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詩・歌・管・弦 part 2
228
:
毛蟹
:2010/09/09(木) 16:15:20
ご無沙汰です。
このところ反射神経の顕著な衰えを自覚します。特に運転中など。ボーとしていることが多くて、事後に冷やりとすることがしょっちゅうあります。
夏の間に体内に溜まった老廃物のようなものがあって、それが精神と身体の回路をブロックしているように感じます。デトックスせねばと思うのですが、どうすればよいのか?
さて、千手さんのブログ(芭蕉の俳句についての批判)を拝読しました。
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風 『奥の細道』(金沢)
この句です。恥ずかしながら初めて目にしました。
千手さんはこう述べておられます。
>だがわたしの感じでは秋を感じさせるのは決して風ではない。まず光そのものの強さだ。光の暑さ、強さにどことなく衰えが感じられるのである。そしてまた午後の二時、三時ともなれば、光が作る影の感じもどこか違っているのである。そう、照らされる草花の影が、何となく長くなったように感じられるのである。
これは一連の草叢写真の撮影経験を通して獲得された観察眼でしょう。その観察眼は確かに芭蕉よりも鋭いと思います。
しかしながら、僕が疑問に思うのは、次の箇所です。
>とすると、芭蕉はここに、この句の中に、なぜ秋風をもってきたのだろうか? 答えはおそらく、秋風がさきにあったからである。古今集の敏行の歌は、「目にはさやかに見えねども、風の音にも」と歌っていた。それが秋を感じる敏感さの証拠であるかのように。おそらくはこの秋を感じる感性の図式のなかに、芭蕉もみずからも浸かっているのである。多分すっかりと……。
「秋風がさきにあったからである」と断ずるに充分な根拠が示せているとは思えません。
「強烈な日差しの中に立っていたらひんやりした風が吹いてきた」という凡庸なシチュエーションがなぜ考慮されないのでしょうか。なぜ考慮する必要がないのでしょうか。それが疑問です。古今集の敏行に絡め取られているのはもしかすると千手さんのほうかもしれないと思ってしまうのです。
それと千手さんの俳句についてですが、
> あかあかとつれなき日にも秋はきぬ葛の葉ながき夕べの光
「夕べの光」はもう「店仕舞いの光」ではないでしょうか。
>そしてまた午後の二時、三時ともなれば、光が作る影の感じもどこか違っているのである。
そうであれば、強さの頂点をすこし過ぎた時刻の日差しを捕らえないとせっかくの観察眼が生きてこないと思います。「夕べの光」と「あきの風」に決定的な差異が感じられないのです。
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