したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日蓮聖人の本尊観

69川蝉:2002/08/03(土) 08:46
60 : 犀角独歩 さんへ。

涌出寿量の二品以外においては、始成仏であるとしているが、実は久成の仏であったのだと云うのが寿量顕本ですね。
「開目抄」に
「迹門方便品は一念三千、二乗作仏を説いて、爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえども、いまだ発迹顕本せざればまこと(実)の一念三千もあらはれず」(197頁)
と有ります。この意は、「寿量顕本によって無始の仏界が顕れなければ、真の十界互具・一念三千は成立しない」と云うことです。
「方便品で成立する十界互具・一念三千は不完全なものである」と云うことですから、方便品の諸法実相は未完成の実相観と云うことでしょうか。

常不軽菩薩品は会通が難しい問題ですね。
私はあまり難しく考えないで、久成仏が威音王仏として現れ、その像末に、今度は常不軽菩薩の姿をとって衆生を教導したものと、設定されているのであろうと、考えています。

勝呂信静師は大東出版社刊「法華経の成立と思想」において
「釈尊の本生としての菩薩時代を説明する必要が生じたのであろうということは、一応考えられることである。しかし威音王仏の世というように時代が規定されているから、この点は久遠実成の思想と調和せず、矛盾するということになろう。・・・方便品において退席した増上慢の四衆にたいする授記成仏はどのようになっているのかということが古来から問題とされているが、不軽菩薩品はその解答に当たるものであるまいか。もちろん増上慢の人物も異なれば時代や情況の設定も相違する。しかし、法華経作者にとって、こうした整合性は敢えて考慮に価しないことであったのあるまいか。要するに諸品の経説の積み重ねによって、全体として統一的な思想を表現するというのが法華経の立場であると考えられるのである」(321頁)
と仏教学の立場から言及しています。宗学的見方と観点が異なりますがご参考までに紹介しました。

あとの話題は、これまた難しい問題ですね。間を見て書きなるべく早くコメントします。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板