したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

大衆迎合なエスペラント運動を考える

1ladio:2006/11/09(木) 18:46:18
非エスペランティストへの宣伝をどうするか?
この問題を考える必要があると思う。
新規のE-istoを取り込まなければ、日本のエスペラント界は早晩、消滅してしまう。

エスペラント運動は思想運動と癒着しすぎている。
もはや、中立思想も邪魔である。
もっと大衆迎合なアミューズメントな運動方法はないだろうか?

妙案きぼんぬ

2Kanva:2006/11/09(木) 21:33:55
私は団塊ジュニア世代の初心者ですが、今のところ何も案なしです。
だってエスペラントでどんな面白い文学や歌詞等を出したところで、それは
多くの一般人の目に止まらないだろうし、和訳されてしまえば終わり。

ん、これまでにない画期的な宗教聖典の原典がエスペラントで書かれれば
話は別ですか?
しかしそれは本末顛倒といいますか、思想運動の最たるものですし、日本の
エスペラント界がその宗教の人ばかりのものになっても困りますしね。
エスペラント界にそんな宗教的天才が生まれることも期待薄です。

3Nemaldekstremistocxjo:2006/11/09(木) 22:35:16
やはりアダルトサイトですか(笑)

4松戸彩苑:2006/11/11(土) 04:22:03
エスペラントを「娯楽」と結びつけるっていうのは、どうでしょうかね?

私の考えでは、人間というのは「カネになる」「人から誉められる」「楽しい」の
いずれかの事くらいしかやらないと思うんですね。

で、言うまでもなくエスペラントはカネにはならないし、人から誉められることも
ほとんど無い。
となると、「楽しい」ことをやるしかないと思うんですね。
で、現在でもエスペラント界で盛んなのは「旅行」とかであって、これも要するに
遊びなんですよね。

もちろん、もっと「高級な」活動をやりたい人はやれば良いと思うんですが、現在の
エスペラント運動というのは、大部分の人たちの能力をはるかに超えるようなことを
目標としていて、そのせいで大部分の人たちはエテルナ・コメンツァントのままだったり、
あるいは数年でやめてしまったりしているように思えるんですね。

そうなるくらいだったら、娯楽で良いから、長く続けてもらえるようにしたほうが、
エスペラント運動にとっても良いんじゃないかって思うんですけどね。

5Nemaldekstremistocxjo:2006/11/11(土) 20:47:23
>>「カネになる」「人から誉められる」「楽しい」
「ボケ防止になる」というのは?(笑)

6松戸彩苑:2006/11/12(日) 00:26:20
>>5
もちろん、それも良いと思います。

>>4 に補足をしますと、エスペラント運動において大事なのは、やはり「人の数」
だと思うんですね。
しかし当然のことながら、いくら人数が多くてもエテルナ・コメンツァントでは
困るので、ある程度のエスペラントの運用能力をもってもらわないと、本人に
とっても、エスペラント運動全体にとっても、意味がないわけです。

で、この2つの目標を達成するには、今までのような「あまりにも高い目的」だけ
ではダメだと思うのですね。
むしろ、一般人の日常生活のなかに、エスペラントを使う機会をつくるように
しないと絶対に広まらないと、私は考えるわけです。

そもそも「なんらかの社会運動が大事だ」と思ってるような人は、その社会運動
そのものに、すべての時間と力を費やすものでしょう。
どう間違ったって、現状では通用する範囲がきわめて限られているエスペラント
なんかをやりはしないと思うのです。

こういったことを言うと、サヨクのエスペランティストの方々は嫌な顔をするで
しょうが、しかし、これが現実だと思うのです。

また、語学というのは「最初」がいちばん大変なわけです。
いくらエスペラントが学習容易だとは言っても、やはり数千の語根を憶えたり、
その用法を身につけたりするのは、かなり大変な作業です。
で、この苦しい時期をどうにかして乗り切ってもらわないといけないわけです
が、今のところは憶えてもカネにならないわけですから「楽しさ」で乗り切って
もらうしかないだろうと私は思うのです。
現在、エスペラント界の中心にいる人たちというのは、語学が得意な方が多い
わけですが、そういう方たちには、こういった「語学が得意でない人たち」の
問題が判ってないんじゃないかと思われて仕方がありません。

かつてロマン・ロランは「エスペラントそのものが革命的なんだ」と言ったそう
ですが、私もそう思うのですね。
たとえ「遊び」「娯楽」を通じてではあっても、ある程度エスペラントが使える
人の数を増やすことが大事だと考えて「娯楽を利用しよう」と言ってるわけです。

7ladio:2006/11/12(日) 18:04:27
 SVO型言語のひな形としてエスペラントを学ぶ、なんてどうでしょう。

 英語のようなSVO型言語を学ぶことは、我々SOV型言語を使う者にとって、非常に難しい。そこで、簡単なエスペラントで、SVO型の脳構造を身につけてから、その他ヨーロッパ言語を身につけていこうという教育方針です。

 もちろん、英語を身につける予定だったのに、エスペラントで事足りちゃうからイイや、というもくろみです。

>>5
何かのブームに乗せられれば、広まりそうですね。
おとなのDS、エスペラント。
エスペラントでダイエット。
予想外。エスペランティスト間、¥0。

8隣の隠居:2006/11/13(月) 22:22:42
>>7
中学生に英語とエスを並行的に学ばせると、学習効果はあがりますよ。
私がそうでした。あと、その経験のお陰で大学の第2外国語でも非常に助かりました。
ただ、今のようにサヨ運動がセットになっている状態では、人様にお勧めはできないですけど。

9やぱーの@管理人:2006/11/14(火) 22:31:03

>>8

ある記念誌の名刺広告に「日本エスペラント学会会員」と載せようとしたら、妻から止められました。
さて理由は。(^_^;)  確かに「何か」とセットになっていると思われているんでしょうね。世間では。

10ladio:2006/11/15(水) 18:47:09
エスペランティストが左翼とセットだと思っているのは、一部の知エス派だけだと思います。
現状は、「エスペラントって聞いたことあるけどよく知らない」程度じゃないでしょうか?
もっと胸をはってエスペラントを広めても大丈夫だと思います。誰も冷めた目で見ませんよ。

むしろ、現在は英語の方が敵で、学生はこう言われると思います。
「エスやる時間があったら英語を勉強しろ!」

だからこそ、ウヨサヨ戦をしてないで、無思想のポピュリズム的な行動(運動でない)が必要なのです。

11Nemaldekstremistocxjo:2006/11/15(水) 21:44:16
>「エスやる時間があったら英語を勉強しろ!」
と言われないように、エスやるからこそ英語やその他外国語に堪能になれるという実績を人々に見せなければいけないのかもしれませんね。
まあ、言語そのものに関心有る人も多いでしょうから、不可能ではないと思いますが。

ということで、残念ながら、もっと広まるまで、エスペランティストは3ヶ言語(母国語、エスペラント、外国語)を習得する必要があるのかもしれませんね。

12松戸彩苑:2006/11/18(土) 02:07:51
>>11
でも、エスペラントに批判的な人が書いたもので「エスペランティストは、エスペ
ラントをやったから外国語が得意になったわけではなく、もともと外国語が得意
だったからエスペラントも出来るというだけである」みたいな文章を、どこかで
読んだことがありますよ。

エスペラントを認めたくない人というのは、どんなに説明しても、納得しない
もののようですね。

結局、ある程度エスペラントができる人間の数が増えないと、こういう人は納得
しないんだと思います。

もちろん、短期間に増やす方法はないと思いますが、しかし、数年でやめてしまう
人があまりにも多いのですから、そういう人たちをつなぎとめる方策を考えないと
いけないと思いますね。

13胡人:2006/11/18(土) 09:58:45
 私なりに悩むことは、E能力がある方は、左翼活動であれ、いろいろな道を自分で探して楽しむ方法もあるけれど、なかなか上達しない人々、自身の能力を見切ってやめていく人々を繋ぎ止めなければ、粗い目のザルで水をすくうみたいものだと思います。

 UKやその他の行事に関連してエスペラント旅行等の企画を多くの一般に知らせる事も案外良いチャンスになる事もあります。

 それと同時に、実際に様々な方向に門戸を広げ活動しなくてはならないと思います。世の中には、様々な国際交流団体があり、実際にそれらの人々とお付き合いすることも重要です。

 それらからの入会も若干有りますし、宮沢賢治や宗教関係等様々な方面へも働きかけ、また受け入れをすることが話者を広げ、結果的に全体を良い方向へ向けて行けるものと思います。

 正直大変な面は確かにありますが・・・人数が増えれば、それなりに良い循環が生まれると思います。

14松戸彩苑:2006/11/18(土) 13:19:36
自分の日常生活のことや、趣味に関することなんかを、エスペラントで気軽に話す
ことができれば、それで十二分に意味があると思います。

しかし、それだけの力をつけるのは、現状では、かなり大変なんですよね。

「エスペラントは学習容易だ」とスローガン的に連呼しても、現実には eterna
komencanto や、数年でやめてしまう人なんかがたくさんいるわけですから、この
あたりのことを少しずつ改善していかないと、エスペラント運動は衰える一方だと
思います。

ということで、「日常生活」や「趣味」に関する語彙・表現を確立し、なおかつ
検索が容易になっている必要があると思うんですけど、「社会運動」のことしか
考えていない人たちには理解できないでしょうね。

いくらエスペランティストが「エスペラントは理念や理想と不可分である」なんて
言っても、エスペラント運動以外の社会運動においては「エスペラント抜き」で
ちゃんと活動ができているんですから、そんな意見を受け入れる理由は、まっ
たく無いんですね。

15ladio:2006/11/18(土) 17:03:25
エスペランティストが社会奉仕すれば一般受けも良いかも知れません。
・街の清掃活動するエスペラント会
・火の用心をエスペラント語で
・赤い羽根のエスペラント

ボランティアの義務化とか、首相の何とかさんが言ってますが、エスペランティストが肩代わりしてエスペラントの宣伝活動とすることもできますね。

#火の用心ってZorgu fajro!ですか?

16やぱーの@管理人:2006/11/18(土) 17:08:24

今度、趣味の会のレクチャーで「エスペラントの国際文通」のことを話すんだけど、
どのような切り口で話そうか思案中。
年寄りが多いから、エスペランチストは「あっち系」が多い、というのは十分に知られているだろうけど。

17Nemaldekstremistocxjo:2006/11/18(土) 21:17:27
国際エスペランチスト合同結婚とか(笑)
そこまでいかなくてもお見合いのような場があっても面白いかも。しかも、年齢問わず(老人ホーム内結婚)みたいに。

18松戸彩苑:2006/11/19(日) 06:10:22
>>17
合同結婚式をやると、インチキ宗教だと思われるかもしれませんよ。
集団お見合いくらいは良いでしょうけど。

私の見るところでは、世間の人たちがエスペラントに対して疑問に思っているのは
「本当に、言葉として機能するのか」とか「本当に、学習は容易なのか」といった
エスペランティストにとっては当たり前のような部分だと思うんですね。

で、考えてみると、こういった事っていうのは、実際に経験してみないと判らない
ものであって、言葉で説明されても、なかなか納得が行かないのだと思います。

こういう、言葉で説明しても納得が行かないことを理解してもらうには、どうす
れば良いか。

それは「自分の日常生活のことや、趣味に関することなんかを、エスペラントで
気軽に話す人」がたくさんいれば、世間も納得すると思うんですね。

19ladio:2006/11/19(日) 10:46:07
 日本に外国人(日本語をあまり話せない人)が多くない事も、エスペラントが広まらない原因かも知れませんね。国内においてはエスペラントの必要性がまるでありません。
多数派外国人の在日朝鮮・韓国人の多くは日本語を母国語なみに話せます。
その他の外国人は数が少ないので、日常的な交流の機会がほとんどありません。

 アメリカのように5人に1人がスペイン語とか、スイスみたいに公用語が3つとかじゃないと、なかなか広まらないのかも知れません。

 エスペラントを日本で広めるためには、移民の受け入れや東アジア人のビザ無し入国許可などにより、非日本語話者の外国人の大量流入が必要だと思います。

 中国財閥が日本に浸食してきて、「社内は中国語だ!」とか言い出したらエスペラントも普及するかもしれません。

 以上、状況が極端で現実性がない・・・

20松戸彩苑:2006/11/19(日) 15:23:32
>>19
たしかに「エスペラントが必要となるような機会がない」というのは問題だと
思いますね。

でも、考えてみれば「エスペラントは2045年以降も生存可能か?」とかいう本を
書いた Tazio Carlevaro さんは、多言語国家であるスイスの人なんですよね。

この本によると、スイスでさえも英語が広まってきてるから、エスペラントは
やばいんじゃないかって事でしたよね。

もっと考えれば、そもそもヨーロッパ自体が、巨大な多言語地域なんですよね。
しかも、西側は経済的に豊かだし、平等に対する意識も高いわけですね。
で、英語は、ヨーロッパにおいては「周辺地域の言語」に過ぎないわけです。

それから、この地域のエスペランティストのエスペラント運用能力も高いわけです。
しかし、これだけの条件が整っているにも関わらず、欧米においてエスペランティ
ストが減少してるみたいなんですよね。

EUというものが発足しましたけれど、今のところ、エスペラント抜きで運営されて
いるわけです。
EUの機関で働く通訳者のなかにエスペランティストが何人かいるみたいですけれ
ども、今のところは、エスペラントが活躍する機会というのは無いわけです。

なんだか夢も希望も無くなるような事ばかり書いてきましたが、しかし、これが
現実なのであって、現実を直視しないのでは、社会運動としては全然ダメだと
思うので、こんなことを書いたわけです。

では、どこに活路を見いだせば良いのか。
私は「インターネット」の世界でなら、活躍できるのではないかと思っています。

21松戸彩苑:2006/11/19(日) 16:45:07
「ピジン語」とか「クレオール語」というのをご存知でしょうか?

まず「ピジン語」ですが、これは、異なる言葉を話す複数の人間集団が、コミュニ
ケートする必要にせまられて即席で作り出した、かんたんな共通語のことです。

そして、このピジン語が大規模に普及・発展すると、このもともとは即席で作り
出された言葉であったものを母語とする人間が現われることがあります。
このようになった言語を「クレオール語」と言うわけです。

このような言語は世界中にたくさんあるわけですが、もっとも成功したものに、
パプア・ニューギニアの Tok Pisin があります。
この言葉は、英語がもとになったクレオール語ですが、英語と並んで、パプア・
ニューギニアの公用語となっています。
ですから、パプア・ニューギニアの国会でも Tok Pisin が使われているそうです。
(もっとも書類などは、英語で書かれているそうですが)

さて、ここで本題に入りますが「どうして Tok Pisin は成功したのに、エスペ
ラントはなかなか普及しないのか?」と考えていただきたいと思うわけです。

もちろん、Tok Pisin とエスペラントとでは、条件が大きく異なります。
しかし、Tok Pisin の成功から、いろいろと学ぶことが出来るのではないかと
思うのです。

考えてみれば、エスペラントをやる人の学歴というのは、けっこう高いわけです。
一方、Tok Pisin の話者の平均的な学歴というのは、そんなに高くないでしょう。
パプア・ニューギニアの識字率は、50%くらいだそうです。
(この識字率の「読める」「読めない」の基準がどういったものかは不明ですし、
また地域によっても大きな差があるものと思われますが、統計上はこうなってい
ます)

では、Tok Pisin にあって、エスペラントに無いものとは何かと考えますと、
やはり「毎日使われている」ということと「日常生活のなかで使われている」という
ことなのでは無いでしょうか。

もちろん、これとまったく同じことをエスペラントでやるのは無理でしょうが、
でも「出来るだけ、これに近づける」ということは可能でしょう。

Naver という電子掲示板があることは、ご存知の方も多いことと思いますが、
これは日本語と韓国語の自動翻訳機能のついた電子掲示板で、ここを舞台にして、
日本と韓国の人たちが、毎日のように交流をしているわけです。

もし、これと似たようなことが、エスペラントを介して、世界中のエスペランティ
ストのあいだで出来るようになれば、先にあげた「毎日使われている」ということ
と「日常生活のなかで使われている」という条件に合うわけですね。

こんなことを書くと「この程度のこと」と言われるかもしれませんが、この程度の
ことがエスペラントで出来るようになる人は、そんなに多くないというのが実情
だと思います。
ということで、とりあえずは、この程度のことが出来るようになることを目標に
して勉強してもらうようにしたら良いのではないかと、私は思うのです。

断わるまでも無いとは思いますが、これはあくまでも「とりあえずの目標」であっ
て、これが「最終目標」だと言ってるわけではありません。
今までのエスペラント運動には「最終目標」だけがあって「とりあえずの目標」が
無かったわけですが、これも良くなかったと思いますね。

22ladio:2006/11/19(日) 17:56:41
  掲示板へのエスペラント侵略による既成事実の作成

 まず、色々な掲示板に当然のようにエスペラント文で意見を述べていく。意見とは各掲示板の内容に合致した意見である。
それを、なるべく大勢の人でやる。
すると、その掲示板の住人は、まるでその言語は当然知っているべき言語であるという錯覚に陥る。例えば、英語がそうであるように。
このようなエスペラントによる掲示板侵略をすれば、エスペラントの知名度と地位の両方が向上するのではないかと推測する。

 エスペラントで掲示板に意見を書くとき、「エスペラント語で書きました。」と日本語を入れておくと良いかも知れない。

23ladio:2006/11/19(日) 18:01:56
 私の好きな音楽グループのm-floのファンサイトの掲示板には、日英ときどき韓の三カ国語で書き込みがある。
何となく、英語や韓国語を知らないのがいけないような気がしてくる。

http://www.m-flo.net/cgi/emzstyle/bbs.cgi

24Nemaldekstremistocxjo:2006/11/19(日) 20:49:41
エスペラントの差し迫った状況…
国籍不明のエスペランチスト強盗団が社会問題になるとか?!
学校では「Teren!」とか「Levu la manojn!」という緊急用語から教えるようになるかもしれない(笑)

25隣の隠居:2006/11/19(日) 21:31:13
>>22,>>24
それをやると反感をかうと思いますよ(^^;

26ladio:2006/11/20(月) 22:03:41
私のブログでは、日本でのクーデターの危機をあおって、エスペラントに誘導しようとしてます。
http://blog.goo.ne.jp/alfangul/

ところで、ザメンホフから完全に離れて、エスペラントで民族語を侵略するってのはどうでしょうか?
少数民族に言語戦争をしかけていくなんて強烈じゃないですか?

27Nemaldekstremistocxjo:2006/11/20(月) 22:54:51
>>26
餅つきましょう

28ladio:2006/11/21(火) 20:11:50
色々考えてみました。「

歌詞にエスペラントが入っている歌をヒットさせる。
誰か、デビューしません?

エスペラント占いなんてどうでしょうか?
JavaScriptができる人、作ってー。

その他、
パチスロ・エスペラント
エスペラント語純愛ドラマ
エスペランティストアイドル


29松戸彩苑:2006/11/25(土) 09:27:38
>>28
私も、歌を利用したエスペラント普及・学習法ってのを考えたことがあります。

それは、すでに存在している名曲にエスペラントの歌詞をつけて、カラオケ等で
歌う、というものです。

でも、音楽の世界って「著作権」がものすごく厳しいんですよね。
個人的な、カネを介さない活動であれば著作権に触れないんでしょうけど、それ
だと地味な活動にしかならないんですよね。

そういや坂本龍一氏のアルバムに「エスペラント」ってのがありますね。
私は聞いたことが無いんですが。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0000073JB

30松戸彩苑:2006/11/25(土) 13:37:28
エスペラントを宣伝する場合に、「エスペラントを使った旅行についての体験記」
なんかを読んでもらうってのも良いかもしれませんね。

例をあげると(かなり昔のものですが)出口京太郎氏の『エスペラント国周遊記』
とか、藤本ますみ氏の『ドナウの彼方で』なんかがそうですね。

単にエスペラントの理念を力説するだけの宣伝文なんかよりも、興味をもって
いただけるのではないかと思うんですが。

31Nemaldekstremistocxjo:2006/11/26(日) 20:52:07
少しスレ違いぎみかもしれませんが…

エスペラントが生き残るには、他の人工言語使用者を受け入れて(合併)いくことではないかと思うのです。
イド語であれ、インターリングアであれ、第二言語として今日それを学んでいる人たちの理念は、ほぼ共通しているのではないでしょうか。
単に外国人と話したい、貿易で必用というのであれば英語で事足りる世の中であるにも関わらず、学校でも習えないマイナー言語をあえてやっているのですから、よっぽどの奇人です。

彼らは
1、今日の英語支配に疑問を抱いている(一つの民族語が共通語になっては母語によって経済的に優越ができる)
2、できるだけ簡易な一つの国際補助語を学習することによって、民族語を守るべきである。

と、エスペランティストと同じようなことを考えているのではないでしょうか。
しかし、このまま小さく分散していたのでは皆共倒れになる時代も、そう遠くはないと思うのです。
したがって、最も伝統のある、使用人口の多いエスペラントに(多少文句があれ)協力してほしいと公表するのです。彼らを新規参入の対象に選ぶのです。

そして、エスペランティストの方も高慢に成らず、彼らの主張をある程度聞き入れていく(エスペラント改造論)努力をすべきじゃないでしょうか。

32松戸彩苑:2006/11/27(月) 21:05:30
>>31
いや、そもそもエスペラント界のなかでも、一致団結できてるわけじゃ無いように
思いますけどね。

それに、イドの支持者は「字上符や対格があるのはイヤ」って人たちですし、また
インテルリングァの支持者は「ラテン語・ロマンス語・英語に似てないとイヤ」って
考えてるわけですし、ノシロの支持者は「世界各国語から単語を採用してないと
イヤ」って言ってるわけですから、どうにもこうにも妥協しようが無いように
思います。

私なんかはむしろ「人工語に求めるものは人によって様々なのだから、いろんな
タイプの人工語があったほうが良いんだ」って考えてるんですよ。

33松戸彩苑:2006/11/27(月) 21:13:49
>>32 に「エスペラント界のなかでも、一致団結できてるわけじゃ無い」と書きま
したが、これは具体的には、neologismo 導入に賛成している人と、反対している
人とが居るということを指しています。

34Nemaldekstremistocxjo:2006/11/28(火) 10:44:26
>>33
では、エスペラントは国際補助語の代表ではなく数ある中の一つという立場で行くということですね?

私が危惧しているのは、このまま猥雑に分かれていると"国際補助語"自体、世間に見向きもされなくなるのでは、ということです。
エスペラントに原因があるというより、"人工語"が文化を無視した夢物語だった、と忘れられる日も近いと考えられると言うことです。

そうなってからでは、実際のエスペラントの思想はもっと素晴らしいものだったと嘆いても遅いですよね。

35Nemaldekstremistocxjo:2006/11/28(火) 10:53:03
追伸
「エスペラント界のなかでも、一致団結できてるわけじゃ無い」と現状を仰っているだけですのに、
こちらが少し感情的になって書いたことをお詫びいたします。

36ladio:2006/11/28(火) 19:16:28
  一般エスペランティストによるエスペラント浸食

 エスペランティストが一致団結するためには、やはり、改造論議をかなり控えめにしておく必要があるかも知れない。

 エスペラントは使用者が言語形成に深く関わりすぎているという問題がある。
プログラムで言えば、アプリケーション使用者が全員プログラマーで、それぞれが自分の意向でプログラムを改ざんしようとしている。
新語導入については、中心組織のエスペラント・アカデミーオが絶対的に決めればいいものを、
一般エスペランティストが造語により作るべきだとか、ラテン語をそのまま導入すべきだとか、議論している。
各使用者が好き勝手に新語を造れば、エスペランティスト同士で通じない事もあり得る。
一般エスペランティストはウィンドーズユーザーがそうであるように、アカデミーオ(マイクロソフト)の言う通りものを黙って使えばよい。
アカデミーオはエスペランティストにアンケートをとったり、モニターを募ったりして新決議を決めるべきで、また、一般エスペランティストは文句があるなら決定前にアカデミーオに抗議すべきである。
そして、アカデミーオが一度決めたものはエスペラントの基礎(Fundamento de Esperanto)レベルに絶対的であり、辞書はもとより、一派エスペランティストもそれに従う義務がある。

 エスペラントは誕生したときは確かに人工言語という改ざん可能な(オープンソースの)ものだったが、議論の末、エスペラントの基礎(Fundamento de Esperanto)というものができた。
その結果、エスペラントはオープンソースではなくなった。もはや改ざん不可能であり、新語導入についても一つの決定機関(マイクロソフト)が決定する。
もちろん一般使用者はマイクロソフトに批判はできても変更要求権はない。
一般使用者にとってエスペラントはもはや自然言語と同じであり、改ざんの議論に意味はない。
一般エスペランティストにとって自然言語とただ一つ違う点は、言葉の乱れに対して無寛容であるという事のみである。

 各エスペラント団体がエスペラント改造に批判的なのも理解できる。我々はエスペラントをただの媒介として国際交流を楽しむべきであり、その媒質に対し議論することは、自らを窒息させることになる。

37ladio:2006/11/28(火) 19:16:51
  偽エスペラント作成者募集による応募者くりこみ理論

エスペラントに似た人工言語を作って、一緒に作る人を募集する。
ある程度集まったところで、挫折。
集まった人は、人工語の知識とその理念、そしてエスペラントの少しの知識を持つことになる。
その中の一部はエスペランティストになるんじゃないかなぁ、楽観的かなぁ

38松戸彩苑:2006/11/28(火) 20:48:16
>>34 >>35
たしかに危惧されるのはよく判るんですけどね(私だってマズイとは思っています)、
でも、他の人工語の支持者に、あまり期待しないほうが良いと思うんですよ。

そもそも、エスペラント以外の人工語をやるような人は、すでにエスペラントの
勉強をしたことがある場合が多いと思いますしね。

みなさんの提案を否定してばかりいるみたいで、ほんとに申し訳ないんですが、
でも現実はきわめて厳しいと思うんですよ。

39ladio:2006/11/29(水) 19:04:45
一度にたくさん非E-istoを取り込むには、宗教的カリスマや政治的カリスマが出ることを望むしかないんでしょうか?
そういえばザメンホフもある種カリスマだった(今もそうですが)わけで。

良い悪いはともかくとして、大衆を煽動するのはいつもカリスマですね、ヒトラーとか毛沢東とか旧ユーゴスラビアのチトーとか。

というわけで、
「我々に付くか、アングロサクソンに付くか!?」みたいな感じに腕を上げて演説してくれるちょびひげ生えた人、募集。
どんなに不条理でも二者択一を提示すると大衆は案外素直にだまされてくれます。
「我々に付くかテロリストに付くか」「郵政民営化に賛成か反対か」
なんとか衆愚をあおってみんなをエスペラントにしていきましょう。

40松戸彩苑:2006/11/29(水) 20:38:29
>>22 >>26 >>37 >>39 なんかを見ると、ladio さんのアイディアって「だます」
ってのが多いですね(笑)。

41ladio:2006/11/30(木) 19:02:27
そりゃーもう、嘘偽りは得意分野ですから。アルファングルも私のブログも嘘にまみれてますよ。

でも、ほとんどの人が誰かにだまされ続けて一生を終えるんですよ。語学、思想、宗教、政治, kaj simile(など)。
そういう意味では、だましてエスペラントをやらせるのは、最もポピュラーな方法とも言えます。

42松戸彩苑:2006/12/09(土) 13:50:40
>>41
そこまで開き直られてしまうと、笑うしかないって気持ちにさせられますねぇ。

でも、エスペラントをやる人間は「仲間」ですからねぇ、そういう「仲間」になる
人たちを騙すってのは、あまり感心しませんね。
だいたい、「騙された」って事がバレたときにヤバイでしょう。

それに、「騙さないと、エスペラントは普及しない」って考えておられるように
私には思われるんですけど、そんなことは無いと私は思いますよ。
私の考えは >>4 >>6 >>21 などに書いたとおりです。

まぁ、いずれにせよ、きわめて厳しいことだけは確かですね。

2ちゃんねるの外国語板にあるエスペラントスレに、おそらくエスペラントを
やっていない人だと思うんですが「EUでエスペラントを採用してもらいたいので
あれば、エスペラント界のほうでEUの職員として通用する人物を養成するべきだ」
というカキコをした人がいましたね。

43松戸彩苑:2006/12/09(土) 14:48:01
>>42 の最後の段落のつづきなんですけど、結局このカキコの意味は、「世間を
アテにせず、ぜんぶ自力でやれ」ってことと「ほんとうに世界平和のために努力
する気があるのなら、そのくらいの努力をするのが当然なんだ」ってことなん
ですね。

つまり「世間のほうでは一切協力しない」という、ずいぶん冷たいことを言って
るわけですが、私は「世間というのは、この程度のものだ」と思っていましたの
で、べつに驚きはしませんでした。

私は、このスレに「娯楽を利用すべきだ」って書いてきましたけど、それは「世間
の人たちの善意をアテにするような運動は、絶対に成功しない」と考えていた
からなんですね。

とは言っても、私が「世間の人たちには、善意というものがまったく無い」と考え
ているわけではありません。

世間の人たちにも善意はあります。
ただし、それはあくまでも「理解しやすい場合」にしか期待できないんですね。

もちろん「言語の平等」といったことは、世間の人たちだって理解できます。
問題なのは「エスペラントは、ほんとうに学習容易で、ありとあらゆることを
表現できるのだろうか?」という点なんですね。
要するに、エスペラントそのものに信用がないから、いくら世界の言語問題に
ついて説明しても、反応が悪いわけです。

で、この「学習用容易性」とか「ありとあらゆることを表現できるかどうか」って
ことですが、こういった点についてもエスペランティストたちは「言葉で」説明
しているわけですが、やっぱり世間の人たちから見ると「信頼性に乏しい」わけ
ですね。
つまり「学習容易だと言うけれど、100年以上もたってるのに、使用者がほと
んど居ないじゃないか」と思われるだけなんですね。

これでは、いくら世間の善意をアテにしても、仕方がないわけです。

ということで「言葉による宣伝」は、無意味というか、むしろ逆効果だと私は
思っているんですね。
では、代わりにどうすれば良いかというと「実践による宣伝」をすべきだと私は
今まで主張してきたわけです。

「エスペラントを使った交際や旅行について知ってもらう」とか「日常生活のなか
にエスペラントを取り入れる」といったことが、この「実践による宣伝」に該当する
わけです。

おそらく、今までに私が書いてきた意見を読まれた方たちは「ずいぶん冴えない
意見だな」と思われたことでしょうが、以上のような理由があったのです。

現在でも、年に数十人から100人くらいの人がJEIに入会してますが、ほとんどの
人は数年でやめてしまったり、あるいは eterna komencanto になってしまって
いるんですね。

このような人たちに「娯楽」をつうじてエスペラントを学習してもらえば、エスペ
ラント界に残る人も増えるでしょうし、レベルも多少はアップするでしょう。

で、こういった人たちが、日常生活のなかでエスペラントを利用すれば、当人たち
にとっても意味がありますし、それを宣伝に使えば良いわけです。

今までの宣伝というのは、えらく利口そうな人間が、ひどく小難しい理屈をなら
べるといったものでしたが、どちらが宣伝効果があるでしょうか。

44ladio:2006/12/09(土) 18:43:12
 「EUでエスペラントを採用してもらいたいのであれば、エスペラント界のほうでEUの職員として通用する人物を養成するべきだ」
という意見ですが、痛いところですね。
確かにその通りなのですが、実際優秀なエスペランティスト同時通訳者になってくれるお人好しはそうそういないと思います。
エスペランティストである事自体ボランティアみたいなものなのに、
その上、同通になるための相当な訓練を何の対価もなしに積む必要があるからです。
同時通訳者でさえそもそも世界に稀な才能の持ち主なのに、
それを100万のなから数千人募るとなると、
エスペランティストがいくら語学好きの集団だといっても、難しいですね。
やはり、私も世間の協力が必要だと思います。

 旅行について、脱eterna comencanto格安ツアーみたいのないんですかね?
あれば参加したいなー。国内旅行でも良いですし。合宿みたいな。
そういうのを各地方団体が頻繁にやれば、初心者の取り込みによさそうですよね。

 ところで、思想と癒着したエスペラント運動を考えました;環境問題なんてどうでしょうか?緑の党的な。そういえば同じ緑だし。緑の縁で。
環境問題を全面に打ち出したエスペラント組織。

45松戸彩苑:2006/12/09(土) 19:17:03
>>44
いや、単なる「通訳者」ではなく、行政や法律の知識があって、なおかつエスペ
ラントも堪能な「行政官」を、エスペラント界で数千人用意しろ、って話だった
んですよ。
ほんとうに世界平和のために役立ちたいと思っているのであれば、そのくらいの
事をやるのが当然なんだそうです。

世間ってのは、自分の理解できないことに対しては、そういうことを平気で言う
ものなんですよ。

私の考えでは、エスペラントは「地動説」「ダーウィンの進化論」「相対性理論」
と同じくらいに、世間の人たちの常識を根底からくつがえすものなので、世間の
人たちは支持しないし、ろくに調べもしないでバカにしたりするんですよね。

だから、世間の人たちの善意なんかを過度に期待するのは間違っていますし、
学歴だの役職だのが立派な人に期待するというのも、まったくダメだと思いま
すね。

そのあたりのことが判らなければ、エスペラント運動はこのまま衰退するしか
ないだろうと、私は考えています。

もっとも、エスペランティストたちが、あまりにも安易に「世界平和」だの何だの
と口走ることにも問題があるんですよね。

だから、あんまりカッコいい事ばかり言ってると、世間から「ほんとうに世界平和
のために役立ちたいのであれば、EUの行政官を、エスペラント界で数千人用意して
みろ」って言われちゃうんだって事を、エスペランティストは知っておくべきだとは
思いますね。

46松戸彩苑:2006/12/09(土) 19:19:44
>>45 の補足)

そういうことを考慮すると、やはり「実践による宣伝」のほうが優れていると、
私は思いますね。

47松戸彩苑:2006/12/10(日) 13:44:23
>>45 >>46 の続き)

カッコいい事ばかり言ってて、自分では何もしないような人間は軽蔑されますが、
ヘタをすると、エスペランティストが、そのような人間であると思われてしまう
のです。

もちろんエスペランティストは、世間から見えないところで、さまざまな努力を
しているのですが、世間の人たちは、そういうことは知りません。

ということで

(1) あまりカッコいい事は言わないほうが良い。
(2) 理念を口にするのであれば、世間から容易に理解してもらえるような
    努力をしなければならない。
(3) 理念を叫ぶだけで、努力をしていないと世間に思われてしまうと、かえ
    って逆効果である。

ということが言えるでしょう。

我々にとってはきわめて厳しい結論なのですが、neEisto の意見を私情をまじ
えずに分析してみることで、エスペラントの普及・宣伝の方法論が改善されたと
言えるのではないでしょうか。

48ladio:2006/12/10(日) 21:03:40
 何にでも言えることですね:宣伝ばかりして中身がないとみんな離れていく。
中身は地道に作っていかなければなりませんね。

とりあえずは、みんなそれぞれ旅行をして、日本語でエスペラント旅行のサイトをたち上げたり、ブログを書いたりってとこでしょうか。
それから、インターネット上でのエスペラントコミュニティーの強化も必要だと思います。とりあえずは、
http://www.raporto.info/
への投稿などでしょうか。北海道E-istoにまけないで、みんな投稿しましょう!
まあ、私はまだ初心者で読むことすらできないんですけどね(TT)

ねぇ、他の人達はどうしたの?ROM?消えた?

49りょほう:2006/12/10(日) 23:54:50
始めまして、「りょほう」(Ryoho)と申します。初心者ですが、Raporto.infoに投稿しています。"Raporto.info"の名前が出てきたので、とりあえずレスしました。
ええっと、一応この掲示板はチェックしているので、Raporto.infoのことでわからないことがあったら、この掲示板に書き込んでください。

あと、インターネット上のコミュニティーで私が参加しているところでは、http://eo.wikipedia.org/がお勧めです。
その他のコミュニティはあまり知りませんが、http://www.startu.net/にはいろいろと活発なエスペラントコミュニティの情報があるので、自分にあったコミュニティを探してみてはいかがでしょうか?

50Kia-kablo-mi-estu:2006/12/11(月) 23:17:46
「りょほう」さんが初心者とは驚きです。てっきり「あの人」だと思ってましたので。。。
それはそうとして、この掲示板も最近面白い議論が多くなってきました事は、大変喜ばしい事だと思っています。
これは、JEIに代わる新たな掲示板を立ててくれた「やぱーな」さんのお蔭です。これからも、検閲なしにあらゆるスレを
「なんでも」掲載してくれるものと期待しております。

ところで、本題ですが、Esperanto を広める最も効果的な方法は、人集めでしょうが、
結局、長い目で見ますと個々のエスペラント実用者の人間性というか人格の問題でしょう。
人間というものは、長い間付き合うとその人の人間性がおのずと現れるものです。
まずは、自分にとって最も親密で最も長く付き合いのある人を最終的にエスペランティストに
出来なければ。。。。
自分の交際範囲の中で自分が最も影響力を行使出来る人は誰か、まずはじっくり考えてみては、
いかがでしょうか。

51Nemaldekstremistocxjo:2006/12/13(水) 15:17:12
>>50
>エスペラント実用者の人間性というか人格の問題

に、日本のエスペランティストは長年こだわりすぎてきたのではないでしょうか。
そのために、あまりにも思想運動に結びついてしまっているのでは?(例:エスペラント検定の小論文とか)

反戦平和も結構ですが、みんなが同じやり方でそれを実現しようとするわけではありませんよね。
人殺しを好き好んでするような人は異常者ですが、平和に対する考え方(戦略)はいろいろで当然です。
自国を守る武器くらいは必要だ、いやいらない、親中だ、親米だ、などなど。
しかし、そういう重たいテーマはどうも…エスペラントの言語にだけ興味を持っているという人も大事にするべきではないでしょうか。
(民族語なら当たり前の話なんですが)

エスペランティストが善人であるかどうかに関わらず、ポルノであれ、アングラであれ(笑)、どこでもエスペラントに触れられる世の中を目指すべきだと思います。

52ladio:2006/12/13(水) 17:22:14
>まずは、自分にとって最も親密で最も長く付き合いのある人を最終的にエスペランティストに出来なければ。。。。

要するに親戚友人から浸食していくという事ですね。
私も弟を何とか説得しているんですが、いつも「うるせぇ」と一蹴されています
トホホ・・・

53Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 18:25:12
Nemaldekstremistocxjoさん
ご意見をありがとうございました。
反論させていただきます。

>>エスペラント実用者の人間性というか人格の問題
という私の見解に対して

>日本のエスペランティストは長年こだわりすぎてきたのではないでしょうか。

こだわり過ぎという意見は初めてです。

むしろ、あなたが言いたいのは次の

>思想運動に結びついてしまっているのでは
と言う事と
>反戦平和も結構ですが、、、、、、、、
云々という所でしょう。。

と言う事に対してでしょう。
私は全く上述の事には言及しておりません。
これは論理のすり替えと言う手口で、プロパガンダの手口の一つです。
私が、あたかも思想運動をやっているかのように、はたまた、反戦平和運動をやっているように、
読者を誘導してしまう。
私は、あなたが意図的にやっているとは思いませんが、何かの思い込みと言うか、
思い入れがあったのでしょう。
ただし反戦平和運動を多くのエスペランティストのために敢えていいって置きますが、
ザメンホフの反戦平和の考え方に立ってエス運動をしている人は確かに多いです。
エス語を学習した結果としてそうなったのか、またはその逆でなったのかはそれぞれの
立場で色々有ると思いますが。
何れにせよ人格云々に拘ってエスペラントをやっているなんていう人には、
残念ながら今迄遭った事はありません。

>エスペランティストが善人であるかどうかに関わらず、ポルノであれ、アングラであれ(笑)、
どこでもエスペラントに触れられる世の中を目指すべきだと思います。

上述の事は、全くの異論はありませんが、残念ながら的外れです。
今、運動論議として問題なのは、どうやってそのような状況を実現するかでしょう。

それから、私の人間性、人格者云々という言う方では分かって頂けなかったようですね。
別の言い方をすれば人間味というか人としての魅力の問題と言えば分かってもらえるでしょうか。
人格云々の問題を取り上げれば、あなたは如何思っているか分かりませんが、思想運動を
している人が人格者だとは限りませんよ。
むしろ、世界中の政治家を見るとその反対の人が多いくらいだと私は思いますが。

世界的に見て、近年、人を惹きつけるものを持っている人は、世界のことは
分かりませんが、日本のエスペラント会では少ないのが残念です。
UEA会長のレナート・コルセッティが言う3っつの運動目標の一つに「専門性化」
というのが、有りますが言ってる意味がよく分かるような気がします。
様々な意味での talentulo が不足しているのです。かって Ivo Lapenna の様な
カリスマ性もそういった魅力の一つでしょうね。

話が格調高くなりましたが、私の言いたかった事は、繰り返す必要はないと思いますが、
一番最後の方です。
このごろは、組織運動に関わる事の出来ない若者も増えてきていますが、そのことも私が
大変、危惧している事の一つです。

54Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 18:45:47
ladio さんへ
あなたには、私の言う事が理解して頂けたようですね。
わたしの経験では、最も効果的な方法は、あなたがエスペラントを学習することで
周りの人にあなたの人間としての幅でも魅力でも兎に角なんでも良いんですよ。
そういったことの向上が確かに見られたと実感させれば言い訳ですよ。
あなたの説得で納得する人もたまにはいるかもしれませんが、身近な人の場合は
あなたのエスペラント歴におけるあなた自身の生き様にかかっている事が多いのです。
長い目であなたがエスペラント学習歴で周りの人達にどれだけアピールできる人間に
成長できたかどうかですね。もうそういう方かも知れませんが。。。
私という自分に対する戒めもこめて。

55りょほう:2006/12/13(水) 21:51:17
>>50
Kia-kablo-mi-estusさんへ
約3年エスペラントを勉強していますが、まだ初心者のレベルを抜けられません。
まだまだエスペラント勉強の必要性を身にしみて感じます。

私も、さまざまなテーマで議論できる掲示板ができたのは喜ばしいと思います。レスしにくい話題が多いので、見るだけに徹していますが・・・。
「思想」とか「運動」とか・・・このスレは私にとってレスしにくくなってしまいましたが、一応お返事だけでもと思い、レスしておきました。
では、また別の話題で・・・。

56ladio:2006/12/14(木) 20:42:31
「英語が話せても、あなたと友達になりたいと思っている英語話者は誰もいない。
エスペラントを話せるようになれば、あなたと交流したい人はたくさんいる。」
こんなコピーでエスペラントに勧誘していくのはどうでしょうか?
エスペラントの出会い系です。
学校や職場の人とは腹を割って交流しづらくても、あかの他人となら打ち解けられる。そんな人の利用を想定しています。


また、ひきこもりやニートをエスペラントに誘ってみるのはどうでしょうか?

57樂々:2006/12/17(日) 20:52:44
>>56
英語の文通相手を斡旋してくれる団体もありますし、大使館でも相談に
乗ってくれます。英語の文通から親友になったケースは数え切れないくらい
あります。

58Nemaldekstremistocxjo:2006/12/18(月) 21:27:41
私は>>56におおむね賛成です。>>57の意見も踏まえて、キャッチフレーズを改良してみては?

59ladio:2006/12/19(火) 18:17:42
>>57
そうなんですか、知りませんでした。。。
そうすると、エスペラントは世界中の人と文通できるという魅力も相対化されてしまいますね。

さて、エスペラントの出会い系はどうでしょうか?
Nemaldekstremistocxjoさんが前にエスペラントでお見合いをとおっしゃっていましたが、そんな感じです。
エスペラント版出会い系サイトで国際結婚なんて飛びつきそうじゃないですか?

60ゑい:2006/12/20(水) 15:47:48
>>59
交流手段として、というのは、エスペラントである必要がないですからあまり有効ということにはならないでしょう……
むしろ英語のほうが「格好いい」「なんとなくすごい」というような印象をもっているぶん強いでしょうね。
「英語で外国人と文通する」だなんていうと「普通の人」にとってみればいかにも「格好いい」じゃないですか。

とにかく「英語ができる人はなんとなくすごい」という一般的な認識が既にあるぶん、他の言語が英語に優越するというのは難しいことです。
仮にエスペラントでなくても、中国語やロシア語、ドイツ語のような「大きな言語」においてもこれは同じだと思います。
たとえば「ロシア語ができる」といっても「普通の人」は「すごい」と思う前に「変な人」という印象を持つでしょう。
ある言語にまとわりついた先入観や印象は、一般の人にそれを広めるにあたってはとても大きな影響を持ちます。
現在の日本では英語の印象が良すぎるわけで、これを凌ぐほどのものをエスペラントがいまだ持ちえていないというのが問題ですね。
エスペラントが英語に対して絶対的に優越し、なおかつ多くの人の需要を満たす点、そういう点を探し出して強く訴えることで初めてエスペラントが十分に認知され得ると思うのですが……難しいです。

61松戸彩苑:2006/12/23(土) 14:41:01
「エスペラントを広める方法」について、私の意見を述べてみたいと思います。

まず最初に言えることは、「簡単に広める方法は無いだろう」ということです。
これは誰しも理解していることだと思いますが、その次に私が考えるのは

  そもそも、本当にエスペラントが「学習容易」で「役に立つ」ものならば、少しずつでは
  あっても広まるはずであるが、現実には、なかなか広まっていかない。
  ということは「学習容易性」や「有用性」に疑問をもたざるを得ない。

ということです。

現実を見れば、数年でやめてしまう人や eterna komencanto になってしまう人が、あま
りにも多すぎるわけです。
また欧米において、エスペランティストが減っているという事もあります。
「アジア・アフリカでは増えている」という話もありますが、欧米で落ち目になっているも
のがアジア・アフリカで成功するとは、とても思えないのです。

ということで、数年でやめてしまう人や eterna komencanto を減らすような方法について、
本気で考えないといけないと思います。
---

次に私が考えるのは

  エスペラント界には、熱心に宣伝をしている方が少なくないが、しかし、そういう人たち
  でさえも、自分自身の「家族」や「知人」にエスペラントに興味をもってもらうことには
  失敗している場合がひじょうに多い。

ということです。

たとえば William Auld 氏の『75 jaroj』という本を読むと、Auld 氏には息子さんと娘さんが
1人ずついらっしゃるらしいのですが、ご両人ともエスペラントはやってないようです(もし
やってたら、その旨が明記されているはずでしょう)。

また、Auld 氏以外にも優れたエスペランティストはたくさん居たわけですが、その家族の
なかからエスペラントをやる人がまったく現われなかったという例は、いくらでもあります。

このような、優れたエスペランティストの家族(や知人)だったにも関わらずエスペラントを
やらなかった人たちは、「エスペラントの理念が理解できないほどのアホ」だったのでしょ
うか?
それとも「英語が自由自在に使えるので、エスペラントみたいなものは、まったく必要なか
った」のでしょうか?
もちろん、そういう人も居たでしょうが、そうでない人もたくさん居たはずです。
では、どうしてエスペラントをやらなかったのでしょうか?

私の考える理由は

  このスレの >>4 に書いたように、人間というのは「カネになること」「楽しいこと」「人か
  ら誉められること」くらいしかやらないものであって、エスペラントはそのどれにも該当
  しなかったから、自分の家族(あるいは知人)に優れたエスペランティストがいたにも
  関わらず、エスペラントをやらなかった。

というものです。

エスペラント界には「政府や、政党や、社会の有力者などに認めてもらおう」などと考え
ている人が多いみたいですが、しかし、こういう人たちは「自分自身の家族や知人(それ
も決してバカではないはずの人たち)でさえも支持してくれない」という事については、ど
のように考えていらっしゃるのでしょうか?

また私は、宣伝方法について考える際には「自分自身の家族や知人にも理解してもら
えるような方法」を考え出すことを心がけるべきだと思うのです。

62松戸彩苑:2006/12/23(土) 14:44:14
>>61 の続き)

ここで、RO誌2004年5月号26ページに掲載された、サーノ葉子氏の文章を見ていき
たいと思います。

サーノ葉子氏は、小学校でエスペラントを紹介するという事をなさっていますが、そんな
サーノ葉子氏も、かつてはエスペラントを評価していなかったのだそうです。

  (前略)そんな私には、エスペラントに猜疑心、英語にコンプレックスという時代があり
  ました。エスペランティストである父の「夢と希望」は別世界、エスペラントの学習も付
  き合い程度。過去何度「世の中やっぱ、英語でしょ」と思ったことか。それが一変した
  のは、海外旅行の添乗員転じて、未知の土地での密室育児という生活の激変。この
  まま人生終わるの? 何か変わらねば、の一心で1998年、子の幼稚園入園と同時
  に英検の勉強、受験そして合格…したはいいけれど、再就職にはさらに英語に付き
  合う必要がありました。私は本当は何がしたいの…。

  そういえば、英文読解は気が楽でした。理由は、推測できる単語が多かったから。
  credit=kredi だから「信用する」、malaise/不快感は接頭語 mal- の亜種。もしかし
  て合格は「かじった程度のエスペラント」のおかげ??? そういや、「添乗員さんは、
  英語だけじゃなくてイタリア語もできるのねぇ」と言われたり、フランス語を知らないの
  に、パリで街頭ポスターのオペラの詳細をお客さんに案内できたっけなぁ。エスペラン
  トってすごいかも〜、おもしろそうだし、一から勉強し直そうかな?(後略)

この文章から、いろんなことが判ってくると思います。

まず、エスペランティストであるお父さまが「夢と希望」を語ったことがうかがえますが、か
つてのサーノ葉子氏にとっては、それは「別世界」だったということです。
どう見ても十二分な判断力をもっているサーノ葉子氏に対して、実の父親がエスペラント
の理想を語っても「別世界」だとしか思えなかったというのです。

そんなサーノ葉子氏がエスペラントを認めるようになったのは、英文読解がラクだったと
か、勉強したことのないイタリア語やフランス語が判ったといった「実利」的な理由でした。

そして、やる気が起きてきたときに思ったことは、「理念」などではなく「おもしろそう」という
事だったわけです。

ということで、サーノ葉子氏がエスペラントを本気でやるようになった動機は「理念」などで
はなかったのですが、しかしそれでも、ちゃんとしたエスペランティストとして活動できて
いるわけです。

私はかねてから、エスペラントの普及のために「日常生活のなかでエスペラントを使う」こ
とであるとか「娯楽を利用する」といったことを主張してきましたが、それは、サーノ葉子氏
のケースがあったためでもあります。

最初は「おもしろそう」で良いじゃないか、「まず最初に理念を判ってくれないとダメだ」など
と考える必要はまったく無いということです。
---

また私は「理念のために活動している人よりも、むしろオタクっぽい人のほうが、アテにな
るのではないか?」とさえ考えているのです。

コンピューターの歴史をひもといてみると、一般家庭にコンピューターが普及したのは、オ
タクっぽい人たちのおかげだということが判ります。

まだ、まともなソフトがほとんど無かった時代に、けっして安くはないコンピューターに飛び
ついたオタクっぽい人たちのなかから、ゲームを自作する人が出てきました。

それがコンピューター業界の規模を大きくしたり、一般家庭にコンピューターが普及したり
するのを大いに助けたわけです。

もちろんウイルスを作ったり、ハッキングをしたりするような人も現われたわけですが、た
だ単に「仕事として(おカネのために)コンピューターを扱っている」という人たちには作れな
いようなものを、オタクっぽい人たちが作り出したことは間違いないでしょう。

現在のエスペラント界も、このような人たちを必要としているわけです。
エスペラントは今のところ、身につけても、おカネにはなりませんし、世間で高く評価される
わけでもありません。
また、通用する範囲も、きわめて限られています。
となると、現在のエスペラントを「とにかく楽しい」と感じてくれる人というのは、きわめて稀
であり貴重だということになります。

世間には「語学マニア」と呼ばれるような人たちがいます。
こういう人たちに、エスペラントをやってもらうと良いと思います。

63松戸彩苑:2006/12/23(土) 14:46:20
>>62 の続き)

一方、「理念のために活動している人」はどうでしょうか。
まず考えなければならないのは、こういう人たちは、自分の生活や、理念のための活動な
どで、とても忙しいという事です。
ですから、こういう人たちにエスペラントを勧めても、勉強してくれるはずがありません。

それどころか、私の見るところでは「エスペラント運動は、ボランティア活動に食われてい
る」という事があると思います。
つまり、かつてだったらエスペラント運動に来てたような人たちが、現在ではボランティア
活動に向かうので、エスペラント界に若い人がやって来ないということです。

そもそもボランティア活動は、世間での評価が高いですし、場合によると、大きな団体の
職員などになって給料がもらえたりもします。
これでは、エスペラント界に人がやって来ないのは当然だと言えます。
要するに、ボランティア活動は、エスペラント運動にとっては「商売がたき」だということです。
欧米においてエスペラント運動が落ち込んでいるのは、こういう事もあるのではないかと、
私は考えています。
---

いろいろと書いてきましたが、エスペラントの強みは、あくまでも「学習容易」で「役に立つ」
という点であるはずです。
これが、英語などには無い、エスペラントだけの長所であるはずなのです。

そして、本当に「学習容易」で「役に立つ」のであれば、少しずつではあっても確実に広ま
るはずなのです。
それなのに現実には、欧米でエスペランティストが減っていたり、数年でやめてしまう人や
eterna komencanto になってしまう人があまりにも多いということは、これらの点に問題が
あるということでしょう。

こういった問題を解決するために、私は「エスペラントを日常生活のなかで使う」ことや「娯
楽を利用する」ことを提案し、さらには(別のスレで)「現在のエスペラントには、日常生活に
必要な語彙が不足しているのではないか」とか「エスペラントの語彙は、自然に決まるとは
限らない」といった問題提起もしているわけです。

(終わり)

64Kia-kablo-mi-estu:2006/12/23(土) 19:24:39
松戸さん
貴重な意見をありがとうございました。
私の意見としては、そもそも大衆迎合的な運動という言葉自体、ある意味では
、二律背反的響きを持っている感じがします。
大衆を如何定義するかも問題ですし。。。

運動という限り、最初にイニシアチブをとる人は、所謂、大衆に彼または彼女の
考えを注入するだけでなく、その考え方に基づくこれまでと違った生き方、
すなわち、換言すればこれまでと違った行動を要求する事になります。
すなわち突き詰めれば、それまで生きてきた社会なり共同体とは異なった生活
スタイルを新たに付け加えるか、多くの場合は以前の生活スタイルを変更するか
ある意味では捨て去る事を余儀なくされるわけです。人によってはかなりの葛藤を
経験しなければなりません。
この問題には後でまた触れるとして、「大衆」という語を考えて見ましょう。
特にある運動の対象としての「大衆」とは、彼らがその運動の理念を受け入れる
とき社会に強い影響を与え更には動かす「大衆」でなければならないという事です。
そこで、私なりの考えで定義しますと、「ある程度共通の考え方や生活基盤を有した
一定の社会内での多数派と言える人々」とでもしますか。
社会学的に言うと多数派階級とか人数において多数を占める階層という風に定義
されるかも知れませんが、要は経済的に言うと相対的に社会内で少数を占める
大金持ちではなく、かといって一人では明日の生活にも事欠く、古風的な言い方を
すればルンペン・プロレタリア、今で言えば路上生活者やニートでもない人達と
言っておきましょう。尚、断っておきますが路上生活者やニートと言った弱い立場の
人達を差別する気は毛頭ありません。誤解なきよう。。。。。
ただ純粋的に社会における影響力ということから言葉を定義したまでですから。
これらの人達の問題解決については、私自身として言いたい事は山ほどあるのですが、
ここでは触れないでおきます。

65ゑい:2006/12/25(月) 03:27:02
それにしても実際普通に生活していてエスペラントのことを知る機会が全くないのは問題ですよね。
エスペラントを知らない全く普通の人が普通に日常生活を送っている中でエスペラントと出会う機会がないのでは、興味を持つことすら不可能です。
普通の人がもっとエスペラントという名前と存在を知ることの出来るような何かが必要だと思います。
エスペラントに出会ってから興味を持ってもらえるかどうか以前の問題なわけですから。

66Kia-kablo-mi-estu:2006/12/25(月) 21:44:59
書きかけの途中で放り出して失礼しました。
「学習容易」で「役に立つ」ということについても考えてみたいと思います。
エス運動が難しいのは、世間(または広い意味で世界と言ってもいいと思いま
すが)の現実と誰もが頭では認識できるでありましょう理想社会の乖離が今もって
甚だしく大きいという事です。これは運動と呼ばれるものは大概その通りなのですが、
エス運動は特に乖離が大きいと言えましょう。
憲法9条の例をとれば、すこぶる簡単でしょう。この憲法に書かれている「理想」の
文言に関しては、たとえ、やぱーなさんやエスペロさんも悪だとは言わないで
しょう。それが世間(世界)との係わりで「有効か否か」という事で私と見解を異に
している訳でして、道徳的に「善か悪かの問題」ではないのですな。
私はエスペラントと同様にそれが有効かつ妥当であるという見解を持っているわけ
ですよ。それについてはここでは触れませんが。。。
では、何故「共同体の武装」の方を大衆が妥当なものとして選択(私の考えでは
むしろ選択させられている)しているのかというと歴史の過程の中で「共同体の武装」
に関連することで日常の糧を得ている勢力が今の世の中では多数派だという極単純な
理屈からです。
言語問題にしても、英語だけでなく少数言語を含めて、それらに係わって(拘って)
生きている人が歴史の過程で圧倒的に大きな存在となっている。
換言すれば、「ある程度共通の考え方や生活基盤を有した一定の社会内での
多数派と言える人々」の今そして彼らが見通せる(と思っている)未来の生計が
掛かっている問題なのです。

という事を前提にして最初の問題である>「学習容易」で「役に立つ」>という事
の意味について考えてみることにします。

67樂々:2006/12/25(月) 22:21:37
>>65
エスペラントについて何かを知っている非エスペランティストがエスペラントに
ついて語りたくないからです。そこまでエスペラントが"落ちぶれ"てしまった
わけです。ですから、知らない人に知らせても、いい結果は期待できません。
>>66
すべてのエスペランティストが共有する理想などありませんし、すべての
エスペランティストが何らかの理想を持っているわけでもありません。
失礼ですが現実認識を根本的に間違えてらっしゃるようです。

68Kia-kablo-mi-estu:2006/12/26(火) 00:21:42
まず、「学習容易」という言葉は何を基準にして語られるのでしょう。
これは、我々エスペラント学習者の共通理解ともいえますが、他の民族語の学習
と比較して「容易」という事ですね。
例えば、英語に比較して「概ね六分の一」の時間で習得可能であると言われたり、
実際にそれを裏付ける統計もあるそうですが。。。
では、実用的な意味で習得するといえるのはどの程度までがその基準となるので
しょうか。
日本の公立中高の英語教育の結果を見れば一目瞭然。よく論議されるように学習の
仕方、更には教授法に問題ありとしたとしても、その結果はあまりにも悲惨と
いえる状態です。ここで公立中高を引き合いに出したのは、その生徒たちの大多数は
言ってみれば「大衆」の子弟たちだからです。従って「大衆」の一員たる個人が
英語に限らず第二言語の習得はいかに困難な事業であるかを示しています。
これがよく新聞広告にある通信教育の他の項目とは「少々」違うところですね
(少々とかいたのは実は他の習い事の中にも窮めるという意味ではでは言語学習に
引けをとらず困難であるかも)。
エスペラントがたとえ他の言語と比較して数分の一の容易さといっても絶対量では
その習得(修得)までとなると多くの時間やエネルギーを割かなければならないの
ですね。

そして、さらに重要なのは「役に立つ」という意味です。
この問題を考える場合も違った意味である相対的要素を考慮に入れなければ
なりません。
例えば、英語の学習と最近人気が出ていているハングルの学習について考えて
見るとしましょう。ハングルはその語順(統語法)から文法的に日本人に
とっては、比較的学び易い言語でしょう。
しかし、20年以上前に遡りますとその実用度は如何でしたでしょう。英語と
修得レベル(言語の、所謂、コマンド能力・運用力)では同じだった人でも
近所にハングルを話す人や少なくとも同言語学習者がいなければ殆んど役に
立たなかったでしょう。更に文通や教師になることを目指してもそれは更に
高度なレベルを要求されるものでしたでしょう。
それに対して、英語は比較的低い運用力でも同じ学習者が近くにワンサカいるし、
しかも、その多様なレベルに応じた場が用意されているといえます。
すなわちハングルよりも「役に立つ」のでした。
ところが、現況では韓流ブームもあって、それ相応のレベルにあった楽しみ方も
出来る様になっています。

結論としては、ある言語が「役に立つ」という実用性の問題は、学習される言語が
学習者の生きている「世間・世界」で中においてどれだけ多様な場を提供している
かが、必要とされる当言語の運用レベルと密接な関係を有しているという事でしょうか。
私の書き方ではお分かりにくければ、極端な例として、古代ギリシャ語や現在でも
少人数ながら依然として使用されているイードに置き換えて考えてもいいでしょう。
極端な言語お宅は別として「役に立つ」ためには、かなりのレベルがないと今の
「世間・世界」では受け入れてもらえないでしょうね。

69Kia-kablo-mi-estu:2006/12/26(火) 00:41:44
>すべてのエスペランティストが共有する理想などありませんし、すべての
エスペランティストが何らかの理想を持っているわけでもありません。

その通りです。エスペラントの一般的属性について私は述べただけです。
ただしエスペラント学習者の多くは、特に、少なくともkomencinto以上のレベル
の人に於いては、エスペラント=国際補助語の真の実現に少しでも近づけることを
目指しているのは至極当然なことでしょう。

>失礼ですが現実認識を根本的に間違えてらっしゃるようです。

何を根拠に言われるか説明して下さるとありがたいのですが。。。

70樂々:2006/12/26(火) 21:04:48
Kia-kablo-mi-estuさんはわたしのような頭の悪いものには理解しにくい
深遠な議論をしておられますが、結局エスペラントは英語とおなじくらいか
それ以上役に立つとお考えなのですか。

71Kia-kablo-mi-estu:2006/12/27(水) 22:53:08
>結局エスペラントは英語とおなじくらいかそれ以上役に立つとお考えなのですか。

役に立つようになる、ということです。

長々と書いて結論が先送りになっていますが、「大衆」に広まる契機となる出来事が
より頻繁になる事により、それほど遠くない未来のある時期に急速にエスペラントは
広まり始めると言うのが、私が論証を試みている結論です。

72Kia-kablo-mi-estu:2006/12/27(水) 23:33:35
しかし、実は、人類は他の選択肢も有しているのです。
そして、「それほど遠くない未来」と書いたのは、それなりの理由があります。
この21世紀という時期が今後、これまで人類の創り出した文明のゆくえを決定
するという重大な転機となる時期であると私は考えているからです。

エスペラントそのものが「世界共通補助語」になるかどうかは別として、その理念
が遅くとも今世紀末までに世界においてヘゲモニーを握らなければ、人類の未来は
大変悲惨なものになるか、下手をするとその存続をも脅かされると考えています。

今後は何がそういった考えの根拠となっているか、私の考えを機会をみて、
この掲示板で展開していけたら幸いに思っています。

余談ですが、憲法第9条の精神についても似たような事が言えるでしょう。
それにしても、ベテラン(?)エスペランチストの中にも今の世界の現状を
追認して9条改正が当然だという人がおりますが、私から言わせるとその方が
おのれがエスペランチストである事に自己矛盾はないのか不思議でしょうが
ないのですが。。

それとも。。。。
何故そうなのか心理学的に考察してみるのも面白い(interesaの意味で)かも
知れませんね。

73Kia-kablo-mi-estu:2006/12/28(木) 21:07:37
心理学的に興味深い事は、憲法9条を守れと言う人の中にまず右翼はいません。
日本では、今はあまり使われませんが「革新」派に多いのです。それから左翼と
言われる人達ですね。
それに対して、エスペラント学習者には所謂改憲論者も多くはないが多少とも
いるわけですよ。
理由は、私が間違っていなければの話ですが、考えればそれほど難しくはない。
Boulogne-sur-Mere の第一回UKで採択されたEsperantisto の定義ですよね。

すなわちエス学習者には初心者ばかりでなく、かなりのレベルの人でも学習により
即物的利益を得ている人が結構いるという事ですね。
換言すれば、表向きの言論は別として、今のエスを取り巻く現状にほぼ満足して
いるのですね。
このことは私が前回書いたようにエスもある程度のレベル以上に使えるようになれば、
英語のようにそれほど時間や金を賭けなくても、現世利益に与れる事の証明でも
ありますけど、それは皆さんご存知の事だと思いますので、このことについては
またの機会に譲ります。これは当然ながら勿論エスペラント強みでありますね。

ただ、ここで私が問題にしたいのは、運動という観点からです。
このエスの長所が実は現在では多くの「お宅」を生み出す事にも貢献してもいるんですね。
如何いう事かと言いますと、エスがある程度世界というか主にヨーロッパですが
広まった20世紀前半からは、切手収集家等に見られるように実利を追求するだけの
人達にも好まれるようになったのですね。こういった人達にはエス人口の多少は
あまり関係なく単にその外延的分布状況が問題なだけな訳です。多数の人に知られる
ことは取り扱っている物の相対価値を落とすことにもなりかねないわけです。
しかし、彼らは、やはり少数派で多くの人達はエスの理念に心を動かされていった
訳です。でも、そういう人達は時代を通じて常に存在してきたし、そのこと自体良いとも
悪いとも他人がとやかく言うことではありません。

ところが問題なのは、インターネットが発達した現代ですね。すなわち、「お宅」が
決して少数派ではなくなる時代なのですから。

ここで、私が問題にする「お宅」というのは、お宅で趣味に没頭するのはいいのですが、
そこから出たがらない人、または出て行くのが苦手の人、さらには出て行けない人の事を
言うのです。
用事が出来ました。続きます。

74樂々:2006/12/28(木) 22:47:16
対話が不可能な人だということがよくわかりました。どうぞ
お続けください。

75Kia-kablo-mi-estu:2006/12/28(木) 22:57:35
このような人達存在はClaude Piron さんの分析にも在りますように、エスペラント
運動が逆境の時には、それなりの意味はあるわけです。
これまでの歴史では、理念的運動が歴史的社会的状況によって為政者による弾圧の
憂き目にあったのとは対照的でして、彼らの趣味としての営みは政治的に口を鋏まない限り
根絶やしにされる事はなかったわけですよ。つまりある意味での順風と順風との
間の時代的橋渡しの役目を担っていたわけです。

それが21世紀を迎えた今、特に先進国では、そういう人達が多くを占めてくるんですよね。
勿論、相対数としてですが、、、比較的若い人なんかはインターネットを駆使して
現在では、様々な「現世利益」を追求できるわけです。概して今流行の、癒しとしての
効用も持つ訳ですね。
でも彼らを、組織運動に参加させるためには、運動を担っている人達が相当のエネルギーを
つぎ込む事が要求されるでしょう。それでも理想主義だけでは動かなくなってきている
先進国の人々を運動に参加させるためには、それ以外、エスを広めるもっと効果的な方法が
ちょっとやそっとでは見つかりませんからね。運動にとっては、受難な
時代ですな。

ところで9条の話に戻りますが、「9条お宅」つうのは聞いたことがないですね。現世利益は
すでにあるのですが、お宅で没頭できるものと違いそれが手にとって分かる訳ではない。
失ってみてその存在が分実感できるのかも。従って9条を守ろうという人達は、
現世利益というより、それが世界から消えうせたときの世の中を前もって想像出来る、
すなわち理想の実現を未来に託すことの出来る人達、換言すれば必ず未来志向を
持っている人達だと思いますね。その上ですよ、この憲法9条の精神が世界的に機能するのは、
エスペラントが真の意味で国際公用語になるのと同様、いやそれ以上に遥かに先のことかも
知れないのですから。

76ladio:2006/12/29(金) 18:10:36
「運動」というとなんか臭くなりますな。
エスペラント「活動」によるエスペランティストの拡大はできないものでしょうか?

運動組織ではなく活動団体みたいなの作って楽しく広めたい。

77Kia-kablo-mi-estu:2006/12/29(金) 19:24:34
ううん!? 運動と活動の違いは何でしょうかね。

78松戸彩苑:2006/12/31(日) 05:11:38
私は >>63 に「オタクっぽい人のほうが期待できる」と書きましたが、考えてみれば、オタ
クっぽい人というのは、現在のエスペラント運動にとっては、きわめて貴重な人材なので
はないでしょうか。

なぜなら、こういう人たちは「面白そう」「楽しそう」と思ってくれれば、エスペラントをやって
くれる可能性があるからです。
また「エスペラントは何の役に立つのか」とか「エスペラントの使用者は何人か」とかいっ
た事を、あまり気にしないのではないかと思われるからです。

そもそも、まじめな人たちがこういったことを気にするのは、当たり前ではないですか。
でも現在のエスペラント界は、こういう質問が出たときに、胸をはって答えられるような状
況では無いんですよね。

考えてみれば、従来のエスペラントの宣伝というのは、まじめな人たちを「理論的」に説
得しようとするものでしたが、まじめな人たちに対して「理論的」な話をすれば、当然この
人たちの心のなかにも「理論的」な疑問がわいてくるわけです。
それで、みんな判で押したように「エスペラントは何の役に立つのか」とか「エスペラントの
使用者は何人か」とか訊ねてくるわけですが、そうすると、それまで小難しい理論をカッコ
よく論じていたエスペランティストの宣伝者が、急に歯切れが悪くなっちゃうわけですね。

これは、どう考えてもヤブヘビではないですか。
だから私は、はじめから、そういう質問を引き出してしまうような「理論による宣伝」はやめ
るべきだと思うのです。

では、どうすれば良いか。
私は >>43 で「言葉による宣伝」ではなく「実践による宣伝」をすべきなんだと書きました
が、今回は、その実例について見ていただくことにします。
---

杉並エスペラント会の機関誌「SAZANKO」の62号(1998年刊)に、和田誠一氏がエス
ペラントを始めたきっかけについて書いておられます。

  (前略)もっとも、エスペラントの文章に触れたのはもっと古く、65年世界大会の少し
  前、知り合いの女性から入門テキストを見せられたのが最初です。既習の英仏2ヶ
  国語の知識だけでなんとか大意がつかめ、嬉しくなりました。ちょっとした楽しい解読
  ゲームでした。

  しかし、エスペラントという人工語の底知れぬポテンシャルに気付かされたのは、70
  年代初頭、パリで開催された大本美術展(略称)のときでした。当時、私は在仏日本
  大使館文化部に勤務しており、その縁で展覧会のお手伝いをさせていただいたわけ
  ですが、会期中のある日、フランス全土と近隣諸国から多数のエスペランティスト達
  が会場に参集し、着くや否や、通訳抜きのエスペラントだけで和気あいあいの侃々諤
  々の会話をはじめたのには度肝を抜かれました。エスペラントって、こんなにすごい
  言葉だったのか!…、ショックでした。

  帰国後もあの日の感動が忘れられず、とうとう、ある午後、本郷(当時)の日本エスペ
  ラント学会(JEI)を訪ね、大島義夫著『新エスペラント講座』全3巻を手に入れました。

79松戸彩苑:2006/12/31(日) 05:14:53
>>78 の続き)

これが、もっとも典型的な「実践による宣伝」になるわけですね。
もちろん、和田氏の目の前でエスペラントを話した人たちは、自分たちのやってることが
エスペラントの宣伝になるだろうとは、まったく考えていなかったはずですが、結果的に
もっとも効果的な宣伝になっているわけです。

和田氏はたぶん「まじめな人」なんだと思いますが、こういう光景を見せつけられると、
この(たぶん)まじめな人がすなおに驚いてくれるわけです。
「エスペラントは何の役に立つのか」とか「エスペラントの使用者は何人か」とかいった疑
問が心に浮かぶことも無いし、べつにオタクっぽいわけでなくてもエスペラントを勉強しは
じめたりするわけです。

もちろん、こういう光景に出くわすことは、めったに無いでしょう。
エスペラントに疑問をもっている人は、エスペラントの大会なんかには参加しないでしょう
し、たとえ街中でエスペラントを話す一団とすれちがっても「外国語で話してるけど、英語
じゃないなぁ」くらいのことしか判らないでしょう。

だから >>30 で、エスペラントを使った旅行(および国際交流)について書かれた本を読
んでもらうということを提案したわけです。
当然のことながら、エスペラントを話す人たちを目のあたりにしたときの感動は再現でき
ませんが、しかし小難しい、抽象的な議論なんかよりはよっぽど面白いだろうし、また
「エスペラントは何の役に立つのか」という疑問に対する答えにもなってるわけです。
---

「理論による説得はダメ」ということに関して、もう一つ実例を挙げてみましょう。
RO誌2001年9月号22ページに掲載された臼井裕之氏の文章のなかに、次のように書
いてありました。

  エスペラントが「人工語」と呼ばれるとき、そこには「感情が表現できない」「無味乾燥」
  といった、エスペラントをおとしめる意図が感じられるのがふつうだ。だから、エスペラ
  ント運動の側からはこのような表現を避けるようにした方がいい。

  もちろん例外はある。わたし自身、初めてエスペラントについて知った小学生のとき、
  「人工語」とはどんな響きがするものだろうかとワクワクした。しかし、知人にこの話を
  したら、既存の概念にとらわれない子どもならではの感覚だといわれた。

これも要するに「面白そう」だという動機なんですね。

また、「人工語だから、無味乾燥で、感情が表現できないのではないか」などという議論
が出てきてしまうのは、平凡な考え方にそまりきってしまった大人を「理論」的に説得し
ようとするからなんですね。
理論的に説得しようとするから、理論的な疑問を返してこられて、エスペランティストが
困ってしまうということですね。

和田氏のように目の前でエスペラントが話されているのを見た人であれば、そんなことを
考える余地は無いし、「エスペラントって面白そう」だと思った子供やオタクっぽい人なん
かも気にしないわけですね。

もっとも、これまでの議論を見て「子供を説得するのが戦略的に良さそうだな」などと思わ
れたかもしれませんが、現実には、そう簡単にはいかないと思います。

なぜなら、子供のまわりにいる大人たちが「常識的な考え方」でエスペラントを否定する
可能性が大だからです。
また、エスペラントの書籍を買うおカネも無いでしょう。
(もっとも、普及のためにエスペランティストが貸したり与えたりするという手もありますが)

数年たって、そこそこのおカネが持てるようになったころには、他のものに関心がいくでし
ょうし、「やっぱり英語が国際語なんだ」と思うようになってるのが普通だとも思います。

80松戸彩苑:2006/12/31(日) 05:17:03
>>79 の続き)

ということで、人工語にワクワクした感性豊かな小学生の話をしたわけですが、今度は、
いいかげんな論文でエスペラントにケチをつけた、感性の貧弱な言語学者の話をしてみ
ようと思います。

マリナ・ヤグェーロ(著)『言語の夢想者』という本があるのですが、これがとんでもない本
なのです。

この本がおもに扱っているのは、エスペラントよりももっと以前の「空想言語」と、宗教的
な「異言」なのですが、それだけならば問題は無いのです。
しかし、この本では「空想言語」は男がつくったもので奇妙でおぞましいものなんだが、
「異言」は女が発したもので無垢で素晴らしいものなんだ、などと放言したあとで、最後
の部分でイタチの最後っ屁のごとく、難解な学術語を駆使して「エスペラントもダメなもの
なんだ」などと書いて終わりになるというシロモノなのです。
結局この本には、エスペラントについて具体的な事例をつうじて正面から論じた箇所は、
まったく無いのです。

しかも、巻末に「参考文献」がズラズラッと列記されているのですが、エスペラントに関す
る本は3冊だけで、しかも、とても古い本ばかりなのです。

だいたいこの人は、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・イタリア語・スペイン語などが
判るというのですから、ほとんど勉強しなくてもエスペラントが理解できるはずなのです
が、そういうことはまったくしていないようなのです。

また、この人はアンドレ・マルティネ氏の指導を受けたこともあるそうですが、マルティネ
氏は人工語に好意的だったにも関わらず、そういうことにも言及していません。

で、この本でヤグェーロが言いたいことは、結局この本の第九章のサブタイトルにもなっ
ている「精神の牢獄としての人工言語」ということであるわけです。

要するに、先ほど出てきた「人工語だから、無味乾燥で、感情が表現できないのではな
いか」という話がありますが、ヤグェーロはこれを「学問的に証明」してみせたというわけ
です。

私も「まともな批判」であれば歓迎しますが、この本はどう考えても、まともな批判だとは
思えません。

こんなふざけた本を書いたのが、言語学の博士号をもつ、パリ第七大学の教師だったり
するわけです。
また、こんな本が、フランスのスーユ(Seuil)という一流の出版社から出ているという現実
もあります。

しかし、それ以上に皮肉なのは、この人は『間違いだらけの言語論 ― 言語偏見カタログ』
という本も出しているのです。
つまり、自分じしんはエスペラントに対して偏見をもってるクセに、偉そうに他人にむかっ
て「言語にまつわる偏見」を批判する本なんかを出してるというのです。

しかし考えてみれば、ここまでひどい言語学者は他にはいないとしても、「エスペラントは
ダメだ」くらいのことを書いている言語学者は少なくありません。

81松戸彩苑:2006/12/31(日) 05:20:14
>>80 の続き)

私はヤグェーロの本を読んでほんとうに腹が立ちましたが、しかし、こういうことはエスペ
ラントに限ったことではないということも知っていました。

19世紀末から20世紀初めにかけて「飛行機」をつくろうと努力した人が大勢いましたが、
その一方で、空飛ぶ機械をつくるのは理論的に不可能だと論じていた学者も大勢いたそ
うです。

そして、そういうなかで最初に飛行機を成功させたのは、高校を中退した自転車屋の兄弟
だったわけです。

またザメンホフが執筆した「国際語思想の本質と将来」のなかにも、次のように書かれて
います。

  人類の歴史に重要な役割を果たそうとする思想は、すべて同じような運命をたどるも
  のだ。そういう思想が世に現れるやいなや、同時代の人たちはおそろしく頑固な不信
  の念だけでなく、理解に苦しむような敵意をもってこれを迎える。その思想の先駆者た
  ちは、悪戦苦闘しなければならない。人びとは、彼らのことを気違いだとか、知恵遅れ
  の子供だとか、挙げ句の果てはまったくの危険人物だと見なすのだ。その場しのぎの、
  ろくでもないことにうつつを抜かしている連中でも、時勢に合って大衆の通俗観念に適
  合していれば、人生をしあわせいっぱいに過ごすうえに、「学問がある人」とか「世間に
  役立つ人」とかいうりっぱな名前をいただくのに、新しい思想の先駆者たちは、嘲笑と
  攻撃の的となるだけだ。初対面の無学な若造は、彼らをばかにして、くだらぬことをや
  っているなどと言う。初対面の新聞記者は、彼らについて「気のきいた」記事や注釈を
  書くが、彼らがいったいどんな仕事をしているのか少しでも知ってやろうとはしない。
  一般大衆は叫びたてる連中のあとを羊の群れのように追っていくだけだから、ただ馬
  鹿笑いをするばかりで、そういう「気のきいた」嘲笑にほんの少しでも意味や道理があ
  るのだろうかとかりそめにも疑ってみようとはしない。そういう思想については、皮肉や
  軽蔑の笑みを浮かべて語るのが「流行なのだ」。だから、太郎も次郎も花子もそんな
  ふうに振る舞い、物笑いの的になる思想について少しでも真面目に考えてみるのを、
  みんなが恐れている。「そんな思想は、馬鹿者のたわごとにすぎない」ことはとっくの
  昔に分かっていて、そういうたわごとにほんのしばらくでもかかわりをもとうとしたら自
  分も「そういう馬鹿者」の数に入れられてしまうのではないかと、心配しているからだ。
  人びとは怪しむのだ。「この実利的な時代に、こんな愚かな空想家どもがどうして出
  て来るのだろう。なぜ気違い病院に入れてしまわないのだろう」。
  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』11〜13ページ)

82松戸彩苑:2006/12/31(日) 05:21:54
>>81 の続き)

  蒸気の力とその効用が人びとに示されたとき、良識ある人なら誰も反論できないだろ
  うと思われた。けれども、蒸気の発明者は長年にわたって悪戦苦闘し、嘲笑に耐えな
  ければならなかった。さらに、ようやく目的を達成し、英国ではすでに三年間も蒸気機
  関車が運転されて多大の利益をもたらしているときになっても、ヨーロッパ大陸では
  学識者や学術団体までが、まず実態をよく調べもせずに深遠な論文を書いて、機関
  車の製造は子供じみた仕事だとか、実現不可能だとか、有害だなどと反対した。これ
  は、いったいどういうことだ、と疑問が生じる。すべての人が流行性痴呆症にかかって
  いたのか。ほんとうにそういう時代があったのだろうか。そのとおり、そういう時代があ
  ったのだ。いまそれに驚いている我われだって、その時代の人びとよりも実際にすぐ
  れているわけではない。我われの子孫も我われよりすぐれているわけでもない。腹が
  立つほどくだらない反対論や攻撃をしかけたこれらの人びとは、げんざいの我われの
  目に映るほど馬鹿ではなかった。彼らは、次の点で間違っていただけである。つまり、
  人間だれもがもつ生来の精神的惰性にわざわいされて、世に出ようとする新しい思想
  について判断を下す気もなく、無難な笑いにまぎらせるだけにしておくか、それともそ
  んな事業は実行不可能だとあらかじめ確信をもって一方的な判断に突き進んだのだ。
  彼らは、この既成の結論に自分たちの議論をむりやり合わせようとし、その議論がまっ
  たく根拠のないことに気付かず、新思想を支持する人の議論に対して自分の頭に頑丈
  な錠前をおろしてしまう。だから、「万人が不可能だと認めていること」の可能性を証明
  しようとする新思想の側の議論は、そういう精神的惰性に陥っている人びとには子供じ
  みた行為と見える。当時の彼らの反対論が今の我われに子供じみて見えるのと同様だ。
  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』15〜17ページ)

どうですか。
この文章は1900年に発表されたもので、書かれたのは、その少し前だと言われていま
すから、100年ちょっと前に書かれたものです。
しかし、現在の状況とまったく変わっていないということが判ります。
やっぱり学者はアテにならないみたいですね。

このような文章を読んでも、やっぱりザメンホフは並みの人物ではなかったんだなぁと思
いますが、余談になりますが、ザメンホフには素直にノーベル賞を受賞してほしかったも
のだと思います。

有力なエスペランティストたちが集まって、ザメンホフがノーベル賞を受賞できるように運
動をやりたいと言ったのですが、これに対してザメンホフは「エスペラント運動に個人的な
色彩がつくのは好ましくない」と言って断わったわけです。

たしかに言ってることは正しいし立派だなぁとは思うんですが、しかしそのために、エスペ
ラント運動がえらく大変なことになってしまったわけです。
素直に受賞してくれれば、あとの人間がどれだけラクだったことかと、私は残念に思うん
ですが…。

83松戸彩苑:2006/12/31(日) 05:23:29
>>82 の続き)

さて結論ですが、「理論による宣伝」はダメだということです。

結局「世間のせせこましいモノの見方」というものが、エスペラントにとっての最大の敵な
のです。

考えてみれば、デカルトも『方法序説』の冒頭において「自分には良識が足りないと思っ
ているような人間はほとんどいないから、良識は、ありとあらゆるもののなかで、もっとも
平等に分配されていると言える」などと書いていたわけです。

要するに、人間というのは、自分が思っているほど理性的ではないのだが、自分だけは
理性的であると固く信じているものなので、そういう平凡な人たちと、エスペラントのような、
それまでの常識をくつがえすようなものについて議論をしても、ラチがあかないのです。

また先に述べたように、学者というものも、まったくアテにはなりません。
考えてみれば、ピジン・クレオール語というものは、小学校にも行ってないような人たちが
必要にせまられて作り出したものではありませんか。
そして、言語学者は長いあいだ、ピジン・クレオール語をまともな言語だとは見なさなかっ
たわけですね。
(もちろん、なんらかの理由で例外的にエスペラントに好意的になった言語学者もごくごく
僅かながらいるでしょうから、そういう人は大事にすべきですが)

ですから、むしろ「理論による宣伝」はやめて、「実践による宣伝」をするとか、あるいは世
間のせせこましいモノの見方にそまっていない子供やオタクっぽい人にアプローチする
とかしたほうが良いと思うのです。

ここでいちおう言っておきますと、エスペラントが広まらないのは、世間の側だけのせいで
はありません。

エスペラントを始めても数年でやめてしまう人や、あるいは eterna komencanto になって
しまう人が大勢いるのに、そういったことに真摯に対応してこなかったエスペラント界の側
にも問題は大いにあります。

しかし、それと並んで「世間のせせこましいモノの見方」というものも大きな問題だというこ
とです。
---

余談になりますが、Tazio Carlevaro 氏は『Cxu Esperanto postvivos gxis 2045?』という
本の17ページに「私は40年以上エスペラント運動をやってきたけど、エスペランティスト
に出来たのは、たったの1人だけだ」と書いています。

エスペラントの将来について Carlevaro 氏はきわめて悲観的ですが、私も今のままでは
ダメだろうなと思っています。

それから、外国語(民族語)を学習する前にエスペラントを勉強しておくと、外国語(民族
語)を学習するのがラクになるという話がありますね。
エスペラントで propedeu'tika valoro と言うもので、すでに実験が何回も行なわれていま
すが、エスペランティストが書いた報告書を読みますと、例外なく「成功だった」と書いて
あります。

しかし現実には、実験ではなく正式にカリキュラムに導入されたという話はありませんし、
だいたい欧米においてはエスペラント運動は衰退してるのです。
こういうことから判断しますと、どうやら世間では「成功した」とは思われていないようなの
です。

考えてみれば、エスペラント界には、エスペラントを始めて数年でやめてしまう人とか、
eterna komencanto になってしまう人が多いのです。
そういう人たちを放ったらかしにしといて「外国語学習に役立ちます」なんて言ってるのは、
やはりおかしいと思うのです。

(終わり)

84Kia-kablo-mi-estu:2006/12/31(日) 16:44:43
松戸さん
貴重な意見をありがとうございました。
他の欄に目が行っていて今始めて読ませていきました。
私も確か、Esenco kaj estonteco de la lingvo internacia だと思いますが
以前に何回か読んでいます。自信が萎えていた時に読んで勇気を与えられた
本でした。皆様にも是非一度読んでみる事をお勧めいたします。
私の意見は年明け5日以降にまた書かしていただきます。
では、皆様、良いお年を。

85松戸彩苑:2007/01/06(土) 15:40:40
はじめに、先に up した文章の訂正&補足をさせていただきます。

>>78 に「SAZANKO」62号に掲載された和田誠一氏の文章を引用しましたが、これは25
ページに書いてあったものです。

また「世間のせせこましいモノの見方」について論じましたが、これの元になっているのが
「カネになること」「楽しいこと」「人から誉められること」という要素です。

それから、ここで補足させていただきますが、人間は「カネになること」「楽しいこと」「人か
ら誉められること」だけを追い求めているわけではなく、「社会のために役に立ちたい」とい
う気持ちも間違いなくあると思います。

しかし、それには「限度」がありますし、また、まじめではあるが平凡な人たちは、世間で
認められているような貢献しかしようとはしません。
ですから「社会のために役に立ちたい」と考えた大人がエスペラントをやることは、まずあ
りません。
---

みなさんもご存知のことと思いますが、世間ではエスペラントはとっくの昔に「失敗した」
「無くなった」と思われています。

テレビ朝日のニュースステーションにおいて「消えたエスペラントの謎」という番組が流れ
たのは1985年のことでした。

で、このように思われているのは、日本だけではなく、欧米でも同様らしいのです。

この認識のギャップについて考えてみると、エスペランティストたちは日常的にエスペラン
トに接していますが、世間の人たちはそうではないという事があげられます。

私がJEIの存在を知って本格的にエスペラントをはじめたのが20才くらいのことでしたか
ら、それ以前の状態というのをよく憶えていますが、はっきり言って、エスペラントというの
は「幽霊」や「UFO」に関する話よりも見聞きすることが少なかったのです。

私は、素人むけの言語学の本をよく読んでいましたが、そういった本にエスペラントの話
が出てくることも、ほとんどありませんでした。
これでは世間から「失敗した」「無くなった」と思われても仕方がないでしょう。

私は高校生のとき、一般の書店でも買えるようなエスペラントの教科書や辞書を何冊か
手に入れて独習していたのですが、そのころは「こういうふうに今でも書店で本が手に入
るんだから、エスペラントを知ってる人もいるんだろうけど、どのくらいいるのかなぁ?」な
どと考えておりました。

ずいぶん暢気(のんき)なものですが、暢気だったから、エスペラントなんてものをやって
いられたのだと、私は思っております。

>>79 で臼井裕之氏の話を引用しましたが、臼井氏も20才をすぎてから初めてエスペラ
ントに出会っていたら、人工語という言葉を聞いてワクワクすることもなく、エスペラントを
学習することもなかったのではないかと思います。

そういえば、ザメンホフが人工国際語を作ろうと思い立ったのも10代のときでしたし、アイ
ンシュタインが相対性理論を考えつくきっかけとなった思考をあれこれと巡らせていたの
も10代のころでした。

こういう事を考えたり共感できたりするのは、人生のごく短い間だけなのではないでしょう
か。

86松戸彩苑:2007/01/06(土) 15:42:04
>>85 の続き)

『宮本正男作品集 第4巻』228ページに、神戸市外国語大学のエスペラント科について
言及した文章があります。

  貫名についていうと、浪高、京大文学部を経て、二、三の中学校の英語教師をしたあ
  と、神戸外事専門学校――昇格して、神戸市外国語大学――の教授になった人であ
  り、同校に「第二外国語」としてエスペラント科を作った人である。このエスペラント科
  は、大阪外大のものがここ数年中断されている現在、日本で唯一の国公立大学にあ
  るエスペラント科である。(もっともこの二つの大学のエスペラント科で単位をもらった
  人で、わたしたちの運動に協力してくれた人は皆無に近い。大学教育というものの限
  界と考えている。)

私の考えでは、これは「大学教育というものの限界」ではなく「世間のせせこましいモノの
見方」がついてしまったからなのです。
大学生ともなれば、就職のことを考えなければならず、そうすると就職にとっては何のメリ
ットもないエスペラントに長々と関わりあっているヒマはありません。
魅力があるのは、ただ単に「エスペラントをちょっと勉強して単位がもらえる」という事でし
かなかったわけなのです。

現在でも、大学や高校でエスペラントを教えておられる方がいらっしゃいますが、そこで
学んだ人のうち、それ以降もエスペラントを続ける人がどのくらいいるのかが、知りたいと
ころですね。
---

おそらくエスペラント界には「上手に説明すれば、世間の人たちだってエスペラントを理解
してくれる」などと本気で信じていられるから、エスペラントをやっているという人も少なくな
いものと思われますが、そんなことは絶対にないと私は考えています。

先に指摘した「優れたエスペランティストの周囲にいる家族や知人でさえも、エスペラント
に理解を示してくれない」ということが、これを証明していると思うのです。

もちろん、こんなことは私にとっても楽しいことではないのですが、いろいろと調べたり考え
たりした結果ですので、認めないわけにはいかないのです。

このように考えていくと、現時点でエスペラントを身につけようと思ってエスペラント団体に
入会してくる人たちの貴重さというものが、よく判ると思います。
彼らは「自分の家族や知人でさえもやってくれない事を、やろうとしている」のです。
そういう人たちを大事にせずに、エスペラント運動が発展するわけが無いでしょう。

私は、こういう人たちのために努力する気にはなれますが、エスペラントの話を聞こうとも
しない言語学者や、その他の世俗的に偉い人たちに理解してもらえるようにと、彼らの尻
を追っかけまわすような事をする気にはなれません。

彼らは、世間のせせこましいモノの見方が頭につまっていますから、「世間において認めら
れた」ことしかしません。
よって、彼らにアタックするのは時間のムダだと思うのです。
---

「エスペラントの宣伝がこんなに難しいなんて、まったく想像してなかった」と思われる方も
いらっしゃることでしょうが、現実とは、こういうものだと思うのです。

私たちは、現実を直視しなければなりません。
でないと「世間知らずの世直し運動」となってしまい、自分の家族や知人からも理解しても
らえなくなってしまうからです。

(終わり)

87松戸彩苑:2007/01/27(土) 14:08:11
かつて、フランツ・ヨナス(Franz Jonas)という人がいました。
この人は、エスペラントが堪能で、しかもオーストリーの大統領になった人物です。
梅棹忠夫(著)『エスペラント体験』の91ページに、このヨナス氏について書いてあります
ので、ちょっと見てみましょう。

    ウィーン大会

  1970年には大阪府千里で万国博覧会がひらかれた。わたしはいくつかの委員会に
  関係していたので、万博がはじまるまではたいへんいそがしかった。しかし、はじまっ
  てみると時間にゆとりができたので、その夏はウィーンでひらかれた第55回世界エス
  ペラント大会に妻とともに出席することにした。日本からは60名ほどが参加した。団長
  は東京にすむ石黒彰彦氏であった。茁子(なみこ)夫人も同行された。

  大会は8月2日からはじまった。会場はゾフィーエンゼーレという国際会議場だった。
  世界各国から約2000名があつまっていた。

  開会式にはオーストリア大統領のフランツ・ヨナス氏も出席された。大統領は会場の最
  前列のりっぱな特別席にすわっておられたが、壇上にあがって、あいさつをのべられた。
  それはよどみのない、うつくしいエスペラントであった。かれは青年時代からのエスペラ
  ンチストであるという話であった。原稿なしで1時間ちかくも演説された。

こういう話を聞くと、多くのエスペランティストは本気で感動してしまうのでしょうが、しかし、
これだけで喜んでいてはいけないのです。

というのも、ヨナス氏が大統領になってから、オーストリーにおいてエスペラントが優遇され
たとか、エスペランティストが大幅に増えた、などといった話を聞いたことがないからです。
また、Tazio Carlevaro(著)『Cxu Esperanto postvivos la jaron 2045?』という本の26ペー
ジによると、ヨナス氏は desuba movadismo(草の根の運動)をエスペランティストに勧めて
いたのだそうです。

でもこれは、民主的な国家においては、当然のことなのです。
民主的な国家においては、たとえ大統領といえども、自分勝手な提案を国民に押しつけた
りすることは出来ないのです。

つまり、大統領でさえも、国民の支持が得られないことは実行できないという事です。

これは要するに、ここにも「世間のせせこましいモノの見方」というものが顔を覗かせるとい
う事なのです。

88松戸彩苑:2007/01/27(土) 14:09:32
>>87 の続き)

もちろん、ヨナス氏じしんは「世間のせせこましいモノの見方」とは無縁だったでしょうが、し
かし、そういうものに合わせないと、国民の支持を失うことになるのです。

ヨナス氏のような、エスペラントに堪能で、一国の大統領になった人でさえ、エスペラントを
社会に根づかせるような行動をとることは出来なかったのです。
そして、「草の根の運動」をエスペランティストたちに勧めていたのです。
この事実が示す意味について、よく理解しないといけないと私は思うのです。

これを考えれば、「EUの議員でエスペラントを支持する人が何百人もいる」などという話に
過剰に期待しても仕方がないということが判るでしょう。

現在の欧米の議員で、ほんとうにエスペラントのために活動していると言えるのは、イタリ
アの Radikala Partio の人たちだけでしょう。
この人たちは、ほんとうに頑張っておられると思うのですが、しかし、これまでに述べた理
由から、この人たちの努力だけでは、世間を説得することは出来ないものと思われるので
す。

じつに厳しいものですが、しかし、これが事実なのです。

たしかにエスペラント運動はボランティアでありますし、また、ザメンホフじしんも「自分が
正しいと思うことをやれば良い」と言っていました。
しかし、こういった事実を無視して行動しても、自分の家族や知人からも理解されないの
がオチだと思うのです。
---

いちおう言っときますが、私はこれまでずいぶん厳しいことを書いてきましたが、べつに
「私」じしんが厳しいのではなく、「世間」の厳しさを忠実に伝えているだけなのです。

私にしても、もっとラクな方法があるのであれば、それを採用したいのですが、しかし、そう
いうものがまったく見当たらないので、厳しいことを言わざるを得ないわけです。

(終わり)

89ladio:2007/01/27(土) 16:34:35
きびしぃーっすねー。
結局、草の根運動しかないんでしょうか。
自分の周りにエスペラントで輝いている人がいれば、
やろうって気になるんでしょうがねー。

ところで、オーストリアをオーストリーとは、なかなか流行に敏感ですね。
でも、確かにオーストラリアとの区別はしやすいですね。

90胡人:2007/01/27(土) 16:44:03
正直そんなに厳しいのでしょうか?
私の感覚では、基本的に、語学が好きな事と、エスペラント普及活動とはなかなか両立しないのではないかと思います。

語学が好きで探求される方は頑張って探求されれば良いですが、一方、曖昧に英語は嫌だけど他に何か教養活動で良いものはないかと探している方々も案外多いというのは現実です。

当県では各地域(4ヶ所)で毎週講習会を開いています。
正直、なかなか新人が現れる事が少ない時もありますが、時として、様々な関係から、例えば環境関係のNPOや宮澤賢治が好きな方や友達が友達を誘って、昨年末から今年初めにかけて、入門者向け講習に5人がそれぞれ別々な関係から参加され学習を始めました。
新辞典も結局30冊以上世話しましたが、20冊はここ1〜3年の人達が買ったものです。
本当のベテランは各々で購入されたものと思っています。

分止まりは悪くとも飽きずに動いていれば、知り合いが知り合いを呼び輪を広げていけると思っています。
あまりマニアックにならない様に、開けた一般教養活動的雰囲気の維持と友達関係作りが結局重要だと思います。

何かの時には、エスペラントをやっていない家族を巻き込んでイベントをする事も必要です。
家族も引き込めない様な活動は、その方向性を変えた方が良いと正直思います。

ロシア語、インドネシア語、韓国語等、他の外国語講習会も、だいたいそんなものです。
活発で楽しそうなクラブに人は集まってくるものです。
もっと気楽に楽しめるものにしなければと、私は思います。

91松戸彩苑:2007/02/07(水) 05:55:43
思い出したんですが、町田健という言語学者の方が書いた『言語学が好きになる本』
の最後の章に、エスペラントのことが書いてあるんですよ。

これを読めば、言語学者がエスペラントのことをどんなふうに思っているのかが、
よく判ると思います。

大きな図書館などにはあると思いますので、いちど読んでおくと良いんじゃない
ですかね。

92胡人:2007/02/07(水) 10:57:25
探して読んでみましょう(^^)

町田という言語学者がエスペラントをどの様に思っているのかを…

> 88
ザメンホフじしんも「自分が正しいと思うことをやれば良い」と言っていました。

それは聖書に、「自分がしてほしいと思う事を、他の人にしてください。」とあるのとの勘違いだと思います。
ザメンホフは、「自分がして欲しくない事は、他の人にしないでください。」と言っている様に思いますが。

93松戸彩苑:2007/02/09(金) 02:10:06
言語学者が書いたエスペラント論をもう一つ思い出したので、ここに紹介しておきますね。

それは、月刊「言語」2000年8月号64〜75ページに掲載された、立川健二氏の「英語
批判の手前で ― エスペラントからザメンホフへ」というものです。

この論文は、次のような文章で始まっています。

  ぼくたちが生きているこの二十世紀末、国際共通語と言えば、議論が始まる前に答え
  はもう出てしまっている。その答えとは、言うまでもなく英語である。今世紀のはじめま
  で英語と覇権を争っていたフランス語でさえ、ほとんど忘れ去られている。エスペラン
  トはと言えば、失敗に終わった人工国際語の試みとして枕詞のように言及されるにす
  ぎない。価値判断は別として、エスペランチストは、このような世界の言語状況の「現
  実」を認識しなければならない。(同書64ページ)

これだけを読むと、まったく単純な「エスペラント否定論」みたいに見えますが、しかし決し
てそうではないんですね。

というのも、この人は驚くべきことにJEIの会員なんですね。
現在はどうなのか知りませんが、少なくとも、私が持っている2000年度版のJEIの会員
名簿には、ちゃんと載ってるんですよ。

では、どうしてJEIの会員が、エスペラントを否定するのか。
あるいは、どうして「エスペラントが国際語になる可能性はまったく無い」と考えている人物
が、JEIの会員になったのか。
---

結論を言ってしまいますと、立川氏の考えは

(1) 「エスペラント」が国際語になる可能性はまったく無いのだが、しかし「ザメンホフの
   思想」は素晴らしくて、これには将来性がある。

(2) だから、現在の「エスペラント」の価値というのは、ザメンホフの思想を直接読めると
   いう事だけである。
   これ以外には、エスペラントには価値はまったく無い。

(3) そして、エスペランティストたちは「ザメンホフの思想」を重視していると言うが、立川
   氏から見れば、まったく生ぬるい。
   立川氏の考えでは、エスペランティストというのは、「ザメンホフの思想」を学んだら、
   ただちに社会を良くするために働くべきなのである。
   それのみが大事なのであって、エスペラントを普及させようとしたり、エスペラントで文
   学作品や学術論文を書いたりするといった事は、まったくの無駄である。

というものなのです。
要するに、立川氏にとっては「ザメンホフの思想」だけが重要であって、「エスペラント」を
国際語にしようなどという努力は、まったく意味がないと考えているわけですね。

JEIの会員になっているのも、おそらく「ザメンホフの思想」だけは高く評価しているからな
のでしょう。

ということで、私はこの論文の内容を、徹底的にバラしてしまっています。
こういう振舞いは、まだ読んでいない人に対してずいぶん失礼だと私も思うのですが、そ
れでもあえて結論を書いたのは、説明しておかないと、この論文の趣旨が理解できない
可能性があると思ったからです。

94松戸彩苑:2007/02/09(金) 02:12:00
>>93 の続き)

ところでこの論文は、1997年10月に神奈川で開催された、国際エスペラント・フェスティ
バーロで立川氏が行なった講演を元にしているそうです。

つまり、エスペランティストが大勢集まっているところで「エスペラントが国際語になる可能
性はまったく無い」などと力説したということであって、大笑いなんですが、立川氏は「自分
の考えは絶対に正しい」「これは社会のためにもなるし、エスペランティストのためにもなる
んだ」と信じて疑わないから、そういうことが平気で言えるんですね。

  ぼくの意図は、もちろんエスペランチストの自覚と奮起をうながすこと以外のなにもの
  でもない。日本のエスペランチストには、もっと頑張って、日本の思想と学問の世界に
  インパクトを与えてもらいたい。にもかかわらず、これをエスペラントならびにエスペラ
  ンチストにたいする攻撃と受けとったと思われる反応が一部に見られたことは、非常に
  残念だった。(同書75ページ)

つまり、立川氏は「社会問題」の解決のことしか頭になくて、それ以外のことは、まったく
眼中にない。
だから、大勢のエスペランティストの前で「エスペラントの普及活動なんていう無駄なこと
はサッサとやめて、もっと直接的に社会を良くするような活動に専念すべきなんだ」など
と主張できるわけです。

考えてみれば、エスペラント界には「ザメンホフの理念が理解できれば、エスペラントを支
持するようになるんだ」などという常識(あるいは信仰)がありますが、この常識だか信仰
だかをあっさりと覆した人物が、ここに現われたわけですね。

しかも、その人物は、東京外国語大学フランス語学科を卒業し、東京大学大学院人文科
学研究科博士課程を中退したあと、いくつかの大学に奉職し、言語学に関する著作を何
冊か出しているという人だったのです。

そういう人物が「エスペラントは、ザメンホフの文章が読めるということ以外には、まったく
価値がない」とまで言い切ったわけです。

つまり、私の用語で言うと、立川氏もまた「世間のせせこましいモノの見方」に凝り固まっ
た人だったわけです。

立川氏は「社会問題」について真剣に考えるという意味では「まじめな人」なのですが、し
かし私の経験から言いますと、まじめな人というのは、しばしば「考え方が狭い」んですね。

で、考え方が狭いのでは、いくら東大の大学院を出ていても、エスペラントみたいなものを
まったく評価できないわけです。
---

それから、エスペラント界には「エスペランティストが、エスペラントを使ってボランティア活
動を熱心にすれば、世間の人たちもエスペラントを評価するんじゃないか」などという考え
(あるいは信仰)がありますが、立川氏のことを考えますと、これも現実的ではないと思い
ます。

そもそもエスペラント界は、エスペラントを学んだり、教えたり、会報を編集したりといった
事をやらねばならないわけで、時間がないのです。
エスペランティストだけ他の人より頭や体が2倍のスピードで動くわけではありませんし、
エスペランティストだけ1日が48時間あるわけでもありません。
どうしたって、エスペラントに関する活動をやってる分だけ、ボランティア活動をやる時間は
少なくなるのです。

そうすると、エスペランティストがボランティア活動をやっても大したことは出来ないでしょう。
少なくとも、英語を使ってバリバリと仕事をこなしているような団体には太刀打ちできないも
のと思われます。
で結局、立川氏のような考え方をする人たちから「エスペラントをやめれば、もっと活動が
できると思うけど」などと思われてしまうのがオチなのではないでしょうか。

「世間のせせこましいモノの見方」というのは、これほどまでに、エスペラントを認めないも
のなのです。

95松戸彩苑:2007/02/09(金) 02:13:58
>>94 の続き)

私はこういうふうに考えていますから、私は逆に「エスペランティストは、とにかくエスペラン
トを使う・使えるということが第一であって、理念とかボランティアとかは二の次、三の次で
良い」と考えているわけです。

そもそも、理念について考えたり、ボランティア活動をやったりする人間・団体は、世間に
いくらでも存在していますが、エスペラントをやってる人間・団体は、きわめて少ないのです。
この事実を忘れてはいけません。

そして、エスペラントを使ったり、あるいは使えるようになったりするためであれば、娯楽で
も良いじゃないかと主張しているわけです。
これは決して昨日今日に思いついたものではなく、私が数年間にわたって、エスペラント
界の内外における状況をつぶさに調べた結果出てきた結論ですから、決していい加減な
気持ちで言っているわけではないのです。

「しかし、理念のための運動なのに、理念を二の次、三の次にするというのは、矛盾してい
ないか」と考える方もいらっしゃるでしょうから、この点について説明しておく必要があるで
しょう。

そもそもエスペラントというのは「言語的な平等」のために作られたものですが、しかしエ
スペラントを見てみると、欧米語から単語を採っています。
それを見て「エスペラントは欧米語中心だから、言語的な平等という目的を達成していな
いではないか」「矛盾してるではないか」という意味の批判をする人が少なくありませんが、
しかし我々エスペランティストは、そうは考えていないわけですね。

クリンゴン語のように、民族語とはまったく関係なく単語を作るとか、あるいはノシロ語のよ
うに、世界中の言語から単語を採用するとかすれば、こういう批判を受けなくて済むわけ
ですが、しかし、こういう方法で作られた人工語はたいへん憶えにくく、使いにくいわけです。
ですから欧米語を利用して、学習や運用をしやすくしたわけです。
つまりエスペラントでは「厳密な意味での言語的な平等」を捨てて「憶えやすさ」「使いやす
さ」を優先させたという事になるわけですね。

以上は、エスペラントの「構造」に関する話でしたが、私は、エスペラントの「学習」や「宣伝」
においても人間の性質や能力というものを考慮しないといけないと考えるわけです。

私だって「理念」を説明したくらいで世間の人たちが理解してくれるのであれば、理念中心
の宣伝活動に文句を言わないのですが、しかし100年以上こういうやり方でやってきて、
効果が無いどころか、逆にエスペラントに嫌悪を感じる人間が少なくないということが判っ
ています。
また、自分じしんの家族や知人でさえも、こういう方法で説得することは、まず無理なわけ
ですね。

一方、>>78-79 で論じたように「エスペラントが使われているところを実際に見る」とか、
>>62 で紹介したように「エスペラントが面白そうだと感じられる」といった場合には、エスペ
ラントをあっさりと認めるわけですね。

こういった経験をもとにして、エスペラント運動をやっていかなくてはなりません。
ということから私は「エスペランティストは、とにかくエスペラントを使う・使えるということが
第一であって、理念とかボランティアとかは二の次、三の次」だと主張するわけです。

エスペラント運動は、エスペラントの話者が増えなければ、どうしようもないのです。
そして、「理念」を語っても新興宗教だとしか思わない、「カネになること」「楽しいこと」「人
から誉められること」しかやらないような人たちを味方につけるには、娯楽を利用するとい
った方法しか私には思いつかないのです。

私の考えでは、エスペラントが出来るようになれば、世界観は大きく変わるものです。
ですから、たとえ「面白そう」といった動機でも良いから、エスペラントを学ぶようにすること
が大事なのです。
これまでの宣伝では、これとは逆に、エスペラントを学ぶ前に「世界観を大きく変えよう」と
考えて、いろいろと難しい理論を語ってみせるので、新興宗教だと思われてしまい、自分
の家族や知人からも理解されなかったのです。

96松戸彩苑:2007/02/09(金) 02:15:49
>>95 の続き)

それから、立川氏にはエスペラントに関する論文が、もう一本ありました。
それは『ポストナショナリズムの精神』(現代書館 2000年)に収められた、第3章の「言
語戦争論序説」です。

これは簡単に言えば、「ザメンホフの思想」を好意的に紹介しつつ、言語問題について論じ
ているというものです。
ですから、立川氏の考えがよく判っていない人がこれを読むと、エスペラントを礼賛してい
ると思うでしょう。

しかし先にも述べたように、立川氏は「ザメンホフの思想」は評価するけれども、「エスペラ
ント」については、「ザメンホフの思想」に直接アクセスできるということ以外には、まったく
価値が無いと考えているわけでして、それは、この論文でもまったく一緒です。

ですから、この論文の終わりのところにある「追記」には

  この論稿では、ザメンホフの言語・宗教思想の可能性を最大限引き出すことに主眼を
  置いているために、これを読んだ人は、わたしが「エスペランチスト」だと誤解するかも
  しれない。しかし、わたしは、ザメンホフの理想主義に強く惹かれはするものの、いわゆ
  る「エスペランチスト」とは一線を画している(そもそも、エスペラントを話せない人間を
  「エスペランチスト」と呼ぶことはできないが)。

などと書いてあるのです(同書153〜154ページ)。

JEIのRO誌2000年9月号35ページに、木村護郎氏がこの本について文章を寄せていま
すが、「Eの評価も、第三章の論旨がまとまった後にひっくり返ってしまう」などと書いてあ
ります。
これは言うまでもなく、「ザメンホフの思想」と「エスペラント」とでは、まったく正反対の評価
を立川氏が与えているということが、木村氏には理解できなかったということです。
---

ということで、ずいぶん長くなりましたが、こういったことを頭に入れて、立川氏の論文を読
んでみると良いと思います。

(終わり)

97松戸彩苑:2007/02/21(水) 20:47:13
人類愛善新聞2006年11月号に、次のような記事が載っていました。
http://www.jinruiaizenkai.jp/profileshinbun06-11-2.html

  エスペラントの公用語化についての賛否は、一昨年3月にEUの憲法委員会の採決で、
  賛成12・反対14の僅差で否決されました。続く、4月のEU議会の採決では、賛成120・
  反対160という結果でした。否決はされたものの、その差はわずかで、UEAのコルセッ
  ティ会長は「エスペラント誕生以来、117年にして初めての快挙だ」と述べています。

このような記事を読むと「あと一押しでエスペラントがEUで受け入れられるんじゃないか」
という印象を受けるかもしれません。
しかし私の考えでは、エスペラントが現在のような状態(日常生活に関する語彙・表現が
不足・混乱している状態)のままで大々的に普及することになるのは、ひじょうにマズイこ
とだと思うのです。

このように言えば、おそらく

(1) たしかにエスペラントには問題があるが、松戸彩苑が言うほど、ひどくはない。

(2) EUがエスペラントを導入すれば、一流の言語学者が参加して、エスペラントの問題
    を解決してくれるだろう。

などという反論が返ってくるかもしれません。
(1)については今後も実例をあげていこうと思っていますが、ここでは(2)について論じて
みようと思います。
---

考えてみれば、現在のエスペラント界にも、本職の言語学者が何人もいるわけです。
現在のUEAの会長である Renato Corsetti 氏もそうですね。

しかし、今までに neologismo 論争と呼ばれるものが何度も発生しましたが、本職の言語
学者で、エスペラントを何十年も使っているような人でさえも、これについて明確な解決案
を出せたことは無いんですね。

また、私は言語学者ではないんですが、学生時代から言葉に興味をもっていて、素人む
けの言語学の本をずいぶんたくさん読んできたのですが、エスペラントの問題を解決して
くれるような理論というのは見たことがありません。

私が従来のエスペラント運動の問題点に気づくことが出来たのは、あくまでも「エスペラン
トはけっこう良くできてるように思われるのに、どうしてエスペラント運動はパッとしないの
だろうか」という疑問をいだきつつ、エスペラントをよく勉強し、エスペラント界の歴史を詳し
く調べることによるものだったのです。

以上のことから考えると、たとえ一流の言語学者であっても、エスペラントの問題をただち
に解決することは出来ないだろうと思われます。
もちろん、彼らが本気でエスペラントを学び、本気で問題点を考えてくれれば、今までには
出てこなかったような解決方法を生みだす可能性はあるでしょう。
しかし少なくとも、現在の言語学の知見のなかにはそういうものは無いので、一から作り出
さなければならないわけです。

ということで、言語学者に過剰な期待をいだくのはマチガイだと思うのです。

98松戸彩苑:2007/02/21(水) 20:48:12
>>97 の続き)

それから考えてみれば、エスペラント界は世間に対して「エスペラントは、民族語と比べて、
まったく遜色がない」などと宣伝しているわけです。

で、EUの議員たちは、そのように宣伝している人たちの学歴・職歴がかなり高いのを確認
して、それを信じてくれているわけです。
彼らの大部分は、エスペラントの実態については、まったく知らないわけです。

ところが、実際にエスペラントを採用してみたのは良かったが、意外なことに、日常生活に
関する語彙・表現が不足・混乱しているということが彼らにも判ったりしたら、エスペランテ
ィストはどうするつもりなのでしょうか?

平然として「いや、使ってるうちに自然に決まるので、心配することは無いですよ」と言うの
か、それとも「言語学者の方たちに協力してもらえば、すぐに解決しますよ」とでも弁明す
るのでしょうか?

しかし、どちらの説明にしてもEUの議員たちを納得させることは出来ないでしょう。
というのも、彼らは「エスペラントは、民族語と比べて、まったく遜色がない」という話だった
からエスペラントを支持したのに、じつはそうではなかったという事になるからです。

信用というものは、築くのはひじょうに大変ですが、無くすときは一瞬で無くなってしまうも
のです。
また、今のままではダメだということが判れば、いったん採用したものでも廃止ということ
になるでしょう。

ということで、今の状態のままでエスペラントが採用されることになったら、こういう事にな
りかねないので、私は、今のうちから日常生活に関する語彙・表現を少しずつでもいいか
ら確立していくべきだと主張しているわけです。
---

また考えてみれば、中国においては、エスペラントのステータスはかなり高いわけです。
大学の第2外国語としてエスペラントが認められているわけですから、有名大学でもエス
ペラントが正式な授業として教えられているわけですし、また、テレビでエスペラント講座
を放送したりもしているわけです。

しかし、これだけの事をやっているわりには、中国社会のなかにエスペラントが根づいて
いるわけではないのです。
こういった活動は、きわめて小さいエスペラント界のなかでは際立っていますが、中国社
会全体のなかではマイナーな活動でしかありません。
これだけのお膳立てがなされているにも関わらず、中国でもやはり英語を学ぼうという人
のほうがケタ違いに多いわけです。

このようなことを考えれば、現在のエスペラントには致命的な問題があるということと、た
とえEUでエスペラントが採用されたとしても大したことにはならないのではないかという予
想をせざるを得ないのです。
---

これらの考察から私が言いたいのは、

(1) 問題は、いくら待っていても、自然に解決することはない。

(2) 私が指摘するような問題があるから、せっかく世間がエスペランティストに対してチャ
    ンスを与えてくれても、それを十二分に活かすことが出来ず、予想よりもはるかに低
   い成果しか得られない。

ということです。
また

(3) エスペラントについてよく知らない世間の人たちに対して、過剰な期待をいだくのは
    失望の元でしかない。

ということも申し添えておきたいと思います。

(終わり)

99Kia-kablo-mi-estu?:2007/02/21(水) 23:27:34
松戸さん。
何度も書きましたが、

>現在のような状態(日常生活に関する語彙・表現が
不足・混乱している状態)

は、確かにありますが、それはむしろESPERANTUJOで使う頻度が少ないことが主たる
原因でして(今のところ日常生活に関する語彙・表現が主として使われる例としては
四六時中同じ言語の共有空間を持つ場面、すなわちエスペランチスト家族内、UEAの事務局、
国際的な長期合宿等に限られている)、実際には、「エスペラントの持つKapablecoは
民族語と比べて、まったく遜色がない」と思います。
ただ私が、kapablecoと入れたのは私自身実際にそういった生活を体験していないからですが、
前にも書きましたが、例えばdenaskulojからそのような(不足・混乱)話を耳にしたことは
ありません。

従って、心配して頂けるのはありがたいのですが、やはり問題の優先順位が違うのでは
ないでしょうか。
むしろ、EUで年を追うごとに加速度的と言って良い位「共通補助言語」の論議が盛んになっている
中で、今心配なのは、その受け皿としての我々エスペランチスト自身のkapablecoの方が遥かに重要な
問題だと考えております。
勿論、日常用語の「語彙や表現の共通化」も大事なこととは思いますが。。。

100松戸彩苑:2007/02/22(木) 06:27:14
>>99
ご意見を書き込んでくださって、ありがとうございます。

「使用頻度が少ないから決まっていないだけであって、使われているうちに自然
に決まる」という事なのでしょうけれども、neologismo 論争をみると、とても
「使われているうちに自然に決まる」とは言えないと思うのです。

neologismo 論争から見えてきたことは

(1) 「使われているうちに自然に決まる」という理論に対する疑問。

(2) エスペラントの造語力に対する疑問。

だったと思うのです。
---

それから denaskuloj についてですが、私は、エスペラントの denaskuloj は、
民族語のそれとは違うのではないかと考えているのです。

というのも、neologismo 論争が起きたときに、denaskuloj が先頭に立ってこれ
を解決した、などということは起きなかったからです。

denaskuloj が存在するという現象はたいへん興味深いのですが、しかし「denask-
uloj がいるから民族語と同じ」だなどと考えるべきではないと思うのです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板