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「死」「死後」「魂」について

1問答迷人:2003/09/26(金) 22:48

新しいスレッドの提案がありましたので、立ち上げます。提案趣旨は以下の通りです。

11 名前: モトミナ 投稿日: 2003/09/25(木) 08:43

最近知人とのやりとりの中で、「死」「死後」「魂」に対してどう捉えるべきか討論しました。それまでの仏法義を踏まえた考え方、全く無視した考え方、科学的検知・・・さまざまあるとは思うのですが、こういったテーマの議論をしてみたい、と思ったのですが、いかがでしょうか?

12 名前: アネモネ 投稿日: 2003/09/25(木) 11:47

モトミナさん
お久ぶりです。
実は、私が法華講に入る一番のキッカケは、人の生死の問題との直面だったんですね。ですからとても重要な興味深いテーマだと思います。宗教にとって決して切り離すことのできない永遠の問題ですね。ぜひ参加を希望いたします。

13 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/09/25(木) 16:11

モトミナさん
アネモネさん
ご無沙汰しています。

最近、睡眠時無呼吸症候群というのが、バス事故をきっかけに知られるようになりました。連れ合いに言わせると「あなたも夜寝ている時、呼吸が20秒ぐらい止まるのが繰り返しているよ」と。そういえば、夜中に急に目がさめて、胸が苦しく、無性に不安感を覚えることが時々あります。恐らく、そのとき、無呼吸になっているのだろうと思います。この時の、「このまま死んでしまうかもしれない」、という感情は、寂寥とした寂しさと、言い知れぬ恐怖心を帯びています。両親はずっと以前に亡くしています。親に先立たれて、もう親と話をすることが叶わなくなった現実は折込済みです。しかし、自分が死ぬのは、まだ未経験ゾーンです。死という得体の知れない、未経験ゾーンに直面したとき、「死がすべての終わりであり、死後の世界もなく、なにも残らない」というのは、やはり受け入れがたいものがあります。「死後の世界があってほしい」という願望が、宗教の起源であるように思います。釈尊は死の問題に対して「無記」、述べなかったといいます。本当に釈尊は死について何も述べなかったのか、知りたいところです。死、および死後の世界についての議論、是非参加させてください。

14 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/09/26(金) 11:29

モトミナさん:
アネモネさん:
問答名人さん:

死の問題はわたし自身、宗教にのめり込んだ要因の一つです。是非参加させてください。

2モトミナ:2003/09/27(土) 16:00
最近の宗教者の多くは科学的権威を提示して、死後の世界の存在を主張しているようです。
最も有名なのはカナダの神経外科学者ペンフィールド氏(1891-1976)の主張した「脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だ」という発言を引用するものです。
彼の言葉をそのまま引用すれば
「わたし自身は、心を脳の働きのみに基づいて説明しようと長年にわたって努めた後で、人間は二つの基本的な要素からなるという説明を受け入れる方が、素直ではるかに理解しやすいと考えるに至った。
この場合、心の働きに必要なエネルギーは、私たちが目覚めている間に最高位の脳機構を通じて心に供給されると考えることができる。
脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える。
また、私たちの心は、一生を通じて連続した一つの要素であるかのように発達し、成熟する。
さらにコンピューター(脳もその一種である)というものは、独自の理解力を有する外部の何者かによってプログラムを与えられ、操作されなければならない。
以上の理由から、私は、人間は二つの基本要素から成るという説を選択せざるを得ないのである。
これが、多くの確固とした科学者の求めている、最終的な解明へ至る見込の最も大きい道だと私は考える。」
(ベンフィールド/塚田裕三・山河宏訳『脳と心の正体』法政大学出版局)
というわけです。
彼は生涯 脳の研究を続けてきた権威であり、様々な研究成果を残しています。
確かにそう考えることもできるのでしょうが、彼の言葉を都合よく宗教者が用いて自宗派の正当性を語っている点には首を傾げる部分も多くあります。
輪廻などよく語られることでもありますが、私自身は心が存在していても、死ぬことによって脳が機能しなくなった以上、そこに心の存在を確認できたとしても心が感じたことを思考できないのではないだろうかと考えます。
つまり、肉体と思考できる回路(脳等)が伴っていなければ苦楽の判断はできないものではないかと思うわけです。
心というものは死後にも存在できえるのか、心のみで思考できるのだろうか、様々な疑問が湧いてくるものです。

3問答迷人:2003/09/29(月) 00:05

デカルトの樹立した「我思う故に我有り」という原点は、近代以降の文明の原点ともなったとされています。思考する主体としての「心の存在」を動かしがたい原点としたものでした。

ではその動かしがたい原点としての我は、肉体に依存するものなのであろうか、どうか。

僕は、やはり、この「我」は「個」であり、時間空間の中に存在しながら、時間空間に制約されない独自の存在であるように感じてしまいます。バラモン教が言うがごとき、アートマンのように感じています。それは錯覚なのかもしれませんが、そのように感じる現実があることは事実です。

4モトミナ:2003/09/30(火) 09:02
私が参加していたグループでよく多用していた言葉に”命に刻み込み”などというものがあります。
また過去世からの宿命を引き継いでいるとして”元々命に刻み込まれている”などと言ったりもします。
果たして”命に刻む”という事は可能なのでしょうか?
過去世から命を継続している証拠として、何ら生後に影響を及ぼしていない行為に対して異常に驚異を抱いたりするとかいいます。
例えば高所恐怖性など、生後の行動からでは説明できない恐怖心が出てくることもあります。
そう考えるとなるほど命を継続しているのかもしれないと考えられますが、”命を継続している”ことと”命を継続しながら意識も継続している”というものとは違うと思うわけです。
前世の記憶は前世の脳に刻まれたものであって、今生の脳にはそういった記憶は一切ないわけですから、前世の事を思い出すという行為はできないのではないだろうかと思います。
もし前世の記憶であっても特に強烈な記憶であれば”命”に刻まれるというのであれば、その命のどの部分に記憶されていくのだろうかと疑問に思うわけです。
実態は無い「空」のものに記憶をさせるという事はできないのではないでしょうか。
もし「空」の状態のものに記憶を留めさせる事が可能であるならば、現在の私達は膨大な記憶量の過去世の記憶を所持していることと思われます。
そんなことが果たして可能なのでしょうか。
よく奇跡の話など紹介されます。
幼女が遠く離れた国のある町の両親の子であると自覚し、実際にその国の親元に行くと両親や兄弟の名前をはっきりと述べ、自分が死んだ理由など身内しか知らない事をすらすら言った、なんて事例もありました。
しかしこれが事実であったとしても短絡的に過去世から持ち込んだ記憶であり、本人である、と断定すべきではないと思います。
いかがなものでしょうか。

5アネモネ:2003/10/01(水) 01:23
小学校の低学年頃だったと思うのですが、ホームルームか道徳の時間で担任の先生が
「心はどこにありますか?手で自分の心のある場所を示してみてください」
そんなことを話されたことがありました。なんだかみんな戸惑いながら、なんとなく胸に手を当てていましたね。ところがその先生は、
「じゃあ、そこを切り開くと、心が見えるのかな?」
そんな質問をされて、みんな頭をかしげながら、胸を押さえたその手の力が抜たものでした。
そして私は、思春期の頃日記や友人への手紙のなかでよく書いていたことに、頭で考えることと、心で思うことと、身体で感じることが、バラバラのときがある。大人になった今も、ふとそんな感覚を覚えるときもあります。頭ではわかっていても、心は違うことを感じているとか、身体がいやがっているといったような表現も、普通によく使われている言葉です。
しかし、頭と身体の部位というのは、はっきりしているわけですが、しかし頭は身体の一部であって、ところが身体の司令塔という別個の存在でもあるわけですね。いずれにしても、その神経系統というものを通して、それぞれの連結ができているということは、つながってはいても別のものという見方もできるだろうなと思います。
ところが、心の存在となると、実はいまだに私は、その部位とか存在ははっきりしているのでしょうか。心で感じていることは、身体なのか頭なのか、わかりません。さらに魂という言葉もあるわけで、心は魂なのかな?という疑問も沸きます。
私も少しばかり学んだ心理学ですが、確かに心を脳との関係で説明された確立された学問といえるでしょうか。となると、心は脳ということになるのでしょうか。それがペンフィールド氏の文章の中にある
>心を脳の働きのみに基づいて説明しようと長年にわたって努めた後で
ということでもあるのでしょう。

法華講に入ったときには、心や魂のことを「永遠の生命」という言葉に置き換えられるとして、なんとなくわかった気になっていたわけですが、しかし本当に置き換えらることなのかどうか、今はかえってわからなくなりました。
私もよく、心を砕く、心ない言動、心を大切に…と当たり前のように心にこだわってきているわけですが、実はその心が何であるのかというものについては、その実態はよくわかっていません。
そしてこの度、モトミナさんが引用してくださった、経外科学者ペンフィールド氏の続きの言葉の中で、

>心の働きに必要なエネルギーは、私たちが目覚めている間に最高位の脳機構を通じて心に供給されると考えることができる。
脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える。
また、私たちの心は、一生を通じて連続した一つの要素であるかのように発達し、成熟する。

を読むと、心にはエネルギーが必要ということ、そして心は要素であるということが書かれています。この文章からは、心の存在や実態が何であるかがはっきりしているように読める文章ですね。
しかし、その実態は何なんでしょう。

問答さんが示して下さった、デカルトの有名な言葉、「我思う故に我有り」の「我」とは、つまり自我のことと言っていいと思われますが、その自我が芽生えるのは幼児期だと考えられています。脳の発達と非常に密接であるわけで、その頃から人格というものも形成されていくものといえます。しかし、その発達を待つ幼児期までの赤ちゃんには自我がまったくないのか、それとも自我となる「我」というもがあるといえるのか、そこのことになると、科学的な証明はどこまで進んでいるものなのでしょう。

6アネモネ:2003/10/01(水) 01:25
私は、自分の臨終のことを考えるとき、家族や友人などの近親者に対する別れの寂しさもさることながら、何か自分自身に対しての別れの寂しさを想像します。この世の私との別れとでもいえばいいでしょうか。
とすると、その私自身との別れを感じているものは何なんだろうという話にもなります。
ただそれが、心で感じていることなのか、それとも頭で思考していることなのか、そのあたりのことが自分でもよくわかりません。
仏教でいわれる「無作」が、心のことについて状態とかあり方のことだろなとは捉えて思っています。これは脳の思考と、身体のはたらきと密接なものなのでしょうか。
こういった疑問は、それこそ宇宙の果てを想像するように限りなく広がっていきます。
やはり、心とか魂とか、来世とか永遠の命といった考え方に親しんできた名残りなのかもしれません。

>”命に刻み込み”

法華講では、よく「そういう命をもっている」とか、「命が出る」といった言いまわしたがありました。

>もし前世の記憶であっても特に強烈な記憶であれば”命”に刻まれるというのであれば、その命のどの部分に記憶されていくのだろうかと疑問に思うわけです。

さらりと聞き流せば、なんだかそれでわかったような気になる言い回しですが、よくよく考えてみると、疑問だらけですね。
心とか魂とか命とか、そうそうわからなことをわかった気になってしまうということ、宗教組織にとって非常に都合よいといえますね。

問答さんに質問してみたいのですが、

>時間空間に制約されない独自の存在であるように感じてしまいます。バラモン教が言うがごとき、アートマンのように感じています。それは錯覚なのかもしれませんが、そのように感じる現実があることは事実です。

自分の実感として感じるということは、また思考とは別なことなのでしょうか。感じている部位は、心なのか魂なのか脳なのか身体なのか命なのか、そのあたりのことは、ご自分の中でははっきりしているものでしょうか。

7問答迷人:2003/10/01(水) 17:49

アネモネさん

>自分の実感として感じるということは、また思考とは別なことなのでしょうか。

考えてそう思うのではなく、ただ、感覚として、そう感じている、という意味です。

>感じている部位は、心なのか魂なのか脳なのか身体なのか命なのか

部位ははっきりしています。頭であり、額であり、眉間ですね

8アネモネ:2003/10/01(水) 19:58
問答迷人さん

ありがとうございます。

9犀角独歩:2003/10/03(金) 07:12

皆さんが思うところから雑談的にスレッドが始まっており、興味深い、というより、楽しく拝読させていただいておりますここで扱おうとしている問題を皆さんの書き込みから推すると以下のような点に、願望というか、可能性を考えておられるということになるのでしょうか。

(1)死後の継続はあるのか (2)あるとすれば、ウパニッシャド哲学でいうようなアートマン(我)という永遠の実態があるからではないのか (3)継続を前提にした場合、過去の記憶はどこに刻まれているのか (4)命、心とはなんであるのか

(1)は、むずかしい、というか、いわば無記に属する問題となるのでしょうが、伝わり、想像される限り、シャキャムニはサンサーラ(輪廻)説を何等批判していなかったようであり、かつ、上述の如く、何も説かなかったようです。わたしはこの問題についてはまったくわからない、と答えるしかないのですが、皆さんの投稿を拝見しながら、頭から“可能性”を否定するのではなく、参加させていただこうと思います。

(2)アートマン、魂、あるいは生命などは、いわば近親概念なのであろうと思います、それぞれを信じる人にとって、それを十把一絡げに論じられるのは嫌がるでしょうが。
近代までは唯心論/唯物論という二極分化で議論されたところでしょう。
ただし、仏教における縁起説はこのような肉体と別のなにかを想定したものではなく、この点がモトミナさんが挙げられた「命に刻む」と関わってくると思われます。

(3)前項に関連することになりますが、この「過去の記憶がどこに所蔵されるのか」というテーマは輪廻を前提にする西洋神秘主義などでもいわれるところですね。
近代、コンピュータが発達しましたから、過去の記憶を情報、あるいはデータの如くに見做すように傾いた点をまず指摘できます。しかし、元来、記憶を何らかの装置(肉体、脳を含む)に蓄積されるという考えは仏教圏にはなかったでしょう。
その端的な例が先に挙げた縁起説です。因縁/果報という、いわば因果論は、過去の行いが未来の結果を生じさせるというものですね。では、この過去の行いはどこかに記録(蓄積)されているのでしょうか。また、その蓄積する場所について、論じられてきたのでしょうか。そうではなくて、「法(ダルマ)」ということで処理されてきたのが仏教圏の考えですね。これは過去の記憶についても、同様に考えてきたのが仏教であったのではないかと思います。ここで問題視されてきたのが「心」であったのではないかと想像します。

(4)いちおう、当板は仏教を前提にするので、その立場からやや考えます。
少し、用語を整理させてください。
まず「命」ですが、これは仏教語として使用される場合、元来は「生きている時間、期間」を意味するものです。これが近代、生命論の「命」で生命として扱われるようになった結果、この誤用から命(生命)に刻まれるものと考えられるようになったのは、縁起そして、記憶となっていったのではないでしょうか。

10犀角独歩:2003/10/03(金) 07:13

―9からつづく―

しかし、ここでも縁起・記憶は、それを記録する(脳に代表される)ハードウエアに蓄積されると考えられているわけではないと思います。因縁/果報という因果論、いわば法(ダルマ)概念の範疇にあるのではないでしょうか。この点は記憶でも例外ではないと思えます。記憶されていることは、この法(ダルマ)概念に乗せて考えるのが仏教であり、ここでは特に記録としての装置は考えられない、それは法則がどこかに記録されているわけでもないのに発動される如くです。

あと「心」ということですが、この意味するところは洋の東西を問わず、間違いなく臓器としての「心臓」でしょう。その心臓の働きに喜怒哀楽といった感情機能が備わるというのが大脳生理学発達以前の“常識”であったのでしょう。

では思念・思考はどこが司っていると考えられていたか、この点について、わたしはあまり資料を持ち合わせていませんが、「頭で考えている」ことを経験的に古代人も知っていたかも知れません。たとえば、インカでは頭蓋骨を切り取り、脳の外科手術を行ったことが知られています。しかし、反面、エジプトのミイラ作りでは脳はまったく重視されず、鼻腔からかき出されて処理されていたといいます。ただいずれにしても、脳が記憶装置としての役割を持っていたと気付かれたのは、まったく近代のことに属するのではないでしょうか。

以上はしかし、仏教概念を資料から見たもので、実際はモトミナさんが記されるように何らかの記憶される“場”があるのかもしれません。…死後があるという前提で言えばということですが。
モトミナさんは「空」に寄せて考えられていますが、このような考え方は、どちらかというと西洋神秘主義的な考え方に近いように思えます。そもそも空は有無ではないので、そこに何かが入ると考えることはできないと思えます。ただし、虚空蔵と成句するように、空ではなく、虚空を記憶の装置に充てる考えはあったように思えます。

参)以下、信憑性、実否とはまったく別の提示です。念のため。
  http://www1.neweb.ne.jp/wa/rabi/spir/sinchi.html#sin2

11犀角独歩:2003/10/03(金) 07:17

そうそう、記し忘れました。

前世の記憶に関しては、再生(いまでいう生まれ変わり)の可能性も含めて、以下の本を夢中になって読んだことがありました。

□前世を記憶する子どもたち
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4531080610/ref%3Dpd%5Fsim%5Fdp%5F1/250-1696925-4946664


ネットを当たったら、以下のような本もありました。こちらは読んでいません。

□子どもはみな前世を語る
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4569620841/glance/250-1696925-4946664

12犀角独歩:2003/10/03(金) 14:46

『前世を記憶する子どもたち』(日本教文社)
イアン・スティーヴンソン著
笠原敏雄訳
ISBN4-531-08061-0 C0011 P2900E

−目次−
第1章 序論
第2章 生まれ変わり信仰
第3章 生まれ変わりを裏付ける証拠の種々相
第4章 前世を記憶する子どもたちの12の典型例
第5章 生まれ変わり型事例の典型例の特徴
第6章 研究の方法
第7章 事例の分析と解釈
第8章 様々な文化圏に見られる変異
第9章 生まれ変わりという考え方によってどのような現象が説明できるか
第10章 前世を記憶する子供にまつわる他の問題
第11章 生まれ変わりに関係する可能性のあるプロセスの考察

付録、原註、参考文献、解説、訳者後記、索引

−著者紹介−
イアン・スティーヴンソン Ian Stevenson
1918年モントリオール生まれ、1943年マギル大学医学部卒業後、
コーネル医科大学にて身心医学、ワシントン精神分析研究所等で
精神分析の研鑽をそれぞれ積み、1949年より
ルイジアナ州立大学医学部助教授、
1957年よりヴァージニア大学医学部精神科主任教授となる。
1967年より死後生存を中心とする心霊研究の調査を
専門として現在に至る。1968年同大学医学部に
超心理研究室(1968年に人格研究室と改称)を設立し、
1968年および1980年に超心理学会会長を務める。
邦訳されている著書に『虫の知らせの科学』(叢文社、1981)他がある。
連絡先:Dr.Ian Stevenson, Division of Personality Studies, Box 152, Medical Center, University of Virginia, Charlottesville, VA 22908 U.S.A.


※わたしはこの本を全面的に支持するわけではありません。
 ただし、この話題を論じるのであれば、触れるべき本であると思いますので紹介しました。

13モトミナ:2003/10/08(水) 12:00
例えば独歩さんが提示されている”前世を記憶する子供たち”が存在する場合、継続的な生命という概念から考えると、更により過去の生命を知っている可能性も考えられるわけですね。
とすると、何らかの記憶装置(命・魂)にインプットされている過去はとてつもなく膨大な量になる、とは考えられないでしょうか?
仏法的考え方をすれば、遙か昔より現在までの間どれだけの存在形態を変化させてきたのかと考えると、記憶装置(命・魂)にはとてつもない過去の記憶を有していることになりますよね?
蓄積し続ける記憶装置、そんな事が果たしてできるのだろうか、と思いました。
文献に関してはまだ拝見させて頂いていないので、タイトルのみに対して考えを示させていただきました。

14犀角独歩:2003/10/08(水) 14:13

モトミナさんがお考えになっているような点は、実は西洋神秘主義、あるいは神智学の重要なテーマでしたね。いわゆる「アカシックレコード」と言われるものです。

まだ宇宙ロケットが飛ばなかったころ、宇宙の星間は「エーテル」と言われるもので満たされており、これが膨大な記憶を司っていたなどという考えもありました。しかし、科学が星間の真空を証明したとき、アカシックレコードその他の考えは高次元説、異次元説などに傾いていったのではないかと想像しています。

仏教圏では、これらの記憶は「識」に寄せて考えられてきたのではないでしょうか。しかし、この場合、データが記憶装置で蓄積されるという考えには基づかなかったでしょう。「データは記憶装置で蓄積されるもの」がモトミナさんの中で固定観念化しているようにわたしには見えます。このような考えはコンピュータ発達以前はそもそもなかったのではないでしょうか。


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