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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

144修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/29(月) 20:14:03 ID:z68wRE6o
五野井郁夫「数になること、力になること」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 2010年代、路上の政治が戻ってきた→非民主主義国では民主主義と正義を求める運動、民主主義国では既存の政治体制に対する抵抗運動
 日本では11年以降、首相官邸前や国会正門前は象徴的な場所となった。日本各地でも駅前などでデモや抗議活動が行われるようになった→参加民主主義の実践
 デモに対してネガティブなイメージを帯びさせようとする動きもあるが、デモ側は揚げ足取りを回避している。デモを見物に来る人も多い
 00年代のデモの特徴としては、シュプレヒコールを連呼しないものやDJたちが音楽を流して抗議を行うサウンドデモなどがある
 日本のデモにも中東・北アフリカと同様、SNSなどで多様な世代と属性の人が集まるという特性がある→参加のハードルを下げている
 11年6月11日、新宿駅東口アルタ前がデモで溢れかえるという現象は、40年ぶりであった
 11年末には脱原発デモグループTwitNoNukesが『デモいこ!』を出版し、デモの仕方を説明した
 大衆行動の復活と活性化は極右勢力にも見られた→ヘイトスピーチデモに対抗する「レイシストをしばき隊」が結成された
 →数に対してさらに多くの数で対応するという戦術が採用された
 このような中で、地方自治体の各議会は反ヘイト議決等を可決し、法務省も啓発を開始し、大阪市は反ヘイトスピーチ条例を制定した。国会でもヘイトスピーチ解消法が制定された
 15年安保の際には、SEALDsが結成され、数々の著名人も発言を行うようになった→政治を語ることが当たり前になった

145修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/31(水) 17:06:10 ID:z68wRE6o
中村一成「ヘイトクライムに抗する在日コリアンたち」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 日本には人種差別を禁止する法律はなかったが、2016年5月、罰則規定はないものの対策法が成立した
 09年に起きた旧京都朝鮮第一初級学校襲撃事件は社会に溜め込まれたレイシズムが過激な形態で噴出した最悪の嚆矢だった
 →学校側は襲撃犯を刑事告訴、街宣禁止の仮処分を経て民事訴訟を提起。学校に対する襲撃は1回目はゲリラ的だったが、後の2回はネット上で告知と呼びかけがなされていた
 →学校側は街宣禁止の申請を認められていたが、差別デモは強行され、機動隊に護られながらデモは完遂された→京都市は何もしなかった
 →法的に戦うしかなかったが、果たして「日本人」ではない自分達が法的に勝てるのかという不安があった
 子どもだけでなく、事件を思い出すと感情が制御不能になる保護者や教師は何人もいた。この事件を報じたマスメディアは東京新聞など数社のみだった
 →あまりに報道がないので事件被害者が、実は大した事件ではなかったのかと思うほどだった
 「表現の自由」という言葉も繰り返されたが、マイノリティの人権を制約し我慢を強いるのが「表現の自由」なのか
 13年春以降、レイシストに対抗するカウンターが登場、国会議員もヘイトデモを問題視し、メディアもヘイトスピーチを取り上げるようになった
 →事件被害者達にとってすれば、今まで何をしていたのか、という気持ちだった。原告団は「ヘイトクライムのない社会」と「民族教育権保障」を目標にした
 →メディアは前者に傾斜して報道。京都地裁は、民族教育権はスルー。大阪高裁は、事件で民族教育を実施する社会環境が損なわれたと明記した
 →民族教育のことを見出しにとったのは地元紙のみ。この裁判では勝てたが、一方で朝鮮学校補助金廃止は各地で強行されている
 ヘイトスピーチを批判し、対応条例を提案した橋下徹は、補助金廃止を決めた人物でもあり、そういった二重基準は存在し続けている
 裁判に関する不安は大きかった。とある在日の著名人が、傍聴に来たことすらない京都の事件を持ち出して敗訴を予測するほどであった
 この裁判からの繋がりは存在し続けている。在特会メンバーによる徳島県教組襲撃事件(朝鮮学校へのカンパに在特会が反発した)も高松高裁で完全勝訴だった
 →攻撃対象が日本人でも、人種差別意識に基づき、在日朝鮮人への支援の萎縮を狙った行為は人種差別だとされた
 一方で、差別団体のメンバーが議員を目指す動きも始まり、一定の票も取っている

146ふい:2017/05/31(水) 19:53:59 ID:gc4WBSG2
ttp://bit.ly/2q4mPE6

147やぬき:2017/06/01(木) 19:23:07 ID:gc4WBSG2
ttp://bit.ly/2q4mPE6

148修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/06/21(水) 17:54:41 ID:z68wRE6o
佐原真『斧の文化史』(1994年)を読みました。
なんとなく手に取って読んでみたのですが、考古学の本だけど内容的には民俗学・文化人類学に近い本でした。
ちょうど90年代だと「近代」は必ずしもいいものではないという考えが強くなってきた時代ですけど、考古学的内容以外の部分はそういう考えに近い内容でしたね。
日本では斧はもはや使われなくなった道具ですけど、南の島やオーストラリアでは50年代頃まで石斧が使われていたそうです。そしてその石斧は単純に道具の役割だけでなく、男性の権威を示したり花嫁に贈ったりするものでもあった。
そんな社会に鉄斧が持ち込まれるわけですが、結果的にどうなったかというと、男性権威などの従来の力関係が無くなったり、犯罪が増えたりはしたようです。
ただ、それ以上に著者が重視していたのは、南の島の人々は空いた時間を何に使ったかということです。
日本なら間違いなく空いた時間ができれば別の仕事をやって、技術の発展をさらに進めようとする。でも南の島の人々は空いた時間ができたら昼寝や宴にその時間を使った。
さらに、技術の発展が原因で増えた病気や障害もあるし、自然環境の破壊も当然増えた。
そういったことを斧から考えた本でしたね。

それにしても最後の方に「高森遺跡」が出てきたのは笑った。当時は本当に誰も捏造された遺跡だと思ってなかったんだなぁ

149きくち:2017/06/22(木) 21:41:01 ID:dFQc5jgI
bit.ly/2paTTNF ←検索でまさかのあれが

150修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/04(火) 22:34:59 ID:z68wRE6o
日本古代史に関する本を色々読む限りでは、天武・持統天皇あたりから日本は「古代国家」と呼べるようになったと言えるみたいですね。
都城や律令が整ったのもこの時代、地方豪族(在地首長)に地方支配を任せていた段階から、中央から派遣された国司に地方支配を任せる段階が完成したのもこの時代のようです。
国史に地方支配を任せていたのが古代であるとするならば、天皇や将軍のもとでゆるやかにまとまっているけれど各地の荘園や領地の支配はそれぞれの領主がに担っている時代が中世。
強力な幕府が存在しているけれど、地方の支配はほぼ地方に任せるのが近世。
強力な政府から知事が派遣されるのが戦前日本(近代)で、地方に住む人々が地方の政治を担う代表者を選ぶのが戦後日本(現代)と言えるのかなぁ

151ぐん:2017/07/06(木) 22:34:52 ID:dFQc5jgI
検索 bit.ly/2paTTNF 流出?

152修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/12(水) 20:42:24 ID:rlvqw/MU
桜井英治『贈与の歴史学』を読みました。
日本は世界的にみても贈与儀礼がたくさん残っている国のようで、さらに言えばバレンタインのような新たな贈与儀礼まで増えていっている国のようです。
この本は、そんな「贈与」をテーマにして歴史を見た本です。とは言っても内容のほとんどは中世後期です。というのも中世後期というのは、贈与が最も発達した時期だったようです。
まず、話は古代から始まりますが、税というのはもともとは神仏に対する贈与だったそうです。その贈与が段々と税に変わっていったようです。これは中世も同様で、目上の人等に対する贈与が段々と税へと変わっていった事例は数多いようです。
この本の中では「贈与経済」という言葉も使われていますが、贈与されたものがどうなったかというと、さらに違うところに贈与されたり売却されたりということが多くなされていたようです。
特に室町幕府に財源不足に悩まされた幕府だったので、贈与品を修理が必要な寺社等に送る。寺社がそれを売却するという形で、幕府は一銭も使わずに国家的な機能を果たしていたようです。
また、贈与が行われる背景には宗教など色々な要素がありますが、中世日本では有徳思想というのがあったとも書かれています。
この有徳思想が何かというと話は簡単で、どの地域でもどの時代でも存在する、お金を持っている人は貧しい人や社会のためにお金を使うべきだという考え方です。
徳政令もこの考えたかたでなされていたようで、お金を持っている金貸しは貧しい人のために借金を帳消しにするべきだという考え方が普通だったのが中世日本だったようです。

153レト:2017/07/13(木) 19:35:49 ID:hElrqMRI
実際は徳政令が乱発されたら貸さなくなりそうなもんですけどね。
お歳暮のたらい回しはサザエさんなんかで見ましたが。

154修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/13(木) 22:40:18 ID:rlvqw/MU
まぁ教科書的な話で言えば、徳政令で金融業者が大打撃→そこから税をとっていた室町幕府も打撃→お金を取って徳政令を出すようになる
という流れになるわけですけど、結局金融業者にとっては打撃であることに変わりはない。
ただ、考え方として今と違ってそれでもいいじゃないかという考え方があったのだという点は重要かなと思います
もっと言えば、そんな室町幕府だったからこそ戦国時代へと進んでいくんですけどね

155修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/15(土) 13:23:14 ID:rlvqw/MU
伊勢田哲治「社会派科学哲学の復権」(『岩波講座現代2巻 ポスト冷戦時代の科学/技術』)
 科学について哲学的に考察するという営みはアリストテレス以来あるが、科学哲学が専門分野となるのは1920年代のウィーン学団以降
 ウィーン学団はかなり左翼的な政治性・実践性を備えていた→第二次大戦後、アメリカの反共主義の中でアメリカの科学哲学者たちは抑圧されていった
 →哲学者たちの支持を集めたのは非政治的な科学哲学であり、自由主義陣営に迎合することが科学哲学者に求められた。科学哲学はその後、研究の高度化、多様化、細分化が進む
 冷戦期も科学哲学と社会の接点はある→疑似科学に対する科学哲学の関与など。キリスト教原理主義者たちが進化論否定などを学校で教えることは「科学」ではないとした
 人を研究対象とした場合の倫理はどうあるべきか→七三一部隊の実験結果を利用するかどうか
 ベーニヒハウゼンは、データの科学的価値に疑いがない、引用の際はつねに倫理的非難を書く、代替的な情報源がない
 →このような条件が満たされるなら非人道的データの条件付き使用許可という選択肢もありうるとしている
 他方、ミルグラムの服従実験は現在なら許されないであろう実験だが、頻繁に言及される代表的な実験となっている
 社会科学・心理学系の研究は倫理的な配慮が難しい場合がある(心理学系の実験では事後でしか同意を得られない場合があるなど)
 現在正統的だと科学者が考えている科学は他の意見と一線を画するものなのか、それともさまざまな意見の一つに過ぎないのか
 →科学に分類できないような民間療法などが正統的な医療より求められるということはありうる→科学の限界に目を向ける役割としての科学哲学
 科学信仰もいけないが、科学というラベルを維持することは必要→科学の利点と弱点を見極める

156修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/15(土) 13:25:30 ID:rlvqw/MU
科学者達にとっては当然のことが社会では全く受けられていないというのは昔からあるし、文系・理系を問わないことでもあるんでしょうが、
なぜそれが社会に受け入れられていないのか、受け入れられないのかという分析は必要な気はしますね

157修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/16(日) 13:37:56 ID:rlvqw/MU
直江清隆(東北大学)「技術観のゆらぎと技術をめぐる倫理」
 科学技術→科学と技術はどのようにつながっているのか。科学技術という言葉は第二次世界大戦に向けた総動員体制の中で官僚によって造語された政治用語
 科学と技術はそもそも違う。ヨーロッパでは技術は奴隷や職人のものだった。技術は科学に従属していないし、技術が科学の応用とも限らない
 科学技術とイノベーションを直結させることの危険性→社会的問題を技術で解決しようとし、問題の核心に切り込まない。科学と技術が役に立つかどうかで評価されてしまう
 技術哲学の考え方:技術は人間の機能の延長→第二次大戦後、技術が人間性の外にいった→80年代、技術を人々の営みの中で考察する
 どれほど高度な技術でも人間による補完は不可欠。技術設計は人の文化の影響も受ける→技術は中立ではない。設計は様々な価値に配慮しなければならない
 →技術中心的デザインから人間中心的デザインへ
 人工物は人間の意図を前提としているが、予期せざる結果や副作用ももたらす。また、誤使用の可能性もあり、人工物は設計者の意図を超えていく
 →人工物の機能や価値が何であるかは設計者の手で定められるのではなく、使用者が参加するなかで再定義され、よりよい製品へとつながっていく
 イノベーションに光が当てられているが技術の進展は責任ある対応を必要としてきている

158修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/17(月) 18:47:35 ID:rlvqw/MU
隠岐さや香「「有用な科学」とイノベーションの概念史」
 初期近代(16〜18世紀)ではイノべーション(秩序に変化をもたらす)という言葉は否定的な意味で用いられることが多かった→既存の秩序を覆すことは問題
 18世紀末から19世紀にイノベーションは肯定的な意味を持っていく→フランス革命など政治的変動で急激な変化が否定的にみられなくなった(否定的な意味もある)
 20世紀半ばにイノベーションは技術革新の意味を帯びる。70年代以降、イノベーションは市場経済と政策の問題となっていく
 20世紀末以降になるとあらゆる領域で新たな価値を生み出し社会的に大きな変化を起こすという意味で使われるようになっていく
 21世紀的なイノベーションの現場では、理工系研究者と企業関係者が諸領域の専門家や一般市民、他の企業関係者を束ねて協働するという構図が理想とされている
 ある研究テーマや研究チームが男性的文化に浸かりすぎている状況は、ある種の視点の欠落であり、新しい発想をもたらすには不利な条件であるというのがイノベーションの観点
 →性別だけでなく、人種や階層、性的マイノリティーの視点も取り込んでいく必要があるだろう
 ただ、イノベーションは市場競争という短期的な課題が突きつけられており社会問題に長期的に取り組む姿勢からかけ離れがちな傾向がある
 →変化を減速させる必要性もある。変化を推進する人と取り残される人との分断、格差
 イノベーションは社会に絶え間ない変化を求める政策である→どの程度の変化が望ましいものであるかを考えていく必要がある

159修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/18(火) 18:43:09 ID:rlvqw/MU
綾部広則「ポスト冷戦期日本の科学技術政策」
 冷戦型科学技術体制→1970年頃には雪解けムード(デタント)で弱体化。また、反戦運動が盛り上がったことで、大学で大っぴらに軍事関連の研究を行うことは困難となった
 →国防費に依存していた大学は産業界と連携を深める。80年代半ばには軍需産業の腐敗が米国の重要課題だったが、改革は冷戦終結の90年代を俟たねばならない
 欧米諸国が冷戦に集中している間、日本は民生技術で漁夫の利を得た。80年代になると欧米の科学技術導入・改良ではなく自力で新しい科学技術をなさねばならなくなった
 90年代のバブル崩壊、冷戦終結で欧米の企業も民生技術にシフトし始める、円高、新興国台頭→国際競争へ
 大学院博士課程修了者数増加策→就職先の見込みがないのに量的拡大政策をとったため問題が発生
 90年代は研究に関して量的投資拡大策が図られたが、2000年代に入っても日本経済の活性化はみられなかった
 →巨額の研究開発費を投じてもダメならば大学や研究機関に問題があるとして改革が行われていく→最大の改革は国立大学と国立試験研究機関の法人化
 →法人化は学の官に対する隷従を強化した。効率化という名のもと、運営交付金は減らされ、目標・計画を評価されるようになった
 若手研究者は競争化の名のもと有期雇用が増加したが、雇用は不安定化し高学歴ワーキングプアとまでいわれるようになった
 こうした改革によっても、科学技術による日本経済の活性化は大きな進展をみせなかった。06年頃になるとイノベーションという言葉が盛んに用いられるようになった
 科学技術政策は科学技術イノベーション政策となったが、基本的性格は従来の政策と大きく違っていない→2000年代の改革時代からの強い連続性がある
 →この改革の連続性によって大学教員の研究時間は減少。一時的な流行を追った研究や短期的に成果が生み出される研究が増加。論文数も減少傾向
 冷戦期の科学技術体制は資本や国家とは手を結ぶが市民に対して閉鎖的であり、それが批判されていた→現在、資本や国家の主導権はむしろ強化されている
 科学技術体制は独善的で閉鎖的だという観念が、むしろ知的生産拠点の破壊と再編に手を貸してしまっている

160修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/19(水) 17:02:24 ID:rlvqw/MU
平川秀幸「科学/技術への民主的参加の条件」
 2011年3月11日以降、討論型世論調査のような先進的な民主的参加の取組みも行われたが、非民主的な対応ばかりが目立つ
 科学的根拠を必要とする問題に関する意思決定に多様な人々が参加する民主的ガバナンスはいかにして可能か、なぜ必要なのか
 専門的で、科学的・技術的な知識に基づいた判断に委ねられるべき問題であっても、専門家集団に委ねるべきではない公共的問題は存在している
 →リスクを受け入れる価値判断や利害が異なる場合がある。リスク認知には知識や理解の不足もあるが、心理的要因もある
 専門家とそれ以外の一般の人々とではリスクについての問題の捉え方、評価の仕方・基準は異なる→専門家が科学的な観点のみ主張してもコミュニケーションはとれない
 科学的判断も中立的とは限らない。科学的判断にも社会的・規範的な前提がある。測定結果も何を重要な変数として選び、何を無視するかで変わる
 現代社会において専門性は不可欠になっている一方で、妥当性をめぐる論争は絶えなくなっている→科学を用いるプロセスそのものを社会に開く専門性の民主化が必要
 学術的な専門性に加えて、多種多様な知が政策決定に動員されなければならない

161修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/20(木) 20:11:43 ID:rlvqw/MU
神里達博「日本型リスク社会」
 リスク社会→近代後期、リスクの分配に人々の関心が集まるようになった社会(それまでは富の分配が関心ごと)
 →近代化された社会が、再び近代化(克服)の対象になることがリスク社会の前提(環境問題、エネルギー危機、少子化など)
 リスクという言葉には、主体的に未来の決定に関わることで、便益を得ようとしながらも不本意にも被る不利益という意味がある
 →日本では単に危険性の意味でリスクの語が使われることが多い。主体性を前提とする概念であると意識していない
 2001年、BSE問題をきっかけとして、02年にかけて食に関する古くから存在した様々な不正や違法行為が一気に明るみに出た
 →人々は日本の食は危険になったと感じたが、リスクのレベルは上がっていない。むしろ、対策が講じられたことでリスクは下がった
 05年秋から翌年春にかけて起こった耐震偽装事件→それまで目立たなかった建築物の瑕疵が白日のもとにさらされ、審査が厳格化した
 →ただ、すでに存在する建築物の耐震性強化に関してはオーナーの対応に任せられたので、実質的な安全性の向上にはつながっていない
 BSEも耐震性も専門家が明確な判断を下すことができない問題だった→BSEは未解明な点が多い、耐震基準は大きな地震が起こるといつも覆されるし計算方法も多数存在する
 メディア、行政、専門家はこのような問題に対して適切に解説していくという機能を果たせていない
 自由・責任・リスクは一体のものである→日本では現在においても責任がどこにあるのかわからない組織が多い→責任が曖昧な場に自由はない→自由がなければリスクもない
 →日本社会は自由・責任・リスクを引き受ける傾向が薄い→自分で選択しない、行政に選択させる、行政にまかせる
 →かつてはうまくいっていたが、現代はさまざまな点でリスク社会化が進んでいるので専門家も問題解決の期待に応えられない
 →それでも、いまだに安心を行政に求める人々がいる。一方で、新自由主義のリスク社会を生きる人々もおり、1人の人間が両方の成分を持つ場合もある
 →日本型リスク社会→この社会を超えるためには、専門知に支配されてきた行政の現場に民主的な参加の仕組みを埋め込む必要がある
 現代日本社会に最も欠けているのは行政・専門家を実質的に監視・抑制する仕組み

162修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/21(金) 20:09:56 ID:rlvqw/MU
本堂毅「専門的判断の不定性」
 学術誌への掲載は内容の正しさの証明ではない。学術誌に掲載されるかどうかは、その分野の研究者間の相場感覚であって、絶対的な基準は存在しない
 →学術誌掲載を正しさの証明と捉えると、ボタンの掛け違いが生じる
 科学者は普遍性を目指すため、普遍性の邪魔になる価値に関わる問題を削り取っていく。科学という営みは、多様性をそぎ取っていく手法の集積
 しかし科学者の側が、価値判断を含む答えを科学的な答えのように語ってしまう場合はある
 2014年、STAP細胞研究の不正疑惑→再現性の有無が研究不正認定の重要なポイントとなった→ただ、科学で100%の再現性を得ることは原理的に不可能
 →再現性の有無を研究の不正の有無の評価要素とすることには無理がある。しかし、正しい科学的研究は常に再現性が伴うものだという科学観をもつ科学者は少なくない
 STAP細胞に関するさらなる問題→一般社会に向けて研究結果が確実な科学的知識であるような発表をした。科学には不確実性があるものである
 判断・意思決定の場面で確実性が高い科学的知見だけを用いることは一般に困難(例:医学など)
 現在の社会では、価値判断込み、Yes/NOで答えを求められることが多い→科学的真実に誠実な科学者ほど社会的論争となるような問題について発言を躊躇する
 →自分の信念や価値判断も科学的証拠であるかのように装う権威主義的な学者や、科学的営為の本質を理解できない科学者ばかりが社会に発言する状況
 科学技術が関わる問題で対策には確たる科学的証明が必要と主張する科学者や行政は少なくないが、どの精度で対策を取るべきかは科学自体では決まらない
 賠償問題などでも確たる科学的証拠が必要であるかは科学では決まらない→確たる証明が必要だとする科学者は、特定の価値判断に誘導している
 対策に必要な科学的証明度を100%に近づければ永遠に対策を先送りにすることが可能。「科学的に厳密」という主張は特定の価値判断に基づく主張であるとも言える

163修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/22(土) 12:35:05 ID:rlvqw/MU
加藤和人「社会における生命科学の今とこれから」
 人類自身が人類の遺伝子組成に人為的に操作を加えてよいかという問いに対し、ほとんどの専門家は否定的な意見だった
 →格段に簡便で精度も高いゲノム編集技術(遺伝子改変)が登場したことで議論が激しく行われている
 2015年9月の欧州遺伝子細胞治療学会では、生殖細胞系列の遺伝子改変を行うことに賛成する意見は過半数だった
 日本では科学研究コミュニティではなく、政府が中心となって研究の指針を定めてきた
 →欧米では研究者自身が社会的課題に取り組むという考えがあるが、日本では社会的課題に取り組むのは研究者の責務ではないと考えられている
 ゲノム編集技術に関する課題については、日本でもこれまでに比べると科学研究コミュニティが積極的に動いてきているが、生命科学コミュニティ全体の課題とはなっていない
 病気の人の遺伝子の情報を多数集めることは重要だが、現在のゲノム研究は個々別々のやり方でデータを集めているので、情報を共有することができなくなるかもしれない
 →世界中で情報を共有・利用できるようにしていこうとしている人達もいる→研究者は研究費を支給する政府でなく世界を見て、人々のために研究を進めるべき
 患者と研究者がインターネットで直接につながることができる状況→患者は研究の進捗状況や成果について知ることができる。情報の使い方について患者が選択できる
 日本以外の多くの国の希少疾患・難病の患者はすでにネットワーク作りを始めている
 →日本でも、研究者が患者主体の活動に目を向けることができるか。患者自身が自分たちのできることに積極的に取り組むことができるかが課題

164修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/23(日) 22:43:25 ID:rlvqw/MU
詫間直樹・中島秀人「科学技術の公共的意思決定と専門家の役割」
 公教育モデル:専門家が一般人の関与なしに意思決定を行う→公害などで限界がきた→公共討論モデル:市民参加型の意思決定
 知識の共生成モデル:専門家と非専門家が協力することで新たな知識を生成する
 CTA→意見を異にする複数の対抗的専門家による取り組みで意思決定を行うモデルといえるもの
 →素人市民による熟議がうまくいく条件はある程度明らかになっているが、対抗的専門家による熟議がうまくいく条件は研究が進んでいない
 公教育モデル、公共討論モデル、知識の共生成モデル、CTAのモデルそれぞれを問題の性格、国や地域の現状に応じて柔軟に選択していくべき

165修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/26(水) 22:36:36 ID:rlvqw/MU
辻本雅史『「学び」の復権』を読みました。
近代から近世の教育を見るという事はさんざんやられていますが、この本はむしろ近世から近代の教育を見てみようという視点で書かれています。
そこから近代の教育の問題点や今後どうしていくべきかを考えていこうという内容ですね。
そして分かることは、近代以前に学校というものは存在しなかったということです。手習塾(寺子屋)はありますが、これは近代の学校とはまったく違うものであって、基本的には自己学習の場だったのですね。
そこでの「教師」の役割は手本を示し、間違いあがれば修正するということであって、教えることを求められていたわけではない。これは藩校も同様だったようですね。
よくテレビとかである、手習塾で机が整然と並べられているイメージというのは完全に近代からの視点であって、机が整然と並べられていることなどは無かったようです。
そしてタイトルの意味からいうと、この自己学習「学び」の復権こそが今後重要なのではないかと主張しているようですね。
ただ大事なのは、近世の手習塾も藩校も基本的には「教師」が尊敬される人物でお手本になる人物でなければ成立しないものでした。ですから現代の学校で実行したとしても成り立たないとしています。なぜなら現代の教師は尊敬され、お手本になるような人物ばかりではないからです。
ですから著者は、生徒の側が教師を選択できるようにするべきではないかとも主張しています。
さらに言えば著者は近代の学校制度はもはや限界を迎えているとも主張しています。
その限界を迎えている学校で個性を大事にしようなどということ自体が無理なのだとも主張しています。なぜなら現代の学校は画一的で個性を伸ばすような教育を想定していないからです。
もっといえば、個性を伸ばす教育自体がどうすればいいか分からないものなんですよね。

文庫版のあとがきでは、近世の教育をよく描きすぎたとか復古的だと思われたとかということも書かれていますが、実際そういう点はあるでしょうね。
近代の学校システムが限界に来ているというのは同感ですが、だからその前に戻せばいいというのは難しいし現実的ではない。
ただ、近代の学校システムは当たり前のことなどではないし、その前の時代に行われていた教育からよい点を見つけだしていくというのは大事でしょうね

166修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/08/03(木) 23:03:30 ID:RCAef5U6
まさに今のタイミングで読むべきかなと思って、中北浩爾『自民党―「一強」の実像』を読みました。
主に細川政権以降の自民党についてかなり詳細に分析した一冊になっています。現在の自民党の入門書と言ってもいいかもしれません。

自民党というのはそもそも派閥連合政党だったようですが、それが小泉政権の時に破壊されて、今は派閥よりの右派の理念グループの方が力を持っていて、その中心がまさに安倍首相なんですよね。
そして理念が強くなっている要因として、一度政権をとられた民主党・民進党への強い対抗心があるというわけですね。
ちなみに自民党の勝利の典型的パターンというのは、低い投票率で固定票で勝つというパターンのようですが、その固定票も減ってきてはいるようです。
だからこそ、公明党とは手を切れない。公明党の組織票はポピュリストの才能が無い安倍首相らには絶対手放したくないもののようです。
逆に公明党側からしても、宗教団体が母体である以上、固定票を増やすことは難しい、信者の高齢化も進んでいるということで自民党とは手を切りたくないようです。
ちなみに、日本会議の票数は大したものではないとこの本では主張されています。
また、自民党議員にとって後援会も重要な存在ですが、これに関しては理念を地元で主張するのではなく、地元の有力者と仲良くするということをやってきたのが自民党のようですね。
そしてこの後援会があるからこそ、世襲議員も多い。なぜなら世襲議員なら後援会をそのまま引き継ぐことも可能だからです。ただ、この後援会も最近は衰退してきているようです。
地方に関していうと、地方議会では自民党が圧倒的に強いというのも重要なようで、実際一部の例外を除いて地方議会は自民党が多数を占めているところが多い。
市町村レベルになると無所属議員が多いですが、これは政党色を無くすためにそうしているだけであって、実質的には自民党系の議員が圧倒的多数を占めているようですね。
ただ、地方議員が党本部の言う事ばかり聞いているかといえば、そんなことは全く無くて、党本部の決定とは違う決定をする地方議員も数多いようです。

結論から言えば、著者は自民党の優位は簡単には覆らないとしていますが、それは当たっているでしょう。
ただ、この本が出版されたのは今年の4月で、まさかその3ヵ月後ぐらいに支持率が一気に下がるとも思っていなかったでしょうが。
まぁ結局のところ自民党はなんだかんだ上手くやってきたということなのでしょうが、固定票が今後ますます減っていったらどうなるのか?
公明党と完全に訣別したらどうなるのか?とは思いますね

167修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/08/29(火) 22:57:47 ID:0zqMLFGQ
今年は沖縄戦を部隊としたアメリカ映画もあったりしましたが、林博史『沖縄戦が問うもの』を読みました。
この本を読んで思ったのは、当時の沖縄県民が生き残れたかどうかは、誰が一緒にいたかどうかが重要だったんだなということですね。
冷静に物事を考えられる人や移民帰りの人がいれば米軍に投降して生き残ることができたけれど、日本兵などが一緒にいた場合はなかなか投降できず死亡してしまったパターンが多いようですね。
はっきり言ってしまえば非国民と呼ばれるようなことをした人の方がちゃんと生き残れたわけです。
結局、日本兵は投降を基本的に許さないし、住民から食糧を勝手に持っていくし、差別的言動は行うし、スパイ容疑をふっかけて時には処刑も行ってしまうといった行為を実際にしていたようですね。
さらに、中国戦線帰りの日本兵が、自分が中国で何をやってきたかを具体的に話したために米軍も同じようなことをしてくれるのではないかと住民が恐怖して米軍に投降しなかったということもあったようですね。
逆に、話に聞いていた「素晴らしい日本軍人」とは実態があまりに違いすぎるから早々に米軍に投降したという住民もいたようですが。
ただ、そんな日本兵の中には当然沖縄出身の日本兵もいたわけで、沖縄出身の兵士が沖縄県民に無理強いをさせたという一面もあるわけですね。
あと、住民に投降を促した日本兵もいたわけですが、そんな日本兵は上官や他の日本兵がほとんどいなくなった段階でそういうことを言い出したわけで、それはつまり個人では何を思っていようと組織の中では個人の意見なんて言えないということでもあるわけですね。
結局、当時の日本軍には一般市民を守るという発想はなく、あったのは一般市民も一緒に戦って死ぬという発想だったし、日本兵自身も生き残ることを想定せず、戦って死ぬこと優先の想定しかしていなかったことが犠牲を増やした要因だったようですね。
また、当然米軍の作戦にも問題はあったわけで、米軍の攻撃は基本的に無差別砲撃でしたから、それが無ければ当然被害はもっと減っていたわけです。

沖縄の人たちは戦時中は日本軍にひどい目に合わされて、戦後は米軍にひどい目にあわされていくわけだから、軍隊というものに反感をもつ人が多くなってもしょうがないとは思いますね

168修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/08/29(火) 22:58:59 ID:0zqMLFGQ
×米軍も同じようなことをしてくれる

○米軍も同じようなことをしてくる

169レト:2017/08/30(水) 06:18:45 ID:hElrqMRI
沖縄に関しては現在の政府の対応のぞんざいさも不信感を招いている印象があります(政党問わず)。
自分自身、今のアメリカには不信感の方が強いですし、こんな情勢とはいえ関係を優先するのは逆に危険な気がします。
正直、思いやり予算とかもいい加減見直すべきではないかと。

170修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/03(日) 22:51:35 ID:byLobR8.
保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機』を読みました。
タイトル的には結構大きな話ですが、内容的には下関戦争オンリーで、しかもイギリス側の視点を主に調べたという結構面白い視点の本でした。
下関戦争には日本と外国の全面戦争になってしまう可能性もあったのだというのが、この本の主なテーマだと思いますが、
注目すべきは戦争を避けるために幕府がいかに頑張ったかということでしょうね。最近は幕府の役割が再評価されてきていますが、実際戦争を避けるために幕府が行った外交は優秀だったと言っていいと思いますね。
逆に外国から見て嫌な存在だったのが当然攘夷派で、外国は幕府に攘夷派の取締りをずっと要求してるんですね。
しかし、幕府には攘夷派を抑えられるだけの力がなかった。それどころか朝廷まで攘夷派だったから、譲歩して横浜鎖港の要求を外国に出してたりします。
その鎖港要求もあったし、長州藩の外国船砲撃もあったしで、下関戦争は全面戦争になる可能性もあったというわけで、イギリスは仮に幕府とも戦うことになった時の為の計画もちゃんと考えていたようです。
ただ、イギリス側も下関戦争が全面戦争になるのは避けたかった。全面戦争になってもなんの利益も得られないという計算がイギリスにはあったようで、
結果的に長州藩を倒しただけで自由貿易を続けることができたのでイギリスはそれ以上の戦争を望まなかったということですね。

とりあえずこの本を読んで思ったのは、幕府や外国は実に現実的な考え方をしているということで、攘夷派の方が非現実的なんですよね。
しかし、その非現実派だったはずの攘夷派によって幕府は倒され、その攘夷派が外国と同じ砲艦外交を行っていくというのも歴史の皮肉でしょうか

171修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/23(土) 16:04:21 ID:byLobR8.
1970年に出版された上横手雅敬『日本中世政治史研究』を読んでますけど、
平将門は革命を起こそうとした人民の英雄というような評価が戦後なされていたのに対して、
将門の乱は在地勢力の紛争に過ぎない。将門と対立していた貞盛が将門を叛乱者にしていったんだという評価が既に70年ごろには出ていたんですねぇ

172修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/24(日) 10:41:34 ID:byLobR8.
上横手雅敬『日本中世政治史研究』
この本では、やはり守護・地頭が設置されたと考えられる1185年を鎌倉幕府成立の年としていますね。
まぁ、このとき設置されたのは国ごとの国地頭であって、荘園・公領ごとの荘郷地頭ではないという論争もあったようですが、
どちらにせよこの年を幕府成立の年として考えるべきだという説は既に1970年ごろには出てきていたということですな。
ただ、荘郷地頭が置かれたにしても、この地頭が置かれるのは平家方・敵方没収地であって、それ以外のところに地頭が置かれたとは考えられないということのようですが

173修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/25(月) 20:45:05 ID:byLobR8.
上横手雅敬さん(1931年生まれ)は、大学時代マルクス主義的な史的唯物論に違和感みたいなものを感じ、研究的にも無条件に武家政権を賛美すべきではないという考え方の人だったようですね。
承久の乱についての研究はなかなか面白くて、頼朝は公武融和的な考え方で3代将軍実朝はその継承者みたいなものだった。
一方で、実質的に権力を握った北条氏が自分たちの政治を成り立たせるためには御家人達の権利を保護する以外になかった。ましてや朝廷が権利の保護者となるようなことはあってはならなかった。
だから、北条氏と朝廷との融和は成り立つわけはなく、実朝の死などをきっかけとして承久の乱が起こった。しかしこの乱は後鳥羽院が前もって用意していたようなものではなかったから朝廷軍は幕府軍の敵ではなかった。
それでも、乱で滅亡したのはあくまでも後鳥羽院と一部の貴族だけで、外の貴族は影響を受けていないし、西国に地頭が設置されたのも数が増えただけで質的に変化があったわけではない。
むしろ数が増えたことで地頭の非法も増えたので、幕府は地頭の非法を抑止しなければならなかった。
鎌倉幕府は荘園制を破壊するようなことはしなかったんだという研究は面白いなと思いましたね

174P4:2017/09/30(土) 06:52:19 ID:gVk8kjHE
■お父さんが教える優しいサイエンス

2001年著なので情報的には古いけど、結構面白かった。
例えば
・水に含まれているカルキ。カルキ臭を消すためには沸騰させればいいが、沸騰させるとトリハロメタン(発がん物質)が発生するし、CO2が蒸発して清涼感が無くなる。
・軟水は含まれてるミネラル(CA/NA/MG/K)の量が少ないが、硬水はミネラルの量が多いけど下痢しやすい。
・河川や海を汚す油は、流した量を20万倍の量の水で薄めないと魚は住めなくなる。また、生活排水(N2/P)は海や河川を富栄養化して、植物プランクトンを爆発的に増加させ、水中の酸素を奪い、これまた」魚が住めなくなる。

・魚には硬い背骨を持つ「硬骨魚類(タイ・サバ)」と柔らかい背骨の「軟骨魚類(サメ・エイ)」がある。魚の生臭さは古くなり細菌が多くなったことにより発生する「トリメチルアミン」が原因で赤身魚より白身魚に多い。これは塩や酢で防げる。
・赤身魚は色素タンパク質の含有量が多く、酸素を多く体に取り入れることができ、疲れにくい。主に回遊魚(マグロ・サケ)・(クジラも持っている)。白身魚(タイ・スズキ)は疲れやすく、深い所であまり移動しない。
・背の青い赤身魚にはDHA・EPAが多く、これは血液サラサラ効果がある。頭もよくなるという噂も。

・渋柿は「ジブオール」が原因で、アルコールと温度を上げて柿に呼吸をさせてCO2と反応させることで「渋抜き」ができる。ただし80度以上の温度で熱すると再び渋柿に戻る。
・農薬を使わない栽培には「緑肥(豆と一緒に植える)」「合鴨農法(鴨を水田に放つ)」「不耕起栽培(放置する)」。化学肥料の代わりに「窒素固定細菌による豊土化」「雷によるN2の固定化」などの研究も。

この他にも「海を汚す漁法」「花粉症について」「地球温暖化」「ダイオキシン」「日本人の病気の原因について」「細胞のアポトーシスと癌」「材木について」「紫外線」「寄生虫」「免疫システム」「エイズ」「風邪・インフルエンザ」「口蹄疫」や「簡単な物理(仕事量・浮力など」「地震について」などなど書いてあります。
科学に興味のある子供にとっての入門の入門程度だけど、きっかけにはなると思います。もちろん大人が読んでも十分に面白いし暇つぶしになると思います。ただし、情報が古い(2001年著)から最新事情は自分で調べましょうw

175修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/07(土) 10:42:13 ID:byLobR8.
この本もまさに今こそ読むべきかなと思い福永文夫『日本占領史』を読みました。
文字通り、日本がアメリカに占領されていた時期のことについて論じた本なのですが、単純にアメリカに一方的に政策を押し付けられたという先入観を排し、日本本土とは違う戦後史を歩まされた沖縄のことについても触れていくという点がこの本の特徴でしょうか。

アメリカが民主化・非軍事化推進から転換して日本を反共の砦にしようとしたことは有名ですが、それも単純にそうなったわけではなく当初の路線を進めようとしたマッカーサーと政策転換・日本の再軍備化を進めようとしたアメリカ政府との対立もあったようですね。
ちなみにフィリピンとオーストラリアは日本の再軍備化に強烈に反対していたようですね。
吉田茂の自由党は最保守として見られていたようですが、吉田自身は経済優先のために再軍備化に反対し、そのために社会党の支援を求めたりもしていたようです。吉田自身は社会党が嫌いだったようですが。
ただ、公職追放から復帰してきた鳩山一郎らが自由党に戻ってくると改憲・軍備化を進めようとする勢力が同時に自由党内に存在するということになっていくわけですね。
民主党(改進党)は再軍備化には賛成だったようですが、経済政策的には資本主義を絶対視せず社会主義的な政策も必要だという考え方だったようで、芦田均は社会党を共産党の側に行かせてはいけないという考えだったようです。
そしてその社会党は右派と左派では考え方が大分違う点もあったようで、特に右派はほぼ保守という立場だったようですね。実はGHQが一番中道として期待していたのは社会党だったようです。
ただ、右派と左派は対立と分裂を何度か行い、最終的には右派の中心人物の1人だった西尾末広が民社党をつくるというところまでいきますね。
共産党に関しては政党として禁止される可能性もあったようですが、とりあえずは所感派が追放されるという形になったようですね。

あとがきで著者は、6年8ヶ月ばかりの占領で日本・日本人が駄目になったという考え方こそ自虐史観ではないかと書いているのですが、これは全くその通りだと思いますね

176P4:2017/10/10(火) 18:48:10 ID:gVk8kjHE
■筋トレが最強のソリューション(ソリューションとは解決策の事です)

ふと、本屋で見咎めて、立ち読みしていたら、内容が馬鹿馬鹿しくて笑えて楽しかったので投稿。
某漫画の「猫好きのマフィアのボス」のような作者キャラから笑ったわ。
笑えるけど本に書いてあることは多少大げさだけど、大体は合ってます。
実は昔、筋トレやっていて、同じようなことを思いました。筋トレ続けてると心が広くなるというか、妙な自信がついて、世界なんて何時でも取れるような気分になれます。

ストレスや悩みも吹き飛ぶのも合ってますし、少々のストレスやダメージなど蚊に刺されたくらいになりますw何かに悩んでいる人、鬱気味の人には医者に行くのもいいけど、この本に書いてあることを読んで実践してみてはいかがでしょうか。

ただ、スポーツするならラグビーやアメフトを・・・は無理!そこは同意できませんでしたw筋トレは体と心の薬になることは確かだと思います。無理はいけないけどね。

凄く、ラノベより読みやすい(早読みの人なら1時間ぐらいで読んでしまうだろうなあ)で笑える文章なので、お暇があったらどうぞ。なんかいっぱい同じ人の筋トレシリーズ本があるようですね。

177せき:2017/10/22(日) 18:50:55 ID:cOCjBrdw
ゾルタクスゼイアンの事はSiriに聞いてはいけない

検索してはいけないワード → bit.ly/2kJFRlx

178P4:2017/10/22(日) 21:51:32 ID:gVk8kjHE
とある本読んでいたら、勘違いに気付く。

例えば、「袖振り合うも他生の縁(絆を大切にしましょう)」を「多少の縁」とずっと思っていたり、
「ああ言えばこう言う(他人の意見を素直に聞かず、いちいち理屈をつけて言い返すこと」が実はことわざだったって事や
「南無三」は本当は「南無三宝(仏に救いを求めること)」で一か八か賭ける時の常套句だと思っていたり、
「美人薄命」は本当は「佳人薄命(美人または立派な人は幸薄く短命である)」で女性の美人以外にも使うとか、
その他に「大盤振る舞い」は「椀飯振舞」っても書くらしい。
多分まだ勘違いして使ったり覚えたりした言葉がありそうだw

あまり実生活に役立たない無駄知識だけど、話のタネにはなるね。

179なかよし:2017/10/24(火) 18:56:06 ID:cOCjBrdw
〇ウルトラマンジード
一種の胎内回帰みたいなもんか
ベリアル男だけど

検索で見られる ⇒ bit.ly/2kJFRlx

180園田英:2017/10/25(水) 00:28:43 ID:b/RTQnPw
>>178P4さん
その手のネタだと
・情けは人の為”のみ”ならず
人に情けかければ巡り巡って自分に返ってくる。
決して情けをかけて甘やかす事はその人の為にはならないと言うような意味ではない

…そしてこういう勘違いはするなはよく聞くが実際にこういう勘違いを見たことは無い
ついでにギブ&テイクでもない。見返りを期待するモンじゃないんだkら

・健全なる精神は健全なる肉体に宿れ”かし”
本来は健全なる肉体に健全ある肉体が宿れば「良いのにねえ(けど実際は)」
と言う皮肉を込めた言葉

体だけ上部で精神面がアレな人ほど好んで誤訳します

・天上天下唯我独尊
天の上にも天の下にも我(自分)というにおは唯独り。だから尊いのだ
という仏様のありがたい言葉

もう一般どころか商業でも誤訳氾濫。これが仏の言葉だと言うと
「え、仏様ってこんな恥ずかしい製革してるの(ププ)」
と反応する奴多数


後は爆笑とか破天荒とかかな

181ぺんぼー:2017/10/25(水) 22:27:22 ID:b2JT5ebk
個人的には、言葉の誤用は
誤用している人が多数派になれば
誤用じゃない認定をしてあげてもいいんじゃないかと思いますなー

極論であるのを承知で申し上げますと
言葉の変化ダメ絶対、というのは
類人猿のようにウッホウッホで話さなきゃ、というのと大して変わらない気が

でも敬語の使い方には気を付けよう!

182修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/25(水) 22:38:22 ID:byLobR8.
まぁ言葉の意味なんて100年前と今じゃ大分変わってますからね。
「正しい言葉」っていうのは絶対的なものじゃないですから

183園田英:2017/10/26(木) 00:12:55 ID:b/RTQnPw
>>181べんぼーさん
実際に誤用の方が正しい方より多数になり
正しい方が逆に誤用扱いされて駆逐されたってのもあるらしいです

自分も爆笑x笑うの更に上の表現→○”大勢で”笑う事
だと知ってもとても笑えることは爆笑と表現しますし

184うふふ:2017/10/26(木) 00:58:57 ID:w61nDR9.
「ブタもおだてりゃ木にのぼる」が諺じゃなかったと知った時の衝撃

185P4:2017/10/26(木) 02:34:14 ID:gVk8kjHE
ことわざや漢字や熟語の勉強をすると良く仏教用語に突き当たるなあ。
深い所で仏教と漢字は繋がってるのかなあ。

あと、健全なる精神は健全なる肉体に宿れかし”は元ネタはローマの詩人でしたか。
でも今は多分、健全な肉体には健全な精神が育つ的な意味で使っていいと思いますよ。

実際、体が健康的な方が性格いい人が多い気がします。病人や不健康な人で性格の良い人、気持ちいい人、爽やかな人にあまり会ったことはありませんし、まずは精神(こころ)も健康が基本。
少々お馬鹿(人に迷惑を掛ける馬鹿は除外)の方が斜めった人ひねくれ者より好かれますし、素直で正直馬鹿の方が話していて気持ちがいいものです(あくまでも持論)。
「衣食足りて礼節を知る」ってのも人間の本質(嫌な面だけど)をついてるなあって思います。

それに、体を丈夫にする体を鍛える健康を維持するってのはそれなりに辛くて苦労や努力がいるものです。それらが健康な精神の育成に結構影響を与えてる気がします。


あと「豚もおだてりゃ・・」の元ネタはアニメの「ヤッターマン」ギャグですねw

186幻獣ハンター:2017/10/29(日) 01:52:51 ID:mdR/LWI6
>>184-185
念のためですが「豚もおだてりゃ木にのぼる」はヤッターマン由来じゃないですよ。
元々地方にあった諺(というより言い回し)がヤッターマンで全国区になっただけです。
少なくとも自分はヤッターマン以前に聞いた事がありました。
しかしタイムボカン由来の「能ある豚は鼻隠す」をどういう意味ですか?と知恵袋で聴いているのも
衝撃だったがそれにもっともらしい回答(フランスの諺だと)をしている人がいて驚いた。
民明書房じゃないけど、あれ信じる人いるぞ。そして何十年か後には広辞苑に・・・
聞くなら「空からブタが降ってくる」を作詞した山本正之に聞くがよろしい。

187園田英:2017/10/29(日) 19:59:18 ID:b/RTQnPw
ジャンプならこれがあったな
汚名挽回 
キン肉マン(ガチ)
アイシル
「汚名を挽回されても困るんだがな」
「ええと…名誉返上で頑張るッス!」
「おい、誰かその猿に日本語教えてやれ」

188園田英:2017/10/29(日) 20:14:12 ID:b/RTQnPw
さて閑話休題(意訳;寄り道してるから本題戻ろう)

・人狼城の恐怖
犯人は恐らくアレ。と言うかアレしか考えられない
ただしそれを否定する展開あり

トリックの方は恐らく使うと読者に馬鹿にされるアレ…
しかし言外に「そのトリックは使用不能です」と言われてる

第一部第二部通して読むとおぼろ気に上記の問題点をどうしたか分かるが
それをやるには文字通りの”物理的障害”がある

と言うのを4部解決編で見事に解決します。いやあ壮大すぎて金田一にパクられるわけですよ
(金田一では○○を参考にしたとかありましたが)

只第一部ドイツ編、第二部フランス編で城に招かれた人物の共通点は?って謎の答えに
名探偵が「それはあまりに大きすぎて逆に盲点となった」偉そうに言った答えが

「彼らは皆ドイツ人(フランス人)だったのです」

は一寸…。それつまりドイツ(フランス)人なら誰でも良かったって事だし(実際そうだった)
日本の連続殺人モノで「被害者の共通点は全員日本人だ」とかほざいたら
かませ警察にすら「はいはい帰りましょうねえw」扱いされると思うぞ

189修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/29(日) 20:39:29 ID:byLobR8.
川添昭二『北条時宗』を読みました。
江戸時代から賞賛され、特に幕末以降はずっと賞賛され続けた時宗についての本ですね。
実際、元(モンゴル)軍を撃退した時の指導者だったわけで、その点での功績は大きいですが、時宗以降に得宗(北条氏嫡流)独裁専制体制が確立していったようですね。
あと、元の使者を無視したり切ったりしたのは元からすればめちゃくちゃだったわけで、さらにいえば元(モンゴル)軍とはいえ実質は高麗軍だったり南宋軍で士気も低かったので暴風がなかったとしても日本は勝てたんじゃないかと、この本を読んでたら思いましたね。
それにしても時宗のお兄さんの時輔かわいそう

190園田英:2017/10/30(月) 22:41:07 ID:b/RTQnPw
ああアレを忘れるとは
追記
ドイツ編ではロンギヌスの槍の探索もあり「その本質を考えなければ分からない」言われてたが
…第3部か第4部で詐欺グループの名前だけ主犯の髭親父処刑したとある小隊長さんのグチ話が載ってたが
これが一応ヒントらしかったがあれだけじゃ
「作者さん散々キリスト教作中で使ったくせに盛大にディスるなあ」としか思えないって
(前に使ったのも「先代神父はキリスト教よりも仏教が優れてるから改宗した。
それがこの修道院の最大の秘密だ!」だったが)

後「”妖精のように可憐””頼りな気なおどおど顔”…これは同じ表現です」
もどこがだ!?と突っ込みたい(とりあえず作者に表現能力が低い事は分かった)
どこぞのバッドマンとダースベイダーは似てるから誤魔化せると同レベルじゃねーか
(これの場合、聞き役が「そんな似てるの?」と問い突っ込み役が「気になるならウチでビデオ借りてください」
言ってるので分かってやってますが)

191P4:2017/11/02(木) 19:08:35 ID:gVk8kjHE
あれはヤッターマンのギャグじゃなかったんだ・・

教えてくれてありがとうございます。

192修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/03(日) 12:36:42 ID:mMM/Egmk
峰岸純夫『新田義貞』を読みました。
この本では、新田義貞は実直な東国武士が鎌倉幕府を滅ぼしてしまったために中央政界に躍り出ざるを得なくなり、足利尊氏とも対立してあっけなく死んでしまったという評価のようですね。
幕府を滅ぼしたのも、尊皇心があったとかそんな話では当然無く、北条氏先生の鎌倉幕府がいると新田家は守護になることはできなかったところに幕府の徴税の仕方に不満をもったということが大きな要因だったようですね。
面白かったのは、あまりにあっ気なく死んだので、太平記では悲劇性を盛り上げるために義貞の遺族の話を書いているというところかな

193修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/03(日) 18:05:21 ID:mMM/Egmk
井上智勝『吉田神道の四百年』という本も読みました。
明治時代まで神道界のトップに居続けた吉田家について論じた本です。
吉田家は戦国時代以降、勢力を強くしていくのですがその理由は、もののけ姫じゃないですがそれぐらいから人間が自然や宗教儀礼に手を加え出したからのようです。
というのも、人間がそういったものに手を出しても大丈夫だという理屈を考えたり神に対してお札や称号を与えたりする役割を吉田家が担っていたからのようです。
ただ、吉田家を有名氏にするために伊勢の御神体が自分達のところにやってきたということを言っていたので伊勢からは嫌われ続けていくことになるのですが。
吉田家は神をつくることも行っていたようで、秀吉も吉田家がいなければ神にはなれなかったようです。
家康に関しては仏教の説がだいぶ取り入れられてしまって吉田家としては面目を潰されたようですが、神職者を統括する役割を幕府から与えられて江戸時代においても神道界のトップにいるはずでした。
ただ、吉田家がそのような役割を担わされたことに不満をもつ神職者は伊瀬をはじめとして数多く、そのような神職者たちは吉田家の神道の考え方がいかに間違っているかを主張するようになります。
また、吉田家に対抗する存在としてかつぎされたのが白川家で、吉田家と白川家は勢力争いをはじめていきます。
吉田家が神職専門者だけを配下にしていたのに対し、白川家は神職専門ではないものまで神職者として配下にしていたようですが、吉田家も勢力争いのためにそうせざるを得なくなっていくようです。
そして近代へのつながりでいうと、幕府は仏教は統制下におくことはできたけれど実は神道に関してはそれができていない。
あくまでも神道は朝廷につながるものだった。しかも白川家が神職者をどんどん増やしたので結果的に明治時代になってから朝廷につながる神職者がすごい増えていたということになるようですね

194修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/09(土) 12:33:17 ID:mMM/Egmk
藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造』を読んでいます。まだ途中ですがなかなか面白いですね。
内容的には本能寺の変前後から始まっていますけど、まず足利義昭は信長の傀儡ではないという視点の本のようですね。
さらに言えば、義昭追放後も将軍の権威は無くなったわけではない。近年、本能寺の変は義昭と光秀が通じていたことから起こったと言われていますけど、これは妥当な見解かもしれませんね。
ちなみに光秀は農民に殺されますが、落ち武者狩りというのはむしろ勝者側が村を動員して行わせていたんだという考え方になってきているようですね。
そして義昭の権威が一気に落ちたのは賤ヶ岳の戦いのようです。というのも義昭が通じていた柴田勝家が負けてしまった。さらに義昭と通じていた毛利家が意思統一できず何も出来なかったということが大きかったようです。

話としてはここから小牧・長久手になっていくんですけど、小牧・長久手は天下分け目の戦いだったのだというのがこの本の視点のようです。
というのも、家康は軍勢的には明らかに劣っていたので色々な勢力に応援を要請していた。それに対して秀吉も色々な勢力に応援を要請した。
だから結果的には小牧・長久手の戦いは、小牧・長久手だけで戦闘が行われていたわけではなく、色々な所で家康方か秀吉方に分かれて戦っていた。
そういう意味で、天下分け目の戦いと呼ぶにふさわしい戦いだったようですね。

195修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/25(月) 21:51:23 ID:mMM/Egmk
沢山美果子『江戸の乳と子ども』を読みました。
人類が存続するためには子どもを当然育てなければいけませんが、子どもを育てるには当然乳が必要になる。
では江戸時代ではどのように乳が子どもに与えられていたのかを史料から明らかにしている一冊です。

結論から言えば、母親が母乳で子どもを育てるという考え方は実に近代的な考え方で大正時代に日本では当然の考え方になったようですね。
江戸時代では、必ずしも母親の母乳で子どもを育てていたわけではなく、乳の売買が行われていたわけです。
ただ、自分が生きていくためにお金を貰って他人の子どもに乳を与えた結果、自分の子どもを死なせていた母親というのもいたようで、それだけ江戸時代は生きていくのに大変な時代でもあったという事なんですね。

196感想下記:2017/12/30(土) 00:17:10 ID:3ILS2jFg
北欧神話と伝説 ヴィルヘルム・グレンベック 山室静 訳

神話関係が気になり北欧神話というものはどういうものかというのを上の本で勉強してみました。

北欧神話はエッダとサガというものに分かれています
エッダはオーディンとかロキとかいう日本でも割とメジャーな神様が登場するやつです
サガはいまでいうデンマークとかスウェーデンとかにいた英雄の話がメインです

サガはまったく知識がない状態で読んだのですが結構エグい話が多いです
子殺し近親相姦レイプとか当然の権利のごとく出現します
文章が緻密じゃないので淡々としていますが割とオイオイそれでいいのかと突っ込みたくなる話です

特にアレだったのがこの本の中にあったウォルスング家の物語
ウォルスング家の伝説をまとめて作ったものとのこと
ちなみにニーベルンゲンの歌もウォルスング家の伝説をもとに作ったとのことで兄弟みたいなものやろ(こなみ)

シグムンドとシグニイという男女の双子がいるのだがこいつらがヤバイ
彼らの親は王様だったのが敵国に滅ぼされシグムンド、シグニイ以外の兄弟含め親族は全部殺されちゃうのだ
そしてシグニイちゃんは敵国の王妃になる、シグムンド君は森の奥で隠れて雌伏するのだった

ただこのシグニイちゃんがやばい、敵国の王と自分の間に産んだ子供を殺しちゃったり
大好きなシグムンドお兄ちゃんのとこに変装して会いに行ってセッ○ル、子供作って育てちゃう
(ちなみに生まれた子は割と長い間シグムンドお兄ちゃんの子であるということを隠していました)

とかなり凄いキャラである、作中自分の子供を躊躇なく殺しまくっているのだがナンダコイツ!?とツッコまざるをえない
まあ敵国の王との子供だから愛情がなかったのかもしれないがいや…いくらなんでも…といいたい

ただ最期は敵国の王はシグムンドにぶっ殺されるのだがあんなに不義を重ねて憎んでいたのに
「長く連れ添ったのでそいつと一緒に死にます!」
といいはじめる…女心はわからん

またシグムンドは色々あってシグルドという子供を生むのだが
この子はニーベルンゲンの歌でいうジークに相当、ドラゴンを倒したりとつよいやつである
が、こいつの活躍が霞むぐらい強力なキャラが登場

そいつの名はブリュンヒルド!
これがまたヤバイ女である

シグルドがドラゴンを倒した後にとある城に立ち寄るのだがそこで倒れていた女性にあう
彼女の名はブリュンヒルド、オーディン神に使える戦女神だったのだが
国を勝たせる戦女神の仕事をミスって負ける予定の国を勝たせてしまった
そのせいで戦女神を首になってしまいさらに夫のいうことに従うようオーディンに決められてしまった
なので彼女は自分はすっごい勇敢な人と結婚するからいいもん!と誓いを立てていた

そこにシグルドが来たので一目惚れ、婚約してふたりはそれぞれの国に帰る(なんでそれぞれの国いったのかはよくわからん)
でそのあと色々あってブリュンヒルドはかぐや姫のごとく自分の夫選びのために無理難題を出し結婚相手を探しているのだが
そこにあらわれたのがグンナールという王族とそいつの妹のグドルンと既婚者になったシグルドなのであった(昔の約束なにそれおいしいの?)
で無理難題をシグルドに解かせてグンナールとブリュンヒルドが結婚する流れになる

結婚後のブリュンヒルドはかなり問題児で無理難題をグンナールが解いてないことが判明すると
「マジグンナールはクソ、シグルドみたいな英雄がよかったのになんでこいつと結婚するハメになったんだよ!」
みたいなこと言い出してグンナールを刺し殺そうとしたり
「グンナールには一生塩対応確定」
とか言い出したり
そうかと思えば
「自分を忘れて結婚したシグルドはマジクソ。おい、グンナールこいつを自分の親族の中に混じらせとくと害になるから殺したほうがいいよ」
などとけしかけてくる
この結果グンナールは間者をつかってシグルドを殺すのだが殺したあとにブリュンヒルドはグンナールに対して
「義兄弟になったシグルドを殺したグンナールはクソ」
とか言い出す(いやけしかけたのあんたやないかい!)
さらにさらにシグルドが火葬されるとき自分も一緒に死んで火葬されてついていくとかいいはじめる
その際にも「私と一緒に死にたい人いませんかー」などと召使いに言い出したり…

ちょっと面倒くさすぎませんかねぇ…この子
こんな個性的なキャラが出る北欧神話は面白いと思いました。
同じような名前がでてきてわかりづらかったりするとこもありますが結構サクサクと読めます。

197修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/27(土) 15:28:04 ID:6LiIbOJg
ジェンダーの歴史もちゃんと学んだほうがいいかなと思ったので『新体系日本史9 ジェンダー史』(2014年)を読み始めました。

西野悠紀子「原始社会とジェンダー」
 日本列島が大陸と陸続きであった更新世末期、食料資源の確保が第一の課題であり、役割の多様化が進んでいたかは疑問
 縄文時代になると分業意識が出現してきたとされる。人口維持のためには15歳前後から30代前半のあいだに平均8回、2年に1度の割合で出産することが必要だった
 土偶は女性の姿をしているが、集団秩序の回復・維持・発展のために女性の力が必要とされていた
 一方、男性性器の姿をした石棒は集団に侵入してくる悪を防ぐ役割があったとされている→一種の役割分担意識
 1980年代以後、古墳被葬者の性別を再検討する作業が進み、男性とされていた被葬者のなかに女性が存在することが明らかになってきた
 →前期古墳の時代までは女性首長は例外ではなかった。弥生時代後期から古墳時代前期、首長は男女を問わず存在し、性別に関わらず祭祀は首長の重要な任務だった
 古墳時代中期以降になると、女性首長の数が急速に低下する→朝鮮半島への軍の派遣。軍事、特に騎馬軍団から女性が排除されたとみられる
 日本の場合、父系で家を継承しているように見えて、事実上女系で継承するという例が古代から近代まで続く
 朝鮮半島経由で最新技術が到来すると女性の多くはそこから排除され、男女分業体制が形成されていく
 しかし、高度な技術は支配者層に独占されていたから、地方の民衆社会まで高度な生産技術から女性を排除するのには時間がかかった

198修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/28(日) 12:20:00 ID:6LiIbOJg
服藤早苗「「家」の成立とジェンダー」
 中世は長い時間をかけて、家が形成され変容していく時代。政治的地位や財産が父―男子に継承される家が成立するとジェンダー構造は差別的になっていく
 平安初期、天皇家で母方親族を外、父方親族を内とする祭祀が始まり、男性優位のジェンダーが構築される。ただ、系譜や血統意識から母系が確実に排除されるのは院政期
 平安期に理念的には父系直系皇統家筋への祖先祭祀が成立。上級貴族でも父系直系家筋が他を圧倒していく(摂関家)
 ただ、女子を媒介にした縁戚関係、女子の出産による天皇家縁戚の生成などによって家筋は安定化されており、女性の有用価値は高かった
 平安中期、農民層でも未熟ながら家父長制的家族が萌芽している。世襲的な家は未成立
 10世紀前期、貴族層ではいまだ当事者同士の意志で性愛関係が開始されていた。10世紀中頃になると両親が結婚の決定を行うようになる
 妻方同居が確実に始まるのは10世紀後半で、それまでは夫はどの妻とも別居している
 12世紀頃まで田畠は男女が均分に近く相続していた。ただし、女性は官職に就任できなかったから相続した財産を用いて経営を行うことは制限されていた
 院政期になると母の出自が問題にならなくなってくる。天皇の父である上皇が天皇家の家長として権力を掌握する父系的家父長権成立
 武士層では、基本的に男性優位相続。ただ、武家層では妻の財産は妻自身が知行した。14世紀になると嫡子単独相続が強まっていく
 院政期、公家・武家・一般民衆層まで夫優位の家父長制家族がほぼ成立
 11世紀中頃の貴族層の妻に対する3つの役割→父母の財力・家治能力・性能力。院政期、性能力は遊女・白拍子に期待されるようになり、蔑視イデオロギーも萌芽する
 農民層では、男性は年貢を生み出す田地の耕作責任負担者で、女性は私的所有性の強い屋敷畠を耕作する
 天皇は男女を問わなかったが、8世紀後期の称徳天皇を最後として女性の皇位継承は終焉する。しかし、摂関期は女性は国母(天皇の母)として政治上からは排除されていない
 貴族層では、男児には官職上昇を期待し、女児には天皇と結婚することが期待された
 10世紀後半以降、貴族層は一夫一婦制になり、同居の妻以外は妾となる。10世紀中頃には密通が成立している。妻の夫以外の男性との性関係は許容されなくなった
 10世紀以降、強姦史料もでてくる。男色史料もこの時期から。夫は多くの妻妾をもち、遊女を買い、同性との性愛も積極的に展開していた
 10世紀前後から明確に遊女が登場する
 女性老人は地主神にはなれなかった。地主神はすべて男性老人。また、鬼婆はいても鬼爺はいない→家父長制的家の成立
 老人女性には否定的なイメージの説話が多い
 10世紀以降、夫を亡くした妻は後家と呼ばれ出家することもあるが、男性が妻死後に出家したりするようなことはない
 商業では、決して男女が対等ではなかったが、他の社会よりは女性も経営権を得ることが出来た
 漢字は男手とされ、仮名は女手とされた→仮名は考え感じたことを理論化しそのまま文章表現できることができた→女性による平安文学
 鎌倉後期、女性作家による文芸作品は姿を消した→公的な場からの女性たちの退場を象徴
 女性による芸能は買売春と深く関わり残っていかなかった。田楽・猿楽が能として男性の伝統芸能として現代まで残っているのとは対照的

199修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/29(月) 19:26:49 ID:6LiIbOJg
大口勇次郎「近世のジェンダー」
 近世の女性は、古代・中世と比べて、歴史の表舞台に立つことが少ない
 近世は秀吉の軍事的な全国制覇から始まったが、武家の家督は男性が独占し、武士がつかさどる政治の分野から女性は排除された
 一方で、庶民の家が成立した近世では、家の経営が重視され、女性も経営に参与するために経済性・合理性を身につけることが必要だった
 近世農家の女性の地位は低かった。女性が家督を継ぐことは無かった。男性がいなくなり女性が当主になっても前当主の男性との関係が帳面に記された

200修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/30(火) 17:25:04 ID:6LiIbOJg
大口勇次郎「幕末のジェンダー」
 江戸後期、豪農の息子は遊学の機会を与えられ、娘は奉公に出された後近隣の農家に嫁がされた。女性は寺子屋で学んだ後、学ぶ道は閉ざされていた
 お蔭詣りでは、女たちも家の縛りを振りほどいて伊勢へ向かっている。女性の男装は処罰の対象だったが、お蔭踊りでは男女の衣装の交換が行われている
 戊辰戦争において少なからぬ役割を果たしたのが和宮など江戸城大奥の女性たちだった。和宮は京都との接触をはかることに力をつくしている
 出島に住む外国人商館員が相手にできる女性は遊女か、遊女の鑑札を受けた名付遊女(一般女性を遊女ということにする)に制限されていた
 →出生した子どもは性別に関わりなく日本人になり出国することは許されない。家族を形成することは許されなかった
 開国後、外国人居留地がつくられると遊郭が設けられた。要求すれば居留地でも名付遊女が派遣された
 外国から要求されると幕府は、妻子の本国連れ帰りを自由とした
 1872年、マリア・ルス号事件。日本が、横浜に入港したペルーのマリア・ルス号の船長を奴隷売買の罪で有罪とした
 →イギリス人弁護士は、遊女も人身売買であって日本が奴隷売買を告発することは出来ないと主張
 →政府は解放令を出している。一時的に売春宿廃業。しかし、女性本人が契約しているという体裁をとることで売春業を存続させた

201修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/31(水) 17:06:11 ID:6LiIbOJg
成田龍一「総力戦とジェンダー」
 20世紀、平塚らいてうなど、男性社会へ挑戦する新しい女の登場→男性たちは揶揄・誹謗、中傷した
 婦人参政権獲得要求の議論は、男性による普通選挙運動の高揚のなかで起ってくる
 20世紀初頭、女性向けの雑誌が刊行される→新中間層家族・核家族向け。女性側がどのような男性を望むかということも記事になる
 →男性も意思を持つ女性を求めるようになる。女性は自らを認め、家庭を重んじる男性を求めた→恋愛の賞揚。男性の側でも自己改革が生み出された→家父長制の拒絶
 20世紀初頭、消費社会形成→男性は生産、女性は消費→性別役割分担
 1936年、安倍定事件→男性を思い続ける女性愛を阿部にみようとしたところに男性の欲望が投影されている
 総力戦体制下になっていくと女性の動員も実施され、女性の側もそれに積極的に呼応した。総力戦体制では下位におかれているものを上位にあげるという幻想が振りまかれる
 →左派の女性たちも積極的に参加。反資本主義・反共産主義で社会民主主義とも違う路線。国家への貢献、国家社会主義
 戦闘は男性、銃後は女性という役割分担。女性は男性の論理に参加すること、男性に従うことが求められた→ジェンダー秩序はかわっていない
 戦闘に直面した女性は、従軍看護婦、従軍慰安婦、従軍作家
 敗戦後の引き揚げの経験→日本人が被害者として自らの経験を語るようになる。一方で、夫不在の植民地で敗戦を迎えた女性の解放感もあった
 敗戦後、平和の担い手として女性が利用される→女性が利用されるという点では戦時と戦後はかわらない
 戦後の女性雑誌の特徴→女性が男性を論じる。しかし、ジェンダー秩序を変更することはできていない。性別役割分担も問題化されていない
 占領期、日本政府によって特殊慰安施設協会(RAA)が設置される→占領軍向け慰安婦

202修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/02/01(木) 17:09:28 ID:6LiIbOJg
吉澤夏子「消費社会とジェンダー」
 1955年以降、日本の前近代的な風景は急速に消えつつあった。60年代の高度経済成長期、日本人は単純な価値観を共有していた
 →経済成長がいつまでも続き、子どもたちのほうが楽で豊かな生活を享受できる。男性は社員として、女性は主婦として働き、家族をつくることが当たり前
 →近代家族の成立。情緒的絆を基盤とする性別役割分業のシステム。主婦の大衆化、核家族化
 ロマンティック・ラヴ・イデオロギー→女性は一生に一度愛する人とめぐりあう。女性の幸福は結婚して母となること→女性たちは男なみの生き方を理想としなかった
 戦後の家族は、家族というものは、こういうふうでなくてはならないという枠を押しつけた。家族の戦後体制(落合恵美子)
 しかし、主婦になることに抗う動きもあった。55年から65年の10年間で大学へ進学する女性は2倍半に増加した
 →しかし、女子労働を補助労働としてのみ必要とする日本経済、根強い男尊女卑思想が存在し、女性が進学や就職を望んだとしても阻まれた
 純潔主義→女性は結婚するまでは処女でいなければならない→女性にだけ厳しい性規範。60年代までは性=隠微なものというメッセージが伝えられた→純潔主義の肯定
 →69年から71年にかけて、処女喪失の物語として女性の意思が重要視されるようになる→処女をいつどのように捨てるのかが関心事となった
 →処女は守るものから、自分の意志で捨てるものとなった。処女性という価値に関心が失われた。70年代前半、ロマンティック・ラヴ・イデオロギー崩壊の兆し
 ウーマン・リブ運動は、男社会にまともに受け入れられず、からかいや揶揄の対象となった
 連合赤軍の男たちは、かわいい女を求め評価する一方、女らしい振舞いを瑣末でくだらない少女趣味だと糾弾した
 →連合赤軍の女性のなかで唯一、男社会の論理の側に立ち、総括に加担した永田洋子。永田の心の葛藤は、当時の女性の状況の反映だった
 ウーマン・リブ運動は賛否両論の意見を呼び起こしたが、あからさまな性差別的言動は差し控えるべきだという社会的な了解がえられる程度にまでは主張の正当性が認められた
 80年代には、多くの女性たちに主婦という役割に枠づけられることへの不満が芽生えた。子どもたちの社会問題の原因はすべて母親にあるという議論が当時あった
 77年、テレビドラマ「岸辺のアルバム」→壊れるはずがないと信じてきた家族がいとも簡単に崩れ去っていく姿。近代家族の抱える矛盾はすでに隠しようもなかった
 →ドラマの母親はなぜ不倫をしたか→家族は誰も彼女をみていなかったが、不倫相手は彼女を1人の女性としてみていたという簡単な理由
 →主婦の日常には誰かとまともな会話をする機会すらほとんどないという事実を明らかにした→主婦の日常が幸福だとは思われなくなった
 ドラマでの父と娘の価値観のずれ→レイプされ妊娠中絶し負け組の高校教師と付き合う娘を批判する父と、自分はこれで幸せだと主張する娘
 77年に創刊した『クロワッサン』は近代家族向けに創刊されたがまったく売れず、翌年モデルチェンジし、女の自立をテーマにするようになると支持をえた
 →『クロワッサン』は専業主婦が外に出ることの罪悪感を払拭した。主婦となった団塊世代の女性たちに考えなおすきっかけをあたえた

203修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/02/01(木) 17:10:09 ID:6LiIbOJg
吉澤夏子「消費社会とジェンダー(続)」
 86年、男女雇用機会均等法が施行されるが、近代家族を単位とする社会制度に固執し、性別役割分担の規範を維持しようとする力は依然として強かった
 88年、アグネス論争→職場に託児所を求めるアグネスと子どもを連れて仕事に行くのは恵まれた女性の甘えだとする林真理子
 →母親の権利を要求するアグネスと男社会を肯定する林という対立構図としてとらえられたが、むしろアグネスの言動の方が男性優位社会を前提にしている
 →林が問題にしたのは、アグネスの子連れ出勤を美化し、祭りあげ権威づけようとした社会の仕組み。女性のなかにも優位に立つもの、劣位にあるものという差別がある
 95年以降、それまでに比べると人びとは結婚しなくなり、子どもを産まなくなった。典型的な近代家族を営もうとする時代は過ぎ去り、結婚が女性の幸福だとは思わなくなった
 現代社会では、主婦は強制されてなるもの、屈辱と忍耐のなかで家事労働をするものと考える女性たちはどれくらいいるか
 →みずから選択して主婦となるのだとみなし、選択の結果に責任をおうべきと考えているのでは。現代社会において、主婦になることは1つの選択肢である
 性の商品化は男性による性的搾取、性差別の現象として告発されてきた。しかし、現代の性の商品化で他者の強要は介在しない
 →お金という空疎な実体を介在させて、交感の対等な相手として承認されている。そこで承認されているのは女性としての価値
 →性の商品化に身をおくという選択的な行為によってはじめて私が私であることができるという現代社会
 現代社会では、ロマンティック・ラヴは虚構として理想化されている。現実にできない純愛を虚構で代替している
 あえて専業主婦を選ぶのは、主婦になることが幸福であるという神話を虚構と知りつつ、それでもなお、その虚構に賭ける生き方を選択することを意味している
 2004年、負け犬論争→30代、未婚、子なしの女性が負け犬だとみなす伝統的な価値観があるということを認識したうえで、みずから選択した生き方を肯定する

204Q5:2018/02/15(木) 17:51:46 ID:gVk8kjHE
健康に関する本を読んで、気になった事をふたつ。

・免疫力をつけるには、体を温めること。シャワーよりゆっくり湯船に浸かる事。(自分は風呂派なので大丈夫。)
・芋は熱すると発がん物質を生じる。ファストフード店のフライドポテトを食べるときは癌になる覚悟をして食べろ。(ヒエー!俺毎日、芋を熱して食べてるぞー、まあ、フライドポテトは食べてな・・ポテトチップも駄目なのかなあ。)

と言うことで、芋(低コストで調理しやすいからいっぱい買ってる)はどうすりゃいいのよ!w

205修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/03/20(火) 08:39:56 ID:jYkYEvMY
松永久秀の実像に迫る本が出るようですね

ttp://www.heibonsha.co.jp/book/b356715.html

206修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/07(土) 15:42:56 ID:u3TFDYPk
朝鮮半島が大きく動きそうな気配もありますが、2011年の「韓国併合」100年に出されていた『「韓国併合」100年を問う』を読んでみようと思いました。

宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために」
 儒教モデル:儒教=朱子学を理念として掲げ、理念の実現を目指す国家、社会体制(科挙)→東アジアの諸国家は儒教モデルの受容を推進したが、日本のみが同調しなかった
 徳川期の儒者たちは、日本は封建制の社会であるととらえ、郡県制である同時代の中国より理想的な社会であると認識していた
 →しかし日本の儒者たちは、中国や朝鮮の政治体制が儒教モデルであったということには無関心だった
 明治維新以降、儒教は克服されるものとなり、脱亜が目指された→儒教は遅れたものとみなされた
 戦後日本歴史学の日本封建制論:日本は西欧的な封建制であり、だから近代化が可能だったという説。儒教は後進性を象徴するものとされた
 →いまだに儒教は遅れたものだとする考えもあるが、それを克服しようとする動きもある


儒教の評価は色々とありますが、実は近代的な考え方と変わらない要素があるということは言われるようになってきてますね。
まぁこの考え方も「近代」を評価基準にしてしまっていますが、儒教が本当に遅れたものなのか?という問いは必要でしょうね

207修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/08(日) 12:20:08 ID:u3TFDYPk
小川原宏幸「伊藤博文の韓国統治と朝鮮社会」
 伊藤博文の韓国併合構想は、自治植民地に類似した形式で韓国を日本に編入しようとするもの
 伊藤が韓国の漸進的併合構想を選んだのは、日本財政の負担とならないよう韓国の財政自立を優先したから。また、支配の同意を朝鮮社会から得ようとしていた
 伊藤は、支配の同意を近代文明化を推し進め、韓国皇帝の権威を利用することで獲得しようとした
 都市知識人を中心に行われた韓国の愛国啓蒙運動は日本の侵略に妥協的な側面をもっていた→最たるものが一進会。伊藤の唱える自治論に取り込まれた
 義兵闘争はそうではなかった。義兵闘争の反日の論理は、儒教的文明観→忠愛と信義を果たさない日本を批判する→伊藤は義兵闘争には武力弾圧
 義兵闘争は、韓国皇帝からの使節にも反日義兵闘争を呼びかけた→義兵は皇帝に政治的正当性を認めつつも、義兵こそが社会正義を代弁しているとしていた
 民衆の反発も義兵に共鳴・合流。ただ、民衆の反日運動は生活防衛的な動機→生活基盤を破壊するものとして日本の支配が実感されると抵抗感が強まる
 伊藤による韓国皇帝南北巡幸→愛国啓蒙団体の幹部クラスは、伊藤の民心帰服策に取り込まれた→しかし、朝鮮社会に影響を与えることはなかった
 →巡幸は日常生活を営む民衆にとっては迷惑な出来事でもあった。また、皇帝存続の危機を招来するものと理解する民衆も多くいた
 →皇帝権威を利用しようとする伊藤の意図は、裏目に出た→皇帝が日本に利用されていることが可視化された

208修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/09(月) 18:58:16 ID:u3TFDYPk
趙景達「武断政治と朝鮮民衆」
 武断政治は、絶大な権力を誇る総督と厳烈な憲兵警察によって、苛酷に遂行された。総督は、軍事・司法・行政・立法を掌握
 警察署長や憲兵隊長は、微罪については刑罰を即決する裁判業務を担っていた
 王朝時代は、移住や流浪、訴願はありふれていた→武断政治下では禁止・制限された
 憲兵は恐怖の対象ではあったが、官僚・両班支配に喘いでいた民衆にとっては、秩序維持の象徴でもあった
 農民は規律化を強いる総督府に苦しめられたが、直接的には、重税と賦役の負担となって襲いかかった
 王朝時代は温情主義も機能していたが、総督府は個人的事情を考慮しない徴税システムを持ち込んだ
 社会は訴訟文化に代わったが、朝鮮人と日本人の間で公平な裁判が行われたかは疑わしい→異議申し立ての文化を否定された朝鮮民衆→三・一運動で爆発

209修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/10(火) 18:47:41 ID:u3TFDYPk
岡本真希子「植民地期の政治史を描く視角について」
 植民地政権と接触をもち、参加・参入をした人々→官僚になるという選択肢。朝鮮では朝鮮人官僚がいたが、台湾では台湾人はほとんど採用されなかった
 →台湾では、エリートたちは弁護士や医師になった
 議員になるという選択肢→これも台湾ではほぼ不可能。朝鮮では、なれる人となれない人との間に亀裂
 戦時期、朝鮮人の権利・義務関係の平等化、処遇改善が行われたが、この恩恵に浴したのは、農民たちではない
 →朝鮮総督府・本国政府は下からの突き上げに対して応答を試みたが、その相手は多大な犠牲を払う農民たちではなかった→朝鮮人間の亀裂を深める

210修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/11(水) 18:55:34 ID:u3TFDYPk
須田努「江戸時代 民衆の朝鮮・朝鮮人観」
 朝鮮通信使は、大坂・京都に立ち寄ることが決められており、大坂・京都では異国人に対する関心が高まっていた→近松門左衛門などによる朝鮮を題材とした浄瑠璃作品
 近松の『本朝三国志』→日本の武将たちの圧倒的な武力、残虐さ。従属する朝鮮王と殺されていく朝鮮王の家臣
 →征服された朝鮮、日本に服属した朝鮮王という歴史認識、朝鮮観
 18世紀後半期、日本に滅ぼされ、恨みを持つ朝鮮人という話がテンプレートになる(天竺徳兵衛というキャラクター)

211修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/12(木) 18:54:38 ID:u3TFDYPk
山田昭次「今日における関東大震災時朝鮮人虐殺の国家責任と民衆責任」
 1923年9月1日、関東大震災。夕方には早くも警察官が朝鮮人暴動の誤認情報を流している→内務省警保局長後藤文夫が、朝鮮人が暴動を起こしたと認定(9月2日?)
 →誤認情報の信憑性が強められた
 9月5日、官憲は朝鮮人暴動の確証を全くもっていなかったが、誤認を認めれば国家責任になる→証拠が発見できなければ、捏造も辞さない方針に
 10月2日、司法省は一部の朝鮮人の暴動の存在を主張→しかし、調査書には名前すら不明の者が書かれ、軽犯罪ばかりである
 朝鮮人を虐殺した者の検挙方針→虐殺は誤認情報によるものだから、厳しく検挙しない。警察署にいた朝鮮人を襲撃したものは厳しく検挙する
 裁判では、執行猶予になった者が多い。最高の刑罰でも懲役3年余。一方で、警察署を襲撃した者、日本人を誤殺した者で最高の刑罰は懲役5年以上で実刑率も高かった

212修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/13(金) 18:45:41 ID:u3TFDYPk
板垣竜太「日韓会談反対運動と植民地支配責任論」
 日朝協会の日韓会談反対運動→日韓台軍事同盟結成反対というもので大衆的な運動にはほど遠い
 安保国民会議が日韓会談粉砕を掲げたのは1962年3月→日韓会談を日米新安保の一環と位置づけた
 日本朝鮮研究所(朝研)発足→寺尾五郎は、日朝協会などの運動は朝鮮総連の考えが強すぎることから朝研をつくった
 寺尾は、日本人の手による日本人の立場での日朝友好を目指した
 朝研は、日韓会談を日・韓・台軍事同盟をつくるための仕上げだと位置づけ、日本が韓国に経済進出すると日本国民の首切り・賃下げが進むとした
 朝研は、日本と朝鮮の関係のあと始末をきれいにする必要性も説いた→植民地支配責任論

213修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/15(日) 22:40:21 ID:u3TFDYPk
池内敏『竹島』を読みました。竹島に関する日韓両国の主張を歴史学的に考察している一冊です。

まず、韓国が主張する「歴史的文献に現れる于山島は竹島である」という主張が成り立たないことを実証し、それを根拠にして竹島が韓国領であると主張することはできないとしています。
次に、日本が主張する「17世紀なかばには竹島の領有権を確立していた」とする主張も成り立たないことを実証しています。寛永2年(1625)の竹島渡海免許は鬱陵島への渡海免許でしかないからです。
さらにいえば、元禄竹島渡海禁止令(1696年)で、竹島(鬱陵島)渡海の歴史は一旦幕を閉じています。
もっといえば、明治10年の太政官の指示では、竹島は日本の版図外であるとされています。
江戸時代の地図を使って竹島が日本領であることを説明しようとする意見もありますが、地図はあくまでも補助史料であり、地図を使って竹島が日本領であったかどうかなどを説明することはできないと明言もされています。
1905年に竹島が日本領に編入されると、竹島経営は鬱陵島の日本人漁業者の一部が独占しました。そして日本人に雇用された朝鮮人が実際に竹島へ行って漁業活動を行っていたようです。
戦後、鬱陵島の日本人が日本へ引き揚げると、鬱陵島の朝鮮人が主体的に竹島へ行くようになったという流れがあるようです。
戦後、一旦竹島は日本の操業区域から除外されますが、サンフランシスコ条約で除外は無くなります。
しかし、韓国は占領維持を開始して日韓両政府は議論を棚上げしたまま現在に至るということのようです。

著者の池田さんは、竹島に関する日韓両国の前近代史部分の主張は意味が無いものであり、重要なのは1895年から1905年までの約10年間だけだとしています。
実は、当時の日本政府も竹島は韓国領かもしれないと考えていたが、日露戦争・韓国植民地化を進めていく中で竹島の編入を一方的に行った。その点が重要であり、それをどう考えるのかということが竹島問題にとって重要なことなのでしょう。

214修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/15(日) 22:46:28 ID:u3TFDYPk
一番上の部分が若干分かりにくくなっているかもしれないので補足。
于山島を根拠にして竹島が韓国領であると主張することはできないという意味であって、
于山島を否定すれば韓国の主張を全て否定できるということではないです。

215修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/23(土) 16:40:49 ID:/XJTTU3k
朝鮮半島が色々と動いているので国立歴史民俗博物館編『「韓国併合」100年を問う』を読んでいる。気になった論文をちょっとまとめてみる。

具仙姫「1880〜90年代における朝清朝貢関係の性格」
 朝鮮が日本と締結した日朝修好条約(江華島条約)は、表面的には独立国同士で結ばれる条約だった
 →伝統的に受け継がれてきた朝鮮と清の朝貢関係、日本との近代国際法的関係という性格の異なる国際関係が併存
 1882年8月、朝清商民水陸貿易章程→前文で朝鮮が清の属邦であることを明文化。朝鮮は、単に朝貢関係の再確認だと考えていた
 →しかし清の李鴻章は、伝統的朝貢関係の属邦概念を、近代の属国概念へと変質させようとしていた
 朝清商民水陸貿易章程は不平等条約→朝鮮の市場は外国の商人に解放。清の船が朝鮮の港を警備・防衛するなど→朝鮮と清の伝統的朝貢関係は実質的に瓦解
 清と日本はロシアの南下を危惧していた→日本の井上馨は、ソウルに駐在する清の代表として有能な人物を要求→1885年10月、袁世凱を派遣
 袁世凱は朝鮮に対し、清との関係を以前のように維持すれば富国自強できるが、そむけば滅びると言った
 朝鮮に対する清の圧迫が強まると、朝鮮政府は反清政策を推進→朝鮮政府は袁世凱の召還を李鴻章に要請
 →朝鮮の高宗は、李鴻章は伝来的な朝貢体制のもとで朝鮮政策を推進し、袁世凱は李鴻章の朝鮮政策にそむいていると誤認していた
 1890年、朝鮮の大王大妃死去の際、清の勅使を拒絶しようとしたが清の強圧で失敗に終わる
 清は朝鮮が清以外の国から募債することを阻止、清が直接朝鮮に借款を貸与した→朝鮮は清への経済的隷属状態に→清のやり方は近代植民地のやり方
 清は朝貢関係で貫徹していた属邦関係を利用して朝鮮を近代国際法的な属国にしようとしていた。日本は属邦問題を取り上げた→日清戦争のきっかけ
 日清戦争後、朝鮮を近代植民地にしようとした清に対して朝鮮は、対等なレベルでの条約締結を要求→1899年、清と対等に韓清通商条約を締結
 日清講和条約で朝鮮と清の朝貢関係が撤廃されたというのは、清と日本の間でのはなし。朝鮮からすれば、1882年の朝清商民水陸貿易章程で朝貢関係は瓦解している
 朝鮮と清の対等関係が実現したのも日清講和条約ではなく1899年の韓清通商条

朝貢関係での属邦と近代的な属国は違うというのは最近では色々な本でも出てきているけれど、ここを理解できていないと近代以降期の外交関係はトンチンカンになっちゃうんだよね

216修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/24(日) 12:19:15 ID:/XJTTU3k
松尾尊兊「大日本主義か小日本主義か」
 韓国併合直後の大正政変期に小日本主義は顕在化する→日露戦争後の経済不況の中で帝国主義の放棄を主張→第一次世界大戦がおこったことで、小日本主義はおさまっていった
 原敬首相は朝鮮議会の設置を排除し、内地延長主義をとった→日本本土同様な制度を布くことで同化を行う→一方で朝鮮総督府内部から朝鮮議会設置構想が主張される
 →構想された朝鮮議会は自治機関ではなく、新たな日本の統治機関にすぎなかったが、それでもまともに議論されなかった
 『東洋経済』の石橋湛山は、一切の植民地と勢力範囲の放棄を主張していた→大日本主義による支配は日本経済に貢献しない、むしろ戦争を招くおそれがあると主張
 →早く捨てる方が、被圧迫民族の支持が集まり、経済・国防の安全が確保されるとも主張していた
 三浦銕太郎は、韓国併合を日本の罪悪と認め、朝鮮独立の意義を強調

今回の銀英伝じゃないですが、占領地域の支配を行うにはそれだけ経済や資源が必要になるわけで、
むやみやたらに拡大していくのは危険なんですよね

217修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/25(月) 18:42:02 ID:/XJTTU3k
内海愛子「日本は植民地支配をどう清算したのか」
 2010年に成立したシベリア特措法案では、シベリアに抑留された韓国人たちは給付金支給から排除されている
 1948年12月、生き残った朝鮮人シベリア抑留者2300人(シベリアに抑留されていた朝鮮人は7700〜1万人と推定されている)は北朝鮮に送還された
 →そこからさらに38度線をこえて南に戻った人は約500人→韓国ではスパイと疑われ拷問を受けた者もいた
 東京裁判で植民地支配の責任は問われなかった。BC級戦犯裁判では戦犯になった朝鮮人(148人)もいたが、日本の援護措置からは排除されてきた
 捕虜収容所の事務、監視などの業務は朝鮮人が担っていた→BC級戦犯裁判では、捕虜虐待が徹底的に追及された
 →BC級戦犯になった朝鮮人はスガモプリズンに送られたが、ほとんどの人はそれが初めての日本であり、釈放で見ず知らずの地に放り出された
 戦犯になった朝鮮人や遺族たちは韓国でも親日派と罵倒されてきた。韓国政府が戦犯も被害者だと認定したのは2006年

218修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/27(水) 18:39:29 ID:/XJTTU3k
永原陽子「「韓国併合」と同時代の世界、そして現代」
 日本による韓国併合は、世界史上で、新たに植民地を獲得したという意味でほぼ最後。先に植民地支配を開始していた国々は、このころ体制の方向転換を模索し始めていた
 →イギリスは、南アフリカ連邦、オーストラリアやニュージーランドなどを一定程度自立した領域として切り離した
 第一次世界大戦後、ドイツとオスマン帝国の領土は国際連盟の委任統治下におかれた→列強の植民地支配とは異なる理念を掲げた
 →住民の福祉を理念として掲げ、個別の国が自らの意のままに支配するわけにはいかなくなった
 世界的な植民地体制は福祉や開発を打ち出したが、抵抗を予防するための方策は精巧になった→南アフリカではアパルトヘイト
 敗戦で植民地を失った日本では、植民地支配の問題が視野に入らざるを得なかったが、ヨーロッパでは植民地独立は喪失と被害の経験として記憶された
 →植民地支配が文明化・近代化をもたらしたとする認識は一般的だった→90年代以降、アフリカ諸国やアフリカ系住民から植民地支配の責任を問う声があげられるようになった
 2001年、ダーバン会議→植民地支配を断罪しようとする国々と、欧米諸国との間で激しい応酬(アメリカの代表は会議をボイコット)
 →宣言文書は奴隷貿易・奴隷制を人道に対する罪と認め、植民地主義に遺憾の意を表明した
 ナミビアの人々の声を受けて、ドイツは2004年、ドイツ帝国が行ったことはジェノサイドにあたると認め、謝罪した。07年、補償と言える資金提供も約束した
 →ただし、ドイツ統治時代に比してはるかに広汎な犠牲をもたらした南アフリカ統治時代の植民地責任への問いかけは表面化していない
 日本の植民地責任を問うさい、日本と韓国、日本と中国、というような個々の国家間の関係にとどまらず、世界史的な同時性の中で、考えることが必要

219修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/28(木) 18:23:47 ID:/XJTTU3k
小沢弘明「新自由主義・新帝国主義・「韓国併合」」
 19世紀を古典的自由主義の時代、20世紀を社会的自由主義の時代ととらえ、1970年前後に新自由主義が出現し、90年代なかばに体制として確立したとする時代認識
 →20世紀の福祉国家体制は解体され、所得の再分配機能は放棄された。新自由主義の時代はファシズムの時代より長期となっている
 新自由主義の本質は新帝国主義→自由主義の名のもとに展開される帝国主義。帝国主義が近代化の名のもとに展開されたことと連続性がある
 韓国併合は、他の帝国の植民地を参照して行われている

220修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/16(月) 14:56:26 ID:/XJTTU3k
岡本隆司『世界史序説』を読みました。何十年も西洋中心史観ではいけないと歴史学会は言っている割にいまだに西洋中心史観ではないかという怒りが著者にはあり、それを克服するためにこの本を書いたように思われます。
まず、古代ギリシア・ローマはオリエント(旧メソポタミア文明)の後継者であり、それをヨーロッパだとするのはおかしいと主張しています。さらに言えばインドもオリエントの後継者である。
また、キリスト教もオリエントから生まれた宗教であり、ローマカトリックが昔から中心であったかのように言うのもおかしいとしています。もともとキリスト教の中心は東ローマ側であると。
イスラムがヨーロッパを圧迫してたと考えるのはまさにヨーロッパ中心史観で、イスラムはむしろオリエントを再び統一したのだし、ユーラシア大陸の東西を安定させたのはイスラムと中国の唐王朝だとしています。
ただ、モンゴルが滅びて以降はユーラシアを1つにするような動きは歴史的に現れなくなります。その代わり、大航海時代で今まで完全に脇役だった西ヨーロッパが主役に躍り出ることになります。
しかし、大航海時代の初期に活躍したイタリア・スペイン・ポルトガルもオリエントと関わる国だった。イタリアは地理的にオリエントの影響を受けており、スペイン・ポルトガルはもともとオリエントに支配されていた。
だから、オランダが大航海時代の主役になった時こそが歴史の大きな転換点だったようです。
ではなぜ、オランダやイギリスがこの時代に発展できたのか。それは西ヨーロッパは領土も小さく、経済的に豊かでなかったからこそだとしています。
経済的に豊かでないから政治と経済が一体となった仕組みを作っていかなければならなかった。しかし、ペルシアや中国は領土も大きくもともと豊かだったから政治と経済を一体化させた制度をつくる必要がなかった。
ここで登場するのが日本で、日本も西ヨーロッパと同じように領土が小さくもともと豊かな国ではなかった。だから政治と経済を一体化させた仕組みをつくる必要があった。
その点で西ヨーロッパと日本は共通点があり、だからこそ日本は西洋風の近代化を達成できたし、それこそが絶対的に正しいのだと思い込んでしまったのだとしています。

この本で語られていることは実はそこまで新しいことでもないように思います。ただ、今後成果意思を考えていく際には西洋中心史観にならないような視点が必要だと思いますね。

221修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/17(火) 18:28:42 ID:/XJTTU3k
岡本隆司さんは上の本と同時期に『近代日本の中国観』も出しています。
この本では最初に石橋湛山の小日本主義が取り上げられているのですが、手放しで評価されがちな湛山の小日本主義について再検討をしています。
戦後の視点から見れば間違いなく正しかった小日本主義がなぜ当時は受け入れられなかったのか?という視点で岡本さんは書いているのですが、
湛山は中国の内部構造にまで踏み込めていなかったという評価をしています。
当時でも中国の専門家はいたわけですが、湛山は日本の利益について語っており、中国については語っていなかった(語れなかった)ので説得力がなかったのではないかと評価しています

222修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/21(土) 17:38:02 ID:/XJTTU3k
武田知己「日本外務省の対外戦略の競合とその帰結」(「年報日本現代史」編集委員会『検証アジア・太平洋戦争』2011年)
 30年代の外務省の主流はアジア派。メンバーの中核は有田八郎と重光葵→アジア派と対立したのが革新派、白鳥敏夫が中心
 アジア派以外の主要メンバーは欧米派。幣原喜重郎や広田弘毅など
 白鳥は満州事変拡大の過程で幣原外交と訣別し、事変の拡大を支持した
 欧米局長東郷茂徳の国際情勢判断→東郷はリアリスト、イギリスとの協調に可能性を見出し、日英関係を通じて対米関係の改善を構想
 東郷はソ連との不可侵条約締結を強硬に主張→これを締結すればアメリカの警戒心も緩和されると考えていた
 重光の構想→東郷が中国本土への進出を戒めていたのに対し、重光は満州国周辺への勢力拡大を目指していた。アジア・太平洋をアメリカと分割することも考えていた
 重光路線への批判→中国通の外交官は中国の国家統一を日本は援助すべきだとしていた。東郷も重光を批判
 ただ、重光らアジア派の路線は、欧米派や革新派と緩やかに提携していく→アジア派と欧米派は英米協調・反ソで共通性。東郷もイギリスとの協調で共通性
 →革新派は対ソ戦争を辞さないという点以外で重光の路線とほぼ同じ
 →重光の路線は日中全面戦争開始で挫折する→英米を敵に回してしまった。重光は中国との戦争など想定していなかった
 →重光の路線は、ソ連・中国内部の共産勢力との対立を利用して英米と協調すること

223修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/22(日) 10:05:33 ID:/XJTTU3k
鹿錫俊「日独伊三国同盟をめぐる蔣介石の多角外交」
 蔣介石の基本方針は、日本以外の全ての国と友好関係を結ぶというもの→ドイツが満州国を承認して以降は、ドイツを区別するようになる
 想定外の事態→独ソ不可侵条約、欧州戦争でドイツが快進撃→蒋介石外交は、どっちつかずの静観になる
 日本が独伊と同盟条約を締結するという第一報→蔣介石にとっては望んでいた局面→ただ、ソ連がどのような態度をとるのか計りかねている
 →日独伊三国同盟については沈黙し、日本を南進に向かわせる方針になる。国民党は共産党との対決にそなえて戦力を温存する方針
 →日本のみを敵国とする方針を堅持、欧州戦争に介入しない、ドイツによる日中戦争の調停を拒否しない、ソ連の態度表明を待つ
 日独伊三国同盟は日本が公式に独伊陣営に参加したことを意味する→英米は日本を牽制するために中国を支えなければならなくなる
 中国共産党だけは英米と提携してはいけないと主張→蔣介石はソ連の意志によるものと見た→蔣介石はソ連の援助を獲得したかったが、ソ連に支配されることは避けたかった
 ただ、蔣介石は独ソ関係は破綻すると予測、ソ連が日独伊に対抗することを期待していた。欧州戦争も英が勝つことを予測→対日平等講和の可能性を見出す
 →蔣介石は日本を甘く見ていた。日本は蔣介石の予測とは違う方向に進んでいく→ただ、日本との講和以外は蔣介石の試みは大方成功している
 →英米の援助獲得、ソ連の動向予測は当たった、欧州戦争でドイツが苦境に陥る予測も当たった→日本側の予測は蔣介石の予測より認識が甘かった

224修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/23(月) 18:39:10 ID:/XJTTU3k
手嶋泰伸「海軍の対米開戦決意」
 日本の南部仏印進駐→アメリカの経済制裁(石油禁輸、在米日本資産の凍結)→海軍は対米戦を現実的に検討。海軍で強硬な意見を持っていたのは、永野修身と中堅層
 海軍省首脳部は対米戦に極めて慎重。海軍が要求していたのは万一のための準備→時間をかせぎつつ、石油を獲得する手段が現れることを期待した
 →ただ、対米戦に消極的な発言をすると軍備整備に遅れが生じるというジレンマから、ストレートに対米戦反対の意思表示ができなかった
 帝国国策遂行要領では、期限の10月15日がきたら何らかの行動を起こさねばならないとなっていたので、対米戦に慎重な勢力は焦っていた
 10月17日、近衛内閣は閣内不一致で総辞職する→東条内閣に嶋田繁太郎が海相として就任
 10月30日、嶋田は開戦不可避と判断している。嶋田の政治力では対米開戦の流れは覆せないという判断。嶋田は国際情勢の好転にも期待していなかった
 →開戦責任は海軍単独の責任ではないということも、あっさり対米開戦を決意させた要因

225修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/24(火) 18:52:45 ID:/XJTTU3k
春日豊「戦争と財閥」
 日中戦争の拡大・長期化→三井は政府要請に応じて重化学工業投資を急増させる。41年4月30日には、三井化学工業が設立された
 →国策に呼応しつつ三井内の事業を整備し、国家的援助を引き出しつつ重化学工業への進出を強化した
 三井は、日本の中国占領地域の拡大とともに、軍・官の出資要請に応じて対中国投資を増大させていった
 日中戦争以前の三井財閥本社は借入金がまったく無かった→日中戦争以降、状況が一変する
 →組織改革。三井本社設立、事業体制の再編成→戦後の企業グループの萌芽が形成される。企業間の株式相互持ち合い、中核銀行の融資
 →ただ、財閥解体までは本社と三井家が圧倒的に株式を所有していた
 組織改革で三井同族の経営への関与は後退していた→ただ、三井本社社長は三井同族会議長→財閥解体の意義は大きい

226修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/25(水) 18:46:24 ID:/XJTTU3k
戸ノ下達也「音楽のアジア・太平洋戦争」
 日中戦争期、音楽も国家による統制がなされた→出版統制、公的流行歌である国民歌の発表
 アジア・太平洋戦争初期は音楽も攻めの諸相、戦意高揚。健全娯楽としてクラシック音楽がその象徴となる
 1943年になると、演奏に対する規制も顕著となる→米英楽曲の演奏禁止、クラシック音楽にも一部規制→真珠湾攻撃で一気にアメリカ文化が排撃されたわけではない
 1944年、大都市の多くの劇場が閉鎖される
 オフィシャルでない歌(替え歌)では、国民の本音が歌われていた

227修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/26(木) 18:39:59 ID:/XJTTU3k
官田光史「「応召代議士」をめぐる前線と銃後」
 大政翼賛会内部グループの清新クラブは東条内閣を支持。過去の政党政治を批判して当選したグループ→しかし、翼賛会の主導権が旧二大政党系の議員にあることに不満
 →東条内閣の提出法案に激しく抵抗→清新グループの濱田尚友らは召集される→濱田の選挙区民にとっても深刻な問題→地元の要望に応える人がいなくなる
 濱田は硫黄島に送られ一旦帰ってきている→選挙区民の感情的にも、陸軍省は濱田を2度も硫黄島に送ることはできなかった
 →議員に復職した濱田は、自らを硫黄島の戦友の代弁者だとして兵器の増産を求めた
 濱田は岸信介の新党結成の動きに呼応→翼賛会へ脱退通告書を提出→濱田の選挙区の選挙を無効とする判決が下ったので、濱田は岸グループの護国同志会には参加できず
 →再選挙。選挙では、戦友とともに国家の苦難に立ち向かう自分をアピールした→濱田は再選→護国同志会に参加
 戦後、東条内閣による懲罰召集を乗り越え、戦局の実相を伝えようとした濱田という政治家のイメージができあがる

228修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/09/30(日) 17:23:28 ID:HdaWEsTU
成田龍一『「戦後」はいかに語られるか』を読みました。
「戦後」を歴史としていかに語っていくかを考えている本です。まだ、こう語っていくべきだという結論は著者にも出せていないようですが。

『ゴーマニズム宣言』も『永遠の0』も『小さいおうち』も祖父・祖母と孫の話であって「戦後」世代である父母の話が消去されているというのは、なるほどなと思いました。
現政権や現政権シンパは「戦後」を全否定するような言動を繰り返しているし、だからこそ「戦後」をしっかりと歴史的に位置づけていかなければいけないのだろうと思いましたね。
ただ、著者もあとがきで、「「戦後」を変えつつ、しかし「戦後」を破壊する権力の暴挙を批判するという、ねだれともだえがある」と書いていますが、
『三丁目の夕日』みたいに「戦後」のある時期を美化するようなことは避け、新しい時代を考えながらも「戦後」を全否定するようなことは避けるということが必要なのでしょう

229修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/10/15(月) 22:14:04 ID:HdaWEsTU
三谷博『維新史再考』を読みました。
幕末から明治初期までの政治史をかなり丁寧に書いてあるというところがこの本の特徴なのかな。
特定の人物や大名(藩)を英雄視せずに公儀(幕府)や藩の動きをそれぞれ丁寧に描いているというところも特徴なのだろう。
ただ、「再考」とまで言っていいのかは疑問、帯に「維新史観を根底からくつがえす」と書いてあるのも疑問。
幕府が色々と考えていたということは結構知られてきていると思うし。
まぁ、長州が幕末の政治史的にはろくな活躍をせず、ただただ混乱を引き起こしていただけというのが分かるのはいいけど。
あと、鹿児島に多大な犠牲をもたらした西郷が英雄視され、大久保が非難されているのが謎と著者が書いているのもよかった。
それにしてもこの本、いきなり人類の移動から始まり、世界史の話になって、江戸時代がどのような時代かをくどいぐらいに書いてから幕末が始まるので、なかなか本題が始まらない。
しかも、最後に再び世界史の話に戻るので風呂敷を広げまくっている気がしてしょうがない。
あと、「維新史再考」と言うぐらいならむしろ庶民視点こそ必要だったのではないか。政治史の話だけだと、いうほど「再考」してないような

230修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/10/21(日) 16:41:48 ID:HdaWEsTU
岡本隆司『歴史で読む中国の不可解』を読みました。
歴史のことを知らずに中国のことを語っても深みがないということを危惧して多くの本を出している著者の新しい本。
日経から出しているということでサラリーマン向けに書いたとことであろうか。

内容としては、現在の日本の基準、考え方というのは西欧近代的なものなので、それを唯一の基準として中国を見てはいけないのだということだと思う。
中国には「中華思想」というかなり長い基準、考え方があるのであり、社会主義国家になっても文化大革命があってもその考え方は実は変わってない。
それを理解しなければ中国のことはいつまでも理解できないということなのだと思う。
面白かったのは、ロシアも西欧近代的な考え方ではないと主張しているところ。
ロシアもモンゴルの系譜につながる国家なのであって、ヨーロッパだけれども西欧近代とは違うのだというところはなるほどなと思わされましたね。

231修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/11/07(水) 21:43:29 ID:HdaWEsTU
本郷恵子『怪しいものたちの中世』を読みました。
中世という時代は、権力が弱く「セーフティネット」と呼べる者もなかったので、人びとは宗教の力に頼るしかなかった。
しかし、宗教の中核にいる人たちは庶民と接することはない。庶民と接するのは、現代人からすれば「怪しい」宗教者達だった。
そんな「怪しいものたち」に注目した本…ということなのですが、内容的には段々違う方向に進んでいきます。
怪しいものの話というよりは、時代の表舞台に立てなかった不遇な人たちの話になっていきます。
そういう意味では少し残念な本ですが、平安末から鎌倉初期の政争を知りたい人にはお勧めの本かもしれません。

ところで、権力が弱く「セーフティネット」も無かったから宗教に頼ったのが中世だとするならば、
近世は権力が強く「セーフティネット」も(一応)存在するようになった時代だった。だから、宗教の力が弱くなったと考えることもできそうですね。

232オリバ:2018/11/08(木) 12:08:04 ID:BdrAuH5Q
ttps://is.gd/zFczvD

233修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/01/06(日) 17:42:32 ID:E3jCVgGk
最近は『応仁の乱』が売れたことをきっかけにちょっとした日本中世史ブームらしいですが、
日本中世史の学会の世界では有名だけど一般的にはあまり知られていないであろう「権門体制論」の論文を読んでみました。
僕もちゃんと読むのは初めてでしたが、江戸時代までのことを考えた内容だったというのははじめて知りました。
簡単にまとめると中世は天皇が国王だが、絶対的な権力を持つものは天皇を含めて存在しない時代。近世は天皇が国王でなくなり、絶対的な権力を持つ存在がいる時代ということでしょう。

黒田俊雄「中世の国家と天皇」
 権門勢家(権威・勢力のゆえに国政上なんらかの力をもちえたいくつかの門閥家)が国政を支配する国家体制→権門体制。天皇家・貴族・寺社・武家が権門勢家
 権門の経済的基礎は荘園制的土地所有
 公家・寺家・武家、どの権門も独自に国家全体を掌握するだけの勢力を確立するまでにはいたらない→王位を簒奪することではなく、国王を交代させることで国政を掌握する
 権門は、官職として国政に参加するのではなく、権門勢家であることをもって国政に関与する→権門体制の第1段階は院政。上皇という存在は律令にはない
 →第2段階は鎌倉幕府。幕府は公家・寺家と相互補完的。守護は国王の名で幕府に所管されている、幕府の地方官ではない
 →守護・地頭を幕府の地方官とし、官衙の役人や国郡司と対立する存在として単純に説明することはできない
 ただ、官人は天皇の名によって任免されるが、天皇は自由な任免権をもたず、権門の競合と妥協によって決められる。天皇の権力は、無力であり、形式的なもの
 →院政を始めたときにはじめて、権利行使能力を得る
 天皇の政治的地位の形式化が著しくなると神国思想が広まる。天皇の権威は宗教的尊厳性に依拠するものとなる
 後醍醐天皇の建武政権は上皇・摂関家・幕府など権門を一切否定した→権門体制の否定→しかし、権門的支配者は存在し、領地は安堵された
 室町幕府も1個の権門。守護大名も中央権力と依存関係にある。ただ、幕府以外の権門は政治的にも経済的にも幕府に従属して存続している
 →国家権力の主要な機能は幕府が掌握。ただ、公家・寺社は儀礼など幕府では果たせない機能をもっていた→権門体制を克服していない
 →権門体制が荘園制とともに消滅するのは、事実上幕府が存在しなくなる応仁の乱のとき→職豊政権、江戸幕府はあらゆる領主を従属させる強力な封建王政として君臨する
 →この時代では、天皇は国王の地位にはない

234修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/01/06(日) 17:46:06 ID:E3jCVgGk
ちなみに、権門体制論批判として存在するのが「2つの王権論」でこちらの説では国王は天皇と将軍の2人いるということになります

235修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/02/19(火) 22:39:32 ID:E3jCVgGk
松沢裕作『自由民権運動』を読みました。
まぁ西郷どんの後の話とも言えますかね。

この本の論調としては、江戸時代が終わった後、どういった国をつくりあげていくかという流れがあって、
政府内では主流になれなかった人たちが自由民権運動で自分達が主導権を握ろうとした。それに期待した人々がいたから盛り上がったということだと思います。
この評価は正しいと思いますね。
そんな自由民権運動は、国会開設にしても憲法制定にしても政府に先手を打たれてしまい、何もすることができなかった。
そうして自由民権運動は終わったということのようです。

著者はあとがきで、2011年以降に起こったデモと自由民権運動を重ねつつ、自由民権運動の失敗などから学ぶことがあるのではないかとしていますが、これも同感かな

236修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/03/04(月) 22:43:30 ID:E3jCVgGk
高橋修『熊谷直実』を読みました。
熊谷直実って源平合戦の後に出家してたんだね。初めて知った。

直実は「武士」とは呼べないような身分だったようだけど、頼朝の前では御家人としてみんな平等であるという考えで戦っていたけれど、
源平合戦後、実際は御家人の間に差があったという現実から頼朝のもとを去ったようですね。
あと、殺人を生業とすることへの罪悪感も出家の理由としては考えられるようですね。

237修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/04/07(日) 23:02:32 ID:E3jCVgGk
福田千鶴『後藤又兵衛』を読みました。
後藤又兵衛について、数少ない史料から確実に言える事だけを検討した本です。

なぜ、又兵衛は豊臣方として戦ったのか?という理由は示されてはいませんが、
黒田は江戸時代の大名として変化して生きていくことができたが、又兵衛は戦国時代でしか生きられなかったということは本のなかで示されているように思います。
又兵衛に限らず、大坂の陣で豊臣方として戦った人たちは戦国時代でしか生きられなかった人たちなのかもしれません。
「真田丸」は、そういう視点でつくられていたように思う

238修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/06(月) 23:45:39 ID:ddOzpFck
岡本隆司『腐敗と格差の中国史』を読みました。
おそらく、現在の中国近現代史研究者ではトップクラスの位置にいる著者の新たな一札。
今回は主に「腐敗」をテーマにしながら、中国の官僚について周の時代から現代までを論じています。

「腐敗」とは汚職などを指すわけですが、元来中国では「官吏」の「官」と「吏」が分かれていて、そこには大きな格差があったのだということが一番重要になってきます。
「官」は管理職みたいな人達の事で、正式な給料をもらってはいますが、ぎりぎり生活ができるかできないかの額しかもらっていませんでした。
「吏」は実務を担当する人たちなのですが、なんと彼らは給料を一切もらえない立場だった。しかし、彼らがいなければ当然支配は行えない、特に「吏」になるような人たちは地方のことをよく知っている人達だったりするので余計に重要な存在になっている。
しかし、給料はもらえない。何より「官」もたいした額はもらっていない。だから、賄賂というかたちで民衆からお金を取らなければいけなかった。というか、そうしなければまともに地方の行政は成り立たなかったとのことです。

著者は以前から中国社会は上と下が大きく分離した社会だということを論じていますが、それは今回の本でもそうで、中央と地方、官吏内部と官吏と民衆がいかに大きく分離していたかということを論じています。
そしてこれも著者が以前から論じていることですが、孫文も毛沢東も上下の分離状態を何とかして改革しようとしたが、いずれも失敗し、現在に至っているのだとしています。

とりあえず、紋切り型の嫌中本を読むぐらいなら、岡本先生の本を読もう

239レト:2019/05/21(火) 22:33:46 ID:5xDgiNaU
幻冬舎社長の騒動がきっかけでウェブ出版のメリットについての議論が活発化してるけど、
編集者の存在意義はともかくピンハネするような悪質な出版社が淘汰されていく良い機会かもしれない。

240修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/22(水) 19:58:32 ID:ddOzpFck
ワンマン社長の悪さが一番典型的に出たケースでしたね

241修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/22(水) 21:00:31 ID:ddOzpFck
苅部直『「維新革命」への』道を読みました。
簡単に言えば、明治時代の文明開化は江戸時代の段階で準備されていたのだという内容になります。
江戸時代の思想家の考え方、社会のあり方、それらが既に文明開化への準備を整えていた。
商業の発展をどう考えるか、いろいろな考え方が江戸時代にあったのだということも分かります。
面白かったのは、幕末のオールコックの日本評。「豊かで幸福だがfreedomのない社会」、そうオールコックは言っています。
一応、明治維新で「自由」は与えられるわけですが、その自由が「freedom」だったのかは気になるところですね。
というか、戦後改革を経た現代日本の「自由」は「freedom」なのでしょうかね

242修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/06/09(日) 22:02:07 ID:ddOzpFck
坂井孝一『承久の乱』を読みました。
『応仁の乱』が売れて以降、中世の戦乱を扱った本がたくさん出ましたが、これもその1冊。
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした戦いだと思われているが、実際は北条義時を倒そうとした戦いなのだというのがこの本の1番の主張でしょうか。
源実朝が将軍としていた時は、朝廷と幕府の関係はとても良かった。しかし、実朝が暗殺され、北条氏が権力を握ると幕府は朝廷のコントロールをどんどん離れていった。
だから、後鳥羽上皇は北条氏を倒そうとしたのだが、北条氏の方が一枚上手。上皇は幕府を倒そうとしているのだという論理にもっていって御家人達の支持を得、一気に上皇軍を倒したということのようですね。
承久の乱後の動きがとても重要で、鎌倉幕府が出来た段階では幕府の方が朝廷より上というような状態でもなんでもなかった。
それが承久の乱後、幕府は完全に朝廷の上になり、後醍醐天皇の時期があったけれども、基本的には大政奉還まで幕府はずっと朝廷よりも上の立場にいた。
そういう意味で、承久の乱はとても重要な戦いだったということですね。

243chi:2019/06/22(土) 04:43:32 ID:HJWBqy3g
  再投稿 沖の島 祭祀の研究図書目録

*河瀬文庫「宗像・むなかた沖の島展」1977
*河瀬文庫「古代沖の島の祭祀」・「東大三十余年」著者・発行 井上光貞1978
*河瀬文庫「海の正倉院 宗像沖の島 古代の旅3」著 弓場紀知(ゆばただのり) 平凡社1979
*河瀬文庫1576 抜粋「宗像市史第1章」旧石器時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 平ノ内幸治1997
*河瀬文庫1577 抜粋「宗像市史第2章」縄文時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 清水比呂之 木下尚子1997
*河瀬文庫1578 抜粋「宗像市史第3章」弥生時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 安部裕久1997
*河瀬文庫1579 抜粋「宗像市史第4章」古墳時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 原俊一 花田勝広1997
*河瀬文庫1580 抜粋「宗像市史第5章」特色ある古墳文化・付宗像地域考古文化財文献一覧『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 原俊一 白木英敏 大澤正巳 田中良之 本田光子 木下尚子 花田勝広 松本肇 岡崇1997
*「沖の島と津屋崎古墳群」重住真貴子 池ノ上宏 ・「古代の福岡」 アクロス福岡文化誌編纂委員会2009
*「沖ノ島」・「伊勢神宮と三種の神器」著 新谷尚紀 講談社2013


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