したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

102修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/09(日) 17:07:46 ID:MDyIz2QM
アン・エリス・ルアレン「宇梶静江(詩人・古布絵作家・運動家)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
 70年代、日本国内にも暴力革命を主張する極左団体はおり、彼らはアイヌに対する日本の支配をプロパガンダに取り入れた
 →多くのアイヌは暴力的な革命運動に引っ張り込まれることに激怒し、困惑した。一方で、アイヌ社会は差別と歴史的トラウマの中にいた
 東京に移り住んだアイヌたちは民族的出自を隠すことを余儀なくされた→1972年2月8日、宇梶静江は朝日新聞でアイヌの交流を呼びかけた→73年、東京ウタリ会結成
 →調査によってアイヌと日本人の平均収入の差は47〜60パーセント開きがあるということがわかった
 75年、東京には401世帯679人のアイヌが在住、そのうちの94パーセントが55年以降に上京していた。独身世帯は60.3パーセント
 16歳から30歳までの割合は東京在住アイヌの44.8パーセント。平均収入は世帯で月12万5千円、個人は9万7千4百円程度だった(都民の平均収入は月20万9千円)
 調査に協力したほとんどがアイヌ文化についての知識は少なかった
 東京ウタリ会は、アイヌたちの集会などに使える生活館設立を考えた。東京都はアイヌに対する生活相談員としてウタリ相談者を任命。初代は宇梶
 →約1年間、過度の労働→別の方法でアイヌをサポートする方向に進んでいく
 77年、初めて公共の場で祖先を敬い祖先の魂を送るイチャルパを開催。東京ウタリ会は解散→イチャルパは2003年まで行われなかった
 80年代、4つのアイヌの団体が発足
 2008年、北海道洞爺湖のG8サミットでアイヌたちは協働して先住民族サミットアイヌモシリを開催、世界各地の先住民族が集まって提言をまとめ、G8首脳団に提出した
 →宇梶も共同代表として参加
 70年代のアイヌの政治的結集は男性によって主導されがちで、法廷闘争や糾弾が行われていた
 →アイヌ女性たちは異なるアプローチをとった→伝統的な着物の刺繍や布を使った作品づくり。意義主張を文化活動によって表現
 97年、アイヌ文化振興法→日本に民族マイノリティがいるという事実を認めたが、先住民族の権利の確立などには触れられていない
 →また、この法律の範囲は北海道アイヌに焦点があてられている。政府の責任は文化復興を支援することのみ
 宇梶は、アイヌの知恵と文化が深く尊いのであって、私や個人個人のアイヌが偉いのではないと述べている

103修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/09(日) 17:09:03 ID:MDyIz2QM
>>102
この宇梶静江さんの息子が俳優として活躍している宇梶剛士さんですね

104修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/10(月) 20:22:21 ID:MDyIz2QM
白井聡「吉本隆明(評論家)と藤田省三(政治学者)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
 『世界』1960年8月号での座談会(藤田省三らが参加)→60年安保には非組織性(組織動員ではない)があったという議論→2015年安保との共通性
 →60年安保は立憲主義や民主主義を日本社会に根づかせる機会になるということも議論されていた→これも2015年安保との共通性
 推進側と反対側の議論の嚙み合わなさも60年安保と2015年安保の共通性→岸信介にとって安保条約改定は条約を対等にするものでありなぜ反対されるのか理解できなかった
 →60年安保で抗議を惹起させた契機は改定の内容よりも強行採決したこと。反対派にとっては外交の問題ではなく内政の問題→これも現在とほとんど変わらない
 60年安保は敗北したものの戦後民主主義の定着と強化に多大な貢献をしたという歴史観があったが、それは今日崩壊している→2015年にほぼ同じことをやっている
 60年安保は深刻な敗北を喫していたのである
 『日本読書新聞』1960年9月5日、12日号の座談会(藤田や吉本隆明らが参加)→藤田と吉本の意見はところどころで対立→吉本は60年安保を評価していない
 →吉本は、家族の幸福を絶対的に追求する。天下がひっくり返ってもいい。おれに関係がなければいいというところで追求するほうがいいと主張→現実的にはそうなった
 吉本は家族の幸福を追求し天地がひっくりかえったって知ったことじゃない都市小市民を肯定していた
 →私的利害の優先が当然とされる状況が出現することではじめて日本社会はブルジョア民主段階に到達する→既成左翼や戦後民主主義派知識人に対する批判
 60年安保は革命という観念が実在性を伴って受け止められる時代の終幕を告げさせた
 吉本は、日本の知識人は大衆を理解していないと主張→終戦時に支配層を打ちのめすこともしなければ徹底抗戦をしようともしなかった大衆を理解できていない
 →大衆は徹底的にニヒリストであると吉本は主張→吉本の主張どおり現在の日本社会は途轍もなく強靭なニヒリズムが蔓延しているといえる
 →吉本が肯定したニヒリズムが日本をよくしたとは言えない
 藤田は両方の座談会で、一人ひとりの人間が独立した民主主義者となることで、総和としての一般意思を形成するべきだと主張していた
 →80年代、藤田は大衆消費社会を批判的に分析するようになる→大衆がニヒリズムを深める世界は安楽への全体主義が蔓延する世界
 →ニヒリズムと闘わなければいけないのではないか

105修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/10(月) 20:23:57 ID:MDyIz2QM
>>104
ある意味、未来を言い当てていた吉本隆明はさすがだなと思いますが、吉本の主張どおりになった日本がよくなったとはやはり言いがたいと思いますので、
吉本隆明は乗り越えなければならない存在ではないかなぁと思いますね

106修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/13(木) 20:58:38 ID:MDyIz2QM
林英一「小野田寛郎(残留日本兵)と横井庄一(残留日本兵)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
1972年1月、グアム島で在留日本兵横井庄一が発見された→報道加熱、横井庄一ブーム
74年2月、捜索隊によって小野田寛郎は発見された→ちょうど日比友好通商条約が批准された後だったので、小野田は日比友好関係の象徴扱いされた→帰国すると小野田ブーム
→報道は横井の時以上に英雄扱いした
ブームの背景→戦中派はありし日の自分の姿を重ね合わせた。若い世代は、戦中と戦後がいかに異なるのかを確認した(横井の天皇観→戦後の日本人はこれを拒絶)
小野田はブラジルに移ると天皇について積極的に発言しはじめた→天皇は責任をとるべきだった→小野田は戦争犠牲者視されることも天皇崇拝者視されることも拒否した
日本人は横井や小野田は未開で野蛮な原始から、豊かで文明の現代にタイムスリップしたかのように受け止めた
→横井が、グアムに比べて日本は「遅れている。自動車が少ない。道路がせまい。家がきたない」と発言したのは強烈な皮肉であった
横井に対しては戦争の犠牲者、被害者というまなざしが向けられがちだった(横井が民兵2人を殺害した話をすると波紋を呼び、横井はそれをなかったと否定した)
→次第に、奇妙な言動をする異人というまなざしに
小野田は、軍国主義の亡霊と批判もされたが意に介さなかった。小野田は戦争の英雄として振る舞った
→小野田の自伝は、ルバング島民に対して差別的であり、島民殺傷の話を得意げに語っていた→やがて小野田に関する記事や論評は見られなくなり、世間の熱狂も冷めていった
ブラジルにいた小野田は80年、浪人生が両親を金属バットで殺害する事件が起こると日本で自然塾の活動を始める
2000年代、一部の日本人の間で小野田は復権した。小野田は首相の靖国神社8月15日公式参拝を支持し、若者にも参拝を呼びかけた
アジア各地に離散した残留日本兵の数は推定1万人にのぼるとされる(その中には、戦後日本人ではないとされた者もいる。台湾出身の中村輝夫(李光輝)など)
→これらの人々の存在に対して日本人は無関心であった

107修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/14(金) 23:13:52 ID:MDyIz2QM
石坂浩一「金芝河(詩人)と日韓連帯運動を担ったひとびと」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
 72年10月、朴正熙大統領は戒厳令を発動した状態で、事実上の永久執権のための新憲法を公布(維新憲法)→73年末から改憲署名運動、学生運動も計画されていく
 74年4月3日、全国民主青年学生総連盟(民青学連)はソウル市内でのデモを呼びかけた→不発、関係者も検挙される(民青学連事件)
 同時期、「民衆の声」という詩が配布されていた→作者は金芝河であろうとされた(実際は違った)
 金芝河は70年、権力者を批判する詩「五賊」を書いたことで拘束された→肺結核のため保釈→72年、風刺詩「蜚語」でふたたび拘束→金芝河救援国際委員会が結成される
 →鶴見俊輔ら日本人3人が国際委員会の一員として療養所に送られていた金芝河に会っている
 73年8月8日、金大中事件→日本政府は韓国政府に譲歩し、拉致された金大中の来日と自由な活動の保障を認めさせないまま政治決着させた
 →74年4月18日、「日本の対韓政策をただし、韓国民主化運動に連帯する日本連絡会議」(日韓連)結成
 74年4月、金芝河も民青学連事件で逮捕されており、死刑判決が下された→金芝河らを助ける会発足→75年2月15日、釈放される
 →獄中での体験記を新聞に寄稿し、拷問によって民青学連事件は共産党によるものだというふうにでっち上げられたことを書く
 3月1日、「宣言 日本民衆への提案」を発表→植民地支配は朝鮮民族だけでなく日本民族まで非人間化したのだと主張。両国民衆の反独裁共同戦線を提起した(三・一アピール)
 →日本で初めて、朝鮮語(韓国語)を学習しようという動きが起こる
 金芝河は75年に再投獄され80年まで獄中にいた→良心宣言を発表。自分が意に反することを言うかもしれないが本心ではないということをあらかじめ宣言した
 韓国の反共体制下で運動している人びとと協力していくには日本側の担い手が左翼運動と見られてはいけない
 →日韓連帯運動は明らかに共産主義者でないといえる者たちによって代表されなければならなかった→日韓連の運動は次第に継続が難しくなる
 70年代、韓国民主化運動が盛り上がると在日韓国・朝鮮人にも帰国して貢献しようとした人たちがいた→拷問を受け、獄中生活を送った人びとも少なくない
 91年、学生が民主化進展を訴え焼身自殺する事態が続くと、金芝河は学生運動を批判した。2012年には、金芝河は朴槿恵候補を支持している

108修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/14(金) 23:15:44 ID:MDyIz2QM
>>107
しかしまぁ40年ほどたって朴正熙の娘がデモで倒されることになると予想している人はそうそういなかっただろうなぁ

109修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/15(土) 16:37:24 ID:MDyIz2QM
三上喜孝『落書きに歴史をよむ』を読みました。
落書きも歴史資料になるのではないかということから書かれた本なのですが、著者が調査していくと色々なことが落書きから分かるのだということがことが明らかになります。
というのも、だいたい戦国時代頃に各地の村の仏堂に落書きが残されているということが分かってきたからです。
しかも、同じ書式で同じ歌が各地で書かれているということも明らかになります。さらに時期的に聖地巡礼が行われていく時期であることから、聖地巡礼者は仏堂に落書きをするものであり、書くことも決まっていたのではないかということが言えてくるわけです。
アンコールワットに日本人武士の落書きがあることは有名ですが、それも聖地巡礼の際には落書きを残すということで説明できるのではないかということが述べられています。

個人的に面白かったのは、武士が残したと思われる落書きで、謙信が死んで内乱が起こったとか伊達政宗が会津に攻めてきたとか書かれている落書きも残されているようです。
また、男性武士が男性武士を愛しく思った落書きも結構残されており、仏堂という場所がどのような意味を持つ場所だったのかということも暗示されています。

近代社会では落書きは犯罪ですが、現代の落書きも同じような場所に同じようなことが書かれているのではないか、
その落書きを調べると現代の何かが明らかになってくるのではないかなと思いましたね

110修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/22(土) 15:36:07 ID:uq8Rg0iQ
保阪正康「中曽根康弘(首相)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 1918年、中曽根康弘は群馬県高崎市の木材業の次男として生まれた。東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省→海軍の経理学校に入り主計将校となる
 →敗戦後は内務省に戻り、警視庁などに勤務→内務省を辞めて政治家を目指す
 →協同党から出馬したかったが支持者に拒否され、47年、民政党の流れを引く民主党から群馬3区に出馬し29歳で当選
 →吉田政治批判で名をあげていくことになるが、田中角栄のように庶民的人気を得る人物ではなかった。最初から中曽根は思想や信条を全面に出す政治家だった
 中曽根は有権者の利益を代弁する政治であっては意味がないと考え、青雲塾をつくった
 中曽根は、鳩山一郎総裁の政友会の流れを引く自由党には関心を持たなかった(自由党は自由社会の建設を目ざすと謳った)が、河野一郎には共鳴しており後に河野派に入る
 一方で日本進歩党(→民主党)の政治方針は旧勢力に近い体質だった。保守勢力の最左派には日本協同党があった(資本主義、社会主義とは異なる第三の道)
 中曽根の思想的特徴→強烈なナショナリズム。戦争への反省、自省は個人レベルで行い、国家のレベルに引き上げない
 中曽根の吉田批判→吉田茂は擬似一国平和主義者。政権維持のためなら何でも行うずるい官僚
 中曽根は、国民が厭戦思想を捨てなければ独立自衛国家は無理だと判断した。中曽根は政界では特異な存在でありタカ派の代弁者だったがしだいに実力をつけていった
 中曽根内閣は82年11月から87年11月まで続いた→もともと田中派の支えによって成立し、新自由クラブの協力を得て政権を維持した内閣
 戦後政治の総決算→吉田ドクトリン(軽武装、経済重視、憲法擁護)への批判。大政翼賛会型の政治方式→大統領的首相、民間人を中心とする諮問委員会設置
 戦争体験者中曽根の政治哲学(戦後民主主義の否定、軍事国家化)が実行できなかったのは後藤田正晴ら田中派が賛成しなかったから
中曽根が首相を退任してから30年、戦争を知らない世代が軍事国家化を進めている

111修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/22(土) 15:37:22 ID:uq8Rg0iQ
現在の自民党の中にも一応田中派とかハト派の流れを引く人たちっているんですけど、全く存在感は無いですね

112修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/23(日) 12:04:45 ID:uq8Rg0iQ
北田暁大「上野千鶴子(社会学者)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 80年代の昭和軽薄文体。上野千鶴子も昭和軽薄文体の戦略的使用者だった
 糸井重里のような男性は論争ゲームから降りることが出来た→女性は降りることが出来ない。降りると男性的論争ゲームを温存させてしまうだけ
 アグネス論争(アグネス・チャンの子連れ出勤をめぐる女性間の論争)で上野はアグネスを擁護した
 →女による女の子連れ出勤批判を高みの見物して喜ぶ人の認識枠組みが温存されてしまうことへの危機感
 上野にとって昭和軽薄文体は、論争ゲームから降りる・上がるの対立項を崩すための理論装置だった
 上野は「わたしたちの世代」を語ることを禁じていた→世代論は特権意識丸出しの凡庸な自己肯定か、反省的なヒロイズムに陥るしかない
 3・11や反安保で、降りた男性たちが降りることをやめた(降りつづけている糸井は突き抜けた強度を持っているのかもしれない)。これも男性の特権だった
 →上野の場合、女性革命兵士たちの記憶が蘇ってくる。女性研究者が、国会前デモでの女性参加者のスピーチに違和感を表明するとデモ賛同者に批判された事件
 →運動のなかにある性差別批判、マイノリティ差別批判を運動の足を引っ張る敵対行為とバッシングする人たちがいる、いつかどこかで見た景色と、上野はツイッターに投稿
 →お母さんがご飯を用意してくれる日常をめぐる議論→上野は、ささやかな日常の持つ政治性を問いかけつづけてきた
 →反原発デモや集会に行くと集まっているのは女性が大半で「お母さん」という呼びかけが圧倒的。母性主義そのもの。母親ではない女は、ここに存在しないのかと上野は反発
 →上野にとって母性主義との闘いは小さなことではない→社会運動における母性主義→上野がこういった運動から遠ざかった理由の一つ

113修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/24(月) 21:11:55 ID:uq8Rg0iQ
西尾漠「高木仁三郎(物理学者)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 脱原発という言葉は、1986年のチェルノブイリ原発事故の後で、原子力資料情報室代表だった高木仁三郎が日本の運動に導入した
 東京都立大学を辞職していた高木は、79年3月28日のスリーマイル島原発事故が起きていなかったら、運動に深入りすることはなかったかもしれない
 スリーマイル島原発事故は日本の電力会社や自治体にも動揺をもたらしており、徳島県の阿南原発と山口県の豊北原発は幻に終わっている
 →もともと強い反対があったところに事故がとどめを刺した。70年代以降に浮上した原発計画は強い反対運動がおきており、現在も実現していない
 公開ヒアリング阻止闘争→住民の声を聞いたとする見せかけ、国が前面に出ることで勝ち目がないと住民のあきらめを誘うこと、この2つをともに突き崩すのがねらい
 加害国としての脱原発運動→放射性廃棄物の海洋投棄反対(海洋投棄は現在、完全に禁止されている)など
 86年のチェルノブイリ原発事故の際、日本での反原発運動は大きな盛り上がりは見せなかった→盛り上がるのは事故の2年後
 →事故によって汚染された食品が輸入され、送り返されるという報道が出てきたことと四国電力の伊方原発2号機で出力調整試験が行われたことがきっかけ
 →反対運動で調整試験の日程は1日のみとなり、急激な出力上げ下げは行われないようになった
 高木は脱原発法制定を呼びかけた→すぐに署名運動を始めず議論を行った→署名運動が始まる頃には運動が落ち着いてしまっていた
 →328万人ほどの署名を提出したが、成果をもたらせなかったため、高木はうつ病になった
 高木は2000年に死亡しているが、11年でも72歳であったから福島原発事故の後「高木が存命だったら」と言われた→健在であっても、国は変わらなかっただろう
 →いまの反原発・脱原発運動は高木のように先を、さらにその先を見通せていないのではないか。推進側に振り回されている

114修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/28(金) 17:06:35 ID:Ylvok7Dc
長谷正人「宮崎駿(アニメーション監督)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 1979年、宮崎駿初めての映画監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』を発表したとき、世界的映画監督として成功するような可能性はほとんどなかった
 →82年まで次回作品の企画は次々と頓挫した→アニメは未だ子供向けの文化でしかないと思われていた。80年前後のSFアニメブームからも宮崎は疎外されていた
 →宮崎の映画作品はアニメ文化のオタク的・サブカルチャー的な変容プロセスのなかでは最も周縁的な位置にいた
 →さらに当時は映画産業が衰退していた。東映動画も辞めていた宮崎らには長編フルアニメーションを作るだけの製作環境がなかった
 宮崎は背景に徹底的にこだわった→背景の自然描写がそのまま思想や世界観になっているような作品になった
 →宮崎的エコロジー世界は、アニメーション表現の困難な条件を乗り越えようとした結果生み出された
 主人公を飛翔させることでマンガ的なキャラクターに生きているかのような躍動感を与える。落下の危機を乗り越えさせることで登場人物に生命感を与える
 宮崎が目指したのは、実験的な短編作品ではなく、大衆文化的な長編アニメーション映画だった→大勢のアニメーターが分業体制を取るしかない
 アメリカ(ディズニーなど)のやり方→人間の動きをそのままアニメーションにする。日本(手塚治虫など)のやり方→止め絵やバンクの多用などによる省力化
 →アメリカのやり方はリアルだがアニメーターの個性は失われる。日本のやり方は絵の代わりに作家の演出が重視されるが動きが少なくなる
 →宮崎は、絵をダイナミックに動かして見せるアニメーションの職人労働に徹底的にこだわった。機械的合理化や作家的知性ではなく職人的知性にこだわった
 →職人的アニメーターであると同時に作家でもあるというのは宮崎独特の立ち位置
 宮崎らが東映動画と対立しながらつくった『太陽の王子ホルスの大冒険』は緻密な動きを伴った長編アニメーションを大勢の労働者が集団で助け合って作ったもの
 →この経験以来、集団的な職人労働によるアニメーション製作にこだわり続けた→85年、スタジオジブリ設立
 →宮崎は集団で絵を描く共同労働を演出と結びつけてアニメーション製作の中核に据え続けようとした→これは最も困難な道でもある
 『未来少年コナン』や『カリオストロの城』は一般的な評価を得ることはできなかった。子供向け作品としてしか扱われなかった
 →宮崎なりの青年向けアニメとして作られたのが『風の谷のナウシカ』→ハッピーエンディングは不可能な設定。ナウシカはアンチ・ヒロイン→そこがそれまでの映画と違う
 →アニメのエンディングは鈴木敏夫と高畑勲の意見で、妥協案的な擬似ハッピーエンディング的な終わり方になっている→作家としての宮崎は妥協せず漫画で続きを描いた
 →ナウシカを転機として、ハッピーエンディング的な作品(職人的)と、意味がよくわからないエンディングの作品(作家的)の両方を生みだしていくことになる
 『風の谷のナウシカ』は同時代のハリウッド映画の変貌とシンクロしていたとも言える→60年代のアメリカン・ニューシネマや79年の『地獄の黙示録』など、それまでの映画のお約束や定番を突き崩した映画

115修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/28(金) 17:10:22 ID:Ylvok7Dc
>>114
「職人」と「作家」の違いは他のアニメ監督と比較すればわかりやすいかもしれない。
例えば、富野監督は「作家」はあっても現状では「職人」とは言えないと思いますし、
押井守も庵野も神山健治も細田守も深海誠も現状では「作家」とは呼べても「職人」とは呼びにくいのではないでしょうか。
「作家」でもあるし「職人」でもあり続けているアニメーターってジブリ系以外だとやはりそんなにいない気がしますね

116修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/30(日) 12:03:55 ID:Ylvok7Dc
想田和弘「奥崎謙三(元日本平)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 奥崎謙三は太平洋戦争でニューギニアに工兵として送られ、戦友のほとんどを失いながら奇跡的に命拾いをした
 →復員した後は、昭和天皇と日本社会の戦争責任を過激に追及し続けた。数々の事件を起こしたため、24年間以上を刑務所の独房で過ごしている
 1956年、金銭トラブルから不動産業者を殺害、懲役10年。69年、一般参賀で天皇にパチンコ玉を打ち、暴行罪で懲役1年6ヶ月
 76年、皇室の顔写真をポルノ写真とコラージュしたビラをデパート屋上からばらまき、猥褻図画頒布で懲役1年2ヶ月
 81年、『田中角栄を殺すために記す』を自費出版、殺人予備罪で書類送検、不起訴
 83年、ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公となる→その撮影過程で、元中隊長の殺害を決意、応対に出た長男に発砲。殺人未遂で懲役12年
 奥崎は良い結果をもたらす暴力を肯定し、積極的に行使した。テロリストと呼ぶことも十分可能である
 奥崎は日本兵たちの怨霊のメディア(代表者)であり、怨霊そのもの。訴えから逃げようとする人間に対しては激烈な暴力を振るうが、訴えに向き合う人には礼儀正しくなる
 →日本兵が仲間を殺して食べた事件の真実を話そうとしなかった元軍曹に対して暴力を振るったが、真実を話し始めると謝り救急車も呼んだ(『ゆきゆきて、神軍』の後半)
 奥崎は、1920年兵庫県明石市に生まれた。家が貧しかったため、小学校を出るとすぐに木綿問屋で住み込みで働き始めた→職を転々とする
 19歳になると、早い内に兵役義務を果たしておきたいと考え、戦死者がゼロに近かった海軍に志願するが、身体検査の結果門前払いを食らった
 →しかし翌年の40年、徴兵検査で合格(状況が変わっており、本来は不合格の者も合格になっていた)。41年、中支九江工兵隊に入る
 →上官に呼ばれた時に「忙しいから」と断ったら殴られそうになったので営外に脱走、売春宿で一泊→部隊の体面を保つために何の制裁も受けなかった(出すぎた杭は打たれない)
 →反抗するなら派手に大胆に反抗すべき→戦後もそれを実行していた
 43年、貨物船の中で5度頭上をまたいだ軍曹を殴った→これも不問になったどころか、一目置かれるようになった。以来、上官に暴力を振るうことを躊躇しなくなる
 ニューギニアでは戦った相手は米軍ではなく、マラリアと飢餓だった(それどころか、身軽になるため兵隊の大部分は銃を捨てていた)
 →奥崎は仲間とはぐれ単独で行動することになる。右手の小指も失い、餓死寸前にまでなった→殺してもらうつもりで現地住民の村に投降したが捕虜となって助かった
 →今まで両親以外からは受けたことのないような親切を米軍からは受けた→オーストラリアでの捕虜収容所生活も奥崎にとっては幸福だった
 復員船の中では食糧を横領しようとした船長に対して刃物で傷害を加えた→復員兵から感謝され、食糧配給も改善された→正しい目的のための暴力の必要性を確信
 復員後は人なみの生活を送っていた。バッテリー商を開業→不動産業者とトラブルになり復員船の時と同じ要領で刺してしまうと相手が死んでしまい、自首した
 →独房で奥崎は、殺したくもない不動産業者を殺すことになったのは、自分のことだけを考える動物的な生き方をしてきた天罰だと考えるようになった
 →さらに、悪因そのものを除去しなければ、悪果としての人間が次々と生まれるはずだと考えるようになる→悪因は、天皇や天皇的な存在、不平等な構造の社会
 奥崎は、天皇や権力者たちは死刑になるか社会的に抹殺されると確信していた→現実はそうではなかった。奥崎にとってそれは許しがたかった
 天皇へのパチンコ玉発射は、世の中の人々を目覚めさせるために行った→マスコミは、ムシャクシャしてマスコミを騒がせるために事件を起こしたと論じ、すぐに忘れられた
 2005年6月、奥崎は85歳で死んだ。奥崎と奥崎が背負っていた戦死者たちの怨霊はいまだ鎮まっていないのではないか

117修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/30(日) 17:57:03 ID:Ylvok7Dc
そういや世にも奇妙な物語で「ウミガメのスープ」という話があるそうですね。見たことはないですが

118レト:2017/05/01(月) 19:24:05 ID:hElrqMRI
不思議の国のアリスでもネタにされていますが、
英国には安価な子牛で作られたウミガメ「風味」のスープがあるそうで。
日本にもがんもどきとかあるんですからうなぎ風味のナマズとかが定番商品になってもいい気がします。

119修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/02(火) 17:18:08 ID:Ylvok7Dc
輪島裕介「美空ひばり(歌手・女優)」(『ひとびとの精神史7巻 80年代』)
 1937年、美空ひばり(加藤和枝)は横浜市に生まれた
 →43年、父の出征の際に歌ったことが評判となり、しばしば壮行会や慰問に招かれるようになった→父の復員後、素人楽団を作り、近所で演奏するようになる
 →46年、地元の劇場に出演→47年から美空ひばりと名乗るようになる(それまでは美空和枝)→48年、横浜国際劇場と専属契約
 49年、日本コロビアム所属歌手による公演に笠置シヅ子の代役として出演→そこでディレクターから認められる
 →松竹の『踊る竜宮城』に出演。挿入歌を日本コロビアムから発売→日本コロビアムと専属契約
 →松竹『悲しき口笛』で初主演。主題歌も大ヒットし、一躍脚光を浴びる→50年、ハワイでのロケを含む『東京キッド』が大成功
 51年、横浜国際劇場副支配人だった福島通人社長がつくった新芸術プロダクションに所属。52年が美空の最初のキャリア絶頂期
 戦時中、壮行会や慰問という場での演奏は天才少女のみに開かれた場所では当然なかった。敗戦後に美空が出演した劇場も、戦後急ごしらえに作られたアマチュア劇場である
 →敗戦直後は素人の唄が娯楽になった(象徴的なのがNHK「のど自慢」)→戦時中の壮行会・慰問からの連続性
 美空は「のど自慢」予選で失格になっている→何を歌ったのかは諸説あるが、子供が歌謡曲を歌うということが望ましくないとされた
 美空は松竹を中心にしながらも、58年の東映と専属契約以前は日活以外の各社に出演→きわめて異例
 →ちょうど、五社協定が確立する狭間の時期だった。所属する新芸術プロダクションが制作機能も有していた→新芸プロ自社製作、福島社長がプロデューサーの映画に多く出演
 美空の音楽映画は、その時々の流行をいち早く取り入れ、あらゆる役柄、あらゆる曲調を歌いこなすものだった(ただし全て「ひばり調」になる)→和洋折衷
 57年、ファンに塩酸をかけられる事件→山口組との関係が深まる
 →山口組興行部は神戸芸能社と改称。58年、福島通人を排除する形で設立されたひばりプロダクションの会長に山口組3代目組長の田岡一雄が就任
 →東映と専属契約。福島がいなくなったためだと考えられる→当時の東映で美空は実質的に唯一の主演女優(男役や男装も多かった)
 62年、小林旭と結婚→この頃、日本映画が退潮していき出演映画数も激減→64年、離婚。活動場所を舞台に移し、テレビ出演も行うようになる
 当時は古臭い曲調が流行だった(村田英雄、森進一ら)→それに対応したのが「柔」「悲しい酒」
 GSブーム→「真赤な太陽」。このヒットを最後に美空がヒット曲を出すことはなくなる→弟の暴力団との関与が取沙汰され会場使用禁止、紅白歌合戦落選などのトラブルや批判
 美空が「女王」だったのは、ありとあらゆる曲調を歌いこなしたからである→美空の楽曲のなかで「演歌」と呼べるものは必ずしも主流ではない
 →そもそも美空全盛期に「演歌」というジャンルは存在しない。60年代末から70年代にGSやフォークと区別するために用いられるようになったのが「演歌」という言葉
 65年、竹中労『美空ひばり』→ひばり礼賛。美空は日本の民衆的な、民族的な音楽の伝統を守ってきた存在として描かれる
 →竹中は当時の左翼系音楽運動の論理に美空を当てはめている(黒人ジャズの民族性賞賛、日本の音律「七五調」重視)。美空側は竹中のパイプ・人脈を利用したかったと思われる
 →竹中は「演歌」という言葉は使用していないが、竹中の主張は「演歌」ジャンルの成立において決定的な役割を果たしていく
 70年代以降の美空は、新語である「演歌」に包摂されること(演歌の女王)でキャリアの延命が可能になったが、見失われたものは小さくない
 87年4月、美空は倒れる→本田靖春『戦後―美空ひばりとその時代』刊行→美空は戦後という時代と結びつけられるようになった
 美空が死去した89年、日本の大衆音楽は大きな転換の最中にあった→『夜のヒットスタジオ』(90年終了)や『ザ・ベストテン』終了
 →日本レコード大賞も「ポップス/ロック部門」と「演歌/歌謡曲部門」が分離。90年代前半にJポップという呼称が定着
 →演歌ジャンルは主に高齢者を中心とするニッチ市場に追いやられていった
 →その中で、美空を「演歌の女王」や「戦後の象徴」として語ることに対しての批判も出てきた(都はるみ、小林信彦)
 →小林による「美空ひばりのオリジナリティは、えたいの知れぬ和洋折衷だ」という主張は熱心な音楽愛好家の共通認識となってゆく
 現在、名曲とみなされている「愛燦燦」や「川の流れのように」は90年代以降のJポップの音楽語法と共通する特徴をもっている
 →美空は死後、「演歌の女王」というイメージから解放された→美空の別の側面が注目されるようになった

120修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/02(火) 17:22:45 ID:Ylvok7Dc
>>119
長文になってしまったのですが、1人の歌手だけでもこれだけのことを語れるんだなぁと思いました。
もはや演歌の時代は終わったといえますが、そもそも演歌というジャンル自体が作られたものであるということから考えても衰退していくのはしょうがなかったのではないですかね。
ただ、Jポップの時代ももう終わりを迎えつつあるのではないかなぁと思ったりもします。
90年代頃の音楽と今の音楽はジャンル的にはちょっと違うんじゃないかなと思わないでもないんですが、そうなるとまた新しいジャンル分けのための言葉が作り出されるのかなぁと考えたりもします。

それにしても暴力団と関係があったことが公然になっている有名人だけど別に本人の名はいまだ傷ついていない人物というのは結構いるような気がしますね。
今だって、大御所演歌歌手で暴力団との関係が確実にあるだろうと言われている人はいますしね

121修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/05(金) 12:09:26 ID:YbuHQj7w
水島久光「中田鉄治(夕張市長)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 現在、北海道夕張市は日本国内でただ一つの財政再生団体。中田鉄治市長の対外的なアピールポイントは「炭鉱から観光へ」だった
 中田が市長になって2年ごろの81年10月16日、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故。戦後3番目の犠牲者数(93名)、59名の安否不明者を残したまま注水が行われた
 →石炭の時代の終焉を印象づけた
 87年、青野豊作『夕張市長まちおこし奮戦期―超過疎化からの脱出作戦』→中田肯定論
 しかし中田の計画は無謀だった。全部で179プロジェクト、総額6000億円→政府からの補助、起債、民間資金導入で賄う→荒唐無稽だった
 →91年『追補夕張市史』の記述→トーンダウンしている。計画の原資調達の目途が立っていない
 新生イメージの核になったのが、90年のゆうばり国際ファンタスティック映画祭だった。ふるさと創生事業の1億円を原資にした(使い方の建設的な例として高く評価された)
 →映画によって町を根底から作り変える、映画のような街にしようとしていた
 →合宿所の名前が黄色いリボン。2000年、中心市街地の建物に映画の絵看板を掲げ、ゆうばりキネマ街道と命名、などをおこなった→張りぼて感が拭えない
 中田は「演じる」ことが好きだった→『西部警察』や『仮面ライダーBLACK』にも出演。「市長」という役を演じ、パフォーマンスする市長だった
 中田が支持されていたのは政策の是非よりも愛されていたからだった。しかし観光客数はピーク時でも水増しされていた
 →成長に転じるイメージを描きつづけるため無計画な投資をつづけた。中田は夢の舞台で踊り続けた
 夕張市の財政破綻が報じられ、不正経理が明るみに出ると既に故人となっていた中田には独裁者、ワンマンのレッテルが貼られた→最晩年は、恫喝を繰り返していたという
 なぜ夕張だけがエスカレートしたのか。なぜ人々は彼を愛し、首長にまで押し上げ、踊らせ続けたのか。パフォーマンス好き、低学歴からの立身出世は彼だけの個性ではない
 高度経済成長の最後のバトンを受け取ったのが中田だった。そのバトンを受け取ったのは中田だけではない→自治体はさらなる経済成長にすがった
 生キャラメルブームもあったが、そのブームが去るとまた負の遺産が出てくる。市長は2人連続で一期で降り、東京都から派遣職員で来た30歳の人物が市長になった
 →なぜ夕張は、繰り返しメディアのネタになるのか。この町の宿命なのか

122修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/05(金) 12:12:55 ID:YbuHQj7w
夕張が仮面ライダーBLACKに出てきたのは有名な話ですが、それも市長の政策の一環だったんですねぇ。
パフォーマンスを演じて、支持を得るというタイプの首長は何もここ数年で出てきたわけではなく、30年ほど前に既にいたんですね。

それにしても最近は、聖地巡礼やゆるキャラ(一部は萌えキャラ)でお金を稼ごうとしている自治体がすごい多いですが個人的には疑問を感じるんですよね。
聖地巡礼は作品が人気になってから自然と増えていくものなのだから、行政が主導で行うようなものではないし、ゆるキャラ・萌えキャラにしても人気があるのは極々一部のキャラなんだからそのキャラに使うお金を別のところに回せばいいのになぁと感じることが多々あります

123修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/06(土) 12:55:47 ID:z68wRE6o
堀江宗正「島田裕巳(宗教学者)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 島田裕巳は柳川啓一の講義を聴いて宗教学を志した→柳川はゼミの教え子を新宗教団体に潜入調査させており、島田の担当はヤマギシ会だった
 ヤマギシ会→養鶏を核に共同体を建設し、強引な勧誘で不法監禁や殺傷事件に至り、狂信者集団とされた団体
 →島田は、我執や固定観念から解放され一体的関係に生きるヤマギシ会の理想を広げれば社会の諸問題が解決されると納得した→しかし共同体を抑圧的に思い、離れた
 島田はコミューン(共同体)自体が矛盾や対立を生むと結論した。精神的転換は洗脳に近く、集団固有の言葉は恣意的に利用され、理想的共同体は一時的だと批判した
 →宗教学は、もっとも自由を阻害する宗教から人を解放するものだと考えた
 1991年春、幸福の科学が急成長していた→島田は批判的コメントを続けた。講談社『現代』に批判文章を掲載→会員たちから訴えられる
 島田の幸福の科学批判→数を誇示するバブル宗教(雑誌を取るだけの会員が9割だとも指摘)。拡大神話に取りつかれている。子どもの空想の宗教
 島田は、オウム真理教を子どもの集団、ディズニーランド宗教だとした。子どもじみた宗教だと見下したことが危険性の過小評価にもつながってしまった
 島田は90年、熊本県にあったオウムの精舎を訪問(この時点でオウムには数々の疑惑があり、すでに殺人も犯していた)→島田は、信者は一般の若者と変わらないとした
 麻原彰晃とも面会し、思っていた以上に理性的とし、洗脳もないとした→ヤマギシ会の時の考え方から大幅な後退
 →自説も修正し、オウム信者は子どもだが麻原は障害ゆえ社会との葛藤から処世術を身につけた大人だと主張(大川隆法を徹底的に子どもだとしているのと対照的)
 幸福の科学によって批判されている時には、オウム信者が島田をホテルまで護衛している。「朝まで生テレビ」にも出たほうがいいと島田が教団に伝えている
 →番組では麻原VS幸福の科学になった(島田は幸福の科学との直接対決を避けた)。島田が麻原に助け船を出す場面もあった
 →番組最後の視聴者感想では、自分の考えの押し付け、子どものけんか、マスコミが持ち上げている、一時期のブーム、金集め等の意見が出た
 →島田はその後も、学園祭で麻原と対談したり、上祐史浩とシンポジウムで同席するなどを行った
 →ゼミの学生から島田がオウムに入信させたと騒がれるようになる→『噂の真相』も島田が詐欺に協力したと報じた(この頃オウムは犯罪を重ねている)
 95年3月19日、恩人であるはずの島田の旧自宅前に捜査攪乱のためオウムは爆発物を仕掛けた。3月20日、地下鉄サリン事件→島田はオウムを擁護した
 →科学薬品が見つかったことでだまされていたと認めたが、教団の未来を未だ信じていた。9月25日から島田バッシングが始まる→10月2日、日本女子大学から休職処分
 →11月30日、退職。島田をオウムで幹部扱いだった等と報じた『日刊スポーツ』を名誉毀損で訴え、98年に全面勝訴している
 2001年『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』を発表→オウム事件に関する基本文献となった。これで島田が責任を取れたのかの評価は難しい
 →麻原より幹部の責任を強調。検察の主張を徹底的に批判。殺された村井秀夫が地下鉄サリン事件を主導したと主張。麻原は止めようとしたのだとしている
 麻原とはじめて会った時点で完全に失明していたと島田は言っているが、これも疑問がある。洗脳も麻原の責任ではないと主張
 島田は麻原が殺人の指示を直接出したのは事実だと認めるが、教祖としての責任は殺人の隠蔽、正当化、幹部独走の部分にあるとする
 →検察や江川紹子に比べると相当免責している。島田は麻原が殉教者として神話化されるのを恐れて死刑にさせないようにしている
 幹部独走論→麻原が無力だったと示し、麻原の脱神話化と教団弱体化を狙っている
 宗教学者は研究対象に一定の共感を持ち、宗教固有の価値を評価する傾向があった?→島田や中沢進一は宗教学の成果の上に成り立っていたオウムに共感し評価した
 →しかし、新宗教研究者の井上順孝、島薗進、塚田穂高は市民社会の倫理からオウムを批判している。島薗はオウム事件以前から島田と中沢を批判していた
 島薗は島田らの研究は客観的ではないとしていた→島田は完全な客観性などないと反論しているが、島田の場合は主観・客観の問題以前のレベルだった
 島田は決して新宗教研究者でないのに取材を引き受け、テレビにまで出演するようになり、教団に対して極端な態度をとった
 現在、島田の嫌う日本社会の抑圧的性格は強化され、日本では新宗教団体の新たな台頭は見られなくなった。若者はスピリチュアリティへの関心も隠している
 重要なのは見解の多様性の維持

124修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/06(土) 12:57:04 ID:z68wRE6o
架神さんも宗教のことで本を書いているし、それを読んで宗教に興味をもつ人もいるでしょうけど、
共感を持つ部分はあったとしてもその宗教から一定の距離は絶えず保つということは気をつけてほしいなぁとおもいますね

125修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/08(月) 20:11:30 ID:z68wRE6o
中西新太郎「小林よしのり(漫画家)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 戦後五〇年から戦後六〇年は右傾化の10年→小林よしのりのパフォーマンスが果たした役割は大きい
 衝撃と言えるほど大きな反響を呼んだのは98年の『戦争論』→それまでの戦争認識を公然と否定した→「自虐」と「反日」を非難
 →反日勢力と日本、日本人という図式を描き、正義は後者にあるとした→作品では、日本人の立場を代表するのはキャラクターとしての〈小林よしのり〉
 小林は私欲追及を左翼思想としたが、左派は高度成長期の生活変容を批判している
 小林の場合、公=国→国=歴史の積み重ね=伝統→この考え方は小林独自の主張とは言えない。小林の主張は保守右派思想の系譜上にある
 →小林は、規範や道徳が自分たちの中に宿っているとし、日本人として覚醒せよと呼びかける
 『戦争論』が取り上げた個々の話も、描き出された戦争体験も、大東亜戦争肯定論なども戦後持続的にあったもの
 小林は知識人対大衆という対立図式をおき、反エリート主義の論法につなげる→庶民と地続きに自分の主張があるとし、その点が読者の共感を集めた
 『戦争論』は大衆の意識、その意識を操作(洗脳)している世論、メディアを攻撃対象とし、横暴な多数派と戦うとした→これは現在のネット右翼にも継承されている
 →世論、メディアの洗脳を解くという自己操作が自己の絶対的優位を確信させる→タブー破りにつながる→弱者を非難してもいい
 →小林は同意していないが、『戦争論』は乱暴な敵対者狩りにつながった
 小林は、主役キャラとして登場する自分、サヨク等の敵役キャラ、味方キャラ等を設定し、作者小林が論争の舞台を取り仕切る→それが若者にうけた
 →小林自身もこの手法の危険性に対する自覚はあった→この手法は山野車輪『マンガ嫌韓流』(2005)で成功を収めた(主役としての作者キャラはいない)
 →小林「キャラが立って読者が感情移入できたら その漫画は成功しヒットする」を証明した
 『マンガ嫌韓流』は作者を匿名化しても「ごーまんをかます」ことができることを顕わにした→小林の手法は真実性の判断や倫理的判断の基準からも解放させてしまった
 →もはやネット上ではフィクションと現実を弁別する意識はない
 『戦争論』の主張は、「つくる会」からも右に寄った意見として認められていなかったのに大ヒットした→右派言説に引き寄せられる心情をとらえた
 右傾化の10年と新自由主義構造改革の10年は重なっており、右派言説と新自由主義擁護は連携し補完しあっている(小林は反新自由主義)
 →ただ、右派言説を受容する層は下層に限られないし、若者のみの話でもない。新自由主義等に由来する不安だけでは説明できない点がある
 肯定したい実体が定かでなくても肯定してしまえる際限ない自己肯定への欲望が存在している

126わんのねこ:2017/05/08(月) 20:35:11 ID:YwyhNITU
 一応なりにも民族学を趣味と自称する私が、
今のいままで赤松啓介の著作に目を通しておらぬのは痛恨であった。
で、とりあえず「性・差別・民族」(河出文庫)を読んでみたけど、
このおっさん、面倒くさいな。
なるほどと思う反面、いやそれは納得できない、ということもある。
初夜問答についての報告は興味深かったですよ。

・初夜問答:「この世界の片隅に」でやってたやつが「木登り型」
他にも「馬乗り型」があるとかないとか。

127修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/08(月) 22:46:06 ID:z68wRE6o
『性・差別・民俗』は新刊なんですなぁ。まぁこのクラスの人だと死後も新刊が出ることは珍しくないですが。
性関連の民俗は最近はやる人も減ったのかなというイメージがありますが、そもそも今現在そんな風習は残ってないということが大きいんでしょうな

128修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/09(火) 17:05:34 ID:z68wRE6o
山下英愛「金学順(元慰安婦)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 金学順の証言は数種類のものが出ている→慰安所生活に関してはほぼ一致しているが、慰安婦になる前の語りには若干食い違う部分もある→聞く人等によって語りは変わり得る
 学順は満洲吉林で生まれ、すぐに父親を亡くした。母親と平壌で暮らしていたが非常に貧しかった→14歳の時に母親が再婚→他の家の養女になった
 →養女になった家が妓生修行をさせる家だった。実際は身売りのようなものだったのかもしれない→1941年頃、学順ともう1人の養女は中国北京に行かされる
 →北京に着くと日本軍将校に引き渡され慰安所に連れて行かれた→ある日忍び込んできた朝鮮人の男について行き脱出→1年後妊娠、上海のフランス租界に定住
 →2人の子どもを産んでいる。質屋を経営していた→46年6月、帰国→ソウルの収容所で生活中、娘を失う→52年、夫が死亡→夫には苦しめられていたので悲しくなかった
 →息子も小学校3年生の頃に死亡→その後の20年間についてはほとんど語られていない→80年代初め頃にソウルで住み込み家政婦になっている
 →7年後、1人暮らしを始める。故郷が平壌なので韓国に身寄りはなかった。生活保護で暮らしていた
 その頃(90年11月)、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が結成されていた→日本でも参議院予算委員会で慰安婦について質問があり、政府は民間がやったことだとしていた
 学順は日本政府が慰安婦問題に対する責任を否定していることを知った→名乗り出ることを決意する
 挺対協は慰安婦ではない勤労挺身隊の存在を知りつつもそのまま挺身隊を使用していた
 →韓国では挺身隊が慰安婦の意味で使われていた。挺身隊も慰安婦も未解決の問題であり、挺身隊を女性受難の代名詞にしようとした
 →日本と韓国では挺身隊という言葉の表現の意味合いが違う
 学順は91年12月6日、原告の1人として日本国を相手に慰安婦被害に対する補償を求めて提訴(元慰安婦で実名を公表したのは学順だけ)
 →日本政府も資料調査を行うようになった。92年1月10日、吉見義明が日本軍の関与を示す資料が多数存在することを発表
 →当時の軍の関与は否定できないという政府談話が発表される。1月17日、宮沢喜一首相が韓国の国会で謝罪
 挺対協は国連にもこの問題を訴えた。日本政府は93年8月4日、河野談話を発表→軍の要請により慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことを認めた
 →慰安所での生活は強制的な状況のもとでの痛ましいものであったこと、総じて本人たちの意思に反して行われたことを認めた
 →画期的な前進だったが、表現のあいまいさが指摘された。94年6月、学順はフィリピン人被害者たち11人とともに羽田孜首相と面会(非公式な面会、偶然会っただけ)
 村山富市政権の基金構想(女性のためのアジア平和国民基金)→謝罪ではなく見舞金事業→アジア女性基金は慰安婦問題解決のための努力のたまものだったとも言える
 →しかしアジア女性基金は国が責任を認めて謝罪するというものではなく、学順には受け入れられなかった
 97年12月16日、学順は73歳で死亡した。その後も続いた裁判では、学順ら女性原告たちが慰安婦とされたことは事実として認められたが、補償請求は退けられた

129修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/11(木) 20:10:12 ID:z68wRE6o
吉岡忍「筑紫哲也(新聞記者・キャスター)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 筑紫哲也は1935年生まれの戦中派だが戦争中や戦後の体験については高校生の頃に書いた作文にしか書いていない
 →小中高の全てで入学した学校と卒業した学校が違う。2度の疎開もあった→東京、大分県日田、静岡県沼津、東京と移り住んでおり、故郷がなかったとも言える
 早稲田大学に入学した筑紫は学生運動には参加せず、ボランティア活動を行っていた→アメリカのクウェーカー教徒とともに戦災孤児のための活動を行った
 →アメリカからやってきた活動家たちとぶつかり、自前の団体を立ち上げる→59年、朝日新聞社に入社→池田勇人首相の番記者となる
 →政治家と番記者が酒を酌み交わしながら議論をするというやり方に疑問を抱く
 那覇支局勤務時代(米軍統治下の沖縄)、ワシントン総局時代(ウォーターゲート事件発生)、『朝日ジャーナル』副編集長時代(ロッキード事件発生)が記者生活の山場
 78年、テレビ朝日「こちらデスクです」のキャスターに抜擢される→79年4月1日、報道番組でエイプリルフール企画を敢行。やりたいことをやる制作チームだった
 ベトナム戦争後の日米貿易戦争の取材でも、帰還米兵が軍法会議にかけられるという話を聞くとテーマを変えてしまうぐらい自由だった
 →日本の関税批判をやっている政治家の集会にも出かけ、このオレンジは30セントだが東京では35セント。関税の話は誇張しすぎではないか、という質問をした
 「こちらデスクです」を欠かさず見ていたのが久米宏→84年、テレビ朝日の番組で共演(この時の筑紫は『朝日ジャーナル』編集長として誌面改革を行っていた)
 85年、テレビ朝日は久米宏をキャスターとして「ニュースステーション」を始める
 89年、ニューヨーク駐在員だった筑紫のもとにTBSの2人の幹部が訪れる→筑紫は朝日新聞社を退職し、「筑紫哲也NEWS23」のキャスターとなった
 筑紫はテレビの全体主義性を警戒していた
 →TBSの損失補填事件(株の損失を証券会社から補填してもらっていた事件)、ビデオテープ事件(オウム真理教幹部にオウムに批判的な弁護士の取材テープを見せた事件)
 →自分の番組内でTBSを批判した
 筑紫はゲストを怒らせたことは一度もなかった(首相を辞任した後の森喜朗を呼んだ時も長々と話を聞くなどしており、窮地に陥った政治家が出演することはよくあった)
 →久米宏との違い。久米はスタジオ以外で政治家と絶対に会わなかったし番組内でいきなり質問するタイプだった(黒柳徹子とも食事すらしていなかった)
 筑紫と久米の似ているところ→反自民、反権力(反日、反米)と言われるが、直接的に権力批判はしていない→結論を言わずに番組を終える→視聴者に考えさせる

130修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/11(木) 20:11:08 ID:z68wRE6o
今の若い人だと、筑紫哲也も久米宏も知らないという人結構いそうですね。
というか、めざましテレビの大塚さんも知らない人いそう

131修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/13(土) 12:23:52 ID:z68wRE6o
椹木野衣「岡崎京子(漫画家)」(『ひとびとの精神史8巻 90年代』)
 1996年5月19日、岡崎京子はスピード違反・飲酒運転の車にはねられた→一命は取り留めたが、作品をかけなくなったことで宙吊りのような存在になってしまった
 戦後50年を迎えた95年は、阪神淡路大震災が起き、地下鉄サリン事件が起きた。『ヘルタースケルター』はそんな時期の作品だった
 94年『リバーズ・エッジ』で岡崎の作風は変容したと強調されているが、そうでもない→腐乱死体を発見した秘密を共有する若者たちも心の空虚は埋められていない
 →『リバーズ・エッジ』は80年代的。本当に90年代的になったのは『ヘルタースケルター』
 80年代とは→死などに対する肉体的なリアリティの希薄さ。世界の終わりを予感するようなことが「ちょっとだけ起こった(岡崎)」(チェルノブイリなど)
 『リバーズ・エッジ』の死体も無力であり、「何も起こらなかった」→次にかいたのは、生きながら死んでいる「女優」だった
 女優りりこは最新の医学=科学技術で生き、中身には「詰め物」しかない「ぬいぐるみ」になっている
 →震災やサリン事件で、日本は表皮が剥がれ、日本人が隠し持ってきたもうひとつの顔が露呈した。95年以降、00年代や10年代という言い方はもはや意味をなしていない
 →りりこのように、長期にわたって過酷である一方、一時的な快楽でかろうじて担保される詰め物のような生の渦中(日常)に投げ込まれている

132修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/13(土) 12:25:41 ID:z68wRE6o
今、テレビ版のエヴァを振り返ることはエヴァの時代にマジンガーZを振り返ることと時間的には同じようですが、
70年代や80年代に比べると95年以降ってやっぱり何か違うというか、95年以降という時代がずっと続いているんじゃないかという気はしますね

133唯野:2017/05/22(月) 17:30:37 ID:XQef5M/g
「無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教」 鵜飼 秀徳

タイトルは釣りです。
多様化する葬儀・埋葬方法のカタログ的ルポと仏教学者佐々木閑ロングインタビューが内容。

以前かがみさんが言っていた「初期仏教は社会に対して特に見返りを行うことはないんだけど(葬式とかやりだしたのは後年)、修行している姿を見せることで寄付を得た」っていう話がよくわからなかったのだけど、
それは現代の科学者が研究費を得ているのと同じだ、という本書の記述で納得。
ビッグバン宇宙論とか研究しても、直接的に社会の役に立つわけではないが、その思索や研究をする姿そのものにかっこよさや尊さを感じてお金を出すのと一緒だと。
そして畏敬の念オンリーというわけでもなく、宗教的修行や科学的探求に援助をすることで、自分の来世にご利益が発生したり、数百年後に何か実用性が発生するかもしれない可能性への投資としての意味もある。
同時に僧侶と科学者には清廉潔白さと組織の自浄作用も強く求められるので、破戒僧や捏造科学者にはひときわ強力な社会的制裁が行われる、と。

134P4:2017/05/22(月) 21:21:34 ID:05iCaUEY
1995年というとネットが普及した年ですね。ウインドウ95だっけ?
ネット社会になって、情報が簡単に手に入るようになって、物作りも影響を受けたのかも知れませんね。
ネットより携帯電話が普及した事が影響したのかも知れませんね。
ちなみに携帯とネットが合体したのは2001年頃でスマホ登場は2007年らしいです。

135修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/22(月) 22:47:42 ID:z68wRE6o
清水克行『日本神判史』を読みました。
室町時代の100年間のみ熱湯のなかに手を入れて火傷で有罪無罪を判定する湯起請が流行った。
さらに戦国から江戸初期にかけてのみ焼けた鉄片を握って火傷で有罪無罪を判定する鉄火起請が流行った。
これはどちらも神仏の力で正邪が判断されると考えられていたもので神判と呼ばれている。なぜこの時期だけにこのような神判は流行ったのか。その疑問を解き明かそうとしているのがこの本です。
結論から言うと、この方法を行えば白黒を確実につけられるというのが1点。湯起請の場合、有罪になるかどうかは五分五分のようですが、仮に有罪の者がいなくても有罪の者は身近にいないという答えを得ることができた。
実を言うとこの時期は証拠主義・文書主義に転換していく時代なので、そうなると不利になる人たちが一発逆転をかけて行っていたというのが2点目。実際、間違いなく有罪であろうものが神判の結果、無罪になったことがあったようです。
さらに権力者が自分の思い通りにならない時に、自分のやりたいことを押し通すためにこの神判を使ったというのが3点目になるようです。
この3点が語られているわけですが、さらにこの時代は神仏の力が弱まっていた、神仏の力に頼らない人たちが出てきた時代であり、だからこそ逆にこのような過激な神判が出てきたのではないかとも語られています。
しかし、江戸時代になると裁判制度が全国的に整えられていく。そうなればもはや神仏の力などは無力であり、神判も消えていったという話になるようです。

面白かったのは、なぜ湯起請では絶対に火傷を負うとは限らないのかという話で、どうやら単純にお湯がぬるかったために誰も火傷を負わなかったということが実際にあったようです。
また外国との比較で、中国はかなり早い時期から法制度が整えられたので、少数民族を除いて神判は早々に行われなくなったということも語られています

136ZAPZAPZAP:2017/05/23(火) 23:15:46 ID:2lZCzHvc
鉄火起請は去年の真田丸で行われていましたね。大河ドラマでこの手の話題を扱うことが珍しいので妙に記憶に残っています。
一方、今年の大河ではアジール(世俗権力に対する宗教勢力が持つ治外法権的特権)が扱われており、この時代における裁判制度が俄かにスポットを浴びることとなり、非常に興味深いです。
鉄火起請はなかなか面白いモノでしたが、行われていた期間が非常に短いというのは知らなかったので驚きです。一過性のブームみたいなものだったのでしょうか。

湯起請については古代における神判で盟神探湯というものがありこの流れを汲むのでは、と私は思いましたが果たして・・・。

>中国はかなり早い時期から法制度が整えられたので、少数民族を除いて神判は早々に行われなくなったということも
実は日本でも飛鳥〜平安時代ぐらいにいったんこの手のものが無くなった(盟神探湯が行われなくなった、文献上確認が出来ていない)のですが、室町時代になって再び行われるようになっているので、
この時代はやはり特異点的なナニカがあるかもしれないですね。

137修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/24(水) 11:14:49 ID:z68wRE6o
>>136 ZAPZAPZAPさん
真田丸の鉄火起請は話題になりましたね。ちなみにNHKはタイムスクープハンターでも取り扱ったことがあるようです。

それで盟神探湯と湯起請の関係性なのですが、これに関してはつながっているという説と断絶しているという説があるようで、歴史学では断絶しているという説が有力のようです。
というのも、やはり700年近くも間があって登場したのが湯起請なので、その間を埋めるものがなければつながっているとは言えないだろうというのが大方の結論のようです。
ちなみにこの本の著者の清水さんは、盟神探湯と湯起請は別物だろうということも言っていて、湯起請の「起請文を書く」という行為に注目していますね。
起請文というのは誓約書なのですが、これは神仏に誓いを立てるもので中性に特有のもののようです。
清水さんはそこに注目して、中世的な宗教思想を背景にしたものが湯起請だと考えているようです。

ただ、135にも書いたように室町時代から段々と宗教勢力の力が弱くなり、裁判制度も証拠主義・文書主義に変わっていくので、そういう狭間の時代だからこそ湯起請や鉄火起請のような過激なものが登場したのではないかと考えているようですね

138修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/24(水) 17:04:58 ID:z68wRE6o
生田武志「貧困と野宿の縮図・釜ヶ崎での三十年」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 釜ヶ崎は大阪市西成区北端にあり、戦前から日本最大の日雇労働者の街として、そして現在でも毎晩500人ほどが野宿する日本で最も野宿者が集中する街として知られている
 バブル期だった1989年でも釜ヶ崎の結核発病者は1500人を越え、発病率は全国平均の48倍、死亡率は43倍だった
 生活保護の医療扶助を狙う貧困ビジネスの病院も乱立しており、不必要な手術、過剰な投薬、医療ミスなどが頻発していた
 役所(市立更正相談所)に行っても、住む家がない、まだ働ける等の理由で追い返された→日本全国で野宿者には65歳まで生活保護は受けさせないという暗黙の基準があった
 日雇労働者は早朝3時、4時にあいりん総合センターに行く→人材派遣業者(手配師)が労働条件を提示して車で待っている→労働者は直接契約し、車に乗せられて現場に行く
 →夕方に賃金を受け取り契約終了。基本的にこのパターンが繰り返される。建築・土木業界は仕事が多いときに釜ヶ崎に求人に来ている
 →いつでも建築・土木の仕事があるわけではない。日雇労働は究極の不安定雇用。建設業については労働者派遣は認められていないが、黙認され続けていた
 建築・土木の現場では、危険な仕事は日雇労働者にやらせるということがあたり前になっていた→原発関連、アスベスト関連の求人も釜ヶ崎にはある
 釜ヶ崎では労働者による激しい抵抗運動も起こってきた。61年以来、数十回もの暴動が起こっている→暴動のイメージから危ない場所だと思われている
 91年バブル崩壊の時には釜ヶ崎の求人数は半数以下に急落した。98年になると、多くの人々が全国で野宿するようになり、女性と若者の野宿も増えていった
 →野宿者が激増すると行政は強引な排除を行いはじめたが、追い出された野宿者は他の場所に移るだけなのだから問題は何も解決しない
 野宿者への襲撃も続いた。野宿者の40%が被害経験があると答えた調査もある。襲撃は10代の少年たちによってよく起こされるが、少年たちも問題を抱えていることがある
 2007年、世界金融危機が起こり、08年末に年越し派遣村が注目を浴びると「65歳以下」「住む家がない」人でも生活保護を受けられるように改善されていった
 →日本の野宿者数は08年から減り続けている。現在、日本全国で野宿している人は1万人程度だと思われる
 ただ、生活保護申請によってアパートに入った結果、支援者とコミュニケーションが取りにくくなり、行政窓口にも行けない精神疾患の人々の割合が急激に増えている
 野宿している人にも精神疾患の人は多いと思われ、池袋駅周辺の調査では精神疾患の可能性がある人41%、知的障害の可能性がある人は30%だった
 施設やアパートに入っても飛び出して行方不明になってしまう人も多い。若者の野宿者には虐待経験者や発達障害の人もおり、周囲の人と関係を保つことが困難なことがある
 →野宿者支援団体にとって、人間関係の貧困が重要な課題になっている
 12年、西成特区構想→日雇労働市場の縮小、再開発→それは野宿・貧困問題を解決するのではなく、排除し、見えなくするだけではないか

139修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/24(水) 17:12:15 ID:z68wRE6o
>>138
この『ひとびとの精神史』シリーズは2000年以降は、いろんな人の論文集・活動記録になってます。

今現在、釜ヶ崎の辺りって実は外国人観光客の増加もあって外国人宿泊者が増えてるんですよね。外国人からしてみればものすごい安く泊まれる場所だし、外国人的にはそこまで気にするような場所でもないみたいですね。
さらに新今宮駅のあたりに高級ホテルを建設する計画もあるようですし、いつのまにかすっかりかつての面影を無くしていく可能性はあるんですよね。
天王寺なんかはかつては野宿者がいっぱいいたし、天王寺動物園周辺なんてダンボールハウスだらけでしたけど、再開発が進むうちにそういう人たちは全て追い出されていきましたからね。
東京もオリンピックが近付けば一気に野宿者追い出しが進むんでしょうけど、結局のところやっぱり追い出したところでいなくなったわけではなく、ただ見えなくなっただけなのだから解決はやっぱりしてないんですよね。
というか天王寺にいた人達はどこに行ったんだろうか。新今宮のほうに移動していったのだろうか

140修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/25(木) 19:55:08 ID:z68wRE6o
今野晴貴「「権利の行使」が社会を動かす」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 80年代に生まれた世代にとって、権利の実行や表現の仕方は分からないものだった。闘い方を喪失していた→自分の権利の主張がなりたたない
 今野晴貴がNPO法人POSSEを立ち上げて若者の労働相談活動をはじめると労働法は無視されているという現実がわかった
 →権利当事者である被害者が立ち上がれないという最大の困難に直面した。ほとんどの若者が「自分が悪い」と決まり文句のように言った
 →「争わずに解決したい」と不可能なことを言ってくる。権利主張ではなく会社への懇願をしようとする
 当時、非正規雇用労働の問題は、若者の自己責任であるとされていた
 →実際は、就職できなかった若者だけでなく、解雇された中高年の地方労働者、低い賃金にさいなまれた労働者が派遣労働者になっていた
 →派遣会社から説明される好条件に彼らは誘引された。だが、実態は違うものであった。派遣会社に寮があることも魅力だった→だがその寮も劣悪なものだった
 2008年年末の派遣村がこういった実態を社会に印象付け、政治も動いた。また、格差や貧困を自己責任で片付けられないということも認識された
 2012年、ブラック企業は社会問題化された。それまで、メディアや研究者はブラック企業を真剣に取り上げず、当事者たちの過酷な体験はネット上に書かれるだけだった
 12年11月に今野晴貴『ブラック企業-日本を食いつぶす妖怪』が出版され、大佛次郎論壇賞を受賞した
 13年、ブラック企業被害対策弁護団、ブラック企業対策プロジェクトが発足。厚生労働大臣もブラック企業を社会問題として認識するようになった
 現在、労働相談に訪れる若者は「自分が悪い」と言うことは少なくなり、「この会社はブラック企業だと思う」と言えるようになった→若い労働者が自分たちの言葉を手に入れた

141修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/26(金) 19:48:43 ID:z68wRE6o
山城博治(聞き手:森宣雄)「アジアの平和の世紀を沖縄からひらきたい」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 辺野古ゲート前の運動の特徴→ゼッケンやハチマキは無し、市民としての立場で。のぼりは超党派的なものだけ。主張は辺野古新基地建設反対1本
 警察が誰かを捕まえて運動を終わらせるということはさせないようにしている。本土から支援に来てくれている人もいる
 大和(日本本土)からきたナイチャー(内地人)が辺野古を仕切っていると悪意にとる人もいるが、全国の理解がなければ要求は実現できない
 現場の警察官や本土から送り込まれてきた民間警備員たちには、あいさつにきてくれたりする人もおり、必ずしも敵味方の固定した関係があるわけではない
 沖縄の運動を沖縄だけでする排外的なやり方は、辺野古のたたかいを孤立させ、沖縄の解放運動を自己否定させてしまうだけ
 →独立すると主張するのなら軍隊をもつのか、中国や朝鮮半島の軍隊と同盟を結ぶのかを考えねばならない→軍隊はいらないという主張を自己否定してしまう
 2015年11月、警視庁機動隊の精鋭部隊が送り込まれると沖縄県警も警視庁を意識して必要以上にはげしく取り締まってくるようになった
 日本本土に対する劣等感、その裏返しのような偏狭なナショナリズムは乗り越えなければならない
 かつての日本軍が沖縄県民を捨て石にして犠牲にしたことは忘れてはいけないが、日本軍の若者は戦争の狂気の中にいたのだということも考えておかなければならない
 中国脅威論が喧伝されているが実際に戦争になったら日本本土の人も沖縄の人も関係なく犠牲になる→戦争反対は日本本土と沖縄を分かつものではない

142修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/28(日) 17:06:39 ID:z68wRE6o
高遠菜穂子「イラク支援の現場から」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 高遠菜穂子は2000年、30歳でインドでボランティア生活を始めた
 アフガニスタン空爆が開始されるとアフガニスタンに行きたいと思うようになったが、イラク戦争が始まるとイラクに行きたいと思うようになった
 03年5月1日、大規模戦闘終結宣言の日、イラクに初入国した。入国2日目、何者かに部屋を発砲された。戦争は終結していなかった
 ファルージャには行かない方がいいと言われたが、最も危ないところこそが支援が必要ではないかと思い、行くべきだと判断した
 ファルージャに到着すると、小学校を占拠して拠点にした米軍に抗議した結果、乱射されたイラク人達に出会った。高遠は住民に支援物資を届ける活動を行っていた
 →米軍の蛮行や米軍に対する不満を住民から数多く聞かされた。高遠は報道関係者にその話をしたが、日本の報道関係者はあまり真面目には聞いてくれなかった
 米軍に銃を突きつけられて、パスポートや車を調べられたり、カメラのデータを削除されたこともあった→米軍はファルージャで起きていることが外に知られるのを警戒していた
 小泉政権がイラクに自衛隊を派遣すると決めた時、バグダッドの小学校校長等から激怒された→日本には平和ブランドイメージがあり親日家も多かった分、怒る人達がいた
 自衛隊派遣前のサマワでは、日本企業が来るのだと思われていて大盛り上がりだった。就職できると思って引っ越してきた人もいた→美しき誤解
 →自衛隊が来るのだと言っても納得いっていない人達が多かった
 米軍がファルージャに総攻撃を行った04年4月、高遠はヨルダンにいた→車でイラク国境を越えて進んでいると、覆面をした男に拘束され連れ去られた
 →日本人男性2人とともにスパイ容疑の尋問、軟禁を受けた。自衛隊撤退要求の人質になっていたと知ったのは、解放されてからだった
 拘束した抵抗勢力は、何度も子どもたちが殺されたと繰り返していた→怒りは理解できるが、あなたたちのやっていることは米軍と同じだと高遠は言った
 解放直前、ある戦闘員から「もうこれしか方法がない」と繰り返された→高遠は、一緒に支援活動を行っていた旧イラク軍兵士の話をした
 →対話が可能だったのは、地元の遺族からなる抵抗勢力系武装勢力だったから。アルカーイダ系武装組織であったら、対話することは難しかっただろう
 自衛隊派遣以降、美しき誤解は正された。日本が米国追随の国だということが理解された
 05年、イラク新政府が発足して以降、多くのスンニ派市民が殺害された。新政府で実権を握ったのはイランのシーア派至上主義に傾倒する政党だった
 →スンニ派狩りが行われた→IS勢力拡大の最大原因。もともとイラクはフセイン時代、婚姻は自由で異なる宗派同士の婚姻も普通だったしクルド人とアラブ人の結婚もあった
 →このような共存社会は、イラク戦争後にやって来たスンニ派原理主義のアルカーイダ系組織とイラク新政府のシーア派至上主義によって破壊された
 →ISはこのアルカーイダ系組織が原型。スンニ派市民はISにも殺され、シーア派民兵にも殺される
 →米軍にひどい目にあわされたイラクの人々が米軍の助けを待望するほどの状況になっている。ただ、武力行使では一向に解決に向かわないのは世界を見れば明らかである
 日本はその中で何ができるのか?戦争をしない国から進んで戦争を止める国になるべきでは

143レト:2017/05/28(日) 22:02:41 ID:hElrqMRI
現政権は小泉政権の延長線上にありますし、実際イラク戦争に対する釈明も不誠実極まりないものだったので
もはや「平和」という言葉の効力は全く失っているように思いますね。

144修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/29(月) 20:14:03 ID:z68wRE6o
五野井郁夫「数になること、力になること」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 2010年代、路上の政治が戻ってきた→非民主主義国では民主主義と正義を求める運動、民主主義国では既存の政治体制に対する抵抗運動
 日本では11年以降、首相官邸前や国会正門前は象徴的な場所となった。日本各地でも駅前などでデモや抗議活動が行われるようになった→参加民主主義の実践
 デモに対してネガティブなイメージを帯びさせようとする動きもあるが、デモ側は揚げ足取りを回避している。デモを見物に来る人も多い
 00年代のデモの特徴としては、シュプレヒコールを連呼しないものやDJたちが音楽を流して抗議を行うサウンドデモなどがある
 日本のデモにも中東・北アフリカと同様、SNSなどで多様な世代と属性の人が集まるという特性がある→参加のハードルを下げている
 11年6月11日、新宿駅東口アルタ前がデモで溢れかえるという現象は、40年ぶりであった
 11年末には脱原発デモグループTwitNoNukesが『デモいこ!』を出版し、デモの仕方を説明した
 大衆行動の復活と活性化は極右勢力にも見られた→ヘイトスピーチデモに対抗する「レイシストをしばき隊」が結成された
 →数に対してさらに多くの数で対応するという戦術が採用された
 このような中で、地方自治体の各議会は反ヘイト議決等を可決し、法務省も啓発を開始し、大阪市は反ヘイトスピーチ条例を制定した。国会でもヘイトスピーチ解消法が制定された
 15年安保の際には、SEALDsが結成され、数々の著名人も発言を行うようになった→政治を語ることが当たり前になった

145修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/05/31(水) 17:06:10 ID:z68wRE6o
中村一成「ヘイトクライムに抗する在日コリアンたち」(『ひとびとの精神史第9巻 2000年以降』)
 日本には人種差別を禁止する法律はなかったが、2016年5月、罰則規定はないものの対策法が成立した
 09年に起きた旧京都朝鮮第一初級学校襲撃事件は社会に溜め込まれたレイシズムが過激な形態で噴出した最悪の嚆矢だった
 →学校側は襲撃犯を刑事告訴、街宣禁止の仮処分を経て民事訴訟を提起。学校に対する襲撃は1回目はゲリラ的だったが、後の2回はネット上で告知と呼びかけがなされていた
 →学校側は街宣禁止の申請を認められていたが、差別デモは強行され、機動隊に護られながらデモは完遂された→京都市は何もしなかった
 →法的に戦うしかなかったが、果たして「日本人」ではない自分達が法的に勝てるのかという不安があった
 子どもだけでなく、事件を思い出すと感情が制御不能になる保護者や教師は何人もいた。この事件を報じたマスメディアは東京新聞など数社のみだった
 →あまりに報道がないので事件被害者が、実は大した事件ではなかったのかと思うほどだった
 「表現の自由」という言葉も繰り返されたが、マイノリティの人権を制約し我慢を強いるのが「表現の自由」なのか
 13年春以降、レイシストに対抗するカウンターが登場、国会議員もヘイトデモを問題視し、メディアもヘイトスピーチを取り上げるようになった
 →事件被害者達にとってすれば、今まで何をしていたのか、という気持ちだった。原告団は「ヘイトクライムのない社会」と「民族教育権保障」を目標にした
 →メディアは前者に傾斜して報道。京都地裁は、民族教育権はスルー。大阪高裁は、事件で民族教育を実施する社会環境が損なわれたと明記した
 →民族教育のことを見出しにとったのは地元紙のみ。この裁判では勝てたが、一方で朝鮮学校補助金廃止は各地で強行されている
 ヘイトスピーチを批判し、対応条例を提案した橋下徹は、補助金廃止を決めた人物でもあり、そういった二重基準は存在し続けている
 裁判に関する不安は大きかった。とある在日の著名人が、傍聴に来たことすらない京都の事件を持ち出して敗訴を予測するほどであった
 この裁判からの繋がりは存在し続けている。在特会メンバーによる徳島県教組襲撃事件(朝鮮学校へのカンパに在特会が反発した)も高松高裁で完全勝訴だった
 →攻撃対象が日本人でも、人種差別意識に基づき、在日朝鮮人への支援の萎縮を狙った行為は人種差別だとされた
 一方で、差別団体のメンバーが議員を目指す動きも始まり、一定の票も取っている

146ふい:2017/05/31(水) 19:53:59 ID:gc4WBSG2
ttp://bit.ly/2q4mPE6

147やぬき:2017/06/01(木) 19:23:07 ID:gc4WBSG2
ttp://bit.ly/2q4mPE6

148修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/06/21(水) 17:54:41 ID:z68wRE6o
佐原真『斧の文化史』(1994年)を読みました。
なんとなく手に取って読んでみたのですが、考古学の本だけど内容的には民俗学・文化人類学に近い本でした。
ちょうど90年代だと「近代」は必ずしもいいものではないという考えが強くなってきた時代ですけど、考古学的内容以外の部分はそういう考えに近い内容でしたね。
日本では斧はもはや使われなくなった道具ですけど、南の島やオーストラリアでは50年代頃まで石斧が使われていたそうです。そしてその石斧は単純に道具の役割だけでなく、男性の権威を示したり花嫁に贈ったりするものでもあった。
そんな社会に鉄斧が持ち込まれるわけですが、結果的にどうなったかというと、男性権威などの従来の力関係が無くなったり、犯罪が増えたりはしたようです。
ただ、それ以上に著者が重視していたのは、南の島の人々は空いた時間を何に使ったかということです。
日本なら間違いなく空いた時間ができれば別の仕事をやって、技術の発展をさらに進めようとする。でも南の島の人々は空いた時間ができたら昼寝や宴にその時間を使った。
さらに、技術の発展が原因で増えた病気や障害もあるし、自然環境の破壊も当然増えた。
そういったことを斧から考えた本でしたね。

それにしても最後の方に「高森遺跡」が出てきたのは笑った。当時は本当に誰も捏造された遺跡だと思ってなかったんだなぁ

149きくち:2017/06/22(木) 21:41:01 ID:dFQc5jgI
bit.ly/2paTTNF ←検索でまさかのあれが

150修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/04(火) 22:34:59 ID:z68wRE6o
日本古代史に関する本を色々読む限りでは、天武・持統天皇あたりから日本は「古代国家」と呼べるようになったと言えるみたいですね。
都城や律令が整ったのもこの時代、地方豪族(在地首長)に地方支配を任せていた段階から、中央から派遣された国司に地方支配を任せる段階が完成したのもこの時代のようです。
国史に地方支配を任せていたのが古代であるとするならば、天皇や将軍のもとでゆるやかにまとまっているけれど各地の荘園や領地の支配はそれぞれの領主がに担っている時代が中世。
強力な幕府が存在しているけれど、地方の支配はほぼ地方に任せるのが近世。
強力な政府から知事が派遣されるのが戦前日本(近代)で、地方に住む人々が地方の政治を担う代表者を選ぶのが戦後日本(現代)と言えるのかなぁ

151ぐん:2017/07/06(木) 22:34:52 ID:dFQc5jgI
検索 bit.ly/2paTTNF 流出?

152修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/12(水) 20:42:24 ID:rlvqw/MU
桜井英治『贈与の歴史学』を読みました。
日本は世界的にみても贈与儀礼がたくさん残っている国のようで、さらに言えばバレンタインのような新たな贈与儀礼まで増えていっている国のようです。
この本は、そんな「贈与」をテーマにして歴史を見た本です。とは言っても内容のほとんどは中世後期です。というのも中世後期というのは、贈与が最も発達した時期だったようです。
まず、話は古代から始まりますが、税というのはもともとは神仏に対する贈与だったそうです。その贈与が段々と税に変わっていったようです。これは中世も同様で、目上の人等に対する贈与が段々と税へと変わっていった事例は数多いようです。
この本の中では「贈与経済」という言葉も使われていますが、贈与されたものがどうなったかというと、さらに違うところに贈与されたり売却されたりということが多くなされていたようです。
特に室町幕府に財源不足に悩まされた幕府だったので、贈与品を修理が必要な寺社等に送る。寺社がそれを売却するという形で、幕府は一銭も使わずに国家的な機能を果たしていたようです。
また、贈与が行われる背景には宗教など色々な要素がありますが、中世日本では有徳思想というのがあったとも書かれています。
この有徳思想が何かというと話は簡単で、どの地域でもどの時代でも存在する、お金を持っている人は貧しい人や社会のためにお金を使うべきだという考え方です。
徳政令もこの考えたかたでなされていたようで、お金を持っている金貸しは貧しい人のために借金を帳消しにするべきだという考え方が普通だったのが中世日本だったようです。

153レト:2017/07/13(木) 19:35:49 ID:hElrqMRI
実際は徳政令が乱発されたら貸さなくなりそうなもんですけどね。
お歳暮のたらい回しはサザエさんなんかで見ましたが。

154修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/13(木) 22:40:18 ID:rlvqw/MU
まぁ教科書的な話で言えば、徳政令で金融業者が大打撃→そこから税をとっていた室町幕府も打撃→お金を取って徳政令を出すようになる
という流れになるわけですけど、結局金融業者にとっては打撃であることに変わりはない。
ただ、考え方として今と違ってそれでもいいじゃないかという考え方があったのだという点は重要かなと思います
もっと言えば、そんな室町幕府だったからこそ戦国時代へと進んでいくんですけどね

155修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/15(土) 13:23:14 ID:rlvqw/MU
伊勢田哲治「社会派科学哲学の復権」(『岩波講座現代2巻 ポスト冷戦時代の科学/技術』)
 科学について哲学的に考察するという営みはアリストテレス以来あるが、科学哲学が専門分野となるのは1920年代のウィーン学団以降
 ウィーン学団はかなり左翼的な政治性・実践性を備えていた→第二次大戦後、アメリカの反共主義の中でアメリカの科学哲学者たちは抑圧されていった
 →哲学者たちの支持を集めたのは非政治的な科学哲学であり、自由主義陣営に迎合することが科学哲学者に求められた。科学哲学はその後、研究の高度化、多様化、細分化が進む
 冷戦期も科学哲学と社会の接点はある→疑似科学に対する科学哲学の関与など。キリスト教原理主義者たちが進化論否定などを学校で教えることは「科学」ではないとした
 人を研究対象とした場合の倫理はどうあるべきか→七三一部隊の実験結果を利用するかどうか
 ベーニヒハウゼンは、データの科学的価値に疑いがない、引用の際はつねに倫理的非難を書く、代替的な情報源がない
 →このような条件が満たされるなら非人道的データの条件付き使用許可という選択肢もありうるとしている
 他方、ミルグラムの服従実験は現在なら許されないであろう実験だが、頻繁に言及される代表的な実験となっている
 社会科学・心理学系の研究は倫理的な配慮が難しい場合がある(心理学系の実験では事後でしか同意を得られない場合があるなど)
 現在正統的だと科学者が考えている科学は他の意見と一線を画するものなのか、それともさまざまな意見の一つに過ぎないのか
 →科学に分類できないような民間療法などが正統的な医療より求められるということはありうる→科学の限界に目を向ける役割としての科学哲学
 科学信仰もいけないが、科学というラベルを維持することは必要→科学の利点と弱点を見極める

156修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/15(土) 13:25:30 ID:rlvqw/MU
科学者達にとっては当然のことが社会では全く受けられていないというのは昔からあるし、文系・理系を問わないことでもあるんでしょうが、
なぜそれが社会に受け入れられていないのか、受け入れられないのかという分析は必要な気はしますね

157修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/16(日) 13:37:56 ID:rlvqw/MU
直江清隆(東北大学)「技術観のゆらぎと技術をめぐる倫理」
 科学技術→科学と技術はどのようにつながっているのか。科学技術という言葉は第二次世界大戦に向けた総動員体制の中で官僚によって造語された政治用語
 科学と技術はそもそも違う。ヨーロッパでは技術は奴隷や職人のものだった。技術は科学に従属していないし、技術が科学の応用とも限らない
 科学技術とイノベーションを直結させることの危険性→社会的問題を技術で解決しようとし、問題の核心に切り込まない。科学と技術が役に立つかどうかで評価されてしまう
 技術哲学の考え方:技術は人間の機能の延長→第二次大戦後、技術が人間性の外にいった→80年代、技術を人々の営みの中で考察する
 どれほど高度な技術でも人間による補完は不可欠。技術設計は人の文化の影響も受ける→技術は中立ではない。設計は様々な価値に配慮しなければならない
 →技術中心的デザインから人間中心的デザインへ
 人工物は人間の意図を前提としているが、予期せざる結果や副作用ももたらす。また、誤使用の可能性もあり、人工物は設計者の意図を超えていく
 →人工物の機能や価値が何であるかは設計者の手で定められるのではなく、使用者が参加するなかで再定義され、よりよい製品へとつながっていく
 イノベーションに光が当てられているが技術の進展は責任ある対応を必要としてきている

158修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/17(月) 18:47:35 ID:rlvqw/MU
隠岐さや香「「有用な科学」とイノベーションの概念史」
 初期近代(16〜18世紀)ではイノべーション(秩序に変化をもたらす)という言葉は否定的な意味で用いられることが多かった→既存の秩序を覆すことは問題
 18世紀末から19世紀にイノベーションは肯定的な意味を持っていく→フランス革命など政治的変動で急激な変化が否定的にみられなくなった(否定的な意味もある)
 20世紀半ばにイノベーションは技術革新の意味を帯びる。70年代以降、イノベーションは市場経済と政策の問題となっていく
 20世紀末以降になるとあらゆる領域で新たな価値を生み出し社会的に大きな変化を起こすという意味で使われるようになっていく
 21世紀的なイノベーションの現場では、理工系研究者と企業関係者が諸領域の専門家や一般市民、他の企業関係者を束ねて協働するという構図が理想とされている
 ある研究テーマや研究チームが男性的文化に浸かりすぎている状況は、ある種の視点の欠落であり、新しい発想をもたらすには不利な条件であるというのがイノベーションの観点
 →性別だけでなく、人種や階層、性的マイノリティーの視点も取り込んでいく必要があるだろう
 ただ、イノベーションは市場競争という短期的な課題が突きつけられており社会問題に長期的に取り組む姿勢からかけ離れがちな傾向がある
 →変化を減速させる必要性もある。変化を推進する人と取り残される人との分断、格差
 イノベーションは社会に絶え間ない変化を求める政策である→どの程度の変化が望ましいものであるかを考えていく必要がある

159修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/18(火) 18:43:09 ID:rlvqw/MU
綾部広則「ポスト冷戦期日本の科学技術政策」
 冷戦型科学技術体制→1970年頃には雪解けムード(デタント)で弱体化。また、反戦運動が盛り上がったことで、大学で大っぴらに軍事関連の研究を行うことは困難となった
 →国防費に依存していた大学は産業界と連携を深める。80年代半ばには軍需産業の腐敗が米国の重要課題だったが、改革は冷戦終結の90年代を俟たねばならない
 欧米諸国が冷戦に集中している間、日本は民生技術で漁夫の利を得た。80年代になると欧米の科学技術導入・改良ではなく自力で新しい科学技術をなさねばならなくなった
 90年代のバブル崩壊、冷戦終結で欧米の企業も民生技術にシフトし始める、円高、新興国台頭→国際競争へ
 大学院博士課程修了者数増加策→就職先の見込みがないのに量的拡大政策をとったため問題が発生
 90年代は研究に関して量的投資拡大策が図られたが、2000年代に入っても日本経済の活性化はみられなかった
 →巨額の研究開発費を投じてもダメならば大学や研究機関に問題があるとして改革が行われていく→最大の改革は国立大学と国立試験研究機関の法人化
 →法人化は学の官に対する隷従を強化した。効率化という名のもと、運営交付金は減らされ、目標・計画を評価されるようになった
 若手研究者は競争化の名のもと有期雇用が増加したが、雇用は不安定化し高学歴ワーキングプアとまでいわれるようになった
 こうした改革によっても、科学技術による日本経済の活性化は大きな進展をみせなかった。06年頃になるとイノベーションという言葉が盛んに用いられるようになった
 科学技術政策は科学技術イノベーション政策となったが、基本的性格は従来の政策と大きく違っていない→2000年代の改革時代からの強い連続性がある
 →この改革の連続性によって大学教員の研究時間は減少。一時的な流行を追った研究や短期的に成果が生み出される研究が増加。論文数も減少傾向
 冷戦期の科学技術体制は資本や国家とは手を結ぶが市民に対して閉鎖的であり、それが批判されていた→現在、資本や国家の主導権はむしろ強化されている
 科学技術体制は独善的で閉鎖的だという観念が、むしろ知的生産拠点の破壊と再編に手を貸してしまっている

160修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/19(水) 17:02:24 ID:rlvqw/MU
平川秀幸「科学/技術への民主的参加の条件」
 2011年3月11日以降、討論型世論調査のような先進的な民主的参加の取組みも行われたが、非民主的な対応ばかりが目立つ
 科学的根拠を必要とする問題に関する意思決定に多様な人々が参加する民主的ガバナンスはいかにして可能か、なぜ必要なのか
 専門的で、科学的・技術的な知識に基づいた判断に委ねられるべき問題であっても、専門家集団に委ねるべきではない公共的問題は存在している
 →リスクを受け入れる価値判断や利害が異なる場合がある。リスク認知には知識や理解の不足もあるが、心理的要因もある
 専門家とそれ以外の一般の人々とではリスクについての問題の捉え方、評価の仕方・基準は異なる→専門家が科学的な観点のみ主張してもコミュニケーションはとれない
 科学的判断も中立的とは限らない。科学的判断にも社会的・規範的な前提がある。測定結果も何を重要な変数として選び、何を無視するかで変わる
 現代社会において専門性は不可欠になっている一方で、妥当性をめぐる論争は絶えなくなっている→科学を用いるプロセスそのものを社会に開く専門性の民主化が必要
 学術的な専門性に加えて、多種多様な知が政策決定に動員されなければならない

161修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/20(木) 20:11:43 ID:rlvqw/MU
神里達博「日本型リスク社会」
 リスク社会→近代後期、リスクの分配に人々の関心が集まるようになった社会(それまでは富の分配が関心ごと)
 →近代化された社会が、再び近代化(克服)の対象になることがリスク社会の前提(環境問題、エネルギー危機、少子化など)
 リスクという言葉には、主体的に未来の決定に関わることで、便益を得ようとしながらも不本意にも被る不利益という意味がある
 →日本では単に危険性の意味でリスクの語が使われることが多い。主体性を前提とする概念であると意識していない
 2001年、BSE問題をきっかけとして、02年にかけて食に関する古くから存在した様々な不正や違法行為が一気に明るみに出た
 →人々は日本の食は危険になったと感じたが、リスクのレベルは上がっていない。むしろ、対策が講じられたことでリスクは下がった
 05年秋から翌年春にかけて起こった耐震偽装事件→それまで目立たなかった建築物の瑕疵が白日のもとにさらされ、審査が厳格化した
 →ただ、すでに存在する建築物の耐震性強化に関してはオーナーの対応に任せられたので、実質的な安全性の向上にはつながっていない
 BSEも耐震性も専門家が明確な判断を下すことができない問題だった→BSEは未解明な点が多い、耐震基準は大きな地震が起こるといつも覆されるし計算方法も多数存在する
 メディア、行政、専門家はこのような問題に対して適切に解説していくという機能を果たせていない
 自由・責任・リスクは一体のものである→日本では現在においても責任がどこにあるのかわからない組織が多い→責任が曖昧な場に自由はない→自由がなければリスクもない
 →日本社会は自由・責任・リスクを引き受ける傾向が薄い→自分で選択しない、行政に選択させる、行政にまかせる
 →かつてはうまくいっていたが、現代はさまざまな点でリスク社会化が進んでいるので専門家も問題解決の期待に応えられない
 →それでも、いまだに安心を行政に求める人々がいる。一方で、新自由主義のリスク社会を生きる人々もおり、1人の人間が両方の成分を持つ場合もある
 →日本型リスク社会→この社会を超えるためには、専門知に支配されてきた行政の現場に民主的な参加の仕組みを埋め込む必要がある
 現代日本社会に最も欠けているのは行政・専門家を実質的に監視・抑制する仕組み

162修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/21(金) 20:09:56 ID:rlvqw/MU
本堂毅「専門的判断の不定性」
 学術誌への掲載は内容の正しさの証明ではない。学術誌に掲載されるかどうかは、その分野の研究者間の相場感覚であって、絶対的な基準は存在しない
 →学術誌掲載を正しさの証明と捉えると、ボタンの掛け違いが生じる
 科学者は普遍性を目指すため、普遍性の邪魔になる価値に関わる問題を削り取っていく。科学という営みは、多様性をそぎ取っていく手法の集積
 しかし科学者の側が、価値判断を含む答えを科学的な答えのように語ってしまう場合はある
 2014年、STAP細胞研究の不正疑惑→再現性の有無が研究不正認定の重要なポイントとなった→ただ、科学で100%の再現性を得ることは原理的に不可能
 →再現性の有無を研究の不正の有無の評価要素とすることには無理がある。しかし、正しい科学的研究は常に再現性が伴うものだという科学観をもつ科学者は少なくない
 STAP細胞に関するさらなる問題→一般社会に向けて研究結果が確実な科学的知識であるような発表をした。科学には不確実性があるものである
 判断・意思決定の場面で確実性が高い科学的知見だけを用いることは一般に困難(例:医学など)
 現在の社会では、価値判断込み、Yes/NOで答えを求められることが多い→科学的真実に誠実な科学者ほど社会的論争となるような問題について発言を躊躇する
 →自分の信念や価値判断も科学的証拠であるかのように装う権威主義的な学者や、科学的営為の本質を理解できない科学者ばかりが社会に発言する状況
 科学技術が関わる問題で対策には確たる科学的証明が必要と主張する科学者や行政は少なくないが、どの精度で対策を取るべきかは科学自体では決まらない
 賠償問題などでも確たる科学的証拠が必要であるかは科学では決まらない→確たる証明が必要だとする科学者は、特定の価値判断に誘導している
 対策に必要な科学的証明度を100%に近づければ永遠に対策を先送りにすることが可能。「科学的に厳密」という主張は特定の価値判断に基づく主張であるとも言える

163修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/22(土) 12:35:05 ID:rlvqw/MU
加藤和人「社会における生命科学の今とこれから」
 人類自身が人類の遺伝子組成に人為的に操作を加えてよいかという問いに対し、ほとんどの専門家は否定的な意見だった
 →格段に簡便で精度も高いゲノム編集技術(遺伝子改変)が登場したことで議論が激しく行われている
 2015年9月の欧州遺伝子細胞治療学会では、生殖細胞系列の遺伝子改変を行うことに賛成する意見は過半数だった
 日本では科学研究コミュニティではなく、政府が中心となって研究の指針を定めてきた
 →欧米では研究者自身が社会的課題に取り組むという考えがあるが、日本では社会的課題に取り組むのは研究者の責務ではないと考えられている
 ゲノム編集技術に関する課題については、日本でもこれまでに比べると科学研究コミュニティが積極的に動いてきているが、生命科学コミュニティ全体の課題とはなっていない
 病気の人の遺伝子の情報を多数集めることは重要だが、現在のゲノム研究は個々別々のやり方でデータを集めているので、情報を共有することができなくなるかもしれない
 →世界中で情報を共有・利用できるようにしていこうとしている人達もいる→研究者は研究費を支給する政府でなく世界を見て、人々のために研究を進めるべき
 患者と研究者がインターネットで直接につながることができる状況→患者は研究の進捗状況や成果について知ることができる。情報の使い方について患者が選択できる
 日本以外の多くの国の希少疾患・難病の患者はすでにネットワーク作りを始めている
 →日本でも、研究者が患者主体の活動に目を向けることができるか。患者自身が自分たちのできることに積極的に取り組むことができるかが課題

164修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/23(日) 22:43:25 ID:rlvqw/MU
詫間直樹・中島秀人「科学技術の公共的意思決定と専門家の役割」
 公教育モデル:専門家が一般人の関与なしに意思決定を行う→公害などで限界がきた→公共討論モデル:市民参加型の意思決定
 知識の共生成モデル:専門家と非専門家が協力することで新たな知識を生成する
 CTA→意見を異にする複数の対抗的専門家による取り組みで意思決定を行うモデルといえるもの
 →素人市民による熟議がうまくいく条件はある程度明らかになっているが、対抗的専門家による熟議がうまくいく条件は研究が進んでいない
 公教育モデル、公共討論モデル、知識の共生成モデル、CTAのモデルそれぞれを問題の性格、国や地域の現状に応じて柔軟に選択していくべき

165修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/07/26(水) 22:36:36 ID:rlvqw/MU
辻本雅史『「学び」の復権』を読みました。
近代から近世の教育を見るという事はさんざんやられていますが、この本はむしろ近世から近代の教育を見てみようという視点で書かれています。
そこから近代の教育の問題点や今後どうしていくべきかを考えていこうという内容ですね。
そして分かることは、近代以前に学校というものは存在しなかったということです。手習塾(寺子屋)はありますが、これは近代の学校とはまったく違うものであって、基本的には自己学習の場だったのですね。
そこでの「教師」の役割は手本を示し、間違いあがれば修正するということであって、教えることを求められていたわけではない。これは藩校も同様だったようですね。
よくテレビとかである、手習塾で机が整然と並べられているイメージというのは完全に近代からの視点であって、机が整然と並べられていることなどは無かったようです。
そしてタイトルの意味からいうと、この自己学習「学び」の復権こそが今後重要なのではないかと主張しているようですね。
ただ大事なのは、近世の手習塾も藩校も基本的には「教師」が尊敬される人物でお手本になる人物でなければ成立しないものでした。ですから現代の学校で実行したとしても成り立たないとしています。なぜなら現代の教師は尊敬され、お手本になるような人物ばかりではないからです。
ですから著者は、生徒の側が教師を選択できるようにするべきではないかとも主張しています。
さらに言えば著者は近代の学校制度はもはや限界を迎えているとも主張しています。
その限界を迎えている学校で個性を大事にしようなどということ自体が無理なのだとも主張しています。なぜなら現代の学校は画一的で個性を伸ばすような教育を想定していないからです。
もっといえば、個性を伸ばす教育自体がどうすればいいか分からないものなんですよね。

文庫版のあとがきでは、近世の教育をよく描きすぎたとか復古的だと思われたとかということも書かれていますが、実際そういう点はあるでしょうね。
近代の学校システムが限界に来ているというのは同感ですが、だからその前に戻せばいいというのは難しいし現実的ではない。
ただ、近代の学校システムは当たり前のことなどではないし、その前の時代に行われていた教育からよい点を見つけだしていくというのは大事でしょうね

166修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/08/03(木) 23:03:30 ID:RCAef5U6
まさに今のタイミングで読むべきかなと思って、中北浩爾『自民党―「一強」の実像』を読みました。
主に細川政権以降の自民党についてかなり詳細に分析した一冊になっています。現在の自民党の入門書と言ってもいいかもしれません。

自民党というのはそもそも派閥連合政党だったようですが、それが小泉政権の時に破壊されて、今は派閥よりの右派の理念グループの方が力を持っていて、その中心がまさに安倍首相なんですよね。
そして理念が強くなっている要因として、一度政権をとられた民主党・民進党への強い対抗心があるというわけですね。
ちなみに自民党の勝利の典型的パターンというのは、低い投票率で固定票で勝つというパターンのようですが、その固定票も減ってきてはいるようです。
だからこそ、公明党とは手を切れない。公明党の組織票はポピュリストの才能が無い安倍首相らには絶対手放したくないもののようです。
逆に公明党側からしても、宗教団体が母体である以上、固定票を増やすことは難しい、信者の高齢化も進んでいるということで自民党とは手を切りたくないようです。
ちなみに、日本会議の票数は大したものではないとこの本では主張されています。
また、自民党議員にとって後援会も重要な存在ですが、これに関しては理念を地元で主張するのではなく、地元の有力者と仲良くするということをやってきたのが自民党のようですね。
そしてこの後援会があるからこそ、世襲議員も多い。なぜなら世襲議員なら後援会をそのまま引き継ぐことも可能だからです。ただ、この後援会も最近は衰退してきているようです。
地方に関していうと、地方議会では自民党が圧倒的に強いというのも重要なようで、実際一部の例外を除いて地方議会は自民党が多数を占めているところが多い。
市町村レベルになると無所属議員が多いですが、これは政党色を無くすためにそうしているだけであって、実質的には自民党系の議員が圧倒的多数を占めているようですね。
ただ、地方議員が党本部の言う事ばかり聞いているかといえば、そんなことは全く無くて、党本部の決定とは違う決定をする地方議員も数多いようです。

結論から言えば、著者は自民党の優位は簡単には覆らないとしていますが、それは当たっているでしょう。
ただ、この本が出版されたのは今年の4月で、まさかその3ヵ月後ぐらいに支持率が一気に下がるとも思っていなかったでしょうが。
まぁ結局のところ自民党はなんだかんだ上手くやってきたということなのでしょうが、固定票が今後ますます減っていったらどうなるのか?
公明党と完全に訣別したらどうなるのか?とは思いますね

167修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/08/29(火) 22:57:47 ID:0zqMLFGQ
今年は沖縄戦を部隊としたアメリカ映画もあったりしましたが、林博史『沖縄戦が問うもの』を読みました。
この本を読んで思ったのは、当時の沖縄県民が生き残れたかどうかは、誰が一緒にいたかどうかが重要だったんだなということですね。
冷静に物事を考えられる人や移民帰りの人がいれば米軍に投降して生き残ることができたけれど、日本兵などが一緒にいた場合はなかなか投降できず死亡してしまったパターンが多いようですね。
はっきり言ってしまえば非国民と呼ばれるようなことをした人の方がちゃんと生き残れたわけです。
結局、日本兵は投降を基本的に許さないし、住民から食糧を勝手に持っていくし、差別的言動は行うし、スパイ容疑をふっかけて時には処刑も行ってしまうといった行為を実際にしていたようですね。
さらに、中国戦線帰りの日本兵が、自分が中国で何をやってきたかを具体的に話したために米軍も同じようなことをしてくれるのではないかと住民が恐怖して米軍に投降しなかったということもあったようですね。
逆に、話に聞いていた「素晴らしい日本軍人」とは実態があまりに違いすぎるから早々に米軍に投降したという住民もいたようですが。
ただ、そんな日本兵の中には当然沖縄出身の日本兵もいたわけで、沖縄出身の兵士が沖縄県民に無理強いをさせたという一面もあるわけですね。
あと、住民に投降を促した日本兵もいたわけですが、そんな日本兵は上官や他の日本兵がほとんどいなくなった段階でそういうことを言い出したわけで、それはつまり個人では何を思っていようと組織の中では個人の意見なんて言えないということでもあるわけですね。
結局、当時の日本軍には一般市民を守るという発想はなく、あったのは一般市民も一緒に戦って死ぬという発想だったし、日本兵自身も生き残ることを想定せず、戦って死ぬこと優先の想定しかしていなかったことが犠牲を増やした要因だったようですね。
また、当然米軍の作戦にも問題はあったわけで、米軍の攻撃は基本的に無差別砲撃でしたから、それが無ければ当然被害はもっと減っていたわけです。

沖縄の人たちは戦時中は日本軍にひどい目に合わされて、戦後は米軍にひどい目にあわされていくわけだから、軍隊というものに反感をもつ人が多くなってもしょうがないとは思いますね

168修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/08/29(火) 22:58:59 ID:0zqMLFGQ
×米軍も同じようなことをしてくれる

○米軍も同じようなことをしてくる

169レト:2017/08/30(水) 06:18:45 ID:hElrqMRI
沖縄に関しては現在の政府の対応のぞんざいさも不信感を招いている印象があります(政党問わず)。
自分自身、今のアメリカには不信感の方が強いですし、こんな情勢とはいえ関係を優先するのは逆に危険な気がします。
正直、思いやり予算とかもいい加減見直すべきではないかと。

170修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/03(日) 22:51:35 ID:byLobR8.
保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機』を読みました。
タイトル的には結構大きな話ですが、内容的には下関戦争オンリーで、しかもイギリス側の視点を主に調べたという結構面白い視点の本でした。
下関戦争には日本と外国の全面戦争になってしまう可能性もあったのだというのが、この本の主なテーマだと思いますが、
注目すべきは戦争を避けるために幕府がいかに頑張ったかということでしょうね。最近は幕府の役割が再評価されてきていますが、実際戦争を避けるために幕府が行った外交は優秀だったと言っていいと思いますね。
逆に外国から見て嫌な存在だったのが当然攘夷派で、外国は幕府に攘夷派の取締りをずっと要求してるんですね。
しかし、幕府には攘夷派を抑えられるだけの力がなかった。それどころか朝廷まで攘夷派だったから、譲歩して横浜鎖港の要求を外国に出してたりします。
その鎖港要求もあったし、長州藩の外国船砲撃もあったしで、下関戦争は全面戦争になる可能性もあったというわけで、イギリスは仮に幕府とも戦うことになった時の為の計画もちゃんと考えていたようです。
ただ、イギリス側も下関戦争が全面戦争になるのは避けたかった。全面戦争になってもなんの利益も得られないという計算がイギリスにはあったようで、
結果的に長州藩を倒しただけで自由貿易を続けることができたのでイギリスはそれ以上の戦争を望まなかったということですね。

とりあえずこの本を読んで思ったのは、幕府や外国は実に現実的な考え方をしているということで、攘夷派の方が非現実的なんですよね。
しかし、その非現実派だったはずの攘夷派によって幕府は倒され、その攘夷派が外国と同じ砲艦外交を行っていくというのも歴史の皮肉でしょうか

171修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/23(土) 16:04:21 ID:byLobR8.
1970年に出版された上横手雅敬『日本中世政治史研究』を読んでますけど、
平将門は革命を起こそうとした人民の英雄というような評価が戦後なされていたのに対して、
将門の乱は在地勢力の紛争に過ぎない。将門と対立していた貞盛が将門を叛乱者にしていったんだという評価が既に70年ごろには出ていたんですねぇ

172修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/24(日) 10:41:34 ID:byLobR8.
上横手雅敬『日本中世政治史研究』
この本では、やはり守護・地頭が設置されたと考えられる1185年を鎌倉幕府成立の年としていますね。
まぁ、このとき設置されたのは国ごとの国地頭であって、荘園・公領ごとの荘郷地頭ではないという論争もあったようですが、
どちらにせよこの年を幕府成立の年として考えるべきだという説は既に1970年ごろには出てきていたということですな。
ただ、荘郷地頭が置かれたにしても、この地頭が置かれるのは平家方・敵方没収地であって、それ以外のところに地頭が置かれたとは考えられないということのようですが

173修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/09/25(月) 20:45:05 ID:byLobR8.
上横手雅敬さん(1931年生まれ)は、大学時代マルクス主義的な史的唯物論に違和感みたいなものを感じ、研究的にも無条件に武家政権を賛美すべきではないという考え方の人だったようですね。
承久の乱についての研究はなかなか面白くて、頼朝は公武融和的な考え方で3代将軍実朝はその継承者みたいなものだった。
一方で、実質的に権力を握った北条氏が自分たちの政治を成り立たせるためには御家人達の権利を保護する以外になかった。ましてや朝廷が権利の保護者となるようなことはあってはならなかった。
だから、北条氏と朝廷との融和は成り立つわけはなく、実朝の死などをきっかけとして承久の乱が起こった。しかしこの乱は後鳥羽院が前もって用意していたようなものではなかったから朝廷軍は幕府軍の敵ではなかった。
それでも、乱で滅亡したのはあくまでも後鳥羽院と一部の貴族だけで、外の貴族は影響を受けていないし、西国に地頭が設置されたのも数が増えただけで質的に変化があったわけではない。
むしろ数が増えたことで地頭の非法も増えたので、幕府は地頭の非法を抑止しなければならなかった。
鎌倉幕府は荘園制を破壊するようなことはしなかったんだという研究は面白いなと思いましたね

174P4:2017/09/30(土) 06:52:19 ID:gVk8kjHE
■お父さんが教える優しいサイエンス

2001年著なので情報的には古いけど、結構面白かった。
例えば
・水に含まれているカルキ。カルキ臭を消すためには沸騰させればいいが、沸騰させるとトリハロメタン(発がん物質)が発生するし、CO2が蒸発して清涼感が無くなる。
・軟水は含まれてるミネラル(CA/NA/MG/K)の量が少ないが、硬水はミネラルの量が多いけど下痢しやすい。
・河川や海を汚す油は、流した量を20万倍の量の水で薄めないと魚は住めなくなる。また、生活排水(N2/P)は海や河川を富栄養化して、植物プランクトンを爆発的に増加させ、水中の酸素を奪い、これまた」魚が住めなくなる。

・魚には硬い背骨を持つ「硬骨魚類(タイ・サバ)」と柔らかい背骨の「軟骨魚類(サメ・エイ)」がある。魚の生臭さは古くなり細菌が多くなったことにより発生する「トリメチルアミン」が原因で赤身魚より白身魚に多い。これは塩や酢で防げる。
・赤身魚は色素タンパク質の含有量が多く、酸素を多く体に取り入れることができ、疲れにくい。主に回遊魚(マグロ・サケ)・(クジラも持っている)。白身魚(タイ・スズキ)は疲れやすく、深い所であまり移動しない。
・背の青い赤身魚にはDHA・EPAが多く、これは血液サラサラ効果がある。頭もよくなるという噂も。

・渋柿は「ジブオール」が原因で、アルコールと温度を上げて柿に呼吸をさせてCO2と反応させることで「渋抜き」ができる。ただし80度以上の温度で熱すると再び渋柿に戻る。
・農薬を使わない栽培には「緑肥(豆と一緒に植える)」「合鴨農法(鴨を水田に放つ)」「不耕起栽培(放置する)」。化学肥料の代わりに「窒素固定細菌による豊土化」「雷によるN2の固定化」などの研究も。

この他にも「海を汚す漁法」「花粉症について」「地球温暖化」「ダイオキシン」「日本人の病気の原因について」「細胞のアポトーシスと癌」「材木について」「紫外線」「寄生虫」「免疫システム」「エイズ」「風邪・インフルエンザ」「口蹄疫」や「簡単な物理(仕事量・浮力など」「地震について」などなど書いてあります。
科学に興味のある子供にとっての入門の入門程度だけど、きっかけにはなると思います。もちろん大人が読んでも十分に面白いし暇つぶしになると思います。ただし、情報が古い(2001年著)から最新事情は自分で調べましょうw

175修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/07(土) 10:42:13 ID:byLobR8.
この本もまさに今こそ読むべきかなと思い福永文夫『日本占領史』を読みました。
文字通り、日本がアメリカに占領されていた時期のことについて論じた本なのですが、単純にアメリカに一方的に政策を押し付けられたという先入観を排し、日本本土とは違う戦後史を歩まされた沖縄のことについても触れていくという点がこの本の特徴でしょうか。

アメリカが民主化・非軍事化推進から転換して日本を反共の砦にしようとしたことは有名ですが、それも単純にそうなったわけではなく当初の路線を進めようとしたマッカーサーと政策転換・日本の再軍備化を進めようとしたアメリカ政府との対立もあったようですね。
ちなみにフィリピンとオーストラリアは日本の再軍備化に強烈に反対していたようですね。
吉田茂の自由党は最保守として見られていたようですが、吉田自身は経済優先のために再軍備化に反対し、そのために社会党の支援を求めたりもしていたようです。吉田自身は社会党が嫌いだったようですが。
ただ、公職追放から復帰してきた鳩山一郎らが自由党に戻ってくると改憲・軍備化を進めようとする勢力が同時に自由党内に存在するということになっていくわけですね。
民主党(改進党)は再軍備化には賛成だったようですが、経済政策的には資本主義を絶対視せず社会主義的な政策も必要だという考え方だったようで、芦田均は社会党を共産党の側に行かせてはいけないという考えだったようです。
そしてその社会党は右派と左派では考え方が大分違う点もあったようで、特に右派はほぼ保守という立場だったようですね。実はGHQが一番中道として期待していたのは社会党だったようです。
ただ、右派と左派は対立と分裂を何度か行い、最終的には右派の中心人物の1人だった西尾末広が民社党をつくるというところまでいきますね。
共産党に関しては政党として禁止される可能性もあったようですが、とりあえずは所感派が追放されるという形になったようですね。

あとがきで著者は、6年8ヶ月ばかりの占領で日本・日本人が駄目になったという考え方こそ自虐史観ではないかと書いているのですが、これは全くその通りだと思いますね

176P4:2017/10/10(火) 18:48:10 ID:gVk8kjHE
■筋トレが最強のソリューション(ソリューションとは解決策の事です)

ふと、本屋で見咎めて、立ち読みしていたら、内容が馬鹿馬鹿しくて笑えて楽しかったので投稿。
某漫画の「猫好きのマフィアのボス」のような作者キャラから笑ったわ。
笑えるけど本に書いてあることは多少大げさだけど、大体は合ってます。
実は昔、筋トレやっていて、同じようなことを思いました。筋トレ続けてると心が広くなるというか、妙な自信がついて、世界なんて何時でも取れるような気分になれます。

ストレスや悩みも吹き飛ぶのも合ってますし、少々のストレスやダメージなど蚊に刺されたくらいになりますw何かに悩んでいる人、鬱気味の人には医者に行くのもいいけど、この本に書いてあることを読んで実践してみてはいかがでしょうか。

ただ、スポーツするならラグビーやアメフトを・・・は無理!そこは同意できませんでしたw筋トレは体と心の薬になることは確かだと思います。無理はいけないけどね。

凄く、ラノベより読みやすい(早読みの人なら1時間ぐらいで読んでしまうだろうなあ)で笑える文章なので、お暇があったらどうぞ。なんかいっぱい同じ人の筋トレシリーズ本があるようですね。

177せき:2017/10/22(日) 18:50:55 ID:cOCjBrdw
ゾルタクスゼイアンの事はSiriに聞いてはいけない

検索してはいけないワード → bit.ly/2kJFRlx

178P4:2017/10/22(日) 21:51:32 ID:gVk8kjHE
とある本読んでいたら、勘違いに気付く。

例えば、「袖振り合うも他生の縁(絆を大切にしましょう)」を「多少の縁」とずっと思っていたり、
「ああ言えばこう言う(他人の意見を素直に聞かず、いちいち理屈をつけて言い返すこと」が実はことわざだったって事や
「南無三」は本当は「南無三宝(仏に救いを求めること)」で一か八か賭ける時の常套句だと思っていたり、
「美人薄命」は本当は「佳人薄命(美人または立派な人は幸薄く短命である)」で女性の美人以外にも使うとか、
その他に「大盤振る舞い」は「椀飯振舞」っても書くらしい。
多分まだ勘違いして使ったり覚えたりした言葉がありそうだw

あまり実生活に役立たない無駄知識だけど、話のタネにはなるね。

179なかよし:2017/10/24(火) 18:56:06 ID:cOCjBrdw
〇ウルトラマンジード
一種の胎内回帰みたいなもんか
ベリアル男だけど

検索で見られる ⇒ bit.ly/2kJFRlx

180園田英:2017/10/25(水) 00:28:43 ID:b/RTQnPw
>>178P4さん
その手のネタだと
・情けは人の為”のみ”ならず
人に情けかければ巡り巡って自分に返ってくる。
決して情けをかけて甘やかす事はその人の為にはならないと言うような意味ではない

…そしてこういう勘違いはするなはよく聞くが実際にこういう勘違いを見たことは無い
ついでにギブ&テイクでもない。見返りを期待するモンじゃないんだkら

・健全なる精神は健全なる肉体に宿れ”かし”
本来は健全なる肉体に健全ある肉体が宿れば「良いのにねえ(けど実際は)」
と言う皮肉を込めた言葉

体だけ上部で精神面がアレな人ほど好んで誤訳します

・天上天下唯我独尊
天の上にも天の下にも我(自分)というにおは唯独り。だから尊いのだ
という仏様のありがたい言葉

もう一般どころか商業でも誤訳氾濫。これが仏の言葉だと言うと
「え、仏様ってこんな恥ずかしい製革してるの(ププ)」
と反応する奴多数


後は爆笑とか破天荒とかかな

181ぺんぼー:2017/10/25(水) 22:27:22 ID:b2JT5ebk
個人的には、言葉の誤用は
誤用している人が多数派になれば
誤用じゃない認定をしてあげてもいいんじゃないかと思いますなー

極論であるのを承知で申し上げますと
言葉の変化ダメ絶対、というのは
類人猿のようにウッホウッホで話さなきゃ、というのと大して変わらない気が

でも敬語の使い方には気を付けよう!

182修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/25(水) 22:38:22 ID:byLobR8.
まぁ言葉の意味なんて100年前と今じゃ大分変わってますからね。
「正しい言葉」っていうのは絶対的なものじゃないですから

183園田英:2017/10/26(木) 00:12:55 ID:b/RTQnPw
>>181べんぼーさん
実際に誤用の方が正しい方より多数になり
正しい方が逆に誤用扱いされて駆逐されたってのもあるらしいです

自分も爆笑x笑うの更に上の表現→○”大勢で”笑う事
だと知ってもとても笑えることは爆笑と表現しますし

184うふふ:2017/10/26(木) 00:58:57 ID:w61nDR9.
「ブタもおだてりゃ木にのぼる」が諺じゃなかったと知った時の衝撃

185P4:2017/10/26(木) 02:34:14 ID:gVk8kjHE
ことわざや漢字や熟語の勉強をすると良く仏教用語に突き当たるなあ。
深い所で仏教と漢字は繋がってるのかなあ。

あと、健全なる精神は健全なる肉体に宿れかし”は元ネタはローマの詩人でしたか。
でも今は多分、健全な肉体には健全な精神が育つ的な意味で使っていいと思いますよ。

実際、体が健康的な方が性格いい人が多い気がします。病人や不健康な人で性格の良い人、気持ちいい人、爽やかな人にあまり会ったことはありませんし、まずは精神(こころ)も健康が基本。
少々お馬鹿(人に迷惑を掛ける馬鹿は除外)の方が斜めった人ひねくれ者より好かれますし、素直で正直馬鹿の方が話していて気持ちがいいものです(あくまでも持論)。
「衣食足りて礼節を知る」ってのも人間の本質(嫌な面だけど)をついてるなあって思います。

それに、体を丈夫にする体を鍛える健康を維持するってのはそれなりに辛くて苦労や努力がいるものです。それらが健康な精神の育成に結構影響を与えてる気がします。


あと「豚もおだてりゃ・・」の元ネタはアニメの「ヤッターマン」ギャグですねw

186幻獣ハンター:2017/10/29(日) 01:52:51 ID:mdR/LWI6
>>184-185
念のためですが「豚もおだてりゃ木にのぼる」はヤッターマン由来じゃないですよ。
元々地方にあった諺(というより言い回し)がヤッターマンで全国区になっただけです。
少なくとも自分はヤッターマン以前に聞いた事がありました。
しかしタイムボカン由来の「能ある豚は鼻隠す」をどういう意味ですか?と知恵袋で聴いているのも
衝撃だったがそれにもっともらしい回答(フランスの諺だと)をしている人がいて驚いた。
民明書房じゃないけど、あれ信じる人いるぞ。そして何十年か後には広辞苑に・・・
聞くなら「空からブタが降ってくる」を作詞した山本正之に聞くがよろしい。

187園田英:2017/10/29(日) 19:59:18 ID:b/RTQnPw
ジャンプならこれがあったな
汚名挽回 
キン肉マン(ガチ)
アイシル
「汚名を挽回されても困るんだがな」
「ええと…名誉返上で頑張るッス!」
「おい、誰かその猿に日本語教えてやれ」

188園田英:2017/10/29(日) 20:14:12 ID:b/RTQnPw
さて閑話休題(意訳;寄り道してるから本題戻ろう)

・人狼城の恐怖
犯人は恐らくアレ。と言うかアレしか考えられない
ただしそれを否定する展開あり

トリックの方は恐らく使うと読者に馬鹿にされるアレ…
しかし言外に「そのトリックは使用不能です」と言われてる

第一部第二部通して読むとおぼろ気に上記の問題点をどうしたか分かるが
それをやるには文字通りの”物理的障害”がある

と言うのを4部解決編で見事に解決します。いやあ壮大すぎて金田一にパクられるわけですよ
(金田一では○○を参考にしたとかありましたが)

只第一部ドイツ編、第二部フランス編で城に招かれた人物の共通点は?って謎の答えに
名探偵が「それはあまりに大きすぎて逆に盲点となった」偉そうに言った答えが

「彼らは皆ドイツ人(フランス人)だったのです」

は一寸…。それつまりドイツ(フランス)人なら誰でも良かったって事だし(実際そうだった)
日本の連続殺人モノで「被害者の共通点は全員日本人だ」とかほざいたら
かませ警察にすら「はいはい帰りましょうねえw」扱いされると思うぞ

189修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/29(日) 20:39:29 ID:byLobR8.
川添昭二『北条時宗』を読みました。
江戸時代から賞賛され、特に幕末以降はずっと賞賛され続けた時宗についての本ですね。
実際、元(モンゴル)軍を撃退した時の指導者だったわけで、その点での功績は大きいですが、時宗以降に得宗(北条氏嫡流)独裁専制体制が確立していったようですね。
あと、元の使者を無視したり切ったりしたのは元からすればめちゃくちゃだったわけで、さらにいえば元(モンゴル)軍とはいえ実質は高麗軍だったり南宋軍で士気も低かったので暴風がなかったとしても日本は勝てたんじゃないかと、この本を読んでたら思いましたね。
それにしても時宗のお兄さんの時輔かわいそう

190園田英:2017/10/30(月) 22:41:07 ID:b/RTQnPw
ああアレを忘れるとは
追記
ドイツ編ではロンギヌスの槍の探索もあり「その本質を考えなければ分からない」言われてたが
…第3部か第4部で詐欺グループの名前だけ主犯の髭親父処刑したとある小隊長さんのグチ話が載ってたが
これが一応ヒントらしかったがあれだけじゃ
「作者さん散々キリスト教作中で使ったくせに盛大にディスるなあ」としか思えないって
(前に使ったのも「先代神父はキリスト教よりも仏教が優れてるから改宗した。
それがこの修道院の最大の秘密だ!」だったが)

後「”妖精のように可憐””頼りな気なおどおど顔”…これは同じ表現です」
もどこがだ!?と突っ込みたい(とりあえず作者に表現能力が低い事は分かった)
どこぞのバッドマンとダースベイダーは似てるから誤魔化せると同レベルじゃねーか
(これの場合、聞き役が「そんな似てるの?」と問い突っ込み役が「気になるならウチでビデオ借りてください」
言ってるので分かってやってますが)

191P4:2017/11/02(木) 19:08:35 ID:gVk8kjHE
あれはヤッターマンのギャグじゃなかったんだ・・

教えてくれてありがとうございます。

192修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/03(日) 12:36:42 ID:mMM/Egmk
峰岸純夫『新田義貞』を読みました。
この本では、新田義貞は実直な東国武士が鎌倉幕府を滅ぼしてしまったために中央政界に躍り出ざるを得なくなり、足利尊氏とも対立してあっけなく死んでしまったという評価のようですね。
幕府を滅ぼしたのも、尊皇心があったとかそんな話では当然無く、北条氏先生の鎌倉幕府がいると新田家は守護になることはできなかったところに幕府の徴税の仕方に不満をもったということが大きな要因だったようですね。
面白かったのは、あまりにあっ気なく死んだので、太平記では悲劇性を盛り上げるために義貞の遺族の話を書いているというところかな

193修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/03(日) 18:05:21 ID:mMM/Egmk
井上智勝『吉田神道の四百年』という本も読みました。
明治時代まで神道界のトップに居続けた吉田家について論じた本です。
吉田家は戦国時代以降、勢力を強くしていくのですがその理由は、もののけ姫じゃないですがそれぐらいから人間が自然や宗教儀礼に手を加え出したからのようです。
というのも、人間がそういったものに手を出しても大丈夫だという理屈を考えたり神に対してお札や称号を与えたりする役割を吉田家が担っていたからのようです。
ただ、吉田家を有名氏にするために伊勢の御神体が自分達のところにやってきたということを言っていたので伊勢からは嫌われ続けていくことになるのですが。
吉田家は神をつくることも行っていたようで、秀吉も吉田家がいなければ神にはなれなかったようです。
家康に関しては仏教の説がだいぶ取り入れられてしまって吉田家としては面目を潰されたようですが、神職者を統括する役割を幕府から与えられて江戸時代においても神道界のトップにいるはずでした。
ただ、吉田家がそのような役割を担わされたことに不満をもつ神職者は伊瀬をはじめとして数多く、そのような神職者たちは吉田家の神道の考え方がいかに間違っているかを主張するようになります。
また、吉田家に対抗する存在としてかつぎされたのが白川家で、吉田家と白川家は勢力争いをはじめていきます。
吉田家が神職専門者だけを配下にしていたのに対し、白川家は神職専門ではないものまで神職者として配下にしていたようですが、吉田家も勢力争いのためにそうせざるを得なくなっていくようです。
そして近代へのつながりでいうと、幕府は仏教は統制下におくことはできたけれど実は神道に関してはそれができていない。
あくまでも神道は朝廷につながるものだった。しかも白川家が神職者をどんどん増やしたので結果的に明治時代になってから朝廷につながる神職者がすごい増えていたということになるようですね

194修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/09(土) 12:33:17 ID:mMM/Egmk
藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造』を読んでいます。まだ途中ですがなかなか面白いですね。
内容的には本能寺の変前後から始まっていますけど、まず足利義昭は信長の傀儡ではないという視点の本のようですね。
さらに言えば、義昭追放後も将軍の権威は無くなったわけではない。近年、本能寺の変は義昭と光秀が通じていたことから起こったと言われていますけど、これは妥当な見解かもしれませんね。
ちなみに光秀は農民に殺されますが、落ち武者狩りというのはむしろ勝者側が村を動員して行わせていたんだという考え方になってきているようですね。
そして義昭の権威が一気に落ちたのは賤ヶ岳の戦いのようです。というのも義昭が通じていた柴田勝家が負けてしまった。さらに義昭と通じていた毛利家が意思統一できず何も出来なかったということが大きかったようです。

話としてはここから小牧・長久手になっていくんですけど、小牧・長久手は天下分け目の戦いだったのだというのがこの本の視点のようです。
というのも、家康は軍勢的には明らかに劣っていたので色々な勢力に応援を要請していた。それに対して秀吉も色々な勢力に応援を要請した。
だから結果的には小牧・長久手の戦いは、小牧・長久手だけで戦闘が行われていたわけではなく、色々な所で家康方か秀吉方に分かれて戦っていた。
そういう意味で、天下分け目の戦いと呼ぶにふさわしい戦いだったようですね。

195修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/25(月) 21:51:23 ID:mMM/Egmk
沢山美果子『江戸の乳と子ども』を読みました。
人類が存続するためには子どもを当然育てなければいけませんが、子どもを育てるには当然乳が必要になる。
では江戸時代ではどのように乳が子どもに与えられていたのかを史料から明らかにしている一冊です。

結論から言えば、母親が母乳で子どもを育てるという考え方は実に近代的な考え方で大正時代に日本では当然の考え方になったようですね。
江戸時代では、必ずしも母親の母乳で子どもを育てていたわけではなく、乳の売買が行われていたわけです。
ただ、自分が生きていくためにお金を貰って他人の子どもに乳を与えた結果、自分の子どもを死なせていた母親というのもいたようで、それだけ江戸時代は生きていくのに大変な時代でもあったという事なんですね。

196感想下記:2017/12/30(土) 00:17:10 ID:3ILS2jFg
北欧神話と伝説 ヴィルヘルム・グレンベック 山室静 訳

神話関係が気になり北欧神話というものはどういうものかというのを上の本で勉強してみました。

北欧神話はエッダとサガというものに分かれています
エッダはオーディンとかロキとかいう日本でも割とメジャーな神様が登場するやつです
サガはいまでいうデンマークとかスウェーデンとかにいた英雄の話がメインです

サガはまったく知識がない状態で読んだのですが結構エグい話が多いです
子殺し近親相姦レイプとか当然の権利のごとく出現します
文章が緻密じゃないので淡々としていますが割とオイオイそれでいいのかと突っ込みたくなる話です

特にアレだったのがこの本の中にあったウォルスング家の物語
ウォルスング家の伝説をまとめて作ったものとのこと
ちなみにニーベルンゲンの歌もウォルスング家の伝説をもとに作ったとのことで兄弟みたいなものやろ(こなみ)

シグムンドとシグニイという男女の双子がいるのだがこいつらがヤバイ
彼らの親は王様だったのが敵国に滅ぼされシグムンド、シグニイ以外の兄弟含め親族は全部殺されちゃうのだ
そしてシグニイちゃんは敵国の王妃になる、シグムンド君は森の奥で隠れて雌伏するのだった

ただこのシグニイちゃんがやばい、敵国の王と自分の間に産んだ子供を殺しちゃったり
大好きなシグムンドお兄ちゃんのとこに変装して会いに行ってセッ○ル、子供作って育てちゃう
(ちなみに生まれた子は割と長い間シグムンドお兄ちゃんの子であるということを隠していました)

とかなり凄いキャラである、作中自分の子供を躊躇なく殺しまくっているのだがナンダコイツ!?とツッコまざるをえない
まあ敵国の王との子供だから愛情がなかったのかもしれないがいや…いくらなんでも…といいたい

ただ最期は敵国の王はシグムンドにぶっ殺されるのだがあんなに不義を重ねて憎んでいたのに
「長く連れ添ったのでそいつと一緒に死にます!」
といいはじめる…女心はわからん

またシグムンドは色々あってシグルドという子供を生むのだが
この子はニーベルンゲンの歌でいうジークに相当、ドラゴンを倒したりとつよいやつである
が、こいつの活躍が霞むぐらい強力なキャラが登場

そいつの名はブリュンヒルド!
これがまたヤバイ女である

シグルドがドラゴンを倒した後にとある城に立ち寄るのだがそこで倒れていた女性にあう
彼女の名はブリュンヒルド、オーディン神に使える戦女神だったのだが
国を勝たせる戦女神の仕事をミスって負ける予定の国を勝たせてしまった
そのせいで戦女神を首になってしまいさらに夫のいうことに従うようオーディンに決められてしまった
なので彼女は自分はすっごい勇敢な人と結婚するからいいもん!と誓いを立てていた

そこにシグルドが来たので一目惚れ、婚約してふたりはそれぞれの国に帰る(なんでそれぞれの国いったのかはよくわからん)
でそのあと色々あってブリュンヒルドはかぐや姫のごとく自分の夫選びのために無理難題を出し結婚相手を探しているのだが
そこにあらわれたのがグンナールという王族とそいつの妹のグドルンと既婚者になったシグルドなのであった(昔の約束なにそれおいしいの?)
で無理難題をシグルドに解かせてグンナールとブリュンヒルドが結婚する流れになる

結婚後のブリュンヒルドはかなり問題児で無理難題をグンナールが解いてないことが判明すると
「マジグンナールはクソ、シグルドみたいな英雄がよかったのになんでこいつと結婚するハメになったんだよ!」
みたいなこと言い出してグンナールを刺し殺そうとしたり
「グンナールには一生塩対応確定」
とか言い出したり
そうかと思えば
「自分を忘れて結婚したシグルドはマジクソ。おい、グンナールこいつを自分の親族の中に混じらせとくと害になるから殺したほうがいいよ」
などとけしかけてくる
この結果グンナールは間者をつかってシグルドを殺すのだが殺したあとにブリュンヒルドはグンナールに対して
「義兄弟になったシグルドを殺したグンナールはクソ」
とか言い出す(いやけしかけたのあんたやないかい!)
さらにさらにシグルドが火葬されるとき自分も一緒に死んで火葬されてついていくとかいいはじめる
その際にも「私と一緒に死にたい人いませんかー」などと召使いに言い出したり…

ちょっと面倒くさすぎませんかねぇ…この子
こんな個性的なキャラが出る北欧神話は面白いと思いました。
同じような名前がでてきてわかりづらかったりするとこもありますが結構サクサクと読めます。

197修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/27(土) 15:28:04 ID:6LiIbOJg
ジェンダーの歴史もちゃんと学んだほうがいいかなと思ったので『新体系日本史9 ジェンダー史』(2014年)を読み始めました。

西野悠紀子「原始社会とジェンダー」
 日本列島が大陸と陸続きであった更新世末期、食料資源の確保が第一の課題であり、役割の多様化が進んでいたかは疑問
 縄文時代になると分業意識が出現してきたとされる。人口維持のためには15歳前後から30代前半のあいだに平均8回、2年に1度の割合で出産することが必要だった
 土偶は女性の姿をしているが、集団秩序の回復・維持・発展のために女性の力が必要とされていた
 一方、男性性器の姿をした石棒は集団に侵入してくる悪を防ぐ役割があったとされている→一種の役割分担意識
 1980年代以後、古墳被葬者の性別を再検討する作業が進み、男性とされていた被葬者のなかに女性が存在することが明らかになってきた
 →前期古墳の時代までは女性首長は例外ではなかった。弥生時代後期から古墳時代前期、首長は男女を問わず存在し、性別に関わらず祭祀は首長の重要な任務だった
 古墳時代中期以降になると、女性首長の数が急速に低下する→朝鮮半島への軍の派遣。軍事、特に騎馬軍団から女性が排除されたとみられる
 日本の場合、父系で家を継承しているように見えて、事実上女系で継承するという例が古代から近代まで続く
 朝鮮半島経由で最新技術が到来すると女性の多くはそこから排除され、男女分業体制が形成されていく
 しかし、高度な技術は支配者層に独占されていたから、地方の民衆社会まで高度な生産技術から女性を排除するのには時間がかかった

198修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/28(日) 12:20:00 ID:6LiIbOJg
服藤早苗「「家」の成立とジェンダー」
 中世は長い時間をかけて、家が形成され変容していく時代。政治的地位や財産が父―男子に継承される家が成立するとジェンダー構造は差別的になっていく
 平安初期、天皇家で母方親族を外、父方親族を内とする祭祀が始まり、男性優位のジェンダーが構築される。ただ、系譜や血統意識から母系が確実に排除されるのは院政期
 平安期に理念的には父系直系皇統家筋への祖先祭祀が成立。上級貴族でも父系直系家筋が他を圧倒していく(摂関家)
 ただ、女子を媒介にした縁戚関係、女子の出産による天皇家縁戚の生成などによって家筋は安定化されており、女性の有用価値は高かった
 平安中期、農民層でも未熟ながら家父長制的家族が萌芽している。世襲的な家は未成立
 10世紀前期、貴族層ではいまだ当事者同士の意志で性愛関係が開始されていた。10世紀中頃になると両親が結婚の決定を行うようになる
 妻方同居が確実に始まるのは10世紀後半で、それまでは夫はどの妻とも別居している
 12世紀頃まで田畠は男女が均分に近く相続していた。ただし、女性は官職に就任できなかったから相続した財産を用いて経営を行うことは制限されていた
 院政期になると母の出自が問題にならなくなってくる。天皇の父である上皇が天皇家の家長として権力を掌握する父系的家父長権成立
 武士層では、基本的に男性優位相続。ただ、武家層では妻の財産は妻自身が知行した。14世紀になると嫡子単独相続が強まっていく
 院政期、公家・武家・一般民衆層まで夫優位の家父長制家族がほぼ成立
 11世紀中頃の貴族層の妻に対する3つの役割→父母の財力・家治能力・性能力。院政期、性能力は遊女・白拍子に期待されるようになり、蔑視イデオロギーも萌芽する
 農民層では、男性は年貢を生み出す田地の耕作責任負担者で、女性は私的所有性の強い屋敷畠を耕作する
 天皇は男女を問わなかったが、8世紀後期の称徳天皇を最後として女性の皇位継承は終焉する。しかし、摂関期は女性は国母(天皇の母)として政治上からは排除されていない
 貴族層では、男児には官職上昇を期待し、女児には天皇と結婚することが期待された
 10世紀後半以降、貴族層は一夫一婦制になり、同居の妻以外は妾となる。10世紀中頃には密通が成立している。妻の夫以外の男性との性関係は許容されなくなった
 10世紀以降、強姦史料もでてくる。男色史料もこの時期から。夫は多くの妻妾をもち、遊女を買い、同性との性愛も積極的に展開していた
 10世紀前後から明確に遊女が登場する
 女性老人は地主神にはなれなかった。地主神はすべて男性老人。また、鬼婆はいても鬼爺はいない→家父長制的家の成立
 老人女性には否定的なイメージの説話が多い
 10世紀以降、夫を亡くした妻は後家と呼ばれ出家することもあるが、男性が妻死後に出家したりするようなことはない
 商業では、決して男女が対等ではなかったが、他の社会よりは女性も経営権を得ることが出来た
 漢字は男手とされ、仮名は女手とされた→仮名は考え感じたことを理論化しそのまま文章表現できることができた→女性による平安文学
 鎌倉後期、女性作家による文芸作品は姿を消した→公的な場からの女性たちの退場を象徴
 女性による芸能は買売春と深く関わり残っていかなかった。田楽・猿楽が能として男性の伝統芸能として現代まで残っているのとは対照的

199修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/29(月) 19:26:49 ID:6LiIbOJg
大口勇次郎「近世のジェンダー」
 近世の女性は、古代・中世と比べて、歴史の表舞台に立つことが少ない
 近世は秀吉の軍事的な全国制覇から始まったが、武家の家督は男性が独占し、武士がつかさどる政治の分野から女性は排除された
 一方で、庶民の家が成立した近世では、家の経営が重視され、女性も経営に参与するために経済性・合理性を身につけることが必要だった
 近世農家の女性の地位は低かった。女性が家督を継ぐことは無かった。男性がいなくなり女性が当主になっても前当主の男性との関係が帳面に記された

200修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/30(火) 17:25:04 ID:6LiIbOJg
大口勇次郎「幕末のジェンダー」
 江戸後期、豪農の息子は遊学の機会を与えられ、娘は奉公に出された後近隣の農家に嫁がされた。女性は寺子屋で学んだ後、学ぶ道は閉ざされていた
 お蔭詣りでは、女たちも家の縛りを振りほどいて伊勢へ向かっている。女性の男装は処罰の対象だったが、お蔭踊りでは男女の衣装の交換が行われている
 戊辰戦争において少なからぬ役割を果たしたのが和宮など江戸城大奥の女性たちだった。和宮は京都との接触をはかることに力をつくしている
 出島に住む外国人商館員が相手にできる女性は遊女か、遊女の鑑札を受けた名付遊女(一般女性を遊女ということにする)に制限されていた
 →出生した子どもは性別に関わりなく日本人になり出国することは許されない。家族を形成することは許されなかった
 開国後、外国人居留地がつくられると遊郭が設けられた。要求すれば居留地でも名付遊女が派遣された
 外国から要求されると幕府は、妻子の本国連れ帰りを自由とした
 1872年、マリア・ルス号事件。日本が、横浜に入港したペルーのマリア・ルス号の船長を奴隷売買の罪で有罪とした
 →イギリス人弁護士は、遊女も人身売買であって日本が奴隷売買を告発することは出来ないと主張
 →政府は解放令を出している。一時的に売春宿廃業。しかし、女性本人が契約しているという体裁をとることで売春業を存続させた

201修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/31(水) 17:06:11 ID:6LiIbOJg
成田龍一「総力戦とジェンダー」
 20世紀、平塚らいてうなど、男性社会へ挑戦する新しい女の登場→男性たちは揶揄・誹謗、中傷した
 婦人参政権獲得要求の議論は、男性による普通選挙運動の高揚のなかで起ってくる
 20世紀初頭、女性向けの雑誌が刊行される→新中間層家族・核家族向け。女性側がどのような男性を望むかということも記事になる
 →男性も意思を持つ女性を求めるようになる。女性は自らを認め、家庭を重んじる男性を求めた→恋愛の賞揚。男性の側でも自己改革が生み出された→家父長制の拒絶
 20世紀初頭、消費社会形成→男性は生産、女性は消費→性別役割分担
 1936年、安倍定事件→男性を思い続ける女性愛を阿部にみようとしたところに男性の欲望が投影されている
 総力戦体制下になっていくと女性の動員も実施され、女性の側もそれに積極的に呼応した。総力戦体制では下位におかれているものを上位にあげるという幻想が振りまかれる
 →左派の女性たちも積極的に参加。反資本主義・反共産主義で社会民主主義とも違う路線。国家への貢献、国家社会主義
 戦闘は男性、銃後は女性という役割分担。女性は男性の論理に参加すること、男性に従うことが求められた→ジェンダー秩序はかわっていない
 戦闘に直面した女性は、従軍看護婦、従軍慰安婦、従軍作家
 敗戦後の引き揚げの経験→日本人が被害者として自らの経験を語るようになる。一方で、夫不在の植民地で敗戦を迎えた女性の解放感もあった
 敗戦後、平和の担い手として女性が利用される→女性が利用されるという点では戦時と戦後はかわらない
 戦後の女性雑誌の特徴→女性が男性を論じる。しかし、ジェンダー秩序を変更することはできていない。性別役割分担も問題化されていない
 占領期、日本政府によって特殊慰安施設協会(RAA)が設置される→占領軍向け慰安婦


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板