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紬「空に虹がかかるまで」
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ちょっと前から降り出した雨が、また勢いを増した。
その年の6月は梅雨とは名ばかりの、雨が少ない月だった。
あの日の降水確率はたしか…40%。
朝、家を出たとき見上げた空はうっすら曇っていて、
雨が降るかどうかなんともいえないような空模様。
お昼を過ぎてもずっと、空はどんよりしていた。
けれども雨は降りそうで降らない。
だから結局今日は降らないのかな?なんて思っていたけれど、
その日最後の授業が終わり、放課後を告げるチャイムが鳴り出す頃、
雨粒が窓ガラスを叩く音が聴こえ始めた。
テスト期間中の放課後は、普段よりもずっと静か。
いつもは部活動で残っている生徒たちは、早々に帰宅してしまうか、
図書館で自習に励んでいる。
耳に馴染んだ運動部のかけ声も、吹奏楽の音色も、今日はなんにも聞こえない。
校舎に響いているのは雨音ばかりだった。
ザァザァ
さらさら
ポツポツ
しとしと
パラパラ
ぽつり
雨の音を形容する言葉はいくつかあるけれど、
実際に意識して聴いてみると、どの言葉も正確に雨音を捉えているようには思えなかった。
雨って、どんな音がするかしら。
わたしは神経を集中させて、耳をすませた。
それなのに皮肉なもので、雨の音を聴こうとすると、
かえって他の音が気になって雨の音が聴き取りにくくなってしまう。
…ちがうわ。
わたしが雨音に集中できていないだけ。
わたしの意識は別のことでいっぱいだから。
湿気を含んでごわつく髪の毛も、今は大して気にならない。
ただ、いずれにしても、わたしにはこの雨の音を言葉にして紡ぐすべをもっているようには思えなかった。
思う。
―あの人ならどうだろうか。
"
"
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「ムギ、何してるんだ」
不意に声をかけられて、わたしはとっさに振り向いた。
「あ…ううん、何にも」
「何にもって…誰かと待ち合わせ?」
「そういうわけでもないんだけど」
約束は、していない。
「あ、傘忘れたんだろー」
「持ってるよ、傘」
わたしは通学カバンのチャックを開け、折りたたみ傘を取り出してみせた。
「さすがムギ。準備万端だな…って傘持ってるなら帰れるじゃん」
「うん…まぁ…そうなんだけど………雨が気になって」
「気になる?雨が?」
「うん」
わたしが答えると、りっちゃんは不思議そうな顔をして雨空に視線を向けた。
相変わらずの灰色の空。降り続けている雨。
りっちゃんが不思議に思うのも無理はない。
放課後の昇降口でぼうってひとり突っ立って、雨を眺めてる。
傘を持っているのに、帰ろうともしない。
テスト期間中なんだから、はやく帰って勉強したほうがいいのに。
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「誰かをまちぶせてたりしてー…」
「ちがうよ」
目尻を下げ、眉毛を八の字にして、
如何にも困ってます、という表情をしながら苦笑いで返した。
「雨のね…音を聴いていたの」
「雨の…?」
「うん、雨音を聴いてたらなんだか曲のイメージが湧きそうな気がして」
「へぇーそっか」
りっちゃんはなんとなく納得したような、していないような声で返事をした。
「…で、いい曲はできそうか?」
「う〜ん、どうかな?」
「あんまり無理するなよ、テストも近いんだしさ」
「ありがと。でも大丈夫。普段から勉強してるから。りっちゃんこそ大丈夫?」
「痛いところを…ま、いざとなったらまた澪にみてもらうさ」
「たまにはわたしがみてあげようか?」
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間髪入れずに、りっちゃんの目をしっかりと見据えて、わたしは言った。
「あ、ほら。みんなで勉強会しようよ。唯ちゃんや和ちゃんも誘って」
少し気圧された様子のりっちゃんに気がついて、わたしはとっさに取り繕った。
「ん、あ、ああ…そうだな。でもみんな都合がつくかどうか…」
そんなわたしに気づいたのかどうなのか、りっちゃんは曖昧に返事をする。
「もしみんなは無理でもわたしはりっちゃんの都合に合わせるから」
「…ありがと。そうしてくれると助かる…かな。あーでも…」
なにかを言いかけたその瞬間、空の向こうがぴかりと光り、
そうしてしばらく間を置いてから雷鳴が響いた。
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ドォン!
「うわっ、雷だ。そうそう雷っていえば澪が小学生の頃さ…」
わたしはりっちゃん澪ちゃんが小さい頃の話を聞くのがすき。
わたしが知らないふたりだけの話を聞くのがすき。
だって、こうしてお話を聞くことで、それは『ふたりだけしか知らない思い出』じゃなくなるんだもの。
雷が続けて数回鳴り響く。雨脚は衰えを見せない。
「…うわー。雨、もっと強くなりそうだな」
「りっちゃん、傘は?」
「それがそのー…忘れちゃって……」
たはは…と、りっちゃんはいつものように笑う。
傘もなく昇降口まで来てどうするつもりだったんだろう。
答えはひとつ。
アテがあったから。
そうよ。そうに決まってる。
そんなこと、わかりきっているもの。
雨の中。
一つの傘。
歩く二人。
笑顔。
わたしはカバンの取手を強く、ぎゅうっと握りしめた。
空の色とおんなじように、胸の内にもやもやと淀んだ雲が立ちこめる。
わたしはもう一度通学カバンから折りたたみ傘を取り出すと、
りっちゃんの前に差し出した。
"
"
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「これ、使って」
「お、相合傘かー。でも相合傘したらムギも濡れちゃわないかー…なんか悪いよ」
「実はね、わたし、いつも置き傘してるの。もう一本傘があるから大丈夫」
「おお…ムギが女神様に見えるよ…ありがとう助かる!よし!じゃあ帰ろうぜー」
「あ、ごめん。わたし、あとちょっとここにいるから…」
「え?そうなの?」
「うん…もう少しでいいメロディが浮かびそうな気がして」
「そうか…ならいいけど。でもあんまり無理するなよ。雨、どんどん強くなってるぞ」
遠く空の向こうに、また雷鳴がこだました。
「ありがとう、りっちゃん。大丈夫、しばらくしたらわたしも帰るから」
「…そっか。わかった。じゃあわたし、先に帰るな」
心配そうな表情から一転、空模様に似つかわしくない笑顔。
「うん。じゃあね。ばいばい」
りっちゃんが傘を差して一歩を踏み出す。
傘に雨粒が当たって、パラパラと音を奏でた。
「これ、チャーハン炒めるときの音と似てる」
振り返って、りっちゃんはいたずらっぽく笑いながらそう言った。
「こんなこと言ったら曲作りのイメージの邪魔になっちゃうかーごめん」なんていいながら笑った。
きらきらして、眩しくて、まるでりっちゃんのところだけ晴れマークみたいな。
そんな笑顔だった。
ズルいよ、りっちゃん。
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「あのさ、ムギ。もっかい聞くけど」
「なぁに」
「傘…もう一本持ってるんだよな」
「うん。あるよ、置き傘」
「それなら、いいんだ」
とびきり可愛く、にまっと笑った。
やさしくしないで、りっちゃん。
わたしはそんな、まっとうな人間じゃないよ。
思いついたメロディを口笛にして吹いてみたけれど、
音色はどしゃぶりにかき消されちゃった。
響かないメロディ。
届かないメロディ。
誰も聴いていないメロディ。
後ろ姿はもう見えない。
どしゃぶりのなか、りっちゃんは消えていった。
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♪
それからもずっとずっと雨は降り続けた。
ずっとずっと…なんて、実際はりっちゃんが帰ってしまってから、
ものの5分10分も経っていなかったのかもしれない。
ただわたしにとって、その間が永遠のように長く感じられたのは事実で、
永久に雨の降り続ける世界に閉じ込めれたような気分でもあった。
もしかしたらわたしの見えないところではとっくの昔に雨は上がっていて、
世界で唯一ここだけ、わたしのいるところだけ、雨が降っているんじゃないだろうか。
…りっちゃんがいるところは、晴れているのかな。
でも、もし晴れていたら傘はいらない。
わたしは少し安心した。
もし雨が降っているのが、いま、ここに、わたしがいるとこだけだったら。
もしそうなら。
おねがいだからもうしばらく、あとちょっとだけ雨を降らせて続けてくれないかな。
せっかくだから、もうちょっとでいいから。雨が降り続けてほしいな。
いつだって気がつけば頭の中はあの人のことを考えていて。
どうしようもなく、頭から離れないんだなーなんて他人事みたいに思ってみて。
そんな気持ちと一緒に、さっき思いついたメロディをもう一度口笛に乗せて吹いてみた。
でもそれも、ただ一人だけの世界なら何の意味もないことだった。
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「それ、いいメロディだな」
「わっ!澪ちゃん!」
驚いて、思わず一歩後ろにのけぞった。
気がつけば、隣りには澪ちゃんがいて、ふと見上げれば雲の切れ目からは光がこぼれ、
知らない間に遠くの方の空は少し明るくなっていた。
「どうした?なに見てるんだよ、目を細めて」
「雨…まだ降ってる…かしら……」
「うん…降ってるんじゃないか。随分マシになったみたいだけど」
澪ちゃんもいっしょになって目を細める。
その横顔がなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまう。
「…どうした?」
「ううん…なんでもない」
わたしはおそるおそる屋根の外に手を伸ばした。
手のひらが雨の滴を感じてしっとりと濡れた。
まだ雨が降り続けてることがわかって、胸の鼓動が高鳴ってゆく。
「さっきの…もしかして新曲?」
「ううん、今思いついて適当に吹いてみただけ…なんか恥ずかしいな…」
「恥ずかしがることないじゃないか。わたしはいいメロディだと思うよ」
「…えへへ。ありがとう。澪ちゃん、今帰り?」
「うん。図書館でちょっと調べものしてたんだ」
外は雨。
窓を打つ雨の滴。
本を読む澪ちゃん。
「…絵になるね」
「なに?」
「ううん。なんでも」
澪ちゃんは笑った。
わたしも一緒に笑った。
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澪ちゃんの笑顔は、
唯ちゃん用、
りっちゃん用、
梓ちゃん用、
と別れていて、
わたしに向けてくれるときの笑顔も、
他のみんなに向ける笑顔とは違う、わたしのためだけの笑顔をくれる。
けれど、わたしはその笑顔を見るとほんのりと悲しくなってしまう。
夜、寝る前。ベットに入って。
笑顔を思い出す。
それはどこからか遠く、遠く離れたところからわたしを照らしていて、
眩しくてきれいで、しあわせを運んできてくれるものだけど、
同時にその少し遠慮がちが微笑みは、
ふたりの埋めようのない距離の遠さを否応もなく突きつけてくるものでもあって、
ずたずたとわたしを斬りつける。
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「さ。帰ろうか」
「うん…」
「あれ?ムギ、傘は?」
「え?」
「傘だよ。傘。もしかして忘れたのか?」
わたしは少し目を伏せて、こくりと頷いた。
「だから、ずっと昇降口で雨がやむのを待ってたのか?」
わたしはまた、おんなじように頷いた。
「ムギが傘忘れるなんて…珍しいな。律ならともかく」
そういっていつもとおんなじ、わたし用の笑顔を見せた。
…また、その顔で笑うのね。
あなたはいつもその顔でわたしに笑いかける。
でも、微笑みをよせてくれる程度には好感をもたれている、
そのことは救いでもあった。その頃のわたしにとっては。
「律のやつ、傘持ってたのかな…そうそう昔中学生のときアイツが傘忘れてさ…」
…たのしそうな顔して笑うのね。
あなた、そんな顔でわたしに笑いかけたことある?
自分がたのしそうに笑ってることさえわかんないんだろうな。
そんな人が、今のわたしの気持ちなんてわかるわけないよね。
わたしが望み過ぎてるんだってことはわかってる。
でも、わたしは望んでしまった。
そんなこと、望みさえしなければよかったのに。
なぜだかいつのころからか、
わたしは望んではならないものに、手を伸ばしていたの。
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昨日より今日、今日より明日。
一日一日、苦しさは増していった。
あなたの顔を見るのが、声を聞くのが、
なにより嬉しくて、楽しくて、しあわせだったのに、
おんなじくらい辛くて、苦しくて、悲しかった。
ふとしたきっかけで嫌われてしまうのがなにより恐ろしかった。
でも、それなのに。
―いっしょにいたい。
他の誰かとふたりでいてほしくない。
せめてそれが叶わないのなら、いっそ…
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ねぇ、知ってた?わたしの気持ち。
そんなわけないよね、あの頃のあなた、わたしの気持ちにちっとも気がついてなかったわ。
だからあんなことできたのよ。
やさしいフリをしてわたしに傘を差しだして、
『いっしょに帰ろう』
…って。
あなた、なんて残酷なのかしら。
あなた、なんて愚かなのかしら。
あなたの隣りにいるべきなのは、
あなたと同じ傘の下にいるべきなのは、
だぁれ。
決まっているじゃないの。
自分がいるべきじゃない場所に図々しくおさまって、
なんだかあの人の代わりなったような気分になっちゃって、
勘違いして喜ぶ自分を想像して、
自己嫌悪を繰り返す。
わたしは精一杯やさしく、大人びた風に見えることを祈って、
笑ってみせた。
悲しいときに悲しい顔をするのは、うそつきがすることだから。
精一杯にっこりと、笑ってみせてやったの。
「もうすぐ雨、やむと思うから」強がって笑って言ってやったの。
「大丈夫」強がって笑って言ってやったの。
「わたしはひとりでここにいるから」強がって笑って言ってやったの。
ひとりは慣れてるから。
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「遠慮するなよ」
「遠慮じゃないよ。だって、わたしが入ったら、澪ちゃんが濡れちゃうから」
「少しくらいなら濡れたって大丈夫だよ。だってもう。そんなに降ってないぞ。雨」
「大丈夫じゃないよ」
「大丈夫だよ、なにそんなに遠慮してるんだ?ムギ」
「大丈夫だって言ってるでしょ!!」
気がついたときには、もう遅かった。
ふたりきりの昇降口に、わたしの声が大きく響いた。
澪ちゃんは一瞬ビクッと身体を震わせて後ずさった。
さっきまでの笑顔は既にない。
何が起こったのかわからず、顔に不安なそうな色を浮かべている。
「………ごめん。もうちょっと待ったらきっと雨、やむから…」
「…そっか」
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怒ってるんだろうか。
落ち着いていて、感情の読み取りにくい表情だった。
「…もうちょっとここで雨の音を聴いていたいの」
「…雨の音?」
「うん。雨の音」
音なんかもう、大して聴こえやしなかった。
だってもう雨は霧みたいになっていたから。
「そっか。さっきの口笛…」
「…うん」
「いい曲、できそうだな」
「…完成したら、作詞、かいてくれる?」
「…うん。もちろんだ」
見たことのない顔の、みどりのリボンをつけた女の子が、
傘をバッと広げて昇降口を出て行った。
しばらく黙ったまま。
雨の音は……少しは響いていたのだろうけれど、
このときのわたしにとっては自分の胸の鼓動以外、
なんにも耳に入りはしなかった。
静寂が支配するこの空間で、
自分の鼓動が澪ちゃんに伝わってしまうのが怖かった。
「だからわたしのことは気にしないで」
「…わかった。でもあんまり無理するなよ」
…。
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『でもあんまり無理するなよ』
さっき他の誰かから聞いたのと同じ口調だった。
しゃべり方さえ、いっしょなんだ。
その口調が、わたしの頭の中をなんどもなんどもリフレインして響き渡る。
『でもあんまり無理するなよ』
リフレインがわたしを責める。
澪ちゃんは傘を開くと、わたしにさよならの挨拶をして、
霧雨の中を消えていった。
澪ちゃんの姿が見えなくなると、
わたしはもう立っていられなくなって、
へなへなとその場に座り込んでしまった。
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ふたりでいる時間は、たまらなくしあわせでうれしかった。
けれどもそれとおんなじくらいくるしくてかなしくて、
せつなかった。
ふたりでいる時間ほど、あなたを遠く感じた。
きらきらと眩しく煌めいて、
今までみたこともないくらいとてもきれいで、
わたしはどうしても手に入れたくって、
いっしょうけんめいに走って駆け寄るけれど、
どうしても近づけない。
追いかけても追いかけてもその姿はゆらゆらと陽炎のように曖昧で、
手を伸ばし、ぎゅっと握りしめた刹那滑り落ちてしまうんだ。
手に入れることなんてできやしない。
そう、雨上がりの空にかかる虹みたいに。
一生手に入らないのだったら、
走って追いかけるのをやめてしまおうか。
一生手に入らないのだったら、
もう未来永劫雲が晴れず、世界に雨が降り続けたらいい。
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ケータイがぶるぶると震えたことに気がついた。
『ムギ、ちゃんと帰ったか?傘ありがとなー!
お礼に明日はりっちゃん特製のクッキーを作ってもってくよ!
ムギがいつも持ってきてくれるお菓子とは比べ物にならないけど…
新曲もたのしみしてるぜ〜!』
ばかだ。
わたしはばかだ。
ふたりだって、いつも一緒なわけじゃない。
たとえどんなに背伸びして頑張って、
無理にあなたの隣りを歩いてみたって、
やっぱりふたりの間に入ることができかったと思い知らされて、
そのせいでとっても無様で情けなくて悲しい思いをして、
すごくすごく傷ついて、
後でめちゃくちゃに後悔して、
一人誰もいないところでえんえんと泣いちゃうかもしれないなんて、
わかっているけれど。
そんなこと、わかっていたじゃない。
そんなこと、どうしようもないことなんだわ。
今のわたしが…ふたりが年月を重ねて作り上げた絆に割って入ろうだなんて、
無理だって、はじめからわかってた。
それなら、じゃあ。
わたしになにができる?
せめて正直になることしかできないじゃない。
もっと素直に。
もっと無様に。
もっとかっこわるく。
醜くたっていいじゃない。
今のこのわたしの気持ちに正直になったとしたら、
あなたといっしょ、傘の下。
隣りを歩きたい。
今だけでいいから。
雨が降っている…間だけでいいから。
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雷鳴が響いた。
ふたたび雨が強く降り出した。
雨粒が地面に叩き付けられて、跳ねる。
激しい雨音に、他の全ての音がかき消される。
わたしは雨の中、昇降口を飛び出した。
雨がわたしの身体を濡らしたけれど、
身体中から発する熱で、雨は全部全部触れた瞬間に蒸発していってしまうようで、
夢中になって走った。
走って走って、
横殴りの雨に打たれて、ブラウスが肌に張り付いた。
飛び散ったしぶきで、靴下に泥が跳ねた。
水たまりですべって転んで、
擦りむいた膝は小学生みたいに赤くなってた。
わたしは走った。
しばらくして澪ちゃんの背中が見えた。
わたしが一歩足を踏み出す度、距離が縮まっていく。
消えてなくなるその前に、追いつかなくちゃ、掴まなくっちゃ。
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「澪ちゃん!」
気がつけば、わたしは叫んでいた。
澪ちゃんが背中を向けたまま立ち止まる。
くるりと後ろを振り向いた時に見せたその顔は、
雨の中、わたしが追いかけてきたことにとても驚いているようにも、
そんなこと最初からわかっていたようにも見えた。
あなたが何か声をかけようとする間を与えず、
全力疾走で切らした息を整えることもせず、
わたしはあなたにお願いしたわ。
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「澪ちゃん……あのね…やっぱり相合い傘、してもらっていい?」
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全身ずぶ濡れ。髪の毛はぼさぼさ。
ぜーぜーと肩で息をするみっともないわたしを見て、
あなたは笑ったわね。
あのときの笑顔、今もまだ覚えているよ。
きっと、これからずっと。忘れるわけなんてないわ。
やがて雨が上がれば、空には虹がかかる。
そうなれば、あなたはきっと虹を渡り、あの人の下へ行ってしまうだろう。
これはつかの間の夢かもしれない。
でも今はその夢に溺れたいの。
それから随分と長い時間が流れたけれど、
あれ以来まだ、空に虹はかかっていない。
了
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