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聖イエス会姫路教会、主の十字架アンテオケ教会

25名無しの神学さん:2018/03/04(日) 19:19:44
ので、穂高の知人のお骨折りによって、穂高小学校に…を転校させました。有明小学校の先生は、何も知らなかったと驚いておられました。
 四月から――は――高等女学校に入学し、――は穂高小学校に入学いたしました。そこで――はどうするかということになり、――はとても一人で有明小学校へは不安で行けませんので、白道路のおじいちゃんの所へ行きたいと言いだしました。中国から帰りました時しばらくお世話になり、また高浜時代は時々連れて行き、かわいがってもらいましたので、それが一番よい方法だと主人は申します。白道路の、主人の実家の人達も快く承諾してくれましたが、私は決心がつきかね、少々迷いました。――は人なつこい性格で、順応性もございましたので、大丈夫だと主人は申しましたが、小学校三年生で、八歳になったばかりの幼い子を、引き受けて下さる人々にも迷惑をかけるでしょうし、家族と別れて暮らした経験もございませんので、手ばなしで喜ぶわけにはいきません。本人はそんなことはもうおかまいなく、「おじいちゃんとこへ行く」とはしゃいでおります。他にも方法もございませんので、すべてをおゆだねいたしました。
 四月十九日、平塚にて、聖イエス会発会式がございますので、その時平塚まで連れて行き、物部から出席される先生に連れて行っていただくことになりました。
 出発の前日、家族だけの送別会をいたしました。お祈りし、歌をうたい、お遊戯やおどりをして、最後に、当時よく歌われた疎開の歌の替え歌を作り
「……は父の故郷(ふるさと)へ、
遠い山家(やまが)のふるさとへ
みんなと別れていきました」といっしょに歌って、みんなで泣きました。
物部の学校は、白道路(現在、綾部市)から相当遠く、教会も物部にございましたが、日曜には必ず教会学校に行くように、白道路の父達にもこれだけはよくよくお願いいたしましたので、休まず教会学校へは行かせてもらいました。朝早くお弁当を作ってもらって一人で遠い教会へ行きました。主人が聖会にまいりました時は一緒に教会に泊めていただきました。久しぶりにお父さんに出会うと、うれしいのと、はずかしいのといろいろの思いが入りまじって、かくれて泣いたと、申しておりました。
《御幸村に神学校》
 五月中ごろから六月中ごろまで、関西、山陽、中国方面の聖会を終え一か月ぶりで帰ってまいりました主人が、「いよいよ神学校建設が決定した。福山市外の御幸村に土地が与えられた」と上機嫌で申しました。御幸村中津原の――姉(当時五十三歳)が御自分所有の最上の土地を神学校のためささげて下さったのでございます。
 世界に最初の原爆が投下された広島県から、愛の爆弾、本当の原始福音、御名の命の福音が、日本全国――ついにはエルサレムにまで伝えられるというビジョンはいよいよ現実となって活動は開始されることになりました。九月に上棟式を終えて信州に帰ってまいりました主人は、「御幸村の田圃の中に空高く十字架が掲げられた時は、泣けて泣けて涙をとどめることができなかった」と申しておりました。


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