A 「そうですか。しかし、保証がないというのは、心細くありませんか。今では、
どんな電気製品にも、保証書がついていますね。ただ希望するだけで、それを裏付ける
体験を持たなければ、とても心細いものだと思いますが。」
B 「だけど、極楽浄土に行くのは死んでからのことだから、死なないとどうなるかは
わからないではありませんか。」
A 「確かにそうかもしれません。しかし、死んでしまってから『極楽浄土に行くはず
だったのに、行けなかった』では遅すぎますし、取り返しがつきません。生きている間
に極楽浄土を体験することが、最も大切なことだと私は思うのです。」
B 「生きている間に極楽浄土を体験するのですか。」
A 「そうです。私たちはそれを“神の国”と呼んでいますが、この神の国、天国を、
生きている間に私たちの心の中で体験するので。」
B 「神の国を体験するですって。」
A 「そうです。真の神であり、救い主であられるイエス・キリストを信じ、心にお
迎えすることによって私たち人間は、はじめて本当の救いを体験し、神の子とされ
るのです。」
B 「神の子ですって。とんでもない。私たちはただの凡人です。神の子なんかにな
れっこありません。」
◆罪人を愛される神◆
A 「そうですね。確かに私たちは親鸞聖人が言われたように“罪業深長なる愚人”
かもしれません。私が神の言葉として信じている聖書にも、『すべての人は罪を犯した
ため、神の栄光を受けられなくなった』(ローマ3・23)と記されています。確かに
すべての人は、神の前に、罪人であり、愚人です。こういう私も、罪ばかり犯してき
た人間です。けれども神は、このような罪人である私たちをなお愛して下さいました。
ちょっと、このところを読んで下さい。」
B 「えっ、ここですか。『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さっ
た。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』。」
(ヨハネ3・19)
A 「そうです。神は罪人である私たち人間をなおも愛し、私たちを救うために、
イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。そして、キリストは私たちの
罪の身代わりとして、十字架にかかって死んで下さったのです。」
B 「罪の身代わり?」
A 「そうです。私たち人間を清めるためには、汚れのないキリストご自身の血が
十字架上で流される以外に方法はありませんでした。
浄土真宗では“触光柔軟”といって光に日々浴していたら自然と心も柔らかくなり、
思いも言葉も行いも美しく、正しくなってくると説かれていますが、果たしてそうで
しょうか。」
B 「はい。親鸞聖人はこの“触光柔軟”の徹底した模範を残しておられます。」
A 「確かに私も、聖人が生涯を墨衣で通し、生活を質素にし、いつも阿弥陀仏の慈悲
心にあふれ、法然のために越後に流刑になったときも、だれ一人恨まず、このことを念
仏を伝える良い機会であると喜んだほどのすばらしい人であったと聞いています。けれ
ども、それで彼は全く罪を犯さなくなったのでしょうか。また、あなた自身はどうでしょ
うか。阿弥陀の光によって罪から解放され、心が美しくされていますか。」
B 「いえ、恥ずかしい話ですが、よく『かっ』となって、子どもを叱ったり怒鳴ったり
してしまいます。」
A 「そうですか。けれどもがっかりすることはありません。神は、一人も滅びないで
永遠の生命を得ることを望んでおられるのです。」
◆永遠の生命への招き◆
B 「永遠の生命ですか。」
A 「はい。この永遠の生命こそは、私が先ほどお話した神の国の保証なのです。この
永遠の生命をいただくなら、罪は清められ、神の国を体験することができるのです。」
B 「ではどうしたならば、その永遠の生命をいただくことができるのですか。」
A 「聖書のこの箇所を読んで下さい。『これらのことを書いたのは、あなたがたが
イエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名に
よって命を得るためである』(ヨハネ20・31)と記されています。
つまり、イエスを神の子、すなわち、神ご自身、また救い主として信じることです。
そして御名によって命、すなわち永遠の命をいただくことができるのです。」