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梓「Knock on my door!」
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フライングで梓誕SS行きます。
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「なぁ。せっかくいい天気だし、そろそろ起きてどっか行こうぜー」
土曜の晩から泊まりに来ていた律先輩が、窓を開けて雲ひとつない空を見ながら言った。
朝夕は冷え込むようになってきたけれど、昼下がりの日差しは暖かい。
時折吹き込んでくる風にカーテンが揺れた。
「そーですねぇ…」
今日はもう、なんとなくこのままだらだらごろごろと過ごしてもいいかなぁと思っていたんだけど、
窓の向こうに見える青空を見ると、そうするのがもったいなく思える気持ちはちょっとわかる。
…昼近くまで寝てしまった休日を取り戻すためにも、出かけることにしようか。
そう思いながらも今ひとつ気力が湧かずにベッドで寝っ転がったままでいると、玄関の扉をノックする音が聞こえた。
チャイムを鳴らすのではなく、扉を叩く音だ。
「あずさー、誰か来たみたいだぞー」
「知ってますよ」
「じゃあ、早く出ろよ」
「…先輩がどうぞ」
「ここはお前んちだろーが」
もう一度扉をノックする音も聞こえた。三回。コンコンコン、と。
ふと、あることを思い出した。
もしかして、いやまさか。今頃?そんなわけない。と思いながらわたしは立ち上がった。
「…わかりましたよ。わたしが出ます」
「はーいはい。起きた起きた」
上着を羽織って扉に向かう。ドキドキしながらわたしが鍵を外して玄関の扉を開けた…瞬間。
扉の先にいた人物がかぶさってきたかと思うと、全身を強く抱きすくめられた。
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「あずにゃーーーっっん!!ひさしぶりぶりーー!!」
予感が的中した。
勢いそのままにわたしは後ろに押し倒される。
あまりに突然の出来事にわたしは声すらあげることができない。
「ありり?りっちゃんがいるじゃん。遊びに来てたの?髪、伸びた?」
「あ、うん。まぁ…な。それにしても久しぶりだな、唯」
「そうだねー…何年ぶりかな??」
「……3年半ぶりです。忘れたんですか」
そういやそんなになるんだっけ?とぼけた顔で笑う唯先輩は、
出逢った頃から何も変わってないように見えた。
「…そろそろどいてくれませんか?重いです」
「あ、ごめんごめん。久しぶりにあずにゃん分を補給したくって!」
そう言ってもう一度顔を近づけて頬擦りをしようとする。
わたしはそれをはねのけ、なんとか距離をとった。
「もぅ…あずにゃんのいけず」
「……いけずじゃありません」
「…梓。せっかくだから、上がっていってもらったら?こうして会うのも久しぶりなんだし」
後ろでわたしたちのやりとりを見ていた律先輩が、落ち着いた調子で声をかけた。
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「はーい、じゃあおじゃましまーす」
突然の出来事に動揺して落ち着かないわたしに変わり、律先輩は勝手知ったる…とばかりに棚からやかんを取り出して水を注ぎ、火にかけた。
「…紅茶でいいか?」
「うん!うわぁ〜日本のお茶飲むのひさしぶりだよぉ」
「…っていっても紅茶だけどな」
「『日本の』って今までどこ行ってたんですか」
「ヨーロッパ。あれ?出発のとき、連絡しといたじゃん」
「それは知ってる。だからヨーロッパのどこだよ」
律先輩が少し苛立っているように喋る。
「ヨーロッパはヨーロッパだよ、りっちゃん」
「ヨーロッパっつっても、広いだろーが」
「だからスペインとかフランスとかドイツとかオーストリアとか…さすがにロシアまではいけなかったけど。いろんな国をギー太と旅したんだぁ」
この人、本当にヨーロッパに行ってたのか…。
旅立つ前の成り行きを知っているから、ヨーロッパに行った理由はそれとなくわかる。
でもなんで今頃になって急に帰ってきたのか…すごく聞きたくてたまらなかったけれど、
突然の出来事に頭が混乱して、何も訊けやしなかった。
「唯、なんで急に梓んちに来た?」
わたしに代わって律先輩が尋ねる。
「さっき成田に着いたとこなんだー」
「は?」
「それでねー。両親はドイツに引っ越しちゃったし、憂は留学中でしょ。
だから今行くとこなくてさー」
「…それで梓のところに来たのか」
「うん!というわけであずにゃん!お世話になります!」フンス!
「……だからって、なんでわたしのところに来たんですか。
先輩方同級生のどなたかの家に行くって選択肢もあるでしょう」
「ないよ」
「どうしてですか」
「そんなのあったりまえじゃん」
「何が当たり前なんです」
「だってわたしたち、」
「わたしたち?」
「付き合ってるんだから」
ピーッと沸騰を知らせる音が響き、律先輩が立ち上がった。
唯先輩は嬉しそうにわたしを見つめていた。
わたしの胸のうちには正体の知れない気持ちが渦巻いていた。
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*
「で、梓ちゃんはどうするつもりなの?…あ、店員さん。山崎ください。ロックで」
「どうするも何も…つーかまだ飲むんですか」
唯先輩はある日突然、わたしの目の前からいなくなった。
突然、といってもまぁ最低限の連絡程度はあったけれど。
大学を卒業して、5人それぞれが就職したり進学したり…バラバラになったわたしたちは、それまでのようにバンド活動することができなくなった。
仕事や勉強で忙しい日々。いつしか楽器に触れることも少なくなっていった。練習練習とやかましいことばかりを言っていたわたしでさえ。
時々休みの日に思い出したかのようにギターに触れる。うん、まだ自分の腕前も捨てたもんじゃないって思いながら、今の自分を肯定しようと必死だ。
でも働くって、社会に出るってそういうことだもの。
変わらない日々の中に、小さなやりがいを見つけ、お酒を飲んで不満を忘れ、将来の不安から目を逸らし、立派な大人のフリをして生きる。ごまかしごまかし日々を過ごす。
でも、あの人にとってはそうじゃなかった。
「休憩室の窓から眺める空の色が一緒なの。昨日と。今日も明日も明後日も…1年後も2年後も…おばあさんになるまでずっとこうやって同じ空を眺め続けてるんだなぁって思うと…やりきれなくなるんだ」
いや、転勤とかありますし。いざとなったら転職とかすればいいじゃないですか。ずっと同じ職場に居続けるわけじゃないでしょう。
…仕事、忙しいんですか?無理しないでくださいね。
何かわたしにできることがあったら相談してくださいね…。
そう言うと、唯先輩は曖昧な笑顔を浮かべながら、ありがとうあずにゃん、ってそう言ったんだ。
『もっと自分には可能性があるって思ってたよ。どこにでもいける、何にでもなれるって』
『世界はこんなに広いのに、わたしはなんて狭いところにいるんだろう』
地球の裏側を芸能人が旅するバラエティ番組を見て、なんだか感傷にふけったりもしていた。
そんな唯先輩は心配しながらも、わたしは大して何も考えていなかった。
だって、そんなこと思ってる人なんてきっとたくさんいるだろうから。
でも唯先輩は考えるだけじゃなくて、行動に移す人だったんだ。
就職して半年もしないうちに、唯先輩は今まで住んでいたマンションから、防音設備が整ったマンションに引っ越した。
結構家賃が高くて大変そうだったけど、おかげで思う存分ギターが弾けるって笑ってた。
学生時代あれだけお茶を飲んだりお菓子食べたりばかりでロクに練習をしなかったくせに、
いざ日常から音楽が遠ざかると、真っ先に耐えられなくなったのは唯先輩だった。
ギターを弾いてるときだけは、広いところにいる気がする。そう言っていた。
その頃の唯先輩は平日どんなに仕事で遅くなっても、予定のない休日は一日中、ギターを弾いてばかりいたみたいだった。
目の下に隈を作っていて、せっかく久しぶりに二人きりで逢ってるっていうのにうつらうつら居眠りしちゃって、わたしは怒りながら心配もしつつ、やきもちを焼いた。
この人にとって、なくてはならないものはわたしじゃなくて、音楽じゃないのか、って。
一度、唯先輩のマンションでギターの演奏を聴いた。
もう大学を卒業する手前頃には、わたしよりも唯先輩の方がギターが上手くなっていたから(当の先輩はそのことに気づいていなかったみたい)、別にどんな演奏を聴かされたって、驚くことはないって思ってた。
でもそんな思い込みはあっさりと覆されることになる。
技術の巧拙はさることながら、音楽に飢えていることがわかった。音楽が好きで好きでたまらないってことが痛いほど伝わった。初めてギターに触れた高校時代と何一つ変わることのない音楽への愛情と情熱。
対してわたしはどうだ。
このところずっと練習をさぼっていること、わたし自身にとって所詮音楽がその程度のものであったことを突きつけられて胸が痛んだ。
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『いやーやっぱりダメだねぇ、学生時代みたいに練習時間とれないから』
…学生時代だってお茶とお菓子ばっかりでロクに練習してなかったでしょ。
『そうだったっけ?あずにゃん先輩、相変わらず厳しいっす』
テヘヘ、と笑う。
また、みんなでバンドできるといいねぇ。…そうですね。なんてやりとりをした後、二人で一緒にシチューを作って食べた。
二人とも料理はあんまり得意じゃなかったし、寒い季節はあったかくなるからといって、飽きもせず、シチューばかりを作ってよく食べた。
食べ終わって後片付けを済ませてから、緑茶を淹れて、みかんを食べつつ、コタツに入って借りてきたDVDを観るのがわたしたちの暗黙のルールだった。(その日観た映画は陳腐なラブストーリーだった)
狭いコタツの中で、わたしにぴったりと寄り添う唯先輩。あったかかったのは、シチューを食べたせいか、緑茶を飲んだせいか、コタツに入っているせいか。
自分で観たいと言って借りてきたくせに、中盤頃になるとうつらうつらとし始めて、わたしの肩を枕に寝入ってしまった先輩。
肩で眠る先輩の体温を感じながら、わたしは泣いていた。
つい見入ってしまったラブストーリーに心打たれたわけじゃない。
この時間があまりにしあわせすぎて、こわかったんだと思う。
「連絡くらいはとっていたんでしょ」
「手紙がたまに…。ケータイは向こうに持っていかなったみたいで」
わたしが就職して2年目の春。朝起きると一通のメールが着ていた。唯先輩から。
『仕事をやめて、ヨーロッパに行ってきます。いつ帰るかは決めていません。
でも心配いらないよ!』
朝早かったし、この人が急に訳のわからないことを言い出すのはよくあることだったから、返事を返さずに家を出た。
その日、いつもと同じくらいの時間に帰宅してTVをつけた。バラエティ番組の渇いた笑い声が、狭い部屋に響く。シャワーを浴びて、ドライヤーで軽く髪を乾かす。
そうだ、変なメールが着てたな、と思い出して、ドライヤーを止めてケータイを見た。
なぜだか律先輩から何件か着信が入っていたけれど、唯先輩のメールが気になっていたし、とにかくまず、唯先輩に電話をかけた。
電話はいつまでも鳴り続け、つながることがなかった。
何度電話をかけても、コール音が鳴り続けるばかりだった。
何度も何度も電話を掛けているうちにいつしか、わたしは自分の膝がガクガクと震えだしていることに気がついた。
いつかこんな日がやってくるんじゃないか、って思っていた。
それが現実になったのかもしれない。
震える膝を叱咤して、家を飛び出す。全速力で駅に向かった。
春先の夜はまだ寒い。生乾きの髪がわたしの身体を冷やした。
日付が変わった頃、先輩のマンションに着いた。
震える指でチャイムを押した。反応がない。何度鳴らしても、反応がない。
扉を叩く。反応がない。何度も鳴らした。何度も、叩いた。
しばらくして、わたしはその場に座り込んだ。
仕事が長引いているのかもしれない。こうして扉の前で待っていれば、帰ってくるに違いない。そうだ、きっと帰ってくる。それまで待っていよう。
身体の震えが止まらないのは、寒さのせいだけじゃなかった。
しばらくして、エレベーターの音が聞こえた。足音がこちらに近づいてくる。
ほら、帰ってきた。
よかった。よかった…どこにもいかないよね。
わたしを置いてどこか遠くに行ったりなんかしないよね。
『…風邪引くぞ』
足音の主は、そう言ってわたしにコートをかけて、頭を撫でてくれた。
そして何も聞かず、泣きじゃくるわたしを抱きしめてくれた。
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「放課後ティータイムのない生活も、ひとつのところに留まり続ける生活も、唯ちゃんにはできなかったのね」
「ええ。とっても自由なんですよ。唯先輩は。
わたしに相談したらきっと怒られるから怖くて言えなかったんですって。
全然信じてもらってなかったです。わたし」
「そういうことじゃないと思うけど」
ウイスキーのロックをグッと飲み干すムギ先輩。…そのお酒はそんなに勢いよく飲むもんじゃないと思うんですが。
「向こうで何をしてたの?」
「とりあえずご両親のいるドイツに行って、そのあとはいろんな国をまわってギター弾いてバイトして…」
「唯ちゃんたくましいわね…」
「働き始めてから貯めてた貯金全部なくなったみたいですけどね」
「あらあら…あ、梓ちゃん、グラス空いてるね。おかわりは?」
「じゃあ…えーっと、カシスオレンジにします」
「了解⭐︎すみませーん!カシスオレンジと八海山を熱燗でお願いしまぁす!」
騒がしい店内に、ムギ先輩の可愛らしい声が響く。
「ちょちょちょ!そんなに飲んで大丈夫なんでしょうね!」
「お金のこと?だって今日は梓ちゃんのおごりなんでしょ?」
「いや、まぁ相談に乗ってもらってるわけですからそれはそうなんですけど…それよりちょっと飲みすぎじゃ…」
「おごりなんだから飲めるだけ飲まなきゃソンじゃない」ウフ
「…後輩にたからないでくださいよ」
「話を戻すよ。りっちゃん、随分タイミングよかったのね」
「あの人…あ、唯先輩ですけど。律先輩には相談してみたいなんですよ、外国行くこと」
『気持ちはわかる。お前の人生だ。唯がやりたいようにしたらいい。
だけど、梓のことはどうする気なんだ』
『わかってくれるよ。あずにゃんは』
『じゃあどうして本当のことを言わないんだ』
『今はまだ…わかってくれないと思うから』
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わたしのこと、信じているのかいないのか…。
あの日…あ、唯先輩がいなくなった日。律先輩は何度もわたしに電話してくれていた。
でも、あのときのわたしはいっぱいいっぱいで、それどころじゃなかったから全く電話に出られなかった。
それで心配になってわたしのアパートまで来てくれたんだけど、わたしがいなかったものだから、わざわざ唯先輩のマンションまでやってくれて。
あのとき、律先輩がいなかったらわたしはどうなっていたんだろう。
「…なんで急に帰ってきたのかしら?」
「さぁ…お金がなくなったとか、久しぶりに帰りたくなったとか…どうせ気まぐれでしょ」
「そうかなぁ………あ」
「どうしました?」
「わかっちゃったかも。唯ちゃんがこの時期に帰ってきた理由」ムフ
「え?なんです」
「わからない?」ドヤァ
「…わかりません」
「梓ちゃんたらニブちんですこと」オホホ
「…うっさいですよ」
「…ウフフ〜まぁそのうち唯ちゃんが教えてくれると思うわ。
それまでに梓ちゃんは自分がどうしたいか、ちゃんと答えを出しておかないとね」
「…なんですかそれ。ていうか相談してるんだからもっと建設的なアドバイスとかないんですか、先輩として」
「ないでーす。だってわたし、梓ちゃんみたいにモテたことないしー」フーンダ
「…嫌味ですか」
「ごめんごめん。でも決めなきゃいけないのは梓ちゃん自身だもの。
他人がどうこう言える問題じゃないわ」
「…まぁそうですけど。ところでムギ先輩は最近どうなんですか?」
ムギ先輩はお猪口に入った日本酒をグッと飲み干すと、少し視線を落としながら言った。
「たのしくやってるよ。昔みたいにみんなと毎日会えなくてさみしいけど。
さて、と。そろそろ帰りましょうか」
「うまくいってるならなによりです…。じゃあ今日はわたしが払います」
「ごちでーす⭐︎せっかくだからもう一杯くらい注文しておけばよかったかな〜」
「ちょっと。お金は払いますけど飲みすぎていつぞやみたいにわたしの肩に吐かないでくださいよ」
「梓ちゃん、しつこい」ムッ
「本当に臭かったんですからね」
「梓ちゃんだって、澪ちゃんちのトイレで吐いて新品のトイレマットダメにしたこと、あったじゃない」
「うっ…」
「酔っ払いにはやさしくしないとダメよ♪」
「お互いさまですね…」
「そうそう♪」
ムギ先輩はにこやかに微笑んだ。わたしも苦笑いで合わせる。
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騒がしい居酒屋の外に出ると、秋の夜の冷たさが身にしみた。
夜風が吹いて、冬の近いことを思わせた。
「コート着てきてよかったわ〜」
「そうですね」
そうして二人、他愛もないことを話しながら駅までの道を歩く。
こんな風にしてると、学生時代からなんにも変わってないみたい。
ムギ先輩は少し千鳥足気味に見えるけど、お酒を飲んだときはいつもこんな調子だから大丈夫だろう。
「今から帰ります、ってメールした?」
「しましたよ」
「どっちに?」
「…律先輩です。唯先輩のケータイは契約切れてますから」
「そっか。ついでに『月が綺麗ですね』って送ってあげたら?」
言われてみてはじめて、今夜の月の綺麗なことに気がついた。
周囲にうっすらと雲がかかっていて、ぼんやり光の輪のようなものができている。
「ふざけないでください。それにわたしその言葉、キライなんです」
「あら、そう」
横断歩道の白い部分だけを踏みながらわたしの先を歩くムギ先輩。
真似をして白線の部分をそろそろと歩くわたし。ああ、酔ってるなぁ。
「白線を踏み外しちゃったら、どうなるんでしょうね」
「地獄行きね」
「こわっ。じゃあ気をつけて歩かなきゃですね」
「フフ…でもいつかは踏み外すときがやってくるのよね。
そうでなくちゃ、先を歩いていけないもの」
わたしは答えない。束の間の白線歩きに夢中になっているフリをして。
酔っているようで、頭は不思議と冴えている。
地下鉄に乗るムギ先輩は、JRに乗るわたしを改札のところまで送ってくれた。
「じゃあね、梓ちゃん。唯ちゃんとりっちゃんによろしく」
改札を抜け、振り返るとムギ先輩はこっちを見て手を振っていた。
この人はいつも、わたしの姿が見えなくなるまで見送ってくれていることを知っていたから、何度も振り返ってわたしも手を振った。そして電車に乗って、アパートに帰る。
…二人の先輩が待つわたしのアパートに。
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*
一日の仕事を終えてアパートに戻ると、 部屋の外にまでビーフシチューの匂いが漂っていた。
「あずにゃんおかえり〜!」
「あずさっ、おかえり」
「…ただいまです。もしかしてごはん、待っててくれたんですか」
「だってあずにゃんとごはん食べたいもん」
「頑張って仕事して疲れて帰ってくるのに、先に食べてちゃ悪いだろ」
「…ありがとうございます」
あれから三日。
以前住んでいたマンションの契約も切れてしまい住む場所がない、と言われては放り出すわけにもいかず、住居が決まるまで当面の間、唯先輩は我が家に居候することになった。
律先輩はどうせ居候するなら自分の家に来いって言っていたけれど、唯先輩はわたしのところに住むと言って頑として聞かなかった。
…いままで離れていた分、わたしと一緒にいたいと言って。
ここで引き下がってしまっていたら三行半を叩きつけるところだったけれど、さすがにそこまでのヘタレではなかったみたいで、
『じゃあわたしも梓んちに住む』
『…なんで????』
『あーほら。久しぶりだろ?唯と会うの。なんかさーちょっとの間だけでも一緒に暮らしてわいわいしたいじゃん…みたいな?』
そうですね!たのしいじゃないですか!ちょっとの間でも三人暮らししましょう!…とわたしも賛同したものだから、「えぇ〜…あずにゃんとふたりきりがいいのにぃ…」といいながらも唯先輩は渋々受け入れてくれた。
本心は、なにが『みたいな?』だ。はっきり言えよ。このヘタレカチューシャ!(最近の律先輩はカチューシャをすることはほとんどなかったけれど)と心の中で毒づいていたけれど。
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「あずにゃん、お風呂にする?ごはんにする?それとも…」
「ごはんにしましょう。お二人ともおなかすいてるでしょ?お待たせしてすみません」
「あずにゃんのいけずぅ…」
ビーフシチューは想像していた以上においしかった。
「ねぇあずにゃん。今日の晩御飯はどっちが作ったと思う?」
「唯先輩」
「正解!よくわかったね!」
律先輩が作った料理は、絶対にわかる。
「ホントはね、ホワイトシチューにしたかったんだけど…」
「梓はホワイトシチュー嫌いなんだよ」
「ウソ。そんなことないよぉ。昔よく一緒に作って食べたもん」
「…嫌いです」
「えぇ〜…」
わたしはずっと強くなった。三年半前よりもずっと。
時間が経って、随分と大丈夫になった。
でも、それでも。あの頃のことを思い出すのは怖い。唯先輩のつくる、あったかくておいしいシチューを食べて、あの頃を思い出すのが怖い。
しあわせだった頃を思い出して、気持ちが盛り上がったその後に、もう二度とその頃に戻れないという事実をまざまざと思い知らされるのが怖い。その落差に耐えられるんだろうか。
「唯、料理上手くなったんだな」
「まあね。あっちのレストランで住み込みで働いてたりしたこともあったから、そのときに」
「ふぅん」
三人暮らしは意外に楽しくて、まるで学生時代に戻ったみたいだった。
一緒に生活するようになってからの律先輩は、忙しい仕事を定時で切り上げて帰って来る。
わたしと唯先輩をふたりだけにしないように。
それは嬉しいことだったけれど、もうちょっとはっきりしてくれたらな。人のこと言えないか。
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ビールが切れた。三人暮らしはアルコールの消費も早い。
「わたし、買ってきますね」
「じゃあわたしも付き合うよ」
「わたしも行く!」フンス!
「いや…別にビール買いにいくだけですから三人揃っていかなくても…」
「そうだよ、唯は留守番してな」
「え〜りっちゃんが留守番しててよぉ。わたしがあずにゃんと一緒に買い出しにいくからぁ」
「じゃあわたしが留守番しています。先輩たちが買い出しに行ってる間にお風呂に入ってきますから」
「ならそういうことで。行くぞ、唯」
「ちぇっ。寒いしヤダなぁ外出るの」
「文句ゆーな」
「あ、あずにゃん。このマフラー借りるね。外寒いから」
「ダメです!そのマフラーに触らないで!」
思わず大きな声をあげたわたしに驚いた唯先輩は、動きを止めた。
「…唯、それは梓のだ。わたしの貸してやるから、これ使え」
律先輩は首に巻いたマフラーを解いて、唯先輩に手渡す。
唯先輩は小声で「ありがと、」とつぶやいて、わたしの方を見ることなく二人は出て行った。
カーテンをあけると、秋の夜空にオリオン座がきれいだった。
もうすぐなくなっちゃうかもしれないなんて話も聞く、オリオン座。
毎年決まった季節に決まったように夜空に輝いている星だって、永遠じゃないんだ。
それなら人間なんて。なおのこと。
しばらくすると窓から二人の姿が見えた。何をしゃべっているのかはわからない。何か言い合いをしてるようにも、じゃれあってふざけてるようにも見える。
わたしは二人の姿が見えなくなるまで見送った後、お風呂に入った。
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*
「律先輩、何か言ってました?」
「何かって?」
「いやだからそのぅ」
「ああ、だいたい想像つくよ。アイツのことだから。はっきりしないんだろ」
「まぁ、そうです」
チェーン店ではない、少し洒落たコーヒー専門店でカフェオレを飲みながら澪先輩は言った。
「でも態度をはっきりさせないといけないのは梓の方もだろ」
「それはそうですけど…でも律先輩がはっきりしてくれないことには」
「どうかな。律がどういう態度をとるかよりも梓がどうしたいかの方が大事だろ。
じゃあ梓は律が身を引くって言ったらそれに同意するつもりなのか」
正論だった。わたしは何にも言い返すことができなかった。
「律が煮え切らないのも、唯が自分勝手なのもわかる。そのことで梓が悩んだり、苦しんだりしてることも。
三人で生活して久しぶりに学生のときみたいな気分に戻って楽しいのもわかる。
でもそんな中途半端なぬるま湯みたいなことしてたら、
結局二人のことを傷つけるだけだぞ」
店内には洒落た音楽がかかっている。この間の居酒屋とは全くちがう雰囲気だ。
そういえば澪先輩と二人で飲んだことはなかったな、と思った。
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「わかってます。唯先輩にははっきり言おうと思います」
唯先輩がいなくなってからしばらくの間。わたしは夜、あまり眠ることができなくなった。
もともと少食な方だったけれど、さらに食べる量は減ったし、気分を変えようとギターを弾いてみても、集中できずにすぐにやめてしまう。大好きだったチョコバナナタルトの味だって、すっかりわからなくなってしまった。
まわりのものに興味が持てなくて、ボーッとしていることが多くなった。
それでもきちんと職場には出ていたし、やるべきことはそれなりにやっていて、同僚と笑いながらランチをしたり、上司のつまらない冗談に付き合ったり、お客さんにはいつもより深い角度でお辞儀したりしてた。
わたし、すごいじゃん。ちゃんと大人じゃん。
…他人から見れば当たり前のことだから、誰も褒めてはくれなかったけどね。
先輩たち以外は。
わたしのことを心配した先輩たちは、それまで以上に頻繁に連絡をくれたし、4人で会う機会も増えた。
わたしはとにかく笑顔でいようと努めた。
『まったくもぅ唯先輩ってむちゃくちゃなんだから!ホント、わたしのことも少しくらいは考えて欲しいです!』なぁんていつもみたいな調子で言ってみたりなんかしちゃったりして!
でもわたしの演技が下手くそだったせいか、付き合いの長い先輩たちの洞察力が優れていたせいか、わたしの底の浅い強がりはバレバレだったみたいだ。
最初は唯先輩に対して腹が立って仕方がなかった。
なんで急にこんなことをするのか。なんで何も言ってくれなかったのか。いつ帰ってくるのかも言わないで。
せめて、待っていてほしいのか、別れたいのか、はっきり言って欲しかった。
でも時間が経って段々と考えが変わった。
唯先輩がそうしたんじゃない。わたしがそうさせたんだって。
わたしが唯先輩にとっての居場所でありさえすれば、先輩がどこか遠くに行ってしまうなんてことにはならなかったはずだから。
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「あの、澪先輩」
「なんだ」
「もし…もしですけど。放課後ティータイムが今でも続いていたら。学生時代みたいにバンドできていたら、唯先輩は外国に行ったりなんかしなかったんでしょうか」
わたしという存在だけで、唯先輩をつなぎとめることはできなかった。でも。
唯先輩にとって、かつて居場所であったけいおん部やバンドがあったら、どこかに行っちゃうなんてなかったんじゃないか。
「さぁ…どうだろうな。それはわからないよ。やり直しなんて効かないしな。それに人は変わっていくだろ。ずっと同じところに居続けることはできないと思う。でも…」
「…でも?」
「いや。変わらないものもあるかもしれないと思ってさ」
「何がです?」
「唯にとって梓はさ。今も昔も大事な存在だってことだよ。
唯が梓にしたことは自分勝手で酷いことだと思うよ。でもさ。唯が梓のところに戻ってきたことだって事実じゃないか。
唯も梓もわたしだって…たぶん昔のままじゃないと思うんだけど…でも唯は梓のところに帰ってきた。
それは唯にとって梓が帰りたい場所だったから。大切な存在だったからじゃないか」
「そんなの…勝手です」
「まぁ…な」
わたしがどれだけ傷ついたか、それを思えば少しくらい唯先輩を苦しめてやったって罰は当たらないと思う。でもそれは律先輩を苦しめる理由にならない。
それに。
唯先輩がああいう行動に出たことだって、わたしに責任がないわけじゃないのかもしれないし。
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あの頃のわたしは一人でいるとロクに食事さえもしなかったから、心配した律先輩が声をかけてくれて、美味しいと評判のレストランに連れて行ってくれたり、家に食事を作りに来てくれたり、わたしが律先輩の家にお招きされたり、よく面倒を見てもらった。
はじめの頃は味覚がすっかりバカになっていて何を食べても味がわかりはしなかったのだけど、次第にそれが治っていったのは、律先輩の料理の腕前によるものだけではなかったと思う。
あれはその年の暮れだった。
いつものように、律先輩の家に遊びにいく。
『梓ももう少しくらい料理のレパートリー増やさないとな』なんていつも言われて最近少し料理の勉強をしている。
だから時々は教えてもらいながら、わたしが作って先輩に振る舞うこともある。
先輩は美味しいよって言って笑ってくれるけれど、到底律先輩にはかなわないってわかってる。
律先輩の手料理は何よりもおいしい。
それなのに、その日の律先輩自慢の手料理には一切手がつけられなかった。
わたしが家に着く頃にはコタツの上に並んでいた晩御飯。
今日は冷えるから、あったかいものがいいと思って、と自慢げに笑う律先輩。
平気な顔して食べようと思ったのに…無理だった。
もう大丈夫だと思ったのに。
食卓に並んだその日の晩御飯を見た瞬間、かつての記憶がフラッシュバックされて、自分でも気がつかないうちに声をあげて泣き出してしまっていた。
わけも分からず泣き出して、涙の止まらないわたしを、律先輩はやさしく抱きしめて、背中をさすってくれた。
ごめんなさい…ごめんなさい…せっかく作ってくれたのに…ごめんなさい…。
わたし…たべられない…シチューは…たべられない…です…ごめんなさい……。
律先輩は「いいよ、気にすんな。わたしの方こそ、ごめんな」そう言って、ずっと背中をさすってくれた。わたしが眠りにつくまで、ずっと。
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「梓はもう、十分に知ってると思うんだけど。それでも一応言っておきたいことがあるんだ」
「何でしょう?」
「律はさ。ずっとお前のことばかり見てたぞ。昔から。
梓が唯と一緒にいるときも、ずっとな。
それは今だって変わらない。一番近くにいたわたしが言うんだから間違いない」
「澪先輩は…わたしがどっちとくっつけばいいと思ってるんですか」
「どっちとかそういうんじゃないよ。だって二人ともわたしの大切な友達だ」
「まぁそりゃ、そうなんですけど。なんかこう、アドバイスとかないんですか。先輩として」
「梓が思うようにしたらいいと思うよ。決めるのは梓自身だ。
他人がどうこう言える問題じゃない」
「…ムギ先輩とおんなじこと言いますね」
「ああ、そういえばこないだも二人で飲みに行ったんだって?仲良いよな」
「まぁ…あ、でもそういうのじゃないですよ!腐れ縁みたいなものです!」
「わかってるって。慌てるなよ」
「なんだよ、腐れ縁って…」ツボに入ったらしく澪先輩が笑う。
その笑顔を見て、なんだ、この二人、結構うまくいってるんじゃないのって思った。
-
*
朝方から降り続けた雨が夕方過ぎになってようやく上がった。
その日はわたしの誕生日で、平日にも関わらず集まってくれた先輩たちが、パーティを催してくれた。
洒落たレストランでも予約しようか、と澪先輩は言ってくれたけど、気兼ねなく騒ぐなら家の方がいいんじゃないか、ってことになって、パーティはわたしの家で開催された。パーティといっても鍋を囲んで、最後にケーキを食べるだけだったんだけど。
随分とビールを買い込んでいたし、先輩方の持ち込みのお酒もたくさんあったはずなんだけど、その日はいつにも増してペースが速かったのか、あっという間に買い置き分はなくなった。
『梓は主役なんだから部屋で待ってて。わたしが代わりに行ってくるから』
買い出しに出ようとしたわたしを澪先輩が止めた。『じゃあわたしも行く!』とムギ先輩も一緒に出かけて行った。部屋に残されたのは律先輩とわたしの二人。
『あ、梓。えーっとあのな、これ…』
おずおずと差し出されたのは、先輩たち三人からの分とは別に、律先輩個人からのプレゼント。
それは縞模様の可愛らしいマフラーだった。
『べ、別に怨念とか込めてないぞ。今時手編みってのもどうかと思ったんだけど、最近ちょっと編み物にハマっててさぁ…』
マフラーは百貨店の店頭に今年の新作として並んでいてもおかしくないくらいの出来栄えで、プレゼントをくれたことの喜びより先に、律先輩の腕前に感心してしまった。
昔はミシン縫いもできなかったくせに。ボタンつけはうまかったけど。この人ホント女子力高いよなぁ。
そんなことを考えてしまっていたから、マフラーを見つめて、わたしはしばらくの間黙ったままだった。
『あ、もしかして、気に入らなかった…か?梓の普段のファッションの雰囲気とか考えて、似合いそうなデザインにしてみたつもりだったんだけど…まぁ最悪腹巻の代わりにでもしてくれよ!ハハ…』
…腹巻になんかしませんよ。ありがとうございます。すっごく嬉しいです。
そう言ってわたしはくるくるっとマフラーを巻いてみせた。
…似合いますか?
『うん。よく似合う』
…これで今年の冬はあったかく過ごせそうです。
『そりゃよかった。喜んでくれてなによりだ』
そういう律先輩の方がうれしそうだった。
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買い出しに行った二人はなかなか帰ってこない。
わたしはカーテンを開けて、窓の外を眺めた。二人の姿は見えない。
『今日も星が綺麗だなぁ』
そうですか。ちょっと曇ってますけど。あんま見えませんよ、星。
『そ、そうか。でも秋の空は綺麗だよな。晴れの日は気持ちよくていいよなー』
わたしは、秋に降る雨も嫌いじゃないですけどね。
『ですわよねー…。秋の雨もいいわよねー…な、なぁ、梓』
はい。なんですか。
本人は至って自然を装っているつもりらしかったのだけど、こちらとしてみてはバレバレで、なんともかんとも待ってるこっちの方がハラハラして落ち着かない。
『つ、月が…』
はい。
『…綺麗デスネー……』ナンチャッテ
…だから曇ってますけど。
この人にはがっかりだ。心底がっかりだ。
『いや、その、だから、さぁ…ほら。そういう意味ジャナクッテ』
…どういう意味ですか。
『あー、えーっと……なんだ、あれだよ。あれ。曇っていても月が綺麗だって話だよ。ハハ…
…梓はどう思う?』
…じゃあ答えますね。今夜の月を見て綺麗だとは思いません。曇ってますから。これでいいですか。
『…』
-
律先輩は黙ってしまった。このヘタレっ。
わたしはこれ見よがしに大きくため息をついた。
『だ、だよな!今日はちっとも月が綺麗じゃないよな!ハハ…わたしの勘違いだったよ恥ずかしー!』
照れ笑いでごまかそうとする先輩に腹が立って、わたしは思い切りお腹の真ん中あたりにエルボーを喰らわせた。
ぐえぇっ、というカエルみたいなみっともない声をあげて、律先輩はうずくまった。
…情けないですね。これしきのことで。
『いや…マジ…痛かったんだって…』
…そういう卑怯な物の言い方はよしてください。
『…うぅ……どういうことだよ』
自分で全く気がついていないのかこの人。
へたりこんでお腹を押さえながらみっともない表情でわたしを見上げて尋ねる。
…なんとでも取れるような曖昧な言い方は嫌いです。ズルいです。
今まで仲良くやってこれたのに、その一言で関係が壊れてしまうことがある。
それが何より怖い。
でも、想いを伝えたい。どうしても伝えたい。だから勇気を振り絞る。
それでもし、想いが受け入れられなかったとしても。
伝えようとした想いは、振り絞った勇気は。それだけはきっと相手に通じると、わたしは思う。
それなのに、曖昧な言葉で、濁すような表現で、自分の気持ちをぼやかした形で伝えようとするのは、卑怯者のやることだって思う。
まったく、ヘタレなんだから。
…じゃあヘタレの律先輩に代わってわたしの方からお伝えしたいことがあります。
『ヘタレゆーな!』
…ヘタレでしょうが!もういいから黙ってわたしのいうことを聞いてください!
『……はい』
…言いますよ。ちゃんと聞いていてくださいね。
『…はい』
行儀よく正座しちゃって、可愛いんだから、もう。
「…好きです、律先輩。大好きです。どうかわたしの側にいてください。これからずっと。」
夜風が窓を揺らしてガタガタを音を立てる。
澪先輩もムギ先輩もまだ帰ってこない。
部屋に二人。わたしも律先輩だけ。
まるで犬みたいな目をしてわたしを見つめて。
誕生日の夜は更けていった。
-
*
『悪いっ!今日はどうしても定時で上がれなさそうだ。
梓より遅くなりそうだから、適当に時間潰しといてくれないか??』
しとしとと雨の降る晩だった。
メールに気がついたのは電車に乗る前だったけど、この機会に唯先輩に話をつけるにはいい機会だと思って、わたしはまっすぐ帰ることにした。
でも律先輩が、わたしと唯先輩をふたりきりにするのが嫌だって思ってることがわかるのは、ちょっぴり嬉しかった。
「おかえり〜」
住むところを見つけるつもりがあるのか。それともなし崩しにここに住み続けるつもりなのか。
そもそも働く気は?
…この人、昼間に何やってるんだろう。
「今日こそシチューです!どーしても食べたくってさぁ」
「…嫌いだって、言ったじゃないですか」
「うそ。だって昔、よく作って食べたじゃん」
「だからです。思い出すからヤなんです」
「つれないなぁ。思い出の味なのにぃ」
「…そろそろはっきりさせないといけませんから言いますね。
わたし、今律先輩と…」
「ううん。いいよ、言わないで。わかってるよ、あずにゃん。
やっぱりそっか。なんとなくそうなんじゃないかな〜って思ってたんだよね」
「…気づいてたんですか」
「わたしもそこまで鈍くないよ〜。でもりっちゃんもあずにゃんもはっきり言わないし、確信は持てなかったけどね」
「…すみません唯先輩。三年半は……わたしには長過ぎました」
「謝らなきゃいけないのはこっちだよ。ごめんね。急にいなくなって。ごめんね。長い間一人にして」
「…わたしのせいです。わたしが…先輩をつなぎとめておけるほどの魅力がなかったから…」
「違うよ。そうじゃない。そうじゃないんだよ、あずにゃん」
知らない間にわたしは泣いていた。
涙を流すわたしを、唯先輩がギュッと抱きしめる。
-
もう涙なんて、枯れ果てたと思っていたのに。それでも泣けた。楽しかった日々。唯先輩と過ごした日々。いっつも一緒だった。
一緒に弾いたギター。あったかくておいしかったシチュー。初めてのデート。
あのとき、動物園に行く予定だったのに、雨が降ってしまって水族館に変更になった。
わたしはとても残念だったけれど、唯先輩は「楽しみが先に延びただけだよ」って笑ってた。
普段は乗らない路線バス(この街に住む学生は皆、自転車ばかりを使う)に初めて乗って出かけた水族館。ペンギンとアザラシがすっごく可愛いかった。
唯先輩は特にシロクマに夢中だった。あずにゃんみたいに可愛いってはしゃいでた。全く意味がわからなかったけど、楽しそうな唯先輩を見てるのは好きだった。
それから動物園には何回も行ったっけ。それはもう、飽きるくらい通った。
あずにゃんが好きなところに行きたいからって唯先輩は言ってた。
何度通ったところでも、隣に唯先輩がいれば楽しかったから、不満なんかなかった。
動物園に行く時も路線バス、使ったな。最近はもう、乗ってないな。
唯先輩だけを見て、唯先輩の背中を追いかけて、唯先輩の体温を感じて、唯先輩で心の中をいっぱいにして、いつだってその手は結ばれていて、ずっとずっとこのまま、二人の手が離れることはないんだって、思ってた。思ってた、のに。
「やめて…ダメです。唯先輩」
わたしは抱きしめられて思い出してしまった。唯先輩の体温を。あったかくてやさしいて、少し甘い匂いがする。なんにも変わっていない。あのころとおんなじだ。ぜんぶ。
「これからはずっと一緒にいる。約束するよ。どこにも行かない」
「…うそ」
「ホントだよ。離れてる間、ずっとあずにゃんのこと考えてた。もうずっと。わたし、あずにゃんに夢中だったんだなぁ〜って改めて気づいたよ」
「じゃあなんでもっと早く帰ってきてくれなかったんですか」
「…ごめん。こんなことできるの最初で最後ってわかってたから、後悔したくなかったから…だから思う存分、いろんなところに、自分が今ままで行ったことのないところ、会ったことのない人に会って、経験したことのないことを知りたかったんだ。そうしたらこんなに時間が経ってた」
「…長過ぎですよ」
「…ごめんね。ホントにごめん。手紙…出したんだけど、届いてなかった?」
-
唯先輩がいなくなってしばらくしてから、もらった小物だとかプレゼント類は全部捨てた。
踏ん切りはなかなかつかなかったけれど、一つ一つに思い出があって、見るたびに唯先輩を思い出すのがつらかったから。
ようやく決心がついて、そういうものを全部処分した頃だった。先輩を感じさせるようなものは何一つなくなったわたしの部屋に、一通の手紙が届いた。エアメールだった。
差出人は…。
わたしは手紙を読むことなく破り捨てた。
もしはっきりと別れを告げる言葉が記されていたら、恐ろしくて読むことができなかったし、なによりもう唯先輩を思わせるものを近くに置いておくことが耐えられなかった。
それから何通か手紙が届いたけれど、一度も読むことはなかった。
「…わたし、寂しかったんです。耐えられなかった。唯先輩がいなくなって…」
「大丈夫。これからはずっと側にいるから。大丈夫だよ、あずにゃん」
唯先輩はさらに力を込めてわたしを抱きしめた。
これからはわたしを離さない、離すことなんてない、そういう意思が込められてるみたいだった。
「わたし、この三年半でいろんなものを見たり、聞いたり、食べたり…経験したんだけどね。
あずにゃんが好きって気持ちは変わらなかった。本当だよ」
「…唯先輩」
「今、この時期に帰ってきたのはね、もちろん自分の中でひとつの区切りがついたってこともあるんだけど…あずにゃんの誕生日をふたりで過ごしたいなって思って。プレゼントも一応用意してあるんだよ」
ムギ先輩の言ってたのはこのことか。
ちゃんと…誕生日、覚えててくれたんだ。
「自分勝手だってわかってる。ヒドイことしたって…謝って済むことじゃないよね。
りっちゃんにも澪ちゃんにもムギちゃんにも…すっごく怒られるんだろーなーって思うけど…だけどね。
わたし、あずにゃんのことが好き。大好きだよ。昔も、今も、これからも、ずっと。
お願い。もう一度わたしと付き合ってください」
-
なんてズルい人なのだろう。
唯先輩はいっつもこうやってわたしの心をかき乱す。
この人は何も変わっていなかった。純粋な情熱も愛情も、何一つ変わっていない。
抱きしめられた身体から、唯先輩の体温が伝わってきて、熱くなる。
強い意思の込めれれた視線はまっすぐ、わたしの瞳を射抜いている。
それは昔のままだった。わたしの知る唯先輩と変わらない。
大好きだった唯先輩。世界中でいちばん、何よりも誰よりも好きだった唯先輩。
わたしの唯先輩。
そんなことされたら…わたし、どうしたら……。
いいや、迷うことなんてない。答えは決まってる。
わたしは唯先輩の瞳を見返して、答えを告げようとした瞬間、部屋の扉が開いた。
視線を向けると、そこにいたのは律先輩だった。
律先輩の手に持ったスーパーの買い物袋がドサっと落ちた。そしてそのままドアが閉まる。
足音が聞こえた。律先輩が走り去っていく。
それは遠い世界から聴こえてくる音のようで、今まで律先輩と過ごした日々がまるで夢だったかのように思えた。
わたしは唯先輩を振りほどいて、部屋を飛び出した。
-
*
アパートを出てしばらく行ったところで、トボトボと歩くしょぼくれた後ろ姿を見つけた。
「なんで止めてくれなかったんですか」
「あれ…梓?なんで?」
「なんで?じゃないでしょうが、こんの…バカァァーーー!!」
とぼけた顔しやがって!このヘタレっ!
わたしは思いっきり力一杯の正拳突きを律先輩のお腹に喰らわせた。
「◯=!|^*;!>、_」!!?」
声にならないうめき声をあげて、お腹を押さえながらへなへなとへたり込む。
「ねぇ、律先輩」
「……はい」
「わたしがなんで殴ったかわかりますか」
「……わかりません」
「…マジですか。律先輩、本当にバカだったんですね」
「ヒドイ!これでも一応先輩だぞ!それは言い過ぎだ!」
「いいえ。ここまでされて気がつかないのは律先輩が悪いです。
…まぁ本当ならさっきあそこで唯先輩の頬に一発ビンタでもしてほしいところです」
「…えーっとつまり」
「ここまで言ったらわかるでしょ」
「…だいたいは」
まだお腹を押さえて座り込んでいる。
…強くやりすぎたかな、ちょっと後悔して、手を差し出した。
「いつまで座り込んでるんですか。はい」
「いや…マジで痛かったぞ…今のは」
「わたしが心に受けたショックはこの程度じゃないです」
「…ごめん」
「ねぇ、律先輩」
「…はい」
「改めて聞きます。わたしはあなたのなんなんですか。
あなたはわたしのことどう思ってるんですか」
「…それは…だな」
「よーく考えてみたんです。そしたら気づいちゃったんですけど、
わたし、律先輩がわたしのことどう思ってるかって、ちゃんと言葉にして聞いたことなかったんですよね」
「あ、あれ?そうだったっけ??」
「とぼける、なっ」
-
もう一度正拳突きをお見舞いした。今度はちょっと手加減して。
「ぐへぇ!い、痛い…痛いです」
「…今度は手を抜きましたから、大したことないはずです」
また座り込んでお腹を押さえて、うつむきながら律先輩が言う。
「……いや、さ。わたし、梓にはしあわせになってもらいたいと思ってるんだ。
だから…唯がいなくなって。傷ついて寂しくて泣いてる梓を見て放っておけなかった。
わたしでよければそばにいるって。わたしのできることならなんでもするって思ったよ。
だけど…」
顔をあげてわたしの方を見上げながら続けて言った。
「唯が帰ってきたら、もうわたしの役目は終わるのかなって思ったんだ。
梓には本当に一緒にいたい相手と一緒にいてほしいと思ったからさ…
それでさっき二人の姿を見てさ。確信したんだよ。わたしのできることはもうないんだって」
「…なんですかそれ。わたしの気持ち、全部わかったフリして。勝手に身を引いたりなんかして。そういうのがかっこいいとか思ってるんですか」
「いや、そういうつもりじゃ…」
「わたしは唯先輩のことが好きでした。大好きでしたよ」
律先輩の身体が震えた。
わたしの口からはっきりと唯先輩への想いを聞いて、ショックを受けているんだろう。
「でもそれは昔の話です。
今、わたしが誰と一緒にいたいって思ってるか、知ってるんですか」
「そりゃあ…」
「言いませんよわたし。今度はもう、わたしの方から言いませんからね。
わたしは聞きたいです。律先輩の気持ち。わたしのことどう思ってるかって」
お願いだから、ちゃんと、言葉にして伝えて。
教えて欲しい。あなたの気持ち。本当の気持ち。
「…ごめん。言うよ。ちゃんと言う」
立ち上がって、わたしの肩を掴む。目と目が合わさると、律先輩の瞳の中にわたしの姿が映った。
-
「好きだ」
「梓、わたしは…梓のことが好きだ。大好きなんだ。
ずっとずっと。ずうっと前から!梓のことが好きだったんだ!」
「…やっと言いましたね」
「……好きだ。唯に負けないくらい。ずっと前から好きだったんだ。梓が唯といっしょにいるときもずっと梓のことだけ見てた。
梓とこういう関係になれて、夢みたいだったよ。でもその夢はもう覚めるんだと思ってた」
「…夢じゃないです。現実ですよ」
「自信がなかった。不安だったんだ。唯が帰ってきてからは余計に」
「……わたしだって不安でしたよ。律先輩が弱気だから。もっとしっかり抱きしめておいてほしかったです」
「……ごめん」
「謝らないでよ。さっきからそればっかり」
「……わるい」
「…ほら、また」
「……どうしたら、自信が持てるのか、自分でもわからないんだ。
いつだって不安なんだ。確かなものが何も、ないから」
「ちゃんと気持ちは伝えたじゃないですか。それなのに。わたしのこと、全然信用してないんですね」
「それは…」
「…目を瞑ってください」
「え」
「いいから瞑って。早く」
「はぁ…わかった」
-
くちづけをした。
「これで…少しは持てましたか?自信」
「えっ、えっ、あ、うん…」
「だいたい、もう一年になるっていうのになんにもしないってどういうことですか」
「それは…」
「もういいです。これまでのことは。これからのことが大切なんですから」
「…そうだな。うん。…つーかヤバいです。今すんごくヤバいです」
「え。どういうことですか」
「いやその、この勢いを失いたくないっつーか。梓さん。今日はウチに来ませんか?」
「あ、そういうことですか。え、でもそれはちょっと、心の準備がまだ…」
「いいや、弱気はもう捨てた。今日からは強気で行かせてもらいます!」
わたしの手をぎゅうっと握ると、そのままグイグイと駅まで引っ張っていった。
……わたしも、好きです。今わたしが好きなのはあなたです。律先輩。
今度は手を離さないで。ずっと側にいて。お願い。ひとりぼっちには、しないで。
-
*
「さて、今日の世界情勢は、と」
11月11日、午前6時。
TVからは朝のニュースが流れている。
今日も世界は大きく動いているのかもしれないけれど、昨晩は、わたしたち二人にとっても、世界が変わっちゃうくらい大きな出来事があったのだ。
わたしは台所で朝ごはんの準備をする律先輩の背中に抱きついた。
「包丁持ってるときは危ないからやめようなー」
「…そんなこと言って。嬉しいくせに」
「嬉しい…嬉しいけど、危ないから今はダメ」
「だって…ギュってしたかったんだもん」
「…続きは夜にしませんか?梓さん」
「…うん」
「それと誕生日おめでと」
「…ありがと」
新しい朝、新しい光が窓から差し込んでいる。
あー、もー、仕事いきたくないー。ここに引っ越してきちゃおうかなー。
律先輩の料理は相変わらずおいしい。
出汁の取り方にこだわってるからだって言ったけど、もっぱらだしの素だかり使うわたしにはよくわからない。
「あの。今日なんですけど」
「うん。今日はとびきりのご馳走を作るつもりだから楽しみにしとけよ!
なんてたってこの日のために有給とっちゃったからね!」
「あ、ありがとうございます…でも今日は帰らないと」
「あーそっか。唯のことほかりっぱなしだったな」
「ええ」
「わたしも行くよ」
「いえ。わたしひとりで行きます。決着…つけてきます」
「…ひとりで大丈夫か?」
「大丈夫です。信じてください。ちゃんと…ここに帰ってきます」
「信じてるよ。当たり前だろ。…待ってるから」
約束、げんまん。
-
その晩、仕事を終えて一日ぶりに我が家に帰宅した。
「あ、おかえり〜」
昨日のことなんて何もなかったかのように平然と、唯先輩はまだそこにいた。
「唯先輩…昨日はその…」
「あ、うん。急に出て行っちゃったからさー。わたしも家を空けたらマズイなっと思ってあずにゃんが帰ってくるの待ってたんだ」
「あの、唯先輩。昨日のことですが…」
「うん。みなまで言わなくてもわかってるよ」
「いいえ、はっきり言います。
…ごめんなさい唯先輩。わたし…今、好きな人がいるんです。
だから…唯先輩とは付き合えません」
「…そっか。昨日も話に出たけど、それってりっちゃんのことだよね」
「…はい」
「もうわたしとじゃダメ?」
「…はい」
「どうしてもダメ?」
「…はい」
「わかった。わたしも覚悟してたから。じゃあもう、いくね」
「えっ、出て行くんですか」
「あれ?出て行って欲しくなかった?」
「い、いえ…そりゃずっと居座られたら困りますけど…アテはあるんですか?」
「とりあえず和ちゃんのところに行くつもり。それからバイトしてお金貯めて住むとこ見つけたら、ちゃんとした仕事も探そっかな〜って」
「…行き当たりばったりですね」
「なんとかなるよ。きっと」
そう言った唯先輩の笑顔はやっぱり昔のままだった。
変わったのはわたしの方だったんだ。
-
「唯先輩」
「なぁに?あずにゃん」
「また、会えますよね。5人で、昔みたいに」
「もちろん。別れてもわたしはあずにゃんのことが大好きだよ!」
「…ありがとうございます」
「ねぇあずにゃん。最期にお願いがあるんだけど」
「なんですか」
「お別れの記念にもう一回だけチューしてもいい?」
「……そ、それは…ダメです」
「じゃあぎゅってしていい?」
「……それもダメです」
「えぇ〜…あ〜あ、昨日どさくさに紛れてチューしとけばよかったなぁ」
「なんてこというんですか!もぅ!」
たぶん、昨日のあのときだったら拒めなかっただろうな…。律先輩が来なかったらどうなっていたかわからない。
そう、わたしはスキンシップに弱いんだ。そして雰囲気に流されやすい。われながら情けない…。
別れが惜しくなるから見送りはいらないよ、唯先輩はそう言ったけれど、ここでお別れはあんまりだと思って駅まで見送ることにした。
唯先輩はぶらぶらとゆっくりと歩いた。さっさと歩いてくださいよ、電車乗り過ごしますよ、って言ったけど、「あずにゃんとこうしてふたりきりで歩くの、もう最期かもしれないし、せっかくだからゆっくり歩こうよ」そう言った。
もうすぐ駅、というところで、唯先輩がわたしの手を引いて、急に細い路地に入った。
「ちょっと、何するんですか」
「いいじゃんいいじゃん〜。ねぇあずにゃん、目ぇ瞑ってくれる?」
「…そんな手にひっかかるわけないでしょう」
引っかかったアホを約一名知ってるけれど。
「ちぇっ。うまくいかなかったかぁ…」
「最期の最期までおかしなこt…」
-
不意打ちだった。
唯先輩の唇が、わたしの唇に触れた。
そしてわたしをぎゅうっと抱きしめる。
唇の感触もあのときのままだった。なにも変わらない。
わたしの身体がいちばん覚えている。
記憶が、身体が、一気に三年半前まで駆け上る。
全身が一気に熱くなる。
唯先輩はわたしを離そうとしない。
唇と唇がつながったまま、ちっとも離してくれない。
頭の中が霞んで真っ白になってゆく。
もう時間の感覚がわからなくなるくらいの頃になってようやく口から息を吸った。
そうして唯先輩はわたしの耳元で囁いた。
「好きだよ、あずにゃん。愛してる」
そうしてまた、わたしにくちづけをした。
ちっとも抵抗はできなかった。
ふたりのつながりあった部分から、唯先輩の迸り(唯先輩的に言えば『唯先輩分』)が流れ込んでくる。わたしはそれを受け入れてしまう。
そして反対に、わたしをわたしとして成り立たせているもの(唯先輩的に言えば『あずにゃん分』)がどんどん唯先輩に吸い取られていくのがわかった。
わたしがわたしじゃなくなっていくのと同時に、所謂唯先輩分を流し込まれて、わたしの全身が唯先輩で満ちていく。
知らない間にわたしの方も強く唯先輩を抱きしめ返していた。
唯先輩は、三年半の間にエンプティになっていた、あずにゃん分を貪るかのように強く強く唇を吸う。
同じようにわたしの中でもすっかり空に近くなっていたはずの唯先輩分を貪るため、唯先輩の唇を受け入れた。
互いが互いの構成要素で満ちていく。
わたしが唯先輩で、唯先輩がわたしで。
ふたりでひとり。ふたりでひとつのものになっていく。
いいや、戻っていく。三年半前へ。あるべき形へ。
「好きだよ。大好きだよ。あずにゃん」
わたしと唯先輩に時間の壁なんてなかった。
そんなもの飛び越えて、この人はわたしのところに戻ってきてくれた。
どんなに時間が経っていても、どんなに距離が離れていても、逢えば一瞬にしてあの頃に戻ってしまえる。そんな関係なのだ。わたしたちは。
何度も何度も。飽きることなく唇を重ねた。
もう唯先輩の方だけじゃない。わたしの方からも。
「唯先輩…唯先輩…」
「あずにゃん…好きだよ。あずにゃん」
わたしの頭の中が唯先輩でいっぱいになったのを見計らって唯先輩が言う。
「ねぇ。あずにゃん…このままふたりで逃げちゃおうよ」
…世界の果てまで、このままふたり。何もかも捨てて逃げてしまおうか。
それもいいかもしれない。誰にも理解されなくたって、全てを失ってしまったって、大切な人を傷つけたって…地位も名誉もお金だっていらない。唯先輩が一緒なら。
そんなが考えが頭をよぎった。
-
けど。
わたしは唯先輩の身体を突き放した。
「あず…にゃん?」
唯先輩はあっけにとられたみたいな顔をしている。
「もう…帰ります。帰らなきゃいけないんです。約束…してるんです」
「…」
「さ、駅はすぐそこですよ。行きましょう」
唯先輩は黙ったままついてきた。いつもニコニコしてるこの人が真顔で黙っていると、もうそれだけで気味が悪い。切符を買い、改札口の手前まで来て、ようやく口を開いた。
「なんでそんな平気な顔してるの。さっきまでわたしとあんなことしてたくせに」
「…言ったでしょう。約束があるんです。帰らなきゃいけないんです」
-
本当は全然平気じゃなかった。グラグラになってほとんど崩れかけていた。
でもわたしはちょっぴり自信が持てた。あそこまで押し切られそうになっても自分はまだ、踏みとどまることができたって。
そのことがなんとかわたしに平静さを保たさせてくれていた。
わたしに残ったひとかけらの理性(敢えて『律先輩分』とでも言おうか)が唯先輩を拒絶した。
それは唯先輩分で満ち満ちていたわたしの身体に残っていた、まさしく最期の光。
「あずにゃんはきっと、一生わたしのこと忘れるなんてできないよ。
だからわたしから離れることなんてできっこない」
「…そうですね。そうかもしれません。
わたしね。自分で思ってた以上に唯先輩のこと好きだったみたいです。思い知らされました」
「そのわりに余裕な表情だね」
「ええ。だって、最期の最期で押し留まったってことは、その程度の気持ちだったってことですよ」
「…でも浮気じゃん。りっちゃんに悪いと思わないの」
「その言葉そっくりそのままお返しします。
友達の恋人に手を出すなんて、ロクデナシのやることです」
「だって。元はと言えば、わたしのあずにゃんに手を出したのりっちゃんじゃん」
「唯先輩がわたしをほったらかしにするからですよ」
「…むぅ。でもさ。あずにゃんはずっと待ってくれてたんだよね。あの部屋で」
「え?」
「わたしのこと待ってくれてたからずっとあそこに住んでたんでしょ。違うの」
「…待ってましたよ。2年ちょっとの間は。
唯先輩が帰ってきて、扉をノックするのを待ってました。コンコンコンって三回」
「あずにゃんが一人暮らし始めたときに決めた合図だったね。
わたしが来たってすぐわかるように、って決めたんだよね」
「そうでしたね。懐かしいですね。…昔の話です。もう最近はノックの音のことなんて忘れてましたよ」
「うそ。そんなわけない。忘れるわけない。覚えてたんだよ、あずにゃんは。
だからりっちゃんのことが好きになってからも、引っ越さなかったんでしょ」
「…」
「わたしもね。大好きだよ、あの部屋が。すごく好き。
あそこにはわたしたちふたりの思い出がいっぱいいっぱい詰まってるもん」
「…そうですね。いっぱい詰まってますね。思い出が」
「そうだよ。その部屋に住んでるんだからあずにゃんはまだわたしのことが好きなんだよ」
「完全に否定はしません。でも今のわたしにとって、唯先輩より律先輩の方が大切な存在です」
「…さっき浮気したくせに」
「さっきのことは秘密にしておきますから…」
「バレたら困るのあずにゃんもでしょ!」
「わたしは困りません。それと5人で集まるときならともかく、ふたりきりで逢うのはこれで最期にしましょうか」
「うぅ〜…あずにゃんのいけずぅ…」
「あ、電車来ますよ。急いで」
「ホントだ電車来ちゃう!…あずにゃん!わたしは諦めないからね!じゃあまた!」
そう言って唯先輩は駆けて行った。
わたしは後ろ姿を見送ることなく、振り返りもせずに駅を後にした。
-
*
マンションの前まで来ると、入り口のところに律先輩が立っていた。
「…寒いのに何してんです」
「あ、ああ…だってなかなか帰ってこないから。不安になって」
「…すみませんでした」
「いいよ、こうして帰ってきてくれたんだから。さ、ここは寒いし、部屋に行こう」
エレベーターに乗って、律先輩の部屋がある3階まで上がった。
その間、二人とも全く言葉を交わすことはなかった。
扉を開けて先輩の家に入る。
丁寧に、十分過ぎるくらい暖房が効いていた。
「ごめん、もしかして暑い?今日は冷えるって聞いてたから…」
「…大丈夫です」
こういうところが好きなんだけど、今はかえってそのやさしさがつらい。
マフラーと外してコート脱いで、わたしたちはコタツに入った。
「唯は?どうした?」
「…和先輩のところに行くって言ってました。それで駅まで見送って…そこで」
「うん」
「キスされました」
「…な」
「それから、このままふたりで逃げちゃおうって誘われました」
「なんだよそれ!」
「その誘惑に打ち勝って今わたしはここにいる。そういうわけです」
「そういうわけです、じゃねーよ!」
「…ごめんなさい。本当にごめんなさい」
-
わたしはコタツから出て、ひたすらに頭をさげて謝った。
「謝って済むと思ってるのかよ!」
「ごめんなさいごめんなさい…簡単に許されるとは思ってません。
でもそんなつもり全くなかったんです。だけど拒みきれなくて…」
「…唯のことが好きなのか」
「…違います」
「…じゃあなんでそんなことするんだよ!」
「…ごめんなさい」
「…謝ってばっかりじゃわかんねーよ。そんなことして欲しくなかった…したとしてもそんな話聞きたくなかった…なんでわたしに言うんだよ…普通言うか?…わかんねーよ…昨日のことはなんだったんだよ…今日の朝のことは…なんだったんだよ…教えてくれよ…梓が何考えてるのか…わたしには全然わかんねーよ…」
「……好きだから」
「…やっぱり唯が好きなのか」
「バカァ!違うよ!わたしは律先輩が好きなの!律先輩のことが!」
わたしは顔を上げた。そして立ち上がって叫んだ。
叫んだ拍子に涙と鼻水が一気に噴き出して、顔がぐしゃぐしゃになった。
「好きなの!律先輩が!めちゃくちゃ!大好きなの!だから今日ここに来たの!」
「わたしも好きだよ!梓のことが!めちゃくちゃ好きだよ!だからこんな話聞きたくなかった!」
「隠し事したくなかったの!
……だから、ちゃんとあったこと全部言わなきゃと思って……もし本当のことを言って嫌われちゃうなら…わたしが悪いんだし…。騙すようなこと、したくなかったんです…」
律先輩がわたしを抱きしめた。
唯先輩とは違う、あったかさと柔らかさ。まだ不慣れで、少しぎこちないけれど、その不器用さがかえって今のわたしを安心させてくれた。
「ヒドイことしたってわかってるんです。裏切り行為だって。
ごめんなさい。もう二度としません。約束します。だから…許してください」
「……約束だぞ」
「……はい」
「わたしも悪かった。梓がまだ不安定なのにふたりきりで唯と逢わせたのはよくなかったよ。
これからはゼッタイそんなことしない。梓はわたしのもんだ。離したりなんかしない。ずっと梓のそばにいる。離れたりなんかしない。……だから泣くのはやめにしよう」
「……はい」グズッ
「ほら、可愛い顔が台無しだ。…ま、鼻水吹いてる梓もかわいいけどな」
「…バカ」
わたしは軽く腕振って律先輩のおなかを殴った。
律先輩はふざけて痛がるフリをした。
「さぁさぁ。今日は楽しい誕生日だろ。腕によりをかけたりっちゃんの手料理、とくとご賞味あれ!」
もう迷ったりなんかしない。
わたしはずっとこの人のそばにいる。この人といっしょに歩いて行くんだ。
そう、心に誓った。
-
*
それから。
わたしがそれを発見したのは、そろそろ引越しの準備をしようと片付けをしていたときのことだった。
年が明けるのを前に、わたしたちは少し広めの2LDKのマンションに引っ越すことにした。
ここのところずっと律先輩の家に入り浸りになって、ほとんど同棲状態になってしまっていたから、自宅には着替えを取りに帰る程度にしか帰ってきていない。
片付け中に発見されたその小箱は丁寧に包装されて、リボンがつけられている。
なんだろ、これ。全く見覚えのないものだった。
小箱を開けると、中には可愛らしい指輪が入っている。どうやら外国製のものらしかった。
あ、これ、たぶん唯先輩のだ。
きっとわたしの誕生日にこれを渡すつもりだったんだ。
胸がきゅっと苦しくなった。
わたしは指輪を箱にしまい、もう一度丁寧に包装しなおすと、リボンをつけて元通りに戻した。
…
……
………
やがて、引越しの日がやってきた。
唯先輩との思い出が詰まった部屋を、今日、わたしは出る。
すっかり荷物が出払って、何一つなくなった殺風景な部屋の真ん中に、わたしはひとつの小箱を置いた。
可愛らしく包装されて、リボンのついた小箱。
これは、今のわたしへの贈り物じゃない。あの頃のわたしへの贈り物だから。
だから、ここに置いていく。唯先輩との思い出が詰まったこの部屋に。
玄関を出る前にもう一度振り返って、部屋の真ん中に置かれた小箱を見返す。
窓から降り注ぐ光に照らされて、それはまるで秘密の宝物みたいにキラキラと輝いて見えた。
一度深呼吸して部屋の空気を吸い込んで、吐く。そうして扉を開いて部屋の外に出た。
古い扉が閉まる音がする。毎日毎日、聞いた音だ。聞き飽きた音だ。
そして、もう聞くことのない音。わたしが、この扉を開くことは二度とない。
唯先輩が開くことも。
最期に扉をコンコンコン、と三回ノックした。
ノックの音に喜んで、扉の方に駆けてくる足音が聞こえたような気がした。
それはきっと、ずっと昔の、思い出の中から聞こえてくる音なんだろう。
もう終わったんだ。全部終わったことなんだ。
わたしはアパートを後にした。
冬の日差しをうける坂道を下って、わたしは駅までの道を歩く。
季節はすっかり冬本番で、北風が吹くたびに枯葉が舞って寒さに震える。
けれど、わたしの両手には、誕生日に律先輩が編んでくれた手袋があるから、
ちっとも冷たくなんか、ない。
どんなに可愛らしくっても、指輪は北風からわたしを守ってくれやしない。
途中、路線バスがわたしを追い越して走って行った。
その瞬間、わたしはとまっていた時間がうごきだしたことに、
もう二度と時間が戻りはしないのだということに気がついて、
少し泣いた。
おわり。
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乙です。
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