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質問

1管理者:2009/02/07(土) 20:42:27

新しいスレッドの提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通りです。


「質問」
日蓮、仏教、宗派の教義、歴史などの質問。検索すれば直ぐにわかることを除く。

2hage:2009/02/07(土) 21:08:50
それでは、さっそく質問させて頂きます。
日蓮門下でそれぞれ解釈の違いがあると思いますが
天台宗と高祖日蓮大士との「法華経」の頂き方の違いとは?

富士派の日蓮本佛論もそのあたりから来ていると思うのですが
明確な違いをお聞かせください。

3顕正居士:2009/02/08(日) 01:38:42
天台過時、本化応時、嘱累総付、神力別付等のドグマをおいて法華尊重の仕方でしょうか。

湛然は『止觀義例』に
「況所用義旨以法華爲宗骨。以智論爲指南。以大經爲扶疏。以大品爲觀法。引諸經以増信。
引諸論以助成。觀心爲經。諸法爲緯。織成部帙。不與他同」
(況んや所用の義旨は法華を以て宗骨と爲し、智論を以て指南と爲し、大經を以て扶疏と爲し、
大品を以て觀法と爲し、諸經を引て以て増信し、諸論を引て以て助成し、觀心を經(たて)と爲し、
諸法を緯(よこ)と爲し、部帙を織り成す、他と同じからず)
と自宗を称揚しています。

日蓮は『法華取要抄』(真蹟・中山法華経寺在)にこう述べています。
「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む。所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」

これは日蓮があれだけ批判した源空の選択(せんじゃく)の思想と同じという評価がありますね。
しかし日蓮は綜合仏教の分解を阻止するために、五字を一切経の総要、「法華弘通のはたじるし」
(日女御前御返事・真蹟不在)として、いわゆる対抗改革をはかったのではないでしょうか。

さて新仏教や対抗改革の動きをよそ目に中国天台が残した密教との綜合を完成した日本天台は
更に進んで「顯説法華教とは妙法華の外、更に一句の經無し」(最澄・守護國界章)の絶待妙の
思想を展開して行きます。浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗は三大宗派に成長しますが、室町時代に
仏教思想を主導するのは依然日本天台であり、日蓮宗は天台新思想に依って教義を形成します。

4hage:2009/02/08(日) 12:34:42
>日蓮宗(一致派?)は天台新思想に依って教義を形成します。

そこには、「所謂上行菩薩所伝」という事に対してどう感得されているのでしょうか?

過去の歴史の中には
文殊菩薩を主体に法華経を信仰するもの、普賢菩薩を主体に法華経を信仰するもの
観音菩薩を主体に法華経を信仰するもの、薬王菩薩を主体に法華経を信仰するもの
弥勒菩薩を主体に法華経を信仰するもの、そしてお釈迦様を主体に法華経を信仰するもの
と、あったと思うのですが、
日蓮聖人の信仰に於ける法華経は上行菩薩を中心とした法華経であることが一番の違いなのでしょうか?

5プーさん:2009/05/10(日) 11:45:04
少々質問です。簡単に述べると

八品派の「一仏二名」とは、本仏である教主釈尊が解脱の時には釈迦として現れ、下種の時には上行(日蓮)として現れるという教義だと思いましたが。

「日蓮本仏」とは、本仏である教主釈尊とは、南無妙法蓮華経のことで、その南無妙法蓮華経は日蓮が説いたものであるから、日蓮が久遠元初の本仏で
あるという教義だと思いましたが。

以上、ご指摘下さい。

6顕正居士:2009/05/10(日) 22:44:47
富士派の宗祖観も八品派のと基本は同じですが、
末法下種の時には名字即本因位の釈尊(=宗祖)がそのまま現れる。
つまり等覚の上行ではないところが特色です(完成した教義では)。
なお繰り返しの顕本は積極的に主張はされません。その辺曖昧です。

7斧不一:2010/01/05(火) 12:19:30
 新掲示板なんですが、メールアドレスを記入しないと書き込みができないようですね。

 これは、アドレスが公開される(=ロボットに拾われる)のでしょうか?

8管理者:2010/01/05(火) 12:27:57

斧不一さん

適当に、例えば、ono 等と書き込めば投稿できます。

9斧不一:2010/01/05(火) 14:19:22
>>8

 管理者様、ありがとうございます。

10学生:2010/03/23(火) 11:34:51
石山の卒塔婆について教えて下さい。

中興入道女房御書には塔婆に南無妙法蓮華経の7文字を書きなさいと
御指南されていますが、石山の卒塔婆は妙法蓮華経の5文字ですよね。
この違いについて教えて下さい。深い意味はないのでしょうか。

11海野:2010/06/27(日) 16:20:04
Web百科事典のWikipediaで「富士門流」や「本門宗」の項目を執筆するためいろいろと情報収集をしていて、この掲示板にたどりつきました。
内部の方からみて、なにかおかしいところありましたら、ぜひ編集に参加していただけたらと思います。

質問は、明治期から昭和前期にかけて存在していた富士門流の統一宗派「本門宗」の歴代管長について紹介された文献をご存知でしたら、ご紹介いただきたい、というものです。
Web上の情報では1998年に就任した第22代までの管長と、1941年に三派合同で「本門宗」が解消したときの管長の名前(由比日光師)を確認しました。

12迷子:2010/07/14(水) 21:04:41
はじめまして。
創価学会元男子部で現況は非活の前進長です。自筆模写御本尊など作成し信仰対象としても良いものですかね?近年の偽物騒ぎに嫌悪してます。

13問答迷人:2010/07/14(水) 21:55:22

迷子さん

>自筆模写御本尊など作成し信仰対象

真心を込めて書けば、僕は何等問題はないものと考えています。あたかも宮沢賢治が曼荼羅を残しているように。

>近年の偽物騒ぎに嫌悪し

いずれも、唯授一人の血脈相承が根拠となっていますね。法主の書写した曼荼羅で無いと功徳がないとか、日顕上人には血脈相承が無いから、日顕上人が書写した曼荼羅には功徳はないとか、最近の論調では67世が偽法主だから68世も偽で、68世の書写した曼荼羅にも功徳がない・・・。

実にばかばかしい、我田引水のオンパレードだと思います。

日蓮聖人は「妙法蓮華経の五字」を「受持」しなさいと教えられて、その「妙法蓮華経の五字」を曼荼羅として多数書かれて、弟子旦那に授与されました。その曼荼羅の形式は多数のバリエーションはあっても、基本的には、中央の妙法蓮華経の五字の左右に釈迦多宝の二仏四大菩薩を書き、両端に愛染明王・不動明王を認め、妙法蓮華経の五字の下に「日蓮」と書かれて「花押」を書かれています。この形式は共通しています。そして多くの曼荼羅の四隅には四大天が書かれています。

また、これ等の曼荼羅の骨子を改変することがなければ、多少の変更は問題ないと思えます。例えば、創価学会草創期の日寛曼荼羅は、かなり列集が省略されています。

極論だと思われるかもしれませんが、唯授一人の血脈相承が日蓮聖人に由来するものではなく、後世の創作で有る事が明らかにされていますから、自分で曼荼羅を書写して本尊とするも何等問題性はなく、本尊抄に日蓮聖人が述べられている通り、釈尊の因行果徳の二法は、迷子さんが自筆された曼荼羅に厳然と具足するものと愚考いたしております。

ちなみに、僕は、日蓮正宗とは縁を切りましたが、日顕上人書写の曼荼羅を本尊としています。

14迷子:2010/07/15(木) 21:16:32
重ねてありがとうございます、問答迷人さん。
貴重な参考御意見として賜りますね、こんな愚問に真摯に答えて下さる方は稀少なので。

16古沢石日:2011/06/23(木) 00:51:30
こんばんは。
読めば「なむみょうほうれんげきょう」なのに
どうして創価学会や日蓮正宗は
「なんみょうほうれんげっきょう」なのでしょうか。
勤行に関しても独自のリズムで読み飛ばしばかりです。
「にじせそん」がどうして「にぃいじぃいせっそん」なのでしょうか。
「ほんまつくきょうとう」が「ほんまっく ょう おう」です。
一言一句正確に読経しなければ読経にならないと思うのですがいかがでしょうか?
唱題・勤行だけでなく葬式などで聞く他宗の坊さんの経も
まったく何いってるかわからないくらい省略したりつなげたり
まるで歌のようなお経もあります。
ご回答宜しくお願い申し上げます。

17問答迷人:2011/06/23(木) 16:35:39

>「なんみょうほうれんげっきょう」なのでしょうか

これは地域性もあるのかもしれませんが、岐阜の住職さんたちは、「なんみょうほうれんげーきょう」だとおもいます。「む」を「ん」と発音するのは音便なのだとか。

経典の読み方については、勤行要典には読みかなが振ってあり、読み記号も有ります。その通り発音する、という事で統一されていると思います。個々の読み間違いや、読み癖については、直した方が良いに決まってますよね。

他宗の事は良く存じませんので、コメントは差し控えたいと思います。


戒壇板本尊については、日蓮聖人が作られたものではなく、原本もパッチワークで作られていることは諸兄の研究によって概ね明らかになっています。担ぎ出したのは、中興の祖とされている日精上人だと僕は考えています。大石寺の宣伝の為に、人寄せパンダとしてこの板本尊を利用したのだと考えています。

出世の本懐は、勿論、板本尊であるはずがありません。

一大秘法たる「妙法蓮華経の五字」を弘められた事が出世の本懐かも知れませんね。七百年たっても、僕を含めて、毎日一時間以上、唱題に日々励んでいる人々が多数存在するわけですから、確実にこの日本に定着していると考えて良いと思います。

疑問点、多数あると思います。どんどんあげてください。細部を詰めて行きたいと思いますから。

18古沢石日:2011/06/24(金) 00:43:57
引き題目では「なーむーみょうほうれんげきょう」ですから
「なむ」と唱題するのが正しいと思います。
以前創価系掲示板で「ナム」を早く、連呼すると「ナン」になる。
問題ないと書かれていたことがありました。
山田さんを「ヤンダ」さんと呼んでも、当人はご自分が呼ばれていると思わない
でしょう。私は小学生の頃から会合で「勤行・唱題の発音」を訴えていたのですが
「住職なんか我々よりもっと聞こえずらいからいいのだ。子供が細かいことを 
 言うな。」と相手にされませんでした。私はこれからもゆっくり細かく丁寧に
 唱題していきたいと思います。

19古沢石日:2011/06/24(金) 00:47:31
ご自身の事をを含めお身内のお葬式はどうお考えでしょうか。
数年前父を亡くしたときは友人葬でした。
今高齢の母がおります。
自身はバリバリの創価学会員ですが、宗門への批判は一切しません。
「学会もお寺もみんな健康。同じ御本尊に題目をあげているから。」が
口癖です。

20古沢石日:2011/06/24(金) 00:55:34
創価学会が御本尊の取替えをしたとき日本全国の
日顕上人の御本尊はどうしたのでしょうか。

21古沢石日:2011/06/24(金) 01:07:23
戒壇の御本尊については、私も問答迷人さんがおっしゃるとおりだと思います。
いつ創価学会の公式見解として出世の本懐は戒壇の御本尊建立ではありませんよと
お話があるかずっと待っておりました。
気がついたら、知らぬ間にHPが書き換えられていました。
ほとんどの会員さんは、気づいてないんじゃないでしょうか。

22問答迷人:2011/06/24(金) 07:58:18

>ご自身の事をを含めお身内のお葬式はどうお考えでしょうか。

現時点では、自身が死んだ場合は無宗教家族葬を考えています。創価学会、日蓮正宗、日蓮宗、既成宗教各派、何処にも葬儀をお願いする気になれませんから。家族が亡くなった場合は、本人が生前希望する形がある場合は、その希望に沿いたいと思っています。特に意思表示がなければ無宗教家族葬にしたいと考えています。

>創価学会が御本尊の取替えをしたとき日本全国の日顕上人の御本尊はどうしたのでしょうか。

宗門に返却するような指導があったとは聞いていませんし、考えにくいですね。当然、本部会館等で焼却処分したのだとかんがえています。

>創価学会は、正本堂建立の時に、板本尊の修理をしています。その時、板本尊の年代測定を実施したという説が流れています。それが事実なら、その段階で、板本尊が七百年前に遡れない事は分かっていた筈です。当然、日精上人の駄法螺に気づいたから、何時かは別れなくてはならないと、時期を狙っていたのだと僕は思います。これは会員が気づかないように秘密裏に実施されなくてはなりません。板本尊を絶対と信じている会員が騒ぎ出しますから。

23古沢石日:2011/06/24(金) 23:21:21
無宗教家族葬ですか。
そうですよね。母は私の題目でおくります。
私は死期が近づいたら自身で唱題し録音して、
それ以外のお経は禁ずるようにいたしましょう。

日顕上人の御本尊を会館で焼却したという噂は
聞いておりました。命が削られる思いでした。
やはり事実なのでしょうか。
不敬とは行為でなく心だと思います。
私は今でも書物に印字された御金言を粗末にできません。
御書が印刷された新聞がゴミ箱に丸めて捨てられるのが許せません。
よって聖教新聞、大白蓮華は購入いたしません。
どうしても捨てる場合は心より唱題してから出します。

24古沢石日:2011/06/24(金) 23:28:08
>板本尊を絶対と信じている会員が騒ぎ出しますから。

騒がないでしょうね。
創価学会には信心がありませんから。

25古沢石日:2011/06/24(金) 23:52:01
もっと早く発表すべきでした。
学会は先生が言えば全てOK
先生でなくても上からの指導があればOK
黙ってて影でコソコソするから騒ぐんですよ。

ためしに民主党と連立してみたらいいですよ。
明日から全員一丸となって民主のために走りまくりますよ。

26問答迷人:2011/06/25(土) 11:50:06

>騒がないでしょうね。創価学会には信心がありませんから。

そうですか。そうかもしれませんね。だけど、一体、創価学会員は何を信じているのでしょうか。逆にご質問して恐縮ですが、どう思われますか。

27古沢石日:2011/06/26(日) 00:35:54
>一体、創価学会員は何を信じているのでしょうか。

様々なご意見があるでしょうが、池田先生でしょうね。
どんなに不合理な矛盾したした通達でも上からの指令は絶対です。

戸田先生は「創価学会が新興宗教だという人にはこういってやりなさい。
富士のお山に来てみなさい。700年前からの木々が生い茂っております。」
そういう歴史ある信徒団体だったのですが、今では聖教新聞販売促進部であり
公明党集票グループです。

「先生が空を飛びなさいと仰せです。」といわれれば
空を飛ぼうとするでしょう。

28問答迷人:2011/06/26(日) 07:32:57

>様々なご意見があるでしょうが、池田先生でしょうね。

了解です。つまりは、創価学会の本質は池田教であると。

もう一点、ご質問させてください。池田氏は、日蓮聖人の教え・一大秘法の信奉者・実践者なのでしょうか。さらに突き詰めると、日蓮聖人の再誕者なのでしょうか。如何お考えになられますでしょうか。

29年中夢中:2011/06/26(日) 19:15:42

古沢石日さん 初めまして

問答迷人さん 御無沙汰しています。

少なくとも、創価学会員は池田先生が御本仏日蓮大聖人さまの教えを正しく信奉・実践している世界で唯一の大指導者であると信じて疑わない。そして、学会員の中でも多くの人々は、池田先生が実は日蓮大聖人の生まれ変わりであると信じています。この強固な信仰で成り立っている創価学会と言う教団は、実に稀有の正統仏教教団であり、その中には日蓮大聖人の仏教の精髄が脈打っていると会員は確信しています。

ですから、仮に池田先生が民主党との連立政権を打ち出されたら、その意味は良くわからなくても、池田先生の為に命を投げ出す覚悟で、民主連立政権の為に走り回るのは当然だと思います。

古沢石日さんのご意見、実に見事に創価学会の実体を捉えておられると思いました。

30古沢石日:2011/06/26(日) 22:06:18
問答迷人様。
創価学会は池田教に間違いないと思います。

>日蓮聖人の再誕者なのでしょうか。
池田大作という方は折伏という観点では世界一だと思います。
日蓮大聖人様の題目を世界に広めた功績は誰が何を言えるレベルではありません。
再誕者?って何処からでた議論なのでしょうか。
ご本人も組織も会員も考えてないのではないでしょうか。

>一大秘法の信奉者・実践者なのでしょうか。
それもご本人でないとわかりませが、同時中継などで拝見する
名誉会長の唱題は「題目」じゃないと思います。
わざと崩しているとしか思えないくらい
「なむみょうほうれんげきょう」と 言えてません。
そこから考えると法華経の信奉も実践も無いのかもしれませんね。

31古沢石日:2011/06/26(日) 22:16:04
年中夢中さん、はじめまして。

>その意味は良くわからなくても、池田先生の為に命を投げ出す覚悟

いろいろな宗教数千年、数万年かもしれません。
長い長い信仰、信心の殉教という歴史を勉強してみてください。
意味がわからなくて命を投げ出す行為は「愚か」だと思います。

不惜身命の意味をしっかりとお考えになられることをお勧めします。

軽はずみに命をとか言わないでください。

意味がわからないまま焼け焦げた鍋を頭から被されたり、耳や鼻をそがれても
心確かに生きれますか?

32問答迷人:2011/07/01(金) 08:27:38

古沢石日さん

多忙で書き込みが遅くなって申し訳ありません。

>再誕者?って何処からでた議論なのでしょうか。ご本人も組織も会員も考えてないのではないでしょうか。

僕が創価学会に在籍していたころは、「池田先生は日蓮大聖人の生まれ変わり」という話が、組織内のあちこちで囁かれていました。伊豆に指導に行ったときには、『巨木の前で、「懐かしいなぁ」と池田先生が仰った』等と言う話がそれとなく流されていました。勿論、反対する人たちは、「その巨木を調べたら、樹齢約500年だった。」などと言う議論をしていました。

>名誉会長の唱題は「題目」じゃないと思います。

そうでしたか、僕なんかは、池田先生の澄み切った唱題の声に心酔したものでしたが・・・

まぁ、正確には「南無妙法蓮華経」とは唱えていない、と言うことですね。了解しました。

33問答迷人:2011/07/01(金) 08:31:29

年中夢中さん

>古沢石日さんのご意見、実に見事に創価学会の実体を捉えておられると思いました。

同感です。しかし、創価学会の中に、古沢石日さんの様に冷静に判断しておられる方がいらっしゃる事、とても心強いですね。

34管理人:2011/07/02(土) 00:20:57
問答迷人さん。
ご多忙の中ご返事頂き恐縮です。
伊豆の巨木の話はネットで知りました。
都市伝説か、アンチの創作ですよ。

殉教の話が出たのでご意見頂きたいのですが
永遠の生命であらば、信心のために今ある肉体を捧げることなど
簡単なものであろうかと思う反面、死んでしまっては
今を生きる己の存在価値を問えるのかという疑問もあります。
腰に刀や銃をぶら下げていた時代と違い、今はぬるま湯のような時代。
口先ではなんとでも言えると批判されましょうが、口が動くかぎりは
お題目を唱え続けたいと決意しております。

35古沢石日:2011/07/02(土) 00:26:24
失礼しました。
34は私です。
自分の板で書き込みをしましたので「管理人」のままでした。
申し訳ございません。いやぁお恥ずかしい。

36問答迷人:2011/07/02(土) 12:17:16

古沢石日さん

>永遠の生命

これは、確認する術を僕は持ちません。なので、永遠の生命を前提にした思考は僕はしていません。釈尊が「無記」とされた態度に学ぶべきだと僕は考えています。

>殉教

これは南無妙法蓮華経と唱える唱題の最終帰結なんだと捉えています。
己の心身の全てを日々妙法蓮華経の五字に捧げ続けること、そして、己の人生の全てを妙法蓮華経の五字に捧げてしまう事、そこに殉教があるのだと思います。
日々、己の心身の全てを妙法蓮華経の五字に南無し続けることこそが最も大切なことであり、その行為の中に、三世十方に広がる己自身の存在の実感・覚知が在るのではないかと考えています。
殉教は信仰を極めて判りやすく披瀝する形ではあっても、極めて特殊な信仰の形態である事は間違いないと考えいます。誰にでも出来ることでもなければ、それを粋がって真似るべきことでもない。

>口が動くかぎりはお題目を唱え続けたいと決意しております。

全く同感です。最低一日一時間と決めて、唱題に励んでいます。

37古沢石日:2011/07/02(土) 21:14:51
>己の心身の全てを日々妙法蓮華経の五字に捧げ続けること、そして、己の人生の全てを妙法蓮華経の五字に捧げてしまう事、
>日々、己の心身の全てを妙法蓮華経の五字に南無し続けることこそが最も大切なことであり、その行為の中に、三世十方に広がる己自身の存在の実感・覚知が在るのではないかと考えています。

問答迷人さん。
素晴らしいお言葉です。

今まで頂いたどの指導より心にしみました。
お昼に書き込みを読ませていただき、ずっと感動し続けておりました。
ありがとうございます。

38古沢石日:2011/07/02(土) 21:16:20
殉教に対してのご意見でしたが
生きる為のご指導です。

39問答迷人:2011/07/03(日) 07:39:20

古沢石日さん

ご賛同賜り、恐縮いたしております。

舌足らずと思うところがありますので、少し補足させてください。

「妙法蓮華経の五字」について

日蓮聖人は随所に「妙法蓮華経の五字」或いは「題目の五字」と仰せです。この表現を以て表そうとされた内容は何か、それは、『本当に大事なのは法華経二十八品ではなく題目の五字だよ』『帰命する対象は妙法蓮華経という経典ではなく、妙法蓮華経如来神力品で釈尊が地涌の菩薩の上首たる上行菩薩に授与された一大秘法たる妙法蓮華経という五文字なんだよ』という事なんだと思っています。法華経二十八品や、妙法蓮華経という御経に説かれた法門ではなく、単に妙法蓮華経という五つの文字、声に出して読むことが出来、目で見ることが出来る『五つの文字そのもの』を信仰対象として選ばれた所に日蓮聖人の卓見というか、真骨頂というか、深い悟りからの見識があるのだと思います。法華経二十八品と言っても、読める人は限られ、読んでも理解する人はさらに限られ、しかもその人その人によって理解する内容は異なってしまいます。その様な抽象的な内容は信仰の対象には不向きなんだと日蓮聖人は考えられたのだと思います。しかも、この妙法蓮華経の五字は法華経二十八品の経題であり、この妙法蓮華経という五文字で法華経二十八品を代表させることが出来ます。日本という国名が、一都一道二府四十三県を代表するのと同じです。この五文字で法華経の全てを代表させ、しかもこの五文字が神力品付属の正体である、というのが、日蓮聖人の教えの骨髄なんだと思います。

40古沢石日:2011/07/03(日) 15:00:36
問答迷人さん。
ありがとうございます。
お言葉に対しどう返答してよいか
言葉がみつからないくらい感謝感激いたしております。
問答迷人さんの素晴らしいお考えは、何時何処でどの様にして
育たれたのでしょうか。
創価学会・日蓮正宗の仏道修行を経て得られたものでしょうか。
それ以後に何かに出会い得られたものでしょうか。
是非私も末席に加えて頂けませんでしょうか。

41問答迷人:2011/07/03(日) 16:57:18

古沢石日さん

>考えは、何時何処でどの様にして育たれたのでしょうか。

大石寺戒壇板本尊が後世の作であり、日蓮聖人の出世の本懐などと言うものではない、と気付いた時、僕の信仰は一時崩壊しそうになりました。しかし、創価学会在籍中の入信七年目に体験した『御本尊の文字と己とが一体に融合した数日間』に、「必ずや日蓮聖人の教えは真実であり、法華経は真実である」という確信を持ちました。戒壇本尊に対する信仰は見事に崩壊しましたが、この不思議な経験の時に感じた確信は動くことはなかったです。「日蓮聖人が命懸けで伝えかたった世界は実在する。今はまだそれが何なのか不明確なだけだ」と気を取り直し、本尊抄を読み返しました。

『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』

この一節の「妙法蓮華経の五字」は日蓮正宗・創価学会では、「戒壇大御本尊」の事だと教えられてきました。しかし、戒壇大御本尊が偽物であることがはっきりとした以上、この一節はありのまま「妙法蓮華経という五つの文字」のことではなかろうか、と漠然と思いました。そのとき、過去の御本尊の文字との融合体験を思い起こし、きっとそうに違いないと思いました。

それから、この「妙法蓮華経の五字」について、日蓮聖人がどのように教えられているのは調べ上げて行きました。

曽谷入道許御書には「爾時に大覚世尊寿量品を演説し、然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属し給ふ。其の所属之法は何物ぞ。法華経之中にも広を捨て略を取り、略を捨てて要を取る。所謂、妙法蓮華経之五字、名体宗用教の五重玄也。例せば九苞淵之相馬之法には玄黄を略して駿逸取る。史陶林之講経之法には細科を捨てて元意を取る等云云。加之、霊山八年之間に、進んでは迹門序正之儀式に文殊・弥勒等の発起影向之聖衆にも列ならず、退ひては本門流通之座席に観音・妙音等の発誓弘経之大士にも交はらず。但此の一大秘法を持して本処に隠居する之後、仏の滅後正像二千年之間に於て未だ一度も出現せず。所詮、仏専ら末世之時に限りて此れ等の大士に付属せし故也。」とあります。又、本尊抄末文には「天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと大公・周公の成王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者也。」

さらに、本尊抄には、あの有名な「在世の本門と末法之初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種也。彼は一品二半、此れは但題目の五字也。」の一文があります。

これらを総合的に考えると、もはや日蓮聖人が「妙法蓮華経の五字」を以て末法の法華経とされた事は動かないと確信するに至りました。そして、立宗の暁から唱えられた「南無妙法蓮華経」という御題目は、この究極の正法たる妙法蓮華経の五字に南無するぞ、という誓願の言葉、祈りの言葉なんだと思いました。

開目抄の「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず。」と言うお言葉は、菩薩の四弘誓願と取れます。そして、その四弘誓願の根幹こそが「南無妙法蓮華経」という誓願なのではないか、と思い至ったとき、日蓮聖人の教えが簡潔で、しかもなんと見事な三世十方の広がりを持つ広々とした教えなんだと、感嘆するしかなかったです。これほど人の生き方を根源的に指し示した教えは、空前絶後だと思います。

>是非私も末席に加えて頂けませんでしょうか。

僕はいつも末席が好きです。一人で静かに一大秘法を実践して生涯を終えたいと思っています。しかし、もし、同じお考えの方がいらっしゃれば、どれほどか心強いか知れません。そういう意味で、無教会信徒の横の連帯がネットを通じて生まれれば、それが一番日蓮聖人の望まれておられる形に近いのではなかろうか、等と思っております。今後ともご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

42古沢石日:2011/07/05(火) 00:11:00
問答迷人さん。

>御本尊の文字と己とが一体に融合した数日間

素晴らしい体験をお持ちなのですね。
私は一瞬ですが私にも南無妙法蓮華経の文字と己が融合した体験があります。
私の場合、御本尊の前でなく空に向かって唱題しているとき、空に浮かんだお題目が、
上手く説明できないのですが、頭の先から足の先まで歓喜にあふれ
空に浮かぶお題目・・・   すみません。言葉で上手く言えませんが体験しております。
短い時間ですが、多々あります。

自己紹介では半世紀とあいまいに書きましたが性格には入信は45年前でして
小学6年生時に正本堂で戒壇の大御本尊の御開扉を父と二人で受けた時から
信仰に対象が「物」でいいのかとずっと疑問に思っておりました。
正信会が「出世の本懐がダイナマイトで爆破できる物であるはずがない。」という
事を言っていたと最近しりましたが、それに近い考えをずっともっておりました。
しかし自宅に頂いた御本尊を敬う気持ちは、もう誰にも負けないくらい深い
物をもっておりました。

問答迷人さんは、素晴らしい体験に加え勉強に勉強を重ねられて今日の信心を
確立されてらっしゃいます。
私には、全く教学がありません。「こう感じる」だけの信心ですが信ずる心は
人一倍だと思っております。
もっともっと早く勇気を出して、この掲示板にお邪魔していればと思いました。
ロムして自分で解釈するより指導していただいたほうがどれほど素晴らしいかと
後悔いたします。

無学で理解力の無い私ですが、今後ともご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

43問答迷人:2011/07/05(火) 07:06:31

古沢石日さん

>私は一瞬ですが私にも南無妙法蓮華経の文字と己が融合した体験があります。

恐らくは、同じ体験をされたのだと思います。僕はその数日間は、やることなすこと、思いのままに運んだ記憶があります。これが「自在」という事なのか、とその時思いました。そして、その体験を再現したい、その体験を日蓮聖人の教えの上から確認したい、そんな思いで過ごしてきて、色々な事がありましたが、その体験の日から今日まで約40年、今日に至るも信仰を捨てることなく来れました。とても有難いと思っています。

同一体験をお持ちの方とお会いすることが出来て、とても嬉しいです。出来れば、これからは、少しでも同信の輪を広げて行きたいものだと存じます。宜しくお願い申し上げます。

44古沢石日:2011/07/06(水) 00:46:10
問答迷人さん。

>僕はその数日間は、やることなすこと、思いのままに運んだ記憶があります。これが「自在」という事なのか

おっしゃるとおりです。
やる事といいますか、振り返るとこれしかないという生活を歩めるのです。
よく世間で「運が悪い、不運だとか、間が悪い。」といわれますが
まったく真逆で、こういう場面にめぐり合いたいなといった場面が
あちらからやってきます。

時がたつのが楽しくてしょうがないといった感じです。
何がしたいどうして欲しいではなく、こうしてもらって最高だっと言う気分です。
万年も生き続けたい。
もっと上手く説明させていただきたいのですが、
言葉で説明できなくらい、幸せです。

問答迷人さん。
いつもご指導ありがとうございます。
明日より週末まで出張となりましてしばらくパソコンに迎えませんが
まだまだご指導いただきたいことが山盛りです。
戻りましたらいろいろご質問させて頂きたく思います。


今後とも是非、ご指導ご鞭撻の程宜しくお願いもうしあげます。

45古沢石日:2011/07/06(水) 00:47:28
失礼しました。

× パソコンに迎え
○ パソコンに向かえ

46問答迷人:2011/07/06(水) 07:20:08

古沢石日さん

>まったく真逆で、こういう場面にめぐり合いたいなといった場面があちらからやってきます。

日蓮聖人の言葉を借りると、次の様になるのでしょうね。『今日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねき出だせり。此をもってをも(思)うに、今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。』十字御書(重須殿女房御返事)

お戻りになるのをお待ちいたしております。

47古沢石日:2011/07/11(月) 21:35:42
戻りました。
これからも宜しくお願い致します。

48古沢石日:2011/07/11(月) 21:48:14
問答迷人さん

私は40年以上前の創価学会編集の御書を大事にしております。
御書を大切にするのは「心」だと思っております。
御書を拝する時は手を荒い心をもって拝します。
しかし御書は出版社で印刷された書物です。

新聞等にも御書より御金言が毎日のように掲載されております。
私は定期購読はしておりませんが、
購読者は読めば廃棄してしまうと思います。
保管して会合等に使う物もあると思うのですが
御書より引用された御文が毎日全国で大量に粗末に扱われているのが
気になります。
考えすぎでしょうか。

49問答迷人:2011/07/12(火) 06:47:06

古沢石日さん

受持・読・誦・解説・書写の五種の修行が法華経には説かれています。この中で、「書写」は文字経典が出来上がった時に付け加えられたのだと思います。その一番の意義は、令法久住なんだと思います。

今日、印刷技術が発明されて、それが高度に発達しています。さらに、今後を考えれば、電子書籍の全盛期に入ってゆくのはほぼ間違いのないことだと思います。早晩、新聞紙に印刷された所謂「新聞」は姿を消すことになると思います。

このような技術革新の中で、令法久住はどうあるべきかを考えることが「書写」を考える上で重要なんだと思います。

書写の今日的意義は、恐らくは、正確性ではないかと僕は考えています。日蓮聖人も法華経の六訳三存の中から、鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経二十八品」を最も原型に近いものとして採用されています。

恐らくは経典研究は更に進み、印度で制作された当初の法華経が更に解明されてゆくことだと思います。

日蓮聖人の御書にしても、創価学会版の御書全集が発刊された意義は、本当に素晴らしいものがありますが、今日的には、日蓮聖人の著作でない、後世の偽書が真蹟と同等に扱われている事等、様々な問題点が指摘されています。宗派や団体の都合に影響されずに、「真蹟遺文」と、「偽書」を峻別し、真蹟は残ってはいないものの、文体や内容から、「真蹟遺文と同等に考えてもよいもの」、明らかに後世の作であり、「日蓮聖人の著作とは言えないもの」を明確にして編集された御書全集の発刊が待たれるところです。そして、それは更にその後の研究によって、補正されてゆくべきものと考えます。そうした、日蓮聖人の遺文に対する真摯な態度こそ、令法久住の意義に叶うのだと考えています。

大量消費時代の現代、こうした努力の積み重ねこそが、真に日蓮遺文を大切にすることだと思います。読者が、そういう見識を持ったとき、編集者や出版社はいずれ、そうした読者の要請に従うものと考えます。

50古沢石日:2011/07/12(火) 23:54:41
問答迷人さん

「真蹟遺文」と「偽書」の峻別という意識は創価学会内には全く無いと思います。
そもそも御真筆の御本尊でも他所のお寺にあれば「邪」であるといった思想が
今となっては全く理解できません。
宗祖御真筆が「邪」血脈を受けた弟子の書写が「正」理解できません。
しかし何十年も何の疑問も持たなかったのは自分自身です。

上からの指導・指示は全て鵜呑み。
創価学会員の末端会員は全てそうだと思います。

本当に矛盾だらけに気付いても誰も口に出しません。
公式見解がジワジワ変わっていっても見て見ぬふりです。

大聖人様のお名前だけを使った「創価学会の御本尊・御書」なんでしょうね。

スレ違いになってしまいまして申し訳ございません。

51古沢石日:2011/07/13(水) 00:52:45
問答迷人さん

御書には我々が拝む「御形木御本尊」様についてのお言葉は無いと聞きました。
法主が直々に書写して頂けるのではなく、それを元に印刷されるものですね。
形式としては個々に違いの主張はあるのでしょうけど「印刷」ですね。
その後お寺では「開眼供養」されるそうなのですが、法主に直々頂くものでなく
地方のお寺で下附されます。今までの何千万幅の御本尊を全て法主は
「開眼供養」されたのでしょうか。
地方のお寺には運送便とか郵便で発送なのですよね。
運送の方は荷物を粗末にはされないでしょうが
信者のそれと比べると心配です。
お寺にも「心」が無いように思えるのですが。

やはり大聖人様御真筆の御本尊御安置のお寺で唱題と考えるのですが
その寺にある釈迦像がとか何像がとかが私には謗法になりますので
それも出来ません。

大聖人様が一幅一幅御図顕なさっておられた時、全信者の手元に
御本尊をとお考えになっておられたのでしょうか。

52問答迷人:2011/07/13(水) 13:27:20

本尊について

日蓮聖人の十大部である「唱法華題目抄」には、御真筆曼荼羅の原型とおぼしき記述があります。『問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、』(日興写本)

『本尊は題目、その題目の左右に釈迦仏と多宝仏を書き、さらに十方の諸仏普賢菩薩等を書いてもよい。又、釈迦多宝十方諸仏普賢菩薩等は仏像として造立して題目の左右に立ててもよい』

まぁ、こんなところでしょうか。

一つ一つ検証します。

先ず、仏像を立てることを全然否定されていない事。謗法等と言う御考えは微塵も読み取れません。

本尊は題目を書いて本尊とせよ、とあるのみです。法主が書いたものでなければならないとか、日蓮聖人が書いたものにだけ利益があるとか、そういう事は全く想定外だと思います。法華経の題目を書いて本尊とせよ、これが日蓮聖人の基本的お考えと思われます。

後に、日蓮聖人は曼荼羅を認められて、本尊とするように弟子檀那に授与されましたが、この御文からすれば、各自が題目を書いて本尊とすれば良いのだけれども、日蓮聖人が代わりに書いて上げた、と言った風情にも取れます。

やはり、真筆曼荼羅に拘る意味合いは何もないのではないでしょうか。御書は偽書との峻別が不可欠ですが、題目は誰が書いても題目に違いはないのではありませんか。

54問答迷人:2011/07/13(水) 14:38:32

追加です。

日蓮聖人は必ずしも筆で書け、とは仰せではありません。また、仏像を立てても良いと述べられているわけですから、印刷も基本的には問題にならないと僕は思います。

ただ、日蓮聖人の真筆曼荼羅を型木に彫って、印刷することに対しては、日興上人が戒められた御文が残っていますが、これは、真筆曼荼羅を木に張って彫ってしまう事を嫌われた側面も有ったのではなかろうかと僕は考えています。どこまでも、真蹟遺文、真筆曼荼羅を後世に残されようとされた日興上人ですから、当然のご配慮かと思います。

今日に於いて、印刷した曼荼羅を法主が開眼して信徒に授与されていますが、曼荼羅自体が本来、諸仏の眼たる妙法蓮華経の五字を認めたものなのに、果たして、諸仏の眼が題目として認められているのに、どうやってさらに開眼するのかなぁ、と思ってしまいます。まぁ、開眼と称して、印刷の曼荼羅を配布することへの言い訳を日蓮聖人の申し上げるのではないかなぁ、等と考えています。例えば、『眼の書かれていないダルマさんに筆で眼を入れる事を開眼』と言うのが、『開眼』の普通の意味合いであると思います。諸仏の眼たる妙法蓮華経の五字をさらに開眼するというのは、全く変てこな話だと思われませんか。

>全信者の手元に御本尊をとお考えになっておられたのでしょうか

これは、物理的に考えて、無理だと思います。中心拠点の為に曼荼羅を授与されるので、精一杯ではないかと思います。ですから、本尊が無くてもお題目を唱えればその功徳は一緒だと教えるか、「各自で曼荼羅を書いて本尊とせよ」と言うか、あるいは、今日的に「印刷した曼荼羅を本尊として配布する」か、何れかの方法によるしかないと思います。信徒が本尊欲しさに勝手に怪しげな曼荼羅を書いてしまうのを防ぐという意味では、印刷本尊の配布がベターではなかろうかと考えます。

55古沢石日:2011/07/13(水) 23:01:28
問答迷人さん

いつも本当にご丁寧にご説明くださりましてありがとうございます。
毎日毎日この掲示板でのご説明を読ませていただく度に
自分の心が輝いていくのがとてもよくわかります。
日蓮正宗の方や創価学会の方もこの掲示板に来て
いままで自分達が「日顕宗」だ「池田教」だと争い罵りあってきた
愚かさに気づかれると思います。


「木絵二像開眼之事」を御本尊の開眼、「聖人御難事」を戒壇の御本尊。
今まで数多くの人がこの議論を繰り返しいますが、
私は何度拝しても法華講や創価学会の主張は「こじつけ」としか思えませんでした。
とても心が軽やかになりました。本当にありがとうございました。

御本尊に関してもう一つ質問させてください。
身延の売店やネットで売られている御曼荼羅や
日像上人などが書写した御本尊とか日蓮宗系の僧侶が個人的に書写した御本尊とか
書道家が書写して友人知人に配ったという話も聞きます。
お題目・釈迦仏と多宝仏・諸仏普賢菩薩等を活字印刷、例えばワープロ打ちのように
したもの等に対してはどうお考えでしょうか。

私は近い将来、電子書籍のように御本尊も仏壇がパソコンに変わり
そこに保管されるように思えるのです。
紙に印刷したものに比べて、汚れや破損等の不敬の心配も無いので安心だと思うのですが。

56問答迷人:2011/07/14(木) 06:42:55

>お題目・釈迦仏と多宝仏・諸仏普賢菩薩等を活字印刷

日蓮聖人は妙法蓮華経の五字、と仰っていますが、その書体についての言及は、少なくとも真蹟遺文にはありません。ただ、日蓮聖人が書かれた曼荼羅は、髭文字と呼ばれる、髭のように文字の端を伸ばした書体が用いられています。日本で用いられている活字には、このような髭文字書体はありませんね。現代活字を用いることには、この点が課題となるのではないでしょうか。

>電子書籍のように御本尊も仏壇がパソコンに変わり

電子曼荼羅を拝するのに都合の良い形態の「パソコン仏壇」はあり得ますね。現に、顕正会の会館では曼荼羅をモニターに映して勤行・唱題する形が行われているのを「顕正新聞」で見たことがあります。文字は紙に書くものだ、という先入観がありますが、法華経経典も初めは、椰子の葉に書かれていたわけです。所謂、貝葉本です。将来、媒体がパソコンモニターに代わっても何ら不思議は無いし、その時代に即した形になってゆくのが良いのではないかと思います。

57古沢石日:2011/07/14(木) 23:41:09
問答迷人さん

ご多忙の中いつもご丁寧なご指導ありがとうございます。

私は教学がありません。
何十年もの間唱題を重ねてきて、直感的に信心を考える事がほとんどです。
研究を重ねられ勉強を積み重ねられる方々からすれば
私の直感等は寝言戯言かもしれません。
しかしせっかくこのような巣晴らしい掲示板にめぐりあえましたので
お叱りを受けるのを覚悟で今後も質問させて頂きます事をご容赦くださいませ。


妙法蓮華経を、何の迷いも無く、生命ある間保ち続けることが出来る信者なら、
意識の中にある御本尊(目の前に常に正しく御本尊を想い浮かべる事が出来る)と
実際にご安置した書写(印刷)ご本尊に差異が無い様に思えます。
そもそも大聖人様が御本尊を御図顕されたのは、しっかりとした対象がないと
信弱き者はいろんな物にお題目をあげてしまわないようにではないでしょうか。
他宗の曼荼羅は言うまでも無く、他には身近の木仏・石仏とか、動物だとか爬虫類だとか。


思いますにお曼荼羅は地図であり扉であり楽譜である。
お題目は地図を読み心を目標へ運ぶためにあったり
扉を開ける鍵でもあったり楽譜に書かれた最高のメロディを
奏でる(声なのか楽器なのか)物なのではないでしょうか。

扉の位置をしっかり把握している者、地図が無くとも目的地をしっかり
理解している者、楽譜を完璧に頭に記憶できている者には

つまり御本尊をいつも目の前に御安置出来ている人物には
お曼荼羅は無くてもよいのではないでしょうか。

そもそも紙に書かれたという事は、お手紙お手本なのでは。
記してあげたから一生懸命信仰して心に刻みなさいとおっしゃっていらっしゃったのだと。
御図顕して頂いたお弟子の中には、ご立派な家屋をお持ちの方ばかりではなかったはずです。
紙に顕されたお曼荼羅を、雨や嵐や風や火事や物取りが多発する時代の中、
代々の子孫まで信仰の対象として保つのには難しいです。

一刻も早く生命に刻みなさい。そう思われていたのではないでしょうか。

58問答迷人:2011/07/15(金) 17:31:07

古沢石日さん

>お叱りを受けるのを覚悟で今後も質問させて頂きます事をご容赦

とんでもありません。僕は学問として仏教を学んだ者ではありません。一信徒として考えてきた事を書き込ませていただいているのみです。

>お曼荼羅は地図であり扉であり楽譜である。

十大部の『顕仏未来記』に次のような記述が有ります。

「此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩「我深敬」等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意之同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。」

不軽菩薩は二十四字の法華経、日蓮聖人は五字の法華経、と語句は違っていてもその意味内容は同じであると読めます。日蓮聖人の教えは『五字の法華経』と言う事ですから、妙法文字曼荼羅は日蓮聖人の『五字の法華経』をそのまま表したもの、ということになると思います。
そして、それが悟りへの地図であり、悟りへの扉であり、悟りへの設計図、つまりは音楽に於ける楽譜に相当するとのお考えに賛同します。

>扉の位置をしっかり把握している者、地図が無くとも目的地をしっかり理解している者、楽譜を完璧に頭に記憶できている者にはつまり御本尊をいつも目の前に御安置出来ている人物にはお曼荼羅は無くてもよいのではないでしょうか。

確かに、日蓮聖人御自身は、曼荼羅がなくとも法華経修行に事欠くことは無いと思います。ただ、私たち信徒は、日蓮聖人に導かれて正しく法華経を修行させていただく立場ですから、曼荼羅は必要ない、と言うのは行き過ぎではないでしょうか。常に日蓮曼荼羅を拝して信仰に励むのが日蓮信徒の基本姿勢ではないかと僕は思うのですが、如何でしょうか。先に引用しました「唱法華題目抄」の次の部分には「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、」と有りますから、日々の信仰の基本としては曼荼羅を安置してその前で座って題目を唱えよ、ということだと思います。そして、「道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず」ですから、生活の合間に歩きながら題目を唱えることは一向に構わない」ということだと思います。

59古沢石日:2011/07/16(土) 00:41:48
問答迷人さん

日々この掲示板を開く事が自分の生命を磨いてくれます。
ご指導いただく度に生命に新芽が育つ気分です。
爽快とはまさにこの心境であること間違いなしです。
まとこにありがとうございます。

おっしゃいますとおり御本尊を拝するがこそ
常に身支度を整えるという生命が湧きます。
自分ではしっかりきっちり生きているつもりでも自分の姿は
自分では見えません。
御本尊という生命のお鏡で自分を磨くことが一番大切ですね。
ありがとうございました。

60古沢石日:2011/07/16(土) 00:54:37
創価学会の会合では「幸せになるために日々信心してます」という言葉が多々でます。
御本尊は「幸福製造機」であるという指導を今でも耳にします。

はてさてその幸せとはいかがなものなのでしょうか。
数々の体験・指導を聞かせて頂き判断するに全て現世利益です。
病気が治った、事業が成功した、欲しいものが手に入った云々。

これって「天界」ではないのでしょうか。

不治の病が完治しても、その先風邪をひいたり虫歯になったりすることもあります。
死ぬまで全くの医者要らずというわけでもありません。
金儲けも欲を言い出せばきりがない。
欲しく欲しくてしょうがなかったものも、手に入ればやがて飽きます。

それらは本当に「功徳」と呼んで良いのでしょうか。

61問答迷人:2011/07/16(土) 08:18:38

古沢石日さん

>数々の体験・指導を聞かせて頂き判断するに全て現世利益です。・・・それらは本当に「功徳」と呼んで良いのでしょうか。

立正安国論の末文に「弥よ貴公の慈誨を仰ぎ益愚客の癡心を開けり、速に対治を回して早く泰平を致し先ず生前を安じて更に没後を扶けん、唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。」と有ります。ここに「先ず生前を安じて更に没後を扶けん」と有ります。「生前を安じて」とは現世利益を述べられたものだと拝します。「更に没後を扶けん」と言うのは、後世の大事であり、一生成仏を述べられたものと拝します。日蓮聖人がこの書を著して幕府を諌められたこと自体、安国を願われた訳で、現世利益の一面と言えると思います。
大事なのは、単なる安国ではなく、仏教による安国を教えられたわけで、それは後世につながると言うことだと思います。三世に亘っての仏教の利益を述べておられると拝します。

以上の事から、南無妙法蓮華経を離れた現世利益は泡沫の様な儚いものですが、南無妙法蓮華経を根本にした現世利益は後世の利益をそこに含んでおり、単なる現世利益ではなく、功徳そのものだと思います。

62古沢石日:2011/07/17(日) 00:28:00
問答迷人さん

ご指導まことにありがとうございます。
問答迷人さんはどの様な質問に対しても
即座に御書の御文を用いられ、解説していただきますが
その膨大な知識はどのような学習にて身につけられたのでしょうか。

御書はどちらの編集発行の御書をお持ちなのでしょうか。
他にもどれくらいの書籍をお持ちでしょうか。

ご推薦される書籍等がありましたら、是非ご教授いだだけますでしょうか。

63問答迷人:2011/07/17(日) 06:43:12

>御書の御文を用いられ、解説

学生の頃、創価学会版の御書を三回ほど意味も分からず通読しました。断片的ながら、どの御書にどんなことが書かれているか、極めてアバウトながら把握することが出来たと思います。その後の信仰の中で、その都度、御書を読み返したりしてきましたので、少しばかり全体観は養われたのだと思います。

ただ、一番為になったと思うのは、当掲示板で諸賢から、真蹟遺文によって日蓮聖人のお考えに迫るという手法を教えていただき、宗派や団体の御都合教学の洗脳から自由になることが出来た事です。特に犀角独歩さんから徹底した真蹟主義を学ばせて戴いた事は、戒壇板本尊を離れた今、どれほど有難かったことか、深く感謝しています。

>御書はどちらの編集発行

創価学会版、大石寺版、日蓮宗現代宗教研究所の真蹟遺文、この三種を常用しています。

>ご推薦される書籍

浅学の身ですから、特に推薦すると言ったことはありませんが、富士宗学要集は、創価学会と日蓮正宗という自身の出自を知る上で欠かせない書籍であると思っています。戒壇板本尊が偽物だとの確信を持ったのは、宗学要集を検索する事によって、でした。

>指導

僕は指導と言う事が出来る立場でも、資格も、能力のないと思っています。指導ではなくて、僕自身が信ずるところを述べさせて戴いているのみです。出来ましたら、「指導」という言葉は僕には似つかわしくないと思っていますので、お使い戴かない様にお願い出来ますでしょうか。

64古沢石日:2011/07/17(日) 10:11:30
問答迷人さん、おはようございます。
お忙しい中ご回答頂きましありがとうございます。
創価学会員は、新聞、大百蓮華の資料をもとに会合で勉強しますから代表される御文しか知識に無いと思います。
最近では会合に御書を持たず大百で御書学習をされるかたが大半だそうで、ますます御書から離れていってしまいます。
会員の中で一度でも通読された方は数える程しかいないのではないでしょうか。私もまったくその通りです。
まずは通読にチャレンジさせて頂きたいと思います。

この掲示板に書き込みさせていただくようになり、数々の御回答をいただきました。
ワールドワイドウエブの素晴らしさをこんなに体感させて頂いたのはこの掲示板だけです。
言葉ではうまくお礼の表現ができませんが、体が震えるほど喜びを頂いております。

問答迷人さんから頂いた言葉は「問答迷人様指導」というフォルダに保存させて
頂いております。私自身は毎回頂くお言葉はご指導享け賜ったものと心しておりあますが
ご指摘をいただきましたので、今後は言葉の使い方に注意してまいります。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

65古沢石日:2011/07/17(日) 10:23:41
問答迷人さん

創価学会草創期の折伏で、相手に罰論をバンバン訴えて折伏相手に罰を受けるように
会合で題目を上げ、相手を落とすだけ落としてから救ってやろうといった折伏があったそうです。
相手の不幸を願う唱題は自身に降りかかって来るように思えるのですが
こういった行為はいかなるものでしょうか。

66問答迷人:2011/07/17(日) 11:14:44

>相手を落とすだけ落としてから救ってやろうといった折伏

曾谷入道殿許御書(文永十二)に、天台の法華文句を引用されて次のように書いておられます。

「本已に善有るには釈迦小を以て之を将護し、本未だ善有らざるには不軽大を以て之を強毒す 中略 仏の滅後に於て三時有り。正像二千余年には猶お下種の者有り。例せば在世四十余年の如し。機根を知らざれば、左右無く実経を与ふべからず。今は既に末法に入て在世の結縁の者漸漸に衰微して権実の二機、皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむる之時也。」

『法華経を直ちに説いて、相手が反発して、誹謗すれば、法華誹謗の罪で罰を蒙る、その時に、再び法華経を説いて聞かせて、法華経に導く。』という姿が、法華経不軽品に説かれています。この経文について、天台は、過去に仏に結縁した事のない衆生には、法華経を説いて誹謗させることによって、法華経に縁を結ばせるのだと解説しているわけです。日蓮聖人はこの天台の説を受けて、それを肯定されています。

ただ、日蓮聖人が相手が罰を受けるように祈ったというのは、真蹟遺文には明文は無いようです。真剣に相手の成仏得道を願って法華経を説かれたから、反発した人も遂には信徒になった、というのが真相では無いかと思います。

67古沢石日:2011/07/17(日) 19:38:50
創価学会の功罪を考えるスレの1944で
>昔の折伏は相手の幸福を第一に祈念したものです。
と書き込みしましたが訂正させてください。我々凡夫は私利私欲ギラギラです。
相手の幸福を祈りつつ、折伏達成により自分に功徳を頂ける事を第一に考えてるのが事実ですよね。
欲望・祈り・願い みんな人より一歩でも幸せになりたいでしょうね。


>真剣に相手の成仏得道を願って法華経を説かれた


近年の大災害を思いますに、人は人として人のために働くことが自分のためにでもある。
風邪薬一つとっても、世の中に多く風邪で苦しむ人がいるから薬が開発調合販売されるんだなあと。
ガソリン・電気なども人間一人ではなんにもできません。
人間って素敵ですね。
真剣に相手を願ってを思いだ出さなくてはいけませんね。

私の質問には全く一貫性が無い事を反省しております。
過去組織で質問を繰り返しましたが、誰一人として納得する答えをいただけませんでした。
納得するまで繰り返していたら「難癖」をつけているように言われやがて組織から遠ざかってしまいました。
私自身あれもこれもお答え頂きたい気持ちが整理できず、考える前に書き込みしてしまいます。
ですので「何を聞きたいのかわからん奴」とお思いでしょうが末永く宜しくお願い申し上げます。
掲示板で討論された内容を重複しないようロムさせて頂いておりますが、
他スレで解決済みの質問などを私がした場合には「何スレの何番を読め」とおっしゃってください。

68問答迷人:2011/07/17(日) 20:22:38

>他スレで解決済みの質問などを私がした場合には「何スレの何番を読め」とおっしゃってください。

了解です。

ご質問に仮に一貫性が無くても、それは一向に構いません。古沢石日さんのご質問お答えしてゆく中で、結果として一貫性が出てくるのではないかと思っています。どうぞお続けください

69古沢石日:2011/07/18(月) 01:40:05
>>55で質問させていただきました御本尊書写の活字印刷の事なのですが
髭文字の書体を印刷出来ないという事で好ましくないとご回答いただいておりました。
富士教学研究会談所という掲示板の「伝興尊御本尊」というスレッドに紹介されていました
日興上人ご書写の御本尊にはほとんど髭がないのです。
柳澤宏道氏著 「石山本尊の研究」からの大石寺第三世 日目上人筆のご本尊も
妙と蓮の文字が少し伸びていますがほとんど楷書に近いです。
創価学会の御本尊は掠れた部分を加筆したり修正したりしていると聞きます。
色を足したり太くしたりしたら、書を印刷したと言えず、文字を作って印刷したと
なるのではないでしょうか。
電子書籍化してパソコンに御安置する御本尊は活字印刷というのは無理があるでしょうか。
梵字に関しては活字というよりもツールで文字作成になってしまいます。

70問答迷人:2011/07/18(月) 17:01:42

古沢石日さん

>電子書籍化してパソコンに御安置する御本尊

僕は、インターネットにアップされている「御本尊集」からダウンロードして、パソコンに取り込めば良いのではないかと思いますが、やはり、活字印刷に拘られますでしょうか。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

71古沢石日:2011/07/18(月) 19:34:58
問答迷人さん

せっかくのご意見ですが、寺院に宝蔵されているお曼荼羅ですから、その寺院の教義や信徒の願い
それに撮影した人間までが介入するような気がしますのでネットDLは気がすすみません。
2番目の京都妙蓮寺宝蔵のお曼荼羅は背景を処理してアップしているみたいで
御真筆とはいえず、画像作成の分野に入ってしまうかと思います。

72古沢石日:2011/07/18(月) 23:58:30
問答迷人さん

>>39 >>53 >>54 のご意見を頂きましてから
私なりに考えてまいりました。
いつもの如く文証もなく、心に浮かんできた事なのですが
御図顕されたお曼荼羅は与えられたお弟子がいらっしゃいます。
授与書まで頂いております。
「貴方は間違いなく私の弟子だから、この曼荼羅をいつも肌身離さず保つ
事で信心を深く保ち唱題を重ねて折伏しなさい。」といった、
なんと言いましょうか人生の手引書であり、お弟子である証明書の意味なのでは
ないでしょうか。
創価学会も日蓮正宗もお曼荼羅の意味を取り違えているように思えて来ました。
御本尊とは曼荼羅ではなく「南無妙法蓮華経」だと思うのですがいかがでしょうか。

日蓮宗の信徒も創価学会や日蓮正宗と同じように
御形木御本尊と頂き本尊としているのでしょうか。

73古沢石日:2011/07/19(火) 01:53:33
もう一つ質問させてください。
組織では、唱題はとにかく数多くと指導されてきました。
題目表もあります。
大聖人様も数多い唱題が多くの功徳をいただけると仰せでしょうか。

常識外れな質問をしてはいけないと思いまして、
自分なりに少し勉強せねばと、最近ネットでいろいろ検索するのですが
私が今まで組織から受けてきた指導は御書よりも日寛上人の書と
戸田二代会長の指導が中心になっているのではと思います。

75問答迷人:2011/07/19(火) 15:12:08

>御本尊とは曼荼羅ではなく「南無妙法蓮華経」だと思うのですがいかがでしょうか。

日蓮聖人はこの二つを区別せずに仰っておられる場合がありますので、必ずしも分けて捉えなければならないとまでは言えないのではないかと思います。当然、御本尊は題目の五字、妙法蓮華経の五字であり、これを一大秘法ともいわれる訳です。南無妙法蓮華経とは、この妙法蓮華経の五字、一大秘法に南無し奉る、という意味ですが、これも転じて、五字七字と日蓮聖人はあまり意識して区別ははなさっておられない様です。曼荼羅は、妙法蓮華経の五字という御本尊を中心にして認められていますから、曼荼羅の全体も御本尊と捉えても間違いではないと思います。

>日蓮宗の信徒も創価学会や日蓮正宗と同じように御形木御本尊と頂き本尊としているのでしょうか。

日蓮宗には宗定本尊があり、それを書写して印刷したものが久遠寺の境内の仏具屋さんで売られています。これを買い求めて、所属寺院の住職に裏書してもらって仏壇に安置されていると、日蓮宗の某御僧侶からお聞きしたことがあります。

>大聖人様も数多い唱題が多くの功徳をいただけると仰せでしょうか。

文永三年の法華題目抄には次のようにあります。
「琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄との如く、法華経の題目は琥珀と磁石との如し。かくおもいて常に南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべし。ーー中略ーー  南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱えて、後に暇あらば時時は弥陀等の諸仏の名号をも口すさみなるように申し給わんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに、ーー後略ーー」

ここで、「常に南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべし」或いは「南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱えて」とあります。一日に六万遍唱えようと思うと、一時間三千遍として、二十時間唱えて六万遍ですから、数多い唱題を勧められている事は間違いなさそうですね。

76問答迷人:2011/07/19(火) 15:41:08

>御本尊書写の活字印刷の事

唱法華題目抄の教えに従えば、問題はないと思います。ただ、配置とか、バランスを取るのがなかなか難しいでしょうね。

御本尊集の第16番、万年救護本尊は対告衆を特定しない目的からか、対告衆が書かれていません。これなら、問題点、解決しませんでしょうか。

77古沢石日:2011/07/20(水) 01:07:03
問答迷人さん

いつもご丁寧にお答え頂き本当にありがとうございます。
この掲示板出会わず疑問を独学で解決しようとしていたら
何万年かかっても無理でした。本当に感謝いたしております。

その万年救護本尊なのですが、一天四海皆帰妙法を達成するまでは(広宣流布と同意語と解釈しました。)
公表しないという意味がまたまた疑問を生みました。
唯一御本尊と書かれた御曼荼羅をしかるべきところに安置し、広宣流布達成を
皆で祈念するための御図顕であれば、御本尊に祈る大切さがわかるのですが
広宣流布達成されたあと公開とおっしゃられたのであらば「証明書」ではないかと。
授与書きが無いのも、その時の最も大事な人物に授与される為なのではないでしょうか。

長年創価学会で御本尊は命より大事なものと指導を受け続けておりましたが、
幼少の時から戒壇の御本尊は後世の物と思っておりましたし、御本尊を大事にする
「信心」が最も大事でその心を表すのが「題目」だと思い続けております。

長年学会宗門の醜い争いを遠くから見ていて、生命とはお題目であって御曼荼羅では
無いのではないかという気持ちがどんどん強くなっていきます。

78古沢石日:2011/07/20(水) 01:10:54
>「琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄との如く、法華経の題目は琥珀と磁石との如し。かくおもいて常に南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべし。ーー中略ーー  南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱えて、後に暇あらば時時は弥陀等の諸仏の名号をも口すさみなるように申し給わんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに、ーー後略ーー」

ありがとうございます。
唱題できてない人は「数よりどれだけ心をこめれるかだ。」とか
言い訳するんですが、わたしとしては「意識ある間は常にお題目を口ずさみたい。」
寝ている以外は常に唱題が目標です。
数より真剣さだ、なんていい訳してるひとには御教授いただいた五書を
突きつけてやります。

79古沢石日:2011/07/20(水) 01:12:01
すみません。
御書を五書と間違えてしまいました。

80問答迷人:2011/07/20(水) 07:47:52

>生命とはお題目であって御曼荼羅では無いのではないか

日蓮聖人が私たちに示された究極の教えは、南無妙法蓮華経と唱える事(お題目)だと言う事は、これは疑問の余地がありません。そして、それが、妙法蓮華経の五字に南無する、という意味であることも疑問の余地がありません。曼荼羅は、この南無すべき「妙法蓮華経の五字」を中心に認められています。つまり、南無妙法蓮華経と唱える中に、「曼荼羅の妙法蓮華経の五字」に帰命するという意味が篭められているわけです。この関係をよくよく考えると、「南無妙法蓮華経と唱えること」と、「お曼荼羅」とは、一つであり、切り離せないと思います。

81問答迷人:2011/07/20(水) 07:57:09

>一天四海皆帰妙法を達成するまでは(広宣流布と同意語と解釈しました。)公表しないという意味がまたまた疑問を生みました。

これは、日蓮聖人がそのように仰せになられたという記録があるのでしようか。恐らくは後付ではないのかと僕は考えていますが・・・。

82古沢石日:2011/07/20(水) 23:38:06
>これは、日蓮聖人がそのように仰せになられたという記録があるのでしようか。恐らくは後付ではないのかと僕は考えていますが・・・。

失礼しました。少しネットで検索しただけで解った様な書き込みをしまして
申し訳ございませんでした。

実はわたしが御曼荼羅の質問を繰り返すには理由がございます。
今から折伏をしたりされたりして大聖人様の仏法を学びたいと発心した人に
何処で御本尊を授与して頂けばよいのかわかりません。

組織にとらわれず信仰できるのが一番だと思うのですが、御本尊を頂くため
だけに学会やお寺に所属させるわけにもいかず、また組織側でも入会入信させたら
一人で信仰など許されるわけもなく、どうすればよいか悩んでおります。
どうか御教授お願い申し上げます。

83古沢石日:2011/07/20(水) 23:39:34
訂正です。
したりされたり→ されて
失礼しました。

85問答迷人:2011/07/21(木) 13:56:36

>今から折伏をしたりされたりして大聖人様の仏法を学びたいと発心した人に何処で御本尊を授与して頂けばよいのかわかりません。

大石寺の大講堂に安置されている板本尊は保田の万年救護本尊の版を基に板に刻んだ本尊であることは有名な事です。特に差し支えるという明らかな根拠が見当たらないので、この保田妙本寺の万年救護本尊を、インターネットの御本尊集からダウンロードして印刷の出来るような和紙、或いは丈夫な洋紙に印刷し、掛け軸として表装して仏壇に安置するというのが、誰の手を煩わすこともなく、既存の宗派・団体に関わることもなく、問題が一番少ないのではないかと思います。勿論、パソコン仏壇を作って、モニターに映すのも可、と思います。

86問答迷人:2011/07/21(木) 15:09:28

御本尊集はこちらのサイトの方が画像が大きく鮮明です。

http://www.lbis.jp/gohonzon/


万年救護本尊

http://www.lbis.jp/gohonzon/016.htm

87古沢石日:2011/07/22(金) 00:29:44
問答迷人さん。

ありがとうございます。
感謝感激です。
仰せの通りにいたします。
私のような者の戯言に、ご丁寧にそしてわかりやすく親切に
接してくださりました本当にありがとうございます。
御本尊に関しての最後の最後の質問なのですが
もう一つだけご回答お願い申し上げます。
印刷して表装し安置した御本尊からパソコン仏壇に取り替えた場合
印刷した御本尊はどうしたら良いと思われますでしょうか。
どこかのお寺に受け取っていただくよう、お願いするのがよいでしょうか。

88古沢石日:2011/07/22(金) 00:32:37
それなら最初からパソコンにせよとお思いでしょうが
まったく信心のない人にはいきなりパソコンよりも
丁寧に表装された御本尊のほうが、「信仰心」が湧きあがると思います。
何から何までご面倒をおかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

89問答迷人:2011/07/22(金) 06:10:11

パソコン仏壇に取り換える理由は何でしょうか。きちんとした表装を表具屋さんにお願いすると、結構な値段にもなります。それに、信仰対象であってみれば、簡単に取り換えるという気持ちにもならないのではないでしょうか。経年変化で表装が傷んでしまった場合、再度表装をやり直すこともできますし、その段階でパソコン仏壇に変えるというのなら、収納スペースを作って初代曼荼羅として収納しておくのも良いのではありませんか。お寺に頼んで受け取ってもらっても、例えば、日蓮正宗のお寺では「生抜き」をして焼却処分にすると聞いています。

日蓮聖人の出世の本懐であるぞよ、との信仰心からの配慮が求められるところだと思います。

90問答迷人:2011/07/22(金) 14:54:43

補足です。

曼荼羅は、本尊たる「妙法蓮華経の五字」を中心に認められています。南無妙法蓮華経と唱える事は、具体的には、曼荼羅に認められた「妙法蓮華経の五字」に南無することです。ですから、曼荼羅を離れて南無妙法蓮華経という御題目が別にあるわけでないと思います。勿論、曼荼羅の五字を思い浮かべて南無妙法蓮華経と唱えるとしても、曼荼羅は欠かせないわけですから。

91古沢石日:2011/07/22(金) 22:03:56
問答迷人さん。
本当にご丁寧にありがとうございます。

「生抜き」とは、どうされるのでしょうか。

>日蓮聖人の出世の本懐であるぞよ

万年救護本尊図顕が出世の本懐なのでしょうか。

92古沢石日:2011/07/22(金) 23:55:24
>南無妙法蓮華経と唱えるとしても、曼荼羅は欠かせないわけですから。

熱原の信徒たちは一人一人御曼荼羅は授与されていなかったと聞きます。
約790年間御曼荼羅を目にする機会も頂けなかったが、生涯心より
信心唱題を続け功徳を一身の頂いた信徒も数少なくないと思います。

93問答迷人:2011/07/23(土) 05:48:05

>「生抜き」とは、どうされるのでしょうか。

開眼供養の逆なのだと思います。閉眼供養でしようか。詳細は分かりませんが、開眼供養にあまり意味が無いように、生抜きにもあまり意味がないと僕は思っています。

>日蓮聖人の出世の本懐

妙法五字の曼荼羅を確立された事、それが日蓮聖人の出世の本懐であると、僕は考えています。

>御曼荼羅を目にする機会も頂けなかったが、生涯心より信心唱題を続け功徳を一身の頂いた信徒も数少なくないと思います。

授与される事なく、生涯を終えた信徒はいらっしゃったでしょうね。全く曼荼羅に縁することがなかった信徒さんは、そんなに多くはないのでは。寺院や有力信徒は曼荼羅を安置していたはずですから、何らかの形で拝していたと考える方が自然ではありませんか。また、生涯、曼荼羅を弟子檀那に授与された日蓮聖人の御本意を考えると、日蓮聖人の教えの一番の肝要が曼荼羅であることは疑問の余地がないと僕は思います。

95問答迷人:2011/07/23(土) 12:07:12

補足です。

出世の本懐について

守護国家論には「法華経は如来出世の本懐なる故に『今者已満足 今正是其時 然善男子 我実成仏已来等』と説く。」と仰せです。釈尊の出世の本懐は法華経を説くことにあったと日蓮聖人は述べられています。そして、日蓮聖人は末法の法華経として「妙法蓮華経の五字」を説かれ、その末法の法華経を、明確な形として残されたものが曼荼羅であると考えています。

つまり、日蓮聖人の出世の本懐は妙法曼荼羅であると考えています。

96古沢石日:2011/07/23(土) 13:40:39
>約790年間 → 約740年間です。失礼いたしました。

>日蓮聖人の出世の本懐は妙法曼荼羅であると考えています。
文永8年の10月に出世の本懐をとげられたのでしょうか。

出世の本懐といえば、すぐに「聖人御難事」をあげられる方が多くいらっしゃいます。
「聖人御難事」が戒壇御本尊のことを仰せでないのは、この御書を初めて
拝したときから存じ上げておりました。
どうして出世の本懐が「聖人御難事」となるのか、書物やネット等のいろいろなお考えを
読ませていただいてもまったくわかりません。
お忙しいところご無理をもうしますが、「聖人御難事」の本当の意味を
御教授お願いできませんでしょうか。

97問答迷人:2011/07/23(土) 15:21:59

>文永8年の10月に出世の本懐をとげられたのでしょうか。

どの段階で、曼荼羅が確立されるか、という事ですね。基本形は、文永8年10月の楊子本尊から、観心本尊抄執筆の文永10年4月を経て、文永11年3月の赦免までの佐渡流罪の時期に固まったと考えて、そんなに間違いはないのではなかろうか、と思います。いずれにしても、出世の本懐は、何年何月何日と特定出来るような事ではないと考えます。

>「聖人御難事」の本当の意味

まぁ、この書に本尊の「ほの字」も見当たりませんので、日蓮正宗59世の日亨上人が仰る通り、特定の本尊を指し示す書でないことは明らかだと思います。日蓮聖人は他の御書でも、諫暁八幡抄の『二十八年』とか、今までの弘通を振り返って述べられている個所がありますので、特に聖人御難事の『二十七年』だけに重大な意味があるとは僕には思えません。

98古沢石日:2011/07/23(土) 22:58:43
文永・建治年間では、首題が大きく力強く一目で「南無妙法蓮華経」が
浮かび上がりますが、弘安年間では首題が小さく、四天王・梵字が凄く大きく
相貌は同じでも、全く違うという印象を受けるのですが、何か意味があるのでしょうか。

>今までの弘通を振り返って述べられている

おっしゃるとおりですよね。お題のまま「聖人御難事」を振り返られている御書
ですよね。どうしてこれが「戒壇の本尊」なのかこじつけもいいとこです。

そうしましたら、御書には「戒壇の御本尊」についての御文は「無」ということ
になりますでしょうか。

99問答迷人:2011/07/24(日) 06:08:27

古沢石日さん

>相貌は同じでも、全く違うという印象を受けるのですが、何か意味があるのでしょうか。

申し訳ありませんが、僕は曼荼羅の相貌について研究したことがありません。この掲示板をご覧の諸賢が、書き込んでくださるのを待ちたいと思います。

>御書には「戒壇の御本尊」についての御文は「無」ということ

戒壇について述べられた個所はありますが、戒壇本尊などと言うヘンテコな記述はありません。『戒壇本尊』は一体、誰が言い始めたのか、後世であることは間違いないですね。

100古沢石日:2011/07/24(日) 13:32:26
問答迷人さん

こちらの板では全員「日蓮聖人」とお書きになります。
日蓮聖人と日蓮大聖人の違いは何なのでしょうか。

101問答迷人:2011/07/24(日) 14:26:06

大聖人=仏の意。法華経方便品には釈尊の事を『慧日大聖尊』と書かれています。ここで『尊』とは『尊い人』の意味ですから、大聖尊とは大聖人の意味と取れます。末法御本仏日蓮大聖人 これが、日蓮正宗・創価学会等の呼び方ですね。宗祖を久遠本仏の再誕と考える訳です。

聖人=宗祖の自称です。法門可被申様之事(文永六)に次のように述べられています。

『又聖人は言をかざらずと申す。又いまだ顕れざるのちをしるを聖人と申すか。日蓮は聖人の一分にあたれり。』

102古沢石日:2011/07/24(日) 14:46:54
問答迷人さん

ありがとうございます。
では私も本日より日蓮聖人と書かせて頂きます。

>宗祖を久遠本仏の再誕
解らない事を山ほど持っている私ですが、この久遠元初のお話が全くわかりません。

「久遠元初の自受用報身如来こそ「末法の法華経の行者」たる日蓮大聖人」
「久遠元初の自受用報身如来」
何がはじめで何が後で何が何時で?????始まりがなんで末法と同じなのか
日蓮正宗・創価学会のご本尊の首題ははどうして自受用報身如来では無いのでしょうか?

103問答迷人:2011/07/24(日) 15:35:50
古沢石日さん

当掲示板に於いて、この点は色々な方々が議論をなさっています。まずは、過去の掲示板の議論をご覧になって見られては如何でしょうか。

過去ログは当掲示板の上部にリンクが張られています。その中の「日蓮大聖人が御本仏であるという教義について」をご覧ください。


さらに、当掲示板の議論は、同名のスレッドが当掲示板にありますから、そこをご覧ください。その上で疑問点をご提示戴けると、有難いです。宜しくお願いいたします。

104古沢石日:2011/07/24(日) 20:43:06
問答迷人さん

かしこまりました。
他の話題のスレッドもいろいろじっくりと拝見させていただきます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

105古沢石日:2011/07/26(火) 21:02:32
少し読ませて頂きましたが素晴らしい掲示板ですね。
勉強に勉強を重ねらた方々が対話されるのですから宝箱のような討論ですね。
「本尊と曼荼羅」スレッドで犀角独歩さんが桐谷先生のお名前を書かれていましたので
検索させていただきました。
実は私は、信仰を別にして日蓮聖人のおまんだらが何よりの心の癒しといいますか
安心といいますか、本当に大好きです。
まあ小学校入学するかしないかの時期からずっとおまんだらを見つめて生きてきましたから
親以上に心に残るのは当然だと思います。
問答迷人さんにご紹介いただきました御本尊一覧のサイトも毎日のように
見させていただいています。

106古沢石日:2011/07/26(火) 21:13:32
ところがですね、いざ相貌と考えても
目を閉じると「南無妙法蓮華経」の首題しか浮かんでこないのです。
私も壮年となりましたが、昔から記憶力には自信がありますが
首題しか目の前にお出になりません。
それにもう一つ、パソコン仏壇をと思いまして、土日で設定しかけたのですが
エラーの続出で断念いたしました。
モデムの不調やらパソコン本体の不具合。
管理されてる方はご存知と思いますが、IPがかなり変動していると思います。
モデムの再設定をかなりやりました。
パソコン仏壇はしばらく保留とさせていただきます。

107問答迷人:2011/07/27(水) 09:26:21

古沢石日さん

>宝箱のような討論

僕もそう思います。ところでお探しの宝物は見つかりそうですか?

>首題しか浮かんでこない

主題の五字が一番大事なので、蓮祖の、そのようなご配慮があるのだと思います。

108古沢石日:2011/07/27(水) 23:48:45
問答迷人さん

ひきこもり小僧が部屋の外に出てきたような驚きです。
こちらにお邪魔するまでは偽書の存在も知りませんでした。
今までまったく気付かなかった事なのですが、創価系や法華講系の
掲示板で議論の際に引用される遺文は偽書と呼ばれる御書が大半ですね。
捏造・改竄されている事も知らず、自分達の正当性を主張する為に
これぞ伝家の宝刀なりと引用しています。

日蓮聖人の御遺文を日寛教学を通して学ぶ
創価学会も日蓮正宗も「池田教」とか「日顕宗」ではなく
双方ともに「日寛宗」と呼ぶほうが正しいのではないでしょうか。

109古沢石日:2011/07/27(水) 23:56:32
五年前に亡くなった私の父は、薄給を工面しながら昭和40年代の
「日蓮大聖人御書講義集」原島崇著を何十冊も購入しておりました。
父も偽書の存在は知らなかったと思いますし、知らないままでよかったです。
残された書籍の山ですが、目を通す必要は無いでしょうか。

110問答迷人:2011/07/29(金) 18:16:29

古沢石日さん

昨日は、多忙の為、書き込む事が出来ませんでした。

>偽書と呼ばれる御書

明らかに偽書と判るものは、そんなに害はないと思います。また、論争が有って、真偽が決まっていないものも有ります。例えば三大秘法抄。大抵真書だろうという事で、真書扱いされているけれど、真蹟も無ければ、鎌倉当時の写本もないものも多数あります。これをどう扱うか、これが問題です。
この掲示板では、『真蹟が残るもの』『身延の火災で焼失したけれども、焼失前の写本が残るもの』『日蓮聖人の当時のお弟子さんの達の写本が残るもの』この辺りまでは、一応議論の基礎として良いのではなかろうかと言う意見が趨勢かと思います。勿論、真蹟遺文が残るものしか議論の基礎としない、という考え方もあると思います。

ただ、明らかに偽書だとされてきた、身延・池上の相承書や、百六箇抄、本因妙抄等の相伝書の類は、大石寺や創価学会では真書扱いで、堂々と議論の根拠とされています。どうしても、これ等の書が真書であると言うのなら、偽書だという指摘に反論すべきだと思うのですが、まともな反論はお目にかかったことがありません。反論というよりは強弁というべきものしかなされていないと思います。

例えば、身延・池上の両巻相承が真書であるという根拠として良く言われるのが、北山本門寺に於いて紛失したもので、その前の写本がちゃんとある、等との強弁です。そもそも、大石寺の相承書がなぜ北山に有ったのか、もし本当に北山に有ったというなら、北山が本家で大石寺は分家という事になり、しかも、その紛失したという時代には、北山と大石寺はすでに仲違いをしており、大石寺に日蓮聖人の血脈相承なるものが流れていないことは明らかであるわけです。
しかも、五老僧と日興上人の間で、意見の違いが生まれてしまったときに、この両巻相承がもし存在したとすれば、そのような時の為にこそ活用されるべき筈の相承書が、全く日興上人やそのお弟子さん達の著作に現れてこないのは極めて不可思議・不自然としか言いようがありません。
もし、紛失したのが事実とすれば、捏造された両巻相承が紛失したに過ぎないわけで、何の意味も無いと言わざるを得ません。

111問答迷人:2011/07/29(金) 19:02:51

>双方ともに「日寛宗」

日寛師はすでに存在していた大石寺教学を体系化し、纏め上げたのだと僕は認識しています。本気で大石寺教学を信奉していたかどうか、その点は定かではない気がします。宗門の拡大興隆に貢献したことは事実でも、日蓮聖人の教義を捻じ曲げたのは、感心しません。一番気になるのは、戒壇板本尊を中心にして教義を組み立てたことです。恐らくは、日寛師も、戒壇板本尊が後世の作と知りながら、宗門の興隆を第一に考えて、そのようにしたのかなぁ、等と思っています。

今の創価学会や日蓮正宗も、その日寛師の教学の呪縛から一歩も出ていないように思います。そういう意味では、仰る通り、どちらも日寛宗であり、その分派という事になりましょうか。

112問答迷人:2011/07/29(金) 19:08:10

>「日蓮大聖人御書講義集」原島崇著

日蓮聖人の遺文を学ぶにはあまり役に立たないかもしれませんが、その当時の創価学会と現在の創価学会の変遷を知るためには、大変貴重な資料という事になると思います。大切にされるべきだと思います。いつか、必要になる事が必ずあると思います。

113古沢石日:2011/07/29(金) 22:32:55
問答迷人さん

お忙しい中多数ご回答御教授いただきまして真に有難うございます。
原島著作は資料として保管したほうがよろしいでしょうか。
掲示板をご覧の方で、興味を持たれる方がいらっしゃるのなら
送料を持っていただけるのでしたら差し上げます。
研究資料として使っていただけるのでしたら、父も喜ぶと思います。

日蓮聖人のご意思を離れた「日寛宗」同士のいざこざならば怨嫉にも
なりませんね。

お忙しい中御教授願いたいのですが、「胸中の肉団におはします」の御遺文を
戒壇本尊を否定するときに引用することが多いのですが
日女御前御返事も偽書なのでしょうか。

114古沢石日:2011/07/29(金) 22:34:28
誤(戒壇本尊を否定するときに引用することが多いのですが
正 (創価学会側が、戒壇本尊を否定するときに引用することが多いのですが

失礼いたしました。

115古沢石日:2011/07/29(金) 22:41:26
戒壇本尊否定ではないですね。
すみません。創価学会はまだ否定しておりませんですね。
上手くいえませんが、創価学会員は日女御前御返事をすごく大事に語ります。

116問答迷人:2011/07/30(土) 07:05:18

>古沢石日さん

建治三年の日女御前御返事は、御本尊について詳しく述べられた御書として有名ですね。創価学会では盛んに用いられてきたと存じます。

一点、問題があります。この中の引用に「一念三千即自受用身」とありますが、「自受用身」という表現、及び引用は、真蹟遺文には全く存在しません。この点から、偽書の疑いがあると思います。
勿論、この書が曼荼羅を否定していないばかりか、曼荼羅を供養することの重要性を述べられていることは、疑いの余地がありません。この書の都合の良い個所を切り文にして、曼荼羅否定に利用するのは、この書の趣旨に真っ向から逆らいますね。これは、この書が真書であるか偽書であるか以前の問題です。

117古沢石日:2011/07/30(土) 10:57:36
問答迷人さん

過去に創価学会の書籍、会合等でいろいろな指導に引用された御書の
多くに、真偽を問う議論がされていることをネット検索で気付きました。

これは一から勉強しなおすといいますか、今まで受けてきた指導は
全て頭から切り離したほうがよいでしょうか。

何をどう勉強していいのか訳がわからなくなってきました。
文底読みという言葉も正宗と学会だけでしょうか。

118問答迷人:2011/07/30(土) 18:22:49

古沢石日さん

>一から勉強しなおす

恐らくは、日蓮聖人の教えとは違うものを、日蓮聖人の教えだとして、受容してしまうと、急には頭の切り替えは難しいですね。例えば、天動説しか知らなかった人が、急に地動説を教えられても、面食らってしまいます。時間の経過の中で少しずつ修正されるのが良いと思います。日蓮正宗こそが日蓮聖人の正系門家であるという前提から物を考えてきた人に、「日蓮聖人は六老僧の選定をされたのみで、唯授一人の血脈相承等と言う事はなされておらず、それらは全て後世の作り話」と急に言われても、「はい判りました」とはならないと思います。

>文底読み

開目抄には、『文の底に沈めたり』と言う表現があることは確かです。それは、法華経の経文の全てが「一大秘法=妙法蓮華経の五字」の為に説かれている、と言った意味合いでしょう。日寛師のように、さらに「どの経文の底か」等と突き詰めれば、やはり「我本行菩薩道」の文の底に一大秘法・妙法蓮華経の五字が沈められている、という議論にはなると思います。ただ、大石寺並びに創価学会は、この一大秘法・妙法蓮華経の五字を、さらに「戒壇板本尊の事である」と読み代えるわけですが、これは真っ赤なウソであると考えます。これこそ、日蓮聖人の教義の重大な改竄だと思います。

119古沢石日:2011/07/30(土) 23:40:15
問答迷人さん

私が最初に疑問を持ったのが「戒壇本尊」でした。このことは以前書かせて頂きました。
次に会員の会長崇拝に違和感を持ちました。会長から頂いたと聞かされた米粒ほどの
パンの切れ端を涙ながらに口に入れる会員達にこれは普通じゃないと感じておりました。

そんな中で私が信じてきたのは「お題目」と「御書」だけです。
その御書に偽書があったなどまったく知らず、今それがかなりショックです。
しかも学んで来た御書が選んだように真偽の疑いがあるものばかり。

問答迷人さんは、日々どのような形で御書を勉強されているのでしょうか。
御書を手にしても、どこからどう読ませていただくのか、少し頁を開いても
ほとんど現代語訳ができません。
暗記するほど勉強した御文は偽書の疑いありです。
どうしていいか本当に悩んでおります。

一大秘法を戒壇本尊の読み代えは、ずっと以前から否定していました。
たまに誘われて会合に出ては「一大秘法は本門の題目」と主張して
まわりから白い目で見られておりました。
最近、創価学会のHPの公式見解から会談本尊が本懐という記述が
削除されたそうです。
会合等では何のお知らせも全くなく、HP見てる人しかしらないみたいですが。

120古沢石日:2011/07/30(土) 23:41:50
会談本尊が本懐 → 戒壇本尊が本懐  失礼いたしました。

121問答迷人:2011/07/31(日) 07:13:07

古沢石日さん

>問答迷人さんは、日々どのような形で御書を勉強

日蓮宗の現代宗教研究所のホームページに真蹟遺文、写本遺文、注法華経、などの貴重な資料がアップされています。これをダウンロードして、使わせていただいています。

具体的には、たとえば「本尊」について、日蓮聖人はどのように述べておられるかを、ダウンロードしたテキストファイルの【編集(E)】から【検索】を選んで、【検索する文字】欄に【本尊】と入力して、次々と真蹟遺文を検索して行きます。ヒットした遺文の該当箇所から必要と思われるものを新たなテキストフアィルにコピーして行きます。最終的に選び出された真蹟遺文の該当箇所を繰り返し拝読して行くと、日蓮聖人が【本尊】についてどのように述べておられるかが概略把握できてきます。さらに、そこから、関連する【曼荼羅】や【五字】と言った用語を、同様の手法で検索抽出して、更に日蓮聖人の本尊観を突き詰めて行く、と。まぁ、こういう手法で、一つ一つの語句を日蓮聖人がどのように考え、使われているかを探ってゆく中で、日蓮聖人の御考え、教えの全体像が順次浮かび上がって把握できるようになってきます。そうなれば、御遺文は、比較的に意味が取れるようになってきます。

テキストフアィル化された遺文は、本当に貴重です。検索を掛けることによって、全体観が手早く把握できます。このような遺文の拝読方法はパソコンの普及して現代ならではですね。テキストフアィルの活用をお勧めします。

122問答迷人:2011/07/31(日) 07:15:02

現宗研の資料がアップされているアドレスは以下の通りです。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

123問答迷人:2011/07/31(日) 10:26:11

追加です。

既にご存知かもしれませんが、創価学会版の新編日蓮大聖人御書全集がアップされており、ダウンロード出来ますので、ご紹介しておきます。

http://sgi.daa.jp/netgsofl/index.html

124問答迷人:2011/07/31(日) 10:31:05

更に追加です。

その他、大石寺版の御書全集のテキストファイル版もありますが、これはネット公開されていません。もし、必要ならば、メールして下さい。添付ファイルにてお送りします。

125古沢石日:2011/07/31(日) 14:18:12
問答迷人さん

ご丁寧にお答え頂きまして真にありがとうございます。
現代宗教研究所のファイル、早速にダウンロードさせていただきました。
日々勉強させていただきます。ありがとうございます。

創価学会版の新編もダウンロードさせていただきました。
大石寺版、是非頂けませんでしょうか。
お手数をおかけしますが何卒よろしくお願いいたします。
先程メールさせていただきました。
何から何まで本当にありがとうございます。

126古沢石日:2011/07/31(日) 15:23:56
問答迷人さん

すぐに勉強を始めさせていただきました。
真蹟遺文を開きますとすぐ「不動・愛染感見記」がありました。
大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承 建長六年六月二十五日
とありますが、立宗宣言翌年に大日より相承とはいかなる事でしょうか。

翌年の諸宗問答抄において、大日如来信仰を破折されておりますが
こちらは真蹟がなく西山本門寺に日代の書写本があるそうです。

問答迷人さんは、どのようにご判断なさいますか。

127問答迷人:2011/07/31(日) 16:17:02

>大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承 建長六年六月二十五日

日蓮聖人の諸御書には、大日如来からの相承を覗わせる記述はありませんね。

この記述をどうとらえるかは、難問です。どういう訳か、恐らくは都合が悪いので削除したのでしょうが、この両感見記は真蹟遺文が現存するにも拘わらず、創価学会版にも大石寺版にも見当たりません。ただ、大石寺版の御書全集では、「不動・愛染感見記」を「真書ではあるが信仰に資するところ少なきものとして収録しなかった。」という言い訳が前書きの十一頁に書かれています。

この「不動明王」と「愛染明王」は曼荼羅には梵字で書かれているとされています。曼荼羅の両脇の梵字が不動・愛染を表しているそうです。それが事実なら、信仰者はいつも不動・愛染を拝している訳で、『信仰に資するところ少なきもの』という表現には大きな違和感を感じます。

富士宗学要集に収められている「御本尊七箇相承」には「五、梵字は不動愛染に限る事何の意有りて遊ばざるるや、師の曰はく西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成す目前なるものなり、我が仏法も亦復是の如し遠沾の翻訳仮字を梵漢に通ず可き先兆なり。」と書かれています。この相承が日蓮聖人の正しい相承書であるかどうかは、又、議論のあるところですが、日蓮正宗では不動・愛染について、曼荼羅の左右の梵字がそれを表現しているという認識を持っているわけですから、「信仰に資するところ少なき」と言うのは、どう考えても変ですね。

さらに、要集に収められている本尊三度相伝では「次に二明王の事は愛染王は煩悩即菩提の躰なり、是の色赤きは●欲の色なり、此の●欲即是れ道と観ずれば明王なり、さて不動明王は生死即涅槃の躰なり、其の色黒きは界内険氷・生死黒業は改めざる即不動明王なり、されば愛染は恵なり・不動は定なり、此の愛染不動は何物ぞ定恵の二法なり、此の定恵の二法は何物ぞ我等が境智の二法なり、我等が境智の二法何物ぞ只是れ我等が本分の妙法なり、爰を以つて経には歓喜して愛敬し能く千万種善巧の語言を以つて分別し演説し法華経を持つ故とも説き、又云く無量義処三昧に入つて身心動ぜずとも説けり、されば我等が煩悩愛染する時も妙法と唱ふれば即菩提の明王なり、我等が生死の動転する時も妙法と観すれば即涅槃明王なり、全く愛染不動とて別躰なし、只是れ我等が色心境智定恵の妙法是れなり、余准じて之を知るべし云云。 中略 問て云く至心敬礼し本尊を拝見するに皆以つて漢字なり、何ぞ不動愛染に限つて西天の梵字を用るや、答て云く異説有りと雖も且く一義を述ぶ不動愛染の自躰梵字に於いて利益す可き故に漢字を略して梵字を載せ例せば陀羅尼品咒の如き梵音を聞いて得益す可き故に直ちに梵語を説いて漢語に翻ぜず、之に准じて知る可し云云。是れ等当宗の大事秘蔵の奥旨なり、正機に非ざるよりは千金も伝ふる事なかれ、願くば門徒の法器を撰んで密に面授相伝す可し。」とあります。

不動・愛染が密教では大日如来の化身と考えられていますので、恐らくは、曼荼羅に梵字を取り入れられた背景には、密教曼荼羅の相伝が存在するのではなかろうかと、僕は想像しています。そして、それが感見記なのではなかろうかと。

128古沢石日:2011/07/31(日) 17:47:00
このような質問が出来るようになるなどとは、夢にも思っておりませんでした。
疑問が生じることが、命が湧き出るように感じて幸せです。
本当にありがとうございました。

>信仰者はいつも不動・愛染を拝している訳で、『信仰に資するところ少なきもの』という表現には大きな違和感を感じます。

「日蓮正宗創価学会」の時代から、この二つの団体は日蓮仏法の鎖国
状態にありましたから、隠すというより「知らない」のではないでしょうか。
どちらも自身を正当化するために御遺文等を改竄し、不都合は隠蔽してきた結果
自分たちの知るものには奥深く知識があるが応用も引用もできかねるのではないでしょうか。
現存する御真筆のまんだら127幅のうち4幅以外はすべて梵字の二明王を取り入れられている。
それなのに「信仰に資するところ少なき」?絶対知らないと思います。

信仰には二通りあると思います。
「何を信仰するのかを知り確信する」と「何も迷わず考えずただ信ずる」
普通指導者等は、前者を極め指導するのが信仰だと思いますが、
お寺も学会も後者のような気がします。
考えを書き込みとスレ違いになりそうなので、これからは私見は創価学会の功罪スレに
書かせていただくようにします。
そちらでも私見を破折して頂けますよう、お願い申し上げます。

129古沢石日:2011/07/31(日) 18:45:59
失礼しました。
× そちらでも私見を
○ そちら様におきましても私見を

130問答迷人:2011/07/31(日) 21:15:39

>隠すというより「知らない」のではないでしょうか

創価学会版御書全集の編纂者、堀日亨師は、日蓮宗とも交流があり、しかも、日蓮宗も碩学として一目も二目も置く存在でした。しかも、元々、この不動・愛染感見記は富士門に伝わる数少ない真蹟遺文の一つです。その方がその価値を「知らない」等という事はあり得ないと思います。自宗門の信仰のあり方を深く知っておられたが故に、ワザと知らんふりして、編集から外したのだと思います。

>「何も迷わず考えずただ信ずる」・・・・・お寺も学会も後者のような気がします。

学会員や法華講員には、そういう側面は確かにあると思いますが、創価学会の指導層も宗門の指導層も、何もかも判っていて、だんまりを決め込んでいるように思います。何しろ、唯授一人の血脈などというドグマが罷り通っていますから、先師が右だと言えば、それを左だ、と訂正することは困難な訳です。現に、日顕師も、教学部長の時は、戒壇板本尊が偽物、と喋っておきながら、67世になると、そんなことは言っていない、聞いた河辺師の記憶違いだ、等と恍けて見せる訳ですから。

131古沢石日:2011/08/01(月) 00:46:21
知らないのではなく「言えない」ですか。
言えないじゃなくて「言わない」ですね。
なんだか怖いですね。

以前ご本尊のことで、御書を用いて釈迦多宝十方諸仏普賢菩薩等は仏像として造立して題目の左右に立ててもよい
と教えていただきました。

しかし日興上人身延離山の理由は「神社参詣、神社への寄進、釈迦立像建立の可否」とありますが、
造仏を禁したのは日興上人独自のお考えなのでしょうか。
創価学会が宗門を攻撃するもののひとつに「日興上人の禁を破り17世が造仏をした。」
とあります。いかがお考えでしょうか。
よろしくお願いいたします。

132問答迷人:2011/08/01(月) 16:59:14

古沢石日さん

>造仏を禁したのは日興上人独自のお考えなのでしょうか

身延離山(正応二年一月)の少し前に書かれた、有名な「原殿御返事」(正応元年十二月十六日)には、次のようにあります。

「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し打ち還し案じ候えばいずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ、詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ、日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当つて覚え候えば、本意忘るること無くて候。」

「日興一人本師の正義を存じて」とありますから、この文面からはそのようにも取れます。この文の前に、造仏について述べられた個所があります。

「日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。」

この文面からは、強ちに造仏を否定されている訳でなく、『四菩薩の脇士が無いと久遠の仏にならないから造っては駄目だ』と仰せの様に取れます。これは、唱法華題目抄において、日蓮聖人が示された本尊の有り方とは、少し違っていますね。

「本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師(ほっし)品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。」(唱法華題目抄)

この唱法華題目抄は日興上人の写本が現存するわけですから、日興上人は、この日蓮聖人の本尊についての教えを良くご存知な訳で、その上で、四菩薩を添えた釈尊像ならば、本尊としても良い、と言う見解を持って居られた訳で、この点については、日興上人の独自見解と言えると思います。但し、結論として「御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。」と述べられ、日蓮聖人の曼荼羅を安置しなさい、と指導された訳ですから、結果的に造仏禁止の様な流れがそれ以降の富士門に色濃くなっていったのだろうと思われます。

>日興上人の禁を破り17世が造仏をした

日興上人が禁止されたのは、一体仏を造って本尊として安置する事ですから、どのような造仏を日精上人が行ったのか、が問題になりますね。宗門攻撃の詳細内容をご存知ありませんか。それを見てみないと何とも言えないのではありませんか。

133古沢石日:2011/08/01(月) 22:02:50
問答迷人さん

>日興上人が禁止されたのは、一体仏を造って本尊として安置する事ですから、
>どのような造仏を日精上人が行ったのか

申し訳ございません。私の読み違いでございました。
日精が批判されているのは、仏像を造り仏像を本尊とした事のようです。
おまんだらも本尊、釈迦像も本尊としたことが、日興上人のご指導に
そむいたとされているということだそうです。
唱法華題目抄で仰せのことは、題目を本尊としてその左右に
立ててもよいということですから、私の読み間違えでございます。
愚問を書き、お忙しいお時間をいただいた事をこころよりお詫び申し上げます。

134古沢石日:2011/08/01(月) 23:27:46
問答迷人さん

日蓮聖人が本仏であると一番最初におっしゃったのは日有上人なのでしょうか。

9世日有より法の付嘱を受け、登座した10世日乗は、わずか3年で法を11世日底に
付嘱し、その2年後の4月に日底、11月に日乗が遷化したため
翌年に再住したそうです。文永14年9月7日に12世日鎮わずか14歳で登座。
しかもその後すぐの9月29日、9世日有遷化。その後13世日院9歳で登座。
17世日清はわすか一年で日盈に付嘱。5年後に再住。
日寛上人も再住するものの、最初は2年で27世へ付属。

その後も付属をうけるも一年ほどで遷化された法主も結構おられるようですね。

法主であるのに、子供だったり短期間であったり、なんだか不思議な相承の歴史だと思います。

日達上人から日顕上人への相承のことが常に論争になっておりますが
登座されてから急に亡くなられた方も多々いらっしゃったようで
昔から結構あった問題ではないでしょうか。

135問答迷人:2011/08/02(火) 06:47:10

>なんだか不思議な相承の歴史

無理やりこじつけて、法灯連綿を強弁しようとした結果だと思います。不自然になるのは当然ではないでしょうか。元々、唯授一人の血脈相承などと言うものは存在せず、そんな神話を権威づけの為に作り上げたのが間違いだったと思います。尤も、当時は何らかの理由で、そんな権威付けをしてでも、大石手を守らなければ、寺の存続すら危うい状態があったのかもしれません。火災で大石寺の諸堂が16世の時に焼失し、17世への相承は江戸で行われたりしている訳ですから。

136古沢石日:2011/08/02(火) 23:24:53
問答迷人さん

少しずつ大石寺のもやっとした霧が晴れてくるように感じます。
いつもありがとうございます。

本日の疑問なのですが、妙心尼御前御返事で
「今の日 本国の人は一人もなく極大重病あり
所謂大謗法の重病なり
今の禅宗念仏宗律宗真言師なり」とありますが
禅・念仏・律は「宗」なのに、どうして真言だけ「師」なのでしょうか。
お忙しい中恐れ入りますが、よろしくお願い申し上げます。

137古沢石日:2011/08/02(火) 23:25:49
× 大石寺のもやっと
○ 大石寺に対するもやっと   
失礼しました。

138問答迷人:2011/08/03(水) 05:51:28

古沢石日さん

>真言師なり

創価学会版並びに日蓮正宗版では、「真言師」となっていますが、現宗研の真蹟遺文では、「真言宗」となっていますね。もう少し当たってみますが、遺文の判読の差があるのではないかと思います。どちらが正しいのか、真蹟に直接当たらないと判らないでしょうね。少し時間を頂戴します。

139問答迷人:2011/08/03(水) 07:43:32

昭和定本では、『真言宗』ですね。やはり、見解は真っ二つに分かれているようです。

これ以上は、僕の現在の調査能力を超えますので、諸賢のご意見を待ちたいと思います。

140古沢石日:2011/08/03(水) 22:29:23
問答迷人さん

ひょっとすると誤植かもしれませんね。
創価学会・日蓮正宗版ともに誤植だったら、この二冊は
真蹟を元にでなく、先に編集されたどちらかを手本に編集された
ということかもしれませんね。

先日「小樽問答」を文章に起こした物をじっくり読んでみました。
問答での創価学会の主張は現在の日蓮正宗の主張であり、日蓮宗の主張は
今の創価学会に思想に近い物を感じました。
高々五十数年でこんなに変わってしまうのだから七百数十年の経てばいろいろあっても
無理はないのかもしれませんね。

昔からいろいろな日蓮系の宗派が、自宗の正当性を主張して相手方の間違いを
誹謗中傷してきたと思うのですが、
日蓮聖人のおまんだらを本尊とし、「南無妙法蓮華経」の題目を
唱える者同士の誹り合いを、戒めるような御遺文はありませんでしょうか。

宗派が違ったら何でもありなんでしょうか。怨嫉だと思えます。

141問答迷人:2011/08/04(木) 13:28:05

>誤植かもしれませんね

可能性はあると思いますが、誤植とすれば如何にも唐突な誤植だと思います。恐らくは、何らかの根拠でそうされているのではないかと思います。追加で調べたら「行道文庫版」御書も『真言師』となっています。

>唱える者同士の誹り合いを、戒めるような御遺文

真蹟遺文では、思い当たりません。真蹟以外だと「異体同心事」はそのような内容とも取れますね。

142古沢石日:2011/08/04(木) 22:59:32
問答迷人さん

「異体同心事」ですが、法華講の方がのブログ等では
ご本尊を根本とした「異体同心事」。特に本山の戒壇ご本尊を根本とした「異体同心事」
ですね。
創価学会では「先生」「師弟不二」を中心とした「異体同心事」
まったく別信仰の宗教団体ですね。破門がなければ、もめる事もないというか
交じり合うことも無いくらい信仰対象の違う団体ですね。

問答迷人さんは、団体に所属せず、日蓮聖人の教えを信仰されておられますが
折伏はどうなさっておられるのでしょうか。
仏法対話されて、お相手が「是非自分も信仰したい。」と希望される方が
一人二人三人と現れた場合、その人たちに勤行唱題の基本から教え始めたら
団体化してしまうのではないでしょうか。
折伏なしに自行化他はありえないと思います。
どのように行動されておられるのでしょうか。

143問答迷人:2011/08/05(金) 10:58:15

>一人二人三人と現れた場合、その人たちに勤行唱題の基本から教え始めたら
団体化してしまうのではないでしょうか。

確かに難問ですが、既に、最大の難問である本尊問題は、インターネットからダウンロードして表装して本尊とするという事で、一応解決済みかと思います。

144問答迷人:2011/08/05(金) 14:14:09

つづきです。

>勤行唱題の基本から教え始めたら

これ等は、ネットの掲示板、或いはブログを拠点として、行う事は十分可能であると思います。動画をアップ可能な掲示板があります。御本尊の安置方法の動画、勤行動画、唱題動画、等々。

>団体化

あくまでも無教会主義のサイトとして、組織は一切作らない。勿論、集金システムは一切作らない。運営責任者は一切置かない。等々を基本として、運動が進むようにシステム化を図る。基本は、コンピューターシステムによる自動運営とする。
まぁ、このようにすれば、ある程度は団体化の弊害を排除できるのではないでしょうか。

>どのように行動されておられるのでしょうか。

無教会による日蓮法華信仰の啓蒙、と言っても今のところはこの掲示板の書き込みを行っているだけです。これが、今は点ですが、やがて線になり、面に広がって行くようにしたいと思っています。

145古沢石日:2011/08/05(金) 23:35:20
>>143
>>144
まさに新時代の折伏と感じます。
>無教会による日蓮法華信仰の啓蒙、と言っても今のところはこの掲示板の書き込みを行っているだけです。これが、今は点ですが、やがて線になり、面に広がって行くようにしたいと思っています。
現にわたしは、この掲示板で問答迷人さんの啓蒙を受けて日蓮法華信仰に
目覚めました。おっしゃるとおり点が線にそして面に広がること間違いなしと
確信しております。本日立正大学の小松邦彰先生の「立正安国論」・「開目抄」
を購入して読み始めました。この掲示板にお世話になる前の私は、モヤモヤしながらも
創価系の書籍しか読むことが出来ませんでした。このような心の変化は
問答迷人さんのご指導の賜物です。ありがとうございます。

最近創価学会では「謗法」を「謗法」とみなしません。
問答迷人さんは、神社仏閣に対してどう対処されますか。
私は付き合いでいかなくてはいけない時には、神社等には
いやいやいきます。しかし鳥居はくぐりません。
仏像って木彫りのでかいお人形だと思ってます。

146問答迷人:2011/08/06(土) 20:14:00

>問答迷人さんは、神社仏閣に対してどう対処されますか。

この課題には、立正安国論における日蓮聖人の御考えを理解することが先決だと思います。立正安国論の該当箇所を引用します。

「倩微管を傾け、聊か経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る。言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。」

この短い文章の中に日蓮聖人の基本的な御考えが網羅されていると思います。先ず、人々が正法に背き、悪法に帰依すると、『善神』という国土が人々を守る働きが失われ、『聖人』という社会が人々を安泰に導く働きが損なわれる。そして、『鬼』という「国土が人々を襲う天災」が盛んになり、『魔』という「社会が人々を様々な困難に陥れる人災」が盛んになる。

このような立正安国論の日蓮聖人の御考えを受けて、日興上人は次のように原殿御返事に記されています。

「殊にいたく此の国をば念仏真言禅律の大謗法の故大小守護の善神捨て去る間、その後の祠(ほくち)には大鬼神入り替わりて、国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、故に日蓮聖人の勘文関東の三代に仰せ含ませられ候い畢んぬ、」

ここに示された『人々が仏の正法に背いて悪法に帰依すると、善神が去りそこに鬼神が入れ替わる。』という日興聖人のお考えは、立正安国論に見られる日蓮聖人のお考えと基本的に同じと考える事が出来ます。原殿御返事にはさらに次のようにも述べられています。

「いかに謗法の国を捨てて還らずとあそばして候守護神の、御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会すべしと候は、師敵対七逆罪に候わずや」(謗法の国を捨てた善神が、『日蓮の弟子が参詣すれば、その都度神社に戻ってくる』等というのは、日蓮聖人に対する師敵対である。)

日興上人は、『一つは悪法に帰依してはならない。もう一つは国中の人々の悪法帰依が原因で鬼神の棲家となってしまった神社には参拝してはならない。』と教えらたと思います。

以上の事から、日蓮法華信徒は、『念仏真言禅律の大謗法の仏閣に参詣してはならないし、さらに日本が正法帰依の国になるまでは、神社に参詣してはならない。』という事になると思います。

近所や親戚の付き合いで行くのは、これは、信仰とは基本的に関係のない『御付き合い』なので問題はないですが、その時も周囲の人に「寺社詣で」と取られないような配慮は必要かと思っています。

147古沢石日:2011/08/07(日) 00:04:42
>日蓮法華信徒は、『念仏真言禅律の大謗法の仏閣に参詣してはならないし、さらに日本が正法帰依の国になるまでは、神社に参詣してはならない。』
>という事になると思います。


付き合いなので、参拝の意思がないから、などと気がゆるんだ事もありました。

>周囲の人に「寺社詣で」と取られないような配慮は必要かと思っています。

仰せのとおり今後は気をひきしめさせて行動していきたいと思います。
ありがとうございました。

日興上人のご指導を引いていただきましたが、
問答迷人さんは、日蓮聖人のご意思を継承されたの日興上人以降
何代までとお考えでしょうか。
その他の門流の上人などの書物は参考にされませんでしょうか。

148問答迷人:2011/08/07(日) 09:31:21

>日蓮聖人のご意思を継承されたの日興上人以降何代まで

「日蓮聖人のご意思」というのは具体的には神天上法門についての事でしょうか。それなら、結構、大石寺は今日に至るまで継承してきたと思います。

>その他の門流の上人などの書物

そこまで手を広げる時間的経済的余裕がありませんでしたので、参考にした事はありません。

149古沢石日:2011/08/07(日) 15:23:34
>本当に大事なのは法華経二十八品ではなく題目の五字だよ

以前問答迷人さんにご指導いただいたお言葉です。
いま日本国中の日蓮系のすべての教団で
この事に気づき指導している宗派は皆無だと思うのですが
いかがでしょうか。

150古沢石日:2011/08/07(日) 15:39:43
功徳について、創価系の掲示板で素晴らしいとおもうやり取りがございましたので
こちらに紹介させて頂きますのでご意見いただけますでしょうか。
板名、投稿者様名など引用しますと許可いただかなくてはいけませんので
私なりに文章を整理してみました。

板主さんは、功徳を語ることでまた功徳があるので、とにかく何でもかんでも
喜びを功徳と感じ功徳を板に書こうとおっしゃってます。過去に会長指導でそう
あったそうですが、趣意としてしか紹介されておりません。
例としては、昇給した出世した商売繁盛、試合で勝った。代表に選ばれた等々
みなさんで書き込みしておられます。
それに対して功徳とは六難九易で言うところの九易の部分でつまりは題目を唱えれば現れて当然なもの。
創価の方は何故にいつまで経ってもこの様な当たり前すぎることに一喜一憂するのかと思うと、
いう意見がありました。
さらに、考えられる事は題目を唱えても、この当たり前の現象が現れない人が多いからだとおっしゃる。
九易と言うくらいですから功徳は現れて当然なもの、むしろ題目を唱えているにも拘らず功徳が現れない方が不自然な現象である。
創価も創立80年だと言います、そろそろ功徳が訪れたと言う当たり前の現象より
功徳が現れないと言う不自然な現象について語っていった方が宜しいのではないか
現証から察すれば、これは当然の理に思えるのですが。
この方は創価学会二世でしたが、脱会してお一人で信仰されてます。

151古沢石日:2011/08/07(日) 15:42:51
それに対して
>功徳が現れないと言う不自然な現象

お題目を唱えていないからではないでしょうか。
本人は題目だと思っているが、題目ではない。
だから功徳が現れないのではないでしょうか。

という意見があり
「南無妙法蓮華経」とはお題目の事になります。
お題目とはそもそもタイトルのことを意味しますから
一念によって、その内容は如何様にも変化するものだと思われます。
このお題目を通じ、仏に念じれば功徳が得られるものとして唱えれば
それはお題目は念仏となり、念仏となってしまったお題目は、やがて無間地獄を願うお題目となるでしょう。
何故、念仏を唱えると無間地獄となるかは、念仏の特性である捨閉閣抛から
怨嫉誹謗の言葉が発せられるようになるからともいえます。
功徳を感じられなくなった人には、この怨嫉誹謗に心当たりがあるのではないかと思います。
加えて、お題目を真理の言葉と捉え唱えると、そのお題目は真言となります。
こちらは念仏とは違い功徳を感じる事が出来ます。
しかし、今度はこの当たり前の現象である功徳に対して執着し
いつでも功徳、功徳と欲する乞食信心となるでしょう。
乞食信心では功徳におぼれる事になり、それが尽きる時に人は離れてしまい、やがては亡国の道を辿ると言えます。
ですからあまり功徳、功徳と当たり前のことに一喜一憂するのではなく
本物の信心とは何かと言う事を考えていきたいものです。

という答えがありまして

152古沢石日:2011/08/07(日) 15:45:25
功徳とは現世安穏です。

と意見があり

我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽
雨曼陀羅華 散仏及大衆

我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し
宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し
曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず

功徳とは、園林諸の堂閣が種々の宝をもって荘厳であるとか
宝樹華果多くして、衆生の遊楽する事にあるとかいろいろあるかもしれませんが
結果的にそれもこれも確かに仰るように
安穏にある事が一番の功徳なのかもしれませんね。

と結ばれておりました。
いかがでしょうか

153問答迷人:2011/08/07(日) 17:39:41

古沢石日さん

>>本当に大事なのは法華経二十八品ではなく題目の五字

これは観心の本尊抄等、諸御書に於いて、日蓮聖人が繰り返し教えられたことです。そして、唱法華題目抄によれば、題目の五字を紙に書いて本尊とし、その本尊の前に座って南無妙法蓮華経と唱える事を教えられています。この趣旨から、お題目を唱える時には『仏壇にお掛けした曼荼羅の妙法蓮華経の五字を拝し奉り、嗚呼有難いと深く信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る』と言う事を僕は心掛けてきました。この趣旨は日蓮正宗の67世日顕師が観心本尊抄を講義された時に述べられたもので、甚く感銘しましたので、ずっとこの心構えを忘れないように自分に言い聞かせています。


>本人は題目だと思っているが、題目ではない。
>一念によって、その内容は如何様にも変化

もし、そういう事があるとすれば、妙法蓮華経に南無する、という趣旨から大きく外れた気持ちでお題目を唱えているという事でしょうね。たとえば、誰かの不幸を願うとか・・・

>功徳とは現世安穏

正確には、功徳とは「現世安穏 後生善処」だと思います。

御本尊たる『妙法蓮華経の五字』に南無し奉る、と言うのが日蓮聖人の教えられた『南無妙法蓮華経』であると考えています。

154古沢石日:2011/08/07(日) 21:41:24
>日蓮正宗の67世日顕師が観心本尊抄を講義された時に述べられたもので、甚く感銘しましたので、
>ずっとこの心構えを忘れないように自分に言い聞かせています。

日蓮正宗を離れられた現在でも67世日顕師の指導は大事にされておられるのですね。
私は、疑問が生じるとすべて否定的になってしまうところがあります。
ここは学ぶ部分ここは除く部分の判断が出来なくなり、白黒のどちらかでないと
気がすまないことがほとんどです。
否定もするが、のめり込み易い。
自分の心の弱さが情けないです。

155問答迷人:2011/08/07(日) 22:05:56

古沢石日さん

>67世日顕師の指導は大事にされて

日顕師の指摘で大切にしているものがもう一つあります。例の河辺メモです。実に正確に事実を認識しておられたと感服しています。

日蓮正宗関連HPリンク集の資料の箇所にリンクが張られています。恐らくは、このメモが世に出ることが無ければ、僕は今も大石寺戒壇板本尊を信じて信仰していたと思います。この意味で、日顕上人には正直、深く感謝しています。

156古沢石日:2011/08/07(日) 22:20:15
大石寺戒壇板本尊ですが、後世の作であってもご本尊はご本尊であり
他のご本尊と全くかわりは無いということですよね。
それよりも日蓮大聖人本仏論の主張というほうが、
御本尊たる妙法蓮華経の五字に南無し奉る、と言うのが日蓮聖人の教えられた
南無妙法蓮華であるとというご意思に反するのではありませんか。
釈迦を本仏とする他の日蓮宗各宗派諸々も
同様に日蓮聖人のご意思に反していると思います。

現在日本に「妙法蓮華経の五字に南無し奉る」宗派は存在するのでしょうか。

157古沢石日:2011/08/07(日) 22:27:47
続きです。

南無妙法蓮華経と言葉を発するが心では日蓮大聖人を仏としたり、
釈迦を仏とし念じ唱題する事は、大変な間違いではありませんか。

>>151に、引用しました
本人は題目だと思っているが、題目ではない。
この意味はそういう事ではないでしょうか。

158古沢石日:2011/08/07(日) 22:44:43
長々続けてすみません。

そもそも、妙法蓮華経に南無し奉り己心の仏界を湧現する
唱題がすべてとして教えに「本仏」という考えは必要ないのでは
ありませんか。
「本仏」を特別な対象としてしまうと
南無 「(本仏)」がお題目になってしまいます。

これって誹謗になりませんか。

159問答迷人:2011/08/07(日) 23:05:54

古沢石日さん

>大石寺戒壇板本尊ですが、後世の作であってもご本尊はご本尊であり他のご本尊と全くかわりは無いということですよね。

確かにそうなんですが、この戒壇板本尊のみが日蓮聖人の出世の本懐であり、他宗の曼荼羅は、たとえ日蓮聖人の直筆であっても、拝んでも何の功徳も無いばかりか、謗法の咎によって、却って罰を受ける、とまで、日蓮正宗は教えたわけです。この我田引水の邪義の対象とされたのが大石寺戒壇板本尊です。この邪義に踊らされてはならないと思います。

>現在日本に「妙法蓮華経の五字に南無し奉る」宗派は存在するのでしょうか。

日蓮宗各派は全て南無妙法蓮華経を教えている、つまり、妙法蓮華経の五字に南無することを教えている訳ですから、すべて、「妙法蓮華経の五字に南無し奉る」宗派なのではないかと思います。僕が行ったことのある日蓮宗の寺院では、確かに釈尊像が祭られていましたが、その後ろには、曼荼羅が掛けられており、四菩薩も祭られていました。

恐らくは、本尊の形式は、日蓮聖人の教えから出発している訳ですから、そんなに差異が有るとも思えません。問題は、信徒に対してどのように「南無妙法蓮華経」の謂れを伝えているか、なのではありませんか。

>心では日蓮大聖人を仏としたり、釈迦を仏とし念じ唱題する事は、大変な間違いではありませんか。

恐らくは、日蓮聖人は、「何しろ、南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば意味は分からなくても、赤子が乳を飲むのは理屈では無いように、自然に正しい信仰に成って行くのだ」という御考えだったと思います。そんなに事細かく喧しくは言われなかったのではないかと思っています。

160古沢石日:2011/08/08(月) 00:54:31
>「何しろ、南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば意味は分からなくても、赤子が乳を飲むのは理屈では無いように、
>自然に正しい信仰に成って行くのだ」という御考えだったと思います。

仰せのとおりこの事が肝心要ですね。
大事なことを忘れておりました。ありがとうございます。

質問ですが
どうして熱原の三烈士には、諸天の加護が無かったのでしょうか。
三烈士の不惜身命の行為が出世の本懐だとする声もありますが
そうだとすると仏教でなくなってしまうのではないでしょうか。

161古沢石日:2011/08/08(月) 20:40:42
>確かに釈尊像が祭られていましたが

この釈尊像をとらまえて、日蓮本仏団体は大謗法だと指摘するわけで
逆に日蓮宗は釈尊本仏をもって、「御書をも読めぬ偽書創作大謗法団体だ。」と
争い続けておるのではないでしょうか。

>赤子が乳を飲むのは理屈では無いように、自然に

これを実践するなら、教学が不要ですね。
心を真っ白に唱題するのが一番という事になりませんか?
全てを受け入れる心が一番なら、お題目以外一切目に耳に頭にいれない
事がもっとも正しい信仰姿勢ということではないでしょうか。

ひとつの言葉、一行の言葉、それらをあらゆる方向からいろいろな見解で
議論研究するという行為が日蓮聖人のご意思にそむくのではないでしょうか。

162問答迷人:2011/08/08(月) 21:56:55

>どうして熱原の三烈士には、諸天の加護が無かったのでしょうか

上野殿御返事(弘安二年十一月六日)に、次のように日蓮聖人は述べられています。

「仏になるみちこれにをとるべからず。いをの龍門をのぼり、地下の者のてんじやうへまいるがごとし。身子と申せし人は仏にならむとて六十劫が間、菩薩の行をみてしかども、こらへかねて二乗の道に入りにき。大通結縁の者は三千塵点劫、久遠下種の人の五百塵点劫、生死にしづみし。此れ等は法華経を行ぜし程に第六天の魔王、国主等の身に入りてかうわづらわせしかば、たい(退)してすてしゆへに、そこばくの劫に六道にはめぐりしぞかし。かれは人の上とこそみしかども、今は我等がみ(身)にかかれり。願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年去々年のやくびやうに死にし人々のかずにも入らず。又当時蒙古のせめにまぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其の時のなげきはたうじ(当時)のごとし。をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ。法華経の第三に云く「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん」云云。恐々謹言。

十一月六日 日蓮花押 上野賢人殿 御返事 

此れはあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり。」

三烈士は殺されるのを覚悟して、殉教の道を選んだ訳です。日蓮聖人は、一度は死ぬ命なのだから「をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ」と述べられて、彼らの殉教の姿を愛でられています。「此れはあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり。」と。

>これを実践するなら、教学が不要

これでは又、もう一つの極端に陥ってしまうと思います。当時の識字率は極めて低かったと思います。僧侶や武士階級は文献を読んで教学を学ぶことが出来ます。その人たちの為に、日蓮聖人は、多数の御書を送られ、法門を教えられています。教学が必要ないとお考えであれば、法門を弟子檀那に教えようとはされなかったと思います。いかし、信徒の中には、文字を知らず、日蓮聖人のお手紙を見ても読めない方が多数おられたと思います。また、少しは文字は読めても、法門の道理を理解するまでは難しかった方も多数おられたと思います。日蓮聖人はそのような人に対しては、何も知らなくても良い、ひたすらに南無妙法蓮華経と唱えよ、と教えられ、武士階級の信徒には、教学を教え、揺るがない信仰を確立するようにご配慮されたと思います。
現代に生きる僕たちは、瞬時にして、日蓮聖人の御書を読み、理解することが出来ます。あらゆる疑問を次々と乗り越えて、赤子が乳を飲むような純粋無垢な心でお題目を唱える事が出来れば、それが一番良いと思います。今日は多忙につき、御書の引用は、明日以降にさせてください。

163古沢石日:2011/08/08(月) 23:10:53
問答迷人さん

お忙しい中ご丁寧に御教授いただきまして
真にありがとうございます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

164古沢石日:2011/08/09(火) 01:10:00
>赤子が乳を飲むような純粋無垢な心でお題目を唱える事が出来れば

初心の功徳ということでしょうか。

165問答迷人:2011/08/09(火) 19:19:03

古沢石日さん

>初心の功徳ということでしょうか

四信五品抄で、日蓮聖人は次のように述べておられます。

『答ふ 小兒乳を含むに其の味を知らざれども、自然に身を益す。耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん。水心無けれども火を消し、火物を焼くに豈に覚り有らんや。龍樹・天台皆此の意なり。重ねて示すべし。問ふ 何が故ぞ題目に万法を含むや。答ふ 章安の云く「蓋し序王とは経の玄意を叙す。玄意は文心を述す。文心は本迹に過ぎたるは莫し」妙楽云く「法華の文心を出だして諸経の所以を弁ず」云云。濁水心無けれども月自ら清めり。草木雨を得て豈に覚り有りて花さくならんや。妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意耳。初心の行者其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当る也。』

つまりは、南無妙法蓮華経のお題目は、法華経二十八品の極意なので、その謂れを知らなくても、自然に法華経の極意に達するのだ、と。

この日蓮聖人の御主張は一貫していますね。題目の五字が何かを表現しているのではなく、妙法蓮華経の五字それ自体が法華経が表現しようとした、仏の悟りそのものである、と。

ただ、日興上人の有名な遺戒置文には、「論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事」或いは「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して」等と議論や教学の大切さを遺言として戒めておられます。当然、その当時は、対象は僧侶な訳ですが、無教会信徒は、自ら僧侶の役目も兼ねなければなりませんから、この遺戒は心に刻むべきだと思っています。

166古沢石日:2011/08/09(火) 21:10:09
古沢石日さん

>>165 のご意見を頂きまして信心という言葉の大事さを
    改めて心に刻めることが出来ました。
いつもいつも、お忙しい中お時間頂きまして心より御礼申し上げます。

167古沢石日:2011/08/09(火) 21:12:13
すみません。
>>166 問答迷人さんへの御礼です。
失礼いたしました。
私って、そそっかしいですね・・・恥ずかしいです。

168古沢石日:2011/08/10(水) 23:12:11
問答迷人さん

いつもありがとうございます。

題目をあげてもあげてもあげてもあげても
心に躍動感を感じないとおっしゃる方がいらっしゃいます。
どうアドバイスしてあげればよろしいでしょうか。

169問答迷人:2011/08/11(木) 10:33:39

古沢石日さん 

四信五品抄の先ほどの次の文を引用してみます。

「問ふ 汝の弟子、一分の解りなくして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。答ふ 此の人は但四味三経の極意竝びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将た又真言等の諸宗の元祖、畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍也。請ふ、国中の諸人、我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば、八十万億劫供養せし大菩薩也。豈に煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば八十年の布施を超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓〈むつき〉に纏はれて、大龍の始めて生れんがごとし。蔑如すること勿れ、蔑如すること勿れ。」

このように日蓮聖人は仰せです。やはり、「嗚呼有難いと深く信じて」と言う事が大切だと思います。この『信仰心』が歓喜を湧き上がらせる根本だと思います。

170独学徒:2011/08/11(木) 19:33:35

>>169

横レスにて失礼します。

私は日蓮聖人のこのような主張は、結局は密教の優れた霊験に対抗するための解釈だと思います。

法華における現世利益は、「千中無一人得者」といわれるように難行であり、ましてや末代の凡夫に法華による現世利益は望めません。

それに対して密教では加持・祈祷によって、全く仏道修行をしなかった者でも現世利益を受ける事ができるのです。

理(客観的な理論)の上では同等でも、事(主観的な充足感)では密教が優れている。
所謂「理同事勝」ですが、この慈覚大師の主張はその通りだと思います。

今なお、どの日蓮関係の寺院・教会よりも、密教系寺院の方が無信仰の人も含め多くの参拝者がいます。
何よりの現証だと思います。

171問答迷人:2011/08/11(木) 20:23:10

独学徒さん

日蓮聖人と密教というテーマは、何か、宿敵との死闘の様相ですね。

一つご質問てす。感見記の相承の件ですが、意味を取りかねていますが、この密教の相承と曼荼羅の愛染・不動には、何か関連性があると思えます。この点に関して、独学徒さんの御見解がお聞きできれば幸いです。

172独学徒:2011/08/11(木) 20:57:11

問答迷人さん、

真言宗、天台宗では、勤行の折に「光明真言」という陀羅尼を読誦しますが、真言宗では「光明真言曼荼羅」というものがあり、その為書の書き方が不動・愛染感見記のそれと非常によく似ています。

初期の日蓮本尊は、ご承知の通り主題本尊ですが、もしかしたら現代のように掛軸状にして見上げるようにして拝していたのではなく、禅を組み視線が約1.5メートル先の下を見るように、地面・床等に置いて拝したか、下向き目線で拝せる位置の壁等に貼り付けて拝した可能性もあるのではないかと考えています。

つまり真言密教で行なわれる座禅行「阿字観」を法華信仰に模したのが、日蓮主題本尊の始まりではないかと愚考しています。

ご存知の通り「阿字観」では、「阿」字という文字を本尊にします。
禅を組み瞑想しますが、真言も唱えます。

文字を本尊として同じ言葉を唱える儀式はよく似ていると感じています。
また富士門流に多い読経の日蓮像ですが、正座の座像は見た事がありません。
また両膝がV字にならずに平行になっている座像ばかりですので、胡坐ではなく座禅のお姿なのだと考えています。

先日拝観した「空海と密教美術展」展示の佛・菩薩像も、殆どが結跏趺坐・半跏坐といった座禅を組んでいる座像でした。

まだまだ根拠・論拠薄弱ですが、日蓮聖人の文字曼荼羅信仰は、密教瞑想法の「阿字観」にヒントを得ているのではないかと考えています。

よって、文字曼荼羅に梵字で記される不動・愛染と、感見記、密教修行法とは点と点程度でしか説明がつかない状態ですが、私は大いに関連性があると思います。

173問答迷人:2011/08/11(木) 21:50:12

独学徒さん

>真言密教で行なわれる座禅行「阿字観」を法華信仰に模したのが、日蓮主題本尊の始まりではないか

そうですか、やはり、日蓮法華文字曼荼羅は、真言密教曼荼羅の転用ではないのか、という思いがありましたが、具体的な前駆的修行方法があると言うのは、大変興味深いご指摘です。ありがとうございます。

>不動・愛染と、感見記、密教修行法とは・・・・大いに関連性があると

これは、密教を学ばなくては判らない様に思います。これからの課題にしたいと思います。御教示、大変有難うございました。

174古沢石日:2011/08/12(金) 01:31:02
独学徒さんは真言宗の方ですか。

175独学徒:2011/08/12(金) 08:27:32

古沢石日さん、

>>独学徒さんは真言宗の方ですか。

違います。
元創価学会で青年部時代は中堅幹部まで経験しましたが、その後ある富士門流の日蓮宗本山貫首猊下とご縁があり、御本尊を御書写戴き現在に至っています。

仕事の合間に文献収集と実地踏査を自分なりに行い、色々と調べ実物を眼にしていますが、日蓮聖人の思想を解析するには天台学の研鑚がまず必要であることに気付き、最近ようやく有縁の台家寺院で真言・念仏・止観(座禅)を実践しつつ、摩訶止観や選択本願念仏集を最初から読み始め、密教関連の資料を収集し始めるといったところに来ています。

日蓮法華の信仰者、特に創価学会等の経験が長いほど、座禅・念仏・真言の学問はまだしも実践は違和感があり、勇気がいることでしょう。
しかし行事て見れば、どれも実に心地よい実感があります。
私的には「理異事同」で、それぞれの教えには異なりがあるものの、実際に行じた時の主観的な実感はどれも同じだと思います。

あえていえば、最近覚えたという充実感から、観音経の読誦や真言、念仏、止観禅の充実感は素晴らしいと思っています。

但し、自分は福祉業界の仕事をしており、高齢者、保育、障害者の支援を行っておりますが、お体が不自由になればまず座禅は難しい、赤子や知的機能の障害が重度になれば、易行といわれる称名念仏行も唱題も難しい場合があります。
他者に自行の実践を勧めるだけの化他行と異なり、密教の加持・祈祷だけは、本人の自行がある無しに関わらず利益があり、自行の実践が困難な人には現世の救いが望めない座禅・念仏・題目よりも密教の方が救済対照が広がることは事実として受け入れる以外にないかと思います。

そういう意味で現在の仏教各派も、密教を批判しているようでも、実際には日蓮宗でも加持・祈祷を行なっており、過去には伝教大師が弘法大師に弟子入りしてまで密教を習得しようとしたのだろうと思います。

176古沢石日:2011/08/13(土) 01:26:21
独学徒さん

>日蓮法華の信仰者、特に創価学会等の経験が長いほど、座禅・念仏・真言の学問はまだしも実践は違和感があり、勇気がいることでしょう。

他宗の事に関しましては、心の鎖国状態で「見ざる言わざる聞かざる。」です。
名前だけで全く何もしりません。
独学徒さんは、題目を唱え他宗の行も実践なさるのですか。
謗法ではないのですか。

177独学徒:2011/08/13(土) 05:43:38

古沢石日さん、

>>謗法ではないのですか。

法を謗っていないので「謗法」ではないと思います。
たとえ「謗法」といわれても、目の前の林檎の味を食べずして判別する事が愚かなように、実践せずして何の判別にもならないと思います。

178古沢石日:2011/08/13(土) 08:21:55
独学徒さん

>目の前の林檎の味を食べずして判別する事が愚かなように

毒入り林檎だったら、口にしたら死んでしまいます。

>何の判別

どう判別されるのでしょうか。

日蓮大聖人は法華経の題目を本尊とせよと仰せではないでしょうか。
判別は大聖人がなさって、これを食しなさいと仰せなのに
我々凡人が、一から試食していくのは愚かだと思います。

179匿名:2011/08/13(土) 09:34:59
日蓮教学自体が既に時代に合いません「五時八教」や「末法説」は天台教学の影響ですでに後世のフィクションだと言うことは現在の常識です、いかに大聖人の説法と言えども、教学を客観的に見て判断するのは現在の日蓮門下の人間として当たり前です。
日蓮遺文を絶対視し過ぎて周りを見ないのはただの盲信です。何時まで起っても真実には辿りつけません。

180問答迷人:2011/08/13(土) 10:51:30

匿名さん

>日蓮遺文を絶対視し過ぎて周りを見ないのはただの盲信です。

仰る通りだと思います。日蓮聖人も時代の人ですから、当時の制約の中で遺文を書かれているという事実に目を塞ぐべきでないと思います。

日蓮聖人の教えを正しく理解するには、まず、後世の写本しか存在しない御書を外し、真蹟遺文と時代写本に絞り込む事。さらに、時代の制約の中で書かれているという歴史的事実を考慮して、真蹟遺文といえども、絶対視しない事。この二つはやはり日蓮法華を学ぶ上で、最低限必要な配慮であろうと思っています。

181独学徒:2011/08/13(土) 10:57:36

古沢石日さん、

匿名さんの仰るとおり、既に述べたとおり日蓮聖人の言説といえども、一期の弘通の中において変化変化の連続で、初期讃嘆した人物を後年誹謗したりといった矛盾を露呈しています。
日蓮聖人は、御本仏でもなければ大菩薩でもない、本山の貫首でもなければ末寺の住職ですらなかったわけです。
研鑚の途上で御主張がコロコロ変わり、修行法も一様ではありません。よって、現在の日蓮門下の修行法がこれほど混乱しているのです。
そのような日蓮聖人の言説に縛られること無く、行学に励むことは別段問題ありとは思えません。

そもそも大石寺側から見れば創価学会は大謗法団体、創価学会から見れば大石寺は大謗法団体、それぞれの組織の都合で「謗法」のレッテルを貼っているだけですね。
「謗法」の概念など現代的にはその程度、信者を縛っておきたいからつかう上等文句に過ぎません。
そのような二文字に何を恐れる必要があるのかと私は思います。

真言宗でも浄土宗でも禅宗でも、大石寺でも創価学会でも幸せな人は幸せ、不幸な人は不幸、宗教に正邪など無く、どの宗教でも取り組む人の心の持ちようでしょう。

日蓮聖人の判別は必ずしも正しくありませんでした。
よって現代に再検討し、宗教観の争いがいかに無意味なことか証明することの方がはるかに尊いと思えます。

既に日蓮宗では機関紙「日蓮宗新聞」紙上にて、法華経が後世創作の経典であることを認めています。
創価学会関係でも、創価大学や東哲研では常識としてとらえているでしょう。

天台大師は法華経が創作である事に気付かないまでも、法華経の真偽に関係なく実践可能な止観(座禅)行を「摩訶止観」として講説し後世に残しました。

日蓮聖人の唱題行は、法華経が後世の創作であり、加えて鳩摩羅什訳が梵品を私訳している以上、残念ながら完全に破綻しています。
その破綻した日蓮聖人の御主張をもとに、他宗の修行法を「謗法」などと謗ることほど愚かな行為は無いと思います。
もし他宗の修行法を批判するなら、自ら実践しその上で効験の有無を論ずるしかないでしょう。

これが現代という、一つの仮城にたどり着いた一日蓮門下の小結です。

182独学徒:2011/08/13(土) 11:58:52

問答迷人さん、

>>180

実に冷静なご見解だと思います。
無教会主義とはいえ、日蓮法華の信徒として、受け入れがたいことを私は記していると思っています。
10年以上にわたりこの板を管理され、多くの人を覚醒させることに貢献された証だと思います。

>>181
誤記が多くありました。

誤:宗教観 正:宗教間

誤:梵品  正:梵本

183独学徒:2011/08/13(土) 12:10:56

>>181

誤:仮城  正:化城

ですね。

重ねて失礼しました。
べつに酔っ払っているわけではないのですが、家族で食事に出かける直前だったもので申し訳ありません。

184古沢石日:2011/08/13(土) 12:29:12
独学徒さん

>日蓮聖人の唱題行は、法華経が後世の創作であり、加えて鳩摩羅什訳が梵品を私訳している以上、残念ながら完全に破綻しています。

完全に破綻しているということは、まったく意味が無いということでしょうか。
独学徒さんは、現在はもうまったくお題目をあげないのですか。
富士門流の日蓮宗本山貫首猊下に御書写いただいたお曼荼羅は
独学徒さんにとっては信仰の対象でなく、研究資料なのでしょうか。

185古沢石日:2011/08/13(土) 12:39:28
独学徒さん

信徒を縛るだけの脅し文句が謗法という言葉。
唱題行は完全に破綻している。
すでに信仰としてはまったく意味がないということですね。
貴方には必要ない。
では貴方「お曼荼羅」不敬できますか。
意味が無いものだとおっしゃるのなら謗法などないと
言い切れるなら不敬平気でできますよか。
美術品だとか貴重品だとかは別として心の問題で「不敬」できますか。

186古沢石日:2011/08/13(土) 12:40:56
誤 できますよか。
正 できますよね。
すみません。わたしも酔っ払ってません。
ちょっと頭に血が上ってしまいました。

187問答迷人:2011/08/13(土) 12:53:01

独学徒さん

>この板を管理され、多くの人を覚醒させることに貢献された証

色々な経過がありましたが、それぞれ自分の所属する団体の主張が「絶対正しい」と思い込んでいる限り、掲示板に参加しても残念ながら何ら得るものはないと思います。そして、自分の信ずるところは信ずるところとして、その信ずる所を批判的に考えている人のお話を大切に考える事が必要なんだと考えるようになりました。反対意見に真摯に耳を傾けなくては、何の進歩・発展もないと思います。このことが少し分からせて戴けたのが、掲示板管理者としての役得かな、と有難く考えています。

>日蓮法華の信徒として、受け入れがたいことを

日蓮法華の信徒と自覚する以上は、あらゆる日蓮法華に対する反対意見に耳を傾け、取り入れるべき知見は取り入れ、改めるべきは改め、そのように学ばせて戴くことが、日蓮法華信仰を深化させ得る唯一の道かな、と思っています。勿論、ひょっとしたら、日蓮法華信仰を深化させて行った先に、全く違った世界が開けるかもしれません。それはそれで是であると思っています。ですから、独学徒さんのご参加を、大いに歓迎致しております。ご意見を聞く度に啓発されます。有難うございます。

188匿名:2011/08/13(土) 13:13:16
誤解無き様にわたしが言った「五時八教」や「末法説」がフィクションだと言うのも「日蓮遺文を絶対視し過ぎるのはただの盲信」と言うのは学術的歴史的にであって個人の信仰面まで意味が無いとは言いません。

どんな宗教でも信じている人には信仰面では世界最尊の宗教です。

それとは別に所属教団の在り方を冷静にみる必要があります。
あらゆる面で絶対に正しいと思うのは 世の中の全てを知ってから言える事です。

189独学徒:2011/08/13(土) 13:29:36

古沢石日さん、

曼荼羅を不敬などしませんよ。そんなことをする必要性が無いからです。
「謗法」について日蓮聖人の解釈を否定しても、それが曼荼羅の不敬につなげる必要性など無いでしょう。
両極端な発想は正邪の二法で全てを判別する教団独特の特性だと思いますが、その両極端な発想そのものを捨てた以上、破綻した教義の宗派の曼荼羅であっても大切に扱って何の問題があるでしょうか。
日蓮宗の貫首上人より賜わった御本尊は、貫首上人の御遷化後、板曼荼羅として彫刻し紙幅の御本尊はお巻きして大切に保管しています。
今でも題目も唱えます。

他宗の修行を実践するから唱題はできないなどということも無いと思っています。
そのような縛りを一切廃しても、日蓮宗や天台宗のお寺はお付き合い下さっています。
創価学会では組織としても、教義的にも認めてくれないでしょうが、自由な世界はいくらでもあります。

「謗法」などという言葉に脅えていては、神社のお参りもできません。
破綻している宗教でも自分がいいと思えば続ければいいことで、特定の宗教だけを他者に押し付ける事が無ければ自由なのがこの国ですから。

美術品的扱いといわれるかもしれませんが、大石寺や要法寺、北山、西山などの富士門流歴代貫首の書写した直筆御本尊も30幅以上ありますが、どれも大切に保管しているつもりです。
いつか金銭的に余裕ができれば、表装を直したいとも思っています。

181に述べたとおり、宗教に正邪など無いと思います。
どの教団も大なり小なりの矛盾や破綻はあります。
だから特定宗教の教義に縛られすぎることは、私的には価値的とは思えなくなりました。

題目も念仏も、真言も座禅も、神社参詣も自由に取り組ませていただきます。

190古沢石日:2011/08/13(土) 13:30:25
匿名さん はじめまして

>あらゆる面で絶対に正しいと思うのは 世の中の全てを知ってから言える事です。

世の中の全てを知った人など人類史上おりません。

191古沢石日:2011/08/13(土) 13:35:13
独学徒さん

お食事楽しまれましたか。
ご回答ありがとうございました。

192古沢石日:2011/08/13(土) 13:37:50
みなさん

ではみなさんにとって「立正安国論」とは?
ご意見ご指導お願い申し上げます。

独学徒さんのおっしゃるように宗教に正邪がないのなら
立正安国論は何だったのでしょうか。

193独学徒:2011/08/13(土) 13:56:01

古沢石日さん、

地元でラーメンを食べてきました。
お盆なのですいていました。

立正安国論も身延入山以降(建治年間と云われていますね)に再校正されて、内容の一部が幕府提出時から変わっています。所謂広本です。

真言宗に対する取り扱いが変わっているわけですが、この広本執筆時からみれば、宗教の正邪について日蓮聖人も曖昧なところがあるまま執筆・奏進されたことになります。
宗教の正邪が分明ならば、変わってはならないところを変えていると思います。

しかし、自分の思ったことを、思い切って主張してみる、そんな現代人に欠けた勇気を日蓮聖人には感じます。

194匿名:2011/08/13(土) 14:00:09
古沢日石さん

ご指摘ありがとうございます

飽くまでそれ位広く知らなければ滅多な事は言えないと言う例えだったのですが…すみませんわたしも文章力が無いもので、そう取られても仕方ないですよね。
また宜しくお願いします。

195古沢日石:2011/08/13(土) 14:26:48
匿名さん

こちらこそまたよろしくお願いします。

独学徒さん

>宗教の正邪が分明ならば、変わってはならないところを変えていると思います。

具体的にご教示願えませんでしょうか。

196独学徒:2011/08/13(土) 15:13:59

立正安国論略本
所詮、国土泰平天下安穏、 自一人至万民所好也所楽也。早止一闡提之施、 永致衆僧尼之供 収仏海之白浪 截法山之緑林、世成羲農之世 国為唐虞之国。然後、斟酌法水之浅深 崇重仏家之棟梁矣。

立正安国論広本
所詮、国土泰平天下安穏、自一人至万民所好也所楽也。早止一闡提之施「切謗法之根」、永致衆僧尼之供「頂智者足」、収仏海之白浪截宝山之緑林、世成羲農之世国為唐 虞之国。然後、斟酌顕密浅深、「分別真言・法華勝劣」 崇重仏家之棟梁「 開発一乗之元意」矣。

立正安国論広本は、池田大作氏が出版願主になって発行した、日蓮正宗の僧侶用御書である「昭和新定 日蓮大聖人御書」には入集していますが、信徒・創価学会員用の御書全集には未入集ですので、今でも創価学会員の方ではご存じない方もいるかもしれません。
追記箇所は上記以外にもありますが、法華真言勝劣の分別を追記した第九問答の部分のみ書き出しました。追記箇所を広本の本文上に括弧をつけました。

197古沢日石:2011/08/13(土) 15:47:12
独学徒さん
ご教示頂きまことにありがとうございます。

法華真言未分から真言を破折へとお考えが変わっていったと
いうことでよろしいでしょうか。

最初から最後までただオンリーワンを主張することが出来るのなら
人間には就学修行研鑽の必要はありません。
主張がブレたのでは無く進化したということではありませんか。
破折したものを後年大きくお認めになったのなら「ブレ」ですが
そうではないのではありませんか。

法華経に関してはいかがだったのでしょうか。
日蓮大聖人は法華経に対してもブレまくりだったのでしょうか。


「宗教に正邪など無い」との御主張ですが、世界的にそうお考えでしょうか。
キリスト教・イスラム教・ヒンズー教その他
幸福の科学などの新興宗教と呼ばれる物一切合財含めて
「宗教に正邪など無い」とお考えでしょうか。

198古沢日石:2011/08/13(土) 15:49:50
何を拝んでも一緒なら
何を拝んでも拝まなくても
何も変わらないのではないでしょうか?

199独学徒:2011/08/13(土) 16:12:23

古沢日石さん、

>主張がブレたのでは無く進化したということではありませんか。

良く解釈しようとすればそうなると思います。
同じように他宗についても良く解釈すれば、宗教の正邪云々の話は出ないはずです。

日蓮聖人の言説は良く解釈し、他の宗教については厳しく解釈する、これではただのえこ贔屓だと思います。

宗教思想を拠り所とした危険な団体は沢山あります。
しかし日蓮聖人の御主張されるような、宗教の正邪は無いと思っています。
真言宗が1200年、浄土教が800年、絶えることなく今日まで続いているわけです。
今なお、多くの庶民から信仰され、大切にされているから残っているのでしょう。
日蓮聖人の教え、それはそれ、他の宗教も理論的にも効験的にも、日蓮聖人の御主張通りの「邪宗」ではないからこそ、今日まで続いていると思います。

今の時代、破綻した教義をもとに、他の宗派を邪宗扱いするのは無意味だと思います。

200独学徒:2011/08/13(土) 16:16:46

>>198

何を拝んでも一緒ですよ。

やってみればわかります。

203独学徒:2011/08/13(土) 17:24:37

>>201、202

創価学会員さんの信仰心を傷つけてしまったのは申し訳ないと思いますが、

>信仰してなにも体感出来ないとは可哀相なお方です。

>やはり多信仰のせいで祈りが弱いから現証を感じられないのかもしれませんね。

>独学徒さんにとって信仰とは趣味のようなものですか?

>なんでも同じ一緒だよってのは、節操が無いですよ。

結局、創価学会員はこのように人を侮蔑するしか行き着くところがないわけでしょうか。
資料を引用してきた事が徒労に終わりますね。
今後、古沢日石さんとの意見交換は、資料手放しで行ないたく存じます。

私は、どんな経典であろうと、どんな本尊であろうと、そこに「信」を入れる事ができれば、現世利益は得られます。
ま、人間の脳の作用がそうなのだから当然でしょう。
曼荼羅本尊と題目以外に現世利益を感じれないほうが損をしていると思います。

204古沢日石:2011/08/13(土) 17:42:29
>結局、創価学会員はこのように人を侮蔑するしか行き着くところがないわけでしょうか。

申し訳ございません。
頭が真っ白になってしまいまして
大変失礼な言い方しまして心よりお詫び申し上げます。
侮辱するつもりなど毛頭ございません。
以後気をつけますので、どうかお怒りをお納めくださいませ。

205古沢日石:2011/08/13(土) 17:43:48
問答迷人さん

>曼荼羅本尊と題目以外に現世利益を感じれないほうが損をしていると思います。

このご意見に対していかがお考えでしょうか。

206古沢日石:2011/08/13(土) 17:45:30
管理者様

わたくしに板を荒らすような発言があった事を心よりお詫び反省申し上げます。
以後気をつけますのでご容赦くださいませ。
本当に申し訳ございませんでした。

207独学徒:2011/08/13(土) 18:19:20

>>204

私も「富士門流信徒の掲示板」と「日蓮法華掲示板」とを混同していました。

こちらで大乗非仏説を肯定し、日蓮聖人の言説を批判するような投稿は、参加者の信仰心を傷つけてしまったと思います。

私自身、日々大乗経典を読誦し、歓喜を得ている一人ですので、創価学会をはじめとする日蓮法華信仰の方々の信仰心に配慮した投稿を心がけたいと思います。

申し訳ありませんでした。

208古沢日石:2011/08/13(土) 18:34:15
独学徒さん

このたびの事で自分の打たれ弱さを実感しました。
わたしのような者にご辛抱いただき、ご教示の数々真に御礼申し上げます。

一つを正として他を排除するよりも
全てを正として信仰するほうが多種多方面から現世利益を得れるということが
独学徒さんのお考えであり推奨される信仰姿勢ですね。

今回は本当に勉強になりました。
今後ともご指導よろしくお願い申し上げます。

209古沢日石:2011/08/13(土) 18:35:40
管理者さま
毎度お手数をおかけいたしますが
>>201>>202 削除お願い申し上げます。
失礼極まりない発言でした。すみません。

210問答迷人:2011/08/13(土) 19:04:41

古沢日石さん

>>曼荼羅本尊と題目以外に現世利益を感じれないほうが損をしていると思います。
>このご意見に対していかがお考えでしょうか。

僕は、念仏も真言陀羅尼も実践した事がありませんので、何とも申し上げることが出来ません。ただ、独学徒さんが、実際に実践されてそう感じて居られる事は、極めて貴重な体験談として拝聴させて戴きました。今後の実践の糧とさせて戴こうと思います。

なお、僕は日蓮法華に縁する以前には、プロテスタントのキリスト教会に所属したことがあります。その関係で、新約聖書は一通りは読んだことがあります。まぁ、所属しただけの不良信徒で、信仰と呼べるかどうかは怪しいレベルでしたが。その時の経験としては、本当にこの人たちはキリストの教えを信じて、日々の生活を営んでいるなぁ、と、自分の全然知らない世界がこの世の中にはあるんだという事に驚きました。そして、創価学会に縁したとき、「と自分が探していた物がここにはあるかもしれない」と思いました。それ以来、40年以上、団体は渡り歩きましたが、日蓮法華信仰からは離れていませんので、余程縁があるのだと思います。

宗教に正邪があるかどうか、これは良くわかりませんが、教団がウソを教えるのは我慢なりません。それで、今では無教会法華信仰です。

211問答迷人:2011/08/13(土) 19:08:17

独学徒さん

>私も「富士門流信徒の掲示板」と「日蓮法華掲示板」とを混同していました。

いえいえ、この二つは、そんなに差があるわけではありません。投稿規則もほとんど同じです。ただ、範囲が、富士門流か日蓮法華全体か、の違いだけです。

僕は、歯に衣を着せない御発言を好みます。従来通りで宜しくお願い申し上げます。

212管理者:2011/08/13(土) 19:11:31

古沢日石さん

201 202レスの削除御依頼がありましたので削除いたしました。念のため、投稿のルールが書かれているスレッドがありますので、ご覧いただけると幸いです。宜しくお願い申し上げます。

213古沢石日:2011/08/13(土) 19:24:09
管理者様
お手数をおかけいたしました。
ルールを良く読ませて頂き、以後気をつけます。
今度ともよろしくお願いいたします。

214古沢石日:2011/08/13(土) 19:39:10
問答迷人さん

この掲示板にお世話になるまで、御書の真偽も知らなく
組織が提示するものを疑うことが間違いと思い、
(戒壇本尊と会長は別です)信仰してきましたので
今回はとても勉強になりました。
しかし、意義のある反論意見を全く提示できなかった
自分の無学ぶりが骨身にしみました。
今後ともご教授よろしくお願い申し上げます。

私は日蓮聖人=ご本仏 という教えには疑問をもっておりますが
長年日蓮大聖人とお呼びいたしておりましたので
これからは元のように大聖人と書かせていただきます。

215匿名:2011/08/13(土) 19:59:24
わたしも創価学会の信仰態度自体を批判した書き込みをしてしまった様に思います。

観覧されていた学会員の方々気分を害していたらお詫び申し上げます。

わたし個人としては 人の数だけ正しさがあると言う価値観ですが学会員さんたちの一途な信仰心までは批判しません。

216古沢石日:2011/08/14(日) 08:59:53
飛躍した考えかもしれませんが
世界中の色々な宗教を信ずる信徒達は
ひょっとしたら全て同じものを信仰対象としているのじゃないのかと。
そこに到達する手段として、色々な信仰別のアプローチは存在しますし
対象への呼称も異なります。
だから70億人も生活出来ているのではないのかと。
神や仏も人々の見る目によって、天から降り注ぐものに見えたり
地から湧き出るように見えたり、光り輝いたり白く大きな物であったり
目に見えず肌に感ずるものであったりするのではないでしょうか。

板違いの考えですが、この度いろいろなご意見を頂き
今朝このような考えが出てきたので、書かせていただきました。

217問答迷人:2011/08/14(日) 16:42:40

古沢石日さん

>ひょっとしたら全て同じものを信仰対象としているのじゃないのか

このお考えは、かなり無理があると僕は思います。

僕の住んでいる近くに、昔から土砂崩れを繰り返してきた山が有ります。その麓には、神社の社が有りますが、御神体は金毘羅さんです。金毘羅さんの謂れは、インドのガンジス川に住む鰐だそうで、この地では、土砂崩れを司る水神として崇められているのだろうと思います。

ここで意地の悪いご質問ですが、たとえば、この金毘羅信仰と日蓮法華信仰とが、同じ対象を信仰している、とは、とても思えませんが、如何御考えになられますでしょうか。

218古沢石日:2011/08/14(日) 19:23:24
問答迷人さん

入り口は別々ですが
到達するところは全て同じだと思います。

動物園の鰐を拝んでいるわけでなく、昔昔のインドの神が
人から人への伝えで鰐の姿になったわけです。
仏像にしても、あのような姿をしていたとは思いがたく
より信仰的付加価値があってあのような形になったと思います。

219独学徒:2011/08/14(日) 21:55:00

また脱線してしまいますが、やはり金比羅権現像は合祀されている崇徳天皇の怨霊に似てますね。

逆ですかね。金比羅権現像をもとに崇徳天皇の怨霊画が描かれたのでしょうか。

それとも偶々似たのか。

江戸時代以降は、金比羅信仰と崇徳天皇供養の両方で信仰をあつめたようですね。

原始仏典の一つである、「サンユッタ ニカーヤ」には明らかに「神」の存在があり、その神の性格は岩波の解説文によれば、ギリシャや日本の古来からの神々の性格と類似しているとの事です。

その意味では、各宗教のより原始的な部分は、古沢石日さんの気付きに近いものがあるかもしれません。

ただし日本書紀や古事記と比べると、原始仏典の方が哲学的な要素を多分に含んでおり、仏教は従来の土壌信仰を尊重しながらも、「人生をいかに生きるべきか」といった根本命題に対する哲学的考察がある点で、信仰+αの宗教であると感じます。

220古沢石日:2011/08/14(日) 22:48:22
独学徒さん

梵我一如という思想が宗教の根本になるような気がするのですが
いかがでしょうか。

それと妙法蓮華経の五字ですが、法華経に帰命するという
本意を外れてお題目の七字が・・・・上手くいえませんが
無教養なので適切な言葉がでませんが、
南無妙法蓮華経という言葉が「祈りの言葉」であり
法華経という経典の存在を超えて信者の心に
浸透しているのではないかと思いますがいかがでしょうか。

221独学徒:2011/08/15(月) 08:04:31

古沢石日さん、

梵我一如はヒンズー教圏の思想で、日本の神道やキリスト教、イスラム教ではどうでしょう。

思想的には各宗教によって、かなりの違いがあるとは思います。

浄土三部経の一つ「観無量寿経」にも「為讃大乗十二部経 首題名字 以聞如是諸経名故 除劫千劫極重悪業」(為に大乗十二部経の首題の名字を讃えん かくのごときの諸経の名を聞くをもってのゆえに 千劫の極重の悪業を除却す)とありますので、少なくとも中国仏教以降は法華経に限らず大乗経典の題目(首題名字)が「祈りの言葉」であったのだろうと想像します。

222古沢石日:2011/08/15(月) 13:39:16
独学徒さん

いろいろ考えたのですが「何を拝んでも同じ」という事は
宗教とはすべて自己満足ということですよね。
私には独学徒さんのように、お金も時間も知識もありませんので
全てを拝むことができません。
どれも同じなら、何もしないのも同じだと思います。
何もしなくても全て信仰しても同じなら宗教以外に、何かを見つけるほうが「楽」ですね。

問答迷人さんの、210での書き込み
>宗教に正邪があるかどうか、これは良くわかりません
を読んで、心の張りがいっぺんに崩れ落ちてしまいました。
問答迷人さんは「確信の方」だと思い込んでおりました。とても残念でした。

セックスとドラッグと暴力、外道とよばれるキリスト教の国
アメリカが世界を牛耳っている現在、わたしの今までの考えは
全て鼻糞のようなものだったかもしれません。
短い間でしたが、お世話になりました。
本当に勉強になりました。ありがとうございました。

223古沢石日:2011/08/15(月) 13:41:28
管理者様

わたしの222の書き込みを問答迷人さんと独学徒さんがお読みになられましたら
これまでの私の書き込みを全て削除して、今後わたしがここにアクセスできないように
処置してくださいませ。
お世話になりました。

224管理者:2011/08/15(月) 14:57:49

古沢石日さん

>これまでの私の書き込みを全て削除して、今後わたしがここにアクセスできないように処置

残念ながら、このお申し出には、お応えすることが出来かねます。すでに古沢石日さんの書き込みに対して、何人かの方が書き込んでいらっしゃいます。古沢石日さんの書き込みを削除すると、その方々の書き込みが意味を成さなくなります。ご投稿はこのままにさせていただきます。宜しくお願い申しいあげます。

225独学徒:2011/08/15(月) 17:54:51

古沢石日さん、ご投稿拝読しました。
ここに来られる方の多くは、本当の事が知りたくて集われている方だと思います。
本当のことは、それまでの自分自身の信仰や行動を否定せざる得ない場面に遭遇します。
それでも創価学会を離れられた事は、私にとって最大の功徳だったと思います。
私は富士門流信徒の掲示板に出会わなければ、きっと今も創価学会の幹部をやっていて、間違った思想・信仰を他者に勧めていたことでしょう。
私自身、今日まで何度も考えを改めて来ました。今後も研鑽の過程で、変わると思います。教祖でも宗祖でも門祖でも、指導者でもないので、変わって何の問題もないと思っています。
ここは日蓮聖人の御一生に学び今後も今自分が正しいと思っていることを、自身のブログや投稿をご許可いただいている当掲示板にて提示したいと思います。

ご存知のように仏教は信者数では、キリスト教やイスラム教に遠くおよびません。ヒンズー教の約三分の一程度です。
日本国内でも、神道よりも仏教の方が少ないといわれています。
仏教は哲学的側面を持つあまり、難解な部分も多く、大乗仏教では人間としての理想を高く持ちすぎていると思います。
後世作成の経典類の矛盾や一貫性の無さも大きいと思います。
日本ではある程度広まりましたが、念仏・題目の流布によって、難解な仏教が簡単に実践できる利点を生み出したからだと思います。
その点で日蓮聖人や法然上人は、日本国の仏教流布に大きな貢献をしたと思います。
この二人は渡航経験が無く、国内資料のみで教理展開しています。
インドや中国に直接接していないだけに、当時の日本人の特性に合った修行法を考案できたのかもしれません。
海を渡った高僧たちは易行道を退け、井の中の蛙で研究した高僧たちは易行道を宣揚した、その結果、思索や哲学的な理解を好むタイプと、難しいことは嫌いなタイプの双方を仏教に向ける事ができ、日本国内である程度仏教徒を増やす事ができたのかと思います。

226古沢石日:2011/08/21(日) 23:11:14
訂正します。
セックスとドラッグと暴力、外道とよばれるキリスト教の国
アメリカが世界を牛耳っているので人類は汚れ乱れ破滅への
階段を転げ落ちておりますが
この世の中にたった一人でも
「南無妙法蓮華経」と唱える人間がいる限り
人類の歴史は途絶えることがありません。
誰がなんと言おうとも
「南無妙法蓮華経は不可能を可能にする」のです。

227独学徒:2011/08/22(月) 21:00:36

>>226

「アーメン」の方が不可能を現実にしていたのが実態です。

残念ながら「南無妙法蓮華経」は、「アーメン」に遠くおよばないのが現状です。

「南無妙法蓮華経」が仮に途絶えても、「アーメン」は残り続けるでしょう。

230管理者:2011/08/23(火) 05:54:52

古沢石日さん

228 229 の御投稿は話し合いを重んずるという当掲示板の趣旨にも反し、相手を侮辱している点でも、投稿規則に違反していますので、削除致します。なお、224にて、お申し出のあった「アクセス禁止」措置を実行させていただきます。

231王神漢:2011/08/30(火) 19:03:53
求道の人(こちらでのハンドルネームは知りません)という方に質問です。
あなたは創価学会を卒業されたた嘯いてますが
そもそも何を持って「卒業」と言えるのか教えてくれませんか。

232求道の人:2011/08/30(火) 20:36:28

>>231

創価学会を辞めた事をどのように表現しようと私の自由。

貴方にとやかくいわれる筋合いは無い。

さあ、少しは日蓮聖人の仏教研鑽を深められるような議論をして見なさい。

貴方が卒業できずにいる、創価学会がどのような理由で世界で唯一正統な仏教教団なのか、現存する日蓮聖人の御真蹟遺文をもって証明して下さい。

237王神漢:2011/08/31(水) 12:24:36
求道の人さん、こんちわ。

私は二画氏とは関係ありません。

沖板見てたら貴方様が卒業って言ってたから

卒業って何か教えてもらおうと思ったから書いただけです。

あちらで質問したら外野がうるさそうだったのでこっちへ来ただけ。

卒業について教えてもらったら去りますよ。

そう興奮しないでくださいな。

仲良くやりましょうぜ。

238王神漢:2011/08/31(水) 12:36:01
求道の人さんもすげぇー失礼な書き込みいっぱいしてましたよ。

堅皇氏とかよく怒らないなぁって感心しました。

無礼だ失礼だって五十歩百歩だなぁと思いますけどネェ。

関心のある方は「創価学会非公認非公式掲示板Ⅱ」の「さらなる発展を目指して」というスレッドを

読んでみたらよくわかりますよ。

その話は置いといて、求道さん「卒業」ってどうなるんすか???

240王神漢:2011/09/01(木) 10:09:21
求道の人ちゃま。
答えれないなら別にいいですよ。
どうせたいした答えを期待してないし。
二画氏とは関係ないっていったっしょ。
何をカリカリしてんの????馬鹿みたいっすよぉ。
宗教とか以前に人間修行が足りんのでないかい。
部屋にこもってシコシコしてないで、トライアスロンでもやってみそ。

242臥薪嘗胆:2011/09/07(水) 18:29:48
独学徒さんにお聞きしたいことがありますねんけど。
「今年初めて保田妙本寺の虫払いに来るような遅れた人間と話しても得るものなし。」
この言葉の意味わかりますやろか?

243臥薪嘗胆:2011/09/07(水) 18:37:10
求道の人さん、ご指示通りこちらに来ました。
次はあなたが私の指定した板に来てください。
みんな楽しみに待ってます。
逃げないでくださいよ。

244求道の人:2011/09/07(水) 19:09:31

>>243

いらっしゃい。
貴殿の勇気に敬意を表しましょう

>次はあなたが私の指定した板に来てください。

行きません。最初から行くなどとはいってませんし、なによりつまらなさそうで行く気がしません。
魅力的な掲示板になったらお邪魔するかもしれません。

何か議論があればこちらでお受けいたします。
当掲示板のルールを遵守の上お願い申し上げます。

さて脱会者を脱落者の如く罵る創価学会ですが、創価学会を辞めた事が何故脱落者になるのか、日蓮聖人の現存する真蹟遺文で証明願いますでしょうか?

245独学徒:2011/09/08(木) 15:47:08

臥薪嘗胆 さん、はじめまして。

ご質問の趣旨がわかりかねますが、富士門流で日蓮を信じ、漫荼羅を本尊と仰ぎ、題目を唱える方は、是非とも一度は安房妙本寺の御虫払法要に参拝し、御直筆の万年救護大本尊を拝することをお勧め致します。
それぞれの信仰、仕事、家庭、人間関係、または健康など色々とあるとは思いますが、たとえ一生に一度であっても、御直筆の万年救護大本尊を直拝し題目を唱えることができれば、必ず生涯忘れえぬ思い出となると思います。

今は日蓮正宗の寺院とは異なり、一般参拝者を快く受け入れてくださいます。
是非お誘いあわせの上ご参拝下さい。

246臥薪嘗胆:2011/09/09(金) 17:46:19
独学徒さん、ご丁寧にありがとうございます。
もうひとつ質問よろしいでしょうか
掲示板上に個人の住所氏名電話番号を貼り付けたら
罪に問われると思いまっか?

247臥薪嘗胆:2011/09/09(金) 17:48:56
求道の人さん 元気でっか?
あんたさまの脱会が、なんで卒業と言えるのか
日蓮大聖人の現存する真蹟遺文で証明願いますでしょうか?
それがでけたら、あんさんのご質問に回答させてもらいます。よろしゅうに。

248臥薪嘗胆:2011/09/09(金) 17:51:28
管理人さまに質問です。

この板は多重ハンドルをお認めになられるのですか?

249独学徒:2011/09/09(金) 18:15:25

臥薪嘗胆さん

>掲示板上に個人の住所氏名電話番号を貼り付けたら
罪に問われると思いまっか?

申し訳ありません、法律には全くの無知でございまして、駐車違反をしたら罰金をとられるぐらいしかわかりません。
しかもそれが何の法律に基づいて徴収されるのかもわかっていません。
過去につかまった時には、警察にいわれるがままに支払いました。

250求道の人:2011/09/09(金) 19:43:33

>>247

ただの質問返しじゃないか。
脱会を卒業といおうがなんといおうがオレの勝手だろう。

>>249

独学徒さん、この連中は私や貴方の個人情報を狙っている学会員です。
まともに相手にしないほうがいいですよ。

251管理者:2011/09/10(土) 09:54:09

臥薪嘗胆 さん

この掲示板では、書き込みルールで多重ハンドルを禁止してはいません。勿論、推奨はしませんが・・・

252求道の人:2011/09/10(土) 17:20:59

管理者様

他の掲示板でのトラブルを当掲示板に持ち込んでしまい大変申し訳御座いませんでした。

その上さらに大変お手数をおかけ致しますが、以下のニ画氏に関する記述のある私の投稿文を削除していただけませんでしょうか。

>>233−237
>>239
>>241

ご面倒をおかけし大変申し訳ありません。

以後、私をアクセス禁止にしていただいてもかまいません。
どうぞよろしくお願いいたします。

253臥薪嘗胆:2011/09/12(月) 18:30:30
>この掲示板では、書き込みルールで多重ハンドルを禁止してはいません。勿論、推奨はしませんが・・・

そうですよね。互いの信仰を高めあおうという板で多重ハンドルや自作自演は許せませんよね。

求道の人さんが立ち去られましたので、私もお暇します。お騒がせしました。

独学徒さん、わたしの愚問に丁寧にご回答いただきありがとうございやした。

ではみなさんさようなら。

254独学徒:2011/09/13(火) 18:47:22

臥薪嘗胆さん、

>独学徒さん、わたしの愚問に丁寧にご回答いただきありがとうございやした。

とんでもございません、答えにならない内容のようでかえって申し訳ございませんでした。

もう1ヶ月ほどで安房妙本寺のお虫払いですので、是非お誘いあわせの上お参り下さい。

日蓮大聖人御直筆を前には、所属の団体は関係ないと思います。
日蓮正宗を除くほとんどの御寺院では、所属の宗派に関係なく一般参拝者を受け入れてくれるはずです。
安房妙本寺も日蓮正宗離脱後は、誰でも参詣できる寺院となりました。

所属の宗派・団体を超えて、共々にお題目を唱えることができます。
もちろん日蓮正宗の方にとっては、そのような行為は「謗法与同」になってしまうのでしょうが。

どうぞお元気で。

255質問者:2011/11/30(水) 01:44:13
昭和55年6月21日日顕上人書写の御形木御本尊ですが
何故、竜樹菩薩と妙楽大師が抜けてるんでしょうか
(普通は天台大師と伝教大師の横にそれぞれ書かれているのに)

誰に聞いても教えてくれません
詳しい方レスお願いします

ちなみにこの御本尊は当時の学会員に下付されたものです

あと、この御形木本尊持ってる方いますか?

256海野(11):2011/12/15(木) 14:37:00
自己紹介スレ105でごあいさつ済みの者です。このスレでも11に投稿しております。
富士門流に興味をもち、Wikipediaの「大日蓮宗」、「興統法縁会」、「勝劣派」、「本門宗」、「富士五山」の各本山などの記事の充実につとめています。
「西山本門寺」という記事で、歴代貫主さまの一覧表を作っていて、わからないことがあります。
こちらの掲示板には、ご存じの方がおられると思いますので、よろしくお願いします。
日蓮宗の寺院名鑑などで、
 ●第50世森本日正師のご晋山が昭和50年(1975)
までは確認できました。
 ○第50世貫主様がいつまで在位されたのか。
 ○第51世村田日敬師がご晋山された年月日
の2点、教えていただきたく、よろしくお願いします。

257フランコ:2011/12/24(土) 11:31:43
>255 質問者さんへ
はじめまして、フランコと申します。
詳しい者ではないですが、55年6月21日書写の
御形木を御安置しているので、レスしてみました。

私もずいぶん以前に質問者さんと同じ疑問を持って
質問したことがあるのですが、誰に教えてもらったのか
失念してしまいましたけど、単なる省略で特段の意味はない、との
答えでした。あえて言うなら御書写された時の日顕上人のご気分が
そんな感じだったのかと。

55年6月頃といえば、宗門、学会、正信会といろいろもめていた時期ですね。

258彰往考来:2011/12/31(土) 13:10:51

>255 質問者さん

御本尊で天台と伝教のみがお出ましになるのを二師勧請、天台と伝教に加えさらに竜樹と妙楽の四師がお出ましになるのを四師勧請といいます。さらに章安と天親もお出ましになるのを六師勧請といいます。六師勧請の御本尊は日興上人の御本尊に多いですが日蓮聖人の御真筆御本尊では公開されている127幅中2幅のみです。但し、松本佐一郎師が「十界の列衆ばかりに気をとられて肝心の中尊研究が閑却されているようだ。これでは妙曼(注:妙本曼荼羅の略)研究にならない。」(『富士門徒の沿革と教義』昭和54年復刻、大成出版社、273頁)と指摘しているように二師勧請であるか四師勧請であるかを議論するのは枝葉のことで二師勧請の御本尊も四師勧請の御本尊も本尊としての違いはないといえます。
これにて回答終わりとするのではあんまりなので、ここではあえてその枝葉の議論に踏み込みます。
まず「通常は四師とされている」という貴殿のご意見ですがなにを持って「通常は」とされているのでしょうか。
柳沢宏道師の『石山本尊の研究』(平成9年、はちす文庫)によれば日顕師の御書写された御形木御本尊はお守御本尊と導師本尊を除き三種類確認されています。昭和五十三年十月十月十三日御書写(二師勧請)、昭和五十五年六月二十一日御書写(二師勧請)、昭和六十年三月吉日書写(四師勧請)の三種類です。また日達師が昭和四十一年一月一日御書写された御本尊は二師勧請です。従いまして「通常は四師勧請」ということではありません。

259彰往考来:2011/12/31(土) 13:11:34

昭和五十三年の御形木御本尊の相貌は、日達師が昭和四十一年一月一日御書写された御本尊(二師勧請)と相貌はほとんど同じで違いは日顕師の御本尊は南無迦葉尊者が南無大迦葉尊者となっていること、天台と伝教に南無字を付せられたこと、南無彌勒菩薩の勧請があること(日達師の御本尊にはお出ましにならない)という点です。日顕師の御本尊の相貌がほぼ日達師の御本尊と同じで二師勧請であることから、日顕師は日達師の法灯を引き継いでいるということを表しているのではないかと考えますが真意は測り難く私見の域を出ません。なおこの変更点は帝釈天王を除き、弘安二年の戒壇御本尊がそのような諸尊勧請となっているためではないかと愚考しています。なお、戒壇御本尊では帝釈天王は釈提桓因大王としてお出ましになっており、四師勧請です。
昭和五十五年六月二十一日書写の御本尊ではその帝釈天王が釈提桓因大王となっており、やはり戒壇御本尊の勧請名に合わされたと考えますが二師勧請のままであり真意は不明です。
昭和六十年三月吉日書写の御本尊では二師勧請を四師勧請とし、釈提桓因大王を帝釈天王に戻されています。これも真意は不明ですが、日顕師の三種類の御形木御本尊で戒壇御本尊と全く諸尊勧請が一致するものはないということになります。もっともこれら書写御本尊は全て「二千二百三十余年」となっており、戒壇御本尊のみ「二千二百二十余年」となっているところに元々の相違点がありますし、歴代の御本尊で戒壇御本尊と相貌が全同の御本尊は管見の限りでは拝見したことはありません。
参考までに、昭和六十年三月吉日書写の御本尊は日顕師のご尊父である日開師の御本尊(『日蓮大聖人御書新集』の口絵掲載のもの)や日昇師による創価学会本部安置の御本尊などと相貌が一致しており、何か意味のあることなのでしょう。その時の気分というようなものではないと思います。御本尊の御書写はお習字のお手本のように手元に原本があるという状態ではないでしょうから、細かい諸尊に違いがあるのは当然ともいえます。

なお、柳沢宏道師の『石山本尊の研究』(平成9年、はちす文庫)はインターネットで公開されています。ご興味がおありでしたらご自分で勉強されることをお勧めします。

http://hachisubunko.jimdo.com/はちす文庫の出版物/

by 彰往考来

260一跡門徒不存知の事:2012/04/13(金) 04:58:39
宗祖がお亡くなりになる少し前に六老僧を定めた事は日興上人筆による御遷化記録にありますが、又、浄土真宗の親鸞にも六人の高弟がいるようですが、この「六老僧を定める」という決めごとは、どこから来ているのでしょうか。何か仏教の慣習に習ったものなのでしょうか。それとも宗祖御自身の全く新しい考えから六老僧を定めたのでしょうか?

ネットで検索してもどこにも答えが見つからなかった為こちらで質問した次第です。どなたか御存知の方がいましたら教示頂けますでしょうか?
宜しくお願い致します。

261テスト:2012/08/02(木) 10:28:36
お釈迦様が亡くなったあとに高弟たちが集まって
法の付属を考えたという故事に基づくのではないですか。
涅槃経あたりにその手の話があったような。

さて、震災以来ご無沙汰しております。このごろ電子書籍なるものが
巷で流行っております。
御書や法華経など仏典の電子テキストの所在を探しているのですが
一向にみつかりませぬ。
有料でもないというのは、なんだかなあ。
諸教団や学者どもは商売する気ないのでしょうか・・・
池田先生の電子本はいっぱいあるんだなこれがw

もっと原典を大切にして欲しいなって思う次第

262サライニコ:2012/10/12(金) 22:37:06
こんばんは!大石寺について質問します。現在の大石寺は富士宮市に在りますが日興上人が建立した大石寺は富士市に在ったというのは本当なのでしょうか?日興上人が建立した大石寺は廃寺に追い込まれて大石寺という名前だけが使われ富士宮市に建てられたという事をどこかで読んだので調べる術もなくこちらで質問致しました。宜しくお願いします。

263サライニコ:2012/10/12(金) 22:39:26
訂正

読んだので=×

読んだのですが=○

264;:2013/03/08(金) 10:15:50
ロリ画像掲示板

http://d4u88bqk.seesaa.net/

265:2013/03/11(月) 19:37:45
美少女エロ画像

http://tutlyuyhk.blog.fc2.com/


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