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身延相承書と池上相承書について

1管理者:2003/08/12(火) 07:39
スレッドテーマのご提案がありましたので、スレッドを立ち上げます。提案文は以下の通り。

最近、古書店にて買った本「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」によると、身延相承書と池上相承書は後世に作られた偽書であると書いてありました。これは事実でしょうか。

134天蓋真鏡:2007/05/14(月) 15:24:45
通りすがりさん、犀角独歩さんの遣り取りが一段落着いた様なので。 日蓮聖人が取り敢えず 戒壇堂の代わりに著した修行の道具、三国四師をも表した法華経行者の心「漫荼羅」があれば、相承書や墓守番は要らないのではと思いました。

135犀角独歩:2007/05/16(水) 17:32:11

天蓋真鏡さん

殊、富士門流というか、勝劣派というか、この発想においては、ともかく唯一絶対のものは一つという線から考えすぎると思いますね。

この類推は、もちろん、日蓮にあります。他土の阿弥陀、法身大日、釈迦牟尼仏、同じ釈迦牟尼仏でも寿量仏といった選択論です。これは経典でも法華最為第一といった具合ですね。

このような一択方式が、日蓮の遺したものにも採用されているわけですね。
遺骨と教義・釈迦像と漫荼羅で、遺骨より教義、釈迦像より漫荼羅、さらに教義より漫荼羅でそれが本尊、さらに題目五字といった具合に先鋭化されて一つのみに絞ろうとします。しかし、それが本当に日蓮の遺志だったのでしょうか。
墓所に遺骨と釈迦像、注法華経を置けといった遺言は、その中で一つを選ぶものではありませんでした。墓番の選定は遺骨より教義を採るものでもありませんでした。「過ぎたるは及ばざるがごとし」という格言がありますが、何でもかんでも一つだけを選ぶ、今回の天蓋真鏡さんの論法で行けば、「戒壇堂の代わりに著した修行の道具、三国四師をも表した法華経行者の心「漫荼羅」があれば、相承書や墓守番は要らない」という選択法は、少なくとも日蓮の遺志ではないでしょう。

日蓮は、戒壇堂も標榜していたでしょうし、漫荼羅も重視したでしょうし、墓番も重視したでしょう。もちろん、相承書は後世の捏造ですから論外です。しかし、釈迦像も、注法華経も重視していたでしょう。もちろん、自分の遺骨や、墓を捨ててよいとも考えてはいなかった。それら、いっさいの日蓮の遺物をすべて大切にする、それが門下の在り方であるという点が、日蓮の遺志であったでしょう。できなかったことの言い訳に日蓮の遺志を枉げるなど言語道断です。

136天蓋真鏡:2007/05/17(木) 23:33:00
犀角独歩さん、書き込みありがとうございます。自分は唯一選択の絶対論と言う訳では無くて、どれから優先するかの見方考え方を言いたいのです。御書遺文を身で読む事が難儀な凡人か゛どういうルートで成道得道を行くのか試行錯誤の一端です。

137犀角独歩:2007/05/18(金) 01:38:31

136 天蓋真鏡さん

それなら、答えは簡単です。但行唱題でしょう。

138天蓋真鏡:2007/05/18(金) 12:31:31
其れは其れで良いのですが、念仏でも真言でも題目でも信心の内容中身の問題と考える時、日蓮の教えの範囲が気になる訳です。例えば、妙の使い方、三国四師の見方考え方の変遷、自分に依りどれだけ唱えれば成仏出来るのか等。

139顕正居士:2007/05/18(金) 20:01:14
日蓮も道元も親鸞も天台本覚思想の発達の中の一個性であって、幾らか遠目に見れば
大差はありません。かれらとその宗派の思想は日本の近世化に貢献するところがあった。
そして江戸時代にはすでにその使命を終え、仏教は儒学と洋学に地位を譲ったのです。
儒学と蘭学があったから日本は急速に近代化できました。つまりかれらの思想は間接に
近代化に貢献しました。われわれが時々思い出すべきなのは仏教の中の論理的思想、
個人主義の思想であって、そういう準備がないアフリカの諸国などはなかなか近代化が
できないのです。

140マハー:2007/05/21(月) 20:27:32
>>133
天蓋真鏡さん

>日蓮聖人は天台密教を法華一乗に変えたいと定めたはす゛

法華一乗と神仏習合は矛盾しないと思います。
ここで言う神仏習合とは、日本の神々との習合を意味します。
仰るところの台密に神仏習合は入ります。八幡神社を弘めた張本人は最澄ですからね。
日蓮聖人(聖人号を使わせていただきます。)は、空海東密を先に切り捨てますが、(時間的な先ではなくて教相の浅い部分で)法華守護の善神の考えは残してるでしょう。

>神霊等どのように考えていたのか

(私はこう考えるという話ですが、)
八幡神は武家の守護神、天照太神は公家の神と考えていたと思います。
鎌倉八幡は北九州とも縁があるし、天照太神との共通点はどちらも女神ということ。
八幡神は三人の女神の合祀なんですが、当時どのように分離して考えられていたかは分かりません。山岳信仰面から富士を天照太神と関係性を探ろうとする向きもあるようですが、私はいまのところ賛同しかねています。

>神宮を改めて建てなくても良い様に感じます

日興が天照太神を鎮座させようとする理由はいろいろと考えられると思います。寧ろ伊勢から富士に神宮を移すというのは日興にしてみれば念願だったかもと思います。
当時の伊勢神宮は一般人が参拝が許されるところではありませんでしたし、なによりも反本地垂迹説を唱えていたのですから、日蓮門下からみれば謗法でしょう。
ですから、伊勢の地から富士に天照太神を遷座して国家安泰を計ると考えるのは自然かと思います。
ですが、若しそのように考えて日興が「神宮」名で建立したのであれば、結果的に失敗に終わったと言うことになります。
私が拘ったのはその神宮という名です。分祀する考えからの観請であれば「社」とか「宮」を使ったはずと思うのです。「神宮」を使ったら、伊勢神宮そのものを否定する行為と思います。

141パンナコッタ:2007/05/22(火) 11:41:57
マハーさん、どうでしょうか。今現在はあまり痕跡はありませんが
鎌倉期ではすでに各地に神宮寺が建立されていましたし、重須の本化垂迹天照太神宮は
直接的に伊勢とはあまり関係なく、岩本実相寺系の流れが強いように思われますが。

 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
引用文献のいくつかは???ですけど、参考になると思います。

142マハー:2007/05/22(火) 16:31:49
>>141
パンナコッタさん

>>128から、読み間違えてました。
「天照神宮(じんぐう)」ではなく「天照太神宮」、天照太神ノ宮(ミヤ)ですね。(笑)
神宮と宮では特別格差があるわけではないのですが・・・建物の規模が違います。
宮であれば無人でも構わないです。

それにしても…御示しのURLで、
富士山と天照太神を結びつけるのに徐福伝説を持ち出しているのは、悪いがよぽど根拠に乏しいようにしか映りませんね。

143れん:2007/05/22(火) 18:51:59
横レス失礼します。
日興撰述の可能性の高い“三時弘経次第”には「今、日蓮房と共に本化垂迹の師檀と為りて迹門を破して本門を立てて末法を利益し国土を治むべきこと之を図す、富士山・本門寺・末法 久成釈迦仏 付属弟子 上行菩薩 日蓮聖人 垂迹神天照太神・八幡大菩薩 当御代 本化垂迹師檀」とあり、日興(ないしその門流)の理解した日蓮の本門為本の立場から、天照太神・八幡大菩薩を久成釈迦仏の垂迹と捉えています。また、初期興門の文献・五人所破事には神天上の法門を示しながらも「但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、尤も上下を撰て鎮守を定むべし」とあり、これらの意義により、本門寺建立の時に天照太神の宮(実際のところ諸賢ご指摘のように神宮寺みたいなものとしてでしょうが)をも建立するというのが、初期日興門流の思想のようです。さらに初期日興門流の文献である“富士一跡門徒存知事”には「一、王城の事。右王城に於いては殊に勝地を撰ふべきなり。就中仏法と王法と本源体一なり。居所随て相ひ離るべからざるか。仍て南都の七大寺、北京の比叡山先足+從之れ同じ、後代改めず。然れば駿河国の富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤本門寺は王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり。且つは日興、大聖の本願を祈る処なり」とあり、皇居・都をも富士山麓に遷都せしめるという考えが初期富士門流にあったことが明らかで、このような思想を背景に、本門流布の時代に建立される定義されていた“本門寺”内に久成釈迦仏の垂迹神としての天照太神の宮を造立するという考えが存したと思われます。

144マハー:2007/05/22(火) 20:57:04
>>145
れんさん
百六箇抄はこのサイトではその信憑性からあまり採用されてないことと思いますが、
「久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり」を、
教主釈尊(男)と天照太神、八幡菩薩(女)に読むとしっくり来る。(個人的感想)

145れん:2007/05/23(水) 18:39:15
マハーさん、初めまして。百六箇抄は、文献的には、西暦1400年代に日尊門流での成立が推測され、その伝承が確認される相伝書で、石山五十九代目の法主であった堀日亨さんが「石山においても古い先師方はあまり両巻抄を大切になさらなかったらしい」と言われたように、古い時代(左京日教以前)の石山ですら重要視されておらず、また当然ながら百六箇抄の内容は日蓮や初期興門の思想とは明らかに異質ですので、私には百六箇抄の男本女迹義を、初期興門に見られる久遠実成の釈尊と天照・八幡との本地垂迹義に援用して理解する蛮勇は起きませんが、マハーさんの個人的見解と言うことですので、マハーさんのご意見として受け取りました。

146天蓋真鏡:2007/05/24(木) 12:06:18
マハーさん、皆様方ありがとうございます。自分は八百万神々を善神勧請のように扱うものかと想いました。富士の浅間神社?コノハナサクヤヒメは天照の分身とか聞いた事があります。

147マハー:2007/05/24(木) 20:46:55
>>146 天蓋真鏡さん

>自分は八百万神々を善神勧請のように扱うものかと想いました

私もそう思っています。

>富士の浅間神社?コノハナサクヤヒメは天照の分身とか聞いた事があります

それはたぶん、「あまてらすおおみかみ」が、「いざなぎのみこと」の分身、との話を勘違いなさってるのでしょう。「このはなのさくやひめのみこと」は「おおやまつみのかみ」の子です。
富士山本宮浅間神社の祭神は、仰る通り「このはなのさくやひめのみこと」ですが・・・本来山岳信仰の浅間神社の神体は、富士山そのもので、「このはなのさくやひめのみこと」を祭るようになったのは、江戸期後半ではないかと言われています。
ですから、鎌倉時代の日蓮が「このはなのさくやひめのみこと」と富士山を関連付けることは有得ないことになります。
また、修験行者の長谷川角行が仙元大日神(せんげんだいにちしん)の教えを説いたのが江戸初期です。仙元大日神は、大日如来のことなのかもしれませんが、天照大神とは別神と思います。
つまり鎌倉時代に、大日如来=天照大神 の思想はあっても、天照大神と富士山を結びつけるのはかなり希薄だと言わざるをえません。

148パンナコッタ:2007/05/24(木) 22:42:54
直接日蓮とは関係ないですが参考といたしまして以前、
重須系弟子の書写漫茶羅本尊に氏神・富士姫勧請の物がありましたね。
これについては、豊富な資料をお持ちの大縫薫さんにお聞きした方が良いですね。

余談ですが、>>141に出てきた宮下文書(後代の偽作ですが)には、
富士高天ヶ原で天照大神を祀る阿祖山太神宮を坂上田村麻呂が解体し、
木花咲耶姫を祭神とする浅間神社に替えてしまった、なんて件がありましたね。

149天蓋真鏡:2007/05/30(水) 02:19:29
マハーさん、パンナコッタさん、ありがとうございます。自分の見た記事には天照の分身と書いてあったと思います。分祀かな?

150れん:2007/05/30(水) 13:47:38
天蓋さん
かつて話題に上った富士姫勧請の重須の伝日済筆漫荼羅は正慶の年号であるにもかかわらず、先師に日妙師が勧請されているので、日妙師系によって重須の法統が継承された以降に作成された漫荼羅ではないでしょうか。当漫荼羅は重須の神祇観を知る資料にはなりますが、日蓮や日興ないし日興直弟に溯れる資料ではないですね。
また以下も江戸期の資料で蓮師興師まで溯る直接の資料ではありませんが、柳澤師の「石山本尊の研究」には石山日元筆墨書き板漫荼羅の写真が掲載されており、それにはたしか脇書に「久遠実成釈尊垂迹木花咲耶姫」云々とあったと記憶します。以上ご参考まで。

151れん:2007/05/30(水) 18:59:18
自己レスです。
仕事先から帰宅して「石山本尊の研究」を確認しましたら、先程投稿した日元筆漫荼羅の脇書は間違いでした。正しくは「宝暦第十四甲申龍集弥生中幹五日 奉書写之 富士山大石寺三十三嗣法日元(花押) 授与之 本地久遠実成釈尊垂迹富士浅間宮」でした。まぁ、富士浅間宮の祭神は木花咲耶姫ですから私の記憶違いということでご勘弁下さい。この日元筆墨書き板漫荼羅で面白いのは、全体は弘安式ながら国神勧請が房山蔵宝たる文永十一年大本尊と同じく「南無天照八幡等諸佛」となっていることですね。

152顕正居士:2007/05/31(木) 00:07:56
富士祭神への信仰は日蓮までさかのぼることができます。

『上野殿母尼御前御返事』 (弘安3年・真蹟存在)に
「此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきと
たのもしき事也」とあります。
「千眼大菩薩」は千手千眼観世音との習合をあらわす当て字であろうとおもいます。
未見ですが、なぜ浅間大菩薩=木花開耶姫=赫夜姫であるかについては研究があるようです。

竹谷靱負著『富士山の祭神論』
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN4-87294-446-1.htm

153天蓋真鏡:2007/05/31(木) 16:48:44
れんさん、ありがとうございます。漫荼羅勧請は随方毘尼なのでしょうか。注法華経、天台仏教、日蓮仏法の学問の範囲か゛気になります。 顕正居士さん、ありがとうございます。諸天善神とも氏神信仰とも違う神仏の奉り方を言うのでしょうか。識字率の低い頃に思想の主義主張を捨て去る事を徹底するのは至難の業でしょう。

154顕正居士:2007/06/01(金) 19:09:57
神仏判然令から百数十年経って、神仏は別の教であるかのように思われている節もありますが、
江戸時代までは仏神は全く習合していました。例えば輪王寺と東照宮は本来一個のものでした。
寺院の中に神社があり、神社の中に寺院がありました。有師の化儀抄に「他宗の神社」という
表現がありますが、文字通り、他宗の寺域にある神社もしくは管轄する神社です。
強制的に寺院と神社が分離されたので、寺院管轄の小社は多く滅び、あるいは滅びつつあります。
イシャナ神を祀る「第六天社」は昔は全国にたくさんあったそうです。インドの神様まで仏教から
分離するのはナンセンスですね。
大石寺の付近にも同寺が管轄する小社がまだ残っています。しかし大石寺の信仰と浅間大社
との習合は特にあったという話は聞いたことがありません。

155マハー:2007/06/01(金) 20:36:03
>>154
顕正居士さん
>『上野殿母尼御前御返事』 (弘安3年・真蹟存在)に
>「此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ.
>給ふべきとたのもしき事也」

資料の提示ありがとうございます。
富士千眼大菩薩ですか。なるほど。
その資料は、日蓮が「天照太神」と「富士千眼大菩薩」を別々に設定している根拠になります。
千眼大菩薩の千眼(せんげん)は浅間(せんげん)の当て字で特に「観世音」を意識したのではないのではないかと思います。
浅間は、火山を表す古語の(あさま)が仏教との習合によって音読されて(せんげん)と呼ばれるようになったといわれています。
(あさま)→浅間(あさま)→浅間(せんげん)→せんげん(千眼)と当てたのでしょう。

鎌倉時代に浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)になっていますね。これは浅間大神のことで間違いないでしょうが、天照の系譜には出てこないようです。「日本三代実録」貞観七年に浅間明神の記述が見え、これは山梨県笛吹市の浅間(あさま)神社と関連が深いので、甲斐から駿河へと繋がりがあるような気もするのですが…わかりません。
噴火による畏れる「火」の不二山と,それを鎮めるための「水」の湧水に対する崇敬の
といえるでしょうか。

前レスにて、八幡大菩薩を女神三神と記しましたが、第十五代応神天皇が主神と思われるので間違いでした。訂正致します。

しかし、「天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩」というのは、「日」「海、風」「水、火」と揃うので絶妙な並べ方だと思いました。敬具

156中道一実:2007/06/02(土) 17:15:11
近世以前、浅間大社を統括していたのは、他ならぬ大石寺です。
その頃は、大石寺が造った大鳥居もあり、神社との関係が切れても創価学会が現れるまで現存しました。
戸田氏の進言で、大鳥居が撤去されましたが、大石寺は元来「化法は仏法」「化儀は神道」と言われておりました。
我が家は公家の末裔ですので、式年遷宮の“川原大祓”の栄誉を賜った事もあったそうですが、その頃(江戸期)は、伊勢の斎宮(女人に限る・現在は池田厚子様がお勤めになっておられる)の事は、「不二之宮」と称していた。
それが後世、転化して「富士之宮」と称されたとのことで、我が家に現存する日記には「伊勢におられる富士之宮、遠く富士を仰がれる」と残っております。
もっとも斎宮は常に伊勢にはおられず、重要な儀式のときのみ出向かれたそうであるが・・・。

また大石寺の化儀と伊勢神宮との関係は深く、勤行においての、丑寅勤行は伊勢神宮の「由貴朝大御饌(ゆきのあしたのおおみけ)」(午前2時より)を模し、その前の晩に行う、「御逮夜に匹敵するのが由貴夕大御饌(ゆきのゆうべのおおみけ)」(前日の晩に行う)を模しているとも言われる(もっとも伊勢神宮自体が儀式は変遷しており延喜式のままが継承されているとは言い難い)。

157犀角独歩:2007/06/03(日) 08:31:39

中道一実さん、はじめまして。
ご投稿、興味深く拝読しました。

浅間大社を石山が統括していた話は、わたしは住職の僧から聞いておりました。
大鳥居は、わたしが子どものころ、登山の折、団体バスの中からいつも眺めていました。
しかし、石山が造ったものであるということは知りませんでした。

地元の日蓮宗僧のお話では、創価学会が地域開発の名目で話を持ちかけ、富士宮駅前を整備するのに数億円を寄付した、その条件として、鳥居を撤去したということでした。しかし、その後、創価学会は石山から破門(独立)。
「いったい、あの駅前整備と、鳥居の撤去は何だったのか」というのが、地元の嘆きとのことでした。

> 丑寅勤行は伊勢神宮の由貴朝大御饌を模

この点は、特に興味深く拝読しました。

> その前の晩に行う、御逮夜に匹敵するのが由貴夕大御饌…模し

これは夕の勤行を指すのでしょうか。
とすれば、勤行は朝夕ではなく、夕朝で一組ということになりますね。
とすれば、法要が御逮夜・正当会で一組となっていることと合致しますね。

158犀角独歩:2007/06/03(日) 10:07:19

【157の訂正】

誤)浅間大社を石山が統括していた話は、わたしは住職の僧から聞いておりました。
正)浅間大社を石山が統括していた話は、わたしは石山の重職の僧から聞いておりました。

159呆け講:2007/06/04(月) 17:58:39
>http://toyoda.tv/saikaku.hasyaku.htm

犀角独歩さんのブログに掲載されている「邪義」を完全破折!
・・・・・・・のつもりらしい。

160呆け講:2007/06/04(月) 18:03:59
>http://toyoda.tv/taiketu.htm

【公開法論申し込み】
あらゆる日蓮系教団は全て誤っている!大石寺のみが唯一正しいのだ!
・・・・だそうだ。

(本文より)
「犀角氏は、歪んだ自らの心を省みて、大いに恥じ入るべきであろう。」

犀角独歩さんのお陰で、色々な事を学べた恩がある。(尤もROMのみだったが)
一丁、眼を覚まさせてやる必要がありそうだ。

161犀角独歩:2007/06/04(月) 19:32:52

これは、読みました。
悪口雑言のボキャの豊富な人で、その心根がよく現れた迷文でした。
なんだか、子どもが棒を振り回して「ボクがいちばん強いんだぞ」と言っているようで可愛らしいじゃないですか。

読めば、わたしが取り上げた安永さんの所説を、日達さんの言葉を引いて批判しているわけですね。わたしの本を読んでいただければわかりますが、安永さんは妙海寺漫荼羅原本説、わたしは日禅授与本尊原本説で違うわけです。安永さんを批判したところで、わたしの所説を覆したことには全然なりません。

つまり、、わたしの主張の主要部分、図形鑑別に関しては、なんら反論がないことから、その部分は賛同してくれたと判断しています(笑)

それにしても、日達さんのいうことを金科玉条に受け取っているようでは、なんら事実は見えません。日達さんの御説についてはブログで十分に批判しました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50871189.html

わたしは石山について、記したわけですから、わたしが図形を以て、その真偽を論じ合う人はただ一人、「阿部日顕」さんその人です。

また、わたしの日教研での研究発表は、既にここでも記したとおり、富士学林の高橋粛道さんが聴講に来ており、反論もなく黙って帰っていきました。つまり、富士学林の先生がこれに反論できず認めたということです。この段階で話は終わっています。自称法華講の人物がとやかくいう段階は当初から終わっています。
この方は、高橋さんにでも話を聞いてみたらいいでしょう(笑)

鰯の頭を信じるのは勝手ですが、そんな我が身を振り返らず、人の批判をやって得意になっているようではだめですね。信じるのは勝手ですが、偽物を本物と百万遍いったところで本物にはなることはありませんから。偽物であることを図形を以て論じたのですから、石山から彫刻と日禅の写真を借りてきて、再鑑別してくれることをわたしは楽しみに待っているわけです。そのとき、初めて議論になるわけです。

悪口雑言は、言われるほうに分があることを常不軽菩薩品は示していますね。其罪畢已の功徳に感謝をしておくことといたします。完爾

162呆け講:2007/06/04(月) 21:25:58
>犀角独歩さん、

ROM専の私にレスを頂き感謝します。仰る通りですね。
とは言え、凡愚(失礼)の眼を開かせるも大事な事かと・・・・。
ちょっと彼とメールにて直接話をしてみようかと思います。

スレの主意と異なるレスにて失礼致しました。またROMに徹し勉強させて頂きます。

163犀角独歩:2007/06/04(月) 21:59:58

呆け講さん

わたしは、やがて、阿部日顕さんに向け、公開質問状をネット、郵送で行おうと思っています。その遣り取りを、わたしの死後も遺るような方法も考えています。

石山の日蓮作という彫刻、日興作という彫刻、あんなものは偽物です。
それをネットで検索すれば、万人が簡単に確認できるものを作り、かつ、阿部さんへの公開質問とその遣り取りも、すべてネット言う場で公開で遺していこうと準備しています。

つまり、石山の二大彫刻は、もう終わったのです。
こんなものを信じる人は、今後、根絶やしにする準備を万全に整えていると言うことです。

ですから、一信徒に過ぎない人の強がりなど、いまは笑って「へえ、強いねえ」と頭をなでていれば善いだけのことだと言うことです。

164しゅんかん:2007/06/04(月) 22:37:38
独歩さん
お久しぶりです、何時までも進歩がななぁとお叱りを受けそうですが。
申し訳ありません、私としましては駑馬十駕と常に思惟致しております、又お願いしますm(__)m

>蓮師彫刻、興尊彫刻=石山二大彫刻(携帯なので貼付けが出来ず違いお許し下さい)
〇石山二大彫刻=本門戒檀大御本尊(石山云う処の)と奉安堂(向かって右)蓮師奠定の御影さまを御示唆されておられるのでしょうか?

165犀角独歩:2007/06/05(火) 04:37:08

しゅんかんさん

少しくお久しぶりです。
ご質問の点は、少々HP、ブログに載せてあります。

日蓮作だという「本門戒壇の大御本尊」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
日興作だという「大石寺持仏堂安置本尊」
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50865483.html

また、本日、ブログにアップしたのは、上記、二つの彫刻を束ねて発表するためのパワーポイントの紹介です。この形で講演活動を開始しています。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50986906.html

ご高覧をいただければと存じます。

166しゅんかん:2007/06/22(金) 20:51:01
独歩さん

お返事遅れました事、先ずお詫び申し上げます。
(1年を十日で暮らす良い男、では無いですが、1年を夏季で暮らすと当て換える様な
職業でして、仕事で忙殺し遅れたしだいでございます)

本日、ご教示いただきました点、拝見させて頂きました。
六壷に於いても欺きが在るのですか、もう開いた口を閉じる気力も無いです。
私が勘違致しました蓮祖奠定の御影さま(日法作)も当然ながら偽りですね。
[独学徒さんより以前ご教示戴き、日法作は存在しないと至りました]

禅師授与曼荼羅は重須の万年救護本尊ですね、アップされておられますカラーパンフ
の映像は確認しずらいですね、独歩さんの事ですから、既に鮮明な物をお持ちに成られて
おられるかも知れませんが少し情報を記しておきます。

重須本門寺根源貫首 本間日諄(四十八世)著によります教箋閑古錐(一巻)P41
に於いてモノクロではありますが(万年救護本尊)首題は鮮明に見て取れます。
(既にご存知の時はあしからず)

この禅師授与曼荼羅は蓮祖御図顕123幅中にはございませんね、
要山発行の機関紙に要法なるものがございます(是もご存知かも)本年元旦発行部に
<付法曼荼羅>
甲州身延山に於いて「健治二年丙子正月元日付法沙門日興授与之」の脇書きあり、
と称すものが記載されております、この曼荼羅も同様123幅中に見て取る事が
出来ませんが連祖図顕ではないのでしょうか?

もう一点、禅師授与曼荼羅・付法曼荼羅は首題が写真に写っています、本山が許可した
発行物に於いてです。
身延系では認識いたしておりましたが、興統法縁に於いてもこの様に首題をバッチリ
と写しますね、石山ではもってのほかですよね。
叉、石山系では自身の発行物以外を拝読する事を許しませんね、先に記しました
曼荼羅の首題(石山の言い分は存じております)同様、私には化けの皮が剥れるから
としか感じ取れないのです、犯罪者が黙秘を行使している様なものだとも取れますし、
子供が大人に嘘がばれているのに方便を持たないから「知らない、知らない」の
一辺倒しか云えないのにも通じていましょうか。

取り留めの無い事を記してしまいましたお許しくださいませ。
何時もながら独歩さんの孜々としてご研究されておられます処、頭がさがりますと共に
さらに波濤を凌ぐいで行かれることと願っております。

167鳥辺野:2007/06/24(日) 13:36:39
犀角独歩さん  お久しぶりでございます。
しゅんかんさん 確か始めまして?ですよね。
横レス失礼致します。京都要法寺の符法本尊の写真でしたら、独学徒さん
のhpにて公開されています。(2番目の写真)
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html#TH_ST15
私は符法本尊の御守は要山の宗務院で購入しました。真偽未決ですが、私は
肌身離さず持ち歩いております。

168れん:2007/06/24(日) 19:33:50
鳥辺野さん、お久しぶりです。
独学徒さんのHPにUPされている京都要法寺蔵の附法本尊(お守り?)は、文永九年の方で建治二年のものではありませんね。近年でも蓮師御真蹟漫荼羅の発見があるので、安国会の御本尊集が“すべて”というわけではありませんが、京都要法寺蔵に関しては御本尊集に入集しているのは推定弘安元年頃の無記年(磨滅?)の漫荼羅の一幅のみであり、他のものは偽作の可能性が濃厚というのが故山中喜八氏の鑑定だったのでしょう。附法本尊の成立史については、過去に彰往考来さんが述べられているところですね。文永の方は、九年元旦の年記にも関わらず花押からして文永十年以降の鍵手バン字のもので、私の感触は、さすがにこれは…というものですが、要法寺の場合、たとえ宗内の守りや刊行物という形であれ、一般にも拝見出来る可能性があるのはやや一般にひらかれている印象で、この点は評価できるかなと思います。
要法寺の建治二年のものは私は未見なので、どなたか独学徒さんの談義所の方に画像をUPしていただければ幸いです。

169鳥辺野:2007/06/24(日) 21:23:33
>れんさん
お久しぶりでございます。
そうですか。文永九年の方でしたか!私はずっと建治二年とばかり思っておりました。
まったく不勉強なもので・・・。そういえば寺院の方も御守の事を「称徳の曼荼羅」と
おっしゃっていました。確か、文永九年が称徳符法本尊で、建治二年が符法本尊だった
と記憶します。

170しゅんかん:2007/06/25(月) 00:52:50
鳥辺野さん
レス有難うございます。
(はじめてかな?携帯なので確認も出来ません)
宜しくお願い致します。

日蓮本宗の御信徒さんですか。
私もお守りは寺務所で拝見しましたが巷でよく見掛ける神社のお守りとそっくりな物、あれですか浅学非才なので神社系以外でお守りを見たのははじめましてだったので少し驚きました。遥か昔、石山のお守り御本尊を見た時も驚きましたが。(現在、私の家の仏壇内で御本尊様の前に奉安してますが)

要山では、はじめて訪れた私にも心易く本堂への参拝をおゆるしして頂き、確かに石山とは違い解放的でした、もう数回訪れていますが、京の町中に在り境内では近所の子供達が遊ぶ光景も拝見しました、御僧侶へ心和む光景ですと申し上げたものです。

処で本堂、御影様の後方が付法曼陀羅なのでしょうか?

171犀角独歩:2007/06/26(火) 18:18:41

166 しゅんかんさん

御返事遅くなりました。
日禅漫荼羅に関しまして。

インターネットの文章は、問答さんがアップしてくださった北山パンフレットの写真を使って、まず図形比較をした経緯を説明したものですから、その点を記したわけです。ご紹介の本間師本の写真はもちろんのこと、北山筋から直接入手しました鮮明なカラー写真を所持しています。

また、彫刻については、熊田葦城著『日蓮上人』の復刻出版社ご本人から写真の提供を受け、さらにネットその他の異本も出来るかぎり収拾し、まずその比較を基礎にして、次いで鮮明な日禅漫荼羅写真と比較したのが経緯です。

172犀角独歩:2007/06/26(火) 18:19:21

鳥辺野さん、お久しぶりです。

173鳥辺野:2007/06/27(水) 01:12:31
>しゅんかんさん
宜しくお願い致します。私は日蓮本宗の信徒ではありませんが何度か要法寺
にお邪魔して寺院の方からお話を頂いております。
本堂御影様後方の板曼荼羅については私もよくわかりませんでした。今度はこれ
について聞いてこようと思います。
>犀角独歩さん
いつもブログ拝読させて頂いております。今後もどうぞ宜しくお願い致します。

174しゅんかん:2007/06/27(水) 10:26:22
鳥辺野さん
返レス有難うございます。
私の場合、御影様その他で曼陀羅が僅かしか見て取る事が出来ませんでしたが、板曼陀羅でしたか。
ご確認の後は、是非ご教示お願い致します。

175しゅんかん:2007/06/29(金) 13:55:46
独歩さん
171見落としていました、申し訳ございません。
流石ですね、私がお知らせする様な物等まずなさそうです。

176しゅんかん:2007/07/02(月) 22:02:56
一字三礼さん
お待たせ致しました、取敢えずネットが出来るまで復旧致しました(プロバイダのお嬢さんに全て助けて戴きました
彼女達は賢いなあ、感謝)

先ず、自己紹介にレス致しましたので、素朴な疑問[2851]以降も合わせてご覧戴ければ幸甚です。

私が皆様方よりご教示戴いてますのは、認知症を患っている母の姿を見るにつけ不憫でならないからです。
認知症の母は過去の出来事は記憶しておりますが、近年(最近)の事は全く記憶にございません。
[3398]で記しました
見取見=人はひとたび肯定し、それが正しいと認めたことは、先入主となって、
そうでないことがわかっても、最初の見方にとらわれてこれを改めることが出来ない。

戒取見=戒とは否定の義であるから、ひとたび否定した事はそれの誤りが証明されても、
これに固執して考え方を改めることができない。
健康なお方においても以上の様ですね、まして認知症の母です、記すまでもないでしょう。
私は、皆様がやり取りされてます蓮祖の教えをどの様に拝読するか、意は?につきましてはからっきし駄目です。
ですが、石山の欺瞞は其れらの事を学ばなくとも、信仰と云うものを経験していない私には容易く判別出来ます。
御本尊さまや過去帳、御仏壇を我が家で預かりましたのは私の自発的な案によるものです。
(姉兄が放置していたからです)
数ある日蓮宗の中で、日興門流・正宗を父母は縁会って信仰をもった訳です。
以前、独歩さんに蓮祖の教えを正当に継承している門流は?とお尋ねした事が在ったと思いますが
あっさりと「無いです」とご教示戴いたと記憶しております。

177しゅんかん:2007/07/02(月) 22:08:49
管理人さん
[176]は素朴な疑問へのレスでした、お手数ではございますが削除をお願い致します。

178れん:2008/02/01(金) 12:31:22
いわゆる二箇相承ですが、石山系教団では、彫刻の相承の文証として引用しますが、所蔵元の北山(重須)本門寺では“本門寺大堂本尊”に係る文書として作成し扱っていた様です。
保田妙本寺日要師が重須日浄師から伝写した重須文書の切紙は①身延相承②池上相承③本門寺大堂本尊裏書④日興付属状(五師への譲状⑤日妙への譲状⑥本門寺棟札⑦日興上人御遺跡事が確認されており、その中③には「本門寺大堂本尊裏書云、日興上人授、此本尊日蓮大事也、日蓮在判。日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判、日妙授与、白蓮」とあります。日殿申状にはその位置付けとして「一通、此本尊日蓮が大事なり在判、日興に之を授与す、日妙に之を授与す日興判、正中二季十月十三日。一通、重須本御影堂に於いて唯授一人日妙に相伝す。秘すべし秘すべし、同月日。一通、日妙三堂本尊守護申すべき事、末代の為に日代を判証人として之を書写す我門弟等以後に於いて諍ふ事之有るべからず、本門寺日妙に授与するなり。右旧規を検ふるに彼西山代々既に本迹優劣に迷倒し興師の本意に背き今新に非拠の案を構ふるの条殆ど猛悪の至りか、是は高祖の御筆血脈授与の相伝、日興帰寂の後弐百五十余年、重須本門寺に安置し奉り並に三堂附属相伝の筆跡明鏡なり、然れば則此の漫荼羅は一閻浮提に於いて正像末三時未弘の本尊なり、耳+卯爾なく開山建立の道場に安置し奉り本六人並に日妙已下の弟子等崇敬し奉る事、是偏に天下広宣流布の時至り帝王将軍御受法の時を待つ処の由緒是なり、蓋し富士山本門寺は一宗の根源諸門の最頂天庭奏聞の遺跡末法弘通の戒壇たり…」とあるのを参照しますと、日要師が日浄師から伝写した文書に見える“本門寺大堂本尊”を以て二箇相承に記された“富士山本門寺戒壇”安置の漫荼羅としており、本来、二箇相承は石山の彫刻とは何の関係もない文書であることは明らかですね。日要師の重須文献の切り紙に記された文書のうち、本門寺大堂本尊は天正度の宝物掠奪事件で失われていて曽存であり蓮師の真蹟が偽筆かもはや確認不可のものであり、正本の現存する日興上人御遺跡事以外は、二箇相承を含め偽文書ですが、何れにせよ、二箇相承をもって石山が自山の彫刻の“相承”の文証に備えることは正に我田引水以外の何物でもありませんね。

179犀角独歩:2008/02/02(土) 09:55:36

れんさん

二箇相承は北山文書であるという点を詳説いただき、参考になりました。

この相承を真書であると仮定して考えても、いくつもの矛盾があります。
そもそも、北山本堂には日代という継承者がいたのであって、ならば、二箇相承の継承は当然、日代になされたことになります。「いや、日目上人だ」と石山は言うわけですが、では、日興没後、半年後に天奏途上で没した際、日興正統を証し、さらにこの文書の継承者こそ、日興の正嫡であることを証する二箇相承を、なぜ天奏に携えなかったのかという問題が生じます。このお供は、日郷、日尊であって両者とも北山に戻っていません。携えていたと主張したところで、その後、二箇相承が北山にあり続けた辻褄が合わないことになります。武田勢の略奪で失したという二箇相承は、それまで北山にあり続けたわけで、ただの一度も石山にあったことはないわけですね。また、日代が北山を退出するに当たり、これほど、重要な文書を正系を証する日代が持って出ないこと自体不自然とも言えます。

かつて顕正居士さんが「富士山に本門寺の戒壇」という読み下しが間違っていると指摘されました。ここでいう富士山は寺の山号なのであって、即ち「富士山本門寺」の、もしくは「富士山本門寺」に、戒壇であるわけです。富士山本門寺とは北山、西山両山の山号ですね。つまり戒壇建立の寺は石山ではなく、富士山本門寺であるというのが、この文書の趣旨です。この点の不都合を埋め合わせるために、「広宣流布の暁には、大石寺は本門寺と改称する」という嘘に嘘を塗り重ねた言い訳もでっち上げたわけですね。で、この偉業を為すのが日目であるも言います。

日目は再誕し、一閻浮提座主になるという伝説も石山は、自分たちに当て嵌めていいます。これも何度も書いたことですが、日目再誕を説明するのに石山が持ち出すのは房州日我の『申状見聞』です。

「若し此の状奏間の人、未来於てに有らば、之れ日目が再来と可し知る」

であるから、広宣流布の時には、日目が石山の猊座に再度上がるんだというストーリーです。ところが、この文章には、以下の続きがあります。

「然る処に正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人無し 之れ依て之れに日目門家にも何にも此の状を日中に奏して読まず、爰に日要奏す之れを争か可けん疑ふ之れを乎」

さらにこの文書は日要が見た霊夢の話に繋がり、日要こそ日目の再誕であることを、日我は滔々と記していくわけです。つまり、この日目再誕説は、保田妙本寺のおカブであったわけです。それを日目再誕の頭の部分だけを切り文して石山のこととし、さらに北山のおカブである二箇相承とくっつけて、さらに膨らませます。

まさに、れんさんが仰るとおり、我田引水というほかありません。
そして、西山の伝わる日興本尊を模し「大石寺持仏堂安置本尊」を捏造し、なにより、「本門戒壇の大御本尊」という彫刻まで捏造し、嘘に嘘の物的証拠をでっち上げ、自山顕彰する姿は、浅ましい限りです。

今回、れんさんのご投稿を拝読し、ここで「日要」の名が上がることから、この周辺の賑わいは、石山が我田引水に走る動機を煽る十分な出来事があったのだろうと思えました。

180犀角独歩:2008/02/02(土) 14:40:37

ひどい読み下しになっていました。

「然る処に正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人無し 之れに依て 之れ日目門家にも何にも此の状を日中に奏して読まず 爰に日要之れを奏す之れを争か疑ふ可けん乎」

といったところでしょうか。手元にテキストデータしかなく、書籍原文が見られません。違っていれば、どなたか訂してください。

nb資料室に全文が載ります。
(たぶん、この文章は、わたしが所蔵する富要テキストデータと同じだと思えます。返り点などを考慮せず、ベタ打ちのママになっています。このデータを作ったのは大木道惠師です。その業績は大なるものがあります)

http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/yousyuu/yousyuu4_5.htm

181れん:2008/02/05(火) 19:41:10
犀角独歩さん

二箇相承は、日代退出後の日妙門下により作成されたものであることは、動かないものと思われます。日興文献ですと、身延久遠寺住職を“院主”と記してますが、二箇相承は別当と書いています。もし、二箇相承が日蓮真撰ならば、日興もこれに倣い身延久遠寺の住職の称号を“別当”と書いていた筈で、院主とは記さなかったと愚考します。ですから、二箇相承は日蓮・日興を去ることかなり時間が経過してから作成された文献であることは確かです。
北山では、六代の日浄師が自筆の漫荼羅に“本門寺”と記している由ですので、日浄師の代には、北山は二箇相承と本門寺大堂本尊と称する日蓮自筆?漫荼羅を前面に出して我こそ富士山本門寺戒壇根源也!とやっていた様です。日浄は保田妙本寺の日安により苦境を助けられたことがあり、恩を忘れず生涯日安自筆の漫荼羅を拝んだと言います。保田に三位日順の著作その他北山文献の写本が多く伝わるのも、この時期の保田と北山の通用によるものと思われます。当時の保田と北山の通用が石山を刺激して、特に北山の戒壇論に対抗するために、この頃に恐らく初代彫刻が作成されたであろうことは想像に難くありません。日時の三師伝に「日興上人と御本尊にあそばす」とある漫荼羅は北山の本門寺大堂本尊を指すと考えられるので、日浄以前においては、北山と石山の関係は険悪ではなかったでしょう。にもかかわらず、日時が三師伝において本門寺大堂本尊に触れても二箇相承に触れなかったのは、石山での日時の住持時代つまり室町初期には、まだ北山では二箇相承はその存在が無かった。つまり北山において二箇相承が、室町初期の時点ではまだ作成されていなかったことを示すものであろうと愚考するものです。

182れん:2008/02/06(水) 20:14:38
私が所持する富要の申状見聞の当該箇所の読みは「正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人これ無しこれに依って日目門下にも何にも此の状を日中に読み奉らず、爰に日要これを奏す争かこれを疑ふべけんや」となりますね。
他山の教義で自山に都合のよい部分をチョイスして平然としている石山の我田引水ぶりは独歩さんの示される通りです。
戒壇本尊と称する彫刻を作成するに至る動機は保田の万年救護大本尊や北山の本門寺大堂本尊の存在にありましたでしょうし、唯授一人血脈相承なるものを殊更に高唱するにいたった理由も、日目の跡を継承した保田妙本寺より優位に立とうとする意識によるものでしたでしょう。
ここで改めて気付くのは、やはり石山門徒の祖である日道は、日興・日目から受け継いだ日蓮自筆の漫荼羅が無かったということですね。そこが後の石山の数々の捏造の出発点であったと思えてなりません。

183犀角独歩:2008/02/07(木) 18:42:09

れんさん

ご批正、有り難うございます。
なお、我田引水のご指摘は、れんさんがまずなされたことです。わたしは同意いたしたまでです。


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