したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

漢文翻訳スレッド

1中村:2004/11/30(火) 00:27
(移行対象  投稿日: 2004/04/28(水) 00:59)

・『晋書』の翻訳や草稿での疑義・質問・指摘に関してご自由にどうぞ!
 現行のMLとかぶる部分ですが、MLでの書式にこだわらず、楽に聞きあう・指摘しあうスレッド。

話題としては『晋書』に限らず、漢文に対する質問なども。

2中村:2004/11/30(火) 00:34
(移行対象  投稿日: 2004/04/28(水) 01:04)

永一さんの翻訳(晋書巻九十六列女列伝)をちょっと見ました。たまたま気づいた点をひとつ載せておきます。

「與郝雅相親重」…雅は「いつも」の意でしょう。
         「雅相〜〜」いつも互いに〜〜だった。という句をどこかで見た記憶が^^;

3えちぜん:2004/11/30(火) 00:36
(移行対象  投稿日: 2004/05/07(金) 00:58)

王祥伝から質問です。

「武帝踐ソ,拜太保,進爵爲公,加置七官之職。」とあるのですが、
「七官之職」とはなんでしょうか?

志第十四 職官 に「世祖武皇帝即位之初,以安平王孚為太宰,鄭沖
為太傅,王祥為太保,司馬望為太尉,何曾為司徒,荀邈為司空,石
苞為大司馬,陳騫為大將軍,世所謂八公同辰,攀雲附翼者也.」
とあるので、王祥を除く七名もそれぞれ官職に着いたということで
しょうか?
ただ、もしそうだとしても、王祥以外はこのような書き方はされて
いないので、ちょっと不思議です。

P.S. 中村さんとクッキーさんから、王祥伝についてMLでご指摘
頂いていて、早くご返答しないといけないのですが、なかなかでき
なくてすみません。もうちょっとお時間ください。

4NAGAICHI Naoto:2004/11/30(火) 00:38
(移行対象  投稿日: 2004/05/08(土) 17:55)

中村さん、ご指摘ありがとうございます。
「雅」を第一勘で「みやびやか」だと思ってしまい、「上品に」とやってしまったのですが、辞書をちゃんと引くと「もとより、平素から、もともと」という副詞的用法がありました。
訂正しときます。

5中村:2004/11/30(火) 00:39
(移行対象 投稿日: 2004/05/11(火) 23:00)

>えちぜんさん

王祥伝の「七官之職」ってホントになんでしょうかね。。。
職官志をざっと読んだりすると、官名がしきりにかわったり、常設されずに置かれた時期もあれば置かれなかった
時期もある官職が多いようです。ですからここはやはり職官志にある王祥がついた太保以外の7つの官職なのかと
思います。やはり官職は職官志の正しい理解が必要ですね。。。

なんか回答になってないですが、レスを。。。^^;

6えちぜん:2004/11/30(火) 00:41
(移行対象 投稿日: 2004/05/13(木) 02:12)

>中村さん

レスありがとうございました。
あれからちょっと考えていて、今更ながら気づいたのですが、「拜太保,進爵爲公,
加置七官之職。」の主語は王祥ではなく、武帝ですね。
「拜」は「〔官職を〕授ける」という意味があるんですね。てっきり「〔官職を〕
受ける」の意味だと思って、主語は王祥だと思っていました。
であれば、「加置七官之職」を行ったのも武帝であって、「七官之職」は王祥が
ついた太保以外の官職と言って良いかなと思います。

7NAGAICHI Naoto:2004/11/30(火) 00:43
(移行対象 投稿日: 2004/05/13(木) 20:03)

つまらない指摘しかできないんですが、
「王導伝」

人物簡介、王恬−「兄と王悦と違い」は「兄の王悦と違い」
でしょう?

「後參東海王越軍事」を「後に東海王越の軍事に入った」と訳され
てますが、僕なら「後に東海王越の軍事に参与した」と訳すかなあ、
と。

まだ全部読めてませんので、取りあえず気になったところを挙げま
した。

8中村:2004/11/30(火) 00:45
(移行対象 投稿日: 2004/05/15(土) 17:47)

参考文献スレの34で、

>>NAGAICHI Naoto さん
いま煮詰まってるのが、「恭姜」って誰?「華」って誰?ってことです。
訳文の文意も通ってないとこあるしなあ。

とのことですが、『晋書』列女伝に見える恭姜ですよね?
ちょっと調べたのですが、衛の釐侯の太子・恭伯先の妻だった人だと思います。

9NAGAICHI Naoto:2004/11/30(火) 00:46
(移行対象 投稿日: 2004/05/15(土) 20:11)

>中村さま
>ちょっと調べたのですが、衛の釐侯の太子・恭伯先の妻だった人だと思います。

ありがとうございます。
でも『史記』衛康叔世家に出てくる釐侯の子の共伯余と共伯和は分かるんです
けど、恭伯先とは?
とにかく調べてみます。

『列女伝』貞順の宋恭伯姫の間違いじゃないかと、首ひねってたんですけどね。

「華」のほうはあっさり分かっちゃいました。
『列女伝』貞順に載ってる斉孝公夫人の孟姫でした。この人が華氏だっての
見落としてました。

10中村:2004/11/30(火) 00:48
(移行対象 投稿日: 2004/05/17(月) 10:02)

>NAGAICHIさん

『史記』には出てこなくてやや後代の資料に出てきます。
実は奥の手を使いまして。。。(『文淵閣四庫全書』全文検索)
今度は出典と原文を確認してご提示します^^; ちょっとものぐさすぎました。

11中村:2004/11/30(火) 00:49
(移行対象 投稿日: 2004/05/17(月) 10:56)

『文選』巻第十六の潘安仁の「寡婦賦」に「蹈恭姜兮明誓、詠柏舟兮清歌」とあって、
唐李善注に「毛詩曰、柏舟、恭姜自誓也。衛世子恭伯早死、其妻守義、父母欲奪而不許。注、恭伯、僖侯之世子也」
とあります。

中央研究院の検索を駆使して・・・(笑)

12NAGAICHI Naoto:2004/11/30(火) 00:51
(移行対象 投稿日: 2004/05/17(月) 20:01)

>中村さま
「台湾中央研究院」
人文資料庫師生版 1.1→古籍三十四種→文選→
…ありますね。
「其妻守義、父母欲奪而不許。」というところからいっても、
『晋書』の列女で挙げてる恭姜に間違いないでしょう。
ありがとうございます。

13suite:2004/11/30(火) 00:54
(移行対象 投稿日: 2004/06/08(火) 18:59)

『晋書』孫盛伝。
晋書なので、こちらに書き込んでみます^^

盛嘗詣浩談論、對食、奮擲麈尾、毛悉落飯中、食冷而復暖者數四。至暮忘餐。

盛は嘗て浩に詣りて談論し、食に對して、麈尾を奮擲するに、
毛は悉く飯中に落ち、食の冷へて復た暖むること數四。暮に至りて餐を忘る。

孫盛はかつて殷浩を訪ねて談論したことがあった。
食事の席で、払子を振り回し〔ながら談論し〕ていたところ、
毛はことごとく飯の中に落ち、冷めた食事を再び暖めることは四回に及んだ。
夜になって食事をすることを忘れた。

ここの、

「冷めた食事を再び暖めることは四回に及んだ」という文と、
「夜になって食事をすることを忘れた」という文が、内容的にダブっている気がするのです。

「(食事を忘れて談論しあっていたので)冷めてしまった食事を暖めた」という内容と、
「夜になって、食事を忘れたが、結論はついに出なかった」という文です。

よくわからないので、教えてください。

14えちぜん:2004/11/30(火) 00:56
(移行対象 投稿日: 2004/06/09(水) 01:42)

>『晋書』孫盛伝

「夜になっても、食事のことを忘れていた。」ということではないでしょうか?

例えば、昼食をとりながらの談論も、談論に夢中になるあまり、昼食をとるのも
忘れていて、夜になっても昼食は手つかずのままだった。と言う感じではないかと
思うのですが。。。

15中村:2004/11/30(火) 01:03
(移行対象 投稿日: 2004/06/09(水) 06:18)

『晋書』の該当部分は、『[冓斗]注』にあるように『太平御覧』巻三百九十が引く『郭子』の記事が元になっているようです。

郭子曰、孫安國往殷中軍許、共語。往返精苦。客主無間。左右進食、冷而復煖者數四。彼我奮擲塵尾、毛悉隨落、滿餐飯中。賓主遂至暮忘餐。殷方語孫卿曰、公勿作強口馬。我當併卿控。孫亦曰、卿勿作穴鼻牛。我當穿卿頰。

左右が食を進めて、そのご飯の中に毛が一杯とあるので、昼飯夕飯とかまわず食事が出されたときと考えた方がいいでしょうか。
しかし「至暮忘餐」の餐が、最初に出されて何度も暖められた飯なのか、あらたに夕方に出された夕飯なのか判然とはしませんよね。
「日が暮れても食事のことを忘れていた」と訳して、その食事が先に出されたのか夕飯なのか言わずに訳すのもありかと(原文にも忠実です^^;)

「食事を顧みず議論に熱中したのに、結論が出なかった」という全体の主旨からすれば、何度暖めても(手をつけず)、あげくの果てに日が暮れても夕飯をとらずに議論に熱中したとするのが自然かとは思います。
この故事は『世説新語』の文学篇にもありますので、諸家の翻訳を参考にしてみるといいでしょう。

16suite:2004/11/30(火) 01:04
(移行対象 投稿日: 2004/06/11(金) 05:18)

>えちぜんさん、中村さん
その線で訳してみたいと思います。ありがとうございました。

17suite:2004/11/30(火) 01:06
(移行対象 投稿日: 2004/09/06(月) 08:00)

久々に再開した『晋書』職官志なのですが、726ページにある次の文章がよくわかりません。

太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫、
開府位從公者爲文官公、冠進賢三梁・鄢介[巾責]。

太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右の光祿大夫・光祿大夫、
府を開きて位の從公なる者を文官公と爲し、進賢の三梁・鄢き介[巾責]冠す。(?)

「輿服志」の770〜771ページに、介[巾責]の説明があるのですが、
衣服なのか頭巾なのかよくわからないのです。
『和刻本』では、「進賢の三梁なるを冠し、鄢介[巾責]す」とありますが、意味不明です。
これは何のことなのでしょう?
『漢辞海』(460ページ)では、「頭髪を包むかぶりもの」という内容でした。

18えちぜん:2004/11/30(火) 01:09
(移行対象 投稿日: 2004/09/07(火) 00:47)

>太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫、
>開府位從公者爲文官公、冠進賢三梁・鄢介[巾責]。

私はこう読み下しました。

太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫、
府を開くに位の公に從ふ者は文官の公と爲し、進賢の三梁なるを・
鄢き介[巾責](かいさく)を冠(かむ)らしむ。

以下、大漢和辞典を引きました。
'進賢'は「文官又は儒者の冠の名」とあります。『晋書』輿服志767ページに
その説明があります。大漢和辞典には図があります。

'三梁'の'梁'は「くしがた」とあります。大漢和辞典には図があるのですが、
どうやら冠の飾りのようです。'三梁'はその飾りが三本あるということのようです。
『晋書』輿服志によるとこの他に五梁・二梁・一梁とあるようで、役職によって飾り
は何本と決まっているようです。

'介[巾責]'は「文官の用いる[巾責]。[巾責]は頭を包むもの。」とあります。
'[巾責]'を単独で引くと、「づきん。髪づつみ。ひたいあて。かんむりした。」と
あり、冠をかぶる前に着ける頭巾のようです。ちょうど剣道の面をかぶる前に、
頭に手ぬぐいのような布を巻きますが、このようなものでないでしょうか?
そして、その'[巾責]'が黒いということのようです。『晋書』輿服志770ページに
は、赤い'[巾責]'の記述があり、武官が身につけたようです。黒は文官、赤は武官
ということでしょうか?

以上のことから、以下のように訳しました。

「太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫については、
晋朝を開くにあたって、公の位に就いたものを文官の公と位置づけ、三梁の
進賢(三本の飾りがついた文官がかぶる冠)と〔その下には〕黒い頭巾を
かぶらせた。」

大漢和辞典しか引きませんでしたので、正しいかどうか分かりませんが、
ご参考にしていただけたらと思います。

19中村:2004/11/30(火) 01:14
(移行対象 投稿日: 2004/09/07(火) 13:20)

基本的にえちぜんさんの解説でいいかと。

補足すると、
中華書局の「冠進賢三梁、鄢介幘。」と和刻本の「進賢の三梁なるを冠し、鄢介幘す」
というのはいずれも冠としてかぶるのは「進賢三梁」で、鄢介幘は違うということです
よね。冠ではなく頭巾だから「冠」という動詞をとらない、という判断なのでしょう。
だから、中華書局では並列ではなく断句してあり、和刻本もまたしかりです。
ですから、原語を尊重するならば「三梁の進賢冠をかぶり、黒い介幘をつける(ことと
した)」とでもなりましょうか。

幘について少し調べたのですが、えちぜんさんの「剣道の面の下のてぬぐい」というた
とえはよく分かりますね。以前は冠はじかにかぶっていたのですが、王莽がてっぺんは
げだったので(冠だけだと禿げが見える)、幘を冠の下につけたのだという説話?まで
あります。魏晋のころには冠+幘というのが一般的だったようですが、それ以前はそう
でなかったようで、後漢の画像石などにもさまざまな冠と幘が見えます。>詳しくは
『漢代の文物』など参照

20suite@職官志:2004/11/30(火) 01:18
(移行対象 投稿日: 2004/09/07(火) 15:02)

ありがとうございました。

頭巾のようなものという方向でいこうと思っていたのですが、、、
そうなると次の文章はどうなのでしょうか。
 「大司馬・大將軍・太尉・驃騎・車騎・衞將軍・裵大將軍、開府位從公者爲武官公、皆著武冠、平上鄢幘」
ここの、
 「上を平らかにせし鄢き幘(?)」
がひっかかるのです。『晋書辞典』によると、おそらく上のような説明になるのではないかと思うのですが・・・。
頭巾の上部を平らにするのは、、、???
 「正式な冠の下にかぶった背の低い冠」といった図が想像できるのですが・・・。
やっぱり並列はまずいでしょうか?

しかし、王莽の逸話は面白いですね。イ、イメージが・・・

21えちぜん:2004/11/30(火) 01:24
(移行対象 投稿日: 2004/09/07(火) 23:41)

懲りずに調べてみました。(笑)

'平上幘'は大漢和辞典にはありませんでしたが、漢語大詞典にはありました。
「亦称"平巾幘"。魏晋以来武官所戴的一種平頂頭巾。・・・」
これだと上部が平らな頭巾であって、『晋書辞典』も同様の記載なのかも
知れません。
同じく、'平巾'の項を引いてみると、「即武官所戴的平巾幘」とあり、用例と
して、「宋高承<事物紀原・旗[旗兆]采章・幘>:"其承遠遊、進賢者,
施以掌導,謂之介幘;承武弁者,施以笄導,謂之平巾。"」とありました。
'武弁'は武冠のことです(『晋書』輿服志767ページ)。'笄導(けいどう)'
は大漢和辞典によると、「冠をとどめる笄(こうがい)をいう」とあり、'笄'
は「束ねた髪をとめ、又、冠をとめるためにさすもの」とあります。
'進賢'の時の'掌導'というのが分からないのですが、冠のかぶり方が異なる
ようです。
武冠をかぶる時に'笄'を使って冠を止めると、幘の上部が平らに見えるから
'平上幘'というのではないかと勝手に想像しています。
19では、武官は赤の幘をかぶっているようだと書いたのですが、誤りですね。
早とちりでした。。。
文官と武官は幘の形状の違いでも区別できたようですね。

読み下し ・・・、皆武冠・平上鄢幘を著(き)せしむ
訳    ・・・、皆武冠(武官がかぶる冠)と〔その下に〕黒い平上幘
     (冠をとめた時に上部が平らに見える頭巾)をかぶらせた。

難しいですねぇ。。。

22suite@職官志:2004/11/30(火) 01:29
(移行対象 投稿日: 2004/09/09(木) 13:32)

ありがとうございました。
一応、「介幘す」と読んでみます。

次の質問なのですが、726ページの最後の行に、
  「自祭酒已下、令史已上、皆皁零辟朝服」
とあり、読み下すと、
  「祭酒自り已下、令史已上は、皆な皁(くろ)き零辟朝服す」
でしょうか。

ここの、「零辟」がわかりません。
『漢語大詞典』webにもなく、見当もつきません。
 ↑ これは買わなきゃだめのようですね。。。


あの、少しく思ったのですが、官職関係担当者がいないと翻訳に支障をきたすと思われますので、
継続的にやってみようと思います。

文量が多いので、全体を12分割前後し、少しづつ暫定公開していきます。
リンクはここにはります。
定本は中華書局本を用いるのですが、著作権問題を回避するため、校勘記は一切訳さず、
句読点も必要に応じて一部変更し、注は少し多めにつけようと思います。

くだらない質問をすると思いますが、よろしく御教示頂けたら嬉しいです。

23えちぜん:2004/11/30(火) 01:33
(移行対象 投稿日: 2004/09/10(金) 01:23)

>皆皁零辟朝服

大漢和辞典を引きました。

「零」は「あまり。はした。わづか。こまかい。」
「辟」は「ふちどる」

という意味があります。

以上から次のように読み下し、訳しました。

読み下し 皆皁(くろ)き零(はした〔ぬの〕)もて朝服を辟(ふちど)る。

翻訳   皆黒いわずかな布で朝服を縁取った。

あんまり自信はありません。特に「零」ですが、上記の意味は比較的新しい時代に
用いられているような感じなのです。しかも〔ぬの〕と補っていますので。。。

ただ、私が小学生の頃から愛用している「新漢和辞典」(大修館書店)の巻末付録
に「中国服飾図」というのがありまして、漢代の様々な身分の人の服装のイラスト
があり、簡単な解説が付いているのですが、その中に「官吏」と題したものがあり、
その解説に
「[巾責]をかぶり、領・袖口を黒色の布でふちどった赤色のひとえを着、裳をはく。」
とあります。
これは近いと思ったのですが、いかがなものでしょうか。。。?

>あの、少しく思ったのですが、官職関係担当者がいないと翻訳に支障をきたすと思われますので、
>継続的にやってみようと思います。

私も官職については知っておかなければと思い、和刻本もコピーを取って、出てくるたびに確認
しようと思っていたのですが、担当していただけると助かります。
翻訳楽しみにしています。

24suite@職官志:2004/11/30(火) 01:36
(移行対象 投稿日: 2004/09/10(金) 17:24)

質問ばかりではやはり申し訳ないので、短い箇所ですが暫定公開します。
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/shinjo_shi14_shokkan_part_12.htm

秩品に関する注は、煩雑を避けてすべて省略し、
その代わりとして、『通典』巻第三十七・職官十九「秩品二」の晉の箇所を訳出して別にリンクをはります。

引き続き、「公・従公その他」をやります。

25suite@職官志中書省:2004/11/30(火) 01:37
(移行対象 投稿日: 2004/09/22(水) 13:47)

734ページ、後ろから2〜3行目の、

「黄門觔已署、事過通事乃署名。已署、奏以入」
  の箇所が訓読できないので、訳せないでいます。
  和刻本は、
「黄門觔已署事過、通事乃署名。已署奏以入」
  とし、
「黄門觔は已に事に署して過ぎて、通事は乃ち名を署す。已に署して奏して以て入り」
  と読んでいます。
  これでよいのでしょうか? 特に前半部分の区切りがわからないのです。

26NAGAICHI Naoto:2004/11/30(火) 01:40
(移行対象 投稿日: 2004/09/24(金) 08:13)

我流で意訳すると、
「黄門郎が〔詔書の草稿を〕書き記し終わり、草稿が通過すると、通事〔郎〕はそこで署名した。書き記し終わったものが〔宮中に〕入って奏上され、皇帝により注意深く読まれると、詔書は認可される。」
というような感じかなあ。
区切りは和刻本のほうが分かりやすいと思います。中華書局が間違いってわけじゃないけど。
訓読は領分じゃないんですが、和刻本分かりにくい。

27suite:2004/11/30(火) 01:41
(移行対象 投稿日: 2004/09/24(金) 17:39)

一応、中華書局本に従い、
  「黄門觔は已に署し、事過ぎて、通事は乃ち署名す」
などと読んでみましたが、和刻本のほうでも意味は通じるようですね。
ありがとうございました。

『通典』卷第三十七によるとともに五品のようで、
かつ黄門郎(=給事黄門侍郎。属侍中府)のほうが通事郎(後の中書侍郎。属中書省)よりも上位のようですが、
近侍官には似たような役職が多く、しかもしばしば省略形で書かれるので、よくわからない部分が多いのです。

28suite:2004/11/30(火) 01:45
(移行対象 投稿日: 2004/10/05(火) 01:03)

suite です。

おお、更新されている!
官職関係中心の拙い指摘しかできませんが、どうぞよろしくお願いします。

鄭注伝

●魏の文帝(曹丕)が太子になる(217)と

  元号に附す西暦年はともかく、過去の出来事に附する西暦年は少し乱暴かと思います。
  自分の思い込みかもしれませんが、晉書に興味のある方というのは、
  曹丕が王太子に任ぜられた年は知っているのではないかと想像します。
  敢えて附すのであれば、注に落としたほうが丁寧かと思います。

●寿光公の官職をやめさせて

  意味は同じですが、「壽光公として邸宅に帰らせた(役職を罷免した)」等のほうが適当と思います。

●死後、太傅を贈り

  原文「追贈太傅」。追贈は鬼籍に入ってからのものですので「太傅を追贈し」などが適当でしょうか。

●鄭沖には子が無く、

  細かく訳せば、「男子(息子)が無く」でしょうか。

●(10)原文「拜太保」 鄭沖が太保に任命されたのは(略)

  三国志には「十二月庚戌」とあります。あまり意味はないのですが、日にちまで添えれば丁寧かと思います。

●(14)原文「三俊」 「三儁」ともいう。(略)「漢の張良・蕭何・韓信を指す」としている。

  こういう記述は列席順にはしないのでしょうか?
  相国にまで昇りつめた蕭何が一番上、処刑された韓信を下のするのが自然と思うのですが・・・。

●(17)原文「明年薨」 『資治通鑑』晋紀二に(略)

  この箇所、晉書武帝紀に、「閏月癸酉、太傅壽光公鄭沖薨」とあります。
  日付の指摘は帝紀に従い、具体的な記述がみられない場合にのみ、
  通鑑を参考されたほうが読者がわかりやすいかと思います。
  両方に異同が見られる場合には両方引用されれば丁寧でしょう。

●(18)原文「追贈太傅」 武帝(司馬炎)が即位した時に(略)

  鄭沖は一応太傅を罷免されているので、太傅を追贈されても問題ないかと思います。
  同例の有無を現在調査中です。

29suite:2004/11/30(火) 01:52
(移行対象 投稿日: 2004/10/08(金) 08:18)

前に任ぜられた官を追贈されることについて、進展がありましたので、ご報告いたします。

何曾傳に、息子の何劭の記事として、

  「永康初、遷司徒。趙王倫簒位、以劭爲太宰。【略】永寧元年(301)薨、贈司徒」

とあります。

しかし、何劭の官職に関しては不明瞭な点がいくつかあり、例えば司徒に昇進する際の記述でも、

  恵帝紀永康元年(300)夏四月の条
    「丁酉、以梁肜爲太宰、左光祿大夫何劭爲司徒、右光祿大夫劉寔爲司空」
  何曾傳
    「惠帝即位、初建東宮、太子年幼、欲令親萬機、故盛選六傅、以劭爲太子太師、通省尚書事。
    後轉特進、累遷尚書左僕射。劭博學、善屬文、陳説近代事、若指諸掌。永康初、遷司徒」

以上のような相違が見られます。前もって特進(二品)を授けられている以上、
下位の尚書左僕射(三品)に任ぜられるのは何となく不自然なので、左光祿大夫のような気がします。

さらに、恵帝紀永寧(301)元年の条には、
  「冬十二月、司空劭薨」とあります。
同年五月の条には、
  「甲戌、以齊王冏爲大司馬都督中外諸軍事、成都王穎爲大將軍録尚書事、河間王颙爲太尉。
  罷丞相、復置司徒官。己卯、以梁王肜爲太宰領司徒」とあります。

何曾傳には記述がありませんが、偽帝司馬倫が誅されたあとに任ぜられたのでしょうか。
最終位が司空であれば、司徒を追贈されても不思議はないように感じます。
資治通鑑注は、司空は太宰の誤りとしていますが、司馬肜が太宰領司徒として任ぜられているので、
これは不自然と思います。太宰に左右分置はありません。
しかし、三国志魏書第十二何キ傳注引晉諸公賛では、最終位は太宰となっています。

現在、武帝・恵帝時代の宰相表を作成しているのですが、
およそ西暦300年以降は、通鑑にも記載されていない、わかりにくい箇所が多いのです。
とくに、何劭・劉寔・司馬颙・司馬乂は厄介ですので、これらの伝を担当される方はご注意されますよう。

30菅原:2004/11/30(火) 01:55
(移行対象 投稿日: 2004/10/09(土) 10:56)

>suiteさん
早々のご指摘ありがとうございます。
これほどすぐにご指摘いただけるのは本当にありがたいです。

ところで、suiteさんのご指摘に【解體晉書】全体に関わる指摘がありましたので、
私の方から説明します。

>元号に附す西暦年はともかく、過去の出来事に附する西暦年は少し乱暴かと思います。
>自分の思い込みかもしれませんが、晉書に興味のある方というのは、
>曹丕が王太子に任ぜられた年は知っているのではないかと想像します。
>敢えて附すのであれば、注に落としたほうが丁寧かと思います。

まず事項に西暦年をふるのは読者の便を図ろうと【解體晉書】で議論して決定したことなので、
えちぜんさんの指摘ではなく【解體晉書】の方針に関わる意見になります。
もしsuiteさんがこの方針をご存じでなければ私の説明不足でした。
すみませんでした。

次に読者に関してですが、
「晉書に興味のある方というのは、曹丕が王太子に任ぜられた年は知っている」というのは
ちょっと読者層を高く考えすぎです。
ちくま訳本の『三国志』を読み始める方ぐらいのレベルを想定していただければと思います。

以上が私の補足説明です。
suiteさんの活発なご意見はいつもありがたいです。
停滞しがちな【解體晉書】に活力を与えてくれます。
これからもご意見やご指摘よろしくお願いします。

31えちぜん:2004/11/30(火) 01:58
(移行対象 投稿日: 2004/10/09(土) 20:59)

>suiteさん

鄭沖伝へのご指摘ありがとうございます。
内容確認しましたので、ご返答します。

>●魏の文帝(曹丕)が太子になる(217)と
>元号に附す西暦年はともかく、過去の出来事に附する西暦年は少し乱暴かと思います。
>自分の思い込みかもしれませんが、晉書に興味のある方というのは、
>曹丕が王太子に任ぜられた年は知っているのではないかと想像します。
>敢えて附すのであれば、注に落としたほうが丁寧かと思います。

菅原さんがコメントしてくださいましたね。私は【解體晉書】会の方針云々とまでは考えていま
せんでしたが、西暦年を付けるかどうかは、翻訳者の裁量で良いのではないかと思っていました。
ただ、草稿の凡例に

 一、数字の表記は西暦年以外は原則として漢数字を用いた。年号や時期を区別するのに
    重要な出来事には算用数字による西暦年を( )で付けた。

とありますし(と言っても後で確認したのですが)、元号の箇所だけでなくても良いようですね。
私の場合、"読者の便を図る"というような余裕はなく、自分で時系列の感覚を掴むために付け
ているようなものです。
ただ、注にその西暦年を記述した根拠を記述した方が丁寧だと私も思いましたので、今後は
付けるようにしたいと思います。


>●(10)原文「拜太保」 鄭沖が太保に任命されたのは(略)
>三国志には「十二月庚戌」とあります。あまり意味はないのですが、日にちまで添えれば丁寧かと思います。

確かに丁寧ですね。実は十二月何日なのかを書きたかったのですが、「庚戌」が何日なのかが分からなくて、
結局月までの記述にしたのです。先日話題にあがった「二十史朔閏表 (附西歴回歴)  [陳垣]」を先月購入
したので、これからは書くようにします。(ただ、読み方がまだ分からないんですけどね。。。)


>●(14)原文「三俊」 「三儁」ともいう。(略)「漢の張良・蕭何・韓信を指す」としている。
>こういう記述は列席順にはしないのでしょうか?
>相国にまで昇りつめた蕭何が一番上、処刑された韓信を下のするのが自然と思うのですが・・・。

これは漢語大詞典の記述の通りに書いただけです。よく分かりません。


>●(17)原文「明年薨」 『資治通鑑』晋紀二に(略)
>この箇所、晉書武帝紀に、「閏月癸酉、太傅壽光公鄭沖薨」とあります。
>日付の指摘は帝紀に従い、具体的な記述がみられない場合にのみ、
>通鑑を参考されたほうが読者がわかりやすいかと思います。
>両方に異同が見られる場合には両方引用されれば丁寧でしょう。

武帝紀にありましたか。見落としていました。やはり帝紀も見ないと駄目ですね。


>●(18)原文「追贈太傅」 武帝(司馬炎)が即位した時に(略)
>鄭沖は一応太傅を罷免されているので、太傅を追贈されても問題ないかと思います。

私の感覚的な話ですが、死後追贈される場合は、これまでの貢献に報いる形で、生前(もしくは死の
直前)に就いていた官職よりも高い官職を贈るのかなと思ったわけです。当然名誉職ですから、その時
に別の人が追贈された官職を持っていても特に問題ないと思ったんです。なのに、生前就いていた官職
を追贈しているので、誤り?と思ったわけです。

長くなりますので、一旦切ります。

32えちぜん:2004/11/30(火) 02:12
(移行対象 投稿日: 2004/10/09(土) 21:00)

続きです。
suiteさんが、他の事例を探して下さって、何劭伝でその事例を見つけたということでしたので、私も調べて
見ました。(今、何劭伝を訳しているもので。。。)
恵帝紀・何曾伝・資治通鑑の何劭の官職がらみの箇所を抜粋しました。
一番左の数字はページ数です。

恵帝紀
89 〔永煕元(290)年〕秋八月壬午,立廣陵王遹為皇太子,以中書監何劭為太子太師
91 〔永平元(291)年〕八月庚申,以趙王倫為征東將軍、都督徐兗二州諸軍事;河間王顒
               為北中郎將,鎮鄴;太子太師何劭為都督豫州諸軍事,鎮許昌.
94 〔元康七(297)年〕九月,以尚書右僕射王戎為司徒,太子太師何劭為尚書左僕射.
96 〔永康元(300)年〕夏四月・・・丁酉,以梁王肜為太宰,左光祿大夫何劭為司徒,
97 〔永寧元(301)年〕春正月乙丑、趙王倫簒帝位。
98 〔永寧元(301)年〕夏四月・・・誅趙王倫、
99 〔永寧元(301)年〕十二月,司空何劭薨.

校勘記
110 [一八]司空何劭薨 據紀及劭傳,上年四月劭遷司徒;據通鑑八四,本年正月遷太宰.此作「司空」,疑誤.

何曾傳
998 〔武〕帝為王太子,以劭為中庶子.
998 及即位,轉散騎常侍,
998 咸寧初,有司奏劭及兄遵等受故鬲令袁毅貨,雖經赦宥,宜皆禁止.事下廷尉.詔曰:「太保與毅有
    累世之交,遵等所取差薄,一皆置之.」遷侍中尚書.
999 惠帝即位,初建東宮,太子年幼,欲令親萬機,故盛選六傅,以劭為太子太師,通省尚書事.後轉
    特進,累遷尚書左僕射.
999 永康初,遷司徒。
999 趙王倫簒位,以劭為太宰。
999 永寧元年薨,贈司徒,

資治通鑑
2599 〔永煕元(290)年〕 夏,四月,辛丑,皇后召華廙及中書令何劭,口宣帝旨作詔,
2603 〔永煕元(290)年〕 秋,八月,壬午,立廣陵王遹為皇太子。以中書監何劭為太子太師,
2618 〔元康七(297)年〕 〔秋,七月〕丁丑,京陵元公王渾薨。九月,以尚書右僕射王戎為司徒,太子太師何劭
                  為尚書左僕射
2642 〔永康元(300)年〕 〔夏,四月〕丁酉,以梁王肜為太宰,左光祿大夫何劭為司徒,
2651 〔永寧元(301)年〕 〔春,正月,丙寅〕以梁王肜為宰衡,何劭為太宰,
2668 〔永寧元(301)年〕 十二月,潁昌康公何穭薨

こうして見ると、確かに

>前もって特進(二品)を授けられている以上、
>下位の尚書左僕射(三品)に任ぜられるのは何となく不自然なので、左光祿大夫のような気がします。

のように一貫性がないですね。

>最終位が司空であれば、司徒を追贈されても不思議はないように感じます。
>資治通鑑注は、司空は太宰の誤りとしていますが、司馬肜が太宰領司徒として任ぜられているので、
>これは不自然と思います。太宰に左右分置はありません。
>しかし、三国志魏書第十二何キ傳注引晉諸公賛では、最終位は太宰となっています。

恵帝紀の「司空何劭薨」については、校勘記に「資治通鑑巻八四に、『本年正月太宰に遷る』とある。ここで『司空』として
いるのは、誤りだと疑う」とあって、資治通鑑注ではないし、司空を太宰の誤りとしている訳でもないですよね。
私は「司空」は「司徒」の誤りであろうと思います。というのは、「太宰」は趙王倫が簒位している時に就いているもので、
その期間は多くても趙王倫が誅殺までの3〜4ヶ月でしょうから、恵帝が復帰したのちは、以前の司徒に戻ったんではないかと
思うのですが。。。
そう考えると三国志魏書第十二何キ傳注引晉諸公賛は、「位亦至太宰」とありますが、ここでは最終位ではないような気がします。
普通は順当に官職が高くなり「至太宰」とあれば、最終位なんでしょうけど、短期間の簒位による任命など特殊な事情がありますから。
ここでは、生涯就いた中での最高職が太宰であったというニュアンスではないでしょうか?
もしかすると、記録されていないだけで、尚書左僕射だった何劭がいつの間にか左光祿大夫になっているように、司徒だった何劭
がいつの間にか司空になったのかも知れませんが。

ちょっと話がそれましたが、「司空」が「司徒」の誤りであれば、鄭沖と同様の事例となるわけで、生前就いていた官職を追贈すると
いうことは、珍しくはなかったと考えられますね。

思わぬ形で何劭伝翻訳の後押しをして頂いてありがとうございました。それにしても、西暦300年頃というのもなんだか面白そう
ですね。

33suite:2004/11/30(火) 02:18
(移行対象 投稿日: 2004/10/09(土) 22:09)

何曾伝を翻訳中でしたか。お力になれてうれしいです。

何劭の最終官位はなんなのか? 私としては「司空」であったと想像します。
根拠としては、
  恵帝紀 98頁 己卯、以梁王肜爲太宰、領司徒
      99頁 五月乙 酉、侍中太宰領司徒梁王肜薨
とあり、司馬肜は司徒兼任ということになっているようです。

さらに、何劭の太宰は、恵帝ではなく、簒奪者司馬倫の任命であったという点です。
正規の任命ではなかったということになります。
薨去後に司徒を追贈されたとなると、司徒以上ではなかったらしい、ということです。
いづれにしても脱文があり、これをどうまとめるかということでしょう。

よくわからないのは、300〜302年でしょうか。
代表の訳された司馬榦もその一人で、司馬榦伝通りに読むと、
太保が、劉寔とかぶってしまうので、注をつけたほうが丁寧かと愚考いたします。

劉寔伝
「元康初、進爵爲侯、累遷太子太保、加侍中・特進・右光祿大夫・開府儀同三司、領冀州觥督。
 九年(恵帝紀では永康元年夏四月癸巳)、策拜司空、遷太保、轉太傅。
 太安初、寔以老病遜位、賜安車駟馬・錢百萬、以侯就第。
 及長沙成觥之相攻也、寔爲軍人所掠、潛歸觶里。
 惠帝崩、寔赴山陵。懷帝即位、復授太尉」

公に任命されたのがいつで誰なのかは記録が不完全な以上、仕方のないことだと思います。
まとめにくいのが最大の痛手ということでしょうね。

34えちぜん:2004/11/30(火) 02:21
(移行対象 投稿日: 2004/10/10(日) 02:18)

>何劭の最終官位はなんなのか? 私としては「司空」であったと想像します。
>根拠としては、
>恵帝紀 98頁 己卯、以梁王肜爲太宰、領司徒
>      99頁 五月乙 酉、侍中太宰領司徒梁王肜薨
>とあり、司馬肜は司徒兼任ということになっているようです。

「司徒」に着目すると、司徒は永康元(300)年四月に何劭が就任して、同年九月
丞相と呼び名を変え、司馬肜が就任したとあります。(恵帝紀 96ページ)
ただ、資治通鑑では「肜固辞して受けず」とあります。(2646ページ)
その後、永寧元(301)年趙王倫の簒位を経て、同年六月丞相が廃止され、司徒が
復活し、司馬肜が司徒兼任となります。
何劭は司馬肜より半年ほど早く薨去していますし、司馬肜が司徒兼任
のまま薨去したことを考えると確かに何劭は薨去当時「司徒」ではないですね。
(やはりつまみ食いは駄目ですね。しっかり読まないと。。。(反省))

推測ですが、何劭は薨去した当時、「司徒」でも「司空」でもなかったのかも知れません。
司徒が丞相となると同時に離職し、趙王倫の簒位の間、太宰に任命されるも、趙王倫
の誅殺により自然消滅。。。なのかな。
三公の一つである司空の拝命の記録がなく、資治通鑑では「潁昌康公何穭薨」として
「司空何劭」としていない点など考えているとそんなのもありかなと思ってます。

35菅原:2004/11/30(火) 22:46
(移行対象 投稿日: 2004/10/11(月) 12:49)

以前に西暦年を付与した方がいいと話し合った年号を参考までに再録します。

《魏》
魏文帝即位(二二〇)
明帝即位(二二六)
斉王即位(二三九)
司馬懿のクーデター・曹爽誅殺(二四九)
司馬懿の死・司馬師後継(二五一)
高貴郷公即位(二五四)
司馬師の死・司馬昭後継(二五五)
高貴郷公の死・常道郷公即位(二六〇)
蜀滅亡(二六三)
司馬昭晋王即位・晋国建設(二六四)
五等爵創設(二六四)

《武帝》
武帝即王位(二六五)
武帝即位・受禅(二六五)
呉滅亡(二八〇)

《恵帝》
恵帝即位(二九〇)
楊駿誅殺(二九一)
司馬亮誅殺(二九一)
司馬倫簒奪・誅殺・恵帝反正(三〇一)
恵帝北征・恵帝討成都王穎・蕩陰の戦役(三〇四)

《懐・愍帝》
懐帝即位(三〇七)
洛陽傾覆・陥没(三一一)
愍帝即位(三一三)

《元帝》
元帝承制(三一七)
元帝即位(三一七)

《恭帝》
宋受禅(四二〇)

ご意見があれば嬉しいです。

36suite:2004/11/30(火) 22:49
(移行対象 投稿日: 2004/10/11(月) 15:01)

色々読んでみてひとつはっきりしたのが、「職官志」担当者がいなければまずいということです。
現在、5分の2ほど読み下し文が完成して(推測箇所多し)、作業は細々と続いております。
今回は、列伝第八において気づいた点を並べてみようと思います。よろしくお願いいたします。

琅邪王伷伝

●しばらくして〔都〕督青州諸軍事を兼任し、

 原文「頃之、并督青州諸軍事」ですが、前に都督徐州諸軍事に任ぜられていることからしても、
 都督青州諸軍事であると推測します。
 職官志には、「觥督裵軍爲上、監裵軍次之、督裵軍爲下」とあり、都督と督が異種とされています。
 ここは、そのまま「督青州諸軍事」と抜き出して、
 注に、「都督が正しいと思われる」などと落とされるのが妥当と考えます。

●尚書右僕射に転任し、散騎常侍を加官された(6)。

 注に、「恵帝紀」元康元年(二九一)三月の条および『資治通鑑』巻八二には、【略】
 とありますが、本紀には主たる事項しか記述されず、その欠を補うのが列伝と思いますので、
 この注は不要と考えます。

 扶風王駿伝

●〔使〕持節・都督〔雍涼等州諸軍事〕はもとのままとされた。

 原文「持節・都督如故」。意味は訳文の通りだと推測されますが、
 無理やり読み下せば、「節を持ち都督することは故の如し」でしょうか。
 ここは、「節を持ち〔雍涼などの州の諸軍事を〕都督することはもとのままとされた」
 としてはまずいのでしょうか。

全体的に思ったのですが、原文「子」は、「息子」などにされたほうが、
より正確と思われますが、いかがでしょうか。

37suite:2004/11/30(火) 22:51
(移行対象 投稿日: 2004/10/11(月) 15:24)

李特載記

●趙[广欽]がみずから大都督・大将軍・益州牧を名乗ると、

 原文「[广欽]自稱大都督・大將軍・益州牧」。
 「趙[广欽]が大都督・大将軍・益州牧を自称すると」のほうが、
 正規の任命ではないニュアンスがより出ると思われます。

 後文に、「太安元年(三〇二)、李特は益州牧・都督梁益二州諸軍事・大将軍・大都督を自称し」
 原文「太安元年、特自稱益州牧・都督梁益二州諸軍事・大將軍・大都督」
 とありますが、こちらの訳を推したいと思います。

●趙の長史の袁洽やが任命した地方官長(郡太守・県令)を殺した。

 カッコ内に、県長を加えることを提案いたします。

●恵帝は梁州刺史の羅尚を平西将軍、兼護西夷校尉・益州刺史とし

 原文「惠帝以梁州刺史羅尚爲平西將軍・領護西夷校尉・益州刺史」
 意味は同じなのでしょうが、「領」を「兼」へと変えた理由がよくわかりません。
 そのままそっくり抜き出してはまずいのでしょうか。


・・・自分で読み返してみて、どうも喧嘩口調の嫌いがありますが、
断じてそのようなことはございません!(必死)

最近、掲示板が活性化していないのは、表サイトが更新されないのが唯一の理由ですが、
それに加えて、既存の訳文に対する指摘がないからだと思うのです。
そこで、つまらない指摘をしてみたのですが、どれもこれもどうでもいい内容ばかりのような気がします(汗)

それでは失礼いたします^^

38中村:2004/11/30(火) 22:53
(移行対象 投稿日: 2004/10/13(水) 13:56)

>>37suiteさんへ

李特載記への指摘ありがとうございます。
「自称」か「みずから名乗る」かで、正規の任命でないニュアンスが出るのが
どちらか自分では分かりかねますが、自称にしてみようかと思います。みずから
名乗ると訳した理由は自称という言葉がやや固いと感じたからでした。同訳他部
分で自称と訳していて統一がとれてないのですが^^;

県令・県長についてはたしかに指摘の通りかと思います。訂正します。

3番目の「領」を「兼」へと変えたのも、日本語として領〜〜と羅列しただけ
では理解ができないとのことからだったように思います。これについては原文
の通りにして、注などで「領」の意味合いを説明するのがいいでしょうか。
suiteさんの言われるとおり、「職官志」担当者というか官職担当の人が必要で
すよね。官職全般の知識がないと列伝の正しい翻訳もあやうくなりますから。
今回のご指摘ありがとうございます。

39suite@職官志:2004/11/30(火) 22:55
(移行対象 投稿日: 2004/10/17(日) 20:40)

晉書職官志727ページ箇所の、

裵公及開府位從公加兵者、筯置司馬一人、秩千石、
從事中觔二人、秩比千石、主簿・記室督各一人、
舍人四人、兵鎧士曹、營軍・刺姦・帳下觥督、外觥督、令史各一人。
主簿已下、令史已上、皆絳服。
司馬給吏卒如長史、從事中觔給侍二人、主簿・記室督各給侍一人。
其餘臨時筯崇者、則襃加各因其時爲節文、不爲定制。

裵公及び府を開き位公に從ひ兵を加へし者には、司馬一人を筯して置き、秩は千石、
從事中觔二人、秩は比千石、主簿・記室の督各ゝ一人、
舍人四人、兵鎧士曹(兵曹・鎧曹・士曹)、營軍・刺姦・帳下の觥督、外觥督、令史各ゝ一人。
主簿より已下、令史より已上は、皆な絳服す。
司馬に吏卒を給すること長史の如くし、從事中觔には侍二人を給し、主簿・記室の督には各ゝ侍一人を給す。
其の餘の臨時に筯崇する者は、則襃加(?)各ゝ其の時に因りて節文を爲し、定制と爲さず。

「則襃加」の箇所が読めないのですが、どのように読まれるでしょうか。
教えてください。

40えちぜん:2004/11/30(火) 22:57
(移行対象 投稿日: 2004/10/18(月) 00:38)

「襃加」は漢語大詞典によると、”嘉奨進秩”とありました。
一つの単語と考えて良いようです。一応体言化して読んでみました。

「其の餘時に臨みて筯崇すれば、則ち襃加すること各ゝ其の時に因りて節文を爲し、定制と爲さず。」

41中村:2004/11/30(火) 22:58
(移行対象 投稿日: 2004/10/18(月) 12:20)

襃加・・・
漢語大詞典ではまさにこの『晋書』職官志が用例として出てますね^^;
襃めて加える(→嘉奨進秩)ということで理解できるかと思います。

なお、『漢語大詞典』は下記のURLよりウェブ上で使うことができます。
「ENGLISH」を選んでください。
http://www.ewen.cc/hd20/

42suite:2004/11/30(火) 22:59
(移行対象 投稿日: 2004/10/20(水) 20:12)

『漢語大詞典』WEBは自分のPCからは見られなかったのですが、ありがとうございました。

>>中村さん
「領」などの説明は、そのまま抜き出すか、「護西夷校尉を兼任させた」等が適当と思ったりします。
中華書局の点に従うのか、このあたりも話し合う必要がありそうですね。

43suite:2004/11/30(火) 23:01
(移行対象 投稿日: 2004/10/20(水) 22:55)

726ページ10行目以降、「裵公及開府位從公者、品秩第一、食奉日五斛」で始まる段落で、
よくわからない点があるので、教えてください。
この段落は、文武公の属官と服飾制度等が記載されているのですが、その属官を整理すると、

文武公 【兵を統率せず、持節觥督ではない者】
  長史(一人・秩一千石)
  西閣祭酒(一人)
  東閣祭酒(一人)
  西曹掾(一人)
  東曹掾(一人)
  戸曹属(一人)令史(一人)
  倉曹属(一人)令史(一人)
  賊曹属(一人)令史(一人)
  御属令史(一人)
  閤下令史(一人)
  西東曹倉戸賊曹令史(?)
  門令史(一人)
  記室省事令史(一人)
  閤下記室書令史(一人)
  西曹学事(一人)
  東曹学事(一人)

司徒
  左右長史(各一人・秩は千石)を加えて置く。
  左曹掾(一人)属(一人)
  右西曹掾(一人)属(一人)
  令史以下は同じ。

司空
  導橋掾(一人)を加えて置く。


ほぼ以上のようになるのですが、「西東曹倉戸賊曹令史」がよくわかりません。
さらに細かく言えば、「戸倉賊曹令史屬各一人」とありますが、
「屬令史」と記されていないのは何故か、という疑問が残ります。

44えちぜん:2004/11/30(火) 23:05
(移行対象 投稿日: 2004/10/22(金) 01:27)

何曾伝です。翻訳するにあたり、不明な個所がありますので、ご教示ください。

996ページ 故將明袞職,未如用乂厥辟之重。

 「未如用乂厥辟之重」が不明です。

  「かつて三公の職務を明らかにしようとしたが、・・・。」

997ページ 置長史掾屬祭酒及員吏,一依舊制。所給親兵官騎如前。主者依次按禮典,務使優備。

 最後の「務使優備」が不明です。

  「長史掾屬祭酒及び員吏を置く。ひとまず旧制度に従って、与えた親兵官騎は以前のままとする。主な者は順次礼典に従うようにし、・・・。」


998ページ 都官從事劉享嘗奏曾華侈,以銅鉤 [耑友]紖車,瑩牛蹄角。

 「以銅鉤 [耑友]紖車,瑩牛蹄角。」はどういうことでしょうか?

  「都官従事の劉享はかつて何曾が贅沢であると奏上するにあたり、・・・。」

よろしくお願いします。

45中村:2004/11/30(火) 23:07
(移行対象 投稿日: 2004/10/24(日) 20:00)

>>43 suiteさんへ

ひとつの解釈として。。。

「西東曹倉戸賊曹令史」はその前にある「西東曹掾・戸倉賊曹令史属」と対応して
いるところを見ると、前者は「令史」で後者は「令史の属」を意味するのではない
でしょうか。
すなわち「西東曹掾・戸倉賊曹令史属」は
  西曹掾(一人)
  東曹掾(一人)
  戸曹令史の属(一人)
  倉曹令史の属(一人)
  賊曹令史の属(一人)
そして「西東曹倉戸賊曹令史」は
  西曹令史(一人)
  東曹令史(一人)
  倉曹令史(一人)
  戸曹令史(一人)
  賊曹令史(一人)

このように解すれば「令史屬」となっている点も理解できると思います。
ただ掾と令史の属とが一緒にあげられていて、令史がつぎに出てくる点が
やや不思議ですが、こうした官職の列挙できちんと高下の順になっていな
いのは漢碑などでまま見られます。ご参考までに私見を。。。

46中村:2004/11/30(火) 23:11
(移行対象 投稿日: 2004/10/24(日) 21:01)

>>44えちぜんさんへ

「故將明袞職,未如用乂厥辟之重」
「だから三公の職を明らかにしようと思ったら、用乂厥辟の重きが一番である」?
検索すると「尚書(書経)の周書・君奭(セキ)篇に「用乂厥辟」という句が
見えますからそれを踏まえてのことでしょう。(訳せないので、訳はなにかの訳
書をご覧ください//爆)

「務使優備」
務めて優備せしむ でしょうか。優には「ゆたかな。充足したさま」(漢辞海)
の意あり。なお上記記事での「一」「主者」は「すべて」「つかさどる者」の意
かと。

「以銅鉤 [耑友]紖車,瑩牛蹄角」
銅製のかぎ状のぬいとりのあるもので車を引き、牛の蹄と角を〔宝石のように〕
磨き上げるほどであった。
でしょうか。かなり分かりませんが^^; ご参考までに。

47えちぜん:2004/11/30(火) 23:12
(移行対象 投稿日: 2004/10/26(火) 01:41)

中村さんへ

早速のご回答ありがとうございました。
これらをもとに、もう一度検討してみます。

『晋書』は『尚書』の引用が多いですね。『尚書』の翻訳を
手に入れないと。。。

48中村:2004/11/30(火) 23:22
(移行対象 投稿日: 2004/11/25(木) 13:42)

巻33を読んでみました。以下、ご検討ください。

王祥伝

爲具車牛(ために車を引く牛を用意した)…車牛は「牛車」のこと。

政化大行(政治の改革を大いにおこなった。)…うまく言えないが、政治がうまく行き渡る、政治のいい結果が広く行き渡った、の意。後文に政化を「国を治め民を教化する」と訳しているのが適訳かと。

時人歌之曰(時に人は歌った。)…誤訳ではないが、やはりここは原文の意をくんで「時の人」とすべきか。

損魏朝之望,虧晉王之徳(魏朝を損なう望みは、晋王の徳を欠くこととなる。)…魏朝の望を損ない、晋王の徳をかく。訳しにくいが、魏朝への名声?期待?を傷つけることは、晋王の徳も欠けさせることになる。

今日方知君見顧之重矣(今日、君主が支持されることの重大さを知った)…「顧」は大切にする、重んじるの意。「重」は、重大ではなく程度が重いこと。今日はじめて、君主がかくも大切にされていることを知った。

詔聽以[目隹]陵公就第(武帝(司馬炎)は[目隹]陵公(王祥)が官職をやめて私邸に戻ることを許した)…[目隹]陵公の身分で(官職をやめて)私邸に戻ることを許した。

古之致仕,不事王侯(古の辞職は王侯に仕えないという)…訳文の意がやや不明。古の辞職は王侯には関係ない(王侯は辞職するものではない、いつまでもその身分を保障される)、の意か。

不宜復苦以朝請(再び数多く参内を請うことがあってはならない)…「苦」を「数多く」と訳しているが誤り。「よろしく復た苦しめるに朝請を以てすべからず」。参内を請いて苦しめてはならない、の意。

大事皆諮訪之(大事は皆で検討して、王祥を訪ねよ。)…大事はすべて王祥を訪ねて諮るように。「諮訪」は諮ることと訪ねること、ないし訪ねて諮ること。

家無宅宇(家には軒がない)…宅宇は住居・住まい。王祥の「家」(家)には舎人や官騎が住む「宅宇」(住宅)がないから、下賜する第(邸宅)が完成するまで役所住まいにさせるとのこと。軒がない(豪華でない?)からではない。

山玄玉佩、衞氏玉棔(山玄玉佩、衞氏玉棔)…山玄の玉佩、衛氏の玉玦。「棔」とあるが原文は「玦」。

徐喪…「徐」とあるが原文は「除」。注(25)もまた同じ。

親親故吏(親しくしていた元の部下たち )…「親親」は親族、親戚の意。親戚と元の部下たち、の意。
不忘故飲…「飲」とあるが原文は「郷」。

朱楠以非理使祥…「楠」とあるが原文は「屡」。
以太中大夫歸老(太中大夫を引退させた)…太中大夫の身分のまま引退させ、の意。

故以相與(だから〔この刀でその〕助けとしないか)…相を助けると訳しているが、書き下せば「ゆえに以てあい与ふ」で、だから〔この刀を〕あなたに与えよう、となろう。ここの相は副詞で、たがいにの意ではなく、「ある対象が想定される関係の中で動作が一方向にのみ向かうことを表す《訳出しないか、対象を「私に」「彼に」などと明示して訳す》」(漢辞海)の意。

49中村:2004/11/30(火) 23:23
(移行対象 投稿日: 2004/11/25(木) 13:42)

巻33を読んでみました。以下、ご検討ください。

鄭沖伝

及高貴郷公講尚書,沖執經親授(高貴郷公(曹髦)の代になって、〔鄭沖が〕尚書の講義をおこなう時、鄭沖は経書を手に持って、親切に講義をおこない、侍中の鄭小同とともにその功労を誉められた)…高貴郷公(曹髦)が尚書を研究(勉強)した時、鄭沖は経書を手に持って、高貴郷公(曹髦)にじかに教え、侍中の鄭小同とともに賞賜をたまわった、の意。「親」は親切ではなく自ら、じかに。

而不預世事(政治には関与しなかった)…世俗のことには関与しなかった、の意。世俗のつきあい、交流などを指すか。

其爲壽光、朗陵、臨淮、鉅平國置郎中令…原文の「博陵」が抜けてます。「其爲壽光、朗陵、臨淮、博陵、鉅平國置郎中令」が正しい。

可謂朝之儁老,衆所具瞻者也(晋朝の賢老と言うことができ、衆人が見本とした)…可謂〜者也、で、晋朝の賢老で、衆人の羨望の対象(衆人が仰ぎ見る人)と言える、くらいの意か。

豈必遂朕憑頼之心,以枉大雅進止之度哉!…この原文に対応する訳文が抜けている。

以壽光公就第(寿光公の官職をやめさせて、私邸に帰す)…寿光公の身分のまま私邸に帰す

第一區(家一棟)…「第」はやはり邸宅と訳すべきか。

(17)原文「明年薨」 『資治通鑑』晋紀二に、「泰始十年閏正月(癸酉)??日、寿光成公鄭沖が卒去した。」とある。 …泰始十年閏正月癸酉は、十一日にあたる(陳垣『二十史朔閏表』)。

(18) 原文「追贈太傅」 武帝(司馬炎)が即位した時に、太傅に任命されているが、死後に再度追贈されている。誤りか?…即位時に任命され、その後辞職して「寿光公の身分のまま私邸に帰」されている。つまり死んだ時はただの寿光公で役職にはついていなかった。そのために死後、太傅を追贈されたのだろう。

50中村:2004/11/30(火) 23:25
(移行対象 投稿日: 2004/11/25(木) 15:28)

巻34羊コ伝は以前指摘したこともあり、自分としては指摘するところはありません。

陳騫伝

侍中劉曄(侍中の劉嘩)…侍中の劉曄。訳文は誤字。

而所苦未除,毎表懇切,重勞以方事(骨折りな事も除かず(5)、各々の上奏は懇切であり、苦労を重ねて事柄を正した)…しかし苦心していることはまだ取り除かれていないので、ことあるたびに懇切に上奏し、辺境の事案に苦労を重ねている。

(5)原文「所苦未除」。「苦」は文字通り「苦しい、骨折りである」の意であろうと思われるが、この一節は意味がよく分からない。…上記参照。

陳騫伝はやや意訳のところが多いかと感じましたが、明らかな誤訳ではないところはスルーしました。

51<削除>:<削除>
<削除>

52中村:2004/12/01(水) 22:09
列女伝の指摘その1

義殊月室者(奧部屋で義をことにする人たちである。)…義をことにする、というのが少し分かりにくいかと思うので、奥部屋で義を突出させた人たちである。くらいはどうでしょうか。「月室」は漢の長楽樂宮の宮殿名なのでそのまま訳出してもよいか。

至若(このうえなく若くして)…訓読すれば「〜のごときに至りては」。以下に続くものたちに至っては、の意。

原文省略(子政(劉向)(15)が以前に彼女らの事跡を〔『列女伝』に〕あつめ、元凱(杜預)(16)が後になって〔『女記讃』を〕編んだのは、女性が守るべき手本をつぶさに述べ、女性が身につけるべき徳の教えをおぎなうためである)…子政(劉向)(15)が以前に彼女らの事跡を〔『列女伝』に〕あつめ、元凱(杜預)(16)が後になって〔『女記讃』を〕編んで、女性が守るべき手本をつぶさに述べ、女性が身につけるべき徳の教えをおぎなった、とすべきか。こうすると後段の「故」が生きてくる。前代の2著書で泰始年間以前の女性については記されているので、ここではそれ以降の女性について記す、とのことであろう。

有才鑒(目端が利いていた)…目端が利くという言葉を知らなかったので^^。人を見る目があった、くらいが分かりやすいかと。

美容止(顔かたちの美しさをとどめ)…「容止」は容貌のこと。訳文でも意は通じるが、美しい容貌で、の意。

(22)「吉凶導従の儀」…注にあるように司馬孚伝に「吉凶導從二千餘人」とあり、「導從」とは皇帝や貴人・官人が出行するときの従者たちを言う。思うに吉凶導従とは婚礼や葬式の時に付き従う従者(行列)のことだろう。二次葬であるが略式でなくきちんとした葬儀として執り行ったということ。

汝輩逆賊無道,死有先後,寧當久活!(おまえたち逆賊は道徳心がないから、死に早い遅いがあれば、さぞ長生きがしたかろう!)…おまえたち逆賊には道徳心がないから、死に早い遅いがあっても、長生きはしまい!

劬勞備至(成長するまで懸命に働いた)…原文には成長するまで、という意はない。「劬勞」は苦労、「備至」は備わり至る、すべて備わっていること、極まっていること。非常な苦労をした、の意。

吾聞忠臣出孝子之門(忠臣は孝子の門から出ないとわたしは聞いています)…忠臣は孝子の家から出るとわたしは聞いています

嘗冬至置酒(かつて冬至に酒を置き)…「置酒」で宴会、酒宴をすることを言う。かつて冬至に宴会をして。

當於奚官中奉養大家。義無歸志也(なんの官でみなを養っていくべきでしょうか。義とは後戻りしない決心なのです)…奚官というのは官府の名。犯罪者の親族は官奴婢となって奚官に属すことがある。「歸」はこの場合離婚して実家に帰ること。(官奴婢となって)奚官の中にあってみなを養います。道理からして離婚する気はありません。

潛自剔緜,以絳與昶,遂得數十人被服赫然(ひそかに自ら綿を切り取ってできた赤い衣を孟昶に与えた。こうして数十人を得ると服を着せて赤く燃えるごとくであった。)…ひそかに自ら(衣服から)綿をほじくり出し、赤い布地(だけ)を孟昶に与えた。そうして数十人分の立派な衣服を作った。赤のものは不吉としてしまいこみ、その服の中の綿でさらに服を作ったとの意味だろう。

以娥表示元達(娥を顔見せして)…娥の上奏した文を元達に見せて。この「表」はやはり前段に見える娥の啓を指すのでは。

復何用妾爲!(またなんでわたしを用いようとなさるのですか!)…「用」はここでは「以」と同じ。「復」は前句の「既」と呼応している。その上わたしをどうしようというつもりですか!

逆人之誅也,尚汚宮伐樹(反逆者を誅殺すると、宮殿を汚した樹でさえ斬る)…「汚宮」は汙宮に通じて、犯罪者の宮殿・住居を破壊すること、か。反逆者を誅殺する時には、住居を壊し(住宅にうわっていた)樹木さえ斬る。

服牛乘馬(牛に寄り添って馬に乗ったのは)…「服」とは車につけて操ること。牛を車につけて馬に騎乗したのは、の意。牛と馬の性質の違いから一方は車につけ、一方はじかに乗ったことを言う。

織錦(機織りをしながら)…機織りをして。詩文を縫いつけたのでしょう。

(31)「迴文旋圖詩」…調べ中です。…「迴文」は回文(下から読んでも意味をなす)の意とぐるぐるまわっている文というふたつの意味があります。「旋圖」は図をめぐって、の意か。そうすると回文で図柄をめぐって詩文が書かれている詩、となるかと思います。

文多不録(文の多くは記録に残されなかった)…文字数が多いので(ここに)載せない、の意。

53中村:2004/12/01(水) 22:11
列女伝の指摘 その2

皇天后土,寧不鑒照!(皇天后土、どうかご覧にならないでいただきたい!)…「寧」は反語。皇天后土(天の神、地の神)よ、(姚萇の悪行を)どうしてご覧にならないのですか! ご覧になるはずだ、ご覧になっていただきたいという語意。

我終不作凡人妻(わたしはどう終わっても凡人の妻にはなりませんよ)…「終不〜」は終わるの語意はあまりなく、決して〜ない、絶対に〜ないの意。わたしはけして凡人の妻にはなりませんよ。

若魂魄有知,當歸彼矣(もし魂魄があることを知るなら、段氏のもとに帰るべきなのです)…もし魂魄に知能知覚があるなら、段氏のもとに帰る(嫁ぐ?)でしょう。死後、魂魄となったときにも生前同様に知覚があるか、なにもなくなるかこの時代は論争があった。「當」はこうなるはずだ、という語意。

沐浴置酒(沐浴して酒を置くと)…沐浴して宴会を開くと

(38)「荐之以劉石、汨之以苻姚」は、「劉石をもってこれを荐(し)き、苻姚をもってこれを汨(べき)す」。…伝統的な訓読では「これを荐(あつめ)るに劉石をもってし、これを汨(こつ)するに苻姚をもってす」。荐はあつめる、汨はおさめる、とおす、みだす、しずむ。劉石を集めて、苻姚のように水を通す(治水)するの意味か。この部分難読、考を待つ。

夫繁霜降節,彰勁心於後凋;膻流在辰,表貞期於上紱,匪伊君子,抑亦婦人焉(そもそも霜の繁く〔雪の〕降るように節義は〔さかんで〕あり(37)、強い心を明らかにしていたものが、後代にはしぼんでいった。時にあってはとめどなく流れ、徳を高くして正しさを顕彰されるのを待っているのは、かの君子でないか、あるいはまた婦人であるか。)…「繁霜」は、詩経・小雅・正月の「正月繁霜、我心憂傷」を踏まえた表現で、周の正月歳首の4月に霜が降りることから、世が乱れていることを言う言葉。「降節」は節度が堕落する、低落すること。「後凋」は後彫と同じく君子の晩節あることをいう。松柏が冬に他の木より遅れてしぼむことを君子の節が変わらぬことを比喩する。「膻流」は乱世・動乱の世のこと。「抑亦」は「匪伊」と呼応し、ただ〜のみならずそもそもまた〜と訓じ、〜だけでなくさらにまた〜の意。
世が乱れて人々の節度は地に落ちている時は、強い心は君子の変わらぬ節度としてあらわれ、動乱の時にあっては貞節は上徳としてあらわれるものだ。それは君子だけではなく婦人にもあてはまる(言える)。

罕樹風檢,虧閑爽操(教化の手本を立てるものもまれであり、落ち着きはなくなり、品行にはそむき)…「風檢」は風紀、「閑」はここでは守るの意。風紀を立てるものはまれで、素直な節操を守るものもなく。

54中村:2004/12/01(水) 22:11
列女伝の指摘 その3

馳騖風埃,脱落名教,頽縱忘反,於茲爲極(馬を走らせて土ぼこりが舞い(戦乱が巻き起こり)、名教は脱け落ち、頽廃や放縦や忘恩や謀反は、このとき極まった)…訓読すれば、馳騖、風埃ありて、名教を脱落し、頽縱、忘反すること、茲において極たり、か。「頽縱」は退廃してやりたい放題になる、退廃して秩序がないこと。「忘反」は純朴な状態に返ることを忘れる、純朴を忘れること。軍馬が走り土ぼこりが舞(戦乱が巻き起こ)ってから礼教は地に落ち、退廃して秩序が無く純朴さを忘れることは、このとき極まった。

至若惠風之數喬屬(そのような状態にいたって恵風(愍懐太子妃王氏)が喬属を責め)…「至若」は〜がごときに至りては。例として挙げる時の言葉。後句の「斯皆冥踐義途,匪因教至」の直前までかかる語。恵風(愍懐太子妃王氏)が喬属を責め〜〜〜〜たりというようなことは。

斯皆冥踐義途,匪因教至(これみな正しい道を踏んで亡くなったのは、教化によるものではないか)…「匪因教至」は普通に否定でとらえていいかと。このようにみな正しい道を踏んで亡くなったのは、教化によるものではないのだ。その意味は、史臣曰くのすぐ後や後句に書いてあるように、列女伝に記された人々は教化によるものではなく、教化・秩序が低落した時期にあってある意味当たり前のこと(再嫁しないなど)を行った人たちだから、ということだろう。

聳清漢之喬葉,有裕徽音;振幽谷之貞蕤,無慚雅引(〔彼女らは〕天の川がそびえ立ち、葉が高いところにつくように、ゆったりとすぐれた評判があった。幽谷の節操が垂れ下がっているのを奮い立たせ、もとより引いて恥じることなく)…「清漢」は天の川の他に天空の意もある。「貞蕤」は冬でも枯れない常緑樹の葉。「雅引」は、『漢語大詞典』に正曲のこととあり、文選の劉孝標「広廣絶交論」に見える語。
天にまでそびえる高木の葉には非常にすぐれた評判がある(のは当然だ)が、山深い谷底に揺れる冬でも枯れない葉もまたただしい調べと言ってもその名に恥じない。(高い木=君子などの正しい行い、にはすぐれた評判があるのは当然だが、谷間の常緑樹=秩序の乱れた時のただしい行動(つまりは列女伝の女性たち)、にもまた賞賛すべきことである)

比夫懸梁靡顧,齒劍如歸,異如齊風。可以激揚千載矣。(男をならべて梁(はり)に引っかけて顧みることなく、剣をならべてあるべきところに落ちつくようであり、普通でないやりかたで風格を整えるようであった。千年のあいだも称揚すべきであろうか。)…まず原文のが「異如齊風」は「異日齊風」の間違い。また中華書局の断句の「異如齊風,可以激揚千載矣。」でいいかと思う。「比夫」は発辞の句で、「このごろそれ」。「懸梁」は梁(はり)に(縄を)かけて自害すること、「靡顧」は顧みない、気にかけないこと。「齒劍」は殺害されることまたは自害すること、「如歸」は前後の脈絡、対句の表現のありかたからすれば、家に戻るよう(に当たり前の様子)であった、の意か。「異日」は以前と以後の両意あるがここでは後世の意か。「齊風」は風俗を正しくする。
ここに挙げたように躊躇せずに梁に縄をかけて自害したり、当たり前のように殺害された女性たちは、後世の風俗を正しくするもので、以後千年のあいだも称揚すべきであろう。

賛曰:從容陰禮,婉娩柔則。載循六行,爰昭四紱。操潔風霜,譽流邦國。彤管貽訓,清芬靡忒(訳文省略)…「靡忒」は靡慝に同じく、変わることがないの意。訓読すれば、從容たる陰禮,婉娩たる柔則。ここに六行に循い,ここに四紱を昭らかにす。操潔、風霜は、誉れ邦國に流る。彤管もて訓を貽(おく)り,清芬は忒(かわ)ること靡し。以下私訳。たおやかな女性の規範、麗しき女性の規律があれば、〔孝、友、睦、婣、任、恤の〕六つの行いに従い、〔婦徳・婦言・婦容・婦功の〕四つの徳を明らかにする。純粋な操は風や霜のようであれば、そのよい評判は国中に流れ、〔女性が使う〕朱色の筆が遺訓を書き残せば、清々しい徳行は不変なのである。

55中村:2004/12/04(土) 07:22
suiteさんが訳された部分の指摘です。明らかな誤訳は少ししかありません。
言葉が足りない部分もあるかと思いますが、ご参考までに。

巻90杜軫伝

奏議駁論多見施行(上奏文や他者への反論文において、引用が多くみられた)…「施用」は施行・実行すること。上奏や他人の上奏の反駁で、〔彼の意見が〕用いられることが多かった。

巻91范平伝

謝病還家(重病を理由に職を辞して家へ帰り)…細かいことですが、重病かどうかは分からず。病気だと言って職を辞して家に帰り。

蔚爲辧衣食(范蔚は〔彼らの〕衣食を工面した(2))
(2)おそらく、蔵書を有料にて閲覧させていたと思われる。教示を待つ。…「辧」は中型漢和辞典にはあまり見えない意ではあるが、食事などを準備する意がある(『漢語大字典』引晋書石崇伝)。范蔚は彼らのために衣食を準備した(備えた)。工面でもニュアンスは伝わるか。有料で閲覧ということではなく、まったく無料で彼の蔵書を閲覧させ、さらには遠来からの閲覧者には衣食をも提供した、との意味だろう。

巻91文立伝

陳壽、李虔爲游夏(陳寿と李虔(李密)を游夏にたとえ)…游夏は孔子の弟子の子游、子夏の2人。陳寿と李虔(李密)を子游と子夏にたとえ。注3も。

坐是停滞者累年(〔仕官に対して〕何もできずに隠退したまま年を重ねた)…訓読すれば是に坐して停滞すること累年、かと。是にあたるのは、蜀が平定されたこと(旧敵国の臣であったこと)か親不孝という郷里の議論ではないかと思う。そのために仕官できぬまま年を重ねた、そのために数年間仕官できなかった。

文立忠貞清實,有思理器幹(文立は、信念がかたく清実であり、仕事をするには深く考えて道理を見極めることができる。)…誤訳ではないがやはり忠誠、貞心、というニュアンスが欲しいし、仕事をするには、というのははっきりとは書かれていない。私訳として、文立は、忠誠であり清実であり、思慮深く才能がある。

蓋所以拔幽滯而濟殊方也。(それはおそらく、埋もれてしまった人材を抜擢することによって他郷を救うことができる、ということであろう)…「殊方」はたしかに他郷の意であるが、より平易には遠方、異域の意。「所以」はゆえん。それはおそらく、埋もれてしまった人材を抜擢することによって遠方を助けることができるからでしょう。

程瓊雅有徳業(程瓊は上品で徳行があり)…「雅」はもとより、の意。程瓊は平素から徳行があり。

56えちぜん:2004/12/05(日) 02:09
中村さん、王祥伝・鄭沖伝へのご指摘ありがとうございます。
ひとまず王祥伝について確認しました。

爲具車牛(ために車を引く牛を用意した)…車牛は「牛車」のこと。

 「車牛」を”車を引く牛”と訳したのは、『大漢和辞典』によります。『漢語大詞典』には
 ”指牛車”とありますね。王祥伝のこの箇所を訳していた時には『漢語大詞典』を持っ
 ていなかったので。(持っていたとしても、『大漢和辞典』に載っていれば調べてなかった
 でしょうね。(笑))どちらの辞書も王祥伝のこの箇所を用例として引いています。
 「牛車」を採用したいと思います。

政化大行(政治の改革を大いにおこなった。)…うまく言えないが、政治がうまく行き渡る、政治のいい結果が広く行き渡った、の意。後文に政化を「国を治め民を教化する」と訳しているのが適訳かと。

 ”政治が大いにおこなわれた”と訳したいと思います。”改革”はちょっと踏み込みすぎた
 かなと。『十三経注疏』によると、「大行」は『孟子注疏』尽心章句上に「君子所性、
 雖大行不加焉」とあり、趙岐の注に「大行、行之於天下」とあり、阮元の校勘記によ
 ると「之」は本によって「政」となっているらしいので、"政治を天下におこなう"となります。
 このことから「大行」は政治が大いにおこなわれる、という行為を表し、うまく行き渡る、と
 いう結果までは含まないのではと考え、冒頭の訳としようと思った次第です。”国を治め
 民を教化する”もたしか『大漢和辞典』によったものだったはずです。これは”政治”と一
 言でまとめました。

損魏朝之望,虧晉王之徳(魏朝を損なう望みは、晋王の徳を欠くこととなる。)…魏朝の望を損ない、晋王の徳をかく。訳しにくいが、魏朝への名声?期待?を傷つけることは、晋王の徳も欠けさせることになる。

 「望」は『大漢和辞典』に”標的。尊び敬うところのもの。”とありました。”標的”は?で
 すが、次のように訳してみました。”〔天子をさしおき、王に拝礼するという行為は〕魏朝
 の尊貴なることを傷つけ、晋王(司馬昭)の徳を欠けさせることになる。”

今日方知君見顧之重矣(今日、君主が支持されることの重大さを知った)…「顧」は大切にする、重んじるの意。「重」は、重大ではなく程度が重いこと。今日はじめて、君主がかくも大切にされていることを知った。

 「重」は”重大”・”重要”の意で良いのではないかと考えます。晋王(司馬昭)が権勢
 を持ち始めたころに、”今日はじめて、君主がかくも大切にされていることを知”るという
 のは、不自然かと。寧ろ拝礼を拒否されて、上に立つものにとって、下のものたちの支
 持が非常に重要だと強く感じたというニュアンスではなかろうかと思います。”今日はじ
 めて君主が〔家臣から〕大切にされることの重要性を知った。” ”支持される”というの
 はやはり意訳が過ぎました。

古之致仕,不事王侯(古の辞職は王侯に仕えないという)…訳文の意がやや不明。古の辞職は王侯には関係ない(王侯は辞職するものではない、いつまでもその身分を保障される)、の意か。

 『十三経注疏』によると、『周易正義』蠱に「上九。不事王侯。高尚其事。」とあり、
 これを踏まえているようです。王弼の注に「最處事上、而不累於位。不事王侯。高
 尚其事也。」とあり、孔穎達の疏に「不復以世事為心、不係累於職位、故不承事
 王侯、但自尊高慕尚其清虛之事、故云高尚其事也。」とあります。また、『禮記
 正義』表記に「易曰、不事王侯、高尚其事。」とあり、鄭玄の注によると「言臣致仕
 而去、不復事君也。君猶高尚其所為之事、言尊大其成功也。」とあります。武帝
 (司馬炎)はこの『禮記正義』の鄭玄の注を見ていて、詔書に引用したものと思われま
 す。次のように訳してみました。”昔の辞職は、〔易経・礼記によると〕「王侯(君主)に
 事えず〔世俗や職位に縛られず自身を高めた〕」と言う。”


家無宅宇(家には軒がない)…宅宇は住居・住まい。王祥の「家」(家)には舎人や官騎が住む「宅宇」(住宅)がないから、下賜する第(邸宅)が完成するまで役所住まいにさせるとのこと。軒がない(豪華でない?)からではない。

 「家」には『漢辞海』によると、”卿大夫の采地。俸禄を得るための知行地。”とあります。
 「宅宇」の訳”のき”は『大漢和辞典』によったのですが、”家に家がない”では意味不明
 だったので、翻訳当時は”のき”を採用したのだと思います。「家」が土地の意であれば、
 すっきりしました。”〔王祥の〕知行地には、〔舎人・官騎が住む〕宿舎がない”

57中村:2004/12/06(月) 14:04
えちぜんさん、検討して頂きありがとうございます。

レスのないところはえちぜんさんのレスで納得しましたが、以下の点はもう少し。
また基本的に指摘に際しては『漢語大詞典』をひいています。

車牛、は『大漢和辞典』は「車を引く牛」、『漢語大詞典』は「指牛車」ですね。自分は『漢語大詞典』を先に引き、それでも不明な時は『大漢和辞典』をひきます。この順番を推奨します(笑)。
どちらもほぼ同じ用例を引き、そこからはっきりと語釈が分かるものではないので今回、検索かけてみました。

後漢書・烏桓列伝「遮截道上商賈車牛千餘兩」→数詞が「両」
三國志・魏書・倉慈伝注引魏略「是時民多無車牛。斐又課民以輭月取車材、使轉相教匠作車」→「車牛」のない民衆のために「車」を作らせている。なおちくま訳は「車と牛」
魏書・文帝紀「車牛百乘」→数詞が「乗」
と原文からするとやはり牛車がいいかと。ただ官が支給する例を見ても牛車の車だけを給付するのではなく
牛もまた給付しただろうから(そうでないと動力がなく移動手段の支給という目的にそぐわない)、「車牛」
は牛と牛車のセットだったのかもしれませんね^^

「今日方知君見顧之重矣」はやはり私訳のように考えます。
晋王(司馬昭)が権勢を持ち始めた時だからこそ、その権勢に従わずなおも皇帝を重んじたのが王祥の行為だと思うからです。
そして権勢を持っていた司馬昭は、その行為を目の当たりにして、実際の権勢よりも権勢がなくなったとしても皇帝というだけ
で重んじられることを実感したのだと思います。
セリフのニュアンスをどう解釈するか、意見が分かれるところだと思いますので、他の人の意見も聞いてみたいところ^^

「古之致仕,不事王侯」はなかなか難しいですね。
王弼注は「最高位にあって、位を気にしない」つまり「王侯を事とせず。其事を高尚す」と読んでいるようで、
孔疏は「俗事や職位を気にかけない、だから王侯には仕えない。その清らかなことを自分がよしとする、だからその事を高尚とす」
礼記引用の鄭注は「引退したらもう出仕しない。君主がその行いを高尚とする」と3者の解釈はすべて違ってます^^
どうも易の原文は「王侯を事とせず」最高位の王や侯に自分がいてもその位を気にしない、という意で、
礼記の文脈でさらに鄭注にいたって「王侯に事えず」という解釈が生まれたように思えるのですがどうでしょう。
上記注釈の訳もあるいは間違っているかもしれませんから、やはり注釈を含んだ五経の訳書は手元に置いてみたいですね(とすると新釈漢文大系か?)。
晋書の「古之致仕、不事王侯」は、前後の文脈からしても一旦引退したらもう仕えない、の意でしょうから、
その文脈で訳せば「易経にあるように、昔は辞職すれば、もう王侯には仕えないものだった」とするのはどうでしょうか。

「家無宅宇」
家はやはり知行地の意味ではないと思います。春秋以前の「家」はたしかにその意があるようですが、
晋書の「家」は「いえ」「うち」の意だと思います。
「宅宇」はこの時期から出てきた新語のようですので、うまい訳語が思いつきませんが、前回の私訳
は下賜される舎人と関連づけて訳しましたが、彼の清貧たるを言う言葉とすれば「家には豪華な(広い?)
家屋がない」の意かもしれません。

58スート:2004/12/07(火) 16:58
中村さん、指摘ありがとうございました。


巻82陳寿伝

  坐是停滞者累年。「そのために仕官できず隠退したまま年を重ねた」に改めました。

巻90杜軫伝

  奏議駁論多見施行。
  「上奏や、他者への上奏への反駁では、〔彼の意見が〕用いられることが多かった」に改めました。

巻91范平伝

  謝病還家。「病気と称して職を辞して家に帰り」に改めました。
  蔚爲辧衣食。「范蔚は彼らに衣食を提供した」に改めました。
  尚、この伝の注は全て削除しました。

巻91文立伝

  陳壽・李虔爲游夏。「陳寿と李虔(李密)を子游と子夏にたとえ」に改めました。
  文立忠貞清實、有思理器幹。「忠実で心正しく清実であり、思慮深く才能がある」に改めました。
  殊方。「辺境の異域」に改めました。「辺境地域」でもよろしいのでしょうか。
  程瓊雅有徳業。和刻本に従って、「雅ヨリ」と読みました。


范平伝と文立伝は、全面的に修正し次第、新稿を送ろうと思っています。

59えちぜん:2004/12/12(日) 02:37
中村さん、王祥伝への更なるご検討、ありがとうございます。

「車牛」
辞書は中村さんご推奨の引き方にしてみます。数詞に着目して意味を特定する方法も目からうろこな感じで、とても参考になります。

「今日方知君見顧之重矣」
確かにこのニュアンスをどう捉えるかは難しいですね。文法的な観点、前後の文脈からの観点、他の書籍でこの件をどう伝えているかという観点などから、妥当なところを決めていくということになるのでしょうか?正直なところ、7:3くらいの割合で中村さんの訳が自然なのかなと感じています。というのも、えちぜんの訳は司馬昭が帝位に就くことをかなり本気で考えているということが前提となるからです。この前提が明らかになれば。。。という淡い期待が3の割合ということです。この前提については今後も考えていきたいと思います。

「古之致仕,不事王侯」
私は易経の注疏、礼記の注は更に間違うことを恐れて、訳せなかったのですが、中村さんの検討で納得です。

「家無宅宇」
「家」は知行地の意味ではないのですか。。。しっくりくると思ったのですが、ぬか喜びでしたね。


鄭沖伝へのご指摘については、私の方でも検討しましたが、すべてご指摘の通りであろうと思います。


詳細なご検討・ご指摘ありがとうございました。

60仁雛:2005/09/29(木) 16:23:59
こちらの掲示板は、【解體晉書】の掲載されている翻訳についての意見・指摘・質問を募るスレッドです。
会員・非会員にかかわらず、気軽に指摘してください。誤訳をなくすために、迅速に対応します♪


また、翻訳が出ていない『晋書』本文や他書の漢文についての質問も随時受け付けています。
答えられるかどうかわかりませんが、お気軽にカキコミください!!!

#なお、1〜59は会員内でやりとりしていた部分です。

61菅原:2006/01/09(月) 23:34:36
公開してからこの【解體晉書】で重要なスレに書き込みがないのは寂しいですね。
翻訳が出ていない『晋書』本文や他書の漢文についての質問も随時受け付けています。
答えられるかどうかわかりませんが、お気軽にカキコミください!!!

62スート:2006/01/18(水) 17:36:26
『晋書』武帝紀、冒頭部分。

初、文帝以景帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、特加愛異、自謂攝居相位、百年之後、大業宜歸攸、

初め、文帝以へらく、景帝旣に宣帝の嫡なれども、早世して後無し、帝の弟攸を以て嗣と爲し、特に愛異を加へ、自ら謂ひて相位に攝居せしめ、百年の後、大業宜しく攸に歸すべしと。

当初、文帝は、景帝は宣帝の嫡男であったが早世して後嗣が無かったので、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣として特別に愛情を注いでおり、自ら説明して宰相の位に就かせることで百年後には大業は司馬攸に帰すべしと考えていた。

「自謂攝居相位」が不明瞭なので、どのように訳すのが適当か迷っております。

63仁雛:2006/01/19(木) 16:33:08
スートさん、こんにちは!武帝紀の翻訳始められたんですね^^;

「自」は副詞では「みずから」で日本語化している通りの意味(自分で〜する)ですが、他にも「自殺」(自分で自分を殺す)の熟語のように「自分で自分を(V=動詞)する」という意味があります。
さらには、「自(V)」の(V)の後に従属節(まぁ、文ですね)がある場合は、その主語にもなるようです(魏晋以降の用例かと)。
「自謂攝居相位」の部分はまさにそれにあたります。「自分で自分が「攝居相位・・・」だと「謂」(=(V))する」ということです。「謂」はここでは、おもう、です。
それから始めの「以」は「以へらく」ではなく「以て」だと思います。原文はスートさんの通りですから、自分は訓読と私訳を掲げます。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡なれど、早世して後なく、帝の弟の攸を以て嗣と為すを以て、特に愛異を加へ、自ら謂へらく、相位に攝居し、百年の後なれば、大業は宜しく攸に帰すべし、と。

当初、(兄の)景帝は宣帝の嫡男であったが早世して跡取り(後嗣)がいなかったので、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にしていたことから、文帝は司馬攸のことを特に可愛がっていた。文帝は、自分は宰相の位で補佐し、百年の(or宣帝が死んだ)後、(天下統治という)大事業は司馬攸に任せるべきだ、と思っていた。

『晋書』巻三十八「齊王攸」伝に、攸のことを「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」と記しています。景帝に男子なく、攸を跡取りにしたとのこと。
「攝居」はちょっと分かりにくいですね。仮訳です。あまり時間もなく、誤りもあるかもしれませんが、ご検討ください。

64えちぜん:2006/01/20(金) 01:48:49
仁雛さんのコメントを踏まえて、もう少し追加。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡ならば、(すなわち)早世せば後なしを以て、帝の弟の攸を以て嗣と為し、特に愛異を加ふ。自ら謂へらく、相位に攝居するも、百年の後、大業は宜しく攸に帰すべし、と。

当初、文帝は、(兄の)景帝が宣帝の嫡男であるから、早世すれば跡取り(後嗣)がいなくなるだろうという理由から、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸のことを特に可愛がっていた。文帝は、しばらくは自分が宰相の位に就くが、自分の死後、(天下統治という)大事業は司馬攸に任せるべきだ、と思っていた。

「景帝既」の「既」は、「既にAならば、すなわちB」と読んで、前節での行為や事態が原因となって、後節の結果が導かれるであろうことを推定する用法。(『漢辞海』) 景帝の状況を見て、跡継ぎがいなくなることを推定。
「文帝以」の「以」は、理由や原因を表す。(『漢辞海』) 跡継ぎがいなくなることを推定したので、司馬攸を跡継ぎとした。
「攝居」は、『漢語大詞典』を引くと「暫居君位」とあり、「相位」は「宰相的職位」とあります。「攝居相位」で「実質的な最高権力者の地位(晋王?)に、嫡流ではないが一時的にしばらく就任する」というニュアンスでしょうか。
「百年之後」はそのまま訳すと、司馬攸はかなり長生きをしないといけなくなるので、ここでは人の死後のことを忌んでいう言葉。「百歳之後」「百歳後」の用例が『詩経』や『史記』高祖紀や『資治通鑑』秦紀にあるようです。(『大漢和辞典』)

65殷景仁:2006/01/20(金) 09:36:02
スートさん、仁雛さん、えちぜんさん:

初めまして、殷景仁ともうします。
こちらのサイトは、以前から時々のぞいていたのですが、今回「武帝紀」の訳について、皆さんがお話しされているのが面白そうですので、書き込ませて頂きます(横レスになりますがお許しください)。

これから急ぎの用がありますので、詳しい説明が書けずもうしわけないのですが、この部分についての訳は、私の考えではこのようになると思います。

当初、文帝は(自分の兄の)景帝が宣帝の嫡男であり、早世して跡取りがいないことから、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸を特にかわいがっていた。文帝は(即位したら)ひとまずは(皇太子は司馬炎にし、司馬攸は)宰相の位に就かせるが、自分の死後は、帝業は司馬攸に継がせるべきだと自身では考えていた。

「既」は「既然」の意、「〜である以上は」。
「自謂」の目的語は、文の最後までかかり、つまり「文帝自身は、〜だと考えていた」
「暫居相位」の目的語は、後半の「大業」以下の記述から考えて、「司馬攸」を指すものと思われます。
「大業」は「帝業」(『漢語大詞典』)、つまり皇帝の位を指します。

66Guang-Bi:2006/01/20(金) 19:31:51
>>52

武帝紀の訳で盛り上がっているところに、一年以上前の投稿について
の話で申し訳ありません。

あるいは、その後にもうお調べになられているかもしれませんが、
列女伝・竇滔妻蘇氏に出てくる「迴文旋圖詩」については、
「[王旋][王幾]図」(せんきず)で『大漢和辞典』を見られると
良いかと思います。

たまたま以前に、自分の周りでこのことが話のタネになったために
知っているのですが(^^;)

67殷景仁:2006/01/20(金) 23:16:24
前回のは急ぎ書き込みしましたので、あらためて「武帝紀」を読み直しました。すると、この文の後に、太子を決めるという話が出てきており、そこで「将議立世子、属意於攸」という記述がありますので、以前の私の訳ではふさわしくないと思いますので、以下のものに変えることにします。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡にして、早世して後なきを以て、帝の弟の攸を以て嗣と為し、特に愛異を加ふ。自ら謂へらく、相位に攝居するも、百年の後、大業は宜しく攸に帰すべし。

当初、文帝は(自分の兄の)景帝が宣帝の嫡男であり、早世して跡取りがいないことから、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸を特にかわいがっていた。文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが、自分の死後は、帝位は司馬攸のものになるべきだと自身では考えていた。

68仁雛:2006/01/21(土) 16:39:58
>>62 Guan-Biさん

ご無沙汰してます。情報提供ありがとうございます。
実は、自分も諸橋『大漢和辞典』を見てみたのですが、説明が分かるような分からないような感じでした(笑)。
「[王旋][王幾]図」(せんきず)で、もう一度見てみる必要がありますね。情報提供ありがとうございます!!!

>殷景仁さん・えちぜんさん

書き込みありがとうございます!!
お二人のご意見、解釈、それぞれ拝見しました。前半部分はなお自説が正しいと思っていますが^^;、後半部分は、お二人の解釈を見て、「攝居相位」の「攝」が動詞なのか副詞なのか判別し、さらに意味を確定する必要があり、「百年之後」が誰の死後を指すのか確定しないといけないなと思いました。
前半部の自説の再説明と後半部については、再度検討してレスいたします(実はこれから明日の夜まで外出いたしますので、時間がないのです)。ご挨拶、お礼かたがた、簡単なレスで失礼します。

69えちぜん:2006/01/22(日) 00:48:44
殷景仁さん、はじめまして。書き込みありがとうございます。【解體晉書】会員としての立場から申せば、このようにご意見を頂くと我々の翻訳作業にとって大変刺激になり、うれしく思います。今後ともよろしくお願いします。

さて、武帝紀の訳に関して、仁雛さんのご意見を踏まえ、若干、私の意見も追加して書き込みをしましたが(>>64)、殷景仁さんのご意見も踏まえ、もうちょっと考えてみました。私の訳出の理由など、前回の書き込みで書かなかったことも追記しようと思います。ただ、厳密に史料を追ったわけではなく根拠も薄弱、私の想像や思いこみも入っているので、参考程度でお読みいただければと思います。(スートさんのご質問からどんどんはずれていってしまいますが、ご容赦ください。)

1.「既」の用法について など
これは、文帝が司馬攸を景帝の跡継ぎにした時期を、景帝が死ぬ前だと想定していることからきています。仁雛さんが、「『晋書』巻三十八「齊王攸」伝に、攸のことを「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」と記しています。」と紹介されていますが、「齊王攸」伝にはその後に「及景帝崩,攸年十歲」と記述があります。この前後関係から司馬攸は景帝が生きている間に跡継ぎになったと考えたわけです。それから、これは思いこみもあるかも知れませんが、跡を継ぐというのは、景帝が死んでから(断絶してから)では遅いような気がするのです。ということで、文帝は、体調を崩しつつある景帝を見て、男子が生まれる可能性は低いと考え、司馬攸に跡を継がせたのだろうと思っています。

ところで、文帝が司馬攸を跡継ぎにしたように書きましたが、ここで「齊王攸」伝の「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」がちょっと引っかかりました。この文脈からいくと、宣帝が司馬攸を景帝の跡継ぎにしたととれるのです。つまり「宣帝命攸為嗣。」ということです。この可能性を考えたのですが、景帝が死んだ正元二年(255)、司馬攸は10歳です(前段引用)。宣帝が死んだのは、嘉平三年(251)ですから、司馬攸6歳です。「宣帝毎器之。」というからには、少なくとも6歳以前にそう評価したということになるので、それでは司馬攸は若すぎるのではないかと思います。そこでここは、「文帝毎器之。」ではないかと疑っています。(証明する版本を提示できないので本文は直しませんが。)そうすると武帝紀にあるような、文帝の司馬攸への期待とも辻褄があうかなと考えています。そして、司馬攸を景帝の跡継ぎにしたのも文帝ということになります。しかも時期的には宣帝の死後のことだろうと考えています。

2.「攝居相位」・「百年之後」について
「攝居」については、『漢語大詞典』の語義をほぼそのまま使いました。語義の「君位」と本文の「相位」を「実質的な最高権力者の地位」と考え、訳上は「宰相」としています。さて、先ほど司馬攸が景帝の跡継ぎになったことについて述べましたが、私の説でいくと、景帝が死ぬ前、つまり司馬攸が10歳になる前に跡継ぎとなっています。景帝が死に、嫡子とはいえやはり10歳と若すぎるため、「しばらくは自分が宰相の位に就く」と考え、そうしたのだと思います。そして権限を「自分の死後」に司馬攸へ返すことになると考えていたのだと思います。先述のように、司馬攸に跡を継がせたのは、宣帝の死後と考えていますから、この「百年之後」はやはり文帝の死後となります。

それから、殷景仁さんの訳に「文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが」とあり、私はこの訳から文帝が帝位をねらう野心をもっているように感じたのですが(違っていたらすみません)、私はむしろ、文帝は帝位を積極的に避けていたのではないかと感じています。その一方で司馬氏としての権力は着々と強化し、文帝の次の代では禅譲を受けられるような準備はしていたのだと感じています。なので、司馬攸が成長し禅譲を受けられる環境を整えるのが文帝自身の役目と自覚し、それは自身が生きている間の期間は必要だと思っていたのではないかと感じているのです。訳文の「(天下統治という)大事業は」の箇所は仁雛さんの訳そのまま使いましたが、私の認識では殷景仁さんと同じく「帝業」・「皇帝の位」を想定していました。

以上です。魏晋の頃の制度や風俗などの知識がほとんどない状態で、想像で書いていますので、説得力に欠けるものですが、ご参考までに。

70殷景仁:2006/01/22(日) 12:05:43
仁雛さん・えちぜんさんへ

お二方には、丁寧なご返事くださいまして、ありがとうございます。こちらもいろいろと考えさせられるご指摘で、感心することしきりでした。以前のご意見も再度拝察し、その上で、こちらもまた書き込ませていただきます。長々とした文で、読みにくいこと恐縮ですが、また何かご意見・疑問点ございましたら、ご返事ください。

仁雛さんへ
>前半部分はなお自説が正しいと思っていますが^^;

具体的には、司馬攸を景帝の後継にしたのは、①「景帝」か②「文帝」かということをおっしゃっているかと思います。これについて、私の方は、次のように考えます。
文の構造から判断して、仁雛さんの解釈には無理があるように思います。仁雛さんの解釈の場合、最初の「文帝……特加愛異」(文帝は……特に可愛がった)の文の間に、「以景帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣」というフレーズが入ることになります。しかし、「文帝」という主語のいきなりすぐ後ろに、主語の異なるフレーズを長々と置き、それから「特加愛異」という、最初の主語に対応する述語がくるというのは、読みにくくて不自然だと思います。その上、仁雛さんの解釈では、最初の「以」のフレーズの中に、さらに「以帝弟攸爲嗣」という、別の「以」のフレーズが入り、煩瑣な感じが免れません。私には、こういう見栄えが悪く読みにくい文を『晋書』の筆者が書くとは思えないのですがどうでしょう。仁雛さんの解釈のような主旨で書くなら、「初、「景」帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣。故文帝特加愛異。」とすっきりした書き方にすると思います。ですから、この文だけを見る限りでは、私は司馬攸を景帝の後継にしたのは、②「文帝」であり、最初の「以」以下のフレーズは、「早世無後」までであると考えます。ただ、後継にしたのは誰かという問題は、えちぜんさんのご指摘にあるように、他の箇所も丹念に見る必要があると思いますので、この結論も一応のものとしておきます。お帰りくださった後、再度のご意見をお待ちしております。

71殷景仁:2006/01/22(日) 12:06:17
えちぜんさんへ
>「跡を継ぐというのは、景帝が死んでから(断絶してから)では遅いような気がするのです。」

私自身は、文帝が司馬攸を景帝の後継に立てたのは、死後であった可能性は否定できないと思います。もちろん、えちぜんさんのように、生前から養子となっていた可能性も否定しません。ですが、やはり「文帝が」攸を景帝の跡継ぎにしたのは、死後のことと考えた方が比較的いいと思います(「文帝が」とカギ括弧にした理由は後述します)。

というのも、死後、別の養子を立てて跡継ぎにしたという例は、たとえばこのサイトの次の例をみてもあり得るように思うからです。

「薨,無子。安帝時立武陵威王孫蘊爲淮陵王,以奉元王之祀,位至散騎常侍。薨,無子,以臨川王寶子安之爲嗣。」
「〔司馬融が〕薨じたとき、子がなかった。安帝の時に武陵威王の孫の司馬蘊が淮陵王となり、元王(司馬漼)の祭祀を受け継いだ。官位は散騎常侍にまで至った。薨じると子がなかったので、臨川王司馬寶の子の司馬安之を後継ぎとした。」(巻三八の訳を借りました)

『晋書』の他の箇所にも、「薨 、追加封諡、以…爲嗣」「薨 、無子、以…爲嗣」というような記述は結構ありますので(「文六王伝」だけでも四例あります)、景帝死後でも、攸が跡継ぎになる可能性は十分あります。ですから、「死後ではおそい」という判断だけでは、根拠とはなり得ないと思います。

ただし、やはり気になるのは、司馬攸の列伝の記述です。ご指摘の通りここは問題ある箇所です。この「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣」の記述からでは、攸を景帝の後継としたのは、明らかに宣帝(司馬懿)ということになり、「武帝紀」の記述と食い違っているように思われます。えちぜんさんのように、「宣帝」を「文帝」の間違いと考える手段もありますが、その場合、すぐ後ろに続く「從征王淩」の記述がネックとなります。これは明らかに司馬懿生前のことですから、やはり「景帝無子、命攸為嗣」したのは、「宣帝」とする方がいいと考えます。頭を悩ませる記述ですが、一つの考えとして、私は次のように考えています。

「武帝紀」の「以帝弟攸爲嗣」とは、攸伝の記述にある「襲封舞陽侯」のことを指している。つまり、宣帝(司馬懿)の在世中、攸は、司馬懿によって景帝の跡継ぎとされていたが、それは一族内での取り決めとしてであり、正式に跡継ぎに「なった」のは、景帝の死後、「文帝が」改めて攸を「襲封舞陽侯」としてからである。

いかがでしょうか。まだ苦しいところはあるとは思いますが、一応つじつまはとったつもりです。あるいは単に『晋書』編纂時に、異なる史書の記述を採録し、整合性をとらないままにしてしまっただけなのかもしれませんが…。とりあえずこの問題については、皆さんのご意見をお待ちしております。

>「文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが」

この部分、以前の訳から内容を変えています。新しい訳(つまり引用されている訳ですね)では、実はえちぜんさんのおっしゃるような主旨に訳し直しています。つまり、「文帝自身は即位するつもりはなく、とりあえず魏の宰相の地位に甘んじるが、自分の死後は、攸を即位させる。」というつもりで書きました。以前の訳では「文帝自身が帝位を窺っていた」という方向に訳していましたが、読み直して「相位に攝居する」のが、「文帝」であるように思われたので、上のように訳し直しました。ですから、「文帝は帝位を積極的に避けていたのではないかと感じています。その一方で司馬氏としての権力は着々と強化し、文帝の次の代では禅譲を受けられるような準備はしていたのだと感じています。」というえちぜんさんのご意見には、私も賛成なのです。「とりあえずは…留まる」というところにその意味を込めたつもりでしたが、前の訳と違うことを説明していなかったので、わかりにくかったかもしれません。失礼しました。

72えちぜん:2006/01/23(月) 02:51:40
殷景仁さん、丁寧かつ詳細な書き込みありがとうございます。

ご意見を拝読し確認いたしましたが、殷景仁さんのおっしゃる通りですね。
異論はありません。

前回の書き込み(>>69)は根拠薄弱であることは自覚しておりましたが、結論(最初に提示した訳)としては概ね間違いなかろうとは思っていました。やはりいけませんね。
死後の跡継ぎの有無や王淩のことなどは、汗顔の至り、自らの不明を恥じ入るばかりです。
まだまだ修行が足りません。(>_<)

73仁雛:2006/01/24(火) 15:03:02
殷景仁さん、丁寧なレスありがとうございます。
まずはじめに、このスレッドへのレスをしてくださり、えちぜんさん同様、掲示板管理担当会員・副代表として本当に感謝しております。ありがとうございます!従来このような議論は、過去ログにある通り、会員内部で行っておりました。それを公開して会員外からもお知恵をぜひ借りたい、それにはスレ式掲示板の導入を、というのが私(たち)の願いで現実になりました。その意味もあり、>>61の菅原代表の声があったのですが、こうして漢文の解釈について掲示板上で話し合えることを幸せに思っています。
それから、>>70の書き込みも、こちらの意図を理解してくださっての意見を書いてくださり、ありがとうございます。

>>70 殷景仁さんへ
「文帝以景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、特加愛異」
この前半部分について私が63のように「文帝以【景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、】特加愛異」と解釈したのは、文帝「以〜〜特加愛異」という構文を重視したためです。検索で「以〜特加(動詞)」という文が散見したので(指摘後に再調査したところ、理由を「以」で表さない「特加(動詞)」の例もあり、なんとも言えずです^^;)。「読みにくくて不自然」というのは私も感じましたが、「〜〜」の部分に違う主語の文がくることがあり、その部分が長くなることはありえるので、文法的には間違いではないと考えました。それから「以」が重なる「煩瑣な感じ」も指摘の通りですが、書き込み当時は【景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣】の「以帝弟攸爲嗣」の主語をあまり深く考えていませんでした。あとは、以前このような「以」が文内に重なっているのを読んで「こんな文もあるのか」と記憶しているので、これもありなのかと思った次第です。しかし、【 】内だけを素直に読めば「以帝弟攸爲嗣」の主語は景帝となり、現実的にはその可能性はないようですから、自分の読みがあまり説得力のないものだということが分かりました。やはり短時間でのレスには誤りがつきもので、自分もまだまだ精進せねば、と思った次第です。ご指摘、本当にありがとうございます。

さて、71の殷景仁さんのレスは、非常に興味のある解釈だと思います。
殷景仁さんは「文帝以【景帝既宣帝之嫡、早世無後、】以帝弟攸爲嗣、特加愛異」という解釈かと思います。これも「以」が重なってしまいますが、前者は理由・原因をあらわし、後者は動詞の対象をあらわしているので、不自然な感がないわけではありませんが、文法的に間違いはないと思います。そうなると「以帝弟攸爲嗣」の主語は文帝ですが、司馬攸の列伝の「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣」と矛盾してしまいます。その点の解釈の理解を示されており、検討の価値がある見解だと思います。

いずれにせよ、なかなか突き詰めると難しいですね・・・。跡取り決定に関して、いろいろと調べないと確定できないですね。うーむ。
取り急ぎ、忙しいのですが、あまりレスを延ばすのも失礼かと思い、自説を再考するということで失礼します^^;

74殷景仁:2006/01/25(水) 18:10:37
えちぜんさん、仁雛さん

ご返事ありがとうございます。お二方のご意見は、私にとっても>>70のレスを出すとき非常に参考にさせていただきました。このように漢文の解釈をめぐって、実のある意見のやりとりができることは、私自身とてもうれしく思います。

司馬攸後継に関する今回の問題についてですが、「武帝紀」の訳自体は、たぶん>>70のようになるのでしょうが、司馬攸の列伝の記述との食い違いはさて一体どういうことなのか?なかなか難しいところです。あまり深く入り込むと、このスレッド(漢文解釈)の主旨とはややはずれるかもしれませんが、興味深い問題ではあります。>>70の考えはとりあえずのものです。あくまで参考/たたき台として出してみたものですので、これを補強するような考えや、もっと説得力のある別のご意見など、出てきてくれればうれしいです。私の>>65の時のように、急ぎのレスは間違えたり、読みが浅かったりすることがあるので、これはというご意見がありましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。

あと、本の推薦ということで、参考文献のスレッドにも書き込ませていただきました。あるいはこの問題の参考になるかもしれません。

75NAGAICHI Naoto:2006/01/27(金) 19:59:36
>>66
Guang-Biさん
遅レスm(_ _)mですが、「[王旋][王幾]図」情報ありがとうございます。
列女伝第二稿も凍結してしまって久しいですし、
少しはやる気出さないとなあ…(;)

76スート:2006/01/27(金) 21:40:53
どのように読み下し、どのように訳せばよろしいでしょうか?>武帝紀

77スート:2006/01/29(日) 19:47:08
76はすみません。
注釈を入れて、「こういう解釈もある」等としようと思います。

再び武帝紀についての質問なのですが、序盤に、

  「咸煕二年五月、立爲晉王太子、八月辛卯、文帝崩」

とあるのですが、「夏五月」とか「秋八月」というふうに、季節が抜けているのは何故でしょうか。注釈に、「『夏』の一字を補った」とか附すべきでしょうか。

78えちぜん:2006/01/30(月) 01:35:04
>>77

>季節が抜けているのは何故でしょうか。

校勘の立場からだと、異なる版本を比較して「咸煕二年夏五月」となっているテキストがあるかどうか確認する必要があると思います。異なる版本に「咸煕二年夏五月」となければ、ここには脱字はなく「咸煕二年五月」だと考えるのが妥当と思われます。

あとは、同様の用例があるかどうかを『晋書』の中から探して、「咸煕二年五月」のような用例が他になく、あったとしても非常に少ないと言えれば、脱字があると推定できるかも知れませんが、恵帝紀・孝懐帝紀にも用例があるので、脱字である可能性は低いと思います。

季節が抜けているのは何故かは分かりませんが、ざっと見た感じ、帝位に就いてから(宣帝・景帝・文帝は実権を握ってから)は季節がついているようで、それ以前の記述には季節なしとなっているようです。全部見たわけではないので、悪しからず。

>注釈に、「『夏』の一字を補った」とか附すべきでしょうか。

スートさんが用意される「原文」に『夏』の字を補っている(テキストを修正している)のであれば、このように注釈を加えるべきだと思いますが、それ以前に「原文」は直さない方がよいと思います。注釈者が不用意に原文を改め、本来の文意が変わっていったというのが、校勘の歴史であるようですから、原文の修正には慎重の上にも慎重を期すというのが、大事なようです。

「原文」は修正せず、翻訳の文章上に付け加えたのであれば、上記の注釈で良いと思いますが、「夏」の字を補った根拠は示すべきかと思います。

「校勘の立場から・・・」なんて書きましたが、最近校勘学のテキストを読んだだけのことなので、思わぬ勘違いをしているかもしれません。ご参考までに。

79仁雛:2006/01/31(火) 13:10:55
>>77 スートさん
「咸煕二年五月、立爲晉王太子、八月辛卯、文帝崩」と季節が抜けている理由は、>>78のえちぜんさんのレスの「帝位に就いてから(宣帝・景帝・文帝は実権を握ってから)は季節がついているようで、それ以前の記述には季節なしとなっているよう」だというのが当たっていると思います。その他の部分は省略だと思います(たとえば「春正月」という記事で記述があり、次の記事が「三月」から始まる場合、本来は「春三月」なわけですが省略して「三月」としています。晋書帝紀をパラパラめくってのことですが^^;)。

80スート:2006/01/31(火) 22:56:59
えちぜんさん、仁雛さん

なるほどです。『三国志』帝紀とは基準が違うのですね・・・。
ありがとうございました。

81殷景仁:2006/02/01(水) 13:57:34
>>77 スートさん:

ここ数日、用事がありまして、掲示板を見ていませんでした。済みません。
書き下し・訳については、とりあえず、私の方ではこのようになると思うものを書いておきます。

(書き下し)
初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡にして、早世し後無きを以て、帝の弟攸を以て嗣と為し、特に愛異を加う。自ら謂えらく、相位に摂居すれど、百年の後、大業宜しく攸に帰すべしと。

(訳)
当初、文帝は、景帝が宣帝の嫡子であり、早世して跡継ぎがいないことから、武帝の弟司馬攸を跡継ぎとし、非常に可愛がった。(自分は)とりあえず宰相の地位に留まるが、その死後、帝位は司馬攸のものにすべきだと自身では思っていた。

書き下し・訳は、大体このようになると思います。ただ、語られている内容については、おっしゃるとおり、他の部分との異同を訳注で補う必要があるでしょう。

取り急ぎですみませんが、この程度で宜しくお願いします。

82仁雛:2006/03/13(月) 17:30:56
ageもかねて、カキコミを(笑)。

この部分、和刻本はどうなっているのでしょうね。。。ずっと気になっていたところです。
なかなか所蔵している図書館に行って確認する時間がないので、ずっと見れずじまいできてしまいました。購入したいのですが、先日の鶴本書店の目録では、和刻本『晋書』が3万くらいでした・・・。あぁ、手が出ない^^;
あと、晋書は現代中国語訳が出たので、そこでもどう訳されているのやら。。。現代中国語訳は、古典漢語のあいまいな部分も、あいまいに訳せてしまう(主語や述語などを明示しないなど)し、実際に訳出する人はそれほど専門な人でもなかったりするので、経験上それほどあてにはならないのですが、参考にはなるので。

83巫俊(ふしゅん):2006/03/13(月) 18:27:49
東晋時期に李充という文官がいまして、晋書の文苑伝に名を挙げられている人なんですが、
そこの李充の伝記の終わりにこういう記述があります。

- 2391 -
充注尚書及周易旨六篇、釈莊論上下二篇、詩賦表頌等雑文二百四十首,行於世.

李充が尚書(書経)と周易(易経)、荘子関係、雑文などに注を付けて、
それが「行於世.」すなわち世間に流通した(という意味ですよね?)と書かれているようです。

そいで李充という人の名を挙げたところとしては、
西晋の武帝が呉を平定した年の前後に発掘された『竹書紀年』をはじめとする、
晋代に新出した出土史料を使って宮廷に伝来する古文献を再構成したのではないか?
と目されるところにあります。

84巫俊(ふしゅん):2006/03/13(月) 20:56:26
『竹書紀年』は河内(晋代は汲郡に分離)の戦国期魏の王族墓から出土したとされる、
司馬遷の『史記』に先行する戦国時代の「史記」(年代記)で、呉平定の司令官のひとり杜預をはじめとする、晋代の人が目にしたという中国史上の重要文献です。
元明時代に散逸してしまった為に惜しくも、古典籍の注に引かれた内容を輯本にしたものがあるだけですが、
それでも、夏代〜戦国中期までの通説的なものを変えてしまうだけの内容がそこに書かれています。

それら出土史料を整理したのが出土当時の現代人の晋代人で、そこから晋という時代に関心があるようです、私。
そいで晋代の人に整理されたという出土史料の竹簡は、『竹書紀年』(年代記の類)ひとつではなくて、書経や易経にも及ぶようです。
書経や易経の出土史料バージョンは、晋の秘閣(史料庫)に収納されて、図書館司書にあたる晋代の人や一部の知識人(杜預など)は見ることができたといいます。

85えちぜん:2006/04/15(土) 00:56:07
『晋書』石苞伝翻訳中のえちぜんです。不明な箇所がありますので、質問させてください。

『晋書』石苞伝(二十四史点校本p.1002 L2)に

 武帝踐阼,遷大司馬,進封樂陵郡公,加侍中,羽葆鼓吹。

とあります。「羽葆鼓吹」というのは、「劍履上殿」や「入朝不趨」のような特権を表しているものと考えているのですが、具体的にはどのような特権なのでしょうか?

『大漢和』によれば「羽葆」は「鳥の羽で作った儀仗などに用いる車の華蓋。親王、又は大勲功ある者などの用ひるもの。」とあります。
「鼓吹」は「①軍楽を奏する官。」「②つづみ及びふえの類。又、それらの楽器を鳴らすこと。太鼓を打ち笛を吹くこと。又、軍事に奏する音楽。軍楽。」とあります。

似た用例として、『文選』所収の任纊「王文憲集序」に

 追贈太尉、侍中、中書監,如故。給節加羽葆鼓吹,増斑劔為六十人。

とあるのは見つけたのですが。。。
ご教示よろしくお願いします。<(_ _)>

86殷景仁:2006/04/15(土) 18:38:22
>加羽葆・鼓吹

ここでは、天子に許されている特権が功臣に与えられたことを意味しているといっていいでしょう。

手元に増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社)があるので、鼓吹について述べますと、この制度は前漢の武帝の時代に始まり、基本的には、軍楽や天子の鹵簿の時のみに用いることが許されたようです。

これが臣下に下賜されるようになったのは、後漢の時代からのようですが、それでも鼓吹を下賜された臣下は、(軍楽という性質上)軍事を執行する将軍在職者、あるいは功臣を表彰する目的で特賜される場合は、死後葬送の際にのみ限られていたようです(時代は違いますが、「王文憲集序」にある王倹のケースはまさにこの場合に相当します。この場合は、柩車に鼓吹が随従したようです)。それが三国を経て西晋時代になると、生前において功臣を表彰するため、鼓吹が下賜されるようになりました。さらにこうした功臣に下賜されたのは、一般の武将たちに下賜される諸官鼓吹の伶人ではなく、天子直属の黄門鼓吹の伶人だったとされています。

なお臣下への鼓吹下賜は、晋代では比較的頻繁に行われたようですが、南朝にはいると、再び厳しく制限されるようになったともあります。

87えちぜん:2006/04/18(火) 23:49:10
殷景仁さん、ご教示ありがとうございます。

鼓吹についてよく分かりました。ただ、王倹のケースであればイメージしやすいのですが、石苞のように生前に下賜された場合、その特権をどういう場合に行使するのかが、よく分からないのでした。手元に適当な資料がないので実態がどうか分からないのですが、特権というより栄誉賞みたいなものなのでしょうか?鼓吹は音楽に関する特別な技能者でしょうから限られた人からなると思われ、かつ「天子直属の黄門鼓吹の伶人」となれば、その道の一流の人でしょうから、そういう鼓吹を下賜されるということ自体が非常に名誉なことだったのかなと想像しております。

ちなみに「王文憲集序」を『文選』を開いて見ましたら、冒頭に

 公諱儉字仲寳,琅邪臨沂人也。

とあります。この王倹も琅邪王氏ですね。王祥伝を訳したので、「琅邪臨沂人」に思わず反応してしまいます。(^^;)
李善注を頼りに、『宋書』の目次をめくれば、王倹の祖父王曇首の名の横に殷景仁さんのお名前が。奇遇ですね。(^o^)

88山口博数:2006/10/31(火) 11:51:36

郤詵伝のカク注に「詵表自理曰臣生三月而孤随母依外祖舅為縣悉家以咸寧二年母亡家自祖以下十四墳在緱氏而墓地数有水規悉遷改常多悉病遂使留此此方下湿唯城中高故遂葬於所居之宅祭於所養之堂不知其不可也。」とあるのですが、うまく句読点がうてません。どう訓むのでしょう。それから咸寧二年の寧は「うかんむりに丁の下に皿」の如きを寧としました。

89仁雛:2006/10/31(火) 21:27:46
山口さん

ご協力ありがとうございました!

90仁雛:2006/11/02(木) 01:51:19
カク注が、『通典』のどのテキストを利用したか知りませんが、中華書局本では以下のようにあります。
詵表自理曰,臣生三月而孤,隨母依外祖,舅為縣悉將家。以咸寧二年母亡,家自祖以下十四墳在緱氏,而墓地數有水,規悉遷改,常多疾病,遂便留此。此方下濕,唯城中高,故遂葬於所居之宅,祭於所養之堂,不知其不可也。

むじんさんが既に内容を紹介されていますが、以下のように読んでみました。

「詵、表して自らを理して曰く、臣、生まれて三月にして孤なり。母に隨い外祖に依る。舅、縣(吏?)と為り、悉く家を將う。咸寧二年を以て母、亡す。家、祖より以下の十四墳、緱氏に在り。而るに墓地に數(しばし)ば水有り。規、悉く遷改し、常に疾病多し、遂に便ち此に留まる。此の方、下は濕にして、唯だ城中のみ高なり、故に遂に居る所の宅に於いて葬し、養う所の堂に於いて祭す。其の不可なるを知らざるなり。」

91山口博数:2006/11/06(月) 12:06:07
仁雛さん
『通典』の訓読有難うございます。この時代の人は父を亡くしたり孤児だったり戦乱の世は大変ですね。
テキストは無く、芸文印書館印行の二十五史の晋書カク注の一文でした。
郤詵と郷品の格下げと関連の人物などに今関心を持っています。それにこの部分は重要でした。

92駿:2006/12/08(金) 21:40:11
於是項王乃上馬騎,麾下壯士騎從者八百餘人,直夜潰圍南出,馳走。平明,漢軍乃覺之,令騎將灌嬰以五千騎追之。項王渡淮,騎能屬者百餘人耳。項王至陰陵,迷失道,問一田父,田父紿曰「左」。左,乃陷大澤中。以故漢追及之。項王乃復引兵而東,至東城,乃有二十八騎。漢騎追者數千人。項王自度不得脫。謂其騎曰:「吾起兵至今八歲矣,身七十餘戰,所當者破,所擊者服,未嘗敗北,遂霸有天下。然今卒困於此,此天之亡我,非戰之罪也。今日固決死,願為諸君快戰,必三勝之,為諸君潰圍,斬將,刈旗,令諸君知天亡我,非戰之罪也。」乃分其騎以為四隊,四嚮。漢軍圍之數重。項王謂其騎曰:「吾為公取彼一將。」令四面騎馳下,期山東為三處。於是項王大呼馳下,漢軍皆披靡,遂斬漢一將。是時,赤泉侯為騎將,追項王,項王瞋目而叱之,赤泉侯人馬俱驚,辟易數里與其騎會為三處。漢軍不知項王所在,乃分軍為三,復圍之。項王乃馳,復斬漢一都尉,殺數十百人,復聚其騎,亡其兩騎耳。乃謂其騎曰:「何如?」騎皆伏曰:「如大王言。」

93駿:2006/12/08(金) 21:40:43
訳して〜!!

94菅原:2006/12/09(土) 23:06:20
駿さん、はじめまして。【解體晉書】代表の菅原です。
92の文章92の文章を訳してほしいとのご要望ですが、どういった事情があるのでしょうか?
92の文章は『史記』「項羽本紀」の一部ですので、もし訳が必要でしたら『史記』の訳本を読まれた方が
われわれの拙い訳よりもはるかにわかりやすいことと思います。
『史記』の訳本はいろいろな種類があります。
もし漢文の宿題等でしたらそんなに難しい文章ではないので、
漢文の基本に従って読んで時間をかければ訳すことができると思います。

95<削除>:<削除>
<削除>

96齊藤:2006/12/13(水) 13:30:59
漢文のことは何も判りません。教えてください。
他の未だ成さりしことを成さんとす を漢文に訳したいのですが。
他未事不成 ですか??全然わかりません。。。

97菅原:2006/12/17(日) 00:10:19
齊藤さん、はじめまして。【解體晉書】代表の菅原です。
もしよかったらその漢文が必要な理由を教えていただければ幸いです。
またその文章が何からの引用とかわかりましたらもっとお力添えできるのですが。
「他の未だ成さりしことを成さんとす」というのは読み下しに少し違う点や足りない点が
ありそうな感じですので、私が現時点で漢文を試みても間違えそう気がします。
「未だ成さりしこと」や「成さんとす」で間違いないでしょうか?

98こばやし:2007/01/07(日) 20:16:58
いきなりすみません
この漢文の意味・読み方わかる方いらっしゃいますか?
 他日趨庭叨陪鯉対
趨と庭の間にレ点があって鯉の前に二、対のあとに一とあります
漢文についての知識が全くないのでわかる方がいたら教えてください

99えちぜん:2007/01/08(月) 01:17:01
>98

唐の王勃の著した『滕王閣序』の一節ですね。
読み下し文、日本語訳は、星川清孝 著『古文真宝(後集)』(明治書院 新釈漢文大系16)にあります。

これによると、お尋ねの一節の読み下しは、

「他日庭に趨(はし)つて叨(みだ)りに鯉対に陪せん」

とあります。

この一節の意味ですが、この箇所は『論語』季子篇の故事を踏まえている点と、この文章を著した際の王勃の境遇を知らなければ十分な理解はできないと思います。先に挙げた『古文真宝(後集)』をご覧になることをお勧めします。

100こばやし:2007/01/08(月) 09:51:56
わかりました。ありがとうございました!!

101みどり:2007/01/13(土) 23:58:10
『晋書』とは全く関係がなくて申し訳ないのですが、よみ方がわかる方がいらっしゃったらお教え下さい。
錐代靉靆碓孤圓
花得浮雲淺霞鮮
况又清香不遮掩
東風吹送鼻次穿
江戸時代の倭僧の書いた画賛です。
勝手ながら、宜しくお願いいたします。

102八頭:2007/01/14(日) 08:24:34
おはようございます。
読んでみたのですが、間違いがあるかもしれません。
お分かりの方がいらっしゃったら、ご指摘お願い致します。

錐(きり)は靉靆(あいたい)に代わって 碓孤(たいこ)圓(まどか)に、
花は浮雲(ふうん)を得て 浅霞(せんか) 鮮やかなり。
況(いわん)や又(また)清香は遮掩(しゃあん)せず、
東風 吹き送りて 鼻次(びじ)を穿(うが)つ

103中根:2007/01/14(日) 11:14:33
みどりさん、はじめまして。
錐代靉靆碓孤圓で検索したところ、画像が出てきました。
作者は江戸期の人のようですが、署名部分は達筆すぎて読めませんね。
「靉靆」「碓孤円」いずれも禅門で多く用いる言葉のようです。
書き下しは八頭さんの訳で問題ないと思います。

104みどり:2007/01/14(日) 11:51:07
八頭さま、中根さま、早速お答えいただきまして、ありがとうございます。
碓孤圓につきまして、孤圓の語は『佩文韻府』に蘇軾の「心月皎皎長孤圓」を引いていますし、禅語でも心月孤圓では多く出てくるようですが、碓孤圓となるとさっぱり分りませんでした。
碓が孤圓なのかと思っていましたが、碓孤(たいこ)もありですねぇ。
ただ、いずれにしても一行目の意味がよくわかりません。
また、鼻次(びじ)はどういう意味なのでしょうか。お教えいただければ幸いです。
署名は「翠巌叟」と読みましたが。

105八頭:2007/01/14(日) 19:00:26
こんばんは。

よく調べていないので、分からないのですが、
錐は突き刺すような風を例えているのでしょうか。
また、碓弧とは月を指しているのでしょうか。

花は初め桜かと思ったのですが、梅かもしれません。或いは別の花でしょうか。
鼻次は鼻の穴のことだと思います。
『漢辞海』三省堂 の次の項目を引くとありますね。

以上から
おおまかな意味は次のようなものではないかと思いました。

錐のように突き刺す冷たい風が緩み、春めいた空に丸い月が昇ってきた。

花は満開となり、霞の中にぼんやりと見え隠れしている。

まして清らかな香りは何にも遮られることなく、

東風に乗って人々の鼻へ送られてくる。

私も署名部分を拝見しましたが、全く読めませんでした。
翠巌叟と読むのですか。教えてくださり、ありがとうございます。

106八頭:2007/01/14(日) 19:03:52
次は中という意味で、
鼻次は鼻の中ですね。
失礼しました。

107みどり:2007/01/14(日) 20:00:11
八頭さま、ありがとうございました。
申し遅れましたが、賛のついているのは、月に槍梅の画です。
やっと、わかってまいりました。
本当にありがとうございました。

108八頭:2007/01/15(月) 07:19:35
おはようございます。
錐が突き刺すような冷たい風かどうかなどは、
単に推測しただけですので、間違った解釈かもしれません。
ですので、あまり信用しないほうが無難だと思います。

詳しいことについてお分かりになる方がいらっしゃったら
ご指摘お願い致します。

109中根:2007/01/20(土) 12:07:41
>みどりさん
おはようございます。

>署名は「翠巌叟」と読みましたが。
ひょっとして、江戸時代の臨済宗の僧翠巌宗萊(すいがんそうみん)かも…
翠巌と名乗るお坊様は、

江戸初期の大徳寺百九十五世住職 翠巌宗萊師
唐の禅僧 翠巌令参師
現代の故大雄山主 余語翠巌師
がいらっしゃるようですが、みどりさんが「江戸時代の倭僧」と
おっしゃっていたので、作者は翠巌宗萊師の可能性もあるかなと思います。
もっとも翠巌という名前のお坊様は江戸期にも色々居たようですので
大徳寺の住職の翠巌宗萊師かどうかというのは厳密には分からないですけど。

>八頭さん
訳はおそらく問題がないと思います。私も禅語に関しては詳しくないので
余りよくわかりませんが…

110みどり:2007/01/20(土) 14:25:27
中根さま、ありがとうございます。
月に槍梅の絵には、法眼永真筆とありますので、狩野永徳の孫の狩野永真安信(慶長18年;1613〜貞享2年;1685)と思われます。
時代的には、翠巌宗萊(慶長13年;1608〜寛文4年;1664)が符合しているようです。
賛は、俳諧に「咲やり梅のとがる言の葉」などという句もあり、説文に「錐。鋭也」とありますから、錐は槍梅に掛けているような気がしております。穿はその錐に対応していると思いますが、なんとなく俳諧的というか諧謔の気を感じております。

111テソン:2007/02/20(火) 11:40:44
はじめまして。韓国で日本語を専攻しているものです。あるテキストでこんな漢文を見ましたが
意味がぜんぜん分からなくてこのサイトで助けを求めっています。
次の日本語で表記したらどう変わりますか?意味はどんな意味でしょうか?
教えてください。普通の現代日本の方々が見ても意味は分かりますか?
(一)有リレ朋自リ二遠方一來タル。不二亦タ樂シカラ一乎。
(二)七十ニシテ而從ヘドモ二心ノ所ニ一レ欲スル。不レ踰エレ矩ヲ。
(三)春眠不レ覺エレ曉ヲ 處處聞ク二啼鳥ニ一
(四) 所二以ハ枕スル一レ流レニ、欲スレバナリレ洗ハント二其ノ耳ヲ一。
(五) 李下ニ不レ正サレ冠ヲ。
また次の文の読み方の順番はどうなりますか?よろしくお願いします。

(一)○レ○○二○○レ○○一○      (二) ○レ○レ○○レ○二○レ○レ○○一

(三)○レ○三○○二○○○一レ○     (四)○○二○○一○レ○二○レ○○一

(五)○二○レ○○一○○下○二○レ○○一○○上

112テソン:2007/02/20(火) 11:41:21
はじめまして。韓国で日本語を専攻しているものです。あるテキストでこんな漢文を見ましたが
意味がぜんぜん分からなくてこのサイトで助けを求めっています。
次の日本語で表記したらどう変わりますか?意味はどんな意味でしょうか?
教えてください。普通の現代日本の方々が見ても意味は分かりますか?
(一)有リレ朋自リ二遠方一來タル。不二亦タ樂シカラ一乎。
(二)七十ニシテ而從ヘドモ二心ノ所ニ一レ欲スル。不レ踰エレ矩ヲ。
(三)春眠不レ覺エレ曉ヲ 處處聞ク二啼鳥ニ一
(四) 所二以ハ枕スル一レ流レニ、欲スレバナリレ洗ハント二其ノ耳ヲ一。
(五) 李下ニ不レ正サレ冠ヲ。
また次の文の読み方の順番はどうなりますか?よろしくお願いします。

(一)○レ○○二○○レ○○一○      (二) ○レ○レ○○レ○二○レ○レ○○一

(三)○レ○三○○二○○○一レ○     (四)○○二○○一○レ○二○レ○○一

(五)○二○レ○○一○○下○二○レ○○一○○上

113仁雛:2007/02/21(水) 14:17:13
>テソンさんへ
普通の現代の日本人が見て、ずばり意味を分かる人がどれほどいるかは、私には分からないのですが、中学や高校の漢文の教科書に載っている漢文かと思います。少なくとも、私が中高生の時は載っていました。
(一)〜(五)まで、「(漢文)訓読文」「書き下し文」などと呼ばれるもので、一種の(特殊ですが)古典日本語と言えるでしょう。
ですので、すでに「日本語で表記」されている、と言えます。現代日本語での意味は、翻訳になるのでそれぞれ訳者により違ってきます。
意味については、後日。あるいは他の人が書き込んでくれるかもしれません。取り急ぎ。

114NAGAICHI Naoto:2007/02/21(水) 23:53:12
テソンさん、はじめまして。
「レ点」や「一二点」や「上下点」は、漢文を日本式に訓読するための「返り点」という附点です。
漢文の「本文」と読み仮名にあたる「訓点」と読み順を示す「返り点」を同列に並べられると、日本人でも分かりにくいと思います。
以下にそれぞれについて、以下に「書き下し」「読み」「出典」「原文」「意味」の順で示します。

(一)「朋有リ遠方自リ來タル。亦タ樂シカラズヤ。」
「ともありえんぽうよりきたる。またたのしからずや。」
出典は、『論語』学而第一です。
原文は、「有朋自遠方來不亦樂乎」。
意味は、「友人が遠方から訪ねてくる。また楽しいことではないか」。

(二)「七十ニシテ心ノ欲スル所ニ從ヘドモ、矩ヲ踰エズ。」
「しちじゅうにしてこころのほっするところにしたがえども、のりをこえず。」
出典は、『論語』為政第二です。
原文は、「七十而從心所欲不踰矩」。
意味は、「七十歳になって心の欲するままにふるまっても、道を踏み外さなくなった」。

(三)「春眠曉ヲ覺エズ 處處啼鳥ニ聞ク」
「しゅんみんあかつきをおぼえず しょしょていちょうにきく」
出典は、唐の孟浩然の詩「春暁」です。
原文は、「春眠不覺曉 處處聞啼鳥」
意味は、「春の眠りの気持ちよさに夜が明けたのも気づかなかったが、あちこちに鳥の鳴く声が聞こえる」

(四) 「流レニ枕スル所以ハ、其ノ耳ヲ洗ハント欲スレバナリ。」
「ながれにまくらするゆえんは、そのみみをあらわんとほっすればなり。」
出典は、『晋書』孫楚伝ですね。「枕流漱石」の故事です。
原文は、「所以枕流欲洗其耳」。
意味は、「流れに枕するというのは、その耳を洗いたいだけだ」。

(五) 「李下ニ冠ヲ正サズ。」
「りかにかんむりをたださず。」
出典は古楽府の「君子行」です。有名なことわざですね。
原文は、「李下不正冠」。
意味は、「すももの木の下でかぶりものを直すようなことはしない(泥棒と勘違いされるような行動はしない)」。

115テソン:2007/02/22(木) 19:20:44
NAGAICHI Naotoさん、仁雛さんありがとうございます。私は1月軍隊を卒業して
4月大学に復学する予定ですけど、軍隊の2年間日本語をまったく接していなかったので、復学して授業について行けるかどうか悩んでいます。
自分で勉強するしかないけど、軍隊に行く前に習った古典文法を全部忘れてしまって、勉強がなかなか進まないです。
自分で古典文を翻訳してみたりするんですけど、正しいのかどうか確認ができなくてネットで色々検索してみてこのサイトを見つかりました。
次は自分で日本語の現代語に翻訳してみたものです。目を通していただける方がいますならよろしくお願いします。
耐震偽装にて世間を欺かむ事、まことに許し難ければ、関係当局真相解明せられたしと願ふ。
>耐震偽装で世間を欺いたことは、まことに許し硬く関係当局に真相の解明を願う。
2.やむを得ざる事情あり候と言へど、他人に責任を負はしめしこと許されざるべきに候はずや。
>やむを得ず事情があるといえども、他人に責任を負わせることができないだろう。
3.いづこにてか買はむと問ひしに、バーゲンなればかの店にて買はざるべからずと言へるなり。
>どこで買おうかという問いにバーゲンであればあの店で買わずにはいられないと言える。
4. 船内の光の晴れがましきも徒なるは、舟に残れるは余一人のみなればなり。
>船内の光が晴れやかに連なるのは、船に残ってる人は一人だけである 。
5.この恋愛こそ、いつになるとも、我々いづれにとりても、その記憶の消ゆべからざるものなれ。
>この恋愛こそはといつになっても私たちはどれをとってもその記憶が消えることはないものである 。
6.よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
>よどみに浮かんでいる船は、一方では消えて他方では増えて、長い間とどまっていることはない 。
7.五大洲ノ内、・ハ山ト湖ヲ隔テタルノミニテ候、一洲ト定メ候テモキ地勢ニ御坐候。
>五大州ノ内、は山と湖を隔てているだけであり、一洲と定めており、地勢によるということである 。
8.知事自らはたびたび釈明せしかど、ことここに至りては逮捕も当然ならざるべからず。
>知事自らはたびたび釈明したけれどここにいたっては逮捕も当然ならざるえない 。
9.選挙の結果には大いに驚き候へど、昨今の政党のだらしなき様を省みればありえぬことではなく候はむ。
>選挙の結果には大変驚いたけれど、昨今の政党のだらしない様子を振り返ってみるとありえないことではないだろう 。
10.いはゆる全入時代に入りしが為に、各大学必死になれるも当然なり。然れども、学生の教育こそたとへんに物なからぬ重要事なれば、偽りて世間を欺かば、自ら教育機関たることを放棄せしとこそみなさるべけれ。
>いはゆる全入時代に入ったために各大学が必死になるのも当然である けれど、学生の教育こそ物はなくても重要なことであるので 偽って世間を欺けば 自らの教育機関であることを 放棄したとみなされるであろう。
ーーーーー候文を作ってみましたーーーーーーー
@強いたくありません>>>強いたくはなき候 @用いるべきでしょう>>>用いるべし候 @誰の責任でも御座いません>>>誰の責任におらず候
@問題です>>> 問題にて候 @こころえませんが>>>心得なき候 @蹴りますなら>>>蹴り候ならば

116八頭:2007/02/23(金) 21:03:59
初めまして。

高校の古文の授業で候の用法は習いましたが、候文については殆ど分かりません。
古典文法を学んでおられるとのことですので、私も
テソンさんの作られた候文を古典文法で読んでみました。
あまり参考にならないかもしれませんが、ご覧いただければ幸いです。

試読した候文(□…)の後に
文法と読み(■…)を添えてみました。
これだけ日本語の文章を上手にお書きになられるので、蛇足だったかもしれません。
間違っていましたら、ご指摘くださるようよろしくお願い致します。

(1)強いたくありません>>>強いたくはなき候 

強いたく/ありません→強いたく/ない→強いたくは/なし→
→□強いたくはなく候
→■強いたくは/なく①/候②(■しいたくは/なく/そーろう)
①なく…形容詞「なし」の連用形。
②候ふ…謙譲の補助動詞「そうろふ」の終止形。形容詞の連用形に接続。

問題の文を「強いたいとは思いません」とすると、
□強いたしとは思ひ候はず(■しいたしとはおもいそーろわず)といえるかもしれません。

(2)用いるべきでしょう>>>用いるべし候

□用いるべく候(■もちいるべくそーろう)

以下、考えてみました。あまり自信がありません。
用いるべきでしょう→用ゐるべし→用ゐるべく候ふ
→□用ゐるべく候はむ
→■用ゐる/べく①/候は②/む③(■もちいる/べく/そーらわ/ん)
→■用ゐる/べう/や/候/らん (■もちいる/びょう/や/そー/らん)           

①当然の助動詞「べし」の連用形
②丁寧の補助動詞「そうらふ」の未然形。
③適当の助動詞「む(ん)」の終止形。

(3)誰の責任でも御座いません>>>誰の責任におらず候
→□誰の責任にもあらず候
→■誰の責任にも/あら/ず①候(だれのせきにんにも/あらず/そーろう)
誰の責任にもなく候

①打ち消しの助動詞「ず」の連用形(動詞「あり」の未然形に接続)

(4)問題です>>> 問題にて候

私も「問題にて候」と読みました。

問題です→問題なり→問題にて候
□問題にて候
■問題/にて①/候②(■もんだい/にて/そーろう)
①断定の助動詞「なり」の連用形(に)+接続助詞「て」
②丁寧の補助動詞「さうろふ」の終止形(接続助詞「て」に接続)
□問題で候

(5)こころえませんが>>>心得なき候

→□心得なく候へども

こころえませんが→こころう(心得)
→□こころえず候へども

(6)蹴りますなら>>>蹴り候ならば

私も「蹴り候ならば」と読みました。近世後期(江戸時代後期)以前では、
□蹴候ふならば
■(け そーろうならば)
と読んだのでしょうか。

117八頭:2007/02/23(金) 21:16:40
(1)強いたくありません>>>強いたくはなき候 
この候は謙譲ではなく、丁寧を表している
と思いました。

118八頭:2007/02/24(土) 17:22:08
ご参考にならないかもしれませんが、
訳してみましたので、ご覧いただけますか。

1.耐震震偽装にて世間を欺かむ事、まことに許し難ければ、関係当局真相解明せられたしと願ふ。
>耐震偽装で世間を欺いたことは、まことに許し硬く関係当局に真相の解明を願う。

■耐震偽装で世間を欺いたことは、まことに許し難いので、関係当局には真相を解明してほしいと願う。
さらに現代風に、
■耐震偽装で世間を欺こうとする行為は、決して許せることではないので、関係当局には事件の真相を解明してほしい(解明していただきたい)と願う。

解明してほしい、解明していただきたい、という部分がひっかかります。どなたか良い訳はありますでしょうか。

2.やむを得ざる事情あり候と言へど、他人に責任を負はしめしこと許されざるべきに候はずや。
>やむを得ず事情があるといえども、他人に責任を負わせることができないだろう。

■やむを得ない事情がありましても、他人に責任を負わせることは許されることではございません。

3.いづこにてか買はむと問ひしに、バーゲンなればかの店にて買はざるべからずと言へるなり。
>どこで買おうかという問いにバーゲンであればあの店で買わずにはいられないと言える。

■どこで買おうかと聞いたら、バーゲンであれば、あの店で絶対に買うということだ。
文末のなりは、伝聞の助動詞「なり」の終止形。
4. 船内の光の晴れがましきも徒なるは、舟に残れるは余一人のみなればなり。
>船内の光が晴れやかに連なるのは、船に残ってる人は一人だけである 。
船内にあふれる光は明るいのに、何となく物思いに沈んでしまうのは、この船に残っているのが私一人だけだからである。
くどいかもしれませんが、少し意味を補うと次のような感じだと思います。船の窓から差し込む明るい光。船内はあふれる光に輝き、人の気持ちも自然に晴れ晴れとしてくるはずなのに、それでも私が何となく物思いに沈み、一抹の寂しささえ感じるのは、この船に残っているのが私一人だけだからである。明治時代の小説を思わせる一文ですが、この「私」は旅をしているのでしょうか。

5.この恋愛こそ、いつになるとも、我々いづれにとりても、その記憶の消ゆべからざるものなれ。
>この恋愛こそはといつになっても私たちはどれをとってもその記憶が消えることはないものである 。

■この恋愛こそは、時がどれだけ経っても、私たち二人のどちらにとっても、その記憶が消えることのできないものであれ。
文末のなれは断定の助動詞「なり」の命令形。

119八頭:2007/02/24(土) 17:23:40
6.よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
>よどみに浮かんでいる船は、一方では消えて他方では増えて、長い間とどまっていることはない 。

■河の淀みにできる水の泡は、一方では消え、他方では生まれ、長い間同じ状態であることはない(常に変化している)鴨長明『方丈記』の冒頭の一文ですね。

7.五大洲ノ内、・ハ山ト湖ヲ隔テタルノミニテ候、一洲ト定メ候テモキ地勢ニ御坐候。
>五大州ノ内、は山と湖を隔てているだけであり、一洲と定めており、地勢によるということである 。
五大州は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアのことで、
この文ではアジアとヨーロッパの地理について述べているのでしょう。
>一洲ト定メ候テモキ地勢ニ御坐候
定メ候テモキの部分がよく分からないのですが、
一洲ト定メ候テモヨキ地勢(一つの州と定めてもよい)という意味なのでしょうか。

8.知事自らはたびたび釈明せしかど、ことここに至りては逮捕も当然ならざるべからず。
>知事自らはたびたび釈明したけれどここにいたっては逮捕も当然ならざるえない 。
テソンさんの訳で正しいと思いました。
知事自らは何度も釈明したけれど、事態がここまできてしまっては逮捕も至極当然のことだ、というような意味でしょうか。

9.選挙の結果には大いに驚き候へど、昨今の政党のだらしなき様を省みればありえぬことではなく候はむ。
>選挙の結果には大変驚いたけれど、昨今の政党のだらしない様子を振り返ってみるとありえないことではないだろう 。
テソンさんの訳で良いと思います。
選挙の結果には大変驚きましたが、昨今の政党のだらしない様子を振り返ってみれば、あり得ないことではないと存じます。(あり得ないことではないでしょう。)

10.いはゆる全入時代に入りしが為に、各大学必死になれるも当然なり。然れども、学生の教育こそたとへんに物なからぬ重要事なれば、偽りて世間を欺かば、自ら教育機関たることを放棄せしとこそみなさるべけれ。
>いはゆる全入時代に入ったために各大学が必死になるのも当然である けれど、学生の教育こそ物はなくても重要なことであるので 偽って世間を欺けば 自らの教育機関であることを 放棄したとみなされるであろう。

■いわゆる全入時代に入ったために、各大学が必死になるのも当然である。しかし、学生の教育はこの上なく重要なことなので、嘘をついて世間を騙したりしたら、自ら教育機関であることを放棄したと見なされるであろう、だが、そうであってはならない。
係り結び こそ…べけれ(べしの已然形)
例文の必死になれるも
は、必死になるも、必死になりぬるも或いは必死にならるるも(?)
だと思ったのですが、文法的にどれが妥当なのでしょうか。詳しい方がいらっしゃったら、お教えくださるようよろしくお願い致します。

120八頭:2007/02/27(火) 19:12:55
>五大州は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア

明治時代ですと、五大州は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ
のことを指すのかもしれません。

121みどり:2007/03/16(金) 21:21:52
また、お邪魔します。いわゆる漁歌子について調べています。
『能改齋漫録』に、徐師川云:張志和漁父詞云:“西塞山前白鷺飛。桃花流水鱖魚肥。青箬笠、䖝蓑衣。斜風細雨不須歸。”顧況漁父詞云:“新婦磯邊月明。女兒浦口潮平。沙頭鷺宿魚驚。”東坡云:“玄真語極麗,恨其曲度不傳,加數語以浣溪沙歌之云:“西塞山前白鷺飛。散花洲外片帆微。桃花流水鱖魚肥。自庇一身青箬笠,相隨到處䖝蓑衣。斜風細雨不須歸。”山谷見之,擊節稱賞,且云:惜乎散花與桃花字重疊,又漁舟少有使帆者。乃取張顧二詞,合為浣溪沙云:“新婦磯邊眉黛愁。女兒浦口眼波秋。驚魚錯認月沉鉤。青箬笠前無限事,䖝蓑衣底一時休。斜風細雨轉船頭。”東坡跋云:“魯直此詞,清新婉麗,問其最得意處,以山光水色,替卻玉肌花貌,真得漁父家風也。然才出新婦磯,便入女兒浦,此漁父無乃太瀾浪乎。
とありますが、これはどのように書き下したらよろしいのでしょうか。お教えいただければ幸いです。『晋書』に関係ないものばかりですみません。

122中根:2007/04/15(日) 20:12:25
>みどりさん

亀レスで申し訳ありません。わかるところだけ書き下します。
正直な話宋の詞となると俗語が入ってくるので相当解釈しずらいです。

徐師川云う、張志和が漁父詞に云う「西塞山前白鷺飛ぶ。桃花流水鱖魚肥えたり。
青き箬笠(じゃくりゅう)、䖝の蓑衣(さい)。斜風細雨、帰るを須いず。」と。
顧況が漁父詞に云う「新婦磯の邊に月明らかなり。女兒浦の口の潮平らかなり。
沙頭の鷺、宿魚を驚かす。」と。
東坡云う「玄真が語は極めて麗なるも,恨むらくは其の曲、度を伝えず」と。
數語を加えて以て浣溪沙に之を歌いて云う、
「西塞山前、白鷺飛ぶ。散花洲外、片帆微かなり。桃花流水、鱖魚肥えたり。
自ら一身を庇う青箬の笠,相い隨して到る處䖝蓑の衣。斜風細雨、帰るを須いず。」と。
山谷之を見,節を撃て稱賞し、且つ云う「惜しいかな、
散花と桃花の字は重疊なり,又た漁舟には少しく帆を使う者有り。
乃ち張顧の二詞を取り,合せて浣溪沙と為して云う、

…以下はちょっと書き下しにくいですね。

123みどり:2007/04/15(日) 21:43:52
中根さま、ありがとうございます。
無理なお願いをして申し訳ございませんでした。

124中根:2007/04/22(日) 17:39:31
>みどりさん

いえいえ、途中までしか書き下し出来なくて申し訳ないです。
これからも何かありましたらよろしくお願いします。

125:2007/05/06(日) 05:20:55
妻曰:“妾闻之:可食以酒肉者,可随以鞭捶。可授以官禄者,可随以鈇钺。今先生食人酒肉,授人官禄,为人所制也。能免于患乎!妾不能为人所制,投其畚莱而去。”老莱子曰:“子还,吾为子更虑。”遂行不顾,至江南而止,曰:“鸟兽之解毛, 可绩而衣之。
の訳教えてください!

126八頭:2007/05/08(火) 22:20:45
初めまして。訳ではないのですが、訳の参考になればと思い、
訓読をしてみました。一読していただければ、幸いです。

間違いがあるかもしれませんので、お気づきの方はご指摘お願い致します。

ぶしつけですが、中さんは中国語或いは中国古典を勉強している方でしょうか?
文章が簡体字のようですね。


妻曰(いわ)く:“妾(しょう)之を闻く:食(く)わすに酒肉を以(もっ)てすべき者は,随(したが)うに鞭捶(べんすい)を以てすべし。授(さず)くるに官禄(かんろく)を以てすべき者は,随ふに鈇鉞(ふえつ:斧とまさかり;刑具)を以てすべし。今 先生 人の酒肉を食(く)らひ、人に官禄を授(さず)かれば、人の制する所となるなり。能く患いより免れるかな!妾 人の制する所となる能はず,其の畚莱(ほんらい:土石を運ぶ用具と荒れた畑)を投じて去かん。”老莱子曰く:“子(し)還(かえ)れ,吾 子の為に更に慮(おもんぱか)らん。”遂(つい)に行(ゆ)きて顧(かえりみ)ず,江南に至りて止(とど)まる,曰く:“鳥獣(ちょうじゅう)の解毛は, 績(つむ)ぎて之を衣にすべし。

127中根:2007/05/13(日) 01:26:14
>中さん

はじめまして。
かかれた文章は『列女伝』楚老莱妻の項のようですね。
日本語訳が市販されています(山崎純一訳と牧角悦子訳)ので、ぜひ
参照してみてください。

余談ですが、わたしは学生時代牧角悦子先生に中国語を習いました。できの悪い
生徒でして、怒られたりしていましたが、先生のお蔭で仕事で中国語で
現地の人とやり取りできるようになったと思うと、
ありがたいことだと学恩に感謝しております。
歌手のイルカさんのようなチャーミングな方でしたが、
今でもお元気でいらっしゃるでしょうかねえ…

128八頭:2007/05/13(日) 19:48:40
中根さん、参考書を教えてくださり、ありがとうございます。

>日本語訳が市販されています

一冊は『列女伝』牧角悦子(まきずみ えつこ)明治書院 2001年ですね。
東洋文庫にも『列女伝』があるようです。

訓読に間違いがあったかもしれませんが、気付いた間違いでは、
>畚莱(ほんらい:土石を運ぶ用具と荒れた畑)
ネットで原文を探して読んでみましたが、アカザの入った籠(籠の中のアカザ)
のようですね。(籠鳥(ロウチョウ 籠の中の鳥)と同じ)
『漢辞海』には、「もっこ」とありますが、こうした農具は、身近にないとイメージしにくいですね。

>患
「災難、わざわい」という意味だと思いますが、
素朴な疑問なのですが、読みは患(うれ)い、それとも患(わずら)い
のどちらなのでしょうか。
『漢辞海』は、患(わずら)い、としていますが、
患(うれ)い、と読むべきという意見もあるようです。

129名無晋書さん:2007/07/04(水) 22:28:02

 『晋書』武帝紀咸煕二年の条。

 於是天子知暦數有在、乃使太保鄭沖奉策曰、咨爾晉王、我皇祖有虞氏誕膺靈運、受終于陶唐、亦以命于有夏、
惟三后陟配于天、而咸用光敷聖紱、自茲厥後、天又輯大命于漢、火紱既衰、乃眷命我高祖、方軌虞夏四代之明顯
、我不敢知、惟王乃祖乃父、服膺明哲、輔亮我皇家、勳紱光于四海、格爾上下藭祇、罔不克順、地平天成、萬邦
以乂、應受上帝之命、協皇極之中、肆予一人、祗承天序、以敬授爾位、暦數實在爾躬、允執其中、天祿永終、於
戲、王其欽順天命、率循訓典、底綏四國、用保天休、無替我二皇之弘烈、帝初以禮讓、魏朝公卿何曾・王沈等固
請、乃從之、

 是に於いて天子は暦數の在るを有するを知り、乃ち太保鄭沖をして策を奉ぜしめて曰く、
 「咨、爾晉王よ、我が皇祖有虞氏は、誕(おおい)に靈運を膺(あた)られ、終を陶唐に受け、亦た以て有夏
に命ず。惟れ三后陟(のぼ)りて天に配して、咸な用ひて聖紱を光敷せり。茲自り厥(そ)の後、天は又た大命
を漢に輯めり。火紱既に衰へ、乃ち我が高祖に眷命せられ、軌を虞夏四代の明顯に方(くら)べしむるに、我敢
へて知らず。惟れ王が乃祖乃父は、明哲を服膺し、我が皇家を輔亮し、勳紱は四海に光れり。爾は上下の藭祇に
格(いた)れり、克順せざる罔(な)く、地平(やす)らかに天成り、萬邦以て乂(をさ)まれり。上帝の命を
受け、皇極の中に協(かな)ふるに應へよ。肆に予一人、祗(つつし)みて天序を承り、以て敬ひて爾に位を授
く。暦數實に爾が躬に在り、允に其の中に執らば、天祿終を永ぜん。於戲、王其れ欽みて天命に順へよ。訓典に
率循(したが)ひ、四國を底綏し、用ひて天休を保ち、我が二皇の弘烈に替はる無かれ」と。
 帝は初め禮を以て讓るも、魏朝の公卿何曾・王沈等固く請へば、乃ち之に從へり。

 カッコ内が難しくてよくわかりません。よろしく御願いします。

 参考資料
 ttp://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/03-1.html
 ttp://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/zz_shinjo_003_ki03_butei.jpg

130スート:2007/07/04(水) 22:38:31
おお、名前が無い。
すいません。

131あそ:2007/07/05(木) 21:19:19
初超被徴、以戊己校尉任尚爲都護、與超交代、尚謂超曰、君侯在外國三十餘年、
而小人猥承君後、任重慮淺、宜有以誨之、超曰、年老失智、任君數當大位、豈班超所
能及哉、必不得已、願晋進愚言、塞外吏士、本非李子順孫、皆以罪過徙補邊屯、而蠻
夷懐鳥獸之心、難養易敗、今君性嚴急、水芿無大魚、察政不得下和、宜蕩佚簡易、寛
小過總大綱而已、超去後、尚私謂所親曰、我以班君當有奇策、今所言平平耳、尚至數年、
而西域反亂、以罪被徴、如超所戒。
後漢書の班超伝第三十七です。どこ探しても訳がないんです。訳して下さい。お願いします。

132菅原:2007/07/16(月) 17:16:51
あそさん、はじめまして、代表の菅原です。
レスが遅くなり、申し訳ありません。
『後漢書』「班超伝」の訳が必要とのことですが、
明徳出版社の中国古典新書シリーズの『後漢書』に当該部分の訳がありますので、
そちらを参考にされればと思います。

ちなみにあそさんは西域関連に興味があるのでしょうか?

133燐爛:2007/07/19(木) 21:23:42
こんばんは、はじめまして!

いきなりですいませんが、この問題だけ解けなくて苦戦しております;汗

*問題*
返り点と送り仮名をつけなさい。

宜進而進、宜退而退、良将也。
[現代語訳:進むのがよい時には進み、退くのがよい時には退くのが、
すぐれた将軍である。]
書き下し文だけで構いません!
どなたかわかる方いらっしゃいませんか?><

134中根:2007/07/21(土) 11:09:36
どうもはじめまして。実は漢文の書き下しは色々細部で違いがあるので、
私の解答を先生にそのまま出しても○が付くかどうかはわかりませんが、
まあもっとも標準的なものを書きます。受験の文法的には宜は「よろしく
・・・べし」の再読文字ですから、

宜しく進むべくして進み、宜しく退くべくして退くは、良将なり。

となります。

以下は余談ですが、本当は日本語のリズムから言えば
「進むべくして進み、退くべくして退くは良将なり」のほうがよほど
いいでしょうね。多分これだと再読文字を読めてないのでペケでしょうが。
森鴎外も『渋江抽斎』では
「進むべくして進み、辞すべくして辞する」
というように書いてますね。
難しいところです。

135燐爛:2007/07/22(日) 06:45:10
中根さま

中根さまは物知りでいらっしゃるのですね。すごいです!


問題のほう、ご丁寧にどうもありがとうございます!!
大変助かりました!

136菅原:2007/08/18(土) 21:34:35
このスレでは一般の漢文に対する質問は受け付けていますが、
大学等の問題や宿題等に対する回答はできませんので、
そういったご質問はご遠慮ください。

137ひこにゃん:2007/08/29(水) 21:56:45
はじめまして。
以下の訓読が分からないのですが・・・。

正しい読み方が分かる方がいらしたら、
教えてください。
お願い致します。

傷心處別時路有誰不同

138八頭:2007/09/01(土) 19:45:47
ひこにゃんさん、はじめまして。
出典がよくわからないのですが、読んでみました。
間違っているかもしれませんが、

傷心處別時路有誰不同
心を傷むる処、別るる時路,誰か同じからざること有らん。

でしょうか。
恐らく間違っていると思います。
どなたかご指摘よろしくお願いします。

139名無晋書さん:2007/09/03(月) 04:42:47
出典はおそらく屠洪剛という人の歌っている「霸王別姫」の曲ではないでしょうか?
ttp://baike.baidu.com/view/8506.htm
「人世間有百媚千抹 我独愛 愛你那一種 傷心處別時路有誰不同 多少年恩愛匆匆葬送」

140八頭:2007/09/06(木) 18:57:17
名無晋書さん、ご指摘ありがとうございます。
有名な曲らしく、「十年輝煌中国歌曲排行榜 1996年」というCDに収録されていますね。
書虫で購入できます。
なかなか雰囲気の出ている曲でした。

141和尚:2007/09/07(金) 19:10:59
こんばんは。以下の文の読み方、意味などご教授お願いできますか。どうかよろしくお願い申し上げます。
夫五情六欲人心所常有斧藻防輭外事之至苦荀人鬼無尤於趣舎何不順其所甘而強其苦哉

142名無晋書さん:2007/09/07(金) 21:26:57
浙西軍校呉景者辛酉歳設齋於石頭城僧院(『稽神録』徐鉉)
浙西ノ軍校呉景ハ、辛酉ノ歳、齋ヲ石頭城ノ僧院ニ設ク。
浙西地方の将校、呉景は辛酉の年に、石頭城の或る寺で齋を施した。

この「齋」は、僧侶に食事を差し上げるという意味だと思うのですが、それは死者の供養のためなのですよね。
宗教(ここでは仏教)が分からないと中国の文学、歴史は分からない、と、学生の頃、中国古典文学(宋詞)の先生からお話を伺ったことがあります。
詳しいことをご存知の方がいらしたらご指摘お願い致します。

143名無晋書さん:2007/09/07(金) 21:33:52
呉景
浙西軍校呉景者辛酉歳設齋於石頭城僧院其夕既陳設忽聞婦女哭聲甚哀初遠漸近俄在齋筵中矣景乃告院僧曰景頃歳従軍克豫章獲一婦人殊有姿色未幾其夫求贖將軍令嚴粛不可相容景即殺之後甚以爲恨今之設齋正爲是也即與僧倶往乃見婦人在焉僧爲之祈告婦人曰我従呉景索命不知其他遽前逐之景急走上佛殿大呼曰我還爾命於是顚仆而卒

144えちぜん:2007/09/09(日) 23:39:11
>141
和尚さん、こんばんは。
この文の出典、あるいはどういうところに書いてあったのか、そういう情報もいただけると読解の助けになったのですが。。。
私も最近漢文に取り組む時間が取れなかったもので、ちょっと腕試しに挑戦してみました。あまり自信はありませんので、ほんの参考程度になさってください。

まず、書き下し。

夫れ五情六欲は人心の常に有する所なり。斧藻・防輭・外事、之れ至苦なり。苟も人鬼趣舎に於いて尤無ければ、何ぞ其の甘き所に順わずして、其の苦きを強めんや。

次に語釈。

●夫れ それ。発語の辞。 さて、そもそも。●五情六欲  この文章が仏教に関係するとすれば、人が有する五つ、乃至六つの欲望のこと。諸橋大漢和を引けば、その五つ、六つが何かが出ています。●斧藻・防輭・外事 斧藻(ふそう)の「斧」はけずる、「藻」は飾ること。元は柱を削って装飾を施したことをいう。防輭(ぼうかん)は、防閑ではないかと。防閑の「防」も「閑」も防ぐの意。元は人の行為を止めることに用いられたようです。外事(がいじ)は、他のこと、あるいは世間のこと。ここでは、人が欲望に負けて、自分の身を飾り立てたり、人の行為を邪魔したり、世間の事が気になったりということではないかと思います。●至苦 後文で、「甘」「苦」が対で用いられていることから、ここは「にがい」の意味で取ると良いと思います。●苟も 元の文では「荀」となっていますが、「苟」の誤りではないかと思います。仮にの意味。●人鬼 本来は死んだ人の霊魂ということのようですが、先に「人心」とありますから、その言い換えと思われます。●趣舎 取ることと捨てること。取捨。●尤  過ち。咎め。●何不順其所甘而強其苦哉 何不A而Bで、「何ぞAしてBせざらんや」と通常は読むようなのですが、ここでは上記書き下しのように読んだ方が意味が通ると思います。



さて、五情六欲というのは、人の心に常に存在するものです。身を飾ったり、人の邪魔をしたり、世間のことが気になったり、これらは最も苦々しいことであります。もし仮に人の心が取捨選択することにおいて過ちが無いとすれば、どうして甘いところに従わないで、苦いことを強めようとするのでしょうか?

145和尚:2007/09/10(月) 22:05:12
えちぜん様、ありがとうございます。出典は『廣弘明集』唐 道宣にある「釋疑論」晋 載逵です。斧藻防輭外事之至苦をどこで切ればよいか分からず、とても助かりました。
荀人鬼無尤於趣舎何不順其所甘而強其苦哉ですが、
荀も人鬼 趣舎に於いて尤むこと無ければ、何ぞ其の甘き所に順わせ、其の苦きを強らざる。 
と読みました、もし、人鬼(死者の魂)が人の取捨選択を咎めないのなら、どうして(仏の教えは、人に取捨選択の)快楽に従わせ、苦痛を強要しないのか。
快楽に従わせ、苦痛を強要するべきだ。

となり、よく理解できません。

釋疑論    晉戴安
T52n2103_p0221c24(00)║安處子問於玄明先生曰。
T52n2103_p0221c25(07)║蓋聞積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。又曰。
T52n2103_p0221c26(03)║天道無親常與善人。斯乃聖達之格言。
T52n2103_p0221c27(05)║萬代之宏標也。此則行成於己身。福流於後世。
T52n2103_p0221c28(04)║惡顯於事業。獲罪乎幽冥。然聖人為善。
T52n2103_p0221c29(06)║理無不盡理盡善積。宜歷代皆不移。行無一善惡惡相承。
T52n2103_p0222a01(01)║亦當百世俱闇。是善有常門。惡有定族。
T52n2103_p0222a02(03)║後世修行復可益哉。又有束修履道。言行無傷。
T52n2103_p0222a03(01)║而天罰人楚百羅備纓。任性恣情肆行暴虐。
T52n2103_p0222a04(01)║生保榮貴子孫繁熾。推此而論。
T52n2103_p0222a05(06)║積善之報竟何在乎。夫五情六慾人心所常有。
T52n2103_p0222a06(04)║斧藻防閑外事之至苦。苟人鬼無尤於趣舍。
T52n2103_p0222a07(04)║何不順其所甘而強其苦哉。請釋所疑以祛其惑。
T52n2103_p0222a08(02)║先生曰。善哉子之問也。史遷有言。
T52n2103_p0222a09(06)║天之報施善人何如哉。荀絓亦云。飾變詐而為姦宄者。
T52n2103_p0222a10(01)║自足乎一世之間。守道順理者。不免飢寒之患。
T52n2103_p0222a11(00)║二生疑之於前而未能辨。吾子惑之於後。
T52n2103_p0222a12(01)║不亦宜乎。請試言之。夫人資二儀之性以生。
T52n2103_p0222a13(01)║稟五常之氣以育。性有脩短之期。
T52n2103_p0222a14(05)║故有彭殤之殊。氣有精麤之異。亦有賢愚之別。
T52n2103_p0222a15(04)║此自然之定理不可移者也。是以堯舜大聖朱均是育。
T52n2103_p0222a16(00)║瞽叟下愚誕生有舜。顏回大賢早夭絕嗣。
T52n2103_p0222a17(01)║商臣極惡令胤剋昌。夷叔至仁餓死窮山。
T52n2103_p0222a18(02)║盜跖肆虐富樂自終。比干忠正斃不旋踵。
T52n2103_p0222a19(03)║張湯酷吏七世珥貂。凡此比類不可稱言。
T52n2103_p0222a20(03)║驗之聖賢既如彼。求之常人又如此。
T52n2103_p0222a21(06)║故知賢愚善惡脩短窮達。各有分命。非積行之所致也。
T52n2103_p0222a22(02)║夫以天地之玄遠。陰陽之廣大。
T52n2103_p0222a23(07)║人在其中豈惟[米*弟]米之在太倉。毫末之於馬體哉。
T52n2103_p0222a24(05)║而匹夫之細行。人事之近習。一善一惡皆致冥應。
T52n2103_p0222a25(03)║欲移自然之彭殤易聖於朱舜。此之不然居可識矣。
T52n2103_p0222a26(00)║然則積善積惡之談。蓋施於勸教耳。
T52n2103_p0222a27(03)║何以言之。夫人生而靖天之性也。
T52n2103_p0222a28(07)║感物而動性之欲也。性欲既開流宕莫檢。聖人之救其弊。
T52n2103_p0222a29(02)║因神道以設教。故理妙而化敷。順推遷而抑引。
T52n2103_p0222b01(00)║故功玄而事適。是以六合之內論而不議。
T52n2103_p0222b02(01)║鑽之而不知所由。日用而不見所極。
T52n2103_p0222b03(04)║設禮學以開其大矇。名法以束其形跡。
T52n2103_p0222b04(06)║賢者倚之以成其志。不肖企及以免其過。使孝友之恩深。
T52n2103_p0222b05(01)║君臣之義篤。長幼之禮序。朋執之好著。
T52n2103_p0222b06(03)║背之則為失道之人。譏議以之起。
T52n2103_p0222b07(07)║向之則為名教之士。聲譽以之彰。此則君子行已處心。
T52n2103_p0222b08(03)║豈可須臾而忘善哉。何必修教責實以期應報乎。
T52n2103_p0222b09(01)║苟能體聖教之幽旨。審分命之所鍾。
T52n2103_p0222b10(04)║庶可豁滯於心府不祈驗於冥中矣。安處子乃避席曰。
T52n2103_p0222b11(00)║夫理蘊千載念纏一生。今聞吾子大通之論。
T52n2103_p0222b12(00)║足以釋滯疑祛幽結矣。僕雖不敏請佩斯言。

146えちぜん:2007/09/12(水) 02:05:31
>145
和尚さん、こんばんは。
出典をご紹介いただき、ありがとうございます。晋の戴逵(字は安道)の「釋疑論」、この文章は『全晋文』にも収録されていますね。戴逵の伝は晋書列伝第64にあります。

141でご質問された文章は、安處子が玄明先生に質問する言葉の中にあります。聖賢の教えと現実とのギャップ、天道是か非か、という問題です。その文脈で141の文章を読むと、人間の欲は自然の摂理に逆らって働いているようだが、なぜか?ということだと思います。

それでいくと、144で訳した内容でほぼ大丈夫かなという気が致します。
人の心は普通、平静で穏やかな境地を望むはず。しかしながら人の心の欲は、わざわざ平静さをかき乱すように人の心をかき立てている。甘いものと苦いものがあれば、甘いものの方へよるのが自然の摂理。人の心も平静で穏やかな境地を望むという自然の摂理に従うはずなのに、どうしてわざわざ苦い方へ寄っていこうとするのだろうか?ということだと思います。

「斧藻防輭外事之至苦」は難しいですよね。私も悩みました。144では「斧藻・防輭・外事、之れ至苦なり。」と読んだのですが、「斧藻・防輭・外事、之れ苦きに至る。」と読んだ方が良いかも知れません。

>荀も人鬼 趣舎に於いて尤むこと無ければ、何ぞ其の甘き所に順わせ、其の苦きを強らざる。 
>もし、人鬼(死者の魂)が人の取捨選択を咎めないのなら、どうして(仏の教えは、人に取捨選択の)快楽に従わせ、苦痛を強要しないのか。

「人鬼」はやはり先に出てくる「人心」の言い換えでしょうね。「尤」は名詞として扱った方が良いと思います。「人鬼 趣舎に於いて尤(あやまち)無し」 人心は取捨選択において過ちがない。→人心は自然の摂理に従うはず。
「何不順其所甘而強其苦哉」は144でも書きましたが、通常は和尚さんのように読むようです。ところがやはり意味が通じないのですね。なので、あえて「何ぞ其の甘き所に順わずして、其の苦きを強めんや。」と読んでみました。主語も仏の教えではなく、「人鬼」(人心)でしょうね。甘いものと苦いものがあれば、甘いものへ寄るはず。(人の心は)どうしてその甘いものに寄らずに、わざわざ苦いものへ寄っていくのか?

というわけで書き下し修正。

夫れ五情六欲は人心の常に有する所にして、斧藻・防輭・外事、之れ苦きに至る。苟も人鬼 趣舎に於いて尤無ければ、何ぞ其の甘き所に順わずして、其の苦きを強めんや。

訳修正。

さて、五情六欲というのは、人の心に常に存在していて、身を飾ったり、人の邪魔をしたり、世間のことが気になったりと、(わざわざ)苦いところへ行っています。もし仮に人の心が取捨選択することにおいて過ちが無い(甘いものと苦いものがあれば、甘いものを選ぶ)とすれば、(人の心は)どうして甘いものを選ばず、苦いものばかり選ぼうとするのでしょうか?

147玄丘校尉:2007/09/23(日) 19:02:14
初めまして。訓読よろしくお願い致します。

老子曰吾有三寶持而寶之一曰慈ニ曰倹三曰不敢爲天下先
此三寶者吾於終日疏林中盡見之落葉慈也
損小己以全宗幹可謂慈矣
松柏需水供至微故生水土澆薄之所秋冬水絶亦不虞匱乏
人但知其後彫而莫知後彫之由於能倹也。

148玄丘校尉:2007/09/23(日) 19:04:22
終日疏林は、
秋日疏林でした。

149名無晋書さん:2007/09/24(月) 21:54:10
一切誰心造
これってどのように訳せば良いのですか?

150名無晋書さん:2007/09/24(月) 21:54:54
一切誰心造
これってどのように訳せば良いのですか?

151和尚:2007/09/25(火) 20:20:54
一切誰心造
出典を教えて下さるようお願い致します。仏典でしょうか。

152Christian:2007/09/26(水) 21:18:49
一切誰心造

一切誰(なに)をか心造せん。

だと思いますよ。

153中根:2007/09/28(金) 23:09:02
>和尚さん
知りたいお気持ちは大変良く分かりますが、短時間に連続の書き込みは
ご遠慮ください。

>一切誰心造
仏典ではないようです。大蔵経検索でもヒットしません。文体からいって
宋あたりの口語ではないかと思います。儒者の語録か何かではないでしょうか。
今ひとつ手がかりにかけますので、和尚さんがどこでご覧になったか
教えて頂ければあるいは何か手がかりがあるかも知れません。
読みはChristianさんの読み方でいいと思います。

154中根:2007/09/28(金) 23:29:19
>玄丘校尉さん

はじめまして。途中まで訳しておきます。

>老子曰吾有三寶持而寶之一曰慈ニ曰倹三曰不敢爲天下先
老子曰く。吾に三寶有り。持して而して之を寶とす。
一に曰く、慈。ニに曰く倹。三に曰く、敢えて天下の先たらず。

老子はいった。
「私には三つの宝がある。それを宝として大事にしている。
第一に慈愛。二番目は倹約。三番目は敢えて天下に先んじないという
ことだ」と。

老子の第67章ですね。翻訳は各種ありますので参照してみてください。

>此三寶者吾於秋日疏林中盡見之
この三寶は吾秋の日の疏(まばら)なる林の中にことごとくこれを見る。

訳:老子がいう「三宝」を、私は秋の日の木のまばらな林の中で全て見た。

後は簡単なので、読んで見てください。

155菅原:2007/09/29(土) 12:55:57
みなさん、ご訪問ありがとうございます。
訓読を希望される際は出典がわかる場合は出典を明示していただければ
その分ご説明しやすいと思いますので、お手数ですがよろしくお願いします。

>名無晋書さん
「一切唯心造」であれば『華厳経』の言葉で
「一切は唯だ心の造るものなり」という意味のようです。

156玄丘校尉:2007/09/29(土) 16:26:44
中根さん、ありがとうございます。
出典ですが、胡適の『嘗試集』中の「秋聲」という作品です。短い散文の後に、詩(文語)が添えられています。詩の内容は、晩秋の凋落の中、緑を保つ松柏を讃える、というものです。

157玄丘校尉:2007/10/07(日) 11:29:33
兪平伯の随筆「秋茘亭随筆」を読んでいます。

幼年不學詩,唯令属対。対有三四五七字之分,由三而漸展至七,亦課蒙之成規也。
其先皆由両大人自課,其課本則吾母手抄。
至光緒戊申,則附入塾中日程内。最初想尚不時倩人,継而師知余拙,毎出一対,輒先自爲之。
若余対不出,則師径以其所預儲者填入“課本”中,遂作爲今日課畢而放學矣。 
則附入塾中日程内ですが、

則ち塾の中日程の内に附して入る。
でしょうか?読みがよくわかりません。

父兄に連れられて、一日おきの日程の塾へ入学した。或いは、
一日おきに家塾へ通って学問の手ほどきを受けた、という意味でしょうか?
どなたか、教えて下さい。お願い致します。

158菅原:2007/10/10(水) 22:23:21
>玄丘校尉さん
たびたびのご訪問ありがとうございます。
ご質問の件ですが、会員は現在いろいろと余裕がない状況なので、
本当に申し訳ありませんが、回答までもう少しお時間をください。

159おでかけ:2007/12/07(金) 22:35:39
「秦律十八種」の「司空律」の一部のようですが
どなたか,意味がわかるかたお願いします。

有罪以貲贖及有債于公,以其令日問之,
其弗能入及償,以令日居之,日居八錢;公食者,日居六錢。

160八頭:2007/12/09(日) 18:27:46
おでかけさん、こんばんは。間違いがあると思いますが、
とりあえず読んでみました。

罪有りて貲(し)を以て贖ひて公に債有るに及べば、
以て其の令 日(ひび)に之を問ふ。
其の入れて償に及ぶこと能わざれば、以て日に之を居くに、日に八銭を居かしめ、公の食わしむるものには、日に六銭を居かしむ。

罪を犯し、金銭で償うことができず、国家に対し債務を負えば、法令はその債務を日々追及する。
税金を納めて債務を返済ができなければ、日々債務を返済させて、〔庶民には〕毎日八銭返済させ、俸禄を受けている者には、毎日六銭返済させる。

専門外でよく分かりません。お分かりの方がいらっしゃったら、ご指摘お願い致します。

161八頭:2007/12/10(月) 21:43:57
>以其令日問之
「之」は、「債」を指すと考えました。債務という意味だと思います。
>以令日居之
「之」は同じく「債」を指すと思います。
「居」ですが、『漢辞海』に動詞で、「(任務として)つとめる」とあります。
従って、「居之」=「居債」だと思いますが、「居債」は辞書にないですね。
直訳すると、「債務をつとめる」となり、意味がよく通じません。

単純に考えれば罰金を払えないということから、賦役に従事してお金を返すという意味でしょうか。
『漢語大詞典』の「居作」という語に「罰として囚人に労役に服させる」とありました。
従って、「居」はつとめる、労役に服して、という意味ではないかと思います。

>其弗能入及償,以令日居之
税金を納めて債務を返済ができなければ、
日々労役をさせて債務を返済させ、

中途半端ですみませんが、用事がありますので、これで失礼致します。
よく辞書を引いたり、原文にあたらないと駄目ですね。

162えちぜん:2007/12/11(火) 01:52:54
おでかけさん、はじめまして。
私も八頭さんの書き込みを参考にしながら読んでみました。
私も門外漢でありますから自信もなく、間違いもあろうかと思いますので、その点ご承知おき下さい。

<書き下し>
罪を有し貲を以て贖う、及び債を公に有す、其の令 日(ひび)に之を問うを以てす。
其れ入れて償うこと能わざれば、令 日(ひび)に之を居(たくわ)うるを以てす。日に居(たくわ)うること八錢なり。公の食うは、日に居(たくわ)うること六錢なり。

<訳>
罪を犯し金銭にて贖う場合、及び役所に借金がある場合、(担当部署の)長官は日々その支払いを求めるものとする。
金銭を支払って償うことができなければ、(担当部署の)長官は日々その(借金の)延滞金を蓄えていくものとする。一日に蓄える延滞金の額は八銭とする。役所が雇っている者については、一日に蓄える延滞金の額は六銭とする。


>有罪以貲贖及有債于公
 「及」は、並列の関係を表す接続詞として訳しました。「及」の前後の文は、事情は違えど借金があるという共通の状態を表しています。

>以其令日問之
 「其令」は、「法令」というよりも「長官」「責任者」と捉えた方が良いように思います。「問之」の「之」は私も「債」 借金のことだと思います。「問之」で「督促する」と訳しても良いかも知れません。

>其弗能入及償
 この「及」も、並列の関係を表す接続詞と考えましたが、訳出すると不自然になるので、敢えて訳出しませんでした。督促したにもかかわらず債務者が借金を返さなかった場合を規定するものと思われます。

>以令日居之,日居八錢;公食者,日居六錢。
 「居」が度々出てきますが、ここは「たくわえる」という意味ではないかと思います。「返済する」という意味はちょっと出てこないかと思います。ここの「之」は、あまり意味がないとするか、次に続く文を表しているか、どちらかだと思うのですが(そんな用法があるのかどうか自信ありませんが。)後者の場合であればつまり、一日に八銭、条件によっては六銭という金銭、ということになるかと思いますが、この金銭は現代で言うところの「延滞金」「遅延損害金」に当たるものかなと思います。「公食者,日居六錢」と少し金額が少ないのは、現代でも社内融資などを受ける場合は、一般の銀行から融資を受けるより有利な金利で借りられるということと同じでしょうか?この「居」の用例を挙げられないのですが、前文との関係からこのように推測しました。

163名無晋書さん:2007/12/11(火) 11:03:29
はじめまして。陸平原集の中の鼈賦という賦ですが、読めません‥。鼈の説明なのですが‥。どなたかよろしくお願いします。


鼈賦有引

皇太子幸于釣臺,漁人獻鼈,命侍臣作賦。
其狀也,穹脊運脅,玄甲四周。遁方圓於規矩,徒廣狹以妨。循盈尺而腳寸,又取具於指掌。鼻嘗氣而忌脂,耳無聽而受響。是以棲居多逼,出處寡便,尾不副首,足不運身。於是從容澤畔,肆志汪洋,朝戲蘭渚,夕息中塘。越高波以燕逸,竄洪流而潛藏。咀螵蘭之芳荄,翳華藕之垂房。

164八頭:2007/12/11(火) 19:36:34
えちぜんさん、ご指摘くださりありがとうございます。基本的な「其」などの読み方を間違えていました。
「及」ですが、えちぜんさんのおっしゃる通り、並列の接続詞かもしれません。ただ、前後の句が同じ成分か分からず、動詞ととらえました。
>以令日居之,日居八錢;公食者,日居六錢。
「令」使役動詞かと思ったのですが、長官の意味にとれば、名詞にとれ、そちらのほうが文法的に正しいかもしれません。

秦律は、睡虎地秦簡の一部のようですが、語彙、文法に関する研究書が出ているようですね。
個人的に読解に困難を感じました。

おでかけさんのお陰で秦律の存在を知ることができました。ありがとうございました。

165仁雛:2007/12/15(土) 22:52:58
>159 おでかけ さん

有罪以貲贖及有債于公,以其令日問之,
其弗能入及償,以令日居之,日居八錢;公食者,日居六錢。

冨谷至先生の訳をご紹介します。意味はとれると思います。冨谷至『秦漢刑罰制度の研究』同朋舎、1998年、68頁より。
「犯罪を犯して、貲刑・贖刑を科せられた者、もしくは公に債務がある者は、所定の日に尋問をおこない、金銭を納めることができない、償還できないとなれば、所定の日から労役に従事させる。一日の労働単価は八銭。公より給食を受ける者は、六銭。」

166<削除>:<削除>
<削除>

167菅原:2008/02/16(土) 23:27:27
>166さん
書込内容から誤記入と判断し、書込を削除させていただきましたので、ご了承ください。

168しかくまる:2008/02/20(水) 23:05:40
はじめまして。
志格という言葉の由来を調べていてどうしても読めずに困っています。
どなたかよろしくお願いします。

晋書 第一百一十 載記第十 の最後の方から抜粋です。
  
李產,字子喬,范陽人也。少剛窅,有志格。
永嘉之亂,同郡祖逖擁眾部于南土,力能自固,產遂往依之。
逖素好從膻,弟約有大志,產微知其旨,乃率子弟十數人間行還鄉里,
仕于石氏,為本郡太守。

169中根:2008/02/23(土) 13:29:08
しかくまるさんはじめまして。

>志格という言葉の由来を調べていてどうしても読めずに困っています。
簡野通明の『字源』には、
志格 シカク こころざしけだかし。
と出ています。志が気高いということですね。漢文訓読では「志格有り」で
いいでしょう。

170しかくまる:2008/02/24(日) 20:13:16
中根さん、ありがとうございます。

志格は志が気高いということなんですね。
「剛窅少なく、志格有り」
と読めばよろしいのでしょうか?
もう一つ、伺いたいのが「剛窅」の意味なのですが?
また、どなたか教えてください。
よろしくお願いします。

171えちぜん:2008/02/25(月) 00:13:33
「剛窅」は大漢和には「つよくきびしい」とありますが、漢語大詞典には「刚正严厉」とあって、一本気で厳格だといったところでしょうか。「少」は若いということですね。少年の「少」です。
「少(わか)くして剛窅、志格有り」 若い頃から一本気で厳格な性格で、気高い志を持っていた、ということだと思います。

172しかくまる:2008/02/25(月) 21:48:12
中根さん、えちぜんさん
ありがとうございました。
これを機にもう少し勉強してみます。

173<削除>:<削除>
<削除>

174ひっとん:2008/03/06(木) 09:56:01
中国の書家・芸術家の呉昌碩という人物の詩なのですが、読めずに困っています。
お時間のある方、よろしくお願いします。

タイトルは「丁隠君像」です。丁隠君という人物の像についてなんです。
形式は七言絶句です。
痩骨如龍道气氷
鉏経識字古先生
苦心刻画応惔我
秦漢難期殿有清

もうひとつ、タイトルは「秋華」。七言絶句です。
九天風露九秋華
老眼模粘視隔紗
絶似馮突籠翠墨
夕陽景裏拓褒袤(or牙)

だいたいの意訳でもかまいません。手がかりがほしいです。

175名無晋書さん:2008/03/10(月) 20:17:31
ひっとんさん、初めまして。

とり急ぎ「秋華」を読んでみました。
だいたいの意訳ですので、間違いがあるかもしれません。

九天の風露 九秋の華
老眼 模粘として 視 紗を隔つ
絶えて似たり 突に馮りて翠墨を籠め
夕陽景裏 褒袤に拓すに

空は青く澄み、風が吹き渡り、野に露の繁る秋が訪れ、
我が家の庭にも菊の花が咲いた。
しかし、年老いて老眼となった私には、菊をぼんやりとしか見ることができない。
それは崖によって美しい書画を遮られ、
夕闇の中で布に拓本を取って見るかのようだ。

>お時間のある方

皆さん仕事や家事或いは学業で大変忙しいと思いますので、もう少し
手がかりを提供してくださると返答しやすいかもしれません。^^
それでは失礼致します。

176名無晋書さん:2008/03/11(火) 19:50:48
>褒袤(or牙)

「褒斜」(地名)ではないでしょうか?
詳しくないのでよく分かりませんが、漢代の碑などで有名のようですね。

>絶似馮突籠翠墨
>夕陽景裏拓褒袤(or牙)

空は青く澄み、風が吹き渡り、野に露の繁る秋が訪れ、
我が家の庭にも菊の花が咲いた。
しかし、年老いて老眼となった私には、紗を隔てたようにぼんやりとしか見えない。
それは、険しい崖に攀じ登って、黒々とした墨を壁面に塗り(或いは、墨を籠に入れて?)
夕暮の中で褒斜の石碑の拓本を取ろうとするかのようだ。

上の訳ではどうも意味が通じない気がします。
参考にならず申し訳ありませんが、これで失礼します。

177名無晋書さん:2008/05/02(金) 01:34:55
すみません。以下の漢文の書き下しを教えてください。

姚氏,餘杭人,居山谷間。
夫出刈麥,姚居家執爨。
母何氏往汲澗水,久而不至。
俄聞覆水聲,亟出視、則虎啣其母以走。
姚倉卒往逐之,即以手毆其脅,
鄰人競執器械以従,虎乃置之而去。
姚負母以歸,求藥療之,奉養二十餘年而卒。

長々と申し訳ありませんがよろしくお願い致します。

178むじん:2008/05/04(日) 02:07:20
姚氏、餘杭の人、山谷の間に居る。
夫 出でて麥を刈り、姚 家に居りて爨を執る。
母何氏 往きて澗の水を汲み、久しうして至らず。
俄に水の覆へるの聲を聞き、亟かに出でて視るに、則ち虎 其の母を啣へて以て走る。
姚 倉卒として往きて之を逐ひ、即ち手を以て其の脅を毆る、
鄰人 競ひて器械を執り以て従ふに、虎 乃ち之を置きて去る。
姚 母を負ひて以て歸り、藥を求め之を療す、奉養二十餘年にして卒す。

こんな感じでしょうか。
素手で虎を殴って姑を救いだしたという話です。

179名無晋書さん:2008/05/04(日) 17:35:16
むじんさん、本当にありがとうございます。
助かりました↓↓

180むじん:2008/05/05(月) 04:01:58
もしかして学校の宿題だったりします?
ここはどうしてこう読んだのかと教官に尋ねられて後で困ることになるんじゃないかな。

181名無晋書さん:2008/05/05(月) 14:28:17
多分、細かいところは聞かれないとは思います…
訳を発表して、教官が細かいところを補則するとうい流れなので、
大丈夫です。
ご心配して頂き本当にありがとうございます。

182名無晋書さん:2008/05/20(火) 16:52:51
必西施而後可

はなんと読んだら良いのでしょうか。

183牡蠣っ子:2008/05/20(火) 18:50:05
初めまして「宜禁本草」に載っています。
牡蠣。一名蠣蛤。味鹹平。生池澤。治傷寒寒熱。温瘧洒洒。
驚頸恚怒氣。除拘暖鼠瘻。女子帯下赤白。久服強骨節。殺邪鬼。延年。

この文章の翻訳をお願いできませんでしょうか。
宜しくお願い致します。

184お願いします!:2008/05/28(水) 04:53:02
訳が難しく解りません。助けて下さい。よろしくお願いします。
≪谢鲲传≫
“及敦将为逆,谓鲲日‘刘隗奸邪,将危社稷,
吾欲除君侧之恶,匡主济时,何如?’对日‘谓城始祸,然城狐社鼠也。’”
(敦,王敦。)也作“社鼠社狐”。清.洪昇

185名有晋書:2008/05/28(水) 19:21:19
>184さん
一部文字が読めないのですが、
他の人は読めるのかな。

186184:2008/05/29(木) 03:30:07
お返事ありがとうございます!
全て簡体字で打ってたのですが文字化けしてましたか…申し訳ないです。
日本の漢字を使ってみました。お願いします…m(__)m
謝鯤伝
“及敦将为逆,謂鯤日‘刘隗奸邪,将危社稷,
吾欲除君側之悪,国主済時,何如?’対日‘謂城始祸,然城狐社鼠也。’”
(敦,王敦。)也作“社鼠社狐”。清.洪昇

187名有晋書:2008/05/29(木) 20:13:17
>184さん、お知らせくださりありがとうございます。

祸の部分は簡体字でしょうか?
『晋書』「謝鯤伝」(中華書局)に拠ると本文は以下の通りだと思います。

“及敦将為逆,謂鯤日‘劉隗奸邪,将危社稷,
吾欲除君側之悪,匡主済時,何如? 対日 ‘謂誠始禍,然城狐社鼠也’”。

先にコメントしましたので、訓読だけしてみます。

敦の将に逆を為さんとするに及び、鯤に謂ひて曰く、劉隗は奸邪なり、
将に社稷を危ふくせんとす。吾 君側の悪を除き、主を匡(たす)け、
時を済(すく)わんと欲するが、何如。
対して曰く、隗 誠に禍ひを始む。然れども城狐社鼠なり。

訳は『漢辞海』などの漢和辞典を参考にすれば、意味はとれると思います。

188助かります!:2008/05/30(金) 01:04:10
本当にありがとうございます★助かりました(>_<)
ちなみに、訓読は何を参考にされたのか教えていただければ
ありがたいです(^−^)

189名有晋書orz:2008/05/30(金) 20:45:04
訓読にミスがありました。
対話の末尾に「と」を送るのを忘れていました。
失礼致しました。
お詫びして訂正致します。

敦の将に逆を為さんとするに及び、鯤に謂ひて曰く、劉隗は奸邪なり、
将に社稷を危ふくせんとす。吾 君側の悪を除き、主を匡(たす)け、
時を済(すく)わんと欲するが、何如、と。
対して曰く、隗 誠に禍ひを始む。然れども城狐社鼠なり、と。

>訓読は何を参考
初歩的なミスをする私にではなく、漢文をきちんと読める方に聞かれたほうが
よいのではないでしょうか。
質問スレッドでどなたか答えてくれると思いますよ。

190匿名:2008/06/25(水) 23:18:25
はじめまして。

鷹進馬牛帳別巻事
右被右大臣宜称。奉勅。凡責馬牛課。具在令條。今也大宰府内馬牛。徒載公文。
都無生益。或国難経敷年。然其帳未進。或国難僅進帳。然事多脱誤。加以馬牛者軍国之資不可暫無。
然不加捉溺(←最後のはてへんです)。致此祖略。是則府官之過也。
自今以後。宜子細責其課。別造簿帳。毎年令進。

これの書き下しと意味、お願いします。

191八頭:2008/06/26(木) 22:31:30
匿名さん、はじめまして。
いきなりタイトルの「鷹進」の意味がよく分からないのですが、
本文を読んでみました。間違いがあるかもしれませんが、
訓読してみます。

右、右大臣の宣を被るに称(いわ)く、
勅を奉るに、凡そ馬牛の課を責むること、具(つぶさ)に令条に在り。

今 大宰府内の馬牛 徒(いたず)らに公文(くもん)に載せられ、
すべて益を生ずること無し。
或る国は難ぜられること数年を経る。然るに其の帳 未だ進ぜられず。
或る国は難ぜられて僅かに帳を進む。然るに事 多く脱誤す。

加えて以て馬牛は軍国の資にして暫(しばら)くも無かるべからず。
然るに捉溺(そくじゃく)を加えずして、此の祖略を致す。
是れ則ち府官の過ちなり。

今より以後、宜しく子細を以て其の課を責め、別に簿帳を造り、年ごとに進ましむべし。

>右被右大臣宜称。奉勅。
古文書はあまり読んだことがなく、読みに自信がありません。
当時の文書の常套句のようです。
>都無生益
これもよく分かりませんでした。

恐らく所々間違いがあり、また、日本史の知識が乏しいので、訳まではできません。すみません。
日本史を詳しく学んでいる方がいらっしゃったら、書き下しと訳をお願い致します。

192スート:2008/07/04(金) 00:53:55

 『晋書』職官志翻訳の為に、『宋書』を参考にしているのですが、

 「有蒼頭字宜祿、至漢、丞相府毎有所關白、到閣輒傳呼宜祿、以此爲常」
 「蒼頭に字宜祿なるもの有り(?)。漢に至り、丞相の府は毎に關白せらる所有り、閣に到りて輒ち傳へて宜祿と呼べば、此を以て常と爲す」

 の箇所がわかりません。(特に冒頭の部分。検索してもヒットせず)
 宜祿という字の召使がいたのでしょうか?

 『通典』巻第二十一「職官三」に、「後漢廢丞相及御史大夫、而以三公綜理衆務、則三公復爲宰相矣、前代丞相有蒼頭字宜祿、至漢代、有所關白、則叩閤呼『宜祿』、遂以爲常」とあります。

193名無晋書さん:2008/07/08(火) 15:35:07
はじめまして。魚玄機の「迎李近仁員外」というものの日本語訳をお願いします。
今日喜時聞喜鵲 昨宵灯下排灯花 焚香出戸迎潘岳 不羨牽牛織女家

です。平仄を、平音なら○、仄音なら●、韻なら◎にして、詩型と押韻、現代日本語訳が知りたいです。
たくさんの質問で厚かましいですが、どうぞよろしくお願いします。

194goushu:2008/07/11(金) 03:49:55
はじめまして
たまにROMっていますが、書き込むのは初めてです。

ちょっと「蒼頭」を中央研究院で検索してみましたが、
『後漢書』百官志の注に『風俗通』を引いて
「尚書、御史臺,皆以官蒼頭為吏,主賦舍,凡守其門戸.」とあります。
丞相府でも蒼頭を門番などに使っていてもおかしくなさそうです。
また『漢官舊儀』に、
「丞相府……白事以方尺板叩閤,大呼奴名。」とあるようですので、
丞相府に門番だか取り次ぎ役だかの「宜祿」という蒼頭がいて、
丞相府に用のある人は、丞相府の門を叩いて「宜祿」を呼び、
後に(宜祿がいなくなっても宜祿と呼ぶことが)常例となった
ということではないでしょうかね?

195名無晋書さん:2008/07/13(日) 13:11:05
193さん、はじめまして。

詩型は、七言絶句で、
押韻は、花ka ,家kaです。

訓読は、
今日喜時聞喜鵲 今日(こんにち)喜時、喜鵲(しじゃく)を聞く 
○●●○○●●
昨宵灯下拝灯花 昨宵 灯下に灯花を拝す
●○○●●○◎
焚香出戸迎潘岳 香を焚き 戸を出でて潘岳(はんがく)を迎ふれば
○○●●○○●
不羨牽牛織女家 羨まず 牽牛織女の家
●●○○●●◎

「灯花」は、『漢語大詞典』に、「灯心の燃え残りが固まってできる花の形をしたもの。
幸運の兆しとする風習がある」とあります。
『水滸詞典』の「灯花報」の項目では「遠方から客人が来る予兆」とし、『水滸伝注略』中の「司dai4di2大成雑占」を引いて、「灯火の炎が赤く、穂を上向きにして燃えれば、遠方から人が訪れる前兆を示す」と説明しています。
他にも解釈があるようなので、訳しづらいですね。

196名無晋書さん:2008/07/13(日) 15:37:46
195様へ
ありがとうございます。とても詳しく教えていただいて本当に助かりました。
感謝します☆
どうしてそんなに漢文に詳しいのですか??
ありがとうございました(^^)

197スート:2008/07/27(日) 23:32:53
goushuさん、遅れましたが、ありがとうございました。

198清岡美津夫:2008/08/03(日) 20:48:49
>宜禄
もう解決しているようなので蛇足になってしまうのですが、参考までに書いておきますね。

佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』の217ページに

例えば新任の吏が挨拶におもむく時はこの蒼頭の名前を大声で呼ばわって閤を開けてもらわなければならなかった。ちなみに秩百石以下の小吏は丞相に直接目通りはかなわない(47)。この門番を「宜禄」という縁起のいい名前の蒼頭が務めたことがあったらしく、官吏が報告のため閤に至るたびに「宜禄」と呼ぶことが、以後の慣例となったという(48)。

と書かれており、その注(47)に前述の『漢旧儀』、(48)に前述の『宋書』百官志の記述が引かれています。

199oshiete-cho:2008/09/02(火) 14:41:42
名刺の上にこんなん書いてました。どう読んでどういう意味?
「瓜田季下」って書いてあったんですけど。

200名無晋書さん:2008/09/02(火) 14:42:39
名刺の上にこんなん書いてました。どう読んでどういう意味?
「瓜田季下」って書いてあったんですけど。

201mujin:2008/09/02(火) 20:05:32
季下ではなく李下ではありませんか。

202oshiete-cho:2008/09/03(水) 11:35:20
よく見てなかったですけど、季下ではなく李下だったかもしれません。
「瓜田李下」でしょうか。さて、どう読んでどういう意味なのでしょうか?
名刺のお名前の上にわざわざ印刷していたので、例えば正月のころに
名刺をいただくと謹賀新年とか書かれていますが、そういった感じの
季節を言い表したことばなのでしょうか。

203oshiete-cho:2008/09/03(水) 11:59:35
李下でした。ありがとうございました。
これについては数件ヒットしましたので、
大体の意味がわかりました。
お手数をおかけしました。

204oshiete-cho:2008/09/03(水) 12:01:11
ありがとうございました。
数件ヒットし、大体の意味がわかりました。
お世話をおかけしました。

205名無晋書さん:2008/09/03(水) 20:35:51
漫画家の故横山光輝さんの故郷で、
三国志の資料館を作る計画があるそうです。

ttp://www.chugen.net/yokoyama_museum/index.html

206名無晋書さん:2008/09/03(水) 20:39:29
↑スレッドを間違えました。ごめんなさい。

207名無晋書さん:2008/11/21(金) 03:01:53
急ぎの質問です。誰か教えて下さい。

天地果シテ無キレ初乎吾不ル二得テ而知ラ一レ之ヲ也
生人果シテ有ルレ初乎吾不ル二得テ而知ラ一レ之ヲ也

この読み方と意味を教えて下さい。どちらかでもいいです。特に「生人」の読み方がわかりません。
宜しくお願いします。

208NAGAICHI Naoto:2008/11/21(金) 03:25:56
柳宗元の「封建論」ですね。

天地果して初め無きか、吾得てしかしこれを知らざるなり。
生人果して初め有るか、吾得てしかしこれを知らざるなり。

「生人」は「せいじん」だと思います。

天地にはやはり初めがないのだろうか、私はこれを知ることができない。
人類にはやはり初めがあるのだろうか、私はこれを知ることができない。

というくらいの意味だと思います。

209名無晋書さん:2008/11/21(金) 04:35:44
NAGAICHI Naoto さんありがとうございます!
舞台のオーディションで言う台詞の中にこの文があったので困っていました。
助かりました!

210スート:2008/12/14(日) 06:19:18
 『晋書』職官志「列曹尚書」の條

 及渡江、有吏部・祠部・五兵・左民・度支五尚書、祠部尚書常與右僕射通職、不恆置、(略)

 渡江に及び、吏部・祠部・五兵・左民・度支の五尚書有り。祠部尚書は常に右僕射と職を通ずれば、恆には置かず、(略)

 東晋に及んで、吏部・祠部・五兵・左民・度支の五尚書があった。祠部尚書は常に右僕射と職を通ずれば、いつもは置かず、(略)

 「通職」が訳せません。
 検索しても、『史記』の注釈等、翻訳されていない箇所にあたります。
 職が互いに通じ合っていた、つまり、似たような職務であったということなのか、或いは、職務を互いに交換し合ったということなのか、ハッキリとはわかりません。
 動詞が訳せないとどうにも前に進まないので、御願いします。


 『宋書』百官上「尚書」の条には、次のようにあります。

 宋高祖初、又筯觥官尚書、若有右僕射、則不置祠部尚書、

 宋の高祖の初めには、又た觥官尚書を筯やす。若し右僕射有らば、則ち祠部尚書を置かず。

 宋の高祖の初年には、さらにまた觥官尚書を筯やした。もし右僕射(尚書右僕射)があれば、祠部尚書を置かなかった。

211名無晋書さん:2008/12/18(木) 20:01:24
スートさん、こんばんは。

『通典』によれば、尚書台の右僕射に欠員が出れば、祠部尚書が代行していたとあります。
>>令 闕 , 則 左 為 省 主 . 若 左 右竝闕 , 則 置 尚 書 僕 射 以 主 左 事 , 置 祠 部 尚 書 以 掌 右 事 , 則 尚 書 僕 射 、 祠 部 尚 書 不 恆 置 矣(『通典』 職官四 僕射)

つまり、「つねには置かず」ということは、尚書省には通常、僕射が置かれていたが、欠員が出れば、祠部尚書が臨時に代行した、ということだと考えられます。

>通職

或る官職が本来の職務や地位を越えて別の官職の職務に参与することを「異官通職」というそうです。
僕射は尚書省の副官職で、尚書令の下に属し、上奏文を取り扱う仕事をしています。
一方、祠部尚書は、東晋のときに設けられた官職で(『唐六典』)、尚書台の下にある祠部(六曹の一つ)に属し、祭祀や礼儀を掌ります。
祠部尚書は右僕射の参与ではなく、代行をしていますが、明らかに本来の職務や地位を越えています。
だから、このケースも「異官通職」の一例に入るといえるのかもしれません。

間違いがあるかもしれませんが、これで失礼します。

212goushu:2008/12/20(土) 22:23:26
特に深い根拠があっていうわけではないですが、直訳すれば職務が通じていたということでいいと思います。

>>211さんのいう「異官通職」については始めて知りましたが、ちょっと調べてみましたが、どうも『周禮』天官・大宰の

三曰、官聯以會官治

に対する鄭玄注に

官聯、謂國有大事、一官不能獨共、則六官共舉之。聯讀為連、古書連作聯。聯謂連事通職、相佐助也。

とあるのに基づくようです。

ところで祠部尚書と右僕射の関係について、『唐六典』巻1の尚書省の左右丞相(=左右僕射)の注に『宋百官階次』なる書物を引用してこうあります。

ttp://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k56/image/1/k56l0012.html

また(左右僕射は)列曹尚書と共に諸曹郎を分領し、尚書令がいない場合は左僕射を尚書省のトップとする。東晋以来、祠部尚書は置かないことが多く、右僕射に(その職務を)司らせた。もし左右僕射が両方いない場合には、尚書僕射が置かれて左(僕射)の職務を司り、祠部尚書が置かれて右(僕射)の職務を司った。

これによれば、祠部尚書が一時的に右僕射の職務を代行したというよりは、東晋も既に宋のように、右僕射がいない時にのみ一時的に祠部尚書が置かれた、と読み取れます。

逆に『唐六典』巻4の礼部尚書の注では、

ttp://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k56/image/2/k56l0077.html
ttp://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k56/image/2/k56l0078.html

東晋に始めて祠部尚書を置き、常に右僕射と職を通じ、もし右僕射がいなければ、祠部尚書に右(僕射)の職務を司らせた

とあってこの書き方だと祠部尚書と右僕射は並置されていて、右僕射がいない時だけ祠部尚書が代行したと読めるように思います。
果たしてどちらが正しいんでしょうかねぇ。

213名無晋書さん:2008/12/22(月) 20:41:42
goushuさん、初めまして。211にコメントを書き込んだ者です。
ご指摘くださり、ありがとうございます。

>これによれば、祠部尚書が一時的に右僕射の職務を代行したというよりは、東晋も既に宋のように、右僕射がいない時にのみ一時的に祠部尚書が置かれた、と読み取れます。

『宋書』を読み直したのですが、右僕射と祠部尚書は同時期に並置されていないようですね。
goushuさんのおっしゃる通り、前者が置かれているときは、後者は置かれません。
また、前者が欠員のとき(或いは尚書僕射が置かれるとき)は、後者が置かれます。

ただし、尚書僕射が置かれるときに、祠部尚書が並置されるとは限らないようなのが、
まぎらわしいですよね。


>果たしてどちらが正しいんでしょうかねぇ。
左、右僕射は格が左の方が上ですが、本紀をみると、大抵、同時に置かれるようです。(一方の者が
官が移って辞めたり、亡くなったりなどして、片割れだけのときもありますが)

しかし、本紀に尚書僕射が登場するとき、祠部尚書が同時に出てくることは殆どありません。

例えば、尚書令、左、右僕射の全てが欠員のとき、尚書僕射が尚書省の実質的なトップになっていた
こともあったようです。(殷景仁など)
また、蔡廓傳では、祠部尚書がそれほど重要な地位ではないように記述されています。

以上から、祠部尚書は、右僕射と「通職」するとはいえ、尚書省での重要性はそれほど高くなかったのではないか、と推測できます。

だから、『通典』や『唐六典』巻四の記述については、そのまま鵜呑みにはできないと思います。
goushuさんが最初に引用してご指摘された巻一の方が実態を伝えているのではないでしょうか。
根拠は乏しいのですが、尚書僕射に権力が過度に集中させないようにする役割を
果たしていたのだろう、と思います。

祠部があるのだから、その主要な官である祠部尚書は常に置かれていたのだろう、と推測したのですが、
皮相的でした。

goushuさん、勉強になりました。ありがとうございました。




尚書令 左僕射      右僕射
421 武帝 永初2 徐羨之 劉義真(尚書僕射)
422   3 王仲紱 傅亮 (尚書僕射)
423 少帝 景平1 王仲紱 傅亮
424 文帝 元嘉1 劉懷慎 傅亮      蔡廓(祠部尚書)
425   2 傅亮
426 元嘉3 徐羨之 王敬弘(左僕射) 鄭鮮之(右僕射)
427   4 王敬弘      鄭鮮之
428   5 王敬弘
429   6 王敬弘 王義慶(左僕射) 江夷(右僕射)
430   7 王義慶      江夷
431   8 王義慶      江夷
432   9 殷景仁(尚書僕射)
433   10 殷景仁      王韶之(祠部尚書)
434 11 殷景仁
435 12 殷景仁
436 13 殷景仁      何尚之(祠部尚書

間違いや漏れがあるかもしれませんが、時間がかかるので、ここでやめておきます。

214名無晋書さん:2008/12/22(月) 20:58:23
          尚書令     左僕射  右僕射
421 武帝 永初2   徐羨之     劉義真(尚書僕射)
422 3 王仲徳     傅亮(尚書僕射)
423 少帝 景平1 王仲紱      傅亮
424 文帝 元嘉1 劉懷慎      傅亮      蔡廓(祠部尚書)
425     2           傅亮
426 元嘉3 徐羨之     王敬弘(左僕射) 鄭鮮之(右僕射)
427 4 王敬弘 鄭鮮之
428 5 王敬弘
429 6 王敬弘 王義慶 江夷
430 7 王義慶 江夷
431 8 王義慶 江夷
432 9 殷景仁(尚書僕射)
433 10 殷景仁 王韶之(祠部尚書)
434 11 殷景仁
435 12 殷景仁
436 13 殷景仁 何尚之(祠部尚書)

215名無晋書さん:2008/12/22(月) 21:10:51
駄目だ…。申し訳ないです。

421武帝 永初2 徐羨之(尚書令)劉義真(尚書僕射)
422武帝 永初2 王仲徳(尚書令)傅亮(尚書僕射)
423少帝 景平1 王仲紱(尚書令)傅亮(尚書僕射)
424文帝 元嘉1 劉懷慎(尚書令)傅亮(尚書僕射)蔡廓(祠部尚書)
425文帝 元嘉2傅亮(尚書令)
426文帝 元嘉3 徐羨之(尚書令)王敬弘(左僕射) 鄭鮮之(右僕射)
427文帝 元嘉4 王敬弘(左僕射)鄭鮮之(右僕射)
428文帝 元嘉5 王敬弘 (左僕射)
429文帝 元嘉6 王敬弘(尚書令)王義慶(左僕射)江夷(右僕射)
430文帝 元嘉7 王義慶(左僕射)江夷(右僕射)
431文帝 元嘉8 王義慶(左僕射)江夷(右僕射)
432文帝 元嘉9 殷景仁(尚書僕射)
433文帝 元嘉10 殷景仁(尚書僕射)王韶之(祠部尚書)
434文帝 元嘉11 殷景仁(尚書僕射)
435文帝 元嘉12 殷景仁(尚書僕射)
436文帝 元嘉13 殷景仁(尚書僕射)何尚之(祠部尚書)

216スート:2009/01/27(火) 20:17:01
この尚書僕射の項目は、『晋書トウ注』にも少し記載があるのですが、
引用されている『通典』を見ても、よくわからない状況なのです。

遅れましたが、答えてくださった皆さん、ありがとうございました。

217八頭:2009/05/09(土) 09:20:10

何 必 使 雄 違 生 背 死 以 立 於 時 。殿 下 讎 枯 骨 而 捐 之 中 野 , 為 將 來 仁 賢 之 資 , 不 亦 惜 乎 。
(『晋書』向雄伝)

解体晋書の皆さん、こんにちは。
早速ですが、上の文を訳し直してみたのですが、自信がありません。
間違いやお気づきの点があれば、ご指摘くださるようお願い致します。

(試訳)
なぜ、死者への恩義に背かせ、生者(故吏)の道義からも外れさせてまで、この私を生き長らえさせるのですか。
もし、殿下が、死者の朽ちた骨にまで報復して、荒野にお捨てになれば、
将来の仁徳ある賢人(晋王、司馬昭)の経歴となるでしょう。なんと残念なことでしょうか。

「為」は動詞で、「〜となる、〜とする」と考え直しました。
「将来」はそのまま「未来、将来」でよいと思いました。
「資」は経歴。熟語としては「資望」(豊かな経歴と名望)があります。ここではキャリアに傷がつく、というような感じでしょうか。
「仁賢」については『漢語大詞典』では、人を指すようではないのですが、「仁徳のある賢人」としました。
理由の一つとして、『通鑑』「豈仁賢之度哉!」(それは、仁徳ある賢人の器量といえるでしょうか。)
とあり、人(司馬昭)を指していると考えられるからです。
ただ、「将来」がなぜ「仁賢」を修飾しているのかよく分かりません。「将来の仁賢」という訳が変な気がします。
もし、「將 來 為 仁 賢 之 資」ならば、「将来、仁賢の…」となると思います。

218八頭:2009/05/09(土) 09:33:42
>將 來 仁 賢

「仁賢」がもし、誉め言葉ならば、「聖人」など他にもっと上級の言葉があると思いますが、
ただ、それでは、人に取り入っているような、或いは少々露骨すぎる気がします。

蜀を滅ぼした司馬昭が、当時、魏から禅譲を受けてもおかしくない立場にあったと考えると、
「将来仁賢」は何か婉曲的な表現なのでしょうか?

219:2009/05/09(土) 12:55:09
八頭さん今日わ。何時も有難うございます。
この段に次の向雄傳コウ注を見つけました。
魏志鐘會傳注引漢晋春秋作殿下讐對枯骨捐之中
百歳之後爲臧[藏から冠を去る文字]獲所笑豈仁賢所掩哉

「資」と「仁賢」の手掛かりがあるように思えるのですが。

220八頭:2009/05/09(土) 14:03:16
山口さん、こんにちは。ご指摘くださり、ありがとうございます。

『三国志』魏書 鐘会伝にある注と同じものですよね。『晋書』向雄伝を訳し直す際、予めその文も
訳そうとしたのですが、うまくできませんでした。問題の文中の「豈」の解釈が意外に難しいですね。
といいますのは、これを反語に訳すと意味が通じないように思われるのです。
ですので、ここでは、推量か、願望だとしてみたのですが、どうなのでしょうか?
お気づきの点がありましたら、またご指摘くださるようお願い致します。

殿 下 讎 對 枯 骨 , 捐 之 中 野 , 百 歳 之 後 , 為 臧 獲 所 笑 ,
豈 仁 賢 所 掩 哉 。

もし、殿下が、死者の朽ちた骨にまで報復して、荒野にお捨てになれば、
百年の後(死後)、〔その行為は〕奴婢(小人)に嘲笑われることになるでしょう。
願わくは、〔死者が〕情け深く賢明であらせられる殿下に埋葬されますように。

或いは

〔死者は〕恐らく情け深く賢明であらせられる殿下に埋葬されることでしょう。

『三国志』の訳本(筑摩文庫)があればいいのですが……(注もきっと訳が載っていますよね)。間違いがあるかもしれませんが、
一応、書き込みます。

221八頭:2009/05/09(土) 14:12:52
あ、すみません。鐘会は向雄がとっくに葬っちゃったんだった…。
だから、上の訳は間違いですね。鎮西将軍、ごめんなさい…。
出直してきます。

222大蒜卵黄:2009/05/09(土) 18:40:55
「資」の意味を考え直したのですが、材料、資料(もと)ではないでしょうか?
「資格や声望」、「資質」も違うので、消去法でいくとこれしかないと思います。
用例が少なく、決め手を欠くのですが、『漢語大詞典』を見ても動詞の「為」が目的語にとるのもこの意味のときが多いようです。

ですので、ここでは、「参考となる事実、記録、資料」という意味と考えます。
ここでは教訓と試訳してみましたが、もちろん悪い意味での教訓です。
「仁賢」は人を指すと思いますが、対象は漠然とした「後世の人」だと考え直しました。
他の資料から、特定の個人(司馬昭)にこだわる必要はなかったですね。

なぜ、死者への恩義に背かせ、生者(故吏)の道義からも外れさせてまで、この私を生き長らえさせるのですか。
もし、殿下が、死者の朽ちた骨にまで報復して、荒野にお捨てになれば、それは、後世の仁徳のある賢人が振り返る教訓となるでしょう。
(後世の人から誹りを受けることになるでしょう)なんと残念なことでしょうか。

何かお気づきの方がいらっしゃったら、ご指摘お願い致します。

223山口:2009/05/10(日) 10:30:21
大蒜卵黄さんのご意見になるほどと思いました。

>『三国志』の訳本(筑摩文庫)……
殿下讐對枯骨捐之中百歳之後爲臧獲所笑豈仁賢所掩哉
「殿下には朽ちはてた骨まで仇敵視なさり、原野に棄ておかれますならば、将来において奴婢にまで笑われることになりますぞ。どうして仁者賢人に相手にされましょうぞ。」

しかし「仁賢所掩哉」の「掩」は、この前文の「昔先王掩骼埋シ[比のしたに肉]、仁流朽骨、…」を受けて、「土でおおう」の意味とも思うのですが。
即ち「百歳の後に奴婢に笑われるはめになり、どうして仁者賢人が〔このことを〕おおってしませましょうぞ。」

それでもなお文意が通じにくいので、以下の書替えがあったのでないでしょうか。
鐘会伝注「豈仁賢所掩哉。」が、向雄伝「為將來仁賢之資,不亦惜乎。」へと。

また往々に見る三国志と晋書などでの一部の文節の作為的とも思える違いの主たる理由は何なのか。どなたか教えて頂ければ有り難いです。

224八頭:2009/05/10(日) 17:00:03
山口さん、こんにちは。八頭です。今日は日差しが強かったですね。

筑摩『三国志』の訳、参考にさせていただきました。ありがとうございます。

山口さんのご指摘を受け、反語で考え直してみました。 推量や願望はやはり用例が少ないでしょうかね。
なるほど、主語を死者ではなく、司馬昭の行為とすると、不自然ではなくなりますね。

〔此〕豈〔為〕 仁 賢 所 掩 哉 。

〔此れ〕豈に仁賢の掩う所〔となる〕かな。(受身)

どうして仁賢が口を閉ざす(沈黙する)ことがあるでしょうか。(必ず非難を受けるでしょう)
掩は、掩口ということなのかな?と思ったのですが、う〜ん。分かりにくいですかね。
最初の掩は、土で覆うという意味ですから、もし、口を閉ざすなど違う意味ならば、別の字(閉など)を使う気もするのですが。
それでも古代の人は特に意思疎通の上で問題はなかったのかもしれません。
どうなのでしょうか。

>しかし「仁賢所掩哉」の「掩」は、この前文の「昔先王掩骼埋シ[比のしたに肉]、仁流朽骨、…」を受けて、「土でおおう」の意味とも思うのですが。
>即ち「百歳の後に奴婢に笑われるはめになり、どうして仁者賢人が〔このことを〕おおってしませましょうぞ。」
山口さんの訳を参考にさせていただくと、

どうして仁賢に覆い隠されるでしょうか。(覆い隠すでしょうか)

「掩」の意味は、こちらの方が通じるかもしれませね。
土で覆うとすると、どうも意味が通じない気がします。

225八頭:2009/05/10(日) 21:21:13
>〔此れ〕豈に仁賢の掩う所〔となる〕かな。
反語だから、哉の読みは「や」ですね。すみません。

〔此〕豈〔為〕 仁 賢 所 掩 哉 。
〔此れ〕豈に仁賢の掩う所〔とならん〕や。

でしょうか。
『三国志』のこの文は、山口さんのご指摘を参考にまた後で考えさせていただきます。
山口さん、ありがとうございました。

226山口:2009/05/11(月) 15:38:58
筑摩『三国志』の訳の
>…。どうして仁者賢人に相手にされましょうぞ。」

の部分についての「掩」の解釈が理解できずに
>「土でおおう」の意味とも思うのですが。

としたのですが、「土でおおう」⇒「(口を)おおう」を
前提としていました。私にはこの部分の訳は全く八頭さんの下記訳しかないように思います。

>どうして仁賢が口を閉ざす(沈黙する)ことがあるでしょうか。(必ず非難を受けるでしょう)

八頭さん、いつも有難うございます。

227八頭:2009/05/11(月) 20:46:35
山口さん、こんばんは。今日も暑かったですね。いつも私の素朴な疑問にお付き合いくださり、ありがとうございます。

『三国志』鐘会伝の訳、どうも難しいですね。
「掩口」(沈黙する、密かに嘲笑する)以外にも「掩悪」(悪いものを隠す)なども考えられ、悩まされます。

『晋書』向雄伝の問題の箇所ですが、動詞「為」が「資」を目的語にとるとき、「資」の意味は他にも
ありました。例えば、「資」(資金、もとで)の場合です。

以…為〜之資  (「〜」は多く物がくるようです)
…で〜のもとでとする、〜の費用とする、という文があります。
「嚢銭三千,以為車駕之資焉」(『晋書』食貨志)

すると、「資」の意味は一つに絞れませんね。下調べが足りませんでした。^^;
読書不足で、人が〜にくる例を他に知らないのですが、全く有り得ないわけではないと思います。
ただ、仁賢のもとでとなると、仁賢が車駕と同じ物扱いで、どうなのかな〜、
という気もします。役に立つ、という意味なら共通しています。
当時の人の比喩的表現なのでしょうか。それとも、これで普通の表現なのでしょうか。

何 必 使 雄 違 生 背 死 以 立 於 時 。殿 下 讎 枯 骨 而 捐 之 中 野 , 為 將 來 仁 賢 之 資 , 不 亦 惜 乎 。
(『晋書』向雄伝)

(試訳)
なぜ、死者への恩義に背かせ、生者(故吏)の道義からも外れさせてまで、この私を生き長らえさせるのですか。
殿下が、死者の朽ちた骨にまで報復して、荒野にお捨てになることで、仁徳ある賢人を集める元手(資本)になさろうとするのは、
なんと残念なことでしょうか。

そんな残忍なことをすると、天下の仁賢が皆失望して隠遁してしまい、人材が集まってきませんよ、という意味でしょうか。
(向雄はこんな非道が行われるなら、自分は死んだ方がましだ、というぐらいに憤っています)

殆ど直訳で、訳が練れていませんが、全体の文の意味としては「資」(参考となる事実、記録、資料)より、
(もとで、資金)のほうが分かりやすいかもしれません。

何かお気づきの方がいらしたら、ご指摘お願い致します。

228八頭:2009/05/11(月) 21:07:40
どのような訳ならば、司馬昭(当時、臣下でトップ級の人ですよね)の怒りをおさめ、説得できるのか、という視点も
必要かもしれません。
もし、語られた言葉がまずければ、向雄(当時は死んだ鐘会の旧部下)の首が飛んでいてもおかしくない状況ですよね。
だから、こういう場面は、あまり変な訳はできませんね。訳がまずいと臨場感が伝わらないか…。難しい…。

敵意すら抱いていた人が、一転して、相手を許し、宴を開き、仲良く?語り合ったというのですから、
相当含蓄があるか、胸にドキリとくる言葉だったはずです。

229BaTou:2009/05/12(火) 20:39:15
>何 必 使 雄 違 生 背 死 以 立 於 時 。殿 下 讎 枯 骨 而 捐 之 中 野 , 為 將 來 仁 賢 之 資 , 不 亦 惜 乎 。
(『晋書』向雄伝)

『漢語大詞典』の「資」(参考となる事実、記録、資料)をよく見たら、「田横巨擘耳,猶為談者資」(元好問『学東坡移居詩』)
とあります。田横は、秦末漢初の人物。「巨擘キョハク」は、「傑出した人物」という意味のようです。(「擘」は親指の意味)

「資」(資金、もとで)より、こちらの方が自然なのかもしれません。
骨を荒野に捨てることを、賢人登用の元手とする(実際はその逆という意味で)、という解釈は意味が通じにくいので、やはり、こちらに決定します。

(試訳)
なぜ、死者への恩義に背かせ、生者(故吏)の道義からも外れさせてまで、この私を生き長らえさせるのですか。
もし、殿下が、死者の朽ちた骨にまで報復して、荒野にお捨てになれば、後世の賢人の笑いぐさとなるでしょう。なんと残念なことでしょうか。

細かいところですが、「仁賢」は「仁徳ある賢人」では長すぎるかもしれませんので、単に「賢人」としました。「資」は直訳だと分かりにくいので、思い切って「笑いぐさ」と意訳しました。
一字一句残さず訳せればいいのですが、そうすると、ガチガチの直訳になって、不自然で読みにくい文になってしまうでしょう。
向雄は既に鐘会を埋葬してしまいましたので、司馬昭が(墓を暴いて)骨を野原に投げ捨てるというのは、その時点では仮定の話になります。よって、「もし〜ならば〜だろう」としました。

しかし、あまり意訳ばかりすると、読む人に「この訳、本当に正確なのだろうか?」という疑問を抱かれるかもしれないので、難しいですね。
この場合、注に直訳が必要かもしれません。
際限がないので、これで一応止めておきます。

230123:2009/06/18(木) 10:48:13
殷捨能静 の意味をどなたか教えてください。

231名無晋書さん:2009/07/12(日) 13:06:31
積善之家厥福惟昌の意味をどなたか教えてください。

232吉田:2010/02/09(火) 16:41:48
一休和尚の詩だと思いますが、意味がわかりません。教えていただけましたら嬉しいです。よろしくお願いします。

屈平惠佩世伝芳 楚国詞人吟奥屯 海水不預言逆耳 泪羅江上送春香

3文字目の惠は くさかんむり が付きます。 よろしくお願いします。

233中根:2010/02/21(日) 14:18:15
>123さん
「殷捨能静」という語句の出所は緒形拳氏の書のようですが、
訳しづらい言葉ですね。
殷の意味は「ゆたか・あかい・ねんごろ」ぐらいのものですので、訳すと
「ゆたかに捨てる」「ねんごろに捨てる」「あかく捨てる」、
どれもヘンですね。ある箇所では「毀捨能静」の誤読ではないかと
指摘されていました。これなら「こぼち捨てれば能く静かなり」で
「壊し捨てれば、静かになる」という意味にとれそうです。殷と毀は
字形が似ていますから。禅語か何かでしょうか。

>231の方
>積善之家厥福惟昌
積善の家、厥(そ)の福は惟(こ)れ昌んなり、でしょうか。
出典は不明ですが、意味は「良いことをしている家庭には
幸福が盛んにくる」というようなものでしょう。調べてみるとこの語句、
篆刻の題材に使っているようですので、
墨場必携あたりに載っているのかなあ。儒教の経典にありそうな
語句ですし、易経には「積善之家必有餘慶」という、同じような文句が
あるのですが、十三経にはないですね。

>吉田さん
書き下せば「屈平の惠佩は世に芳を伝う 楚国の詞人は奥屯を吟ず
海水預からず言は耳に逆らう 汨羅江上春香を送る」でしょうか。
最後の泪羅は、汨羅の誤字だと思います。
屈平は楚の詩人屈原のことで、汨羅(べきら)に投身自殺をしたことで
有名です。屈原のことを詠んだ漢詩だと思いますが、一休宗純の詩は
禅思想が根底にあるため古来難解とされていますので、
禅の専門家の訳によられた方が良いでしょう。私は坐禅もやったことがないので、
禅はわからないので翻訳できないという所です。

禅の大家で一休研究の第一人者、柳田聖山氏(元京大人文研所長)の訳が
中央公論新社から「狂雲集」として出ていますので、
それを見ていただければ意味は取れると思います。

234吉田:2010/04/12(月) 13:46:09
中根さん、ご親切にありがとうございました。大変参考になりました。
今後とも、わからないことございましたら、教えてください。
ご返事が遅くなってすみませんでした。

235山下:2010/04/27(火) 21:48:31
帝郷の漢文なのですが、
観于華。華封人曰、「嘻、請祝聖人。使聖人寿富多男子。」・・・
・・・・千歳厭世、去而上僊、乗彼白雲、至于帝郷。何辱之有。」

の漢字の読み方と訳を教えていただきたいのですが。
よろしくお願いします。

236名無晋書さん:2010/08/17(火) 16:48:32
>>231
名無晋書さん、積善之家厥福惟昌の出典ですが、呉の楊泉の『賛善賦』であるらしいです。
意味は>>233の方がおっしゃった通りです。

237名無し:2011/06/15(水) 09:26:11
有宣諭の訓読お願いします

238<削除>:<削除>
<削除>

239<削除>:<削除>
<削除>

240<削除>:<削除>
<削除>

241狄狗:2011/11/03(木) 01:33:01
三国志・魏書・任蘇杜鄭倉傳第十六の杜畿列伝に含まれる息子杜恕の上奏文の
一説がよくわかりません。
ちくま学芸文庫から出ている邦訳とは根本的にテキストの捉え方が違うので、
あまり役に立ちません。
私の解釈が成立不可能なものなのか、一度考察してみてください。

「陛下又患臺閣禁令之不密、人事請屬之不絶、聽伊尹作迎客出入之制、選司徒
更悪吏以守寺門;威禁由之、實未得爲禁之本也。昔漢安帝時、少府竇嘉辟廷
尉郭躬無罪之兄子、猶見舉奏、章劾紛紛。近司隷校尉孔羨辟大将軍狂悖之弟、
而有司嘿爾、望風希指、甚於受屬。選舉不以實、人事之大者也。嘉有親戚之
寵、躬非社稷重臣、猶尚如此;以今況古、陛下自不督必行之罰以絶阿黨之原
耳。伊尹之制、與悪吏守門、非治世之具也。」
の部分です。
先ず、ちくま邦訳では通鑑に従ってテキストに変更を加えています。
「聽伊尹作迎客出入之制、選司徒更悪吏以守寺門」
→「定迎客出入之制、以悪吏守寺門」
「伊尹之制、與悪吏守門」
→「出入之制、與悪吏守門」
テキスト改変の理由は廬弼『三国集解読』に見える「孫志祖曰、聽伊尹、三
字不可解」なのだと思いますが、この不可解は文法的に解釈不能という意味
なのですか?
そうではなく、「伊尹の事績にこんなものは見当たらない。杜恕が何を典拠
にこんなことを言っているのか、さっぱり理解できない。」という意味なの
ではありませんか?
私はそう捉えてテキストに改変を加えません。
すると、こんな感じになります。
試訳
「陛下は臺閣の禁令が周密でないこと、また人事において属党を役職に就け
ろと願うものが一向に絶えないことを憂いております。
聞くところによれば、伊尹は迎客出入之制の設け、司徒を選んで俗悪な官吏を
門番に更迭させたとか。臺閣の禁令に威を持たせるためには、こうした具合
に官吏の登用を厳格になさねばならないのですが、実際のところ禁令の根本
ともいえる官吏の登用が未だに上手くいっていません。
昔、漢の安帝の時代、少府の竇嘉が廷尉の郭躬を辟召した際、罪はなくとも
兄の子という理由だけで、上奏文が提出され、あからさまに弾劾されました。
ところが、最近、司隷校尉の孔羨が大将軍の狂悖の弟を推挙した際には、有
司はこぞって黙認を決め込み、大将軍の威風に靡いてしまいました。
有司のこうした態度は、実際に有力者の徒弟を受け入れるよりも酷いと言え
ます。選挙が実をもって為されないのは、人事の一大事であります。竇嘉に
は帝の寵愛があり、郭躬は社稷の重臣に就いたわけではありません。それで
も尚、このように批判を受けたのです。今の有様を古に比べるとどうでしょ
う。陛下は必罰の権利を自ら執り、阿党の根源を断ち切ろうとはなさってい
ません。陛下のそうした態度は、伊尹の制、つまり悪吏を門番に更迭する厳
法と比べた際、世を治める道理を備えているわけではありません。」

こんな感じになります。
ちくま邦訳とはかなり違った訳になります。
特に最後の一文は決定的です。
「伊尹之制」を「出入之制」と変更すれば、與を「あたえる」と読まざるを
得ないのでしょうが、悪吏に門番を与える制度を批判するために、命を懸け
て上奏文を提出するでしょうか? 
私は、與は比較を示す文字と解するほうが意味の通りが良いと思うのですが、
文法的に無理があるのでしょうか?
その辺がよくわからないので、ご教授いただけると幸いです。

242匿名:2011/11/05(土) 11:37:24
狄狗さん、こんにちは。
>私はそう捉えてテキストに改変を加えません。

文字通りに意味をとると、「伊尹が作った」ですので、文法的には問題ないでしょう。
ただ、伊尹の事績にはそのようなものは見当たらず、史実に反するのかもしれません。
だから、通鑑では「伊尹」の字を削っているとも考えられます。
これを確認したり、批評するには、私たちも伊尹ことを知る必要がありますね。

>「伊尹之制」を「出入之制」と変更すれば、與を「あたえる」と読まざるを
得ないのでしょうが

制度を定めた人は別として、内容は変わりませんので、「伊尹之制」でも「出入之制」でも
同じことではないでしょうか?三国志も通鑑も字句が少し異なるだけで、文章の内容自体は同じです。
だから、テキストを変えたから「與」の意味も変わるとは、考えにくいでしょう。
「與」には「以」の意味もありますので、単に言い換えているのかなとも思います。

私がよく分からないのは、字句の違いではなく、「惡吏」の意味なのですけどね。

>私は、與は比較を示す文字と解するほうが意味の通りが良いと思うのですが、

私でしたら、自分の訳にかなりしっかりした根拠が持てなければ、
ちくま文庫の『三国志』(資治通鑑)に従いますね。

243狄狗:2011/11/07(月) 17:54:45
ありがとうございます。

244匿名:2011/11/07(月) 18:57:24
あと、
>陛下のそうした態度は、伊尹の制、つまり悪吏を門番に更迭する厳
>法と比べた際、世を治める道理を備えているわけではありません。」

最後の文は訓読すると、
「今を以て古に況ふるに、陛下は自ら必行の罰を督さずして以て阿黨の原を絶たんとするのみ
。伊尹の制、悪吏を(に)與へて門を守らしむるは、治世の具に非ざるなり。」となると思います。
これを口語訳すると、「伊尹之制」を肯定していないのではないでしょうか?「與」の訓読はとりあえず「あたえる」と読んでいます。

245猫丸:2011/12/15(木) 18:57:02
突然の書き込みにて、失礼いたします。猫丸と申します。来年の干支でもある龍のことについても調べているのですが、一番最初に龍の記述が出てくるのが後漢の「辰為龍、巳為蛇。辰、巳之位在東南」のようなのですが、この漢文の意味を色々調べても見つからず、どういう意味として読めばよいのか検討がつきません。もしこの記述について意訳できる方がおられましたら、ご教示いただけませんか?

246のりPの教え子:2011/12/21(水) 07:43:00
猫丸さんこんにちは。
年末年始でお忙しいのか、ここのメンバーはどなたも見ておられないようですね。
私はここのメンバーではなく、漢文を読めるわけではありません(むしろ私の方こそ、読めない漢文を読んでほしいくらいです)が、意訳レベルでいいんですよね。
だったら、安直ですが、ウィキペディアの十二支の項にある説明が参考になると思います。

「各十二支には動物が割り当てられている。これを十二生肖と呼ぶが、日本では十二支という言葉自体で十二生肖を指すことが多い。元々十二支は順序を表す記号であって動物とは関係がない。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)やバビロニア天文学の十二宮の伝播といった説がある。」

とあります。
「辰為龍、巳為蛇。辰、巳之位在東南」というのは、後漢の王充の『論衡』の文章ですから、意訳としては、
「十二支の辰に龍を割り当て、巳に蛇を割り当てた。辰と巳の方角は東南である」
あたりでしょうか。王充がそう決めたわけではなく、そうではないかという説を唱えている、ということのようです。

247sage:2011/12/21(水) 09:43:39
 論衡について最近友人と話したのですが、以前持っていた訳本を無くしてしまい、近場の図書館にもないので読み返すことが出来ず困っています。もしよろしければ、お暇なときにでもどなたか翻訳していただけないでしょうか。お願い致します。
 
 お願いしたいのは以下の文です。

『「町町若荊軻之閭。」言荊軻為燕太子丹刺秦王,後誅軻九族,其後恚恨不已,復夷軻之一里,一里皆滅,故曰町町。此言筯之也。

  夫秦雖無道,無為盡誅荊軻之里。始皇幸梁山之宮,從山上望見丞相李斯車騎甚盛,恚,出言非之。其後左右以告李斯,李斯立損車騎。始皇知左右泄其言,莫知為誰,盡捕諸在旁者皆殺之。其後墜星下東郡,至地為石,民或刻其石曰"始皇帝死,地分"。皇帝聞之,令御史逐問,莫服,盡取石旁人誅之。夫誅從行於梁山宮及誅石旁人,欲得泄言、刻石者,不能審知,故盡誅之。荊軻之閭何罪於秦而盡誅之?如刺秦王在閭中,不知為誰,盡誅之,可也。荊軻已死,刺者有人,一里之民,何為坐之?始皇二十年,燕使荊軻刺秦王,秦王覺之,體解軻以徇,不言盡誅其閭。彼或時誅軻九族,九族眾多,同里而處,誅其九族,一里且盡,好筯事者則言町町也。』

248名無晋書さん:2012/02/02(木) 13:38:01
突然の書き込み失礼します。
私は生まれてきてもよかったのだろうか。
って漢文で書くとどうなりますか?

249名無晋書さん:2012/02/02(木) 13:41:04
突然の書き込み失礼します。
私は生まれてきてもよかったのだろうか。
って漢文で書くとどうなりますか?

250<削除>:<削除>
<削除>

251<削除>:<削除>
<削除>

252<削除>:<削除>
<削除>

253<削除>:<削除>
<削除>

254noson:2014/05/21(水) 00:27:56
敢飾詐莫の書き下し文、現代語訳教えてください


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板