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漢文翻訳スレッド

71殷景仁:2006/01/22(日) 12:06:17
えちぜんさんへ
>「跡を継ぐというのは、景帝が死んでから(断絶してから)では遅いような気がするのです。」

私自身は、文帝が司馬攸を景帝の後継に立てたのは、死後であった可能性は否定できないと思います。もちろん、えちぜんさんのように、生前から養子となっていた可能性も否定しません。ですが、やはり「文帝が」攸を景帝の跡継ぎにしたのは、死後のことと考えた方が比較的いいと思います(「文帝が」とカギ括弧にした理由は後述します)。

というのも、死後、別の養子を立てて跡継ぎにしたという例は、たとえばこのサイトの次の例をみてもあり得るように思うからです。

「薨,無子。安帝時立武陵威王孫蘊爲淮陵王,以奉元王之祀,位至散騎常侍。薨,無子,以臨川王寶子安之爲嗣。」
「〔司馬融が〕薨じたとき、子がなかった。安帝の時に武陵威王の孫の司馬蘊が淮陵王となり、元王(司馬漼)の祭祀を受け継いだ。官位は散騎常侍にまで至った。薨じると子がなかったので、臨川王司馬寶の子の司馬安之を後継ぎとした。」(巻三八の訳を借りました)

『晋書』の他の箇所にも、「薨 、追加封諡、以…爲嗣」「薨 、無子、以…爲嗣」というような記述は結構ありますので(「文六王伝」だけでも四例あります)、景帝死後でも、攸が跡継ぎになる可能性は十分あります。ですから、「死後ではおそい」という判断だけでは、根拠とはなり得ないと思います。

ただし、やはり気になるのは、司馬攸の列伝の記述です。ご指摘の通りここは問題ある箇所です。この「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣」の記述からでは、攸を景帝の後継としたのは、明らかに宣帝(司馬懿)ということになり、「武帝紀」の記述と食い違っているように思われます。えちぜんさんのように、「宣帝」を「文帝」の間違いと考える手段もありますが、その場合、すぐ後ろに続く「從征王淩」の記述がネックとなります。これは明らかに司馬懿生前のことですから、やはり「景帝無子、命攸為嗣」したのは、「宣帝」とする方がいいと考えます。頭を悩ませる記述ですが、一つの考えとして、私は次のように考えています。

「武帝紀」の「以帝弟攸爲嗣」とは、攸伝の記述にある「襲封舞陽侯」のことを指している。つまり、宣帝(司馬懿)の在世中、攸は、司馬懿によって景帝の跡継ぎとされていたが、それは一族内での取り決めとしてであり、正式に跡継ぎに「なった」のは、景帝の死後、「文帝が」改めて攸を「襲封舞陽侯」としてからである。

いかがでしょうか。まだ苦しいところはあるとは思いますが、一応つじつまはとったつもりです。あるいは単に『晋書』編纂時に、異なる史書の記述を採録し、整合性をとらないままにしてしまっただけなのかもしれませんが…。とりあえずこの問題については、皆さんのご意見をお待ちしております。

>「文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが」

この部分、以前の訳から内容を変えています。新しい訳(つまり引用されている訳ですね)では、実はえちぜんさんのおっしゃるような主旨に訳し直しています。つまり、「文帝自身は即位するつもりはなく、とりあえず魏の宰相の地位に甘んじるが、自分の死後は、攸を即位させる。」というつもりで書きました。以前の訳では「文帝自身が帝位を窺っていた」という方向に訳していましたが、読み直して「相位に攝居する」のが、「文帝」であるように思われたので、上のように訳し直しました。ですから、「文帝は帝位を積極的に避けていたのではないかと感じています。その一方で司馬氏としての権力は着々と強化し、文帝の次の代では禅譲を受けられるような準備はしていたのだと感じています。」というえちぜんさんのご意見には、私も賛成なのです。「とりあえずは…留まる」というところにその意味を込めたつもりでしたが、前の訳と違うことを説明していなかったので、わかりにくかったかもしれません。失礼しました。


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