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【閲覧注意】信仰問題隔離スレ【強制sage進行】

1春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2007/11/23(金) 01:27:43
当サイトは注意書きにもあります通り、一般に説明し難い信仰的な立場からの発言を歓迎しておりません。
しかし内面的な信仰の話題を、避けては通れないケースもあるかとは思います。

従いまして『このスレに限り』そうした話題についても解禁致します。
以下の>>2に述べます『本スレッド限定の方針』をご理解の上で、信仰に関わる率直な本音も含めた心情、討論を許容致します。

当スレの書き込みに関する注意点は>>2及び>>3を参照。

227春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2010/10/17(日) 23:05:06
http://2chnull.info/r/koumei/1277700783/847-847
>>226へ転載)へのレス

>>847さん
>ただ私としては、釈迦がバラモンをどのように考えていたのかが実際には解っていないのです。
>中村元訳のスッタニパータ第3・大いなる章の9・、ヴァーセッタの文意がつかめずにいます。

「人は生まれによってバラモンになるのではない。行い(行為=カルマ・業)によってバラモンなのだ」
という有名な一節のある箇所ですね。ここについてはいわゆる原始仏教の教理のみを考えることにとらわれず、
少し広く物事を見れば自然に意味が見えてくると思います。

まず、「釈迦がバラモンをどのように考えていたのか」ですが、ここで「バラモンとは何ぞや?」などと定義付けを考える必要はありません。

当時の古代インドでは、バラモンが最上の人たちだと考えられていた。それだけのことです。
釈尊はそうした社会体制を頭ごなしに否定するのではなく、
それはそれとして受け入れた上で、「最上とはこういうことではありませんか?」と問いかけました。

当時の差別観では、過去世に悪いことをしたものが低い身分に生まれ、過去世に善業を積めばバラモンに生まれると
考えられていたのですが、釈迦はこうした生まれによる差別的な因果論を否定し、バラモンか否かは行いによると説いたのです。
これが仏教の受容と寛容の精神であり、いわゆる「対機説法」の態度ということになります。

ですから、ここで重要なのは「バラモンとは何か?」ではなく、こうした問いかけをする時の
釈尊の立場が「行為(カルマ)論者」であったという点です。このカルマ論が仏教の特徴の一つです。

次に、今回のやりとりは仏教で言うところの外道と内道についてから始まっていますので、そこを述べていきましょう。

http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/99_03_14a.html

以前の書き込みで、↑のリンク先をご紹介しましたが、幾つか抜粋してみます。

『プーラナ・カッサパは、…(中略)…家宅侵入・掠奪・強盗・追剥・姦通・虚言などをしても、少しも悪を為したのではない。
悪業に対する報いも存在しない。また祭祀を行っても…(中略)…真実を語ることによっても、
善の生ずることはなく、また善の報いも存在しない』と説いたとされています。

228春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y:2010/10/17(日) 23:07:51
>>227続き

『アジタ・ケーサカンバラは、…(中略)…人間そのものは死とともに無となるのであって、
身体のほかには死後にも独立に存在する霊魂なるものは有り得ない。…(中略)…愚者も賢者も
身体が破壊されると消滅し、死後には何も残らない。したがって現世も来世も存せず、
善業あるいは悪業をなしたからとて、その果報を受けることもない。施しも祭祀も供儀も無意義なものである。
世の中には父母もなく、また、人々を教え導くところの、つとめる人・バラモンも存在しないと主張した』

パクダ・カッチャーヤナは『“善悪業の果報は存在するかどうか?”などというような形而上学的問題に関しても、
かれは同様にことさらに意味の把捉され得ない曖昧な答弁をして、確定的な返答を与えなかった』と、
ざっと仏教側では、六師外道の教えをこのように見ています。

もちろん、これはあくまでも仏教側からの見方ですが、一見してお分かりの通り、当時の社会体制やバラモンを全否定した、
かなりラジカルな内容も含まれています。これと比較すれば、釈尊の主張は穏健であり中庸と言えますね。

死後に独立して存在する霊魂などを説かなかったのは仏教も同じですが、
仏教では行為(カルマ)は連続して輪廻すると教えます。
私たちの日常の実感としても、確かに個人が亡くなったとして、その生前の行いは次の世代へ影響を与えます。

現代の常識に沿う形で簡単に言えば、これが仏教の因果論です。
私たちの日常の道徳レベルでは、こうした因果論は実感に概ね一致すると言えますね。
現代の自然科学から見たときには、必ずしも正しいとは言えませんが。

このように仏教において外道というのは、本来その教えを排斥し滅ぼすための対比ではありません。
外道(異見)を正しく理解することで、自ずから内道も明らかとなる。そのための対比です。

異見を正しく理解することで、自らの立ち位置もより正しく理解できる。六師外道がなければ、
いつの間にか仏教が仏教でないものに変質していても、それに気付かないということが起こり得ます。
そのままの形を保とうと頑迷になればなるほど、返ってそれは全く別なものに変質してしまう。
故に、頑迷にならず異見を謙虚に学ぶことが必要になります。


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