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【議論】宗教は何故あるのか【宗教】

1 : Siphon ★ :2013/08/20(火) 01:31:58 ???
キリスト教のようなメジャーなものから無名の新興カルト集団まで様々な宗教が世界には存在しています。
そしてその宗教の中には宗派のようなものがあり、血みどろの争いをしていることもありますね。

意味や概念の違いはありますが、どの宗教でも”神”と呼ばれるものが存在します。
科学的な物の見方が広がった現在でも真剣に神の存在を信じる人が多く居ます。
仮に物理的には存在しなかったとしても、少なくとも彼ら信者の心の中には間違いなく”神”は存在しています。

何故人々の心の中に”神”が存在するのでしょう?

過去に、宗教によって多くの人々の血が流されました。
今でも宗教問題は存在しており、もはや宗教がもたらすメリットが無いとさえ感じさせてしまいます。
にも関わらず何故人々は宗教を捨てないのでしょう?

※注意
・罵詈雑言、煽りは控えること
・相手の意見も尊重すること
・この論題をきっかけに特定の相手と”喧嘩”がしたくなった場合はまた別個にスレを立てること
・あまり話が脱線している場合は誰かが強引に戻してください


2 : SONY :2013/08/21(水) 19:23:49 JaEm5/ro
何故宗教があるのか

道標的なものを、指標となるものを、共有したルールとして求められている面


生き方を自分で考えるより
宗教の理念に沿って生き方を併せる方が楽、何かあったときに言い訳を作れるから
うまくいかないことがあった時宗教の教えに反していたから仕方がないとか


神について

何故、神というものが存在するのか

理解できないものに対して、納得できないものに対して理由を求める、意味を欲しているから
そしてその理由として神というものを生み出した

人間の脳はわからないものに対して、理由や意味を見いだそうとしたり、勝手に解釈したりする
説明ができないものに対して、納得できないもの対して神の仕業にしてしまえば簡単に安易に補完ができてしまう
救われない事柄に対して神が与えた試練と受け入れてしまえば受け入れてしまえる人もいる

科学的に色んなことがわかった事柄に対しては仕組み、理由がわかったのでそれを神の仕業だと思わないようになる
けれどいくらわかってきても全ての事柄に対して納得できるといったらできないし
もの分かりがいいといったらそうではないし賢くもない

人が生きていく中で不条理な事がある限り、わからない事がある限り
脳が理由を求める限り神という都合のいい便利な理由がなくならないのではないか


3 : Siphon ★ :2013/08/24(土) 18:35:09 ???
道徳と宗教の違いって何だと思います?

道徳もまた生きるうえでの道標となりますし、宗教には少なからず”道徳的な”内容が含まれています。
しかし道徳は時代・場所によって大きくその内容が変わります。
江戸時代では武士身分に対する無礼が道徳的にまずいことでしょうが、今ではそのような道徳は存在しません。
社会の変化に従い、道徳もまた変化するものです。

その道徳の大半がその社会或いは権力者の都合のよいものになっています。

宗教が存在する理由の一つは為政者が都合よく民衆を操るためではないでしょうか。
自らの都合のよい道徳を宗教として押し付けるために”神”をより強力な神に仕立て上げたのかもしれません。
宗教の根源には道徳があります。
その道徳が常識として社会に定着すると多くの人は操られているということに気づきません。

純粋に雷や地震などの仕組みが分かっていなかったころ、人には理解の及ばない存在として”神”を理由付けにしていたのでしょう。
SONYさんの仰るように、人知の及ばない存在としての”神”がありました。
しかし、そこで部分的に信仰されていた”神”をここまで公にしたのはやはり時の権力者がこの信仰心を利用しようとしたからではないでしょうか。
もしも『逆えば雷が落ちる』、と言われれば誰でも従います。

道徳が変わっても、神は変わらない。
それがずっと古代から続き、今でも神が信仰されています。

道徳をなくすべきではありません。
道徳の崩壊は社会の崩壊と言えるでしょう。

しかし科学によって多くのことが解明された現在、未だに宗教が存在する必要があるのか、道徳に”神に対する信仰”を利用する必要があるのか、
宗教の存在意義を疑問に感じるところであります。

この利用された信仰心が逆に社会に悪影響を及ぼしているのではないでしょうか。


4 : SONY :2013/08/24(土) 22:54:18 JaEm5/ro
宗教、道徳について細かい部分までは自分はわからないので間違った部分があると思いますが
宗教は間違った事をしてもそれはそれで、何かしら理由があったりとか、それをきっかけに変わればとか色々な理由をつけ
前回いった補完をすることによって許されるように、救われるようにと
宗教は間違ったことにも意味を持たせそれをも受け入れる
間違ったことをしても神を信じれば、神を信じて信仰すれば救われるようなある意味、懐が深いご都合主義的なもの
必ずしも宗教に神がいるわけではないみたいですが
道標的なものではあるけれど宗教は救いの部分がある
これはどうしようもないことから逃げる、抱えきれないものを棚上げするために作られた一面があるからだと思います。

道徳は悪いことは悪い、悪いことはやってはいけないと間違ったことはしてはダメとしています。

宗教は個人を尊重する、道徳は集団での生き方を尊重する違いもあると思います

集団での生き方を尊重する部分が強い道徳
だからその基準となるものは社会、権力者の都合のよいものになっているように感じるのはわかります
あと道徳はその時代、その国や環境周りによって基準が変わってきます
それは道徳が集団での生き方を円滑にするための、人々の関わりにおける行為を規制するための規範としてのツールとして使われているから


5 : SONY :2013/08/24(土) 23:07:04 JaEm5/ro
宗教にしろ、道徳にしろそれを利用して自分の都合のいいように操る人がいるのは事実でしょう
しかしそれは宗教があるから、道徳があるからではなく
それを利用する人が問題かと
宗教による争いも大半は宗教を大義名分として己の利益を得ようとしているからだと


神が未だにあり続ける、宗教が未だにあり続けるのは
いくら科学が発展しても、いくら科学的に説明がついても
人は納得ができないんですよ。最大の要因は死だと思いますが
宗教や神は心理的な部分によって今現在も存在しているのだと思います

日本人は宗教と道徳を混同しやすいみたいですね
日本独特の様々な所から色んな文化を吸収してきた歴史から
宗教、儒教、道徳の混同さらに戦後の教育によっての急激な変化
それら独特な歴史の変遷が色んな文化をごちゃ混ぜになって区別ができなくなっているのでは
それはそれでよかったとは思いますけどね


6 : 名無しさん :2013/08/25(日) 10:09:48 ???
かかってこいよ雑魚
http://jbbs.livedoor.jp/school/26593/


7 : ΩЯΙмοЙΩ ◆TnaBOBUweE :2013/09/11(水) 04:36:00
ソニーのいう「人知に及ばない事柄、現象」を神と呼ぶって言うのは、実は日本人にとっては馴染みが深い。

民俗学というニッチな学問があって、俺は京極シリーズ(姑獲鳥の夏とか)そこら辺りから触れて、
この民俗学的に妖怪というものにスポットライトを当てるというのが非常に面白かった。
端的に言うと

「理由の分からない(人知に及ばないように見える)事柄や現象そのものを"妖怪"として呼称している」

っていうアプローチ。

俺はこれを思考停止とは思わないし、非常に便利な考え方だと思う。
「理解できないもの」を自分たちの現実に落とし込む方法としては、
一番その事柄・現象そのもの自体を表すのに非常に便利。

「理解できないもの」をそのコミュニティ全体で理解できないものとして理解できるという、
なんだろう、飲み込み方というか表現の仕方というか、そういうツールだっていう考え方。
情報共有のやり方としては凄く無駄がなくて且つ簡潔。

それを踏まえて、神とか宗教だけど、これって制度とかそういうのじゃなくて、
むしろ、事柄や現象の飲み込み方・表現の仕方の一つなんじゃないかっていうアプローチもまた面白いと思う。

人生に置ける、到底理解できないような理不尽を、そのコミュニティの中で
冷静かつそれ自体をそのまま受容し、理解し、表現する そのやり方として発生したのかもしれない。
しかも、そのように受容、表現することによって被害者の人間性や人格などを守ることができるし、
その延長上としてコミュニティ全体を守ることにもつながるわけで、
ちょっとした自衛というか、自浄というか、そういう効果も期待できるんじゃないかな。

そして、そういう「ツール」であるっていう風に考えると、時の権力者に良いように「利用される」こともなんとなく納得できる気がする。

バカと鋏は使い様 っていう言葉があるように、結局それを扱う人間によるっていうのはソニーの言うところで妥当だとおもう。
むしろ、非常に便利なものだし、正しく使うことは多分、社会を運営するにあたってはメリットにはなるんじゃないかな。
もちろんそれは「コミュニティは人のためにあり、人を守るために存在する」っていう基本理念をしっかり持ってないとだめだけどね。

だから、「神や宗教はなぜ存在するのか」っていう答えに対しては、
「人がそれを道具として生んだ」っていう逆転の発想としての考え方を書き込んでみる。

まー、ソニーの言ってることを掘り下げてみただけなんだけどね。

あとは「神の存在自体」についても考えてみる。

俺たちの頭の中には「概念」っていうものが存在しているはず。
また、この電子の世界には「情報」というものが存在している。
でも、これらの概念や情報って言うのは目に見える(カタチのある)ものではないよね。


この現実は人の五感によってその存在を示している。
この感覚が全ての現実であるという認識があると思う。
けれども、概念や情報自体はそういう五感で感じ取れるものではないはず。

俺たちは「三次元 + 時間 + 五感覚」の世界に存在して、それらを知覚して生きてる。
合わせて9つの次元を感じて生きてると表現しても良いかもしれない。
ただ、俺はその9つの次元の中だけで生きているとは思えない。

その9つ以外の次元として「情報」或は「概念」って世界があると思う。
これらは「カタチのない物」の癖に「我々はその存在を知覚できる」という非常に興味深い現象だ。
俺はそれを「第10次元目に片足を突っ込んでいる」と呼称したい。

そして、そのように表現することで、その第10次元目を自由に生きる上位存在を示唆できると思う。
それを我々が言うところの神として考えれば、その存在がありうるのではないか?という可能性を示唆できる。

、、、、、、んじゃないかな、って考えてみたり。
だから、まー「神様」っていう存在自体はあってもおかしくはないかもねー。
その性格として「宗教」っていう皮がついてるのかもしれないけど。

俺はそれだったら「ラブ&ピース」な神様がいいなと思うし、
もし信じるならそういう方がいいんじゃないかなと思う。
ラブ&ピースでロックンロールな世界の方が楽しいだろうしね。

そんな他愛のないことをなんとなく書き込んでみる。


8 : かっくん ◆UCY4WUEQMA :2013/09/12(木) 15:50:08
宗教とは、真理を知るための、ちょっと気取って仏教的に言えば、悟りの境地を得るためのもので、
科学や哲学と同じくして、その根源には人間の知的好奇心がある。
また、教えとは、真理という知覚を普遍化するためのもので、
科学チックに言えば、公式や理論と同じようなもの。
ただ、科学の公式や理論と違って、宗教の教えというのは、専門知識を持たなくとも読み解けるもので、
もちろんより深く掘り下げようと思えば、専門知識も必要になるのだろうけど、
科学のように理論的な知識でなく、あくまで知覚的なものを先んじる。
それはすなわち、土着しやすいということ。
その上、宗教には例外もあるにせよ歴史がある。
歴史があるということは、その分人々のバックグラウンドを形成する上で、ベースになっている可能性が高いということで、
そうなれば必然的にそこから脱却し、淘汰することは難しくなるし、
信仰の対象としての神であったり、真理の言い換えとしての神であったり、
知覚できるが言語化は難しいなにかを表現する為の神であったり、
何れにせよ、どの教えでもキーになる神という存在、ないし言葉が特別な意味を持ち、
それが血のなかで濃度を増してゆく、言うなれば「神を信じる」のはごく自然なことのように思える。
丁度、我々の中で資本主義と科学がそうであるように。


9 : Siphon ◆AAyjlv9iu6 :2013/09/13(金) 17:58:43
話を日本に限定してみる
私は日本人だし、日本の宗教を考えるのは面白い。
単に歴史が好きなだけなのかもしれないけど、歴史と宗教は密接に絡まっている

ちょっと議題から外れるかもしれないけどSONYとリモンのレスを見て考えたこと書くね

『人知に及ばぬ存在を”神”として信仰する』

キリスト教ならばそれは絶対神GODであるし、古代の日本では自然そのものが”神”だった
所謂精霊崇拝ってやつね

神に対する畏れが信仰心へと変化していくのであるが、その信仰心は宗教とは異なる。
宗教には組織が存在し、指導者がいる。例えばそれはキリスト、ブッダ…、もっと狭い範囲になると僧侶、神父なんかもそうだろう。
彼らは信者であるが、ただの信者ではない。
彼らは神に仕える存在である。

話は変わるけど、キリスト教や仏教って面白い性質を持っていると思う。
他の宗教にもその性質をもっているかもしれない。

それは”信じるものは救われる”というもの。

キリスト教ならばGODを崇拝し、禅宗ならば修行により解脱を目指し、浄土宗ならば念仏を唱えるだけで救われてしまう。
来世利益を求めるもの、現世利益を求めるもの、各々の宗教・宗派により、「救い」の意味は異なるものの、かなり面白い性質だと思う。
キリスト教も仏教も現世に対して悲観的な世界観を持っている。
だから極楽やら天国やらが生まれる。

しかし、古代日本で”神”を信仰していたときには「救い」の概念があったのか疑問なところ。
少なくとも仏教が入ってくるまではなかっただろうね
精霊崇拝は「救われること」を目的としているのではなく、畏敬の念が支配していたのだから。

リモンの言うように宗教はツールであると思うし、道具には必ず使用者がいる。
その使用者が『「コミュニティは人のためにあり、人を守るために存在する」っていう基本理念』を持っていないと悲惨な事態を招いてしまう…
この『人』ってのは使用者ではなくその道具が行使される対象ーつまり庶民のことだと私は捉える。
日本の歴史を見ると、ほとんどの使用者は集団の秩序を保つために、庶民を統制した。そのとき宗教、特に仏教を利用した。
「救い」の理念は使用者にとっては実に都合のいい話だと思う

もちろん純粋に宗教を神に対する信仰、来世利益を求めるためにやっているお坊さんはいただろうけど、生きた人である限りまずは現実をどうにかしようと考えるのが普通であり、死後の世界なんてのを考えるそんな真面目な人はほとんど居ない。

そのような仏教による宗教体制に慣れるともはや宗教が宗教ではなくなってくる
一つの制度となる。

明治時代以降、仏教から再び日本独自の神へと戻るんだけど、既に仏教でおかされた日本に古代の神への信仰まで戻るはずが無い
それでも天皇という存在が居て、政治的に利用されていたのは事実であり、天皇制と言うのは一つの宗教なのだろうと思ってしまう

もはやこの宗教は”神に対する信仰”ではなく、まったく別のシロモノとしての宗教なんだろう
本気で天皇がGODやら「神」だと思っていた人はいない、いるはずがない。

日本はある意味、宗教のおかげで秩序が保てたのではないかと思う。
戦後、GHQにより占領支配を受けていたとき、武装解除が天皇の命令だと知ると日本人は軍人であろうが庶民であろうが大半のものはあっけなくそれを受け容れた。
天皇を殺さなかったのはアメリカが日本を支配するために天皇を利用するためだったそうだ

世界に広げると、宗教が秩序を生み出したのか、秩序を乱したのか、これはかなり難しいところで、人間ってのは利己的だろうから大抵は後者のように感じる。
ジコチューな使用者が宗教を使用するととんでもないことになってしまう…
だからこそ純粋に未だに宗教が存在する必要性に疑問を感じる
現に今でもツールの使用者が誤っているがために悲惨な事態が起きている
このような危険なツールをほったらかしにしていいのか、どうしても宗教に対しては良いイメージを抱けない

今の日本は宗教から離れてしまった
宗教を政治の中枢にしている国は先進国ではもうほとんどない。
儀式として形だけ残っている国はあるけど…

宗教に頼るのはもしかしたら文明が未熟だからなのだろうか、あるいはむしろ神への信仰こそ人間の自然の姿で現代文明がおかしいのだろうか…


10 : 赤ヴェル :2013/09/14(土) 17:03:17
宗教は,有限な地上の世界における衣食住の快適さと便利さの追求,また栄誉や権力を求めての戦いに没頭し,
そこに最上の生き甲斐を感じている人間には,差し当たり無縁な存在であり,時には邪魔な存在であり,或いは自己の地上的な欲求を実現する為の便利な道具となるでしょう。
しかし,その限り人類の社会には,苦悩と悲惨が止むことはない。
むしろ益マス増大するでしょう。
宗教とはこのような苦悩やら悲惨を少しでも低減し,人間が生きる悦びを得ようという
努力から生まれたものである,と私は考えます。


11 : あいぽんりもん :2013/09/14(土) 17:34:42
しほんは、日本のメインの宗教を仏教と考えてるみたいだけど、
そもそも日本の仏教自体が日本独自の解釈によって改変されてる部分もあり、
その、改変されていると云うところが、自然崇拝や八百万の神、神道としての視点で解釈したものと見られる

ただ、正直いうと日本人って 救い 的な宗教はあんまり合致しないんじゃないかなって感じる
神道についてはギリシア神話っぽくて、神様って言えども俗っぽいし、福や罰という現世的な性質が強い

自然崇拝や八百万の神にしても、多分現世での万物に対しての感謝の気持ちというものが本流にあるんじゃないかな

それは宗教という枠を超えた、モラルというものを窮極的に表現したあり方のように思える
そういう高い水準での良心、自発的な意識を持ったモラルがあるかぎり、西洋や大陸の宗教は押し付けの様に感じて拒否するんじゃないかな

しかし、もっとも日本の独自の考えとして なんでもええやん みたいな考え方もあって、すべての宗教はそのようにあるべきだと思う
まぁ、それは 個人的な宗教 についての考察だけど、
排他的である限り、宗教は本当の意味での救いではない、または宗教としての在り方ができないと感じる

精神的な救いはやっぱ愛というか、相手を認めて受け入れることだと思うから、
理想的なのはどういう形であれ、互いを受け入れるものじゃないかなー

大きい宗教と小さい宗教を考えて見た


12 : 赤ヴェル :2013/09/14(土) 20:51:45
オウム事件に関する本で読んだ内容の中に,こういう考え方があった。

「信仰とは人間の内部に潜む莫大なエネルギーの放出の機会である」

その宗教を強く信ずる者は信仰の為に如何なる苦行にも耐えようとする。
また,どんなに多額なお布施にも二つ返事で応じようとする。拒もうとしない。
これは一見,帰属している宗教の為に滅私奉公しているように見受けられるが,
実のところは,エネルギー放出願望が満たされる最善の形式を得たにすぎない。

教祖アサハラの超能力がたとえインチキでも,ポアもクソもなかろうとも,信者にとってはどうでもよかったのだ。
彼らにとってはこの形式が保障されれば何であれ構わなかったもである。
云わば彼らにとって宗教とはカラオケボックスみたいなモノなのだ。

興味深い話でしょう。


13 : 赤ヴェル :2013/09/14(土) 21:35:46
気分が良いので「神」についても語っておきます。

超人間的な能力・威力を有し,我々人間の生活や運命を左右し支配すると信ぜられる神聖な存在。基本的に人類に好意的であり,恵みを与え,保護し,さらに人間の行為が不正である場合はそれを厳しく罰する存在。それが端的な神の観念であると思われます。

人間はナゼ神の存在を信じ,神を崇め,祀るのか。
それは恐らく人間が自己の能力(知性や行動能力)に限界を感ずる事から始まります。
その限界を超えたところに,人間の意志や統制を超えたものがあることを信じ,これに様々な願望や期待を寄せる。これこそ神の正体の一側面。
したがって,人間はその苦境・困難・危機において,神の力を信じ求めるのです。
例えば,苦しい病気を患った時,或いは大きな恥辱を受けた時,人間は神を強く求める。
神を我々の理解を超えた存在に位置づける事で,当然その神におる恩寵も我々の理解を超えたモノであると信じるからです。現代的にいえば「奇跡」とかそういうニュアンスですね。

その場合,人間は自分が神の加護や恩寵を受けるに相応しい者で有り得るように誠意やら努力やらを考えます。誠実な行為で身を律し,限りない努力と精進で神の恩寵に,加護に備えるのです。イスラムでいう六信五行はこれの良い例でしょう。
また,このシステムは民衆統制にも応用が効きます。「神」の存在は肯定することで,民衆に「神様は見ているぞ」と認識させるわけです。
儒教やイスラム教は,民衆統制の為に生れたと言っても過言ではない程に,この面が強く表れていますね。イスラムにおいては,砂漠という厳しい環境,「協力せねばならないような」環境に身を置かれた人類が,強い結束を生む為にイスラムを選んだのでしょう。
結果的に彼らは共同体(ウンマ)を構築し,それは現代にも根強く残っています。

まあ,これには救済なんかも関わってきますから一概には語れませんね。もっと多くの視点から緻密に語るべきでしょう。しかし,それでは話がそれてしまうのでまた別の機会に。


14 : SONY :2013/09/15(日) 09:23:25
宗教の起源ともいえる大事なファクターは人の死なのだと思います。
集団で協力して生活するようになり、そしてその中で死人がでる。
最初のうちはそれらに対して関心など示さなかったのかもしれない、それについてははっきりとした確認ができないが。
確認できる中で10万年前のある時を境に死者に対して、生きているものが死者に特別なことをするようになるのが確認される。
それが死者を埋葬する行為である。ただ埋葬するだけではなく花を添える、死者が生前に
使っていた道具を添える、死体に美しく化粧を施す行為が見られる
埋葬という行為が成立するためには、死を理解する事。また死者の魂や来世を考えるといった
抽象的な思考力の発達が不可欠であり、死後の世界を考えるようになったことにもつながる。
この埋葬、死について考え、死んだものにたいして可哀想だと思い、死後の世界でも幸せに暮らしますようにと祈る。
またそういう行為をすることにより残されたものが死を受け入れやすくなる一面もある。

死後の世界を考えることにより死んだ後も今とは違う形で生きるものだと考えるようになった。
儀式的に埋葬することにより、祈ることにより死者は死後の世界でも幸せに生きていけると思うようになる。
また死後幸せでありたいと望むようになる。死んだ者にたいして死の質を上げようとする。

死というどうしようもできない、あらがえない事にたいしてできる限りのことをする。
理解できないものにたいしてそれらしい理由を作る。
こういうわからないもの、どうしようもないものにたいしての考え、行動、人に関わるものが交わっていき
宗教とういう概念の基礎ができ、とりわけ死後の世界に関して考えが宗教の起源なのではないかと思います。

しかし死後の世界というものが本当にあるのか、なぜ死後の世界を考えるようになったのか

人が死んだからといって全てがなくなるわけではない、残されたものの中に記憶の中に情報として残っている。
記憶の中に実在している。目の前に姿はないが、目を閉じればその人の顔が、声が姿を思い浮かべる。
脳のシナプスがネットワークをつくり、その人の記憶、情報を保持する。
記憶、情報から脳の中で死んだものの情報を引き出す。大切な人を、死を受け入れられない人が
この引き出す行為をエスカレートさせてしまい、目の前にはいないけど、どこか別の場所で存在すると思い込むようになってしまった。
この別の場所が死後の世界に繋がっていったのでは

臨死体験と死後の世界
疾患や事故で瀕死の状態に陥った時に体験する超常的な現象、多くの場合は死後の世界をかいま見たり、死んだ知人や神、仏と出会ったりする。
体験のしやすさについて、男女の差や年齢差、地域差は特に指摘されてはいない。つまり誰にでも起こりうる、ごくありふれた現象。
但し、体験する人間の宗教的信条や、社会的基盤によって体験の内容がかなり規定される。
キリスト教圏ではキリストや天使を見ることが多い。日本では仏を見る。インドではヒンドゥー教の神を見る。
特定の宗教に染まっていない子供たちは、サンタクロースや学校の先生にあったりする。
その時に見る死後の世界の風景にも地域差があって、日本では三途の川を見ることが多く、欧米では壁を見る機会が多い。

臨死体験によって死後の世界を認識できるように思われるが、これらの現象は脳が起こした幻覚であるとされている。体験の内容を見てもらえばわかるように、元からある情報をもとに構成されている。
いまだ明確な臨死体験のメカニズムは解明されてはいないが、脳に何かしらの影響が起きたことにより起きうる現象であることは確かだろう。


15 : SONY :2013/09/15(日) 09:27:49
脳が作り出した現象
なぜ人間の脳は死後の世界や神を作り出すのでしょうか。前回は都合のいいモノとしてそれらを作り出した話をしました。
不条理なこと、許容できないものから逃れるために、叶えられない願望により作り出したモノ自己都合で作りあげられたモノ
ではなぜそのように作り出してしまうのか。
私たちの脳は、古い脳の上に段階的に新しい脳がふ化されることによって進化してきました。
生命の根幹である意識や呼吸を司る脳幹を基本に、情動や記憶にかかわる大脳辺縁系、そして創造性を生み出す大脳新皮質と大雑把に分けて三段階の階層が存在します。
その中で私たち人間は大脳新皮質を大きくするよう進化してきました。
さまざまな動物の脳を比較してみると、高等動物になるにつれ大脳新皮質が大きくなっています。
この大脳新資質、豊かな創造性があるから人類はここまで発展できたのだと思います。
脳の補完についても前回軽く触れましたがさらに詳しくいうと。
脳は辻褄を合わせようとする(左脳の「解釈装置」で辻褄の合う物語を作る)臓器であり、記憶も書き替えられるし、不都合なことは忘れる臓器であるということ。
このことにより精神の安定にも繋がりますが
創造性、辻褄を合わせようと補完する、信じようとする脳の力が宗教、神の存在を作りだした要因であると考えられます。
また脳に何かしらの力が働き、ありもしないものを見させる。
心因性の問題により脳にストレスがかかり幻想をみせる、側頭葉てんかんによる脳の異常放電により幻覚をみる。
その幻想を昔の人は理解もできないからあたかも存在しているものと勘違いしたのではないのか。
実際にてんかんの症状は悪魔がとりついていたと思われていた。

側頭葉てんかんと宗教
側頭葉てんかんと宗教の関係性は非常に深いものである。
まず側頭葉てんかんについて、側頭葉とは、脳の左右の側面に位置する部分で
ここに発作焦点を持つてんかんを、側頭葉てんかんと言います。
発作が起こることにより感覚や運動、精神状態の変化を引き起こし、意識が混濁し、発作直前に
行っていた動作を繰り返す自動症が現れる。この間、発作的な恐怖や幻覚、エクスタシー、奇妙なにおい、幻聴、デジャヴなどを感じる場合がある。
その時に脳の中で起こっている現象、一つは神経自体が以上に興奮しやすくなる、もう一つは
シナプスの伝達効率が増強される。この神経が活発になり、刺激がシナプスに繋がるようになる現象は人が記憶をつくる仕組みとほとんど同じなのである。
てんかんの発作が起きている間のことを記憶、情報として蓄積している場合がある。
ではこのてんかんと宗教どう繋がっていくのか。
聖書の中でも記載されているが、てんかんの症状の人を悪魔祓いと称しなおす様子があったり。
イエス・キリストの教えを強く否定する人物が天から強い光を浴び、地に倒れる。そしてイエスの言葉を聞いた。
その体験があまりにも神々しかったため深く感激し回心し、イエスの教えを各地に伝えるようになるという話もある。
この人物パウロはマラリアにかかり、そのせいで高熱が出て脳が損傷し、側頭葉てんかんになったのではないかと推測されています。
そして光の刺激によりてんかんの発作を起こし幻聴、幻覚を見たように捉えることができる。
また、イスラム教創始者である、ムハンマドも神の啓示を受けるときには、しばしば
幻視や幻聴、感情の変容などてんかん発作の症状を伴ったとされています。


死という理解できないものにたいする恐れ、死というものにたいし理不尽さを感じ
その感情のはけ口として都合のよいものを脳が作り上げる。それが死後の世界であり。
さらにてんかんによる幻聴、幻想を実際の体験として記憶してしまう。さらに脳の辻褄を合わせようとする機能、都合が悪いことを忘れる機能。
脳で作られたありもしないものを、さらに脳が実際にあったかのように思い込ませる。
宗教や神はこの脳のメカニズムが生み出したものではないのでしょうか。


16 : あいぽんりもん :2013/09/15(日) 10:56:18
すげー否定的なニュアンスを感じるけど、死に残された者達がなんとか生きていくための手段、防衛本能じゃなかろうか
脳のメカニズムとして考えるなら


17 : Siphon ◆AAyjlv9iu6 :2013/09/15(日) 15:12:39
>>リモン

神道としての視点で仏教解釈ってどうなんだろ?

むしろ逆であるような気がする。
仏教の導入で神道が排斥されたように思う
もちろん信仰としてはずっと生き続けただろうけど「宗教」として一つの枠組みにおさまることはなかった、と思う
神仏習合が進んだとき、神も人間と同じ性質を有し仏になることで救われるっていう考えが主流だったようだし
本地垂迹っていうんだっけ
一部の神道家はこれを認めなかったようだけど、普通の民衆はそれを何事もなく受け容れた

神道は自然への畏れ・感謝から自然と生まれたものだけど、仏教は導入されたもの
すでに宗教として出来上がったものを導入しちゃったんだよね
仏教に神は居ない

仏教の根本は魂の救済だから、悩むものは皆その対象になりうる
日本の神は俗物的だから、当然悩むんだよね神様も。
日本人からしたら神は生活と近いものだったんだと思う
だから神様といっても、西洋みたいな人間離れした精神をもってないし、その対象に神も入っちゃったんだろう

改変と言うより、まさに習合。
うまく二つの心をくっつける
器用な技だと思うよ
日本人って器用な民族なのかも。

しかし国レベルで考えると中枢にはやはり仏教があった、と思う
それは単に為政者の都合なのかもしれないけど


何故宗教が排他的になるのか
これを考えると、来世利益が絡んでいるように思える。
来世で救われる、逆を返せば今はどうでもいい、だからテロなんて行為に走っちゃう
救われるためには宗教に心酔しないといけない
イスラムもキリストも、神は絶対的な存在
そして救われたければ、その神以外を認めてはいけない
だから排他的になるのは必然な気がする

日本では宗教による内戦はおこっていない、と思う
宗教団体が一応武力蜂起を起こしてはいるけど、けどあれは宗教を原因とする内戦ではなくて、ただの一揆と同じだと思っている
「年貢を下げろ」やら、「借金帳消し」やらの要求が大半で、それはとても来世利益やら現世利益とはかけ離れたもの
これはやはり日本が神様を絶対的なものとしてみていなかったからなんだとおもう
宗教を宗教として見ていなかった、のかもしれない

宗教と聞くと怪しげな香りが漂っちゃうのもその所以なのかも・・・と思ったりする。


18 : Siphon ◆AAyjlv9iu6 :2013/09/15(日) 15:20:10
脳のメカニズムなんてよく知らないけど、死んだものってのは特別視されるのだろうな

死人がまた別の世界で「生きている」とするならば、彼らとの意思疎通ができない
だから想像が膨らむ


19 : Siphon ◆AAyjlv9iu6 :2013/09/15(日) 15:43:05
>>12
オウムにおける麻原彰晃に対する信仰と、自然に対する信仰とが同じものとして扱えるだろうか?

信じることは『修行すること』でも『お布施をすること』でもない
これはあくまで救済の理念を持ちえる宗教にのみあてはまることで、それはツールとしての宗教であり、信仰としての宗教ではない、と思う。
お供え物とお布施はまったく違う。

教祖というのは神ではなく単にツールの使用者にしかならない。
使用者が修行を要求するから、お金を求めるから、信者はそれに応える
そこにはエネルギー放出願望があるとは思えないし、宗教の為に滅私奉公、とも思えない
ただ単に「自分が救われたいから」要求に応えるだけなんだと、私は思う

宗教とはカラオケボックスではない
ただのエネルギーの受け皿にしかすぎないものに対して畏敬の念や心からの信仰が生まれたりするだろうか?

生活、社会と密接に結びいた自然への畏敬・信仰、そして死んだ祖先を祀ることで成り立った宗教と、オウムのような反社会的なカルトとを同一視することには少々疑問に感じる。


20 : あいぽんりもん :2013/09/15(日) 18:59:40
日本の仏教自体、大陸ではマイナーだったものじゃなかったっけ
大乗仏教と小乗仏教の違いか

プラスα解釈によって色んな方法やスタイルをしてる、バリエーションみたいな
そして、それらのものが日本の仏教

日本人は解釈と自分にフィットするように改造するのが好きな連中だと思うんよね

政に関しては、仏教を宗教として入れているのは勿論、それと神道を同居させてる
天皇制だとか神社の保護とか
もしも、日本の中心としての宗教が仏教なら、天皇中心の体制が今でも形として残ってるっていうのはありえない
同居させてしまう時点で日本独自のものだとおもうんだよね
それはそれ、これはこれみたいな
あと、導入したのは勿論だけど、どっちかというと教養や知的好奇心から来てる側面もあるような、憶測だけどね

なんにせよ、 あるがままを受け入れる という精神的なスタイル自体が日本的、神道的、自然崇拝的なものだと思うんだよね


21 : ΩЯΙмοЙΩ ◆TnaBOBUweE :2013/09/16(月) 02:16:03
俺の中の仏教の大枠は

釈迦→上座部仏教(チベットとかへ)→大乗仏教(中国とか)→日本へ、大乗仏教や密教はもちろん様々な宗派に分かれる

飛鳥:神道VS仏教の図

奈良:いわゆる奈良仏教、っつーか仏教を学問として研究してるっぽい感じ、、

平安:密教が輸入される、神秘主義、また本格的な"宗教"

鎌倉:釈迦派と阿弥陀派に分かれる
   釈迦「修行とか施しとかするといいんじゃないかな」
  阿弥陀「誰でも救われるよ、極論念仏いってりゃOK 」

江戸:仏教が国教に(神道のままでは徳川家に権力の由来がないため、他の宗教として、当時流行ってた仏教を"使った"のでは?)

明治:神道が国教に(本居宣長とかが奮闘、あと大政奉還とか)

あとは、法的見地による宗教への監視や統制がメインかな
現代的解釈による仏教の現代化とかキリスト教の解禁とか、いろいろ

俺が知ってる限りのことをさくっと


22 : ΩЯΙмοЙΩ ◆TnaBOBUweE :2013/09/16(月) 02:28:04
その上で、

飛鳥時代での下地
奈良時代で作られた様式 
平安時代での文化
鎌倉時代からの制度
江戸時代の枠組み
明治時代からの再編、導入

これらの変動や、積み重ねの結果に神道と仏教の融和、
それぞれの価値観や方法の日常化、礼式化が、
今の日本の暦とか意識とか、常識を形作ってる。
しかも、さらに新たな文化を貪欲に受け入れつつ。

日本人の面白いところは、いかなる文化を受け入れたとしても、
「日本人」としての意識っていうのがぶれない点だと、個人的に思う。
自分という中身がぶれない結果、優れたモラルを持っているのではなかろうか。

「宗教はなぜあるのか?」とか「宗教は必要なのか?」とかは日本人らしい批判だよねぇ。


23 : ΩЯΙмοЙΩ ◆TnaBOBUweE :2013/09/16(月) 03:01:04
ふーむむ、神道とか天皇をメインに考えてみようか。

俺が思うに、そもそも神道とか天皇とかっていうのは「政治的な戦略として生まれた宗教」じゃないかと思う。
つまり、そもそもの話、救いとか(絶対的な意味での)神様とかが存在しない、
ただ、政治的な権力を正当化するためだけのものだったんじゃないかと思う。

「卑弥呼」っていう存在についても、単に神秘主義の皮を被った一種の独裁体制だと思う。

結局、天地創造という「一体我々は何処から来たのか?」という疑問の答えを前提に、
その現象に対して天地開闢という呼称をし、そこに神秘主義と自然崇拝と先祖崇拝(血統の正当性)をうまーくまぜた制度、
そういうものなんじゃないかなと思う。

だから、根底にある宗教と呼ばれる物の精神として「自然崇拝」「先祖崇拝」があり、
神であって神ではなく、救いではなく正当性の由来ではないか っていうのが俺が神道というものを考えた時の感想。

それらは"染み付いた考え方"になってしまってて、
その考え方の上で仏教を認識したとしても、それは純粋な仏教ではなく、
"染み付いた考え方"というフィルターを通してみた、仏教っぽい何かなんじゃないかな。

そういう意味での神道的解釈による仏教という表現。

逆転の発想として考えても割と筋は通ってるんじゃないかなと思う。


24 : ΩЯΙмοЙΩ ◆TnaBOBUweE :2013/09/16(月) 03:02:58
卑弥呼については「例として」の一文が抜けてたわ、


25 : SONY :2013/09/16(月) 07:14:22
自分としては特に否定的に書いているつもりはありませんでしたが、どこかそう感じられる部分があったのかもしれません。
しかし、こちらとしては特に何かを否定する気持ちはないので。

死者を思って埋葬する以前、死体をどうしていたか。ただそのまま放置する。
死体を食べてみる。死体を狙ってくる食肉獣をさけるために埋める。
特に死者にたいして何かを思うような行動はなかったんじゃないかと思います。
けれどある時を境に死というものを考え、死者にたいして特別なことをするように
なる。どうしてそういう流れに至ったのか。


死に残されたものが、辛さのあまりストレスを感じそれが長く続くと
ホルモン分泌し続け脳細胞を壊してしまいます。さらに脳に有害なコルチゾール
が分泌され海馬を破壊するようになる。
海馬がダメージを受け続けると記憶をはじめとする認識、つまり思考のプロセス
が悪影響をうける。PTSDと呼ばれる障害も引き起こす。
PTSDになった人はそれから逃れようとするために空想をする傾向になる。
記憶を司る海馬にダメージがあるのでその空想と現実との境がぼやけてしまう。
死者に対する強いストレスがトラウマになり、死者がまだ生きていると空想する
空想と現実の境がぼやけているため現実でも生きているかのように感じる。
それを見ている他の人は死んだ後も、見えない所で死者がいると思ってしまった
のではないか。そこから死後の世界を認識した。
というように、脳によって作りだされたものを。誰かが辻褄合わせで物語を作り
あげてしまったのでは。それが宗教の起源に繋がり。死者を空想で生み出したように
ストレスから発生して神様も生みだした。
自分としてはこうして宗教は発生していったと考えます。
そして何故宗教が神がなくらないのかの答えでもあると思うのです。


26 : ΩЯΙмοЙΩ ◆TnaBOBUweE :2013/09/17(火) 04:37:39
それは正直あるよなー、て思う。
悟りとかも脳内麻薬の分泌がなんちゃらっていう話も聞くしねぇ。


27 : SONY :2013/09/17(火) 06:55:33
悟りについて
宗教によって悟りの意味合いが違うみたいなので、一概にこうだとは言えないでしょうが
前述した臨死体験、てんかんね時に起こる
脳の症状に関連しているのではないのかと思います。
脳への虚血だったり、脳へ酸素が充分いかないことにより
幻想、幻聴が起こりやすい状況になります。

脳へ送られる酸素がすくなくなるとβエンドルフィンの放出が増加し、高揚感が増す
それは気持ちがよくなったり、光を見たり
浮遊感を覚えたりする。そして穏やかで安らかな感覚に包まれる。
悟りといわれるものに近い症状ではないでしょうか。

またてんかんの症状を持つ人は発作によりそれに似た状態になる場合があります。

悟りも脳内の化学反応が見せている、感じさせる現象の一部であると思います。


28 : あいぽんりもん :2013/09/17(火) 21:31:25
あと、降霊術とか、神との意思疎通のための儀式とかも、
実はそれに使うお香だとか、リズムだとか、そういうものから来る精神的な作用や科学的な物質による、
絶頂状態から来るものとも考えられると思う


29 : かっくん ◆UCY4WUEQMA :2013/09/18(水) 02:28:53
Mazatec shamanismに於けるHikuriなんか日本でも有名ですな。
場所によってはペヨーテなんて呼ばれることもあるんだろうか。

しかし、りもんの言う通り――科学に沿ってそれらを分析するのであれば、彼らの宗教的儀式に於ける手順(例えば揺曳する火を見つめたり、楽器を演奏したり、踊ったり)もジャンキーがよく言う”セッティング”と、つまりは同じものであるということになり、
そうなると、同じものでも、なんだか随分趣というかここに何かしらの違いを感じてしまうな、俺は。
単純な話としての、宗教やその土地の文化に対する敬意やそういったものだけでなく、もっと何か根本的な部分での違いを。


30 : かっくん ◆UCY4WUEQMA :2013/09/18(水) 02:30:44
ついでに言えば、その”根本的な部分での違い”ってのがなんなのかを明らかにしていくことこそが、宗教とはなんであるのかを考える上での重要なポイントになるような気がしたりして。


31 : かっくん ◆UCY4WUEQMA :2013/09/18(水) 02:34:42
ところで「ジャンキー」って今や死語?www


32 : SONY :2013/09/19(木) 16:12:01
精神的な作用、絶頂状態。一種のトランス状態だと思います。
ではこの時、脳ではどのような状態になっているか。視聴覚器官を通して脳内神経が
刺激され、脳内麻薬物質(エンドルフィン)が作用し、ドーパミンと呼ばれる神経伝達物質を多量に放出された状態になる。
前回同様、脳内での現象ですよね。

結局宗教というものは脳が作り出した現象であり。それら現象をさらに脳が
辻褄を合わせようといろいろ意味を持たせそれらしいものに仕立てた。
それが神、または教えというシンボルとして、思想を共有し、行動を共にし
そして己を形成していくようになった。
しかし神や教えができたことにより人々の思考や、行動が統合され、大きな歴史
のうねりを作り出してきた。ヒトという無数の個が全体の動きを生み出す。そし
てその全体のうねりは個々の行動へと還元され、ヒトという個に新たな影響を与える。
そしてその影響を受け、ヒトは新たなうねりを作り上げる。
この創発があったからこそヒトは進化できたのではないでしょうか・・・


33 : 名無しさん :2013/09/23(月) 14:20:39
ジャンキー


34 : 白猫@死神 ◆9n.Disney. :2013/10/05(土) 16:39:26
>>1
人間をまとめ上げるというか支配するための道具。


35 : 名無しさん :2013/10/25(金) 14:38:32
今そこに存在しているから、在るのです。


36 : 名無しさん :2013/10/25(金) 22:04:52
深いなぁ


37 : 議論者 ◆5.DfIbX.RU :2013/11/28(木) 18:30:40
日本の仏教の話題が出ていますのでそれに関するネタを一つ。

神道も仏教も日本人にとっては馴染み深いもので、長くお付き合いをしてきていますね。
現在ではどちらかというと仏教のほうが生活に根強いかもしれません。
日本における仏教にスポットを当ててみると実は面白いことが分かります。

仏教と一言に言っても多くの宗派が存在します。
浄土宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗、天台宗、などですね。
これらの宗派はそれぞれのその宗派の「教え」というものがあり、それぞれ歴史を持っています。

これらの宗派が歴史上のいつに開かれたのか、もちろんそれぞれ違うわけですが、実はその多くが鎌倉時代に開かれたものであることが分かっています。
それらの仏教は「鎌倉新仏教」などと呼ばれ、中学校で習う範囲です。

仏教というものが本格的に導入されるようになったのは飛鳥時代の話で、その後に続く奈良時代はどちらかというと仏教を宗教としてみていませんでした。
このころにも宗派というものは存在しますが、教えの違いというものはなく、外国から輸入された仏教の書物を研究する集団というイメージが強かった。
これが宗教として確立したのが平安時代のお話です。
かの有名な空海や最澄といった人が初めて日本に本当の意味での「宗派」を打ち立てます。
それが天台宗と真言宗。これもまた中学校で習いますね。
そのあと新しい宗派は鎌倉時代に入るまで出てきません。

そして何故か鎌倉時代に一気に6つの大きな宗派が誕生します。
浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗、です。
これらの宗派は順調に成長を続け、今でも仏教の家ならば大抵この6つに入っていると思います。
特に浄土宗と日蓮宗は後に時の権力者でさえも恐れるレベルにまで発展していくことになります。

しかし不思議なことに鎌倉以降このような宗派の乱立はなくなります。
もちろんそれぞれの宗派から脱して枝分かれ的に生まれた仏教勢力はありましたが、確固とした宗派にはなりませんでした。
室町には新しい宗派は生まれず、江戸時代には黄檗宗という宗派が生まれますが、それ以外はありません。
当然明治以降も同じです。
明らかに鎌倉時代だけ特異であることは誰が見ても明らかで、何故鎌倉時代にだけ6つも仏教の宗派が生まれたのでしょうか。

この疑問は日本の仏教史というものを深く考えさせられるものだと思いますし、
日本人の仏教を含めた宗教の接し方からも影響しているものでしょう。

少々話題から外れるかもしれませんが「宗教繋がり」ということで是非とも皆さんのお考えをお聞きしたいと思っております。。。


38 : 議論者 ◆5.DfIbX.RU :2013/11/28(木) 18:33:28
補足・・・

もちろん偶然と片付けてしまえばそれで終わるのですが、それでは面白くないので。。。


39 : あいぽんりもん :2013/11/29(金) 11:59:24
んー、やっぱ飢饉とかがあったからじゃね
救いを求めるという需要に対して、供給として、貴族平民下層に対して、フィットするように生まれたとか


40 : 議論者 ◆5.DfIbX.RU :2013/11/29(金) 16:25:44
飢饉とか民衆が救いを求めるという需要は他の時代にもあったと思います。

既に仏教が形式化してしまい、飢饉もひどかった江戸時代こそ、反体制的でかつ民衆に優しい新しい宗派ができてもよかったと思います。


41 : あいぽんりもん :2013/11/29(金) 16:38:20
江戸時代に入る前に信長が権威落としたからな


42 : ひより :2013/11/29(金) 16:41:11
そもそも、日本人に「救いをもたらす神」という概念自体浸透しづらかったんじゃないの?
じゃあなんで鎌倉はあんなに仏教が乱立したのか?っていう話に逆戻りしちゃうんだけどね。

権力者たちが仏教を推していたわけじゃないの?
歴史やってないから細かいところが全然分かんないんだけど・・・


43 : ザコ田 ◆7/4hRqZpe2 :2013/11/29(金) 16:50:19
>>37
仏教研究のもっとも盛んな時期が鎌倉前で、諸宗派の成立以降は各宗派に対する研究こそあれど、仏教そのものを研究していくという動きが下火になったからではないでしょうか。


44 : 議論者 ◆5.DfIbX.RU :2013/11/29(金) 17:06:33
>>41
江戸時代で仏教の権威は復活します。
それに信長がいくら延暦寺を焼き払って、一向一揆を徹底弾圧しても、民衆からしたら恐怖政治でしかありませんし、仏様への信仰心、権威までもが薄れるとは思えません。

>>42
逆なんですよ。
鎌倉で打ち立てられた宗派はどれも権力者・旧仏教による弾圧の歴史を歩むことになります。
当時の幕府・貴族はどちらかというと平安からの旧宗派を保護する傾向にあります。
実際京都の仏教界は延暦寺がかなりにらみを利かせており、室町期には京都の街中で仏教の宗派による武力衝突も起こっています。

どうでもいい余談ですが、かの有名な本能寺も実はそのときに焼け落ちており、信長の時代の本能寺は実は二代目なのです。

>>43
外国から輸入された仏教そのものの研究は奈良時代で隆盛を極めています。
その後日本独特の宗派が生まれていくのですが、はたして鎌倉までそのような研究が盛んに行われていたでしょうか?
既に平安には天台、真言を中心とする仏教勢力が存在しており、あえて研究の為に新しい宗派ができたとは考え難いような気がします。

それと仮に鎌倉期で盛んになったとして、では何故それ以降下火になってしまったのでしょうか?
文明が発達し、思考・文化が多様化している時こそ思想や宗教の研究が進むように思えるのですがいかがでしょう?


45 : 議論者 ◆5.DfIbX.RU :2013/11/29(金) 17:09:41
ちなみに鎌倉の新仏教が保護されるようになるのは室町からです。
とはいっても保護されたのが禅宗の臨済宗や曹洞宗などで、浄土宗や日蓮宗などは以後も迫害を受けます。

何故禅宗が保護されたのかといいますと、禅の精神が武士道にマッチしていたからです。


46 : 議論者 ◆5.DfIbX.RU :2013/11/29(金) 17:13:44
ちなみに京都で起こった宗教戦争については法華一揆とか天文法華の乱でググればたくさん解説があると思います。


47 : ひより :2013/11/29(金) 17:21:56
>>44

じゃあ、民衆たちからしたら不満が溜まっていたんじゃないかな?
権力者たちは旧仏教を好むが、実際に民衆は救われない ってね。
そこで民衆のための仏教が生まれた とかは?


48 : あいぽんりもん :2013/11/29(金) 17:28:47
いや、明確に幕府の方が上位だとしてるよ
仏閣の管理もしてるし
信長は権威を殺して、徳川は飼い殺しにしてるんだよ
信心はあるかもしれない、けど権威は無いし、新しいものを作れば幕府から目を付けられたりもする
だから、江戸時代は興隆しにくいんよ


49 : SONY :2013/11/29(金) 17:29:30
歴史的な細かい所とかわからないから違うかもしれないけど

時代背景や、当時の権利者の考えが大きく影響しているんだと思います

何故鎌倉時代だけ
時間があれば当時の細かい状況を見て検証したいのですが私情でちょっと
なので推測なのですが単純にその時の流行り、ブームだったんじゃないですかね
宗教という名前から何やら神秘的なものを想像してしまいそうですが
ただブームになったものを誰かが利用して悪用する
現代でもよくある話ですよね
だからよくないことも起こりそれを防ごうとする事も起きる

残ったのは根強いファンがいたから。ファンの中に力を持った人がいたとか
つまり誰かの意図で都合よくたまたま流行って、それに飽きてきてブームが去る
けどマニアが根強く残って伝承されるそのマニアの中に力があった人がいた
そんな感じじゃないですかね


50 : Siphon ◆AAyjlv9iu6 :2013/12/14(土) 23:54:03
>>37
時代ごとに分ければいいんじゃないでしょうかね?

鎌倉仏教の特徴
・民衆的かつ分かりやすい(念仏を唱えるだけとか)

平安時代後期
・仏教が貴族などの特権層だけの物になっていた
・寺社は荘園などを持ち支配者層になる(民衆とは離れた存在)
・民衆の生活苦から民衆はよりどころを求める
・末法思想の流行(偶然平安末期がちょうど末法にあたる)

鎌倉時代
・平安末期からの流れで延暦寺で修行した賢い僧たちが平安期の仏教界のおかしさに気づく
→鎌倉仏教の誕生!

重要なのは鎌倉仏教を開いた人たちは皆旧仏教界で一度ちゃんと修行をしているということだと思います。
法然も日蓮もみんな延暦寺での修行僧だし、この頃はちゃんとまだ仏教界が僧の学ぶための場所として機能していた。

室町時代
・戦乱の世で仏教を学ぶ場がなくなる→賢い僧たちが減る
・既に鎌倉時代に出来た民衆的な仏教がより洗練されていき新たな宗派に対する需要がなくなる。

江戸時代
・仏教が宗教としてよりも支配の末端機関としての意味合いのほうが強くなる→宗教を学ぶ場がなくなりやはり賢い僧たちがへる
・仏教が宗教というよりも生活の一部になる(葬式とか)


結局僧たちが学ぶ場所と需要が丁度揃った鎌倉時代に宗派がたくさん出来たのでは?


51 : Siphon ◆AAyjlv9iu6 :2013/12/15(日) 00:03:03
鎌倉仏教でも二つに大きく分かれると思う。

日蓮宗、時宗、浄土、浄土真

曹洞宗、臨済宗

前者はどちらかというと民衆的な感じだけど後者は武士に似合う感じ
ちょうど平安と鎌倉の境目が貴族→武士への権力の移り変わりの時期でもあったということも理由だと思う


52 : ひより :2013/12/15(日) 00:04:18
Siphon面白そうだからってこっちに食いつくのはいいんだけど・・・・・・・
リストのほうも・・・おいで・・・;;


53 : ジェノス ◆zV7q84bHk6 :2013/12/15(日) 01:09:51
日本人はあまり宗教を重んじない人が多く、"なぜ宗教は必要なのだろう"と聞かれても答えに苦しむ人がほとんどだと思います。
宗教というのは神や仏を信じて安らぎを得ようとする心の働きの事を指し、答えは"安らぎを得る"というところにあるのではないかと考えます。
Siphonさんは「神」という言葉を出してきていますが、宗教を信じている者の心のなかに神が存在する理由もすべて宗教という言葉の語義の中にあるのではありませんか?
そうです、安らぎを得るために彼らの中に神は存在するのです。
確かに、宗教によって血を流したという話は耳にします。それを聞けば「宗教など必要ないのではないか」と思うでしょう。
私達日本人は、仏教信者が大半を占めています。しかし仏教信者である日本人は、友達がキリスト教信者だとしてその人を軽蔑しようとはしないでしょう。
"神頼み"という言葉をよく耳にしませんか?
そうです、これは宗教によるものです。
安らぎを得ようとするために、神頼みをします。
神に誓って言っていない!!!
これは、相手に安らぎを得させようとするために言っています。
そう考えると私達も日常会話において"宗教"を利用している事ですし、メリットが無いと言い切ることは難しいのでは?

>何故人々は宗教を捨てないのでしょう?

言い方を変えましょう。
なぜ宗教が存在するのでしょう?
前述の通り、安らぎを得るためです。
結論は宗教の語義の中にありました。


54 : ジェノス ◆zV7q84bHk6 :2013/12/15(日) 01:12:15
ちなみに、宗教の語義はyahoo辞書引用
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E6%95%99?dic=daijirin&oid=DJR_syuukyou_-030


55 : 名無しさん :2014/02/13(木) 20:41:36 AoJ8RzEE
age


56 : あくろ :2014/04/03(木) 10:41:22 3NVSdkX6
この掲示板の中でただ1つの良スレ


57 : 名無しさん :2014/04/17(木) 16:07:07 1WbldlZw
上げ


58 : 名無しさん :2015/03/22(日) 03:55:37 VKeOS0DA
SONY(大学生)のほうは別に悪い奴じゃないよなあ、
あれで勘繰りドコモ(要曰くのストーカー?)と二重人格だったら恐れ入るが

気に入らないとこはあるけど、まあ俺のほうが欠点だらけだし
少々頭デッカチなのと的外れな勘繰りグセ、それと潔癖さえよくなればいいと思う
どこかしらでタガが外れて瞬間爆発で口汚くなる感じにも見える
見下すラインを越えた人間にはとことん悪意をぶつける、みたいな
つってもそれで大した損は無いから構わないのかな、所詮は喧嘩板って風に

ああ、あとなんかこう喧嘩師全体を見下してる節もある 気のせい?
なんでお前みたいなのが喧嘩板に張り付いてるのかさっぱり分からん
それが一番謎


59 : 名無しさん :2015/03/22(日) 04:02:24 VKeOS0DA
そういえば議論スレにこういうの投下されるのはこいつが一番嫌ってる事だったな
こんなんでも喧嘩してたってのが心底謎なんだけどまあいいや
イヤなら削除依頼出しといてね


60 : 名無しさん :2015/03/31(火) 03:23:38 B2zeV2bQ
ああそうか、純粋無垢な無欲とは微妙に隔たりがあるな
自分を過信せず、評価の獲得レースとも距離を置くかわりに
理性的な「常識人」として、我欲にまみれた人間を一段下に蔑む
それが特殊なカタチでプライドの拠り所になってるわけか
翻って俺の場合は、まあ喧嘩ログからしてみりゃお笑いぐさだろうけど己の能力はそれなりのものだと見積もってる
それこそ三代目喧嘩塾のころはぎくしゃくと喧嘩の表層をなぞるのが精一杯の雑魚だったさ、
引け腰ゆえの浅慮な安全策、簡単な揚げ足取りや語義指摘なんかにおっかなびっくり手を出して、
それでいて本腰入れればこんなもんじゃないと内心じれったく思ってたから不釣合いに偉そうだった
まあ思考停止とも言えるでしょう おでんの叩き合い技術の影響も多大にあったし踏み込む気概もない、
雑然とした思考を筋道立ててまとめる文章力も無きに等しい、そもそもそんなものに興味もなかった
有名古参に魅せられて喧嘩ログを探す日々、知的関心がろくな方向にいかなかった
つっても今はどうにかこうにか人並み以上にコトバを操れるようにはなったし、
論理的思考の筋道を明瞭に記述できるか、といえばまあやろうと思えばできる
ただその素材には欠ける、これといって宗像的思考を組み上げようと意気込む動機に乏しい
知識欲らしきものはあるけど雑多につまみ食いしてるのが現状なんだな
荒らしについてはイヤがる所を見て悦に浸る(→加虐嗜好の強さ)というよりかは、
チャットの身内間で共有された評価獲得レースに先んじようとする自己顕示の色合いが強い
ちょっと手を加えればスムーズに、ないし(技巧的な面で)上手に荒らせるってなわけで細やかに加減を繰り返す試行錯誤の過程もなかなかに楽しかった
マクロをいじって手順の効率化や時間調整、ちょっとした工夫でバリエーション豊かに荒らせる、
チャチだけどある種の無邪気な遊び心というか美学みたいなのがあったわけだ
それによって得た荒らしとしての評判(?)を心地よく思ってた部分もあるがね
こんな所で独白を垂れ流すのもなんだけどこれも自己愛の裏返しなのかな、まあこれぐらいはいいか 走り書きですまんね


61 : 名無しさん :2015/03/31(火) 03:31:11 B2zeV2bQ
わざとらしい誤字すまん 宗教がどうのこうの〜って記述を消したときに残ったみたい


62 : 名無しさん :2015/04/01(水) 04:32:29 5K9zF9Dc
冷静になってみりゃあほらしいけどグラデーション連投とか多重入室とかだな
んじゃ今度こそさよなら


63 : 名無しさん :2015/04/26(日) 15:57:02 CwwLYE/6
恒心教に入りませんか?


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