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明知と解脱

1サトミ:2014/02/13(木) 16:35:29 ID:qOxUAkaw0
最近、元芝さんのブログや元R師のブログなども読んでます。さて、かなり古いネタで恐縮ですが、2009.9.8の内容についての質問です。「明知による正しい認識がその人に現れたときのパターン」として、サッパダーサ長老を例にとり、⇒えんり⇒離貪⇒「心の解脱」と解説されています。その後のブログでは、慧解脱のあとに心解脱という順(釈尊のような例外は心解脱⇒慧解脱)という説明が多かったので、ちょっと気になりました。やはり、それぞれ個々の修行者によって、違いがあるのでしょうか。それとも、一般的な慧解脱を指して単に「心の解脱」と表現されたのでしょうか? また、解脱、解脱智、解脱智見解などの用語も実は意味不明です。(サトミ)

2サトミ:2014/02/17(月) 08:58:37 ID:9rIqoHM.0
自己レスです。最近の関連ブログで、YKさんの解説がとても参考になったのでメモしておきました。
 〜四神足は、応用範囲の広い修行法
  欲:目標を定めて、それに向かう意欲を持ち続ける
  精進:その目標に役立つものを選択し、阻害するものを取り除いてゆく
  心と観:「有尋有伺」「無尋有伺」「無尋無伺」のそれぞれを連動させて実践
心: 無尋無伺を中心とする「止」の瞑想。あるいは「観」と連動した「浄」の瞑想。
観: 有尋有伺定と無尋有伺定による「如理作意(正見解+正思惟)」。
  あるいは、イメージによる「想の生成」。および「思」によるベクトルの確定。
「欲(請願)」と「精進(念覚支+択法覚支)」を集中(正念正知)して実践すれば、自然に、「心」と「観」が連動する実践へと導かれていくことになる。

3サトミ:2014/02/17(月) 14:43:23 ID:lAAnTD5I0
和井さん、忙しそうなので、ひたすら自己レス。和井さんブログ:2011.10.11「梵網経」その14の冒頭の解説によると、
「慧解脱」・・・「識」と「名色」の消滅のメカニズム、つまり渇愛が生起する直接因を根絶してしまう とあります。
「識」と「名色」という、過去の身・口・意の三行(行)によって、それまでに執着されてしまった『五取蘊』が心に潜在(蓄積)していなければ、どのような認識対象と、どのように「接触」してみたところで、単に「これこれの接触があった」というだけの感受(知覚)しか生起しない、必ずしも「渇愛」が生起するわけではない、
と解説されています。
そうすると、サッパダーサ長老がその時におこったことは、やはり慧解脱(または慧解脱と心解脱、同時?)ではないかと思われるのですが。それ以前は、一瞬でも心の安定が得られなかった、と述懐しているので、心解脱が先に達成されていたとは、考えにくいですし。
如何でしょうか?(サトミ)

4和井恵:2014/02/18(火) 18:37:38 ID:/qZ2M5.20
こんにちは、サトミさん。
しばらくこの掲示板を見ていませんでした。

少しお待ちくださいね。

5和井恵:2014/02/19(水) 06:24:45 ID:/qZ2M5.20
> そうすると、サッパダーサ長老がその時におこったことは、
> やはり慧解脱(または慧解脱と心解脱、同時?)ではないかと思われるのですが。
> それ以前は、一瞬でも心の安定が得られなかった、と述懐しているので、
> 心解脱が先に達成されていたとは、考えにくいですし。

そうですね。
慧解脱が起きたのです(正確には、五蓋の滅による苦受の転変が起きた)。
この境地に至ると、日常生活で「煩悩に囚われて、のたうちまわる」ということが無くなります。
ですから、自己観察によって、自分自身で確認すること(解脱知見)が可能なのです。

これは、つまり、修行者が到達する「最初の成就」であり、「一来果」あるいは「不還果」の確定なのです。


> 解脱、解脱智、解脱智見解などの用語

正確には、「戒・定・慧・解脱・解脱知見」の五部です。
これは、「密教」などでも使われている教義(用語)です。

そして、一般的には「戒→定→慧」というプロセスだと言われていますが、
「八正道」はそうではなく、「慧→戒→定」と進んでゆくのが正しいプロセスなのです。
そして、このプロセスによって「正定(四禅定)」の「初禅」に至った時、「解脱」を得るのです。
それは、その人の資質と修行の質によって、果が異なり、
「一来果」「不還果」「阿羅漢果」の中のいずれかを得るのです。
そしてそれを得た時に、誰からそれを教えられなくとも、自らが自己を観察して、その果を知るのです。
これが、「解脱知見(自らが自らを観察して、解脱したと知る)」という言葉の意味になるのです。

6和井恵:2014/02/19(水) 20:59:06 ID:/qZ2M5.20
>1
> やはり、それぞれ個々の修行者によって、違いがあるのでしょうか。

大きく二つの道(プロセス)があります。
最初の「観の系譜」が、慧解脱、次の「止の系譜」が心解脱です。


1.観の系譜 …   法に従って実践した者(随法行) → 洞察に到達した者(見到)  →  智慧によって解脱した者(慧解脱)

2.止の系譜 …   信に従って実践した者(随信行) → 信によって解脱した者(信解脱) → 身をもって体現した者(身証)

3.止と観の系譜 … 両方によって解脱した者(倶分解脱) 

 ※参照 → http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/3d5f6309da89356a4a61a3743b6ca98e

7サトミ:2014/02/20(木) 08:45:13 ID:G.VFbkOw0
30年くらい前に桐山さんの本を読んでから、何となく一来果⇒不還果⇒阿羅漢果 と順番に成就していくものなのか、と思っていましたが、実は一概にそうとは言えなかったのですね。驚きました。
昔、某教団で「大師」と呼ばれた方が、こんなことを言ってました。
「前世からの修行者、特に偉大な菩薩は、現世で成就するまでに、のたうちまわるほどの苦痛を感じるものだ」と。(「だから、あなたが、現世でのたうちまわるほどの苦痛を感じているのなら、素質は十分なので、頑張れ」と言わんばかりでした)
また。さる方から、「修行者(特に大乗の修行者)として人間に生まれて、できるだけ長生きして、亡くなる寸前に成就・解脱できる、というのが最高の生き方である。それだけ、多くの苦悩を経験できるから。」という内容の話をされていました。そして、その方は、
「しかし、いつ亡くなるかはわからないのだから、貴重な生を無駄にせず、可能であれば、なるべく早く、一刻でも早く成就すべきだ、そうすれば、世の中を照らす明かりになることができるから。」とも言っておられました。
最も速くて確実・安全な方法(釈尊の技法)がわかっているなら、別に躊躇して、徒に無益な苦悩を経験する必要はないようにも思います。しかし、十分な準備なしには、それを理解することはできない、ということなのでしょうか。

8和井恵:2014/02/20(木) 13:23:33 ID:/qZ2M5.20

> 偉大な菩薩は、

この言葉はNGワードです。
何故ならば、この言葉を認めると「偉大な菩薩」と「そうでない菩薩」の二つの概念(常見)が生起するからです。
そこに、「選民意識(うぬぼれ・慢心・俺は特別な存在なんだ)」が生まれる条件(二元の分別)が現れるのです。
そうではなく、菩薩はすべて偉大であり、そしてそれは誰もが成れる「目標(最高の自己表現)」なのです。
この世の中に、菩薩に「成れる人」と「成れない人」の二種類の別々の人たちがいるわけではありません。

> 現世で成就するまでに、のたうちまわるほどの苦痛を感じるものだ

誰もが、成就する(解脱を得る)までは、煩悩によって悩まされ、苦しめられ、のたうちまわります。
それは、菩薩の素質があるないと言うよりも、「苦を滅する方法」を知らないからなのです。

そして、釈尊も他の成就者たちも、「同じ」阿羅漢果を得ていました。

では、どこが異なっていたのかと言えば、道なき道を独自に切り開き「道」を開拓した人と、
その「道」を聞いて(教えてもらって)、その道を歩み、辿り着いた人の違いでしかありません。

しかし、最初に「道」を切り開いた人は、魁(さきがけ)として、先導者として、とても苦労をするのです。
しかし、それらの苦労(トライアル・アンド・エラー)こそが、他の人を導くときの役に立つ財産になるのです。

ですから仏教では、最初に阿羅漢果を得た人を「仏陀」あるいは「如来」として、尊敬したのです。

自己のみのことを考えるならば、同じ阿羅漢であると言えるのです。
しかし、他のひとたちの「苦しみ」を滅する手助け(救済というような上から目線はNG)をする時、
その経験値の差が、その能力の違いとなって現われるのです。

9サトミ:2014/02/20(木) 14:21:08 ID:1T3w/hOA0
もう一つ、突っ込みどころ満載のネタで質問させて下さい。
ある時、とある方が、その弟子たち(大勢)を前に、こんなことを言ってました。
「ここに3種類の修行者がいる。1番目は、自己の苦悩がなくなってから、他の苦悩を救おうとするタイプ。2番目は、自己の苦悩が徐々に弱まり、平行して他の苦悩をも救っていこうとするタイプ。3番目は、自己は苦悩のまっただ中にあって、修行のスタンスを崩しながらも、それでもなお自分よりも他の苦しみに対する修行を優先するタイプ。1⇒2⇒3となるほど、勝れた素質をもった修行者である。君たちは、どれになりたいのか。」と。
私も、上から目線の「救済」という言葉は、大嫌いです。
大乗仏教には、「自未得度先度他」という思想が伝統的にあるようですが、これについては以前から大いに疑問を感じていました。何故なら、「浄いのも清くないのも、各自のことがらである。人は人を清めることはできない」からであり、和井さんもこれは肝に銘じておくべきと解説されているとおりだ、と自分も強く思うからです。
ちょっと、インチキぽくありませんか。師匠も弟子も、本当に苦悩の滅尽のしかたがよくわかっていないがための言い訳にように感じるのですが、如何でしょうか。

10和井恵:2014/02/20(木) 15:37:22 ID:/qZ2M5.20
 
そのお話は、わたしもよーく知っていますよ^-^;

ポイントはね、では、その他を救おうとしている人は、本当に「苦を滅する方法」を知っているのですか(・・?

……ということなのです。
それわ知らなければ、他を救うも何も、絵にかいた餅、机上の空論にしか過ぎません。

そして釈尊は中部経典の中で、「溺れている人が、同じ溺れている他者を救うことはできない」と明言しています。
つまり、自己がまず岸辺に辿り着き、陸に上がってからしか、他者が溺れているのを助けることは出来ないと言っているのです。
TK師が言っているように「盲人が盲人の手引きをする」という愚行にしかなりません。

ものには、正しい「順序(ステップ)」というものがあるのです。

11和井恵和井恵:2014/02/20(木) 20:02:05 ID:/qZ2M5.20
誰かが誰かを「救う」などと言うのではなく、
一緒に同じ道を歩む「友達」を見つけて誘ってみる、というのならば有りだと思います。

八正道のすべては、善き友を得ること、その一言に尽きるのだと、
経典の中で釈尊は、弟子たちに説明しているのです。

12サトミ:2014/02/21(金) 08:38:43 ID:wIE3cz/M0
「友人を誘う」というと、『ガティーカーラ経』をすぐ連想してしまいます。アーナンダ尊者が、「善友と交わることは、梵行の半分か」と言って、釈尊の「いいや、梵行のすべてである。最高の善友は、この私」とこたえる、という有名なお経がありましたね。
今の私にとっては、ご縁のあった和井さんやMM元芝さんあたりが、最高の善友というところです。私ももう30年くらい若かったら、Vanちゃんみたいにハイになっていたかもしれませんが、いろいろ経験したものですから、しばらく少し距離をおいておきたい心境です。(サトミ)

13サトミ:2014/02/22(土) 11:49:25 ID:JXu2qy5A0
このスレッドで恐縮ですが、肝腎かなめの四念処の修行法について、確認したいことがあります。
つい最近まで、その誤りに気づかなかったのですが、それぞれ呼吸とともに正念・正知する際には、「えんり」するための「厭逆相」などをいちいちイメージしたりしては、よろしくないのですね。
修行方法が、ごちゃ混ぜになっていて、結果が出ていなかったように思うのですが。状況に応じて、経典の一字一句おろそかにせずに、ただそのまま理解し実践することの難しさを痛感しています。釈尊の技法は、あまりにもシンプルで強力なため、(過去2500年分の仏教という、釈尊の技法とは直接関係ない体系などの)余計な憶測や勝手な解釈がいろいろ入ってきていて
、それをそのまま実行できていなかったようです。(サトミ)

14和井恵:2014/02/24(月) 21:58:39 ID:/qZ2M5.20
最初は、別々に、それぞれ分けて行ないます。

☆アーナパーナサティ(出入息に集中する訓練) → 呼吸に意識を合わせてチューニングする。→ 同期したら、徐々に静めてゆく。

☆如理作意(正見解に基づく正思惟) → 釈尊の教えを理解して、無常想、不浄想などを育て、確立させる。憶念の訓練。

この如理作意(真理に基づく思索)によって、五蓋の「欲貪(五妙欲への囚われ)」を滅してゆくのです。

「瞋恚」と「疑」に対しては、「四梵住(四無量心の瞑想)」を使います。

「昏沈睡眠蓋」に対しては、光明想を意識し、それを育成して使います。
「掉挙悪作蓋」に対しては、寂止の瞑想を行ないます。

これらは、瞑想を妨げる働きをするもので、これらを滅することにより、安定した深い瞑想に入れるのです。

そして、これらの五蓋が滅する、あるいはそれに近い状態が確立すると、「苦受」が「不苦受」へと転変します。
それが、日常生活において「煩悩にのたうち回らない境地」を得たと言える意識状態の確立を示すサインなのです。

この「苦受」からの解放によって「喜」→「軽安」→「楽」が現われてきます。

そしてこれが「四禅定」の入口となる「初禅」への扉を開くことになるのです。

15サトミ:2014/02/28(金) 14:44:44 ID:F3n3lBs60
いつも、ご指導いただき、ありがとうございます。つい先般の2chでも話題になっていましたが、2011.1.20の中部経典140経「界分別経」その1に出てくる、十八意行(歓喜、憂悩、棄捨のもととなる〜を考察する)について質問です。この考察とは、尋伺(おおまかな、こまかな考察)についてのみの言及なのでしょうか。それとも、名色全般について、それぞれそのように考察せよ、と考えるのがよいのでしょうか。原語がわからないこともあり正確に理解できずにいます。また、この中部140経「界分別経」も経典部分だけでもアトウィキに入っていると助かります。もうすぐのべ閲覧数5000人突破ですね。(サトミ)

16特明@討論希望:2014/03/05(水) 20:40:45 ID:/qZ2M5.20
> この考察とは、尋伺(おおまかな、こまかな考察)についてのみの言及なのでしょうか。
> それとも、名色全般について、それぞれそのように考察せよ、と考えるのがよいのでしょうか。

十八意行とは「十八の意の伺察」のことを指すので「無尋有伺」を示しているのです。

そして、「名色」についての考察するのではありません。
これは、名色に影響(食 = 各要素の存続を助ける補給作用)を与える、日々の「接触行為」への考察なのです。
眼と色、耳と声、香と鼻、味と舌、触と身、法と意の、それぞれの六処と六境との接触時に、
その時に現われる(生起する)「喜び(欲貪)」と「憂い(内的瞋恚)」と「平静(捨棄)」とを伺察するのです。

この「喜び(楽受)」「憂い(苦受)」「平静(不苦不楽受)」が、すでに心に内在している「名色」に影響するのです。
つまり、「欲貪」や「瞋恚」と結びついている「名色」を増大させるのか、それとも減少させるのか、捨断してしまうのか。。
これらの諸々の関係と、それらの変化のプロセスを把握することが「十八意行」の実践なのです。

中部140経には、ここまでの説明はされていません。

 眼によって色を見て、喜びに基づく色を伺察します。憂いに基づく色を伺察します。平静に基づく色を伺察します。
 耳によって……。鼻によって……。舌によって……。身によって……。意によって……。
 このように六つの喜びの伺察、六つの憂いの伺察、六つの平静の伺察があります。

経典の説明としては、これだけです。

140経の経典部分のほとんどを日記の中で紹介済みですので、アトウィキに掲載してもあまり意味がないように思えます。

17和井恵:2014/03/06(木) 00:49:10 ID:/qZ2M5.20
16のレスは、言わなくても解ると思うけど、わたしです。

18サトミ:2014/03/06(木) 13:24:47 ID:P4st99Ao0
>十八意行 ⇒ 「無尋有伺」六処と六境との接触時に生起する「欲貪」「内的瞋恚」「捨棄」とを伺察
>「名色」についての考察ではない ⇒ すでに内在している「名色」に影響する
>それらのもろもろの変化のプロセスを把握することが「十八意行」の実践
よくわかりました。もう2年前から、「釈尊はなにを教えたのか」「苦悩はひとつのこらず滅尽できる」というタイトルにひかれて、和井さんブログ愛読してきましたが、まだ正確に理解できていない自分の理解力のなさに驚きます。
これは、発信する方の問題ではなく、明らかに受信する方の問題である、と反省しております。成就するまで、しっかり過去ログなども復習して修行したいと思います。(サトミ)

19和井恵:2014/03/07(金) 13:38:12 ID:/qZ2M5.20
> まだ正確に理解できていない自分の理解力のなさに驚きます。

素直にそう言ってくれるのは、貴方くらいのものですよ。
他の人は、わたしが言っていない事を「言っている」と、掲示板などで言いますから。


> これは、発信する方の問題ではなく、明らかに受信する方の問題である、と反省しております。

いえ、わたしも去年までは、やや手探りの状態で書いていましたから、発信する方にも問題があったのです。
今ならば、もっと解り易く同じ内容を、より明確に書けるのですけどね。
それをしないのは、わたしの興味(目的意識)が、そこからすでに離れてしまっているからです。
だから、質問をして頂ければお答えできるのですが、その縁が生じないとなかなか書けないのです。

今のわたしは、二十代後半に一度足を踏み入れて叶わなかった「理想」の実現へと意識が向かってしまっているのです。


> 成就するまで、しっかり過去ログなども復習して修行したいと思います。

素晴らしい決意ですね。

「救世主」という言葉がありますが、それはこの世界に、たった一人しか存在しません。
そしてそれは、つまり、他ならない「貴方自身」のことなのです。

「貴方」だけが、「貴方自身の救世主」に他ならないのです。

それ以外の存在、それはわたしでも、あるいは釈尊でさえも、貴方にとっては、ただの「助言者」にしか過ぎません。
つまり、「救世主」はこの世にたった一人しか存在しませんが、それと同時に、どこにでも無数に存在しているのです。
経典では、「誰にとっても、自己ほど愛おしい存在は他にいない」と語られていますが、それはこのような意味でもあるのです。

ですから、誰かが貴方に「わたしは貴方の救世主です」と言ったならば、その人は間違いなく、それが誰であっても「偽者」なのです。

20サトミ:2014/03/07(金) 16:59:02 ID:JAEDQIwM0
「救世主」:意味深長な言葉ですね。MM元芝さんが、ブログでとてもデリケートな体験をお書きになっていて、目が離せません。昔の知り合いの体験談(10年くらい前?)を最近たまたま目にする機会があり、ずいぶんと修行がすすんでいたようで、嬉しかったです。自分も、もう少しふんばって、本当の意味で心と体を癒すことのできる医者(今年で卒後24年目)になりたいです。アットウィキの和井恵流も、ついに本日5000人に達しました。1日平均17人くらいです。一人で何回も開くことがあるので、実際の利用者の実人数は、せいぜい数十人以下かもしれません。もっと多くの方に読んでもらいたいと思い、アメブロサークル(今13人、元R師さんという方が管理人)の知り合いにPRしてますが、反応は今一つですね。(サトミ)

21和井恵:2014/03/07(金) 19:19:26 ID:/qZ2M5.20
芝ちゃんとは、毎日LINEを使って会話をしていますが、

彼はもう、成就(不苦不楽の確立・確定)していると言ってもいいくらいの処まで進んでいます。


―― 間もなく「吉報」が届くと思います。

今は、それがわたしの楽しみになっています。

22?真人:2014/11/13(木) 06:19:22 ID:R/U/xtSE0
正所?:“一?奔?,射雕引弓,天地都在我心中!”
?真人 http://www.338c.com/prolist.18.html


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