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「少女たちは花火を海から見たかった」
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フライングで律誕SSいきます。
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『9回裏ワンナウトランナー満塁、第3球を投げたボール、アウトコースストレート!』
窓の外から聞こえる蝉の声が、ミンミンミンミンうるさい。
TVの画面のむこうから、興奮したアナウンサーの声が聞こえてくる。
誰もが知っている野球名門高校と、甲子園初出場の公立高校の対決。
ソファーに寝転がってなんとなーくTVを付けていたら見入ってしまった。
判官びいきというか、気持ちとしては初出場の高校が勝つと面白いなあ、と思っていたら同点の9回表に3点を追加。
9回裏も難なくツーアウトまでこぎつけて、勝利は確定的に思えたんだけど…そこからの連打連打で満塁に。試合展開はわからなくなった。
私の隣りには、手に汗を握りながら少し前のめりになって画面にかぶりつくように見入る友人秋山澪と弟聡。
「うわぁ…力んでるな。落ち着け…落ち着けよ…」
「だだだ大丈夫だ!自分を信じるんだ…普段通り投げれば…切り抜けられる!」
『いやあここは落ち着いて投げてほしいですね。普段通り』
『そうですね。ピッチャーにもバッターにも大きなプレッシャーがかかる場面ですから、落ち着いて普段の力を発揮した方が勝つでしょうね』
『カウントはツーエンドツー、セットポジションから…投げたスライダー、打った大きい!伸びる!伸びる!伸びる!入るか!入るか!入るか!レフト見送った!入った!入ったぁぁぁぁぁ!!!レフトへ!入った!逆転満塁ホームラァン!!!』
「あああああ…」
「や、やられた…」
『ギャクテーン!!!』…というアナウンサーのけたたましい叫び声。
ホームランを打った選手が飛び跳ねて全身で喜びを爆発させている。
あとストライクひとつ取れれば勝てたのに…。
「最後のスライダーがすっぽ抜けなければなぁ…ピッチャーを変えるべきだったのかなぁ」
「でも控えになるとガクッとレベル下がるからな。続投は間違いなかったと思う。
むしろ変化球を要求したキャッチャーに問題があるんじゃないか」
「確かにピッチャーはストレートで勝負したかったかもな…でも。明らかに球威は落ちてきてたし抑えられたかどうか…」
「うーん…」
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一球。
たったの一球で天国と地獄。
つい今さっきまでほとんど手の内にあったはずの栄光はするりと滑り落ち、気がつけば暗い暗い穴の底に落ちていた。
最後の一球。
…スライダーのキレが鋭ければ。
…思い切ってストレートを投げていれば。
…監督がピッチャーを交代させる決断を下していれば。
…安心して交代できる控えのピッチャーを育てておけば。
…もしも。
バットとボールの距離があと数センチズレていれば、スタンドまで届くことはなかったろう。
風が強く吹いていれば、押し返されたボールはスタンドまで届くことはなかったろう。
…もし。そうであったなら。
今、喜びを爆発させているのは、公立高校の選手達だったのかもしれない。
目の前のどうしようもない現実を受け入れきれないとき、もしも…あのとき…ああしていれば…と、私たちは後悔をする。
もしも…あのとき…ああしていれば…
うなだれる高校球児たちを見ながら、私は大きくため息をついた。
「さて、と。何ボーッとしてるんだ律。ほら、試合終わったし、そろそろ宿題やるぞ。明日の登校日に提出しなきゃいけない課題、まだやってないんだろ」
なんで登校日の前日まで宿題をやらなかったんだろう…少しづつでもこなしていれば、今日苦労することはなかったのに…
私は過去の自分を恨み、後悔をした。
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☆
相も変わらず朝早くからミンミンと威勢良く響く蝉の声。
ただ今朝は少し曇っていて、日差しが幾分かマシだ。おかげで少しだけ涼しい。
「夏ももう、終わりなのかねぇ」
「何言ってんだ、律」
「ゆーうつだー………せーっかくの残り少ない夏休みなのにさぁーなぁんで登校日なんてあるんだよ。夏休みなんだから休ませてくれりゃいーのに…」ファ~ア
「眠そうだな。一日一日コツコツ宿題済ませておかないからこういうことになるんだよ」
澪は随分遅く23時頃まで私の宿題に付き合ってくれて、その後ウチの母親が車で家まで送っていった。
澪が帰った後、ちょろっとだけ気分転換にマンガ読もー…って思って気がついたら時計の針は深夜2時。
それから、泣きたい気持ちをこらえ、睡魔に負けないようコーヒーをがぶ飲み。気合いを入れなおして宿題を終わらせた。
「いーじゃんカタイことゆーなよ。宿題ちゃんとやったんだから」
「まったく…そういういい加減なことしてると、いつか後悔することになるぞ」
「わーかってるって。ってことで次もよろしく!」
「まったくわかってないじゃないか!」ゴツン
「…今ので目が覚めました」イタイ
「おはようございます、律先輩、澪先輩」
「りっちゃん、澪ちゃんおはよう」
「おームギ、梓、おっはよん」
「おはよ」
信号待ちの交差点で、後ろからやってきたムギと梓の二人と合流した。
挨拶もそこそこに、梓はキョロキョロと周囲を見回す。
「あの…唯先輩は?」
「ん?今朝はまだ見てないけど」
「唯先輩…登校日覚えてますよね??」
「さすがに大丈夫だろ…一応昨日メールしといたし」
「私もメールした」
「私も〜」
…みんな考えることは一緒か。
「あ、メールなら私も…大丈夫ですよね?憂もいますし、ね」
「そうね。憂ちゃんがいるから安心ね」
「そうそう。それに別に登校日くらい忘れたって、死ぬわけじゃないし」
「死ぬことはないけど、理由もなく学校サボっちゃダメだろ」
ただでさえ唯のことだから、うっかり忘れてる〜とか、二度寝しちゃった〜とかありそうでコワイ。
一応私たちは、揃って唯にメールしておいた。
『今日の登校日だぞ!ちゃんと学校に来いよ!』
学校に着くまでの間、誰にも返事は来なかったけれど、「もしかして今のメールで起きたのかもしれませんし…」「どうせいつもみたいに遅刻ギリギリで駆け込んでくるだろ」なんて軽口を叩きながら校門をくぐった。
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教室の扉を開くと、予想に反して目に飛び込んできたのは唯の姿だった。
窓際の自分の席から、ぼうっと外の方を眺めている。
「おはよう唯。なんだよ。来てたんならメールの返事くらい返せよな」
「みんなおはよう。…メール?あ、ごめん。見てなかった」
「おいおい…まぁいいか。遅刻しなかったんだし」
「しっかし、今日はどうしたんだ?早いじゃん。まーた目覚ましを1時間早くセットしてたのか?お約束か?」
「違うよ。今日はちょっと用があって早く来てたの」
「どうかしたの?唯ちゃん」
「ううん。大したことじゃないから」
そういって笑う唯は、不思議と少しだけ大人びて見えた。
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☆
「ふぅ…久しぶりの部室は落ち着くね〜」
久しぶりの部室、久しぶりのティータイム。
いつも通りのけいおん部。
「そうだな。私もやっぱりここが好きだな」
「私は時々トンちゃんの様子を見に来てましたから…」
「梓ちゃんは本当にトンちゃんが好きなのね〜」
「あ、いやその…まぁ…モゴモゴ…そういえば唯先輩、今日憂が学校に来てませんでしたけど、どうかしたんですか?」
「うん。憂は今、お父さんたちのとこに行ってるんだ」
「お父さんたちのところ?…ってどこなの?」
ムギが首を傾げる。
「お父さんたちのところはお父さんたちのところだよ〜。ちょっと遠いとこ」
「旅行にでも行ってるんですか?」
「まぁそんなところかな。今夜には一旦帰ってくるんだけどね。それまで私はひとりでお留守番」
「はぁ…」
梓は眉を八の字にして、納得したようなしてないような表情で曖昧に頷く。
平沢家の両親はよくいろんなところに出掛けている。
だからたまには娘である唯や憂ちゃんも一緒についていくこともあるんだろう。
そう、思った。
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「さ・て・と…無事課題も出し終えたことだし。後は残りの夏休みを満喫するだけだな!」
「…まだ休み明けに提出しなきゃいけない宿題が残ってるだろ」
「それはそれとして置いといて〜…さて…今日の花火大会だが…」
「えっ?そんな予定あったっけ?」
「行くんですか?」
「あったり前だろ!夏の一大イベントにいかいでか!」
「わたし行きたーい!屋台でケバブ食べたいの〜」
「ケバブですか…」
「そう!ケバブ!今回は真っ先にケバブの屋台を探すわ!」フンス
「おいおい…メインは花火だぞ?」
「私、今度はゼッタイ後悔したくないの!焼きそばのときみたいに後悔したくないからまずはケバブ!ケバブの屋台を探すの!」フンスフンス
まぁいいだろう。屋台を探しながらでも花火は見られるだろうし。
「でも律。今日、夕方から天気が崩れるって天気予報で言ってたぞ…」
「少しくらいの雨なら決行するんじゃないでしょうか?」
「そうそう。曇ってるけどなんとか持ちそうだし…それに降ったら降った、そのときに考えようぜ!」
「相変わらず無計画だな…」
「だぁいじょぶだって!じゃあ17時くらいに集合して会場にいくかー」
「さんせーい!(ケバブたのしみだわー)」ワクワク
「わかりました(浴衣着ていこうかなぁ…)」ワクワク
「まぁせっかくの花火大会だしな」ワクワク
「唯もオッケー?」
話を聞いているのかいないのか、唯はぼうっと天井を眺めていた。
「…唯?話聞いてたか?」
「え、あ、うん。聞いてたよ!そだね…りょーかいです!りっちゃん隊長!」
「よっしゃー!そうと決まったら早速帰ろう!」
「待ってください!せっかくみんな集まったんだから一回だけでも音合わせしましょう!」
「いやいや梓、あんまり無理して練習すると夏バテしちゃうし今日のところは…」
「練習 したいな」
「え?」
「練習、しようよ。久しぶりに集まったんだし。花火大会までまだ時間あるでしょ?」
「ど、どうしたんですか唯先輩!ひょっとして夏風邪ですか!」
「違うよあずにゃん。私は元気だよ」
「も、もしかして唯じゃなくて憂ちゃんなんじゃ…?!」
「違うってば澪ちゃん。私は唯だよ」
「唯ちゃん、今日はやる気マンマンね。もしかしてケバブ食べた?」
「食べてないよムギちゃん。今日の朝ご飯はご飯とお味噌汁と焼き魚だよ」
「唯…一体どーしちゃったんだ?」
「どうもしてないってば。いやだなぁ、久しぶりの部室だからみんなと演奏したくなったの。ただそれだけのことだよ」
そういって笑う唯は、やっぱり少しだけ大人びて見えた。
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久しぶりの練習はキツかった。
「疲れた…」
「ちょっと律先輩!リズムキープめちゃくちゃだったじゃないですかっ!夏休みの間、ちゃんと自主練してたんですか!?サボってるのバレバレですよ!」プンスカ
「わーかったわーかったって。二学期始まるまでには勘を取り戻しておくから…」
ここのところ暑い日が続いて自主練サボってたからなぁ…
「どうせ暑いからってヘバってたんでしょう?ダメですよ!普段から毎日練習しないと、いざ本番のライブのときに痛い目見ますよ!」
そのまま真実をつかれてドキッとする。
大丈夫大丈夫。私は本番に強いタイプだからな!
「おい。練習もだけど、勉強もやれよ。二学期始まるまでには課題も済ませておくんだぞ。今度という今度はもう、助けてやらないからな」
「へーいへい」
今度はどうやって助けてもらおうか。泣きつく方法を考えておかなきゃ。
「でも今日のドラムも、りっちゃんらしくて、私は好きだな。私たちらしくてよかったじゃん」
「うん、私もりっちゃんのドラム好き〜。とっても元気が貰える気がするもの!」
「唯!ムギ!さっすがぁ〜わかってるぅ!」
「誉めるとすーぐ調子に乗るんだから…」
「そうです!甘えてちゃダメです!もっと上を目指さないと!」
「じゃあ梓ちゃんはりっちゃんのドラム、嫌いなの?」
「いやそのぅ…それとこれとは……」
「じゃあ好きなんだ」
「そ、それは…モゴモゴ…で、でももっと練習はしないとダメだと思います!」
「あずにゃんはいつも一生懸命だよね。きっとこれから、もっともっとギターがうまくなっていくんだろうね」
「…唯先輩?」
「うん。久しぶりにみんなと一緒に演奏したけど…やっぱりバンドって楽しいね!」
「なんだよ急に…でも久しぶりに演奏すると気持ちいいよね」
「そうね〜わたしも楽しかった!」
「はーいはい!みんなが私のドラムの大ファンだってことはよーくわかった。じゃあ今日はこのくらいにして帰ろっぜ〜」
(ちょっと誉め過ぎちゃったかしら…)
(ドラムは好きだけど、練習は本当にもっとしてほしいです…)
(ほぅら調子に乗った…)
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「あ、あのさ…もう一回だけ。演奏しない?」
「唯…?」
「唯ちゃん…?」
「ゆ、唯先輩…?」
「どうしたんだ……唯が急にやる気を出すなんてっ!まさか天変地異の前触れかっ!?」
「もぅ!りっちゃんたら失礼だよ!私たちけいおん部だよ!バンドだよ!演奏するのが当たり前でしょ!」
「いや…それは…そうなんだけど…」
「当たり前の事実なのに唯が言うと当たり前に聞こえない…」
「澪ちゃんも失礼だよ!私だってやるときはやるんだから!」
「ご、ごめん唯…」
「私は嬉しいです!唯先輩、ついにやる気になってくれたんですねっ!さぁ律先輩もう一回練習しましょう!」
「え〜、もう今日はいいじゃん。もう練習したんだし、お腹空いたし、花火大会に向けて体力温存したいし…」
「確かにそうだな。唯がやる気になったのはいいことだけど、もうお昼過ぎだし、今日の練習はこのくらいにして切り上げてもいいんじゃないか」
「唯ちゃん、また二学期が始まったらいっぱい練習しよう?」
「…そっか。そうだ、ね」
結局その日は、これで練習を終えて、帰ることになった。
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帰り際、階段の踊り場で唯が立ち止まった。
「あ、ゴメン。みんな先に帰ってて。私寄るところがあって」
「どうした唯、どこに行くんだ」
「えーっとね。さわちゃんのとこ。渡すものがあってね。でも大丈夫。ちゃんと待ち合わせの時間には間に合うように行くから」
「そっかわかった。集合の時間には遅れるなよ」
「ほ〜い」
昇降口を出ると、朝と同じように空は曇っていた。
なんとかこのまま雨が降らないでいてくれますよーに。
「そういえば、律。この前貸したCD、そろそろ返してほしいんだけど」
「あれ?そんなの借りてたっけ?」
「貸してただろ!お前が貸せっていうから、私が買った次の日に貸してやったんだぞ!」
「あ、そういえば…。わりーわりーまだiPodに落としてねーんだよ。落としたらすぐ返すからさ、も少し待って、ね?」
「ダメだ。前に貸したCDのときも、そう言ってぜんっぜん返さなかっただろ!お前の言うことを聞いてたらいつまでたっても埒があかない!」
「まぁまぁ澪しゃん落ち着いて…」
「もう待てない。この後、花火大会の準備したらすぐにお前の家に行く。今日返してもらうからな、CD」
「わかった…わかったよ……」
「りっちゃん澪ちゃん、相変わらずねぇ」
「まったく、律先輩は仕方がないですね」
そう言って笑いながら四人で肩を並べて通学路を歩いた。
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不意にカバンの中で何かが震えたことに気がついてケータイを取り出す。
メールは………唯から…?
文面はたった一行。
『屋上に来てくれない? 一人で』
「悪い、みんな先に行ってて。後で追いつくから」
「どうしたんだよ?」
「ごめん、ちょっと忘れ物した」
私は来た道を後戻りする。
何があるのかわからないけれど、一人で来いと言っているあたり、もしかして何か理由があるのかもしれない。澪には黙っておいた方がいいかな、と思った。
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階段を三階まで登ると、音楽準備室の隣りにある屋上の扉が開いていた。
その向こうに唯の姿が見えた。
べたーっと大の字で地面に寝そべっている。
「………おい」
「………あ、りっちゃん。来てくれてありがと」
「…暑くないのか」
「今日は涼しいよ。風が気持ちいい」
「確かになー」
「うん。きもちいーよー」
確かに風が気持ちいい。
学校のどこかで練習しているのだろう、吹奏楽部の演奏が聴こえてくる。
私たちが生まれる前に流行ったらしいJ-POP。なんとなく聞き覚えのある夏の定番メロディ。7月に入った頃からこの曲をよく練習している。
曲に合わせて口笛を吹く。
歌詞は知らないけれど、何度も聴いているうちに、メロディだけ覚えてしまった。
唯の隣りまで歩いていって、腰を下ろした。
寝そべる唯の首筋に、蟻が一匹這っている。
気にならないのか、唯は目をつむったまま、平然と寝っ転がったまま。
「唯、虫」
「ん」
「首んとこ。虫」
「取って」
「え」
「取ってよ」
「はいはい…」
ちょこまかと動き回るアリンコ。狙いを定めてひょいとつまみ上げ、ぽいとほかした。
「ありがと」
「どういたしまして」
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ファイオー
ファイオーファイオー……
演奏がやんだ。
聞こえるのは蝉の声。
練習中の運動部のかけ声。
遠く、響いている。
そういえば、なんで屋上の扉が開いていたんだろう。
夏休みの学校は、いつもと違ってすごく静かだ。
いつもの、私たちが知っている場所とは全然違うところみたいで、どこか知らないところに迷いこんだ気持ちになった。
「なぁ」
「…」
「寝てんのか?」
「起きてるよ」
「…」
「…」
風が少し強く吹いて、唯の髪を揺らした。
「なぁ」
「なぁに。りっちゃん」
「なに、って…お前が呼び出したんだろーが」
「そっか。そうだったね。忘れてた」
「おいおい…」
「うそだよ」
「…」
「…」
ごうごうと音がして、空を見上げると飛行機が飛んでいた。
「飛行機だねー」
「飛行機だな」
「どこの国に行くんだろ」
「さぁ。外国とは限らんだろ」
「そっか」
「そうだよ」
「そうだね」
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そのまま二人。また黙ったまんま。私も腰を下ろして壁にもたれて、ぼうっと空を見ていた。
静か。静かだ。
唯と二人。いつもかしましく騒ぐ私たちが、二人大した会話もせず、こうしていることが今まであったろうか。
澪となら、二人でいてもお互い別々のことをしていて、大した会話もない…なんてことがある。
けど、そうして黙って過ごしていたって、間が持たないなんてことはない。
それは二人で過ごした時間が長いから。無理に会話なんてしてなくても、それが自然。
唯との無言の時間。
慣れない空気のはずだけど、それでもいたたまれない、なんてことはちっともなくて、澪とほどじゃないにしろ、私たちが重ねて来た時間ってそこそこ長いのかもしんないな、って思った。
「なぁ、唯」
「なぁに、りっちゃん」
「何かあった?」
「何かって?」
「わかんねーけど。いつもと違うじゃん。今日」
「そうかな?」
「そうだよ」
「そっか」
ア・エ・
イ・ウ・エ
・オ・ア・オ……
演劇部が練習を始めたのかな。
唯がむくりと起き上がって、私の方を向いた。
-
「りっちゃん。今日の花火大会さ」
「何」
「行くの?」
「決まってるだろ。私がみんなに声かけたんだから」
「私、行きたいところがあるんだ」
「どこ」
「海」
「え」
「海に行きたい」
「なんだよ。唐突に」
「ほら。今年、夏フェス行ったけど、海には行かなかったでしょ。だからさ。泳ぎたくなったの」
「クラゲが出るぞ」
「別にいいよ。行こうよ、海」
「わかったよ。じゃあいつ行く?後でみんな集まったときに予定を…」
「今日がいいな」
「はぁ?無理だろ。花火大会は?」
「予定変えられない?」
「変えたとしても今から海に向かったら、着く頃にはもう夜だっつーの」
「いいじゃん。夜の海。人も少ないし。私たちで独占できちゃうよぉ」
「夜の海って…危ないじゃんか」
「だいじょうぶ。そんなに沖の方まで行かないよ。波打ち際でバシャバシャやるだけでもいいんだよ。それでさ、そこから打ち上げ花火を見るの。夜の海から。ねぇ、すっごくよくない??」
「…たしかに、いーかも」
「でしょでしょ!泳ぎ疲れたら砂浜に横になってさ。花火を眺めるの。すっごいキレイだよ!きっと」
盛り上がる唯の話を聞いていたら、思い切っていっちまうかー…なんて気になっちゃいそうだけど、冷静に考えりゃ無理な話。
「いーけどさ…そんなに遅くまで海にいたら、帰れなくなっちゃうだろ」
「いーじゃん、帰れなくなっても。そのまま浜辺で寝ちゃおうよ」
「ダーメ。女二人でやることじゃない。ホントに危ないぞ。大体海は遠いんだぞ?そこからじゃ花火見えねえよ」
「そうかな。海から花火、見えないかな」
「見えねーよ」
「見えると思うけどなぁ…」
唯は納得してないみたいだけど、どうしたって今日の花火大会の会場の場所を考えれば、海から花火が見られるわけがなかった。
「…ま、海はまた別の機会に行こうぜ。みんなで、さ」
「うん…………今度。今度、ね。ぜったいだよ」
「ああ」
-
救急車のサイレンの音が近づいてくる。
緊急事態を知らせるその音色も、無関係な私にとっては生活音に過ぎない。
私にとっての日常も、誰かにとっては非日常なのかもしれないな、などと思った。
「プールは?」
「どっちにしてもおんなじだろ。行って帰ってくるだけで泳いでる時間ねーよ」
「そっか…だよね」
サイレンは音を変えて遠ざかっていった。
「ならさぁ…
川沿いを下っていったところに三角州があるでしょ。
そこまで行って水遊びしようよ。涼しいよ」
「んーまぁそれくらいなら…でも無理に今日じゃなくたって…」
「今日がいいの」
いつになく強く断言する唯に、少し押されてしまう。
「ねぇ。ダメ?」
じっと私の瞳を見つめる唯の目の下にはクマができていた。
なんだ?寝不足か?どうせ夜遅くまでTV見てたかギー太いじってたか、どっちかだろ。
「わかったよ。でも待ち合わせの時間までだぞ」
「いいよ。少しだけでいいから」
「よし。じゃあみんなに…」
「ふたりで行こうよ」
「…なんで?」
「なんでって………好きだからだよ」
「好きって何が?」
「海」
「行くのは海じゃないぞ」
「わかってるよ。それにさ、なんだかおもしろくない?
みんなにはナイショにして、私たちふたりきりで遊びにいくの」
唯が笑う。いつもの唯だ。人懐こい笑顔。相手をしあわせにする笑顔。
「なんだよ、それ」
「いいじゃん。ちょっとよくない?ふたりだけのヒ・ミ・ツ」
「ワケわかんない」
「私も」
ふざけた調子で唯が言う。
私は笑った。唯も笑った。
-
「ねぇ。ダメ?」
けれど今日だけは少しだけいつもと違っていて、唯の目は真剣さを帯びているように思えた。単に目にクマがあったせいかもしれないけれど。
不意に緊張して、私は唯の瞳から目を逸らした。
「わかったわかった。じゃあ今からすぐ帰ってお昼ごはん済ませたらすぐ落ち合うか。集合時間の17時に遅れないようにしないといけないしな」
「今から行こーよ」
「そんな慌てなくてもいーだろ」
「あ、そだね」
「せっかちだなぁ唯は」
「えへへ」
「じゃあ、待ち合わせの時間と場所は…」
「りっちゃん家まで迎えにいくよ」
「いいのか?わざわざ…」
「いいよー。だってそうしないとりっちゃん、約束忘れちゃいそうだし」
「そこまでバカじゃねーよ!唯の方こそ時間に遅れるなよ」
「わかってるよぉ。じゃあ15時に迎えにいくから〜」
「ほい。それじゃまた後で」
唯は欠伸をして大きく伸びをすると、立ち上がってお尻をぱんぱんと少し払った。
「りっちゃん」
「なんだ」
「ふたりだけのヒミツだよ。約束だからね。裏切っちゃ、ダメだよ」
「わーかってるって」
唯は満足そうに微笑むと、そのまま扉の向こうに駆けていった。
-
☆
「ただいまー…っておい」
「よ。おかえり。随分遅かったな」
「ん、ああ」
家に帰るともうすでにやってきていた澪が、リビングのソファーで麦茶を飲みながら、高校野球を見ていた。
両親も聡も出払った家に、悠々と我が家のように居座る澪。
時々あることとはいえ、なじみ過ぎだろ。家族かよ。…まぁそれに近い存在か。
「裏口の鍵、開けっ放しだったぞ、相変わらず不用心だよな」
だからって平然と人ん家に入ってくつろいでるのもどうかと思うけど。
「わり。聡にちゃんと言っとくわ」
家族以外では唯一澪だけが、裏口の扉のカギの隠し場所を知っている。
だから我が家に誰もいなくても、今日のように裏口が開いていなくたって、田井中家に澪一人、という状況が時々ある。
「アイス買ってきといた。冷凍庫に入ってるぞ」
「さんきゅ」
視線をTVに向けたまま、こちらを見ずに澪は言った。
冷凍庫を開けると、7本入りのガリガリ君の箱が入っていた。
私たち2人分だけじゃなくて、家族のみんなが食べられる本数を買ってくる当たりが澪の気遣いなんだろう。さっそく一本いただきます。
「アイス食べたら、さっさとCD、iPodに落とせよ」
ようやくこちらに視線を向けて言い放つ。
……すっかり忘れてた。澪に来てもらったのは正解だったかもしれない。
「…忘れてただろ」
「…覚えてたし」
「やれやれ」
ため息をつくと、再びTVに釘付けになる澪。
アイスがキーンと葉の奥に染みた。
とりあえずシャワーを浴びて汗を流した。
その後、CDをiPodに落として…アイスもう一本食べて…17時までまだ余裕あるからそのままいつものように澪の隣りに座ってダラダラ高校野球を見ていた。
高校球児にとってみれば、この夏は一生に一度の夏だろう。
私にとってのこの夏は…一生に一度の夏なんだろうか。そうなんだろうけど、去年の夏、その前の年の夏と今年の夏は、大して代わり映えしないように思えたし、きっと来年の夏だってそうそう変わらないんだろうなぁ、なんて思った。
しかし、澪が家に来てしまったのは想定外だった。
せっかくだから澪も誘って三人で…ただ、唯には『ふたりだけのヒミツ』って言われたし。
その言葉にどこまで意味があるのかわからなかったけれど、約束した以上、簡単にそれを破るのは悪いことのように思えた。
-
チャイムが鳴った。
「律、お客さんだぞ」
「わかってるわかってる」
しまった。
時計を見るともう15時。
玄関に置きっぱなしの健康サンダルを履いて、扉を恐る恐る開ける。そこにいたのは予想通り、唯。
遅刻魔のくせしてこんなときだけ時間ぴったり。浴衣まで着込んじゃって…背中にはギー太、右手にはなぜかキャリーバッグ。
「えへへ。エラいでしょ。ちゃんと時間ぴったりだよ」
「あ、ああ…、その、唯、悪い。ちょい玄関とこで待っててくれる?」
「なぁんだ、りっちゃん準備まだだったの?」
「いや…そのぅ……そういうわけじゃないんだけど………」
「え〜暑いよ、家入れてよぉ」
「いやそれがさ、ちょっとマズくて…」
「もしかして…行けないの?」
「行く…行くからとりあえずそこで待っててくれ…」
「りつー、どーかしたのかー」リビングの方から澪の声が聞こえた。
それまでいつものようにニコニコ楽しそうに笑っていた唯の表情が凍り付いた。
「 りっちゃん 裏切ったの? 」
今まで私が聞いたこともない、低い重い声が、耳の奥に響いた。
裏切る、なんてそんな物騒なもの言いをしなくたって…でもそんな風に軽く考える余裕はなかった。
その声はずしりとした重量をもって、私の身体の底の方に沈んでいった。
次の瞬間、凍り付いた顔面がくしゃっと崩れると、唯の瞳一杯に涙が溜まった。
私はとにかくどうにかしなくちゃと思って、そのまま唯の手をとって強く握った。
全身を奮い立たせ、そのまま一歩を踏み出すと、強引に唯を引っ張ってサンダル履きのまま駆け出した。
後ろの方で澪が私を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、私は振り返ることなく、唯の手を引いたまま走っていった。
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☆
「はぁはぁはぁ…」
「見られた…かな」
「見られたら、マズいの?」
「……いや、だって『ふたりだけのヒミツ』なんだろ?」
「…ちゃんと覚えててくれたんだね、りっちゃん」
澪を一人置き去りにして家を飛び出したんだから、きっと後で怒られるに決まってる。
鉄拳制裁のことを考えると少し憂鬱だけれど、これはもう、仕方のないことだ。あきらめよう。
家の鍵の場所は澪が知っているし、防犯上の危険は問題ない…むしろ私や聡よりよっぽど澪の方が安心だ。
「私たち…なにしてんだろな」
「わかんない。でも…なんか、おもしろいね」
「…だな」
二人して汗をかきながら、顔を見合わせて笑った。
走ったせいで二人とも息が上がっていたけれど、ついさっきまで瞳を涙でいっぱいにしていたのがウソみたいに笑う唯を見て、私はひとまず安心した。
途中、コンビニによってジュースを買った後、川沿いの遊歩道に降りてそのまま流れに合わせて歩く。
カラン
コロン
カラン
コロン
「下駄履いてるのに走らせちゃって、ゴメンな。荷物、持つよ」
「ううん。いいよ、大丈夫。…りっちゃんこそ、健康サンダル」プッ
「うっ…笑うなよ!仕方ないだろ、慌ててたんだから!」
「気にしない気にしない。いいじゃん、健康にいいんだから」
「くっそー…」
そもそもきちんと出掛ける準備してなかった私が悪いから言い返せない。
「ところで唯。なんだ?その荷物」
着の身着のまま飛び出してきた私に比べ、唯は紺地にちょうちょの柄の入った浴衣を着て、ガラガラとキャリーケースを引っ張っている。
走りにくい服装に大きな荷物。走らせて悪かったな。
後でアイスを奢ってやろう、そう思いながら尋ねた。
「女の子はいろいろと入用なんだよ。気にしない気にしない」
「でもギー太は持ってこなくてもいーだろ。一緒に花火見るつもりかよ」
「まあね。私とギー太はいつも一緒なんだよ」
「さいですか」
「あれ?もしかしてりっちゃん、妬いてる?」
「ばーか」
遊歩道に転がる石を、かつんと蹴っ飛ばした。
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さらさらと川が流れている。
川沿いだからと言って、特別に涼しいわけじゃない。じめっとした湿気と、さきほどかいた汗が肌にまとわりついて鬱陶しい。
けれど、日中とはいえ曇っているおかげで日射はきつくなかったし、きらきらと輝く水面を横目に見ながらのんびりと歩いていると、気持ちだけはほんの少し涼しくなれる気がした。
「暑いねぇりっちゃん…」
「言うな。今気分だけでも涼しくなろうとしてたんだから」
「気分だけで涼しくなれるものなの?私、アイス食べたいよ…」
「もう少し我慢しろ。ほら、昔のエラい人が言ってただろ。『心頭滅却すれば火もまた…」
「涼し』!」
「知ってるなら、頑張ろうな」
アホなやりとりのおかげでまた汗かいた。つつつーっと一筋の汗が、額から左目の横を伝って落ちていく。
「でも、暑いのもいいよね。なんかこう『日本の夏』!ってかんじで!」
「そうかぁ?なんだか唯らしくない発言だな」
「ヒドい!」
「そういえばムギが言ってたけどさ。ヨーロッパは夏でも日本みたいにジメジメしてないから、もっと過ごしやすいんだってな。
なんでこう、日本の夏はジメジメして暑いんだろうな。ヤになっちゃうよ」
「…ふぅん」
なんだかそっけない返事だなと思ったら、唯は突然川の方を向いて足を止めると、そのまま腰を下ろした。
浴衣汚れるぞ、って注意したけれど、別にいーよ大丈夫、ってこっちを水に川の方を向いたまま答えたから、私も隣りに座って、一緒になって川の方を見ていた。
ふたり何も言わず、きらきらと輝く川面を、しばらく見ていた。
時折、鳥がさーっと飛んできて、川の真ん中の大きめの石に止まったりして、「りっちゃんあれなんていう鳥?」「んー知らねえ」など意味のない会話を交わした。
私が立ち上がってあたりにある手頃な石を拾い、水切りを始めると、真似して唯も水切りを始める。
唯が投げた石はちっとも水面を跳ねず、1、2回くらいでどぼんと川に落ちた。
私が投げた石が3回、4回、5回…とバウンドするのを見て、「りっちゃん師匠!水切りの極意を教えて下せえ!」なんて言ってくるもんだから、投げ方のコツを教えてやった。
教え始めは苦戦していたものの、一旦コツを掴むと唯の投げた石はトントントンと水を切るようになり、ついには川向こうまで届いてしまうくらい、遠くまで跳ねていった。
唯が投げた石は、私が投げた石よりも、ずっと遠くまで。遠く、反対側の岸まで跳ねていった。
私が投げた石は、向こう岸まで届くことはなく、沈んでいった。
-
水切りに夢中になりすぎて、ちょっと疲れた私は腰を下ろす。
並んで唯も腰を下ろす。
さっきよりも少しだけ二人の距離が近くて、唯が座った拍子に、互いの左手と右手が少し触れた。
私は髪をかきあげる振りをして右手を引っ込めた。
それから、また二人は無言で川面を見つめていた。
ヒグラシの鳴く音が聞こえていた。
「そろそろ行こうか」唯が不意に立ち上がって、歩き出した。
太陽が傾いてきているなぁと思い、そのときになってはじめて私は自分がケータイを持っていないことに気づいた。
「いま、何時?」唯に聞いてみたけれど、「わかんない」と言うだけで、唯は時間を確認しようとしなかった。
「ケータイ忘れちゃったから時間わかんねーんだよ。待ち合わせに遅れたらマズいだろ?」
「私も持ってないよ。ケータイ」
「はぁ?忘れたのか?」
「ううん。要らないから。置いてきた」
今どきの女子高生が、ケータイを要らないなんて言うだろうか…。もはや生活必需品じゃないか。
ここにきて私は、唯の様子がおかしかったことを思い出した。
「なぁ、唯。なんかあったのか?」
「なんかって?」
「なんかだよ」
「だからなに」
「わかんねーけど…いつもと様子が違うからさ」
「違わないよ」前を向いたまま唯は答えて、ガラガラキャリーバッグを引きずり、カランコロン下駄を鳴らし、歩いていく。
柳が葉を揺らす様子を見て、風が吹いたことに気がつく。
「時間なら心配ないよ」
「?」
「もうすぐ三角州でしょ。そこから大通りに上がれば交差点のところにバス停があるよ。そこからバスに乗ればすぐに戻れるから」
「そっか」
無計画に見えて計画的。唯にしては珍しいことだけど。
これで待ち合わせ時間に遅れたら、澪の鉄拳が二倍になる。それはさすがに身体が持たない。
私がほっと安心していると、唯が急に私の右手を掴んだ。
「りっちゃん!バス!バス来てるよ!乗らなきゃ!早く!」
「えっ!おい!ちょ、ちょっと待てよ!」
さっきとは反対に、唯が私の手を取って走り出す。私もそれに引っ張られるように走った。
バスは近くまで来ているものの、渋滞のせいでなかなか停留所までたどり着かない。
唯って、こんなに足早かったっけ?不思議なくらい早く走っていた。
唯って、こんなに力が強かったっけ?不思議なくらいの力強さで私は引っ張られた。
そうして駆け込んだバスは、目的地とは反対方向へ向かうバスだった。
-
☆
バスは、私たちの住む町とは、逆の方へ逆の方へ、どんどん走っていく。
乗客でいっぱいの車内では、制服を着た女子高生の集団が楽しそうにはしゃいでいる。
私たちも、端から見ればああいう風に見えるのだろうか。
キャリーバッグにギターケースを背負った唯は、一人で二人分くらいの場所をとっている。
他の乗客にしてみたら随分邪魔なはずだが、唯の隣りに立つおばさんは不愉快そうな素振りも見せていないし、唯自身も気を使うこともなく素知らぬ顔をしていた。
「混んでるね、バス」
「………花火大会、どーすんだよ」
「花火見たいの?」
「唯は見たくないのか?」
「見たいの?りっちゃん」
私は諦めて、澪に殴られる覚悟を決めた。
「なぁ…このバス、どこ行くんだよ」
「どこ行こっか。どこでもいいよ。りっちゃんの行きたいとこ」
バスの窓からは、見慣れない町の風景が後ろに消えていく。
「東京?大阪?それとも外国?新幹線に乗って遠くまで行っちゃおっか」
「やっぱり海!海に行く?」
「海に行ってもそこからじゃ花火は見れないぞ」
「そんなこと、行ってみなきゃわかんないことでしょ」
バスが大きく揺れて急停車した。私の身体が唯の方にもたれかかる。
踏ん張ってみたけど踏ん張りきれなくて、もたれかかった私を、唯が受け止める。
「ごめん」
「いいよ」
身体を離すと同時に目を逸らした。
バスが停留所に着くと同時に、一斉に乗客が降りていった。
賑やかな女子高生の集団も、唯の隣りのおばさんも、降りていった。
静かになった車内の、空いた座席に二人して座る。
新たに乗車する客がいないことを確認して、バスが動き出す。
けれど、動き出してすぐに信号に捕まった。
-
赤信号の間、私たちは無言だった。
信号の色が変わり、ゆっくりと動き出す。
「りっちゃん… …怒ってる?」
「…怒ってないよ」
「ほんと?」
「…ああ」
「よかった」
「なぁ…」
「なぁに」
「何があったんだ?何か、あったんだろ」
「ないよ。何もない」
どうしても唯は答えようとしなかった。
その態度が気になって、私は食い下がった。
「ウソつけ」
「ウソじゃないよ」
「この大荷物…もしかして、家出か?」
「ちがう」
「じゃあ何があったんだよ、言えよ」
バスがまた停留所に止まった。
年配の夫婦が乗ってきたのを見て、私たちは席を立つ。
そのあとに続いて、観光に来ていたらしい大勢の外国人の集団が、どっと押し寄せる。
そういえば、観光名所がこの近くにあったっけ。
あっと言う間に再び混雑する車内。
聞き慣れない言語が飛び交う。
人の波にぎゅうぎゅうに押し込まれ、互いに正面を向けば唇が触れてしまうくらい、二人の距離が縮まった。
私より少しだけ身長の高い唯が上を向き、私は下を向いた。
「…家出じゃ…ないよ」
わぁわぁと騒ぐ、観光客だらけのにぎやかな車内で唯が呟いた。
「かけおち、だよ」
-
☆
バスの終点。
東京でも、大阪でも、外国でも、なかったけれど、そこは来たこともない、名前も知らない、聞いたこともない停留所だった。
もちろん、海でもない。
もはやバスに乗っているのは私たち二人だけだった。
今が何時かわからない。けれど、そろそろ周囲が暗くなってきているから、たぶんもう17時はまわっているだろう。
澪、怒ってるかな。
ムギや梓、心配してるかな。
三人には申し訳なく思ったし、心配かけて悪いなと思ってけれど、それ以上に目の前の唯のことが気がかりだった。
けれど、唯は自分から何も言わない。
私たちは、桜ヶ丘に向かってゆっくりと歩いた。
こっちの方向であっているのか、あんまり自信がなかったけれど、バスが来た方に戻って歩いていくしか、私たちにできることはなかった。
唯は何も言わなかった。
唯が何も言わないから、私も何も言わなかった。
腹を立てているわけじゃなかった。
普段バカばっかしてる私たちだけど、時と場合を選んでしているつもりだ。
今の唯には何も言わない方がいいと思った。
いや違う。
今の私には、前を歩く唯になんて声をかけていいかわからなかった。
どうしたら唯が本当のことを話してくれるのか、わからなかった。
なんで今日は様子がおかしいのか、わからなかった。
そんな自分が情けなかった。
でもどうしたらいいかわからなかった。
だからただ何も言わずに歩いた。
少しづつ少しづつ空は暗くなり、宵闇の迫る影が私たちの来た道を飲み込んでいく。
カナカナとヒグラシが鳴く声が聞こえる。
-
突然、唯が立ち止まった。
「…どした?」
「…セミ」
俯いたまま、地面を指差す。
「死んでる」
蟻がたかるセミの死骸を跨ぐのではなく、迂回するように避けて、再び唯は歩き出す。
そのまま今度は立ち止まることなく二人、行き交う人の少ない、知らない道を歩いた。
ドーン
遠くの方から打ち上げ花火の音が響いた。
音だけしか聞こえない。花火は、見えない。
「ごめんね」
「何が?」
「私のワガママのせいで、花火見れなくなっちゃった」
「いいよ」
「みんな、怒ってるかな」
「大丈夫だよ」
「あずにゃんは、怒ってそう」
「あー梓はな…それと澪な」
「ムギちゃん、ケバブ、食べれたかな?」
「どーだろうなー」
「悪いことしちゃったなー…」
「ホントにそう思ってるのかよー」
極力冗談めいた響きに聞こえるよう、つとめて軽く、明るくいつもみたいな調子で、私は笑いながらそう言った。
「半分ホントで、半分ウソ」
そう言って、唯は笑った。
「ねぇ、りっちゃん。卒業した後のこととか、考えてる?」
「なあんにも。第一進路希望用紙すら提出してねーし」
「はは…そうだったね。私もだ。でもね…」
「でも?」
「いざとなったらきっと何でもできると思うんだ」
「何でも…って何すんだよ。卒業したら大学に進学するんじゃないのか」
「そのつもりだけど…でもいつかは働かなきゃいけないでしょ」
「そりゃあ、な」
そのいつかのことは今の私にはうまく想像できない。
働くことも、大学に行くことも、みんな離れ離れになることも。
いつかそうなっちゃうのかもしれないけど、今の私にはうまく想像できない。
今日は昨日と同じで、明日も今日と同じで、同じような毎日がずっと続いていく。
そんな風にしか思えなかった。
「いざとなったら夜のお仕事でもしてみようかなぁ」
「何バカなこと言ってんだ」
「でもお金いっぱいもらえるんでしょ」
「憂ちゃんが泣くぞ」
「憂にはナイショで」
「第一年齢制限とかあるんじゃないか?未成年だろ、私たち」
「年齢なんて誤魔化せばいーじゃん。二十歳、って言ってさ」
「唯にはムリだろー」
澪やムギならともかく、唯にはムリだろ。
下手したら実年齢よりも下に見られたっておかしくないぞ。
「そんなこと ないよ?」
唯は、そう言うとヘアピンを外して、くるっと一回転してみせた。
髪がふわっと揺れて、少し長い前髪が、唯の左目を隠した。
生ぬるい風が吹いて、私の心にざわざわっとした波を立て、過ぎ去っていく。
ああ……唯、髪の毛伸びたんだ。
「りっちゃんがニートになっても、私がちゃんと稼いで、養ってあげるからね」
「……唯のヒモになるほど落ちぶれてねーよ」
何発も連続して、花火が打ち上げる音が聞こえた。
私たちはまた無言になって、歩いた。
歩いた。
-
「あ、あれ見て!」
「駅だ」
「電車、乗ろう」
「…だな」
「今後はちゃんと方向間違えないようにしないとね」
「…お前が言うなよ」
「えへへ…」
近くで鈴虫の鳴いている。
駅には、誰もいなかった。
誰もいない駅で二人、ベンチに腰掛けた。
走ったり歩いたり、バタバタしていたせいで乱れてしまったのだろう、唯の浴衣の合わせの部分が少し広がっていた。
そこから見える鎖骨に汗が流れている。
見て見ぬ振りをした。
「もう少し涼しくなると思ったのに…あっついなー…」
私は立ち上がって二人きり座っていたベンチから離れると、ホームの間際まで歩いて、線路の向こう側を眺めた。
もうすっかり太陽は沈んでいて、線路の向こうは夜の闇に包まれている。
何も見えなかった。電車が来る方も、進む方も。
空を見上げても昼間からずっと変わらず曇っているようで、星一つ見えなかった。
唯は口笛を吹いていた。『冬の日』だった。
「季節外れだな」
「涼しくなるかと思って」
ちっとも涼しくなんかならなかったけれど、唯は笑った。
私も笑った。
静かな、静かな駅のホームには、ヒグラシの音色と鈴虫の音色、そして遠く、花火の音が響く。
それと、唯の口笛。
口笛は風に乗って、どこまでも遠くまで響いていくようだった。
私はもう一度ベンチに腰かけた。ちょっとだけ唯と離れたところに。
すると今度は唯が立ち上がって、ベンチを離れた。
さっきは自分から席をたったくせに、
ちょっと離れた場所に座ったのも自分のくせに、
唯に置いてけぼりにされてしまったように思えて、私はすぐに立ち上がった。
光が射して、電車がやってきた。
-
☆
いつものなじみの駅で電車を降りる。
会場から少し離れているとはいえ、駅周辺も花火目当ての人が大勢集まっていて、いつになくにぎやかだった。
唯は何も言わず、自宅とは反対の方向へと足を進めた。
私はもう、何も聞かなかった。
きっと理由があるんだろう。
話したくないなら、何も言わなくもいい。
今日はもう、とことん唯に付き合おうと決めていた。
そんなことしか、今の私にできることはない。
駅から離れるにつれて、人ごみは少しづつ消えていった。
歩き慣れた道を迷いなく進む唯。
変わらずに、ガラガラとキャリーバッグを引きずる音、カランコロンと下駄の音。
それももう、聞き慣れた。
そのままずっと歩き続け、桜高までやってきた。
唯が校門の前で立ち止まる。
もちろん、校門は閉まっている。
キャリーバッグを置いたまま、ギー太をかついでひょいと門を乗り越えた。
「りっちゃん、カバンおねがい」
「あいよ」
バッグをかついで門の上から唯に渡す。思ったより、軽かった。
続いて私も乗り越える。
宿直の警備員がいるのかどうかわからなかったけれど、なるべく目立たないよう、忍び足で歩みを進めた。
唯がどこに行こうとしているのか、私には検討がつかなかったけれど、どこまでもついていく気持ちだけは変わらなかった。
ヤケになっていたわけじゃない。むしろ、唯に導かれてすっごい冒険をしているような気持ちになってきて、ワクワクしていた。
「ねぇねぇ、りっちゃん」
「なんだ?」
「ドキドキするね、夜の学校って」
「…だな!」
校舎は、見たこともない外国のお城みたいに見えた。
いつもみんながいたずらしている初代校長の銅像は、古の英雄の銅像みたいに勇壮に見えたし、明るく元気に咲き誇る花壇のひまわりは、一年に一度しか花開かない、秘密の花のように見えた。
-
校舎の横を通り抜け、私たちはプールのところまでやってきた。
先を行く唯が、立ちふさがるフェンスをふんすとよじ上って乗り越える。
「よい、しょ……っと」
「暗いんだから、気をつけろよ」
がしがしと勢いよく登ってひらりと飛び降りる唯は、いつもの鈍くささのカケラも見当たらなかった。
校門のときと同じように、フェンスの上からバッグを渡す。
続く私は暗い中、足を踏み外さないよう慎重によじ上って、降りた。
真っ暗な闇が溶け込んだプールの水は、まるで墨汁のように真っ黒だった。
「なんだか泥棒みたいだよね、私たち」
「だよな。バレたらヤバいよなぁ、これ。ゼッタイ」
「さわちゃんに怒られる?」
「いやもっと上の先生に怒られるじゃないか?」
「校長先生?」
「あんまり怖くなさそう」クス
「…でも、泥棒もいいな。卒業したら、泥棒になろっか。私たちふたりで」
「レオタードなんか着ちゃって?」
「そうそう…ってひとり足りないよ?」
「ハハ…そうだったな」
「何を盗む?」
「え?」
「泥棒になったらさぁ。りっちゃんなら何を盗みたい?」
「そうだな………悪いことしてお金を稼いでる、悪徳政治家やブラック企業の社長からお金を盗むぜ!私なら」
「正義の味方だねぇ、りっちゃん」
「はっはっはー!まあな!…唯は?何を盗むんだ?」
「そうだね…」
唯はフェンス際にギー太を置くと、黙ってプールサイドを歩き始めた。
そしてそのまま飛び込み台の上に立つと両手を広げてクルクルッと鮮やかに回転した。
夜空を見上げると、いつの間にか雲は晴れて、月が煌々と照っていた。
天気予報、外れたな。
月の光に照らされながら、回転とともに浴衣の袖がひらひらと揺れる。
ひらひらと回り、暗闇に踊る唯の姿は、浴衣の柄と同じように、ちょうちょみたいに見えた。
「あなたの心を!」
右手をピストルに見立てて私の方に狙いを決めると、射撃の真似をする。
「バーン」
「バカ言ってんじゃないよ」
「なに言ってるのりっちゃん。こんな時間にこんなところでこんなことしてる時点で、りっちゃんだって私と同じバカなんだよ。大バカだよ。私たち」
プールの水面にはたくさんの星が映っていて、まるで夜空がもう一つ増えてしまったようだった。
唯は右足で、プールの水を蹴った。パシャっとしぶきがあがる。
-
「ねぇねぇ、りっちゃん」
「なんだかプールを見てたらさ…」
「泳ぎたくなってきちゃった」
そう言ってするすると帯を外し浴衣を脱ぐと、そのまま勢いよく星空に飛び込んだ。
ザブン
「おい!あんま大きい音を立てると…!」
「りっちゃんもおいでよ!きもちいいよ!」
月の光に照らされて、きらきらと光り、揺れる水面。上半身だけ姿を現して、手を振る唯。
気がつくと、私は誘われるようにしてプールの中に身体を沈めていた。
先を行く唯に追いつこうとして泳ぐけれど、水を吸った着衣の重みのせいか、なかなか唯に追いつけない。
そんな私を見て「早くおいでよ、りっちゃん」と笑う唯。「よーし!」とムキになって追いかける私。
けれど、泳いでも泳いでも唯に追いつけない。まるで人魚のようにスイスイと泳ぎ、先を行く。
捕まえた、と思った刹那、その手を水をかいている。
「あれ?もしかしてりっちゃん、泳ぐの苦手なひと?」
「唯にだけは言われたくねえっちゅーの!」
捕まえようとしても、服を脱いだ唯の姿をヘンに意識すると、急に恥ずかしくなって追跡の手が鈍ってしまう。
私が顔を赤らめているのを見て、「あれ?りっちゃん、もしかして何かやらしいこと考えてる?きもーい」と唯が笑った。
「…このりっちゃんを甘く見ると痛い目に合うぞ?唯」
私は覚悟を決めた。
服を着てるから動きが鈍るんだ。どうぜここにいるのは二人だけ…私はTシャツと一緒に恥じも外聞も投げ捨てた。
遮二無二追いかける私が、やっとのことで捕まえようとすると、唯がビシャッと水を浴びせた。
同じように私もやり返す。
まるで子供みたいな、小学生に戻ったみたいな…ううん、これが私と唯の普段の姿なのかもしれない。水を掛け合って、ふざけ合って、笑い合って…ここが夜の学校のプールだってことも忘れて二人、騒ぎ合った。
そうして騒ぐうち、唯が不意に私の肩を掴んだ。
「つかまえちゃったー♪」
「つかまっちゃったー♪…って私が追いかけてたんですけど」
お互い顔を向き合わせて笑って、それから手と手を握って、身体をぷかっと水に浮かべて、夜空を見上げた。
-
満天の星が降る、夏の夜。見上げた先に、天の川。夏の大三角形。
「澪が言ってたんだけど」
「ホントの七夕は八月なんだってな」
「ふーん」
「本来は旧暦に合わせるべきなんだと。ほら、実際の七月七日は梅雨じゃん。天の川見えないだろ」
「なるほどねぇ。確かに天の川、綺麗だね」
そういえば着替え、どうしよっかなー…ってぼんやり思った。
後先なーんも考えてなかった。
「しあわせだよね」
「うん?誰が?」
「織姫と彦星」
「なんでだよ。一年に一回しか逢えないんだぞ」
「しあわせだよ。だって、一年に一回だけでもゼッタイ逢える、って決まってるんだもん」
「そうか?毎日逢える方がいいじゃん」
「…そだね。……そうだよね。それに七夕の日が曇っちゃったら、逢えないしね」
唯が私の手をぎゅうっと強く握った。
「さみしいね」
「………いーや、もしかしたら」
ずっと夜空を見上げていた唯が、こちらを向いた。
「雲に隠れて見えないだけでさ、みんなにナイショでこっそり、ふたりだけで逢ってるかもしれないぞ〜?」
私も唯の方も向いた。深く澄んだ唯の瞳に映る、私の姿。
「……そうだね。そうだと、いいね。もしそうなら、すっごいしあわせなことだよ。うん」
「そうだな」
「うん……うん……」
唯は自分に言い聞かせるように、力強く頷いた。
「それに…なんだか
いまのわたしたちみたい」
「…そうだな」
-
ドン
ドンドン
ドドン
ドン
花火が打ち上げる音が聞こえた。
まだ花火大会やってるんだな。そういえば今日だったな。
同じ日の、同じ町の、ここからついちょっと先で行われているはずの出来事が、遠い国の、遠い過去か未来か、どうか自分たちと全く別の世界で起こっている出来事のように思えた。
私と唯。
まるで私たち二人だけが、別の世界に、二人だけの世界に紛れ込んでしまったみたいだった。
「花火、見られてよかったね。あずにゃん達もどこかでこの花火見てるかな」
私たちは同じ世界にいる。
別々の世界に別れ別れになっているような気がしても、同じ空の下、私たちはつながっている。私と唯が今、ここから見上げた花火を、澪やムギや梓も、どこか別の場所で、きっと見ているに違いない。
「それぞれみんな離れたところにいてもさ。同じ空が見上げてる、って思うと、嬉しいよね。つながってるような気がする、っていうか…離れててもいっしょにいる、っていうか…。う〜ん、なかなかうまく言えないんだけど」
「…だな」
「みんなもそう思ってくれてるといいなぁ」
私だってうまくいえやしないけど、たぶん今私が考えてることと唯が考えてることは結構近いと思うぞ。きっと他の三人だってそうだ……と、思いたい。
「りっちゃん」
「なんだ、唯」
「ありがとね」
「いいってことよ」
「私をけいおん部に誘ってくれて」
「え、なに?そこ?いま、いきなり??今日のことじゃないのかよ」
「あ、いや勿論今日のこともありがとね!…でもけいおん部に誘ってくれたことはもっと感謝してるんだ。
だって、りっちゃんが無理矢理にでも誘ってくれなきゃ、私、けいおん部に入ってなかったもん。
今日も、今までも、これだけ楽しいのは、りっちゃんのおかげだよ」
「私だけじゃないだろ?」
「もちろん、澪ちゃん、ムギちゃん、あずにゃん、さわちゃんのおかげでもあるけど…でもね」
私の瞳を見据えて唯は言った。
-
ドン
「りっちゃんに一番感謝してる。全部全部…私にとっての『たのしい』のはじまりは、りっちゃんだったから。りっちゃんのおかげだよ。ありがとう」
大輪の花火が夜空に咲いた。
「…よ、よせやい!きもちわりぃ!」
「き、きもちわるい…」
唯の『たのしい』が始まりが私、か。
でも私だって、唯からいっぱいいーーーーーっっぱい『たのしい』をもらってるぞ。
そのことをすっごく感謝してる、唯と出逢えてよかったって思ってる。
それを伝えようと思ったけれど、なんだか恥ずかしくって。唯の目を見てらんなくて、私は顔を真っ赤にしたまま、また目を逸らしてしまった。
「あ、悪い、ヘンな意味じゃ…そ、それに楽しいのは今日や今までだけじゃないぞー!明日もこれからも楽しくしないとな!」
「そうだ、ね」
「そうだぞ。二学期は学祭ライブがあるからな!高校生活最後のライブだぞ、頑張ろうな!」
「うん。がんばろうね」
そういうと唯はいきなりぎゅっと抱きついてきて、私の身体をつよくつよく抱きしめた。
突然のことに私はどうしていいのかわからなかったけれど、長くプールに浸かっていて大分と冷えていた身体が、奥の方からカーッと熱くなっていくのがわかった。
唯の胸の心音が、どくんどくんと聞こえてくる。
きっと私の心音も、唯に聞こえてる。
夜空には、どぉんどぉんと響く、打ち上げ花火。
「ありがとうの言葉だけじゃ、伝わらない気がしたから」
ふっと唯の力が揺るんで、両手が私の身体から離れた。
私は、唯を抱き返せなかった。
もし二人がつよく互いを抱きしめ合ったら。
暗い夜の水の中、二人の居場所だけを月の光に照らし続けたら。
二人そのまま、心と身体も溶けて一つになっちゃったかもしれない。
-
「りっちゃん、私、もう行くね」
「…あ、も、もう上がるのか。じゃあ私も…」
「ううん。私、先に行くから」
「え、なんだよ。急に」
「私のキャリーバッグの中に着替えが入ってるから使って。たぶんサイズおんなじくらいだから問題ないと思う。ついでにバッグをもあげる!持って帰ってくれると助かるな」
「お、おい!唯は着替えどーすんだよ…」
「私は浴衣着て帰る。濡れてないから大丈夫」
「いや、浴衣が濡れてなくても身体は濡れてるだろ!」
「ダイジョブダイジョブ……あ、それとバッグの中に小さい箱が入ってると思うんだけど、その箱は明日になるまでゼッタイに開けちゃダメだよ。でも明日になったら必ず開けてね!約束だよ!」
「なぁんだよそれぇ〜。ややこしいなぁ…」
「いいから!約束!」
唯が小指を差し出して、私も小指を出して
「ゆーびきーりげーんま〜ん う〜そつーいたーらはーりせーんぼーんの〜〜ばすっ ゆぅびきった!」
指切りを終えると、唯はそのまま泳いでいき、プールサイドに上がった。
月の光に照らされながらこちらを振り向いて唯は言った。
「今度逢えるの 二学期だね 楽しみだね」
月明かりが眩しくて、唯の顔はよく見えなかったのだけれど、きっと笑っていたと思う。
そうして唯は、目映い光の中を消えていった。
もうひとつの夜空にも月が浮かんでいて、水面が揺れるのに合わせてぐにゃぐにゃと形を変えていた。
-
☆
唯から預かったキャリーバッグをガラガラと引きずりながら、私は通学路を自宅に向いて歩いていた。
幸いにして夜の学校に侵入した件は、誰にもバレていないようだった。
「おい、律!」
聞き馴染んだ声だなと思って振り向くと、澪だった。
ムギと梓もいっしょにいる。
「お前、どこ行ってたんだよ!」
「ああ、悪い…」
「心配してたんですよ!約束の時間になっても来ないし、連絡は取れないし…」
「ケータイ忘れちゃってさ…」
「まったく…唯といい律といい…」
「…っと、唯…も、もしかして来てなかったのか?」
私は人ごとのように聞いた。
「ああ…待ち合わせの時間ちょっと前にメールが来てな。夏風邪だって。通りで今日、様子がおかしいわけだよ」
「そ、そうか…心配だな」
なんだよ唯のヤツ。ケータイ持ってきてたんじゃないか…。
それにしてもいつの間にメールしてたんだろう。ずっと一緒にいたけれど、そんな様子はちっとも見られなかったはずだけど…
「りっちゃん、もしかしてひとりで隠れてケバブ食べてたんじゃ…」
「いんや。食べてねーよ」
「じゃあどこに行ってたんですか?」
「うん…まぁ…その、な」
『ふたりだけのヒミツ』と約束した以上、言わない方がいいだろう。
ムギと梓は随分気になっているようだったけれど、言い淀む私の様子を見て、澪は何か理由があるのだろうと察してくれたのか、あまり深くは追求してこなかった。鉄拳一発喰らったけど。
-
「ところでそっちは花火、ちゃんと見れたのか?」
「見ることは見れたんだけど…人が多くてぎゅうぎゅうだったせいではぐれちゃって…」
「花火見ながらお互い連絡取り合って、さっきやっと落ち合えたんです」
「人が多すぎてケバブ売り切れて食べられなかったの…」ショボン
そっか。みんな、なんだかんだちゃんと花火見れてたのか。
みんなそれぞれ別のところにいたって、同じ花火見てたんだな。
唯、やっぱり私たちけいおん部はつながってるぞ。みんな離れたところにいたって、同じ空を見てるんだ。唯にちゃんと教えてやらないとな。
そうそう、それと今日恥ずかしくって言えなかった感謝の言葉もいつかちゃんと言わないと…ぎゅうってやるのはちょっと無理かもだけど…。チャンスを見て、そのうち。
大体『今度逢えるの二学期』ってなんだよ、唯。明日は私の誕生日だからみんな集まろうって前々から言ってたじゃんか。まさかアイツ。忘れてるんじゃねーだろーな…もしそうなら寂しすぎるぞ!
-
―
――
―――
――――
―――――
――――――高校三年生、17歳の夏が終わりを迎えようとしていた。
それは、去年と、一昨年と、変わらない夏だと思っていた。
今日できなかったことは、明日やれるって思ってた。
昨日も、今日も、明日も、同じような毎日が続くと思ってた。
宿題?明日やるよ。練習?明日頑張るからさ。
でもそうじゃなかった。
この夏は、今、この時にしかないんだってこと。
もう二度と、巡ってこないんだってこと。
今日という日は二度とやってこないってこと。明日とは違う日だってこと。
その時伝えなきゃいけなかった言葉は、チャンスを逃せば二度と伝えられないかもしれないんだってこと。
そんなこと、気づきもしなかった。
一度きりの夏。17歳の夏。
10年経って、20年経って。
私は振り返るたびに、なんで、あのとき、ああしなかったのか。
なんで、あのとき、きちんと言葉にして伝えなかったのか。
なんで、あのとき、目を逸らしてしまったのか。
なんで、あのとき、抱き返さなかったのか。
もう一回、演奏しようって言われてそうしなかったのか。
無理にでも…海にいくべきだった。
ずっとずっと、後悔することになる。
なにが「今度逢えるの二学期」だよ。
嘘、つくなよ。
約束、破るなよ。
-
9月1日。
教室の一番隅、最後尾窓際の席は、空席のままだった。
チャイムが鳴り、さわちゃんが入ってきても、空席のままだった。
次の日も、その次の日も。
私たちが卒業するその日までずっと、空席のままだった。
それから今に至るまで、私は七夕の日が来るのを待ち続けている。
私の知らない、遠い国に行ってしまった織姫が、帰って来る日を待ち続けている。
もし、彼女が帰ってきたら。
天の川の向こうに彼女の姿が見えたら。
私は川を渡り、あの日、伝えられなかった言葉を伝えなきゃならない。
それからみんなでお茶をしよう。
ムギの持ってきたケーキを食べよう。
お茶は私が淹れる。部長直々に淹れる紅茶だぞ?ありがたく飲めよ〜。
私がバカな冗談言ったら、いつもみたいにちゃんと乗ってきてくれよ?
一緒に澪に叱られようぜ。
梓が怒り出す前に練習はじめよう。みんなで一緒に演奏しよう。
ドラム、まだ続けてるんだぞ。だからばっちりセッションできるぜ。
何の曲がいい?
ふわふわ?ふでペン?ホッチキス?
『冬の日』がいいか?あの日、口笛吹いてたもんな。
今なら大丈夫、恥ずかしがったりしない自信があるよ。
それから…それから…。
海に行こう。
行きたいって言ってたもんな。
もちろんふたりで。
澪にも、ムギにも、梓にもナイショで。誰にもナイショで。
誰もいないときに行こう。
海をひとり占め…いやふたり占めしよう。
たくさん泳いで疲れたら、夜の浜辺に寝そべって、花火を見よう。
静かな夜の海。
打ち上がる花火。
満天の星。
流れる天の川。
輝く月。
私の指には、あの日もらった指輪。
あの日と変わらない、私たち。
ちゃんと、覚えてるんだぞ。
そうして、私は待っている。
ずっと。今も。
………でもそれは、これから先の話。
このときの私は何も知らない大バカだった。
いつかそう遠くない未来、そうやって後悔することも知らず、夜空を見上げ月明かりに照らされて、ダラダラと歩く、17歳最後の夜。
満天の星が降り注いでいた、
17歳最後の夜。
私と唯が過ごした、最後の夜。
了
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以上です。
ここまでお読み頂いたみなさま、どうもありがとうございました。
このSSは「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」という映画を下敷きに書かせて頂きました。
ちょっと早いですが、りっちゃん誕生日おめでとう。
これからも元気いっぱい、明るく楽しいりっちゃんでいてね。
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