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筑西市の歴史 史跡をまとめるスレ

1名無しさん@筑西市民:2014/10/08(水) 07:01:54 ID:8/pz7udc
折角なので筑西市内、下館、明野、関城、協和にある史跡の情報を
書き込める場所を作ってみました。

過去どんな事があったのか、より多くの情報をよろしくお願いします

2名無しさん@筑西市民:2014/10/08(水) 07:03:56 ID:8/pz7udc
太平洋戦争と筑西市

太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War)は、第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国(日本)など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国、イギリス帝国、オランダなど)の戦争である。
太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘が行われたほか、日本と米英の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告したことにより、1937年以来中国大陸で続いていた日中戦争(支那事変、日華事変。以下は日中戦争で記載)も包括する戦争となった。
なお、当時の日本政府は大東亜戦争(だいとうあせんそう)と呼称していたが、この名称の詳細については「大東亜戦争」の項目を参照のこと。

そして、その戦争による影響は筑西市(旧下館周辺地域)も例外ではなかった。
現在の筑西市域には大東亜戦争中においては

1939年(昭和14年)埼玉県の熊谷陸軍飛行学校の第六分教場として下館飛行場、熊谷陸軍飛行学校下館分教所、後に宇都宮飛行学校下館分校とよばれる飛行場が旧真壁郡関城町に建設され
1944年(昭和19年)には迎撃基地となり
1945年(昭和20年)には第一線の基地として特別攻撃隊が出撃

大日本兵器伊讃美工場という現川島小学校周辺から日立化成下館事業所周辺にかけて軍需工場があり
これら軍事関連施設は敵の攻撃目標となり、市内は何度も艦載機の空襲をうけた。
昭和20年には、工場に女子挺身隊として動員されていた下館高等女学校(現在の県立下館第二高等学校)の生徒2名が戦死。

平和の時代を生きて忘れがちではあるが過去にはこうした戦争があり多くの人が無念のままその命を落とした
歴史がある。後世においても戦争のない平和な世界を望むと市民グループ「筑西郷土史を考える会」は戦争の記憶を後世に伝える。

3名無しさん@筑西市民:2014/10/08(水) 07:04:38 ID:8/pz7udc
下館の由来

天慶年間(938-948)、藤原秀郷が平将門追討のために湿地帯の中に立つ南北に長い台地に3つの城砦群
三館・上の館・中の館・下の館を築いたことから
北から

上館(下館市樋口)
中館(巣も伊達市中館)
下館(下館市下館)

と名付けたのが地名の起こりで、文明10年(1478年)藤原秀郷 の流れをくむ一族。室町時代に下総結城氏の客分となった水谷伊勢守勝氏が結城氏広から下館領を与えられ築城しその後
二代水谷勝国。下館城主。勝氏子
三代水谷勝之。下館城主。勝国子
四代水谷勝吉。-永禄十一年(1568)。下館城主。佐竹氏、宇都宮氏との合戦でも戦功があった。勝之子
五代水谷治持。元亀二年(1571)。下館城主。真壁氏を誘い結城政勝と同盟に尽力
六代水谷(みずのや)正村。大永四年(1524)-慶長三(1598)。結城家臣。下館城主。政村。蟠龍斎(はんりゅうさい)。武勇に優れたことから主君・結城政勝の娘婿となり、「結城四天王」の一人となった。また、宇都宮氏との戦いでいくつもの戦功を挙げる。天正十三年(1585)の下野国田野城攻略では、城主羽石時政が最後の突撃を仕掛けた時にそこに居合わせた蟠龍斎と時政の間で一騎討ちとなり、蟠龍斎がこれを討ち取ったと伝えられている。秀吉関東平定後は結城氏から独立し下館藩の基礎を築く。治持嫡男
七代常陸下館藩三万二千石。初代水谷勝俊之墓。水谷治持二男、実兄水谷正村の嗣となる
八代常陸下館藩三万二千石。二代-備中成羽藩五万石。-備中松山藩五万石。初代水谷勝隆。勝俊長男

と長きに渡り結城藩から分立後下館が最も栄え、そのまま戦後周辺市町村を吸収して市制施行した為市名は下館となった。

4名無しさん@筑西市民:2014/10/08(水) 07:05:19 ID:E2FsG2c2
五郎助山の由来

五郎助山の由来  (ゆきじい様談)

私も聞きかじりの程度ですが、実は里山のある場所の相当部分(板橋地区〜上野地区)の一部を地元では五郎助と呼んでいます。

実際、地番が 筑西市上野 字 五郎助何番地となっています。

「上野村誌」によると、板橋村に住む五郎助という百姓が上野村にある土地を耕作(出百姓という)していたが宝暦三年、年貢滞納事件を起こす。(理由は永い間の病弱で農作物の手入れも不十分で収穫も少なく、宝暦三年に近隣から発生した野火のため全耕作地が焼け、家屋まで焼失したという。そのためか五郎助は行方知れずとなった。)
五郎助の延滞年貢をめぐり、住所のある板橋の名主と、耕作地の上野の名主の間でそれぞれ請願が出され、お互いがその義務を主張し、結局、五郎助の親戚板橋の小十郎が代納し、決着したという。

その後、五郎助はどうなったか記録に無いが、それからこの地は五郎助という字になり、現在に至っているという。

5名無しさん@筑西市民:2014/10/08(水) 07:57:06 ID:KzRq2A4.
図書館に下館100年史みたいな本があった気がする。
昔の街並みの写真も載っていて新鮮な気持ちになった。
やっぱり高度経済成長期から街並みも変わったのかな?

6名無しさん@筑西市民:2014/10/21(火) 21:30:36 ID:R4EgK9qI
剣豪ものの小説呼んでたら斎藤伝鬼房って剣豪が旧明野のあたり出身らしい
伝奇小説みたいなのあれば読みたいけど明野図書館いけばあるのだろうか

7名無しさん@筑西市民:2014/10/22(水) 10:55:19 ID:PDIJ6pjY
>>6
検索してみよう
http://library-city-chikusei.jp/index.html

8名無しさん@筑西市民:2014/11/18(火) 21:40:21 ID:mDhHReaU
川島駅って伊佐山駅だったんですね。
なんで駅名変わったか知ってる人いませんか?
そもそも川島地区って伊讃村だったんですよね。
地名の由来とか分かりませんか?

9名無しさん@筑西市民:2016/06/03(金) 16:41:39 ID:b.BafM6c
将門は石下の人です。つまり下館から見て南の人。
それなのになんで、南北に三つの砦を造るわけ?
東西の方が理にかなうけど。
秀郷は佐野の人です。
石下の人と戦うのになんで下館に砦を三つもつくるわけ?
わざわざ鬼怒川を渡ってこなくても
そのまま南下すれば将門のところへ着くよ。
現にそうしてると「将門記」に書いてあるよ。
二人のいくさは下館に関係ない所であったんです。
だから砦はいらないんです。
でも館という名前から館が必要なんで砦を造ったことにしたんでしょうね。
さあ、どうして「下館」というのでしょう。

10名無しさん@筑西市民:2016/06/04(土) 00:26:45 ID:XjRvznVk
>9
>どうして「下館」というのでしょう。
平安時代に藤原秀郷が湿地帯の南北に長い土地に構えた3つの館が、それぞれ上館、中館、下館と呼ばれるようになったらしい。

> 将門は石下の人です。つまり下館から見て南の人。
> それなのになんで、南北に三つの砦を造るわけ?
北と南をつなぐための館なので当然ながら北から南へ館を造ることになるわけだが、
偉い人が屯す上館を敵から遠い北に、身分の低い人が屯す下館を敵に近い南に造ったらしい。
久下田(くげた)も公家屯(くげたむろ)から来てるそうで。

将門の乱は信濃国、武蔵国、相模国、常陸国、下総国、下野国と広範囲で起こった戦いだが、
どういった戦略的理由で上館・中館・下館に館が建てられたのかは正直不明だね。

11ちっくん:ちっくん
ちっくん

12ちっくん:ちっくん
ちっくん

13ちっくん:ちっくん
ちっくん

1421飛行団:2018/01/11(木) 22:30:00 ID:WvTNiRh2
webサイトで飛行場通路りがそっくり残っているのを拝見して感銘を受けました.
「永遠の0」の主い人公宮部少尉が筑波で第13期飛行予備学生に特攻訓練を施していた約1年前l、私の叔父は宇都宮飛行学校下館分教所で陸軍特別操縦見習士官生に操縦をお教えしておりました。







15第21飛行団:2018/01/11(木) 23:50:29 ID:WvTNiRh2
正式にはそれぞれ第13期海軍飛行予備学生、第1期陸軍特別操縦見習士官です。
叔父は少年飛行兵出身でしたので、お教えする方が教えらる方より階級が下でした。
下館出身の特操1期生には,戦後文化放送のアナウンサーになられた山谷新平氏等が居られます。
叔父はその後、昭和19年の暮れ比島で、特攻
戦死しました。乗機は4式戦疾風でした。


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