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無差別級

124闇夜の鮟鱇★:2013/07/29(月) 12:19:50 ID:???0
  ●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(5/7)

もう一つ、例の一ノ谷の合戦に関して、平家物語では、
『源平両軍がそれぞれ数万の大軍を擁して対峙した』とありますね。
ところが、当時のある貴族の日記には、
『源氏軍は数千騎に過ぎなかった』という記述があるそうです。

この辺の問題は未だ、未決着らしいのですが、
どうも私には、頼朝軍は一桁少ない数千騎だったとする方が、
信憑性があるように思われたのでした。
というのも、京都で頼朝軍を迎え撃った時の義仲の軍勢は、
既に、実質的には数百騎にまで減っていたという話があるからです。

それなのに、義仲が数万騎の頼朝軍を相手にして、
本気で都の防衛戦をやる、とは到底思えない分けですね。
始めから二桁も多い敵と分かっていたなら、
どう考えても、勝ち目はないですからね。


むしろ一度、自分の本拠地である北陸道に引き、
そこから反攻の道を探る、というのが常道ではないでしょうか。
その点、仮に頼朝軍が噂通りに、飢饉の影響などで、
数千騎しかいなかったのだとすると、話は変わってきますよね。

一桁多い程度の敵なら、義仲得意の戦術を駆使すれば、
何とか打ち破る可能性も、十分ありますからね。
そして、後の一ノ谷では、頼朝軍が法王をも抱き込んだ謀略戦などにより、
一桁多い平家軍を打ち破ったのだ、と考えるのが妥当ではないでしょうか。

因みに、以前には記憶違いで『義経が北陸を経由して京都に攻め登る時、
夜間の照明代りに、道中の家々に火を放った』とか書きましたけどね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/113
実はそれは、この一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草山の戦いの時に、
義経軍が夜討ちの奇襲をかける為に用いた大松明作戦のことでした。
北陸を経由して攻め上ったのも、義経でなく義仲ですからね。(-_-;)


去年の講読では他にも、いくつか気になった所がありました。
先ず、これはごく最初の頃に出た話ですが『平家物語では、
合戦の前に必ず一息入れるような話をおく』とか言ってましたけどね。
でも、この辺の記述は、単に一息入れるというのではなくて、
『戦いの前には、必ずその結果を予言するような御神託があった』
という描き方が、定型的な構図になっているようですね。

まあ、そうした超自然的な力を想定することは、
近代以前の文学では、ごくありふれた手法ですけどね。
それから『吾妻鏡では寿永2年(1183年)の記録が脱落している為に、
義仲と頼朝とが不和になった経緯が良く分からなくなっている』
という話があって、少し気になりました。
それに関連した記述は、このサイトにもありますね。
  http://kanazawa45.wordpress.com/2005/04/16/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%EF%BC%92%E5%B9%B4%E6%98%A5%E3%81%AE%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2%E3%81%A8%E3%81%AE%E8%A1%9D%E7%AA%81%EF%BC%88%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91%EF%BC%89/

で私が思ったのは、ひょっとすると、ここの記述も、
家康が削除したのではないか、ということでした。
つまり、この辺にも例の家康の親戚の話が書かれていたので、
頼朝の変死の記録を削除した時に、一緒に削除したと考える分けです。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#120


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