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日蓮聖人の本尊観

45川蝉:2002/08/01(木) 13:40
(続きです)
>教法が法で法仏不二というのは、意味がわかりません。

上記の説明を良く読んで下さい。
> 題目は、単なる“理法”でも無く、久遠本仏の“覚法”・本門の肝心・神力別付の“要法”

>つまり理法に対するのが覚法・要法だということでしょうか。
>そもそも、この理法というのは、何を根拠にした成句なのでしょ
>うか。もちろん、聖人の真跡には見られません。

「理法に対するのが覚法・要法だという」ことでは有りません。
理法(真如・実相)を証悟したのが覚法(妙智・仏智)で、衆生をして仏の証悟を覚らしめんとして、説かれたのが教法、また、五字の要法と云う関係です。

理法とは理・法性・真如・実相等を指して使って使用しました。
聖人の真跡には見られなくても使って悪いことはないと思いますが。

>、法には理と教があるということなのでしょうか。これはまた何
>を根拠にするものでしょうか。
>法に対するのが仏というのは判りますが、その法に理と教を立て
>る根拠を知りません。
>理に対するのであれば「事」でしょうし、教法とはそもそも、教
>と法のことではないのでしょうか。

犀角独歩さんは「教法は教えと法のこと」と理解しているようですが、わたしは、教法とは「教え」「経説・経法(経典)」と云う概念で使用しています。この使い方いけないですか。

「法華玄義・巻第七下」
にある「理教本迹」を御存知でなかったですか。所謂、六重本迹の説明がありますね。
そこに「理教に本迹を明かさば」とあります。「理教」と云う言葉はあるのです。
玄義の文はすこし難しいので、「法華文句・巻第三下」の説明を挙げておきます。
「理教とは、前の理事を総じて皆名づけて理となす。・・諸仏は之を体して、聖と成ることを得たまえり。聖とは正実なり。己が法を以て、下衆生に被らしめんと欲して、理に因りて教を設く。・・教に非ざれば以て理を顕すこと無く、理を顕すは教に由る」
と理と教の関係を述べています。

是が念頭にあって書いたものです。ですからこれが根拠ですね。

>この妙法蓮華経の実相というのはいったい何なのでしょうか。

私は仏に成っていないので、説明は出来ません。
いわば、仏が覚った実相は妙法蓮華経と表せるものと考えて、私が「妙法蓮華経の実相」と書いたと理解して下さい。

「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵。文に云はく、是の法は示すべからず、世間の相常住なり。三世の如来の証得したまう所なり」
(法華玄義・譚玄本序)
や、
「仏の所見を取りて実相の正体となす。」(玄義巻第一上)
等の文が念頭に有ったわけです。(続く)


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