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紬「むかし わたしが いたところは」
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すこし早いですが、ムギ誕SSです。
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雨音がまた 強くなった。
今日はせっかく早く布団に入ったのに
雨音が気になって眠れない。
ここのところ一週間ほど
まともに太陽を見た記憶がない。
梅雨だから仕方ないと わかっているけれど。
喉が渇いた。なにか 飲みたい。
そういえば 冷蔵庫に飲みかけのミネラルウォーターがあったはず。
ガチャ
扉が開いた。
キィ イ
パ タン
しずかにひらいて
ゆっくり とじる。
「あれ まだ起きてたの」
あ うん。おかえり。今日も遅かったね。お疲れさま。
「ちょっと 今日 お客さんが多かったからさ」
そう 忙しかったんだね。
お腹すいてるなら なにか つくるよ。
しゃべりながら 蛇口を捻ってやかんに水を注ぐ。コンロの上において 火にかける。
カチッ
カチッ カチッ
カチッ カチッ
カチッ カチッ
ボッ
「いや。いいよ 夜遅くに食べると 太るから」
そう。
取り出したミネラルウォーターをひと口含んだ。何の味もしない。
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「カギ ちゃんとかけおかないと 不用心だぞ」
だって もうすぐ帰ってくるかな と思ったから。
「そっか。でも夜遅いときは 危ないからカギかけとくように ってこないだ言ったろ」
ごめん。
「あ 怒ってるわけじゃなくて その さ 心配なんだ」
うん わかってる。ありがと。うれしい。
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たぶんあしたも カギは かけない。
お風呂 入るよね。着替え置いてあるから。
ちゃんと お湯も張ってあるよ。
「ん ありがと。でもいいや シャワーにしとくよ。今日は なんだか早く寝たい」
そう。
「なにかあったのか」
え。
「元気ないような気がするから。気になって」
ううん なんにも。ちょっと 雨が続いてるから。気が滅入っちゃって。
「今朝の天気予報だと 夜には晴れるって 言ってたのにな」
もう 一生 このままずっと。
雨が降り続けたら どうしようか。
「そうだなぁ。日焼けサロンでも経営しようかなぁ。儲かるかも」
このひとは たまに あんまり得意じゃない冗談を言う。
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お金持ちに なっちゃうね。
「お金持ちになったら もう少し広い部屋に 引っ越したいな」
でも わたし ここがいいな。こういうところに住むの 夢だったから。
「一人ならいいかもしれないけど 二人だと 狭いよ」
だからいいんじゃない。
いつでも 近くにいられるでしょ。
「バカ。けどさ せめてお風呂とトイレはセパレートのところに 引っ越したくないか」
わたし お風呂にはこだわらないよ。
だって銭湯に行くの好きだし。
「そうだな。銭湯は私も好きだな。
明日は早く帰って来れるから 一緒に 行こうな」
うん。わたし 待ってる。
「じゃあ シャワー浴びてくるから。
先に寝てて。もう 夜 遅いよ」
うーん でもなかなか寝付けなくって。
"
"
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ピーーィーーィーーー
しゅんしゅん
あ お湯 沸いたね。
せっかくだし 紅茶淹れようかな。今日 新しいお茶っ葉買ってきたところだし。
「それじゃあ 余計寝れなくなっちゃうじゃないか」
いっそ 徹夜しちゃおうかしら。
「美容にわるいぞ」
たまになら 大丈夫。
「あんまり無理 するなよ」
無理に寝るのは よくないわよね。
「ああ言えば こう言うんだから」
言いますわよ。
会話を続けながら 食器棚から一つしかないティーポットと ワンセットしかないティーカップを取り出す。
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「なんだか 元気 出てきたみたいだな」
うん ちょっとね。やっぱり一人でいるのがよくないのかも。
新しく封を切ると ふわっと心地よい香りが漂う。
そうして鼻先でちょっぴりしあわせを堪能した後
茶葉をスプーンで取り出して ポットの中に入れる。
「ごめん さみしい思いをさせて」
ううん。責めてるわけじゃないの。
働かなくちゃ 生きていけないものね。
「明日は早く 帰ってくるから」
一緒に銭湯 行くのよね。
「ああ。約束だ」
うん。約束よ。
ポットにお湯を注いだ。その瞬間 なつかしい香りが広がる。
紅茶 いっしょに飲もう。
「うん。じゃあ一杯だけ」
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ぼ お ん
ぼ お ん
ぼ お ん
六畳一間の部屋に似つかわない古時計が 鐘を鳴らした。
「誕生日 おめでとう」
ありがと。別に めでたくも ないけど。
「そんなこと 言うなよ」
あら だって そうじゃない。誕生日を祝うような歳じゃ ないでしょ。
「何言ってんだ。まだ若いじゃないか」
誕生日なんて 子供のものなのよ。
「そんなこと ないだろ」
そうよ。誕生日が特別なのは 子供のうちだけなんだから。
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そう。誕生日が 特別な日ではなくなってから どれくらいの時間がたったのだろう。
むかしむかし。誕生日は特別な一日だった。
お父さんも お母さんも。斉藤も 菫も。唯ちゃん 澪ちゃん りっちゃん 梓ちゃん。
みんながにこにこ微笑んでいて その中心にはわたしがいて。
今日がこんなにしあわせだったら 明日には死んじゃうんじゃないか なんておおげさに思ったりしてた。
誕生日が近づいてくると なんだかわくわくして そわそわして 前の日はドキドキして全然寝付けなかった。
朝 菫が起こしにやってくる。私が目を覚ましたのを見て 菫は言う。
「おはよう お姉ちゃん。お誕生日おめでとう」
昨日まで続いた雨がうそみたいにやんで 窓からはきらきらと朝の光がこぼれている。
お父さんも お母さんも 斉藤も 今日はいつもよりずっとやさしい。
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登校中の電車の中で ケータイのメールを見返す。
0時きっかりに みんなから届いたお誕生日メール。
ちゃんとメールを送ってもらえるか 心配だった。
送ってくれるかな 送ってくれるよね 去年だって送ってくれたし
この前澪ちゃんの誕生日のときだって みんなで送ったし。
ずっとドキドキしてた。
0時が近づくにつれて ケータイのモニターの時間を表示を見ているのがこわくなってきた。
5分前くらいになると ふとんにもぐりこんで ぎゅっと目をつむってた。
ぶるぶる
ケータイが震える音が聞こえた。
うれしかった。
なんでもないことかもしれないけど すごくうれしかったの。
メールは大切に保存した。もうだいぶいっぱいになってきている保存メール。
それを ひとりでいる時間にこうして見返すのが わたしのちょっとした しあわせ。
見返すの。
なんども なんどでも。
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いつもの駅で電車を降りると 改札を抜けた先に唯ちゃんが待っていてくれている。
「おはようムギちゃん お誕生日おめでとう!」
「えへへ 私が一番最初におめでとうって言いたかったんだー」唯ちゃんはそう言う。
本当は唯ちゃんが一番じゃないのだけれど よろこんでほしくて わたしはちょっぴり嘘をつく。
「ありがとう唯ちゃん。今日一番に おめでとうって言ってくれたの 唯ちゃんだよ」
「ムギ おっはよん 誕生日おめでと」
「お ムギおはよう 誕生日だよな おめでとう」
教室に入ってすぐに りっちゃんと澪ちゃんから。
「えームギちゃん 今日 誕生日なんだぁ。おめでとう」
「おめでとう ムギちゃん」
おめでとうおめでとう。
りっちゃん澪ちゃんの声を聞いて わたしの誕生日に気がついたクラスメイトのみんながまわりに集まってきた。そうして 一斉にお祝いの言葉をくれる。
ムギちゃんアイドルみたいだねー と唯ちゃん。
うん。なんだかちょっとだけ 本当にアイドルになった気分。みんな ありがとう。
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お昼休みに 梓ちゃんと憂ちゃんと純ちゃんがやってきた。
ちょっぴり緊張しながら上級生の教室に入ってくる三人が可愛らしい。
「ムギ先輩。誕生日おめでとうございます」
梓ちゃんはちょっと照れくさそうに 頬を赤らめて言う。
放課後 部室で会うじゃない。
いえちょっとでも先にお祝いしたかったんです。
わざわざありがとう梓ちゃん。
憂ちゃんと純ちゃんからは 手作りのクッキーを貰った。
誕生日ケーキは食べるだろうから あえてはずしてクッキー。憂ちゃんの手作りだ。
おいしそう。あっ わたしだってちゃんと手伝ったんですよ とは純ちゃんの弁。
ありがとう。純ちゃん。憂ちゃん。大切に 食べるね。
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一時間が 一分が 一秒が きらきらと輝いて 一瞬一瞬が特別に思えた。
この一瞬が 永遠になってしまえばいいのに。
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そうして 待ちに待った放課後の部室。
りっちゃんは せっかくなんだから最近できた話題のカフェに行こう って言ってくれたけど
わたしはここでお祝いして欲しかった。
4人がいっしょに作ってくれた 手作りのケーキ。
中心になって作ってくれたのはりっちゃん。
お料理だけじゃなくて お菓子作りも上手なんだね。
ねぇ りっちゃん。卒業したら 琴吹家専属のパティシエになってくれないかしら。
ところどころ いびつなところもあって そこは梓ちゃんの担当だった。
梓ちゃんは恥ずかしそうにしてたけど わたし嬉しかったよ。
だって 一生懸命作ってくれたのがひと目でわかったもの。
歳の数あればいいのはローソクなのに いちごまで18個も載せてあった。
これは唯ちゃんのこだわり。
憂ちゃんが通ってる商店街の八百屋さんで とくに甘くて美味しいものを買ってきてくれたんだって。
パンダやウサギやライオンの姿をした 可愛らしいマジパンを載せているのは澪ちゃんの希望。
だけど 可愛すぎたものだから なんだか食べちゃうのが可哀想な気がしてしまって
みんなひとつも手がつけられなかった。
結局遅れてきたさわ子先生が食べちゃったんだよね。
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そのあと みんなから一つ一つプレゼントをもらった。
そのどれも ひとつひとつが わたしのかけがえのない 宝物。
りっちゃんからは オススメのマンガ本。
唯ちゃんからは 鳥のぬいぐるみ。
梓ちゃんからは 最近ハマってるというバンドのCD。
澪ちゃんからは 万年筆だったね。
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澪ちゃんからは 万年筆だったね。
「万年筆って また渋いな。あんま普段使わないだろ」
「いや でもなんだか かっこいいだろ ほら」
「ほんとだぁーかっこいいね」
「そーいやあたし 高校に入ったとき 叔父さんに入学祝いでもらったわ」
「へぇ。りっちゃん それ 使ってるの」
「いや。もう どこいったかもわかんねー」
「プレゼントなんだから 大事にしてくださいよ」
「いや 大事にしてないわけじゃないだぞ。ちゃーんと 机の引き出しにしまってあるんだ」
「でもどこにしまったか 忘れちゃったんでしょ」
「うっ そうなんだけど。
いやでもさ 時々掃除なんかしてるときにふと 何かの拍子に見つけちゃうこともあるんだぜ。
そうしたらさ あーあの時お祝いでもらったなー なんて思い出してさ。
懐かしくなったり な」
「で 使うんですか」
「使わない。またしまっちゃう」
「結局 使わないんですね。ダメじゃないですか」
「だってメンドクサイじゃん 万年筆ってさ。インク変えたり。手間なんだよ」
「うへー。手間なんだ。それじゃわたしも無理そうー」
「でも いいものなんでしょう」
「まぁな。大事なものだし 捨てたりなんてしないぞ。
でも あってもあんまり使わないっていうか」
りっちゃんと唯ちゃんと梓ちゃんのやりとりを聞いて 澪ちゃんはすっかり元気をなくしていた。
「そっか。万年筆。いいと思ったんだけどな。あんまりいらないものだったのかな。
ムギ ごめん」
「ううん。そんなことないよ。わたし 嬉しい。万年筆って素敵だと思うわ。
ありがとう 澪ちゃん。
ありがとう」
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わたし 大切にするね。
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一日が たのしくてたのしくて 仕方なかった。
夜になると その日が終わるのがさみしくて ベッドに入るなりひとりふとんにくるまり
泣いた。
まるで 世界がおわっちゃうみたいだった。
今日がこんなにしあわせだったら どうしたって 明日は今日より不幸になるに決まってる。
そう考えて不安になったりもしたけれど でも
その次の日も たのしい一日を過ごすことができた。
わたしは すこし ほっとした。
来年の誕生日は 今日みたいにたのしく しあわせに過ごせるだろうか。
そう思って不安になったりもしたけれど でも
その次の年も しあわせな誕生日を過ごすことができた。
泣いてる暇なんて ないよね。
そんな暇があるんだったら
すこしでも 目の前のことを 毎日を たのしもう。
そう思うことにした。
毎日に 夢中だった。
わたしは しあわせだった。
次の年も その次の年も。
わたしは しあわせだった。
ずっと。
そうして どれだけ月日が流れただろう。
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ねぇ知ってる。
「なに」
一冊の 繰り返し読める本と
一人の 離れがたい恋人と
一人の 頼りになる友人と
一つの 忘れがたい思い出
この四つがあれば 人生はしあわせなんだって。
「ふぅん」
今のわたしって おまけの人生を生きてるのかも。
「なんだよ 急に」
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しあわせなことは もうすべて むかしのはなし。はるか かなた。
朝 目が覚めたとき。ゆっくりと 瞼をひらく。
眩しくやさしく差しこむ光を感じて
一瞬 あのころに戻ったんじゃないか と思うことがあるけれど
そんなことはない。
あるわけがない。
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むかし わたしが いたところは すべてが満ち足りていた。
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でも
たのしいことも
うれしいことも しあわせなことも
ぜんぶ もう終わっちゃったのよ。
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「今が そんなに辛いのか」
ううん。そういうんじゃない そういうんじゃないわ。
そばにあなたがいてくれるだけで わたし 救われているもの。
しあわせよ 今も。とっても。
「わたしだって そうだ」
ありがとう。
でも でもね。そう あの頃が しあわせすぎたのね。だからよ きっと。
「バカ」
なんで 過去には戻れないのかしら。
「バカ。バカバカ。バカなこと 言うな」
そうね。わたしって バカね。ごめんなさい。
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思い出も いつか 全部忘れてしまうときがきたら どうなっちゃうのだろう。どうなって しまうのだろう。
もう だれも。みんなみんな忘れてしまったら それはなかったことになってしまうのだろうか。
ちょっとづつ。ね。みんな 忘れていっちゃうのよ。離れていっちゃうのよ。
スマートフォンのバイブレーション機能は 0時をまわってしばらくした今も
動く気配を見せていない。
歳を重ねることに 何の意味があるんだろう。
その日を迎えることに 何の意味があるんだろう。
誰からも忘れられてしまったその日に 何の意味があるんだろう。
なんのいみが あるんだろう。
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「子供っぽいこと 言うな。みんな 前を向いていなきゃ 歩いていけないんだから」
前を向いていたって その先に光がなかったら 目を瞑っているのと 後ろを向いているのと 何も変わらないじゃない。
こころの中でひとり そう 呟く。
「わたし シャワー浴びてくる。とりあえず布団の中に入って目を瞑っていなよ。そうしたら きっと眠れるから」
うん。待ってる。
「待ってなくていいから。早く寝なよ」
わかった。
目を背けたまま 返事をする。
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紅茶のカップを片付けると 布団に入って 目を瞑る。
しばらくそうしていたけれど やっぱり なかなか寝付けなかった。
紅茶を飲んだ せいかしら。
外の様子が気になって カーテンを開けた。雨はいつの間にか やんでいた。
けれども 雲に覆われて 月も 星も 見えなかった。
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「あ 雨やんでる」
あれ もう あがったの。はやいね。
「言ったろ。シャワーだけにしたから」
そうだったね。
「私 雨って案外きらいじゃないかも」
わたしは きらい。
「そう 言うなよ」
だって 太陽も 月も 星も なんにも 見えないよ。
「いいよ。見えなくたって。なくなっちゃうわけじゃ ないんだから」
なくなってるかも しれないよ。
「いいよ なくなったって」
わたしは いや。かなしいもの。全部なくなっちゃうのは。
「そうだな。私だって悲しい。だけどさ。もしなくなっちゃっとしてもだよ。
太陽も 月も 星も。昔 空の上に浮かんでいた事実までなくなったりは しないよ」
そうだと いいね。
「少なくとも私は忘れないよ。ずっと。ずっとな」
やさしいね。
「バカ。でも さすがにこれだけ雨が続くと お日様が恋しくなるな」
お日様。なくなってないかな。
「大丈夫。お日様も お月様も お星様も ちゃんとまた 空に浮かぶさ。
さ。早く寝よう。私 髪の毛乾かしてくるな。ちょっとうるさくするけど ごめん」
ううん。いいよ 気にしないで。
そうして いつものように 左の手でそっと わたしの髪を撫でてくれた。
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ありがとう。いつもやさしくしてくれて。
ごめんね。めんどくさい女で。
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もう一度布団に入って 目を瞑る。
ドライヤーの音に混じって 鼻歌が聞こえてくる。
『悩みも 迷いも とけて きっと 明日も 晴れますように』
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ふいに 家計簿を付け忘れたことに気がついて 起き上がる。
灯りを付けないままに 窓際においてある机まで移動して すっと引き出しを開けた。
暗くても いつも同じところに入れているノートとペンは すぐに取り出せる。
使ってるよ 澪ちゃん。
ちゃんと インクも 補充してるんだから。
毎日ね 見つけてるよ。
毎日ね 思い出してるよ。
風が吹いて カーテンが揺れた。
雲が晴れて 半分と少し欠けた月が 姿を現す。
月の光が差し込んで
いま わたしが いるところ を
やわらかく 照らした。
おしまい
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以上です。
むぎゅう、誕生日おめでとう。あなたの未来が幸多きものとなることを祈って。
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