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無差別級

1闇夜の鮟鱇★:2003/11/27(木) 17:34 HOST:122.net061211188.t-com.ne.jp
このスレッドは『万有サロン』という名にふさわしく、
あらゆる意見を語り会う為の場にしたいと思います。
もしよろしければ、私のサイトへの疑問や感想もここにお書き下さい 。

78闇夜の鮟鱇★:2010/04/03(土) 15:37:16 HOST:198.net220148124.t-com.ne.jp
  ■書き込み大賞(第4R)の総括と書き込み大賞(第5R)の詳細■(1/2)

¥¥¥¥¥¥ 書き込み大賞(第4R)の総括 ¥¥¥¥¥¥

私も色々と忙しいので、今回は手抜きすることにしました。(*^^)v
その意味で、第5Rは日付を半年ずらすこと以外、
前回と全く同じルールということにします。
よって、前回のルールを読んで分かっている人は、
今回のルールを改めて読み直す必要はありません。
ただ、日付の所を書き替えただけですからね。

¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥



¥¥¥¥¥¥ 書き込み大賞(第5R)の詳細 ¥¥¥¥¥¥

万有サロンの社会的認知度を上げ、かつアクセス数を増やす目的で、
書き込み大賞の第5Rをスタートします。その細則は以下の通りです。

  1)賞金総額
  ――20万円
  2)優秀書き込み賞
   a)4人〜7人
   b)先ず、今回も当選については、最低条件があります。
   ――期限内に有効な書き込みをした方が、10人以上いなかった場合、
     当選者は無しとして、賞金は次回に持ち越すことにします。
   ――その場合、どこで別人と見分けるかが自明ではないんですが、
     その点も考慮して、なるべく多めの方の参加を期待しています。
   ――よって、期限到来時の賞金を狙う方は是非、家族や親戚、更には、
     ネットや実社会の友人・知人までをも巻き込んで書き込んで下さい。
   c)他方、ヤフオクの即決価格に似た仕組みを今回も続行します。
   ――つまり『半年も待てない』という方がいると思うので、
     期限は一応もうけるものの、たとえ期限内であっても、
     私が『一定のレベルを超えている』と判断した場合、
     その書き込みをした方に即時、以下の賞金を進呈します。
   ――実は、私もネット通信の詳細については良く知らないんですが、
     ありとあらゆる意味での妨害があり得るでしょうね。
   ――その意味で、最初に書き込む人はより多くの困難に直面すると思うので、
     そのことへの努力賞も含め、今回は一人目の当選賞金を10万円、
     二人目を4万円、三人目を2万円としたいと思います。
   d)よって、期限到来時の賞金は4万円〜20万円になりますが、
    一定レベルに達する書き込みがなかった場合、今回は、
    ベスト4の方々に、それぞれ5万円の賞金を出すことにします。
   ――期限内に1人当選した場合は、残るベスト4に2.5万円づつ、
     期限内に2人当選した場合は、残るベスト4に1.5万円づつ、
     期限内に3人当選した場合は、残るベスト4に1万円づつとなります。
   ――ヤフオクの即決価格と違って期限内当選の基準はあいまいですが、
     今回も、私をうならせるような書き込みを期待しています。(^^;)

79闇夜の鮟鱇★:2010/04/03(土) 15:40:43 HOST:198.net220148124.t-com.ne.jp
  ■書き込み大賞(第4R)の総括と書き込み大賞(第5R)の詳細■(2/2)

  3)評価対象となる有効な書き込み
   a)万有サロンのスレッドに、下記の日付で書き込まれた全ての文章。
   ――但し『ゴミ溜め』と『trash box』への書き込み、
     及び、私がそこに移動した書き込みは除外されます。
   b)今回も、英文の書き込みを評価対象としますので、
    『GuestBook』への書き込みも有効です。
   ――その場合、私が理解できないような難しい英文を書いても、
     結果的に評価が低くなりますので、あしからず。(^^;)
  4)実施期間
  ――2010年04月01日より、2010年09月30日まで。
  ――但し、書き込んだスレッド内に表示される日付が基準となります。
   (2010年09月30日の23時59分に投稿しても、日付が翌日になれば駄目。)
  5)参加資格
   a)年齢・性別・職業・居住地・国籍などは一切、問いません。
   b)国内送金を含め、あらゆる合法的な送金手段に応じますが、
    銀行振込以外の場合、送金にかかる費用は賞金から差し引きます。
   ――特に海外送金の場合、私はやり方を良く知らないので、
     実際の送金時に、その合法的な手順を教えて下さい。
  6)賞金受け取りの手順
   a)選考結果は、期限内当選の場合は随時、期限末当選の場合は期限日の翌月上旬に、
    このスレッド(無差別級)と、万有サロンの先頭(『簡単な使い方(1)』の上段)で発表します。
   b)選ばれた方は、入金に必要な情報と適当な合言葉をメールに書いて、
    『aaa-zzz@tba.t-com.ne.jp』まで送信して下さい。
   c)そして、一時間以上たってから、ここ(無差別級)へ、
    メールの送信時刻と合言葉を書き込むという手順になります。
   d)それで本人と確認できた時点で、送金を実行します。

(参考情報)
書き込みへの評価は、あくまで私の独断と偏見によりますが、
『万有サロンの社会的認知度とアクセス数を上げる』ことが主眼なので、
その主旨に沿った書き込みをした方が、有利になるのは当然です。
万有サロンの内容をどれだけ深く理解しているか、も問われると思います。

また、今回も『連番の付いた一続きの文章』を選考対象とします。
ひとつの書き込みが一回分の文字数上限(約4000バイト)を超す場合、
私のように(1/3)(2/3)……などと連番を付けて、
それらが一続きの文章と分かるように書き込んで下さい。

結局、一回分の文字数で書ける内容はごく限られますから、
期限内当選を目指す場合、どうしても長くなるかもしれません。
但し、長ければ評価が高くなるということは全くなくて、
だらだら長くて読みにくい文章よりは、むしろ、
簡潔で中身の濃い文章の方が、評価が高くなると思います。


一つのヒントですが『今まで、私があちこちに書き散らした、
謀略説』をまとめる余裕がなくて困っているので、
それをうまく整理してくれると、かなり評価が高くなると思います。
もっとも、あくまで『うまく整理』できた場合の話ですからね、
これはちょっと、ハードルの高すぎる注文かもしれません。(^^;)
その意味で、もっと気軽に書き込んでくれてかまいません。

期限内に同一人物が何度、書き込んでもかまいませんが、
不愉快な記入や、スレッドの主旨と無関係な記入は、
いつもの基準でゴミ溜め、又はTrashBoxに移動します。
また、同一人物による複数の書き込みがあった場合、
期限末当選では、それら全体の寄与度も考慮しますが、今回も、
最終的には『私の独断と偏見による選考』としたいと思います。

他方、期限内当選があった場合、その当選した分の書き込みは、
期限末の評価からは除外しますが、書き込み人数には含めます。
という分けで、以上の条件を満たす書き込みをした方(4〜7人)には、
私が突然死しない限り、総額20万円の賞金が渡ることになります。

¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥

80闇夜の鮟鱇★:2010/09/23(木) 11:23:54 ID:???0
  ■書き込み大賞の詳細告知移動のお知らせ■

次回の書き込み大賞(2010年10月1日スタートの第6R)より、
大賞の詳細告知は、以下の専用スレッドで行います。
  ●●●書き込み大賞・賞金総額?万円●●●
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1285206953

81闇夜の鮟鱇★:2011/06/01(水) 11:15:05 ID:???0
  ●●●大和三山歌1200年の疑問と論争に決着をつける道●●●(1/3)

『書き込み大賞』で専用のスレッドを用意した結果として、
この無差別級のスレッドがようやく空きましたので、暫くの間、
ここを古典講読用の書き込みに使うことにしたいと思います。
で、その古典講読ですが、今年度は万葉集の講読が始まりましたね。

私の知る限り、この放送枠で万葉集を扱うの始めてのような気もしますが、
今回の講師はその話し方にメリハリが効いていて、中々の名演ですね。
今までの私の印象としては、古典の講師というのはどうしても、
眠くなるような話し方をする人が少なく無いですからね。(^^;)

さてそれで早速、本題ですが先日行われた六回目の放送では、
大和三山の歌に関して詳しく触れられていましたね。
その中で、この三山についての長歌をどう解釈するかに関し、
長い間、論争が続いている、という話が耳に残りました。


因みに、長歌というのは短歌が主流として定着する以前に、
万葉時代の日本ではやった古代詩型の一つで、575757……と続くわけですね。
  親魄に逢う蔵書
  http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/26707985.html
  香具山は 畝傍を愛しと
  耳成と 相争ひき
  神代より かくにあるらし
  古も しかにあれこそ
  うつせみも 妻を争ふらしき

ここでは『香具山と耳成山が畝傍山を巡って三角関係の争いを繰り広げる』
という大和三山を擬人化した物語が取り扱われている分けですが、
その場合『香具山と耳成山が男で、女の畝傍山を取り合う』という説と、
逆に『香具山と耳成山が女で、男の畝傍山を取り合う』という両説が、
古くからあって、論争の的となっているんだそうです。
その辺の具体的な話としては、例えばこんなサイトが参考になりますね。
  三山歌「雄男志」考
  http://www.ic.daito.ac.jp/~hiyo/soturon/WordFORM.doc

その点では他にも様々な説があるようですが、因みに、つい最近、
私が見た能の演目で『三山(みつやま)』というのがあったんですね。
そこでは何と、香具山が男で耳成山と畝傍山が女という設定でした。
その場合、香具山は最初、二人の女を愛人にして二股を掛けていたんですが、
その内、若い畝傍山にばかり通い、耳成山には行かなくなったんだそうです。


その結果、耳成山は嫉妬に狂い、池に身を投げて死ぬという展開でした。
後は、能の展開の通例として、その耳成山の女が亡霊となって現れ、
畝傍山の亡霊と女の争いを繰り広げますが、上人が霊を弔った結果、
夜明けと共に亡霊は成仏して消える、といった話だったと思います。

まあ、大和三山の三角関係の脚色は色々あり得るということでしょうかね。
で話を元に戻しますが『万葉時代の女は、その後の時代よりずっと強かった』
という観点から、民俗学者などは女性上位的な発想に立ち、ここはあくまで、
『二人の女が一人の男を取り合っている』と考えたいのかもしれません。

ただ、問題は更にあって、この長歌には二つの反歌が続く分けです。
反歌というのは有名な57577の形式で、後に独立して短歌となる分けですね。
  香具山と 耳成山と 闘(あ)ひし時 
      立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)
  海神(わたつみ)の 豊旗雲(とよはたぐも)に 入日さし 
      今夜(こよい)の月夜(つくよ) あきらけくこそ

82闇夜の鮟鱇★:2011/06/01(水) 11:17:19 ID:???0
  ●●●大和三山歌1200年の疑問と論争に決着をつける道●●●(2/3)

但し、第二反歌の末尾については様々な読み方があって、
これまた混乱を極めているようです。
古典講読では、ここを『さやけかりこそ』と読んでいましたけど結局、
何が問題かというと、いわゆる万葉仮名というのが徹底していなくて、
その大半は表音文字なのに、一部では表意文字を使っている分けなんですね。

最初から全て表音文字で統一すれば、こんな混乱は起こり得ない分けですが、
今更、万葉人に苦情を言っても始まりませんかね。(^^;)
具体的にいうと、元の表現は『清明己曽』となっていて、
後半の『己曽』は表音文字で『こそ』となるのに対し、
前半の『清明』が表意文字なので、読み方が人によってまちまちな分けです。

次のサイトでは斎藤茂吉の文章を縦書きで表示していますが、
制×F3キーで検索窓を開き『とよはたぐも』を入れると詳しい解説が出ます。
あとはマウスのグリボタン(第三ボタン)で前後に流せますよね。
  万葉秀歌 斎藤茂吉
  http://www.utakura.com/textworks/manyoshuka.htm


その場合、先ず第一反歌は『播磨国風土記』という古文書にある逸話で、
『出雲の阿菩大神(あぼのおおかみ)が、大和三山の争いを仲裁しに行った所、
印南国原に差しかかる頃には争いが終わったので、その場所に鎮座した』
という言い伝えを踏んでいると解釈するのが通例のようです。

そして、第二反歌は、それだけ独立しても良く知られていますが、
例の『朝鮮半島の百済を助ける為に日本が出兵し、
唐と新羅の連合軍と戦って敗れた』という白村江の戦にあたって、
中大兄(なかのおおえのおうじ)、即ち後の天智天皇が、
出陣前の船上で詠んだというのが、今では定説になっているそうです。

問題は、先の長歌と第一反歌が大和三山の話を扱っているのに、
どうして突然、こんな海の歌が出てくるんだという点にあって、
そもそも、万葉集にこの歌を採録した人自身が理解できずに、
『二つ目の反歌は、反歌として相応しくない』とか書いている分けですね。


でも……第二反歌が出陣の歌であるとそこまで分かっているのなら、
後は素直に読めば、簡単に解決がつく問題のように私には思われます。
つまり、長歌と第一反歌に重心をおいて、
第二反歌を解釈しようとするから、分けが分からなくなる分けですね。

ここはむしろ、第二反歌に重心をおいて全体を見直せば、
三つの歌の関係は、自ずから明らかになるのではないでしょうか。
というのも、第二反歌が白村江の戦に向けて出帆する時の歌であるとすると、
最初の長歌は戦争肯定論、ないしは戦争不可避論として読めますよね。

つまり、朝鮮半島への影響力をめぐって日本と中国が争う構図を、
畝傍山を巡って香具山と耳成山が争う構図に重ねて見ている分けですね。
そして『こういう争いは昔からあったのだから、現代においても、
この戦いは不可避なんだ』と主張していると解釈できる分けです。

83闇夜の鮟鱇★:2011/06/01(水) 11:20:03 ID:???0
  ●●●大和三山歌1200年の疑問と論争に決着をつける道●●●(3/3)

とすると、第一反歌の方は『本当は誰か仲裁してくれるといいんだが……
仲裁に来てくれないかな』という密かな願望と解釈すべきでしょうね。
つまり、もう戦う前からそういう弱気な心理だった分けですから、
『この戦争は、やる前から負けると決まっていた』
と見ることも出来そうですよね。(-_-;)

ただ、当時の唐は、言うまでもなく日本より遥かに巨大な国で、
しかも、文明はずっと進んでいた国と知られていた分けでしょ!?
その大唐を敵に回して、当時の日本が戦うとなれば、
多少の迷いやためらいがない方が不思議とも言えるでしょうね。

で、仮に長歌をそうした戦争不可避論と見なす場合、
『畝傍山が男である』なんていう説は当然、却下でしょうね。
というのも、戦争をするのは大体が男と相場が決まっていますから、
ここはどうしても、男同士の香具山と耳成山が、
女である畝傍山を取り合う、と解釈する必要がある分けです。
これで長年の論争も、一件落着ではないでしょうか。(*^^)v


ところで話は更に飛びますが……この大和三山に関しては、
『天の香具山は天から降った来た』という逸話があるそうですね。
  釈日本紀に引用する伊豫国風土記逸文
  http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/21.htm
  倭に天加具山あり(やまとに あめのかぐやまあり)。
  天より天降りし時(あめより あもりしとき)、
  二つに分れて(ふたつに わかれて)
  片端は倭の国に天降り(かたはしは やまとのくにに あまくだり)
  片端はこの土に天降りき(かたはしは このくににあもりき)。
  因りて天山と謂ふ(よりて あめやまといふ)。

で、私が昔から疑っているのは、この三山が実は自然の山ではなく、
人工の山なんじゃないかということなんですね。
言い換えると、それらは有史以前の古代の大王が残した、
古墳群ではないかということなんです。

その点では、例えばエジプトでも古代の王が残したピラミッドが、
今知られている他にも色々あるんじゃないかと疑われていて、
それで大がかりなX線解析装置を砂漠に持ち込んで捜す、
という試みが行われているという話を聞きました。


ですからもし私に十分な資力があったら、
大和平野にそうしたX線解析装置を入れて、
大和三山を照射してみたいところですね。

そうしたら、内部の石棺が透視されるんじゃないかと、
私は密かに期待している分けですが……
日本古代史のロマンとして、まだまだ尽きない魅力を、
この地域は抱えているのではないでしょうか。

もっとも今、改めてwikipediaで調べてみると、耳成山に関しては、
既に『古代大君の御陵と伝わる上円下方墳』という説がある一方で、
畝傍山は『火山岩が侵食されて、その一部のみが残存した侵食地形』
とかあって、問題は思ったほど単純ではないのかもしれません。(^^;)

84闇夜の鮟鱇★:2011/07/13(水) 09:36:35 ID:???0
  ●●●宇宙の外側に何があるのか?●●●(1/4)

そろそろ夏休みということで、今回は少し高級な話をしようと思います。
もっとも、いつも話していることだって結構、高級な話なんですが、
その辺のことは、もうお分かりの方は既にお分かりですよね。(^^;)
さて、例の『ごきげんよう』の番組で小堺一機が、
宇宙の外側の話をしていたのは、確か二年前の夏頃でしたかね。

書こう書こうと思っている内に色々とゴタゴタが続いて、
とうとう、こんなに遅くなってしまいました。
その時『宇宙が丸い形をしている』とか言う話題に関して、
『ならその外側には何があるんだろう』と疑問を呈していた分けですね。
で、今回のテーマは、その場合、真の問題は何かということなんです。

その場合、何が問題かというと、本当の問題は宇宙の構造にではなく、
『そういう疑問を出す脳味噌』の方にあるんですね。(^^;)
今では既に使い古されて、手垢のついた言葉になりましたが、実は、
『パラダイムの転換』ということが、この問題の核心にある分けなんです。
別の言い方をすると『そういう疑問を出す脳味噌では、未だに、
パラダイムの転換が済んでいない』ということになります。


で、問題の出発点は『空間が歪んでいるという状況を理解することが、
我々の脳味噌では、大変に困難である』ということにあります。
でも、それは素人に限らず、専門家にしても全く同じことなんですね。
つまり、物理学者にしても数学者にしても、そうした状況を、
数学的な類推に頼って理解しているに過ぎません。

例えば平面にコンパスで半径rの円を描くと、その面積が、
πr^2になるということは、最近は中学位で知ってますかね。
(ここで『r^2』と書いたのは、rの二乗という意味です。)
そこで今、仮にサッカーボールの表面に円を描くとどうなるでしょうか。
その場合の面積がπr^2よりも小さいことは、
サッカーボールを作る工場の工員なら体験的に知っているでしょうね。
というのも、ボールを丸める過程では余った皮を切り捨てるからです。

さて、そこで次の問題として、馬の鞍の上に円を描く場合はどうでしょうか。
これまた、馬の鞍を作る工場の従業員なら自明でしょうけど、
あの形にするには、平面の皮に少し皮を継ぎ足す必要があるわけですね。
実際は、皮を継ぎ足す代りに、周囲の革を叩いて引き延ばす、
なんていう作業をやっているかもしれませんが……。


という分けで、サッカーボールのように歪んだ面では、
円の面積が平面よりも小さくなり、馬の鞍のように歪んだ面では、
円の面積が逆に平面よりも大きくなることが分かったと思います。
そこで次は、同じことを空間についても考える分けです。
今度は、空間の中にrという直径を持つ球体を作り、その体積を考えます。

そして仮に、空間も歪むことがあると仮定すると、少なくとも数学的には、
ここでもボール型に歪んだ空間と、馬の鞍型に歪んだ空間があり得ます。
その時、rという直径の球体の体積は、平らな空間と比較した場合、
ボール型の空間はより小さく、馬の鞍型の空間はより大きくなります。
問題は、我々が住んでいる実際の宇宙空間がどうなっているかなんですが、
少なくとも原理的には、これも数学的な類推から結論を導くことが出来ます。

具体的には『仮に宇宙の星が空間に一様に分布していると仮定し、
直近の空間でその密度を求めたら、ある半径の中にある星の数を数えて、
その空間の体積を推計する』という手続きを踏むと、我々の宇宙空間が、
実際、どういう歪み方をしているかが分かることになります。
なら、我々の住んでいる実際の宇宙がどうなのかという点に関しては、
まだ最終結論は出ていなかったと思います。

85闇夜の鮟鱇★:2011/07/13(水) 09:38:38 ID:???0
  ●●●宇宙の外側に何があるのか?●●●(2/4)

で、良くSFなどでは『仮にボール型の宇宙であった場合に、
同じ方向にどこまでもどこまでも真っ直ぐに進んで行くと、
いつかは元の場所に帰ってくるはずだ』なんていう話をする分けですね。
それは、たとえばサッカーボールのような二次元の面上を、
蟻が同じ方向に歩いて行くと、いつかは必ず元に戻ってくる、
ということの類推で考えれば良い分けです。

さて、そこで問題は最初に戻る分けですが、
仮に我々の宇宙が、ボール型に歪んでいたとして、
『そのボールの外には何があるんだ』という疑問が、
何故生じるかということなんですね。

それは結局、我々の感覚に深く刷り込まれた認識の仕方が問題なわけで、
『宇宙が丸い形をしている』という話を聞いた時に、
自動的に『平らな空間の中に丸い宇宙をおいて考える』
ということをしているわけですね。


つまり、平らな空間というものが実在するという無言の前提に立ってしか、
我々はものごとを考えられなくなっている、ということなんですね。
それは結局、我々が生まれてから今までに経験した空間というものが、
ほぼ完全に平らな空間だからなんですね。

ところが、宇宙というものをその巨大なスケールにおいて観察する時は、
もはや、その常識が通用せず、歪んだ空間を考える必要が生まれます。
しかし、我々は歪んだ空間を直感的に体験する機会がないから、
空間はいつでも平らなものだ、と思い込んでしまっている分けです。

でも、仮に我々の住む宇宙が歪んでいるということが事実であるなら、
もはや『平らな空間の中にボールのような宇宙を置いて考える』
ということ自体、意味がないことなんですね。
問題は、全ての存在を平らな空間の中に置いて考えようとする、
旧式な脳味噌にある分けです。


つまり、単に我々の住む宇宙が歪んだ空間なのであって、
それ以上でもそれ以下でもないというか……
宇宙と言う存在が歪んでいる以上、
その外に何があるか、と問うことは無意味なんです。

平らな空間というものは、確かに数学的にはあり得ますが、
現実にはどこにも存在しないのだということ、
よって『我々の住む宇宙の外』という概念は無意味である、
ということを理解する必要が有ります。
それが分かって始めて、我々の脳は近代物理学の世界を理解し、
パラダイムの転換を果たした、と言えることになる分けです。

(因みに、今持ち出した『数学的な平らな空間』というものは、
三次元の歪んだ宇宙をその中に置いて考える以上、
正確には四次元以上の空間を想定する必要があります。
この辺も、我々の脳味噌の直感では理解しがたいことですよね。)

86闇夜の鮟鱇★:2011/07/13(水) 09:40:54 ID:???0
  ●●●宇宙の外側に何があるのか?●●●(3/4)

実をいうと、そういう旧式な脳味噌を持っていて、
間違った考え方をする人は、一般の素人だけでなく、
偉い哲学者にもいる(いた)分けですね。
例えば、カントという哲学者は『純粋理性批判』という書物の中で、
空間というものを『先験的存在』と考えました。

つまり、彼の場合は、神の存在を信じて疑いませんから、
経験に先立って神が存在すると考える分けです。
それと同じレベルで『真っ直ぐに広がる空間』がある、
と主張する分けですが、そういう脳味噌で考えると、
当然『丸い宇宙の外側には何があるんだ』ということになりますね。

その点『我々の経験の外には何もないのだ』ということを、
イギリスの経験主義哲学では主張する分けですが、
私もそれが正しいと思います。
その意味で、平らな空間という概念にしても、
『我々がオギャアと生まれて以降、経験した全ての事象』
から生み出される仮の認識に過ぎないと言えます。


似たようなことで言うと、数学においては、
『1たす1が何故2になるのか』という問題がありますね。
これは経験に先立つ普遍的真理なんでしょうか!?
私は、これまた生まれて以来の経験の総体から生み出される、
経験則の一つに過ぎないと思います。

例えば、小学校の先生が生徒に算数を教える場合、
『林檎がここに一つあり、隣にもう一つある、
この一つとあの一つを合わせると二つの林檎になる、
だから1たす1は2だ』という教え方をしますよね。
結局、それが全てなんですね。

そうした経験を何度となく繰り返し、
膨大な記憶がわれわれの中に蓄積される中で、
『1たす1は2である』という確信が、
われわれの頭の中に生まれてくる分けです。


これは実は『数学は自然科学であるか否か』
という哲学上の大問題とも関係する分けですが、
少なくとも私の立場では『数学は間違いなく、
自然科学の一部である』ということになります。

数学が自然科学ではないと主張する人は、
結局『1たす1が2である』ということを、
経験に先立つ絶対的な真理とみなすわけですから、
カントと同じ先験主義の過ちを犯すことになりますね。
因みに『真っ直ぐに広がる空間が、
経験に先立つ宇宙のあり様である』という主張は、
歪んだ宇宙という観測的事実によって、具体的に否定されます。

例えば、ブラックホールの回りでは空間が歪むので、
星の光がレンズを通すように曲がって届くという話は、
最近のニュースではもうお馴染みですよね。
それに対し『1+1=2が経験に先立つ真理である』
という主張を否定する場合、それなら、
『1+1=2でない世界』があり得るのか、
という疑問が生じると思います。

87闇夜の鮟鱇★:2011/07/13(水) 09:43:00 ID:???0
  ●●●宇宙の外側に何があるのか?●●●(4/4)

その場合、一番考え易いのは、固体が存在しない世界ですかね。
液体と気体だけからなる世界では、一つ二つと数えること自体、
余り意味がなくなるでしょうからね。
無論、一滴二滴と数えることは出来ますが、その場合、
『一滴たす一滴は一滴』ということになりますよね。(^^;)

つまり、1+1=2という公理的な認識自体が実は、
固体のようなものが存在する世界での経験から導かれた、
一つの経験則であるということになると思います。

ところで最近、見た映画に『メトロポリス』というのがありましたが、
これは戦前のドイツ映画で、無声映画の傑作とされる作品でした。
私には、それほど大騒ぎするほどの代物とも思えなかったんですが、
実は、監督のフリッツ・ラングというのが改宗ユダヤ人だそうですから、
それで、例のユダヤびいきがあるのかもしれませんね。


ただ、この映画で私がひとつ気になったのは、
『頭と手をつなぐものは心でなければならない』という表現でした。
実は、これはこの映画の中心テーマに他ならなくて、
頭としての資本家と、手としての労働者の和解を描く物語は、
ヒットラーの受けも良かったそうです。

まあ単純に考えれば、そのテーマの意味する所は、
感覚的には、我々にも何となく分かりますよね。
つまり『資本家と労働者が対話を通じて相互理解する』
ということを『頭と手を心でつなぐ』と表現したんでしょうね。

その場合『資本家は頭、労働者は手』という単純化も、
少し引っ掛かりますが、それはともかく、我々日本人からすると、
頭・手・心という三分法が何とも不可解な感じがした分けです。
まあ、近代では日本人も肉体と精神という二分法には慣れたので、
頭(精神)と手(肉体)を対置する発想は無理なく受け入れられると思います。


でも、頭と心を対置して考えるという発想はどうなんでしょうか。
頭を理性、心を感情と言い換えれば、少しは分かり易いですが、
理性と感情は脳の二つの機能ではあっても、頭と心を、
二つの実体と見なす発想は、日本人には余り馴染みがないでしょうね。

つまり、我々の常識では脳の働きとして理性と感情の二面がある分けで、
理性(頭)と感情(心)を独立した別個の存在として把握するのは、
かなり無理があるように見えます。
実はこの映画の脚本家が、フリッツ・ラングの妻であるドイツ人なので、
ここにはドイツ的な発想が濃厚に反映されているのかもしれません。

つまり、頭・手・心という三分法がドイツ的な形而上学であるというか、
その辺の形而上学的な理解の仕方が、いかにもドイツ的という感じですね。
ヨーロッパでは、大陸の合理主義と英国の経験主義という分け方をしますが、
東洋でも大陸の中国が合理主義で、島国の日本は経験主義という二分法が、
大体は当てはまるような気がします。
この辺にはやはり、地形的な影響があるのかもしれませんね。

88闇夜の鮟鱇★:2011/07/19(火) 09:53:35 ID:???0
  ●●●放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●

最近、ビデオで『カエサル −「ローマ人の物語」より−』
という演劇を見ましたが、これはローマの英雄、
ユリウス・カエサルの年代期を、ほぼ忠実に辿ったドラマでした。
でも、演劇として見た場合、それ自体は大したことがないというか……
西洋史の一つの転換点とも言えるカエサル暗殺という大事件に関し、
取り立てて新しい視点を提供してはいるようには見えませんでしたね。

で後から、古代ローマ史を改めて少しひも解いてみたわけですが、
結局、カエサルが元老院による支配を滅ぼしたことは『ある意味で、
先進的だった当時の共和制政治の、終わりの始まり』だったようですね。
つまり、ここからローマは帝政へとすべり落ちて行った分けです。
ただ……こうして共和制の起源を調べている内に、
それが始まった紀元前6世紀末という時代が、
孔子やブッダが活躍した頃と重なるという事実に気づいた分けです。

中国とインドの遠く離れた場所で、
同時期に天才が出現した偶然については、
既に、色々な人が注目していますけどね。
実はローマの共和制も、同じ頃に始まっていたとなると、
これは単なる偶然では済まないような気がした分けです。
そう、もう一人、ギリシャでピタゴラスが活躍したのも、
ほぼ同時期ですよね。


で、一つの可能性として私が思いついたのは、
ひょっとすると、当時は何らかの原因で、
地上に降り注ぐ放射線が特に多かったのではないか、ということでした。
『妊娠中に適度な放射線を浴びた母親からは、健康で頭の良い子が産まれる』
とか例の稲氏が言っていたのが、頭に引っかかっていた為かもしれません。

でも、そうした放射線によるホルミシス効果の結果として、
当時の世界では、人間の知的レベルが全体的に向上し、
ローマに共和制が出現する一方で、インドや中国においては、
孔子やブッダのような天才が出現した、と考えるのは面白い仮説ですよね。
そこから更に思い至ったのが、第二次大戦後の状況でした。

あの時代の音楽では、ビートルズに始まって、日本を含めた全世界で、
多くの天才が出現した分けですが、その後の停滞と比べると印象的ですよね。
今までの私は、あの時代の文化的興隆を『ユダヤ主義による洗脳支配が、
戦後の混乱期に一時的に緩んだ結果だろう』位に考えていた分けですね。
でも……今回の発想からすると、ひょっとしてあれもまた、
放射線のホルミシス効果によるものではないか、と気づいた分けです。


その場合、原水爆実験による放射線のピークが1960年前後なのに対し、
ポール・マッカートニーやジョン・レノンは大戦中の生まれですからね。
彼らの母親ではなく、彼ら自身がその成長期に浴びた放射線の影響が、
大きいという風に考える必要があるでしょうね。
つまり、その成長期に適度な放射線を浴びると、
ホルミシス効果によって天才が生まれ易い、と言うべきかもしれません。
で、こうなると気になるのが『紀元前6世紀末頃の自然放射線が、
本当に多かったのかどうか』ということですよね。

それを知る手がかりが何かないかと思うんですが、
良いアイデアはありませんかね。(^^;)
近年は、考古学でも『炭素14による年代測定』だの、
『標準年輪曲線による年代決定』だのと、
様々な科学的手法が編み出されていますよね。
それと同様に、過去の自然放射線の増減についても、きっと、
それを知る手がかりが、どこかにあるだろうと思うんですが……。

他方、もし放射線ホルミシス効果に関するこの仮説が正しいとすると、
ユダヤ主義がホルミシス効果をやっきになって否定する真の狙いも、
ひょっとすると、この辺にあるのかもしれませんね。
つまり、少し前には『原発反対運動を盛り上げて、
共産主義シンパをオルグする』のが狙いだろうと書きましたけどね。
むしろ、ユダヤ主義がこうしたホルミシス効果のことを知った上で、
『その効果により、世界的に人間の知的レベルが向上したり、
天才がどんどん輩出する状況が、ユダヤ支配には不都合である』
と考えている可能性も、否定できないのではないでしょうか。

89闇夜の鮟鱇★:2011/08/03(水) 11:07:26 ID:???0
  ●●●血みどろの明日香●●●(1/2)

万葉集の古典講読も、そろそろ佳境に入って来ましたが、
最近の第16回では、吉野の歌が色々と取り上げられていましたね。
その中で、天武天皇の有名な歌が出て来たんですが、
それが六皇子盟約の時に作られた、という話が少し意外でした。
  淑人乃(よきひとの)
  良跡吉見而(よしとよくみて)
  好常言師(よしといひし)
  芳野吉見与(よしのよくみよ)
  良人四来三(よきひとよくみつ)

因みに、最後の部分を『よきひとよくみ』として命令形に取り、
『現代の良き人も良く見なさい』と解釈していたのが気になりました。
私が覚えていた形だと、ここは『よきひとよくみつ』だったはずで、
歌の格からしても、それには遠く及ばない気がします。
つまり『過去の良き人は良く見たのだよ』と、
前半の内容を繰り返す方が、歌として遥かに味が出る分けですね。
近年の研究で、何か『よくみつ』を廃すべき理由が見つかったのかと思い、
ネットを色々あさってみましたが、これといったデータは出ませんでした。

ところで、天武天皇というのは、以前に引用した天智天皇の実弟で、
天智天皇の死後に即位するはずだった大友皇子に対し、
壬申の乱を仕掛けて、権力を奪取した人物である分けですね。
その彼が、自分の後継候補である6人の皇子を集めて、
『今後は争いをやめよう』と誓約させたのが、
問題の六皇子盟約であるようです。


でも……自分は武力で権力を奪取しておきながら、
自分の後継者たちには『仲良くしろ』と誓約を迫るのは、
いかにも虫の良過ぎる話のような気もしますよね。(^^;)
実際にも、彼の死後にはすぐに争いが起きてしまい、
最有力の後継者だった草壁皇子への脅威と見なされた大津皇子が、
謀叛の疑いで自殺させられる分けですね。

実はその頃、大津皇子の母は既に亡くなっていたので、
真相は『草壁皇子の母(後の持統天皇)が画策した謀略によって、
大津王子は、はめられのだ』という見方が根強いようです。
その場合、自分の息子を確実に皇位に付ける為に、
彼が邪魔だったと解釈するのが通説ですね。
何しろ、この持統天皇という女帝は相当のやり手で、
そもそも、壬申の乱の原因にしても『夫をそそのかして、
実際に仕組んだのは彼女だった』という説がある位ですからね。

仮に天武天皇が、その手のお人好しだったとすれば、
あんな歌を作って六皇子盟約を結ばせた経緯も、
案外、納得が行くような気がします。(^^;)
その歌からしても、天武天皇という人は繊細というよりは、
豪快な人物のように思えますし、となると、
ねちねちと陰謀を巡らすには相応しくないような気がします。


例の六皇子盟約自体、持統天皇を六人の皇子の母親と位置づけて、
天武の死後は彼女を中心にまとまるようにと指示している点など、
彼女の意図が色濃くにじんでいるようにも読めますね。
そうした点から、大津皇子の謀殺説も出てくるのでしょうが、
ただ、彼女が残した万葉歌を色々読み直してみると、
そこまでの悪女と考えるのは、私は気が進まなくなりました。(^^;)

ただ、そうは言っても『親子兄弟が血で血を洗う権力闘争』が、
この明日香という時代に、日常的に繰り返されていたのは事実のようですね。
その点では、例えば明日香にある酒船石にしても、あれは恐らく、
『生贄を殺して、その血をあの水路に流す』みたいな血なまぐさい儀式に、
使われたものではないか、というのが私の印象なんですけどね。

結局、既に西暦538年には日本に仏教が伝来していたとは言え、
その教義が実際に浸透するまでには、かなりの時間を要したんでしょうね。
つまり、奈良時代に仏教の地獄極楽思想が広まると共に、凶悪犯罪が激減し、
平安時代には死刑すら必要としない時代になった、という分けですけどね。
政争による死刑は、810年の薬子の乱で藤原仲成が殺されるまで続き、
その後、盗みに対する死刑を廃止したのが818年と言われますから、
仏教伝来から数えると丁度、280年かかったことになりますね。

90闇夜の鮟鱇★:2011/08/03(水) 11:10:18 ID:???0
  ●●●血みどろの明日香●●●(2/2)

それから、これはもう大分前になりますが、第11回の時に、
平城京の大通りを歌った旋頭歌を取り上げていましたね。
旋頭歌というのは577・577という形式の和歌で、
短歌に比べると7文字多いことになります。
  うちひさす 宮路に逢ひし 人妻故に
  玉の緒の 思ひ乱れて 寝る夜しぞ多き

気になったのは、これをナンパの歌と解釈し、
大阪の引っかけ橋まで引き合いに出していたことです。
つまり『この歌の作者は、都大路で出会った女性に声を掛け、
話をした結果、彼女が人妻と知った』みたいな解釈ですね。
ならば、平城京の時代に既に自由恋愛があったということになりますが、
いくらなんでも、それは少し無茶な解釈のように思われました。

というのも、次の平安時代になると、女は男の前には、
一切、顔をさらさなくなるわけですからね。
例えば、清少納言などは、自分の部下の不手際により、
男たちに自分の姿を見られた時、ひどく憤慨していますからね。
その意味で、平安時代の恋というのは、実際の姿に恋をするというより、
『どこそこの娘は美人だそうだ』という噂に恋する時代だった分けですね。


源氏物語にしても、男が女の姿を直接目にするのは、
ごくごく稀な偶然に過ぎないわけでしょ!?
例えば、突然の風が吹いたり、飼い猫が紐を引っ張ったりして、
御簾(みす)がめくれあがる場合に過ぎない分けですからね。
そこから逆に考えると、平城京のあの歌が出来た経緯にしても、
決して『人妻に直接、声を掛けた』なんていうことではなくて、
大通りで輿(こし)か何かに乗った人妻を偶然、見かけたんでしょうね。

恐らく当時は、まだ女の側のガードが甘く、平安時代のようには、
男の目から完全に隔離されては、いなかったのではないでしょうか。
色々調べてみると、奈良時代にはまだ牛車は無かったようですから、
その点でも男の目には触れやすかったのかもしれません。
当時の移動手段は、貴人の場合は人が担ぐ輿に乗ったようですが、
後は驢馬に横座りで乗るか、歩くかするしかなかったみたいです。

その場合、その女性が人妻であるかどうかということは多分、
その服装や化粧の様子から、十分に分かったのではないでしょうか。
でも、こうして見初めた人妻に男がちょっかいを出すトラブルが続発し、
そうしたことがひとつの切っ掛けとなって、次の平安時代には、
女が完全に姿を隠すようになったのではないか、という気がします。


何と言っても、いわゆる自由恋愛なんていうものは、
近代日本でも戦後になってからのことですからね。
大昔にそれがあったというのは考えにくいでしょうね。
その場合、ならば以前に私が引用した柿本人麻呂の歌などは、
一体どう解釈するのか、ということになるかもしれません。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1162001315.html#4
  恋するに 死にするものに あらませば
  我が身は千たび 死にかへらまし

一つの問題としては、田舎と都会との落差がありますね。
多分、田舎で泥まみれで働く農民の場合は、まだ直接、
声を掛けるチャンスもあったのではないでしょうか。
でも、都会で洗練された暮らしをするようになると、
そういったチャンスは、どんどん減っていくような気がします。

ただ……田舎には大した美人はいないでしょうし、人麻呂の相手が、
そうした農民たちだったと考えるのは、やはり難しいでしょうね。
実は、彼が活躍した時期は、ほぼ持統朝と重なりますから、
或いは、そうした女帝の時代には、宮廷周辺で女漁りをすることも、
案外、許されていたと考えるべきなのかもしれませんね。(^^;)

91闇夜の鮟鱇★:2011/09/30(金) 10:37:12 ID:???0
  ●●●東歌の起源について●●●(1/3)

さて、久々に古典講読の万葉集についてですが、今回は先ず、
東歌の由来について、私が感じたことを書いてみようと思います。
この東歌に関しては、当時の民謡であるとか、労働歌であるとか、
様々な人が様々な意見を言っているようですけどね。
でも先ず、ハッキリしていることは、それを民謡だとか、
労働歌だとか考える説は、全く駄目だろうということです。

なぜなら、もしそれが本当の民謡や労働歌であるなら、
57577という短歌形式におさまるはずがないからです。
近代の民謡や労働歌にしたって、57577にはなっていないでしょ!?
で、私が最近、考え始めているのはこういうことです。
結局、今までの私は『和歌が時間と共に東国へと伝播して行って、
その結果、東国の各地では自然発生的に和歌が作られていたが、
それを、誰かが収集・採録したものが東歌である』
という風に考えていた分けですけどね。

でも、今回の講読の内容を色々聞くにつけ、どうも、
そうではないんじゃないかと気がついた分けです。
むしろ、これは割と短い期間に、狭い地域内において、
一気に作られた作品群と考えるのが良いように思います。
使われている方言にバラエティが少ないという事実にしても、
そうしないと、うまく説明できないですしね。


他方、この東歌というものは私が少し調べた限りでは、
短歌ばかりで、長歌は見当たりませんね。
(旋頭歌については、あったのかもしれませんが、
一々語数を数えなかったのでハッキリしません。(^^;))
もし、東歌が東国で自然発生的に作られていたものなら、
その中に長歌がないというのは、何とも不自然ですよね。

で、そうした疑問を解決する為に、次のように考える分けです。
例えば、梁塵秘抄を編纂した後白河院の例もあるように、
いつの時代にも、文芸好きの天皇がいた可能性がありますよね。
その時、東国にくだる役人が万葉集編纂の話を聞きつけて、
『東国の人々も和歌を作って天皇に献上するように』
と命令したとか、或いは推奨したのではないでしょうか。

その場合、当時の東人は、まだまだ生活の為の労働に手一杯で、
和歌なんてものにはまるで縁がなかったのでしょう。
ですから、役人は『短歌というものはこうやって作るんだよ』
と言って、自分で幾つかを作って見せたのではないでしょうか。
冒頭の五首は『方言も少なくて都の人が作ったとも見られる』と言いますが、
その五首がまさに、役人が例示した作品ではないかという気がします。


例えば、その三首目にある『自分は絹の下着も持っているけれど』
なんていう所は、実際に絹の下着を着た経験のある、
都の貴人でないと、なかなか出て来ない発想ですよね。
  http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/mny1401.htm
  筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも

そういう分けで、この東歌というものは、
案外短い期間にまとめて作られたものであり、それを実際に作った人々も、
役人の出先期間の周辺に住む人々に限定される、と考えるわけです。
これなら、その方言にバラエティが少ないことも説明できますし、
東歌に長歌がひとつもないことも、納得が行きますよね。

で、仮にそう考える場合、東人たちが短歌を作らされるにあたって、
自分たちの持つ知識を総動員したであろうことは、想像に難くないですよね。
つまり、短歌の材料として、当時はやっていた民謡や労働歌、更には、
誰もが知っている伝説などを利用したのはしごく当然でしょうね。
ですから、形式は57577であっても、内容的には民謡みたいだったり、
労働歌みたいだったりするものが沢山あるんでしょう。

92闇夜の鮟鱇★:2011/09/30(金) 10:41:31 ID:???0
  ●●●東歌の起源について●●●(2/3)

東歌の次のテーマとして、今度は防人の歌が取り上げられていますが
実は、その防人の大半も東国の出身で、その歌は東国を立ってから、
難波の港を出るまでに作られたものだという話が出ていました。
とすると、そうした防人の歌が作られたのは、
短歌を作る習慣が東国に根付いた後の時代、つまり、
例の東歌が作られた後の時代と考えないと辻褄が合いませんよね。

その意味では、両者の時間的な前後関係が気になりますが、
実は、その防人の歌を採録したのが大伴家持なんだそうです。
彼は万葉集の中でも最後尾にあたる第四期の歌人ですから、
防人の歌にしても、万葉集の中では最も新しい部類に属すると見れば、
その点でも、矛盾が生じることはないように思います。
  防人の歌(万葉集を読む)
  http://manyo.hix05.com/shomin/shomin.sakimori.html

つまり、東歌が採録された後、東国にも次第に和歌が定着する中で、
東国出身の防人には、和歌の心得のある者がいたということになりますね。
その防人には、インテリが多いという話も出ていましたが、
当然ながら、和歌を作る素養があるとなれば、作者の多くは、
防人の中でも、将校クラスの人物ということになるんでしょうね。


ところで、東歌ではひとつ疑問が出されていましたね。
  竹取翁と万葉集のお勉強
  http://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/6de132e85416ba04782fbc54bc61a24e
  筑波祢尓(つくばねに)
  由伎可母布良留(ゆきかもふらる)
  伊奈乎可母(いなをかも)
  加奈思吉兒呂我(かなしきころが)
  尓努保佐流可母(にのほさるかも)
(筑波山に雪が積もったのかなあ。いや、そうではなくて、
いとしいあの子が、沢山の布を干したのかなあ。)

その場合、これは実景として『雪』を見ているのだという説と、
『干した布』を見ているのだという説と、二説が対立しているそうです。
その意味では『かも』が両方に付いているのがポイントかもしれません。
ですから、どっちが実景でどっちが譬喩か区別がつかなくなる分けですね。
でも、更に良く見ると、雪につく『かも』に関しては、
『雪ではないかもしれない』としか解釈のしようがありませんが、
布につく『かも』に関しては、布自体ではなくて、
布を干している人にかかる、と見る手がありますよね。

つまり『布ではないかもしれない』と解釈する代りに、
『実際に白い布が干してあるが、それを干したのは、
いとしいあの子ではないかもしれない』とする分けですね。
そういう風に解釈すれば、この歌はやはり雪が幻想で、
布が実景とみる方が自然ということになりますが……
これは、ちょっと無理なこじつけでしたかね!?(^^;)


それから、少し前になりますが、熊野に関する歌で、
例の柿本人麻呂が作った歌が紹介されていましたね。
  三熊野之(みくまのの)
  浦乃濱木綿(うらのはまゆふ)
  百重成(ももへなす)
  心者雖念(こころはおもへど)
  直不相鴨(ただにあはぬかも)
(み熊野の海岸に咲く浜木綿が百重をなして咲くように、
私の心も幾重にも重ねて、あなたのことを思っているのに、
どうしても、直接あなたに逢えないのはつらいことです。)

>>90 では『柿本の人麻呂の恋の相手は、農民でなく貴族だろう』
と書きましたが、この歌の内容からしても、
こうして簡単に逢えない相手というのは、
やはり、貴族以外にはありえないでしょうね。
で、更にその周辺でデータを漁る内に、
人麻呂刑死説というのを発見しました。
  柿本人麻呂:熊野の歌
  http://www.mikumano.net/uta/hitomaro.html

万葉集の中では、彼の死去が『死』と表現されているので、
江戸時代の学者は、彼の身分を六位以下と考えたそうですね。
というのも、三位以上の死は『薨』、四位と五位の死は『卒』
と表現するのが、当時の習わしだったからです。
ところが、様々な証拠からすると、彼の身分は決して、
そんなに低くはないはずだ、と考えたのが梅原猛氏で、
その結果、彼は人麻呂の死を刑死とする説を唱えたそうです。
刑死の場合、身分に関わらず『死』と表現されるからですね。

93闇夜の鮟鱇★:2011/09/30(金) 10:45:10 ID:???0
  ●●●東歌の起源について●●●(3/3)

彼が死にのぞんで作ったという歌の詞書きに『臨死自傷』
という表現があるのも、その傍証であるという話が出ていました。
因みに、これが梅原猛氏の説の一部なのか、このサイトの人の意見なのか、
日本語の文章表現が甘いので良く分からない点がネックですけどね。
こうなると、気になるのはその刑死の理由ですよね。(^^;)
私が前に書いた内容と照らし合わせると、これはやはり、
女性問題以外にあり得ないだろう、というのが私の印象です。

実は『人麻呂は持統・文武の両天皇に仕えた』
と同じサイトに書いてあります。
ということは、つまり『女帝の持統天皇の時代に、宮女を相手に、
恋を繰り返していた人麻呂が、次の文部天皇の時代になっても、
その女癖が抜けなかった』と考える手がありますね。

その結果、うっかり文武天皇の女に手を出してしまい、
それが元で刑死した、考えると辻褄があうように思います。
ひょっとすると、前述した歌の『ただにあはぬかも』の女が、
文武天皇の宮女だったのではないでしょうか。(^^;)


因みに、古典講読では、その熊野の歌に関して、熊野船というのが、
当時は特別な意味を持っていたことが語られていましたね。
日本の各地で、その熊野船が用いられていて、
遠くから見るだけで、熊野の船と分かったんだそうです。

ということは恐らく、当時の明日香に渡ってきた渡来人の中で、
造船技術を持つ技術者が熊野地方に定着したのではないでしょうか。
そして彼らが大陸の先進的な造船技術を用いて作ったのが、
問題の熊野船である、と考えるのが良いように思います。

その意味で、熊野船は古来からある日本の船とは、
構造的にも外形的にもかなり違っていたんでしょうね。
そうしたすぐれた造船技術や操船技術が熊野にもたらされたことが、
平家物語の時代に熊野水軍が活躍した一因なんでしょう。


それから、更に少し前の古典講読では、有馬皇子の作品が出てきましたね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%96%93%E7%9A%87%E5%AD%90
  磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
  家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
その場合、私が昔から気になっているのは、
特にこの二首目の歌が、良く教科書に出てくる事なんですね。
はっきり言って、一首目はまだしも、二首目の歌は、
どこからどうみても下らない、というか何の技巧も工風もない歌ですよね。
『だから何なんだ』といった感じの愚作ですから、わざわざ教科書に、
どうしてこんな下手な歌を乗せるのか、私は理解に苦しみました。

まあ、彼が刑死に向かう途中、その旅のわびしさを詠んだ、
と見れば多少の感慨も沸くんでしょうけど、この歌は、
万葉集全体で見ても一二位を争う駄作でしょうね。
近頃は小学生だって、もう少しましな短歌を作りますからね。
実は、このサイトに『これらの歌が実は、彼自身の作ではなく、
後世の人が有馬皇子に仮託して詠んだものである』
とする折口信夫の説を見つけたんですけどね。

でも、以上の点を考えると、私には全く賛成できません。
なぜなら、もし後世の人が仮託して作ったものなら、
その人には、少なくとも最低限の歌の素養があったはずで、
こんな駄作を作るとは思えないからです。
つまり、こんな駄作がそのまま残されているということ自体、
『当人が作った歌だったから』という以外の理由は考えられませんよね。
この有馬皇子という人も、大した人物ではなかったんでしょう。

94闇夜の鮟鱇★:2011/11/04(金) 10:35:23 ID:???0
  ●●●万葉集の極彩色●●●(1/6)

私の周辺は例によってゴタゴタ続きで余裕をなくし、それで、
また少し書き遅れていますが、久々に万葉集についてです。(^^;)
今回は遣唐使というか、遣新羅使の歌から始めますが……
この時代の外交使節として、有名な遣隋使や遣唐使以外に、
遣新羅使や遣渤海使があったというのは、少し意外でしたね。
その場合、その手の遣何々使といった渡航使節全体を現す、
適当な呼び名がないのが、また何とも不便な気がします。

例えば、近代には遣欧使なんていうのがありましたから、
それに対置させて、遣亜使なんてのはどうでしょうか。(^^;)
さて、それでさっそく本題に入りますが、
実を言うと、今までの私は万葉集の世界を、何か、
色のない白黒の世界のように感じていたんですね。
ところが、今回その遣新羅使の歌を聞いていて、突然、
目の前に鮮やかなカラーの世界が開けたように思ったのでした。

まあ、それは一つにはこの講師の功績と言うべきでしょうね。
というのも、彼の焦点の当て方はかなり独創的ですからね。
以前に明日香の所で出てきた山部赤人の歌にしてもそうですが、
今回の講読で、万葉集には私が今まで一度も聞いたことがない歌にも、
まだまだ素晴らしいものが沢山ある、ということを知りました。


但し、その解釈の仕方に関しては、少なからず異論があります。
例えば『遣亜使は何度もあったはずなのに、資料が沢山残る所と、
何も残らない所があるのは何故か』という疑問に関して、
『戦乱などで失われてしまう偶然性』を挙げていましたけどね。
私としては、むしろ必然性の方を敢えて強調したい所なんです。

例えば、日本の物語文学としては、色々な歴史の資料から、
源氏物語以前にも沢山の物語があったことが知られているわけですね。
ところが、残念ながらそれらの多くは失われてしまっていて、
今残されているのは、宇津保物語とかほんの一握りに過ぎないわけです。
その場合、当然ここでも戦乱などで失われたものが多いのでしょうが、
私は、失われたものにはそれなりの理由があると考えたい分けです。

つまり、もし本当に面白くて価値がある物語なら、それは、
次々と沢山の人々によって書写されて行くはずですよね。
ですから、仮にその多くが戦乱や大火で失われてしまったとしても、
一部は必ずや、どこかに残されて行くに違いないと思います。
その意味で、歴史の中で消え去ってしまうものには、
それなりの必然性がある、というのが私の考え方なんですね。


その場合、以前に少し触れましたが、歴史資料に関しては、
家康が頼朝暗殺の記録を抹殺したような例もある分けですから、
そうして意図的に消される場合は、また別と見るべきかもしれません。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#120
ただ……その点で言うと歴史上、最も有名な事件として、
秦の始皇帝による焚書坑儒というのがあった分けですね。

あの場合、実用書以外の書物は全て焼き捨てられ、
460人以上の儒者が生き埋めにして殺されたそうですけどね。
それにも関わらず、現代の我々が論語を読めるというのは、
よくよく考えて見ると不思議な気がしませんか!?
だって、実用書以外は全て燃やしちゃったはずでしょ!?

答えを言うと、この場合、生き残った弟子たちが、
記憶に頼りつつ、論語全体を復元したんだそうです。
まあ、論語読みは今でもそうかもしれませんが、
暗唱できる位にまで読み込んでいますから、
そうした復元も案外、難しくは無いんでしょう。
ただ、今残されている論語を読むと、その一部には、
焚書坑儒に伴う傷が残っているのが分かります。

95闇夜の鮟鱇★:2011/11/04(金) 10:38:04 ID:???0
  ●●●万葉集の極彩色●●●(2/6)

と言うわけで、この例ひとつとっても『大切な書物というものは、
たとえどんなことがあっても、それを支持する人々により、
時代を越えて残されていく』ということが良く分かりますよね。
その意味で、ある文献が残るか残らないかという問題には、
単なる偶然性という以上に、後世の評価というものが、
多かれ少なかれ関わってくると私は思う分けです。

ですから、遣亜使の資料の残り方についても、
それと全く同じように考えて良いのではないでしょうか。
つまり、遣亜使がどれだけ沢山あったとしても、
彼らが残した歌が後世に残るかどうかという問題は、
結局、その中にどれだけ優れた歌があったかによって、
決まってくると言えるような気がします。

その意味で、遣新羅使の歌が万葉集に一括して残っているとすれば、
それは、その中に優れた歌人がいたからに違いないんですね。
その遣新羅使の歌ですが、万葉集第15巻の前半にあるのがそれですね。
  訓読万葉集 巻15
  http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyok15.html


その場合、冒頭に並ぶ11首の贈答歌について、講師がそれを、
『編者によって意図的に編集されたもの』としていたのも引っかかりました。
その末尾には『右の十一首は、贈答』とハッキリ書いてありますし、
私としては、それを素直に受け取っても良いんじゃないかと思った分けです。
一体どういう理由で、敢えて『贈答歌を装って編者が作り上げたもの』
と見なすのか、その点が説明不足というか納得が行きませんでした。

私は、この11首は文才に長けたある男女の贈答歌そのものと見なせるし、
後に出てくる関連歌2首(3615-6)にしても、私の考えでは、
同じ作者(男)によるものと考えて、間違いないだろうと思います。
と言うのも、才能のある歌詠みがそんなに沢山いるはずがないですし、
霧を恋人の息と見立てる点も、余人の思いつかない独創的な発想ですからね。

それにも関わらず、この男女の名前が一切記されていないというのは、
恐らく、よほど身分が低い人物だったんでしょう。
例えば、貴族の乗組員の下の世話をする下男とかね、
そういう人物なら、敢えて名前を記さないのも当然でしょうね。
実際の船上に、そんな下男がいたのかどうかは良く知りませんが……。


もう一つ付け加えると、この遣新羅使の特殊性があるかもしれません。
というのも、遣唐使などに比べると、その路程はずっと短い上に、
海路での難所も、玄界灘を渡るところだけですからね。
その意味で、遣唐使などに比べれば遥かに安全で、
気楽な旅だったのではないかという気がします。

その意味で案外、物見遊山の気分が強く、あちこちで道草したり、
宴会ばかり開いたりして、タラタラ旅したんじゃないですかね。(^^;)
何しろ、出かける時は『秋にはまた会える』とか歌っているのに、
実際のその秋には、まだ往路の九州にいたようですからね。

人麻呂の歌を沢山、引用しているのも気の緩みとも見えますし、
それで、自分たちが歌を作る余裕もたっぷりあったんでしょう。
運悪く、壱岐の島で使節団の一人が病死してしまい、
彼を悼む挽歌が沢山作られていますが、その後も、
対馬の『竹敷の浦』という所に長逗留して、
遊女を呼んで宴会をやったりしている分けですね。

96闇夜の鮟鱇★:2011/11/04(金) 10:40:49 ID:???0
  ●●●万葉集の極彩色●●●(3/6)

ただ、一つ気になったのは、その後に新羅で作った歌が一首もなく、
3718番から突然、帰途の歌に転ずることなんですね。
ですから私は最初、ひょっとして彼らは目的を果たすことなく、
途中で引き返したんじゃないか、とさえ思いましたが……
色々調べてみると、彼らが新羅まで行ったのは事実のようです。

実は、この使節団が行った先の新羅でも、戻った後の日本でも、
その直後には疫病がはやったので『彼らは行路の途中で疫病にかかり、
行く先々でそれを広めたのではないか』とも疑われているようです。
因みに、この時の大使と副使も、帰途に病没したそうですね。

他方、これらの歌の素性に関して、ここに面白い説を見つけました。
  遣新羅使の歌(万葉集を読む)
  http://blog.hix05.com/blog/2007/07/post_304.html
  万葉集に収められた一群の歌は、
  この船旅を記録した歌日記のようなものだ。
  だがそれは使節団の成員一人ひとりの歌を集めた
  アンソロジーというようなものではなく、ある特定の人物が、
  自分の歌を中心にして、時折他の人々の歌を交え、
  全体として旅の雰囲気が伝わるようにと纏め上げたものである。


つまり、遣新羅使の歌は特定の人物の旅日記だ、という分けですが、
もしこの見方が正しいとすると、作者名があるのは他人の歌で、
無署名の部分は全て、当人の創作ということになるんでしょうね。
(因みに、このサイトでも冒頭11首は贈答を装った創作としています。)
こうして、ひとりの人物が書き残した旅の歌日記が、
何らかの形で見いだされて、そっくり万葉集に取り入れられた、
と考えるのが案外、妥当な解釈かもしれません。

その場合、玄界灘の向こうで作られた作品が一つもないことは、
ひょっとすると、この人だけ半島に渡らずに残ったのかもしれません。
それなら、玄界灘の向こうの作品が全くないのも、納得がいきますよね。
例えば、彼も同じ伝染病にかかってしまった結果、
その地で療養することになり、帰途に合流したと考える分けです。

或いは、3718番からの歌はたった5首しかなくて、全て無署名ですから、
むしろ、帰途は使節団とは別途に帰った可能性が高いですかね。
仮に、帰途に使節団と合流したのなら、
大使や副使の病没に関する挽歌があっても良いですしね。


因みに、そもそも遣唐使とは別に、遣新羅使がなぜ必要なのか、
その存在理由が私には、もう一つ良く分からなかったんですね。
新たな文物を手に入れる為なら、遣唐使で十分のような気もしますが、
敢えて、新羅や渤海に使者を送る意味は何だったのかということです。

考えて見れば、少し前に戦争をしたばかりの唐や新羅に使者を送り、
親しくつき合うというのも、現代からはもう一つ解せない所ですよね。
実際問題として、白村江の戦いに大敗した後『唐と新羅の連合軍が、
その余勢を駆って日本まで攻め込んでくるんじゃないか』
と心配したからこそ、防人による防衛を固めたわけでしょ!?

でも実を言うと、こうした遣亜使には他国の情勢をさぐったり、
国際関係を修復して日本への脅威を減らす役割があったみたいですね。
ですから、遣亜使の主眼が新たな文物の入手になるのは、むしろ、
そうした国際緊張が和らいだ結果である、というのが真相に近いようです。

97闇夜の鮟鱇★:2011/11/04(金) 10:44:38 ID:???0
  ●●●万葉集の極彩色●●●(4/6)

それから、遣亜使に関しては、その船の構造の話も色々ありました。
帆船に詳しくない人は『帆船というものは、ただ風上から風下に、
風まかせで流されていくだけ』と思っているかもしれませんが、
実際の帆船は、必ずしもそうではないわけですね。
ヨット競技をする人は良く御存知でしょうが、
ヨットは風上に向かって斜め前方に進める分けですね。

ですから、先ず風上に対して右斜めに前進し、次は、
帆と梶を切り替えて、左斜めに前進するという繰り返しで、
ジグザグに進めば、幾らでも風上に行ける分けなんです。
これを英語ではタッキング、日本語では間切り走りと言います。
その場合、本質的に重要なのは、帆が可動式であることと、
船底に横滑りを防ぐ、滑り止めがあることの二点である分けです。

その点、古来の日本の船というのは、底が平らな上、
帆も固定されていて、風上には行けなかったみたいですね。
例えば、七福神が乗っている宝船なんかがその典型ですが、
あの場合の帆は、その中心が帆柱に固定されてますよね。
ですから、帆の角度を切り替えてジクザグに風上に進む、
なんていう芸当は、できるはずがない分けです。


その意味では、例の熊野船の場合も、もし大陸式の作りなら、
そうした可動帆を備えていたのではないでしょうか。
例えば、中国式のジャンク船みたいなもっだったかもしれませんね。
でも日本というのは不思議な国で、外国から進んだ技術が入っても、
敢えてそれを捨ててしまうようなところがある分けです。

例えば、江戸時代の日本では、鉄砲を禁止する一方で、
大井川に橋をかけることすら、許さなかった分けですね。
それは全て、徳川幕府が日本を統治するのに都合がよかったからで、
それと同じ意味で『鎖国政策を推進する幕府が、
外洋航海が可能な帆船を禁止する為に、
可動帆の船を造らせなかった』という説があります。

その点では、中国などに出かけて海賊行為を働いた倭寇の場合も、
彼らの帆船は固定帆だったので『東シナ海を渡るのにひと月もかかる』
とか言って、明時代の中国人に馬鹿にされたという話がありました。
  遣唐使船の構造的欠陥
  http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_73.htm
但し、倭寇というのは鎌倉から室町時代の話ですから、
この場合の固定帆は、鎖国政策のせいとはいえないでしょうけどね。


ただ、倭寇はともかく、例の鑑真和尚を日本に送り届ける際にも、
敢えて、そんな危険な固定帆の船を使ったんでしょうかね。
その点が、どうも私には解せない所なんですが……。
因みに、江戸時代後期には弁財船(べざいせん)というのが発達し、
これは間切り(ジグザク)帆走をやったようですし、
時代と共に改良されて、性能もどんどん上がったらしいですね。
ですから外洋船を禁じたのは、江戸時代初期の話かもしれません。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%89%8D%E8%88%B9

弁財船という名は、恐らく七福神が乗った宝船になぞらえて、
縁起を担いだんでしょうけど、特に弁財天の名を選んだのは、
元々、弁財天が河の神様であることに由来するんでしょうね。
その意味では、弁財船の帆が宝船と良く似ているのは当然ですが、
ポイントは宝船の場合、帆を固定する横棒が上下にあるのに対して、
弁財船の場合、横棒は上に一本あるだけで、下にはない所ですね。
  http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/C20/c2023.jpg

ですから、帆の下側を綱で操作して、間切り走りが出来たようです。
但し、一説によるとヨットが風上に対して45°の角度まで進めるのに比べ、
弁財船は60°が限界で、しかも強風には対応できなかったそうです。
ヨットのような三角帆と違って、弁財船のような帆の形だと、
高い位置で風を受けますから、強風で不安定になるのは当然でしょうね。

98闇夜の鮟鱇★:2011/11/04(金) 10:47:53 ID:???0
  ●●●万葉集の極彩色●●●(5/6)

さてそれで漸く短歌の話ですが、この辺の歌を読むと、
生活に密着したその歌いぶりは素晴らしいですね。
これに比べ、平安時代以降の短歌は、より洗練されてはいますが、
まるで生活感にかける気取った歌ばかりですからね。
万葉の短歌は生活感にあふれ、バラエティに富んでいる点で、
現代から見ると、遥かに価値が高いような気がしてきました。

最初の贈答歌11首(3578〜3588)は『女男女男女男女男男女男』
という構成になると思いますが、冒頭二首などは、
何やら、かなりの年の差カップルを思わせますね。
  武庫の浦の 入江の洲鳥 羽ぐくもる 君を離れて 恋に死ぬべし
  (むこの浦の入り江にいる州鳥が親鳥に育てられるように、
  私を育ててくれたあなたから離れた私は、恋しくて死にそうです)
  大船に 妹乗るものに あらませば 羽ぐくみ持ちて 行かましものを
  (遣新羅使の大船にあなたを乗せて良いものなら、
  今まで通り、羽根に包むようにして連れて行きたいのだが……)
  
例えば、光源氏が紫上を誘拐して来て育て上げ、自分の妻にしたように、
幼い頃から育てた上げたみたいな印象を受けますよね。
その場合、作者を単なる下男と見なす発想はちょっとそぐわないですから、
ここでも、歌日記説による解釈の方が辻褄があうかもしれません。


この後に続く3〜4首目が、例の霧の歌ですね。
  君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ
  (旅先の海辺の宿で霧が立ったら、私が嘆く息だと思ってください)
  秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ
  (秋にはまた会えるのに、どうして嘆息が霧になるほど嘆くのですか)

これに対置する形で、安芸国の風速(かざはや)の浦の歌がある分けですね。
  我がゆゑに 妹歎くらし 風速の 浦の沖辺に 霧たなびけり
  (私を思って恋人が嘆いているらしい、風速の浦の沖に霧が流れている)
  沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 歎きの霧に 飽かましものを
  (沖風がもっと強ければ、恋人が嘆く息の霧を飽きるほど吸い込めるのに)

その後の5〜6首目に海路の安全を祈る歌があって、
それに続く7〜8首目が色々と意味深でしたね。
  別れなば うら悲しけむ 吾が衣 下にを着ませ ただに逢ふまでに
  (別れたら悲しくなるでしょうから、
  また直接会うその時まで、私の下着を身につけていて下さい)
  我妹子が 下にを着よと 贈りたる 衣の紐を 吾解かめやも
  (彼女が下着として身につけるようにとくれた衣の紐は、決して解くまい)


ここでは、女が『再会する時まで着ていて下さい』と下着を男に与えると、
男は『その下着の紐を絶対に解かない』と約束するというわけです。
何カ月もの間、洗濯もせずに同じ下着をつけるというのは、
現代では考えられないですが、その点では、防人の歌にも、
垢がつくまで同じ着物を着ている、という話がありましたね。
当時はまだ虱なんてものは、余りいなかったんでしょうかね!?

講師はここを男女共通の歌と解釈し、下着の紐を解かないことを、
相手を裏切らないことのように言っていたと思いますけどね。
ただ、この場合の下着の紐というのは、
西洋でいう所の貞操帯の鍵とは大分、違うでしょうね。
結局、この時代の下着が、どんなものだったかが問題ですが、
当時、ブラジャーだのパンティだのがあったはずがないですよね。
そんなものなら、男が身につけることも出来ませんしね。(^^;)

そう言えば『関東大震災の時、デパートの窓から飛び降りた女性は、
お尻がむき出しになった』という有名な話がありましたね。
当時の女性は、着物の下にパンツなんてものは着けてなくて、
それをはくようになったのは、これ以降だという説がありました。
ですから、江戸時代以前は言うまでもありませんが、
奈良時代ともなれば、尚更でしょうね。

99闇夜の鮟鱇★:2011/11/04(金) 10:51:35 ID:???0
  ●●●万葉集の極彩色●●●(6/6)

結局、当時の下着と上着の差は、その材質や厚さの違いだけで、
さしたるデザインの違いがあったわけではないんでしょう。
多分、下着としては、無地で柔らかい物を身につけ、
上着の方は、厚くて模様が付いていたりするわけでしょうね。
その場合、金持ちほど沢山の着物を重ね着する分けで、
その発展形が平安時代の十二単になるのかもしれませんね。

その場合、下着の紐を解くということには少し別の意味があるわけです。
これはもっと後の平安時代の話ですが、男女が共寝をする時には、
互いの着物を下に敷いたり掛けたりして、夜具の代わりにしたそうですね。
空蝉の場合も、夜具代わりの着物を残して逃げ出したわけですしね。

つまり、当時はまだ専用の寝具などというものはなくて、
互いの着物を夜具の代りにしていたようですね。
その意味では、起き出す時に間違えて相手の下着を着る、
ということもあったでしょうし、男女が下着を交換するという風俗も、
現代人が考えるほど不自然な事ではなかったんでしょう。


遣新羅使の後に並ぶのは、中臣宅守と狹野茅上娘子の相聞歌ですね。
この場合も、狹野茅上娘子は宮女で、二人の関係に怒った天皇が、
中臣宅守を越前に流刑にしたんだそうです。
その場合、流刑にする時は当然、女を同行することが許されないのに、
二人の手紙のやり取りを仲介するのが許されたのは、不可解ですけどね。

一説によると、万葉時代の後半には重婚を禁止する傾向が強まり、
この場合も、中臣宅守はその禁を犯したのだという話がありました。
  中臣宅守と狹野茅上娘子:天平の悲恋
  http://blog.hix05.com/blog/2007/04/post_180.html
当時の天皇は仏教に深く帰依した聖武天皇ですから、或いは、
邪淫を禁ずる仏教思想に影響された面があるのかもしれません。

ただ、流刑になったのが739年であるのに対し、763年には、
彼が都で出世した記録があるそうですから、少なくとも24年後の、
淳仁天皇の時代には、都に帰っていたことになりますね。
その場合、彼の流刑が許された理由が気になりますが、
天皇が変わったせいというよりも、狹野茅上娘子と交わした恋歌が、
一定の評価をされた結果である、と考えるのが良いような気がします。
その場合、これまた一種の歌徳説話ということになりますね。(^^;)


それから、以前に書いた件でちょっと気になることがありました。
例の人麻呂の熊野の歌で百重成を『ももへなす』と読みましたが、
前後のつながりからして、ここは『ももへなし』とすべきでしたね。
つまり『みくまのの うらのはまゆふ』は百重を導く枕詞で、
『ももへなし こころはおもへど ただにあはぬかも』と続く、
と見る方が、歌としては自然でしょうからね。

最後の『だだにあはぬかも』の『かも』を『鴨』と書いた点からして、
もし、ここを敢えて『ももへなす』と読ませたければ、
百重成でなく百重茄と書いたんじゃないでしょうか。(^^;)
あるいは、百重梨とすればむしろ、誤解が無かったでしょうね。
当時、茄や梨があったかどうかが問題かもしれませんが……。
因みに、鴨なんていう字を当てた所は少しふざけている感じもあり、
キョンキョンあたりが聞いたら喜びそうな気がしますね。

実を言うと昔、あの人が言っていたことなんですが、
気象観測システムのアメダスという名前を子供の頃に聞いて、
『何をふざけた名前をつけてるのか』と思ったそうですね。
ところが、大人になって、それがAMeDAS、つまり、
『Automatic Meteorological Data Acquisition System』
の省略形であると知って納得したそうですが……
実を言うと、この手の省略名なんていうものは、
本当の所はどうにでも、でっちあげる事ができるんですよね。
ですから、これはやはり当初、ふざけていると考えたのが、
むしろ、アタリだったんじゃないでしょうか。(^^;)

100闇夜の鮟鱇★:2011/12/11(日) 12:03:07 ID:???0
  ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(1/4)

また少し間があきましたが……人麻呂刑死説に関しては、
古典講読の第31回で、更に決定的な証拠が出てきましたね。
持統天皇の伊勢行幸の時、人麻呂が都で留守居役をしたようですが、
その時に彼が詠んだ『伊勢留京歌』というのが、三首ありました。

その三首の内の最後のものが、これなんですね。
  http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/one/m0042.html
  潮左為二(しおさひに)
  五十等兒乃嶋邊(いらこのしまべ)
  榜船荷(こぐふねに)
  妹乗良六鹿(いものるらむか)
  荒嶋廻乎(あらきしまみを)
  (うしおが騒ぐ中、伊良虞島の付近を漕いで行く小舟には、
  あの子も乗っているだろうか、島の回りは波が荒いはずだが。)

三首とも宮女に関する歌ですが、ここはそれを妹(いも)と表現してますから、
『宮女の中に人麻呂の恋人がいた』と見て間違いないのではないでしょうか。
講師は何故か、そうした見方を敢えて否定していたようですけどね。
という分けで、私としては色々と空想を巡らすことになったわけですが……
一つの可能性として、次のようなことが考えられると思います。


前にも少し書きましたように、女帝の持統天皇時代には、
宮女もある意味で、暇と体を持て余していたんでしょうね。(^^;)
ですから、人麻呂が後宮に入り込むことが黙認されていた可能性があり、
その結果、この歌が示すように、人麻呂の恋人がいたと考えられます。

ところが、持統天皇が譲位して文武天皇に代替わりすると、
後宮への出入りが厳しく制限されるようになって、その結果、
人麻呂は彼女に会えなくなってしまったのではないでしょうか。
例の『ただにあはぬかも』の歌は、その辺の事情の表現とも思われます。

ひょっとすると、その歌自体、人麻呂が彼女との密会を画策して、
こっそりと彼女に送った歌と考えるべきかもしれませんね。
その手紙がばれたか密会現場を直接、抑えられたかは知りませんが、
このことが原因で、人麻呂は刑死したと考える可能性があります。


仮にそうだとすると、例の鴨の当て字にしても、単に『ふざけている』
という以上に、何か密会の現場を暗示する符丁かと最初は思いました。
つまり、鴨と言えば二人にはピンと来る場所があったということです。
でも、色々調べた結果、助詞の『かも』に鴨という字を当てる書き方は、
人麻呂が作った他の歌にもあって、この発想は駄目のようです。(^^;)

因みに、直不相鴨(ただにあはぬかも)という全く同じ表現が、
万葉集には、もうひとつあるのを発見しました。
この歌は人麻呂よりも後代の歌ですから、この場合は、
人麻呂の歌の表現をそっくり借用したのかもしれませんけどね。
  http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/68.htm
  安太人乃(あだひとの)
  八名打度(やなうちわたす)
  瀬速(せをはやみ)
  意者雖念(こころはもへど)
  直不相鴨(ただにあはぬかも)

全く同じ表現と言えば、以前に引用した人麻呂の歌とそっくりの歌が、
第35回の笠女郎が大伴家持に贈った歌に出てきたのには驚きました。
  思ふにし 死にするものに あらませば
  千たびぞ我は 死に還らまし
以前に引用したのは次の歌ですが、発想や表現が酷似していますから、
これまた、人麻呂のパクリと考えるのが自然のような気がします。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1162001315.html#4
  恋するに 死にするものに あらませば
  我が身は千たび 死にかへらまし

101闇夜の鮟鱇★:2011/12/11(日) 12:06:58 ID:???0
  ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(2/4)

実は、笠女郎の歌には、他にも人麻呂の歌に良く似たのがありますね。
先ず、壬申の乱の英雄・高市皇子の死に際して、
人麻呂が詠んだ歌がありましたが、その格調の高さは、
万葉集の中でもピカイチですから、私が好きな歌の一つです。
因みに、ここでも最後の『かも』は鴨となっていました。(^^;)
  ひさかたの 天知らしぬる 君故に 日月も知らず 恋ひ渡るかも
  (昇天して、ひさご形の天空を支配なさっているあなたですから、
  私は時間が経つのも忘れ、ひたすら思い焦がれています。)

それに比べ、次は笠女郎が大伴家持に贈った歌の一つですが、
先の例ほどではないにせよ、これまたかなり似ていますよね。
ここでも、笠女郎が人麻呂の歌を参考にしたような気がします。
  朝霧の 鬱(おほ)に相見し 人故に 命死ぬべく 恋ひ渡るかも
  (朝霧の中で見るように、かすかに見初めたあなたでしたが、
  今の私は死んでしまいそうなほど深く恋し続けています。)

ところで、私も古典は素人なので凡ミスをやらかしたようですが、
『……ませば……まし』は、いわゆる反実仮想という奴ですから、
『恋重荷』の所で付けた訳は、大分ずれていたことになりますね。
つまり『もし、恋するたびに狂い死にする宿命にあるのなら、
私は千回死んで、千回生まれ変わろう』と訳しましたけどね。
最後のましが反実仮想なら、後半部は決意表明ではなく、
『私は千回死んで、千回生まれ変わっただろう』となりますね。


結局『もし恋で死ぬものなら、私は千回生まれ変わったはずだが、
実際はそんなことはなかった』ということですよね。
ですから、この歌の主張は恋重荷の歌とは正反対になります。
その時『千人に恋をした』と見なすなら、大分軽い内容になって、
『柿本人麻呂はプレイボーイだった』ということになるかもしれません。
しかし、あの歌が例の恋人に送った歌であり、
同じ人に対して千回分の恋をしたと解釈するなら、
必ずしも軽いとは言えないことになるでしょうね。

笠女郎の歌にしても『自分はあなたに千回分も恋をしたのだ』
という主張でしょうから、それなりに重いですよね。
実は昔、人麻呂の人物像を探ろうとして万葉集をあさっている時、
人麻呂歌集の中にこの歌を見つけたのでした。
当時から『人麻呂歌集の歌は必ずしも人麻呂自身の歌ではない』
という説があるのは知っていましたが、自己流解釈に基づいて、
人麻呂の歌で間違いないだろうと考えていたのでした。

でも、こんなに似た歌があるとなると、あの歌自体、
人麻呂の作ではないという可能性が出て来ましたかね。
万葉集という作品も、中々一筋縄ではいかないようです。(-_-;)
無論、時間的に言えば人麻呂歌集の方が古い分けですから、
笠女郎の歌を人麻呂歌集の真似と見ても良い分けですが、
更に古い古謡のようなものがあって、両方とも、
そこから取ったと見なす方が自然でしょうか。


それから、例の伊勢留京歌の第三首に出てくる伊良虞の島を、
伊良虞岬と解釈するのが現代では通例のようですが、私の考えでは、
それはむしろ、岬の手前にある神島のことではないかという気がします。
というのも、当時の交通事情の悪さを考えると、
宮女たちの行動半径は、余り広くないだろうと思われるからです。
例えば、一首目の歌に出てくる『あみの浦』を『あごの浦』と読んで、
『英虞湾』と解釈する立場があるらしいですが、
当時の交通事情からすると、それは到底ありえませんよね。

彼らが鳥羽までどういう方法で行ったかは良く知りませんが、
鳥羽から『英虞湾』に回るとしたら、それ自体が大旅行ですからね。
というのも、当時は山中を行く道が整備されていなくて、
海岸伝いに海を行くのが普通だったらしいからです。
その意味で『あみの浦』というのはやはり、
鳥羽駅の最寄りにある湾(鳥羽湾)内の地名だろうと思います。
先ずはそこで浜遊びをしてから、小舟に乗って、
二首目に出てくる答志島に渡ったと思われます。

となると、次の三首目の舟遊びにしても『伊良虞岬まで、
わざわざ海峡を越えて行く』とは考えにくいので、
その途中にある神島を一巡りした、と考える方が、
旅程としては自然のような気がする分けです。
それなら、島を強引に岬と読み替える必要もありませんしね。
無論、その場合には『伊良虞岬の手前にある神島を、
当時は伊良虞の島と呼んでいた』と考える必要があります。
その証明が出来ないと、仮説の域を出ませんけどね。

102闇夜の鮟鱇★:2011/12/11(日) 12:13:18 ID:???0
  ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(3/4)

第32回では武市黒人の歌を取り上げていましたが、
その中で『あけのそほ船』というのが話題になっていましたね。
  http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/25995464.html
  客為而(たびにして)
  物戀敷尓(ものこひしきに)
  山下(やましたの)
  赤乃曽保船(あけのそほぶね)
  奥榜所見(おきにこぐみゆ)
  (旅の途中でふと、もの恋しい気分になっていると、
  山下にあった赤土を塗った船が、沖へと漕いでいくのが見えた)

『あけのそほ船』というのは『赤土を塗った船』のことで、
赭土(そほ、赤い土)というのが、魔よけだとか、官船の印だとか、
更には船食虫を防ぐ為だとか、様々な説があるそうですけどね。
私としては、ここはやはり魔除けと考えたい所なんです。
その場合、どうして魔除けをする必要があったのかが問題ですが……
私の考えでは、これは葬送の船と見るのが良いような気がします。

つまり、遣新羅使のところでも色々書きましたが、
当時はしょっちゅう伝染病がはやっていて、
伝染病で死ぬことは日常茶飯事だったわけですね。
その時、伝染病の死者はうっかり地上には葬れないですから、
海に捨てるというか、水葬したのではないかという気がします。
そしてその水葬の船には、伝染病のこれ以上の拡散を防ぐという意味で、
魔よけのおまじないとして、赤土を塗っていたのではないでしょうか。


その後の第33回では、戯れ歌が取り上げられていましたが、
その中で『意味の通らない歌を作る』という話がありました。
でも『単にでたらめな歌を作るだけなら誰にでもできるはずで、
そんな歌に2000文もの賞金を与えるのはおかしい』
というのは、次のサイトの主が言う通りだと思います。

その場合、二つ目の歌については男性器の暗喩だという話があったので、
少し気になって捜し回ると、出て来たのがこのサイトなんです。
ここの話によると、でたらめに見えるあの歌には実は裏の意味があって、
タミル語の語彙を使って解釈すると、良く分かるというんですね。
  万葉集難解歌の解読
  http://homepage3.nifty.com/umoregi/sakusaku/1_1.htm

日本語の起源がタミル語にある、とする説には聞き覚えがありましたが、
それがこんな所で出てきたのには、私もビックリしました。
『万葉時代の和語には、タミル語由来の言葉が沢山あったが、
その時代に中国語が入って来た結果、その多くが死語になった』
と考えると、これらの歌の持つ二重の意味がわかるらしいです。


ただ……幾つか疑問に思える点もあって、例えば、
なぜ褌(ふんどし)をピンクに染めるのかが解せませんでした。
そんなものに何故、わざわざ染色する手間をかけるのかということです。
で思い至ったのは、前に書いた男女が下着を交換するという話ですね。
その時は、その下着を襦袢みたいなものだろうと考えていたんですが、
後になって、着物をとめるのは紐ではなく帯じゃないかと気になり出し、
紐でとめるなら、むしろ褌みたいなものかもしれないと気づいた分けです。

実際問題として、女性が生理の時に身につける褌みたいなものがあり、
男の褌はそこから派生したものであるという説を聞いたことがあります。
仮にそうだとすると、下着の交換というのは『経血に染まった褌を、
男女で実質的に共有していた』ということなのかもしれません。
男の褌がピンク色だったというのも、それなら納得が行きます。
何しろ、当時の布は大変な貴重品である一方、
衛生状態の悪さは、現代からは想像もつかないレベルですからね。

他方では『吉野が桜の名所だから、桜のピンクに、
褌のピンクをかけたのだ』という点もひっかかりました。
古典講読の講師によると『吉野が桜の名所になるのは後世のことで、
吉野のイメージは明日香時代は川、奈良時代は雪』だそうですからね。
それでも尚『吉野には万葉の時代から自生した桜が多かった』、
つまり『名物になるほど有名ではなかったにせよ、
春には山が赤く染まっていた』と考えることは可能でしょうか。
あるいは……経血で染まった褌なら、むしろ桜の花ではなく、
紅葉に染まった吉野に掛けていると見るべきでしょうかね。

103闇夜の鮟鱇★:2011/12/11(日) 12:17:35 ID:???0
  ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(4/4)

ただ……こうした解釈の最終的な信憑性に関しては、
タミル語の専門家でない素人には、判断のしようがありません。
それを支持する学者にしても、日本には数名しかいないんだそうです。
実際問題として、タミル人が住むのはインド南部ですし、
その顔だちも、日本人と共通性があるようには見えませんからね。
それでも、私の考えでは、この説は一般に思われているほど、
突飛なものではないんじゃないか、と言う気がします。
というのも、私が以前から考えていることとして『日本人の祖先は、
何万年か前には中国大陸にいたんじゃないか』と思うからです。

例えば、例のブータン人と日本人が良く似ている件ですけどね。
ついこの間も、国王夫妻が国賓として来日していましたが……
あまりに日本人と似過ぎていて、威厳をそがれた感もありました。
つまり、ブータンの国王は、日本では例えば、
その辺の長屋に住んでいるあんちゃんみたいな風貌ですからね。(^^;)
他方では、日本人とモンゴル人の類似性もあったわけですが、
そうしたことを総合的に考えると『何万年か前には、
日本人の祖先が、今の中国大陸に住んでいた』と考えると、
色々なことの説明がし易いように思う分けです。

そこへ中国人が後から侵入して来たので、日本人は東へ、
モンゴル人は北へ、ブータン人やタミル人は南へと、
それぞれ弾き飛ばされたんじゃないか、という気がします。
つまり、ブータン人と日本人が似ている原因として、
南海方面を経由して日本人の祖先が渡ってきたと考えるより、
この方が、ずっと自然に両者の関係を説明できるでしょ!?
似たようなことで言うと、インド北部のアーリア系インド人も、
数千年前に、インドに渡ってきたことが知られている分けですね。
多分インド人の祖先は今のヨーロッパ大陸にいて、
そこでの争いに敗れた結果、東に逃れ来たんでしょうね。


ですから、インド人にとっての憧れの理想郷が、
西にある(つまり、西方浄土)のもその帰結と思われます。
中国人の場合、そのインド人よりも更に古い昔に、
やはり、西から逃れて来たのではないかという気がします。
もしそうなら、それ以前の先史時代の中国大陸に日本人やモンゴル人、
更にはブータン人やタミル人がいたとしても、不思議はないですよね。
日本語とタミル語が同じ言語から分離したという説も、
そうした展開の中で見れば、それほど不自然ではないと思う分けです。

そうした日本語のタミル語起源説に関しては、
以前から私が一つ気になっていることがあります。
万葉集では『まくらをまく』という表現が良く出てきますよね。
その場合、まくらという言葉の語源は『まく』という動詞に、
接尾語の『ら』が付いて名詞化したものではないかと思う分けです。
それと同様に、似た表現で『さくらがさく』というのがありますよね。
この場合も『さく』という動詞に『ら』という接尾語が付いて、
さくらという名詞になったのではないか、
というのが私が受ける印象であるわけです。

更に言うと『もぐるもぐら』や『あぶるあぶら』があるし、
『あぐら』も似たように説明できるかもしれませんよね。
だとすると、この『ら』という接尾語がタミル語では、
一体どう解釈できるのかが気になる所なんです。
それがうまく行けば、タミル語起源説の補強因子になりますよね。


他方では、日本語と朝鮮語の近縁関係を言う説がありますから、
朝鮮語の位置づけをどうするのかも一つの焦点でしょうね。
例えば『海の幸・山の幸とは言うのにどうして、
畑の幸とは言わないのか』という問題があります。

この場合、さちの語源が朝鮮語のサルであって、
そのサルが矢尻を意味するという話がありました。
つまり、海の幸は漁の獲物、山の幸は猟の獲物というわけで、
共に、モリとか矢とかで仕留める生き物のことなんですね。
ですから『畑でとれる作物は畑の幸とは言わない』というわけです。

そうした朝鮮語と日本語の近縁関係を考えるなら、
朝鮮語の古語もタミル語から説明できないとおかしいですよね。
もしそれがうまく行けば、日本語のタミル語起源説も、
今より遥かに信憑性が高まるのではないでしょうか。

104闇夜の鮟鱇★:2012/03/30(金) 11:29:58 ID:???0
  ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(1/6)

ちょっと間が空き過ぎて、うまくまとまる自信がありませんが……
今回は、先ず『さつや』の話から始めようと思います。
以前に『何故、海の幸・山の幸と言って畑の幸と言わないのか』
という話をしましたが、それに関し、笠金村の歌には驚きました。
それは古典講読の第44回に出てきた志貴皇子の挽歌でしたが、
その冒頭付近に『ますらをの さつやたばさみ』とあった分けですね。

訓読表記の場合、ここの『さつや』を『幸矢』と書く人が多いですが、
原文を探すと、何とそこが『得物矢』となっていたんですね。
これだと『幸』が『獲物』を意味することは、ほぼ自明ですね。(^^;)
  志貴皇子,笠金村,白毫寺,萩
  http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/108.htm

因みに、志貴皇子が葬られた高円山は、皇子の別荘があった所らしいですが、
実は、この山は奈良の大文字焼で火床となることでも有名のようですね。
つまり、大の文字に薪を並べる為の台座が置かれている山だった分けです。
更には、以前にビデオ評で取りあげた映画『殯の森』にしても、
この高円山を舞台にしていた、という話が出て来てびっくりしました。


志貴皇子と言えば、何と言っても新古今集の歌が有名ですよね。
  岩そそぐ たるひの上の さ蕨の 萌えいづる春に なりにけるかな
いかにも新古今集にはぴったり、という感じのキラキラした感性ですが、
そんな斬新な感性を持つ人が、これほど昔の人だったというのも驚きでした。
彼は天智天皇の第七皇子でしたが、権力が天武天皇の系列に移った結果、
生臭い政治の世界からは身を引いて、専ら歌の世界に没頭したようです。

そうした点を考えると私は、例の東歌が献上された相手というのも、
他ならぬこの志貴皇子だったんじゃないか、という気がし始めています。
結局、一般論として言えるのは、こうした文学というものが権力者よりも、
権力から疎外された人々によって担われることが多い、ということですね。
ただ志貴皇子の場合、彼の存命中は傍流に落ちたかもしれませんが、
結果的には、その後も政治的キーパーソンであり続けたわけですね。

というのも、後々になって天武系の血筋が途絶えた時に、
彼の息子が光仁天皇として即位し、その血筋が、
平安時代へと受け継がれて行くことになったからです。
ひょっとすると、彼の歌人としての名声も、
そうした復権に寄与したんでしょうか。


政治的な疎外という点で言うと、大伴旅人や山上憶良にしても同様ですね。
恐らく当時、都で権力を独占しつつあった藤原氏にとっては、
彼らが煙たい存在だったからこそ、この二人を左遷して、
太宰府のような遠隔地に追いやったのではないでしょうか。

その結果、筑紫歌壇とか筑紫文学圏と言われる状況が現出した分けですが、
第45回に取り上げられていた『酒を讃むる歌』などを読むと、
旅人のかなり鬱屈した心情が反映されているように感じられます。
  大伴旅人・酒を讃むる歌
  http://www.h6.dion.ne.jp/~jofuan/myhaiku_065.htm

例えば、次の歌などは都の藤原氏へのあてこすりと見る説がありましたが、
それは多かれ少なかれ、当たっているのではないでしょうか。
つまり、都でまじめくさって政治を取り仕切っている藤原系の人々を、
猿に見立ててあざけっているとも読めますよね。(^^;)
  あな醜く 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む
  (ああ嫌だ。大切な仕事があるとかいって、
  酒を拒む人の顔を良く見ると、猿にそっくりな気がする。)

105闇夜の鮟鱇★:2012/03/30(金) 11:32:16 ID:???0
  ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(2/6)

他方では、笠金村を調べている最中に、とんでもないものを見つけました。
旅の途中で見かけた美女を一夜妻として迎えた、という長歌ですが、
もし本当なら、現代の男から見ても垂涎の体験でしょうね。(*^^)v
  平成万葉歌仙三十「秋の百夜」の巻〜起首
  http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/60718606.html

  三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに
  天雲の よそのみ見つつ 言問はむ 由の無ければ
  心のみ 咽(む)せつつあるに 天地の 神事依せて
  敷栲の 衣手交へて 己妻と 恃(たの)める今夜
  秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも
  (美香の原で旅宿した折り、道中で偶然見かけた美女を、
  遠くから見るばかりで、何もできなかったのを悔いていた所、
  天地の神々の御加護か、一夜の妻として迎えることが出来た。
  この春の短夜が秋の百夜分あれば、と願ったことだった。)

但し……この旅というのが個人的な旅ならともかく、
実は、天皇の行幸にお供した時の話のようですからね。
本当にそんなうまいことが出来るのか、と疑問が生じるのも当然で、
『この歌は、あくまで夢想の産物である』と見なす説がありました。


でも、ドン・ジョバンニのレポレッロとか、光源氏の惟光とか、
昔の貴族には、その意を受けて働く部下がいた分けですからね。
こういうおいしい話が絶対なかった、とも言い切れないでしょうね。
ですから、この歌を味わう現代人の立場としては、やはり素直に、
書いてある通りの事実として、受け取りたいような気がします。(^^;)

以前の記述に関する話で、もうひとつ言うと、
例の霧の歌の連作に関しては、その作者が一体誰なのかが気になりました。
というのも、もし遣新羅使の歌群が特定の人物の歌日記なのだとすると、
万葉集の大歌人の一人として、彼の名を加える必要がありそうですからね。

それで、後から読み直す内に気づいたんですが、仮にこれが歌日記なら、
その作者は、3589番歌の作者として名が見える人物、
つまり、秦間満(はだのはしまろ)ではないんでしょうか。
  万葉集 巻15-3589夕さればひ… | NipponArchives 万葉集
  http://www.podcast.tv/video-episodes/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86-%E5%B7%BB15-3589%E5%A4%95%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%B2%E2%80%A6-13404631.html
  夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてそ吾が来る 妹が目を欲り
  (夕方になるとひぐらしが鳴いてうるさい生駒の山々を、
  私はとうとう越えてきてしまったよ、あの子の目を見たいばっかりに。)


当時の遣亜使の船旅では、正式な出航前に何日か海上に出て、
訓練のようなことをしたと講師が言っていましたね。
そうした訓練期間中に、二人の間で取り交わされたのが、
例の冒頭の11首の贈答歌だったと思われます。
で、この3589番歌はその贈答歌の直後にある分けですが、
作者はその訓練の途中、抜け出して家に帰ったみたいですね。

『こんなに時間が余るのなら、もっと彼女と一緒にいればよかった』
なんていう歌も3594番にはありましたしね。
  潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり
  (潮待ちで船が出航できないことを知らなかったばっかりに、
  私は残念にも、あの子と早々に別れて来てしまったことよ。)

ここ以外には彼の名は一切、出てきませんが結局、この位置に名前を出せば、
後は繰り返して書く必要を感じなかった、ということではないんでしょうか。
因みに、ひぐらしが鳴くのは6月下旬から9月中旬と言われますから、
『春に出て秋には帰る』という当初の旅程からすると、
何かの事情で随分、出発が遅れていたということになりますかね。

106闇夜の鮟鱇★:2012/03/30(金) 11:35:47 ID:???0
  ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(3/6)

それから第41回で額田王を取り上げた時、その最初の歌に関して、
天皇が本当にそんな粗末な宿に泊まったのか、と疑問が出されていました。
  秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 
  宇治の宮処(みやこ)の 仮廬(かりいほ)し思ほゆ
  (秋の野の草を刈り、それで屋根を葺いて明かしたあの夜の、
  宇治の粗末な仮御所のことが、懐かしく思い出されます。)

でも……当時の貧しさは今日、我々が想像する範囲を軽く越えるだろう、
ということを、我々は十分に想定して置く必要があると思います。
天皇がそういう粗末な宿に泊まっても、別に不思議はないということですね。
第48回で、大伴氏の家族が稲刈りに出かける話にしてもそうですよね。
講師は、稲刈りの間に彼らが寝泊まりした仮屋の『たぶせ』というのは、
いくらなんでも謙遜した表現だろうとか言っていましたが、これまた、
当時の貧しさを考えるなら、そうとは言い切れない気がします。

更には、山上憶良の貧窮問答歌は、彼が死ぬ暫く前に作られたようですが、
そこに描かれている貧しさも、我々の想像を軽く越えていますね。
  第五巻 : 風雑り雨降る夜の雨雑り雪降る夜は
  http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/five/m0892.html
  人並に 我れも作るを 綿も無き 布肩衣の
  海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け
  (私も人並みには働いているのに、綿も入っていない麻衣で、
  海藻のように切れ切れになった、ボロだけを肩にかけて)


いくら何でも、一度は地方の長官まで勤め上げた人物が、
その晩年に、こういう悲惨な状況に置かれるというのは、
現代人には、にわかには信じがたい話ですよね。
無論、晩年の彼は藤原氏に冷遇された可能性が当然ありますが、
それにしても一度落ちぶれると、ここまで行くという事の背景には、
当時の圧倒的な貧しさを考える必要があるのではないでしょうか。

で再び、天皇の描写に話を戻しますが結局、明治期以降、
天皇の権威が極端に肥大化した、という事情がありますよね。
そうした近世の常識に捕らわれると、間違えるのではないかと思います。
万葉集の色々な所を読むと、当時の天皇の権威というものは、
せいぜい、今日の我々が考える地方豪族に、
毛の生えた程度のものだったようなふしもありますからね。
彼ら自身、そのようなものと意識していたような気配もあります。

その点では『天皇を神として讃える歌』をしきりに作った人麻呂などは、
例外とも見えますが……だからこそ、渡来人説が出るのかもしれません。
つまり、当時の政権を安定させる上で、天皇を権威付けすることが、
必要不可欠だったと思いますが、その意味で渡来人の人麻呂が、
政権に多少とも迎合的だったことが、好都合だったとも考えられます。


そういう近世的に肥大した天皇の権威を常識とする立場からすると、
万葉集の歌が相聞歌・挽歌・雑歌の三分野に別れていて、
皇室行事の歌が雑歌に入っていることを、奇妙に思う人も多いようです。
この講師の場合、そこを逆に解釈して『雑歌というのは、
現代人が考えるような「その他もろもろの歌」
という意味ではない』とか言ってましたけどね。

でも、それはむしろ明治期以降に肥大化した天皇権威に流された結果、
生じる歪みであって、むしろ逆立ちした発想ではないんでしょうか。
つまり、万葉の編者にしてみれば、この歌集は別に、
天皇の権威を高める為に作った分けではなく、あくまで、
歌の価値に重点を置いているのだ、と考えれば良い分けです。

言い換えると、皇室の権威を讃える為の歌集を編みたいのなら、
それ専用の歌集を作れば良いわけで、万葉の編者には、
必ずしも、そういう意識は無かったということなんでしょう。
その意味で、皇室行事の歌は挽歌でもないし相聞歌でもないから、
自動的に雑歌に入った、ということに過ぎないだろうと思います。

107闇夜の鮟鱇★:2012/03/30(金) 11:38:07 ID:???0
  ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(4/6)

そうした万葉の編者の心情に、更に分け入るとすれば、
一つ絶対に落せない要素として『書き言葉というものを、
始めて手にした人々の衝撃』ということがあると思います。
それまでは、たとえどんなに優れた歌を詠んだとしても、
ただ口承として伝えるしか無い時代が、長く続いていたわけでしょ!?
それがある時、漢字が伝来し、それを万葉仮名として用いて、
和歌を書き言葉として記録する道が突然、開けた分けですね。

例の東歌にしても、ひょっとすると東国の人が和歌を教わったのは、
万葉仮名の使い方を教わったのと同時だったのではないでしょうか。
その時、人々が感じた驚きや興奮というものは、例えば、
明治にガス灯の明かりを初めて見た人の驚きや興奮よりも、
小さかったはずはないだろうと思います。

ですから、彼らは始めて手に入れた文字というものを使って、
それ以前に蓄えられていた知識や情報を後世に伝えることに、
重大な責任を感じていたのではないかという気がします。
その点では、古事記や日本書紀にしても同様ですが、
詩歌の世界では、この万葉集が重要な役割を担ったんでしょうね。


という分けで、例の仮庵は天皇が泊まった宿と見て良いと思いますが、
もし額田王も一緒に泊まったのだとすると、天皇は女かもしれませんね。
男の天皇なら当然、妻と共寝をしますから他人は入り込めませんが、
彼女が天皇の妻として同宿した、というのも考えにくいですからね。
彼女の場合、天武天皇との愛人関係が良く知られていますが、
それは天武の皇太子時代の話ですから、話が合いません。

他方、仮にこの天皇を天智天皇とすると近江宮時代になりますが、
例の歌が熟田津の歌の前に置いてある点からすると、
それもやはり、辻褄が合わないように思います。
というのも、熟田津の歌は西暦661年に百済救援の為に、
斉明天皇が出航した時の歌とされている分けですね。

その後、663年の白村江の戦いに敗れた結果として、
都を近江に移した分けですから、例の歌を近江宮時代とすると、
時間的に逆順になってしまう分けてす。
その意味で、この歌に出てくる天皇というのは、
女帝の斉明天皇あたりと考えるのが良いような気がします。


ところで、万葉集の編纂者に関しては様々な説があるようですが、
近年は、大伴家持がその大半を編纂したという説が有力のようですね。
ならば、例の大和三山歌にあった『第二反歌は反歌として相応しくない』
とかいう注釈も、他ならぬ家持が付けたものと見るべきなんでしょうか。

最初に見つけたwikiの記述では『第一巻と第二巻が先ず最初に作られ、
第三巻以降とは区別される』とか書いてあったので、
ならば最初の二巻は相当、古いものかと思っていたんですけどね。
実は第一巻の63番に山上憶良の歌があって、それは、
704年の文武帝の時代に、唐で彼が作った望郷歌であるわけです。

  いざ子ども 早く日本(やまと)へ 
  大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ
  (さあみんな、早く日本へ帰ろう。我々が出航して来た、
  大伴の御津の浜松も、我々を待ちわびているはずだ。)

108闇夜の鮟鱇★:2012/03/30(金) 11:41:51 ID:???0
  ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(5/6)

よって編纂の開始は、少なくともそれ以降ということになりますね。
因みに、家持は718年頃の生まれとされていますから、
彼が物心が付くころには、憶良の望郷歌は、
既に四半世紀も昔の話ということになります。

他方では、家持の死後にも万葉集が編纂された形跡があるのに、
その人物は不明ということで、講師はそれをXと読んでいましたね。
でも、そうなると、その謎の編者というのは、
家持の正妻であった大伴大嬢ではないかという気がします。

つまり全く外部の、例えば大伴家以外の人物が、
万葉集の最終的な編纂に関わったのだとすれば、
その名が痕跡として残されていないことは考えにくいですよね。
それに比べ、家持の死後に残された大伴大嬢が、
夫の遺志を継いで万葉集を最終的に完成させたのだとするなら、
その名がどこにもないとしても、驚くには値しないと思います。


その点で少し興味を引かれたのは、家持と大嬢の関係でした。
家持は16才位の時に、既に大嬢に贈った恋歌があり、
一説によると、もう当時から二人は出来ていたとも言われます。
でも、その後、家持は別の女を妻にして子まで作ったらしく、
その女が早死にした時に、彼は悲痛な挽歌を残していますね。
  大伴家持:青春と恋(万葉集を読む)
  http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakamochi.seishun.html

その後、改めて家持は大嬢を正妻として迎えたようですが、
実を言えば、家持には生涯に10人以上の女がいたとも言われる分けです。
第35回に出てきた笠郎女も、その一人だった分けですけどね。
そうした事情からすると、第47回に取り上げられた、
家持の大乗への恋歌が大変ナイーブなのが気になりました。
  万葉集の風景
  http://viewmanyou.web.fc2.com/081630_kaobana.html

第八巻の1629番と1630番で、長すぎるので引用は省きますが、
仕事が忙し過ぎて、同居する家にほとんど帰れないのを恨んで、
『どうしたらあなたへの恋心を忘れられるのか』と歌っています。
家持がこんな恋歌を作ったとすれば、それは最初の恋の時で、
二人とも二十歳未満だったような気がする分けです。
ひょっとすると、万葉集の最後の編者としての大嬢が、自分が贈られた、
若き日の恋文を覚えていて、こんな形で収録したのかもしれませんね。


因みに、こうした歌を紙に記録することが何度か話題になりましたが、
自分で俳句や短歌を作る人なら良く分かると思いますけど、
そうしたものは特に書き留めておかなくとも、
当事者は決して忘れないものですよね。
ですから、例えば遣新羅使の歌日記にしても、あれは秦間満が、
後から全てを思い出して、紙に書き留めた可能性があります。

例えば、将棋のプロ棋士は勝負が終わった後で何も見なくても、
最初からの全ての手を盤上で再現できると言いますよね。
へぼ将棋ではそうは行きませんが、プロの勝負ともなると、
結局、盤上の一つの駒の位置が全体の形勢に影響するので、
各駒の位置関係は有機的に関連付けられている分けですね。
ですから、勝負を再現するのに苦労はしないのだろうと思います。

その点、和歌や俳句にしても似たようなもので、
一つ一つの言葉は、互いに有機的に関連付けられていて、
『ここにはこの言葉が不可欠である』という所まで練り上げ、
推敲に推敲を重ねた上で、詩歌として成立している分けですね。
ですから多少、時間が経っても忘れることはあり得ない分けです。

109闇夜の鮟鱇★:2012/03/30(金) 11:44:28 ID:???0
  ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(6/6)

それから第45回では、大伴坂上郎女の724番歌の解釈が気になりました。
  朝髪の 思ひ乱れて かくばかり 
  汝姉(なね)が恋ふれそ 夢に見えける
  (朝、髪がくしゃくしゃになるように、
  心がちぢに乱れて、あなたが私のことを思うから、
  私の夢にまで、あなたが出てきましたよ。)

この講師の解釈は、もう一つ明確ではありませんでしたが、
『こんなにもあなたを恋しがるから、
あなたが私の夢に出てきた』とか言っていたと思います。
ということは『母親の郎女が娘の大嬢を恋しく思った結果、
母親の夢に娘が出てきた』ということになりますね。

ネットでは両様の解釈があるようですが、
例えば、このサイトの解釈も講師と同じになっています。
  万葉集 水彩画
  http://blogs.yahoo.co.jp/nosolu2003/archive/2011/10/14


でも、実を言うと、夢についての考え方は、
現代人と古代人とでは正反対である分けですね。
つまり、現代人は『自分があの人のことを思うから、
あの人が自分の夢に出てくる』と考えますが、
古代的な発想では『あの人が自分のことを思うから、
あの人が自分の夢に出てくる』となる分けです。

言わば、一種のテレパシーみたいなもので、
『相手の念力のようなものが空中を伝わってきて、
自分の夢の中に現れる』と考える分けですね。
その意味で、古代人の発想は現代人とは逆になるわけです。
ですから、ここで朝髪の乱れる如くに思い乱れているのは、
母ではなく、娘の方であると解釈する必要があると思います。

それから第44回では、例の赤人の歌を改めて取り上げていましたね。
  朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に 河蝦はさわく
  http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/36.htm
その場合『かむなびやま』がどの山かハッキリしないとか言っていましたが、
私の考えでは、ここは天香具山とするのが順当であるような気がします。
何と言っても明日香を代表する神聖な山と言えば香具山ですし、この場合、
飛鳥川との地理的関係に、余り捕らわれる必要はないのではないでしょうか。


ところで、最後にもうひとつ、気になっていることがあります。
万葉歌人の名で、黒人・赤人・旅人などはそれなりに意味が分かりますが、
山上憶良の『おくら』とは一体、何を意味するんでしょうか。
『さくら』や『まくら』からの連想で言うなら、ここでも、
『おく』という動詞が名詞化したものと考える手はありますが、
それにしても、具体的に何を意味するのか皆目、分かりませんよね。

これは、和語としては既に廃れてしまった言葉の一つで、
本来は何か意味があったのかもしれませんね。
その点では、大伴家持の『やかもち』と言う読みも不審ですね。
『やもち』とか『かもち』、或いは『いえもち』ならまだ分かりますが、
どうして『やかもち』なんでしょうか。(^^;)

因みに、黒人に関しては >>102 で凡ミスをやらかしました。
そこでは、うっかり『武市黒人』と書きましたが、
『たけちのくろひと』の『たけち』は、
高市皇子と同様に『高市』とするのが正解でしたね。
ですから、正しくは『高市黒人』です。

113闇夜の鮟鱇★:2012/10/25(木) 11:50:24 ID:???0
  ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(1/5)
  〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜

既に、お気づきの方も少なくないだろうとは思いますが、
>>88 で書いた件では、やはりデータが出てきましたね。(*^^)v
つまり『紀元前6世紀末頃の自然放射線が、本当に多かったのか』
と書いた点で案の定、その証拠となるデータが見つかった分けです。
というのも、実は例の『炭素14による年代測定』においては、
地上に降り注ぐ自然放射線の増減が、その攪乱要因となるために、
時代毎のそうした増減について、詳細な調べが存在するようなんです。

今年の6月頃、名古屋大学の論文にその話がありました。
  宇宙線量が奈良時代に急上昇!超新星爆発!?
  http://ameblo.jp/jokeness1445/entry-11269318378.html
  日本の奈良時代にあたる西暦774年から翌年にかけて、
  宇宙から飛来した宇宙線が過去3000年で最大の増加率だったことを、
  名古屋大太陽地球環境研究所の増田公明・准教授(宇宙線物理学)や
  中村俊夫・名大年代測定総合研究センター教授(加速器分析科学)
  らのチームが明らかにした。
  英科学誌「ネイチャー」電子版に4日掲載される。

この話によれば、過去に自然放射線が急増した時期が三回あるらしく、
更に探し回った末、名古屋大学のPDFにこんなのを見つけました。
  8世紀における宇宙環境の大変動を発見
  −屋久杉年輪に大きな宇宙線変動の痕跡−
  http://www.nagoya-u.ac.jp/research/pdf/activities/20120604_stelab.pdf
  【本研究の内容】
  IntCal データから、過去3,000 年の間に炭素14 濃度が
  大きな増加率(3‰/10 年以上:‰は千分率)
  を示した時期が3回あったことがわかります
  (紀元前600 年、西暦780 年、西暦1800 年頃)。


つまり、紀元前600年頃に一度目の増加があったという分けですからね、
例のブッダ・孔子・ピタゴラスの時代と、ほぼドンピシャリですよね!?
こうなると他の二回の増加で、どんな変化があったのかが気になりますが、
世界史の年表をひっくり返しても『西暦780年や1800年の後に、
大天才が特に集中した』という証拠は、残念ながらないようです。

その点では、もっと詳しい自然放射線の経年変化グラフが欲しい所ですが、
ちょっと探しても、それは見当たりませんでした。
ネットには情報が氾濫しているとは言え、専門的なデータともなると、
まだまだ『なんでも見つかる』というレベルには、ほど遠いようですね。
ただ……大天才の集中という観点から少し離れて、
国内に目を転じると、案外ヒントがあるかもしれません。

結局、世界の中で、日本は自然放射線が比較的に少ない所のようですから、
こうした増減の影響を、よりハッキリと受けやすいのかもしれませんね。
因みに、日本の場合『その民度が高い割には、ヨーロッパに比べて、
大天才が少ない』と良く言われますが、ひょっとすると、その原因も、
日本では自然放射線が少ない、という事実によるのかもしれません。


さてそれで、先ず西暦780年の場合ですが、
日本では、奈良時代の末期にあたりますよね。
で気づいたんですが、奈良時代の印象が何やらくすんでいるのに比べ、
その後に来る平安時代は、パーッと明るく華やかな感じがしませんか?
この落差に、実は放射線の影響が絡んでいるのではないでしょうか。
つまり、780年頃に降り注いだ放射線の影響で、人々の知的レベルが向上し、
あの華やかな平安文化が生み出されたと考える分けです。

その後、数百年の繁栄が続く間に、放射線の影響が徐々に失われて、
源平の騒乱という暗黒時代に陥って行く分けですね。
それは丁度、BC600年頃の放射線の効果でローマに生まれた共和制が、
その数百年後、放射線が残した効果が薄れると共に、
暗黒の帝政に陥ったのと良く対応しているように思います。
但し……平家物語などを読み慣れている皆さんの場合、
そこでは、合戦がいかにも華やかに描かれているので、
暗黒時代と言っても、余りピンとは来ないかもしれませんね。

でも、こうした戦乱の時代が暗黒を意味することは、
一般庶民から見れば、疑いのないことではないでしょうか。
例えば、奈良焼き討ちに伴う文化財の大量消失もそうですが、
確か、義経が北陸を経由して京都に攻め登った時なんか、
夜間の照明代りに、道中の家々に火を放ったそうですからね。
火を放たれる側からしたら、たまったものじゃないですよね。(-_-;)

114闇夜の鮟鱇★:2012/10/25(木) 11:53:17 ID:???0
  ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(2/5)
  〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜

ならば、もう一つの1800年の後はどうかというと、
日本では一茶や良寛が活躍した化政時代に当たる分けですから、
これまた放射線の影響と見なすことも、不可能ではないでしょうね。
もっとも、この辺になると少し、こじつけ臭い感じがなくもないですし、
その前の元禄文化はどうしてくれる、ということにもなりますかね。(^^;)
ところがところが……案外そうでもないようなんです。

以上のデータは、あくまで『放射線が急激に増えた時期が過去に三回ある』
という意味で、超新星爆発との関連も疑われている分けですけどね。
でも『自然放射線の増加が天才を産む』と言う私の観点からすると、
『超新星の爆発で放射線が急増した』という説は余り面白くありません。
というのも、超新星の爆発の場合、放射線の増加はほんの一時ですから、
天才を生み出す効果は、余り大きくないと予想されるからです。

それに比べ、増え方は遅くても量的には更に多かった時代がある分けです。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1226114724/62
つまり、以前に少し触れた太陽黒点の変動に関してですが、
『マウンダー極少期にはテームズ川が凍りついた』という話があります。
そのマウンダー極少期というのは、1645〜1715の70年間に渡るわけですが、
この時代が丁度、元禄時代と重なりますし、西洋ではニュートンや、
大バッハが生み出された時代でもある分けですね。(*^^)v


このケースでは、詳細なグラフも見つかりました。
wikiにあるこのグラフを見ると、1645〜1715の Maunder Minimum と、
1790〜1820の Dalton Minimum という二つの谷が明瞭に分かりますよね。
因みに、太陽黒点の谷は、即ち自然放射線の山を意味する分けです。
  400 Years of Sunspot Observations
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sunspot_Numbers.png

ここで注目すべきは三回目の急増が、ダルトン極小期にあたることです。
ということは、他の二回の急増にしても、超新星の爆発などではなく、
やはり、太陽黒点の谷の時代にあたる可能性が出てきますよね。
そして、その方が天才輩出の条件としては都合がよい分けなんです。
まとめると『太陽黒点が消える時代には、地球が寒冷化すると共に、
沢山の天才が輩出される』ということになるのではないでしょうか。

因みに、戦後の核実験に伴う放射線の増加に関しては、
以前にビートルズの例を引きましたけど、
改めて日本の場合を考え直してみると、
日本のフォーク・ブームの黄金時代は、
結局、1943年生まれの小室等に始まり、
1965年生まれの尾崎豊に終わった、と言えるような気がします。
これは核実験による放射性物質の降下が続いた期間に該当しますよね。


その関係のグラフはあちこちで見かけますが、例えば、
ここのグラフを見ると、放射線が増え始めた時期は分かりませんが、
1965年頃から急速に放射線が減って来ているのが分かると思います。
右の縦軸は放射性物質の降下量を対数スケールで示していますが、
1965年頃から10の三乗を下回って来ていますよね。
  7/20 今年の米の放射性セシウムによる汚染具合を予想する!  
  http://tsukuba2011.blog60.fc2.com/blog-entry-297.html
  http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img/kakujikken.jpg

ついでに、もう一つ例を上げるなら、
昔から私が気になっていたこととして『戦後の日本で何故か、
広島出身者が目立つ』という現象がありました。
それで当時の私が考えていたことは、広島が原爆で廃墟となり、
その中心部が空洞化した結果、戦後にその真空を埋めるように、
周辺から沢山の人々が集まってきただろうということです。

その結果、それが生み出すシャッフル効果が一種の刺激となって、
戦後の広島に沢山の才能が生まれたのではないか。
それが当時私が思いついた仮説でしたが、今になって考え直すと、
それよりも、むしろ『広島では放射線による効果で、
才能が生まれ易かった』と考える方がスッキリしますね。
同様のことは、長崎についても言えるのではないでしょうか。

115闇夜の鮟鱇★:2012/10/25(木) 11:56:35 ID:???0
  ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(3/5)
  〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜

さてそこで次は、例の原発反対デモの話になるわけですが、
その場合『デモの中心はノーベル賞受賞の某文学者を筆頭に、
理系よりも文系の人が多い』という話を聞きました。
それで思い当たったことなんですが、ここでは結局、
『桁の違いというものを、肌で直感的に理解できるかどうか』
という点が、分かれ目になっているんじゃないでしょうか。

そうした桁の差への一般人の無知に付け込み、
不安を煽るユダヤ主義の工作があるようですが、
我々はそうしたデマゴーグに惑わされるべきではありません。
以前に紹介したビデオでは、福島第一原発の正門前まで、
無防備で出かけた学者がいましたけど、彼にしても、
桁の違いが分かっているから、何の不安も無かったんでしょうね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1226114724/55

ごくごく大ざっぱに言うと、毎時数シーベルトは必ず死ぬレベル、
それより3桁少ない毎時数ミリシーベルトは、将来の発癌が心配なレベル、
そして、更に3桁少ない毎時数マイクロシーベルトは、
健康増進のホルミシス効果が期待できるレベルということですよね。
少し乱暴かもしれませんが、これを重さの単位に置き換えてみると、
一般の人にも、その差が遥かに分かり易くなるように思います。


1トンの放射線が必ず死ぬレベル、1キログラムの放射線が発癌性のレベル、
1グラムの放射線が健康を促進し、天才を産むレベルと考えてみて下さい。
例えば、毎日1グラムの塩は人が生きるのに不可欠ですが、
毎日1キログラムの塩を食えば、確実に死ぬでしょ!?
3桁の差というのは、それくらい大きなものなんですね。

その点で私が一つ考えているのは、桁の違いの分かる人々が、
率先して範を垂れるべきではないかということです。
例えば、全国の大学の理学部で、そのキャンパスの中心に、
使用済みの核燃料とか、或いは除染作業で出る廃棄物とかを、
置いてみてはどうなんでしょうか。

それにより、毎時数マイクロシーベルトの放射線を、
人々が浴びられる状態を人工的に作り出す分けですね。
今の時点では、それは尚、多少とも、
人体実験的な意味あいを持つかもしれません。
でも、元々マイクロシーベルトなんて、
恐れるに足りないレベルですからね。


それは一方で、健康増進効果が期待できると同時に、
他方では、以上の例からしても、日本の科学界に、
天才を量産することになるのではないでしょうか。
何故、私がこんなことを言うのかというと、
ただでさえ落ち目な日本が、今や原発を動かせず、
宝の持ち腐れ状態になっているわけですよね!?

こうして原発が動かない間は、日本の国は確実に、
それだけ貧しくなっている、ということを忘れてはいけません。
その時、理屈の分かる大学人が、率先してこうした行動を取れば、
結果的に、日本を救うことになるのではないでしょうか。
結局、少なくとも我々が感覚的に理解できる世界においては、
物理現象の連続性という常識が成り立つ分けですね。

つまり、どんな現象でも、いきなり突然に変化することはなくて、
結果に一定の変化を起こすには、原因に一定の変化が必要な分けです。
そうした常識に照らすなら、毎時数マイクロシーベルトの放射線が、
有害なんてことはあり得ない分けですが、一般人の無知につけこみ、
一部のユダヤ主義の御用学者が、不安を煽り立てている分けですね。

116闇夜の鮟鱇★:2012/10/25(木) 11:58:47 ID:???0
  ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(4/5)
  〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜

あれは今年の2月頃だったと思いますが、
『福島の野鳥が放射線の影響で減った』とか騒いでいましたね。
その後どうなったのか、ユダヤ・マスコミは報じませんが、
『毎時数マイクロシーベルトの放射線で野鳥が減った』なんて、
私なんかからすると、チャンチャラおかしい話なんですよね。

野鳥の減少には、もっと別の要因があるに違いないわけで、
例えば、あの事故の結果、福島原発の周辺では、
色々な工事車両が走り回っていた分けですね。
更に言うと、暫くの間は、放射能を測定する為とか言って、
米軍機が上空を定期的に飛び回っていたようですからね。
それで野鳥が逃げ出さないとしたら、むしろ不思議でしょ!?

何しろ、その野鳥の減り方はチェルノブイリの時より、
福島の方が激しいという分けですからね。
こうした事故の場合、日本では特に大騒ぎする分けで、
その騒ぎ方に比例して野鳥が減ったと考えるなら、
チェルノブイリより福島の方が大きく減るのは、
当然の帰結ではないでしょうか。


それから、そのチェルノブイリに関しては、少し前のNHKで、
ウクライナのコロステンという町の話をしていましたね。
私もあの番組をざっと見てみましたが……
『放射線の影響が癌だけにとどまらない』
という話は、まんざら嘘ではないのかもしれません。

『放射線を浴びると免疫系が劣化して、
様々な病気を引き起こす』という可能性について、
医学に素人の私が、否定すべきではないでしょう。
ただ……その影響を生み出した放射線というのは、
現在も残る毎時数マイクロシーベルトのレベルではなく、
事故の直後に相当ひどい被曝があったんじゃないでしょうか。

何しろ、当時のソ連の秘密主義のせいで、
最初の3年間についてのデータは存在しないそうですからね。
その上、コロステンの人々は、山のキノコなどを採取する、
自給自足の食生活を昔から送っていて、
あの事故の後も、それを続けていたらしいですからね。
内部被曝も、当初は相当ひどかったと予想されます。


『その結果、体の免疫能力が落ちて癌以外の病気にもなりやすい』
と考えれば、今回の話は矛盾なく理解できると思います。
つまり近年になって、過去のひどい被曝の影響が、
現れてきたという分けですから、福島の人々が、
あれを見て不安になる必要は微塵もないでしょうね。

それから『年間100mSvを越すと癌のリスクが増える』
というのが、最近では医療関係者の定説らしいですけどね。
因みに、コロステンの話でも積算500mSv以上が危ないとか、
積算250mSv以上で白内障が問題になるとか言ってましたが、
何度も言うように、問題は積算値ではなく、毎時の放射線量なんですね。

でも、そもそも癌だけを心配しても仕方ないでしょ!?
人間が死ぬのは、別に癌に限らないわけですし『どうせ死ぬなら、
癌で死ぬのがベストだ』という人だっている分けですからね。
というのも『寝たきりで管につながれ何年も生かされる位なら、
癌でスッパリ死ぬ方が楽だ』という理屈も成り立つからです。

117闇夜の鮟鱇★:2012/10/25(木) 12:01:28 ID:???0
  ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(5/5)
  〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜

その点、例のネズミの長寿化実験が重要なのは、
それが全ての死因を総合した話だからです。
毎日1.1mSv(年間402mSv)を浴びたネズミが、
最も長生きしたという分けですね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1226114724/66

この話が示唆するのは、微弱な放射線を浴びた場合、
仮に、癌で死ぬ可能性がほんの少し増えるとしても、
それ以上に、他の病気で死ぬ確率が減るということですよね。
その意味では、あの実験の詳細なデータを知りたい所なんですが、
あの実験の元データを探しても中々、見当たりません。

まさかでっち上げではないだろうと思いますが、ここでも、
ネット上のデータ蓄積がまだまだ、不完全なのかもしれませんね。
もっと詳しい実験を国家的にやるべきだ、書いた件では、
以上の観点からすると、その時はきちんと、
死因も含めたデータを取るべきでしょうね。


直近では、ユダヤ・マスコミが『福島と同レベルの原発事故が起こると、
半径30kmを越えた範囲でも避難が必要になる』とか騒いでますね。
でも……何百年も先の事故を今から心配してどうするんですかね!?
そもそも、将来の原発は例の水没式になっているでしょうし、
更には、核融合炉が実現している可能性もありますからね。
福島と同じ事故がまた起こる、なんていう想定自体が間違いですよね。

そんな遠い先の心配より『現在の日本では経済的な苦境の中で、
沢山の自殺者が出ている』という深刻な問題がある分けでしょ!?
その為にも、原発を再稼働し、日本経済を立ち直らせることの方が、
より緊急の課題であるように私には思われます。

最後に、一つ気になっていたことですが、以前に書いた内容に、
ひとつ凡ミスがあったようなので、念の為に訂正しておきます。
つまり、時事放談で皮膚ガンのグラフに線を書き加えた件ですね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1226114724/62
  http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img/hormesis2.png


元のグラフでは3つの仮説に基づく線が書いてあったのですが、
肝心のホルミシス説に基づくグラフがないのが気になって、
その時、ざっと書き加えたように記憶します。
でも、私が書き加えた曲線では、原点との交点が2を越しそうですね。

これは『線量がゼロの場合に比べた相対リスク』ですから、
曲線は、あくまで原点を通らないといけません。(^^;)
但し、元々のグラフが甘く、目盛り軸が原点を通ってませんからね。
正確には『横軸0.0を通る垂線と、縦軸1.0を通る水平線の交点』
を通ると言う必要があるでしょうね。

因みに、このグラフ自体、横軸が線量の積算値で、
毎時線量についてのグラフにはなっていないわけです。
その意味で、目盛り軸を余り気にせずに、
書いてしまったのが、失敗の一因かもしれません。

120闇夜の鮟鱇★:2013/07/29(月) 11:56:15 ID:???0
  ●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(1/7)

例の古典講読ですが、去年は平家物語をずっとやっていましたね。
以前には『断絶本』という系統の本を全文講読したことがありますが、
その点、今回の『覚一本』講読は残念ながら抜粋で、
しかもその上に、史実との関連性に重点を置いた内容でしたからね。
文学的な味わいの方は相当、犠牲になっていたように思います。

それで、今年の古典講読もまた平家物語なんですが、
今度は魅力的な人物を中心に取り上げているようですね。
ただ、講師が女性のせいか、武将の華々しい活躍よりも、
女性中心の地味な話になっているのが、少し物足りない気がします。

さて、実を言うと既に去年の講読の段階で、
色々と新たに気づいたことが多かったので、
もっと早く書きたかったんですけどね。
これまた色々な雑用に追われて、書きそびれてしまっていたので、
その分、今回は少し長くなるかもしれません。(^^;)


先ず、最初は例の俊寛の話ですが、去りゆく御赦免船を俊寛が追う場面を、
歌舞伎では足摺の表現までして描くのが、大変に印象的な分けですけどね。
今回の講読では、そうした表現の不自然さに気づかされました。
というのも、俊寛が本気で島から脱出する気なら、
その為の手段は、他に幾らでもあったように思えたからです。

例えば、俊寛たち3人が鬼界ヶ島に流されていた間、実は、
藤原成経の所には、家族から定期的に食料などが送られて来ていて、
3人はそれによって辛うじて、食いつないでいたという話がありましたね。
ですから、俊寛がもし何としてでも島を脱出しようと考えるのなら、
その定期便にもぐり込んで帰ることも、十分にあり得ただろうと思います。

或いは、硫黄を取引する商人船が通う話とか、
付近の小島の漁師が小船をあやつって往来する話もありましたから、
それらの船を使って脱出することも、不可能ではないように思われました。
それなのに、あえて脱出しなかったのは結局、無許可で流刑地を離れた場合、
見つかれば即刻、斬首という事情があったのではないかという気がします。
実際、弟子の有王という人物が一人娘の手紙を届けた時も『有王の船で帰れ』
と書いてあるのを『何も事情が分からない幼さ』と一蹴していますからね。


ですから、問題は船の有無という物理的な要因ではなくて、
都からの御赦免状がないという点に尽きるような気がした分けです。
つまり、真の問題は都から帰還の許可が降りないことであって、
船の調達だけなら、どうにでもなったのではないかということです。
そうした点からすると、歌舞伎のシーンで『船から置き去りにされた俊寛が、
地団駄を踏む』というのも、何かずれている感じがする分けですよね。

他方、俊寛と別れる時の成経が『自分が都に帰ったらなんとかする云々』
と慰める場面も、その後の展開からすると随分、奇妙な感じがしました。
実は、成経自身は都に帰った後、官職に復帰して出世までしたようですが、
一方の俊寛は食うものもなくなり、半ば飢え死にしたみたいな表現でしょ!?
別れ際の言いぐさからすれば、自分が居なくなった後の俊寛の為に、
食料調達の手配位はするのが当たり前ではないか、と思う分けですけどね。

或いは、平家ににらまれるので、それも出来なかったということでしょうか。
それなら、俊寛のみが残されたこと自体、俊寛を飢え死にさせようとする、
清盛の直接的な意図があった、と見るしかないのかもしれませんね。
全体に『どこまでが真相で、どこからが創作かわからない』という点で、
この俊寛の話の信憑性は相当、怪しいように私には思われたのでした。

121闇夜の鮟鱇★:2013/07/29(月) 12:02:41 ID:???0
  ●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(2/7)

二つ目の問題として、芭蕉と義仲の関係があります。
松尾芭蕉が、義仲の墓に自分を葬るように遺言したという話は有名ですが、
その結果、芭蕉は実際に大津の義仲寺に葬られて、今も塚が残る分けですね。
しかし、平家物語に登場する多くの人物の中で、芭蕉が最も入れ込んだのが、
木曽義仲だったというのが、私には少し引っかかっていたのでした。
つまり、自分が一緒に葬られたいとまで望んだ相手が、
巷では人気の高い義経ではなくて、むしろ義仲だったということですね。

その点では、去年の講読を聞いていて、少し理由が分かった気がしました。
先ず一つ目に、義仲という人はかなり人情に厚い印象を受けます。
それに比べると、例えば源頼朝の場合などは信賞必罰というのか、
戦さで功績があった人は厚く遇したようですが、
戦さ下手の武将には徹底的に冷たい所がありますからね。

例えば、熊野にいた源行家は、以仁王(もちひとおう)の謀叛の時に、
反平家の令旨を持って諸国を回った人物として有名ですよね。
ですから、彼は源平争乱のそもそもの起点となった重要人物とも言えますし、
その為か自負も強かったようですが、戦場ではからしき駄目だったようです。
その結果として彼は頼朝に冷遇されて、希望する領地をもらえなかったので、
頼朝と対立した末に、甥の義仲の元に逃れる分けですね。


或いはもう一人、志田義広という人も頼朝や義仲の叔父にあたりますが、
やはり大した戦功を残せずに冷たくされ、頼朝軍と一戦まじえた後で、
これまた義仲の所に逃れて行ったようですね。
その時、義仲は頼朝と対立して逃げてきたこの二人を、
叔父として手厚くもてなすので、彼は頼朝ににらまれてしまう分けです。

その結果、頼朝軍に攻められそうになると、大切な嫡男である義高を、
敢えて人質として鎌倉に差し出す、ということまでした分けですね。
それから、倶利伽藍峠の戦いの時も、自分は平家の主力を壊滅させた後で、
別動隊の行家の事が心配になり、援軍として駆けつけたのでした。
すると案の定、戦さ下手の行家軍は散々に蹴散らされていたのですが、
ここでも彼は戦線を立て直し、面倒を見た分けですね。

他方、第二点として、そうした人情家としての側面とは別に、
義仲のもうひとつの魅力は、その茶目っ気にあるような気がします。
ある時、猫間の中納言という貴族が所用で訪ねて来たのを、
田舎料理でもてなす場面は有名ですが、その時の義仲は、
彼を『猫間殿』とは呼ばず、敢えて『猫殿』と呼び続けたんだそうです。
何かふざけているというのか、人をからかっているというのか、
余り『歴戦の勇者』という感じではありませんよね。(^^;)


京都に入った後では『義仲軍が京都の周辺で略奪を働く』というので、
今度は、平知康という貴族がそれを諫めに行く場面がありますね。
その時も義仲は、鼓判官(つづみほうがん)という彼の俗称を捕らえて、
『鼓判官というのは、たくさんの人に打たれたからか、
それとも張られたからか』と、からかったという話がありました。

結局、それで知康は腹を立てて、返事もせずに宮中へ帰ってしまい、
『義仲は馬鹿者ですぐに朝敵となりそうだから、早く追討すべきだ』
と後白河院に上奏されてしまうはめに陥る分けですね。
その結果として起こったのが、例の有名な法住寺合戦で、
ここでも義仲軍は圧勝した分けですが、しかしそのことが、
最終的には、頼朝に義仲を攻める口実を与えてしまった分けですね。

でも、先に述べた人情に厚い点や、こうした茶目っ気のある点が、
義仲という人物に特有の魅力を与えていることも事実ですよね。
芭蕉が、平家物語に登場する人物の中でも特に、義仲を慕った理由は、
案外この辺にあったのではないかと、私には思われたのでした。

122闇夜の鮟鱇★:2013/07/29(月) 12:06:09 ID:???0
  ●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(3/7)

そして三つ目のテーマですが……昔から気になっていたのは、
能の『藤戸』でも有名な、例の藤戸の戦いの話なんですね。
一ノ谷で敗れた平家軍がちりぢりに逃れ去った後、
平行盛は改めて、備前児島に陣を構えたようですね。
範頼軍はそれを対岸から攻め落そうとしたのですが、
その時、武将の一人だった佐々木盛綱は地元の漁師から、
『馬で渡れる浅瀬がある』とこっそり教わる分けですね。

しかし、なんとしても先陣の手柄を立てたいと思った盛綱は、
『その男が他の者にも同じことを話すかもしれない』と心配になり、
こともあろうにその恩人を切り殺してしまうという展開でした。
この話はその後味の悪さにおいて、平家物語の中でも、
随一と言って良いのではないかと思います。

そのことがずっと引っかかっていた所、去年の講読の中で、
屋島の戦いの前哨戦として、罵り合いの舌戦の話が出てきました。
その中で、平家方の平盛嗣が義経軍の武将である伊勢義盛を、
『鈴鹿山で山賊をしていた奴』として嘲る場面がありましたね。
それで私が思いついたのは結局、当時の源氏軍の実体というのは、
一種のごろつき集団だったのではないか、ということでした。


その点では、義経軍よりも、もう一方の範頼軍の方が特にそうで、
範頼の軍は京に攻め上る時も、京よりずっと手前の岐阜当りで、
先陣争いから乱闘騒ぎを起こした、という話がありますね。
その結果、範頼は入京した後で頼朝から叱責を食らって、
暫くの間は、謹慎状態だったという話が出ていました。
ですから、範頼軍にいた佐々木盛綱なんていうのも、
その手のごろつきの一種と考えると、スッキリ収まる気がしたのです。

実を言うと、義経の場合にも良く似た話があって、
有名な鵯越えの逆落としでは、木こりの息子が道案内をした分けですね。
その時、義経は彼に鷲尾義久という名前を与え、部下として取り立てたので、
義久は最後の衣川の戦いで、義経と一緒に討ち死にしたという話があります。
ですから、盛綱の場合も恩人の漁師を何も殺さなくても、
少なくとも暫くの間は、自分の部下として一緒に連れて行く、
という選択肢があったのではないでしょうか。

この辺の落差は結局、義経が都で生まれ15歳位までは都で育ったのに比べ、
範頼が田舎の遊女の子で田舎しか知らない、という背景を考えれば、
別に驚くには当たらないことかもしれませんね。
但し……少し調べてみると、この盛綱は一応の家系のようですし、
その意味で、ごろつき説には少し無理があるかもしれません。


まあ、その後の武士の時代にも『城に秘密の抜け道を作った時、
それを作った大工を皆殺しにした』なんていう話を聞きますから、
そういうことは、珍しくなかったのかもしれませんけどね。
ですから、藤戸の話にしても、ごろつき云々ではなく、
あくまで戦争の非情さという範疇で、
捕らえるべきものなのかもしれませんが……。

因みに、ずっと前に引用した日中戦争の『軍隊まんだら』でも、
山中で出会った中国人の集団に道を教わった後で、
『自分たちの隠密行動が敵にばれるとまずい』という分けで、
後ろから撃って皆殺しにした、なんていう無残な話がありました。
  http://www2.ocn.ne.jp/~sukagawa/

改めて捜し直した所『別の部隊が桂林作戦の隠密行動の途中で、
出会った中国人を全て殺した』という少し違う話になっていますね。
当人が書き直したのでなければ、私の記憶違いかもしれません。
『追及梯団』の末尾の『本隊に追及』という所ですね。

123闇夜の鮟鱇★:2013/07/29(月) 12:16:29 ID:???0
  ●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(4/7)

似た話としては、義経軍が勝浦から屋島に徹夜の行軍をする途中、
敵将の宗盛の所に書状を運ぶ男と出会った、という話がありましたね。
義経は、その男を騙して道順を聞いたりした後で、その書状を奪うと、
男を殺す代りに、山中の木に縛りつけて去ったんだそうです。

ここでも下手をすれば、自軍の動きを敵に察知される危険がありますが、
『木に縛りつけておけば、男がそこから脱出する頃には、
屋島での奇襲は終わっている』と計算したんでしょうね。
でも、無用な殺生はできるだけ避けようとする点において、
この辺も、やはり義経軍は文明的な感じを受けます。

或いは平家側でも、平知盛が息子の犠牲によって生き延びた時に、
彼を沖の船まで運んでくれた屈強な名馬を乗せる余裕が無くて、
岸へと追い返すという場面がありましたね。
その時、部下は名馬を敵に渡すよりは射殺そうとしたのですが、
自分の命を救った馬を殺すのは忍びないと思った知盛は、
敢えて部下を制して、やめさせたのでした。


或いは、壇の浦の合戦でも、能登守教経がここを最期と孤軍奮闘した時、
知盛から『もう勝敗は決したから、無用な殺生をするな』と諫められて、
『それなら敵の大将と組もう』と義経を追ったという話があります。
この辺にも、文明と野蛮の差が感じられるのではないでしょうか。

因みに、この能登守教経の消息に関して、吾妻鏡には、
『一ノ谷で安田義定の軍に討ち取られた』という記録があるんだそうです。
それで、私はこの教経と義経が最期に戦うという展開も、
例によって良くあるフィクションではないか、と最初は思ったのでした。

というのも、ゴジラ対モスラにしろ、エイリアン対プレデターにしろ、
『誰が再強か』という組み合わせ対決は、大衆受けしますからね。(^^;)
『平家の勇将として名を馳せた能登守教経は、敢えて生かしておいて、
源平合戦の最終局面において、義経との対決を実現させる』というのは、
物語作者なら、いかにもやりそうな創作と思えた分けです。


ところが……一ノ谷の合戦の後、京都で平家の武将の首がさらされた時に、
教経の首が偽物だと判明した、という話が実はある分けなんですね。
それで私が考えたのは、この教経という男は勇将であるという以上に、
策士でもあったのではないかということでした。

つまり、一ノ谷の戦いで大敗した時、彼は影武者を用意すると同時に、
自分は目立たない格好に身をやつして、そこを脱出した可能性があります。
というのも、当時の大将は立派な鎧兜を付けていて、
雑兵との区別は、簡単についたそうですからね。

ですから、安田義定が教経の首を取り違えるということ自体、
影武者がそれなりの格好をしているのでない限り、あり得ませんよね。
ならば、どうして吾妻鏡の記述が訂正されていないのかという点ですが、
それは恐らく『教経に一杯食わされた』ということを、
頼朝が認めたくなかったからではないでしょうか。(^^;)

124闇夜の鮟鱇★:2013/07/29(月) 12:19:50 ID:???0
  ●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(5/7)

もう一つ、例の一ノ谷の合戦に関して、平家物語では、
『源平両軍がそれぞれ数万の大軍を擁して対峙した』とありますね。
ところが、当時のある貴族の日記には、
『源氏軍は数千騎に過ぎなかった』という記述があるそうです。

この辺の問題は未だ、未決着らしいのですが、
どうも私には、頼朝軍は一桁少ない数千騎だったとする方が、
信憑性があるように思われたのでした。
というのも、京都で頼朝軍を迎え撃った時の義仲の軍勢は、
既に、実質的には数百騎にまで減っていたという話があるからです。

それなのに、義仲が数万騎の頼朝軍を相手にして、
本気で都の防衛戦をやる、とは到底思えない分けですね。
始めから二桁も多い敵と分かっていたなら、
どう考えても、勝ち目はないですからね。


むしろ一度、自分の本拠地である北陸道に引き、
そこから反攻の道を探る、というのが常道ではないでしょうか。
その点、仮に頼朝軍が噂通りに、飢饉の影響などで、
数千騎しかいなかったのだとすると、話は変わってきますよね。

一桁多い程度の敵なら、義仲得意の戦術を駆使すれば、
何とか打ち破る可能性も、十分ありますからね。
そして、後の一ノ谷では、頼朝軍が法王をも抱き込んだ謀略戦などにより、
一桁多い平家軍を打ち破ったのだ、と考えるのが妥当ではないでしょうか。

因みに、以前には記憶違いで『義経が北陸を経由して京都に攻め登る時、
夜間の照明代りに、道中の家々に火を放った』とか書きましたけどね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/113
実はそれは、この一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草山の戦いの時に、
義経軍が夜討ちの奇襲をかける為に用いた大松明作戦のことでした。
北陸を経由して攻め上ったのも、義経でなく義仲ですからね。(-_-;)


去年の講読では他にも、いくつか気になった所がありました。
先ず、これはごく最初の頃に出た話ですが『平家物語では、
合戦の前に必ず一息入れるような話をおく』とか言ってましたけどね。
でも、この辺の記述は、単に一息入れるというのではなくて、
『戦いの前には、必ずその結果を予言するような御神託があった』
という描き方が、定型的な構図になっているようですね。

まあ、そうした超自然的な力を想定することは、
近代以前の文学では、ごくありふれた手法ですけどね。
それから『吾妻鏡では寿永2年(1183年)の記録が脱落している為に、
義仲と頼朝とが不和になった経緯が良く分からなくなっている』
という話があって、少し気になりました。
それに関連した記述は、このサイトにもありますね。
  http://kanazawa45.wordpress.com/2005/04/16/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%EF%BC%92%E5%B9%B4%E6%98%A5%E3%81%AE%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2%E3%81%A8%E3%81%AE%E8%A1%9D%E7%AA%81%EF%BC%88%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91%EF%BC%89/

で私が思ったのは、ひょっとすると、ここの記述も、
家康が削除したのではないか、ということでした。
つまり、この辺にも例の家康の親戚の話が書かれていたので、
頼朝の変死の記録を削除した時に、一緒に削除したと考える分けです。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#120

125闇夜の鮟鱇★:2013/07/29(月) 12:25:26 ID:???0
  ●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(6/7)

それから、以下は今年度の講読に関して思ったことですが、
例の殿下の乗合事件に関して気になることがありました。
平家物語では、この事件は『祖父の清盛が主導して、
孫の資盛の為に復讐した』ということになっている分けですね。

ところが、歴史の様々な資料からして『実際は、
父親の重盛が息子の為にやったというのが真相である』
という風に考えるのが現代では主流のようです。
つまり、平家物語の中で清盛を悪人として描く上で、
全体の構図を作り変えたのだろう、という話なんですね。

でも、これまた当時のある貴族の日記によると、
『あの温厚な重盛が、本当にそんなことをしたとは、
信じられない』みたいに書いてあるんだそうです。
で、あくまでへそ曲がりみたいですが……私としては、
ひょっとして、ここは平家物語の方が真相に近い、
と考える可能性はないのかと思った分けです。


つまり、当時の清盛は出家して、仏道に励もうとしていた時期でもあり、
自分が起こした悪行を敢えて重盛に押しつけたのではないか、
そして、重盛の方も全てを知った上で、敢えて父の為に、
それを受け入れたのではないか、ということですね。
まあ、その辺は更に資料を集めて分析しないといけないというか……
最終的には証明不可能なことかもしれませんけどね。

それからもう一つ、これは特にネット上の議論ですが、例の鹿ヶ谷事件が、
清盛によるでっちあげである、という説が結構根強い分けですね。
でも、この点にしても、私は平家物語の記述は、
むしろ、十分信頼がおけるのではないかと思います。

というのも『鹿ヶ谷でっちあげ説』の最大の根拠というのが、
『そのタイミングが清盛に取って都合良過ぎる』という点にあるからです。
つまり『法王の命令に従って、このまま山門(比叡山)を攻めれば、
平家一門は仏敵となってしまう』ということを清盛が恐れ、
あんな陰謀事件をでっちあげて山門攻めを中止する一方で、
それを政敵排除にも利用したと考える分けですね。


でも……そもそもの問題として、息子重盛の義弟にあたる藤原成親を、
清盛が何の罪もないのに陥れて殺害する、などということは、
非常に考えにくいことではないでしょうか。
それに実を言うと、これは平家物語にはきちんと書いてないことですが、
むしろ成親の側に取って、そのタイミングは不可欠だったと思われます。

というのも、まだまだ平家の勢力が強いあの時点で平家を倒す為に、
『平家に山門を攻めさせた上で、都の兵力が手薄になった隙をつき、
源行綱たちが清盛宅を急襲して、その首を取る』
という作戦ではなかったかと、私には思われるからです。

因みに、鹿ヶ谷の謀議の時、その内容を初めて知らされた静賢法印が、
『誰に聞かれているとも知れないのに無謀だ』と青くなった、
という話が出て来ますが、恐らく源行綱は、
それを聞いて恐くなり、寝返ったのではないでしょうか。

126闇夜の鮟鱇★:2013/07/29(月) 12:32:53 ID:???0
  ●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(7/7)

それから、これは直近の話ですが、祇王の話を詳しく取り上げていましたね。
講師としては『ここに描かれる清盛のような男は顔も見たくない』
とか言ってましたが、男と女の感じ方の差なのか、
私には、それほどの悪人とは思えませんでした。(^^;)
というのも、白拍子というのは基本的に、
その芸と体を売ることを生業(なりわい)にしていた分けですからね。

たとえ一晩で追い出されても文句は言えないわけで、
たまたま清盛が気に入って、三年も囲っていたというのが、
ある意味では異常な例外的状態だった、とも言える分けですよね。
ですから、清盛がたまたま別の白拍子(仏御前)を見初めた結果、
自分が追い出される羽目になったとしても、
全く恨むべき筋合いのものではないように思います。

その点ではむしろ『紫上を正妻格として迎えた後で天皇の娘を娶り、
紫上を隅に追いやった』という光源氏の仕打ちの方が、
はるかに許しがたいし、男としても嫌らしい感じがしますよね。
この祇王の物語では、仏御前が清盛宅に押しかけてきた時に、
清盛が追い払おうとしたのを、同じ白拍子として同情した祇王が、
『とにかく面会だけはしてくれ』と取り次いだことになっています。


『その恩義に反し、仏御前が清盛を奪い取る結果になったのが、たとえ、
仏御前自身の意志によるものではないとしても許せない』というのが、
物語の展開である分けですが……一種の奇譚という感じの話ですね。
これは平家物語の本筋ではなくて、後から付加されたものだろう、
というのが通説のようですが、その場合、当時はやりの仏教説話が、
元になっているという印象を濃厚に受けますね。

つまり『こういう風にすれば女も極楽往生できる』という一つの例として、
どこかの坊主が考え出して広めた話ではないかと思います。
というのも、この話は『女同士が義理を立て合う』という点で、
近松門左衛門の『心中天の網島』の構図と良く似ているからです。
あの場合も『男の愛人である遊女の小春と妻のおさんとが、
互いに義理を立て合って云々』というのが話の主軸になるわけですね。

でも、その展開に、私は何やら違和感を感じざるを得なかった分けです。
というのも私には、いわゆる義理人情というのは、
男の世界に特有の価値観ではないか、と思えるからです。
つまり、男社会が組織として成り立って行く上では、
そうした義理人情の価値観が不可欠だ、ということなんでしょう。


その点からすると、逆に女同士の争いというものは、
もっとずっとドライであるような印象を、私は受ける分けですね。
それは結局、女というものが歴史的には家庭の中だけで生きて来て、
組織というものとは元々、無縁だったからではないかと思います。
ですから、女にとっては自分の家庭と子供を守ることが全てであって、
その為には他人を犠牲にしても、余り意に介さない所がありますよね。

その意味で、心中天の網島にしろ、祇王の物語にしろ、
『これは明らかに男による作り物だ』という印象を受ける分けです。
例えば、仮に仏御前が祇王に受けた恩を裏切るような形で、
祇王のパトロンである清盛を奪う結果になったとしても、
それほど負い目を持つことはないんじゃないか、と思う分けです。
つまり『今までは祇王が清盛の愛人として散々いい目を見て来たのだから、
今度は自分が少しはいい目を見る番だ』と思ってもおかしくないですよね。

その意味では『どうせあんただって、その内、私と同じ目に遇うわよ』と、
捨てぜりふみたいなことを祇王から言われて『確かにそうよね』と納得し、
祇王を追って出家する、なんていう展開はいかにも不自然に映る分けですね。
この辺は、男(坊主)が仏教説話として作り上げた話と見るなら、
なるほど、と納得できるのではないでしょうか。

128闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 11:48:44 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(1/9)

既に音楽総評でも少し触れましたけど、今年の古典講読では、
『奥の細道』を中心に、松尾芭蕉の話をやっていますね。
で、書きたいことが沢山たまっている分けですが、
先ず最初は、芭蕉の内妻の駆け落ち説から触れてみたいと思います。

伊賀上野から上京した芭蕉は暫くの間、日本橋に住んでいたそうですが、
ある時、突然深川に転居してしまい、句風も大きく変わったらしいですね。
で、日本橋時代には既に宗匠の地位を得て、名声を確立していたのに何故、
わざわざ深川みたいな辺鄙な所に引っ越したのかが不可解な分けですね。
そこで色々な人がその転居の謎を探っているそうですが、
未だに、ハッキリした結論は得られていないようです。

で、私なりに少し考えてみたんですが、先ず一番考えやすいのは、
やはり、派閥抗争みたいなことに嫌気がさしたという可能性ですね。
実は、芭蕉以前の江戸には高野幽山という宗匠がいて、
江戸俳諧に一定の勢力を持っていたらしいですね。
そこへ後から芭蕉が押しかけて、結果的には幽山を押し退けるような形で、
勢力を拡大していった分けですから、ごくごく常識的に考えても、
何らかの派閥的な確執がなかったとは考えにくいと思います。


その時、そうした世俗的な抗争に嫌気がさした芭蕉は、
敢えて自分から、さっさと深川に移ってしまったと考える分けですね。
ただ、もうひとつ興味深い話が出ていて、芭蕉には内妻がいて、
その内妻が甥と駆け落ちしたという説があるんだそうです。

芭蕉が故郷の伊賀上野に帰った時、姉に頼まれたのか、
その息子を江戸に連れてきて面倒をみていたらしいのですが、
その甥が内妻と良い仲になり、駆け落ちした疑いがあるというんですね。
というのも『芭蕉には内妻がいた』という噂がある一方、その甥が、
芭蕉の元から突然、姿を消してしまったという事実があるらしいです。
そこへ更に『内妻とされた女が、後に出家した姿で芭蕉の周辺に戻っていた』
という話などが加わって、駆け落ち説が導き出されるようです。

一般に、芭蕉の句では『奥の細道』に出てくる句が特に有名ですが、
今回の放送では、それ以外にも沢山の秀句があることに気づかされました。
そうした中で、私が最初に衝撃を受けたのが次の句だったんですね。
  櫓の声波を打って 腸凍る 夜や涙
  (ろのこえなみをうって はらわたこほる よやなみだ)


『おいおい一体、何があったの芭蕉さん』と声をかけたくなりますが、
この句からは、芭蕉の嗚咽が聞こえてくるような気がしませんか!?
これは深川移住のすぐ後に作られた俳句のようですが、
彼にこれほどの打撃を与え得るものとして説明が付くのは、
例の内妻駆け落ち説以外にあり得ないように、私には思われたのでした。

まあ、仮に派閥争いに嫌気が差していたのが事実だったにせよ、
深川移住を決断させる直接の要因として、内妻の駆け落ち説は、
最も説得力のある出来事となりうるのではないでしょうか。
因みに、放送では『当時、駆け落ちは死罪に当たるので、
芭蕉としては甥を守るためにも、世間に真相を悟られたくなかった』
というようなことを言っていたと思いますが。

それから、ネット上には芭蕉の全句集も見つかりましたが、
芭蕉句の全体像を知る上で、色々と役に立つと思います。
  芭蕉全句鑑賞
  http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/4128/zennkusakuin.html

129闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 11:52:06 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(2/9)

次に触れなければならない問題として、捨て子の件がありますね。
『野ざらしを 心に風の しむ身かな』という秀句で始まるのが、
有名な『野ざらし紀行』の旅なんですが、その中に次の句がある、
ということを今回の放送で知りました。
  猿を聞く人 捨子に秋の 風いかに

富士川のほとりで芭蕉が三歳位の捨て子に出会った時、
手持ちの少しの食い物を投げ与えて、その場を立ち去り、
この句を作ったということのようです。
  富士川のほとりの捨て子
  http://www.bashouan.com/Database/Kikou/Nozarashikikou_02.htm

でも……果たして、この捨て子を見殺しにしてよかったのか、
俳句など作っている場合じゃなかったんじゃないかと、
後世の人々からは様々な疑問が投げかけられているようです。
その点で私がひとつ気になっているのは、果たして、
同時代人の批判があったのかどうかという点なんですね。


というのも一方には、現代と比べた場合の当時の圧倒的な貧しさがあり、
それと並行して、命の重さも時代によって大差がある分けですからね。
現代的な感傷から安易に芭蕉を批判するとしたら、
余りに無責任で一方的という気がします。
その意味で大切な事は、当時の社会状況についての深い洞察であり、
当時の貧しさに、どれだけの想像力を働かすことができるかですね。

例えば、奥の細道の旅では、石巻付近で芭蕉がお湯を貰おうとして、
農民たちに断られたという話が出ていましたよね。
芭蕉がこの旅を計画した時、夏に向かう時期を選んだのは、
当然、北国の寒さを計算した結果でしょうが、その夏ですら、
寒くてお湯を欲しくなることがあった、という分けでしょうかね。
でも、水飲み百姓の異名もある当時の農民からすると、
ふらふら出歩いて俳句なんか作っている芭蕉みたいな存在は、
けしからぬ有閑階級としか見えなかったかもしれませんね。

だって、現代のガス・水道のある生活と根本的に違って、
当時は一杯のお湯を作るのにも、大変な労力を必要としたわけでしょ!?
何しろ、どこかから水を汲んで来て器に入れてかまどにかけたら、
次は山で薪を集めてきて火を付けて……という手順な分けですからね。
仮に水や薪のストックがあったにせよ、それらは貴重品だったわけで、
どこの馬の骨か分からない芭蕉に恵むなんて論外だったんでしょうね。


こういう時代には、旅の途中で行き倒れになることも珍しくない分けで、
芭蕉自身、旅先で野ざらしの骸骨を見ることがあったのではないでしょうか。
場合によっては、まだ息がある行き倒れ人を、
見殺しにして行くしかないケースもあったかもしれませんね。
ですから、旅立ち前の句も決して大げさではないわけで、そうした状況から、
『野ざらしを心に』という悲愴な覚悟も生まれたのだろうと思います。

つまり、これから冬に向かうという季節に、紙子一枚で旅に出る事は、
半ば、死ぬ覚悟が必要だったと言えるのではないでしょうか。
現代のようにダウンのジャンパーでも何でもある時代と違って、
当時、幾ら軽いとは言え、紙子という紙で作った衣一つで、
冬の旅に出るというのは無謀と言うしかないですよね。

まあ、あまり立派な身なりだと逆に追剥が心配かもしれませんが。(^^;)
ともかく、そういう状況では、手持ちの食料を投げ与えると言っても、
我々がポケットのスナック菓子を投げ与えるのとは分けが違いますよね。
それは元々、空腹を満たし旅の疲労を回復する為には不可欠なものであって、
それを投げ与えたのは、ギリギリの決断だったかもしれません。

130闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 11:55:31 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(3/9)

その点で、ちょっと引っかかるのが、芭蕉の回りの風狂人たちなんですね。
例えば、この句を作った後に立ち寄った名古屋でも俳諧興行があって、
そこには裕福な町人階級も在席していたみたいですね。
江戸でも当然、同様の階層の人々が周囲にはいたわけです。
でも、その裕福な町人という概念がもうひとつ、しっくり来ない分けですね。

芭蕉が半ば死ぬ覚悟で紙子一枚の旅をするというのに、
彼が出発する時、彼を宗匠と仰ぐような裕福な町人たちは、
もう少しましな着物を恵んでやろうとは思わなかったんでしょうかね。
実際の所は、芭蕉が衣類を貰って作ったという俳句も散見しますが、
それらは、どうやら野ざらし紀行の旅より後の話のようです。

  ――嵐雪が送りたる正月小袖を着たれば
  誰やらが かたちに似たり 今朝の春
  ――門人杉風子、夏の料とてかたひらを調し送りけるに
  いでや我 よき布着たり 蝉衣
芭蕉が例の捨て子の話を名古屋で語ったのかどうかも良く分かりませんが、
もし例の句を知ったとして、彼らならどういう反応を示したんでしょうか。


もうひとつ気になって調べたのは、中国の詩人が捨て子に関して、
どんな詩を残しているかということでした。
というのも『猿を聞く人』というのは、まさに中国詩人のことですからね。
私が知る限りで最も有名なのは、李白の『早に白帝城を発す』でしょうね。

  早発白帝城(つとにはくていじょうをはっす)
  http://kanshi.roudokus.com/hakuteijyou.html
後半が『両岸の猿声 啼いてやまざるに 軽舟すでに過ぐ 万重の山』
となっていて、川下りの船で猿の鳴き声を聞いた李白は、
子供をさらわれた母猿の断腸の思いを追体験したようです。

でも『たかが猿の鳴き声にそこまでの思い入れをするのなら、
人間の捨て子が寒風の中で実際に泣き叫んでいるのを聞いたなら、
李白さん、一体どうしたらいいんでしょう』というのが、
あの句で芭蕉が言いたかったことでしょうね。
それでネット上を色々と探し回ってみたんですが……
何故か、捨て子を扱った漢詩というものが皆無なんですね。


やっとひとつ見つけたと思ったら、その『棄児行』の作者が実は日本人で、
雲井龍雄だとか原正弘だとか言われているようです。
  詩吟神風流藤が丘支部
  http://home.u06.itscom.net/mitake/newpage62.html
因みに、例の小椋桂がこれを詩吟でうなっている動画もありました。
  詩吟「棄児行」小椋佳
  http://www.nicovideo.jp/watch/sm21367611

こうなると『当時の中国に捨て子はいなかった』と考えるしかないですね。
だって、あれだけ社会問題で鋭い問題提起をしている杜甫などが、
もし捨て子に出会っていれば、それを詩として残さないはずがないでしょ!?
で、少し捨て子の歴史というものを調べて見たんですが……先ず、
中国で有名な寒山拾得の拾得が、実は捨て子だったという話がありました。

西洋にも似たような逸話は色々あって、例えば、
旧約聖書に出てくるモーゼにしても、捨て子ということになっていますね。
でもそれらは、ごくたまに生じた例外的な事件という扱いなんですね。
それが芭蕉の時代には、捨て子が一種の社会現象になっていて、それで、
他にも捨て子を扱った俳諧が色々あると放送では言っていましたね。

131闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 11:59:13 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(4/9)

で結局、気づいたのは捨て子が社会現象になる為には、
一定の社会的条件が必要だったのではないかということですね。
先ず、第一には十分に温暖な気候でないと、
捨て子はすぐに凍え死んでしまうような気がします。
その点では、中国の華北地方のような寒冷地では、
捨て子は起りにくかったのではないでしょうか。

そして、第二には捨て子を拾って育てられるだけの状況、
つまり、社会的な余裕が不可欠だったかもしれませんね。
例えば、戦乱続きで庶民が食うや食わずの状態の場合、
捨て子を育てるどころではなかったでしょうからね。
そうした条件が揃って、社会に一定の余裕が生まれた時、
『誰かが拾って育ててくれるかもしれない』という期待が生じ、
育てられない子供を捨てる、という風潮が一般化したんでしょうね。

但し、更に調べてみると『ローマ時代の捨て子は、
奴隷として育てられた』という話が出てきました。
他方では、産業革命後のヨーロッパでも捨て子が頻発し、
彼らは修道院で育てられていたという話があります。


その時、プロイセンのフレデリック大王が修道士に命じて、
『赤ん坊と一切目を合わせずに育てる』という実験をした所、
育つ前に皆死んでしまった、なんていう嘘みたいな話もありました。
こうなると、捨て子も単なる実験材料に過ぎなかったようですね。
  フレデリック大王の実験とネグレクト
  http://www.glico.co.jp/boshi/futaba/no71/con05_05.htm

日本の場合は特に、長い戦乱が終わって江戸時代になると共に、
人命を大切にする風潮が急速に高まった、という事情もありそうです。
しかし、産業革命には尚遠い日本で、既に捨て子が頻発したとすると、
ちょっと不可解ですが、何か仏教教義に変化でもあったんでしょうか。

因みに、野ざらし紀行の旅が1684年ですが、その3年後には、
将軍綱吉による生類哀れみの令が出されている分けですね。
そして、実はその一部として捨て子禁止令が含まれていて、
この禁止令だけは、綱吉の死後もずっと維持されたんだそうです。
ひょっとすると、芭蕉のあの句がひとつの引き金となって、
そうした禁止令が生み出された、と考える可能性もありますよね。


それに比べると、少し時代を逆上って、例えば平安時代に、
捨て子禁止令があったという話は見当たりませんからね。
当時は育てられない子供は即、間引きされたんでしょうね。
少し前の戦国時代には、そこいら中に死体がゴロゴロ転がっていても、
何とも思わなかったんでしょうし、捨て子を見殺しにしたと言っても、
現代的な感覚からは、到底たどり着けない時代感覚があった気がします。

ひとつ気になるのは、当時の東海道にどれだけの人通りがあったかですね。
奥の細道でも、北陸道の市振の関では、同宿した遊女から、
『後を付いて行かせてくれ』とせがまれたという話がありました。
その時『自分たちは寄り道が多い。他の通行人に付いて行けば、
何とか目的地に着けるだろう』と諭して断ったという話が出てきます。

幼児を育てるとなれば、母乳の出る母親が必要だった分けで、
芭蕉たちも、他の通行人に捨て子を託したと考えるのはどうでしょうか。
もっとも母乳というなら、食い物を投げ与えるのは矛盾しますかね!?
ただ、もし通行人が十分多ければ、捨て子には既に人だかりが出来ていて、
芭蕉たちは、それを後ろから覗きこんだだけだったかもしれませんよね。

132闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 12:02:22 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(5/9)

さて、その先の名古屋で開いた句会で芭蕉が披露したのが次の発句でした。
  狂句こがらしの 身は竹斎に 似たる哉
  (きゃうくこがらしの みはちくさいに にたるかな)
『狂句こがらし』という所は『狂句(俳諧)に焦がれる私』の意味に、
『木枯らしに吹かれてきた私』を掛けているのだと放送で言ってましたね。

始めは、ちょっと無理な解釈のような気もしたんですが、
突きつめて考えてみると、これは大正解かもしれませんね。
だって、ここでわざわざ『狂句こがらし』と直接、続けている以上、
そう取る以外に、道はなさそうですからね。

ただ、私がひっかかったのは、むしろ末尾の『似たるかな』なんですね。
つまり『狂句に焦がれつつ、木枯らしに吹かれてやって来た私』と、
『当時、漫画の主人公として有名だった藪医者の竹斎』とを並べた時点で、
両者が似ていると言いたいことは、誰の目にも明らかでしょ!?
そこへ『似たるかな』では、いかにもぬるいという感じがした分けですね。


以前に『春の俳句講座』のところで書いた言い方に従うなら、
『似たるかな』の五文字は、言わずもがなの無駄と言わざるを得ません。
  http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/3729/1123461002/#31
ですから私としては、そこでもうひとひねり欲しかったと思う分けですが、
例えば『身は竹斎の 名残かな』というのも一案でしょうね。

まあ、俳諧興行というものはあくまで、一種の即興ですからね、
その時点で、そこまで詰めて推敲するのは無理だろうとは思います。
でも、後から、それを紀行文としてまとめる段階では、
更に推敲があってもおかしくない分けですね。
例えば奥の細道でも、俳諧興行では『さみだれを 集めて涼し 最上川』
だったのを、推敲して『涼し』を『早し』と直した分けですからね。

ただ……後から更に見直してみると、俳諧興行の時の発句は、あくまで、
芭蕉が自分を漫画の主人公になぞらえて、おどけている感じがありますね。
『似たるかな』を『名残かな』と直す場合、その諧謔味は失われますから、
俳諧興行の時点では、あれ以外の形はあり得なかったのかもしれません。
ならば、芭蕉句の添削はやはり無茶だったのかというと……私としては、
紀行文の段階では『名残かな』でも十分いけそうな気がします。(^^;)


あのう、情報が氾濫するネットでは、とにかく目立つことを書かないと、
誰にも目をとめてもらえない、という困った事情がある分けですね。
ですから『芭蕉句を添削する』なんていう目障りな標題を付けたのも、
まさに、他人の目を引きつけようという私なりの戦術だった分けで……
もし、そこに引っかけられてこれを読み出した人がいたとすると、
その戦術は大成功だったということになります。(*^^)v

まあ私の性格として元々、権威は大嫌いということがあって、ですから、
芭蕉を俳聖などと崇めて祭り上げることには全く興味がない分けですね。
その意味で、幾ら芭蕉でも良い句は良い句、
悪い句は悪い句として扱うことに、全くためらいはありません。
その点では、私が選ぶ芭蕉の三大駄句というのがあります。
つまり、世の中ではやたら有名で、有り難がられているけれど、
私の目には駄作としか思えない、という意味でのワースト・スリーですね。

  古池や 蛙飛びこむ 水の音
  道の辺の 木槿は馬に 喰はれけり
  海暮れて 鴨の声ほの かに白し
因みに、ここでカモ(鴨)と言っているのはカモメ(鴎)のことでしょうね。
江戸時代には、カモとカモメは混同されていたみたいですし、
海岸で良く見かけるのは、カモではなくカモメの方ですからね。

133闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 12:06:27 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(6/9)

他方、古池やの句は『蛙合』(かわずあわせ)という句集にあるそうですが、
芭蕉さんも、ある意味では商売上手だったと言うべきでしょうか。
この句がここまで有名になったのも、その句合(くあわせ)に参加した、
大衆が広めた結果に違いないでしょうからね。

その点では、芭蕉が杉山杉風に与えたという『あつめ句』にしても、
自薦句とか言われていますけど、何やら大衆迎合の臭いがします。
全体に選句が甘いですし、その名前にしてもぞんざいですから、
これは多分、杉風が好む句を選んで書き与えたものではないでしょうか。

結局、現代のシンガーソングライターにしてもそうですが、
自分が作りたい歌と、売れる歌とは同じではない分けですね。
でも、生きていくには金が必要で、その金を稼ぐ為には、
大衆迎合も必要悪となれば、それをどこまでやるかは、
いつの時代にも、悩ましい問題だったのではないでしょうか。


だからこそ、最後には次のような句も生まれた分けでしょうね。
  この道や 行く人なしに 秋の暮
ここには『自分が目指す道を本当に理解する人は結局いなかった』
という芭蕉の苦い思いが込められているように思います。

この辺で、ざっと言葉の整理をしておきますが、
平安朝の連歌から江戸時代に派生したのが俳諧の連歌で、
どちらの場合も、複数の参加者が 5・7・5 7・7 5・7・5 7・7……
と上句と下句を一定の約束を守りつつ続ける分けですね。
そして、その連歌の最初に来る上句の 5・7・5 を発句と言いますが、
芭蕉の頃からその発句だけが、独立性を強めていった分けですね。

で、明治になってから、俳諧の連歌を連句、
その発句を俳句と呼ぶようになった分けです。
その辺の説明は、ここに分かりやすいサイトがありました。
  連歌の歴史
  http://www.h2.dion.ne.jp/~taki99/history.htm
ですから、ここで発句と言うのは俳句のことで、
俳諧(俳諧の連歌)は連句のことです。


それから『俳諧興行』という言い方が良く出てきますが、
興行という以上は『沢山の観客を集めて料金を取って……』
というやり方をするのかと、当初はいぶかっていました。
でも、色々調べてみると、この興行に観客はいないようですね。
『その地方の俳諧好きが集まり、宗匠を招いて連句の句会を開く』
というのが、実際に行われる俳諧興行の実態のようです。

その場合、宗匠を招く以上は何らかのお礼が必要な分けで、
参加者は一定の参加料を払う、という約束なんでしょうかね。
ならばどの道、一定のお金が動くには違いない分けで、
興行という名前も間違いではない、ということでしょうか。
実は現在でも、地方ではそうした俳諧興行が行われているらしく、
ネットを探せば、色々と見つかるようです。

因みに、先のサイトにもあるように、明治期になると、
正岡子規がこうした連歌形式を『文学にあらず』
と言って否定した、という話は有名ですよね。
まあ、ある意味で、こうした俳諧興行というものは、
前述した『大衆迎合』そのものとも言えますからね。

134闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 12:08:39 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(7/9)

さて、次に気になったのがこの句の読み方の話でした。
  蚤虱 馬の尿する 枕もと
  (のみしらみ うまのしとする まくらもと)
最近の研究の成果で、ここの尿はシトではなくバリと読むべきだ、
とか言っていたんですが、私にはちょっと信じがたい話でした。

古い書き物を調べる内に、そこをバリと表記したものがあった、
だから芭蕉はバリと読んでいたのに違いない、というんですけどね。
そもそも、そんなことを言いだした奴は、
俳句のハの字も知らないんじゃないか、とさえ思いましたね。

というのも、ここは全体の言葉の響きからして、
シト以外の読みはありえない、と思うからなんですね。
つまり、シラミのしとシトのしが響き合っている分けですから、
バリなどと読んだのでは話になりませんよね。


恐らく、芭蕉が句を推敲する過程で、一時的に、
ここをバリとしたらどうか、と迷ったことがあったんでしょうね。
その場合、ただ尿とかけば『シト』と読まれてしまうので、
あえて『バリ』と仮名書きしたんでしょうけど、暫くして、
やはりそれでは駄目と気づいて、元の尿に戻したんだろうと思います。

芭蕉に『句調はずんば舌頭に千転せよ』という言葉があるそうですが、
この句も、実際に舌頭に千転して見れば、優劣は自明でしょうね。
因みにネット上には、千転は大げさだという人もいましたけど、
私には全然大げさとは思えません。

実際問題として、一日一回口に出すとしても一年で365回ですから、
三年なら優に1000回を越えるでしょ!?
俳句を作るなら、そこまでこだわる位でないと意味がないと思います。
例えば私の個人的な例でも、何年たっても決着しない句がある分けですね。


つまり、江ノ島で見つけた芭蕉句から『本句取り』をやった件ですが、
  疑ふな 潮の波も 浦の春
から、次のような句を作ったという話を以前にしましたよね。
  疑うな 浮世の春も 有為の夢
  http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/3729/1123461002/#30
この句に関しては、後から次のような案を思いついた分けです。
  疑うな 浮世の春も 有為の浜

芭蕉の句が『う』の頭韻を踏んでいるのにならって、
本句取りの方でも『う』の頭韻を踏んでみたわけですが、
『有為の夢』は言うまでもなく、いろは歌から取った分けですね。
でも……芭蕉の句では『う う は う は』という風に、
韻を踏んでいるとも見られるわけで、そこまで合わせようとすると、
『有為の夢』より『有為の浜』の方が良い分けです。

でも、イメージを喚起する力としては、
『有為の夢』の方が上のような気がする分けですね。
つまり、音の響きでは浜、意味からすると夢という分けで、
これは舌頭に千転しても尚、決着がついていません。(^^;)

135闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 12:11:02 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(8/9)

他方では、俳句の鑑賞でひとつのポイントとなる問題として、
いわゆる字余りの句をどう味わうべきかということがあります。
例えば、野ざらし紀行の芭蕉の句では、
  牡丹蘂深く 分け出づる蜂の 名残かな
  (ぼたんしべふかく わけいづるはちの なごりかな)
も名句だと思いますが、これも随分な字余りなわけですね。

で、この手の字余り句を鑑賞する為の方便として、
私としては俳句を 5・7・5 の字数で理解する代りに、
3・4・3 のリズムで理解することを推奨したいと思います。
通常の 5・7・5 俳句の場合は例えば、
  2-2-1 2-2-2-1 2-2-1
などと区切れば 3・4・3 のリズムになりますよね。


それに対し先の句の場合、字数では 8・8・5 ですから、
  3-2-3 2-3-2-1 2-1-2
  (ぼたん-しべ-ふかく わけ-いずる-はち-の なご-り-かな)
とすれば 3・4・3 のリズムになります。
これは音楽的に言うと、二連音符の代りに、
三連音符を使う感じになりますね。

先に引いた深川の句の場合はもっと大変で 10・7・5 ですから、
  ろのこえ-なみを-うって はら-わた-こほ-る よや-なみ-だ
つまり 4-3-3 2-2-2-1 2-2-1 と4連音符が必要になりますね。
因みに、音楽総評の所で私が作った句にも 10・7・5 がありましたが、
  くまがわに-きり-みちて のぼ-れば-こい-し ゆの-かお-り
として、ここでは 5-2-3 2-2-2-1 2-2-1 と5連音符が入ることになります。


その点では例えば、英語などの外国語で句を作る場合にしても、
私は 3・4・3 のリズムに従うのが良いように思う分けです。
というのも、音節で 5・7・5 とすると、表現できる内容が多すぎて、
日本語では 5・7・5・7・7 の短歌か、それ以上のものになってしまいます。

俳句の本質のひとつは何と言っても、その短さ自体にある分けですね。
その短さの中に、どれだけ豊かな世界を表現できるかという所で、
四苦八苦する点に、俳句の難しさも面白さもあるのではないでしょうか。
ですから、外国語で俳句を作る場合、その短さを体現するには、
敢えて 5・7・5 でなく 3・4・3 の音節構成にすべきだと思う分けです。

136闇夜の鮟鱇★:2015/01/13(火) 12:13:29 ID:???0
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(9/9)

それから、この講読では以前から『芭蕉の紀行文では何故か、
後半になると発句ばかりで文章が減る』という話が出ていましたね。
当初の私は『当時の旅の大変さを考えるなら、後半はバテて来て、
文章を残すのもおっくうになるのではないか』と考えていました。
しかし、放送ではその後の種明かしとして、
『芭蕉は序破急に従ったのだ』とか言っていましたね。

能を始め、日本の芸能を貫く精神として、この序破急は有名ですが、
芭蕉が紀行文を書く時も、そうした美学を意識して、
後半はさっと切り上げようとしたんでしょうか。
確かに、紀行文とは言っても長いものも短いものもありますし、
鹿島紀行みたいな短いものでも、同様に後半は文章が少ないとなると、
『旅の後半はバテるから』という説明は無理になるでしょうね。


その点では実を言うと、以前に『荒海や』の句に関して、
『この頃の芭蕉は病気がちで、それで神経が研ぎ澄まされた結果、
こんな名句が生まれたのだ』とか書いた記憶があります。
  http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/3729/1123461002/#30
ところが、実はこの病気も虚構らしいというので、びっくり仰天でした。
曽良随行日記を見ても、俳諧興行の記録はあっても病気の記録はありません。

ということはつまり、実際には色々と文芸活動をしていたのに、
それらの記録をあえてバッサリ切り捨てた、というのが真相のようです。
例えば『荒海や』の句では『銀河の序』という俳文まで作っていたのに、
奥の細道では、芭蕉はそれを意図的にはしょってしまったようですからね。
ここでも、世阿弥が提唱し、当時の芸道で常識とされていた序破急の精神を、
芭蕉が意識した結果、奥の細道もそれに従ったという分けでしょうか。


最後にもうひとつ付け加えると、笈の小文の序文に関して、
直近で少し気になったことがありました。
  http://koten.kaisetsuvoice.com/Kobumi/Kobumi01.html
  見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。
  像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。

これは花と月を並べて風雅論を展開している所ですが、
『おもふ所月にあらず』に対し『心花にあらざる』というのは妙ですよね。
目に対して花、心に対して月と言っている以上、
ここは『心月にあらざる』としないと、バランスが取れません。
その点では『笈の小文は未定稿である』という説が有力ですから、
多分、推敲が進まない段階のミスが、そのまま残されたんでしょうね。


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