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無差別級

94闇夜の鮟鱇★:2011/11/04(金) 10:35:23 ID:???0
  ●●●万葉集の極彩色●●●(1/6)

私の周辺は例によってゴタゴタ続きで余裕をなくし、それで、
また少し書き遅れていますが、久々に万葉集についてです。(^^;)
今回は遣唐使というか、遣新羅使の歌から始めますが……
この時代の外交使節として、有名な遣隋使や遣唐使以外に、
遣新羅使や遣渤海使があったというのは、少し意外でしたね。
その場合、その手の遣何々使といった渡航使節全体を現す、
適当な呼び名がないのが、また何とも不便な気がします。

例えば、近代には遣欧使なんていうのがありましたから、
それに対置させて、遣亜使なんてのはどうでしょうか。(^^;)
さて、それでさっそく本題に入りますが、
実を言うと、今までの私は万葉集の世界を、何か、
色のない白黒の世界のように感じていたんですね。
ところが、今回その遣新羅使の歌を聞いていて、突然、
目の前に鮮やかなカラーの世界が開けたように思ったのでした。

まあ、それは一つにはこの講師の功績と言うべきでしょうね。
というのも、彼の焦点の当て方はかなり独創的ですからね。
以前に明日香の所で出てきた山部赤人の歌にしてもそうですが、
今回の講読で、万葉集には私が今まで一度も聞いたことがない歌にも、
まだまだ素晴らしいものが沢山ある、ということを知りました。


但し、その解釈の仕方に関しては、少なからず異論があります。
例えば『遣亜使は何度もあったはずなのに、資料が沢山残る所と、
何も残らない所があるのは何故か』という疑問に関して、
『戦乱などで失われてしまう偶然性』を挙げていましたけどね。
私としては、むしろ必然性の方を敢えて強調したい所なんです。

例えば、日本の物語文学としては、色々な歴史の資料から、
源氏物語以前にも沢山の物語があったことが知られているわけですね。
ところが、残念ながらそれらの多くは失われてしまっていて、
今残されているのは、宇津保物語とかほんの一握りに過ぎないわけです。
その場合、当然ここでも戦乱などで失われたものが多いのでしょうが、
私は、失われたものにはそれなりの理由があると考えたい分けです。

つまり、もし本当に面白くて価値がある物語なら、それは、
次々と沢山の人々によって書写されて行くはずですよね。
ですから、仮にその多くが戦乱や大火で失われてしまったとしても、
一部は必ずや、どこかに残されて行くに違いないと思います。
その意味で、歴史の中で消え去ってしまうものには、
それなりの必然性がある、というのが私の考え方なんですね。


その場合、以前に少し触れましたが、歴史資料に関しては、
家康が頼朝暗殺の記録を抹殺したような例もある分けですから、
そうして意図的に消される場合は、また別と見るべきかもしれません。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#120
ただ……その点で言うと歴史上、最も有名な事件として、
秦の始皇帝による焚書坑儒というのがあった分けですね。

あの場合、実用書以外の書物は全て焼き捨てられ、
460人以上の儒者が生き埋めにして殺されたそうですけどね。
それにも関わらず、現代の我々が論語を読めるというのは、
よくよく考えて見ると不思議な気がしませんか!?
だって、実用書以外は全て燃やしちゃったはずでしょ!?

答えを言うと、この場合、生き残った弟子たちが、
記憶に頼りつつ、論語全体を復元したんだそうです。
まあ、論語読みは今でもそうかもしれませんが、
暗唱できる位にまで読み込んでいますから、
そうした復元も案外、難しくは無いんでしょう。
ただ、今残されている論語を読むと、その一部には、
焚書坑儒に伴う傷が残っているのが分かります。


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