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■■「セカンドチャンス」はあるのか〜未信者の死後の救い〜
1
:
キリスト教正統信仰−プロテスタント福音主義・福音派
:2010/11/18(木) 15:55:32
最近「セカンドチャンス論」という、生前、主イエス・キリストを信じて救いにあずかっていなくても、
死後においても救いにあずかれる可能性があると考える説がでてきています。
さて聖書の御言葉に照らし合わせてみたとき、どのような導きがされることでしょうか。
●久保有政著「聖書的セカンドチャンス論」を
「キリスト教神学」の視点からクリティカルに分析・評価する。
JEC牧師会発題講演・質疑応答 一宮基督教研究所 安黒務
↓
★ttp://www.aguro.jp/d/jec/071113d_Evaluating_Second-Chance-Theory_Criticaly_JEC-PM_color.pdf
●久保有政先生による「「セカンドチャンス」は本当にあるのか」に対する反論
↓
レムナント社★ttp://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomu.htm
まぐまぐ通信★ttp://archive.mag2.com/0000014836/20070828235000001.html
●「セカンドチャンス」は本当にあるのか〜未信者の死後の救いをめぐって〜
ウィリアム・ウッド氏著 いのちのことば社刊 84頁より抜粋
↓
人はただ天に行くためにキリストを信じるのではなく、
「それに加えてこの地上で神の祝福と導きを受け、人生に平安、愛、幸福を得るためにも信じ」るのだから、
セカンドチャンスがあると聞いても、信仰の決心を先延ばしにするはずがないと、
−「聖書的セカンドチャンス論」(110頁)の著者は−論じますが、
確かに、救われた結果、クリスチャンは神から平安、愛、喜びを受けます。
しかし、救いとはもともと、永遠の滅びから救われることであるはずです。
ですから、「あなたは今、この世で平安や愛や喜びが受けられるから信じなさい」
という内容の伝道メッセージは、少々、福音の焦点からずれています。
人がイエス・キリストを信じなければならない第一の理由は、永遠の滅びという厳しい現実があるからです。
これこそすべての人に信仰の決心を促し得る点です。なぜなら、今の生活で満足している人々がいるからです。
彼らは、クリスチャンの語る平安などには関心を示しませんが、「イエス・キリストを信じる者だけが救われる、
信じない者は滅びる」というメッセージには危機感を覚えて、求道するようになる可能性があります。
しかし、「死後にも滅びから免れることもある」と言われたなら、
「じゃあ、私はあとでよい」という結論を出さないとは言い切れないからです。
2
:
キリスト教正統信仰−プロテスタント福音主義・福音派
:2010/11/18(木) 15:56:01
>>1-2
よりつづく
「セカンドチャンス」は本当にあるのか
〜未信者の死後の救いをめぐって〜
ウィリアム・ウッド氏著 いのちのことば社刊
↓
★第五章−結論 77頁より
(セカンドチャンスの考え方が広まることによって)今後、懸念されること
「セカンドチャンス」は間違いなく、教会の礼拝や教理、および伝道のあり方を大きく変えるものです。
そこで筆者(ウィリアム・ウッド氏)は、この教えが広がっていくなかで、以下のことを懸念します。
①聖書から逸脱した教理の蔓延。
「セカンドチャンス」は、聖書の主題や文脈を考慮せず、
また正当な釈義のルールに基づいていない教理だと言えるでしょう。
もしもこの教理が日本のキリスト教会に幅広く受け入れられるようなことがあると、
さらに、同じ釈義法による、福音を曲解した教えがどんどん生まれてくるのではないでしょうか。
②福音宣教に対する悪影響。
今まで、多くの牧師や宣教師、および一般のクリスチャンが、
「死ぬ前にイエス様を信じなければ滅びる」という信仰を持って、
熱心に福音を宣べ伝えてきました。
けれども、「セカンドチャンス」が聖書的な教理として教会の中に浸透していくなら、
こうした人々は挫折と混乱の中で伝道の熱意を失ってしまうでしょう。
③礼拝にもたらされる変化。
「セカンドチャンス」は、教会の礼拝のあり方にも、大きな影響を及ぼすでしょう。
礼拝の中で、死者のための祈りがささげられるようになるでしょう。
仏教の追善供養のような行事が取り入れられる可能性もあります。
④救われるべき魂の滅び。
「死後でも間に合う」というメッセージが語られると、必然的に、
キリストを信じる決心を後回しにする人々が出てくるでしょう。
「ハデス」で回心しょう」と考える人も現れるでしょう。
3
:
キリスト教正統信仰−プロテスタント福音主義・福音派
:2010/11/18(木) 15:56:22
>>1-3
よりつづく
こう考えてくると、「セカンドチャンス」はきわめて危険な教理であると
言わざるを得ません。最終的に行き着くところは、「今、イエス・キリストを
救い主と信じなくても、滅びることが決定するわけではない」ということです。
こうして「セカンドチャンス」は人々を信仰の決心から遠ざけてしまう恐れがあります。
「あとでも間に合うなら、今は信仰に入らないで、この世での生活を楽しもう」と
考える人間が、必ず出てくるでしょう。そして、「セカンドチャンス」が実際になかったとしたら、
この教理は人々を滅びに追いやるものとなってしまうのです。
★★第五章−結論 78頁より リバイバルの鍵はどこに?
前述のように、「聖書的セカンドチャンス論」では「セカンドチャンス」は日本に
リバイバルをもたらす教理であるとされています。しかしはたしてしそうでしょうか。
日本のプロテスタント教会が「セカンドチャンス」を受け入れた場合、
百数十年前から語られてきたものと違う福音を語ることになります。
日本のリバイバルの鍵は、新しい教えにあるのでしょうか。
私たち人間は、望んでいたほどの結果が現れないと、すぐ不安になり、
新しい方法やアイディアを試してみたくなってしまう傾向があります。
けれども、日本の霊的状況を考えた場合、最も必要なのは、
メッセージを変えずに、「時が良くても悪くても」
みことばを宣べ伝え続けることではないでしょうか。
2005年に、アメリカのギャロップ社が日本人の宗教観に関する世論調査を行いました。
それによると、日本人の23パーセントがキリスト教に対して好印象をもっているそうです。
さらに驚いたことに、「あなたの信じている宗教は何ですか」という問いに、
実に6パーセントもの人々が、「キリスト教」と答えているということです。
私たちの想像する以上に、日本における聖霊のみわざは進んでおり、
リバイバルが間近に迫っているのかもしれません。
いずれにしても、リバイバルが聖霊の働きであるとするなら、
新しい教えに期待するよりも、聖霊に頼り、神の栄光を待ち望みつつ、
「古い福音」を語り続けるべきです。
4
:
名無しの神学さん
:2010/12/03(金) 08:31:01
くだらん・・・ソーカガッカイに伝えて来い!!
5
:
名無しの神学さん
:2010/12/03(金) 14:21:47
>>1-3
深いです。友人は父親を亡くしましたが、このこことで悩んで半分教会から去って行きました。
ただ、その時に、相談した相手がにべもなくないと言い切ったことにあります。
もう少し、うまくその人がいったなら、去っていかなかったと思います。
6
:
山上の垂訓
:2011/02/04(金) 05:51:22
ttp://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/seiseco.htm
↑レムナントのセカンドチャンス論・・か・・・
レムナントが正教会のイコンを引き合いに出すとは意外。
正教会では、「セカンドチャンスがありやなしや?」と聴かれると
「あると解釈して良い。」と答える。
ttp://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/secoch03.htm
↑死後のセカンドチャンスを示す8つの聖句
しっかし、「セカンドチャンスなどない!」と強弁する教派は、
何が真理か?よりも、自分とこに人を信徒として囲い込もう!という
意図がミエミエではないかい?
「とにかく引っ張り込め!」では、S学会やS如苑などと何ら
変わりはないよ・・・
7
:
山上の垂訓
:2011/02/04(金) 05:52:09
キリストは神の子だから、十字架で処刑されて死んで葬られ、
復活されるまでの間、陰府(よみ)に下り、使者の霊にも福音を伝え
られるわな・・・・
「生きているうちに信じなかった者は、もうハバチョ!」
ではあまりにも安っぽい”福音”ではないだろうか?
こういう考えを持っているから、民主党の小沢某に、
「”キリスト教”は閉鎖的で独善的な世界だ。
”死んだらみんな仏様になれる”仏教の方が良い!」
などとトンチンカンな批判をされるのだよ。
ttp://www.youtube.com/watch?v=x8_xGIP1BBM
小沢某の発言に対し、抗議したのが福音派・聖霊派を中心としたグループ。
やれやれ・・・どっちもどっち。
小沢某は、仏教もキリスト教も何もわかっていないと見た。
第一キリスト教は、西洋だけの宗教じゃないよ。
8
:
山上の垂訓
:2011/02/04(金) 05:52:52
聖書的には、”死ぬ”ということは、陰府(よみ)に置かれることで、
地獄に落ちることではない。最終的に地獄か?神に国か?裁かれるのは
”最後の審判”を待たなければならない。
正教会ばかりの肩を持つわけではないが、西方教会は復活祭の意味を軽く
考えすぎている。降誕祭(クリスマス)ほどには、復活祭(イースター;正教会では”パスハ”)
を盛大に祝っていない。
福音派が”大好き”な聖書のガラテヤ書に、
「キリストの復活なかりせば、クリスチャンほど惨めな人種はいない。」
と聖パウロが言っておるではないか?
死者の中からよみがえった主イエスである。死者に福音を伝えられぬはずかあろうか?
9
:
山上の垂訓
:2011/02/04(金) 05:53:28
いずれにしても、「生前に信じなければダメ」なのかどうかは、
鼻から息をする人間の分際で決め付けるべきではないわな。
すべて想像の域を出ない。私の母は、クリスチャンではなかったが、
正教徒の私の母だったので、正教会で葬式をしてもらえた。
そのときの式文=異教徒のためのパニヒダ(葬式)
✝神を知らずして永眠したれども 神に背く者のあらず
生前に一業績なりとも みこころに叶うことあれば
これを義とし 救いたまえ
正教会では、”断定”しないのだよ。私の母が義とされるかされないかは、
あくまでも神がお決めになること。これを断定することは神への冒涜になる。
”信仰”を持っていないはずのサマリア人が行きずりの旅人に情けを
かけたことを”義”とされた、”良きサマリア人”のたとえ。
・・・あーあ、そのつもりもないのに正教会のPRになっちゃった・・・
10
:
山上の垂訓
:2011/02/05(土) 22:29:10
死んだ人間が行くところは、地獄でも天国でもない。陰府です。
地獄か?天国か?の裁きは、最後の審判でハリストスがされるのです。(マトフェイ25章)
だから、西方教会のアホンダラどもは、鼻で息をする者の分際で、天国/地獄を決め付けるから
神を冒涜しているのです。クリスマス(降誕祭)ばかりドンちゃん騒ぎして、復活祭(パスハ)
は卵に色塗って終わり・・・・西方教会のアホンフダラどもに、復活祭の重要性を誰が伝えるのですか?
ドンちゃん騒ぎするべきは、降誕祭ではなく、復活祭でしょうに・・・・
福音派が大好きな、出来損ないの新改訳聖書でさえ、書いてありましょうに・・・
✝キリストの復活なかりせば、クリスチャンほどみじめな人種はいない (ガラテヤ書)
11
:
山上の垂訓
:2011/02/07(月) 19:36:03
最後の審判
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%AF%A9%E5%88%A4
12
:
山上の垂訓
:2011/02/07(月) 19:36:42
[ディスペンセーション主義]
ディスペンセーション主義では患難前携挙説をとり、
ノンクリスチャンが地上に取り残されて、
クリスチャンだけが患難時代に携挙され、
その後に最後の審判がある。?????
・・・何のことはない。”最後の審判”に対する一部の偏った考えではないか?
「イエスさま信じずに死んだ人は地獄に落ちた。死んでからではダメだ!」
・・・これを正統教理とはまことにかたはら痛いわい!
伝統的教団ではこうだ。
[公審判]
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AF%A9%E5%88%A4
13
:
山上の垂訓
:2011/02/07(月) 19:37:30
[正教会とカトリック教会に共通する理解]
世の終りにはイエス・キリストの約束と復活の保証により、
すべての肉身が復活する。 肉身の復活とは天主の全能によって、
世の終りに、霊魂が再び元の肉身に合せられることであり、
その根拠となる聖書箇所は
「墓の中なる人々悉く天主の声を聞く時来らんとす。
斯くて善を為しし人は出でて生命に至らんが為に復活し、
悪を行いし人は審判を受けんが為に復活せん」
(ヨハネ 5:28-29)である。
肉身が復活するのは、人の善業と悪業とは霊魂と肉身とで行ったので、
肉身も共に審判を受けて終なく賞せられ、或は罰せられるために復活する。
肉身の復活の後に公審判があり、
その聖書箇所はマタイ24:30-33、マルコ13:26である。
公審判の後に、善人は、霊魂、肉身ともに天国に行き、
永遠に楽しむのであり、これを終なき生命(いのち)と呼び、その聖書箇所は
「来れ、我父に祝せられたる者よ、世界開闢より汝等のために
備えられたる国を得よ」(マタイ25:34)である。
公審判の後に、悪人は霊魂、肉身ともに地獄に行き、永遠に苦しむ。
これは終なき死と呼ばれ、その聖書箇所は
「詛(のろ)われたる者よ、我を離れて、悪魔と其使等との為に備えられたる
永遠の火に入れ」(マタイ25:41)である。
公審判の行われる目的は、
1.天主の智慧と正義とがすべての人に認められ、
2.イエス・キリストがすべての被造物の前に光栄を得、
3.善人と悪人とはそれに値する名誉叉は恥辱を受けるためである。
14
:
山上の垂訓
:2011/02/07(月) 19:37:59
[正教会とカトリック教会の違い]
カトリック教会にはある煉獄の教えが、正教会には存在しないことが
まず挙げられる。また、死・審判・天国・地獄を合せて四終と呼ぶのは
カトリック教会の用語・整理である。
「私審判」も参照
また、カトリック教会に存在する著名な数々の公審判・地獄を巡る芸術作品の
もたらすイメージについて、正教会はこれを否定している。
15
:
山上の垂訓
:2011/02/07(月) 19:38:24
[正教会における西方の作品群への評価]
正教会では、ダンテやミケランジェロの作品に示された地獄や公審判の
イメージについて否定されている。
府主教イラリオン・アルフェエフはこれらの作品によりもたらされる
イメージにつき「物質的で粗野な形象」とし、「永遠の苦悩の概念が歪められた」としている。
特にミケランジェロの作品については「侮辱と決闘応諾等のスコラ的教えであり、
正教的理解と相容れる点が少ない」としている。
掌院ソフロニイ・サハロフは
「ミケランジェロは天才的な能力を持っていたが、奉神的テーマにおいてでは
なかった…ハリストス(キリスト)は当然中心的存在には違いないが、
我々が知る神の啓示によれば、ハリストスは愛なのである
(イオアン第一公書(ヨハネの手紙一)4:8)。
しかも最後の審判においてさえ神は人を愛し続けるのである」と述べた。
16
:
山上の垂訓
:2011/02/14(月) 03:06:20
フランシスコ・ザビエルの過ち;
ハデスとゲヘナを区別できず、「主イエスを信じることなく亡くなった人は
地獄に落ちている。生前に信じなければダメ。セカンドチャンスなどない。」
・・・・亡くなった人は、地獄にも天国にも行きません。陰府(黄泉)に置かれ、
ハリストスの福音を待っている。十字架で肉的に死なれたハリストスは、
復活されるまでの間、何をされていたのか?
イコンにあるように、陰府にある人々に手を差し伸べているのですね。
人間の伝道者は、生きている人間にしか伝道できません。
死んだ人に伝道できるのは、ハリストスだけです。
逆に言えば、死んだ人にはハリストスが伝道されるのです。
それが復活祭=パスハの意味ではないですか?
✝ハリストス死より復活し 死をもって死を滅ぼし 墓にある者に いのち(=信仰)を与えり
なるほど、正教会はカト/プロの西方のアホンダラどもとは、わけが違いますね。
「生きているうちにイエスさまを信じなかった人は、あなたのおじいちゃんやおばあちゃんはみんな地獄に落ちたよ!」
・・・どう論破します?死んだ人間が行くところは、地獄でも天国でもない。陰府です。
地獄か?天国か?の裁きは、最後の審判でハリストスがされるのです。(マトフェイ25章)
だから、西方教会のアホンダラどもは、鼻で息をする者の分際で、天国/地獄を決め付けるから
神を冒涜しているのです。クリスマス(降誕祭)ばかりドンちゃん騒ぎして、復活祭(パスハ)
は卵に色塗って終わり・・・・西方教会のアホンフダラどもに、復活祭の重要性を誰が伝えるのですか?
ドンちゃん騒ぎするべきは、降誕祭ではなく、復活祭でしょうに・・・・
福音派が大好きな、出来損ないの新改訳聖書でさえ、書いてありましょうに・・・
✝キリストの復活なかりせば、クリスチャンほどみじめな人種はいない (ガラテヤ書)
もしハリスティアニンであったとしても、これらがわからなければ、西方教会のアホンダラどもと同じですわな・・・・・・・
「生きているうちにイエス様信じなかった者は地獄行き。」
・・・・こういう”福音もどき”は、滅ぼさなきゃいけません。
✝間違った福音を伝える者は 呪われよ! (ガラテヤ書)
17
:
名無しの神学さん
:2011/02/16(水) 21:56:14
詳しいことは、よく解りませんが、ラザロは眠っているだけだと書いてあります。
もし、死者の初穂となるならラザロになりますが、死からのよみがえりの初穂が
キリスト・イエスであるとするなら、
ラザロは、肉体が腐り臭くなっていたのにもかかわらず、違うところにいたことになります。
18
:
山上の垂訓
:2011/02/17(木) 02:51:42
いずれにしても、ファーストチャンスがなければセカンドチャンスもない。
セカンドチャンスがありやなしや?という議論も無意味。
第一”キリストを信じるチャンス”という発想がダウト!ですね。
正教会ではわからないことはわからないままにしています。
西方教会は、カトにしろプロにしろ、”勝手な発明”が多すぎるんですよ。
19
:
名無しの神学さん
:2011/02/18(金) 13:02:04
こういうことではないでしょうか。
ラザロは、肉体的な死にいたった。それを眠ると表現された。
魂の死は、それ以降であり、その死を打ち破ったのはイエス・キリストしかいない。
20
:
山上の垂訓
:2011/02/19(土) 15:56:50
>>19
そのような解釈で良いかと思います。
✝ハリストス(キリスト)死より復活し 死をもって死を滅ぼし
墓にある者に いのちを賜えり
キリストは肉体の死をもって霊(たましい)の死を滅ぼし
墓(陰府)にあるものにいのち(永遠のいのち)を与えた。
ラザロは肉的な死からキリストによって肉的に生き返ったけれども
本当の霊(たましい)のよみがえりは、キリストの復活によって
与えられるという意味だと思います。
21
:
名無しの神学さん
:2011/02/21(月) 00:10:53
なるほど。
魂の復活。
神への回帰。
これこそが、福音の本質なのかもしれません。
22
:
山上の垂訓
:2011/02/22(火) 11:45:34
おかげで、私も気づきを与えられましたね。
”宗教”は”Religeon”の訳語。
「神と人の関係の回復」が語源だそうですから。
「生きているうちにイエス様信じなかった人にはチャンスなどない!
仏壇に手を合わせていたあなたのおばあちゃんは、地獄に落ちている。」
・・・・などという”隣人愛を無視したキリスト教もどきの呪い”
にかかっている人は、一日も早く解放されてほしいと思います。
なくなったおばあちゃんがおられるところは、天国でも地獄でもありません。
陰府(いんぷ=黄泉よみ)です。天国か地獄かを決めるのは、牧師さんでも
神父さんでも、ましてやヒラ信徒でもありません。最後の審判の主イエスです。
そして、最後には主イエスの”義”によって全ての人が救われるだろう、
というのが、最古のキリスト教=正教会の考え方です。
✝神はすべての人が救われ、真理を悟ることを望んでおられる
(ティモテⅠ 二章)
”万民救済”が主イエスのお考えでなければ、何のための”福音”でしょう?
クリスチャンを自称しながら、パリサイ的な選民思想に陥ってはならない。
✝ハリストス(キリスト)死より復活し 死をもって死を滅ぼし
墓にある者に いのちを賜えり
23
:
名無しの神学さん
:2011/03/04(金) 23:06:48
>>22
わたしは、あえていやなことをお伺いしたい。
まくにも刈るにも時があるといわれます。
救い主、キリスト・イエスがあえて人として生きられて死なれたこのタイミングこそが
救いのときではないでしょうか。
24
:
山上の垂訓
:2011/03/07(月) 07:12:24
別に”いやなこと”でもないと思うんだけど・・・
”神の時”たしかにあると思いますね。
「天の時、地の利、人の和」・・・これは中国の故事・・かな?
聖書でも、
「天のいと高きに光栄神に帰し 地には平安 人には恵み臨めり」
・・・天・地・人・・ですよね。
天の時・・・自分たちが考える”時”ではなく、”神の時”
25
:
山上の垂訓
:2011/03/14(月) 06:28:36
「生きているうちにイエスさま信じなきゃ地獄行き!」
などとアホぬかす教団の呪いから解かれてほしい一念で
言いたいですね。
✝ハリストス死より復活し 死をもって死を滅ぼし
墓にある者に いのちを賜えり
”セカンドチャンス”などという発想がナンセンス!
なくなった人は、陰府(黄泉、涅槃)に留め置かれている。
それを天国か地獄か振り分けるのは、最後の審判で主イエスが
なさること。鼻から息をする人間の分際で決めるべきことでは
ありません。正教会も、復活祭(パスハ)の重要性を他教派に
伝えることをしないから怠慢なんですね。
26
:
名無しの神学さん
:2011/03/18(金) 16:45:33
生きているうちに信者にならないとアウトと主張する人は選民思想が好きなだけのイタい人。
まあ昔から新興宗教は選民思想が好きなものと決まっている。新興宗教の特徴は狭量だからそれでいい。
セカンドチャンスなんておおらかさは新興宗教らしくない。新興宗教は新興宗教らしく、いつも狭量でいればいい。
よって新興宗教の中にとどまったままでセカンドチャンスなんて概念をあえて発明するなど言語道断。
そんな概念で業界をひっかきまわすくらいなら、セカンドチャンスを発明及び支持する人たちは
幕末に来た伝統宗教に宗旨替えすれば済む話。
正教やカトリックはもちろん、幕末に来たプロテスタントなら、セカンドチャンスなんてダサいものをわざわざ持ち出さずとも、
ちゃんとこのあたりの問題は解決できる。
選民思想や狭量を支持する人は新興宗教の信者になり、「さすが神!太っ腹〜」と神の度量の大きさや気前のよさに
感嘆する人は伝統宗教の信者になればいいだけのこと。キリスト教の神は二種あって、新興宗教の神は狭量、伝統宗教の神はおおらかだ。
伝統宗教の信者はおおらかな神を愛し、新興宗教の信者は狭量な神を愛するということだ。
新興宗教の業界でなぜセカンドチャンスなんてものを巡って法論しているのか理解に苦しむ。
27
:
山上の垂訓
:2011/03/18(金) 18:23:37
そうね。”セカンドチャンス”なんていう発想が、選民思想をベースにしている
んだもんね。”宗教”もまた社会現象のひとつである。特定の宗教団体に組して
いる人は総じて視野が狭い。
✝裁いてはならない 裁かれないためである
他人を裁く人は、自分に自信がないから。自信がある人ほど謙遜で
他人の意見に耳を傾ける。謙遜になったほうが、むしろ自信が持てる。
信仰宗教的なキリスト教もどきで苦労した人には、伝統的教団の考えが
薬になるかもしれない。しかし、現実の教団は、伝統的教派でも別の意味で
イタいよ・・・
28
:
名無しの神学さん
:2011/03/18(金) 19:03:44
仏教でもキリスト教でも、神仏がイタいのではなく坊主どもがイタいのだ!
29
:
名無しの神学さん
:2011/03/22(火) 13:35:00
山上の垂訓さんがバイブルバプテストとかかわったことがあるそうなので、ちょっと小耳に
気になる情報をここにおいておきます。(もしご存知ならすみません。)
福島の原発で現場作業員の中に福島のBBFの信者の家族が数名いた模様です(多くは彼らの女房が信者か?)
かなり被曝するでしょうから胸が痛みます。
これで少しBBFに対して腹が立ちました。原発関係の仕事につく人はかなり高収入と予測されます。
BBFは什一を課す教会が多いので、信者にしたのが家族としても(専業主婦は総収入の5%として)結構いい
献金額が望めます。かの地のBBFは他業種と比べて比較的高収入の原発関係者本人もしくはその家族を信者に
獲得して、強固な経済基盤を確保してきたと思います。
今回のことで彼らはヒーローにされる可能性があり、福島のBBFがこの人たちを広告塔のようにするのではないか?
作業員たちの被曝量を考えると、全員が長寿であるとはいえないと予想されるので、健康不安から自我の低下した作業員たちに
布教し、(本当なら家族に一円でも多く金を残さなくてはならないのに)什一をさせるのでは?
BBFは原発関係者とその家族から今までずっと什一をさせ、これからも当然させていくでしょう。
中には気の毒にも子どもが一人前にならないうちに亡くなる方もいるかもしれません。
しかし什一を課す教会でそういった事態になったときに、遺族の生活や遺児の学費の面倒をしっかりみる
なんて皆無です。昔の什一は福祉もかねていましたが、今の什一は絶対にそのようなことはしない。
彼らから信仰心をあおってさんざん什一させておきながら、イザというときには何もしないと思う。激しく鬱ってきます・・・
30
:
山上の垂訓
:2011/03/22(火) 21:18:19
BBFは信徒の痛みなんぞ関係無しに”1/10”をあおる人非人が多かったですね。
”愛や哀れみ”なんぞひとかけらもない。ヤツらは、”強い者には弱く、弱い者には強い”
やくざ(でも任侠道に立った渡世人ではなくチンピラやくざ)のようなボクシが
多いですから、腹をくくって罵倒してやれば道は開けます。
人を助ける力のない者に、人を呪う力などありませんから。
31
:
名無しの神学さん
:2011/03/23(水) 07:02:22
名目牧師実質教祖と化したBBFの聖職者はかなり権限が強くて、神そのものになっている教会もあります。
腹をくくって罵倒できる人がどれだけいるでしょうか?
大半の信者は自我が低下した状態になっていますから、けっきょく尻の毛を全部むしられて
悲惨な状況になるのは火を見るより明らかです。
32
:
山上の垂訓
:2011/03/24(木) 05:20:15
ならばとにかく逃げるべきですね。逃げることが”戦い”になることも
あるのです。洗脳を解かれればほとんどの牧師なんぞチンピラに過ぎません。
33
:
名無しの神学さん
:2011/03/24(木) 06:52:04
百戦一計逃げるが勝ちかw。脱福して勝ち組になったってやつ多いみたいね。
カルトに対する最大の復讐は教祖より幸せになることさ。
ただ洗脳を解くのは並大抵のことじゃないよ。解けるまでがしんどい。
新興宗教の業界では公的責任で聖職者が養成されるわけじゃない。
だから初心者に新興宗教は勧めるなっていうんだろう。
34
:
山上の垂訓
:2011/03/25(金) 08:12:33
このBBSとくにメインスレも”逃げるが勝ち”の体質に
なって来ているようね・・・ねえカイゴシさん?
35
:
山上の垂訓
:2011/03/25(金) 08:15:23
************************************
常連を始めとする方々へ
いいから帰って来い!緊急事態だ!そうじゃないと思ってても俺は緊急事態だ!
助け合うのがクリスチャンだろ?悪いけど勝手に甘えるぞ!
****************************************************
・・・・ここから”逃げるが勝ち”
これ以来、フランシスさんもタチバナさんもchiaraさんも
みいんないなくなった・・・・・
カルトカイゴシからも”逃げるが勝ち”か・・・・
36
:
名無しの神学さん
:2011/03/27(日) 07:09:33
正教ではとりなしの祈りのようなことを未信者の葬儀でするようですが、とりなしに
限らず祈るときに数珠は使いますか?
カトリックではロザリオ、聖公会ではアングリカンロザリオという数珠を用いて祈りますが、
正教では数珠があるならそれはなんという呼称ですか?
カトリックや聖公会の数珠とはどういう違いがありますか?
37
:
山上の垂訓
:2011/03/27(日) 20:23:54
正教会の数珠は、”コンボスキニヨン”と言うそうです。
ググッて見て下さい。これがカトリックのロザリオの起源だとか。
38
:
山上の垂訓
:2011/03/27(日) 20:25:04
失礼!”コンボスキニオン”でググッて見て下さい。
39
:
名無しの神学さん
:2011/03/27(日) 20:33:33
どうもありがとうございました。一般信者はあまり使わないようで、修道士や修道司祭が使うのですか。
(在俗司祭も使わないということですかね?)
紐で作るので仏教の数珠のようにジャラジャラ音がするわけではなさそうですね。
これがロザリオの原型とは。ロザリオは珠がありますが、もともとの数珠は珠はなかったのですか。
40
:
山上の垂訓
:2011/03/27(日) 23:50:48
私もググッて見て勉強になりました。
教会でもここまで知ってる人はいなかったですね。
>>正教ではとりなしの祈りのようなことを未信者の葬儀でするようですが
これ、私の母の葬儀でしてもらいました。”異教徒のためのパニヒダ”
「神を知らずして永眠したれども、神に背くものにあらず。
生前に一業績なりとも御心に叶うことあれば、これを後とし救いたまえ」
・・・がその式文です。
「セカンドチャンスありや?なしや?」というのがいかにくだらない議論か
わかると言うものです。
41
:
名無しの神学さん
:2011/03/28(月) 10:07:24
セカンドチャンスを唱える新興宗教関係者は絶対に伝統宗教に宗旨替えしない。
宗旨替えするとリセットされて、ゼロからのスタートになってしまうから。
丸裸になってやり直しはあほくさということで、新興宗教の内部にとどまって改革を試みているのだと思う。
42
:
山上の垂訓
:2011/03/28(月) 16:08:22
なるほど・・・
セカンドチャンスを唱えても伝統宗教に宗旨替えしない・・・か。
やっぱり新興宗教の土台が”万民救済”ではなく”囲い込み”のようね。
かといって伝統教団もその伝統を見失っているよ。
43
:
名無しの神学さん
:2018/02/24(土) 15:52:13
作詞:聖イエス会教祖様
1
時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
2
十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
3
新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
4
神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
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