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【SS】慈「Wrong Vacation」

1 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:37:56 ???00
続きです
以下をご覧になってからお付き合いいただければと思います

【SS】栞子「しおとめぐみ」
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/anime/11224/1751628157/


2 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:38:51 ???00
栞子(偶然を破りに行くために、偶然を利用しようとしているのは少しおかしな気もします)

栞子(であるからこそ、これは模倣である、繰り返しであると自分に言い聞かせて今を納得させているんです)

栞子(そのいずれもほんとうはあまり意味のないものであるにしても)

栞子(あの時と同じように私はデッキに向かい、あの時と違って今度は私が欄干で佇んでみています)


3 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:39:44 ???00
栞子(さすがにあの時の彼女のような圧迫感を醸し出すことはできませんが、それでもこのドレスは我ながらなかなかではないでしょうか)

栞子(彼女のドレスに比べるときらびやかさには欠けますが、本来黒とはそういう色のはずです。あれはあの人がおかしいんです)

栞子(などとやっていると、結局今晩も誰と交流するわけでもなく終わりそうです)

栞子(ですので結果としてはサボってばかりの人になっています)

栞子(ですがひとつ大きなことをなしたばかりであれば、このような時間も許されるのではないでしょうか)

栞子(ふふっ、これもまた言い訳だとは思うんですけどね)


4 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:40:28 ???00
船長「思い出し笑い?」

栞子「うぇ、あっ。えーっと……」

船長「こういうのはもっとミステリアスな感じを出しておかないと。雰囲気が大事なのに」

栞子「タ、タイミングが悪いんですよ。もうちょっと早ければ私も」

船長「慈ちゃんはいつでも完璧だったけどな〜、少なくともガワは」


5 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:41:17 ???00
栞子(私が模倣していたその人物の名前を出されて、すぐには言葉を返せませんでした)

栞子(こんなところで聞くとは思っていませんでしたし)

栞子(この人は慈さんを個人的に知っているんですね)

栞子(たった今おろしてきたばかりのように真っ白で、きちんと折り目のついたスボンとシャツ、肩には黒地に金の4本線)

栞子(船長、ですよね)

栞子(そうと感じさせない、どこか抜けている感じがありますが)

栞子(さすがに乗客の前に出てくる時にこういった雰囲気をまとっているだけで、船長室ではきっとかっこいい船長さんなんでしょう)

船長「ねーねー栞子ちゃんはどうやって慈ちゃんと仲良くなったの〜?私なんて門前払い同然だったのに」

船長「いいなーいいなー」

栞子(きっと乗客からは見えないところでしっかりやっているんだと思います)


6 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:42:08 ???00
栞子「どうやってもなにもないです。普通です」

栞子「というより船長さんも慈さんとは知り合いなんですね」

船長「知り合いというか、まあ知ってはいるよねそりゃ」

船長「デッキで見かけたからもう三顧の礼で頼み込んでステージ立ってもらったんだ」

船長「そしたら一緒にいたのが君」

船長「ねーもうびっくり」


7 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:42:58 ???00
船員「船長、少しお時間よいですか」

船長「はーい」

船長「ごめんね、ちょっと行ってくる」

栞子(そう言うと彼女はあっという間にこの大きな船の中のどこかへと消えていきました)

栞子(やはり私の模倣では、ここに誰かを引き止めることはできないのでしょうか)

栞子(そんなことを考えていると、すぐにひと仕事終えた彼女が帰ってきました)


8 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:43:46 ???00
栞子「ちゃんと船長らしいことしてますね」

船長「……私だって肩書だけはあるけど」

船長「でもさ実際、私が決定してるところってそんなにないし……」

船長「なんて言うんだっけこういうの、亭主関白?」

栞子「……?」

栞子「摂関政治ですか?」

船長「それだ!」

栞子「いや違うと思うんですが……」


9 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:44:31 ???00
船長「慈ちゃんいなくなっちゃってさみしいでしょ」

栞子「まぁ……それは……」

船長「お、私が知ってることに驚かないんだ」

栞子「ええと?チェンナイで降りたじゃないですか」

船長「んー……」

船長「こういう船は途中で降りる人は普通いない」

船長「そもそもシステム上はまだ乗ってることになってるしさ」

船長「君のほうが知らない感じかな?」


10 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:45:16 ???00
栞子「まだ乗っていることになっている……、ということは」

船長「降りていないことになっている、ということだね」

栞子「それはそうです」

栞子「なぜそんなことを、というところです」

船長「さぁ?」

栞子「……あなたはなにか知っているんですよね」

船長「うーん……?どうだろ」

栞子「そもそもそちらが始めた話ですし」

船長「あ、私もう行かないと」

船長「あんましパーティサボってたら怒られちゃうからさ」


11 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:46:03 ???00
栞子(去り際、あの人の視線が外れていく瞬間、今まで覆っていたシェードが外れて、海そのものよりも海らしい青を湛えた瞳から冷たい光が放たれ、船上の初夏の夜の中へ散っていきました)

栞子(普段の様子はやはり猫を被っているがゆえのものなのでしょう、あの時垣間見えた姿が本来の彼女なのでしょう)

栞子(海という存在、時としてその激情を迸らせ船乗りの前に立ちはだかる存在と、幾度となく戦い勝ち続けてきた歴戦の船長という描像が本来のあの人なのでしょう)

栞子(訊きたいことはたくさんありますが、信用してよいのかわかりかねるんですよね)

栞子(少なくとも今すぐ追いかけようという気にはなれませんでした)


12 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:46:51 ???00
栞子(私は誰に怒られるわけでもないので、もう少しサボっていようかと思います)

栞子(慈さんがいたら、怒られてしまうんでしょうか)

栞子(そんな偶然に頼ってばかりいないで、自分でつかみに行きなよ)

栞子(なんて言ってくれるんでしょうか)

栞子(そうしようと思ってはいるんですが)

栞子(手を伸ばしてみても、その先には海しかなく、水しぶきひとつつかみ取ることもできません)

栞子(月も見えず街も見えず、船の灯りに照らされた私の影が海の中へ溶けていくだけ)

栞子(光にひらかれた目には、この夜がよりいっそう暗いものに見えるだけです)

………
……



13 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:48:03 ???00
慈(陸だ。足元が揺れない)

慈(そりゃそうだ。海じゃないんだから陸だよ)

慈(でも港町ってまだ海の上というか、海に浮いてる場所って感覚がある)

慈(ちょっと内陸まで入らないと、ふとした時に流されちゃいそうでね)

慈(陸路で、地に足つけて行こうじゃない)

慈(さーて、どうするかな……)


14 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:48:47 ???00
慈(適当に現地調達できるとそれがいいんだけど)

慈(でもまぁそう都合よくは)

吟子「お嬢さんお嬢さん、荷物持ちましょうか」

慈(おお!渡りに船!!)

慈(船はもう降りたけどね)

慈(あと別に私お嬢さんって柄じゃないと思うんだけど……)


15 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:49:30 ???00
慈「お願いしよっかな。こっちのセカンドバッグだけね」

吟子「えっ……、藤島慈……?本物……?」

慈「いいんだよそういうのはどうでも」

吟子「自分が誰だかは絶対にどうでもよくないと思うんですが……」

慈「はいはいこれよろしく。代金は……、とりあえずはこんくらい持ってっといて」

吟子「こんなに……?なにを運ばせるつもりなんですか」

慈「まー自分で運びたくないものなんて相場が決まってるよね」


16 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:50:19 ???00
吟子「税関で犬に騒ぎ立てられて死刑になるやつですか」

慈「白い粉ではあると思うよ。確認しとく?」

吟子「えっ、開けるんですか」

慈「ほら」

吟子「これは……、塩?」

慈「しお?」

吟子「訊いてるのはこっちです」


17 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:51:02 ???00
吟子「なんでチュンナイにいるんですか、凱旋ですか?」

慈「なにに勝ったのよ、そもそも帰る場所でもないし」

慈「あとチェンナイね」

吟子「ムンバイ、チュンナイ、デリーって言ってませんでした?」

慈「チェンナイって言ってるつもりなんだけど……、まぁあんましそう聞き取られてないみたいではあるよね……」

吟子「外国語は難しいです」


18 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:51:47 ???00
慈「といってもこれは日本語にもある発音なんだけどな」

吟子「LとRの違いとかその類かと思っていましたが」

慈「無声歯茎硬口蓋破擦音は日本語にもあるでしょ」

吟子「え?なんですか?むせいしけい……?」

慈「無声・歯茎・硬口蓋・破擦音。ちゃ、ち、ちゅ、ちぇ、ちょの子音だよ」

吟子「ちゅちょちぇ?」

慈「あー、とりあえず聞けばわかるはずだから」

慈「ちょっとインド人捕まえてくる」


19 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:52:31 ???00
慈「வணக்கம்」

慈「இந்த நகரத்தின் பெயர் என்ன?」

インド人A「चेन्नई」

慈「あっ、धन्यवाद〜」バイバイ

慈「タミル語で挨拶してんのにヒンディー語で返されたわ、ハズレだね」

吟子「人を勝手にハズレ扱い……」

慈「はい次次」


20 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:53:15 ???00
慈「வணக்கம்」

慈「இந்த நகரத்தின் பெயர் என்ன?」

インド人B「சென்னை」

慈「நன்றி!」

慈「ほら!聞いてた?本場の発音」

吟子「えっこれ私がなにか聞いてないといけなかったやつなんですか」


21 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:53:56 ???00
慈「そうだよ私が『この街の名前なに?』って訊いてるから、現地の人が親切にも『チェンナイ』って答えてくれてるんじゃん」

吟子「それを先に言ってください。いきなりまったくわからない言葉を喋りだされても困ります」

慈「いや聞けばわかるって言ったし……」

慈「あーあ無駄にインド人消費しただけになっちゃったじゃん」

吟子「そもそもこんなくだらないことのためにインド人を使い捨てないでください」

慈「いいじゃんいっぱいいるんだし」

吟子「怒られますよ」


22 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:54:38 ???00
吟子「ずいぶんと語学に造詣が深いんですね」

慈「えへへでしょでしょ」

吟子「その割にTシャツの文字がダs、独特のセンスというか……」

慈「悪かったねクソダサTシャツで」

吟子「やけにポップな書体での『BE KOBE』って地元をアピールするにももう少し他にあったと思うんですが」

慈「私別に神戸出身じゃないよ」

吟子「ではなぜ」

慈「前立川行った時になんか売ってたから買った」

吟子「頭痛くなってきました……」


23 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:55:21 ???00
吟子「それでさっきっから訊いてるんですがなんで藤島慈がこんなところにいるんですか」

慈「フルネームやめてね。めぐちゃんね」

慈「あとここはただの経由地だから、いる理由なんて特にないよ」

吟子「この地を自分で歌ってるのにですか」

慈「まぁ強いて言うならそれなのかな。潜在意識ってやつかもね」


24 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:56:02 ???00
吟子「最終目的地はどこですか」

慈「涅槃」

吟子「人生の目的地の話はしてないんですよ。これからどこに行くつもりなんですかって訊いてるんです」

慈「ヨーロッパ」

吟子「範囲がでかすぎます。大宮のあたりでタクシー拾って行き先に東京って言うようなものです」

慈「ずいぶん長距離乗るね、ありがたがられるんじゃない?運ちゃんに」

慈「でもちょっとたとえがローカルだよね、もっとグローバルにいこうよ」

吟子「そこは本質じゃないんですが……」

慈「バンコクでトゥクトゥク拾ってヴィエンチャンまで行くようなもんみたいなね」

吟子「トゥクトゥクで国境を越えないでください」

吟子「そんなものはどうでもいいんですよ、ヨーロッパのどこですかって話です」

慈「んや、まだわからん。とりあえず西」

吟子「ええ……」


25 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:57:01 ???00
慈「というわけで、陸路で国境越えてくよ」

吟子「どういうわけなんですか」

慈「空路はセキュリティ厳しすぎてどうしても足がつくんだよ、空飛んでるくせにさ」

慈「まずさ、キミパスポート何冊持ってる?」

吟子「普通1冊では……」


26 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:57:46 ???00
吟子「昔作って期限切れたやつは多分実家にありますけど」

慈「期限切れてたら意味ないでしょ、有効なのが何冊あるか」

吟子「そんなのそもそも0か1しかないじゃないですか」

慈「コンピューター?」

吟子「人間です」

慈「そうだね、最低あと1冊はほしいから適当にその辺で見繕ってきてよ」

吟子「……は?」

慈「ね、吟子ちゃん」

慈「偽者になってくれる?」

………
……



27 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:59:00 ???00
栞子(本物がわかる人間になれと言われ続けてきました)

栞子(そのために多くの”本物”に触れる機会もいただいてきました)

栞子(そんな私の感覚からして、今までここに偽物はありませんでした)

栞子(すべてがほんとうのことで、それでも今筋が通っていないように思うことが残っています)

栞子(それなら、少し調べてみないといけないですよね)

栞子(『部屋は空くから好きに使っていいよ』と言われていますし、まずはあの部屋ですか)


28 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 20:59:41 ???00
栞子(なんとなくがらんどうを想像していましたが、そんなことは全然ありませんでした)

栞子(そもそも家具が備え付けな時点でそうはならないですね)

栞子(生活感すら感じられるようです)

栞子(リビングの中央にあるガラス天板のラタンテーブルの上に、紅茶の茶葉缶が置かれているのがまず目に入ります)

栞子(あの時のダージリンですね)

栞子(そしてその茶葉缶で洋封筒がテーブルに押さえつけられています)

栞子(翡翠色一色のシンプルな封筒、裏はパールホワイトの封�椈に羽の印章で緘じられています)

栞子(さすがに私宛てと考えても自意識過剰ではないですよね)


29 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:00:23 ???00
栞子(レターオープナーなどは持ち合わせていないので、封�椈を引っぺがすことにします)

栞子(なんだかはしたないですね)

栞子(開けると中には手触りのよい和紙の便箋が2枚、内容はたった一文)

栞子(これが形から入るタイプのなせる技ですか)

栞子(私でも少々回りくどいのではと思います)

栞子(それで、なんて書いてあるんですかね、これ)


30 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:02:51 ???00
『History doesn’t repeat itself, but it often rhymes.』


31 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:04:27 ???00
栞子(ふたつあります)

栞子(まずひとつ、腹立つくらい達筆ですね)

栞子(ふたつ目)

栞子(なんで英語なんですか)

栞子(お互い日本人ですよね?ちょっと不安になってきました)

栞子(私も形から入ったほうがいいんでしょうか)

栞子「Hey guys!」

栞子「…………」

栞子(むなしいですね……)

栞子(紅茶でもいれますか)


32 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:05:08 ???00
栞子(カウチに沈み込んで紅茶を飲みながら、目を閉じるとまるで慈さんといたあの時に戻ったかのようです)

栞子(香りは記憶と強く結びついている、というのはほんとうのようですね)

栞子(そんなことを思いながらも、頭の中ではまとまらない考えがくるくると回り続けています)

栞子(『歴史は繰り返さないが韻を踏む』)

栞子(『歴史は繰り返す』ではないあたり、今まで訪れた場所に戻ってもしょうがないということなんですよね)


33 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:05:43 ???00
栞子(でも韻を踏むというのであれば、相似形と言いますか、やはりある程度は繰り返すことになるのでは)

栞子(そうせざるを得ない、でもそれは繰り返していることになる?それではダメ?)

栞子(それか模倣……?)

栞子(くるくるくる、くるくるくる)

栞子(なんの気なしに無断で紅茶いれましたけど、この茶葉とても高いですよね)

栞子(…………)

栞子(なにかが引っかかると回転が止まります)


34 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:06:21 ???00
栞子(そんな座ってリラックスしている場合でもない気がします)

栞子(まだテーブルの上しかあらためていません)

栞子(他にも見るべきところはたくさんあります)

栞子(ガサゴソと家捜しをしましょう)

栞子(人様のお部屋を漁って回るなんて査察官みたいですね)

栞子(立ち上がって歩き回っていると、なんだかちょっと楽しくなってきました)


35 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:06:59 ???00
栞子(意外にも結構片付いています)

栞子(意外は若干失礼な気もします)

栞子(もともとそこまでものが多くなかったのか、特になにが残されているというわけでもありませんでした)

栞子(クローゼットの中を除いては)

栞子(そこには1着だけ、忘れられたかのように残されているドレスがありました)

栞子(あの圧迫感さえ感じさせるような黒のイブニングドレス)

栞子(それを見た時私は、ひとつの考えに取り憑かれました)

栞子("これは私が持っていなければいけない")

栞子(強さと脆さが同居するこの衣服をそっと手に取り、私は自分の部屋への帰路を歩み始めていました)

………
……



36 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:07:58 ???00
>>28
栞子(なんとなくがらんどうを想像していましたが、そんなことは全然ありませんでした)

栞子(そもそも家具が備え付けな時点でそうはならないですね)

栞子(生活感すら感じられるようです)

栞子(リビングの中央にあるガラス天板のラタンテーブルの上に、紅茶の茶葉缶が置かれているのがまず目に入ります)

栞子(あの時のダージリンですね)

栞子(そしてその茶葉缶で洋封筒がテーブルに押さえつけられています)

栞子(翡翠色一色のシンプルな封筒、裏はパールホワイトの封蠟に羽の印章で緘じられています)

栞子(さすがに私宛てと考えても自意識過剰ではないですよね)


37 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:08:51 ???00
>>29
栞子(レターオープナーなどは持ち合わせていないので、封蠟を引っぺがすことにします)

栞子(なんだかはしたないですね)

栞子(開けると中には手触りのよい和紙の便箋が2枚、内容はたった一文)

栞子(これが形から入るタイプのなせる技ですか)

栞子(私でも少々回りくどいのではと思います)

栞子(それで、なんて書いてあるんですかね、これ)


38 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:09:49 ???00
吟子「いろいろ、いろいろとあるんですが、まずなんで名前を……?名乗ってませんよね私」

慈「パスポートは気をつけないとダメだよ」

吟子「っ……!」

吟子「あれ……、ちゃんとある」

慈「ふーん、そこに入れてるんだ。ちゃんと肌身離さず持ってるんだね、えらい」

吟子「うっ……」


39 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:10:29 ???00
慈「スマホね、意外と見えるんだよ、画面」

吟子「そういえばあなたは一度もスマホ出していませんね」

慈「持ってないものは出せないからね」

吟子「持ってない……?」

慈「投げ捨ててきたから、海に」

慈「GPSとか鬱陶しいでしょ」

吟子「なんでまた……」

慈「かくれんぼしようと思って」


40 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:11:09 ???00
吟子「これ、明らかに危ない橋を渡らなければならない感じですよね」

吟子「今降りるって言ったら逃がしてくれるんですか」

慈「最後まで運んでくれたらさっきの千倍は出すよ」

吟子「…………」

吟子「普通そんなお金を口約束されたって信じないんですけど、今目の前にいるのはあの藤島慈ですからね……、十分あり得るんですよね」

慈「フルネームやめてね」

吟子「いつ途中離脱するかわからないですけど、とりあえず今は受けることにします」


41 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:11:40 ???00
慈(やっぱりそうだよね、私の見込んだとおり)

慈(そりゃ大金ではあるけど、この額でこんなわけのわからないやつについていこうとはなかなか思わない)

慈(そもそもちゃんと払ってくれるかどうかもわからないのに)

慈(この子も背水の陣敷いてるんだろうね、瞳の奥に焦りからくる鈍い輝きがあるのを感じる)

慈(私もここまで状況を追い込まなかったらきっと気づかなかったんだろう)

慈(ただ逃げ出すだけだったら私ひとりで十分だったけど、今はそうはいかないから)

慈(やらなきゃいけないことができた)

慈(涅槃に行く前に寄りたいところができたんだよ)


42 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:12:14 ???00
慈「はいパスポート。これでキミは今から偽物の吟子ちゃんだよ」

吟子「大丈夫なんですかこんなので移動しようなんて」

慈「大丈夫じゃないからわけのわからない陸路で行こうとしてるんでしょ」

慈「空港なんか行ったら終わりだよ」

吟子「ええ……」


43 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:12:48 ???00
吟子「そういえばあまり詳しく聞いてなかったんですが、陸ってどこ通っていくんですか」

吟子「ちゃんとここから東行ってシルクロードたどりますよね」

慈「いや」

慈「西に行きたいんだから西に行くよ」

吟子「えっ……」

慈「私は左!」

慈「国境で塵になる覚悟はしておいたほうがいいかもね」

慈「今のうちに手紙でも書いときな」

慈「マハラジャ キミが残してった 手紙を読んでる♪」

吟子「本物の生歌……!って感激するところかもしれないんですが、流れが縁起でもなくてですね……」


44 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:13:21 ???00
慈「サヨナラなんて 美味しくないから♪」

吟子「わかりましたよ、他に選択肢ないんですし、行きます」

慈「おお〜豪放磊落」

吟子「ヤケクソというやつです」

慈「キミは記録上ここで蒸発することになるけど、他たどられるような痕跡残してないよね?」

吟子「いえ、私の最後の記録はケンペゴウダ空港のはずです。そもそも今私がチェンナイにいることを知っている人はいません」

慈「なら都合がいいね。やることやれるようにしてきてるわけだ」


45 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:13:58 ???00
慈「私もチェンナイ港で降りたことにはなってないから」

吟子「さすがに乗客って管理されてますよね……?船でもなにかやってきたんですか」

慈「ま、そんなとこ」

吟子「海でも陸でもろくなことしてないですね……」

慈「空が一番窮屈だしね。皮肉だよ」

慈「鳥は空を自由に飛ぶことができる。人間もようやく空を飛ぶことができるようになったのに、そこに自由はない」

慈「埋まらない溝、越えられない壁。地図に引いてある線なんて実際の大地にはどこにもないのに」

吟子「パスポート偽造してる人間がそんな大層なこと語らないでください」


46 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:14:30 ???00
吟子「あと実際印パ国境は線見えますよ」

慈「そりゃ線に見えるようにわざわざ灯り並べてるからで例外でしょうが。屁理屈こねるんじゃないよ」

吟子「理屈云々ではなく事実です」

慈「ふーん」

吟子「あっ待ってください、おいていかないでください、荷物持って逃げますよ私」

慈「いいよ塩なんだから」

吟子「じゃあなんで人に運ばせてるんですか」

慈「重いから」

吟子「なんなん……」

………
……



47 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:15:35 ???00
船長「栞子ちゃん。やっぱりここにいた」

栞子「うぇ」

船長「そんな嫌そうな……」

船長「私あれだよ?会ったら写真撮ってとか言われるような、テーマパークでいうマスコットキャラみたいなポジションでもあるんだよ?」

栞子「そうですか。では撮っておきますか写真」

船長「えーダメ」

栞子「なんでですか。言い出したのそちらですよ」


48 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:16:11 ???00
船長「そんなことより、ほいこれ」

栞子「手紙……?」

船長「そ、君宛て」

栞子「海の上にいても手紙って届くんですね」

船長「こういう船にだったら、寄港地の代理店に送っておけば届くよ」


49 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:16:43 ???00
栞子「……それって普通の郵便として部屋に届くものなのでは」

船長「普通はそう」

船長「でも今日の私はメッセンジャーであります!」

船長「私この仕事してなかったら、お手紙配り歩いてたと思うんだよね」

船長「パートナーにかもめの子を連れてさ、世界を飛び回るの」

栞子「ファンタジーじゃないですか」


50 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:17:15 ???00
栞子(そんなことを言いながら私に手紙を手渡すと、またどこかへ行ってしまいました)

栞子(さすがにそれなりに忙しいのでしょう。でもどうせすぐに戻ってくるんでしょうけどね)

船長「はいただいま。で、なんだっけ?」

栞子(早すぎません?)

栞子「すぐいなくなりますけど、すぐ戻ってきますね」


51 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:17:48 ???00
船長「まぁ私が呼ばれるのって、ほぼ決まってることにGOを出してほしい時くらいだし……」

栞子「またまた」

船長「それを私が躊躇して全体の進行が遅延してたら世話ないでしょ」

船長「回せるものはさっさと回すに限るのであります」

栞子「くるくるくる〜」

船長「君を回した覚えはないよ」

………
……



52 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:18:51 ???00
慈「あ、エンストした」

吟子「ええ……」

慈「うーん」

慈「かからない」

慈「吟子ちゃん奇跡的にエンジン周り詳しかったりしない?」

吟子「するわけないじゃないですか。こっちは観光客相手にお荷物運びますよで小金せびってる輩ですよ。工学の知識なんてあると思いますか?」

慈「言い方」

慈「あと私は観光客じゃない」

吟子「カラチでうきうきで街なか歩き回ってたのは誰でしたっけ……?」

慈「さーて、どうするかね砂漠」


53 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:19:23 ???00
慈「歩くかー」

吟子「正気ですか?」

吟子「そもそも今どこにいるってわかってるんですか」

慈「いや」

慈「一本道だから行き着いた先にある集落?でどうにかする」

慈「あるのかはわからん」

吟子「帰りたい……」


54 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:20:04 ???00
慈「サハラの夕日を あなたに見せたい♪」

慈「さよならを私から 決めた別離の旅なのに♪」

吟子「急に歌いださないでください」

慈「翼を広げて 火の鳥が行くわ 地の果ては 何処までか 答えてはくれないの♪」

吟子「普通に上手いの腹立つ……」

慈「崩れる私を 支えてお願い アナ アーウィズ アローホ SAND BEIGE♪」

慈「このまま一人で 眠りについたら 無口な女になるわ♪」

吟子「ぜひなってほしいものですが」

慈「主を失くした ラクダがポツリと 草求め果てしなく 一人さまようその姿♪」

………
……



55 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:21:07 ???00
栞子(正直最初とても期待していました)

栞子(さすがにもう少しわかる書き方で、今どうしてるだとか、これからどうするつもりだとか、教えてくれるものだと思っていました)

栞子(一方でまた一文だけだったらどうしようとか、英語ですらなくなってたら読めるのか不安だなとか、そんな心配もしていました)

栞子(それらはいずれも、私の料簡の狭さからくるものでしかありませんでした)


56 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:21:38 ???00
栞子(手紙は、うちからの事務連絡でしかなく、三船グループの欧州支部で現地プロジェクトを遂行しろというものでした)

栞子(ジブラルタルに迎えがいるから、ピックアップされてロンドンへ云々)

栞子(形から入る彼女にしては、封筒がなんの変哲もなさすぎるなとは思っていましたが)

栞子(なんだ、と肩を落として自室に戻ってきてしばらく)

栞子(自身が今置かれている状況を理解してきました)

栞子(これ、まずいですよね)


57 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:22:10 ???00
栞子(かりにこのままこの船に乗り続け終着地まで流されていった場合、私はそこで拾い上げられまた三船という名の檻に収められるだけです)

栞子(以前なら半ば諦めていましたし、流されるままだったんでしょう)

栞子(しかし今はやりたいことがあります。"やらなければならない"こともあります)

栞子(捕まるわけにはいきません。逃げ出さなくては)


58 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:22:51 ???00
栞子(自身がこういった状況に置かれて初めて、この船の可能性に気づくことができました)

栞子(慈さんは初めからこれが見えていた、利用しようと思っていた、ということなんでしょうか)

栞子(寄港地で降りてそのまま戻らない)

栞子(陸の人間が不在に気づくのは、船が終着地まで着いてから)

栞子(時間稼ぎもできるというわけですね)

栞子(であれば早いほうがいいですよね)

栞子(……やはりあの人と話をしなければいけなさそうです)


59 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:23:23 ???00
栞子(どうでもいい時にはその辺にいるのに、必要になるといないんですよね)

栞子(なにごともそういうものです)

栞子(トーストは必ずバターを塗った面を下にして落ちますしね)

栞子(トースト取り落としたことないですけど)

栞子(どうしましょうか、あと少しとはいえ夜まで待つというのももどかしいですし、そもそも今晩デッキでサボっていても会えるのかわかりません)

栞子(ダメ元で船長室行ってみますか)


60 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:23:59 ???00
船長「どうぞー」

栞子(ノックに返事がありました。在室のようでよかったです)

栞子「お邪魔します……」

船長「栞子ちゃんか、なら歓迎だよ」

栞子「それはどうも……?」

船長「だってまた面倒事が増えたのかと思って憂鬱だったもん」

栞子「お疲れさまです……」


61 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:24:33 ???00
船長「それで?わざわざ来るってことはなにか用があるんだよね?」

栞子「はい」

栞子「私も慈さんと同じように、途中で降りられるように取り計らってください」

栞子「だって、これを可能にしたのはあなたですよね」

船長「ほおー……」

船長「いいよ」

栞子「ありがとうございます……!」


62 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:25:05 ???00
船長「まずね、ここは船の上」

栞子「……?はい」

船長「この船は私の船」

船長「つまりどこへ行っても私のホーム、君はアウェー」

船長「その上ここは私の部屋。私の最大のホーム」

船長「確かに人はいないよ。だから内緒話をするにはちょうどいいのかもね」


63 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:25:37 ???00
船長「でもね、こんな相手の有利な場所で話を運ぼうなんて、分が悪いと思わなかった?」

栞子「っ……」

船長「外は人がたくさんいるかもしれない。でもたくさんの人に埋もれていればそれは周りに誰もいない今のような状況と大して変わらないんだよ」

船長「場合によっては人の目があるほうが都合がいいこともある」

船長「慈ちゃんはこれをよくわかってたみたいだよ」

船長「君はまだまだってところだね」

船長「なに、取って食いはしないから」


64 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:26:11 ???00
船長「条件は慈ちゃんとほぼ同じ。次のガラでステージ立って歌ってよ」

船長「ただしあの藤島慈とまったく同じとはいかないよね。いくら前回同じステージに立ったとはいえ」

船長「そうだね、1曲は君の曲を聴かせてよ」

栞子「私の……?」

船長「そう。オリジナル」

栞子「そんなの」

船長「なければ今から作ればいい。まだ時間はあるよ」

船長「はい交渉成立だね。じゃ、楽しみにしてるよ」


65 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:26:41 ???00
栞子(情けないですね……、焦りすぎていたようです)

栞子(彼女の瞳が放つ、あの人本来の冷たい光に射抜かれると息もできないくらいでした)

栞子(うしろから差し込む夕陽のやわらかい光を塗り替える冷たさで、部屋も本来より暗くなっていたように感じましたし)

栞子(それに条件って……、事実上断られたようなものではありませんか)

栞子(私に曲を作るすべなんて……)

栞子(では他の方法でどうにか逃げ出すことを)

栞子(…………)


66 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:27:15 ???00
栞子(ダメです、八方塞がりです)

栞子(ほんとうにまったくなにも思いつきません)

栞子(目を閉じるとあの時、慈さんと立ったステージが、そこから見た景色が思い浮かびます)

栞子(これはやはりいっときの夢でしかなかったんでしょうか)

栞子(私には手の届かない……)

栞子(ステージから見た光景を思い返していると、ふと上階にバーがあったことを思い出しました)

栞子(あそこからだときっとお酒を楽しみながらステージも見えるんでしょう)

栞子(……行ってみようかなという気になりました)

栞子(どうせこのまま部屋で腐っていても、流されるところまで流されてしまうだけですから)

………
……



67 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:28:21 ???00
吟子「ほんとにこの手の動物って乗れるんですね」

吟子「こうもお誂え向きに移動が続けられる」

吟子「驚きを通り越してすでに呆れてます」

慈「まぁまぁ、移動手段ができて良かったよ」

吟子「ところでこれってなんですか」

慈「多分ラクダ」

吟子「タブンラクダですか、耳慣れない品種ですね」

慈「種の名前じゃないわ」


68 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:28:54 ???00
慈「半月くらいの明るさがあれば、それは影を落とすんだよね」

吟子「えっと……?」

慈「こういう他になんもなくて暗いところだと、太陽がなくても影はできるよねって。ほら」

吟子「そう……、ですね」


69 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:29:24 ???00
慈「私さ、最初は船に乗ってちゃんと移動するつもりだったんだよ」

吟子「…………」

慈「でもなんか、降りよっかなって思った」

慈「逃げるなら今だって」

慈「歌われている場所を見てみたいっていうのも少しあったし」

吟子「歌われているというか歌ってますよね」


70 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:29:57 ???00
慈「そう決めたあとでさ、乗り続けてたほうがやっぱいいなって思うこともあったんだけど」

慈「でももう決めたことだから、まずはいったん目的地としたところに降りよう、そっから次の場所へ向かおうって、そうすることにした」

慈「なんかね、あー私意外と不器用なんだなって思った」

吟子「なんだか状況がわかるようなわからないような話ですね。ふわふわしてます」

慈「それが許されるのが砂漠と月影だよ」

吟子「そうですか?」


71 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:30:28 ???00
慈「吟子ちゃんはどうなの?」

慈「なにか思うところがなければ足がつかないような移動の仕方なんてしないと思うけど。たとえ都市から都市程度とはいえ」

吟子「えっとまず、普通は都市から都市でせいいっぱいです」

吟子「なぜそれを国のスケールでやろうと思えるのか、それは素直にすごいと思います」

慈「あら、どうも」

吟子「…………」


72 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:31:01 ???00
吟子「……なんだかずっと張り詰めていて、このまま弦が切れちゃったらどうしようと思ったのもあって」

吟子「だから、ちょっと休んで、海を見に行こうと思いました」

吟子「海に向かってなにか叫んで帰ってこようかなと」

吟子「今は予定が狂って砂漠の中ですけど」

吟子「まあでも、私ひとりでは踏ん切りがつかなかっただけで、いけるのであればどこまででも行ってやろうという気持ちもありました」

慈「ん、叫んどく?」

慈「海も砂漠も似たようなもんだよ」

吟子「…………」スゥー


73 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:31:31 ???00
慈(ちゃんと腹から声出せるじゃんとか、この子声きれいだなとか)

慈(私としたことが、気づいてなかったよ)

慈「そう、その意気だよ」

慈「ね、こういうのはやっぱり影が出ててこそでしょ」

吟子「それは全然わかりませんけど」


74 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:32:01 ???00
慈(そう言って彼女は顔をほころばせてくれた)

慈(やっとちゃんと笑ってくれた)

慈(そりゃ余裕のなくなるような過酷な道引きずり回してるのが悪いんだけどさ)

慈(でもどこかで私とおんなじものを感じる彼女にも、先を見て笑っていてほしい)

慈(うん、月が明るくてよかった)

慈(影ができるってことはそれだけその場が明るいってことだから)

………
……



75 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:33:08 ???00
栞子(このように明るい場所にあっても、照明で真上から照らされているとこれといって影は伸びません)

栞子(欄干でサボっていた時の月あかりのやわらかさが恋しくなります)

栞子(明暗なくすべてが明るい場所では、人が光に規定されているように思えます)

栞子(では光がなく、すべてが暗い場所では……?)

栞子(人はなににも縛られないのでしょうか)

栞子(かりにそうだったとしても私は光の方へ歩いていきたいと思っています)


76 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:33:40 ???00
栞子(ここはステージが見えるところの中では、穴場のようなところではないかと思います)

栞子(とはいえ人がいないということはありません)

栞子(音楽が好きな人が常連となっているのではないでしょうか)

栞子(なかなかそのようなところに入っていくというのも……。やはり来る場所を間違えたでしょうか)

花帆「あ!こんばんは〜栞子ちゃんだ栞子ちゃん。ようこそ!こっち空いてるよ。どうする?なに飲む?適当に頼んどこうか?あ、ナッツはあるよつまむ?」

恋「花帆さん、まだご一緒していただけるのかすらわからないんですから、少し落ち着いてくださいね」

栞子「えっと……、よろしくお願いします?」


77 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:34:11 ???00
花帆「こないだのステージ見てたよ!」

花帆「すごいすごい!ステージの上で藤島慈の隣に立てる人間がいるんだって感心しちゃったもん。それにね」

恋「えーとまずは自己紹介しますか……」

栞子(今晩はこのままずっとこの人に喋り倒されて終わってしまうのかと思っていたところで、隣の人が抑え込んでくれました)

栞子(このようなことには慣れているみたいです。保護者みたいなものでしょうか)


78 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:34:43 ???00
恋「いきなりすいません。葉月恋と申します」

花帆「はい!日野下花帆だよーよろしくね」

栞子「よろしくお願いします。葉月さん、日野下さん」

恋「恋でいいですよ」

栞子「では……、恋さん」

恋「はい、よろしくお願いします」

花帆「ふんふん」ワクワク

栞子「日野下さん」

花帆「なんで!?」


79 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:35:17 ???00
栞子「あらためて、三船栞子です」

栞子「なぜか名前は知られていましたが」

花帆「なぜかってそれはねえ、あのステージ見たらそれはねえ」

恋「私たち大抵ここからステージ見ていますけど、あの時のは相当に印象的でしたからね」

花帆「藤島慈の隣で呑まれずにいられるって何者!?ってなってさ」


80 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:35:50 ???00
花帆「栞子ちゃんってなんの人?」

栞子「別に本物でも偽者でもないですよ」

栞子「ただ慈さんに一緒に歌わないかと誘われたのでお受けしただけです」

花帆「わあ異世界転生ものの主人公みたいなこと言ってる」

恋「ではまだどことの契約がある、どこに所属している、というわけではなく」

栞子「そういったものはまったくありませんが」

栞子「そもそもなにで」

花帆「よし、あたしたちで囲うよ!」


81 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:36:23 ???00
栞子(最後まで言いきらせてすらもらえません)

栞子(目の色を変えて、とはこういうことを言うのだなと思いました)

栞子(なんだか取って食われそうな勢いです)

栞子(でもこういう時はきっと恋さんがストッパーになってくれるのでしょう)

栞子(そういう意味でバランスの取れているふたりなのだと思います)

恋「花帆さん……」

栞子(そうですよね)

恋「やはりこういうところでは私たち気が合いますね。囲いましょう!」

栞子(……あれ?)


82 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:36:55 ???00
栞子(物理的に捕らえる必要はまったくないはずなのに、なぜか花帆さんに肩を押さえられ、椅子から逃れられないようにされています)

栞子「別に逃げ出したりしませんよ……」

栞子(ずっと逃げ出すことを考えていた人間のセリフとは思えませんね……)

栞子(自嘲がすぎます)

花帆「でもこのほうが気分出ない?」

栞子「なんのですか」

花帆「あたしやってるぞーって感じ」

栞子「……?」

栞子「それで、私を囲い込んでなにをするつもりなんですか?」

恋「そんなものはもう決まっています」

花帆「曲提供!」


83 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:37:31 ???00
恋「全般的に音屋なので、今回は主にステージ周りや音響面で来ていますが、普段はどちらかと言うともっと上流です」

花帆「曲を・書いて・生きています」

栞子「お仕事で来てたんですね」

花帆「それはそうだよ、こんな豪華な船、仕事でもないと乗れないって」

恋「右に同じくです」

花帆「あたしがいるのは左っかわ」

恋「そういうとこですよ」

花帆「ぴょん」

栞子(なにしてるんでしょうこの人たち……)


84 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:38:01 ???00
花帆「また近いうちに歌うよね?藤島慈もいるよね?」

栞子「近いうちに……、ええ、必ず。直近はひとりですが」

花帆「やった!やっぱ直接攻め込むに限るね。マージンゼロ。産地直送。地産地消」

恋「こらこら」


85 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:38:27 ???00
栞子「営業ですか」

花帆「トライアルかな。1回使い切りのちっちゃいシャンプーみたいな」

花帆「あれって割と2回分くらいの量入ってない?」

恋「私は1回分にも足りませんよ」

花帆「そっか髪長いもんねー」

栞子(この人たち放っておいたらずっと脱線してるんじゃないでしょうか)

栞子(私を押さえつけたまま)


86 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:38:58 ???00
栞子「では曲作りをお願いしたいです、といったら受けてくれるのですか」

花帆「ふんふん、いいよいいよ。いろいろ希望を汲み取りながらやるから」

恋「頑張ってくださいね」

栞子(なぜだか恋さんは私のほうを見て、少し申し訳無さそうに笑っていました)

栞子(ですがこれは光明です)

栞子(一度ならず二度ならず偶然に助けられてきていますが、運も実力のうちと思うことにします)


87 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:39:30 ???00
花帆「今の思いを詞にっていうことなら、それを言葉にしてみて」

花帆「そしたらあたしがいろいろ訊いていくから」

花帆「ほんとうになんとなくのそのまんまでいいよ」

栞子「えっと、素直でいたいと思っています。もっと」

栞子「そして一歩を踏み出したいとも」

花帆「ふんふん」


88 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:40:01 ???00
栞子(感情という不明瞭なものを言語化するというのはまったく困難なプロセスだと思います)

栞子(だからこそあいまいなままでしか出てこない言葉に対して、彼女は容赦なく問いを浴びせてきます)

栞子(境界もあやふやな溶けかけの言葉に対して、論理の明晰さをもって展開することを要求してきますし、語のつながりを一般的な敷衍に頼って引き出そうとしていると、その一つひとつに私自身の考えがあるのかを尋ねてきます)

栞子(単体であれ連なりであれ、語に対してのコーパスといった空間的広がり、語源から使用の変遷といった時間的広がり、これらの多元的な視点によって言葉を立体的に描き出すこと、これはそう簡単なことではないはずなんですが、彼女には容易なことなんですね)

栞子(そしてなにより参るのが、そのすべてを彼女自身が楽しんでずっとニコニコしていることです)

花帆「これは?フィラーだよね?なんで入れたの?前後も踏まえてのテンポの都合?それともこのフレーズだけのリズムの都合?」

花帆「今は音だけどこれは書かれた時どっちを想定してた?閉じてる?ひらいてる?それはなんで?やわらかいと思って選んだの?ならそのほうがいいと思ったのはなんで?」

花帆「いや、あたしはあなたがこれを選んだ理由が気になるの。気になるから聞かせて?え?なんで?それは理由になってないよ?」


89 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:40:36 ???00
栞子「ぁ…………」

栞子「おやすみなさい……」

花帆「ふんふん、結構わかってきたよ。これでひとまず書いてみるね」

恋「もう生き残ってませんよ」

恋「あ、完全に寝落ちする前に」

恋「明日以降、曲のほうもイメージ聞かせてくださいね」

恋「私に聞かせていただければ形にしようと思いますが、やはり正確に伝わったほうがいいと思うので花帆さんにもお手伝いいただきますね」

栞子「え」

栞子(このまま眠ってずっと明日が来なければいいのにと思いました)


90 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:41:01 ???00
栞子(それでも明日は来ます)

栞子(時間はこちらの都合などお構いなしです)

栞子(容赦なく進んでいく時間、同様に容赦のない花帆さんの追求にボロボロになりながら、少しずつ具体的になっていく私自身の気持ちを眺めていました)

栞子(もう少し立ち続けていることができれば、歩み始めることもできるはずです)

栞子(私はまだ、両の足で大地に立っていますから)

栞子(ここは海の上なんですけどね)


91 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:41:30 ???00
花帆「完パケ納品!」

恋「レコーディングはしていません」

花帆「やったー完成完成」

花帆「あれ栞子ちゃんは?」

恋「そちらでボロ雑巾になっていますよ」

花帆「ほんとだ」

栞子「ぅ……、まだ生きています」

花帆「あ、生きかえった」

栞子「あ、ありがとうございました……、私ひとりではどうしようもなかったので……、ほんとうに……」

花帆「次も発注よろしくね!」

栞子「ひぇっ」


92 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:41:59 ???00
恋「おふたりともお疲れさまでした」

花帆「それは恋ちゃんもだよ」

栞子「恋さんもありがとうございました」

栞子「とても助かりました。特にその、勢いが比較的マイルドで」

花帆「えっと、あたしはあたしは?」

栞子「日野下さんもありがとうございました」

花帆「あたし……、花帆……、名前……」

栞子「日野下さん」

花帆「ええーん」


93 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:42:29 ???00
恋「あとはゆっくり飲みますか」

花帆「うん、栞子ちゃんも一緒ね」

栞子「はい、ぜひ」

花帆「なにか飲みたいものある?基本言えばなんでも出てくるよ」

栞子「では、オーロラで……」

花帆「じゃああたしもそれ」

恋「右に同じで」

恋「『あたしは左』禁止です」

花帆「うぅ、間に合わなかった」

栞子「なにと戦ってるんですか?」


94 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:42:56 ???00
花帆「きれいな赤……」

栞子「出会いに乾杯する時はこれと教わりましたので」

恋「勉強になりますね」

栞子(偶然の出会いに導かれてやってきたことを、この赤に記念しておくんです)

栞子「では」

「乾杯!」


95 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:43:26 ???00
栞子「せっかくですし、連絡先交換しておきません?」

恋「そうですね、業務用メールアドレスだけでは味気ないというものです」

花帆「おっ」

恋「ダメです」

花帆「まだなにも言ってない……」

栞子「……?」


96 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:43:56 ???00
恋「花帆さんは放っておくと延々特に意味のない話をし続けるので……」

花帆「そんなに無意味じゃないよ」

恋「空の写真上げるの禁止ですよ」

花帆「ええー」

栞子(なんだか、サボっていたばかりの頃の自分からは考えられません)

栞子(とても楽しいです)


97 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:44:45 ???00
しおりこ, 日野下, 恋さん (3)

『昨日はありがとうございました。とても楽しかったです』既読2

恋さん『こちらこそありがとうございました。またよろしくお願いしますね』

日野下『日野下が写真を送信しました』

恋さん『禁止って言いましたよね?』

………
……



98 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:46:16 ???00
慈「おいでイスタンブール 人の気持はシュール♪」

吟子「絶対歌い出すと思ってた。実際降りた途端これやし……」

吟子「藤島慈の名曲カバーしかも生歌、実際のところレアなはずだけど、状況が状況だけにありがたくないんよね……」

慈「だからであったことも 蜃気楼 真昼の夢♪」

吟子「蜃気楼じゃ困るんですよ、私の帰路は今回の報酬が頼りなんですから」


99 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:46:48 ???00
慈「好きよイスタンブール どうせフェアリー・テール♪」

吟子「歌いだしたら絶対に最後まで歌うのもどうにかならんかね」

吟子「私がずっと独り言言ってる人になってるし」

慈「夜だけのパラダイス♪」

吟子「まだ夕方ですよ」


100 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:47:14 ???00
吟子「せめてどっちに行くとかそういうの告げてから歌い始めてください。私じゃわからないんですから。ここで滞留してる時間絶対無駄なんですよ」

トルコ人「şey……」

吟子「あっ、すいません、すいません、邪魔ですよね。すぐ撤収しますんで……」

トルコ人「hıı……」


101 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:47:42 ???00
吟子「ああ日本語じゃ通じない。……ここって何語ですか?トルコ語?英語は通じるんですか?私そんなに英語できないですよ?」

吟子「えっと、ハ、ハロー。アイドゥーミー!ドゥジョヴェ?」

トルコ人「Lütfen durun」

吟子「私じゃ手に負えません。ちょっと藤島さん?」

慈「飛んでイスタンブール 光る砂漠でロール♪」

慈「夜だけの パラダイス♪♪」

………
……



102 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:48:44 ???00
栞子(こんなに広かったんですね、ステージ)

栞子(上がる前に眺めるだけでも、以前と感じ方が異なります)

栞子(あの時はひとりではありませんでしたからね)

栞子(上階を見やるとあのバーに今日は人がいないみたいです)

栞子(常連がいないと売上が落ちてしまいますね)

栞子(いつものふたりは、今日はステージ近くの席まで来てくれていますから)

栞子(……今も私は、ひとりではありません)


103 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:49:15 ???00
恋「今まで大半のステージを見てきましたが、ここまで近くに足を運ぶのは初めてじゃないですか」

花帆「あたしが誘わなくたって、恋ちゃんは見にきたんでしょ」

恋「まあ、そうですね」

恋「ですがこういうところだけは、あなたと気が合いますからね」

花帆「他だって、あたしたち息ぴったりでしょ?」

恋「あなたの中ではそういうことになっているようですね」

花帆「なんかみんなあたしに厳しくない……?」


104 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:49:44 ???00
恋「これだけ真剣にステージを見ている花帆さん、初めて見た気がします」

花帆「まんまおんなじこと返すよ、恋ちゃん」

花帆「さすがにあれだけの存在の隣で、自分の光をちゃんと発することができていた人だけのことはある」

恋「これが始まりの一歩だというのですから、恐ろしいですね」

花帆「ほんと、これからも楽しみ」

花帆「絶対次も取るよ」

恋「もう声をかけてくれないかもしれませんよ」

花帆「こっちから押し売りしにいく」

恋「だろうと思いました」

恋「私もついていきますね」


105 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:50:12 ???00
栞子「できない理由を探すなら はじめてみればいいよ♪」

栞子「大好きなことは大好きなんだ♪」

栞子(私のやりたいと思うことをやりたい、それを宣言したいんです)

栞子「どんな嵐の中でもこの声を届けよう♪」

栞子「もう抑えることはないよ信じる道を行こう♪」

栞子(この感情を、"あなた"に届けたいと、そう思っています)

栞子「あなたに届け あなたに届け! EMOTION♪」


106 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:50:39 ???00
船長「お疲れさま!すごくよかったよ」

栞子「ふふっ、当然です」

船長「ずいぶんな自信だね」

栞子「私ひとりの力ではありませんから」

栞子「ここでひとつ、お話いいですか」

船長「はいよ」


107 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:51:06 ???00
栞子「終着地より前で降ろしてもらいたい、それに加えて、次にあなたが乗る船にまた乗せていただきたいんです」

船長「ほいほい、そんなこったろうと思ってた」

船長「いいよ」

船長「今この場所、この瞬間、最も君に有利な状況」

船長「やるようになったじゃん」

栞子「愚者でも経験からは学べますので」

栞子「なにより、向かうべき道が見えましたから」


108 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:51:52 ???00
船長「じゃ私からも」

船長「またステージよろしく頼むよ」

栞子「もちろんそのつもりでした」

船長「ひとりでも、ふたりでも構わないよ」

栞子「次はふたりでしょうね」

船長「まったく」

船長「じゃああとは具体的な動きを……、ここでしか言わないから頭に叩き込むんだよ」


109 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:52:26 ???00
船長「君はバレンシア港で降りる」

船長「下船する乗客の一番うしろにつけて出て」

船長「クルーが行くから、そのままついていけばいい。私が事前に話しとく。それでイミグレをスキップする」

船長「あとは陸を移動する」

船長「シェンゲン領域内とはいえパスポートに関しては油断しないように」

船長「時間はあるから、なるべく足のつかない方法で移動すること」

船長「行き先はマルセイユ」

船長「一箇所に留まっている時間をなるべく少なく、ぴったりに着くよう調整して」

船長「そこで寄港してくる船を待つ、船名は『Long Vacation』」

船長「で事情を知ってるクルーが迎えに出るから、あとは任せればOK」

船長「健闘を祈るよ。また会おう」


110 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:52:53 ???00
栞子(彼女は右手を額のあたりに上げ、敬礼とともに笑いかけてくれました)

栞子(私も見様見真似ですが敬礼を返します)

栞子(以前時折放たれていた彼女の冷たい光は面影もなく、ただ再開への願いとともに遠くを見つめる瞳があるだけでした)

栞子(私も同じ場所を見ています)

………
……



111 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:54:03 ???00
慈「ヨーロッパ突入〜」

吟子「長かった……。もう砂漠は勘弁です」

慈「うーんエキゾチック・アジアだったね」

吟子「ところでもうヨーロッパですけど、目的地ですよね」

慈「あれ?言ってなかったっけ。ナポリまで行くことにしたから」

吟子「聞いてないですよ……。また鉄道や車に揺られる……」


112 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:54:31 ???00
慈「もうラクダってことはないだろうから安心しな」

吟子「モウラクダですか、こないだのとは違うやつですね」

慈「種の名前じゃないっつの」

慈「あとアルバニアからイタリアは航路があるからそんな遠回りしなくて大丈夫」

吟子「ここまで来たら大して変わらない気も……」

吟子「それにまともに船乗るわけじゃないんですよね」

慈「そりゃね。よくてコンテナの中だと思っといて」

吟子「うわ……」


113 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:54:57 ???00
吟子「よくて貨物じゃ悪かったらなんなんですか、燃料タンクの中とかですか」

慈「シュノーケルあればいけそうじゃない?」

吟子「いけるわけないじゃないですか」

慈「あとほんとに最短ルート行くとどっかで足がついた時にたどられやすくなるから、使うのはアンコーナ港にするつもり」

吟子「もうなんでもいいですよ」

慈「このルートならローマも通るし」

吟子「通るからなんなんですか、観光旅行じゃないんですよ」


114 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:55:25 ???00
吟子「アジアの純真に歌われてるような都市国々を移動をしてきて、その上また」

慈「おっアジアの純真だね、リクエストありがとー!」

慈「北京 ベルリン ダブリン リベリア 束になって 輪になって♪」

慈「イラン アフガン 聴かせて バラライカ♪」

吟子「誰も聴かせてなんて言ってません……」


115 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:55:52 ???00
慈「美人 アリラン ガムラン ラザニア マウスだって キーになって♪」

慈「気分 イレブン アクセス 試そうか♪」

吟子「勝手に試しててください」

慈「開けドアー 今はもう 流れ出たら アジア♪」

吟子「私たち今はもうアジアを流れ出てヨーロッパにいるんですよ……」

慈「白のパンダを どれでも 全部 並べて♪」

………
……



116 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:56:54 ???00
栞子(白のドレスを全部並べてみています)

栞子(やっぱり白が一番多いんですよね。使いやすいというのもありますし)

栞子(でも持っていける荷物に限りがあるので選ばなければいけません)

栞子(黒はもうすでに決まっています。あれ以外にはあり得ません)

栞子(私にしては珍しい、緑も選びました。こないだあの曲を歌った時のものです)

栞子(結構大胆なデザインだと思いますが、意外としっくりきました)

栞子(やはり以前とは違う私になったなと思います)


117 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:57:20 ???00
栞子(結局白は、カジュアルに寄せました)

栞子(慈さんと過ごしていた時の、あの白です)

栞子(服自体はこれといってなんということもないものですが、記念というやつなのかもしれません)

栞子(こういう選び方をすること自体、昔では考えられなかったのに、なんだか感慨深いです)


118 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:57:49 ???00
「本船はまもなくバレンシア港に到着します……」

栞子(何度も聞いてきた寄港地への近接アナウンス)

栞子(今回はこれが始まりです)

栞子(流されることに抗い、行きたいほうへと行くための)

栞子(頭に叩き込んだ内容を復習します)

栞子(堂々と観光客やっていればよいということです)


119 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:58:15 ???00
栞子(陸です。足元が揺れません)

栞子(それはそうですよね。船を降りたんですから)

栞子(でも港って、船の延長のような気がしません?)

栞子(港から港へ。流されずに歩んでいきます)


120 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:58:44 ???00
栞子(鉄道はレールに沿って進んでくれます)

栞子(外れることはありません)

栞子(どこへ行くのかわかっている安心感、飛び去っていく車窓からの景色の疾走感)

栞子(今までとは時間の流れ方からして違うようです)

栞子(でも、ちょっと慌ただしいですね)

栞子(せっかくなら私は、流れ去っていく景色の一つひとつをいつくしみたいと思います)


121 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:59:13 ???00
栞子(このままだと少し早く着きすぎるので、目的地より先まで行って戻ってくることにしました)

栞子(とはいえこのあたりでマルセイユより大きいところはないので、軽く見て回る感じです)

栞子(少し東の、ラ・シオタという港町まで行ってみました)

栞子(大きい船は大きい港町にしか寄らないので、これもまた新鮮です)

栞子(カランク国立公園にも寄っていきます)

栞子(こうしているとほんとうに、ただの観光客ですね)


122 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 21:59:40 ???00
栞子(あれだけ海の上にいたのに、またこうして海を眺めています)

栞子(陸から見る海のほうが漠としている気がします)

栞子(自分がその中にいるかどうかで、感じ方が変わるんですね)

栞子(だからこそ中に入ってみないとわからないこともある)

栞子(また海に出ましょう)

栞子(次は自分の意志で。偶然ではなく、流されているだけではなく)

栞子(韻を踏みましょう)

………
……



123 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:00:43 ???00
慈「ナポリ!ナポリを見ずして死ぬことなかれってやつ!!これで死ねるよ!!!」

吟子「恥ずかしいので少し落ち着いてください。あと早まらないでください」

吟子「さっきローマでも思いましたけどほんと元気ですね……。なんでそんなにしっかり観光客やれるんですか」

慈「え〜楽しいじゃんいろんな街」

慈「そもそもヨーロッパ入った時点で私たちの勝ちなのよ。法治国家最高!」

吟子「現在進行系で法を犯してるわけですけど……」

慈「お金は払ってるから」

吟子「なにもよくありませんよ」


124 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:01:37 ???00
慈「さあ、本当に目的地だ」

慈「こういう時って『なんだかあっという間だったね』とか言うこと多いけど、全然そんなことないね」

吟子「ほんとですよ、長かった長かった」

吟子「主にラクダのせいで」

慈「オモニラクダ……、新種か」

吟子「種の名前ではないです」


125 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:02:03 ???00
慈「はい、じゃあ報酬」

慈「そのバッグ開けて」

吟子「え?塩で支払われるんですか?」

慈「なわけないでしょ。キミほんとに塩運んでると思ってたの?」

吟子「だってそう言われましたし……」


126 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:02:29 ???00
慈「あー……、なんというか、強く生きなよ」

吟子「な、ならこの粉は本当に……」

慈「それは本物の塩」

慈「塩以外にも入ってるっつの。誰がバッグに塩満パンでアジア横断強行軍するのよ」

慈「漁ってみ、出てくるから」

吟子「では失礼します」ガサゴソ

吟子「これは……」

吟子「たれ?」


127 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:02:55 ???00
慈「それはだいぶ前に寄港した時近くのセイコーマートで買ってきたたれ」

吟子「日本……」

慈「塩だけだと味が単調かなって」

吟子「ではこれが報酬」

慈「違うって。なんでそれで終わりだと思うの。わざわざ持ち歩いてるバッグに塩たれしか入ってないの異常でしょ」

吟子「夕方のイスタンブールの路上で突然歌いだすほうがよっぽど異常です」

慈「なんか根に持たれてるし」

慈「〜♪おいでイスタンb」

吟子「やめてください。ここはナポリです」


128 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:03:24 ???00
吟子「あっ……、これ」

慈「そ、十分入ってるでしょ」

慈「バッグごと持ってっていいよ、これだけの現金が入るカバンってなかなかないし。都知事ですら用意できなかったんだから」

吟子「ではそのままいただいていきます」

慈「あ、塩は回収してくね」

吟子「要るんですかそれ……」

慈「たれはあげるよ。それでおいしいものでも食べな」

吟子「おいしいもの食べられるのはどう考えてもこっちの現金のほうですよね」


129 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:03:50 ???00
慈「私はこっからまた船乗って移動の予定だから、ここでお別れだね」

吟子「まだ移動するんですか……、ほんと落ち着きがないですね」

慈「一応私失踪中の身なんで、じっとしてると捕まっちゃうのよ」

慈「私は私で韻を踏まないといけないしね」

吟子「?」

慈「それはそうとして」


130 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:04:25 ???00
慈「ありがとうね、本当に助かった。キミがいたからここまでたどり着けたよ」

吟子「私は別に、バッグ持ってただけで。ほとんどあなたの力じゃないですか」

慈「…………」

慈「これは逃亡でしょ。すべてから逃げてきた。わざわざこんな苦労して」

慈「すべてから逃げたいならもっと簡単な方法がある」

慈「私がその逃げ方に逃げ込むのを避けるため、そのための歯止めになってほしかったし、キミは実際そうなってくれた」

慈「そういう意味においてもだよ」

慈「……だから感謝してる」

吟子「砂漠も月影もないのによくわからない話です。が、お役に立てていたのであればよかったです」


131 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:04:56 ???00
慈「大丈夫?偽物のほうでインドまで戻って本物で出国の履歴つけるんだよ」

吟子「ハンカチ持った?くらいのノリで偽造パスポートの話をしないでください」

慈「ハンカチ持った?」

吟子「ハイデラバードの安宿に忘れてきてそれっきりです」

慈「まあそれ1枚でどうこうなる旅路じゃなかったしね」

吟子「では、お達者で。また会う日があるのなら、その時はよろしくお願いします」

慈「うん。またね」

………
……



132 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:06:01 ???00
船長「お、また会ったね」

栞子「ちゃんと戻ってきましたよ」

船長「ほい、まずはひとり確保」

船長「まだもうひとり足りないけどね」

栞子「それはすぐにでも、必ず」


133 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:06:29 ???00
栞子(ずっとそう口にし続けてきました。現実になるように)

栞子(でもそれは、単に”願い”を口にしているわけではありません)

栞子(これは意志ですから)

栞子(もはやここに偶然はないんです)


134 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:06:58 ???00
栞子(街が離れていきます)

栞子(陸地の喧騒が遠ざかり、船が海面を割る音だけが耳に響きます)

栞子(道を切り拓く音です)

栞子(あてはありません。私はなにをすべきなのか、ほんとうにはわかっていないのかもしれません)

栞子(それでも、今ここにいるということは、私が選んだことです)

栞子(信じる道を行きますから)

………
……



135 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:08:02 ???00
慈(港から海が見える、海に沈んでいく陽が見える)

慈(昼間より大きくなった陽が、昼間よりやわらかい光をもって街を包んでくれる)

慈(おだやかな夜を迎えられるように)

慈(ああ、私、自分で思ってる以上にひとりがダメなんだ)

慈(今だってこんなにさみしい)


136 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:08:29 ???00
慈(ずっとこの世界を戦い抜くために、ひとりで足掻いてきたつもり)

慈(でもあの時栞子ちゃんと一緒に立って、初めて私はステージの上で孤独ではなかった)

慈(今までのスポットライトにあぶり出されるような孤独感)

慈(それがあったから私は、今いるところから逃げ出そうと思ったのかもしれない)

慈(そうしてなんだか、逃げ出すこと自体には今のところ成功してるみたい)


137 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:08:56 ???00
慈(でもね、私は可能性を夢見てしまった)

慈(出会ってしまった以上どうしようもないんだよ)

慈(だから私は、この機会を必ずつかみ取って、そうして舞い戻ってやるんだ)

慈(今度こそ本当に、世界中を夢中にしてみせるから)


138 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:09:23 ???00
慈(いよいよ沈みゆく陽。もうすぐ夜だ)

慈(……急に不安になってきた)

慈(この選択がどうしようもなく間違いだったんじゃないかって)

慈(でもあの時、すべてではないにせよほとんどを捨てて私と一緒に来て、なんて言い出せないよね)

慈(ちゃんと前途の明るい子にさ、そんな)


139 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:09:52 ???00
慈(だから、これからまた会えるのであれば、それはそういう物語だったということだし、その逆もまたそう)

慈(ここまで来て悩んでもしょうがないんだろうね)

慈(まだ陽光が私を包んでくれている)

慈(私はまだ光の中にいられる。いていいと思えてる)

慈(さ、乗り込もう。もういっそ海の上でのんびりしようよ)

慈(あの子にも落ち着きないって言われちゃったし……)


140 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:10:21 ???00
慈(とっくに陽は沈みきった)

慈(そして私は陸から離れていく)

慈(街の光が遠ざかっていって、また私はとんでもなく大きな海の中の1滴に戻る)

慈(波に揺さぶられて陸と光とが揃って上下する)

慈(でもこれって揺さぶられてるのは私のほうなんだよね)


141 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:10:51 ???00
慈(かもめ見かけないけど、もうみんな寝ちゃったかな)

慈(クジラって眠ったら海の底に沈んじゃわないのかな)

慈(いなくなりもしないし沈みもしないけどまだ寝たくない私は、あてもなく歩き出す)

慈(足は勝手に、あの時と同じあたりのデッキに)

慈(潜在意識ってやつかな)

………
……



142 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:12:07 ???00
栞子(今回の寄港地からもまた離れていきます)

栞子(イタリアを離れたら、次に寄るのはギリシャですね……)

栞子(あの黒のイブニングドレスに袖を通してみました)

栞子(今の自分なら、これを着ることができる、そう思いました)

栞子(……それでもなんだか圧倒されます)

栞子(自然と背筋が伸びますね。不思議な緊張感を与えてくれます)

栞子(忘れかけていましたが、これが一番最初に彼女を見た時の服ですね)

栞子(その後も様々なドレスや、カジュアルに振り切ったダサいTシャツを見てきましたが、この服の印象はやはり相当なものです)


143 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:12:41 ???00
栞子(黒でありながら、光を発している。同時に周囲の輝きをその内に取り込んでいく)

栞子(あの時は後ろが真っ暗だったのもあって気づいていませんでしたが)

栞子(ただこれは、自身の孤独にも光をあてるものなんですね)

栞子(美しさというものがどこから来るのか、必ずしもすべてがきれいであるわけではない世界です)

栞子(以前の私なら、かりにどうぞと言われても着てみることすらなかったのでしょう)

栞子(それは恐れが勝っていたからです)

栞子(でも今は——)


144 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:13:09 ???00
栞子(あの時と同じような場所に足を運びます)

栞子(やれることはやったはずです)

栞子(そもそもなにがやれることなのかあまりわからなかったというのもありますが……)

栞子(欄干で、形だけはしっかりやっておきましょう)

栞子(果たして一角の人物になったように感じます)

栞子(その実、虚仮威しなんですけどね)


145 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:13:37 ???00
栞子(シャンパンを忘れました)

栞子(やることもないので、明るい船に背を向けて、欄干にもたれかかり海を眺めています)

栞子(月のあかりと星のあかりが水面に降り注ぎ、波によって混ぜ合わされて水底へ練り込まれていきます)

栞子(…………)

栞子(やっぱりひとりはさみしいです)


146 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:14:07 ???00
「栞子ちゃん!!」


147 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:14:38 ???00
栞子(振り向くと向こうから駆け寄ってくる人がいました)

栞子(そして名前を呼ばれるやいなや、その人は駆け寄ってきた勢いのまま私のもとへ飛び込んできました)

栞子(そんな勢いで来られたら、受け止めるだけでせいいっぱいじゃないですか)

栞子(それでも抱きとめる直前に見えた彼女の目尻の輝きを見逃してはいません)

栞子(……これに関しては私もきっと似たようなものですけど)

栞子(ですから、少し落ち着くまではこうしていようかとも思います)

栞子「慈さん……」

慈「よかった……、ここにいてくれて」


148 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:15:12 ???00
栞子(とはいえお互いが見えなくては話がしづらかったので、いったんちょっとだけ離れます)

栞子(あらためて、お互い泣いていることがバレちゃいますけどね)

慈「すぐわかった。栞子ちゃんにも絶対似合うって思ってたんだよそれ」

慈「まあ着てくれるかは自信なかったけど……」

栞子「私もこれに袖を通せるようになったということです……」

栞子「慈さんもいつもの格好ですから、すぐわかりましたよ」

栞子「相変わらずTシャツダサくて安心しました」

慈「んなの泣きながら言うことかバカちん」


149 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:15:40 ???00
栞子「慈さん。もう……、そんな零れるにまかせていないで、ちゃんと拭いてください」

栞子(なんだか、こういうところは子どもっぽいなと思います)

栞子(彼女の頭を撫で、目元を拭いながら、少しだけそんなふうに考えていました)

栞子「ハンカチ持ってないんですか」

慈「まあ……、道中で諸々やむにやまれず捨ててきちゃった」

栞子「大丈夫だったんですかほんとうに」

慈「それ1枚でどうこうなる旅路じゃなかったしね」

栞子「いえハンカチの話ではなくて……」

慈「結局捨てられるものはみんな捨て去っちゃった」

慈「ずいぶん身軽だったなとは思うよ」


150 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:16:08 ???00
慈「とはいえ、なんにも持ってないっていうのもなんだかね」

慈「だから失ったものを拾い集めにいかないと」

慈「まずは一番大切なところから」

栞子(そう言うなり彼女は私の手を取って、自分のほうに引き寄せながらほっとしたように笑みを浮かべていました)

栞子(私としたことが、その意味するところをすぐに汲み取ることができず、少し間の抜けた表情を見せてしまいました)

栞子(こうやって意識させられるようなことを言われると、なかなか相手を直視できるものでもありません)

栞子(これをさらっとやってのけるんですから、この人はほんとうに……)


151 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:16:34 ???00
栞子「ずっと立ち話もなんですから、部屋行きましょう、せっかく用意があるんですし」

栞子(歩き出すんですから、向かう先を見ないといけないですよね)

栞子(だから仕方のないことです。決して目をそらしたわけではありません)

慈「ねえー、そっぽ向かないでよ」

栞子(このまま引きずって行くことにします)

栞子(ですがもう二度と失わないように、いつもより強くその手を握り返してはおきます)


152 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:17:10 ???00
慈「広い部屋だね」

栞子「あの船長に最初から2人用の部屋をあてがわれていました」

慈「あったく……」

慈「またステージ立って歌ってよとか言われるんだろうね」

栞子「すでにそのような話になっています」

慈「やっぱり……」


153 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:17:40 ???00
栞子「また一緒に歌えますね」

慈「ん。それはいいんだけど、私一応失踪中なわけだしこんなところで突然出てきて大丈夫なのかなって」

栞子「船から船へですしシームレスなのではないかと」

慈「そういうもんか?」

栞子「それに私も失踪中ですから」

慈「まったく、ろくなやつがいないねこの船」


154 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:18:16 ???00
栞子「まぁ休みを取っていただけですよ、という体ですかね」

慈「そうねー」

慈「Wrong Vacation、なんてね。どっちかといえばGetawayか」

栞子「たしかに結構長かったですよね」

慈「そこはLとRの違い」

栞子「……?」

栞子「よくわかりませんって、おいていかないでください」

慈「おいていくわけないよ」

慈「さて、じゃあ次はなにを歌おっか」


155 : 名無しで叶える物語◆R426VjxW★ :2025/08/08(金) 22:18:49 ???00
おわり〇
ありがとうございました


156 : 名無しで叶える物語◆NU8p8z5Q★ :2025/08/08(金) 22:21:21 ???Sa
良SSを読むのは気持ちいい!


157 : 名無しで叶える物語◆2IgkLxGW★ :2025/08/09(土) 07:21:30 ???00
Youtuberがやらかす→紆余曲折→大ボリュームssが投稿される


158 : 名無しで叶える物語◆i4Q8NY1i★ :2025/08/09(土) 08:17:24 ???00

すごく詩的でなんだか不思議なSSでした


159 : 名無しで叶える物語◆N5eznAvk★ :2025/08/09(土) 16:02:10 ???Sp
くこけ👼


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