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1
:
あ2
:2008/12/27(土) 10:14:33
lslpt6idbl9pc5i
z1fnx0qlutjltyw
一番最初にこの2体に連続で
勝った人は下の条件のペット作ります
1 レベル低め
2 追加技は二個
3 特殊遺伝は一個
これが条件です
28
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:28:30
自由について
自由について
現代人は、自由という言葉が好きだ。何かというと、すぐ、自由、自由と言いたがる。そして、自由になりたいと叫ぶ。しかし、どれだけの人が、自由の真の意味を知っているだろうか。
自由主義。自由経済。言論の自由。ちまたには、自由という言葉が氾濫している。現代社会では、自由といえば、たいがいのことが許されてしまう。それほど、自由という言葉には、現代社会において魔力がある。それなのに、どれだけの人が、自由の言葉の意味を明確に答えられるであろうか。結局、大多数の人は、自由という言葉を、自分勝手に解釈し、自分の都合のいいように、使っているのである。
自由とは、人間の生き方の本質に、関わる問題である。つまり、人生いかに、生きるべきかと言う、根元的な問題に、関わる重大な要素である。生き様の問題なのである。自由を間違って認識すると、人生そのものを間違ってしまう。そういう問題なのである。だからこそ、自由とは何かを、明らかにすることは、生きていく上で、避けて通れない重要な問題なのである。
自由と自在とを混同している者がいる。自在とは、対象を自分の意のままにすることである。そういう連中は、相手を自分の思い通りにすることが、自由だと思っている。しかし、相手を思い通りにしようとすれば、するほど相手に囚われていってしまう。人は、自分の肉体ですら、自分の思い通りにはできないものだ。思い通りにしようとすればするほど、不自由さを味わうことになるであろう。
欲望を解放することが、自由になることだと、錯覚している者がいる。しかしそれでは、欲望の奴隷になってしまい。かえって、不自由な思いをすることになるであろう。欲望に身を委ねれば、飢え、かつ、渇く。飢餓は、最も不自由なことだ。
人生には、限りがある。欲望には、限りがない。限りある者が、限りないものを支配しようとすれば、己を失ってしまう。自己を失ってしまったら自由などあり得ない。
つまり、これらの在り方は、自由に見えて、実は、自由の対極に位置するものだ。
自由を求めながら、自由とはまったく正反対の方向に進んでしまう。求めれば、求めるほど遠く離れていく。なんと不幸な生き方であろう。なぜ、このような間違った生き方を選択してしまうのか。それは、自由の真の意味を知らないからである。
自由という言葉の意味を、正しく理解していないと、自分の人生を誤るだけでなく、周囲の人間をも巻き添えにし、重大な過ちを、犯させてしまう危険性がある。なぜなら、自由の概念は、現代社会の基礎をなす概念であり、社会制度の隅々にまで浸透しており、現代人の価値観、行動規範の基幹をも、支配しているからである。つまり、自由という概念は、現代人の人生すべてを影響下にいれていると言っても過言ではないからである。
今や、自由という概念は、現代社会の根幹にまでなっている。自由主義国にとって自由は、その国家の国是にもなっている。それでありながら、自由という言葉の意味は、曖昧なままである。ここに、現代社会の重大な落とし穴が、潜んでいる。
私は、これから、自由の言葉の意味を、明らかにし、現代社会に潜む問題点を、解明していきたいと思う。
では、自由とは、何か。自由とは、先に、述べたように、自己を解放することである。そして結果的に、自由の帰結するところは、自己実現にいたる。自己実現は、意志と愛によって達成される。故に、自由は、主体的な意志と愛によって育まれる。このような自由とは、必然的に、自己中心の究極的な在り方を、意味することになる。自由は、自分自身の問題なのである。
故に、自由の意味を知るためには、まず、自己、すなわち、自分を、知る必要がある。自由に生きるためには、自分とは何か。自分のあり方を見つめ直す必要があるのである。
29
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:32:03
自己
海に思う。人間は、海を汚したと言う。しかし、海は海だ。人間は、自分達の住む世界を住みにくくしたにすぎない。自然は、人間にのみ都合よくできているわけでも、又、人間の為にのみ存在しているわけでもない。人間が、自然を正しく認識し、自分達の居場所をしっかり維持していかなければ、人間は自然界に居場所を失い、滅亡する事になるだろう。しかし、だからといって、自然を恨むのは筋が違う。それは自然界が悪いのではなく、人間自体の問題なのだ。それは、対象の問題ではなく、自分自身の問題だ。結局、人間は海を汚したのではなく、自分自身を汚したのにすぎないのである。
自然は人間に保護されるものでもなく、人間を保護するものでもない。自然は、ただ、あるがままに存在しているにすぎない。たとえ人類が滅んだとしても、自然の法則にどれ程の影響があるというのだろうか。ありはしない。自然は、人間が存在するずっと以前から、自身の法則で存在しづけている。だから、自然を保護するなど、人間の思いあがった発想にすぎない。我々は、自然界の中で生息する一つの種にすぎず、我々が生存しづける為には、自然を保護するといった思い上がった発想を捨て、自分達が生存していく為に必要な環境を自分達の努力で維持していかなければならないのである。
雑踏に思う。人の世は修羅だ。この身を動かすたびに、くもの糸のように衆生の義理や情けが、この身にまとわりついてはなれない。人の世の均衡は、綱渡りのようにあやうく、人の情けは、時の流れの前に、かなしい程はかないものである。
人間が人間として生きていこうとする時、まず、自分が自分であらねばならぬ。はりつめた緊張の中で、人間の精神は、時として耐えられなくなる。我が内なる狂気との戦い。それ故に、人は、助け合い、信じ合わずにはいられない。いられないのがわかっていながら、繰り返し訪れる孤独感と焦燥感に、人は、人を嫉み疑る。三日、人を信じ続ける事の難しさよ。悲しい事だ。弱いものだ。しかし、その弱さを認めてしまえば、狂気に身をゆだねる事になる。人は、自分と孤独との戦いの中で、人を信じ、助け合っていかなければならない。
寄せては返す波の音を聞くにつけ、闇に消えていく雑踏を見るにつけ、思う事は、所詮、すべては自分の在りように帰結するという事だ。
人の一生は、確かに誤謬に満ちている。振りかえってみれば、恥ずかしさに身がすくむ。それは、人の一生が確かめようのない時間の流れの中に過ぎ去ってしまうからだ。しかも未来はまだ未知に包まれている。わからない事ばかりだ。だから今、それが過ちであったのか否かも確かめようもない。しかし、それは許されない事だろうか。許されないのは、その行為ではなく、その心のありようだ。他人を許すのは、確かに難しい。しかし、それ以上に難しいのは、自分を許すことだ。大切なのは結果ではなく、自分がそれを信じていたか否かではないのだろうか。その為には、まず自分をみつめ、自分を知り、自分を正し、自分を信じ、自分を許す事が必要なのである。
30
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:33:19
自分とはなんなのか。それは、永遠のテーマである。
燈台下暗し。自分の事は、自分が一番知っているつもりで、実際には一番知らないのかもしれない。自分を客観的に見るという事は、たいそう難しい。自分の思惑や都合などが微妙に作用するからだ。第一、自分の顔は、鏡を通してしか見る事ができない。
他人に適切な指示を与える人間が、自分の事となると、どうもおかしい。よくある話である。
無理をしすぎて過労で倒れたり、ついつい甘えて我が儘になったりする。節制するにしろ、自儘にするにしろ、なかなか自分の事となると思うようにならない。度を過ごしたり、臆病になったりする。他人の欠点によく気がつくくせに、自分の欠点がわからない。本当の適不向きほ、当人が一番気がつきにくい。自分は、画が好きだからきっと画家に向いているのだと、手前味噌に思い込んだりする。ちょっと有名になると天下をとったょうな気になる。傍目からみると笑止千万な事だろう。
自分を知るというのは、なかなかむずかしい。それでいながら、自分を知っているつもりになって、我をはり失敗をする。御し難きは自己なり。自分で自分の事を知ろうと思うのなら、他人の意見を聞くのが賢明だ。時には、相手の意見に素直に従う事も必要である。聞く耳を持たぬ者は、成長しない。
自己は、すべての基礎である。まず、為さなければならない事は、自己を知る事である。自己を明らかにするという事は、あらゆる対象に対する自己の分析や考察に根拠を与え、新たな社会に対する構想を形作る為に、不可欠な事である。ひいては、それが自分の論点を明らかにする。
仮に、分析が分析のための分析であるならば、自己を知る必要はないであろう。又、研究が自分の見栄や名誉欲を満たす為にのみ存在するのならば、それも又、然りである。
しかし、分析も研究も自己満足の手段として存在するのではない。現実の苦悩や矛盾を発許かでもやわらげ、解消する手段として存在するのである。分析の為の分析、自己満足の為の研究をする者は、好きな女を前に、自慰に耽る男のようなものだ。それは、欺瞞である。
我々が対象に取り組む時、常に、自己の視点、その時点における自己の目的を確認しなければならない。
思いやりは、相手が思いやりなんだと感じた時、成立する。これが思いやりなんだという、思いやりはない。どちらも、自己本来の目的を見失った事からくる錯覚にすぎない。
31
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:34:18
思いやりは、相手が思いやりなんだと感じた時、成立する。これが思いやりなんだという、思いやりはない。どちらも、自己本来の目的を見失った事からくる錯覚にすぎない。
32
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:34:54
自己の視点をそのつど確認していくためには、自己の目的や視点に、全体に通ずる一貰性がなければならない。隣接した行為、連続した判断上になんらかの一貫性がなければ、事実上、判断不能状態に陥る。その人の価値体系内部に矛盾が存在する事を意味するからである。自己の目的や視点に一貫性をもたせるためには、すなわち、自己を明らかにしなければならない。
自己は、哲学上における基本原理の一つである。それでありながら、自己は、哲学上における一つの盲点であったように思われる。それは、自己が主体的存在であり、常に主観の影響下におかれている事に原因している。しかし自己の問題は、現代社会において最も基幹的な原理の一つであり、それだけに、自己の定義があいまいなままでは、現代社会で進行している諸々の矛盾は解決されない。
人間の思惟は、常に私的領域の内で為される。故に、思惟は主観的なものである。客観的思惟というものは存在しない。対象を認識するにしても、つまりは、自分がするのであって、他人が自分に代わって認識してくれるのではない。同様に、すべての行動は自分の判断に委ねられている。自己を知るという事は、すなわち、すべての認識や行為の原因を知る事である。価値観だの、動機だのといったものは、すべて、自己に帰困している。
対象の意味は、対象自体が有しているのではなく、認識君者側の都合、つまり自己の便宜上から生ずる。ある対象を木製家具と呼ぼうが机と呼ぽうが、デスクと呼ばうが、それは、人間の必要性から生じるものであって、対象自体には、なんら関係ない。
33
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:35:49
あらゆる対象に対する認識や判断は、自己の領域内にある。故に、自己をいかに把握するかという事は、自己の対象に対する処し方、つまり、その人間のその後の在り方、生き方を運命づける事になる。
自己中心の思想は、利己主義と個人主義に大別できる。利己主義と個人主義の錯誤が個人主義社会における混乱の原因である。利己主義と個人主義は本質的に違う。このことは、明記しておかなければならない。
利己主義と個人主義の差は、自己をどのように位置づけるかによって生じる。つまり、自己の視点をどこに定めるかである。利己主義は、自己認識上における自己倒錯によって生じる。
自己を認識する際に注意しなければならないのは、身勝手な形で自己をとらえずに、自己の実像になるべく接近しようと努力する事である。
身勝手に、又、自分の都合を先行させた形で自己をとらえる事、つまり、自分の醜さ脆さを無視したり、自分の気にいる事にばかり目を向けて、気に入らないからといって、存在にする事は、すなわち利己的である。
自己を知るというのは、自己と対象との間の関係を知るという事である。故に、自己と対象との間のやりとりが、そこには常に存在しなければならない。手前勝手で、一方的に自己をとらえようとする事は、無意味である。
34
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:36:27
自分にのみ都合よく対象をとらえようとする利己的な自己のとらえ方は、自己の実像から自分を遠ざける。その意味において、利己的なものの考え方は、自分にとっても対象にとっても、たいそう危険な考え方である。相手を理解しようという努力をしないで、相手を理解したつもりになるのは、相手を理解しない事よりももっと残酷な事だ。況や、それ以上に、これが自分の事ならば、尚、残酷だ。利己主義とは、そんな残酷な思想である。
第一部は、自己を定義すると同時に、自己とのかかわりあいを通して、個人主義と利己主義を区別する目的で書かれた。第一章「自己」は、自己を定義する。第二章「意志の構造」は、自己の定義に基づいて、自己から派生する諾々な問題に対する説明、および個人主義と利己主義の区分を挙げて明らかにする。第三章「自由」は、自由の定義および構造を明らかにする。 学者や研究者が自己主張してはならないというのは、大きな間違いだ。学習や研究の成果は、主観的思惟の産物である。むしろ、学者や研究者は、大いに自己主張すべきである。自己主張をする故に、それが、客観的な研究対象になりうるのである。主観的でない、客観的研究という事自体背理であり、問題の焦点をばかす原因となる。自分の研究に対して自信のない老がいう世迷い言である。
35
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:37:13
思惟の大部分は創作である。読書にせよ、研究・学問にせょ、そのほとんどが創作である。つまり、自己主張である。
対象をいかに受け入れていくかは、対象自体よりも受け入れ側の問題の方が大きい。すなわち、いかにそれを受け入れるかは、受け入れ側の創作である部分が大きい。本を読むという事は、本から知識を得る事よりも、本によって考えさせられるといった方が重大なのである。最終的には、自分で考え、選択をし、判断を下している。
36
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:37:54
ただ、自己主張が対象を無視してなされるのならば問題だ。率直にいえば、対象を認識する事によって自己主張がなされるのであり、対象を無視してしまえば、ただ単なる我我が儘である。いかに利己的にならず自己を主張するか、それは、その人の姿勢によるのである。
37
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:38:58
回転する宇宙。鏡に映る姿。生まれるもの、消えるもの。時間、時間、時間・・・。
一方に死を対置し、生を思う。それは、自分を見つめる為には、有効な手段である。死は、人間から虚飾をはぎとり、鮮烈にさせる。死という事実から、人間は逃れえない。死は、人間を透明にし、自分自身に対して正直にさせる。死は絶望と同時に、赤裸々に自分を自分に回帰させ、生命を感じさせる。死を知る事、それは、自分が生きている事を知る事である。それ故に、自分を知ろうと欲する時、死を直視する事、それは、自分を知るための有効な手段である。
38
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:42:12
自己
自由であるか否かは、自己が行為によって表わす内面の動機と、自己がその行為を表わす場としての外界とのかかわりあい方によって問われる問題である。つまり、行為として表わされた動機が、外界の諸条件に、どこまで許容されていくかの限度によって、人間の自由度は判断される。そして、自己は、行為として表現される内面の動機の究極的な原因であるから、我々が自由について語ろうとした場合、まず、自己の定義をしなければならない。そこで、本章においては、自己の定義をする事にする。
自己とは、第一に、あらゆる行為の主体である。第二に、自己は認識主体である。第三に、自己は存在前提であり、認識前提である。第四に、自己は間接的認識対象である。第五に、自己は観念的、精神的存在である。
39
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:42:50
自己は存在である。肉体は、媒体に過ぎない。自己と肉体とを混同してはならない。
自己は、あらゆる行為の主体である。つまり、すべての行為の発動困でありかつ、主動体、主現体である。又、あらゆる対象に対する認識主体であり、そして、地上における唯一の主体である。
すべての行為の発動因とは、あらゆる行為の終極的原因である事を意味し、又、主動体とは、あらゆる行為の決定主、行動主を意味する。決定主、行動主とは、自己が、その存在を自己の肉体の運動を通して、外界へ表現していく際、その運動を実行し、制御していく内的実体を意味し、又、主現体とは、自己の存在を体現できる、つまり自己の存在を自己の肉体を通して、外的対象が認知できるように体現化、実体化していく事の可能な存在を意味する。又、認識主体とは、対象認識上において、最終的に対象を認知、識別する内的実体を意味する。そして、このような主体的存在は、自己以外に存在しない。
それが、いかなる外的要因に誘発、触発されたものでも、行為を直接発動させるのは、自己である。外的対象や現象を認知、識別するのは、他ならぬ自己だからである。
人に出会い、恋をし、愛に目ざめ、愛を知り、その想いを告白し、表現する。そのすべては、誰でもない自分自身が、自分自身でやらなければならない。他人がいくら食事をしようと、自分の腹が一杯になるわけではないし、又、人がいかにすすめたところで、いやなものはいやだ。親がいくら気に入ろうとも、周囲の人間がいくら褒めようと、愛せない人もいれば、逆に周囲の人にいくら反対されても、好きでたまらない人もいる。そうした行為や想いは、他の人に代わってもらうわけにはいかない。周囲の目を気にしているうちは、本当の愛などわかるはずがない。結婚という形式が、愛を保証してくれるわけではない。やむにやまれぬ情が、自分をしてそうせしむるのである。好きになるという事は、身も蓋もなくなる事なのである。そして、自分の幸福は、自分の努力によって、自分の手で掴むものなのである。なぜなら、人間の行為が、すべて自己に根ざしており、自己は本来、主体存在だからである。
40
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:43:27
対象を認識し、最終的に識別するのは自己である。認識主体とは、対象を知覚、認識、識別し、これを記憶する究極的な内的実体である。ただし、自己は、知識や価値観、記憶した内容を意味するのではなく、そういったものを実際に形成したり、実行していく実体をさすものである。この点、混同しないよう注意してもらいたい。
対象認識は、常に自己を基本単位としてなされる。故に、公式的な価値観や認識は自己の価値観の総和にすぎず、常に、相対的なものである。なぜなら、対象認識は、認識主体の相対的位置によって変化するものであり、それを絶対的位置に置きかえる事が不可能だからである。
つまり、ある任意な対象を認識する際、一定の視点から対象の総体を認識する事はできず、どうしても視点をずらさなければならない。固定した視点によって対象を識別できるといった絶対的な位置がない以上、認識は相対的なものとならざるをえない。そして、認識が相対的である以上、それから派生する価値観も相対的なものとなる。それ故に、人間の生み出した科学は、相対的なものである。
ただし、対象が相対的だというのではなく認識が相対的だといっているのであり、誤解しないで欲しい。この事は、後に、くわしく述べたいと思う。
すべての行為の根底には、自己が存在する。そして、すべての行弟は、自己の存在を証明する。考える為に、自己が存在するのではなく、考える故に、自己が存在するのである。食べる為に、自己が存在するのではなく、自己が存在するから食べるのである。自己の存在は、存在それ自体が自明なのであり、他の目的の為に、存在自体が意味づけられるわけではない。行為は、その存在を証明するにすぎない。行為が、自己の存在自体を定義づける事はない。
41
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:44:03
すべての行為は、自明な自己を前提として主体的に為されるものであり、すべての対象認識は、自己を前提としたものである。そして、あらゆる目的や目標は、自己の存在を前提として、自己の内的動機より発せられ、行為によって実現される。それ故に、自己はあらゆる存在に優先され、行為は自己の存在を立証する。
いかなる価値判断や意思決定も、判断や決定の主体、主人である決定主を前提とし、行動における主体、主人である行動主を前提とする。自己を表現しうるのは、自己をおいて他には存在しない。このような自己の存在は、死後の世界の有無とはかかわりあいなく、死という現実をもっても否定できない。
自由とは、このような自己の主体性に依拠した概念であり、そして、自由の重大性は、自由の喪失が、すなわち、自己の喪失に繋がるからに他ならない。故に、自由を確立するとは、自己の主体性を確立維持する事であり、生命を賭けてまで由由の為に戦うのは、それが、生きる事の唯一の証だからである。
望む、望まないは別にして、自己の行為は、自己の判断に行きつく。自分が行なった事は、たとえ人の指示、命令に従った事であっても、結局、自分の判断にもとづく。脅迫や圧力に屈し、本意ならざる事をしたとしても、それによっても、だからといって自己の行為を正当化するわけにはいかない。自己の意志に背いた場合、人は、その負い目に一生、悩まされつづけるだろう。そして、その苦しみから逃れる唯一の手段は、自由をとりもどす以外にはない。なぜなら、死という現実ですら、自己の存在を否定できないからである。
自己は、認識主体であると同時に、間接的認識対象である。
主体存在である自己は、そのままでは客観的認識対象、もしくは直接的認識対象とはなりえな自己の対象認知は、必ずしも、なんらかの媒介を必要とするとはかぎらないが、自己認知は、なんらかの媒介物を必要とする。
42
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:44:54
自分の顔を、自分の目で直接見る事はできない。自分の顔を鏡に映して、一旦、自分の顔を対象化しなければならない。このような自己と媒介物との関係を鏡像関係という。
自己を認識するとは、認識するという主体作用と、認識されるという対象作用を、同一の存在が行なう事を意味する。このように、するという主体作用と、されるという対象作用が、同一の存在において、同時におこる現象を、認識における作用反作用という。
自己は、観念的、精神的存在であって、物質的実体をもたない。肉体と自己は別のものであって、同一視してはならない。故に、自己認知において、肉体も、一つの媒介物にすぎないのである。又、同様に、価値観や知識のようなものも、自己と同一視してはならない。
自己とは、あくまでも自己の存在そのもののみをさすのであって、自己の存在から附帯的に派生する価値観や知識、肉体とは区別しておかなければならない。それ故に、自己は時間の経過とは無関係に、そして、外界から独立して存在する事が可能なのであり、絶対的な存在なのである。
価値観や知識、肉体は、確かに時間とともに変化する。それ故に、相対的なのである。 しかし、自己の存在は、価値観や知識、肉体が変化しょうとも変わらない。人間は死ぬまで生きているのであり、死後、自己が喪失するか否かは証明するすべもなく、今、現に、自己が存在する以上、それを問題にするのは無意味だ。
自己は、今、存在するのであり、過去は、自己の軌跡にすぎず、未来は、不確実な推測の域を脱しはしない。生きている人間は、まだ死んではいないのである。
43
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:45:28
人間は今、確実な事実にもとづいて、もっともよいあり方を考えるべきだ。あいまいな事柄に論拠を置けば、確実な事まで、あいまいにしてしまう。自己の軌跡である過去にとらわれて、現実の自己を見失ってはいけないし、不確かな未来におびえて、自己の信念をまげてはいけない。我々に、今、確かな事は、自分が生きているという事実であり、過去も、未来も、今、自分がいかなる姿であるべきかを知るうえでのみ必要なのである。そして、そこには生もなく死もなく、善悪もなく、過去も現在もない。唯一で、絶対なるものが存在するのみである。
このような自己存在の絶対性は、存在の絶対認識を生む。しかし、存在の絶対認識だけでは対象を識別できない。故に、自己は任意の体系を選定し、存在を相対化する事によって対象化し、対象を識別する。そして、一旦、存在を相対化すると、絶対認識は認識の前提となり、潜在化し、やがて忘れられていく。そして、人間の思考は任意の体系による識別と、論理の組み立てが主となり、自己と存在の絶対性は、その体系から失われていく。又、自己は、主体である故に生命とか魂や霊といったもののように、客体化、物質化しうるものでもなく、又、一般化もできない。自己存在はあくまでも、観念的で特定されるものでなくてはならない。故に、肉体のように客体化されたものの有無や、相対化された体系によって否定されたり、干渉されたりするものではない。自己存在は、存在自体で完結しているのである。
44
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:47:29
意志の構造
心に思っているだけではだめ、決心しなければ。決心しただけではだめ、口にださなければ。口に出しただけではだめ、態度で示さなければ。態度で示しただけではだめ、相手の気持ちを確かめなければ。そして、心に思わなければだめ。
それは意志の問題だ。自由であるか否か。それは、あなたの意志の問題だ。
人を好きになるにせよ、旅に出るにせよ、仕事を選ぶにせよ、そう、自分の生き様、在り方を決めるのは、あなたの意志の問題だ。そして、それは、自己中心の問題だ。
個人主義も利己主義も、自己中心の思想である。その意味において、個人主義と利己主義は、同腹の兄弟のようなものだ。しかし、両者には本質的な差がある。そして、その差が一方には善と意志を、一方には悪と欲望とを人間にもたらす。
個人主義と利己主義は、表裏をなす思想である。故に、その表現されたものは、よく近似しており、一見しただけでは見わけがつかない場合が多い。
又、社会が複雑化し、価値観が多様化した今日、個人主義との境目が益々不明瞭となり、混乱が増幅されてきた。
しかも、利己主義は同じ自己中心思想である個人主義を隠れ蓑とする場合が多く、その為に個人主義の普及は、利己主義の蔓延を結果的にもたらした。故に、高度に発達した個人主義社会は、同時に、高度に発達した利己主義社会であるという矛盾を現出せしめたのである。ここに現代社会の病根がある。
個人主義と利己主義の差を明確にする事、それが、すなわち健全な社会の発展を約束するものなのである。
45
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:48:34
自覚と自我
個人主義が、自己善や意志の追求によって自己の人格形成を目的としているのに対し、利己主義は、自己の欲望や快楽を追求する事によって、現世的利益、即物的利益を目的としている。
個人主義が、より普遍的で、善的なものに自己の存在の根拠を求めるのに対し、利己主義は、あくまでも快楽的で、刹那的なものに、自己の存在の根拠を見いだそうとする。
つまり、利己主義は、狭視野な自己が生みだした、精神的奇型児なのである。
では、利己主義は、どのようにして派生するのであろうか。
利己主義が派生する土壌は、自己の生命の保全というような、消極的な原因にすべてを帰すベきではない。むしろ、生命の保全という点からすると、反対の結果を招く場合が少なくない。利己主義は、自己と他との区別を不明瞭なものにし、又、自己と他との関係を歪め、結果的に自己を孤立させ、その生存を危うくする。利己主義は、即物的で、刹那的であるが故に、自己を破滅させる原因とはなっても、自己の生命を救済するものになりえないのである。
このような利己主義の危険性は、広く知れわたっている。それでありながら、利己主義には、一種人をひきつける、麻薬のような作用があり、破滅するとわかっていながら、多くの人間が利己主義のとりことなって、堕落してきた。
その事を考えると、自己の生命の保全は利己主義を生み出す一因かもしれないが、それ以上に 積極的な要因が、その影で働いているように思われる。
利己主義は、すぐれた人格をもち、強固な意志と信念に裏打ちされたような人物でも、功成り名遂げたような人間ですら、逃れる事ができない。否、むしろ、栄達した人間程、利己主義的な 考え方に囚われていく、そんな業ともいえる要因が、利己主義には潜んでいる。
人間の偉大な業績の背後には、利己主義の見えざる落し穴がある。個人主義と利己主義が不可分なうちは、時として、善が悪となり、意志が欲望となる。我々は、この事をよく理解し、自己の善を正しくとらえねばならない。
46
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:49:39
自信と我執
自信を持って堂々と生きていきたいと思う。しかし、人の一生は迷いの連続であり、未来に確信を持てるものなどなにもありはしない。はやい話、明日の命すらわからない。自信をもって生きるという事はむずかしい。
しかし、自信がなければ生きていく勇気もわかないし、未来への希望も持てない。だいたい、敗戦国たる日本人は、人間としての自信ばかりか、日本人としての自信をも失っているのではないだろうか。
人間が、未来に向かって自由になるには、自信が必要である。人間、自信を失うと、他人のいいなりになったり、妄執の虜になったり、自己の主体性を失ったりする。
ならば、自信をもつとは、いったいどんな事をいうのであろうか。この節では自信について考えてみたいと思う。
47
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:50:30
善と悪
個人主義は、善悪の境を不明瞭にしたというが、私は逆だと思う。確かに、個人主義は紋切り型の倫理観を否定する事によって成立してきた。しかし、それは、既成の価値観を否定する事によって個人相互の価値観を育成する目的においてである。それまで公共の占有物であった道徳観を、各個人一人一人に解放したのである。つまり、以前は、自分の与かり知らぬ所で既に決められている価値観を唯一方的に強制され、それに拘束させられていた個人を、各自それぞれの経験や知識に基づいて新たな価値観を創造する事によって、より自由なものに解放したのである。それが近代と近代以前の善悪の在り方の大きな相違である。
個人主義的な善悪で一番問題なのは、自己が善悪を知り得るか否かである。そして、それが個人主義的社会においては、一人前の社会人であるか否かの基準にもなる。故に、個人主義的な社会では、個々の価値観よりも、その人間の創造力の方がょり重大問題なのである。仮に、善悪の判断が曖妹だと思うのならば、それは、その当人の価値観が甘いのであって、個人主義が善悪の境を曖殊にしているからではない。むしろ、個人主義的なとらえ方の方が善悪の差をより明瞭に捉える。
近代の歴史は、近代以前の古い倫理観の崩壊と、それに替わる新たな倫理観が形成されていく過程の歴史でもある。だが、それはまだ過程である。過程である為に、善悪に対する見解は不統一である。その為に、諸々の矛盾が生じる。
本節の目的は、善悪の定義を明確にする事によって、それらの矛盾を解消するところにある。
48
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:51:54
善
あらゆる価値基準も、自己の存在に依存している。自己の存在を前提としないかぎり、すべての価値基準も存在しえない。いかなる価値基準も、自己が外界に対し主体的にかかわっていく過程で生じ、又、発展していく。故に、本来、善とは、自己善をさしていう。
自己善とは、自己の内部にあって自己固有の善である。倫理とは、自己の行動規範で、善と悪との基準である。善とは、積極的に行うべき基準、是認されるべき基準であり、悪とは、抑止されるべき基準、否定されるべき基準である。この様な自己善は、絶対的規範ではなく、相対的規範である。
他者善、又、公共の善は、観念的に存在しえても、実際には存在しえない。なぜならば、自己は、自己以外にはなりえない存在だからである。
社会は、こうした自己善と自己善の葛藤の場であり、それ故に、人間が社会を形成する為には、暗黙であろうとなかろうと、社会を形成する構成員全員の合意に基づく法が必要となる。そこから、契約が生じる。
法や教育、道穂、神は、このような社会の要請によって生じたのである。
法や教育、道徳、神が、この本来の役割を失うと、法や教育、道穂、神といった社会の中で自己善を保護しなければならないものが、かえって、自己善を圧迫し、自己の主体性を破壊するものとなる。
まず、自分が正しいと信じられる事、それが大切なのだ。自分が正しい信じられない事を強要された時、自己と善との一体感が損なわれる。その時、自己の主体性は分裂し、罪悪感が生じる。倫理的規範と行動規範が分裂するのだ。自己の絶対性、神聖が汚されるのである。
善は、最初、学習によって形成される。善の原型は、幼児期の経験、教育、環境と、その人がもって生まれた性格や肉体的特徴を素に形作られる。このように形成された善は、さらに外界とのかかわりあいによってより洗練される。つまり、善は、年齢とともに変化成長するのである。
戦争や亡国、抑圧といった異常な事態によって善が断絶、又は、分割されると、極端な場合、人格の破綻や分裂を引きおこす事もある。
よく言われる事であるが、自己の善と他者の善は違う、人それぞれ個性がある。故に、本当の善というものを、自分は、はっきりと言明できないという意見がある。だが、その言い分には明らかに矛盾がある。人間にとって善や美といった価値判断や価値基準は、自己に根ざしているものである。つまり、自己内部にしかない。外部から強制されるような善というものは存在しないし、又、存在しえない。自己の善と他者の善との問には、直接的関係はない。自己にとっての善は、他者にとっての善とは違う。たとえ、他者がどのように言おうとも、善を必ずしも一致させる必要はない。仮に、相互の善を一致させる必要が生じたとしても、それは協議に基づいてなされるべきであり、一方的な強要によってなされるべきではない。誰がなんと言おうとも美しくないものを美しいという必要はない。又、自分が納得のいかない事を正しいと言う必要もない。必要もないのに善や美を統一しようとして、あえて事を構える必要もない。正しいと信ずる事を言ぅのに、臆する必要はないのである。後は、必要性の問題である。
49
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:53:36
自己にとっての善とは、自己がいかに在るべきかという点にある。つまり、自己にとって最も望ましい人間の在り方が善である。このような善に対して、他者がこうあるべきだと示唆する事はできても指示する事はできない。善は自己の在り方を規定するものである。自己の在り方を規定する事のできる存在は、自己以外にない。
善は、自己の在り方を規定し、自己が判断をする際の基準であるから、善を他者に掌握される事は、その対象への隷属を意味する。他者への隷属は、自己否定であり、自己の独立への重大なる侵犯である。故に、他者への隷属は、自己の主体性の喪失を結果的に招くものである。
善悪、美醜といった判断程、自己の独立性を如実に物語っているものはあるまい。他人が美しいと感じる対象が、必ずしも自分にとっても美しい対象だとはかぎらない。善悪にしろ美醜にしろ、多分にその判断は、個人の経験や嗜好に左右される。それでも、自分にとっての美とは、自分が美しいとするものであり、誰が何と言おうと、美しいと感じさせた対象は断じて美しいのである。同様に、自分が正しいと思う事は、絶対に正しいのである。
善を知るとは、おのれを知る事である。自己の真の姿、要求を知る事である。おのれを知らぬ者は、善を知りえない。自己を知る為には、自覚せねばならない。自覚をする事によって、善は段々に明らかになる。善が明らかになる程、自信は深まる。又、自己が対象との関係の中で認識されるものであるから、善も又、対象との関係の中で認識されるものでなければならない。このように、善は、唯、闇雲に自分が正しいと思ったからやったまでだといった言い分を許すものではない。自覚をせずに、自己のなんたるかを悟らぬ者は、善を語る事はできない。善は、純粋に自己の欲求を反映したものでなければならない。本当に、自分が正しいと信ずる事ができてはじめて、それを善と呼べるのである。故に、開き直りや現実への妥協を、善は許すものではなく、自己に対する厳格さを各人に求めるものである。
50
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:54:17
善は、それまでの経験や教育といった外的環境からの作用によって醸造される。善に基づいた行動に対する外界からの反応が、自己内部に還元されて、善を修正していく。環境は、微妙な影響を善に及ぼす。それは、自己が間接的認識対象であり、善が、自家醸造的に形成されるのではなく、外界からの反応に基づいて構成されているからである。善を構成していく過程は、自己を知っていく過程でもある。それ故に、善は、自己の行動に対する厳しい批判を浴びる事によって、完成されていくものである。
自己は、絶対的な存在であるが、善は、相対的なものである。善は、外的環境の影響下で構成されていく体系であるから、当然、外界の変化に影響を受けて変化する。故に、相対的である。ものの善し悪しにも、時と場所と場合がある。育ってきた環境やその人間の置かれている状況によって、その人間の判断の基準は、微妙に変わってくる。社会が変動している中で、普遍的な善を規定する事は、実質的に不可能である。又、そのような事をすれば、状況に応じた判断が下せなくなる危険性がある。又、新たな発見は、それまでの価値観を大幅に変えてしまう。善は、以前考えられていたょうな普遍的なものではなく、相対的なものである。だからといって、結果論的に自己の行動を正当化するようなものを善と呼ぶのではない。善は、あくまでも望ましい在り方を体系化したものであり、判断の基準となるものである。そこにあるのは安直な情否定や現実への妥協ではなく、前進的なものであり、状況を越えようとして構成されていくものである。故に、善は、自己に対する徹底した探究を自己に課するものである。
善は、自己が生み出すものである。自己の生み出すものは、不完全かつ相対的なものである。故に、善も不完全かつ相対的なものである。自己の主体性は絶対なものであるが、自己が生み出すものは、たとえば、善だの美だの目的などは不完全であり、相対的である。それは、自己の対象認識が不完全だからである。善や美や目的は、状況に応じて変化する。故に、善や芙や目的を絶対視するのは間違いである。善や美や目的は、不完全な認識に基づいて形成されるからである。故に、そのような善や美や目的に対する判断は、自己一人の判断に頼らず、第三者の意見を充分に参考にすべきである。
善は、構造的である。構造とは、いくつかの部分、又は要素が、作用もしくは運命、目的の内の一つを共有する事こよって相互が連繋されている集合体をさす。善は、各要素が自己の在り方を規定するという目的によって、強く結びつけられている一つの体系である。故に、善は、構造の全条件を満たしている。構造に関しては、くわしくは次の部に述べる事にしてここでは省略する。
51
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:54:49
なぜ、公共に善が存在しないのか。存在しては困るからだ。公共の役割は、個人の身分ならびに生命の保証を前提とし、共通の利益の追求と利害の調整を目的とした構造に限定した方がいい。公共は、自己を超越した所に存在する。仮に、公共の善と自己が対立した場合、公共の善によって自己の善が抑圧される公算が大きいからだ。よしんば、自己の善が抑圧されなくとも、それは同時に公共に対する抵抗を意味するからだ。又、公共の善は、善の持つ厳格さを不当に和らげ、その行動を不必要に増幅する作用があるからだ。現に、戦争等において、適当な理由をつけて暴力を正当化し、他民族や個人を暴力によって支配、侵略し、掠奪残虐のかぎりを許した過去がある。仮に、暴力が許されるとしたらそれは、抵抗か防衛においてのみだ。公共において正当化する事は、免罪符を持った行為に錯覚させる危険性がある。それでなくとも、善が二つあるのは、よろしくない。善は、やはり一つに統一すべきである。善が公共に還元された場合、自己の善が不当に抑圧され、結果において自己の善を空文化させる危険性が大きい。それは、公共への自己の隷属である。隷属関係は、自己の主体性によって抵抗される。隷属関係の存在する社会は、統制できない。これでは、公共の目的を逸脱する。自己は、自己の善によって規制させた方が統制しやすい。公共の利害に反した者だけ罰すればいいのである。故に、公共は機構に自己は善に還元させるべきである。
その際に、自己の善と対象の反応は、作用反作用の関係にある事を忘れてはならない。暴力を善とするものは、対象から暴力を以て迎えられるという事である。そこに、自己の責任性がある。
美とは、感覚的な自己善である。自己善を体系的に論証したものが思想であり、具体的な像としてとらえたものが理想である。学問は真理を探究するものであり、芸術は真理を表現するものである。学問や芸術から真理の二字を除いてしまったら、学問も芸術も成立しない。故に、思想と学問は善的であり理想と芸術は美的である。
人間は、善に基づいて生きるべきだ。見せ掛けの華やかさに惑わされてはいけない。善は、本当の意味で人間を強くする。それは、自分で自分の事が信じられるからだ。本当の喜びを喜びとし、本当の悲しみを悲しみとする。それが人間の在るべき姿だ。それは、善を善とし、悪を悪とする事ができた時、達成できるのだ。
52
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:55:36
人間は、善に基づいて生きるべきだ。見せ掛けの華やかさに惑わされてはいけない。善は、本当の意味で人間を強くする。それは、自分で自分の事が信じられるからだ。本当の喜びを喜びとし、本当の悲しみを悲しみとする。それが人間の在るべき姿だ。それは、善を善とし、悪を悪とする事ができた時、達成できるのだ。
53
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:56:08
悪
悪は、善の逆の意味だと簡単に規定する事はできない。悪は、もっと複雑な意味を持っている。私は、悪を善を阻害するものと定義する。善を知るとは、自己を知る事である。自己の真の姿、真の要求を知る事である。自己に対する認識は、外界に依存している。自己の要求や姿も外界の反映像を受けて構成される。外界が歪んでいたのでは、自己の真の姿や真の要求を知るのは困難な事である。種々の要素が複雑に絡んでいる現代に、自己の真の姿をつかむのは神技にちかい。善は、自己の反映像の変化を受けて微妙に変化する。当然、健全な環境は、健全な善を生み、不健全な環境は、不健全な善を生む。不健全な善とは、すなわち悪である。又、自己の真の姿を歪めて反映する環境や対象も悪である。悪とは、自己の内外部に関係なく、自己を惑わし、誤った方向に自己をいかしむるものをいう。
外界を歪めるのは、人為である。又、外界を是正するのも人為である。人為というからには、自己も含まれる。人為が、なぜ、外界を歪めるのか。それは、自己の認識が不完全だからである。しかも、自己に対する認識は、自己が間接的認識対象であるから、二重に不完全になる。不完全さは、必ず悪を生み出す。このような社会の歪みは、不完全な社会を破壊して、新たな人為を生み出す。こうして、人間の社会は、完全なものに近づいていく。人為とは、つまり、人間の創造である。故に、悪は、人間の作り出したものである。悪は、人種差別、階級、富の不均等等といった人間の関係のあるものである。そして、そのような悪は、新たな人間の創造によって克服されなければならない。
54
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:56:41
悪を知らぬ者を罰する事はできない。なぜなら、彼は悪を熟したと思っていないからだ。善悪を知らぬ者は、賞罰に怯える。なぜなら、彼にとって、賞罰が善悪に代わる価値基準だからである。悪を正すとは、悪を知る者にのみあてはまる。悪を知らぬ者には、悪を正しようがない。善悪を知らぬ者に賞罰を与えるのほ無意味である。与えられた賞罰を量る基準を持たないからである。故に、悪を正す前に、悪を知らしめなければならない。罰せられなかったから正しいのだという考え方を捨てさせるべきである。善悪を知らぬ者を成人として、社会人として扱う事はできない。善悪を知らぬ者は、自己の行動を律する事ができないからである。自己の行動を律する事ができなければ、社会の中で協調して行動する事ができない。故に、善悪を知らぬ者を成人として社会人として認める事はできないのである。
人種差別、階級、富の不均等といった不平等は、人間に対する不当な抑圧を強いる事や社会に不健全な階層をつける事によって、自己に対する認識を惑わす原因である。故に、不平等は悪である。対象界には、不平等はない。人間の体の中で、優れた場所、劣った場所といった区別はない。動物に、上等な動物、下等な動物といった区別はない。区別を生じさせるのは認識君側である。差別は、さしたる根拠もなく人を隔て、人と人との健全な関係を断つものである。人間を不必要に分かち、人間社会に不当な階層を創る者は、認識上の作用反作用の関係から、自己の存在を侮蔑し、分かつ者である。人を差別する者は、自らも差別される。差別は、外界に大きな歪みを生じさせ、同時に、人間関係の調和を乱し、自己を惑わす。故に、不平等はなくさなければならない。
55
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:57:30
不当に、自己の自由を抑圧する者は、自己と対象との問の関係を乱し、正当なる自己認識を阻害する。故に、悪である。不自由は、対象と対象に対する認識ならびに判断の間に介在するカによってもたらされる。認識ならびに判断に対して不当な圧力を加える事によって真の認識ならびに判断を阻害する。心にもない判断や行動を強いられる事に対して人間は、不自由さを感じる。主体性を抑圧するような教育は、不自由な教育である。善は、多分に経験的な要素が強い。自己の経験を通して自己を知る。つまり善を知る。教育とはそれを受ける老が、行き過ぎないように見守りながら、その素直な好奇心をのばす事によって、より多くの経験を積ませる事である。一方的に自己の見解を押しっけて相手の積極的な態度を抑圧したり、相手の好奇心に答えようとせずに、相手を無気力にしてしまうのは、むしろ非教育的である。教育とは、与える事ではなく、引き出す事である。不自由さとは、人間の素直な成長を阻害したり、正直な主張を歪める事によって生じる。確かに、広い意味での不自由さとは、自己の限界を含むが、越えられない限界を問題にすべきではなく、越えられる限界を問題にすべきである。その意味で、不自由の原因を取り除く事のできるものから取り除くのが、先決である。
盲信、欲望等といったものを生み出す原因である我執は、自己の実像を見失わせ、自己に対する認識を誤らせる。故に悪である。我執は、明らかに利己的なものである。我執は、自己と対象との諸々の関係を忘れさせ、自己の思い入れだけに自己の注意を集中させる。当然、自己と対象との関係を無視して、自己の主張だけを押し通そうとする。そのような事を、自己主張だと錯覚している向きがあるが、それは、自己の真の姿を知ろうという努力を怠っているに過ぎない。つまり、我が儘だ。相手の立場に立とうとせずに、自分の趣味を押しっけて、思いやりなのだと得々としているのは、質の悪い思い込みである。名声は、自分の名が広く知れ渡る事によって、自己の存在感を高揚させるものである。名前は、自己を象徴化させたものであるから、社会に自分の名前が知れ渡る事は、特に、自己の存在感を高揚させ陶酔させる。自己が直接、接触できる範囲は限定されている。自己を正確に伝播できる範囲は、極く、限られている。名声に対する評価のほとんどは、当人に対する憶測であり、虚像である場合が多い。噂や名声から拭えられた像は不正確なものである。それでありながら、異常に存在感を高揚させ、相手の偏見に抗しきれない場合が多い。故に必要以上の名声は悪である。盲信は、対象の意味や名を無条件に受け入れる事である。思想は常に生成発展の過程にある。盲信は、対象認識の発展をさまたげ、対象の真の姿を見失わせる原因となる。どのような思想も意味も、人間が創り出すものであるから完全ではない。故に、誰のものであろうと、対象に対する自己以外の者の認識を無批判に受けとめるような態度は、厳しく戒められるべきである。自己以外の者の見解は、一方において批判的に受けとめながら、それを自己内部に消化させる事こそ肝要である。思想や偶像を無批判に受け入れるような盲信は、すなわち悪である。執着は、対象に自己が囚われていく事をさす。つまり、自己の対象への転移、一体化の結果であるから、執着心は、自己の行き場を失わせ、誤った方向へ進ませる。執着心は、盲信、差別、不自由等を生む原因である。故に我執は悪である。
人間の社会は、自己の認識を支える要である。人間は、自己と社会、自己と自然との掛わり合いを通して、自己を知り、善を形成していく。人間の思想は、自己の経験と周囲の環境によって育まれる。自己は、経験と環境から学び、成長していくのである。このような社会に、自己と対象との関係を歪めるようなカが存在しては、自己の成長も歪められてしまう。鏡が平板でなければ、対象を正確に反映できないように、社会も平等でなければ、自己を正確に反映する事はできない。
56
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:58:04
遊園地に行くと、よく鏡の部屋のようなものを易かける。部屋の内部は、いろいろな鏡で仕切られている。歪曲した鏡の曲面の上に映し出された自分の像は、日頃、平面鏡に映し出されて見慣れている自分の姿とは似ても似つかない代物である。それでも、我々は平生、平面鏡に映る自己の像を見ているし、鏡の原理もある程度知っている。だから、そこに映し出された像は、不自然に歪められている事を知る事ができる。だが、鏡の原理も知らず、平板な鏡も持たず、話し相手もいないとしたら、我々は、いつまで自己を見失わずに冷静でいられるであろうか。
現代は、まさに鏡の部屋だ。悪の存在する社会において、自己を正確に把握する事はむずかしい。それは、丁度、歪んだ鏡ばかりの世界では、自分の本当の姿を知る事が困難であるのと同じ事である。醜く歪んだ自分の姿は魔的であり、人間を眩惑する。人間は、誤った認識から生じる自己の虚像と自己の真の要求の中で、迷い、苦しみ、そして生きている。その中で、人間がみずからに課す最初の要求は、自己をあらゆる角度から投映し、自己の笑像を模索しつづける事である。自己を内省し、反省し、批判しつづける事である。人間は、現実との闘いの中で、自己の真の像を勝ち取っていかなければならない。
現実との闘いの中で、人間は、病み、疲れ、挫折していく。そこに、悪に対する妥協の誘惑が潜む。悪の存在する社会に生きる者は、自立しなければならない。現実は、自己に妥協を求める。悪をどのような形にせょ肯定するように迫る。そして、妥協した人間は、罪悪感から他者へ、妥協を迫るようになる。悪は主体佐を侵す。主体性を侵されたくなければ人間は自立しなければならない。自立せぬ自己は、社会を腐敗させ、悪を育む。やがてはみずからも悪となっていく。自立せぬ自己は自己の善を持たないからである。善を持たぬ者は、何事に対しても罪悪感を持たない。
悪を退治するには、自己の内部に存在する誤った認識を正し、社会の歪みを修正する事である。与えられた環境の中で最善を尽くすとは、環境をそのまま受け入れ、その環境に甘んじる事を意味するのではない。与えられた環境を土台にして、積極的に環境を変革していく事である。常に、我々は、自己内部と外部とに同時に働き掛けをしなければならない。どちらか一方に対する働き掛けだけでは、悪は克服できない。
悪は、人間を誤った方向に歩ませ、ひいては破滅させる。悪は、個人の主体性を喪失させ、人格を破綻させる。そして、悪は、人間と人間との関係を断ち離反させる。そして悪は、社会の株序を乱し、調和を崩す。このように悪は、社会にあって、社会の矛盾や問題の原因である。地上に悪が栄えるかぎり、人と人との不和、憎しみ、怨恨の種は尽きる事がない。悪は、地上から除かれなければならない。
57
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:58:48
悪を退治するには、自己の内部に存在する誤った認識を正し、社会の歪みを修正する事である。与えられた環境の中で最善を尽くすとは、環境をそのまま受け入れ、その環境に甘んじる事を意味するのではない。与えられた環境を土台にして、積極的に環境を変革していく事である。常に、我々は、自己内部と外部とに同時に働き掛けをしなければならない。どちらか一方に対する働き掛けだけでは、悪は克服できない。
悪は、人間を誤った方向に歩ませ、ひいては破滅させる。悪は、個人の主体性を喪失させ、人格を破綻させる。そして、悪は、人間と人間との関係を断ち離反させる。そして悪は、社会の株序を乱し、調和を崩す。このように悪は、社会にあって、社会の矛盾や問題の原因である。地上に悪が栄えるかぎり、人と人との不和、憎しみ、怨恨の種は尽きる事がない。悪は、地上から除かれなければならない。
58
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 16:59:39
悪は、人間を誤った方向に歩ませ、ひいては破滅させる。悪は、個人の主体性を喪失させ、人格を破綻させる。そして、悪は、人間と人間との関係を断ち離反させる。そして悪は、社会の株序を乱し、調和を崩す。このように悪は、社会にあって、社会の矛盾や問題の原因である。地上に悪が栄えるかぎり、人と人との不和、憎しみ、怨恨の種は尽きる事がない。悪は、地上から除かれなければならない。
59
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:00:30
意志と欲望
豚に真珠、猫に小判と言う通り、豚や猫は、真珠や小判の為に争いはしまい。果たして、人間と豚や猫のどちらが、真珠や小判の真の価値を知っているのだろうか。欲望の為に人間は死ぬ。又、信念に殉ずる。いったい何が人間にそうさせるのか。
人間の社会は、修羅だ。欲望の坩堝だ。どろどろとした業と欲の渦の底に、無気味に死が横たわっている。欲望は、人間から理性と平衡感覚を奪う。そこにあるのは、憎しみと争いだけだ。死への予感は、現実への妥協を迫る。欲望は、悪の根源だ。そして、生々しい現実だ。それは、意志や信念に対する悪の挑戦でもある。現代は欲望の時代である。そして、又、意志の時代でもある。死を予告される事によって、自分の生活が変わるような生き方を、私はしたくない。それは、死への予感との闘いである。そこに、意志があり、信念がある。欲望の時代程、意志や信念を要求される時代はない。
自由は、意志を前提としている。人間の解放は、人間諸個人の意志を信頼する事によって成立したからである。だが、我々は、いかに自己の意志を守るのが困難な事かを知っている。そして今、時代は意志の時代へと移行していこうとしている。解放された人間の情念は、意志なくしては自律性を失い堕落していく。社会は、その時、みずから瓦解していく。決められた株序を守るのではなく、自分達のカで、新たな秩序を生み出すのだ。それが、意志の時代であり、俺達の時代なのだ。破壊の時代から創造の時代へ。それが、人間に許された唯一の希望だ。自由、それは、一つ間違えば人間を絶望へと破滅へと誘う。
欲望にせよ、意志にせよ、夢想的なものではない。実社会的なものだ。だが、現代は、その欲望も意志も、夢想的な彼岸へと追いやってしまった。人間の生々しい感情が、無梯質な価値尺度に還元される事によって、無機質なものに変質してしまった。愛情や怨念ですら、どこかのショーウインドーの片隅に無表情に飾ってあるような気がする。それは、商品なのだ。的屋で、豚肉や牛肉の問にはさまって人間の心臓が売られていても、なんの不思議もあるまい。そこでは、人間は、ただの物体なのだ。わからない事は、わからない。それを素直に認めようじやあないか。わかったつもりになってはいけないのだ。信念や情熱だといった言葉が、欲望といった言葉が、どこか空々しく空疎に聞こえ、生々しい実感が伝わってこない。違う。違う。人間は生きているのだ。知的領域の拡大に伴って、生命といった、まだ人間が解明できない問題までが解明できたと錯覚したからだ。それは、丁度、バベルの塔を構築しようとした人間共の愚かさと同じ愚かさである。科学は、現代のバベルの塔である。我々は、今一度、欲望や意志を考え直す事によって、感情の持つ生々しさを取り戻さなければならない。
明日の死に思い煩うよりも、今日の生を信じるべきだ。
60
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:01:14
明日の死に思い煩うよりも、今日の生を信じるべきだ。
61
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:02:09
誇りと恥
日本人は、欲望だの怨念だのといった薄汚いものが好きなようだ。私は、日本が敗戦国である事を痛感する。欲望も怨念も、それを生み出す矛盾に対する怒りがあるから直視できる。悪は悪だ。悪を善として肯定する事はできない。悪に対する激しい怒りがなければ、善を善とする事はできない。戦争に負けたのは、物質的に負けただけでなく、精神的にも負けた。すべてに、すべてが負けたのだ。戦争中に、いとも簡単に転向し、戦争に負けて又いとも簡単に転向した。その方が重大な敗北だ。
日本人は、いつから、自分自身の手で自分自身を律する事ができなくなったのか。自らが自らを罰し、自らの姿勢を自らのカで正す。それが人間としての誇りだ。
負け犬根性こそ悪だ。惨めさやみっともなさを、それが現実なのさと、自嘲ぎみに諦観する。そして、人を穿った見かたしかできなくなる。物事に真剣に取り組む人間を、どうせ負けるのさといって嘲笑する。君は若いね甘いよと大人になれば、どうせ穢くなるさととでもいいたげに批判する。侮辱されても、ヘラヘラ笑ってばかりいる。相手の誇りを傷つけても何も感じない。人間的感覚が麻痺してしまっている。自分が正しいと思った事だって、堂々と主張できない。そればかりか、堂々と生きていく事すらできない。妥協も挫折も、あらかじめ予定されていた事のごとく、しかたがないさと肯定する。唯々大勢に阿るばかり。それでは、先の見えた議論しかできまい。他人に裁かれ、それが他人事であっても、納得もせずに唯々諾々と肯定するのは恥知らずだ。人間は、恥を知らなければならない。それは、人間だからだ。
恥知らずは、精神的に敗れたからだ。たとえ、物質的に敗れても、精神的に敗れてはいけない。負け犬の考える事は、いかにして他の人間の足をひっぱり蹴落とすかばかりだ。そこには、友情もなければ愛情もない。形ばかりのつきあいと、憎悪だけだ。そこに存在するのは、精神的荒廃だ。故に、他の人問にとって負け犬は悪だ。
人間は、プライドを持つべきだ。又、恥を知るべきだ。それが生きているという事だ。どのよぅな状況においても、毅然たる態度で起立する事、それが、人間の冷静さと平静を保つ重大な要因である。状況に対して毅然たる態度で臨む為には、誇りを持ち恥を知る事である。
62
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:03:21
喜びと苦悩
喜び、それは、生命が濃縮されて送り出た瞬間。自己の存在感が最高まで高められた時である。
喜びを求めて、人々は苦しみ悩む。そして、それは自己の存在をも否定し、自分を破滅させかねない程強い欲求にすらなる。
徹底した絶望や徹底した人間不信は、人間を行動に駆りたてる。絶望は、人間からあらゆる形の執着心を奪い、人間不信は、無用な期待感をいだかせない。それ故に、結果を考えずに行動ができるからだ。しかし、そのような虚無主義から喜びを得る事はできない。徹底した絶望にしても、徹底した人間不信にしても、行きつくところは死だ。死への恐怖から逃げ出す為には、徹底した絶望を闇雲な行動に置きかえ忘れる以外にない。誰一人信じる事ができなくなったら、自分の存在意義すら信じられなくなってしまい、それは確かに明るく楽しそうにみえる。しかし、それは、死を覚悟した老の底抜けの陽気さなのだ。その陽気さは、刹那的な行動や自滅的な行動、残忍な仕打ちの誘因となる。
現代を支配する空虚感や無力感は何なのか。人類を幸福にするはずの科学が、人類を滅亡させる原因を作っているというのは、何とも象徴的ではないか。
真の喜びは、本当の意味での希望や人間を信じる事によってしかもたらされはしない。快楽は、喜びにともなうものだが、快楽と喜びとは違う。快楽を求める事によって、生きる喜びを見失ってしまう事がある事を、我々は忘れてはならない。
我々は、古代人の夢を、近代人の理想を、過去の幻想と侮る事が果たしてできるであろうか。我々は、新しいものが常に正しいのだと錯覚していはしないだろうか。
私は、懐古主義で言っているのではない。過去の悲惨さも充分知っている。ただ、この世界を支配する絶望感をどう説明すべきなのだろう。少なくとも、彼等は何かを信じていた、求めていた。そして、何かを、子孫の為に伝え、残そうとしてきた。その一切合切を否定してしまっていいのだろうか。
神話や伝承の背後にある真実を、見損っているのではないだろうか。
科学や技術の重要性は、私も理解できる。科学や技術では解決解明できない事はいくらでもある。
しかし、自然に対する畏敬心や人生に対する洞察のない科学至上主義や合理主義は、道に、人間の生き様を刹那主義的なもの、快楽主義的なものに追い遣り、自分勝手な行動を増長させてきたのではないだろうか。
事の正否善悪は、新旧老若とは無関係である。
我々の先祖は、我々より劣っていると言いきれるだろうか。彼等は、少なくとも、人生の目的を快楽ではなく、生きる事においていた。つまり、生命の尊さを信じていた。物質的な繁栄よりも、精神的な豊かさを求めていた。その為に、自分を抑える事を知っていた。そして、それを信じ守ろうとしてきた。
科学や合理主義は、確かに、人間の要求を満たしてくれたかもしれない。しかし、それによって人間は、真の喜びを得る事ができたであろうか。快楽は、人間に真の喜びを与えたであろうか。苦悩は、深まるばかりだ。
科学至上主義や合理主義は、人間から信じる喜び、守る喜びを奪い、生命の重みをいくばくかの貨幣の重みで計るようにしてしまったのではないだろうか。
満たされているはずなのに、この空疎さ、この荒涼さは何なのだろうか。我々は、真の喜びについて考え直さなければならない時機にさしかかったと私は思う。
63
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:03:59
愛情と憎悪
愛、それは永遠の課題だ。愛は、生命だ。人生において最も根源的なものが、同様に苦しみの原因となるのは皮肉な事である。
現代程、声高に愛について叫ばれている時代はあるまい。それでありながら、今程、人間不信と憎悪が渦巻いている時代もあるまい。それだけに、今こそ、真実の愛について真撃に語りあわなければならないのである。
今世紀を迎えるにあたり、人々は、偉大な理想と希望を持っていた。確かに、今世紀に入って多くの国が独立し、又、圧政を倒して人民を解放した。科学は、それまで人類が知りえなかった事を解明し、技術革新は、不可能な事を可能にした。
なのになぜ、人々は、かつてない程、滅亡の恐怖に怯えなければならないのであろう。なぜ、憎悪は深まるばかりなのであろう。
私達は、大切な何かを見失ってしまっているのではないだろうか。
現象としてあらわれる行動とその源泉である精神を同一次元で語る事はできない。同じ行為でも、愛あるが故に許されても、愛なきが故に許されない事もある。
多くの人は、性と愛とを混同している。愛は存在の本質であり、性は行為そのものである。だから、愛のある性行為であるかないかなどが問題なのではない。自分の行為が愛情を前提としたものであったかなかったかが問題なのだ。それは、性に関してだけではなく、すべての行為についていえる事である。ただ、あらゆる行為の中でも、性にまつわる行為が最も生命そのもの、即、自己の存在にかかわりあいをもつものである事を忘れてはならない。
愛は行為を正当化する口実にはならない。なぜなら、行為は愛の存在を否定してしまう事があるからだ。
それ故に、愛には、常に無理解と誤解がつきもの。なぜならば、愛は人を酔わせ、自己陶酔に陥らせ、自己陶酔は時として、愛を愛とは全く無縁で醜悪なものに変えてしまう事があるからだ。
愛は、常に危険がともなうが、人間にとって自己の存在そのものなのである。
64
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:05:13
あなたは、愛を知っていますか。
あなたは、人を好きになったことがありますか。
現代社会ほど愛という言葉が、氾濫している時代はあるまい。
なのに、愛という言葉が虚しく聞こえるのは、なぜだろう。
なぜに、人は、愛に飢え、愛を求め、彷徨う。
愛は、喜びだをもたらすわけではない。悲しみや苦しみももたらす。
逢うは、別れのはじめ。
愛惜離別。
それでも、人は、愛さずにいられない。
愛の真実とは、何か?
愛の実相とは?
65
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:06:11
愛の真実
好きだとか、嫌いだとかを愛だと思いこんでいる人がいる。
恋に恋をしている人がいる。
好きとか、きらいとか言うのは、愛の外見に過ぎない。
恋は、幻想である。
いずれも、愛から派生するものだが、愛の本質ではない。
愛という言葉から、連想されるのは、
純潔、純真、無垢、純白、清純、至純、至上、汚れを知らぬ純粋さ。
献身。ひたむきさ。真心。思い。
ところが、現代人は、純粋さを刹那的な快楽に置き換えようとしている。
自分の汚れた魂を誤魔化すために。
愛は、不変的な感情である。
好きとか、嫌いとか言う刹那的な感情を惹起するけれど、
好きとか嫌いという一時的な感情で左右されたりはしない。
恋は、愛を生み出しはするが、愛そのものではない。
恋の真実は、愛を成就した時に実現する。
愛と欲とは違う。愛は、愛。欲は欲だ。
愛という言葉には、もっと凛とした響きがあった。
愛という言葉には、現代人が失った凛とした響きがある。
66
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:06:56
至上の愛
愛こそ全て。
愛は、全ての始まり。
愛があるから、哀しみに耐えられる。
愛があるから、我慢できる。
愛があるから、自分が保てる。
愛があるから、共感できる。
愛があるから、結束できる。
愛があるから、皆の思いをまとめられる。
愛があるから、心を一つにできる。
愛があるから、決断できる。
愛があるから、行動できる。
愛があるから、やり遂げられる。
愛があるから、大切なものを護れる。
愛があるから、共に生きられる。
愛があるから、自他共に許せる。
愛があるから、夢を実現できる。
愛があるから、幸せになれる。
愛は、母の愛に始まり、神の愛に至る。
神の愛は、普遍的で絶対的な愛。
至上の愛。
67
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:08:15
全ては愛から始まる
人は、愛される事から愛する事を学ぶ。
全ては、愛から始まる。
全ては、愛に始まる。
全ては、愛する事から始まる。
全ては、愛される事から始まる。
全ては、母の胸に抱かれた時から始まる。
母の温もりを感じた時から始まる。
母の愛を感じたところから始まる。
人は、生まれるとすぐに、産声を上げ、泣き叫び、母を捜し求める。
人は、母の抱かれる事で、愛される事を知る。
愛される事を知り、愛する事を知る。
それが、愛との出逢い。
命・魂との出逢い。
産まれたばかりの愛は、初心(うぶ)なのである。
母を抱きしめ、乳を含むことで、人は、生きていることを実感する。
生きる喜びを知る。
そして、母の胸の中で安らかに寝息を立てるのである。
人は、愛される事で自分を知る。
母の愛をすら知らぬ者は、不幸だ。それ自体が不幸の源になる。
愛された事のない者は、愛する事の意味も知らぬ儘、愛を求めて彷徨(さまよ)い歩く。
人を愛する事によってはじめて人は、癒(いや)される。
それなのに、愛された事のない者は、愛する術(すべ)すら解らない。
人は、不器用に人を愛する。
人は、純朴に人を愛する。
人は、朴訥と人を愛する。
人は、素朴に人を愛する。
人は、純粋に人を愛する。
人は、純情に人を愛する。
なぜならば、愛は、人を思いやる情けだからである。
人を傷つけるような刺々(とげとげ)しさや鋭利さではない。
人を包む込むような温かさなのである。
温もりなのである。
懐かしさなのである。
出逢い。
全ては、出逢いから始まる。
人は、愛する事で生きることの意味を知る。
愛する事で自分を再確認する。
愛する事から、また、新たな自分を知る。
愛する事から、また、新たな人生が始まる。
愛する事から、また、新たな生き方を見出す。
だから、愛する人との出逢いは、新たな自分の始まり。
愛する人との出逢いから、また全ては始まる。
愛こそ全て。
愛は、全てを変える。
人は皆、愛を必要としている。
愛がなければ生きられない。
そして、人は、最後に神と出逢う。
愛の本質は、神であり。
神の本質は愛である。
憎しみからは何も生まれない。在るのは、漆黒の闇だけだ
闇から人を救うのも愛の力、光しかない。
その光の源に神が居られる。
愛は、希望の光。生きる力。命そのもの。
愛は救い。
人は愛する事によって救われる。
人は、愛する事で、多くの事を学ぶ。
人は、愛する事で多くのことを知る。
愛する事で、人生の深淵を除くことができる。
汝、愛せよ。そして、生きよ。
68
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:09:06
愛情がなければ、人間関係は、粘着力を失って砂のような関係になってしまう。愛は、本来、粘着的な力、ウェットなものである。だから、ネバネバと時に鬱陶(うっとう)しくなる。しかし、だからといって愛を否定したら砂漠のように乾いた人間関係になってしまう。
69
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:09:54
物事には、手順・段取りがある。現代は、結果と原因が転倒していることが多々ある。順序が逆だ。
70
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:11:06
戦後馬鹿な知識人と教育者が他人に迷惑さえかけなければ、何をしても良い。それが自由主義だと教えた。愚かなことを教えたものだ。親に迷惑をかけない子はいない。なぜならば、子は一方的に親に依存しているからだ。同じように、国に迷惑をかけない国民はいない。だから、迷惑をかけることが悪いのではない。それを自覚しないことが悪いのである。ところが、迷惑をかけなければと教えてしまった。迷惑をかけなければと言うのは、言い換えれば、迷惑をかけないで済むと言う事になる。だから、自分が迷惑をかけていることを自覚しなくなった。残されたのは、何をしても良いだけである。
親の迷惑を知らない事は、親の愛も知らない事だ。だから、親の愛に背いてまでも好き勝手なことをする風潮を産んでしまった。
まるで愛が、愛に背かせているようだ。
親の愛を知れば、人は、真正直にしか生きられなくなる。
親の愛を知れば、親を悲しませたくないと思う。
それが理性だ。良心である。
愛よ。蘇れ(よみがえれ)。
71
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:12:10
神の愛
全ても始源は、神の愛である。全ての始まりは、神の愛である。
神の愛は、存在である。命である。恵みである。
人は、神に依存している。
神は、人に依存していない。
そこにあるのは、神の愛だ。
神の愛は、恵みである。
全ての終焉は、神の愛である。
神の愛は、許しである。癒しである。受容である。
神の愛は、成就である。
全ての始まりと、終わりは、神の愛である。
神の愛に始まり、神の祝福に終わる。それが真の人生である。
72
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:15:22
男と女
人は、なぜ、これ程まで臆病になってしまったのだろう。
何に脅え(おびえ)。
何を恐れる。
過去に犯した過ちを怖れてばかりいたら、
未来に目を向ける事すら出来はしない。
確かに、別れはいつか来る。
しかし、愛する事の確かさは、失われたりはしない。
愛の記憶は、色褪せたりはしない。
一度たりとも人を愛した事のある者なら、
明日を信じて生きていく事ができるはずだ。
傷つくことを怖れていたら人を愛する事などできはしない。
自分だけが傷ついていると思うな。
相手だって傷ついている。
確かに、愛は、人を傷つけもする。
愛する事で傷つきもする。
でも、人を愛せなければ、生きる喜びを知る事はできない。
傷つき、苦しみ、悩み。
そこからはい上がった時、人は強くなれる。
愛は、人の心を陶酔させ、惑わせ、
我を忘れさせるような、麻薬のようなものではない。
愛は、幻想ではない。現実。
時には、古傷をかき回し、
心の奥底に鋭く突き刺さることもある。
激しく傷つけあうこともある。
身を焦がす想いに身悶えることもある。
愛は、逃避ではない。
快楽に身を委ね。
淫欲に何もかも忘れてしまう。
しかし、それは愛ではない。
愛は、現実から逃れることではない。
むしろ、現実と対決する事。
愛は、戦い。自分との戦い。
崩れていこうとしていく自分との戦い。
欲に溺れていく自分との戦い。
快楽に我を忘れようとする自分との戦い。
落ちていこう・堕ちていこうとする自分との戦い。
この世に妥協しようとする自分との戦い。
世に阿(おもね)り、迎合していこうとする自分との戦い。
自分の弱さとの戦い。
嗚呼、これで良いとする自分との戦い。
諦めようとする自分との戦い。
逃げようとする自分との戦い。
離れていこうとする自分との戦い。
捨てようとする自分との戦い。
隠れようとする自分との戦い。
他人の性にしようとする自分との戦い。
我が儘な自分との戦い。
相手を支配しようとする自分との戦い。
愛する者を護るための戦い。
自由になるための戦い。
自立するための戦い。
無理解さとの戦い。
愛は戦い。愛するための戦い。
なぜ、泣くの。遠い別れを思ってか。
薄れいく記憶や想いを、憐(あわ)れんでか。
それは、悲しみ。それは、苦しみ。それは、切なさ。
愛される事に怯え。
愛する事を怖れる。
それは、自分が傷つく事が辛いからか。
絶望したくないからか。
愛を失う事が怖いのか。
それは、違う。
人を愛するから、強くなる。
人を愛するから、希望が持てる。
人を愛するから、生きる喜びを知る事ができる。
人を愛したから、今がある。
人を愛した記憶は、人を強くする。
その記憶は、時とともに純化され、強い確信になる。
生きる希望となり、自信となる。
愛は、燃えさかる炎の中から不死鳥のように蘇る。
だから恋をしよう。
愛を信じよう。
73
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:16:11
自分を愛する大切さ
自愛。
自愛、自己愛というとナルティストを思い浮かべてしまう。
しかし、自愛というのは、自惚れとは違う。
あるが儘の自分を、愛する事を言う。
自分らしさを素直に受け容れる事を言う。
自惚れている者は、自分が良いと思う、思い込んでいるところばかりを見て、強調しようとする。
自惚れる事と自愛とは違う。自惚れは幻想である。
自分のあるがままの姿を見ようとせず、ただ自分の良い所ばかりを見ているに過ぎない。
自惚れてる者に時は残酷である。
自愛とは、老い衰えていく自分をも愛する。自分の生を慈しむ事である。
自愛とは、あるが儘の自分のあるがままの姿をあるがままに受け容れる事から始まる。
人間、誰だって自分の厭なところの一つや二つはある。
劣等感に苛(さいなや)まさられるものさ。
だから、どうだって言うの。
それで自分を愛せなくなるなんて嘘だよ。
若い頃は、誰からも認められず。
それこそ、惨めに思えるような人生でも最後まで諦めなければ思いが掛けないチャンスが廻ってくるかもしれない。
どんな人生だって嗚呼幸せだと思える一瞬はあるさ。
野球だって試合が終わってみなければ勝敗は解らない。
初めのうちはボロ負けしていたって最後まで諦めなければ、土壇場で大逆転という事だってあるさ。
兎に角、嗚呼駄目だと途中で投げ出さないことだよ。
九回の裏、満塁、ツーアウトでバッターボックスに立たされることもあるかもしれない。
そんな時、勝っても負けても、一世一代の見せ場、花道だって思えるかだよね。
誰も褒めてくれないなら、自分で自分を褒めよう。
あるが儘の自分を愛することさ。
結局、
自分が納得のいく生き方が出きるかどうかである。
自分が納得づくでしたことなら、失敗したって挫けたりしない。
同じ失敗でも自信にならないような失敗はすべきではない。
成功したって自分の力で成功したという実感が得られなければかえって自尊心が傷つけられるだけである。
自分らしい生き方をするしかないんだ。
他人に憧れることは悪いとは思わない。ただ、それが高じて自分の生き方を否定して、その人の物真似の生き方しかできなくなったら元も子もないじゃあないか。
どんなに憧れてもその人に取って代われるものではない。
例え、代われるとしても所詮は、自分が自分でなくなるだけである。そんなの惨めなだけだ。
端から見て羨ましく見えるような王侯貴族やスターだって、人並みに悩みはある。
権力や富を持てばそれも、また、業になる。苦しみの種は尽きない。
所詮、人間は、生病老死の苦しみからは逃れられないのである。
不器用な奴が器用な奴に憧れて、器用になろうとしたって容易になれるものではない。
不器用な生き方しかできない奴がさ。器用な生き方しようなんて思わないことだよ。
他人の功績を奪ったところで本当の満足は得られない。
人まねばかりじゃつまらないじゃないか。いつ自分を出すんだ。
借り物の人生なんてつまらない。
自分で決めろよ。自分の人生なんだからさ。
言われるがままに生きたって情けないだけだろ。
しっかりしろよ。しっかりしようよ。
人に言われたから、やったと言って誰も納得はしない。第一に自分だって納得しないだろう。
周囲の人間の目を気にしてばかりいたら自分がなくなってしまう。
自分のない人生なんて虚しいばかりである。
最後は自分なんだ。
でかすぎたって、高すぎたって、小さすぎたって、低すぎたって、肥っていたって、痩せていても。頭が悪かろうが、ぶっきらぼうでいようが、愛想がなかろうと自分は自分なんだ。
結局、自分らしい生き方しか、自分を幸せにはできないのだ。
だから、あるが儘の自分を受け容れ、愛する事。
それが自愛である。
74
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:17:35
生一本で、曲がったことが大嫌いで。
何でも愚直に筋を通そうとする。
実直で、頑固で、一刻な性格だった。
不器用で、真っ正直な生き方しかできない。
一回、一回、真剣勝負。この瞬間に全てを賭けて決断をしていかなければならないと覚悟した。
75
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:18:49
初心原点に帰らなければ、そして、新しく出直すんしかない。私はそう思う。あの頃のように・・・。
なぜ人は、限りある人生を無為にすごしていくのだろうか。
人は皆老いやがては死すべき運命にあるというのに・・・。
死んだ今でも何も変わりはしない。
だから、さようならというのはよそおう。
ただ、黙って見ていてくれ、そうとだけ言おう。 草々
76
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:20:18
信じ合うと言う事
大切なのは、仲間さ。信じ合い、助け合える仲間さ。
77
:
名無しさん
:2015/07/17(金) 17:28:17
少子問題、老人問題は、制度と設備の問題だと思い込んでいる。そうではない、愛情の問題なのだ。愛情が欠落していることが問題なのだ。
人間が生活の基盤を置いている世界なんて考えてみれば狭いものさ。大統領だって、王侯貴族だって日常生活を伴にしている人間の数なんて知れたものである。その狭い世界で人間関係を引きずって生きていくしかない。一度人間関係がこじれたら地獄さ。
だから、昔の人は、義理と人情を尊び、信頼関係、仲間を大切にしたんだ。
会社員である前に人間であるべきなんだ。そして、同僚や上司は、一緒に生きていく仲間なんだよ。だから、礼節が大切になるんだよ。結局、自分が幸せになるためさ。ギスギスした人間関係の中で生きていくなんて、人生をつまらないものにしてしまうもの。
困った時に助け合っていける仲間作り、それが人生の基本なんだ。
仲間や友達、夫婦に定年はない。大切なのは、一生ともにできる仲間さ。その仲間は、仕事仲間であり、家族であり、友達だよ。その仲間とどう付き合っていくか。それが一番大切なことなんだ。
最後に、手をとり。
「嗚呼、良い人生だった。幸せだった。」
と言えるような仲間こそ最大の宝なのである。
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