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99
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2013/06/30(日) 16:19:37
>大乗非仏説さん
遅くなりましたが、
>>81
>>90
の続きです。
本当は以前、日蓮の忍性批判が2chで問題になったときに書くつもりの話題でした。ですから下記の続きでもあります。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1184389563/963
ただ↑でご説明したように、手元にあったはずの資料が見付からないため、以下は記憶に頼った記述となります。
まあ世間話程度の雑談として聞いて下さい。一応後々、資料屋さんとやり取りしてる
>>98
などにも絡んでくる内容なので。
問題にしたかったのは律宗が勧め、日蓮がそれを批判した「殺生禁断令」と自力救済社会についてです。
実は現代においても世界には、狩猟採集といった自力自活で主に生活している少数部族の方達がおられます。
もちろん全く現代社会と隔絶されてはいないでしょうが、基本的には昔ながらの生活を営んでおられるわけです。
当然、こうした方達の風習や生活を研究対象とする学者もいます。科学朝日でそうした記事を読んだときの話なんですが、
そこに出ていた部族同士は実に複雑な相互扶助の関係を築いていて、例えば○○は××の領域で
魚を穫っても良い代わりに、××は○○の森で採集をしても良いといった具合でした。こうした相互扶助が、
長年の経緯もあって実に複雑に絡み合っており、余所者にはちょっと理解出来ないような
ルールとなってたと、こういう記事だったと記憶しています。
で、肝心なのはここからです。私たちはこういう社会に対して、素朴な、ある種のユートピア幻想を抱きがちです。
似たような傾向は日本でもありますよね。「田舎は人情がある」とか「昭和の昔は良かった」とか。
もちろん記事を書かれたのは専門の研究者さんですから、我々みたいな、そこまで単純なユートピア幻想では
なかったと思うんですが、それでも部族の人に軽い気持ちで尋ねちゃったらしいんですよ。
「もし余所者がそのルールを知らず、勝手に採集をしてたらどうするんですか?」と。
――回答は「即座に殺す」。あまりに当然のこととして答えられ、研究者は絶句して次の質問が出来なかったそうです。
……これが「自力救済社会」です。
私はよく「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」のまとめ管理人さんのツイートも紹介しますが、彼も以前、鎌倉末期から江戸初期の資料を見ていると
自分でさえも鬱になる。最後に家康の名前が見え始めるとホッとする、といった趣旨の呟きをされていました。
理由は「現代にも残る自力救済社会と同じ実態」を、資料から延々と見ることになるからです。
一家の働き手である父親が亡くなり、母親が病で動けなくなる。幼い兄弟がせめて母親に
食べさせようと一束の麦を盗む。罰として即座に殺され、残された母親も飢え死に。
こういう「珍しくもないありふれた話」を延々読んでたら、そりゃ最後の最後に家康が登場して、
やっと自力救済社会が終わるのには、救われた気分にもなりますよ。綱吉の生類憐れみの令が
近年高く再評価されているのも、こうした自力救済の名残を払拭しようとしたものだったからでしょう。
このような時代に突入する初期に現れたのが律宗と、叡尊や忍性が推し進めた「殺生禁断令」による
社会秩序の回復です。詳しい研究は下記の資料をご覧下さい。決して日蓮信者が信じ込んで
いるような実態ではなかったことが、当時の資料からも明らかとなっています。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/27680/1/059.pdf
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B23/B2364397/9.pdf
上記でも指摘されている通り、叡尊にとって「殺生禁断令」のこうした受容は、必ずしも本意ではなかったかもしれません。
叡尊自身は、あくまでも仏教を広め理解してもらうための宗教活動として、これを行っていたはずだからです。
しかし、何故その活動に当時の村々が自発的に参加し、わざわざ自発的に「殺生禁断令」を欲したかについては、
こうした事情もあることを頭に留めておいたほうが良いでしょう。
念仏や禅ではなく、もちろん日蓮の題目でもなく、何ゆえに律宗を鎌倉仏教の代表と見るべきか?
それは、このような理由によります。禅も念仏も、全国的な秩序と、社会福祉の充実を
具体的実際的に進めた律宗の庇護と理解の元に、まず受容されていったのです。
その意味において(重源と法然の関係にも顕著ですが)これらは今日的な宗派性を持っていたとは言えず、
むしろ協力関係にあり、その実質的リーダーは律宗が担っていたと言えると思います。
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