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律「ひかりひとつひらり」- 1 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/03(土) 18:55:09 ID:h7ZT4RbQ0
- 梓と喧嘩した。
八月最後の日の夜。
律が自室で不機嫌な声を上げているのはそれが理由だった。
彼女のトレードマークのカチューシャを床に投げ出し、
外着からパジャマにも着替えず布団の中で獣の如き唸り声を上げる。
とは言え、小柄な彼女では贔屓目に見ても子犬程度の獣ではあったが。
しかし、子犬でも獣には違いない。
その程度には律は不機嫌で悔しかったのだ。
――どうしてこんな事になったんだっけ?
呻き声を止めずに、律は今日起こった出来事を思い返し始めてみる。
『自分の非を認めるため』とか、『梓に謝りたい』からなどといった理由からではない。
単に特に理由も分からずに何かに腹を立てているのが嫌になっただけだ。
喧嘩の根本的な原因が分かれば少しは落ち着ける。
そういう期待も少しはあったかもしれない。
無論、それは淡い期待でしかないと律自身も分かってはいたのだが。
八月三十一日。
律は梓と二人で街に遊びに行った。
普段であれば軽音楽部の全員で遊ぶのが常套だったが、今日に限って梓以外の予定が空いていなかったのだ。
それに関しては他の部員の薄情を責めるより、律自身の気楽さこそ責められて然るべきだった。
八月三十一日――つまり、夏休みの最終日だ。
単なる最終日であれば他の部員達も遊びに付き合ってくれただろうが、今年だけは事情が違っていた。
何せ今年の律達は高校三年生――受験生なのだから。
受験の天王山と呼称される夏休みの最終日に遊び回る胆力は、他の部員達には流石に無いらしかった。
試験週間でも遊びに付き合ってくれていた唯なら遊んでくれるのではないか。
律は若干そう期待していたのだが、残念ながらそれも叶わなかった。
どうやら幼馴染みの和に引っ張られて図書館で勉強しているらしく、
これで同級生の部員の予定が受験勉強で全て埋まってしまったわけである。
そういった理由で律が遊び相手に最後に選んだのが梓だった。
中野梓。
律より学年が一つ下の小柄なギタリスト。
子供っぽいツインテールの髪型や小柄な外見に似つかわしくなく、
根は真面目であまり熱心に活動しているとは言えない部をある意味で引っ張ってくれている。
そのため、基本的に単純で不真面目な律もよく梓に叱られているが、律はそんな梓が嫌いではない。
何だかんだ言いながらも波長が合い、律の思い付きに付き合ってくれる事も好感が持てた。
そんな梓ならば突然の誘いにも乗ってくれるはずだ、と梓に連絡したのが昨日の事である。
――律先輩、本当に受験勉強しなくても大丈夫なんですか?
本当に心配しているのか、それとも呆れているのか。
そのどちらなのかよく分からない口振りながらも、梓は遊びに行く約束を了承してくれた。
予定が無くて暇だし、次の日も日曜日だからですけど、という前置き付きではあったが。
相も変わらず生意気な後輩だったが、律はあまり気にはしなかった。
梓が生意気なのは普段通りの事ではあったし、それよりも律には梓の真面目さが嬉しかった。
真面目な梓の事だ。
きっと夏休みに入ってすぐに宿題を全て終わらせていたのだろう。
そのおかげで律は心置きなく夏休みの最終日に思い切り遊ぶ事が出来るわけだ。
正確には九月一日も日曜で休日なわけだが、それはともかく。
- 2 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/03(土) 18:58:41 ID:h7ZT4RbQ0
- ――おう、いらっしゃい、梓。
そう言って梓を自宅に迎えたのは今日の午前十時頃の事だ。
昨日の電話では遊びに行く場所はあえて決めず、当日に律の自室で会議しようという事にしていたためである。
勿論、計画を立てる事すらも楽しみたいと思ったからだ。
勉強などの計画を考えるのは苦手な律だが、遊ぶ計画を考える事だけは大好きだった。
何処でどう遊んでどう楽しむか。
それを考えるだけで胸が躍った。
実際、梓と遊ぶ計画を立てるのは楽しかった。
梓と律の門限の限界まで遊ぶにはどうしたらいいか。
何処をどう回れば無駄なく遊べて楽しめるか。
どの店で昼食を食べ、どの甘味処で休憩するべきか。
乗り気ではない素振りを見せていた梓ですら、見る見る内に楽しそうな笑顔を浮かべるようになっていた。
昼前に計画を立て終えて街に遊びに行ったが、勿論それもとても楽しかった。
回った場所自体は部の皆で普段遊ぶ場所と大差無かったが、それでも十分楽しめた。
十分過ぎるくらい笑い合えた、と律は今日の出来事を思い出して微笑む。
昼食は美味しかったし、体重が気になるくらいに三時のおやつも楽しんだ。
ゲームセンターで二人とも真剣になって争い、特にリズムゲームでは白熱した。
ほんの少しだけ自分が受験生であるという気掛かりはあったが、それでも梓と遊んでいて楽しかった。
律自身も自分が遊んでいる場合でない事は十分に理解している。
受験勉強をして大学に入学し、自らの将来について考えなければならない事も。
それでも、律は遊びたかったのだ。
部の皆……、いや、梓と。
梓は後輩だ。
律は上級生で、何をどうしても梓を置いて卒業する事しか出来ない。
梓を一人きり、部に残してしまう事になる。
それはどうする事も出来ない事かもしれないけれど、せめてもの抵抗はしてやりたかった。
せめて梓の胸の中に楽しい思い出を残して、卒業したかったのだ。
だからこそ、律は今日梓と遊べて満足だった。
梓に少しでも思い出を残せてやれたと思えたからだ。
だが、その満足は長くは続かなかった。
夕刻、律達はドーナツ屋でいくらかのドーナツとジュースを注文し、最後の休憩を取っていた。
ドーナツを食べ終え、梓を自宅まで送れば立てた計画は全て終わり、満足して家に帰れるはずだった。
しかし、そう上手くはいかなかったのだ。
発端は些細な事だった。
ドーナツを食べている途中、梓がトイレに立った。
昼間は遊び回ってトイレに行く時間もそう無かったから、それは無理もない事だった。
律は梓を待っている間、手持ち無沙汰に注文したジュースのストローの袋に水を垂らして遊んでいた。
- 3 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/03(土) 18:59:11 ID:h7ZT4RbQ0
- が。
そんな単純な遊びが長い時間続くはずもない。
すぐに律は暇を持て余して、最後に残っていたドーナツに手を伸ばした。
二人でドーナツを何個ずつ食べたかは記憶してないが、
別にどちらかが一つ多く食べたくらいで梓も気にしないだろう。
そう律は簡単に考えていた。
結論から言おう。
勿論、簡単には済まなかった。
最後に残されていたドーナツはやはり梓の物で、それから梓は妙に律に突っ掛かった。
悪いのは自分の方である事は間違いないのは律も分かっていた。
だからこそ、最初は梓の小言に近い言葉も黙って聞いていたのだ。
やれ律先輩はいつも適当だの、やれ律先輩はいつもいい加減だの、そんな小言にも何も言い返さなかった。
悔しいが概ねその通りだと自覚していた。
けれど。
不意に梓が口から出した言葉だけは、黙って聞いている事が出来なかった。
それだけは出来なかった。
――こんな事なら、家でのんびりしておいた方がよかったですよ。
その言葉を聞いた時、律は自分の胸が激しく痛むのを感じた。
泣き出してしまいたくなるくらい、辛かった。
今日の何もかも全てが無駄にされてしまった気がしたのだ。
律のその表情の変化に気付いたらしく、梓の表情が青冷めたものに変わった。
梓もそんな言葉を口に出すつもりはなかったのだろう。
ただ勢いで言ってしまっただけなのだろうという事くらいは、律にもよく分かっていた。
だが、頭で理解する事と、心で理解する事は似ているようで異なっている。
頭ではこんな事をするべきでないと分かっていながらも、律は気が付けば立ち上がって言い放ってしまっていた。
――ああ、そうかよ! 無駄な時間を過ごさせて悪かったよ! じゃあな!
言い放ってすぐ、律は梓を置いて駆け出して行く。
ドーナツ屋の自動ドアを飛び出し、自宅まで一気に走り抜ける。
バスを使った方がいい距離だが、そんな事を気にしてはいられなかった。
ただ何も考えずに走って自室に飛び込みたかった。
胸に感じる痛みともどかしさでどうにかなってしまいそうだったのだ。
そうして、律は自室に帰って布団の中に飛び込み、
数時間以上もそのままの体勢で唸り続け、現在に至っている。
「うー……、くそー……。
何なんだよー……。何でこんな事になっちゃったんだよー……!」
何度目になるか分からない呻き声を上げる律。
今日一日の事を思い出してみた所で、やはり落ち着けるわけでもなく苛立つだけだった。
それ以上に悔しかった。
今日は本当に楽しかった。
梓と計画を立てて、二人で遊ぶのは凄く楽しかったのだ。
ドーナツの件で喧嘩した事以外、ほぼ完璧だったと言ってもいい。
だからこそ、悔しい。やるせなくて仕方が無い。
あの喧嘩さえなければ、完璧な一日だったのに。
あの喧嘩さえなければ、梓に最高の思い出をプレゼント出来たのに。
- 4 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/03(土) 18:59:39 ID:h7ZT4RbQ0
- ――どうにかあそこだけやり直せないもんかなあ……。
そんな事は不可能だと分かってはいるが、律はそう願わざるを得なかった。
こんな最悪な思い出を抱えて卒業したくない。
こんな最悪な思い出を持った梓を一人になんか出来ない。
この先、梓とどんな顔して会えばいいってんだ……。
そもそも、何で梓はドーナツの事であんなに怒っちゃったんだよ……。
布団の中で胎児のように丸まって、律はまた呻き声を上げた。
こう見えて、律は誰かと尾を引く喧嘩をする事には慣れていないのだ。
幼馴染みの澪とはよく喧嘩をしてきたが、喧嘩した時はすぐに謝ってすぐに仲直り出来ていた。
何度か尾を引いた事もあったが、長い付き合いだけあって何とか仲直りする事が出来た。
だからこそ、律は不安だった。
今まで梓を不安にさせた事はあったし、怒らせたり泣かせたりしてしまったも何度かあった。
しかし、それは律本人と言うよりは軽音部全体に対しての事であって、
思い返してみれば、梓と一対一で喧嘩してしまった事などこれまで無かったのだ。
梓との付き合いも、始まってまだ一年と少ししか経っていない。
仲直り出来るだろうか? と律は不安になる。
梓があんなに怒ってしまった理由も分かってない自分にそれが出来るのか。
大体、自分はそんなに悪い事をしてしまったんだろうか。
ドーナツを一つ多く食べられてしまう事が、梓にとってそんなに嫌な事だったのだろうか。
考え出すと止まらず、不安に苛まさせられ、律はまた妙な呻き声を出してしまう。
「あー、もーっ!
今日の喧嘩、無かった事になんねーかなー……!」
軽く叫び、寝苦しい熱帯夜だと言うのに、律は更に布団の中に潜り込んでしがみ付いた。
何かにしがみ付いていなければ、不安で大声で叫び出してしまいそうだった。
不器用この上ないが、それが田井中律という少女なのだった。
そして、考え疲れた律はいつしか眠りに就く。
これから先、自分の身に起こる出来事など思いも寄らずに。
- 5 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/03(土) 19:00:11 ID:h7ZT4RbQ0
-
*
玄関のチャイムの音が響いている事に気付いたのは、律が眠りに就いてすぐの事だった。
こんな夜中に何だよ、と思いながら目を開いてみて、律は驚きを隠せなかった。
「マジかよ……」
思わず口から声が漏れる。
それくらい信じ難い光景が目の前に広がっていた。
いや、実を言うとそれほどでもないのだが、驚くには十分な光景ではあった。
「もう朝かよ……?」
そうなのだ。
つい先刻、考え疲れて眠ってしまったはずなのに、
カーテンの隙間からはもう朝陽が差し込んでいたのである。
熟睡し過ぎだろ、と律は我ながら自分に呆れてしまう。
そんなに疲れてしまっていたのだろうか。
首を捻りながら上半身を起こしてみて、律はまた驚いた。
いつの間にかパジャマを着ていたからだ。
外着のままで眠ってしまったはずだが、いつの間にか寝惚けて着替えていたのだろうか。
今までの人生で一度も無かったというわけではないのだが、久し振りに起こった事だけに面食らった。
「私ってそんなに梓の事で頭がいっぱいだったってのか……?」
苦笑しながら頭を掻いていると、また玄関のチャイムが鳴った。
どうやら自宅には律以外誰も居ないらしい。
昨日は家族全員が何処かに外出していたはずだが、今日も何処かに行っているのだろうか?
ひょっとしたら、梓の事ばかり考えていたから家族の予定を聞き逃してしまったのかもしれない。
律はそう考えて寝起きの姿のままで、自室の扉を開いた。
「はーい、ただいまー」
大きめの声を上げて、玄関に向かう。
パジャマのままで来客を迎えるのはどうかとも思いはしたが、
何もネグリジェを着ているわけではないし、
何度もチャイムを鳴らしてくれている相手をこれ以上待たすのも失礼というものだろう。
律はそう考えながら、玄関扉の覗き穴から来客の姿を確認てみて、思わず息を呑んだ。
「……えっ?」
吐いた息と同時に疑問の声が漏れる。
確かに今日は日曜日だ。
休日なのだから、彼女が訊ねて来る可能性は確かにあった。
それでも、まさかこんなにも早く訊ねて来るとは思ってもみなかったのだ。
玄関扉の覗き穴の先には彼女――梓の姿があった。
昨日、喧嘩をしたばかりだと言うのに、
電話で話をしてもいないのに、まさかまた直接会いに来るなんて……。
予想だにしない事態に律の鼓動の速度が増していく。
- 6 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/03(土) 19:00:41 ID:h7ZT4RbQ0
- ――私はどうすりゃいいんだ?
逡巡、戸惑い、躊躇、多くの迷いの感情が律の脳内を駆け巡る。
いくら何でも言葉が全く用意出来ていないのだ。
どう対応するべきか想像も出来ていないのだ。
こんなの急過ぎる……。
しかし、律は玄関の鍵をいつの間にか開いていた。
何を言えばいいのか分からない。
何が出来るのかも分からない。
それでも、何かをするべきだという事だけは、心の何処かで分かっていたからだろう。
例え現状よりも事態が悪化してしまうとしても。
「よ、よう、梓……」
玄関の扉を開いて、梓を出迎える。
だが、律はそれ以上の事が出来ていなかった。
視線を合わせる事どころか、顔を向ける事すら出来ていない。
――何を言えばいい? 謝るのか? 梓が何であんなに怒っていたのかも分からないのに?
息が苦しくなる。
舌の根が渇いて喋り出す事が出来ない。
梓の表情を確認するのが怖い。
そうして律が何も言えずに躊躇い続けていると、不意に梓の大きな声が響いた。
「もーっ! 律先輩ったら!」
それは梓の怒気交じりの声だった。
それは律の予想していた物ではあったが、予想とは声色が全然違っていた。
昨日聞いた梓の怒りの声とは全く違っていたのだ。
昨日の梓の声が本気の怒りだとしたら、今の梓の声は普段律達を叱る声に似ていた。
律は視線を恐る恐る梓の顔に向けてみる。
向けた先で梓は律が想像していたものとは全く違う表情を浮かべていたのだ。
目の端を釣り上げながらも、軽い苦笑交じりの優しい表情を。
「あ、梓……?」
おずおずと律は梓に訊ねる。
予想とも想像とも違った展開に、脳が追い着けていないのだ。
律は梓が怒っていると思っていた。
最低でも不機嫌な表情を自分に向けるものだと思っていた。
だが、今はどうだ?
声こそ怒ってはいるが、微笑みまで浮かべている。
もう怒ってはいないのだろうか。
昨日の梓の怒りは何かの間違いだったのだろうか。
「怒って……ないのか……?」
律が訊ねると、梓が笑顔のままで頬を膨らませ、顔を横に向けた。
怒ってます、という演技をしているのは、一目瞭然だった。
- 7 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/03(土) 19:03:34 ID:h7ZT4RbQ0
- 「怒ってますよ。今、何時だと思ってるんですか。
昨日、律先輩が指定した時間なんですよ?」
「昨日……?」
「あ、まだ寝惚けてますね。
ほら、ちゃんと自分の目で確かめてみて下さいよ」
言って、梓が手提げ鞄の中から見慣れた携帯電話を取り出した。
時間が表示された液晶画面を律の方に向ける。
律は事態をよく呑み込めないまま、言われるままに画面に視線を向けた。
液晶画面には大きくAM10:07と表示されている。
そして、その時間表示のすぐ上には小さく……。
「……はっ?」
律は思わず間抜けな声を上げて、それ以上の事が出来なくなった。
液晶画面の時間表示のすぐ上に表示されていたからだ。
表示されていた数字は、
8.31
今日が八月三十一日である事を示す数字だ。
- 8 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/03(土) 19:04:14 ID:h7ZT4RbQ0
-
今回はここまで。
次回もよろしくお願いします。
- 9 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/03(土) 19:13:42 ID:WgNv2i.k0
- いいね。期待
- 10 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/03(土) 19:14:27 ID:FoE00kHYO
- 期待してます。
頑張ってください。
- 11 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/03(土) 19:14:55 ID:q7PaOwwcO
- こんなのVIPで書いたらキモい扱いされて>>1が涙目(笑)
- 12 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/03(土) 20:18:33 ID:QI.qId120
- ここvipじゃないし
- 13 :管理土民★:2012/11/04(日) 00:05:52 ID:???0
- >>11
2月のソフトバンク携帯端末に対する警告は貴方の事を指していました。
どうも婉曲過ぎて伝わってはいなかったようですね。
この場をお借りして改めて、自重していただくようお願い申し上げます。
携帯端末はピンポイント規制対象です。
- 14 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/04(日) 00:22:36 ID:AYoetQc.0
- SSの批判でアウト?
- 15 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/04(日) 00:29:18 ID:Z9GFbKis0
- トータルでアウトだろどう見ても
このクソ電話め
- 16 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/04(日) 02:42:38 ID:5UYDDg3QO
- 続き楽しみにしています。
- 17 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/04(日) 08:06:14 ID:p.IxRoTE0
- 澪を梓に置き換えただけのような話し
- 18 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/04(日) 14:54:23 ID:EA1xMfUA0
- >>17
お前の頭の中には律澪しかないのか
- 19 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/15(木) 01:34:42 ID:ef7LpSJ20
- 何かがおかしい
- 20 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/16(金) 19:06:19 ID:yiNsxAtc0
-
*
――八月三十一日?
見間違えたのかと思い、二度三度と確認するが、
その携帯電話の数字が変わる事は当然ながら無かった。
最後にもう一度だけしつこく目を擦り、律は梓の携帯電話の画面を確認してみる。
しかし、やはり表示されていた数字は、変わらず『8.31』のままだった。
――どういう事だよ?
律は首を傾げてその場で硬直してしまう。
先日、律は梓と二人で繁華街を遊び回ったはずだ。
昼食を食べ、馴染みの喫茶店でおやつを食べ、ゲームセンターに行った。
帰る直前、ドーナツ屋でよく分からない内に言い争いになり、喧嘩別れをしてしまった。
一日どころか半日前の事なのだ。
忘れるどころかはっきりと憶えている。
いや、頭で憶えているだけでなく、全身がまだ感覚として記憶しているのだ。
街中で引っ張った梓の手の温かさ、くっついて遊んだリズムゲーム。
梓と喧嘩別れしてしまった胸の痛みに至るまで、完全に記憶している。
だが、携帯電話の液晶画面には表示されてしまっているのだ。
『8.31』と。
今日が八月三十一日である事を示す数字を。
「ちよっと……、律先輩?
本気で寝不足なんですか? 大丈夫ですか?」
律が沈黙していたのを不安に思ったのか、
それとも、単に呆れただけなのか、梓が訝しげに訊ねた。
律は何も言葉に出来ず、反応すらも出来なかった。
元より難しい事をあまり考えないようにして今まで生きて来た律なのだ。
難解な事柄を考えた時には知恵熱が出て寝込んだ。
自分は考えるよりも感情のままに行動するべきなのだと、それを指針として生きて来た。
そんな律にとって、現在自分が置かれた状況は理解不能にも程があった。
「本当に大丈夫なんですか?
顔色が悪いですよ? ひょっとして寝不足じゃなくて体調が悪いんじゃ……」
- 21 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/16(金) 19:07:08 ID:yiNsxAtc0
- 一度目の問い掛けこそ冗談交じりではあったが、
今回の言葉こそは心配の声色が混じった真剣な声色だった。
あまりにも律が黙り込んだままなので、流石にこれは異常事態なのだと察したらしい。
梓が身を乗り出し、律の額に自らの右手を重ねようとする。
律の体温を自らの手で計るつもりなのだろう。
だが、律はその梓の右手首を取って、梓の行動を遮った。
律にも梓が自分を心配してくれているのは理解出来ていたが、何となくその厚意に甘え切れなかったのだ。
その理由は律自身にも分かり切ってはいない。
もしかすると、先日――記憶の中の先日――梓と喧嘩してしまった事に負い目を感じていたからかもしれない。
結局、律に出来たのは、力無く微笑んでみせる事だけだった。
「あ、ああ、悪い、梓、大丈夫だよ。
今日、梓と遊ぶのが楽しみで、ちょっと寝不足だったんだよなー」
「私と遊ぶのがそんなに……?」
可愛らしく結ばれているツインテールを揺らして、梓が首を傾げる。
照れているわけではなく、恥ずかしがっているわけでもなく、
単に疑問に思っての言葉だという事は律にもすぐに分かった。
ちょっと自分らしくない発言だったかもな。
そう思った律は梓の手首を掴んでいた手を離して、その手を梓の頭の上に置いた。
「そりゃそうだろ。
最近は澪もムギも、唯ですら勉強ばっかで遊んでくれないんだぜ?
こうやって誰かと一緒に遊べるのはすっげー久し振りなんだよ。
例えその相手が部活の暇してる後輩だって嬉しくて、楽しみになっちゃうもんだよ」
あんまりな軽口だったかもしれない。
しかし、いつもの事だと思ったのか、梓は苦笑して肩を竦めた。
「だと思いました。
でも、律先輩、やっぱりちょっと顔色が悪いですよ?
朝ごはん食べてないんじゃないですか?」
言われてみるとその通りだった。
異常な状態に気を取られていて気が付かなかったが、
言われて初めて激しい空腹感が自分を襲っている事に律は気付いた。
逆に言えば、それほど混乱してしまっていたという意味でもあるのだろう。
- 22 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/16(金) 19:09:23 ID:yiNsxAtc0
- 「確かに朝ごはんはまだだったな……。
んじゃ、ちょっと腹ごしらえしてくっかな。
朝っぱらから呼んどいて悪いな、梓。
ちゃっちゃと食べちゃうから、居間でちょっと待っててくれるか?」
律が頭を下げながら言うと、梓はまた肩を竦めて笑った。
その仕種は『別に構いませんよ』と言ってくれているように律は思った。
律に迷惑掛けられる事など慣れているという事なのだろう。
それはそれで先輩としてどうなのかな、とも律は思ったが、
梓がそんなあまりいい先輩とは言えない自分を笑顔で受け入れてくれる事が嬉しかった。
大した先輩じゃないかもしれないけど、梓には出来る限り笑顔のままで居させてやりたい。
それが梓という後輩が出来た時から心に隠している、律の変わらぬ望みなのだから。
――でも、どういう事なんだ?
先刻、梓の携帯電話に表示されていた数字を思い出して、律は首を捻る。
八月三十一日を示す数字。
梓の時刻設定が間違っているのでなければ、今日は八月三十一日なのだろう。
記憶の中では確かに過ごしたはずの八月三十一日。
梓にからかわれているのかとも思わなくもないが、
自分ならともかく、元々梓はそんな事をするようなタイプでも無い。
昨日の喧嘩の仕返しというわけでもないだろう。
――夢……か?
結局、律は現在の異常事態をそう結論付ける事しか出来なかった。
他にどうしろと言うのだろう。
時間が巻き戻っていると考えろとでも言うのだろうか。
非現実的な漫画やドラマが嫌いではない律ではあったが、
流石に自らが置かれた状況まで非現実的な劇作に当て嵌められる程、夢見がちな性格でもなかった。
腑に落ちない事は当然大量にある。
だが、だからと言って、その疑問についての判断材料も少な過ぎた。
だからこそ、律は結論付ける事しか出来ないのだ。
これは別に異常事態でも何でもない。
梓と遊んだ記憶は単なる非常にリアリティのある夢だったのだと。
そうだと考えなければ、どうにかなってしまいそうだったのだ。
もしも時間が本当に巻き戻っているのだとしたら、ひょっとすると……。
それを考えたくはなかった。
考えてはいけないのだと律は思った。
だからこそ、律は笑顔で梓の背中を押して居間に脚を進めるのだ。
夢と同じ結末を迎えない、楽しくて気持ちのいい八月最後の日を過ごすために。
梓と一緒に楽しむために。楽しんでもらうために。
「おはようございます!
今日は八月三十一日の土曜日です!」
田井中家の居間。
朝食を用意する間、梓に暇をさせないように律が点けたテレビの画面の中。
見慣れた朝のワイドショーのレポーターは、普段通り何事も無くそう宣言していた。
- 23 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/16(金) 19:10:19 ID:yiNsxAtc0
-
お久し振りです。
トリップを忘れて書き込めませんでした。
思い出せたので再開です。
またよろしくお願いします。
- 24 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/16(金) 19:31:42 ID:bMtNfMq.O
- 頑張ってください!
- 25 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/16(金) 19:34:07 ID:ZXRZi4OI0
- いいねーおもしろいねー
続きが気になるよ
- 26 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/16(金) 20:32:57 ID:kRLYlUjgO
- これ相手澪でよくね?
とは俺も思うた
- 27 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/18(日) 02:25:47 ID:3wAR1LQA0
- まあまあ、そんな硬いこと言わんと
別に梓でもええやないですか
- 28 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/22(木) 18:05:46 ID:ywOAq9Q.0
-
*
「今日は妙に手際がいいですね、律先輩」
目的の店で昼食を食べ終わり、一息吐いた頃に不意に梓がそう呟いた。
軽口極まりない発言だったが、どうやら梓なりの褒め言葉らしい。
それは分かっていたのだが、律はお約束的に口を少しだけ尖らせてから反論してみせた。
「今日はって何よ、今日はって。
可愛くない後輩ね!」
「だって律先輩、いつも行き当たりばったりだし……。
この前だって、律先輩がお店に予約が入れ忘れてて、
食べる予定だったごはんを食べられなかったじゃないですか。
私、あのお店のグラタン、楽しみにしてたんですよ?」
「まあ、あの時、予約忘れてたのは私の責任だけどさ……。
でも、そのおかげで隣の店で美味しいうどんを食べられただろ?
突然のアクシデントにも柔軟な対応が出来るなんて、流石は私!」
「自慢げに言う事ですか……」
梓は呆れ顔でそう呟いたが、
すぐ後に「まあ、美味しいうどんでしたけどね」と小声で付け加えた。
フォローのつもりだったのかもしれないが、小声なのが何とも梓らしい。
基本的に梓は自分の本心を隠しがちだと律はいつも考えている。
自分が後輩という遠慮と照れもあるのかもしれない。
入部して来た当初など、梓との付き合い方が上手くいかず律はかなり苦心した。
下手をすれば梓が退部してしまうかもしれないという危機的な状況に陥ってしまった事もある。
それは梓と他の部員の接し方に温度差があったからこそ、生じてしまった問題だった。
付き合いの浅さから、お互いに遠慮と戸惑いがあって、本心を伝え合う事が出来なかったのだ。
結果的に梓が退部する事こそ無かったものの、
その騒動以来、律は梓にもっと素直になってほしいと考えるようになった。
だからこそ、多少図々しいかもしれないと思いつつも、梓に自分の本心を見せるようになったのだ。
楽しみたいと思った時には無理矢理にでも巻き込み、
からかいたい気分になった時には全身全霊の本気でからかいに掛かってみせる。
部長としてはあまり褒められた行動ではないのかもしれないが、それでいいのだと律は信じている。
もう自らの本心を隠すような事はしないのだと。
例え仲違いする事態になる事があったとしても、その時も本心のままにぶつかるべきだと。
律がその決心を持ち続けたためか、梓もかなり遠慮なく本心を見せるようになってきていた。
下らないからかいをした時にはおざなりな反応と呆れ顔を見せるし、
何らかの失敗をしてしまった時には、遠慮の無い生意気な軽口を叩く。
ちょっと生意気になり過ぎじゃないか、と思う事もたまにはあるが、律はその梓の変化が嬉しかった。
先輩と後輩というよりは同い年の友人のようだが、それで構わなかった。
それが仲間になっていくという事なのだと思えたからだ。
――でも、こればっかりはな……。
思いながら、梓に気付かれないように小さな溜息を吐いた。
梓は先刻、『今日は妙に手際がいいですね、律先輩』と言った。
生意気極まりない発言ではあったが、本音を言うと律自身も同じ考えだった。
こんなにすんなりと物事が運ぶ事など、今までの人生でそう経験した覚えが無い。
今日、律達は遊ぶ場所に迷う事も無ければ、目的の店にも並ばずに入店する事が出来た。
梓の好物が載っているメニューのページを即座に開いて手渡す事も出来た。
初めて入った店のはずだというのに、梓がトイレに行こうとした際に案内する事も出来た。
自分で自分が怖くなるくらいの手際の良さだった。
- 29 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/22(木) 18:06:15 ID:ywOAq9Q.0
- 手際がいいのも当然だった。
何故なら、律はこの店に記憶の中の昨日――いや、夢か?――で訪れているからだ。
まさかと思いながらこの店に入店してみた時、正直、律は背筋が凍り付きそうになった。
記憶の中の店と寸分違い無い間取りで、メニューまで記憶そのままだったからだ。
記憶の中では昨日の出来事なのだ。
忘れっぽい性格の律とは言え、それくらいの事ははっきりと記憶している。
――やっぱり、時間が一日巻き戻ってるってのか?
そう考えそうになったが、律は慌てて首を振ってその考えを振り払う。
時間が巻き戻るなど、ドラマや漫画の中だけの出来事だ。
ひょっとすると、世界の何処かで誰かの時間が巻き戻っている事はあるのかもしれない。
科学で全てを解明出来ているわけでは無いのだし、そんな現象が起こらないとも言い切れない。
だがしかし、そんな奇怪な現象が自らの身に起こるとは、律にはどうしても思えなかった。
自分で思う事ではないのだが、律は自らをかなり一般的な人間だと思っている。
単に音楽とドラムが好きなだけの普通の女子高生だ。
単なる軽音部の部長なのだ。
霊感があるわけではないし、超常現象に遭遇した事だって一度も無い。
時間が巻き戻るなどという超常現象に遭遇するのは、
もっと人並み外れた性質や感性の持ち主――例えば唯とか――のはずなのだ。
だからこそ、律は時間が巻き戻っていない事を証明するために、
記憶の中の昨日に訪れた店に繁忙時間帯を避けて訪問してみたのだ。
記憶の中の繁忙時間帯を避けて、混雑にぶつかればそれだけで時間が巻き戻っていない証明になる。
もしも店内が混雑していなかったにしても、
店の間取りが記憶と異なっていれば、全てを夢で片付けられると思ったからだ。
だが、結果は見ての通りだった。
梓に珍しく手際がいいと褒められてしまうくらい、何もかも記憶の通りだった。
これはどういう事なのだろう、と律は思わず呻き声を漏らしてしまう。
やはり時間が巻き戻ってしまっていると考えるべきなのだろうか。
それとも、何か他の超常現象が起こって――?
実際問題、そう考えてしまった方が楽ではあった。
証明出来ない問題にはとりあえずにでも結論付けてしまった方が安心も出来る。
そうした方が恐らくは利口なのだろう。
それでも。
律はやはりそう出来ないのだった。
単純に結論付ける事は逃げのような気がして嫌だったのだ。
――梓に相談してみるか?
目の前でグラタンを美味しそうに食べている梓を見ながら、律は考える。
こんな複雑な問題を自分一人で考えても、最善の答えを出せるとは思えない。
ならば、いっそ――?
いや、と律は再び首を振ってその考えを否定した。
言って、どうなる?
相談して、どうする?
律自身がはっきり捉えられていない問題を相談されても、梓は困ってしまうだけだろう。
普段のようにからかってるだけだと思われても仕方が無かったし、
信じてもらえたとしても白昼夢か既視感だと諭されるのが関の山だ。
梓だけでなく誰だってそうするだろうし、恐らくは律自身だってそうするはずだった。
既視感と言われてしまえば、それで納得するしかない。
例えば単に律が記憶していないだけで、
中学時代にでも幼馴染みの澪と一緒に、この店に訪れた可能性だってあるのかもしれないのだから。
故に律は現在自らを取り巻く超常現象をあまり気にしない事に決めたのだ。
例え時間が巻き戻っているとしても、それにさして不都合があるわけではない。
むしろ助けられている節さえある。
現に昨日の記憶を参考にしたおかげで、この店の繁忙時間帯を避ける事が出来た。
梓も珍しく律の手際の良さを褒めてもくれている。
ならばこそ、この現象には何の不都合も無い。
そのはずだ。
不都合が生じるとすれば、恐らくはこれから先――
- 30 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/22(木) 18:07:09 ID:ywOAq9Q.0
- 「律先輩……?
本当に大丈夫ですか?」
いつの間にかグラタンを食べ終えていた梓が、そう言いながら律の額に右手を伸ばしていた。
また律の体温を手のひらで計ろうとしているのだろう。
律もそれに気付いてはいたが、その梓の手のひらを避けてから言った。
「大丈夫……、って何がだよ?
私は元気百倍元気玉だぜ?」
「いえ、それならいいんですけど……。
でも、律先輩、朝からちょっと調子が悪そうだから気になってしまって……」
梓が心配そうな表情を浮かべて、その右手を引っ込める。
律が手のひらを避けた事に対して、悪い感情を抱いたようには見えなかった。
自分を純粋に心配そしているだけの表情に、少なくとも律には見えた。
その事に安心しながら、律は穏やかな微笑みを浮かべて続ける。
「心配してくれてサンキュな、梓。
でも、心配しなくても平気だよ。
朝に寝不足って言っただろ?
実はさ、今日、梓を上手くエスコートするために、徹夜で計画を立ててたんだよ。
それでちょっと疲れちゃってるように見えるだけだと思うぞ?」
それは嘘ではあったが、とてもそれっぽい嘘でもあった。
そう考えれば、律の今日の手際の良さにも、
律の調子が悪そうに見える事にもとりあえずの説明が付く。
一応は理に適った言葉だったおかげか、梓は律の言葉を素直に信じたようだった。
軽くとだけ頬を赤く染めると、律から視線を逸らして呟くように言った。
「私のために徹夜してたなんて言われても……。
まあ……、嬉しいですけど……」
どうやら少し照れてしまったようだった。
普段、ふざけているように見えるだけに、律の小さな思いやりが照れ臭いに違いない。
律は梓が自分の嘘を信じてくれた事に少しの胸の痛みを感じながらも、
梓に気取られないように軽く頷いてから強く決心した。
この現象が何なのかは分からないけれど、幸運だったと考えようと。
記憶の中の昨日、律は梓を完全に楽しませてあげる事が出来なかった。
この店の混雑にぶつかってしまった事を筆頭に、
ゲームセンターで梓の欲しがっていたぬいぐるみをUFOキャッチャーで取る事が出来なかったし、
何より帰り道に寄ったドーナツ屋でこれまでにない大喧嘩までしてしまった。
記憶の中の昨日の出来事は、律の中に気持ちの良くないものを残した。
いや、それよりも何よりも、梓に大切な思い出を作ってあげる事が出来なかった。
記憶の中の昨日は、間違いなく律達にとって最悪の日だったのだ。
だからこそ――。
「私の事はともかくさ、今日は楽しもうな、梓!」
律は自分に出来る限りの笑顔を浮かべて梓に宣言した。
そうだ、楽しんでやろう、と律は思った。
二人で楽しんで、梓に最高に楽しい思い出を作ってやるんだ。
それが私の一番やりたかった事なんだから。
この現象が何なのか見当も付かないけど、こうなったら上手く利用してやろうじゃないか!
まずはドーナツ屋で梓のドーナツを勝手に食べないようにして……、
いや、そもそもドーナツ屋に寄らずに、他の店で休憩してやれば全部解決だ。
そうすれば、きっと梓の心の中に大切な思い出を作ってやれる――!
「な、何ですか、いきなり……」
律の妙なやる気に梓は気圧された表情を浮かべたが、
すぐに普段のクールぶった表情になって肩を竦めて返した。
「そりゃ、私も今日は楽しむ気ですよ、律先輩。
折角の八月最後の日なのに、部の先輩に連れ回されるなんて思ってませんでしたもん。
こんなの楽しまないと夏休みの無駄遣いじゃないですか。
ちゃんと思い切り楽しませて下さいよ、律先輩?」
「言ったな、中野ー!」
軽く叫ぶと同時に、律は笑顔で梓の頭をくしゃくしゃに掻いてやる。
相変わらずの生意気な発言だったが、これでいいのだと律は思った。
何もかもこれでよかったのだ。
形はどうでも、方法はどうでも、梓と本当に楽しい一日を過ごすのはこれからなのだ。
ひょっとしたら喧嘩などしない一日をやり直させるために、この不思議な現象が起こったのかもしれない。
何の根拠も無いけれど、そうだといいなと律は強く強く思った。
- 31 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/22(木) 18:07:36 ID:ywOAq9Q.0
-
*
家のチャイムの音が鳴る。
「……何となく分かっちゃいたけどさ」
ベッドの中。
身を起こした律は頭を抱えて呻くように呟いていた。
昨日は本当に楽しかった。
楽しかった記憶を今でもはっきりと思い出せる。
ドーナツ屋で梓と喧嘩しなかったし、そもそもドーナツ屋ではなくケーキ屋に行った。
梓の欲しがっていたぬいぐるみも、予算オーバーを無視して取ってあげた。
今度こそ最高の一日を過ごせたはずだった。
別れ際、梓も満開の笑顔を浮かべて手まで握ってくれた。
それくらい梓にとっても最高の一日のはずだった。
しかし――。
見たくなかった現実は、見ないようにしていた現実は、やはり訪れてしまっていて。
自分の見通しが甘かったのだと律は実感させられてしまうのだった。
チャイムの音が鳴っている。
聞き慣れたチャイムの音が鳴り響いている。
溜息混じりに律は開いた自分の携帯電話に、もう一度視線を落としてみる。
何度も見返しても同じ。
何度開け閉めしても同じ。
分かり切った数字が、液晶画面に無慈悲に表示されていた。
表示されていた数字は勿論、
8.31
- 32 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/11/22(木) 18:08:25 ID:ywOAq9Q.0
-
今夜はここまで。
またよろしくお願いします。
- 33 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/29(木) 19:37:21 ID:2dp1IVn.0
- いいねいいね
がんばれりっちゃん
- 34 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/30(金) 10:39:23 ID:n3x9W4KkO
- 続き楽しみにしています。
- 35 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/30(金) 20:33:37 ID:jvklzNns0
- 1レス目で重い話かと思ってしばらくスルーしちゃったが読んでみたらすごく面白い
きたいしてます
- 36 :いえーい!名無しだよん!:2012/11/30(金) 21:47:49 ID:BlXDEIiYO
- こいつはもう少し受験生の自覚を持てよ
- 37 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/12/17(月) 19:07:39 ID:EQkPNMi.0
-
*
不思議と呆然とはしなかった。
どんなに理不尽だろうと受け容れざるを得ない事態に直面した時、
人は酷く冷静になってしまうという話をよく聞くが、そういう事なのだろうかと律は考える。
怯えようと泣こうと叫ぼうと、どんな事態も進展しないのだ。
無論、泣き叫ぶつもりなど毛頭無いが。
今は、まだ。
その程度には、律は冷静だった。
だが、冷静だからと言って、動揺していないわけではない。
携帯電話を握り締める手も心なしか震えている。
背中を寝汗ではない冷たい嫌な汗が背中に流れるのを律は感じる。
速度を速めていく心臓の鼓動。
酷く息苦しい。
混乱の思考の沼に呼吸すら辛くなる。
不意に律は枕元に置いていたドラムスティックを強く握り締めた。
ドラムを始めて以来、否、ドラムを始める前から付き合っているスティックの一つだ。
過去の時分、律はドラムを始める事を決心したのだが、
所詮は中学生の身、中古のドラムすら購入する資金を持ち合わせていなかった。
故に律はドラムスティックを先に購入し、ドラムより長く愛用している。
大切な相棒のドラムよりも長い付き合いのドラムスティック。
片時も離れず――とまではいかないが、購入して以来、
ほぼ毎日握り締めていた日常の欠片の象徴を手に取る事で、
律は酷く鼓動する己の心臓の速度を多少は緩めさせる事が出来たのだった。
「落ち着けー……。
落ち着いて考えろよ、私ー……!」
間の抜けた光景だと自分でも思いながらも、律は自らに言い聞かせる。
癖と言う程ではないが、自分が動揺した時、律は自らに呟いて言い聞かせる事が多々あった。
顧問の山中さわ子の予想を超えた暴走に巻き込まれた時、
理解し難い唯の天然に塗れた発言に呆れ返された時などに、律はよく己に言い聞かせている。
大丈夫なのだと。
動揺したり戸惑ったりする必要は無いのだと。
そうする事で、律はこれまで何度も平静を取り戻して来たのだ。
- 38 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/12/17(月) 19:08:29 ID:EQkPNMi.0
- だが、それは裏を返せば、それだけ突然の事態に動揺し易い性質という事でもある。
律自身もそれは自覚している。
普段は軽音部を牽引する部長の立場であり、
順風満帆とはとても言えないものの、それなりに上手く振る舞えてはいたはずだ。
しかし、突然の出来事や変化には非常に弱かった。
いつも支えている幼馴染みの澪から、逆に支えられなければならない程に。
常時、天真爛漫に振る舞っているはずの唯や紬にも心配される程に。
それ程までに律は、突然の事態に途轍もなく弱いのだ。
だからこそ、律は普段以上に冷静にならなければならない。
今現在、律が置かれている異常事態について。
恐らくは巻き戻っている時間について。
一度目こそ夢か気のせい、もしくは既視感で片付けられた。
だが、もうそういうわけにはいかないだろう。
二度も生じた異常事態を夢や気のせいで片付けられる程、律も愚鈍ではないのだから。
――結局、何が起こってるんだよ?
唸り声を出しながら、律は頭を捻る。
現在、起こっている事――。
単純だ。振り返ってみるまでもない。
八月三十一日に梓と遊んだ後に帰宅し、就寝して目を覚ますとまた八月三十一日だった。
馬鹿馬鹿しい程に単純な事態に律自身も呆れたくなった。
だが、単純だからと言って、解決策が単純に見つかるというわけではない。
むしろ単純だからこそ、途方に暮れてしまう事の方が多いのではないか。
律にはそう思えてならなかった。
例えば推理ドラマなどでは、トリックを使ったが故に犯人が特定される事がよくある。
そのトリックが使えた人物はある一人の人物しか有り得ない。
故に自動的に犯人が特定されてしまう。
だったら――、と律はいつも考える。
そもそもトリックなんか使わなかったら?
そこに居る全員にアリバイが無い状態で、全員に犯行が可能な状態にしたら?
その方が下手にトリックを使うより、犯人を見つけ出す事が難しくなるんじゃないか、と。
それこそ、あらゆる可能性を考える事が出来るが故の思考迷路と言える。
時間が巻き戻っている。
否、正確には繰り返している――だろうか。
律の記憶の中では、少なくとも三回、八月三十一日を経験している。
梓と喧嘩した初回、梓を楽しませる事が出来た二回目、そして、今回の三回だ。
となると、間違いなく二回は時間が巻き戻っている事になる。
ならば、時間が巻き戻っていると称するよりは、時間が繰り返していると称した方が正解だろう。
繰り返す八月三十一日――。
何処かで聞いた気がする話だなあ、と律は他人事のように思い付く。
確かジャンルとしては、無限ループもの――でよかっただろうか。
人並みに漫画を好む律だ。
何度かそのジャンルの漫画を読んだ事もある。
ある出来事を切欠に、特定の期間が無限に繰り返す様になる――。
かなり掻い摘んで言えば、それが無限ループものというジャンルだった。
真新しいジャンルと言うわけではない。
むしろ近年、手垢が付き過ぎるほどに使い古されたジャンルと言えなくもない。
律ですら、見かける度に、またか――、と食傷気味だった。
- 39 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/12/17(月) 19:12:55 ID:EQkPNMi.0
- だが、劇作として触れる事と、現実に自分が経験する事には天と地程の差がある。
例えば格闘漫画に飽き飽きしている読者であっても、
現実に誰かと格闘する機会に陥れば、動揺せずには居られないだろう。
比較的現実に近い劇作であってすら、そうなのだ。
律は現在、格闘漫画など比較出来ない超常的な現象に巻き込まれてしまっている。
事態の収束の見通しが五里霧中なのも、当然と言えば当然だった。
無論、それに甘え、思考を停止してしまうわけにもいかないが。
だからこそ、律は頭を捻って考える。
あまり出来がいいとは言えない頭で、それでも出来る限りの事を考えるのだ。
どんなに間抜けに思える考え方であってすらも――だ。
――えーっと、あの漫画じゃどうして無限ループしてたんだっけ?
スティックと携帯電話を握り締め、律がそうやって思い返したのは漫画の事だった。
現在己が置かれてしまっている漫画の様な事態――。
事態が漫画の様であるのなら、解決策も漫画の中にあるはず――。
そう単純に考えていたわけではないが、他に頼れる物も無かったから仕方が無かった。
どの道、常識など通用しないだろうし、科学も定理も今の所は役に立ちそうにない。
結局の所、異常事態には、通常ではない思考で立ち向かうしかないのだ。
まず律が思い出したのは、魔法の力で時間を繰り返している漫画の事だった。
いきなり非科学的この上ないとは思いつつも、とりあえず思考を巡らせてみる。
その漫画では、一人の魔法使いが、ある悲劇を回避する為に、
時間逆行の魔法を使用して、時間を何度も何度も繰り返させていた。
厳密には無限ループものとは違うかもしれないが、時間が繰り返している事には違いない。
――魔法ねえ……。
律は自分の思考の突飛さに苦笑してしまいそうになる。
魔法だの何だの、思考回路がメルヘンこの上ない澪の様だ。
しかし、時間が現実に繰り返している以上、魔法の存在を考慮しないわけにもいかないだろう。
だが、それを考慮したとしても、魔法と自分が関係しているとは律にはどうしても思えなかった。
何故なら、その漫画で時間が繰り返している事を認識しているのは、
当然ではあるが、時間逆光の魔法を使った魔法使いだけだったからだ。
術者だからこそ、自分が時間を繰り返させている自覚があるという単純な理由だ。
そして、無論、律は魔法使いではない。
何処かに存在しているかもしれない魔法使いが遠い空の下で魔法を使い、
何らかの偶然で律だけが時間の繰り返しを認識しているという可能性もあるが、流石にそれは無いだろう。
それこそ異常事態に異常事態を二乗した複雑怪奇な事態でしかない。
偶然と偶然を繋げる考えた方もあるが、
魔法使いと無関係な律だけが記憶を有しているなど無茶に過ぎる。
やはり、時間が繰り返している事と、律自身が関係していると考えた方が賢明だろう。
無論、律自身が魔法使いなのだと考えるわけではないが。
となると――と律はもう一つの無限ループものの漫画を思い出す。
その漫画も一つの悲劇を切欠に時間が繰り返すようになる漫画だったが、繰り返す理由は魔法ではなかった。
魔法ではないのだが、時間が繰り返している理由ははっきりしなかった。
時間が繰り返す切欠自体は律もよく憶えている。
ヒロインが主人公の死に絶望し、時間の逆行を望んだからだ。
主人公の死を拒絶したヒロインが特殊な能力に目覚め、時間を繰り返させたのだ。
ただ、その特殊能力が何なのか、詳しくは言及されなかった。
ヒロインの特殊能力は単なる舞台装置の様なものだったし、物語上では重要な事ではないという事なのだろう。
とにかく、ヒロインの心残りによって、世界の時間が繰り返すようになったのだ。
その漫画以外にも、悲劇を避けるために時間が繰り返す話は多数あった。
これなら律自身にも関連出来そうな気がしないでもない。
かなりこじ付け的な考えではあるが。
- 40 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/12/17(月) 19:13:31 ID:EQkPNMi.0
- だけどなあ――、と律は考える。
心残りとは何なのだろうか。
何かをやり直したいと思った事は律にも何度もある。
後悔や反省をした事など両手では数え切れない。
だが、世界を繰り返させる程の大々的な失敗は無かったはずだ。
幸いながら、誰か友人を失ってしまった事もこれまで無い。
繰り返している八月三十一日にも心残りなど無かった。
そのはずだ。
無論、夏休みが終わる事を惜しく思ってはいたけれども。
――待てよ。
不意に律の脳裏に一人の少女の面影が過ぎる。
真面目なツインテールの後輩。
梓――。
最初の八月三十一日、律は梓と他愛の無い事で喧嘩をしてしまった。
喧嘩さえなければ最高の一日だったのに、最終的に台無しにしてしまった。
笑顔にしてやりたかったのに、大切にしてやりたかったのに、怒らせてしまった。
後悔と悔しさと反省に満ちた八月三十一日――。
確か、そう、律はその初回の八月三十一日に願わなかっただろうか。
布団の中で叫ばなかっただろうか。
『あー、もーっ!
今日の喧嘩、無かった事になんねーかなー……!』
と。
願った。
律は確かに願った。
最低な八月三十一日をやり直す事を。
八月三十一日が繰り返しているのだ、梓がこの事態に関係してないと考える方がおかしい。
だが、それでは――。
不意に――。
握り締めていた携帯電話が音を鳴らしながら振動を始めた。
突然の事に動揺しながら、律は携帯電話の液晶画面に視線を落とす。
分かり切っていた事だが、液晶画面には『あずさ』と表示されていた。
律は三コールほど躊躇ってから、通話ボタンを押して電話を耳に当てた。
すぐに不機嫌そうな後輩の声が電話の先から聞こえてくる。
「もーっ、いつまで寝てるんですか、律先輩っ?
夏休みに早起きしろとは言いませんけど、人を呼んでる時くらいは起きてて下さいよーっ!」
そして、これ見よがしに三度続けられる自宅のチャイム。
そういや、家のチャイムが鳴ってたんだっけな――。
考え込んでしまっていて、すっかり忘れてしまっていた。
――駄目だ、駄目だ!
胸の中でだけ自分を叱責し、律は軽く自らの頬を叩く。
時間は――、世界は――、律の同じ日は繰り返している。
事態の解決策など微塵も見えていない。
解決策があるかどうかも定かではない。
それでも、一つだけはっきりしている事がある。
時間が流れているという事だ。
三回目の世界かもしれないが、律は生きている。生きて、呼吸して、考えている。
梓も――、生きている。
生きて、話して、怒っている。
ならばこそ――。
律は梓の前ではいつもの自分で居なければならない。
例えまた同じ時間を繰り返してしまうとしても、それでも――。
律は大きく息を吸い込む。
もう一度だけスティックを強く握り、多少なりとも落ち着いてから声を出した。
大丈夫だ、大丈夫だと自分に言い聞かせて。
「ごめん、梓!
今日の事が楽しみで中々寝付けなかったんだよなー。
本当にごめんな!
その代わりと言っちゃ何だけど、おまえの好きなおやつを奢ってやるから、機嫌直してくれないか?
なっ? 頼むよ、梓ー?」
こうして――。
三度目の八月三十一日が始まる。
- 41 : ◆Q4IsgKJmwY:2012/12/17(月) 19:14:07 ID:EQkPNMi.0
-
お久し振りです。
今回はここまでになります。
- 42 :いえーい!名無しだよん!:2012/12/17(月) 20:02:12 ID:PIYze5SQO
- お久しぶりです!!
ずっと待ってました!
これからも頑張ってください!!
- 43 :いえーい!名無しだよん!:2012/12/18(火) 01:06:36 ID:6uFbJYSs0
- 今時ループ物とは
- 44 :いえーい!名無しだよん!:2012/12/18(火) 12:39:01 ID:nFWIprHA0
- 頑張れ
楽しみにしてます
- 45 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/01/10(木) 19:11:24 ID:kwzqtm5c0
-
*
『全ての因果の鎖から解放された時、運命の円環は終焉に至る』
だっただろうか。
律が読んでいた無限ループものの漫画では、基本的にそうした理由でループが終わっていた。
多少難しい言葉なので理解するには多少時間が掛かったのだが、
結局はある条件を全て満たす事が出来れば無限ループが終わるらしい、という事だけは律にも分かった。
ある条件――。
大抵の場合、そのある条件に値するのは、人の想いの解放である事が多かった。
因縁――
後悔――
心残り――
とにかくそれらに近いマイナス方面の感情を原因として、世界は繰り返していた。
世界が繰り返す原因がそれであるとするのなら、
その感情の解消こそが無限ループの終焉に繋がるのは自明の理だろう。
勿論、あくまで劇作のお約束として――だが。
そして、律としても、そのお約束に頼るのはやぶさかではなかった。
そもそもにおいて、異常事態に直面した律が頼れるのは胡散臭い劇作しかないのだ。
胡散臭くとも、そこに一条の光明があるのなら、何であろうと頼らざるを得ない。
例えそれが幻惑の光明であったとしても。
それは構わない。
劇作に頼ってみた結果、失敗を引き寄せる事となったとしても律は構わない。
その程度は覚悟の上だし、一歩でも前に進んでるという実感が得られれば、
希望が気のせいであり、何もかもが偽りの希望であっても、それは全く構わないのだ。
――だけど、なあ……。
律は口元に手を当てて考える。
朝、梓が自宅を訪問する直前、考えていた疑問をまた脳内で回転させる。
即ち、自分の心残りとは何だったのか、という疑問。
否、その答えは既に出せてしまっている。
いとも簡単に導き出せてしまえている。
故にこそ、律の頭は余計に混乱してしまう。
混乱し、律自身ですら実感出来るほどの無様な呻き声を漏らしてしまうのだ。
「ど、どうしたんですか、律先輩?
次はどの乗り物に乗るかって事が、そんなに悩ましい事なんですか?」
唐突に声を掛けられ、律は少しだけ動揺してしまった。
おずおずと声がした方向に視線を向け、どうにか無理のある笑顔を浮かべる。
当然の事だが、その方向では梓が多少の呆れ顔を浮かべ、首を傾げていた。
――あんなに遊園地に行きたがってたのに、もう行きたいアトラクションが無くなったんですか?
梓の瞳はそう語っていたが、流石に口にまで出しはしなかった。
奢りで連れられて来ている立場上、あまり生意気な事を言うのもどうかと考えているのだろう。
気を遣われているのか気を遣われていないのか判断し難いが、
とりあえず自分の様子が梓に不審に思われている事だけは律にも分かる。
律は梓に気付かれないように一度深呼吸をしてから、左腕を広げて梓の首筋に回した。
- 46 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/01/10(木) 19:11:52 ID:kwzqtm5c0
- 「馬ー鹿、そんな事あるわけないだろ?
どう回ったら遊園地を楽しめるか、梓のために考えてやってたんだっつーの。
どのルートが一番楽しいか……、それを考えるのが遊園地の醍醐味なのだよ、梓くん!」
「はあ、それはどうも……。
って、そんな事より暑いですって、律先輩!
こんな炎天下の中でくっつかないで下さいよー!」
「いいじゃんいいじゃん。
私達放課後ティータイムの仲の良さを、周りの人達に見せつけてやろうぜ?
そんなに照れなくてもいいじゃんかよー」
「照れてません! 暑苦しいだけです!」
回した腕の中で梓が暴れるが、幸い律の方が少しだけ力で勝っている。
抵抗しても敵わないと悟ったのか、梓はすぐに脱力した様子で暴れるのをやめた。
どうやら誤魔化せたらしい――。
律は腕の中に梓の体温を感じながら、軽く胸を撫で下ろした。
先刻より多少は落ち着いた思考回路で、律は再度現在の状況に思いを馳せる。
髪の長い生意気な後輩の瞳を横目に見つめる。
梓――。
最初の八月三十一日、律の心残りになったのは間違いなく梓の事だった。
最高の一日になりかけていた最低の一日。
喧嘩別れなどという最低な経験をしてしまった、否、させてしまった最低な一日だ。
やり直したい、最低最悪な日だ。
幸か不幸か、律はその八月三十一日をやり直す事が出来た。
何の運命か因果かやり直せたのだ。
そう。やり直せたというのに――。
律は梓に気付かれないように小さく嘆息する。
嘆息せずには居られない。
先刻も考えた事だが、一般の無限ループものでは、
後悔や心残りの原因を取り除く事で、世界の繰り返しが終焉を迎えるのが基本だ。
それが無限ループもののお約束と言える。
しかし――、と律は苦悩する。
何故なら、と考えるまでもない。
律の心残りは二度目の八月三十一日で、とっくに取り除かれているからだ。
二度目の八月三十一日は、少なくとも律の中では最高の一日だった。
梓を怒らせるような事もしなかったし、別れ際の梓の笑顔はとても輝いていたはずだ。
心から満足して次の日――九月一日を迎えられる。
それくらいには最高の一日だったのだ。
だというのに、事態は何も進展していなかった。
何も変わってはいなかったのだ。
だからこそ、律は苦悩して、呻き声まで漏らしてしまうのだ。
- 47 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/01/10(木) 19:12:18 ID:kwzqtm5c0
-
――梓の好感度が足りなかったとか?
馬鹿馬鹿しい発想だと自分でも呆れながらも、律はそういう思考に至ってしまう。
好感度――。
俗に言う恋愛シミュレーションゲームの、主人公と作中のキャラクターとの仲の良さを表す数値の事だ。
律は恋愛シミュレーションゲーム自体をプレイした事は無いが、
恋愛要素や友情要素のあるロールプレイングゲームをプレイした事はあった。
そのゲームではあるキャラクターの好感度が一定値を越えていなければ、真のエンディングに辿り着く事が出来なかったのだ。
だったら、やっぱりこれなのか――?
馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい発想だ。
それでも、今の律には現状をそう考える事しか出来ない。
無理矢理にでもそう考えなければ、心の平静が保てなかったと言っても過言ではない。
そうでなければ、今にも叫び出してしまいそうだった。
それに当てにならない目標であっても、無いよりはあった方が何倍も助かった。
軽い冗談ではあったが、澪の前でメジャーデビューを目標にしたおかげで、
律は軽音部の活動を少しは真剣に頑張ろうという気になれたのだから。
「それにしても、急に遊園地なんて本当にどうしたんですか?」
腕の中の梓が律に不安そうな視線を向ける。
律の突然の思い付きを怪訝に思っているのだろう。
律はこれまで、梓や澪の前で思い付いた事を適当に何度も口にしていた。
そうすれば皆が楽しんでくれるはず、と思えた時には、何でも躊躇わずに口にした。
結果、それなりに上手くやって来れたはずでもある。
だが、ある程度の一線は越える事もしなかった。
あまり大袈裟な思い付きは流石に口にしなかったし、
悪ふざけは好きだが、やっていい事とやってはいけない事の境界くらいは律にも分かる。
不意に境界を越えてしまったと感じた時には、出来る限り誠意を込めて謝った。
それが律の最低限の規律であったとも言える。
故にこそ、梓は今回の律の思い付きを怪訝に思っているのだ。
後輩を呼び出した当日、行き先も告げずに遊園地に向かうなど、
今まで実行して来た律の思い付きの行動の範疇を遥かに超えていた。
ついでに言えば、予算もかなりオーバーしていた。
自身だけならともかく、梓のフリーパスと交通費も律が負担しているのだ。
これは何かあるのではないか、と梓が考えない方がおかしかった。
だが、律はかぶりを振って笑うのだ。
否、だからこそ、律は笑わなければいけなかったのだ。
梓を心から楽しませるために。
それと同時に、謝罪の意味も込めて。
「急に行きたくなったんだから仕方ないじゃんかよ、梓ー。
私ももう受験生だし、おまえだって来年は受験生だろ?
だから、おまえとこうして遊園地に行く機会なんて無いかも、って思っちゃったんだよ。
考えてみりゃ、梓と二人で遊園地に来る事なんて無かったから、一度やってみたかったしな。
んで、思い付いちゃったからには、やれるうちにやっちゃわないとな、このりっちゃん部長としてはさ。
でもさ、あんまり急だし梓に悪いかも、って思ったから遊園地とかの費用を奢らなきゃ、って思ったんだよ。
その答えじゃ不満か?」
その言葉は半分真実で半分嘘だった。
梓と二人で遊園地に来たかったのは本当だ。
無論、軽音部のメンバー全員で遊園地で遊ぶのは別格で、楽しいに決まっている。
しかし、二人で遊ぶ事と、大勢で遊ぶ事は似ている様で遥かに異なっている。
一度、二人で思い切り遊んで、梓の事を見つめ直してみたい気持ちはずっと前からあったのだ。
こんなきっかけとは言え、それが実行出来たのは正直律も嬉しかった。
だが、同時に申し訳ない気持ちで溢れている事も、また確かだった。
三回目の八月三十一日である今日、律が遊園地に行こうと思ったのは、
遊園地なら梓を二回目の八月三十一日以上に楽しませる事が出来るかも、という打算があったからでもある。
律の心残り――或いは梓の好感度と、
世界が繰り返す原因に因果関係があるとは限らないが、試せる事は試しておかなければならなかった。
要するに律は梓との思い出を、事態の収束のために利用する事にしてしまったのだった。
止むを得ないとは言え、動機はどうであれ、それは律にとって最低な行為に他ならなかった。
故に自己満足だと律も分かってはいるが、遊園地の費用くらいは負担しなければ気が済まなかった。
そして、完全には無理だとしても、この無限ループなど関係無く梓を心から楽しませたい。
例え次に四回目の八月三十一日を迎える事になったとしても、その誓いだけは何度でも守りたいのだ。
- 48 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/01/10(木) 19:12:47 ID:kwzqtm5c0
- 「不満じゃありませんけど、でも、何かちょっと……」
梓が律の腕の中で独り言のように呟く。
その梓の表情は律の事を不安に思っているというより、心配に思っているように律には見えた。
やはり、今回の八月三十一日の律の行動は不自然過ぎたのかもしれない。
しかし、律は梓にそんな心配そうな顔をさせたくなかった。
もしもこれから先、何度でも八月三十一日を迎える事になったとしても、それだけは嫌だった。
梓には心からの笑顔で居てほしかった。
だからこそ、律は微笑んで言ってみせたのだ。
今度こそ、心からの笑顔で。
「あーっ、ひょっとして梓ってジェットコースターが苦手なんじゃないかー?
さっき乗った後も、何か足がふらついてたように見えたしな。
梓ちゃんってお子ちゃまだったんでちゅねー」
「何を言うんですか!
そんな事は断じて無いです!
いいでしょう、今度はこの遊園地で一番大きいジェットコースターに乗りましょう!」
「おっ、その意気だぜ、梓。
んじゃ、行こうぜー!」
梓の首に回していた腕を外し、律は梓と共にジェットコースターに向かって行く。
梓に気付かれないよう、軽く拳を握り締めて誓う。
この先どうなるかは分からない。
梓の好感度や私の心残りが無限ループに何の関係があるのかも分からない。
ひょっとしたら、関係無いのかもしれない。
それでも、梓にだけはどんなに繰り返しても最高の思い出を作ってみせるし、
私の事を心配させたりなんかしない、絶対に何があったって――。
もしも――
それが叶うのであれば――
- 49 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/01/10(木) 19:13:50 ID:kwzqtm5c0
-
今回はここまでです。
またよろしくお願いします。
- 50 :いえーい!名無しだよん!:2013/05/01(水) 23:37:38 ID:cl41ghpoO
- 続きはまだですか?
- 51 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/11(土) 03:20:02 ID:Bo7eoYTg0
- すみません、1です。
どうにもスランプでして…。
まだ許されるようなら、来週から再開しようと思います。
ご迷惑おかけしてすみません。
- 52 :いえーい!名無しだよん!:2013/05/14(火) 22:54:56 ID:dL2AMu8QO
- >>51
楽しみにして待っておりますので是非ともお願いします。
- 53 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/17(金) 22:36:38 ID:t.crwgw60
-
*
「あー……、やっぱいい天気だなー、ちくしょー」
律は自分の手のひらを太陽に翳しながら苦々しげに呟いた。
既に経験し尽くして分かり切っている天気模様とは言え、
こうも快晴が続く――否、繰り返される――と曇り空が恋しくなって来る。
友人から太陽に例えられがちな律だが、曇天を憎々しく思っているわけではないのだ。
軽い嘆息の後、太陽から視線を逸らす。
それから、律は眼前に自らの手のひらを返してみる。
13
律の手のひらには、自覚出来る程度には下手な文字でそう記されている。
何、別に誰かに見せるわけではないし、律自身にさえ伝わればいい文字なのだから問題は無い。
時間の繰り返し――ループ――が五度目を数えた時、
律は誰に言われるでもなく自らの意思で、世界が繰り返した回数を手のひらに記すようになっていた。
それで何が変わるわけでもないだろうが、律はそうせざるを得なかったのだ。
繰り返す日常は人間から気力や活力、希望などを根こそぎ奪い取っていく。
ループしていない世界ですらそうなのだ。
自らの記憶以外、何ら変化する事が無い同じ日を生きる――。
人も、天気も、環境も、出来事も変わらない一日の繰り返し。
考えてみるだけで気分が悪くなったし、実際、四度目のループでは何度か吐いた。
故に律はせめてもの変化を求めたのだ。
信じたかったのだ。
この繰り返す一日の中に身を置いていても、せめて自分の精神だけは前に進んでいるのだと。
前進し、好転しているのだと。
「前進……してんのかなあ――?」
自嘲気味に漏らす。
いや、前進しているはずだ、と律は考える。考えようとする。
実際、手のひらに記され数字だけ八月三十一日を繰り返している内に、分かって来た事も多少はあったのだ。
繰り返す八月三十一日――。
正確にはその一日の丸ごとが繰り返しているわけではない事には、三度目の八月三十一日で律も気付いた。
三度目の八月三十一日、遊園地で存分に梓と楽しんだ律は、自宅で夕飯も取らずに自室のベッドで時計を見ていた。
願わくば八月三十一日が何事も無く過ぎ去る様に、斯様な期待が無かったと言えば嘘になる。
しかし、それ以上に確かめたい事も一つあったのだ。
結果的に律が九月一日を迎える事は出来なかっだが、それでも発見はあった。
八月三十一日が繰り返すリミットの正確な時刻だ。
午後十一時五十九分五十九秒。
律はその秒針まで目を逸らさずに見つめていた。
しかし、午前零時を迎える事は出来なかった。
長針、短針、秒針が午前零時を示した瞬間、律の身体が自室の布団の中に身を横たえてしまっていたからだ。
無論、意識して行った事ではない。
午前零時を迎えようとした瞬間、気付けば律は布団の中に居た。
先刻まで私服だったというのに、ご丁寧にパジャマにまで着替えて、だ。
- 54 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/17(金) 22:37:03 ID:t.crwgw60
-
――寝た気がしなかったわけだよなー。
目元に掛かる前髪を掻き上げながら、妙に冷静に律は考えた。
午前零時を迎えようとした瞬間、時間が当日の朝まで繰り返す。
身を起こして時計を確認してみると、いつの間にか十時を指し示していた。
当然、午前なのか午後なのかは時計だけでは判断出来ないが、
カーテンの隙間から差し込む陽光から察するに、当然ながら午前なのだろう。
初回の八月三十一日、律も詳しくは憶えていないが、十時過ぎにはベッドの中で眠りに就いていたはずだ。
まるで寝た気がしないはずだ。
実質、二時間しか眠っていない事になるのだから。
疲労などが全く残っていないのは、せめてもの幸いだろうか。
恐らくこれは初回の八月三十一日の前日、
つまり八月三十日――当たり前の事だが――に準備万全で眠った事が関係しているのだろう。
「八月三十日ねえ……」
律は自嘲気味に漏らして、嘆息がちにカチューシャを装着する。
四度目の八月三十一日を迎えただけだと言うのに、既に遠い昔の出来事の様だった。
まるで去年の出来事の様だったし、
このループが続くのならその思い付きも冗談では済まなくなってしまう。
出来れば布団の中で頭を抱えて蹲っていたい気分に苛まれそうになる。
しかし、そんな時間など無い事も、律はよく分かっているのだった。
耳を澄ませば、否、耳を澄ますまでもなく、聞こえてくる自宅のチャイム音。
無論、梓が玄関の前で待っているのだ。
折れ曲がりそうな心を奮起させて、律はベッドから足を下ろした。
既に世界が繰り返す現実については受け容れているし、
梓にはどの八月三十一日でも楽しく過ごさせたいと決心もしているのだから。
ならばこそ――、律はやはり時間を繰り返しながら、解決策を探るしかないのだ。
「よっしゃあっ!」
空元気でも元気。
自分に強く言い聞かせて、律はパジャマのままで玄関に向かい、梓に笑顔を見せるのだった。
繰り返す一日であろうと、梓にだけは最高の一日を過ごしてもらうために。
律はそうしなければならないと感じていた。
もしも――、もしも世界の時間が――、
私以外の人達の時間が繰り返していなかったとしたら――と。
故に律はどのループでも梓に対して真摯に向き合わねばならないのだ。
そうして律は十度のループを超え、この八月三十一日に置いてはここに居る。
見知らぬ公園のベンチ、未だ残暑厳しい日光に照らされているのである。
「お待たせしました、律先輩」
妙に人懐こい笑顔を浮かべて、梓が両手にソフトクリームを掴んで戻って来る。
律には見知らぬ公園だったが、梓にとっては馴染みらしい。
頼んでおいたソフトクリームも、律が思うよりずっと早く購入出来たようだ。
律は手のひらの文字を梓に見せないように拳を握り、柔和に笑い掛ける。
- 55 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/17(金) 22:38:26 ID:t.crwgw60
-
「おう、おつかれさん。
悪いな、お使いなんかさせちゃって」
「いえ、それは全然。
だけど、本当によかったんですか?」
「何が?」
「私の行きたい所に付き合ってもらっちゃってる事ですよ。
だって、今日は律先輩の方から私を誘ったんじゃないですか。
だから、きっと律先輩には行きたい所があるんだろうな、って思ってたんですよ?
それなのに、こんな私の行きたい場所ばかり付き合ってもらっちゃって……」
「いいっていいって。
それに梓の行きたい所ばかり、って言っても、音楽ショップとかじゃんか?
行きたいのが音楽関係の店なら、私だって大歓迎だよ。
おまえは忘れてるかもしれないけど、私、これでも軽音部の部長なんだぜ?」
「あ、そうですね、忘れてました。
律先輩、部長だったんですよね」
「おいこら、中野ー!」
律は両手を振り上げて飛び掛かろうとしたが、無論、飛び掛かろうとしただけだった。
梓は両手にソフトクリームを掴んでいる。
こんな状況で飛び掛かろうものなら大惨事が待っている事は想像に難くない。
梓もそれを分かっているのか、笑顔で頭を下げながら律にソフトクリームを差し出した。
「あはは、すみません、律先輩。
ほら、まずはソフトクリームが溶ける前に食べちゃいましょうよ」
それもそうだな、と律はソフトクリームを受け取り舌を這わせた。
慣れない考え事をしていたせいか、甘さが全身に染み渡る気がする。
梓は何が楽しいのかその律の様子をしばらく見ていたが、
炎天下の熱にソフトクリームが溶け始めて来た事に気付いたらしく、
「それじゃあ、失礼します」と頭を垂れてから、律の隣に行儀よく腰を掛けた。
垂れそうになっているクリームから器用に舐め取っていく。
「おー……」
感嘆の声が律の口から思わず漏れた。
「何ですか?」と梓が首を傾げたが、「何でもねーよ」と返してからその頭を軽く撫でて誤魔化した。
梓に最高の一日を過ごしてもらいたいのは確かだ。
しかし、こんな事まで言う必要は無いだろうし、梓はきっと顔を真っ赤にして怒るだろう。
――急いでソフトクリームを舐める梓の姿が可愛い、なんてさ。
苦笑がちに、思う。
梓は普段その愛らしい外見に似つかわしくなく頑固な所があり、
先輩で部長の律に対してもその態度を崩さない――どころか粗末に扱いがちな所も多々ある。
大人びたい年頃なのか、頼りない先輩達を見て不安に思っているのか、そのどちらなのかは分からない。
けれど、その梓も稀に今の様に歳相応に可愛らしい姿を見せる事がある。
律はその顔を見たくて常日頃から梓をからかっているのだが、大抵は上手くいっていない。
故にこそ嬉しくなるのだ。
不意な拍子に梓の素の姿を見られる事が。
――私、こいつに救われてるよな。
こんな異常事態に見舞われて、律は余計にそう考えてしまっている。
八度目の八月三十一日だっただろうか。
その日はプールに行ったのだが、不意に梓とはぐれてしまったのだ。
夏休み最終日という事もあって、大勢の客が最後の水泳を楽しもうとしていたのだろう。
一時間以上捜しても、律ははぐれた梓を発見する事が出来なかった。
捜し疲れ、大勢の人の中、プールサイドで頭を垂れていると胸に強い孤独が襲った。
たった一人、大切にしようと思っていた誰かを失った痛み。
自分の事を誰にも話せず、どうする事も出来ず、このまま一人で同じ日を生きていく事になるのか。
それが怖くて仕方が無くなったのだ。
――捜しましたよ。
数分後、誰かに腕を掴まれた時、正直律は泣き出しそうになった。
腕を掴んで微笑み掛けてくれていたのは、無論、梓だった。
瞬間、律はそれまで以上に強く決心したのだ。
――やっぱり、私はこの笑顔を守らなくちゃいけない。
と。
何としてもこの笑顔を守らなければならない。
どんな世界のどんな時間のどんな梓であっても、幸せであり続けてほしい。
そのためにも、このループを精一杯生き抜いてやろうと。
その律の想いに嘘は無かったし、その決心が間違っていたとは誰にも言えないだろう。
しかし、この時の律はまだ気付いていなかったのだ。
その強い想いが――、強過ぎる想いが――、律ともう一人を縛り始めている事に。
誰かと共にある事――、人に好かれるという事――、
人を幸せにしようとする事がどのような事なのか、まだ――。
- 56 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/17(金) 22:39:34 ID:t.crwgw60
-
大変お久しぶりです。
早めに終われるよう頑張りますのでよろしくお願いします。
- 57 :いえーい!名無しだよん!:2013/05/18(土) 05:20:09 ID:Gvg5jrck0
- 梓をにとことん惨めな思いさせてよ
- 58 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/24(金) 18:46:00 ID:lOCaephQ0
-
*
「ねえ、律先輩、この後、時間はまだ空いてらっしゃいますか?」
「ふえっ……?」
喫茶店。
陽が沈み掛けた頃、意図せず律の喉から変な声が出た。
今まで聞いた事の無い言葉が梓の口から出たからだ。
この奇妙なループが始まって以来――、
どころかこのループが始まる以前にも聞いた事がない梓の言葉だった。
『時間はまだ空いてらっしゃいますか?』、この言葉自体には問題無い。
重要なのは『この後』と言う部分だ。
『この後』、つまり夏の空が完全に夕焼けに染まり切ったその後の時間という事だ。
夜の時間を共に過ごそうと言っているのだ、梓は。
律と梓はそれなりに仲の良い先輩後輩としてやって来た。
少なくとも律はそう思っているし、梓もそう思ってくれているはずだ。
だからこそ、律は梓を八月末日に遊びに誘ったのだし、梓もそれを了承してくれたのだ。
だが、飽くまでそれなりに、だ。
律も何度か梓の家に遊びに行った事はあるのだが、陽が完全に暮れるまで滞在した事は勿論一度も無かった。
仮にも先輩である身としては、後輩の家族に迷惑を掛ける気にはなれなかったからだ。
当然ながら、合宿と夏フェス以外で梓と深夜まで一緒に居た経験も無い。
しかし、梓は言ったのだ。
『この後、まだ時間は空いてらっしゃいますか?』と。
予想もしていなかった事態を律は上手く呑み込めない。
「えーっと、そうだなあ……」
瞳を覗き込んで来る梓から視線を逸らし、律は曖昧な言葉で時間を稼ぐ。
これまで繰り返していた日常の変化――。
求めていた事のはずだったのだが、いざ直面してしまうと物怖じしてしまう。
梓に気付かれないよう、律は左の手のひらに記した文字に視線を落とす。
47
四十七回目の繰り返しを示す文字。
初回を含めれば、今回で述べ四十八回目の八月三十一日という事になる。
四十八回――、本来の夏休みの期間と同等の時間をループの中で過ごしている事になる。
――もうそんなに繰り返してんのかよ。
自嘲しようと思いつつも、律の口元から笑みは漏れなかった。
滑稽過ぎて笑えもしない、とはまさにこの事だ。
四十七回のループ。
少しでも解決に向けて前進しているのならともかく、
律は十二回目のループくらいから、この現象について何の情報も得られない状態が続いていた。
元より常識では理解出来ようも無い現象ではあるが、
一歩も前進もせずにその場で足踏みを続けるのは想像以上に辛いものだった。
ループの度に変わるのは、左の手のひらに書いている数字だけ。
その点に関してだけは、律は自分の思い付きに感謝していた。
もしもループの回数を記す習慣を思い付いていなければ、とっくの昔に自らを見失っていただろうからだ。
- 59 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/24(金) 18:46:38 ID:lOCaephQ0
-
「もしかして、この後、誰かと約束があるんですか?
澪先輩と一緒に夏休みの宿題を終わらせる約束をしてるとか」
意味深な沈黙を誤解したのか、梓が遠慮がちに律に訊ねた。
澪と約束をしているわけでは勿論無い。
夏休みの宿題は当然まだ終わってはいないが、明日、無理をすれば終わらないでもない。
明日が来れば、だが。
それよりも律が気になって仕方が無いのは、無論、梓の突然の申し出の事だった。
今回のループに限って、何故梓はこの後の予定などを訊ねたのか。
そんなにも特別な何かを、今回のループで起こしてしまったのだろうか。
「いや、別に約束もしてないし、予定があるわけでもないんだけどさ……」
カチューシャの上から頭を掻きながら、律は思い返してみる。
今回、つまり四十八回目の八月三十一日の事を。
否、思い返してはみたのだが――。
――特に何も変わってねー!
胸の内だけで叫ぶ。
自分でも滑稽だとは思っているのだが、律はそうせざるを得なかった。
何しろ何一つ心当たりがないのだ。
今回のループにおいて、律は梓とピクニックに行った。
梓が入部したての頃、部員全員で行った思い出の広場だ。
時間が繰り返すようになって四回目のピクニックではあったが、
前回行ったのは確か二十二回目のループの頃の事だったはずだから、そろそろまた行ってみるか、と思ったのだ。
遊び盛りの律とは言え、四十八回全て別の場所で遊べるほど、遊びのレパートリーが豊富なわけではない。
四回目とは言え、ピクニック自体は十分楽しかった。
過去三回で失敗した経験を活かして、梓が好まない場所には一切近付かなかった。
時間が合わなくて購入出来なかった屋台の鯛焼きもちゃんと買えたし、
そろそろ喉が渇き始めるだろう時間帯に買っておいたジュースを梓に渡す事も出来た。
帰りの電車では満員の時間帯を避けられたし、
二回目のピクニックの際に梓が気になった視線を向けていた喫茶店にも入店した。
何より律は梓が一番喜ぶだろう言葉を選んで、今日一日を過ごしたのだ。
それは不思議な現象と呼ぶべきなのか、或いは極自然な必然と呼ぶべきなのか。
述べ四十八回も同じ日を繰り返して来た律は、梓が何を言えば喜ぶのかほぼ把握出来ていた。
無論、人間は日によって体調や気分が変わる物だ。
同じ会話や行動をしてみた所で、同一人物から同じ反応が返って来るとは限らない。
しかし、律が過ごしているのは、律の記憶以外は全く同じ一日なのだ。
当然、梓の反応も完全に読み取れて来る。
何しろ四十八回も繰り返しているのだから。
――と、いう事は、だ。
- 60 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/24(金) 18:47:07 ID:lOCaephQ0
-
「なあ、梓……」
「はいっ!
何ですか、律先輩っ!」
何となく声を掛けてみただけだが、梓は満面の笑みでそれに応じた。
その眩しいくらいの笑顔に律は面食らう。
律の前では滅多に見せない梓の満面の笑顔。
今まで経験が無いわけではないが、二人きりの時にこんな表情をされた事は無かったはずだ。
しかし、梓は満面の笑顔を浮かべて、律のこの後の予定まで訊ねている。
これが意味する事はつまり――。
――好感度が上がり過ぎた……とか?
遥か遠い過去、そんな事を考えた記憶が無いでもない。
思い残した事など無かったはずなのに、世界が繰り返し続けている理由――。
梓を完全に心から楽しませてあげられなければ、このループから脱せられないのではないか。
斯様な現実逃避に似た、馬鹿馬鹿しい単なる思い付き。
しかし、そうでないとも言い切れない。
ループ自体、非現実的な現象であるがゆえ、解決策まで非現実的でない保証も何処にも無いのだ。
故に――。
「時間は空いてるんだけどさ、何処に行くつもりなんだ?」
律は自らの動悸が少し激しくなり始めた事に気付きながら、それを悟られぬよう軽く笑顔を浮かべた。
これでループから脱け出せるかもしれない――。
斯様な期待が無かったと言えば嘘になるが、それ以上に嬉しくもあった。
梓に嫌われていると自らを卑下していたわけではないが、もっと仲良くなりたい気持ちがずっとあったのだ。
普段、梓の事をからかい過ぎている自覚はある。
梓を楽しませたい気持ちは常にあったのだが、自分よりも小さな彼女を可愛がりたくもあった。
悪いとは思いつつ、梓をからかってその頬を膨らませる事が楽しかったのだ。
しかし、何の巡り会わせか、この八月三十一日においては、律は梓をからかう様な事はしなかった。
ただ梓の笑顔だけを求めて行動し、梓の幸福を選択して来た。
その結果が梓のこの満面の笑顔なのだ。
だとしたら、もう律には更なる梓の笑顔を求める事しか出来ない。
梓の申し出を断る事など出来ようはずもない。
「そうですか。それはよかったです!
そうですねー……、実は今夜、両親が出掛けてて留守なんですよ。
律先輩がよければ、私の家でもう少しお話しませんか?」
「おー、梓の家か。それは面白そうだな」
「律先輩、どうせ宿題が残ってるんでしょうし、私が少し手伝ってあげますよ」
「おいこら中野ー!」
繰り返す世界で――、否、これまでの人生で初めて見た梓の幸福そうな笑顔。
律はその軽く頬を染めた梓の笑顔を守りたいと思った。
見続けていたいと思った。
それがお互いの幸福に繋がるはずだった。
しかし、やはり律と恐らく梓も気付いてはいない。
自らの胸に確かに生まれつつある感情と、それが起因して始まる現象の意味を。
- 61 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/24(金) 18:47:48 ID:lOCaephQ0
-
今回はここまでです。
残り半分くらい続きます。
- 62 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/31(金) 20:50:07 ID:Z9OAMr4c0
-
*
梓の家を訪ねるのはどれくらい振りだったろうか。
体感時間が狂い始めている律にとって、それを思い出すのはけだし難問だった。
初夏――、確かその時期に一度訪ねた事があったはずだ。
無論、時期を思い出せただけで、梓の部屋で何もしたのかまでは思い出せなかったが。
「もうちょっと待ってて下さいね、律先輩」
楽しげな梓の声が台所から聞こえる。
梓が夕食は自分で作ると言って譲らなかったからだ。
律も準備の手伝いを申し出たのだが、それはやんわりと断られた。
どうも自分自身の手で用意した夕食を律に振る舞いたいらしい。
斯様な理由で、律は現在居間で足を崩して待っているわけだ。
「あいよ」と返事をした後、何となく右手を翳して居間の電灯に視線を向けてみる。
――眩しいなあ。
それが当然だと言う感じで、胸の中だけで呟く。
勿論、電灯が眩しいからではある。
しかし、当然ながらそれだけでは無い。
勿論、他の誰でもない梓が眩しかったのだ。
梓は元気で真っ直ぐだ。
律や唯には捻くれた発言を繰り返す事もあるが、それは不真面目な律達に原因があるとも言える。
基本的に真面目で部活の練習にも一生懸命。
成績も上位を保っており、小柄な体格ながら運動神経も悪くないらしい。
何事にも真っ直ぐなのだ、梓は。
故にこそ。
――眩しいよなあ、あいつは。
自嘲気味に律は苦笑してしまうのだ。
通常時であれば、後輩に負けないよう頑張ろう、という気概も湧いて来たものだが、
五十度近く繰り返す同じ日は、律からすっかり気力や思考力を奪い去ってしまっていた。
このループからは脱け出せないんじゃないか――、そう思えた事も両手両足の指の本数では足りない。
――私は一生、八月三十一日を繰り返し続けるのかもしれない。
その考えが脳裏を過ぎる度に、律は例えようの無い絶望に苛まれる。
いっそ何もかも捨ててしまおうか、そんな考えまで湧いて来る。
目の前で繰り返される日常に少しずつ精神を殺ぎ取られる前に――。
けれど、律はまだそうしていなかった。
ほんの少し残されたなけなしの気概を支えてくれる眩しさがあったからだ。
「お待たせしました、律先輩」
手に持った皿からいい匂いを漂わせて、梓が笑顔で居間に戻って来た。
「上手く出来たかは分からないんですけど」と言いつつ、楽しそうに配膳していく。
配膳されたのは、ハンバーグ、味噌汁、ごはん。
全ていつか梓に語った憶えがある律の得意料理だった。
恐らくは梓の胸に軽い悪戯心があったに違いない。
私だってハンバーグなら作れるんですよ――、と律に主張したかったのだろう。
苦笑でない笑顔を浮かべたくなってしまうくらい、相変わらず生意気な後輩だった。
「作ってもらった立場で、文句なんて言えないっての。
それじゃ、梓、遠慮なくいただきます」
「はい、どうぞ召し上がれ、律先輩」
梓の笑顔を見届けた後、律はゆっくりと夕食に箸を付けていく。
こう言うのも悪いとは思うのだが、正直言って形は不格好だった。
ご飯と味噌汁はともかく、ハンバーグの形がかなり歪んでいる。
普段、相当な腕前のギター捌きを見せるくせに、何故だかこういう事に関しては少し不器用らしい。
梓の手が小さい事も関係しているのだろう、そのハンバーグはまるで小さなおはぎのようだった。
しかし、味と形はそう関係している要素でもない。
- 63 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/31(金) 21:01:35 ID:Z9OAMr4c0
-
「お、美味いじゃん、このハンバーグ」
「本当ですかっ?」
素直に律が褒めると、眩しかった梓の笑顔が更に輝き出した。
その姿から、余程気合を入れて夕食を作ったのだという事が簡単に想像出来る。
律のために、梓は不格好ながら美味しいこの夕食を用意したのだ。
――ははっ、嬉しいな。
枯渇し掛けていた感情が甦って来る感覚。
律は忘れそうだった自分の目的を再確認出来た気がした。
そうだ、私は梓を笑顔にしたくて八月三十一日のやり直しを願ったんだ――と。
無論、ループの原因が律の願望だと言う根拠は一切無い。
全く別の要因で八月三十一日が繰り返している可能性も多分にある。
だが、律はそれでも誓ったのだ。
何度同じ日を繰り返したって、もう梓と喧嘩したりなんかしない。
何度だって笑顔のままで同じ日を終わらせてみせると。
「ありがとな、梓」
あっという間に用意された夕食を平らげた後、
気が付けば律はテーブルの向かいに座った梓の頭に手を伸ばして撫でていた。
行儀悪いのは百も承知だったが、胸に溢れそうなこの感情の行き場が欲しかったのだ。
部室では行儀に厳しい梓だったが、今ばかりは嬉しそうに律に撫でられていた。
笑顔が自然に溢れ出す幸福な時間。
繰り返す時間の果てにこれを手に入れられたのだと思えば、決して悪い気分ではなかった。
「ご満足頂けて何よりです。あっ……」
笑顔でそう返した途端、梓が何かに気付いた表情になった。
静かに律の口元に手を伸ばしていく。
梓の親指が律に触れ、また梓は笑顔になった。
親指を律の方に向けながら、小さく口を開く。
「もう……、嬉しいですけど、急いでごはんを食べ過ぎですよ、律先輩。
ほら、付いてましたよ、ごはん粒」
梓の言う通り、その親指には律の口元に付いていたらしいごはん粒があった。
確かに急いで食べてしまったのかもしれない。
そうしたくなってしまうくらい、梓の用意した夕食が美味しかったのだ。
ただでさえ律はこの繰り返す八月三十一日において、夕食に限ってはろくな物を食べていなかった。
時間がまた繰り返せばどうせ空腹感も消えるのだから、あえて食べたいとも思わなかった。
故にこそ、梓のごはんを凄く美味しく感じた。
生きていくための活力を貰えたのだ。
律は微笑んで、頭を下げながら返す。
「ははっ、ありがとな、梓。
いやー、梓のごはんがこんなに美味しいなんて思わなくってさ。
それで一気に食べちゃったわけですよ、この律先輩としては。
んじゃ、ごはん一粒にも神様が宿るって言うし、そのごはん粒は私が……」
頂こう――、その言葉が最後まで出る事は無かった。
律が梓から受け取る前に、梓がそのごはん粒を口にしてしまっていたからだ。
瞬間、自分の胸が激しく高鳴るのを律は感じていた。
「律先輩?」
急に言葉を止めてしまった律を見つめながら、不思議そうに梓が首を傾げる。
どうにか言葉を続けようとしながらも、律は上手い言葉が浮かんで来なかった。
ただ予想外の胸の動悸に混乱してしまっていた。
先刻、梓は律の口元に付いていたごはん粒を食べた。
俗に言う間接キスだった。
別に気にするほどの事でもないはずだった。
間接キスなど生きていれば数限りなくしてしまうものだし、
律自身も唯や澪とは何度だって間接キスをしてきた憶えがある。
澪をからかうために意図的に間接キスをしてしまった事も日常茶飯事だ。
- 64 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/31(金) 21:02:25 ID:Z9OAMr4c0
- だが、それでも――。
現在、律はその日常茶飯事に動揺してしまっているのだ。
間接キスと言う日常茶飯事に。
それは恐らく――。
「あ、いや……、何でもないって」
全く説得力が無いのを自覚しつつ、律は自分の顔が熱くなってしまうのもまた感じていた。
先刻まで梓を直視出来ていたのが嘘の様だ。
間接キスを意識してしまった瞬間、律は梓の顔を見られなくなってしまっていた。
――何だよ、これ……。
混乱する頭で律は自らに問い掛ける。
初めての感覚。
間接キス程度で相手を意識してしまうなんて、律には初めての経験だった。
不意に昔読んだ漫画のワンシーンが律の脳裏を過ぎる。
澪から借りた古い少女漫画のワンシーン。
主人公の女の子が好きな男の子と間接キスをしてしまって、舞い上がってしまうありがちなシーンだ。
あははっ、お約束お約束。
そんな風に、その時の律はそのワンシーンを微笑ましく読んでいた。
ありがちなお約束のシーンだとしか思わなかった。
まさか自分が同じ状況に直面するなど夢にも思わずに。
――私、まさか梓の事……。
思い掛けて、必死に振り払う。
そんな事などあってはならなかった。
勿論、梓の事は好きだ。
真面目ながらからかい甲斐のある後輩だし、一緒に遊んでいるととても楽しい。
しかし、それは後輩として見れば、という事だ。
こんな間接キス程度で赤面してしまう様な意味での好きではなかった。
そのはずなのだ。
それでも、妙に冷静な律のもう一つの思考が自らを分析してしまっている。
本当にそうか? と。
梓を意識するきっかけが本当に無かったのか? と。
答えは、否だ。
梓は与り知らぬ事だが、律は八月三十一日を五十度弱も繰り返して来た。
梓を笑顔にする事だけを考えて、梓の幸せだけを考えて行動して来た。
失敗してしまった行動を修正しながら、常に最善の選択を取り続けて現在に至った。
最初こそこのループから脱け出すために梓の幸福を望んでいたはずだったが、
いつの間にかその手段と目的が逆転してしまっていた。
梓の幸せを求める事こそが、律の真実の目的と成りつつあった。
結果、梓はこのループにおいて初めて律を家に招待してくれたし、
夕食まで用意してくれて、何気なく間接キスまで行うようになった。
梓の幸福を望む律の想いに応じる様に、梓も好意を返してくれるようになった。
それは律にとって望んでいた事だったはずなのに――。
喜ぶべき事のはずなのに――。
律は器用な事に赤面しながら青ざめてしまっている。
律は梓に幸福になってほしかった。
楽しい一日をプレゼントしたかった。
同じ日を繰り返した結果、その願いは叶えられた。
だが、それは律の独力で叶えられた願いではないのだ。
梓が返してくれる好意は、本来の律に向けられたものではないのである。
律は自分が何を求めていたのか、唐突に分からなくなってしまった。
梓には笑顔でこの一日を過ごしてほしい。
そのために最善を尽くしたい。
しかし、それは本来の律の最善ではないのだ。
そして、律の胸の中の梓への想いだけが膨れ上がるばかりで――。
少なくとも、今の自分に梓にこんな好意を返される資格が無い事だけは確かだった。
最初の八月三十一日以来、律はまた時間が繰り返す事を望んだ。
今回のループの事だけは、心に鍵を掛けて忘れてしまおう。
梓には楽しく過ごしてほしいけれど、必要以上に好かれてもいけないんだ――。
律が新たに決心した奇妙な二律背反。
こうして――。
律は更なる無限螺旋の中に足を踏み入れていく。
- 65 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/05/31(金) 21:05:05 ID:Z9OAMr4c0
-
今回はここまでです。
- 66 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/08/13(火) 19:16:23 ID:lgXTNiBo0
-
*
――あっついなあ、ちくしょー……。
変わらぬ、変わる事のあるはずの無い熱戦が地表に降り注ぐ。
残暑の熱気が律から多くの物を奪い去っていく。
気力、期待、未来、希望、様々な物を。
そして代わりに必要のない物を押し付けていく。
溜息、気鬱、徒労、忘却、不要な代替品を。
余計な荷物ばかり背負い込まされる憂鬱に吐気までしてきそうだ。
あのループ――、
上手く立ち回り過ぎた故に梓から好意を向けられたあのループ以来、
律は前進も後退も選択出来ない二律背反に苛まれていた。
梓に好かれればこのループから脱け出せるかもしれない。
それが有り得るかどうかはともかく、とりあえずの目標を持てていた時は前進出来た。
目標があるという事は幸福だったのだ、律にとって。
それは恐らく誰にとってもそうだろう。
しかし律に限らず目標を失った時、人は自らの生存理由を失うものだ。
特に律の場合、自らの意志で目標を破棄せざるを得なくなったのだ。
その状態で無限に繰り返す日常を平然と過ごせるはずもなかった。
故にループが六十度を超えた頃、律は笑顔を失った。
否、笑ってはいる。
梓の反応を見て笑顔を浮かべる事は出来る。
だがそれは機械的な反射からの笑顔だった。
感情も何も込められていない、頬と目尻が歪ませただけの笑顔でしかなかった。
斯様な笑顔を無意識に浮かべる事が出来るようになった時、
律は完全に同じ一日を繰り返すだけの機械になったのだった。
梓の反応を見て喜ばれる行動を選択し実行する。
ただし必要以上に喜ばれないように注意を払って。
191
不意に視線を下ろせば、ただ習慣で記しているだけの数字が目に入る。
もうそんなに繰り返したのか、と嘆息する事すらない。
単にもうすぐ二百回目だな、と機械的に思い、残暑の熱気に汗が噴き出るだけだ。
機械的な生活を繰り返すようになって百度以上、真新しい発見はほとんど無かった。
分かったのはこのループが九月一日に辿り着かないという事だけだ。
それは言葉通りの意味だった。
律はどうやっても九月一日の世界を迎える事が出来ない。
一秒たりとも、だ。
何度か時計を見ながら試したから間違いない。
零時を迎えたと思った瞬間、律は八月三十一日の朝に戻される。
寸分の狂いもなく。
一秒の狂いもなく。
- 67 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/08/13(火) 19:16:55 ID:lgXTNiBo0
- それで律は気付いたのだ。
このループの原因はやっぱり私自身か極近い誰からしい、と。
でなければ零時丁度に時間が巻き戻る事などあるものか。
考えるまでもなく世界には時差がある。
別の国の何処かの誰かが、律が感じる零時丁度に世界を繰り返すなど都合のいい事は無いだろう。
つまり誰かが起こしているループに無関係に巻き込まれているわけではないのだ。
少なくとも律自身も含めて律に関係した誰かが世界をループさせている。
その誰かとして考えられるのは梓だ。
律と同じく最初の八月三十一日に満足いかなかった梓が時間を巻き戻している。
それがどんな手段なのか梓自身が意識的に行っている事なのか分からないが、そう考えるのが妥当だろう。
――妥当だから何だってんだよ。
そう首を振りながら律が自嘲する。
仮に梓が時間を巻き戻しているとしても、解決策が見つからなければ発見とは言えない。
しかし、ひょっとしたら――、と律は何度か考えを進めた事もある。
怖がらずに梓との関係を更に進めれば、このループから解き放たれるのかもしれないと。
例えばキスや、恋人以上の関係の者達が行う行為をしさえすれば、梓は満足してくれるのかもしれないと。
梓と恋仲にさえなってしまえば――。
だがそれだけはしてはならない事だと、律はなけなしの意志で決断していた。
キスでも性交でもして梓を満足させられたとしても、それは一時だけの事だ。
必ずすぐに綻びが出て来るだろうし、そもそもそんな原因で梓を弄ぶ事など出来ない。
梓との関係を進める事が嫌なわけではない。
同性同士であるという事も気にならなかった。
理由や原因が何であれ、梓はこの繰り返す八月三十一日の中の救いだった。
輝きだった。
梓が笑っていてくれたから、律はどうにかこのループの中で生きられたのだ。
そんな梓と関係を進めたいと心の奥底では感じている。
しかしそれ故に――、それ故に関係を進められなかった。
律は梓が好きだ。
傍でずっと笑顔で居てほしい。
それ故に打算的な想いをぶつける事だけは出来なかった。
例え止むを得ない事情があったとしても、それだけは許される事では無かった。
許したくなかった。
「買って来ましたよ、律先輩」
柔らかい声に顔を上げると、梓が頼んでいたアイスを買って来てくれていた。
四段重ねのアイスクリーム。
「ん、サンキュな、梓」
「暑いからって食べ過ぎじゃないですか、律先輩?」
「いいじゃんかよー、
この店のアイスで試してみたい組み合わせだったんだからさ」
「まあ、律先輩がそれでいいならそれでいいんですけど」
「そうそう、私はそれでいいのだよ、梓くん。
それにこれであともう少しでこの店のアイスはコンプリートになるしな」
「そんなに来てたんですか……」
「まあなー」
時間が繰り返すようになってからだけど、と胸の中だけで律は呟く。
ループの中、五十度以上訪れたこのアイスの専門店。
梓に伝えた通り、もう三度ほど訪れれば全種食べ切る事が出来るだろう。
それはこのループが二百度を超えるより先に達成しておきたい事だった。
律は決めていた。
前進も後退も出来ないこのループ。
無限に変わらない日常を過ごすだけの繰り返し。
例え梓との関係を進めればこのループから脱け出せるとしても、それだけは律には選択出来ない。
偽りの自分で梓に好かれるなど、律にはそれこそ死よりも辛い事だった。
だったら――、と律は考える。
だったらするべき事は前進でも後退でもなく、このループの放棄だろうと。
試した所でどうなるか分かっているわけではない。
もしかすると同じループをまた経験する事になるだけかもしれない。
しかしそれが律に試せる最後に残された唯一の選択肢だった。
- 68 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/08/13(火) 19:17:23 ID:lgXTNiBo0
-
――二百回目のループの終わりに、死のう。
アイスの甘さを口の中に感じながら、律は軽く拳を握る。
怖くないと言えば嘘になる。
だがそれ以上に無限に梓を騙し続けるループに耐え切れなかった。
勿論、そう決心した理由はそれだけではない。
逆説的にではあるが、もう一つ考えている事もあったからだ。
律は同じ一日を繰り返している。
それを認識しているのは律だけだが、仮に世界の全員もそうだとしたらどうなるだろう。
誰一人として九月一日を迎えられていないという意味にならないだろうか。
律が存在しているがために、誰も未来に進めなくなっているという事にはならないだろうか。
当然ながら単なる仮説ではあるが、もしそれが真実だとしたなら律の存在はこの世界には余計な物だ。
ならばこそ律は、自分がこの世界から消え去ってしまうべきなのだと考えたのだ。
無論、律が消えた所でループが解消されるとは限らないけれど。
目の前でアイスを頬張る梓の笑顔を見ながら律は考える。
――私が死んだらこいつは泣くのかな?
分からない。
かなり泣き虫なタイプではある梓だが、誰かの死を経験した事は少ないだろう。
特に同世代の人間の死に至っては一度も経験していないに違いない。
もしかすると号泣して、しばらくは部活動にも身が入らないかもしれない。
ギターをやめようと考えるかもしれない。
だが、きっと大丈夫だ。
梓には唯が居る。紬も澪も、同級生の憂や純も居る。
いつかは律を失った事を乗り越え、笑顔の未来を見つける事が出来るだろう。
多少寂しい事ではあるが、恐らくはそれでいいのだ。
梓が未来を掴めるのだから。
その未来に律自身が居なくとも。
それがきっと――、律が梓に出来る最期の最良の事なのだ。
- 69 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/08/13(火) 19:18:24 ID:lgXTNiBo0
-
今回はここまでです。
早く終われるよう頑張ります。
- 70 :いえーい!名無しだよん!:2013/08/15(木) 00:18:39 ID:2JP/L9FEO
- 待ってました!!
これからも頑張ってください!
- 71 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/09/10(火) 21:44:49 ID:yGQaqURA0
-
*
「来ちゃったな……」
炎天下の太陽に照らされながら律が呟く。
来た。
来てしまったのだ。
来なければいいと思いながらも、心の何処かで来てほしいと考えていた日が。
「何が来たんですか?」
ツインテールを揺らして梓が律の顔を覗き込む。
誰にも聞こえないように呟いていたはずが、存外に大きな声になってしまっていたらしい。
自分で思っているよりも昂ぶっているのかもしれない。
昂ぶらないはずがなかった。
今日が最後で最期のループになるかもしれないのだから。
最低の最後であるのは分かっているが、とにかく終わる。
終わるはずだ。
「えーっとだな……」
「あ、夏休みの終わりが来たって事ですね?
私は知っての通り下級生ですから律先輩の宿題は見てあげられませんよ?」
悪戯っぽく梓に言われ、律は久しぶりに思い出す。
今日が八月最後の日で、夏休みが終わるのだという事を。
九月一日が日曜日であるため、正確には明日が夏休み最後の日になるのだが。
ともあれ夏休みが終わろうとしている事は間違いがない。
梓にとっては勿論、二百度のループを繰り返す律にとっても。
「いいよ、別に。
三年生は宿題ほとんど出てないしな」
「えっ、そうなんですか?
でも受験生なんだし、そういうものなのかな……?」
梓の推察通り、受験生である三年生にはほとんど宿題を出されていなかった。
進路に関する作文と小論文の練習、軽い各教科の課題がいくつかといった所だろうか。
全てを終えているわけではないが、律はその宿題のほとんどを終えていた。
らしくないと思いながらも念の為に早く宿題をしておいたのだ。
二学期には学園祭がある。
梓と、軽音部の仲間達と開催する最後のライブがある。
心置きなくライブに臨めるよう早めに宿題を終えていたのだ。
本来なら明日に残った宿題を全て終えられるはずだった。
しかしそれはもう今の律には関係の無い事だ。
律は苦笑とも失笑とも言えない表情を浮かべ、手のひらを太陽に翳してみる。
200
確認するまでもない。
律の手のひらに記されているのはその数字。
つい先刻書いたばかりなのだ。
諦念と共に記した数字ははっきりと記憶していた。
二百回。
実に二百回のループ。
二百一度目の八月三十一日。
律がこれと決めた日だ。
自分という人生の終わりと決めた日。
今回のループ、律は人知れず自殺を行う。
死のうと決めてからのループ、律はどう死ぬかばかり考えていた。
飛び降り、首吊り、練炭、入水、リストカット、飛び込み、
交通事故を装ってか、工事現場の事故を狙ってか、それとも服毒かいっそ割腹自殺か。
多くの死に方を考えた。
そして多くの死に方を却下した。
痛い死に方が嫌なのは当然だったが、自殺と分かる自殺にも抵抗があった。
自分が自殺した後にこのループの世界が続いたとして、友人達に傷を残したくなかったのだ。
律が自殺した事を知れば家族は勿論、唯や紬、澪は心に大きな傷を負うだろう。
さわ子も生徒の中から自殺者を出してしまった事に責任を感じるだろうし、クラスメイトも悲しむはずだ。
無論多くの物を一人で背負いがちな梓に至っては、再起不能に近い傷を負う危険性まである。
故に即座に自殺と分かる自殺をするわけにはいかなかった。
事故に見せかけた自殺も駄目だ。
単なる自殺と比較すれば、仲間達の傷も幾らかは和らぐはずだ。
しかしそれは責任を見ず知らずの他人に押し付けてしまうという事でもある。
例えば交通事故に見せかけて自殺してみたとして、
律を轢殺してしまった運転手の責任問題はどうなるというのだろうか。
赤の他人とは言え、自らの身勝手で誰かの人生を台無しにしてしまうなど、到底許される事ではない。
自らの死を最善に考えながら、それに誰かを巻き込む事をよしとしない。
それが律に残されたせめてもの良心のようなものだった。
自殺は、殺人だ。
他人を殺そうと自分を殺そうと、そこに価値の差は生じない。
残される者の事を一切考えない身勝手な行動に過ぎない。
律はそう考えていた。
そうして律がやっと見つけた最善の自殺の方法、それは山からの滑落だった。
それも立ち入り禁止で舗装などされていない山道が一番いい。
何処かの誰かに多少の責任が生じるかもしれないが、少なくとも最小限で済ませられるはずだった。
田井中律は何らかの理由で夜の山に足を踏み入れ、
何らかの理由で立ち入り禁止の山道に立ち入ってしまい、不注意から滑落事故にて死亡する。
- 72 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/09/10(火) 21:45:16 ID:yGQaqURA0
-
――よりにもよって思い付いたのが滑落かよ……。
律は己の貧相な発想に苦笑してしまうが、他に思いつかない以上どうにもならない。
間抜けな上に痛そうだ。
しかも死ねなかった場合、酷い痛みと共に一晩を過ごす事になってしまう。
かなり頭の悪い自殺としか言えない。
しかし仲間や他の誰かの心に負わせる傷が最小であるのなら、間抜けでもそれが一番よかった。
ともあれ死ぬのだ。
死ななければならないのだ。
仮定にしか過ぎないが、律が死ななければ世界は九月一日を迎えられない。
唯が、澪が、紬が、梓が楽しみにしている二学期を迎えるには、それしかないのだから。
「ところで律先輩?」
不意に梓が律の横を歩きながら首を傾げた。
自分の死の決意を読み取られたのかと多少動揺しながら、とりあえず訊ね返してみる。
「どうしたんだ?」
「今日は何処へ遊びに行く予定なんですか?
そろそろ行き場所を教えて下さいよー」
「あっ……」
律は間抜けな声を出して口元を押さえる。
すっかり失念してしまっていた。
死に方と死に場所ばかりを考えていて、死ぬまでの時間の過ごし方を考えていない事に気付いたのだ。
律は今日確かに自殺する。自殺しなければならない。
しかし今すぐにというわけではない。
これまでのループと同様に、梓に最高の八月三十一日を体験させて、それから死ぬのだ。
これが最後だからと言って、最後に過ごす梓を適当に扱いたくなどなかった。
「あっ……、って律先輩、行く場所決めてなかったんですか?
決めずにこんな炎天下の中を適当に歩いてたんですか?」
「いやー、ははは……」
「まったくもう……」
目的地を決める事は簡単に出来た。
これまでのループの中で行った場所を適当に選べばいいだけだった。
しかし律は何となくそれをしなかった。
最後のループ、最期の日、梓との最後の思い出、最期に過ごす日常。
故にこれまでと違う場所に行ってみたくなったのだ。
無論何処に行こうとも、梓にとっては最初の八月三十一日だという事は分かっているが。
頭を捻り悩み始める律。
いざとなると最後に過ごすに相応しい場所を思いつかない。
いっそ自宅で会話だけして過ごすのもいいかもしれない。
律がそう思い始めた頃、梓が苦笑しながら意外な事を言い始めた。
「あの律先輩、もし行きたい場所が特にないんだったら……」
「ないんだったら?」
「私の行きたい場所に行ってもいいですか?」
最後のループ、最後の日常。
ならば最後くらい梓の好きな様に過ごしてもらうのもいいかもしれない。
いや、恐らくはそうするべきなのだ。
律はまっすぐな笑顔を梓に向けて、その形のいい頭頂部を撫でた。
「おう、いいぞー。
梓は何処に行きたいんだ?
ちょっとくらいの交通費だったら出してやるから、好きな所を言っていいぞー!」
「それじゃあお言葉に甘えまして、私が行きたい所はですね……」
- 73 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/09/10(火) 21:45:51 ID:yGQaqURA0
-
*
「いいぞー、とは言ったけどさ、梓」
「はい?」
「夏休み中に遊びに行く場所が部室ってのはどうなんだよ……」
「いいじゃないですか、トンちゃんの様子も見たかったですし」
トンちゃんに餌をやりながら梓が笑う。
そう。梓が律を連れて来た場所は軽音部の部室だった。
好きな所を言っていいとは言ったものの、
まさかこの場所を選ばれるとは思っていなかった律は面食らった。
夏休み中も何度か練習で部室に集まってはいたものの、
『遊びに行く』目的で部室に集まった事はなかったし、集まる必要もなかった。
「にしても、トンちゃんの水槽、もう持って来てたんだな」
梓の家で預かっていてもらったはずだと思い出しながら律は続ける。
餌をやり終えた梓が、椅子に座ってからそれに応じた。
「はい、流石に始業式当日に運ぶのも大変ですしね。
三日前、純達に手伝ってもらって、運んでおいたんです」
「言ってくれりゃ私も手伝ったのに」
「受験生の先輩の手を煩わせるのには抵抗ありますってば」
「そりゃそうだ。
お気遣いありがとさん、よく出来た後輩」
「どういたしましてです、受験生の先輩」
皮肉なのか軽口なのか分からなかったが、律は微笑んでそれを流した。
梓の気遣いが嬉しい気持ちはあった。
しかしそれよりも激しく心臓が鼓動し始めていて、律は息が詰まりそうになっていた。
久し振りの軽音部の部室。
暦の上では十日振りくらいだろうが、体感時間では実に半年以上振りだった。
――こんな部室だったんだよな……。
忘れていた。
いや、正確には忘れていたわけではなかったが、思い出す事は少なかった。
繰り返すループに囚われてそんな事を考えてはいられなかったし、
もしかしたら意図的に思い出さないようにしていたのかもしれなかった。
いや、そうだ。
確かに律は意図的に軽音部の部室の事を思い出すのを避けていた。
しかし避けていたからこそ、その避けていた理由までも記憶の隅に追いやってしまっていた。
部室の事を考えない理由までも忘れかけていた。
それで不用意に踏み込んでしまったのだ、間抜けにも自ら不可侵領域に。
先刻までは梓の好きにさせてやろうと考えていた。
今はそれを後悔している。
思い出してしまえば切なくなるから。
躊躇ってしまうから。
このループを断ち切る事に。
この世界から消え去ってしまう事に。
「トンちゃん、元気そうでよかったな」
躊躇いを感じないよう、わざと適当な話題を切り出す。
黙っていると、泣き出してしまいそうだった。
「はい、さわ子先生にはお願いしていたんですけど、
ちゃんと毎日餌をあげてくれてるみたいでよかったです」
「さわちゃんも意外と責任感あるなー」
「そうですね、律先輩だったらすぐ忘れちゃいそうですしね」
「生意気な奴め、中野ー!」
叫んで梓にチョークスリーパーを仕掛けながら、律は思う。
――その通りだよ、梓。私って奴は本当に忘れっぽいみたいだ……。
「きゃー、やめてくださいってば、律先輩」
「うりうりうりうり」
はしゃぐ梓。
その後方で泣き出しそうになりながらチョークスリーパーを極め続ける律。
滑稽な光景だった。
律自身が自覚出来るほどに滑稽だった。
そしてその滑稽な躊躇いは止まらない。
数分後、ある意味予想出来ていた言葉を梓が発した。
それは部室に足を踏み入れた時点で、律も想像していなくもなかった言葉だった。
「ねえ律先輩、
生意気ついでに一つお願いがあるんですけど……」
「……何だ?」
「ドラム、叩いてくれませんか?
学園祭も近い事ですし、律先輩のドラムを久し振りに聴いておきたいんです」
- 74 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/09/10(火) 21:46:34 ID:yGQaqURA0
-
遅筆ですみません。
一周年より先に終わらせたいと思います。
- 75 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/10/17(木) 19:43:22 ID:uF.lf/Ac0
-
*
久し振りと梓は言ったが、その実それほど久し振りでもなかった。
夏休みの間、補講はあったが部室で練習しなかったわけでもないのだ。
盆周辺こそ集いはしなかったものの、
それ以外の日にはかなりの頻度で練習を行っていた。
律が梓にドラムを聴かせなかったのは、現実には一週間程度といったところだろう。
律の手が震える。
足も身体も震え、何よりも心が震えてしまう。
緊張、興奮、郷愁、切なさ、多くの感情が律の中を駆け巡っていた。
梓には久し振りではない。
あえて久し振りと口にしたのは、大義名分のためだろう。
律にドラムを叩かせるための分かりやすく子供っぽい大義名分だ。
だが律にとっては真実の意味で久しぶりだった。
二百一度目の八月三十一日。
八月三十日には自宅で自主練習した事はどうにか記憶している。
だがそれ以来ドラムには触れていないし、それどころかスティックすらろくに握っていなかった。
避けていたのだ。
ドラムに触れば辛くなるから。
未来永劫辿り着けないかもしれない学園祭の事を連想してしまうから。
つまりループ云々はともかくとして、体感時間において半年以上律はドラムに触れていないのだ。
息が詰まりそうになる。
動悸がただ激しくなる。
それほど期待をしているわけではないだろうが、
それなりに自分のドラムを期待しているはずの梓の視線が痛い。
今すぐにでも逃げ出したい。
――やっぱり部室になんか来るんじゃなかった。
感情など封印してしまったはずだというのに、泣き出してしまいそうな律がそこに居た。
恐怖など押し殺したはずだというのに、今は死よりもこれから待つ未来が怖かった。
ただ怖かった。
逃げ出してしまいたかった。
だが頼まれた以上は叩かないわけにもいかないだろう。
律は深く深く呼吸した後、カチューシャの位置を直すと記憶の引き出しをどうにか開けた。
ドラムの演奏法という記憶の引き出しを。
「……こんなもんだよ」
全ての演奏を終えた後、律は吐き出すように呟いていた。
予想通りだ。
演奏後にはただ梓が戸惑いの表情を浮かべるだけだった。
分かり切っていた事だった。
律はあまり器用ではない。
器用でないからこそパートではドラムを選び、
練習嫌いながらもほぼ毎日自分の身体にドラムのテクニックを刻み込んだ。
練習と経験で一介の女子高生の軽音部員としては、かなりと言ってもいい腕前を取得したのだ。
全ては長い努力に裏打ちされた実力だった。
それが皮肉な形で証明されていた。
- 76 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/10/17(木) 19:43:47 ID:uF.lf/Ac0
- ドラムの演奏は言うまでもなく散々だった。
出来ていたビートの取り方すらろくに思い出せない。
半年以上のブランクの影響は勿論あっただろう。
離れていた者に実力を与えるほど、音楽は甘くはない。
だが何よりも律からドラムテクニックを奪ったもの、
それはこのループから脱け出せないかもしれないという諦念だった。
このループから脱け出せないと感じなくもなかったからこそ、律はドラムの事を考えるのを避けていた。
好きな物の事を考えると逆に胸が締め付けられた。
好きだからこそ、考えないようにしていた。
躊躇いが生まれるからだ、この世界から消え去るための。
「だ、大丈夫なんですか、律先輩……?
身体の調子が悪いとか?
それとも私が何か律先輩に無理させてしまったとか……」
梓も律の変化を敏感に悟ったのだろう。
演奏の最初の方こそ律がミスをすると膨れ面になっていたが、
何度も不自然なまでにミスを重ね出すと目に見えて心配そうな表情に変わっていった。
学園祭の成功を危ぶんだのだろうか。
勿論それもあるだろう。
しかしそれよりも律の不調の原因を心配しているのは律にも痛いほど分かった。
梓は生意気ではあるが、決して薄情な後輩ではない。
分かっているからこそ、余計に辛かった。
「すみません、律先輩。
無理に私が頼んでしまったのがいけなかったんですよね……?
どこか辛いようなら律先輩のお宅までお送りします。
送らせてください。
ですから今日はしっかり休んで下さい。
ね、律先輩?
何か問題があるようなら、私がいつでも聞きますし……」
梓の気遣いが胸に沁みて痛い。
そして思い出す、遥か遠い過去にも思える記憶。
一年前の丁度同じ時期、律は澪と険悪な関係になってしまった事があった。
結果的に言えば律の他愛のない勘違いが原因だったのだが、
律と澪が険悪な状態を必死に改善させようとしていたのが梓だった。
好んでいない猫耳まで装着して、場を和ませようとしてくれた。
梓はそういう後輩だった。
だからこそ耐えられなかった。
梓の優しい気遣いに。
梓を不安にさせてしまっている自分に。
そして恐らくは永劫に脱け出せないこの世界に。
「もういいんだよ、梓……」
気が付けば吐き出してしまっていた。
これまで誰にも、何度目の梓にも吐露しなかった自身の感情を。
「いいんだよ、梓。
もう終わりなんだ、私は……。
どうやってもどうにもならなかったし、これからもどうにもならないんだろう。
同じ所でぐるぐるぐるぐる回ってどうにかやってみたけど、何も出来なかったんだ。
何も出来るわけなかったんだよ、私は!
だからもう終わりなんだ……。
終わらせるしかないじゃんかよ……!」
「律先輩……?
一体何を……、何を言ってるんですか……?」
- 77 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/10/17(木) 19:44:15 ID:uF.lf/Ac0
- これまで以上の戸惑いの表情を見せる梓。
当然だ、梓には何の関係もない事を律は言ってしまっているのだから。
この激昂は単なる八つ当たりでしかない。
律が二百度以上のループを重ねているなど、梓の想像の範囲外だ。
そんな事は百も承知だ。
だが止まらなかった。
胸に抱えていた物を全て吐き出さずにはいられなかった。
それは死を目前にした者の心情の告白に近かった。
律はもう完全に己の死を決意し始めていた。
どうにもならない。どうにも出来ない。
これ以上ループを重ねた所で、恐らくは梓を余計に傷付けるだけ。
周囲の人間を不幸にさせるだけだ。
同じ日を何度も重ねて律が得られた答えがそれだった。
単なる足踏みを重ねても、前には全く進めないのだ。
「つ、疲れてるんですよ、律先輩。
家に帰りましょうよ、お送りします。
何だったら今からタクシーを呼びますから……」
「ほっといてくれよ!」
「っ!」
「ほっといてくれ……!
もう終わりなんだ、終わらせなくちゃいけないんだ……!
学園祭を楽しみにしてる皆には悪いけど、もうどうにもならないんだよ!
私の……、私の事なんて忘れて、新しいドラムを見つけてくれ!
それが軽音部のためにも一番いいんだよ!」
「りつ……せんぱ……」
肩に置かれそうになった梓の手を振り払う。
瞬間、梓は心の底から怯えた表情を浮かべた。
梓は後輩で、背も低くて、生意気なだけのよく泣く年下の女の子なのだ。
怯えるのも当然だった。
律の胸と心が悲鳴を上げる。
梓に怯えられた現実に、大声で泣き出したくなった。
だが律はそうしなかった。
泣くわけにはいかない。
これでいいんだ、と自分に言い聞かせた。
そして最後に部室全体に響くような絶叫を轟かせた。
「出てってくれ!
もう二度と連絡もしてくるな!」
泣いていたのだと思う。
二人とも。
梓も、律の心も。
だが梓は泣き顔を見せなかったし、律も二度と梓の顔を見ようとはしなかった。
見られるはずがなかった。
これで終わり。
梓と過ごした楽しかった毎日、梓と重ねたループが終わる。終わらせるのだ。
二人とも何も言わずに、足音だけが響く。
扉の音で梓が部室から出て行ったのだと分かった。
床が水滴で濡れているように見えたのは気のせいだろうか。
――嫌われちゃったな……。
あれだけの事を言ったのだから当然だが、改めて思い浮かべるときつかった。
それなりに、いや、普通の先輩と後輩よりはかなり仲良くやれていたはずの関係の終焉。
終わらせる事は辛かった。
だが終わらせなければならなかったし、もう繰り返すつもりもなかった。
恐らく結果的にはよかったのだろう。
あれだけの事を言ってしまったのだ。
今夜律が事故死してしまったとしても、それほどの衝撃は受けないに違いない。
いっそざまあみろと思ってくれても構わない。
その方が律も躊躇いなく死を迎えられる。
「ごめんな……」
気が付けば律の目の前がぼやけていた。
それは律の目から涙が流れているからに他ならなかった。
死よりも何よりも、大切だった後輩を傷付けてしまった現実が辛かった。
自分自身の愚かさを許せなかった。
「うっ……くくっ……ううっ……」
涙はすぐに嗚咽となり、部室の中を律の嗚咽で埋めるのにそう時間は掛からなかった。
日が昇り、傾き、夕焼けが部室を照らすようになるまで、律はその場で泣き続けた。
止まらない涙を流しながら、これを最後の涙にしようと律は決めた。
- 78 : ◆Q4IsgKJmwY:2013/10/17(木) 19:44:50 ID:uF.lf/Ac0
-
今回はここまでです。
- 79 :いえーい!名無しだよん!:2013/11/03(日) 13:45:46 ID:sWN.D9Ac0
- >>74
一周年おめでとうございます^^
- 80 :いえーい!名無しだよん!:2013/11/03(日) 15:44:45 ID:hrBDTprY0
- >>74
>>74
- 81 :いえーい!名無しだよん!:2013/12/07(土) 09:26:53 ID:YOQDE09U0
- おい
- 82 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/02/11(火) 18:43:43 ID:SoCJVaIk0
-
*
夜道を歩く。
最後の日、最後の夜、最後の夜道。
律は月光に照らされる。
幸か不幸か、今宵の月は雲に覆われていなかった。
ひどく久し振りに感じる月の光。
何故そう感じるのか、少しだけ首を捻ってみて分かった。
律が夜を拒絶していたからだ。恐怖していたからだ。
繰り返す世界、繰り返す時間、終わらないループ。
それらを夜が齎しているように思えて仕方がなかったからだ。
だから律は夜を感じないようにしていた。
空に浮かぶ月に視線を向けないようにしていたのだ。
――最期くらい、いいか。
近所の山、かなり奥まった山道で律は月を見上げる。
最後の月は、最期の月は馬鹿みたいに綺麗で、律の胸を強く抉った。
月の形が水面から見ているかのように歪む。
無論、律の瞳に涙が溜まっているからに他ならなかった。
だが涙を頬に流す事だけは耐えた。
涙は夕方の物で最後と決めたのだ。
自分の決めた決心を守らなければ、到底これから死に向かえそうもなかった。
唐突に。
ズボンのポケットの中身が振動した。
先刻から鳴り続けている携帯電話。
自宅から七件、澪と唯から十件、紬から八件、その他のクラスメイトからも多数の着信があった。
おそらく宵闇の時間を越えても帰宅しない律を心配した両親が、クラスメイト達に連絡を取ったのだろう。
メールも十数件届いている。
最新のメールにだけ目を通してみる。
『どこにいるんだよ、りつ
このめーるをみたられんらくしてくれ』
変換の手間すら惜しかったのか、平仮名だけのメールを送って来ていたのは澪だった。
幼馴染みであり、長い付き合いがある澪だ。
これほどまでに連絡が取れない律に何かが起こっている事を本能的に直感しているのだろう。
澪との過去が律の脳裏に次々と思い浮かぶ。
面白い奴だった。楽しい奴だった。一緒に居ると幸せに笑えた。
澪が居たから、楽しかった。
――最後に一度だけ連絡を取ってみるか?
メール見ながらそう考え掛けたが、即座にかぶりを振った。
駄目だ。
今連絡を取ったが最後、胸に押し殺した想いを澪にぶつけずにはいられなくなる。
澪だけではない。
唯や紬、和やさわ子、多くのクラスメイト達とも連絡を取らずにはいられなくなる。
多くの人間に遺言を残して、その胸に傷を残してしまう事になる。
だから律は誰とも連絡を取るべきではないのだ。
携帯電話の電源を切ろうとして、最後に着信履歴を確認してみる。
多数の着信履歴に埋もれてしまっているという事はなかった。
着信履歴の中に、先刻喧嘩別れした梓の着信は確認出来なかった。
よかった。
梓はまだ自分を嫌ってくれている。
これならば最後に自分と会っていた人間としての負い目を持たずにいてくれそうだ。
梓に残る傷など、可能な限り軽いに越した事はないのだから。
それだけが律の最期の救いだった。
目を瞑れば浮かぶのは、体感時間で半年間遊び続けた梓の笑顔。
いい笑顔だった。
呆れた顔を浮かべる事も多かったが、遊んでいる時は心底楽しそうだった。
これからもあの笑顔は失われないでいてほしい。
あの笑顔だけは。
一瞬。
律の脳裏に何かが引っ掛かった。
そういえば――
――そういえば私は、どうして八月三十一日をやり直したいと思ったんだっけ?
梓の笑顔が欲しかったからだ。
最低にしてしまった一日を最高に上書きしてしまいたかったからだ。
だが、何故、梓を笑顔にさせたかったのか?
決まっている。
怒らせてしまったからだ。
他愛の無い事ではあるが、自分の何気無い行動で梓に不快な思いをさせてしまったからだ。
そんな現実など、無かった事にしてしまいたかった。
- 83 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/02/11(火) 18:44:10 ID:SoCJVaIk0
-
その願いは叶った――のだろうか?
半年分の梓の笑顔は手に入れる事が出来た。
その引き換えに律は自らの命と、仲間達の笑顔を失ってしまう。
多くの可能性を失ってしまうのだ。
一時の失敗をやり直そうと思ってしまったが故に。
――馬鹿なお願いをしちゃったもんだよな……。
最期の深い深い嘆息。
気が付けば、律は山中の立ち入り禁止の区域に立ち入っていた。
先日の台風の影響もあるのだろうか。
滑落死に申し分無い程の崖が足の下に広がっていた。
高さにして約三十メートル。
この空間に足を踏み出せば、恐らくは死ねる事だろう。
即死出来るかどうかは分からない。
いや、即死出来なくて構わない。
最終的に死に至れればそれでいい。
死に至るまでの痛みは、仲間達を悲しませる事の罰だと考えればいい。
不意に思い立って、携帯電話を足下の空間に落としてみる。
予想以上の長い沈黙の後、携帯電話が砕け散る音が遥か下方から響いた。
これでいい。
何らかの理由で山に来た自分が、誤って携帯電話を落としてしまった。
それを探していた自分が足下の崖に気付かず滑落死してしまう。
筋書きとしてはそれで事故死として全ては処理される事だろう。
それで全てが終わる。
この不可解なループも、叫び出したい程の苦しさも、律の命も。
――ごめんな、今までありがとう、皆。
ゆっくりと足を踏み出して行く。
最期の最期に仲間達の顔を思い浮かべる。
――唯、今だから言うけど、私はお前の笑顔が大好きだったよ。すっげー楽しかった。
――澪、泣いてもいいけど、出来ればすぐに私の事を忘れてくれよ。お前は私が居なくなっても大丈夫なはずだから。
――ムギ、皆を支えられるのはムギだけだ。いい曲、今までありがとうな。
――和、二年の時は迷惑掛けたな。澪の事、泣いてたら頼むよ。
――梓……。
急に梓の笑顔が思い出せなくなる。
先刻まで思い出せていたはずなのに、今では既に遠い記憶となってしまっている。
思い出したい梓の表情。
梓の笑顔。
だが、律が思い出せたのは、梓の笑顔ではなく、ループ前に見た梓の――。
瞬間、強風が吹いた。
余りの強風に草葉がざわめき、木々が揺れた。
そして、律もバランスを崩し、自らの意思でなく足を踏み外して。
――何だよ、結局最期は事故みたいに死なせるってか?
苦笑しながら、律は何故か不意に思い出した。
飛び降りた人間は、地面にぶつかる一秒前まで確かに生きているらしいという話を。
どうでもいい事だった。
律はどうでもいい事を考える意識を手放して、その後の衝撃に備えた。
- 84 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/02/11(火) 18:44:57 ID:SoCJVaIk0
-
すみません、お久しぶりです。
今回はここまでです。
- 85 :いえーい!名無しだよん!:2014/02/21(金) 00:10:27 ID:/LNpKCBgO
- 乙です。
此れからも続きを楽しみにして待っております。
- 86 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/02/28(金) 18:41:52 ID:vm0x7Krk0
- 瞬間――
肉体が落下する直前――
劈く様な大声が雑木を揺らした。
強風すらも物ともしない、耳に強く残る声だった。
「何をしているんですかっ!」
柔らかい感触に掴まれる腕。
しかしその柔らかさの中には強い力が込められていて、痛みまで感じるほどだった。
暗闇の中、振り返る律。
振り返ったところで大声を発した人間の顔を確認出来るはずがない。
痛いほどに自分の腕を掴む誰かを確認出来ない。
夜の山中とは、それほどまでの闇に包まれているものなのだから。
だが、山中に響いた声には聞き覚えがあった。
爪を立てるほど律の腕を強く掴んでいる小さな手の感触には覚えがあった。
そこに居ないはずの彼女。
嫌われたと思っていた、嫌われなければいけなかった彼女。
梓――。
何故かそこに居た彼女が、律の落下を止めたのだ。
しかしとりあえずの落下が止められたからとは言え、
律の体勢が崩れているのは揺るがしようの無い事実でもあった。
少なくとも律よりはかなり非力である梓が律の体重を支え切れるはずもない。
このままでは二人とも落下してしまうのは時間の問題だった。
律の片足は既に宙を舞っている。
体勢もクラウチングスタートに近い前傾姿勢だ。
この状態から体勢を立て直すなど至難の業だろう。
だのに、律は残された左足で踏み止まったのだ。
踏み止まれた理由は分からない。
梓の手を振り払って、自分だけ落下してしまう事は可能だったかもしれない。
繰り返す時間の螺旋を阻止するためには、その方が賢明だったのではないだろうか。
愚かしい選択だと律自身思わなくもない。
しかし、それでも――、律は踏み止まったのだ。
梓の前で自分が死んでしまう光景など見せられるはずがない。
これ以上傷付けて、涙を流させてしまうわけにはいかなかった。
「こ……のっ!」
踏み止まった左脚に渾身の力を込め、ドラムで鍛えた腹筋で背筋を伸ばす。
崩れていた姿勢を立て直し、宙を舞っていた右足で大地を再び踏み締めた。
落下を免れたのだ、間一髪のところで。
しかしそれが限界だった。
無理な運動をしてしまったためだろう。
一瞬にして脚に力が入らなくなり、律は梓を抱き止める様な体勢で崖とは逆の方向に転がった。
あっ、と思った時には遅かった。
眼前には風で揺れる事も無かった樹木の太い幹。
衝撃に備える隙も無かった。
律はその幹に額を強く打ち付け、その場に倒れ込む事になってしまった。
「ってぇ……!」
呻きながら額に左の手のひらを当ててみると、粘着性のある熱い液体の感触があった。
手のひらを開いて確かめてみるまでもない。
どうやら額を切って出血してしまっているようだ。
それだけではない。
気が付けば長いと自覚している自らの前髪が視界を覆っていた。
左の手のひらでもう一度確認してみるが、愛用のカチューシャを頭部に見つける事は出来なかった。
衝突の衝撃で割れてしまったに違いない。
そうある事ではないが、律にも何度かカチューシャが割れた経験があった。
その時にもそう、律は頭をかなり深く切ってしまっていたはずだ。
しかし、そんな事は重要ではなかった。
それよりも今は腕の中に抱き止めた、律の落下を止めてくれた梓の事が気掛かりだった。
右腕を開いて、胸の中に確かに存在している梓の姿を確認してみる。
- 87 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/02/28(金) 18:42:28 ID:vm0x7Krk0
-
「梓……?」
疑問形だったのは、暗黒の中で認められた梓の髪型がサイドテールだったからだ。
前例が無いわけではないが、普段ツインテールである梓がサイドテールにするのはかなり珍しい事だった。
「律……先輩……」
震えた声が微かに聞こえる。
何とか律の夜目も効くようになって来た。
分かっていた事ではあったが、律の落下――律の自殺――を止め、律に馬乗りになっているのは確かに梓だった。
――どうしてこんな山の中に?
そう訊ねるより早く、律の頬に鋭い痛みが奔った。
梓の手のひらで頬をはたかれたのだ、と律が理解するまでにはかなりの時間を要した。
「何をしているんですかっ!」
先刻と全く同じ言葉を吐かれた。
しかも先刻よりも更に激しい迫力でだ。
「馬鹿じゃないんですか、こんな山奥に一人でっ!
誰の電話にも出ないでっ!
携帯電話も落としちゃってっ!
律先輩はっ! こんな所でっ!
馬鹿みたいに何をしちゃってるんですかっ!」
釈明は出来たかもしれない。
だが律はそうしなかった。
梓の言っている事は概ね正しかった。
誰にも迷惑の掛からない死に方を模索して夜の山に足を踏み入れて、何をしようとしていたのだろう。
涙を流して絶叫する梓の姿を見て、実感させられる。
誰にも迷惑を掛けない自殺など存在するはずがない。
最小限に留めようと心掛けたところで、自分の死は周囲に多くの影響を与えてしまう。
それが良き事にしろ、悪しき事にしろ。
律は確かに繰り返す無限のループを止めたかった。
世界そのものの行く末を案じていたのは本当だ。
自分の周囲の時間が繰り返す事で、世界全体の時間が停滞しているのではないかという不安感もあった。
自らの責任で皆の時間を止めてしまうのは間違いなのだと、何となくそう考えていた。
だから死にたかったのだ、皆に、梓に二学期を迎えてほしくて。
けれど律の死もまた周囲の時間を止めてしまう行為だった。
律が死ぬ事でループが解消されたとしても、皆の心には一生消えない傷が残るだろう。
他に取るべき行動が無かったとは言え、やはりするべきではない事だったのだ。
だから――
「ごめん、梓……。
私が、悪かったよ、本当に……」
謝った。
謝罪してどうなる事でもないのだろうが、謝らなくてはならなかった。
自らの間違いを認めるべきだったのだ、律は。
今回も、あの時も。
――あの時?
自分で考えた事だが、律は思考を止めてしまった。
『あの時』の事をすぐには思い出せなかった。
否、思い出さないようにしていたのだ。
この繰り返す時間の中で梓を笑顔にしてやるためには、失敗の記憶など無い方がいいと考えていたからだ。
あの時――最初の八月三十一日――、律は失敗してしまった。
楽しかったはずの一日に、最低の結末を迎えさせてしまった。
律はそれを認められなかった。
認めたくなくて、最低の一日のやり直しを強く願った。
しかし、その結果こそがこの繰り返す世界で――
「律先輩」
律に素直に謝られた事で気が抜けてしまったのだろう。
涙こそ止められていなかったものの、若干穏やかな声で梓が呟いていた。
- 88 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/02/28(金) 18:44:02 ID:vm0x7Krk0
-
「……何だ?」
「頭から血が出てます。
早く手当てしないと……」
「別にだいじょ……」
言い掛けて口を噤む。
そうではない。
今言うべきなのは遠慮の言葉ではない。
今すべきなのは、これ以上迷惑を掛けられないと思う事ではないのだ。
「悪い、頼むよ、梓」
「はい、動かないでくださいね」
大したものだ。
今は泣いている場合ではないと思ったのだろう。
しゃくり上げながらも、梓は背負っていたリュックから消毒液を取り出した。
抱き止めた時には気付かなかったが、梓はリュックに医療品を詰め込んでいたらしい。
「準備がいいな」と訊ねてみると、「律先輩の様子がおかしかったから」と梓は応じた。
律の腕を掴んだ時に落としてしまったらしい懐中電灯を梓が見つけると、本格的な治療が始まった。
「消毒沁みるー……!」
「我慢して下さい。
崖から落ちていたら、こんなものじゃすまなかったんですからね」
「分かってるっつーの……」
軽口を叩きながらも、律は苦笑してしまった。
自分はとことんまで分かっていなかったのだ、と自覚させられたからだ。
律はカチューシャが割れるほどの衝撃で樹木に衝突した。
ただ出血こそしているものの、それほど深い傷ではなさそうだった。
恐らくあって二センチ程度の傷だろう。
それでこれほどまで痛みを感じるのだ。
かなり痛いと感じていたはずの澪に拳骨の数倍は痛みを感じる気がする。
――滑落してたら、どれくらい痛かったのかな。
自分でしようとしていた事ながら、想像するだに身震いする。
滑落で即死するという話はあまり聞いた事がない。
余程の高度から滑落しない限り、恐らくは失血死か感染症での死がほとんどだろう。
この額以上の痛みを長時間全身に感じ続けるのだ。
その痛みをこそ望んでいたはずなのに、今の律はその痛みが恐ろしかった。
何も分かっていなかったのだ。
死の痛みも、周囲に与える影響も、梓という後輩の事も。
- 89 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/02/28(金) 18:44:33 ID:vm0x7Krk0
-
「なあ、梓」
額の治療が完了して一息吐いた頃、律は静かに訊ねてみた。
治療中、梓は律の上に乗った体制のままで動こうとはしなかった。
また律が勝手な行動を取ると思っているのか、それとも――。
「何ですか、律先輩?」
「おまえ、どうしてこんな所に?」
「律先輩に言えた事ですか?
私は律先輩の事が気になって後を付けていただけです!」
「そ、そうか……」
だけという話ではないだろう。
律はかなりの長時間部室にこもっていたし、最初から尾行していたとは考え辛い。
恐らく梓は一旦帰宅した後、それでも律の様子が気になって学校に戻ったに違いない。
もしもの事があった時に備えて、相応の準備をした後に。
あれほどの暴言を吐き、あれほど自分を傷付けた律の事を心配して。
律の携帯電話に梓からの着信記録が残っていなかったのもそれだろう。
軽音部の皆が律の消息を掴もうとしている間、梓はずっと律の動向を見守ってくれていたのだ。
梓はそういう後輩だった。
何故忘れ去ってしまっていたのだろう。
とても大切な事であるのに。
「それで、律先輩はこんな所で何をしてるんですか?」
「そ、それはだな……」
一概には説明出来ない。
無限ループの事を説明したところで、梓にそれを信じてもらえるだろうか。
だが律の気は不思議と楽になっていた。
到底信じられる話ではないのは分かっている。
信じてもらえなくても構わない。
けれど律は思ったのだ。
もう素直になろう、と。
律は多くの出来事と多くの感情をひた隠しにしてきた。
本当にしなければならない事から目を背け続けてきた。
先刻、落下する直前に脳裏を掠めた梓の表情を思い出す。
走馬灯の如く思い出したのは梓の笑顔ではなかった。
泣き顔でも、呆れ顔でも、ライブをしている時の真剣な表情でもなかった。
脳裏を過ぎったのは梓の怒り顔だったのだ。
最初の八月三十一日、小さな事から大喧嘩をしてしまった時の。
律はずっとその怒り顔を消そうと思っていた。
繰り返すループの中で、梓を幸せにしてやる事で嫌な記憶を上書きしようとしていた。
それで律は実際に嫌な記憶を消し去れたのだ。
だがそれはあくまで一時的な物に過ぎなかった。
いくら梓を幸せにしても、自分が楽しくても、胸の中にはしこりが残ってしまっていた。
最初の失敗を引き摺り続けてしまっていた。
梓を幸せにしてやるという方法論自体は、恐らくは間違っていいだろう。
だが律にはそれより先にしなければならない事があったのだ。
それは即ち――。
「なあ、梓、聞いてくれるか?
信じられる話じゃないだろうけど、とりあえず聞いてほしい。
私は死にたかったんだよ。
いや、単に自殺したかったわけじゃない。
自殺したかったのは、ずっと繰り返してたこの現状を打破したかったからなんだ。
始まりは八月三十一日なんだけどな。
今日じゃなくて一番最初の八月三十一日にな、私はおまえと喧嘩して、それで――」
- 90 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/02/28(金) 18:46:23 ID:vm0x7Krk0
-
今回はここまでです。
すみません、やっともうすぐ終わらせます。
- 91 :聡:2014/02/28(金) 22:30:25 ID:ErcDzuAAO
- がんばって。
- 92 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/06(木) 20:59:50 ID:M.YuC5Cs0
-
*
響いている。
玄関のチャイムの音が響いている。
繰り返すループの中で二百度以上そうしたように、律はそのチャイムで目を覚ました。
手のひらで額に触れてみる。
律の額には一切の傷跡も残されてはいなかった。
まるで元々怪我などしていなかったかの如く。
分かり切っていた事だが、どうやら今回も繰り返す螺旋から脱却する事は出来なかったらしい。
だが、律は嘆息もしなければ、気鬱めいた感情に襲われもしなかった。
分かったのだ、体感時間で半年以上の八月三十一日を繰り返してようやく。
梓に幸せな思い出を残してやりたい。
その気持ちに嘘は無かったが、一種の大義名分でしかない事も確かだったのだと。
律は消したかった、自らの失敗を。
最悪と言って差し支えなかった初回の八月三十一日を。
それよりも先にするべき事があったというのに。
それだけは間違いなく律の過ちだった。
故に律はもう嘆息しない。
嘆息して、後悔と気鬱に肩を落としている暇など存在しない。
未来永劫続くと思わされるループ相手でも、立ち向かってみせる。
律が本当にするべき事を、九月一日の朝にしてみせるために。
「よっしゃあっ!」
201
手のひらに記して、叫ぶ。
布団の中から勢いよく起き上がり、携帯電話を掴んで玄関まで駆け出して行く。
玄関扉の先では梓が待っているだろう。
恐らくはこれまでのループ通り多少呆れた表情で。
だが今日一日の予定に心躍らせている事をその口元に隠し切れていない表情で。
可能ならば何度でも見続けたい、生意気で口が悪く、可愛くて大切な後輩の姿で。
しかし律は梓の別の表情も見てみせると決めたのだ。
律はこれから玄関を開いて梓を居間に招き入れる。
軽く朝食を取ってから、自分の体験して来た現象の全てを語る。
すぐには理解してもらえなくても構わない。
どれだけ時間が掛かろうと粘り強く説明して、必ず理解してもらう。
それから唯と澪、紬と和達も呼ぼう。
迷惑になるのは分かり切っているが、後日律の死を知らされるよりは些細な迷惑に違いない。
様々な知識に優れている和なら律の想像もしなかった助言をくれるはずだ。
澪と紬も親身に相談を聞いてくれるだろうし、唯の口から奇想天外なら的を射た発想を得られる可能性もある。
この無限の螺旋との戦いを律はこれからようやく始めるのだ。
本当に脱け出せるループなのかどうかは分からない。
もしかしたら律が死を選択するまで終わる事のない無間地獄なのかもしれない。
それでもやれるだけの事はやってみせる。
自殺など最後の最後の選択で十分なのだから。
そうして――
そうしてもし――
いつか九月一日を迎える事が出来たのなら――
――ちゃんとおまえに伝えるよ、梓。
胸の中だけで、しかし強く強く決心し、律は玄関扉を開いた。
これからも繰り返すであろう八月三十一日を、今度こそ正面から見据えて。
「よう、梓!
悪いな、待たせちゃって!」
- 93 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/06(木) 21:00:29 ID:M.YuC5Cs0
-
*
眼前の梓には三つの違和感があった。
第一の違和感はこれまでのループで見た事がない梓の表情だった。
目の下に軽く隈を作っており、その表情には呆れも笑顔も見て取れなかった。
第二の違和感は梓の髪型だ。
普段のツインテールではなく、少し疲れたサイドテールに纏められている。
前回の八月三十一日に見せたサイドテールとも少し違っているように思えた。
第三の違和感は梓が両手持ちしているビニール袋の存在だ。
これまでの八月三十一日で梓が自前の鞄以外に何かを持っていた事は無かったはずだった。
「……」
「……」
律は言葉が出せない。
梓の口からも言葉が出てこない。
自分だけ空回りしてしまったような気まずさ。
それもこれまでの八月三十一日の中で感じた事が無いものだった。
「えーっと……、梓……?」
「はい」
「お、おはよう……?」
「おはようございます。
どうして疑問形なんですか」
「ど、どうしてだろうな……」
それだけ言って、律は口を閉じる。
非常に気まずく、空気も実に重たい。
一体何が起こってしまったというのだろう。
ループと相対するという律の決心が、繰り返すループに何らかの影響を与えてしまったのだろうか。
例えば梓の精神状態を重苦しいそれに変貌させてしまうとか。
変化自体は好ましい事であるはずだが、梓の様子を見ていると一概にそうは言えない気がした。
――あーっ、何が起こってるのか分っかんねー!
心の中だけで髪を掻き回す。
勿論現実にはそうしなかった。
律には他にしなければならない事がある。
梓の様子が変貌しているのは予想外だったが、とにもかくにもループの事を説明しなければならない。
この状態の梓が聞いてくれるとは思いにくいが、もう諦めるわけにはいかないのだから。
「あ……」
「律先輩」
『梓』と呼び掛けようとしたが、その声は梓自身に遮られた。
その表情は相変わらず不健康そうで重苦しい。
よく眠れていないのだろうか。
それを訊ねるより先に梓の言葉が続いた。
「どうして私が来るって分かったんですか?」
「えっ?
だって約束……」
「約束なんかしてないじゃないですか。
それにあんな楽しそうな顔で出て来るなんて、何だか私馬鹿みたいじゃないですか。
私、夜明け前まで、どうしようかずっと悩んでたのに……」
「いや……、何の話だよ……?
遊ぶ約束なら昨日ちゃんと私から……」
「律先輩、寝惚けてますね?
遊ぶ約束をしたのは一昨日じゃないですか。
昨日の事、もう忘れちゃったんですか……?」
- 94 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/06(木) 21:00:58 ID:M.YuC5Cs0
-
話が噛み合わない。
約束をしたのが一昨日?
そして、昨日の事?
夜明けまでどうしようかずっと悩んでいた?
それでは――
それではまるで――
「ちょっとごめん!」
律は玄関扉を閉めて、握り締めていた携帯電話に視線を落とした。
今回の八月三十一日。
目を覚ましてから初めて目にする携帯電話の液晶に記されていた数字は――
9.1
- 95 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/06(木) 21:01:23 ID:M.YuC5Cs0
-
*
居間のテーブルには、広告の裏を使った手紙が律儀に残されていた。
『ねぼすけ姉ちゃんへ!』と弟の字で書かれたそれには家族の外出が記されていた。
夏休み最後の日だから家族で買い物に行くそうだ。
それ自体は問題ない。
問題なのはその広告の表に記された文章であった。
近所のスーパーの特売の広告。
そこに記されていたのは『一日特売デー、本日のみ!』とある意味当たり前の文章。
母親が捲ったのか、壁に掛けられたカレンダーも九月を示していた。
――本当に九月一日なのか……?
梓を居間に招き入れた後も、律はその現実を受け止めきれずにいた。
立ち塞がるループを受け容れ、相対しようとした矢先がこれだ。
得体の知れない現実に不安感ばかり大きくなっていく。
解放感など存在しなかった。
まるで悪夢の続きを見ている様な感覚とも言えた。
何かの間違いなのか。
自らの願望が見せた妄想の世界なのか。
そんな気までしてくる。
だが。
「あっ……」
漏れた声と共に間抜けな音が居間に響いた。
律の腹の虫だった。
こんな時に、と律自身も思わなくもないが、元より空腹に弱い律だ。
空腹状態ではまともな思考をする事が出来ない事も経験からよく知っている。
とりあえずまずは朝食の用意でもしよう。
そう思って律が立ち上がった瞬間だった。
梓がおずおずと手に持っていたビニール袋をテーブルの上に差し出したのは。
「あの……、律先輩……」
「……何だ?」
「これを……」
「だから、何だ?」
「いいですから……」
テーブルに座り直し、律は差し出されたビニール袋を開いてみる。
中に入っていたのは、よく見慣れた特徴的な箱。
ドーナツ屋専用の箱だった。
あの日、最初の八月三十一日、二人で行ったドーナツ屋の箱だった。
静かに開いてみる。
色彩豊かなドーナツが所狭しと並べられていた。
律の好きなドーナツも。
あの日、律が誤って食べてしまった梓の好物のドーナツも。
「お腹が空いてるんなら食べて下さい、律先輩」
「いい……のか……?」
「……はい」
律が問うと梓が軽く目を逸らした。
その頬が若干赤く染まって見えたのは気のせいだろうか。
あの店のドーナツ。
最初の八月三十一日、喧嘩をするきっかけになった曰く付きの一品。
ああ、そうだったな、と律は思う。
――つい昨日、私達はそうして喧嘩したんだったな……。
不意に泣き出しそうになってしまった。
律はそれを隠して立ち上がり、冷蔵庫の中から紙パックの野菜ジュースを取り出した。
自分の場所と梓の前に置いてから、小さな声で続ける。
「梓も一緒に食べようぜ?」
「……いいんですか?」
「いいって、こんなに食べ切れないしさ。
それに梓、朝ごはん、ろくに食べてないんだろ?」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「ごめん」
何の躊躇いもなく謝った。
普段の律とは違うと気付いたのだろう。
面食らった様子で梓が視線を律に向けた。
「そんな……、私こそドーナツであんなに怒っちゃって……」
「それでも、ごめん。
私が、悪かった。
あの時、私がちゃんと梓に謝ればよかったんだ。
ごめんな、先輩だからって何か意地張っちゃったみたいだ」
- 96 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/06(木) 21:01:51 ID:M.YuC5Cs0
-
視線を向けて、目と目を合わせて、真っ直ぐに謝る。
心の底から、恥も外聞もなく、本音で。
そして思う。
これこそ私が本当にしなくちゃいけない事だったんだ、と。
律は最初の八月三十一日を無かった事にしてしまいたかった。
それ以上の思い出で上書きしてしまいたかった。
通常ならば叶うはずもない願い。
だが何の因果か律のその願いは叶えられてしまった。
神の悪戯か、律の強い想いの力の結果か、それとも単なる夢なのか。
ともあれ叶えられてしまった。
これ幸いと律は繰り返すループで過去をやり直そうと考えた。
最高の八月三十一日にするために、梓の最高の今度こそ作るために。
けれどそれは律自身が起こしてしまった過去からの逃避でもあったのだ。
例えるなら自分が殺してしまった人間のクローンを創造して、罪滅ぼしをする様なものだった。
自らの犯してしまった罪を、自己満足の善行で上書きするようなものだ。
無論、律にその是非は問えない。
だがそんな律にも一つだけ言える事がある。
罪滅ぼしをするにせよ、それより先にしなければならない事が確かにある。
単純な真理だが現実には成し難い事。
即ち、『謝る』という事。
『謝る』という事は難しい。
自らの非を認め、受け容れた上で、迷惑を掛けた相手に心から頭を下げる。
律はその難しさから逃げ続けてきた。
逃げ続け、二百を超えるループの中に身を置いてしまっていたのだ。
当然、逃げた先には何も存在していなかった。
逃げたという事実が延々と積み重ねられていくだけだ。
「あ……、えっと……」
梓の顔がどんどん赤くなっていく。
まさかここまで真正面から謝られるとは思っていなかったのだろう。
「そ、そこまで言うんなら、許してあげます!
ただし……!」
「ただし?」
「私の好きなドーナツ、もう勝手に食べないで下さいね!
私、あのドーナツで、最高の一日を締めくくろうと思ってたんですから!」
赤くなっている梓は気付かなかったに違いない。
あの最初の八月三十一日――いや、昨日――を、最高の一日だったと称してしまっている事に。
勿論、律はそれを指摘しなかった。
これ以上梓を刺激してしまったら、それこそゆでだこの様になってしまうだろう。
だが梓の気持ちは律にもよく理解出来ていた。
昨日、梓は楽しかったのだ。
行き当たりばったりで無茶苦茶な一日ではあったが、最高に楽しかったのだ。
だからこそ最後の律の失敗を受け容れ難くて起こってしまったのだろう。
律自身がそうであった様に。
二人とも似た者同士で、似た者同士だから引っ込みが付かなくなってしまっただけだったのだ。
一言、どちらかが謝れていれば、笑って別れられた一日であったはずなのに。
- 97 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/06(木) 21:02:54 ID:M.YuC5Cs0
-
今回はここまでです。
あともう少しだと思います。
- 98 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/08(土) 17:45:22 ID:2TrUyFgQ0
-
「了解、気を付けるよ」
笑顔で、けれど真剣に頷いて、ドーナツに手を伸ばす。
何にしろ腹ごしらえだ。
梓の事を考えるにしろ、これからの事を考えるにしろ、体力を付けなければどうにもならない。
これだ、と選んだドーナツを手に取ろうとして、同じドーナツを選んでいた梓と指の先が触れた。
急激に頬が熱くなるのを感じる。
何故自らの頬が熱くなるのか、律にはその理由が分かっている。
恋心に近い思慕の念を梓に抱いてしまっているのだ。
律は知っている。
体感時間で半年以上毎日一緒に居た梓の様々な顔を。
最高に喜ばせてやれた時の、眩い笑顔を。
その際に見せてくれた律への好意を。
あれほど傷付けてしまった後においても、心の底から律を心配してくれていた事を。
繰り返していた世界の中で、無自覚に律を救ってくれていた事を。
梓を大切にしてやりたい、と思う。
もう傷付けたくない、とも。
少なくとも暫くは梓の事以外を考えられそうもない。
この律の想いが未来の二人にどの様な影響を与えるのかは分からない、今は、まだ。
もしかすると律のこの一方的な想いを梓が困惑する日がやってくるかもしれない。
律の見た夢にしろ、現実に起こった現象にしろ、
ループの中で生きて来た影響が顕著になっていくのは、きっとこれから先の話だ。
今こそが律と梓にとって本当の始まりなのだ。
けれど律は思った。
困惑するにせよ、梓は真に律の事を考えた答えを出してくれるだろうと。
梓はそういう後輩で、最高の仲間で、大切な存在なのだ。
律は知っている。
梓がどれほどまでに自分の事を想ってくれているか、それを知っている――。
だからこその腹ごしらえだ。
ループがもし夢であったとしても、ドラムの腕が鈍っている自覚は強くある。
どの様にドラムを叩いていたのか、その感覚は遥か遠い過去に置き去りにされている。
このままでは秋に行われる学園祭のライブの失敗は決定されたようなものだ。
そうはいくか。
どれほど遠かろうと、感覚は必ず取り戻してみせる。
学園祭では最高の演奏をしてみせて、最高の思い出を作ってみせる。
そのために体力を付けて、今日は梓と学校で演奏の特訓をしようと思う。
まずはそれが自分を支えてくれた梓への恩返しだ。
無論、そんな事など梓は与り知らぬところだろうが、それでも。
- 99 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/08(土) 17:46:01 ID:2TrUyFgQ0
-
「いい天気だな」
「何ですか、突然に」
「いや、いい天気だと嬉しくなってくるじゃん?」
「まあ、それはそうですけど……」
釈然としない表情の梓に苦笑しながら、律は窓から空を見上げてみる。
雲一つないとまではいかないが、いい天気だった。
初めて見る九月の朝陽。
これからの課題は山積みだが、それすらも構わないと思える爽やかな朝陽。
そして決心する。梓の笑顔を守り続ける事を。
多数の障害がこれからも自分達の前に立ち塞がったとしても。
「あーっ!」
不意に梓の叫び声が上がる。
何が起こったのかと梓に視線を向けてみると、梓は非難の表情を浮かべていた。
「な、何だよ、梓……」
「律先輩、それ」
梓が頬を膨らませながら律の手元を指し示す。
律が持っていたのはドーナツ。
先刻食べてはいけないと釘を刺されたばかりの、梓の好物のドーナツだった。
うっかりしていた。
九月の朝陽に目を細めていたためか、無意識に次のドーナツに手を伸ばしていたらしい。
無論、まだそのドーナツに口を付けてはいないが。
「もう……、ちゃんと反省してるんですか?」
「面目ない……」
これは完全に自分のミスだ。
心の底から反省しながら頭を下げると、
梓は頬こそ膨らませているもののその目元を柔らかくした。
「駄目です、許してあげません」
「マジかよ……」
「本当に許してほしかったらですね……」
言いながら梓が移動を始める。
サイドテールを可愛らしく揺らしながら辿り着いたのは律の背後。
何を始めるのかと思えば、梓は律の思いも寄らなかった言葉を口にした。
- 100 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/08(土) 17:48:06 ID:2TrUyFgQ0
-
「ドーナツ、食べさせて下さい」
「へっ?」
「ドーナツを食べさせて下さいって言ったんです。
許してほしくないんですか?」
梓らしからぬ申し出。
やはり少し疲れているのだろう。
目の下に隈まで作ってまで、律と仲直りする方法を考えてくれていたのだ。
少し疲れたサイドテールもそれを示している。
しかし同時に気分が高揚もしているのだろう。
律と仲直りが出来たのが嬉しく、多少甘えたい気分にもなったに違いない。
絶妙なところで甘えてしまう。
梓はそういう一面もも持った、可愛らしい後輩でもあった。
「はいはい」
「はいは一回です」
「はいよ」
苦笑しながら、肩越しにドーナツを差し出す。
誰かに見られたら恥ずかしい光景だが、何、幸い今日は家に誰も居ないのだから。
気恥ずかしくはあるが、これを新しい始まりにするとしよう。
いずれ何らかの理由でまたループに囚われる事があるかもしれない。
ループに囚われた理由、ループから脱却出来た理由が完全には分かっていない以上、その不安は必然だ。
だが――、梓がまた傍に居てくれるのなら――。
律は今度こそ自分自身の想いでループに立ち向かっていけるはずだ。
「おはようございます!
今日は九月一日、日曜日です!」
律が点けたテレビの画面の中。
見慣れた日曜の朝のワイドショーのレポーターがそう宣言している。
一週間振りの懐かしい声に耳を傾けていると、梓の手のひらが律の肩を優しく掴んでいた。
「召し上がれ」
「いただきます」
律の言葉に頷いた梓が顔を近付け、
好物のドーナツをその唇で覆った次の瞬間、
律の手の中で繋がっていたドーナツの円環が、綺麗に途切れた。
- 101 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/08(土) 17:48:40 ID:2TrUyFgQ0
-
おしまい
- 102 : ◆Q4IsgKJmwY:2014/03/08(土) 17:54:27 ID:2TrUyFgQ0
-
これで完結です。
短めの作品なのに長期間も掛かってしまい、ご迷惑をお掛けしました。
今までどうもありがとうございました。
- 103 :聡:2014/03/08(土) 20:38:06 ID:lEZK1qtUO
- おつかれさま。
- 104 :いえーい!名無しだよん!:2014/03/08(土) 20:56:44 ID:Bpk1IxEI0
- お疲れ様です。
完結させたのが凄い!
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