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ビアオム発祥の地サイゴン

1Bia Saigon:2006/10/04(水) 13:29:16 ID:3B4i49Uk
ベトナム風俗を語る上で、欠かせないのが「ビアオム」!
が、しかし最近は、バンコクやシンセンなどにかなり押されて、ベトナムは「大人の遊び場」としては寂しい状況が続いています。
確かに、最近のベトナムは、目新しいものも無く話題にならないことも事実ではあります。
しかし、私はこのベトナムの「ビアオム」について、その文化、格式、伝統、を鑑み廃れ行く「ビアオム」を復興することを提案します。

そもそも、「ビアオム」とは、日本でいうところの「お座敷遊び、芸者遊び」に精通していると思われます。
すなわち、「ビアオム」は未来永劫に渡って守るべきベトナム文化であると私は思います。

まず、われわれが、考えなくてはならないことのひとつは、由緒正しいビアオムのあり方とその遊び方であります。
では、由緒正しいビアオムとはどういったものか、皆さんも一緒に議論しともに考えて行きましょう。

私が、推測するに、ビアオムの発祥はホーチミンであったと思われる。

この名前のとおり、「ビア+オム」「ビール+抱く」がら推測すると、ベトナムとビールのつながりから紐解いていかなければならない。
ベトナムは、1974年に北ベトナム軍が、サイゴンを陥落せしめ、その後のサイゴンは、名前を「ホーチミン市」と改め新しい一歩を踏み出した。
それは、ベトナム全土の共産化を意味する。しかし、1974年以前のサイゴンでは、多くの欧米人が居住しており、文化的には、欧米文化も色濃く残っている。
おそらく、1974年以前もサイゴンでは、一般的にビールが流通していたと推測するのが一般的であろう。しかし、当時はおそらく、ビールとは、輸入品であったと考えられ価格も高価であったことは否めない。
そういった中で、生まれたのが、ビアホイやビアラと呼ばれる発泡酒まがいの擬似ビールであろう。
つまり、当時、ビールとはごく限られた地域で価格も高価であったという仮説が立てられる。

仮説①.1974年以降、ビールはサイゴンを中心として高価格で流通していた。

1974年のサイゴン陥落と同時に1980年くらいまで、北部人の南部流入と南部人の海外流出が
あったのは、調べる由も無く公然の事実である。

当然、サイゴンを管轄したのは、共産党中央部の直轄化におかれホーチミン人民委員会も北部人が実権を握っていたに違いない。
すると、北部役人のホーチミン出張は頻繁に行われて、ホーチミン市内に役人出張者向けのホテルなどが
発生したと思われる。
出張費水増しで遊んでしまうのは、何もベトナム人の特権ではなく、現在の日本でも極一般的に行われており、
ホーチミンに出張に行った北部役人は、やはり、本物のビールと言うものを飲むことをステータスにしていたのではないだろうか?
当然、役人向けのホテルなどは、多角化経営を行っていたと考えられ、レストランも併設されていたと思われる。
また、ホテルの経営者は当然北部出身者であった可能性も高く、周辺地域や近所付き合いについても、モラルが欠如していた可能性も
十分に考えられる。

仮説②、北部人役人はホーチミンに来て輸入ビールを所望した。

仮説③、北部人役人は、北部人経営者の民間ホテルに宿泊していた。

仮説④、ホテル経営者は、近隣との関係にモラルが薄くなっていた。

仮説の②から④までを考えると、北部役人がホテルでビールを飲んだことは明らかであり、当然、酔っ払うと女性を要求することは通常の成り行きであろう。
そこで、近隣との付き合いのモラルが欠如しているホテル経営者は、低所得者家庭の子女をアルバイト的に呼び寄せ
北部人との酒盛りを行ったに違いない。

この、行為が、後に「ビアオム」と命名され、広く地域に広まったと考えられる。

現在、ホーチミン市内のビアオムは、激減の一途をたどっている。
しかし、まだまだ、健在なビアオムも残っています。

場所は、ホーチミン1地区でDienBienPhuを渡った、DaKaoという地域です。
近く、ベトナムを最訪問するので、近日中にツアーを組みましょう。


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