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皇室の危機・小室圭騒動

1まむし連:2019/04/12(金) 14:25:43
以下は他BBSでの愛国主義者さんのカキコをコピペさせて頂きました
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皇室の危機・小室圭騒動 投稿者:愛国主義者 投稿日:2019年 3月23日(土)13時20分24秒

皇室の話題でこれほど馬鹿馬鹿しく、低次元な話題はほかになかった

宮中某大事件が秋篠宮家に発生。世に『小室圭騒動』と称されり。

眞子内親王の婚約者、小室圭なる御仁とその母親の周辺が怪しい。

この一件で、秋篠宮家はもちろん、皇室そのものに不審と批判が出ている。 同級生との婚約や自由恋愛は否定されるべきではなかったが、この騒動をみれば、やはり皇室はそれ相応の人物との交際がふさわしい。

名家・名門、武家や華族、財閥系の御曹司や御令嬢との交際が相手の身分も含めベスト。それにしても、出会ってから5年間、秋篠宮家の方々は小室家の事を何も把握していなかったのか。。。。

そんじょそこらの週刊誌が、少し調べただけで得体の知れない家族という事がわかった。
父親、祖父、祖母が謎の自殺。母親が元暴力団員と顔見知りという事実。母親の婚約者から、
400万円借りていたが、男性は騙されていたらしく、400万円を返してといっているのに、
いまだに返していない。小室家そのものが婚約詐欺師のようである

婚約破談でしょ?ふつう
今上陛下と美智子皇后の婚約の取り消しの裁可が待ち遠しいのだが・・・・

2ぶらでぃ:2019/04/13(土) 21:30:02
ネット空間での議論はたいがい不毛だが、
今回の投稿をキッカケに、現状の考えをメモらせて頂く。

■背景

一億総姑のご時世、
メディアが勝手に騒いでは、世間が勝手に騒ぎ、
有名人と公人とが混同され、朝から晩まで公務扱いの日々。
秘密警察不要の監視社会の異常な日常が確立している感。

それに対して、実存の基本課題は、
・自分の生活の基盤を確保し
・伸ばすべき志をみつけ、育み
・転んでは学び、挑んでは適宜助け合うこと

そこから、経験や歴史を通じて、
様々な慣習と様式と評価軸が加わっては変わって来た。
しかし「渦中の野次馬」にとって相対的な通時性は過小評価されがちであり、
その場その時の雷同と共感が、生活に安定と気晴らしを与える。

■案件

今回の件では、
小室氏の品格、
過去の恋愛、
母親の金銭問題や宗教、
自身の経済問題、
前例軽視などが問題視されている。

どれも取るに足らない、
生きる上での泥として十分あり得る程度の「問題」であり、
皇族との恋愛でなければ、ニュースバリューの無いものばかり。
しかし、皇族との恋愛と来た。

眞子内親王殿下は、
儀礼監視社会における幽閉生活を強いられておられる。
それに対して、当人の本来的課題は上述の通りでしかない。
葛藤がある。

一方では、臣籍降嫁した後も、
体面の良い人々とだけ交流し、
無難に過ごすことを強制する世間体。

もう一方では、複雑な過去を背負った現実と、
不完全でありながら、自分の道を歩みたい気持ちとがある。

姑野次馬たちは、彼らの空気的定義による品格もどきを優先することを要求する。
従わなければ、黙殺ならぬ、騒殺とも呼べる批評争議を繰り広げる。

小さいミスに煩く、
大きな体系性に関わる指摘は「何様だ」で容易に弾圧する社会空気は、
細かいが、支離滅裂にも陥りやすい。

■極論まとめ

そう言う世間体の中、個別の時代の思い込みや慣習を超越して、
純粋本質を見極めるため、敢えて極論的に
皇室と皇族恋愛についてまとめてみる。

・皇室は、少なくとも国難や重要な居面の際に、
 天皇陛下が重要な決断ができれば、
 後は基本ご自由だ。
・皇族のご恋愛も、上記の通り、基本ご自由だ。
 敢えて、「一般論」または「一般傾向」を記載すれば、
 万世一系の国体護持に反しないことが考慮されている。

(続く↓)

3ぶらでぃ:2019/04/13(土) 21:39:08
(続き↓)
■王制

国体護持に対して、品格護持を強く主張するのが、
姑野次馬や、体面保守だが、
王制の大きな利点である、万世一系の国体護持が保障される限りの、
雄大な多様性と自由性の可能性が、まったく、またはほぼ考慮されていない。

要するに、
皇族の、しかも女性皇族の恋愛と言った、
極めて「内向的」な生活判断を敢えて評価する場合、
・万世一系の国体護持が
社会における本来的な唯一の正当な根拠であり、
その他は、たいがい与太話なり、暇つぶしでしかない。

内親王殿下に対する世間の評価が下がれば、
国体が危ぶまれると思うのならば、
問題は、この程度の恋愛話で、
国体なり皇室や宮家に根本的な疑義を呈するような世間の感性の方にある。

王制は万能薬でもなく、完全無欠である必要もない。
基本は、国全体が叡智を育み、最善を尽くすことであり、
その努力と理解が、皇室と適宜適所で共鳴すること。

■当面の実践論

小室氏とのご恋愛は、ご自由にされれば良いだけ。
臣民は、悠仁親王殿下が無事成長され、
次の世代が生まれることを祈りつつ、
様々な人々が生活し易い社会と、
世界で活躍できる国づくりを
それぞれの力量に応じて推し進めることが主務。

生活のし易さや、活躍のし易さを向上する意味でも、
共助共栄、そして多様な理解の精神を伸ばして行くことが重要となる。

そのためにも、学校教育の見直しが大きなポイントになるだろう。
社会における一連の枝葉末節騒動の大要因は、
日本の学校教育(とそれに連なる企業教育)にあると思う。
この点が是正されない限り、
路線から外れる多くの人々が犠牲になりつつ、
グレーゾーンに対する地道な前例作りを繰り返す他無い。

どうあがいても、社会の或る割合は、部分的には正当な正義や倫理観に依拠して、
姑野次馬や、枝葉リンチや、騒殺に加担し続けることになるだろう。
そう言った染まった人々は、善意の悪意から抜け難いことは目に見えている。

現実的には、
様々な「事件・事案・展開」を通じた偶発的な意識状況や変移を見守りつつ、
サイレント・マジョリティーや新世代と共に、
実存的な理解度とタフさ向上を、
草の根的にや、政策的に推進する他ないだろう。
少なくとも問題意識や、実存的な俯瞰力に基づいた方法の考え方を
共有する教育環境を求めたいところ。

以上///

4まむし連:2019/04/24(水) 19:32:57
一億総白痴化といわれたのは今から60年も前ですが、
白痴まで落ちてしまえば後は何になってもちょっとは進化したことになるのかねw
たとえば「一億総小姑」w
白痴よりはマシになったのかどうか、邪悪さではむしろさらに酷くなったのではないか?

相応しいとか相応しくないとか、自分より格上の方々に対して「批評」したり「感想」をいったりするのは自由ですが
なにか自分に善悪正邪を判定する権限があるかのように勘違いしてるアホが多い。
皇族には確かに、タレントやアイドル、芸能人のような側面はある。これを無いと言い張るのは虚偽の罪。
だがそれは本質ではない。そういう属性があるといってるにすぎない。
属性と本質をごっちゃにして、皇族を貶める発言と受け取るアホ保守もさぞかし多かろう、
たとえば「けしからん」の「ふさわしくない」のと偉そうに小姑風を吹かせてる連中がそうだよ。

今や小室直樹、小室哲哉、小室友里とならんで日本三大小室の一角をしめる小室くんですが
面白げな好青年じゃないか、ワッハッハ。と度量をみせるのがおっさんたる者のとるべき態度じゃないのか。

若い二人には幸せになってもらいたいが、この場合の幸せとは
「不幸をも自分の意志で選べる自由」のことだ。
誰に迷惑かけるでもないのに、迷惑などかかってない連中が「迷惑だ」といってる。
皇族は人気取りが仕事じゃない。正しく生きてみせることが仕事だ。
本人が幸せだろうが不幸だろうが、国民に迷惑だろうが、正しさを示す以上に尊いことはない。
正しさを見せつけられて怒るやつは、そいつが不正な生き方をしている衆愚だからだ。
国民すべてに愛される皇族というのはくだらない皇族である、なぜなら国民の多くは衆愚だから。
衆愚に媚びを売ることこそ、皇族の価値を貶める行為なのである。

本当は、天皇皇后両陛下も、秋篠宮後夫妻も、小室とくっついてもかまわないと思ってるだろう、
むろん、これは俺の忖度にすぎない。
両陛下、両親殿下は何に気遣ってるのか、それは国民感情に対してだろ。
いくら衆愚といっても国父、国母からみれば、ひとしく陛下の「赤子」(せきし)なのである。
出来が悪いからって我が子を見捨てる親はいない。
宸襟を悩ませ奉る不届き者とは、皇族をタレント扱いしてその結婚にまであれこれ騒ぎ立てる連中に他ならぬ。
(続く)

5まむし連:2019/04/24(水) 19:34:08
>>4 から続き

ここまでいっても「天皇や皇族のあるべき姿」を勝手に妄想してる連中はわかってくれないんだろう。
妄想だからこそ、人間性に反したむちゃくちゃな建前を押し付けて平然としてるからな。
現実離れしたシステムは必ずどこかにしわ寄せがいくが、それを歴代の皇族は無理して引き受けてきた。
もう限界だろう、こんなめちゃくちゃなやり方は。
人間性(人間のダメな部分も含む)に反してもいいと思うのはなぜかというと
つまりこいつらは神といった時、キリスト教のような一神教の神をイメージしてる。
本当は、「神である」ということは「人間性に反する」ということではない。
神と人は絶対的に相違しているのではない。段階的につながっているのだ。
神と人だけではなく、万物は段階的につながっているのだ。
なぜなら森羅万象は伊邪那岐・伊邪那美から生まれた兄弟姉妹なのだから。
人間は動物性を内在させた存在である。動物は植物性を、植物は鉱物性を内在させている。
存分に鉱物性を発揮した鉱物だけが、その鉱物性の上に加えて、奇跡的に植物性を示現する。
存分に植物性を発揮した植物だけが、その植物性の上に加えて、奇跡的に動物性を示現する。
存分に動物性を発揮した動物だけが、その動物性の上に加えて、奇跡的に人間性を示現する。
存分に人間性を発揮した人間だけが、その人間性の上に加えて、奇跡的に神性を示現する。
人間として人生が健全でなければ、その人は現人神(あらひとがみ)たりえない。
不自然な、人工的に歪められた精神に神は宿らない。
(続く)

6まむし連:2019/04/24(水) 19:34:59
>>5 から続き

なお、些末などうでもいいことであるが「持参金を辞退するなら小室と結婚してもいい」という意見が一部にある。
俺の考えは「もらえるもんなら遠慮なくもらっとけ」というのが若者にいうべきおっさんからのあるべきアドバイスと信じる。
本人が自分の心に照らして、もらうべきではないと信じるなら、辞退するも良し。
だが、ちゃっかりもらっちゃったとしても、それをガミガミいう老害には死んでもなりたくない。
「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい」
という丸大ハムのCMを知らないか?
「憎まれっ子でもいい。世に憚ってほしい」
それが、ひ弱な子をもった親のこころだろう。
真子様には、どうか、こんな糞な世の中と戦って、生きるに値する真の人生を示して
綺麗事と建前ばかりいう愚民どもの死んだ魚のような目を覚ましてほしい。
…まぁ、これも俺の夢だ。実際には、眞子様は敗れ、挫け、死んだも同然になるのかも知れない。
だが民に夢と希望を賜うのも皇族に生まれた者の宿命なのである。

人生経験浅く若い二人の儚い恋路をぶっつぶして、その後にどんな幸せがあるのか
その後の真子様は、どっかの「釣り合いのとれた」御大層な御曹司とくっつけられて
いかにも皇族でござんすという作られた笑顔をふりまくだろう。
それをみて本心から「良かった、良かった」っていうのか、おまえらエセ保守は?
俺は「明治維新以降、何度でも、いつまでも繰り返される皇族たちの不幸」を思う。

「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは」
「ますらをの悲しきいのち積み重ね積み重ね守る大和島根を」

国体を守るのに必要なのは「ますらをのいのち」であり「醜之御楯」である。
乙女の涙のはずがないだろう。
国体を守るのに生け贄は必要ない。生け贄を求める神は、すべて神をなのる悪魔なのである。
おまえらは天照大神にも皇祖皇宗にも仕えていない。
ただ、天皇陛下はじめ皇族の方々を無駄に苦しめているだけだ。

7ぶらでぃ:2019/04/26(金) 02:59:03
■判断論

格上格下と言う風に、
安易に上下関係に話しを持っていく必要は無いと思う。
役割なり、立場の違いがポイント。

判定する権限が無い、と言う話しをすると、
「お前もないだろ」と言う反応が予期される。
所謂世間派の精神性には、「何様」反論が根本的に染み付いている。

さまざまな感性の相対化の嵐の中、
安定的な基盤となり得る一般原則は、
「自由は可能な限り、制約は本当に必要なだけ」。

善悪正邪を判断評価する義は各自相応にある。
相手が或る意味・身分上格上だろうが格下だろうが関係ない。
問題は、判断評価の基準や発想、考慮の深み。

「勘違い」は、基準や方法論、
自分の思慮の深みに関する自己認識などにある。


■「正しく生きる」の意味合い

皇族の仕事または使命が、「正しく生きてみせること」かどうか。

天皇陛下の仕事は、祭政統治に(何らかの程度)向け、
正しい判断、判別を行い、下すことを追求すること。
その他皇族の仕事は、それぞれの権能に応じて、その使命を輔弼することや、
その使命遂行の上での(多様性も包摂する)環境づくりに適宜寄与すること。

正しく生きることは、本来、あらゆる善人が目指すべきこと。
「正しさ」と言うと、品格派からすれば、品格の良さ、
と言う風に誤解される恐れありそうでもある。

皇族は、人間一般の理想を、「一般人」以上に真摯に向き合い、
真摯に挑むことが、使命宿命。

皇族や、真理に生きる人々は、
いわゆる平均人より真摯に真理や正義や本質をベースに、
判断を考えるべき。

すなわち、正しく生きる上での、正しさの深み、またはその視野が違う、と言うこと。
一部か大分の世間一般の慣習や思い込みや通念に必ずしも縛られずに、
本質的な正しさを模索して、判断や行動をすることがポイント。

小室氏との結婚の問題での、本質的正義は、
小室氏と内親王殿下の間で話し合って判断するべき事柄だ、と言うこと。

(制度上の問題としては、内親王殿下が形式上、皇籍離脱するのが、
妥当かどうか、と言うトピックも一応ある。
が、形式上でも、離脱するなら、余計結婚選択は自由であるべきだろう。)

(続く↓)

8ぶらでぃ:2019/04/26(金) 02:59:43
(続き↓)

■「衆愚」ではない

>国民の多くは衆愚

「衆愚」と言うのは、無駄な誤解を生むだけだと思う。
国民の多くは、学校や家庭や企業環境のムラ的な影響に形成された、
生活環境や、小局的な体験や感性や視野に依拠して、
過剰に断罪的な判断や関心を、無闇に展開適用する傾向にある。

こう言った国民の多くは、賢かったり、善良だったり、働き者だったりする。
一日中、仕事でがんばって、仲間と遊び、家族と時間を過ごした、善良の市民。
そう言った市民が、騒殺黙殺に加担する。

衆愚ではないが、
根本的な方法論の問題があると思う。

■問題の理解

先輩・後輩、お互い様、何様、ボケ・ツッコミ、
身分と実存の混同、過剰な自己責任論、過剰な風貌統制、
こう言った日常的要素が、日常の秩序に寄与しつつ、
容易に誤謬や暴発に陥っている印象。

これらは学校教育に始まる、
家庭や企業環境の悪影響に依拠していると思う。

これら要素を分析して、
それぞれの由来を特定して、見直す必要がある。
一部は、たとえば、薩摩藩や、明治の軍隊文化によるものもあろう。

現代人は、時代錯誤や「昔」に対して否定的な割りには、
或る時代に起因や形成された慣習的な制約の、
「時代性・歴史性」についてきわめて関心や思慮が低い。

自分に都合の良い現状基準は、「変わらず」善であり、
都合の悪いものについては、「変わるもんだ」と言う。
後手後手。

具体的に考えたい。
たとえば、先輩・後輩は時系列上の事実以外に意味は無い。
その言葉を使う必要さえない。

すべての成人とも、年上年下であろうが、仮定上、敬意がベース。
年上に対しては加齢による一般的な苦労と知恵が敬意のベースであり、
年下に対しては一般的な挑戦、使命や、今後の苦労が敬意のベース。
相互的であるべき。

本質に依拠して、先ず、日本の学校文化を抜本的に見直すべき。/


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