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【転載】投稿記事の掲載。

13有尋有伺:2020/12/06(日) 13:20:04 ID:6erUuVP60
2 コメント
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こんばんは。 (エム@石飛)
2010-01-16 01:12:40
和井 恵さま

いつも書き込んでいただいてありがとうございます。石飛です。

わたしも、マニカナの「マジカナ道場」に書いた分を、部分ですが、
コメント欄に書かせていただきますね。

和井恵さまのこの書き込み二つは、とても共感するところ大でした。
それで、思いついたままを書いてしまい、
あっていないところもあるかもしれませんが、お許しください。

===============

No.7184
投稿日 : 2010/01/15(Fri) 23:05:32
投稿者 : 管理人エム

> 経典からは、明らかに逸脱した内容ですので、確認のしようがありませんし、
理論とも言い難いところがありますから…

そう言われますと、そうなのかもしれませんが、わたしも、一つ、
前から思っていたことがありました。

いくら悟っても、それを実践して、うまくやるかどうかは、まったく別の話だなぁ、と。
といいますのは、
相手のいることですから、相手がどう出るかは、
いくらブッダでもわからないこともあると思うのです。

それについて、ちょっと思っていることを、ついでに述べてしまいます。

悟った直後に、ブッダは、ウパカに、自分は一切勝者であり、一切智者だ、
と語るのですが、そのとき「一切智者」は、サッバヴィドゥーということばなのです。
ヴィドゥーは、ヴィディヤー(明知)などとも関連することばで、
「知る」「見出す」「わかる」というような意味があります。

悟ったときには、一切智者といっても、
原理原則的なことがらが自分に明らかになった、
という意味合いが出るのではないかと思います。

ところが、次第に時がたちますと、サッバンニュ(パーリ語)ということばも
使われはじめます。大乗になりますと、こちらの語を用いますね。
サルヴァジュニャ(サンスクリット)と同じです。

このジュニャですが、ジュニャーナと同じ語根から作られていまして、
前にもお話したかもしれませんが、
どちらかといいますと、認識によってわかる具体的な知識を指します。

つまり、たくさんの人を相手に説法をしたり、経験を積んできた結果、
原則的な理解を超えて、実践応用の分野にまで、ブッダの全智者性は、
広がっていったのだ、理解できるのです。


こんばんは、エム先生。 (和井 恵)
2010-01-17 19:59:43
わざわざお越し頂き、ありがとうございます。

時と共に、一切智者を表現する「言葉」の使い方が変化していくんですね…


> つまり、たくさんの人を相手に説法をしたり、経験を積んできた結果、
> 原則的な理解を超えて、実践応用の分野にまで、ブッダの全智者性は、
広がっていったのだ、理解できるのです。

私も同じ考えですね。

ブッダには、すでに歩む道程に迷いなどは無かったでしょうが、
経験することでそれを確実なものとして、
さらに自らをバージョンアップさせることで、
一切勝者・一切智者という存在になっていったのだと理解しています。

そして、そこに至る道筋を明確に示したものが「教法(釈尊の教え)」なのだと
考えているのです。


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