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りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり
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閲覧不要
※注意
閲覧を強く非推奨
「律の新たな一面を見る為ならば、
どのような描写があろうと構わない。
他キャラの扱いも問わない。
マニアックな場面があっても許容できる」
このくらい、律に思い入れがある方でない限りは、閲覧を絶対にお控え下さい。
また、読まれて少しでも不快になった場合、すぐにこのスレを閉じて下さい。
それでは以下より、本編です。
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眼前に置かれた鮮やかな黄金色の米飯は、見ているだけでも飽きない。
ただ、見ているだけでは足りなかった。
中野梓は不作法を承知で、鼻を近付けて嗅ぎ込んだ。
蜂蜜の匂いに似た、甘い香りが鼻腔を衝く。
隣では平沢唯も鼻を近付けているが、行儀を気にする様子はない。
却ってその気取らない仕草が、不作法ではなく可愛らしさを彼女に添えている。
逐一の所作を意識してしまう梓では、こうも自然にはいくまい。
「おー、ススキみたいな色なのに、爽やかな芝の香りがするねー」
その唯の口からは、梓とは別の感想が漏れていた。
ススキよりは色が濃いと思うものの、香りに関しては唯の言う事にも一理ある気がする。
それは自分の嗅覚に対する不信ではなく、この香りを定義する事の困難の故だろう。
この香りを憂や澪、律はどう表現するのだろうか。
作法に則って前屈みの仕草だけで匂いを嗅ぐ彼女達へと、梓は横目を走らせた。
澪と憂は、この匂いに顕著な反応を見せていた。
澪は何か思い当たる事でもあるのか、怪訝を表情に浮かべている。
一方の憂は萎縮しきった視線を、料理の提供者である紬へと向かわせていた。
「これ、サフランライス、ですよね?」
憂の口から放たれた遠慮がちな声が、梓の耳朶を叩く。
「サフランっ?」
梓の口から、反射的に上擦った声が吐き出される。
その名や特徴は知っていても、匂いを嗅いだ事は初めてだった。
「これが?」
澪も驚いてはいるようだが、憂や梓とはその種類を異にする声調だった。
拍子抜け、と言いたげな内心が調子の下がった語尾に表れている。
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「サフラン?何それ?美味しい物なの?」
唯は知らないらしく、座に視線を巡らせながら問いかけてきた。
「何言ってるんですかっ。とっても、とっても高価な香辛料なんですよ?
1gで1000円もするんです、1000円っ。
綺麗な黄色い色と、芳しい香りを料理に添える、貴重な香辛料なんですよっ?」
梓は無知な唯よりも、無感動な澪に言い聞かせてやりたい思いで捲くし立てる。
姉のように慕い尊敬している先輩だけに、風雅を解さない澪の態度には幻滅した思いだった。
その怒りが激する声調となって、奔流のように梓の口から迸っている。
「1gで1000円っ?ふわぁ、高いんだねー。いいの?ムギちゃん」
唯は口にしている物の価値が分かったらしく、珍しく畏まった様子を見せた。
稀少性や世に通底する評価を啓蒙していては、得られなかった反応だろう。
雅趣に疎い即物的な人間には、換価して示してやった方が価値は伝わり易いものだ。
ただ、梓の本来の目的であった澪には、それでも通じなかったらしい。
澪の顔が動揺に歪むような事はなく、端正な面立ちを保ったままだった。
「家族だけで使うのも勿体なくて。
普段から仲良くして貰ってる皆にも、味わって欲しかったの」
最初の言葉こそ気を遣わせまいとする配慮だろうが、後の言葉は本心に違いなかった。
紬は家が金持ちである事を鼻に掛けたりするような人間ではない。
自慢したいが為に振る舞ったのではなく、純粋に友情の故なのだ。
梓は価値を伝える便宜の上でこそ換価したが、金銭では量れない紬の厚意を感じ取ってもいた。
「ありがとー。私、初めて食べたよー。
ん、ねぇ、憂。初めて、だよねぇ?」
「初めてみたいなもの、かな。
強いて言うなら、パエリヤ作った事あったでしょ?
あの時使った市販のパエリヤの素の中に、サフランも原材料として入っていたはずだけど」
唯の質問に答えていた憂の顔が、紬へと向く。
「でも、入っていた量は僅かなものだったみたいです。
ここまではっきりした風味は感じませんでしたから。
なんか、私まで貴重な体験をさせて頂いて、有難うございます」
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「いいのよ。憂ちゃんにだって、お世話になった事あるから。
下級生にチケット撒く時、お手伝いしてくれたじゃない」
紬に淑やかな顔で返されて、憂も気後れが解れたらしい。
スプーンを繰る手が滑らかになり、自然な笑みの浮かんだ口元にサフランライスが運ばれる。
梓は健啖な憂の食指に、持て成す紬の配慮が齎した和やかな雰囲気を見て取っていた。
ティータイムのような気安さに、梓も倣って二口三口と口腔に放る。
紬が望んでいたであろう、穏やかで優しい時間が鼻の奥で感じ取れた。
「でもさ、この値段は高いよな。
これならもっと安価で、そっくりな風味も味も作れるよ」
暖かい雰囲気に冷や水を浴びせるような低い声が、空気を引き裂く。
梓は思わず顔を顰めて、発言者の澪を見遣った。
「そんな事ないと思いますよ。
私だって今まで長い事料理してますけど、こんなに風味のいい香り付けなんてできませんでしたし」
憂も気分を害したらしく、語気鋭く澪に噛み付いていた。
料理に無縁な澪の審美を、暗に嘲っている事にも梓は気付く。
穏やかな憂にしては珍しい態度だが、梓は驚きよりも共感の念を抱いていた。
紬の配慮を無下にされた怒りは、梓とて同じなのだ。
睥睨で以て憂に与そうと、澪へと向けている双眸に力を込める。
「りっ、りーっ」
憂の言葉と梓の視線を遮るように、律が澪の前に立って吠えた。
澪が責められている状況を見過ごすつもりはないらしい。
だが、飼い主を守る犬のような仕草も、梓を怯ませるには迫力が欠けていた。
小柄な律では、虚勢を張って吠える子犬にしか見えない。
「分かったよ。論より証拠、だ。明日、それを振る舞うからさ。
それを実際に食べてみて、サフランライスと同等のものが安価に作れるか、皆が判断すればいい」
憂並びに梓と、対する律の間で険しい視線が行き交う渦中。
当の澪が、声から力を抜いて言った。
憂の剣幕に驚いたのか、律の健気な姿勢に心を打たれたのか。
梓には判断が付かないが、澪に口論する気はないらしい。
ただ、撤回する事もなかった。
だから梓は澪の提案を、挑戦と受け止めて返す。
「そうですね、是非とも実証して頂きたいものです。
口論していても埒が明きませんし。
憂もそれでいいよね?」
「うん。あそこまで言ったんだから、実際に現物を拝ませて貰わないとね」
梓に返答しつつも、憂の瞳は澪を見据えたままだった。
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「じゃ、明日の昼頃、私の家に来てくれ。
皆も予定は大丈夫か?」
年下の挑戦的な態度に気分を害した風もなく、澪は紬と唯に視線を転じて言った。
「ええ、明日は空いてるの。楽しみにしてるわー」
「私も大丈夫だよー。えへへ、美味しい物を食べられるなんて、楽しみー」
梓は先に返答した紬の声が、震えを帯びている事に気付く。
紬と唯、二人ともが『楽しみ』と言いつつも、込められたニュアンスには大きな隔たりが感じられた。
「よし。じゃあ、決まりだな」
澪は紬の微細な変化に気付く風も見せず、サフランライスを掻き込み始めた。
その遠慮のない動作は、希少な食物を味わう態度には見えない。
有り触れた料理を口に入れる無心さそのものだ。
「ごちそうさま」
梓が半分も食べ進めていないうちに、澪はそう言ってスプーンを皿に置いていた。
追随して、律がスプーンを繰る速度も上がる。
「急がなくていいぞ」
澪が律を気遣って言うが、梓は紬を気遣って欲しかった。
律が澪に遅れた理由は、味わうが故に緩やかに食む梓達とは異なるものだろう。
小柄で口も小さく小食な律は、食を進める速度も必然と遅い。
その体躯に依る制限を除けば、律も澪と同じ側に属しているのだ。
この高価な料理に対する敬意など、幼馴染の二人揃って持ち合わせていないらしい。
流石に気が合っていますね、と。梓は皮肉ってやりたい気持ちだった。
今まで褒め言葉として使っていた表現が、牙となって口を衝かんと梓の胸で燻る。
「りー」
梓が皮肉の衝動を堪えているうちに、律も食べ終わっていた。
ごちそうさま、に代えて鳴いたのだろうが、その声は紬に向いていない。
顔と共に、澪へと向いている。
紬に対する感謝よりも、澪に食事の終了を伝える事の方が重要らしい。
「食べ終わったか。じゃあ、お暇するよ。明日を楽しみにしててな」
「りーりー」
食事途中の面々に構う事無く、澪は退室の挨拶と共に席を立っていた。
律も倣って梓達に手を振り、澪の背を追う。
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「うん、じゃーねー。明日、楽しみにしてるよー」
部屋から出て行く二人に応えた者は、唯だけだった。
唯一人の声に押されるようにドアが閉まる。
梓が窺っていた限り、澪と律から無言の抗議に気付いた素振りは見られなかった。
「は、確かに楽しみね。どうせ、バターで炒めたターメリックライス辺りでしょうけど」
足音が遠のいた後で、紬が嘲りを声に含めて呟いた。
「ターメリック?」
唯が無邪気に首を傾げる。
普段通りの爛漫な反応でしかないのに、梓は新鮮な印象を受けていた。
初めて知った唯の一面であるかのようにさえ感じられる。
険悪な雰囲気の中の場違いな仕草が、そう思わせているのだろうか。
「ウコンよ」
唯の疑問を受けて、紬が言葉短く答えた。
まだ怒りが冷めやらぬのか、丁寧な対応をする心の余裕などないらしい。
「ウンコ?」
唯の首が再び傾いだ。梓は我が耳を疑う事も忘れて、反射的に叫ぶ。
「ゆっ、唯先輩っ」
「おっ、お姉ちゃんっ」
窘めるような憂の声が続く。
その声を聞き終わった頃には、梓は唯の意図に気付いていた。
考えてみれば、如何に唯とはいえ直接的に品のない発言をした事はない。
驚きのあまりその思考が追い付かず、声が先行してしまっていた。
だが、今なら分かる。
唯は険悪となった場を和ませようとしていたのだ。
思えば、去りゆく澪と律に一人挨拶を返した者も唯だった。
だが、気付いたところで、賛同できるかは別問題である。
唯の心意気は買うにせよ、あの二人を許す気にはなれない。
「まぁ、そんな所かしら。サフランに比べたら、そのくらい格が違うもの。
排泄物を振る舞われるくらいに思ってもらって、差し支えないわ」
言いながら、紬の頬に嘲笑が浮かぶ。紬の怒りは、梓以上らしかった。
唯の品のない表現さえ、澪と律を謗るレトリックへと転用している。
「明日が、楽しみですよね」
瞳に瞋恚の焔を滾らせ、憂が続いた。
唯だけが、戸惑ったように瞳を右往左往させている。
梓は緊張の緩和に助勢するつもりはなかったが、義憤に駆られない唯を詰る事もしなかった。
梓とて澪と律に対する激しい怒りはあれど、この限りで関係を断とうとまでは思っていない。
そうなると、一人くらいは中立の立場で居てくれた方が有り難い。
関係を修復する役が居るからこそ、梓達は存分に怒る事ができるのだ。
だからこそ明日は、今日のように我慢はしない。
澪が馬脚を現し次第、存分に罵ってやる積もりだった。
「うん、楽しみ」
梓も二人に与する発言をしながら、今度唯に甘い物でも奢ってやろうか、と思った。
-
*
翌日、梓達を迎えた澪の顔には余裕があった。
「ああ、揃って来たか。準備はもうできてるよ。すぐに食べさせてやるな」
昨日の澪の態度は、失言を繕う過程で引くに引けなくなったものだろうと。
一晩経てば、泣きを入れてくるだろうと。
そう思って、ここまでの道程を歩んできた梓は拍子抜けの思いがした。
「お邪魔しまーす」
呆ける梓を余所に、唯が先に立って澪の家の敷居を跨いでいた。
「あ、お邪魔します」
喧嘩を買いに来たのに、劈頭から闘志を抜かれている訳にもいかない。
梓も唯に倣って、敷居を跨ぎ敵地へと乗り込む。
「お邪魔します」
後方から憂と紬の声が被って聞こえて、ドアの閉まる音が聞こえた。
その音が梓には、監獄の檻を閉ざす音のように重々しく響く。
啖呵を切って引き返せない者は、澪のはずなのに。
気を飲まれては負けだ。梓は弱気に傾いた心を努めて奮い立たせると、三和土に靴を揃えて置く。
隣には、見慣れた律のブーツもあった。
役者は揃っているらしい。
「ああ、律も来てるよ。キッチンで皆を待ってる。こっちだ」
梓の視線に気付いたのか、澪は先導する前に説明を前置きしていた。
「ええ。律先輩も居なければ、話になりませんからね」
澪の背を追いながら、梓は語勢を強めて言う。
律は昨日、澪の側に立って自分達に牙を向いていた。
彼女も当然、梓にとって裁きの対象である。
直接的に紬の好意を無下に扱っていないとはいえ、澪に与した以上は逃亡を許すつもりなどなかった。
「ああ、そうだな。律が居ないと話にならない。
梓、もしかして、分かってるんじゃないのか?」
凄む梓とは対照的に、澪の声音は楽しそうに弾んでいた。
その態度も、言葉も、全てが梓の疑念を誘う。
「何を」──分かっているって言うんですか?
問おうとした時、澪が立ち止まって振り向いた。
キッチンに付いたらしく、澪の顔越しに卓へと付いている律の顔が覗ける。
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「さ。好きな席に座ってくれ。すぐに振る舞うから」
澪は梓達に指示すると、炊飯器へと歩いて行った。
梓は言いそびれた疑問を飲み込んだまま、言われた通りに席へと着く。
憂や唯、紬も卓を囲んで座った。
澪を見遣ると、炊飯器から黄色い米粒を椀へ盛り付けていた。
匂いを拡散するかのような湯気が立ち昇り、芳しい香りが梓の鼻腔にまで届く。
紛れもなく、昨日味わったサフランの香りだった。
「いい匂いだねー」
鼻のいい唯が満悦の声を上げる。
「だろう?ほら、味も確かめてみな?」
トレーから、卓へと。黄色い米飯が盛り付けられた椀を、澪が移してゆく。
梓は各々の席へと、それを回してやった。
最後に自分の分を確保してから、目を眇めて観察する。
炊飯器を使った以上、バターで炒めたターメリックライス、という紬の予想は外れたらしい。
尤も、昨日のサフランライスと違う点もあった。
昨日のもの以上に、濃い黄金色が映えている。
香りもまた、炊飯器から梓の位置まで届くこちらの方が強い。
後は、味がどうなっているのか。
梓は箸を手に取ると、口に運んでみた。
「美味しいっ」
意図せず、口から感嘆の声が漏れていた。
品のある味わいは同様だが、昨日のものに甘みが加味されている。
周りを見れば唯は言うに及ばず、紬や憂も顔を蕩けさせていた。
負けを認めたも、同然の顔である。
だが、まだ敗北が決定的となった訳ではない。
「確かに、美味しいです。でも、本当にこれが、サフランよりも安く作れるんですか?」
味わい続けたい欲求を堪えて、梓は得意気な澪を難じた。
澪は昨日、サフランよりも安価にこの風味を再現してみせる、と豪語していた。
高価な材料で作ったのであれば、澪は約束を履行した事にはならないのだ。
──勿論、等価の材料で作ったとしても。
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「なるほど。こうきた訳ね。澪ちゃん、無理したんじゃない?
この濃度を出す程、サフランを注ぎ込んだんだから、相当痛い出費だったんじゃない?」
加勢してきた紬が、梓の言いたい事を代弁してくれていた。
「サフランなんて使ってないよ」
澪の顔から、勝ち誇る様子は消えていなかった。
どうせ演技だろう。梓はそう見込むと、追撃の言葉を放つ。
「じゃあ、レシピを公開して下さいよ?材料は何を使ってるんです?
そしてそれは幾らなんですか?」
「そうですよ。澪さんは、サフランより安い、って言っていたじゃないですか。
コストまで明示して、漸く澪さんはそれを証明した事になるんですよ?」
憂も語勢を強めて、澪に言い寄った。
「安いって言うか、無料だよ。非売品だけど、身近な材料で作れる」
「非売品ですって?」
紬が声音で澪を嘲った。胡散臭い言葉だという思いが、言外に込められている。
梓も追い討ちを掛けて言い募る。
「それ以前に、どうして完成品だけ食べさせるんですか?
作る所から見たかったです。そうすれば、手早くQEDだったのに」
「早く味わってもらいたかったし、タイミングの問題もあるからな。
いつでも作れるって訳じゃない。作れるタイミングになったら、目の前で実演するよ」
苦しい言い訳だと、梓は思った。
尤も、苦し紛れの逃げ口上に終始しながらも、なお表情から余裕を消さない澪は大したものだとも思う。
目立つ事を嫌う性格から察して、余裕のない人間だと思っていた。
「あら、それは何年後の話になるのかしらぁ?」
抑揚の込められた底意地の悪い声で紬が煽る。
聞いている梓まで溜飲が下がるようだった。
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だが、当の澪に神経を逆撫でされたような様子は見当たらない。
「そんな先の話じゃないよ。今日中……そういえば律、例えば今は大丈夫か?」
紬の皮肉に苦笑で応じた澪の視線が、律へと向く。
「り」
「そっか、そうだよな。結構、時間経ってるもんな」
律の小さな首肯を受けて、澪が一人納得したように顎を上下させながら言った。
追い詰められているだけだと、梓は思う。
本当なら、澪は有耶無耶にしてしまいたかったのだろう。
だが、怒りに荒ぶ紬は、その思惑を許しはしなかった。
今から実演すると言ってしまった以上、澪の詰みは近い。
律の協力を得ているかのような口振りも、哀れな悪足掻きでしかないだろう。
或いは、断罪を目前に、律も共犯だと強調する狙いがあるのか。
もしそうなら、律を売ってまで保身に走る澪へと、梓は渾身の嘲罵を浴びせてやるつもりだった。
このまま顔に嘲笑が貼り付いてしまっても構わないくらい、嘲弄の限りを尽くして蹂躙してやる──
「りっちゃんが作ったの?」
今まで黙っていた唯が口を挟んできた。
「いや?律の協力が不可欠ってだけだよ。材料にね」
炊飯器から取り出した内釜に、米を入れながら澪が答えた。
材料に律の協力が必要など、有り得る訳もない。
嘘に嘘を重ねるから、言動に破綻を来してくる。
質問した唯も澪の返答に首を傾げ、怪訝を露わにしていた。
梓達の冷めた視線に気付いた風もなく、澪はシンクの前に立って米を研いでいる。
憂などは焦れたように、テーブルの上で指を盛んに組み替えていた。
梓は溜息を堪えて、分かり切った結果を待つ。
「このぐらいでいいな。律、出番だぞ」
研がれた米の入った中釜をキッチンの床に置いて、澪が律に呼び掛けた。
対する律は、顔を俯かせてしまっている。
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「律?」
「りぃー」
再度の澪の呼び掛けに答える律の声は、細く弱い。
澪より先に、律の方が白旗を振ったか。
そう思い瞳に収めた律の顔色は、赤かった。
表情を伏せてはいるが、目元から頬に掛かって走る朱の斜線が確かに覗ける。
断罪を恐れた顔色ではない。羞恥の顔色だ。
負けを認める事が恥ずかしい故、だろうか。
それとも──他の理由で恥じらっているのだろうか。
「ほら、律、恥ずかしがってないで。
皆の見ている前でやらないと、意味が」
「やらないのではなくて、できないんじゃなくって?
こんなのに付き合わされて、りっちゃんもある意味被害者かしら?」
言い掛けた澪を遮って、紬が言葉を被せた。
澪の無茶な指示に律が戸惑っている、紬は状況をそう読んだのだろう。
ただ、梓には律が躊躇っているようにしか見えなかった。
紬は状況だけ見て、律を見ていないのだ。
「りっ」
紬に煽られて、律も葛藤に決着が付いたらしい。
覚悟を決めたように短く鳴いて、小さな体を起こしていた。
顔は相変わらず赤いが、進む足取りに迷いは見られない。
その歩みが、中釜の前で止まった。
そして律の手が──
「何をしているのっ?」
絶句してしまった梓を代弁するように、紬が叫んでいた。
驚いた事に、律はスカートを下ろしたのだ。
そうして、ショーツにも手が掛かる。
「りっ、律先輩、何をっ」
息も絶え絶えに、梓は叫ぶ。
驚愕のあまり、断続的に言葉を紡ぐ事で精一杯だ。
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「まぁ、私達を信じて、静かに見てろよ。サフランに似た風味の材料、見せてやるから」
澪だけが、冷静な対応を見せていた。
慣れているような揺らぎのない態度が、澪の発言に真実味を添える。
「りっ、りーっ」
性器を晒して炊飯器に跨った律の尿道から、黄色い液体が噴出した。
「はぁっ?」
梓の口から、意図せずして頓狂な声が飛び出た。
何をしている、何を。混乱する思考が、それ以上の言葉を編み出させない。
だが、論理ではなく、感覚が理解する。
これは、この匂いは──
「何を自棄になっているんですかっ?
そこまでするくらいなら、嘘だったって、謝ればいいじゃないですかっ」
憂の放つ悲鳴のような叫び声が、梓の鼓膜を深く衝く。
だが、それ以上に強く衝かれている鼻腔が、憂の言葉を額面通りに受け取らせてはくれない。
見るだけならば、憂の言う通りに自棄になっただけだと思えただろうに。
サフランの香りさえ、漂ってこなければ。
「いや、実際にこれが材料なんだよ。証拠に、匂いを嗅いでみろよ。
この色合いを見てみろよ。
律のコンディションによって違いが出るから、完璧に一致まではしないだろうけれど。
でも、同種のものだってくらい、分かるはずだろ?」
澪の言う通りだった。憂の言う事を信じたい。だが証拠は全て澪だけが提出している。
「ふざけないで……そんなものが、材料になる訳ないじゃない」
震えた声で紬が言う。つい先程までとは、心象が逆転してしまっていた。
紬の態度は、強がって悪足掻きをしているようにしか見えない。
その儚い抵抗も、これから澪が実証によって粉砕してしまうのだろう。
律の尿に浸されたライスを炊き、今卓上にある黄色い米飯と同じものを提供する。
以って、澪の口からQEDが宣告されるに違いなかった。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。っていう事は……」
紬よりも一層震えた声で、唯が口火を切る。
気付いてはいけない事に気付いてしまった。その後悔が痛い程に伝わってくる。
だから、黙って欲しかった。梓にとって”それ”はあまりに酷で、突き付けられたくない現実なのだ。
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「さっき一口二口と食べたこのサフランライスは」
梓の願い虚しく、唯の口から震えた声が零れた。
黙れ。言うな。言うな。言うな。
梓は心の中で強く強く念じた。お願いだから言わないで下さい。それ以上続けないで下さい。
黙れっ。
「りっちゃんのおしっこで」
「違うっ。尿なんかじゃないっ」
唯の言葉を遮った金切声が、キッチンを劈いた。
救いを求める思いで、梓は声の主へと視線を向ける。
梓の視界を占めて屹立する澪が、頼もしい堅牢な城壁にも見えた。
「律は天使なんだよっ。天使が排泄なんかするかっ。
私達みたいな人間風情と一緒にするなっ」
「いや、だって、今現に……」
吠える澪に気圧された風を見せつつも、唯が事実で以て立ちはだかった。
そう、澪の言に縋るには、その事実が邪魔だった。
梓の脳裡にも刻み込まれている映像は、律が紛れもなく排泄した事を証している。
「あれは尿じゃない。りしっこ、って言うんだ」
梓は弾かれたように背筋を伸ばした。
特殊な性癖を持っておらず衛生観念も正常な梓にとって、尿を摂取したなど耐えられない事だ。
だが今、眼前には蜘蛛の糸が垂らされている。
そうだ、あれが尿でないならば──自分は性的にも衛生的にも狂った事はしていない──
梓の視界の端、律が恥ずかしそうに頬を染めて俯いている。
りしっこ、という言葉に羞恥を衝かれたらしい。
その可憐な姿を、焦点に捉える。
この可愛らしい生き物が、排泄などするだろうか。
また、尿があのような香りを放つだろうか。
そして、尿がこのような芳しい色合いと味を米に付すだろうか。
自問に否と返す梓の中で、澪の言うりしっこを肯んずる為の根拠が堆積されてゆく。
人は得てして、自分に取って都合のよい話を信じたがるものだ。
そして追い詰められた時ほど、その傾向は強くなる。
全ての進路が塞がれた人にとっては、
オプティミズムに縋る事が最早最良の選択肢となるのだから。
悪質なビジネスもカルト宗教も、そういった人の弱さに付け込んで成立しているのだ。
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「何を狂った事を言っているの?馬鹿馬鹿しいわ。いい加減にして頂戴っ」
我を取り戻したと宣すような紬の金切声が、凍り付いていた一室を動かした。
唯が、憂が、立ち上がって口を開く。
「そうだよ。私達にそんなもの口にさせるなんて、澪ちゃんはどういう積もりなの?」
「こんな非道な真似、幾ら追い詰められての事とは言え、許せませんっ。
絶対に、許せませんっ」
違う。梓は胸中で呟いた。憂は気付いていないのだ。
澪へ向けて言ったに違いないその言葉が、本当は自分達に向けられている事に。
追い詰められている側は、自分達の方だ。
そして──その行為を許せるのか?
その問いも、自分達に向いている。
梓の答えは、決まっていた。
「何怒ってるの、憂。唯先輩やムギ先輩も、落ち着いて下さいよ」
梓は落ち着き払って言い放つ。
呼び掛けられた彼女達の、剥かれた目が梓に向いた。
「梓ちゃん?怒るのは当たり前でしょう?それとも梓ちゃんは、許せるの?
私達、尿を含んだ米を食べさせられたんだよ?それを、許せるの?」
憂の口から零れた声を、怒気と戸惑いが震えさせていた。
「憂。私達、尿なんて口にしてないよ?澪先輩が言ってたじゃん。
あれは、りしっこだよ。尿じゃない。私達の排尿とは違う、高貴な液体だよ。
だから怒るんじゃなく、本来感謝するべきだよ」
自分に言い聞かせるように、否。
自分に信じ込ませる気迫を込めて、梓は言った。
「梓ちゃん?正気なの?あんな屁理屈。
んーん、ただの妄言に耳を傾ける余地なんて、あると思うの?」
憂の表情から戸惑いが消え、純粋な怒気が声とともに繰り出される。
「だから、妄言じゃないって。事実だよ。
あれはりしっこ。尿じゃない。だって──」
──尿を摂した自分なんて許せないから
「そうしないと、私達、尿を口にした事になるんだよ?
憂はそれでいいの?ねぇ、憂、私達、尿なんて嚥下してないよね?
憂は私の事、尿を摂取した人間だなんて思わないよね?
私は憂の事、尿を摂取した人間だなんて思いたくないっ」
梓は話している内に感情が昂ぶり、最後には縋るように吠えていた。
対する憂の顔からは怒気が消え失せ、左右に揺れる瞳に純粋な戸惑いが表れている。
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「それは……。梓ちゃんの言う通り、私達が尿を口にしたなんて、信じたくないけど。
認めたくないけど。でも」
ここまで来て、憂は未だ現実への未練を捨てきれないらしい。
歯痒い思いが梓の口を衝き、迸る声を甲高く尖らせる。
「私達だけじゃないよっ?憂のお姉ちゃんだって、尿を胃に収めた事になるんだよっ?
いいの?大好きなお姉ちゃんが、そういうものを食べたって事にしちゃって、許容できるのっ?
お願い、憂ぃ。私の事も、尿を飲んだなんて認めないでよ……」
憂の瞳が激しく左右に揺れた。
その一端は姉である唯に振れ、もう一端が梓に振れる。
数秒続いた視線の忙しい往復は、梓を焦点にして止まった。
見返した憂の顔は、小刻みに震えている。
その先端で痙攣する顎が、緩やかに落ちた。
──堕ちた。
そう梓に確信させる動作だ。
「私、どうかしてたみたい。
梓ちゃんの言う通りだよね。
こんなに美味しくて、色合いも良くて、いい匂いのするものが、尿な訳ないものね。
うん、りしっこだよ、これは」
自分の事だけなら強硬な態度を取れても、姉や友人を巻き込まれれば軟化せざるを得まい。
憂が周囲を優先して考える性格だという事は、今までの付き合いで梓も分かり切っている。
尤も、憂の性格に付け込んで意見を翻させた自分に対して、梓は些かの気後れも感じていなかった。
或いは、気付いていない風を通していた。
これがりしっこだとする自分の信念に、微かの迷いさえ生じさせたくはない。
「憂っ?憂まで何言ってるの?」
正気を疑うような、と形容すべき表情なら、梓も今までの人生で幾度か見てきている。
だが、それを唯が浮かべる事も、それが憂に向けられる事も、梓は初めて見た。
「梓ちゃんの話、聞いてたよね?」
唯を見る憂の目は、縋るように震えていた。姉に甘える妹そのままに。
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「うん。私を思い遣ってるのは分かるよ。
でも、澪ちゃんのした事は許せな」
「それだけじゃないの、お姉ちゃんっ」
唯の言葉を遮って、憂の声が割り込んだ。
言葉に変わって訝しげな視線を向けてきた唯に、憂が悲壮な表情で言い募る。
文節の区切りを強調する為の長い間が置かれた、明瞭かつ力強い語調で。
「私、お姉ちゃんが、尿を飲むなんて、認められないよ?
でも、それ以上に、私が尿を飲むような妹だなんて、お姉ちゃんに思われたくないの」
唯が目を瞠り、短く息を吸った。空気を切るような吸音が、梓の鼓膜を衝く。
それはもしかしたら、自分の呼吸音かもしれなかった。
梓も唯同様、意表を突かれていたのだから。
梓は憂が、姉のイメージを崩したくないが為に、りしっこを受け入れたものだと思っていた。
だが憂の本音は、姉からのイメージを崩したくないという点にあったのだ。
梓の言説は、その連想に至る誘因として機能したに過ぎないらしい。
そしてこの意図していなかった顛末から、期待を越える効果が紡ぎ出されようとしている。
──連想から、連鎖へと。
唯の愕然とした表情が、梓にそう教えてくれていた。
「お姉ちゃん、お願い。私の事、汚らしい妹だなんて思わないで。お願い」
呟く憂が震える。受けた唯も震えた。
ただ、振れる方向が姉妹で異なっている。
憂は顔が横に痙攣し、一方の唯の頭は縦に慄いていた。
その違いが、徐々に隔たりを露わにしてゆく。
唯の動作が、大きくなっていったからだ。
それが首肯に至ったと、梓が認識した時。
唯が口を開いた。
「汚いだなんて、思わないよ。だって、憂は汚いものなんて、何も口にしてないんだから。
だって」
妹に語りかける唯の声音は優しかった。
言葉が途切れても、その余韻が梓の耳に残っている。
そして今、覚悟を込めるかの如く、唯が深く息を吸い込んだ。
優しい姉を貫き通すと、意を決したのだろう。
「あれは、りしっこ、だもんね」
「お姉ちゃんっ」
短く叫んだ憂の身体が、背を拉がれたように前方へと傾く。
唯の──姉の胸へと。
「よしよし」
唯は抱き付いてくる憂を受け止めて、その胸に凭れる妹の頭を撫でた。
陥落した姉妹が抱き合い慰め合う様を、梓は瞳に強く強く焼き付ける。
これで良かったのだと、自分に言い聞かせる為に。
或いは、犯した罪悪の重みを自覚する為に。
-
これで良しとするはずなのに──。
抱き合う姉妹の姿を否定するかのような、強く食卓を叩く音が響いた。
「くっだらないわっ。いい加減にして頂戴っ」
紬が両手を食卓に打ち付けた勢いそのままに立ち上がり、顔を伏せて喧しく吠えた。
打たれた衝撃で卓上の食器が揺れ、素材の硝子が金切声を上げて鳴く。
紬の叫喚の残響であるかのように、それは室内に甲高い耳障りな音となって響いていた。
「りっ、りぃーっ」
紬の剣幕に驚いたのか、律が涙声を靡かせて澪の胸に飛び込んだ。
それを片腕で抱き止めた澪が、空いている手で律の頭頂を優しく撫でる。
「よしよし。こら、ムギ。いきなり怒鳴るなよ。
律が怯えちゃってるじゃないか」
律の頭に手を添えたまま、澪が険しい眼差しで紬を責めた。
伏せっていた紬の顔が上がり、瞋恚の睥睨が澪を迎え撃つ。
衝突して火花の散る視線を、双方とも逸らそうとはしない。
一歩も、退こうとしていない。
「貴方にも怯えて欲しいくらいよ。何よ、平然と構えちゃって。
りしっこだなんて、ちゃんちゃらおかしいわ。
こんな物を食べさせて、どう始末を付ける積もりなのっ?」
視線を衝突させたまま、紬が澪に噛み付いた。
「こんなものとは何だよ。律の可愛らしい好意を踏み躙る気か?
それに私達は、責められるような事なんてしていないぞ。
サフランライスに似たものを、安価に振る舞うって約束を果たしただけじゃないか。
第一、お前だって、それを楽しみにしてた一人なんだからな」
「どうせ、大口叩いたら引くに引けなくなっていったってだけでしょ?
できもしない約束なんかして、追い詰められたからって自棄を起こして、こんな暴挙に出たんでしょ?
始めから謝れば良かったのよっ。それで恥を甘受すればよかったのよっ。
こんなもの食べさせて、尿なんて食べさせてっ、
もうっ、謝ったって済まない事態になっちゃってるのよっ?」
発言が進むにつれて、紬の声に露わな感情が乗っていった。
自分の吐いた言葉が、彼女自身の感情を昂ぶらせているかの如き有様だ。
そして最後には、自棄を起こしたかのような叫喚へと至っている。
「いや、私はできもしない約束なんてしていない。自棄になってもいない。
繰り返すけど、私達は約束を果たしたんだ。
実際、味も匂いも似ていただろ?」
問い掛ける澪の声音は、一転して冷たい。
気圧されたのか、対する紬の視線が逸れた。
そうなのだ。実際に、この黄色い米飯は、昨日食べたサフランライスに似ている。
多少の違いはあるが、その差異も澪の言に加勢する役を果たしていた。
サフランそのものを使った、という推量を否めるからだ。
-
「似ていただろ?」
黙りこくった紬へと、澪が容赦なく問いを繰り返す。
「……っ。だからって、こんなものを食べさせる必要ないじゃないっ」
澪の質問が弾となって、紬を撃ち抜いたのだろうか。
そう思えるくらい、紬の口から迸った声は悲鳴に似ていた。
その甲高い叫喚に、もう一つ甲高い音が交じっている。
「りぃーっ」
律が悲しげな鳴き声を上げた。
紬が自分に給されていた皿を引っ繰り返したのだ。
その行為こそが、もう一つの甲高い音の正体だった。
「お前っ、何て事するんだっ。
律が折角、りしっこを提供してくれたのに」
抗議の声を上げる澪に、紬の血走った眼が向く。
吐く息も荒く、発作の余韻を表していた。
皿を引っ繰り返すと言う乱暴な行為が、紬自身を攻撃的な姿勢へと駆り立てているらしい。
怒りが攻撃的な言行に繋がり、その攻撃的な言行が更に怒りを煽る。
梓の目にも明らかな程、紬は典型的なヒステリーのスパイラルに陥っていた。
その螺旋階段の行き着く先は、孤立でしかない。
「ムギちゃん、みっともないよ」
唯の声が割って入ると、紬の血眼はそちらへと矛先を転じた。
口を開くまでもなく、裏切り者、という絶叫が決した眦から発せられている。
対する唯に、怯んだ様子は見られない。
「これがおしっこなんかじゃないって事、分かるでしょ?
おしっこがこんなにいい匂いする訳ないんだから。
これだけ証拠を揃えられているのに、自論に固執しちゃうなんて、
滑稽も暗愚も通り越して見苦しいよ」
「何よっ。唯ちゃん、いえ、貴方だって、怒っていたじゃないっ。
尿なんて食べさせられて、怒り心頭だったじゃないのっ」
紬は普段通りに唯を呼称してから、他人行儀な三人称へと言い換えていた。
換言の際に慌てた様子はなく、始めから訂正するつもりだったのだろう。
紬の穏やかではない心中を、梓は敏く感じ取る。
-
「誤解してたからね。でも私はいつまでも、妄執したりしないんだ。
それとも何?ムギちゃんは、私の憂がおしっこを口にしたなんて言う積もりなの?
幾らムギちゃんでも、私の憂を穢すような事は許さないよ。
絶対に、許さないよ」
声に力を込め、双眸毅然と唯が言い切った。
妹を抱く腕にも力が籠もり、憂を囲む両腕の輪も狭まっている。
気圧された紬とは対照的に、憂は潤んだ瞳で姉を見上げていた。
その瞳が紬に向かった時には、もう潤んでなどいない。
怨敵を見据える、決然とした眼差しに転じていた。
「お姉ちゃんの言う通りだよ。
私達の事、紬さんの意地で穢したりしないで下さいっ。
律さんにも謝って下さい」
姉の心持ちに心を打たれたに違いない。
元はと言えば、憂が懇願したからこそ唯はりしっこを援用したのだ。
憂は唯に同調の声を上げる責任があった。
「な、何を言っているのよ?
貴方を、いえ、私達を穢したのは、あの二人なのよ?」
紬の人差し指が律と澪へと向けられる。
声同様に震えた、弱々しい手付きだった。
「おい。今度は私の律を貶す積もりか?
排尿なんてすると、まだ言い張って律を貶めるのか?
私だって唯と同じだ。
いくらムギが相手でも、私の律を悪し様に扱うなら、絶対に許さない」
澪が怒気露わに凄んだ。
獰猛な肉食獣でさえ、逃げ出しかねない容貌だ。
それが今、紬へと向いている。
「りー、りー」
律も澪へと、鳴き声で以って与していた。
澪の両腕の中、頻りと拳を振りながら繰り返し発声している。
梓の瞳には、唯に抱かれ守られる憂の姿と重なって映った。
ならば、孤立し傷付いた紬を、誰が抱いてあげるのだろう。
そして自分は──と、梓は胸の中で自問した。
-
「もういいっ」
紬が甲高い声を上げながら、激しく頭を振った。
全てを投げ捨てるような、激しい動作だった。
異邦人に囲まれてコミュニケーションを放棄する、理解されない人間の姿だ。
そして、自分こそが正気だと信じてやまない狂人の姿そのものだ。
「帰るわっ。好きにして頂戴っ」
紬は叫びざまに食卓へと背を向けた。
勢いで椅子が弾き倒されて、太い音を短く響かせる。
紬は気にする様子もなく、言葉通りにキッチンの出口を目指していた。
歩く度、聳えた双肩が揺れる。
梓の目にはその乱暴な足取りが、部活そのものから去る紬の姿と重なって映った。
間違いなく、紬はこのまま退部するつもりだろう。
だが──梓にそれを見過ごす積もりなどなかった。
紬の背に抱き付いて足を留め、叫ぶ。
「待って下さいっ」
そうする義務があると、確信していた。
梓の胸の中で、その答えが出ていたのだから。
澪が律を抱いているように、唯が憂を抱いているように。
梓も、紬を両の腕に収めた。
「何よ。貴方だって、りしっこを信じているんでしょう?
私の事、見苦しいって思っているんでしょう?」
体格で梓に勝るはずの紬は、抱擁を振り解こうとはしなかった。
だが、言葉にも声調にも、彼女の自棄になった心持ちが表れている。
手酷く糾弾された人間は、周囲全てが敵に見えてくるものだ。
それが自分を更に追い詰める事になると理解していても、
孤独が産む妄執は容易には消えてくれない。
だから梓は、優しい声音で囁いた。
自暴自棄となった人間に、否定で突き放していては拗れる一方だ。
相手の言と尊厳を肯定しつつ、自分達の側へと流していかなければならない。
「いえ、見苦しいだなんて、思っていません。
確かに、りしっこを認めてはいます。
でも、それは、ムギ先輩の為なんですよ?」
「何を言ってるの?何処が私の為だって言うのよ」
紬の口調には相変わらず険があるものの、語勢は落ち着きを取り戻してきていた。
紬を慮ってやった事が、功を奏したのだろう。
梓は紬を離すと、こちらへと身体を向かせた。
対面して、目と目を合わせて話す必要がある事だ。
態度の軟化している紬は、抵抗せずに従ってくれた。
-
「だって、ムギ先輩の振る舞ってくれたサフランが、尿と同等の訳がないですから。
いえ、物自体はどうでもいいんです。
私は、ムギ先輩の好意が、おしっこと同等だなんて耐えられないんですっ」
訴えかけるように、梓は語尾に掛ける勢いを強めた。
併せて尿を俗語で表現した事にも、醸した幼稚さで不釣り合いを示す意図がある。
自失の体で立ち尽くす紬から、怒髪の威勢はもう見えない。
声や怒りに留まらず、生気さえも失くしたかのような姿だった。
梓は澪や唯達に聞こえないよう、耳元で声を潜めて畳み掛ける。
「それは憂や唯先輩だって、同じ思いのはずです。
そういう配慮だって、りしっこを認めた背景にはあるはずです。
なのに、この事態の原因となる食事を振る舞った当のムギ先輩が、
その配慮を汲んでくれないから、あんなに怒ってるんです。
お願いです、ムギ先輩。私達の配慮を汲んで下さい。
ムギ先輩が振る舞ってくれた好意に、報いたいんです」
紬の顔色は蒼白だった。
無理もない。この事態の全ての責任が、彼女の心に圧し掛かって拉いでいるのだろうから。
梓がそう突き付けたのだ。
貴方の為なのに貴方の所為なのに、自分だけ被害者を気取って好き勝手に怒るのか、と。
「ごめんなさい」
消え入りそうな声が紬の青白い唇から漏れ出て、血の気の失せた頬を涙が伝った。
見ていられず、梓は再び紬の身体を抱き締めた。
「ごめんなさいっ」
耳元を、紬の悲鳴が劈く。
顔を見ずとも、紬が泣いている事は嗄れた声で分かった。
そして今度は澪達にも、紬の声は間違いなく届いたはずだ。
間近で聞いた梓の耳道が、痺れと共にそう教えている。
「りっちゃん、ごめんね。私、どうかしてた。
折角作ってくれたのに、引っ繰り返したりしちゃって。
美味しいのにね、いい匂いなのにね。
りしっこ、だもの。汚いはずがないものね。
その事も、ごめんなさい。りっちゃんが、尿を出すだなんて、言い張って、
りっちゃんを穢してしまって、本当に、本当に、ごめんなさい」
紬の絞り出す涙声が、未だ痺れている梓の耳に入ってくる。
尤も、痺れの原因は、音量のせいだけではないかもしれない。
目論見通りだが、梓の胸は重かった。
実際には、この勝負を受けた者は他ならぬ自分である。
にも関わらず、梓は紬の好意をこの事態の原因として論い、彼女へと帰責させたのだ。
紬から譲歩を引き出すという目的は達したものの、
何らの引け目も残さぬような過程は辿っていない。
梓はその重みから逃れようと、必要な犠牲だったと心に言い聞かせた。
惨烈な犠牲を強いる為政者が、大義を掲げて正当化するように。
加えて──自分にも責任があるからこそ、けいおん部の崩壊を手段問わずに阻止しなければならない。
それこそが責任の取り方だとする論理も、梓は紬を拉いだ手立てへの擁護とした。
-
反面、紬がりしっこを認めさえすれば、澪や唯達も矛を収めるだろうとの確信があった。
その蓋然性を前提せずに、大切な仲間である紬に非道な駆け引きなど仕掛けはしない。
「なぁ、どうする?確かにムギは酷い事したけど、反省してるみたいだし。
お前が許すなら、私だって許してあげたいよ。
余人ならともかく、仲間なんだし」
事実、律に語り掛ける澪の言葉からは、紬を許すよう促す含みが読み取れた。
梓が紬を翻意させた手段に言及する様子もない。
澪達とて、紬の退部までは望んでいないのだ。
HTTを存続させていきたい思いだけは、
メンバー全員が他念のない本心から共有していると断言できる。
そして澪が主張を通しつつ部の存続も望むならば、妥協できる機は今しかない。
ここで過程にまで難癖を付けて、千載一遇の好機を逃したくはないだろう。
「りー」
梓が算段した通り、律は澪の言葉に素直な反応を見せた。
上下に動く頭部も、紬への免罪を示している。
「当の律先輩が許すって言ってるんだもん。
私達が怒る理由なんてないよね?」
律の意思表示を待っていた梓は、首を唯と憂へと振り向けて言った。
問いの形を取って、紬の赦免と場の和解を共有する確認の作業に過ぎない。
憂の衛生観念を守るという妥協点が満たされた今、姉妹が怒る理由はないのだから。
「ムギちゃんも過ちを認めてるし、いいよね?憂」
「うん、まあ。私だって、ちょっと言い過ぎたかなって、思ってるし」
姉に促され、憂は歯切れの悪い声で頷いた。
思い返せば昨日、憂も梓と共に澪へ向けて挑戦的な態度を取っている。
紬を裏切ったように思えて、梓と同じく罪悪感を抱いているのかもしれない。
昨日は中立を貫いていた唯の方が、割り切りは良いようだった。
罵った相手が紬だろうと澪だろうと、唯に負い目を抱く理由など見当たらない。
彼女は巻き込まれて、割りを食った形なのだから。
甘い物を奢ってやる程度では、贖いきれないだろう。
思わず漏れそうになった苦笑を、梓は堪えた。
自分が信ずべき前提から考えれば、そもそも被害など誰にも出ていない。
唯が割りを食ったなどと、考えてはならない。
あれは”りしっこ”なのだから。
-
「さ、一件落着した事ですし。続きを頂きましょう。
お替わりだって、あるんですからね」
気を取り直した梓は、紬の抱擁を解いて卓へと導いた。
戻る紬の足音は弱く、双肩が力なく垂れている。
「あ、じゃあ、ムギのは粧い直さないとな。
今度は食べてくれる、よな?」
確認するように、澪が問う。
紬は満身創痍の体ながら、頭を縦に振った。
「ええ。でも、粧い直す必要はないわ。
勿体ないし、私の責任だもの。これ、頂くわね」
紬は自席の卓上へと撒いた米飯を指差しながら言った。
彼女なりの誠意なのだろう。
汲んだ梓は、止める事なく自席に着いた。
「いいのか?」
代わって、澪が問うた。
そこまでしなくても、という言外の思いがあるのかもしれない。
「ええ」
紬は前言を翻す事なく短く答えると、引っ繰り返っていた皿を除けた。
そうして全てが露わになった米飯の前、紬の身体が椅子へと落ち着く。
「そうか。じゃあ、改めて。頂きます」
「りーっ」
澪が宣して、律が続いた。
梓達も、倣って声を揃える。
「頂きます」
芳しい香りと高貴な味を噛み締めながら、梓は紬を盗み見た。
紬は机に突っ伏して、スプーンを使わずに口で直接食べている。
彼女の瞳の端に、梓は涙の粒を認めた。
そして向かいには、律と澪が座している。
泣きながら頭を垂らす紬の姿勢は、その二人に対して屈服と恭順を乞うているようだった。
澪は律と微笑みを交わし合っていた。
紬を嘲っているようには見えない。
単に、律の成分が高価な香辛料に勝ると認められて、嬉しいのだろう。
梓は米飯を頬張る口元に、律と澪に倣って笑みを浮かべた。
この価値を信仰すると決めた以上、梓はもう蒙昧だった頃の自分ではないのだから。
こちら側の、人間だ。
<FIN>
-
>>2-23
以上です。
リハビリがてらのお目汚し、失礼しました。
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たまげたなぁ……
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律の新たな一面ってか、澪の新たな一面を見た
-
スカトロ注意って書いとけよとか(りしっこだから必要ない?)
新たな一面ってレベルじゃないとか
色々言いたいことはあるけど
乙
面白かったよ
真面目なやり取りと硬い文章が却って笑えた
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これ律誕とか澪誕でイケメン澪と乙女律っちゃん書いた人?今年澪誕なかったから律誕を楽しみにしてる
シチュはともかく「私の憂」「私の律」と言い切る唯と澪は格好良かったかな?しかしまたえらい作品だ…w
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以前書いたモノを教えて欲しいな
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律はなぜしゃべれないのか分かんないけど、斬新なアイディアだな
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