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アイオーン・ソフィア《ユダヤ編》

16【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/05/05(火) 17:09:09 ID:???0
最近バタイユの論理が封神演義の物語とリンクしてしょうがない。ある
いはグノーシスもなのだろうが、興味深いと思うので以前書いた法術の
最終奥義「営鎮抱一」の詳細を書いておこう。

「営鎮」は、「動じて身を『営』むをそれ『魂』といい、静にして形を
『鎮』めるをこれ『魄』という」と云われる場合の「営鎮」に他ならず、
それゆえに「営鎮抱一」の第一義は「魂魄抱一」である。抱一の『一』
は「道法帰一」の『一』で、道法の根源に他ならない。そして「道法帰
一」は「万象帰無」の対極にあって、両者は「対」をなしているという。
これはつまり、一に帰するとは無に帰するということである。形ある存
在(象)を乗り越えることである。仙人が修行するのはまず不老不死を
希うからである。それを望むのは、生死を繰り返す「輪廻」の苦しみを
免れんためである。それゆえ無に還るに際して、魂魄を残してはならな
い。それを残せば、せっかく超克した輪廻の苦界に再び引きずり込まれ
て、元の木阿弥となる。したがって「営鎮抱一」の術とは、魂魄を一に
抱いて身形もろとも消え失せることに他ならない。道法との全き合一を
遂げて無に帰することなのである。仙人は死なず、ただ無に帰するとい
うわけである。(『封神演義』より)

説明だけ聞いていると重々しいが、そのやり方が実は、訳者が「至芸」
だといっているところからしても格好が面白い。左手を右足に絡めて
左足を軸に、駒のように廻る、さらにそのまま両手をまっすぐ頭上に
上げて両手首を組み縦一文字になったまま悠然と廻り続けるという動
作によって二時間ほどで完結するという。…バレエ?w


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