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1 : 23734(3) / 2 : 26629(2) / 3 : ARS総合....1040119143(1) / 4 : 名古屋社会情報(96) / 5 : 名古屋社会情報(1000)
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1 23734 (Res:3)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 1
1 名前:31592 投稿日: 2013/07/28(日) 17:41:24
The Wyoming Incident (or The Wyoming Hijacking) is a lesser known case of television broadcast hijacking/hacking. A hacker managed to interrupt broadcasts from a local programming channel (believed to serve several smaller communities in the county of Niobrara) and aired his/her own video. The video contained numerous clips of disembodied, human heads showing various emotions and poses. The camera position changed often (usually every rednightlotus ten-to-fifteen seconds) and the video was often interrupted by a SPECIAL PRESENTATION announcement. This clip is taken from one of these intervals.

2 名前:paypeignissem 投稿日: 2014/10/05(日) 01:34:20
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3 名前:paypeignissem 投稿日: 2014/10/05(日) 11:01:27
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2 26629 (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 2
1 名前:29781 投稿日: 2013/07/27(土) 17:19:14
The Wyoming Incident (or The Wyoming Hijacking) is a lesser known case of television broadcast hijacking/hacking. A hacker managed to interrupt broadcasts from a local programming channel (believed to serve several smaller communities in the county of Niobrara) and aired his/her own video. The video contained numerous clips of disembodied, human heads showing various emotions and poses. The camera position changed often (usually every rednightlotus ten-to-fifteen seconds) and the video was often interrupted by a SPECIAL PRESENTATION announcement. This clip is taken from one of these intervals.

2 名前:paypeignissem 投稿日: 2014/09/23(火) 09:15:29
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3 ARS総合....1040119143 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 3
1 名前:フォルスカーター ◆gkIiYDRLXc 投稿日: 2012/05/18(金) 22:11:37
ttp://bbs.aqbb.net/?ars99
ttp://ikushio.info/ars99/

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4 名古屋社会情報 (Res:96)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 4
1 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/11(水) 21:18:49
日本国民よ!危機感を持て!無知は罪なり!

90 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/13(金) 12:45:05
こういう憲法が50年も生き長らえるという現実は、我々、大和民族、日本民族というのが法律の規範ということを強く意識せず、法というものを自分勝手に、自分に都合にいいように解釈しているという証左である。
我々は法律に対する考え方が寛容すぎる民族である。
我々の民族にとっては、民族の生存は、法律の制定よりも前からあるわけで、法律というのは、人間の行動規範を束縛するもので、我々の行動が法律に縛られる事など御免こうむるという気風がある。
法律というのは、支配者の都合で、どういう風にも解釈できるので、支配の為の方便にすぎないという意識で、庶民というのは、一切、法というものを信用していないわけである。事実、いくらでも拡大解釈して、それが通用しているわけである。
自衛隊の存在なども、拡大解釈以外のなにものでもない。
自衛隊を創設するについて、憲法改正をしてこなかったが故に、明らかに憲法違反であるにもかかわらず、アジア最大の軍事力になってしまっているわけである。
1994年、村山内閣は、今まで憲法違反と、声高に叫んでいたその自衛隊を容認するということで政権を確立したわけであるが、これでは政権さえ取れば、赤を黒とでも言い包めるに等しい行為である。
我々が法律を信用していない、ということは我々の日常生活にいくらでも存在する現象である。
これは法律の方にも無理があるわけで、守れないような法律が歴然と生きているわけで、それに人命尊重というサブ・タイトルがくっついて、人命の前には、法律は用をなしていない、という結果になっている。
人命や、人権の前では、法律も影が薄く、法の毅然たる施行は、人道主義に反する、という評価が蔓延する次第である。
こういう我々の民族的心情が、憲法であらゆる戦争を放棄しているにもかかわらず、自尊自衛の戦争は容認される、という論法のもとで自衛隊が創設されてきているわけである。自衛隊の創設に関して、本当のところは、アメリカの極東政策の一環として作られたものであるにもかかわらず、日本政府の見解は、こういう憲法の拡大解釈のもとでの、言い訳がましい論法が罷り通るところが日本人の法律に対する潜在的な認識である。
我々の日常生活というのは、法律で禁止しているからその行為はしない、というものではなく、我儘一杯行動しておきながら、法律に触れると運が悪かったという認識である。
規制緩和を唱えながら、何かトラブルがあると「政府は何をしているのか、法律で規制せよ」という、無いものねだりするわけである。
そういう風に、我々、日本国民というのは、憲法というものが、外国の圧力により、外国の圧迫のもとで出来上がっているにもかかわらず、いざ自主憲法を作るという段階になると、アレルギ−症状を呈するわけである。
アレルギ−症状の根源は、憲法改正が再軍備に繋がるのではないか、という危惧にある事は自明のことであるが、再軍備を恐れるあまり、我々の手による民主的な自主憲法の制定までも拒否する、という愚を犯しているわけである。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

91 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/13(金) 12:45:42
法を蔑ろにするということは、我が民族にとって、人間の生存が先で、法の方が後から出現した、という近代思想の反省からきていることかもしれないが、そのことは、我々の民族がいかに民主主義という、新しい、人間が思考した考え方に馴染めないのか、という事でもあると思う。
我々が生まれ落ちたこの土地では、法律の存在よりも前から日本古来の処世術というものがあったわけで、この処世術の中には、支配する側のものと、支配される側のものの、二種類があったものと思う。
人間が集団で生きていくためには、支配する側か、支配される側の、二種類のグル−プのどちらかに属さなければならなかったわけである。
数の上では支配される側の人口が多いのは云うまでもないが、こちらの側は、法律の存在などは無関心に従来の習慣法が生きていたわけで、そういう状況、環境下であってみれば近代的な法律というものは遵守しようがしまいが、日常生活には直接の影響が無かったに違いない。
だから、近代的な法律というものが整備されたとしても、法律というのは、運用する側の問題であって、一般庶民の日常生活を規制するものでしかないわけであり、自分の都合にあわせて、自分の都合のいいように解釈するわけである。
戦前、戦中の軍部というのは、民衆を戦争に駆り立てるために、その威力を最大限に利用し、戦後の進歩的知識人というのも、戦前、戦中の軍部と同じように、自らの主張に正当性を加味するために、自らの都合にいい風に解釈し、体制批判に利用しているのである。アメリカの民主主義の場合、法律というのは、アメリカ国民の利益を保護するために、自ら作って、自らをそれに従属させる、という関係で成り立っているが、我々の場合も、建前は国家という場で、国民から選出された国会議員によって立法されているが、庶民感覚からすれば、未だにお上から押しつけられたという意識を拭いされないでいる。

92 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/13(金) 12:46:22

戦後の法律が、国民から選出された国会議員によって作られているとしたら、日本国憲法というのは、その過程を経ずして出来上がっているわけである。
少なくとも占領下に制定されたものである以上、独立を得た後の日本では、占領下の憲法とは別のものを考えるべきであったと思う。
それをせずして今日まできたということは、我々が、憲法というものを全く顧みる事無く、あってもなくてもたいして我々の日常生活には差し障りがない、と判断していたからに他ならない。
「憲法を改正すると軍国主義に陥る」という発想も憲法を蔑ろにした発想である。
事程左様に、我々、日本民族というのは成文法に不寛容なわけで、法律というものを信用していないということである。
法律を信用する前に、我々の個人のエゴイズムを前面に出して、個人の願望が受け入れるかどうかが、問題となるわけである。
我々が憲法を改正するかどうかの問題は、あくまで日本国内の問題であり、地球規模で眺めれば、文字通り井戸の中の蛙の争いのようなもので、他の国から見れば、日本国内の問題にすぎない。
日本国内でいくら議論が沸騰したところで部外者にとっては痛くも痒くもない問題であるはずである。
しかし、その部外者から見ても、占領軍から押しつけられた憲法を後生大事に抱えている国民というのは、理解に苦しむのではなかろうか。
そのことは、民族の自主独立というものを自ら放棄しているにすぎない、と映っているに違いない。
そういう国民が世界で信頼を勝ち得る事は出来ないわけで、あくまでもエコノミック・アニマルという蔑視に耐える他ないわけである。
戦後の我々は、国の誇りとか、民族の誇りというものを失ってしまったわけで、あるのは金儲けのみである、という印象を世界にばらまいたわけである。
分け隔てのない平等社会ということは、言葉を裏返して云えば、野心も、希望も、民族の誇りも失って、ただただ唯我独尊、自分一人が損害をこうむらなければそれで由とする発想に陥った証拠である。
これは一見民主的な社会のように聞こえかもしれないが、真の民主主義社会というのは、こんな綺麗事では済まされないわけで、自由、博愛、平等と云うのは、勝ち取るものであり、自ら築くものであるはずである。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

93 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/13(金) 12:47:40
あの大戦を経過して、日本人の中で、誰が軍国主義を肯定し、誰が徴兵制を是認し、誰が戦争をしたがっているのか、いたらその具体的な例を上げてもらいたいと思う。
西洋の狼少年の寓話のように、ありもしない亡霊を恐れて、ありもしないシナリオに怯えて、我々の精神が歪んでしまったに違いない。
我々が今自主憲法を作るということは真の民主主義に一歩でも二歩でも近付く事である。戦後の日本の民主主義というのは、占領軍の占領政策の一環として、占領政策の都合上、便宜的に、あるいは一時緊急避難的に制定されたものであって、「不磨の大典」ではありえないわけである。
戦争を放棄するということは、実に曖昧な表現で、そもそも戦争という言葉の解釈からして、漠然としたものであり、現行憲法で放棄した戦争というのは、主権の延長としての戦争であって、その意味からすれば、侵略戦争を意味していると思われるので、自衛のための戦争ならば許される、というのが今日的な憲法解釈である。
しかし、その字句を厳密に読めば、自衛の為の武力行使も放棄していることは明らかである以上、この憲法解釈は拡大解釈といわざるをえない。
法律の字句に拡大解釈の余地がある、と云うこと自体が不備であるわけで、先の大戦で辛苦を舐めた我々の先輩諸兄が、「戦争」という語句から、「遺棄すべきもの」というイメ−ジが抜けきれないのも致し方ないことではあるが、現実の世の中の動きというのは、そういう感傷を許さない場面の連続である。

94 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/13(金) 12:48:20
我々は、国土が海で囲まれて、異民族との接触の生の場面に遭遇する機会というのが少ないので、我々は井戸の中の蛙ですませているが、現実の世界の動きというのは、そういう生易しいものではないはずである。 
日本国憲法の問題は、日本国民の問題である以上、その問題に嘴を入れてくる主権国家というのはないのが当然である。
これを裏返してみれば、外圧がないので、我々は何一つ変えられない、ということにもなるわけで、これでは民族の誇りもアイデンテイテイ−もないということに他ならない。
日本国内にいるかぎり、そういったものに無縁で過ごせるが、一度外国との接触の場に遭遇すると、それでは済まされなくなるわけである。
例えば、国旗一つとっても、諸外国の人々は、自らの国の国旗には誇りを持っているが、我々は、国旗を敬うという概念すら欠如しているわけで、国旗はスポ−ツのシンボルぐらいにしか思っていないわけである。
我が国が敗戦、終戦の結果、江戸時代の鎖国状態を強いられたならば致し方ないが、講和条約で、世界の仲間入りを認められたわけで、そういう環境下におかれてみると、ミニマムの常識として、世界の常識をある程度は受け入れざるをえないわけである。
一国平和主義というのも、舞台が日本の治世圏の中のことだけならば、ある意味で致し方ないが、今の日本というのは、我が国一国のみで生存しているわけではなく、世界の国々との連携の中で生きているわけで、そのことを考えれば、一国平和主義というのはあまりにも自分勝手な言い分にすぎない。
我々が未だに自主憲法を制定していない、ということは我々にとって憲法というものはあってもなくても生存には差し支えないということである。
だからこそ、占領軍の強制によった出来た憲法を後生大事に維持しつづけているわけである。
その背景には、民族の誇りも、愛国心も、忠誠心も、全てどこかに置き忘れて、ただただ食わんが為に粉骨砕身、経済競争にのみ、身を擦り減らしてきたわけである。
戦後の日本の革新勢力というものが、憲法改正にも反対し、講和条約の締結にも反対し、安全保障条約にも反対してきた理由の一つは、反対する事で、食うことが出来る商売が成り立っているということである。
革新勢力というのは、政治をする人々ではなく、政治を食物にして商売をしている人々の集団であるということに他ならない。 
そのことは保守を旗印にしている人々についても同じ事が云えるが、日本の政治家というのは、政治を食物にして商売をする人々のことである。
政治屋を選出する選挙というのも、一種のお祭りで、日本という、太古より連綿と継続した人民の国では、本質的な政策論争で政治が語られることはなく、地縁、金縁、権縁で、本当に政治を語ろうとする人は、選挙で振るい落とされてしまうわけである。
本当に、真剣に憲法改正を論ずれば、選挙で選出されず、福祉を唱え、橋の一本でも作った人が選挙で選ばれる、という構図から抜けきれないのが、今の日本の戦後民主主義として罷り通っているわけである。
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95 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/13(金) 12:53:21
国会議員が極めて平等意識によって選出される、というところに地域エゴが出るわけで、地域エゴが政治の本質を議論することを阻んでいるわけである。
アメリカの民主主義というのは、地域エゴ、企業エゴ、利益集団のエゴというものを正面から捉えているので、そのエゴを政治に反映させるための方策が認められている。
我々の戦後民主主義による国政というのは、地域エゴを否定しながら、国会議員というのは裏で地域エゴの実現に奔走する、と云う構図が現実の姿で、ここに国政の本音と建前の矛盾があるわけである。
我々の戦後民主主義による政治が、真に本物であるとすれば、国政の場で地域エゴの実現に奔走する姿というのは邪道のはずである。
ところが我々の国会議員というのは、族議員という表現が示すように、利益集団の代表の様を呈しているわけで、国政を論ずるよりも、権益獲得の方が、その人の実力を計るバロメ−タ−になっている感がある。
よって、政治家が真剣に国政を論じていると、その国会議員は次の選挙で落選してしまい、地元に橋の一本も掛けた議員は、地元に貢献したとして、また次の任期を任せられるのである。
このことは、突き詰めて云えば、選挙する側の政治感覚の問題である。
国会議員になろうとする人よりも、その人を選出する側の問題のはずであるが、我々庶民の政治感覚というのは、そこまで意識改革が進んでいないわけである。
だから、戦後50年経っても、経済一流政治は三流という評される次第である。
官僚になるには国家公務員試験があり、裁判官には司法試験という難関が科せられているが、国会議員とか、地方議会の議員になるには禁治産者以外を除けば誰でも立候補を出来るわけで、その意味では、議員の資格審査という篩は全く無いわけである。
いかにも平等を絵に書いたようなものである。民主的そのものである。
そして、その答えは多数決原理で、多数を獲得したものが勝ちである。
逆に云えば、共産党のように、党の締め付けで、何が何でも棄権を防止して、自らの党に議席を与えようと画策する政党が有利なことは言うを待たない。
ここに再び村の論理が介在することになるわけである。
我々、日本民族というのは、古来より農耕民族の特徴として、村意識を脱却できないでいる。
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96 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/13(金) 14:09:42
■ 警察官と暴力団の癒着
<NIさんより>岡山で警察内部のゴタゴタで暴力団に助っ人を頼んだ件が発覚しています。報道では機器の使い方に注意されたりして言動に腹が立ったというのが事件の動機という事ですが、どうで「俺の愛人になれ、ラブホテルに行こう」と言ったが断られたとかそんなところではないでしょうか。
 私の見立てでは暴力団担当をさせていたがどうも捜査情報が流れ過ぎる、過度で個人的な利益供与を受けているという癒着の噂が強い、かといって留置管理や免許センターに飛ばすのもメンツが潰れ過ぎるという事で中を取って通信司令室配属にしたのではと見ています。昔東京でも同じような事があり、マスコミ対策が功を奏し表に出なかったという事例があったというのを論壇で見た事があります。
 普通はこういう事件があっても記者クラブ対策で表に出ないのでしょう。警察というのは紳士淑女の集まりではないなぁと改めて感じた事件でした。

(コメント)地方自治体の警察なんていらないんです。どうせ装備品もすべて国家予算で、人件費だけが地方自治体なんですから、この際、警察庁をトップとした国家警察にさっさと切り替えて、全国統一採用形式に改めましょう。日本は狭いんですから、FBI方式で十分です。そうすれば、地方のダニである都道府県議とかに気を使う必要もありません。

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5 名古屋社会情報 (Res:1000)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 5
1 名前:名古屋 投稿日: 2012/03/05(月) 04:53:48
気になる記事やニュースで語り合う

994 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/11(水) 20:58:20
私は霊界を見て来た


●霊界の学者と牧師の話
  その2人の霊はいずれも、この世にあったときはかなり高名な人物で、人々にもよく知られていた。1人は有徳の牧師とされ、1人は勇敢な将軍とされていた人物だった。
  牧師は霊界でもこの世にあったときと同じように熱心に説教をし、霊たちに有徳の生活というものを説いていた。彼はいつも自分の説教をつぎの言葉で始めるのであった。
  「汝ら罪深き霊たちよ。わが説ける神の教えを信じ、神の示せる生を送るべし。さらば汝ら、神の許しにより救われん!」
  彼は続いてつぎのような説教を行なうのだった。
  今、この霊界に来ている霊たちは、もともと人間として生まれたにもかかわらず、世間にいた時に熱心に神の教えを聞かず、また、それにしたがった生活も送らなかった。だから、人間であった時に彼らは、その人間として生まれながら持っている罪のけがれを清めることを怠った。そのため、いまこの霊界へ入れられ、天国には入れなかったのだ。だが、悔い改めるには遅すぎるということはない。神は慈悲深いから今からでも許して下さる。それには私が霊界で説く神の教えにしたがって霊界で有徳の生活をせよ。そうすれば汝らも天国に入ることができるであろう。私は、このことを説くために特に神によって、この霊界に派遣された者なのだ……。
  だが、霊界には彼の教えを熱心に聞くものはほとんどなかった。彼は、このことを嘆き、同時に霊たちをつぎのようにおどかしていた。
  「汝ら、わが説ける神の教えを聞くに耳なき者なり。汝ら改めざる限りその罰を受けん」
  彼は、そして罰の内容を示した。それは、やがて霊界にもノアの大洪水が起き、悔い改めない者たちを全て霊界から放逐し命を奪うだろう。また、とくに罪深い者たちはその洪水の前に天空から墜ちて来る大きな岩の下敷きになって亡ぶだろうというものだった。

995 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/11(水) 20:58:54
  また彼は山岳の近くにある霊の団体で説教し、人々が彼の説教に従おうとしない時には、その山岳をやがて彼の祈りの力で崩し、霊たちを亡ぼすとか、海や河の近くの団体のときには同じように彼の祈りの力で水をあふれさせて霊たちに罰を与えるともいって霊たちをおどかした。そして、彼は実際にも霊界の太陽に向かって霊流の力を彼に貸し与え、山岳をくずしたり水をあふれさせたりして神の教えに従わぬ霊たちに罰を与えることを祈っていたのである。
  もう一人の将軍はこの世にあった時には、とくにその戦術に秀でていたことで知られていた者だった。彼は霊たちと会うごとに、ある空気の波のようなものを相手の霊の心に向かって放つことが癖であった。この波のようなものは、想念の交通のときに霊たちが使う想念伝達の手段と同じものだったが、少し違うのは、この波が一般の霊たちの想念伝達のときの感じとはどこか異なるものがあることであった。私も実際に、この将軍の霊と会って話(想念の交通)をしたことがあるが、やはり奇妙なユガミのような感触がどこかにあるのをつねに感じた。
  彼ら2人は霊界では、霊たちには軽んぜられ冷笑の対象にしかならなかった。それが彼らに不満不平を起こさせ彼らをいよいよ愚行に走らせていた。
  では私は、この2人の人物のことについてもう少し詳しく述べてみよう。
  人間の死後において霊として残存するのはもっとも根本的なもの、つまりその人間の本当の性格としての霊的な心、霊的な人格だ。霊界においては、そのため霊的な人格の高い低いとか、本当の意味の霊性の高低とかいうことだけしか霊の人格(霊格)をきめる基準にはならない。なぜなら霊たちは、その霊の本然の姿にかえって霊としての永遠の生を送っているからだ。
  そこで、人間であったときの記憶も本当の霊的な深部、心の奥底に刻まれたものしか残らないのが普通なのである。この2人の場合は少し特異な例といえる。牧師の場合は、教会の牧師としての彼の立場が人間界にあったときには人々に権威として通用したため、人々は彼の説教も聞いたのだろう。彼は、人々に尊敬された記憶が霊界に入っても残っていた。それは彼が人間界にいたとき、人々からの尊敬を受けることを異常に喜び、それが彼の霊の深部にまで達するほどだったからに違いない。だからこそ霊界に入ってもその記憶が残っていたのだ。彼は人々が自分の説教を聞くのは説教の価値そのものが高いためと錯覚したのだが、実際には彼が人々から尊敬されることを異常に喜んだものに過ぎない。彼はこの錯覚に気づかず、霊界においても説教を続けたわけだが、霊的に真正なものしか価値を持ちえない霊界では、霊たちには一種の奇人としてしか受け取られなかった。
  将軍のほうは、長年の戦場の策略が習い性となり彼の霊の記憶にまで達していたのである。彼は戦場の策略、つまり敵をダマす習性が霊界においても出たのだが、これもまた、あまりに外面的なことで霊界においてはすぐ霊たちに見破られ、彼もまた奇人としての扱いしか受けなかった。
  精霊においてすら、人間界でもっていた姿を次第に捨ててその本来の姿にかえっていく。ましてや霊界において、このような外面的なことが価値も持つはずはない。
  私は、このほかにも歴史上に著名な人物――それらは世にある時はいずれも有徳の人とか知識がすぐれた者とか高く評価された人たちだった――が、その本来の霊にかえったとき霊的な知性、理性においても全くとるに足らない霊になっていて、霊界で軽んぜられている例を幾度も見聞きした。彼らは人間界にいたときに外面的な知識とかに捕われて霊的な窓を聞くことをしなかった者であった。
  こういう人たちより「心直ぐなる人」のほうが、霊界でははるかに悟り、知性、理性にすぐれた霊として上位の世界に行くことになるわけだ。

996 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/11(水) 21:00:55
シンクロニシティ

●シンクロニシティの隠された意味を知るためには
  私がシンクロニシティを日記の形式で記録し始めたのは1993年のことだった。記録した内容は大きなもの、小さなものといろいろだが、4年を経過した現在改めて計算してみると、月平均で8回もの「意味のある偶然」が起きていることがわかった。月8回ということは、1年間に直せば100回近くになる。きちんと記録をつけていなければ、この大部分を忘れてしまったはずだ。まったく予測していない瞬間に起きるシンクロニシティを記録し集めていくと、これだけの数になるのである。
  日記をあらためて見た私は、正直なところかなり驚かされた。一つひとつの現象の内容をつぶさに見ていくと、たしかに不思議なものばかりだ。不思議ではあるが、特にメッセージ性を強く含んだものばかりではない。これはおそらく、微視的な観点から見ているからだろう。ところが、前後に起きたことを考え合わせると、その現象の意味がはっきりと浮かび上がってくるのだ。
  さらには、シンクロニシティの間にも明らかな関連性が見て取れる。いってみれば、それぞれの現象は細胞のようなもので、それがいくつか集まることによって真のメッセージの意味が明らかになるような気がするのである。シンクロニシティのメカニズムを解く鍵は、ここにあるのかもしれない。一つひとつの現象は、パズルのピースのようなものなのだ。
  テレビの画面に近づいて表面をよく見ると、無数の光の点があるのがわかる。点の明暗や濃淡が微妙に変化することによって、画面の一部分が構成される。画素と呼ばれるこうした点が何千何万と集まって、はじめて意味のある画面ができあがるのだ。しかも画面は、少し離れたところから見ないと何なのかわからない。
  シンクロニシティと人生の関係は、この画素と画面の関係に似ている。意味のある偶然一つひとつが集まってできた人生という画面を、遠くから見てはじめて、その真の意味が明らかになるのである。
  人間の一生には、必ずテーマがある。それに気づこうと気づくまいと、テーマは歴然として存在するのだ。一生におけるテーマが何であるのか。そのヒントを与えるのがシンクロシティという現象なのである。全体像を見ることによって、一つひとつの現象の意味が明らかになるともいえよう。
  これを可能にするのが、日記をつけることだ。日記をつけておけば、短期から中長期にいたるまでの流れを把握することができるので、ある時点における自分の状態とシンクロニシティの関係を探ることもできる。また、文章を読み返すことによって事実のみを思い出すことができる。自分がこの世に存在する、という奇跡を理解し、感謝するための客観性を得ることができるのだ。人生を広い視野から考えれば、それまでの考え方が一変することもあるだろう。価値判断の基準となるのは、自分自身が記録した文章だ。これ以上信頼できるものはない。
  シンクロニシティ日記をつけるのは、あなた自身の“運命の本”を書くことにほかならない。現象によって示された真意を汲み取ることによって、人生という航路を進むにあたっての指針を得ることができるのだ。そして何より大切なのは、日記を通じて自分と自然、自分と創造主の関係を確認することだ。人間はまぎれもなく自然界の一部であり、その自然界を創り上げた創造主とも直接つながっているのである。
  シンクロニシティは、深層心理や無意識を通じて日常に示される奇跡といってもいいだろう。形のない深層心理や無意識が、はっきりとした形で働きかけてくる現象ともいえるかもしれない。一人ひとりの人間は、それぞれが自然界や創造主と深いつながりを持っているからである。われわれは祈りの言葉で神に語りかけるが、神や自然が無意識を通じてわれわれに話しかけてきたとき、それがシンクロニシティという現象になる。
  シンクロニシティによって示されたメッセージを正確に読み取ることは、天啓の導きとより高い目的意識を得ることにつながるだろう。一生を広い視野から考えられるようになった人は、他人を微視的な基準で判断することもなくなる。なぜならば、他の人々も自分と同じように自然の一部であり、それぞれの人生に大きなテーマが隠されていることを実感するからだ。
  こう考えると、神と人間を直接つなげるものがシンクロニシティであるということがいえる。宗教家はそれを神の介在という。また科学者は既存の概念で説明しきれない部分と呼ぶだろう。シンクロニシティを理解することは、われわれが何であるのかを理解することに通じるのだ。自分がどこにいて、どの方向に進むべきなのか――その理由が自然界全体をスケールとして示される現象ということができるだろう。

997 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/11(水) 21:02:52
魂をめぐる物語


●信頼すること
  「創造主に、自分がほしいと思うものを与えてくれるよう、お願いしなさい……」両親は娘に言いました。「創造主は、必ずそれにこたえてくれるから」
  彼らは、娘がまだ赤ちゃんのころから、そう言いつづけていました。そしていまや、娘は7歳になっていました。
  「私、創造主にお願いしたの」ある朝、娘は言いました。
  「何をお願いしたの?」両親は尋ねました。
  「私の誕生日に、雪を降らせてくださいって」
  そう言って彼女は、クスクスと笑いました。両親は「これは困った」という表情で見つめ合いました。娘の誕生日は7月で、彼らは砂漠に住んでいました。砂漠の7月は、言うまでもなく、寒くはありません。
  2週間後、誕生日に友だちがたくさんやってきて、楽しい時間を過ごし、帰っていきましたが、雪は降りませんでした。しかし、少女はちっとも悲しそうではありませんでした。
  「創造主がこたえてくれなくて、がっかりした?」両親は彼女に、やさしく尋ねました。
  「彼はこたえてくれたわ……」彼女は言いました。「彼は言ったの。そんなことはできないって」
  ある人たちは、創造主を宇宙と呼び、それがどのように機能するかを知っている、と考えています。この少女の両親のようにです。そして、2人同様、いつも落胆しています。
  「人生とは、どうしてこうも、うまくいかないものなのだろう?」彼らがとても得意とする自分への問いかけです。
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998 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/11(水) 21:05:10
霊魂の旅


●見えない世界が急激に変化している
  この世はあの世の移し世(映し世)だと言われている。ということは、この世がこれほど急激に変化をしているのだから、あの世(幽界)もすさまじいスピードで変化をしているはずである。
  今まで死後の世界を論じたものはたくさんあるが、つねに動いているものとして捉えたものはない。死後の世界・幽界は、美しく明るいところから暗い地獄界まで変わりない姿で描かれてきた。
  五大宗教が生まれ、五大文明が生まれ、人類は徐々に進歩していったが、科学万能の現代に至ってだんだんあの世(幽界)が変化し始め、現在は幽界の変化の動きが猛烈となって、この影響をわれわれは気づかないうちに受け始めたのである。
  そしてさらに、幽界の動きがこの世の動きよりもすごいスピードで変化し始めたのである。このことを話す前に、一つだけ知っておいてもらいたいことがある。自然のなかに人が生活し、いろいろのものを開発して文明が生まれる。この世は物質の世界である。この物質界に比べて、見えない死後の世界・幽界は物質になりきらない半分だけの物質(これを半物質、または霊物質という)の世界である。霊魂も幽体もオーラなども半物質である。
  わたしたちは、時としてこの半物質を見ることがある。幽霊現象がそれである。幽霊は幽体であって半物質である。この幽体の波長と人の波長が合ったとき、その人は幽霊の姿を見ることができる。
  人には肉体の下に半物質の幽体(霊成型=ひながた)があるように、動物にも植物にも山にも川にも自然にも宇宙にもあらゆるものに、半分物質である幽体(霊成型)がある。つまり、すべてのものは元の形(=霊成型)があり、たとえば、山の幽体がこの世に出てきて山になり、川が干上がってなくなり半物質だけになり幽界に帰り、地上から姿を消したりする。
  地上のすべての物質はいつまでも同じ状態ではない。いのちのあるものはやがて死に、生命がないと思われている鉄などの物質もやがては溶けてしまう。すべてのものは時間の経過のなかでどんどん消滅し、また生まれ変化しているのである。
  さて、今日幽界の動きがこの世の動きよりすごいスピードで変化を始めたと言ったが、それはあの世・幽界がこの世のなかにすごいスピードで現われてくる大変な時代なのである。もう少しくわしく言えば、幽界にあるすべての半物質がわれわれの目に触れる物質に変化をしながら現われてくるということである。

●近い将来、この世とあの世(幽界)が一つになる
  半物質であるあの世(幽界)がこの世のなかに物質となって現われてくる恐ろしいときが、今いよいよ迫りつつあると先に述べたが、この現象がはっきりとした形で始まり出してから20数年経っている。この頃からまず異常気象が多くなり、天候を初めとする自然に変化が見られ出した。
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999 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/11(水) 21:11:12
成功をつかむ驚異の七大法則


●想念がすべてを逆転する
  賢明なる読者は、これまでの私の説明で、おぽろげながらもわれわれの住む物質の世界が架空の現象の世界にすぎない、ということがおわかりいただけたと思う。そこで新たに疑問がひとつ生じてくる。それは――この世が単なる現象の世界であり、運命の原型がすべて四次元の実在の世界にあるとしたら、われわれ人間はあくまでも受け身であり、四次元から投影される運命(不幸)は100%甘受しなければならず、したがって人間の運命は絶対に変えられないことになってしまうではないか――ということである。
  たしかに理屈の上ではそういうことになるかも知れないが、実際には、われわれの運命は、われわれの自由意志によって100%変えることができるのだ。というのは、四次元の実在の世界とは、いうなれば心の世界であり、ゆえに肉体は無理でも心だけは自由に出入りすることができるからだ。したがって、心の法則を利用して四次元の運命の原型を変えてしまえば、そこで三次元に映し出される運命もガラリと変わってしまうのである。
  このことについては、心の力のエキスパートでもある谷口雅春氏も、次のようにズバリ述べられている。(「生命の実相」日本教文社)

  「この『念の世界』でできあがるという事件は、すでに永劫の昔からできあがっていて、もうちょっとも変えることができないものであるかといいますと、決してそうではないのであります。『念の世界』でできあがる事件も、宇宙に満ちているいろいろの生物の心の働きの組み合わせにしたがって、時々刻々作られてゆくのであります。大きなあらすじの事件は、多くの『念』の働きを成立要素としてこまかい事件よりも早く、いわばむしろ、多数の『念』の多数決で決まってゆくのでありますが、それとて『進行中』のものであって、できあがってしまったものではありませんから、ある事件を起こしている『念の要素』の変化によって、またその事件は変わってゆくのであります。ここにわれわれの運命を支配しうる自由があるのであります」

  要するに、こういうことである。たとえばあなたがどこかの映画館に入ったとする。そこでは大変悲しい映像が映し出されていた。あまりの悲しさに、あなたはしだいに憂うつになり、そこで今度はあなたは、明るく楽しい映像を観たいと思った。その場合、スクリーンをどのように変えようと、そこに映し出される映像はけっして変わるものではない。映像を変えるためには、まず映写室に行くことだ。そして映写機のフィルムを、暗く悲しいものから明るく楽しいものに取り換えてしまうことだ。そうすればあとは自動的にスクリーンの絵は暗から明に変わることは自明の理である。
  これとまったく同じ理屈で、三次元の運命を変えるには、いま言ったように想念法を駆使して四次元の運命のパターンを変えてしまえばよいのだ。
  アメリカのニューソートの宗教家でトーマス・トロワードという人は、「四次元の宇宙は、人間の念願や希望など強くイメージされたものを受け取り、それを具体化して三次元の現象の世界へ具現する力をもっている」と述べている。これは取りも直さず、想念によって運命の原型が変わる、ということであり、事実この心の力をうまく活用するならば、あなたの人生はあなたの思い通りに展開することもけっして夢ではないのである。
  その心の力の具体的な活用法について、ここで簡単に紹介しておこう。
  たとえば、あなたが今なにかの商売をはじめたとして、その商売を将来はぜひとも繁盛させたいと思っていたとする。その場合、あなたは、まずはじめに「この商売は絶対に繁盛する! 必ず繁盛させてみせる!」と毎日自分で自分にいい聞かせ、それを信念にまで高めていくことが肝要だ。そして、実際に商売が大繁盛しているかのごとく、いかにも元気に振る舞って毎日を過ごしていくのである。
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1000 名前:名古屋 投稿日: 2012/04/11(水) 21:12:34
生きがいの創造


●想念と気
  昔から「丑の時(刻)参り」といって、夜中の2時ごろ、人々が寝しずまったときに、お宮などに参って、憎いと思う人のわら人形を作るか絵図を描いて、それを樹などに釘づけにして、眼なら眼、鼻なら鼻を、向こうの人間だと思ってうち込む。そうすると、それが、相手に応える。これは非常にいけないことだが、昔はよくやったものである。
  どうしてそれがきくか。わら人形や絵図をたたいたり切ったりしたところで何の影響もないではないかという人もあるが、それは「気」というもの、想念というもの、その気から出る波というもの、エネルギー、気から出る一種の電気、その働きを知らない人のいうことである。憎いと思って打ちこむその気は、強い電気の波となって、ほんとうに相手に伝わっていくから、相手はその影響を受けるのである。その人が病気になるとか、原因のわからない故障が起きるとかいうことがあるのである。
  しかしこれは「人を呪わば穴二つ」といって、自分も墓場にいかなければならない。人を殺そうと思えば、まず自分の穴を掘っておけと昔からいうのである。
  とにかく人の想念は怖ろしいものであって、実際は知らず知らずにこの想念というものが世の中を乱しており、よくしており、いろいろと根本的な影響を与えているものであるということを知らなければならない。
  お互いの家庭においても、家庭の人々の想念というものが浄らかであり、親しみぶかく、真実があれば、なんとなしにそこには輝きがあり、愉快があり、幸福がある。
  それに比して想念というものに憎しみがあり、嫌味があり、不親切であれば、そういう気持ちが、しじゅう波となって流れ出ており、その波と波とが衝突して向こうの体にぶつかる。それがなんとなしに感じるもので、このなんとなしに感じるのが怖ろしいのである。だから、世の中をよくしようと思えば、想念を浄らかにしなければならない。
  気がはいる、ということを俗にいうが、これは事実である。
  おなじ食物でも、心をこめた料理はなんとなしに食べたくなる。ところがけんかしながら、あるいは、いやいや料理した食物はまずい。料理人でも最後は腕の冴えではない。そのときの気持ちである。
  人間の気持ちというものはすべてへ流れ込むものである。すべてに作用するものである。確実にものを動かすものは気持ちであり、気である。刀には打つ人の気がこもる。よい気がこもっているならば、天地のよい気を吸い込む。人間でも類をもって集まる。「同気相もとめる」といって、同じような者がなんとはなしに集まってくるものである。
  犬でも猫でもそうである。馬は気の合う同士は、顔を合わせてなつかしそうにする。俗に「うまが合う」というが、馬というものは、仲がよかったらそばへきて顔を突き合わしている。うまが合わないと、尻でどっちも蹴り合いをしている。
  物はすべて霊気によって造られ、霊気を受けて性(さが)をなしている。人間同士の間においても、たがいに霊流は通じているので、甲の心は乙の心、乙の心は丙の心となるのが自然のなりゆきである。
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