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妙法蓮華経という言葉の由来

1問答迷人:2003/05/31(土) 11:42

このスレッドを立てる所以は以下の通りです。

2 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/25(日) 17:58
日蓮聖人の教えと言えば、先ず、誰もが思い浮かべるのが、南無妙法蓮華経のお題目の声でしょう。最初のスレッドは、『お題目を唱える』という事をテーマにしては如何でしょうか。

5 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/05/31(土) 05:19
そうですね。既に富士門教義の虚構性については、過去2年間の議論で闡明になったことは多くありました。ですから、これらの点を今さら繰り返す必要はないと考えます。こちらでわたしがテーマにしたいとすれば、さらに本質的な部分です。そして、日蓮信仰者としての“蓋”を外した議論です。日蓮信仰者としての蓋…、これは要するに、信仰者として禁忌規定を廃して語ろうと言うことです。たとえば、日蓮本仏論者であれば、日蓮を人間として語ることがタブーになっていました。戒壇本尊論者であれば、板漫荼羅偽作を語ることがタブーでした。この点については、富士門流信徒の掲示板で乗り越えてきました。しかし、依然として議論に蓋がありました。日蓮信仰者は「南無妙法蓮華経」という題目を唱えるわけです。日蓮漫荼羅の中央に大書もされています。この場合、言語としての妙法蓮華経を否定してしまうと、もはや信・行が成り立たなくなります。こんなことが、いまわたしが言う“蓋”です。羅什の訳による「妙法」、果たしてこれが正統なものであるのかという点は議論されるべきです。それも、自己信仰肯定という低俗な前提(蓋)を捨ててです。もしこの議論の結果、「妙法」語は不適切という結論が出た場合はどうでしょうか。日蓮信仰者の根幹を覆す選択を迫られることになります。しかし、敢えてそのような勇気ある議論をしようと言うことです。サダルマ・ブンダリーカ・スートラという法華経原典、これをシャキャムニが説いたわけはありません。この事実を、日蓮信仰者と雖も、少しずつ受け入れつつあります。しかしここでは、過去の信仰・教学との整合性をどう採るかという、実に狡猾な議論が横行します。たとえば蓮師が言う法華経は久遠の妙法であって、歴史上既述された経典ではないなどという類の話です。仮に蓮師がいう妙法華経がそうであったとしても、では、シャキャムニは久遠の妙法などということを説いたのかといえば、そんなもの、説くはずはなかったでしょう。しかし、ここを言ってしまうと、日蓮信仰の教学体系は瓦解してしまいます。日蓮は久遠即末法の釈尊とは別の仏だから、何を言っても好い。そう言った人もいます。これまた、自己信仰の言い訳に満ちた採るに足りない肯定論に過ぎません。日蓮教学で引き合いに出される天台・妙楽教説、この無謬性を前提にした議論もナンセンスです。その無謬性を基礎にした日蓮宗各派の僧学は、石山教学同様、さらにナンセンスです。まず、これら蓋の撤廃を考えてみてはどうでしょうか。問答名人さん、「ここを否定されては信仰が成り立たなくなる」という“蓋”には、どのようなものがあるとお考えですか。

4 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/05/31(土) 10:49
結局、「妙法蓮華経の五字」として、特に日蓮門下において崇められてきた「妙法蓮華経」という言葉の由来を尋ねることから議論を始める事が先ず必要だと言うことになりますね。「妙法蓮華経という言葉の由来」というスレッドを立てましょうか?

5 名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/05/31(土) 11:05
ええ、よろしいかと。言葉の由来から、限界まで。さらに適不適まで、考えてみるのも面白いですね。坊さんや信者のご都合は、この際、関係ありません。遠慮会釈なくいきたいと思います。

2問答迷人:2003/05/31(土) 11:51

それでは、常識的な所を再確認することから始めたいと思います。

「妙法蓮華経という言葉」は羅什によって漢訳された大乗仏典、妙法蓮華経二十八品の経題として、この世に出現したのが始まりですね。何時のことだったのでしょうか、また、この仏典の元題はどうなっていたのでしょうか。さらに、それを現代語に直訳するとどうなるのでしょうか。

3犀角独歩:2003/06/03(火) 06:20
ここら辺の文献学的な考証は、世の学者諸氏がなさっていることで、ある程度の信頼性を持っていることでしょう。実際のところ、わたしは研究者でありませんので、科学的考証に基づく、現在進行形の経過を概観するばかりです。
一例を挙げれば、岩波文庫版法華経では、以下のようになっています。

一、原始法華の成立は西暦前1世紀
二、第二期の法華の成立は西北インドに於いて西暦後1世紀
三、第三期の成立は西北インドに於いて世紀100年前後
四、第四期の成立は世紀150年前後
(『法華経・上』岩波文庫 P430 岩本裕)

訳出に関しては

『正法華経』10巻 竺法護訳(西晋景帝の太庚7年 A.D.286
『妙法蓮華経』7巻 鳩摩羅什訳(姚秦文桓帝弘始8年 A.D.406
『添品妙法蓮華経』7巻 闍那崛多等訳(随文帝の仁寿元年 A.D.601)

妙法華の訳出は梵本法華経成立から300年後の5世紀、さらに付加すると天台が、これを基に『摩訶止観』を講じ、章安が編したとされるのは開皇14年(594年)で、約200年後。

時系列は以上のようです。

わたしがここのスレッドで問題にしたいのは、妙法蓮華経の「妙」ということです。
何故、「妙」なのでしょうか。蓮師は法華複訳を知っていたわけです。その中で、台説の出身だから、妙法華を選択したのでしょうか。

サ−正−妙
ダルマ−法

の関係です。「正しいが妙だ」というおかしな日本語になりますが、実際に訳を比較するとこうなります。実に妙です。

「妙」、女が少ないと書くこの字、なぜこの訳字でなければならないのでしょうか。
わたしは羅什の真意を推し量りかねます。もちろん、1400年前の羅什の真意が推し量れないのは当然ですが。

南無妙法蓮華経というとき、それは訳語的には南無正法蓮華経と言い換えは可能でしょうか。しかし、唱題に慣れた人間にとって、これはやや苦痛となります。妙法でなければならないと考える人が大半でしょう。それは妙法華の“お題目”に慣れているからが第一の理由に違いありませんが、妙法という羅什の訳を無批判に依用しているからにほかなりません。

妙という訳自体、原本とはまったく違う概念を提供しています。極端な言い方をすれば、サダルマ・プンダリーカ・スートラはサダルマ(正法)であるのに対し、妙法蓮華経は妙法という違う概念規定によって成り立っている。けれど、それに気付かない内はサダルマ・プンダリーカ・スートラまでも妙法であると無批判に理解している自分がある…。少なくてもわたしはそうでした。

サダルマ・プンダリーカ・スートラ、「白蓮の(如き)正しい法の教え」ほどの意味を、なぜか岩本裕師は現代語で「正しい教えの白蓮」としました。岩本師のこの現代訳が適宜かどうか、これもまた議論は分かれるとは思います。しかし、いまはその点は問題にしませんが、ともかく、現代語訳に“お題目”を置き換えることはできます。

「白蓮の如き正しい法の教えに命を捧げます」
「正しい教えの白蓮に命を捧げます」

こんな感じでしょうか。訳の適宜を問題にしているわけではありませんので、そこに目を囚われないでください。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」、こう唱題をするところを「南無正法蓮華経、南無正法蓮華経…」とするのは違和感がありますが、さらに現代語で「「白蓮の如き正しい法の教えに命を捧げます、「白蓮の如き正しい法の教えに命を捧げます…」と繰り返し、述べても、“お題目”という行にはならないと感じるわけです。

さらに言えば、日蓮漫荼羅の中央を「南無正法蓮華経」としたら、もはや日蓮漫荼羅ではなくなります。それ以上に「「白蓮の如き正しい法の教えに命を捧げます」と記したら、ポスターのようで、もはや漫荼羅とすら人は感じないことになります。結局のところ、どうしても妙法蓮華経という羅什の概念規定が支配しているわけです。しかし、これは原本法華経を創作した人々とは無縁のことであり、忠実に訳そうとした竺法護の誠意とも無縁です。つまり、羅什一人の「妙法」という意訳に1600年以上も人々は支配されてきたこと物語っています。

そして、「南無妙法蓮華経」という漢訳語でないと、しっくりしないという実にがちがちの概念規定に囚われているわけでもあります。

日蓮信者の信・行には以上のような側面がある、この点をまず提出しておきたいと思います。

4犀角独歩:2003/06/03(火) 12:37

相変わらず、打ち間違えています、失礼。

誤)羅什一人の「妙法」という意訳に1600年以上も人々は支配されてきた
正)羅什一人の「妙法」という意訳に1400年以上も人々は支配されてきた

5問答迷人:2003/06/03(火) 15:00

>羅什一人の「妙法」という意訳に1400年以上も人々は支配されてきた

Saddharma-pundarika-sutra(サダルマ・プンダリーカ・スートラ)は、直訳としては、むしろ「正法蓮華経」と訳されるべきである、と言うことですね。それでは、なぜ、羅什は、妙法蓮華経と意訳したのでしょうか。また、日蓮聖人は、この翻訳に関連して、次のように述べられていますが、この点は如何お考えでしょうか。

「此の文に「欲聞具足道」と申すは、大経に云はく「薩とは具足の義に名づく」等云云。無依無得大乗四論玄義記に云はく「沙(さ)とは訳して六と云ふ。胡法(こほう)には六を以て具足の義と為すなり」等云云。吉蔵の疏に云はく「沙(さ)とは翻(ほん)じて具足と為す」等云云。天台の玄義の八に云はく「薩とは梵語(ぼんご)此(ここ)に妙と翻ずなり」等云云。付法蔵の第十三、真言・華厳・諸宗の元祖、本地は法雲自在王如来、迹に竜猛(りゅうみょう)菩薩、初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云はく「薩とは六なり」等云云。妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬(さつだるまぶんだりきゃそたらん)と申す。ー中略ー 薩哩達磨(さつりだるま)と申すは正法なり。薩と申すは正なり。正は妙なり。妙は正なり。正法華、妙法華是なり。又妙法蓮華経の上に、南無の二字ををけり。南無妙法蓮華経これなり。」開目抄上(大石寺平成新編御書547〜548頁)

6犀角独歩:2003/06/03(火) 17:45

著名な蓮師の文章ですね。
「薩」とは六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を具足する意味であり、正であり、妙であるというわけですね。しかし、こうなると六度を奨励したのが法華経と読めますね。「妙は正なり」は、訳該当分で配当すれば違いありません。しかし、「正は妙なり」という羅什の意訳の意図を、こうも簡単に片づけられては困ります。

しかしながら、こんな教学的、あるいは学問的に云々することは、寧ろ富士門流信徒掲示板のテーマでしょう。教学における解釈やこじつけをここで俯瞰する時間は無駄は避けたいと思います。また、学問的な側面もそうです。学問は事実証拠(=真実)の積み重ねによって、学説を提示する方法論ですから、参考にはなります。しかし、その分、客観的であるわけです。しかも、出ている学説論文は、時々の過程であり、仮定に過ぎません。まあ、これは時々に参考にすればよろしいでしょう。

わたしがここで問題にしたいのは「語る側の責任」という一面からです。
日蓮系、その中でも取り分け大石寺系というのはもっとも勧誘…折伏ではないと考えます…を盛んにする集団と人々です。

その人たちが個人的信念をどのように懐くかは、それは信教の自由に基づくところでしょう。まさに「鰯の頭も信心」、各人で何を信じようが勝手です。人権で擁護されるべき点でもあります。しかし、その信念体系を人に語るとき、対外的責任が発生します。不信の自由…、内心の自由と言っても好いですが、ここにも人権があります。わたしは、ここで「妙」の意味を問うているのです。語る側が「妙」の意味を説明する責任があるという意味です。

既にここまで書けば、当スレッドの『妙法蓮華経という言葉の由来』という立題から離れしまうきらいもありますが、敢えて、この形で進めたいと思います。如何でしょうか。

7問答迷人:2003/06/04(水) 08:09

>何故、「妙」なのでしょうか。蓮師は法華複訳を知っていたわけです。その中で、台説の出身だから、妙法華を選択したのでしょうか。

「妙」という翻訳の適否については、日蓮聖人は、他に、特に突っ込んで述べられているところが見当たりません。一生成仏抄では、「妙」との翻訳が適切であると考えられていた事が窺えます。

「抑(そもそも)妙とは何と云ふ心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を妙とは云ふなり。不思議とは心も及ばず語も及ばずと云ふ事なり。然ればすなはち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色(いろ)も質(かたち)もなし。又無しと云はんとすれば様々に心起こる。有(う)と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に遍(へん)して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり。此の妙なる心を名づけて法とも云ふなり。此の法門の不思議をあらはすに、譬へを事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり。然ればすなはち、善悪に付いて起こり起こる処の念心の当体を指して、是(これ)妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とは云ふなり。此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑ひあるべからず。故に経文には「我が滅度の後に於て応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」とのべ給へり。努々(ゆめゆめ)不審(ふしん)をなすべからず。穴賢穴賢。一生成仏の信心。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」

やはり、理由は定かでは有りませんが、「妙法蓮華経」という羅什の翻訳が仏の意を正しく伝えていると考えられていたと思われます。他に明確な理由が述べられていない以上、「台説の出身だから、妙法華を選択した」と言うのが真相で有るように思われます。

8犀角独歩:2003/06/04(水) 22:25

真跡無き書ですね。真偽論を喧しく言われる書ではないかも知れませんが、わたしは、やはり慎重です。それはともかくして、この『一生成仏抄』の既述は、法華原本からすれば、かなり飛躍が窺えます。

先の『開目抄』では「妙は正」はこう記しています。となれば、ご引用の『一生成仏抄』の妙の該当部分は、以下のように書き換えられることになるでしょうか。

― 抑正とは何と云ふ心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を正とは云ふなり。不思議とは心も及ばず語も及ばずと云ふ事なり。然ればすなはち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色も質もなし。又無しと云はんとすれば様々に心起こる。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に遍して、中道一実の正体にして不思議なるを正とは名づくるなり。此の正なる心を名づけて法とも云ふなり ―

読めないことはありませんが、しかし、かなりちぐはぐな文章になってしまいます。このちぐはぐさが「正」と「妙」のギャップと言うことでしょうか。

妙は独自の世界観を持っています。妙と翻訳されたあと、この意訳は、まず200年後の天台によってさらにドグマ化されていきます。このドグマ化は、もちろん羅什の「妙」という意訳を基礎にすることは言うまでもありません。

わたしは“正”を「せい」と読むとき、“清”の字を思い浮かべます。この訓読が直接的な関連があるかどうか調べたわけではありませんが、正しいという言葉には混じりけのない澄んだ清さを連想させるところはあります。

ところが“妙”の字は、少し違っておりませんでしょうか。『法華玄義』でも

― 所言妙者。妙名不可思議也。 ―

といい、妙を不可思議としています。この形容は至極もっともであり、「妙(たえ)なる」と訓読にしても、不可思議な、現代的な形容を以てすれば「神秘的な」雰囲気を醸し出しています。

しかし、法華原本の意図する“正”には、このようなイメージはないと、わたしには思えるわけです。

つまり、羅什が翻訳したときから、法華経は「正しい」というイメージに不可思議、神秘という要素が付加され、今日に至っているという側面が観察されます。

これを達意として肯定的にとらえるか、改変として否定的にとらえるか、それは各人の勝手に違いありません。しかし、羅什は正を妙として訳したことによって“妙主義”ともいうべき、新たな概念規定と思想運動の余地を開拓したことは見逃すべきではないと思います。


やや飛躍しますが、大正生命主義と呼称された「生命」語の濫用が石山教学を席巻していったように、「妙」語は羅什から天台に継ぎ、日本の日蓮において一大「妙」文化を展開することになったのだと、わたしは考えます。

妙概念は羅什の訳により、法華原典に寄生し、ついには宿主を凌駕し、一大世界を構成するに至ったと観察すべきであるとも思います。

わたしたちが法華経と思って信じてきたものは、法華経ではなく、妙と翻じられた側ではなかったのかという疑念をわたしは懐いています。これがもっとも端的に表れるのは、まさに石山であり、ついには妙法華一巻までも捨て去り、妙一字の信仰にまで煮詰まったものであると見えます。

もちろん、このモチーフとなったのは、弘安元年4月1日の書とされる『上野殿御返事』の

今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。

などの一節であったでしょう。しかしながら、言うまでもなくこの書には真跡は残っていません。以前から問答さんとは勘案した、真跡無しの興師筆を遺す書です。

わたしたちが法華経と思ってきたのは、実は、こちら“妙”な概念規定のほうであったのではないでしょうか。

9犀角独歩:2003/06/05(木) 14:35

“妙”の字源を、やや辞典・事典類で追ってみました。
比較的わかりやすかったのは『字源』(角川書店 S51.5.30 初版)でした。

【妙】ミョウ(メウ(呉))
   ビョウ(ビョウ(漢))
[なりたち]
会意形声。女と、おさない意と音とを示す少(セフ→ビョウ)から成り、年わかい女の美しさの意を表す。また[十/幺+少]・杪・眇に通じてかすかの意に用いる。
[意味]
(1)わかい(わかし)。わかわかしい。年少。
(2)たえ(たへ)(ア)しなやか。たおやか。うつくしい。(イ)精巧。(ウ)人間の能力以上の働き。
(3)かすか(微)。(同)[十/幺+少]。(ア)非常に小さい。(同)杪。(イ)見がたい。(同)眇。(ウ)はかり知れない、勝れた働きがある。不思議。「神妙」
(4)くわしい(精)念入り。「精妙」

となっていて、もっとも古い意味を伝えているようでした。他の辞典ではその意味の根拠を羅什よりも200年もあとの天台釈に負うところが多いのです。もちろん、それでも今よりは意味は古いでしょうが、わたしとしては羅什当時の、この“妙”の字源と意味を知りたかったのですが、簡単に手に入る資料ではこの点を知ることは難しいようでした。取り敢えず、上述の記述はそれでも天台以前の字意をやや遺していると思えます。

興味が惹かれたのは二点です。

まず一点。“妙”の成り立ちが女性に深く関係していること。それも若い女性ということでした。この点を読んで、法華経上で直ちに想起されるのは『提婆達多品』の龍女であろうかと思います。「変成男子」が性差的かはここでは言及しませんが、畜身女人成仏…差別に抵触しますが、ここは客観的な記述であるとご理解ください…という法華経の大きなテーマと“妙”との翻訳は少なからぬ関係を有していまいかと想像を逞しくします。

もう一点。“妙”をわたし共は「みょう」、旧くは「メウ」を発音するのですが、これが呉音であるという点です。通常、妙法華は漢読です。となると、“妙”は「ビョウ」、旧くは「ベウ」と発声すべきなのかとあやしみます。果たして蓮師は、どう発声していたのか興味があります。以前、富士門流信徒の掲示板で記したことですが、国語学者・大野師によれば、鎌倉時代の日本語には「はひふへほ」の音はなく、「ぱぴぷぺぽ」であったと言います。となれば妙法は「ベウパウ」ほどの音であったと想像されることになります。

横道に逸れました。以上のような意味と音を持つ「妙」、少し資料を添加しただけでも見え方はだいぶ変わってくると感じるものです。

10犀角独歩:2003/06/05(木) 14:36

【9の訂正】

誤)ビョウ(ビョウ(漢))
正)ビョウ(ベウ(漢))

11犀角独歩:2003/06/05(木) 14:45

【6の補足】

『提婆達多品』と記しましたが、什訳では『提婆達多品』は『見宝塔品』のなかに纂入されていました。

サンスクリット語原典…正法蓮華経……妙法蓮華経…………………………添品法華経
11.Stupasaamdarsana.…七宝塔品第11…見宝塔品第11・提婆達多品第12…見宝塔品第11
(『法華経・上』岩波文庫 P422)

12問答迷人:2003/06/05(木) 14:50

>つまり、羅什が翻訳したときから、法華経は「正しい」というイメージに不可思議、神秘という要素が付加され、今日に至っているという側面が観察されます。

羅什は、Saddharma-pundarika-sutra の内容から、経題を「妙法蓮華経」と翻訳するのが適切だと判断したわけなのでしょうが、少なくとも、Saddharma-pundarika-sutra という原題には、「妙」という概念は含まれてはいなかった。それでは、羅什は、Saddharma-pundarika-sutra の、何処から「妙」という訳語を思いついたのでしよう。

13問答迷人:2003/06/05(木) 17:50

独歩さんのレスと、順序が逆になってしまったようです。12に対するお答えが9−11。了解です。単なる思いつきですが、「妙」が、「年わかい女の美しさの意を表す」と言うことで有れば、「pundarika」の端正な美しさを「妙」で表そうとしたとは考えられませんでしょうか。

14犀角独歩:2003/06/06(金) 01:18

> 13

問答さんは、なかなかロマンティックな方なのだと。
いや、これは茶化しとかそんなことではなく、とても美しい想像だと感心しました。

言うまでもなく、漢訳「蓮華」は白蓮華、紅蓮の両意に跨り、前者は表題に、後者は地涌菩薩を形容した蓮華に使われています。となると、後者菩薩は男性ですから、前者が題号の蓮華は女性となりますね。

自省的アプローチと構え、気を張っていたのですが、さすが問答名人さん、頭が下がりました。

15問答迷人:2003/06/06(金) 08:10

>漢訳「蓮華」は白蓮華、紅蓮の両意に跨り、前者は表題に、後者は地涌菩薩を形容

確か、法華経の梵本には、表題と、表題を表す言葉としてしか、pundarika(白蓮華)は使われていないのでしたね。一体、pundarika(白蓮華)は、具体的には何を形容しているとお考えでしょうか。久遠の釈尊なのでしょうか、久遠の釈尊の師匠たる「一法」なのでしょうか。

16犀角独歩:2003/06/06(金) 12:24

> 羅什…何処から「妙」という訳語を思いついた…

興味のあるところです。
この点を探る意図もあって、9に“妙”の字源を載せてみたのです。
梵本翻訳に当たって、元よりあった漢字では足らず、訳経の歩調で漢字が作られたといいます。では、この“妙”の字はいつどこで生まれたのか。残念ながら、今のところ、探れないでおります。

ただ、漢字としては比較的新しいものに属すると読んだことがありました。それを知った頃、まだ久遠妙法信奉論者でしたから吃驚したものでした(笑)無始無終のもっとも根本が妙であるという固定観念が埋め込まれていた自分があったわけです。ですから、連想として妙はもっとも古くからあったと、なぜか勝手に思い込んでいたのです。

先に挙げた『字源』の意のなかで、この字が女性に関連することはほぼ間違いなく、また、それに伴う意味が作字当時の意味を表しているのではないのかと思えます。

やや想像を逞しくします。
「女が少ない」ということ。たとえば、少数民族にとって女性数は民俗繁栄に直接関係する重大問題であったでしょう。案外、妙の字はそのような意味合いも持っていたのではないのかと、個人的に想像するのです。この意味を精査しますと、女という重要な存在の希少性ということになります。これが後代に女という主語が取れ去り、重要なものの希少性という意味を残していったのではないのかと思うのです。実際、妙には「微」の意味もあるわけです。重要希少という面から「精」の意味もあるわけです。

他にもあると思いますが、羅什の時代には妙の字は、この点に力点があったと想像できます。では、偏である“女”を羅什は意識してしなかったという、そうとは言いきれません。

先にも記したとおり、法華経は龍女という非常にユニークな一場面の主人公が登場します。「龍(ナーガ)」は民俗信仰の神に属するものであると共に、ある部族を指していたという研究もあったと記憶しています。そのなかで取り分け女性の龍女がモチーフになっています。このほか、法華経では鬼子母神、十羅刹女というキャラクターも現れています。経典としては、随分と女性のキャラクターが多いと、わたしは注目してきました。この点と、羅什が翻訳に“妙”の字を宛てたことを、無関係とは思えないわけです。

17犀角独歩:2003/06/06(金) 12:24

―16からつづく―

あと、ある方が指摘してくれたことがありました。
妙法華の冒頭は以下のようになっています。

― 妙法蓮華経序品第一
  姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳
  如是我聞… ―

この国名・姚秦の“姚”の字もまた女偏によって作られた字であるということです。
三行並べて書くとすぐに気づけますが、経典題号も女偏、訳者についても女偏の漢字で始まっています。さらに経の最初の一文字は、これは他例もありますが「如是我聞」の“如”これまた女偏なのです。

これが正法華であれば

― 正法華經卷第一
  西晉月氏國三藏竺法護訳
  光瑞品第一
  聞如是。 ―

となります。
もちろん、妙法華の冒頭が三行続いて、女偏であることを偶然であると片づければそれまでです。しかし、羅什という人物は、遊び心とも言うべき、心憎い文章上の演出をしていることは知られているわけです。

たとえば、妙法華の本文は「如是我聞」の“如”で始まり、「作礼而去」の“去”で終わっています。つまり、“如去”という如来の対句をここに潜めていると言われるわけです。

法師品には

― 若経巻所住之処。皆応起七宝塔。極令高広厳飾。不須復安舎利。所以者何。此中已有。如来全身。 ―

とあります。― この法華経があるところに塔を建てとき、仏舎利を安置する必要はない。なぜならば経巻が安置された塔の中には如来の全身があるからである。つまり、経巻こそ如来である ― 妙法華一巻は如来(如去)の全身であることを示そうとしたものであるというわけです。この法華経創作者の意図を繁栄すれば、妙法華一巻を、字によって如来・如去と表現する演出はなかなかのものといえるでしょう。

また、寿量品の自我偈は「自我得仏来」の“自”で始まり、「速成就仏身」の“身”で終わっています。つまり、仏身“自身”を所表していると言います。

このような周到且つ、闊達な文字の並びを好む羅什が、冒頭から女偏三字を列ねることが、果たして偶然か。わたしには偶然と思えません。

となれば、羅什は法華経のなかの女性原理を強く意識したうえで、自分を「姚秦三蔵法師」と言い、その国名まで女偏をもつ因縁を強く意識していたとする想像はあながち外れたものであるとは思えません。

以上の点は、羅什をして“妙”の字を選ばせた一つの因となっているのではないのかと、わたしは想像するのです。

ただ、以上、記したことはまったくわたしの想像であって、専門家の学問的な成果を踏まえたことでないことはお断りしておきたいと思います。

18犀角独歩:2003/06/06(金) 12:25

> pundarika(白蓮華)は、具体的には何を形容しているとお考えでしょうか。久遠の釈尊なのでしょうか、久遠の釈尊の師匠たる「一法」なのでしょうか。

これは難問です。

ただし、「久遠の釈尊の師匠たる「一法」」という点には、わたしはまったく否定的です。法華経を虚心坦懐に読む限り、経典中のシャキャムニは、特定の一法を師匠にしたわけでなく長遠の菩薩修行の結果、菩薩修行にかかった時間に倍する如来としての寿命を得たとするのであり、そのときにこの上なき悟りを得たというばかりです。特に富士門などでは、あたかも久遠の妙法なるものがあって、その覚知で仏になったなどとしますが、これらの解釈は法華原典とは何の関係もありません。「即座開悟」は法華原典のモチーフとはまるで違う後世の創作・法華原典を元にしたさらなる創作、創作の創作に過ぎません。

さて、妙法のあとの“蓮華”のことは、“妙”を考えあとに触れてもよいと思っていた事柄です。前後することになりますが、せっかく、話題に出たので、やや資料手放しで記させていただきます。

この蓮華の研究については、現代、もっとも注目すべきは、やはり松山俊太郎師なのであろうと思います。この成果は、近く出版の可能性もあると聞いています。楽しみです。けれど、師の研究内容については、わたしはほとんどしりません。ですから、以下、記すことはわたしが個人的に考えてきたことです。

Saddharma-pundarika-sutra の漢訳本を共通して法華と呼び慣わしてきました。
しかし、この「法華」語の使用は、竺法護が羅什より先行します。西晋景帝の太庚7年 A.D.286年のことでした。

わたしが興味が惹かれるのは、羅什は、経題では妙法蓮華経としながら、経本文中では「法華」を使用している点です。

見ようによっては、竺法護は白蓮を単に「華」とし、紅蓮を「蓮華」としたと言えなくもありません。けれど、前者の華は法と併せて「法華」の成句として使用しています。羅什の場合、白蓮・紅蓮はともに蓮華と片づけています。

ちょっと、わたしはここのところは不勉強なのですが、「法華」という成句が、竺法護より遡れるか否かはわかっておりません。

Saddharma-pundarikaは二重の複合語であると言います。
SaddharmaはSa-ddharmaの複合語、その複合がさらにpundarikaと複合しているといいます。この点に異論を述べるにはサンスクリット語の素養が必要でしょうが、わたしにはその力量はありません。故に現時点ではこの解説を採ることにします。(

では、ここで複合されたpundarika(白蓮)とは何であったのでしょうか。
この点を考えるとき、羅什の妙法華も、法護の正法華も閉じたいと思います。

問答さん、この蓮の花、特に深い意味があったのでしょうか。シャキャムニの在世の時代から、法華原典が創作された400年後、さらに編纂が終わるその250年後まで、通じて、pundarikaは特に人々にもっとも愛された華に過ぎなかったのではないでしょうか。それが法華経信仰という熱烈且つ、神秘性を帯びて人心をとらえた結果、蓮華そのものに強い意義が付加され続け、今日のように教学を生んでいったのではないでしょうか。

法華原典の創作者は、案外、皆に珍重愛される白蓮のように正しい教えという、まるで字句どおりの形容で、ここにpundarikaを用いたのにすぎないとも考えられませんか。

19犀角独歩:2003/06/06(金) 17:35

ちょっとだけ、補足です。

Saddharma-pundarikaが二重の複合語である場合、{(Sa+ddharma)+pundarika}という関係になりましょうか。これを竺法護の訳に配当すると{(正+法)+華}ですね。ですから、二次的な複合の段階では{正法+華}ということになります。ところが「法華」が成句化し、次第に{正+法華}と解されるようになった。それ故、{妙+法華}という転用も可能になったのであろうと思います。

こんなところでも言葉の変遷は面白いともうわけです。
これはまた英語でも見られるわけです。Lotus Sutra と言えば法華経なのでしょうが、これでは“蓮(華)の教え”となります。形容である蓮華のほう主になって、ついには正法は呼称から消え去っています。もちろん THE LOTUS OF THE TRUE LAW という訳は使用されますので、これは一般的な話で、ということわりが必要かも知れません。ちなみに妙法は MYSTIC LAW でしょうか。(東洋)神秘主義者の教えというニュアンスでとらえるのでしょうか。

いずれにしても、力点は Saddharma にありではないのかを、現時点のいちおうの結論としたいと思います。

20問答迷人:2003/06/07(土) 07:43

>法華原典の創作者は、案外、皆に珍重愛される白蓮のように正しい教えという、まるで字句どおりの形容で、ここにpundarikaを用いた

仰る意味は判ります。恐らく、その通りでしょう。ただ、形容する場合は、例えば、「白魚のような指」という場合は、その指に、白魚のスマートさが具わっているからこその形容なんだと思います。そうすると、Saddharma-pundarikaも、pundarikaの、なんらかの属性が、Saddharmaに具わっていてこその形容なんだと思います。pundarikaの、Saddharmaに似た属性とは何か、形容である以上、やはり、それが問題として残るのではないでしょうか。

21犀角独歩:2003/06/07(土) 20:15

> pundarikaの、なんらかの属性が、Saddharmaに具わっていてこその形容

ええ、もちろん、これはそのとおりですすね。仰るとおりであろうかと存じます。
たしかに仰るとおりなのですが、そう思いながら、法華経を通読しても、この蓮華の属性に該当するものがピンとこないのです。

問答さんはpundarikaの属性に当たる箇所を法華経中に見出せましたか。
もちろん、天台やらその他の解釈でではなく、文中で、ということです。

22問答迷人:2003/06/08(日) 07:38

泥の中に咲く華麗な華、というpundarikaの属性が、Saddharmaに似ているのだと思います。例えば、娑婆世界常説法教化、等と法華経が歌い上げた現実世界肯定の教えは、泥沼にしか咲かない蓮華の属性に当てはまったいるのではないでしょうか。また、地涌の菩薩を「如蓮華在水」として、紅蓮で形容し、対応する久遠の釈尊を白蓮華で表現したのではないでしょうか。白蓮華が経文中には、経題としてしか顕れてこないことは、仏足石の如く、久遠の釈尊を「白蓮華」と直接名指ししない形で指し示しているように思います。

23犀角独歩:2003/06/08(日) 12:44

> 22

なるほど。
漢訳仏典が白蓮と紅蓮を分けない見地からすれば、経題の白蓮を、地涌菩薩を形容する紅蓮と同等に経の特性として扱うことは可能かも知れませんね。

その前提で、問答さんは、敢えて白蓮と紅蓮を分けて論じられました。
紅蓮については、まさに経文がそうなっているので異論はありません。

けれど、白蓮=久遠釈尊となると、次の点を、暗黙に指示することになりますね。
経題は正法(sa-ddharma)=白蓮(pundarika)です。
これに22の問答さんの見解を併せて、さらに図式化すると
正法=白蓮=久遠釈尊
ということになります。

しかし、正法=釈尊、わたしはこの点については懐疑的です。正法は、釈尊そのものとは言い難いのではないでしょうか。
法華経には、『秘密荘厳論』の如き、自受用身即一念三千、また、石山教学で言うような人法一箇(人法体一、人法恒一)、といった同一視は見当たりません。

以上のようにわたしは考えるのですが、法華経中に、正法と久遠釈尊が一体であるという教学を指示するような箇所を見出せましょうか。

なお、法華経でいう「法」とは何か、この点については、序品で記されていることが、それではないでしょうか。すなわち、

名妙法蓮華。教菩薩法。仏所護念。

羅什訳で言えば菩薩を教える法が正法の正体と言うことになります。
もちろん「教菩薩法」は羅什の意訳である点は注意を要します。
しかし、それでも法華原典がいう法とは菩薩を教導する方法(方便)を指していると思えます。いわば教法でしょう。方便であると言ってもよいはずです。ただし、明記しなければならないのは、ここでいう方便は、台学の本迹相待で方便を迹と見做すような教学とはまったく関係がないことです。

また、上述の「妙法蓮華。教菩薩法」は、独り釈尊が説いたものではありません。「講説正法」と言われる場合もそうです。この点は序品を通読すれば直ちに了解されることです。なお、釈尊一仏に何が何でも統一しようと言う教学的な頑迷さは、法華原典の柔軟さとは無縁であるとわたしは考えることも書き加えておきます。

さらにもう一点。釈尊は法華経では求法者のために覚りに至る教導(法)は示したものの、宗学で言われるような「久遠の妙法」の如き実在化された法は何一つ記述されていないと見えます。

釈尊も菩薩道の結果、覚りに到達したのですが、その覚りを正法蓮華と言ったわけではありません。単にこの上ない覚りに到達した記されるばかりです。ついで求道者を悟りに教導することを方法手段を法と言っているのではないでしょうか。

法華経を読むとき、覚と法を混同すると、羅什意訳の坑に堕ち、法華原典の意図を見失うことになります。

さて、以上のようにわたしは考えるのです。やや散漫になりました。
まず、一点、正法≠釈尊である点、如何でしょうか。

なお、白蓮華が何を指すのか、これは1400年以上の大問題です。
しばらく、この議題は置きたいと思います。

24問答迷人:2003/06/08(日) 14:55

>これに22の問答さんの見解を併せて、さらに図式化すると、正法=白蓮=久遠釈尊 ということになります。

この辺りに関連する法華経の文を拾ってみました。

法師品第十
若経巻所在之処。皆応起七宝塔。極令高広厳飾。不須復安舍利。所以者何。此中已有。如来全身。(また、舎利を安んずべからず。所以は何ん。この中には、已に如来の全身有せばなり。)

見宝塔品第十一
此経第一。若有能持。則持仏身。(此の経は第一なり 若し能く持つこと有らば 則ち仏身を持つなり)

これらの経文の指し示しているのは、妙法蓮華経=久遠釈尊 という意味合いのように思われます。これらの経文の示している意味が、もし、妙法蓮華経=久遠釈尊と捉える事なら、将に、正法=白蓮=久遠釈尊が正しいと言うことになりませんでしょうか。如何お考えでしょうか。

25犀角独歩:2003/06/08(日) 15:49

> 24

これは法ではなく、経典について言っている部分ですね。
この点は、この次に論を運んでいこうと思っていました。

Saddharma-pundarika-sutra 、これは法でしょうか。
わたしは文字通り経典であると思うのです。

法華原典を制作した人々は仏舎利を保管する集団とは別の人たちであったと想像できます。舎利に代わるものとして、彼らが崇拝の対象にしたのが経典であったのではないでしょうか。舎利は仏の遺骨ですから、お釈迦様と見なせます。その舎利を経典に置換する考えをもつ集団によって創作されたのが法華経であったのだと考えられます。

では、経典は法かと言えば、そうではないと思います。
経典は法について記述したものです。

ですから、正法蓮華経典=如来というのは、文が指示するところとなります。
しかし、経典=法と言うと飛躍があります。

例えば『六法全書』という本は、法律を記したものに違いありませんが、法律そのものではありません。

わたしが考えているのはこの違いです。
経典が直ちに法であるとする記述に当たることができますでしょうか。

26問答迷人:2003/06/08(日) 17:37

「正法蓮華」=「正法蓮華経典が説いた法」。「正法蓮華経典」=「如来」ならば、「正法蓮華」=「如来が説いた法」。

如来神力品は次のように説いています。
「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す。」

つまり、「正法蓮華」=「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事」=「如来が説いた法」。

結局、「正法蓮華」とは、「『如来』が如来について説いた法」であり、正法蓮華経に説かれているのは、「正法蓮華」=「如来そのもの」という事になるのではないでしょうか。

27犀角独歩:2003/06/09(月) 14:52

> 26

少し展開が飛躍しておりませんか。

> 「正法蓮華」=「正法蓮華経典が説いた法」

というのは飛躍しすぎであると思いますよ。
正法蓮華はお経の名前ですし、法は経典が説いたのではなく、建前上、釈尊を筆頭とする如来たちが説いたことになっています。如来が説いた正法蓮華をまとめた経典ほどの意味でしたら、わかります。

この投稿は法師品の「若経巻所在之処。皆応起七宝塔。極令高広厳飾。不須復安舍利。所以者何。此中已有。如来全身」と見宝塔品の「此経第一。若有能持。則持仏身」を受けられたものであると拝察します。先のわたし投稿の書き方も不適切であった点もあります。法=如来は数式などにおける=というより「見做す」という意味合いのほうが強いのではないでしょうか。

例えば同じ法師品に「於此経巻。敬視如仏」という一節はあります。ここでは経巻を仏の“如く”に敬えというのです。ここは梵本直訳ではさらに明快に「この経典によって如来に対する尊敬の念を起こし」となっています。

経典が法を説くわけではありません。法を説くのは仏(如来)です。

> 「正法蓮華経典」=「如来」

これは法師品の文からそういう考えであったと思われます。
しかし、これは=というのではなく、「見做す」という宗教的見地に過ぎないと思います。先の投稿でわたしも=を使いましたが、法と経を分けて記す方便として用いましたが、少し安易であったと反省しました。
また、経典だけではなく、その諸住の所、具体的には宝塔(仏塔)崇拝をも促した経文でしょう。さらに、該当の法師品の文は経典が如来であることを示すというより、分骨した舎利(砕身)よりに対して、法華一巻は如来の全身に該当するから、より尊いことを述べたものであるはずです。この文を採って、直ちに法=如来というのは、短絡と言うしかありません。

> ならば、「正法蓮華」=「如来が説いた法」。

まあ、これはそうでしょうが、前文から脈絡としてつなぐのは不自然ではありませんか。
経典は如来の言説を文章にした集大成であるから、経典安置の宝塔は如来の全身があるのと同等だということは、しかし、経典=如来であるというのとは、ややニュアンスに異なりがあります。

> つまり、「正法蓮華」=「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事」=「如来が説いた法」

これも論理が飛躍していませんか。如来が神力品の如く説いた様を記述したのが正法蓮華経典です。ですから、そのなかには法ばかりではなく、自在の神力、秘要の蔵、甚深の事(何を指すかはここでは論じません)も宣示顕説したといいますが、これらは法ではありません。

28犀角独歩:2003/06/09(月) 14:53

―27からつづく―

> 「正法蓮華」=「如来そのもの」という事になるのではないでしょうか。

いやあ、そうなりませんでしょう。

例えば、ここにNYORAIというコンピュータがあったとします。この中にはNYORAIについてのデータが記録されています。このデータはNYORAIそのものではありません。単にNYORAIに蔵されているデータに過ぎません。データとコンピュータ本体は別のものです。

もう一つ例を記します。この掲示板で問答さんとはわたしはたくさんのことを記述しています。この記述した内容は問答さんそのもの、わたしそのものではありませんね。
同じではないでしょうか。しかし、読まれる方々は、記述を通じて、私どもの考えを知ることにはなります。

少し論点を変えましょうか。
わたしは法華経は三身を尽くしていない経典であるという立場です。
元より、三身論はわたしにとってはどうでもよいものですが、法=如来という問答さんの考えを整理する上で、ちょっと使用してみます。

もし如来が法であるというのであれば、如来は法身(ダルマ=カーヤ)ということになりませんか。となれば、久遠釈尊は法身仏ということになってしまいます。まして、法華経は三身説を基にしているはずはありませんし、この時代にダルマ=カーヤという考えがあったかどうか。久遠仏信仰の濫觴はあるものの、そこまでです。

何より大事な点があります。法華原典を読めばわかりますが、久遠已来、如来は実は一度も死んでいない、死んだように見せているのに過ぎないというのが法華経です。つまり、一度たりとも、肉体を失っていないという立場です。いまも、この娑婆で説法を続けているとも言うのです。経典になって等という解釈では寿量品は説明できません。

経典を如来全身と見做す信仰はたしかに法華経の一角をなしています。しかし、それが全体ではありません。上述した如来は久遠已来一度たりとも入滅せず生き続けているとし、しかし、その仏が見えないのは、心が濁っているからであるというのが法華経です。これは換言すれば、心の澄んだ人は、そこに法華経経典などなくても如来を見ることができる(見仏)というのが寿量品の骨子です。これは法華経のもう一角をなしています。

また、こうして見られる釈尊は「法を説き続けている」というわけですから、法は説かれるものであって、如来そのものではありません。

人法一箇から日蓮僧俗が脱せられないことを、わたしは不思議に思うのですが、しかし、この点は宗派教学汚染の筆頭に挙げるべき点です。
納得のいくまで徹底して議論いたしましょう。

29問答迷人:2003/06/10(火) 08:21

もう少し簡略にしてみました。

正法蓮華経典は、如来が説いた正法蓮華をまとめた経典。

正法蓮華経典には、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事が説かれている。

よって、「正法蓮華」とは「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事」である。

ここまではよろしいでしょうか。問題点があればご指摘下さい。

30犀角独歩:2003/06/10(火) 10:37

一つ質問なのですが、「題号に経典のすべてが含まれている」という蓮師の考えに囚われておられますか。

31問答迷人:2003/06/10(火) 13:30

どうでしょうか? それを意識してはいませんが、知らず知らずにそういう考え方をしているかも知れませんね。名は体を表す、という意味では。

29をご覧になって、そのように感じられるのでしょうか。

32犀角独歩:2003/06/11(水) 03:31

問答さん、どうか、気を悪くなさらないでお読みください。
わたしは書き込みを拝読し、法=如来ということから久遠釈尊=法華題号ということ、関連して、題号に一切が含まれているという“教学”が意図するご質問をなさってこられたと感じた次第です。

しかしながら、少なくとも梵本法華には。法=如来という考えは窺えず、まして、法華題号にすべて含むなどという意図も窺えないと結論しております。

33問答迷人:2003/06/11(水) 09:45

法華経が、後に本尊として、信仰の対象とされる様になったところから、法華経=本尊=如来という固定観念が出来上がってしまった。その地平から法華経を捉え直すと、法華経の題目に全てが含まれるのでなければ、具合が悪い。経巻信仰の最終的な行き先は、「法=如来、題号が全て」ということにならざるを得ないと思います。

良く判りました。一旦、経巻信仰を離れて考えてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

34犀角独歩:2003/06/15(日) 09:14

ご返信遅くなりました。
ご了解の件、いつもながら痛み入ります。

35犀角独歩:2003/07/08(火) 16:36

ネット上の知己であるLibraさんが御文をお寄せくださいましたので、紹介させていただきます。


※ 以下、転載 ※

名前:Libra@ぴょん吉  E-mail:librus2002@mail.goo.ne.jp

 お久しぶりです。

 ある人から、独歩さんがネットに復帰されているという話を聞いたので、ち ょっとのぞかせてもらいました。

 今は、全く別の勉強をしている最中なので、こういう話題にはもう頭がつい ていかなくなってしまっているのですが、足跡だけは残していこうかと思います(またすぐにネットどころじゃなくなりますが)。

 さて、私も、経題についてはいろいろと考えてきましたが、私の場合には、 初期仏教からある「法宝(教法)崇拝」の延長線上でどうしても考えてしまう というところがあったようです。

  仏身論メモ(Libra)
  http://page.freett.com/Libra0000/z014.htm
  題目論メモ(Libra)
  http://page.freett.com/Libra0000/z019.html

 既成の考え(伝統宗学等)と結論等が一致するからといって、そのことだけをもってして、直ちにその考えは怪しいということにはならないんだろうとは思いますが(それは一種の逆差別?)、そういう自分の考えに対して具体的にどういう批判がありうるのかという、いわゆる自己批判の作業の際には、独歩さんのような視点(伝統宗学等に縛られているのではないかという批判的視点)を積極的に意識する必要がやはり相当にあるんだろうと強く思います。まぁ、私の場合は、ただ思ってただけで、実行はできていなかったのでしょうが(汗)。

 独歩さんと問答迷人さんのご議論がこれからも活発になされることを心より ご期待申し上げます。

 追伸 独歩さんが本を出される(出された?)という話をその方から聞きました。そのことにとても興味があります。

36犀角独歩:2003/07/08(火) 17:19

ご紹介だけして、レスもしないのは失礼だと思いますので、少しだけ。
問答さん、事後承諾で恐縮ですが、よろしかったでしょうか。
なお、この転載は当然のこととしてご本人の了解を取ったうえです。ネチケットは守っています。もちろん私信を頂戴した場合でもこの点は厳守しております。どうぞ、メールをお寄せくださる方はご安心ください。

> いわゆる自己批判の作業の際…伝統宗学等に縛られているのではないかという批判的視点)を積極的に意識する必要がやはり相当にあるんだろうと強く思います。

ええ。わたしは、たしかにそのように考えています。
極端なことを言えば、天台師をはじめとして、なおさらのこと、宗学というものは端から信用していません。それが蓮師の真跡の言であろうと徹底して自分の頭で考えます。誤りであると思えば、躊躇いもなくそのようにも言います。

やや広げて記します。事実証拠の積み重ねとしての学問をわたしは意味のある作業であると思います。ただし、信仰を考えるうえでは、信仰者の心理に下りてみなければ、わからないことはあるでしょう。また、事実証拠が不足してみれば、想像を逞しくして、あれこれ仮定を立ててみるのも楽しい作業です。

さらに宗教問題を考えるのであれば、教義・信仰から離れて、カルト・マインド・コントロール論、あるいはさらに進んで宗教病理学的側面から考証することも今日的には重要な意味を持つでしょう。また、宗教の過誤を abuse という視点から考えることが重要であると、昨今、痛切に感じています。

以上、スレッドのテーマからやや逸れるように見えるかもしれませんが、起筆動機を示すと言うことでご理解をいただければ有り難く存じます。

37犀角独歩:2003/07/08(火) 21:42

問答さん、Libraさんが重ねて御文を寄せてくださいましたので、転載させていただきます。

※ 以下、転載 ※

 独歩さん、転載ありがとうございました。

 せっかくですので、自己レスというか、少しだけ補足をさせて頂き たいと思います。

> 既成の考え(伝統宗学等)と結論等が一致するからといって、その
> ことだけをもってして、直ちにその考えは怪しいということにはな
> らないんだろうとは思いますが(それは一種の逆差別?)

 この部分で私が言いたかったのは、要するに、《批判というものは常に特定されたものでなければならない》ということでした。つまり、「なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の 論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない」(カール・ポパー)ということです。以下に、かなり単純化して、説明してみます

 ある人の主張の結論が、既成の考えの結論(命題Aとしておきます)と一致するとします。で、そのAはすでに批判され、その批判に耐えられなかったとします。しかし、この場合でも、この「ある人の主張 の結論」は、そのある人の提出している具体的な論証のいかんを問うことなしに常に怪しいと断定してよいというものでは必ずしもないわけです。これは、Aがどういう形で批判されたのかにもよるわけですが[注1]、たとえば、《Aを導出するために用いられた前提の中には必ずしも真とは言えない命題が用いられている。よって、Aは必ずしも成立しない。》という形のものである場合には、そのような批判を「ある人の主張の結論」に対してそっくりそのまま適用することはできないわけです。この場合には、「ある人の主張の結論」に対する批判というものは、その「ある人の提出している論証」がなぜ妥当ではないのかについての特定された理由を述べるものでなければなりませ ん。もしも、それをすることなしに、《すでに批判された既成の考えと結論が同じである》ということだけを理由に、直ちにその考えを怪しいものであると断定してしまうとすれば、やはりそれは偏見だろうと思います。そういう偏見を、先の投稿では、「一種の逆差別」と表 現したのでした。

 [注1] たとえば、既成の考えの結論(A)に対する批判が、《Aから導出されるある命題は偽である。よって、Aが真であることはありえない。》という形での批判であったとすれば、それは「ある人の主張」に対してもそっくり適用するができるでしょう。

 しかし、この掲示板で議論されている独歩さんや問答迷人さんは、言うまでもなく、きちんと具体的に批判を展開される方なわけですから(だからこそ私はお二人を尊敬しているわけです)、上のようなことをこの掲示板に書いたこと自体がナンセンスだったわけです。ですが、ネットでよく見かける論者の中には、「一種の逆差別」的な短絡的な思考しかなされない方も少なからずおられるのではないかと不満に思っておりましたので、余計なことをつい書いてしまったのでした。

 あと、余計なことついでにもう少しだけ書いてしまうと、私は、学問というのは「批判」であって、「事実証拠の積み重ね」などではないと考えています。事実証拠などをいくら積み重ねても、主張を正当化することなどできないからです。そもそも、いかなる主張も、証拠とか論証によって正当化されることなどありえません[注2]。

 主張する者は自らの主張を批判にさらす。その結果、批判を受ける。そして、批判に耐えることのできた主張が当面生き残っていく。そして、それもまた、新しい批判によって淘汰されていき、また新しい主 張が生まれていく…。学問とは、そういう無限の営みであろうと私は 考えています。

 [注2] 例えば、以下を参照。

 ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない
(小河原誠) http://page.freett.com/Libra0000/109.html

 独歩さんは「それが蓮師の真跡の言であろうと徹底して自分の頭で考えます」といわれます。カントは「自分たち自身の知性を使え」といいました。私もそうありたいと常に思っています。

 自分たち自身の知性を使え(カール・ポパー)
 http://page.freett.com/Libra0000/118.html

#全くこの掲示板に関係のないことを書いてしまったことをお詫びいたします。

※ 転載、終わり ※

なるほど。事実証拠の積み重ねだけではだめですか。参考になりました。
有り難うございます。


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