したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

無差別級

89闇夜の鮟鱇★:2011/08/03(水) 11:07:26 ID:???0
  ●●●血みどろの明日香●●●(1/2)

万葉集の古典講読も、そろそろ佳境に入って来ましたが、
最近の第16回では、吉野の歌が色々と取り上げられていましたね。
その中で、天武天皇の有名な歌が出て来たんですが、
それが六皇子盟約の時に作られた、という話が少し意外でした。
  淑人乃(よきひとの)
  良跡吉見而(よしとよくみて)
  好常言師(よしといひし)
  芳野吉見与(よしのよくみよ)
  良人四来三(よきひとよくみつ)

因みに、最後の部分を『よきひとよくみ』として命令形に取り、
『現代の良き人も良く見なさい』と解釈していたのが気になりました。
私が覚えていた形だと、ここは『よきひとよくみつ』だったはずで、
歌の格からしても、それには遠く及ばない気がします。
つまり『過去の良き人は良く見たのだよ』と、
前半の内容を繰り返す方が、歌として遥かに味が出る分けですね。
近年の研究で、何か『よくみつ』を廃すべき理由が見つかったのかと思い、
ネットを色々あさってみましたが、これといったデータは出ませんでした。

ところで、天武天皇というのは、以前に引用した天智天皇の実弟で、
天智天皇の死後に即位するはずだった大友皇子に対し、
壬申の乱を仕掛けて、権力を奪取した人物である分けですね。
その彼が、自分の後継候補である6人の皇子を集めて、
『今後は争いをやめよう』と誓約させたのが、
問題の六皇子盟約であるようです。


でも……自分は武力で権力を奪取しておきながら、
自分の後継者たちには『仲良くしろ』と誓約を迫るのは、
いかにも虫の良過ぎる話のような気もしますよね。(^^;)
実際にも、彼の死後にはすぐに争いが起きてしまい、
最有力の後継者だった草壁皇子への脅威と見なされた大津皇子が、
謀叛の疑いで自殺させられる分けですね。

実はその頃、大津皇子の母は既に亡くなっていたので、
真相は『草壁皇子の母(後の持統天皇)が画策した謀略によって、
大津王子は、はめられのだ』という見方が根強いようです。
その場合、自分の息子を確実に皇位に付ける為に、
彼が邪魔だったと解釈するのが通説ですね。
何しろ、この持統天皇という女帝は相当のやり手で、
そもそも、壬申の乱の原因にしても『夫をそそのかして、
実際に仕組んだのは彼女だった』という説がある位ですからね。

仮に天武天皇が、その手のお人好しだったとすれば、
あんな歌を作って六皇子盟約を結ばせた経緯も、
案外、納得が行くような気がします。(^^;)
その歌からしても、天武天皇という人は繊細というよりは、
豪快な人物のように思えますし、となると、
ねちねちと陰謀を巡らすには相応しくないような気がします。


例の六皇子盟約自体、持統天皇を六人の皇子の母親と位置づけて、
天武の死後は彼女を中心にまとまるようにと指示している点など、
彼女の意図が色濃くにじんでいるようにも読めますね。
そうした点から、大津皇子の謀殺説も出てくるのでしょうが、
ただ、彼女が残した万葉歌を色々読み直してみると、
そこまでの悪女と考えるのは、私は気が進まなくなりました。(^^;)

ただ、そうは言っても『親子兄弟が血で血を洗う権力闘争』が、
この明日香という時代に、日常的に繰り返されていたのは事実のようですね。
その点では、例えば明日香にある酒船石にしても、あれは恐らく、
『生贄を殺して、その血をあの水路に流す』みたいな血なまぐさい儀式に、
使われたものではないか、というのが私の印象なんですけどね。

結局、既に西暦538年には日本に仏教が伝来していたとは言え、
その教義が実際に浸透するまでには、かなりの時間を要したんでしょうね。
つまり、奈良時代に仏教の地獄極楽思想が広まると共に、凶悪犯罪が激減し、
平安時代には死刑すら必要としない時代になった、という分けですけどね。
政争による死刑は、810年の薬子の乱で藤原仲成が殺されるまで続き、
その後、盗みに対する死刑を廃止したのが818年と言われますから、
仏教伝来から数えると丁度、280年かかったことになりますね。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板