したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

避難スレッド in避難所

86幸ちゃん ◆18.AkOnGoY:2014/12/15(月) 07:45:54 ID:B4WyGe3c0
http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/100424/roshiajin.html

満鉄の白系ロシア人従事者の新生活
会社より種畜を貸興し、組合を組織せしめている。

満鉄は様々な福利厚生活動を行っていますが、ロシア人の農業支援も行っていたことがわかります。

乳牛でしょうか、大きな牛が見えます。手前には鶏もみえます。
収集しました写真の印象からしますと、帝政を懐かしむ人達というよりも、自然と共に信仰を守って慎ましやかに暮らしている人達の様子がうかがえます。

当時のくらしぶりを、満州の旅行記から。
『パンを焼き、バターチーズを作り、漬物や洋裁、靴作りに精を出した。食器類などは大切に美しく磨いた。銀色のサモワールは美しく磨かれ、納屋には屠殺した牛が真っ二つに割られて吊られていた。
主婦はその日の献立によって肉を切り取っていった。
娘の仕事は早朝と夕方の乳搾り、乳牛に水を与える。
風呂はトルコ風呂(サウナ)で男性の仕事であった。』

満州のあちこちにロシア人の集落が点在していたようです。
『帝政ロシア時代を慕いながらキリスト教の信仰生活を送っていた。満州西北部三河は、ロシア革命後に亡命し、帝政を慕う参禅人のバイカル、カザックが移住し、酪農を中心に平和な生活を営んでいる。』
とあります。
ロシア農民の素朴な生活がロシア情緒を伴っていたようでもあります。
住んでいたのはチチハルなど北部に多かった様です。
春に苺、わらび、秋に蜂蜜、山葡萄、そして狩猟と四季を通じて山の幸があり、また良質の清流からぶどう酒、ビール、ウォッカ、サイダーを生産する。
満州全土に点在していましたが、ハルピンのほか、ロシア国境に近いエリアに多い様な記述もみられ、詳細はよくわかりません。
満州国設立当時の総人口三千九百余万人からみてみますと、
『元々土着であった満州族は推定百八十万人、蒙古族七十万人は全体の七分を占めるにすぎない。
ここ百年内外には漢人が移住し、全人口の八割五分の三千百万人になる。』
とあります。
一方、ロシア人の人数について明記したものはありませんが、二十数万人程度の様です。
帝政ロシア崩壊後に亡命した人、もともと帝政ロシア時代から居た人を合わせたものと思われます。ちなみに帝政ロシア崩壊に伴い亡命したロシア人は150万〜200万人で、約半数がドイツやフランスなどヨーロッパへ、のこりはほとんどがアメリカやカナダへ移住していました。満州へは特に多量に移住していたわけではなさそうです。
満州国設立時、ロシア人は五万人であったとする資料があります。もしもこの数値が正しい場合、その後に15万人程度が移動してきた計算になります。
国境警備の厳しさを考えますと、一寸、多すぎる印象があります。しかしながら、ソ連のの地方の物資不足は大変で、ロシアを逃げ出す人も少なくなかったことを考えますと、ありえる数字とも考えられ、なんとも判断がつきません。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板