制度を引き継いだ
→植民地統治のシステムを引き継ぐため。現在も農村部では公用語が浸透していない国が多い
アフリカ人エリートたちは、強力に介入する国家主導型開発政策をとろうとした。タンザニアはアフリカ社会主義を標榜→都市の近代主義エリートが現実を把握せず描いた理想論は挫折
多くのアフリカ諸国で重視されたのは都市→都市による農村搾取。農村における生産性は向上せず、都市の拡大によって、食糧生産力は不足→農村軽視の結果としての飢饉
冷戦下、東西それぞれの陣営が、政権を倒すために反政府勢力を支援する場合もあった。欧米の援助は国家を腐敗させていった
石油危機以降、アフリカ諸国は多額の債務に苦しむようになる→資金援助の条件として市場経済化、政府支出削減が要求されるようになる。冷戦終了後は、民主化も迫られるようになる
→90年代、ほとんどの国が、複数政党制を導入する

459修都:2023/10/17(火) 19:34:58 ID:Wvozer8s
臼杵陽「イスラエルの建国とパレスチナ問題」
イギリスは1915年、アラブ人の独立を約束したフサイン・マクマホン協定を締結してアラブ人をイギリス側につけた
→1916年、東アラブ地域を英仏で分割するサイクス・ピコ密約。1917年、パレスチナにユダヤ人のための郷土を建設することを約束したバルフォア宣言
→第一次世界大戦後、パレスチナでは連続的にアラブ人の反乱→第二次世界大戦後の1948年9月22日ハーッジ・アミーンによってガザを中心としたパレスチナ政府が樹立される
→シオニスト側は5月14日にイスラエルの建国を宣言している→アラブ諸国軍がパレスチナに侵攻
1950年のイスラエルの事実上の国境(グリーン・ライン)内に残ったアラブ人はイスラエル人口の約20%で現在も変わっていない→アラブ人に市民権を与えるが、行動できる地域の範囲を限った
イスラエルは48年、避難民のイスラエルへの帰還を禁止した→アラブ人避難民は難民化→64年パレスチナ解放機構(PLO)が設立された
アラファトはクウェートで非合法政治組織を結成し、この組織が58年頃にファタハと名乗る。ファタハは第3次中東戦争後、ヨルダンに軍事的拠点を置き、ゲリラ活動を展開
→ヨルダンのパレスチナ難民キャンプを中心に国家内国家を形成→絶大な支持と信頼を集めたアラファトは69年PLO議長となる
→ヨルダンは70年PLOに対して軍事的攻勢→PLO敗北→レバノンへと拠点を移す→ファタハは72年ミュンヘンオリンピックでテロ活動→イスラエルによる報復
74年アラブ首脳会議でPLOがパレスチナ人の唯一正当な代表であると認められる。さらに国連オブザーバーの地位を獲得→PLOは90ヶ国以上と外交関係
PLOはレバノンでも難民キャンプを拠点に解放区を形成→75年以降PLOを排除しようとするマロン派キリスト教徒によってレバノン内戦
→82年イスラエルはレバノンに侵攻→PLOはレバノンからチュニジアに移る→レバノンではパレスチナ難民が虐殺された→PLOは対話路線へ転換
イスラエルは違法建築という理由でヨルダン川西岸のパレスチナ人家屋を破壊していた→ファタハは西岸を義援金で支援。ファタハはヨルダン川西岸・ガザに活動の中心を移す
ノルウェーでイスラエルとPLOとの間で秘密交渉が行われていた→93年ホワイトハウスでクリントン大統領が立ち会い、アラファト、イスラエル首相・外相とのオスロ合意調印
→ガザを中心とするヨルダン川西岸の一部の地域にパレスチナ暫定自治が始まる

460修都:2023/10/18(水) 19:18:02 ID:Wvozer8s
藤本博「ベトナム戦争論」
ホー・チ・ミンは45年9月2日、アメリカ独立宣言を引用し、連合国に独立承認を求めた→しかし、46年12月からフランスとの戦争。アメリカは対仏援助→フランスは敗北
→アメリカは2年後にベトナム統一のため選挙をするという協定を無視し、南部に親米政権を育成した→南ベトナム解放民族戦線結成
61年発足のケネディ政権は、共産主義拡大への不安から軍事介入を始める。次のジョンソン政権で北爆の必要性をまとめ開始。作戦終了までに約64万トンの爆弾が投下された
なお、ラオスへの爆弾投下量は北爆の2倍以上に及んでいる
アメリカの作戦は残虐行為が日常化した→68年3月16日ソンミ村虐殺。南の戦場では北爆以上に非人道的兵器が大量使用され過剰殺戮が行われた。南爆は北爆の3倍以上の爆弾を投下
アメリカの作戦は南ベトナムをコメの輸出国から輸入国に転落させた→親米政権の社会的基盤を脆弱化させた
68年1月末の解放勢力総攻撃(テト攻勢)によって米国内のベトナム政策反対意見は過半数を超える→テト攻勢は解放勢力にとっては敗北だったが、アメリカに衝撃を与えた
米国や米国以外でも史上未曽有のベトナム反戦運動が展開された
69年発足のニクソン政権は、南ベトナム政権維持を前提とする名誉ある和平を追求した。69年11月、ソンミ村虐殺が公になる。帰還兵も反戦集会に参加
ニクソンはジョンソン政権以上に北爆を展開→それでも解放勢力優位は揺るがず、アメリカと北ベトナムは72年10月和平協定案に合意→南ベトナムが反対→ベトナム戦争史上最大規模の北爆
→北ベトナムはそれにも堪え、73年1月27日、ベトナム和平協定。米兵の死者約5万8000人、ベトナムの死者約300万人(民間人約200万人)だった

461修都:2023/10/19(木) 19:47:54 ID:Wvozer8s
竹峰誠一郎「オセアニアから見つめる「冷戦」」
54年3月1日、米国はビキニ環礁で水爆実験を実施→第五福竜丸被爆。現地住民も被爆→マーシャル諸島から国連に苦情を申し立てる請願書が出される
→米政府代表は現地の人が被害に遭ったことを認めたが、核実験実施の正統性を主張→核実験は黙認されたが、米国は危機感は持った
→しかし、マーシャル諸島で核実験は繰り返され、頻度もあがった→58年8月18日の67回目の核実験がマーシャル諸島での最後の核実験→ただし、計画はさらに存在した
イギリスも太平洋で原水爆実験を行っていたが、63年部分的核実験禁止条約が調印されると、米英は太平洋での核実験を停止し、フランスが太平洋で核実験を始めた
フランスは66年から96年まで193回の原水爆実験→反対の声は太平洋諸国の政府だけでなく草の根レベルでも広がっていた
日本は核の加害国としても登場した→低レベル放射性廃棄物の海洋処分計画→太平洋一円に抗議が広がる
80年に独立したバヌアツは非核宣言を国会で議決しており、日本の科学技術庁にも合う必要はないとした
85年8月6日に締結された南太平洋非核地帯条約(豪州、クック諸島、フィジー、キリバス、NZ、ニウエ、サモア、ツバルが調印)は核廃棄物の海洋投棄禁止も盛り込んだ
→バヌアツは赤道以北が含まれていないとして調印しなかった
パラオは、米軍軍事戦略に真っ向から対立する非核憲法を制定して81年パラオ自治政府となった
条約の圏外となった北マリアナ諸島では海洋投棄反対の世論が盛り上がり85年中曽根首相は海洋投棄を凍結すると表明した

462修都:2023/10/20(金) 19:59:15 ID:Wvozer8s
戸邉秀明「沖縄と現代世界」
米軍にとっての沖縄→世界規模で展開した基地ネットワークの結節点。恒久的な軍事基地と基地コミュニティからなるリトルアメリカのひとつ。核戦略の要
米軍が沖縄を日本から切り離したのは、他国の主権による制約を全く受けない基地の自由な確保と使用の権限を確保するためだった
日本本土の米軍基地が60年代にかけて4分の1程度に急減するのに対して、沖縄の基地面積はほぼ倍増する
→沖縄は、日本が主権を部分的に委譲することで、米国に同盟国として認められるために支払うリスクを転嫁する集積地となった
法制度上、沖縄は日本国憲法も米国憲法も適用されない法の雑居状態だった。米兵による事件・事故のほとんどは起訴されなかった
米軍による土地接収は、沖縄にいながらにして難民同様となる人々を大量に生み出した→基地依存社会→混成社会化。離島の人々や華僑などが基地の街に集まった
沖縄戦後、数年のあいだ、日本を公然と批判する言論は少なくなかった。指導者たちも復帰論は少数派→日米いずれからも自立する
→1950年の秋から恒久的な基地の造成が始まるなかで、指導者たちは復帰を唱え始める。米軍との対抗を優先して、日本の差別や暴力の記憶は封印された
→立派な日本人になることが地域社会や子どもたちに激しく求められた。60年代からは運動の革新化が進むが、本土への集団就職のため言語指導の必要性は高かった
60年代後半、住民丸抱えの統治コストを日本政府に丸投げするため沖縄返還へ進む→返還が決まると復帰運動の日の丸はいっせいに消えていき反復帰論もあらわれる
沖縄は、観光業を主力として経済的な自立に取り組んできており、現在、観光収入は基地関連収入の倍以上→ただし、観光産業は非正規雇用率が高い
基地への抗議の声は4半世紀以上持続している

463修都:2023/10/30(月) 17:44:25 ID:Wvozer8s
松田孝一「モンゴル帝国の統治制度とウルス」
大モンゴル・ウルスでは、成人男子を10人をひとつの単位としてまとめ編成し、そのうちの1人を長にし、その十人隊を積み上げた国民組織を形成した
→十人隊長の1人が百人隊長、百人隊長の1人が千人隊長、千人隊長の1人が万人隊長
チンギス・カンは5子3弟に全軍隊の約半分を分配した→ウルスが生み出された→チンギス・カンは8ウルスの枠組みを将来も変更させず、固定、存続する方針だった
→第2代カン、オゴディの時代にウルスは11個となる
クビライの分割案→エジプトの境からアム河までをフレグ、アム河からアルタイ山脈までをアルグ、アルタイから東をクビライが支配する提案、西北部にジョチ家の勢力圏があるので4分割
→クビライとアリク・ボコの対立の中でフレグ、アルグ、ジョチ家のベルケ、アリク・ボコが死去したので、公式に承認されないまま、帝国4分割は既成事実となった

464修都:2023/10/31(火) 19:51:45 ID:Wvozer8s
飯山知保「モンゴル支配下の中国と多民族国家」
チンギス・カンの金国侵攻から1234年の金国滅亡まで、華北の大部分は20年以上の戦乱→在地の有力者が漢人軍閥となる→漢人軍閥はモンゴル王侯にかわって人々を管轄した
南宋では華北のような軍閥の割拠はなく、モンゴルへの服属も華北より2世代遅れた→華北の人より出世で不利→旧南宋の管理者の多くは華北から派遣された
→ただし、旧南宋在来の在地有力者の協力が無ければ統治を行うことは難しかった。モンゴルは科挙を重視しなかったので出世するには主従・縁故関係が重要となった
モンゴル王侯らは、支配下の社会と直接接点をもたないことが多かった

465修都:2023/11/01(水) 20:58:11 ID:Wvozer8s
松井太「トルキスタン・トルコ系諸集団とモンゴル帝国」
西ウイグル国は12世紀前半に西遷してきた西遼の間接支配下におかれ、西のカラハン朝は滅ぼされた→金末からモンゴル初期の漢籍資料は西ウイグルの西までウイグルと称する
モンゴル帝国が勃興すると、西ウイグルはモンゴルに臣従し、ウイグル王は厚遇された→公用文字としてのウイグル文字を提供→帝国崩壊後にはモンゴル文字と称されるようになる
東トルキスタン・ウイグル社会にモンゴル支配が与えた影響や変化は中華地域・イラン地域の状況とも多くの点で整合(通貨体制の導入など)→モンゴルのユーラシア支配の共時性
モンゴルの税役制度は西ウイグルの制度が参考とされた可能性が高い。モンゴル支配層へのチベット仏教の伝道も、ウイグル仏教徒により媒介された

466修都:2023/11/02(木) 19:26:20 ID:Wvozer8s
関周一「宋元時代の東アジア海域世界」
都市博多は11世紀後半に成立したと考えられる→日宋貿易の輸出品、金や水銀などが出土。中国人海商が博多に寄住していた
中国人海商は日本の寺社・権門に帰属し、パトロンとした→禅宗寺院は唐物の仏具類を集めるため、北宋や南宋との交易を必要とした
高麗にとって対北宋外交は、貿易の要素が強かった→朝貢する側は良質・多量の文物を入手できる→北宋からは絹織物、陶磁器など。高麗からは、金・朝鮮人参など
蒙古襲来以降、むしろ日元貿易は活況を呈す。日元貿易では海商が幕府への依存度を高めている
日本から元に来航した海商が度々暴動→役人が海商から財物を奪い取ったことに原因→1335年から43年まで日元貿易断絶
日本の硫黄山地は薩摩国硫黄島だった→九州西海岸を経て博多に運ばれ、北宋にもたらされた。沖縄島の王朝が明に進貢した硫黄は硫黄鳥島が産地の可能性が高い

467修都:2023/11/04(土) 19:44:34 ID:Wvozer8s
向正樹「モンゴル覇権期のディアスポラ」
ディアスポラ→離散型共同体。散居しつつもゆるやかな一体性を有する。モンゴル覇権期のディアスポラはトルキスタン・イラン出身のムスリム
ムスリム高官の一族や子孫らは、モンゴル支配下の中国各地に地方官として赴任し、世襲の支配層を形成していった

468修都:2023/11/05(日) 13:13:57 ID:Wvozer8s
高橋英海「中央アジア・東アジアのシリア教会」
サーサーン朝ペルシア領内のキリスト教徒は、ローマ帝国領内の教会からは徐々に距離をとっていた→ローマ帝国内の教会からはネストリウス派として異端視
唐代に中国に移り住んだキリスト教徒の多くはイラン系民族の出自だったと推測される。モンゴル支配下の中国にいた東シリア教会信徒は、ほぼすべてトルコ系諸部族の出自
元末の中国で支配者のモンゴル人や色目人に対する漢人の反感が強まっていくなかで、トルコ系民族を主体とするキリスト教徒の立場は徐々に脅かされていくようになったと考えられる
→元が滅びた後、墓地が荒らされ、石材が城壁の建材として用いられている(キリスト教徒もイスラム教徒も)
中央アジアの14世紀半ば以降のキリスト教の史料については皆無だが、ペストの流行で弱体化したキリスト教集団は、ティムール朝の弾圧で消滅したと考えられる

469修都:2023/11/06(月) 19:48:04 ID:Wvozer8s
渡部良子「イル・ハン国のイラン系官僚たち」
イル・ハン国では、ウイグル文字モンゴル語とアラビア語・ペルシア語官僚技術を習熟した官僚たちが活躍した
イル・ハン国では、歳出は、必要額を各地の税収に割り当てた。徴税請負責任者がいたが、要求に応じられない場合は責任者が自ら不足を補填した→過酷な取り立てと納税者の疲弊
第三代アフマドを除き非ムスリムだった歴代イル・ハンは、多くが仏教を信奉する一方、有能な人材は宗教宗派を問わず取り立てた

470修都:2023/11/07(火) 19:48:17 ID:Wvozer8s
中村淳「チベット仏教とモンゴル」
第五代皇帝クビライは、高層サキャパンディタの甥パクパを大朝国師に任じて、仏教の統領を命じた→なぜカシミールやチベットの高僧が仏教界のトップに据えられたのかはいまだ明らかではない
クビライは国師パクパに皇位の正統性や王権を表象、具象する施策を委ねた→クビライを金転輪聖王として表現する大法要など

471修都:2023/11/08(水) 19:48:06 ID:Wvozer8s
渡邊佳成「モンゴルの東南アジア侵攻と「タイ人」の台頭」
1253年、クビライは雲南に侵攻→大半はモンゴルの支配下に入った→ビルマ、北タイ方面への勢力拡張の拠点
1257年、雲南のモンゴル軍は、ベトナムに侵攻。陳朝の軍を破る。1282年、チャンパーへ侵攻→膠着状態となる→ベトナム側が攻勢に転じ、モンゴル軍撤退
→1288年、ふたたび進軍→元軍は糧食を輸送していた船が撃破され、退却を余儀なくされる。クビライはさらなる侵攻を計画していたが、1294年クビライの死によって中止
陳朝にとってモンゴルの衝撃は衰退につながるものではなかった
1277年、ビルマ軍が雲南に侵入→1284年、モンゴルはビルマ北部を奪う→その後、良好な関係に転じたが、ビルマで政変が起こると関係が悪化
→モンゴル軍は侵攻するが、炎熱などのため退却→その後、ビルマ国内は分裂→ビルマの衰退はモンゴルの侵攻以前に始まっており、モンゴルは分裂の直接の要因ではない
タイ人の勃興にもモンゴルの侵攻の影響は認められない

472修都:2023/11/09(木) 19:48:57 ID:Wvozer8s
森達也「ユーラシア世界の中国陶磁流通」
中国陶磁の海外輸出が本格化するのは、唐代後半期の8世紀末から9世紀→エジプト、東アフリカ、インド洋沿岸、タイ、ベトナム、日本、韓半島などに流通
元代に器形の大型化、装飾の多用化、色彩装飾の誕生など→モンゴル人と色目人の嗜好。食物を大型容器に盛る草原の民の食習慣が影響
イランの陶器やガラスのカラフルな世界を中国の磁器の技術で再現。モンゴルがユーラシアの主要部分を支配した時期に中国の製磁技術で西アジアの人々が好む磁器が生み出された
日本は中国文化のすべてを持ち帰りたいという意識でさまざまな産地の中国陶磁を日本に運び、日本人の好む宋代の中国陶磁を集めていた→日元貿易は他の地域の中国貿易とは異なる

473修都:2023/11/10(金) 19:46:16 ID:Wvozer8s
川口琢司「カラチュの時代」
ティムール朝の創始者ティムールは、晩年までオゴデイ家出身の人物を傀儡のハンとして置いた→名実ともにチャガタイ・ウルスからティムール朝へと変わったのは、ハンを置かなくなってから
ティムール朝の歴代君主はモンゴル系出身であるため、チンギス家のみに許されるハンの称号を名乗ることはなかった
ティムールの軍事行動の目的はあきらかにチャガタイ・ウルスの復興と拡大だった→ユーラシア各地を征服→各地域にチンギス家の人物を代理として送り込み、影響力を維持しようとした
部族出身者はモンゴル語でカラチュと呼ばれ、高貴でない者、非チンギス家の者を意味する。ティムールは自信をカラチュと認識している

474修都:2023/12/03(日) 16:37:40 ID:Wvozer8s
割田聖史「ヨーロッパにおける国家体制の変容」
フランス革命とナポレオン戦争は、ヨーロッパに暴力・テロル・戦争をもたらした→1814年のウィーン会議でヨーロッパの混乱終わる→ウィーン体制
→イギリス、プロイセン、オーストリア、ロシア、フランスの5大国体制
1848年革命→既存国家の自由主義化。フランスで第2共和政→ヨーロッパの政治地図は変わらない→1861年イタリア王国創設(第6の強国)、1871年ドイツ帝国創設(プロイセンの変化)
19世紀段階は社会保険というセーフティーネットが張られるようになったことから社会保険国家と呼ぶことができる。なお女性、労働者の家族は保険対象外
社会扶助機能は、小単位ではもはや担うことはできず、国家などの広域団体が役割を負うこととなった→国家や広域単位が帰属意識の対象となる
自由主義的国家では、政治参加、社会保障が、国家の側からの統合要求を満たすのに大きな位置を占めた
周縁地域である植民地は、国民化が望まれなかったにもかかわらず、帝国の一部として認識され、ヨーロッパ側の優位に基づいた統治体制に組み込まれた

475修都:2023/12/04(月) 19:23:52 ID:Wvozer8s
姫岡とし子「ナショナリズムとジェンダー」
18世紀後半、男女の生得的な違いを強調する言説が登場するようになる→両性の基本的特性を二項対立的にし、役割を定めていった
→ただし、19世紀初頭くらいまでは、両性の対極化や公私の分離に適合しない市民層もいた
ナポレオン戦争期、男性は戦闘的でなければならないという言説が流布される→ナポレオンに敗北したドイツは男たちを祖国のために命をかける戦いへ鼓舞した
→女性は家を守るべきものだとされる→ただし、家庭の範疇にとどまらず福祉活動を展開して祖国のために熱心に活動する女性もいる→女性にふさわしいとされる活動
女性の戦争貢献は女性がネイションの一員であることを示し、一体感を強めた→ただし、ジェンダー秩序への抵触とみなす男性たちも多く、戦後には女性の活動について取りあげられなくなる
植民地言説では、文明的な強者は男性、自然で弱者である被植民地は女性にたとえられた。20世紀転換期、人種の純粋さを優先すべきという主張の登場→植民地現地人との婚姻禁止の動き

476修都:2023/12/05(火) 19:34:35 ID:Wvozer8s
貴堂嘉之「移民の世紀」
アメリカは世界史上にも特殊な移民国家として誕生したとされる→民族的単位の欠如。総人口に占めるイギリス系の割合は建国当時6割に満たず、今日では1割強
→理念を統合の核とする国→ただし、独立から1820年まで25万人ほどの移民しか入国していない→最初の移民の大波は1845~49年のジャガイモ飢饉の影響。アイルランド人移民急増
米国は元々は奴隷国家だが移民国家へと移行した分水嶺は南北戦争。リンカン政権は積極的な移民奨励策を打ち出した最初の政権
中国人労働者がサンフランシスコのチャイナタウンに集住し始めると初の移民制限立法である排華移民法が1882年制定→アジア系移民は何年アメリカに居住しても市民権が得られない
移民国家アメリカには、移民を包摂するヨーロッパ系向けの顔と使い捨て労働力としてアジア系を眼差す顔がある
黒人奴隷制の廃止と代替労働力としてのアジアからの移動→日本人移民も奴隷の亜種として眼差されていた

477修都:2023/12/06(水) 19:25:27 ID:Wvozer8s
金澤周作「海域から見た19世紀世界」
19世紀は木造帆船の時代であったが1860年代までに蒸気船の領分は拡大してきた。1865〜66年、大西洋横断海底電信ケーブルの敷設完遂
19世紀半ば以降、イギリスでは黒人船員が増え、ヨーロッパ航路ではインド系の船員がかなりの割合を占めた。アメリカ船には日本や中国系の船員がいた
棺桶船として記憶される移民船の環境は劣悪で、船舶熱がたびたび発生した。客船では、船で働く労働者と同じく、乗客にも資本主義化を象徴する階級・人種的な格差が顕在化していた
19世紀の制海権を握っていたのはイギリス→ドイツはイギリスに対抗し、世紀末に海軍予算を大幅に増額→建艦競争→果てに第一次世界大戦
19世紀初頭から関税水域や漁業水域は次第に3カイリに収斂していく

478修都:2023/12/07(木) 19:27:04 ID:Wvozer8s
並河葉子「奴隷貿易・奴隷制の廃止と「自由」」
環大西洋奴隷貿易が始まるのは16世紀初頭。規模が拡大したのは17世紀後半以降→19世紀前半まで活発に行われ、その後ほぼ終了する
1777年7月2日、ヴァーモント共和国の憲法が奴隷制の法的な廃止のもっとも早いもの→他のアメリカ合衆国北部諸州も相次いで奴隷貿易禁止・奴隷解放
最大の奴隷貿易国であったイギリスで1787年から全国的な反奴隷制運動。フランスでも1788年から→旧来のイギリスの支配層とは異なる人びとが不自由で非人道的だと批判した
→イギリスの奴隷制廃止はおよそ半世紀後の1833年→イギリスは文明化の使命を掲げて世界の奴隷制廃止に向けて活動するようになる
解放アフリカ人たちは、すぐに完全な自由を手に入れたわけではない→文明化する必要があると考えられた
大西洋奴隷貿易は急激に衰退したが、奴隷制度はしばらく残る→最後まで残ったのはキューバ(1886年)とブラジル(1888年)
インド洋西海域やアフリカ域内の奴隷取引・一部の奴隷制は20世紀初頭まで残る
フランスは革命後の1794年奴隷解放を決定した→ナポレオンは奴隷制を復活させるが、ハイチは1804年に独立した→白人や自由黒人が出ていき、奴隷も内戦で多くがいなくなり、労働力が激減
→流出した人々は、周辺の他の島でプランテーションを開き、そこに奴隷の需要が生まれた→キューバとブラジルに奴隷流入
奴隷解放後、イギリスでもフランスでもプランターと元奴隷たちとの紛争→プランター側は奴隷を保護する義務が無くなったのでむしろ労働条件が厳しくなった

479修都:2023/12/08(金) 19:46:42 ID:Wvozer8s
中澤達哉「一八四八年革命論」
ライン川以西の革命はブルジョワジーと労働者の対立に端を発し、労働者階級が革命の担い手だが東側はそうではない
1848年2月、七月王制の瓦解(二月革命・第二共和政)→社会主義政策の実施→男性普通選挙で農民がブルジョワジーを支持、社会主義者は惨敗→カヴェニャックの軍事独裁
→憲法に民主的共和主義は無し→ナポレオンの甥のルイ・ナポレオンが大統領に→1851年、ナポレオン三世を名乗って第二帝政開始
ライン川以東のベルリンでは三月革命→国民議会開設。ウィーンではメッテルニヒ失脚。ハンガリーでも革命、国民議会
革命後の労働者の不満から利益を守るには福祉国家が必要→第二帝政は福祉の実施を掲げた→労働者を消費者にするためには植民地も必要
中・東欧は革命以後も礫岩国家を構成する各地域にとどまっていた→ハンガリーは最大限の自治を獲得したが、主権から零れ落ちた民が多く存在する

480修都:2023/12/11(月) 18:34:50 ID:Wvozer8s
勝田俊輔「「イギリス」にとってのアイルランド」
19世紀、ブリテンの人間にとって身近な外国人はアイルランド人だった→1861年、ブリテンの総人口の4%に満たない
1800年の合同法は、対等ではなかった→行政府のトップは連合王国政府によって派遣される。カトリック解放がアイルランドから突き付けられたが、ブリテンの人間は強く反発
連合王国政治においてアイルランドはさまざまな困難をもたらした→アイルランドの要求に全て反対するのがユニオニズム、自治のみに賛成するのがリベラリズム
ブリテンは合同法を撤廃すれば統制が及ばないどころかカトリック国家が発足する可能性があることをおそれた
自治法案は2度の否決を経て1914年9月に可決される→しかし、第一次世界大戦勃発で施行延期
→戦後、アイルランドを南北に分割し、それぞれに自治議会を与えるとして21年に北アイルランド自治政体発足
→南部では独立戦争が泥沼化→22年、独立を認める→49年にブリテン帝国から離脱することとなる

481修都:2023/12/12(火) 19:31:52 ID:Wvozer8s
二瓶マリ子「一九世紀前半、米国の領土拡大と大西洋革命」
スペイン領テキサスは先住民たちの襲撃やフランス領ルイジアナとの境界争いが絶えない上、銀山なども発見されず、植民は進まなかった→密貿易で大西洋世界と接続
1808年、ナポレオンがスペイン国王を退位させ、兄を王位につけると、メキシコでスペインへの反乱
→1813年4月6日、メキシコは独立を宣言。テキサスはテキサス州となり、メキシコ共和国に属した→メキシコは広大な領土を有したが、諸地方を統合する指導者がいなかった
→29年、スペイン軍が再征服のため侵攻してきたのを破ったサンタアナが大統領になると副大統領の自由主義者ゴメスが急進的な改革
→1834年、保守派がクーデター→35年、連邦制停止。反革命体制に→テキサスが独立を求める→米国は中立を宣言したが、テキサス周辺の州政府はテキサスを支援
→テキサスはサンタアナを捕虜とする→サンタアナはテキサスの独立を承認→メキシコはサンタアナが調印しただけだとしてテキサス共和国を承認しようとしなかった
→イギリス、フランスはアメリカのテキサスへの介入を警戒してテキサス共和国を承認。45年、テキサス併合を掲げるジェイムズ・ポークがアメリカ大統領に
→テキサス共和国は米国への加入を表明、併合された→アメリカは46年、メキシコに宣戦布告→48年、カリフォルニア、ニューメキシコ、ネバダ、ユタ、アリゾナが米国に割譲された

482修都:2023/12/13(水) 19:32:59 ID:Wvozer8s
野村真理「近代ヨーロッパとユダヤ人」
フランス革命後の1791年、ユダヤ教徒解放令が議決された→フランスに併合されたライン川左岸地方でもユダヤ教徒解放。プロイセンも1812年、ユダヤ人に自由と権利、市民的義務を認めた
国民国家においてユダヤ教徒が平等な国民となるには、ユダヤ教自身の近代化も必要があった→ユダヤ教徒は会派にわかれることとなる
一方でドイツ人からは、ユダヤ人はドイツ人になりうるかという不毛な議論が繰り返される→ナポレオン失脚後、ユダヤ人の解放は後退。市民権は地域によって撤回・制限された
ドイツ帝国成立時のユダヤ人は約51万人(総人口の1.25%)で70%以上が農村地帯に住んでいた→帝国成立後、大都市への移動が加速
→歴史的に商業に携わってきたユダヤ人は、自由主義経済の波に乗り、成功した者も少なくない。偏見や差別が残るドイツ社会でユダヤ人は弁護士、医師、ジャーナリストなど専門職を好んだ
→1873年の恐慌→経済的反ユダヤ主義。ユダヤ人が市場経済を腐敗させ、ドイツ人が犠牲者になっているとした
ポーランド会議王国では1862年、ユダヤ人の居住制限撤廃→農村地帯のユダヤ人は都市に向かって移動
ポーランドにはリトアニアやロシア帝国領ポーランドからの流入もあり、ユダヤ人人口は1816年の21万2944人から97年には127万575人(総人口の14.54%)に増加
19世紀の会議王国ユダヤ人にはハシディズムが受け入れられた→熱狂による神との直接的結合を志向
ドイツのユダヤ人はドイツ文化への同化を志向したが、ポーランドでは若いユダヤ人の間でユダヤ人の民族運動が支持を集めた
ポーランドの商業・金融・保険業のユダヤ人の割合は59%近く→異民族によるポーランドの経済支配と見なされ、排斥が唱えられる

483修都:2023/12/14(木) 19:26:45 ID:Wvozer8s
工藤晶人「植民地統治と人種主義」
フランス植民地の有色自由民は18世紀になると差別を受けるようになっていった→現地人と白人の結婚禁止
近代国家の建設に関わった為政者たちは、黒人や混血者の存在を危惧した。アメリカ独立宣言の起草者ジェファーソンは、混血は白色人種を汚染すると述べていた
ナポレオンの民法典は植民地を法の例外として位置づけている→白人と解放奴隷は別個の法域に属する。フランスの国籍定義は血統主義

484修都:2024/01/27(土) 17:39:17 ID:Wvozer8s
藤井崇「ローマ帝国の支配とギリシア人の世界」
ローマ支配の優越が認められるようになった前2世紀前半は、ギリシア人にとってローマ帝国の開始時期
ローマ人はギリシア人を帝国に服従する人々と軽蔑する一方、ギリシア文化への強い憧れを持ち続けた→ギリシア人側のローマ・イタリア文化の摂取は選択的
ギリシア人都市は勝ち組になるべく対立する陣営の見極めに四苦八苦しながらも、小帝国主義はパクス=ロマナ(ローマの平和)成立直前まで継続
ギリシア人は都市や共同体の神話をローマ帝国の神話と接続。ローマがギリシア人の血統を引き継ぐ共同体であると主張

485修都:2024/01/29(月) 10:42:01 ID:Wvozer8s
三津間康幸「ローマ帝国と対峙した西アジア国家」
アルシャク朝パルティアは、前3世紀半ば中央アジアの半遊牧部族連合に属したパルニ族のパルティア侵入で形成→前145年までにセレウコス朝シリアから独立→バビロニアも支配
前64年、セレウコス朝はローマの属州シリアになり滅亡→ローマとアルシャク朝が対峙
黄道十二宮の起源は約2400年前のバビロニア→ローマに影響を与える
224年、ペルシス地方のサーサーン家がアルシャク朝アルタバーン4世を敗死させた→サーサーン朝がアルシャク朝を引き継ぐ
602年、サーサーン朝はローマに対する全面戦争を開始→サーサーン朝の敗北→630年からアラビア半島のアラブ・イスラーム勢力が侵入→侵攻を止める力はサーサーン朝には残っていない
→651年、サーサーン朝滅亡

486修都:2024/01/30(火) 19:36:21 ID:M/tp9h46
池口守「古代世界の経済とローマ帝国の役割」
ローマ首都に対する穀物供給の7、8割は市場での売買に委ねられたと考えられる→定期市は農民と都市住民の間で売買を行う場
ローマ人の食習慣は、穀物が大部分を占め、獣肉や魚介類が占める割合は小さかったというのが通説。外食の習慣も古代ローマ人には一定程度根付いていた
交通では動物としてロバ、ラバ、ラクダなどが活躍した。速度を重視する場合は馬。長距離輸送の主役は海上輸送
ローマの海上覇権が交易活動の安全を保障したことで、地中海沿岸諸地域の市場が一定程度結合された可能性がある
ローマはエジプトを併合すると、プトレマイオス朝の遺産を活用してインド洋交易に乗り出した→輸出品は金貨と銀貨→インドでは溶かされて使われた。輸入品は香辛料など
ローマ政府はインド洋交易から得られる関税や通行料には関心を向けたが、交易の安全の保護は一定の水準にとどまる

487修都:2024/01/31(水) 19:20:25 ID:M/tp9h46
春田晴郎「西アジアの古代都市」
古代ペルシア語では都市にあたる語がはっきりしない。ハカーマニシュ朝の都市ペルセポリスは中心部に人口が集中せず、居住域は分散している。城壁市壁は存在しない
アレクサンドロス大王によってハカーマニシュ朝が滅亡すると都市のあり方も変化した→ギリシア都市が西アジアから中央アジアに建設される
アルシャク朝パルティア時代になると市壁で囲まれた都市が多くなる

488修都:2024/02/04(日) 17:38:16 ID:M/tp9h46
高橋亮介「ローマ帝国社会における女性と性差」
皇帝家に属さない女性たちの姿はなかなか現れないが地方都市の碑文には、都市参事会身分に属する女性についてしばしば言及されている
女性が都市公職や神官職に就く道はあるが、富と地位を誇りうる女性のみ。また、女性が自由に振る舞えたかにも疑い
属州エジプトのパピルス文書の自筆署名は男性が34%であるのに対し女性は6.7%

489修都:2024/02/05(月) 19:36:58 ID:M/tp9h46
田中創「ローマ帝国時代の文化交流」
ローマがギリシア文化に敬意を払い、模倣したことは間違いないが、ラテン語という自分たちの言語と表現を研ぎ澄ますことで、全面的にギリシア語を採用せずに済ませた
東地中海地域ではローマ帝国のもとでもギリシア語が広く用いられたが、3世紀末以降は、ラテン語や西方の文化の影響も見て取れる。帝政後期には、エジプトのパピルス文書からもラテン語
『ローマ法大全』はギリシア語が主流の帝国東部において、ラテン語で書かれた大部の専門書だった→法学教師たちが逐語訳
4世紀、キリスト教がローマ政府からの支援を受けるようになると、エジプトのパピルスから異教の神々に由来する個人名が姿を消し、キリスト教名に取って代わられる
ギリシア神話に登場する神々は大きな功績を残した人間だとなっていき、聖書の物語とも融合されていく

490修都:2024/02/06(火) 19:36:35 ID:M/tp9h46
南雲泰輔「「古代末期」の世界観」
古代世界では、征服活動によって増大した地理学的な視野と知識は、新たな知的好奇心も喚起し、さらなる軍事的拡大へ結びついた。地理学・地図製作と政治権力は密接に結びついている
ローマ人は、3世紀末までに総延長約40万キロメートルと推計される街道網を敷設し、一定区間ごとに里程標石を設置した。地理情報のカタログ化は古代末期を通じて数多く見出される
古代末期の世界観は、ギリシア・ヘレニズム時代からの継続性とローマ時代における新規性を取り込みつつ、特異な形で変容を遂げた
→街道網が組み込まれた結果、ユーラシアの東西は途切れのない世界として認識された

491修都:2024/02/07(水) 18:36:24 ID:M/tp9h46
大谷哲「内なる他者としてのキリスト教徒」
イエスが磔刑に処されてから約70年、1世紀末頃にキリスト教徒というアイデンティティがユダヤ教徒から分化しつつあった
1世紀のローマ帝国が、キリスト教徒という独立した集団を認識していたとは思えない。ローマ人がキリスト教徒という存在を認識したと確認できる最初の史料は112年秋頃、2世紀初頭
迫害は散発的で小規模だったことがわかってきている。ローマ帝国に迫害する意志はなかった。社会的少数者であったので頑迷な者達、迷信者達として認知されていた

492修都:2024/02/08(木) 19:55:56 ID:M/tp9h46
井上文則「三世紀の危機とシルクロード交易の盛衰」
3世紀、軍人皇帝時代にローマ帝国が危機に直面していたことは否定できない→軍人皇帝時代の帝国分裂、異民族の攻撃、疫病、インフレ
3世紀以後、中国でもローマと同じく分裂時代(漢の滅亡)。アルシャク朝も滅びた。3世紀のローマは、古代末期小氷期への移行期。中国でも寒冷化と乾燥化の時代
さらにシルクロード交易も不振だった。1世紀後半がシルクロード交易の最盛期→2世紀に入ると規模は縮小し始める
2世紀後半になるとローマでは疫病で空前の被害、同時期に中国でも疫病→シルクロード交易の人の移動による疫病流行
3世紀になるとサーサーン朝が東西で積極的な軍事行動に出るので、交易路の安定が損なわれる。3世紀後半には、ローマのインドとの交易量はどん底に落ち込む
→交易の不振が3世紀の危機を引き起こしている
ローマ帝国は輸入だけでなく、輸出にも関税をかけており、税額は莫大だった→シルクロード交易の衰退はローマ帝国にとって大きな損失

493修都:2024/02/10(土) 15:41:26 ID:M/tp9h46
藤井純夫「古代オリエント文明の骨格」
紀元前1万3000〜前1万年頃の西アジア、ナトゥーフ文化の段階には野生動植物の多くは主要な食料の1つとして利用されていた。小型の集落も出現、農具が用いられていた
栽培ムギや家畜が食物残滓の大半を占めるようになったのは、紀元前7500〜前6500年頃の先土器新石器時代Bの後期後半。集落の大型化・固定化加速→農耕牧畜社会
→牧畜は農耕地から放しておくため、農耕と牧畜が分離していく
紀元前6500〜前5000年頃の後期新石器時代には巨大集落が解体する一方でメソポタミアの一部が都市へと発展していった
後期新石器時代までは温暖・湿潤化で、それ以降は乾燥化。農業関連石器が主流を占める。世帯を単位とした農村社会が西アジアほぼ全域に成立。社会の階層化は進んでいない
牧畜集落は乾燥化による本村の再編によって集落を移動する遊牧となった
前5300〜前3800年頃のウバイド後期、メソポタミア南部で農業生産が飛躍的に拡大。神殿の建築も始める
前3300〜前3100年頃のウルク後期に世界最古の都市ウルクが誕生。社会の階層化も進行。世界最古の文字記録システムも発明された→楔形文字
周辺乾燥域では遊牧社会が部族制となっていた

494修都:2024/02/12(月) 20:00:02 ID:M/tp9h46
柴田大輔「古代メソポタミアにおける神々・王・市民」
古代メソポタミアのハウスホールド(世帯)は明らかな父系。単婚が主流。核家族が中心。古代メソポタミア国家はおおむね王制で、強大な中央集権国家もある
古代メソポタミアは、典型的な多神教。神殿に勤務した人々は主神に仕える家来・奴隷として働いていた
古代メソポタミア世界では神こそが国土・人民の主→王は神の委託を受けたエージェント。前2000年紀前半ごろまではエンリルが最高神。後半ごろからはマルドゥクなども最高神となった

495修都:2024/02/13(火) 19:55:52 ID:M/tp9h46
佐藤昇「古代ギリシアのポリス」
前570年頃から前200年頃までの間に、およそ1500のポリスが確認されている→世界史上最大規模の都市国家文明
前5世紀半ばまでに多くのポリスで採用された体制は、穏健寡頭政もしくは民主政
基本的にポリスの下に正当な物理的暴力行使はほぼ独占されていた。ただし、その暴力行使はかなり小規模で、実効性に疑問符
ポリスでは間接税が好まれていた。富裕者に対する直接税はポリス財政の重要な部分を占めた
いずれの神をどのように祀るかは、ポリスごとに異なっていた

496もにゃら:2024/02/14(水) 17:07:58 ID:wYxr5ygg
>>495
ポリス毎にいろいろ違ってたらしいね

アテネは男尊女卑がキツくて、クレタは緩く、不倫した時の罰則に差異があると聞いた

497修都:2024/02/14(水) 20:43:12 ID:M/tp9h46
>>496
かつてはアテネかスパルタかみたいな考え方みたいだったですが、今はその2つだけじゃなくて
それぞれをちゃんと考えようというのが研究のスタイルのようです

498修都:2024/02/14(水) 20:44:02 ID:M/tp9h46
三宅裕「西アジア新石器時代における社会システムの転換」
西アジアにおける新石器時代の始まりは完新世の始まりとほぼ一致(紀元前9600年頃)、温暖な気候が安定して続くようになる時期→定住生活への移行と農耕牧畜開始
先土器新石器時代の集落に公共建造物が存在することは特別なことではない。社会的な不平等・格差の拡大もある程度進行していた
公共建造物はPPNB後期頃になると姿を消す→土器新石器時代には小規模な集落が点在する状況に。農耕社会が成立したのに衰退ととれるような変化
→儀礼祭祀という余剰生産物や富を集積する機構が機能しなくなったことで、社会全体の生産力が低下したのでは

499修都:2024/02/15(木) 20:03:46 ID:M/tp9h46
馬場匡浩「初期国家形成期のエジプト」
ヒエラコンポリス遺跡の墓地→殉葬の慣習、身長1.2メートルのドゥワーフ人骨の存在。動物も墓主と共に埋葬されている→階層化の進行は明らか
ヒエラコンポリスでは、支配者の台頭とほぼ同時に、生産活動でも分業化が発達、従属の専従職人も階層化社会の一翼
ファラオは南のナカダ文化と北の下エジプト文化を統合する支配者。ビール生産の広がりが、ナカダ文化内の地域性消失、下エジプトの文化変容の契機となったとされる
農耕社会で、特殊狩猟集団は、名声や優位性を獲得し、動物に係わる儀礼を管掌することで宗教的威信を高め、権力を伴う社会格差へと発展。ビール生産も掌握

500修都:2024/02/16(金) 18:10:27 ID:M/tp9h46
唐橋文「シュメール都市国家における王権と祭儀」
都市国家ウルクのイナンナ女神はシュメール(現在のイラク南部)全域で崇敬され、祭儀も複数の都市で維持されていた→祭儀を中心にある種の都市連合
王朝の継続と支配の正統性をもたらす祭儀を執り行うことは王妃の役割の一つだった。王は、神の代理者として、神によって定められた秩序を維持した

501修都:2024/02/19(月) 17:56:21 ID:4qrqq.3Y
河合望「新王国時代第一八王朝のエジプト」
北のヒクソス王朝と南のクシュ王国の間に挟まれて脅威にさらされていたテーベのエジプト第一七王朝→イアフメス王の時代にヒクソス王朝を滅亡させた
→クシュ王国も直轄植民地としてエジプトを再統一。新王国時代第一八王朝の開始。潜在的な脅威は北メソポタミア・シリアのミッタニ王国
→ヒッタイトがシリアに進出し始めるとミッタニとエジプトは同盟→国際情勢安定
第一八王朝前半の国家神アメンの権威は絶対的→古王国時代の国家神太陽神ラーと習合して国家神アメン・ラーに
アメンヘテプ四世の時代にアメン神と決別、アテン神へ帰依→アメン神像の破壊。他の神々への祭祀も停止
→アクエンアテン王(アメンヘテプ四世が改名)が死ぬとアメン神信仰再開→ツタンカーメン王がアメン神復興

502修都:2024/02/20(火) 19:26:51 ID:4qrqq.3Y
山田重郎「アッシリア帝国」
イラク北部のアッシュルは紀元前14世紀まで南メソポタミアの大国の影響下にある都市国家にすぎなかった→前2025年頃、独立。前15世後半は、ミッタニ(北メソポタミア・シリア)の影響下
→ヒッタイトによってミッタニが衰えるとアッシュルが大国となった(ギリシア語訳がアッシリア)→前13世紀半ばに頂点→前12世紀末以降、遊牧集団の攻勢と飢饉で衰退
→紀元前10世紀後半から前9世紀にかけて、固有領土を回復すべく軍事遠征(先帝国期)→固有領土が2倍ほどになる。アッシリアの国土は直接統治されるアッシュルの地と朝貢国から構成される
帝国内のエスニック集団は、納税など臣民としての義務を果たすなら、個性はある程度保持され、宗教文化も容認された
アッシリア滅亡は、直接的には南のバビロニアと東のメディアの攻撃によって起こった→崩壊の要因としては、遠征の前線を遠方に広げすぎた、気候不順による不作などがあったと考えられる

503修都:2024/02/21(水) 19:19:18 ID:4qrqq.3Y
長谷川修一「ヘブライ語聖書と古代イスラエル史」
ヘブライ人という呼称を用いるのはヘブライ語聖書のみ。イスラエル人という呼称は複数の同時代史料によって確認できる
イスラエル人が遊牧民だったという記述もヘブライ語聖書だが、伝承を裏付ける史料はない。イスラエル人がエジプトにいたことを示す同時代史料も皆無
前13世紀末、イスラエルと呼ばれる集団が南レヴァントに存在したことは確認される。王国の存在を直接的に裏付ける同時代史料はない
ダビデという人物を創始者とする王朝は存在していたとは思われる。しかし、ダビデとソロモンの実在は裏付けられない
分裂前の王国の存在はわからないが、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂後の史料はある。北王国がアッシリアに滅ぼされ、住民の一部が強制移住させられたことは裏付けられる
南王国はバビロニアに滅ぼされたが、バビロンに連行されたのは王族などだけで、その他の人は諸地域に移住させられたようである

504修都:2024/02/22(木) 19:55:56 ID:4qrqq.3Y
周藤芳幸「ミケーネ宮殿社会からポリス社会へ」
前1200年前後数十年間でミケーネ時代の諸王国の中心にあった宮殿が相次いで姿を消していった。ミケーネ諸王国の規模は、ポリスと変わらないどころか地域によっては明らかに小規模
ミケーネ時代からポリスへ連続するものとして饗宴が社会的統合の手段だったことがある
ミケーネ宮殿社会とポリス社会の相違点の1つは、ポリスでは神殿と聖域、そこで定期的に開催されていた祭儀が欠かせないものだったこと

505修都:2024/02/23(金) 16:35:08 ID:4qrqq.3Y
栗原麻子「ジェンダーからみたアテナイ社会」
アテナイの政治生活は、およそ男性市民のみの閉鎖的な空間で成り立っていた。社交生活の男女分離は、古典期アテナイの特徴
アテナイ在留外国人は、市民とは別の部隊に編入させられる→アテナイ男性市民の男らしさより劣る集団とされる
妻に求められたのは、家庭の管理と嫡出子を産むこと。女性市民は家庭内ならば一定の発言力があった。宗教領域では、女性たちは、男性を経ずに声を届けることができた

506修都:2024/02/26(月) 15:25:33 ID:4qrqq.3Y
阿部拓児「アケメネス朝ペルシア帝国とギリシア人」
前540年代、アケメネス朝帝国はアナトリアを征服し、エーゲ海沿岸に住むギリシア人は帝国臣民となった→建築技師や医師としてギリシア人が活躍
ペルシア大王は、近隣地域が渦巻き状・同心円状に、それ以外の地域は放射線状に広がっていくという中心―周縁の座標軸で世界を認識していた
ペルシア大王は地上世界の統治者として、多様性にあふれる世界を構成する要素にたいし配慮した→各要素も王を支える
スパルタと対立したアテナイがペルシアに接触したことは、ペルシア大王からすれば頼ってきたことであり、その時点でアテナイは、ペルシア大王の監督する多様な世界の一員となった

507修都:2024/02/27(火) 21:12:33 ID:4qrqq.3Y
長谷川岳男「ヘレニズム時代のポリス世界」
ヘレニズム時代のポリスは大国の狭間で厳しい状況にあった。ポリスの力をはるかに超える勢力が周囲に存在した
→ポリスは血縁関係を根拠にローマのような大国を利用したり、ギリシア人に助けを求めたりした。ポリスが連盟をつくって大国に対抗する形もあった
対立を力ではなく、第3者の仲裁、裁定に委ねる行為もポリス間で行われた。ヘレニズム時代でも民会は様々な事案を決定している
ヘレニズム時代の変化として、富裕者が施与行為により指導的な立場を盤石とするものがある。ヘレニズム時代は西アジア、エジプトの莫大な富が地中海世界に流入、富を得る者が出現した
→貧富の差の拡大→富裕者たちは不満を抑えるためにも施与行為が必要だった。前2世紀後半以降は、指導者層は固定され、民会も一部の市民以外の関与が難しくなっている

508修都:2024/03/16(土) 17:47:32 ID:4qrqq.3Y
酒井啓子「リベラルな国際秩序の拡散・終焉とグローバル・サウス」
近代以降の国際秩序は、欧米諸国がルールを制定し主導的に維持するものであって、被支配側に置かれたグローバル・サウスはルール策定者の立場から外されてきた
→被支配国も国際秩序のなかに取り込まれることで、利益追求のために妥協したり利用したりする協働関係が存在。植民地性に目をつぶる被支配国内のエリート
湾岸戦争時、フサイン政権は反植民地主義、アラブ・ナショナリズムを掲げ、一定の大衆的支持を喚起した。イスラエルがパレスチナ撤退すればイラクも撤退するとしてアラブ社会の支持を得た
冷戦末期、アメリカはフサイン政権を利用していたが、冷戦後には危険視した。アメリカは反イラン勢力としてフサイン政権を支援していた
アフガニスタンでは、アメリカはソ連への対抗のため、ムジャーヒディーン勢力を支援していた→アルカーイダに発展
九・一一事件に始まった対テロ戦争は、イラクでもアフガニスタンでもアメリカにとって望ましい政権を確立することができなかった→アメリカの退潮→代替大国としての中国、ロシアへ期待
→ロシアのウクライナ侵攻後、アメリカは産油国に石油増産を要請したが、サウディは拒否、他の産油国も欧米の対ロシア政策に追随していない
60年代以降、欧米型国際秩序、世俗的国民国家建設に抗する形でイスラーム主義が展開した。パレスチナやレバノンでは国家の代わりにイスラーム主義政党が疑似国家能力を発揮
→90年代以降、自由選挙が導入されると多くの国でイスラーム主義政党が多数の議席→それもまた権威主義化し、魅力は風化しつつある
イスラーム国の登場は、欧米諸国で移民社会がいかに欧米的秩序から排除されているか、鬱屈を解消するための幻想をイスラーム国が提供し、受け皿になることを示した

509修都:2024/03/17(日) 17:19:53 ID:4qrqq.3Y
水島治郎「民主主義とポピュリズム」
ポピュリズムは民主主義的だが、反多元主義であり、自由民主主義とは両立しづらい。右派ポピュリズムの人民は、自民族。左派ポピュリズムもナショナルな枠組みを肯定
20世紀中葉までポピュリズムは南北アメリカが中心。多くは富の偏在を批判する左派系→21世紀に入ると、西欧地域におけるポピュリズムが台頭
→21世紀、穏健な左右の2大勢力が弱体化の一途をたどっている→新興のポピュリスト政党は従来の左右対立軸とは異なる主張を持ち出している

510修都:2024/03/18(月) 19:53:30 ID:4qrqq.3Y
半澤朝彦「二一世紀の国連へ」
19世紀から20世紀前半のイギリス帝国の非公式支配は、公式帝国をはるかに超えていた→ラテンアメリカのほとんどはロンドンの金融支配など。イギリスの比較優位を保証する世界体制
→国際連盟は、この世界秩序に制度的な形を与えた→イギリスの国力に陰りが見えると、機能不全に陥る→中小国が離脱しないよう、開発援助や技術協力を行う
国際連合の新しさは五大国の拒否権→連盟時代のイギリス帝国のヘゲモニーが圧倒的だった時代と違う
米ソ両陣営は、国連を利用→衛星国家的な中小国を国連に加盟させていく。国連の枠組みを利用して基地も確保していく
2000年代初頭、アメリカ絶頂期のアフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、国際的正統性の源泉として国連安保理決議を欲したがそうはならなかった
→多様なアクターが冷戦後の非公式帝国を形成している状態。もはや特定の国家が非公式帝国ではない

511修都:2024/03/19(火) 19:49:26 ID:4qrqq.3Y
栗田禎子「「アラブの春」の世界史的意義」
2011年の中東で生じた革命状況は、新自由主義に深刻な一撃を与えるほとんど最初の事例だった。エジプトは特に典型的な新自由主義だった
中東同時革命は、中東に成立した諸国がいずれも共通の矛盾を抱えており、それゆえ一カ所で起きた変革が連鎖・共振を生み出していくというものだった
中東は、新自由主義の弊害だけでなく、先進諸国が軍事介入を仕掛けてくるという局面もあった→再植民地化的状況→アラブの春は欧米の中東介入に対する異議申し立てという面もあった
チュニジアでは民主的・市民的勢力が強靭さを発揮しているが、19世紀のアラブ地域でも最初に立憲主義運動が始まったのはチュニジアで、民主化闘争の最前線となってきた歴史がある
2011年の中東革命では初期にはイスラーム主義勢力が役割を果たしていない。イスラーム主義勢力は独裁政権と支え合い、共犯関係だった
→国際的圧力から早期選挙が実施されると資金・組織面で勝るイスラーム主義勢力が勝利→革命の団結を破壊するために分断・対立が煽られる

512修都:2024/03/21(木) 19:57:20 ID:4qrqq.3Y
川島真「中国と世界」
中国は19世までは冊封朝貢関係だが、儀礼を伴わない貿易関係である互市もある→アヘン戦争後の南京条約は互市の調整なので冊封朝貢関係は維持
→日清戦争後、互市が対外関係の基礎になる。それ以降は、既存の世界秩序に対応する
江沢民、胡錦濤政権は党内民主化を推進した→習近平政権はその流れで成立しながら、党内民主化を止めた
社会主義市場経済→社会主義を大前提にして市場経済的要素を取り入れて社会主義を完全なものにする
胡錦濤はかろうじて改革開放路線を堅持し、党内民主化を推進した政権だが、保守派の台頭で「選挙」で習近平が選ばれた
→格差解消、一党独裁堅持という胡錦濤からの課題を克服する政権として期待された→胡錦濤には無かった強いリーダーシップが求められた
中国は国際連合重視を唱えながらも、西側先進国の秩序、価値を批判するようになった→批判を主としたもので、既存の秩序に代わるものは提示していない

513修都:2024/03/22(金) 19:44:11 ID:4qrqq.3Y
島田周平「アフリカの変容」
サハラ以南アフリカは80年代は経済の自由化、90年代は政治の民主化を遂げてきた→一党制の国は無くなった
アフリカの紛争では最終的な停戦には国連や欧米諸国の平和維持軍の派遣が欠かせないが、初期段階でAU(アフリカ連合)や準地域機構が一定の役割を果たしている
21世紀、海外投資流入でサハラ以南アフリカは高い経済成長率を記録した。その投資の最大の国が中国だった
→6ヶ国は対中国債務が危険水域に達しているといわれている。中国が直ちに政治的・軍事的要求を押し付けることはないと思われるが、高圧的に転じる可能性も否定できない
ジンバブウェでは白人農場が無断占拠されたとして2001年に欧米から制裁を受けたが、もともとイギリスが国土の46%強を所有する状況を維持しようとした歴史的背景がある
サハラ以南の医療関係者流出は深刻で元首や有力政治家が入院治療のために欧米やサウディアラビアに出かけることが常態化している
サハラ以南ではキリスト教徒が多いと考えられている。推計ではキリスト教徒が人口の63%、イスラーム教徒が約28%→キリスト教系新宗教が弱者たちに拡大している
2000年以降急増した土地売買の中には、伝統的土地保有権で守られてきた耕作権や居住権を奪うものもあった

514修都:2024/03/23(土) 11:04:25 ID:4qrqq.3Y
大串和雄「ラテンアメリカの模索」
20世紀後半、ラテンアメリカ諸国が採用したのは、国家主導の輸入代替工業化→80年代に経済失速。輸出志向工業化を追求したアジア諸国とは対照的に経済危機
→国際金融機関や先進国からの圧力でラテンアメリカは新自由主義の時代に→国営企業民営化、貿易の自由化、雇用保護弱体化、経済規制緩和など
ラテンアメリカ諸国は19世紀初頭に独立して共和政を選択したときから民主化が始まっている→しかし、20世紀前半になっても非民主制が併存(制限選挙、クーデター、強圧的な政権)
2000年代以降、いくつかのラテンアメリカ諸国では、民主制から非民主制への揺り戻しが見られるが先進国並みの民主制もある
60年代から70年代にかけては、キューバ革命などの影響で、ラテンアメリカ各地で急進左翼運動が伸長した→弾圧→暴力革命放棄、自由民主主義・市場経済を受容
2000年前後から、一時はラテンアメリカ諸国の半数以上が、左派政権となった→穏健派はかつての急進左翼が穏健化したものだが、急進派は新たな勢力が多い
1960年代からラテンアメリカ諸国は米国から自律的な傾向を見せている→中国はいくつかの国では最大の貿易相手。存在感を高めている

515修都:2024/03/24(日) 13:33:17 ID:4qrqq.3Y
森千香子「移民・難民」
冷戦終結以降、欧米を中心とする移民受け入れ国では治安の悪化や失業の増大などを移民のせいにする排外主義の機運が高まり、移民を厳しく管理する政策への転換が進んだ
2001年の同時多発テロ事件以来、移民は国家の安全保障上の脅威とみなされる。EU諸国はアフリカや東欧に資金を与える対価に移民・難民を取り締まる役目を課した
80年代より欧米を中心に、家事労働などに従事する労働者として国境を越える女性の姿が顕著になった→女性たちが社会進出したことの代行
→移民女性には出身国に子どもや親がおり、家族を養うために出稼ぎに来ている→途上国の家族の世話をする人がいなくなる→さらに貧しい女性を雇い面倒を見てもらうという連鎖
日本では80年代以降、性産業と結婚の枠組みで女性移民の導入が行われてきた→前者は2004年に米国国務省から人身売買と批判をうけ05年に入管法改正
強制移住者の大半を受け入れているのは低中所得国で先進国の受け入れは24%にすぎない
→しかしシリア内戦が本格化し2015年に100万人を超える人が欧州に渡ると欧州難民危機が叫ばれ、移民の排除の議論が広がる
21世紀以降、ライフスタイル移民の増加→日本でも国外移住者は89年から30年間で2.3倍に増加。移民は途上国の人間が先進国にむかってするものだけではない

516修都:2024/03/25(月) 19:39:03 ID:4qrqq.3Y
田村慶子「ジェンダーとセクシュアリティをめぐるアジアの政治」
東南アジアの伝統社会では欧米よりも女性の地位は高く、セクシュアリティの多様性も認められていた→商売に関わることは女性の仕事。一方で、女性の教育は無視されていた
中国とベトナム北部では儒教道徳によって男性による女性の支配は正当化されていた。インドのマヌ法典も同様で女性は男性に支配されていた
キリスト教会や欧米諸国がアジアに進出しても女性の地位は向上していない→ヴィクトリア王朝的性道徳にもとづく男女の理想像が持ち込まれている
→東南アジアでは近代的生活様式を取り入れるにつれて女性が公共の場から撤退していった。同性愛者は犯罪者となった
日本でも比較的穏やかであった性生活やセクシュアリティに関する風俗習慣を明治政府はヨーロッパを範として矯正した
独立を獲得したアジアでは、家父長制が採用された。若い未婚女性は単純・未熟練労働者として動員されたが、男性との賃金や昇進での差別は深刻で、税制面でも差別された
中華人民共和国では、憲法に男女平等が規定され、男女平等になった→しかし、女性労働力の評価は男性より低く、同一労働同一賃金は達成されなかった
→80年代から改革開放が始まると、女性労働者は過酷な競争に晒されリストラの対象になり、家庭内の性別役割分担も強化された
→一人っ子政策が始まると、男児を産まない妻への虐待、女児の間引きや捨て子が急増
国際社会の動きの中で80年代になって、アジア各国で女性の地位の向上が謳われる→天安門事件で失墜した信用を回復するため95年、中国で第4回国連世界女性会議が開催される
中国のジェンダー格差指数順位は下がり続けている→女性の貧困が拡大している。現在の新指導部には女性はいない。日本では、性別分業を前提とした制度と慣行が続いている
男性の発言が受け入れられやすいアジアでは、レズビアンよりもゲイの発言力の方が大きい
イスラームの道徳言説が大きな影響を与えているマレーシアやインドネシアでは、同性愛は危険な存在とみなされる傾向が強い
台湾で2019年に同性婚が合法化されたのはアジアではユニークな事例→ただし、法案成立までに賛成派と反対派が激しく対立しており、台湾でも異性愛規範は根強い

517修都:2024/03/26(火) 20:03:08 ID:4qrqq.3Y
喜多千草「コンピュータの普及とメディアの変容」
1978年、ベル電話研究所がUNIXを搭載したコンピュータ間の通信を電話回線を利用して可能にする仕組みを発表した
→カリフォルニア大学バークレー校版UNIXの完成度が高く、現在に至るまでのネットワーク用サーバの基盤的なソフトウェア設計に大きな影響を与えた
さまざまな情報通信ネットワークが存在していたが、90年代に複数のネットワークをつなぐ仕組みであるインターネットに合流していく
→コンピュータ通信を介して、情報交換しようとするユーザたちがあったからこそ、商用解禁後すみやかにインターネット利用者が拡大していった
1957年から、米国の防空システムのために量産されることになった高速コンピュータの製造を請け負ったのが、会計機製造会社のIBMだった
今日のインターネットは起源の異なる多様な機能を実現しているため、現代社会のインフラとみなされている
情報技術の導入による社会の変容を革命になぞらえることは50年代から見られ、何が革命的かという内容は時代によって変換している
かつては新聞・テレビ・雑誌が担っていたプロパガンダの器としての機能はインターネット上のメディアでも担われるようになってきた

518修都:2024/03/26(火) 20:53:01 ID:4qrqq.3Y
以上、岩波講座世界歴史全24巻まとめ終わり
お騒がせしました


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