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日野OL不倫放火殺人事件

1麻美:2003/06/12(木) 22:49
あれから10年たつんですね・・・・・・。当時、私は大学1年生で
師匠、キャッシーと呼び合っていたというのが印象にあってこの事件
のことはよく覚えているつもりでしたが、テキストを読んでみて2度
も子どもを堕胎していたことが分かってショックです。放火によって
不倫相手の男の子どもが2人死亡したとはいえ、無期懲役は重い判決
だと思います。日本では判例主義によって量刑を決めていますが
現住建造物放火罪の法定刑は無期または死刑、もしくは5年以上の
懲役と殺人より重い罰則が規定されており、結果的に2人が死亡した
ことによって無期という判決を下したようにも思います。
民事訴訟での賠償金のことも考えるとどちらが被害者なのか
分からない事件ですね。やりきれない思いでいます。

754無精髭:2011/01/18(火) 08:23:01
>>747
当時、裁判員制度があっても、無期懲役の判決が出たんじゃないですかね。
全ての審理において無期懲役の判決が下ったということには、おそらく
当時の裁判官の量刑判断における一般的な傾向が現れているのだと思います。
また、検察の求刑通りの判決だったわけですから、当時の裁判官の立場からすれば
本件に関して被告を厳罰に処したという実感があったのではないでしょうか。
これらを踏まえますと、事件当時に導入されたとする裁判員制度が現行と同じ
ものである限りは、仮に全ての裁判員が有期懲役との判断で一致したとしても、
その判断が判決に反映されることはなかったと考えるのが妥当かと思われます。

>>751
>厳罰化と言っても裁判員はその枠外にいます。

裁判官と一緒に審理するので、さすがに「枠外」にはいられないですよ。

>最近でもさすがに死刑判決までは出ないでしょうね。

「どういう判決が出るかは判らない」と仰いましたよね。裁判員が
「厳罰化の枠外」にいるとすれば、なお更ではありませんか。

要は、俺さんはキャシーの弁護人と同じことを仰りたいのでしょう。
キャシーを擁護する主張の中で、唯一まともだと思えるのはそれくらいですし。

755無精髭:2011/01/18(火) 20:49:14
付け焼刃の知識でレスしたから、不安になってググったら間違ってた。

裁判官3人が有期刑、裁判員6人が無期刑だったら、裁判官の意見が採用されますが、
裁判官3人が無期刑、裁判員6人が有期刑だったら、裁判員の意見が採用されますね。

ある意味で良心設計だと分かり、安心しました。

もし当時、裁判員裁判が行われていたとすれば、キャシーに有期刑の判決が下った
可能性はあったかも知れないですね。ただ、裁判官たちからすれば、裁判員2人を
抱き込めば、自分たちの判断を判決として成立させることができるわけですから、
必死になって(あの手この手で?)説き伏せにかかってくるかと。

それに法律の素人が堪えられるでしょうか? まぁ、法律のプロよりも論理的な
(というより議論に強い)素人がいたら、それはそれでドラマチックですが。

756紫煙狼:2011/01/19(水) 00:48:59
この事件、有期懲役が妥当であると考える人って、そんなに多いのでしょうか?
つまり、裁判員制度が当時すでに導入されていたとして、有期懲役判決が出た可能性は
そこまで高いでしょうか?

自分にも非がある不貞行為の挙句の果てに、恨みの対象としてはお門違いな相手に明確な殺意を持ち、周到に
準備し、多くの人を巻き込みかねない方法(被害の限度を特定できない方法)で殺害した事実に対する刑罰が
有期懲役で充分とする見解が多くの人々にとって「ごく普通の感覚」なのでしょうか?

俺さんの意見には説明が全くなくて、ただ見解としての結論だけ端的に…なので
その結論に至った根拠が一切わからなくて、私には理解(共感)しづらいです。

757ななし:2011/02/10(木) 18:53:24
八日目の蝉で検索してたどり着きました。
すれ違いですが書かずにはいられなかったので、お目汚し失礼します。

私は数年前この事件と似たような状況におり、相手の女性に何度も電話したことがあります。
理由はもちろん主人がどちらも選べないというので向こうから手を離してもらいたかったからです。
その際、相手はかなり高圧的でした。主人とはしおらしくやりとりしていましたが、私にはかなり「あんたの旦那が来るのがいけない」と強気でした。
私は「うちの子ども達の立場にもなって考えて欲しい、もし貴方のお父様が同じ事をし両親が離婚したら貴方はどう感じますか?」と言ったことがあります。
その時から「あんたは私だけでなくうちの親まで侮辱した」と言うようになりました。

この事件の記事を見て、当時私が売り言葉に買い言葉で同じように罵ったりしていたら、もしかしたらうちの子ども達に何かあったかもしれないと思うと
改めて怖くなりました。

事件の加害女性と、元不倫相手の妻、どちらの言うことが本当なのか(どちらも本当でない可能性もありますが)わかりません。
しかし、相手を罵倒するような言葉でなくとも「侮辱された」と受け取られることは実際にあるので、私には妻の言っていることの方が真実に近いのではないかなと思います。

まぁ私の場合は完全に妻側に感情移入しがちな立場ですので、参考にはならないでしょうが。

でも実際経験したのです。とにかく冷静に、言葉を選んで、相手を非難することを極力避けて「お願い」をする中で、
すべての言葉を悪意を持って受け取られ、全く取り合ってもらえなかった。それどころか言ってもいない罵詈雑言を浴びせられたと
主人に訴えられストーカーや無言電話など嫌がらせの濡れ衣まで着せられました。

本当に怖いことです。
本当に、この事件他人事とは思えません。怖い。

758:2011/02/11(金) 22:52:45
>>757
それは災難でしたね。でも殺人が起こるのは稀で特殊なケースです。
ちなみに不倫してる人は他にも沢山いるでしょうし、妻バレしてるケースも
それなりにあると思います。貴女だけではありません。

759紫煙狼:2011/02/13(日) 00:09:56
>>757
>当時私が売り言葉に買い言葉で同じように罵ったりしていたら、もしかしたら
>うちの子ども達に何かあったかもしれないと思うと改めて怖くなりました。

>相手を罵倒するような言葉でなくとも「侮辱された」と受け取られることは実際に
>あるので、私には妻の言っていることの方が真実に近いのではないかなと思います。

これは深いですよ。順番を逆にしてみると如実に判ると思うのですが、妻vs愛人の会話では
妻が愛人を罵っていなくても愛人に「罵られた」と受け取られることはあり得るのですよね?
と、いうことは「売り言葉に買い言葉で同じように罵ったりして」いなくても、お子様達に
何かあったかもしれないわけですよね?

結局、幸いなことに757さんのお子様達は「愛人に何かをされる」という最悪な事態は起きなかった。
でも、当時の757さんが、あと少し愛人の気分を害していたら「何かあった」かもしれない。それは
実際にそうなのでしょうけれど、結果論に過ぎません。愛人さんが757さんの言葉を悪意に取って
勝手に気分を害してお子様達に何かしてしまっていた可能性は充分に考えられた、というコトの方が
757さんの「本当に、この事件他人事とは思えません。怖い。」の本質ですよね?

>>758の俺さんが言うとおり、妻バレのケースなんて珍しくもないし、妻vs愛人の激闘で売り言葉に
買い言葉でエスカレートすることも、実際は珍しいことではありません。それが殺人にエスカレート
するかしないかの差は、妻の対応に依存する割合よりも、愛人のイカレ具合に依存する割合の方が
高いのではないでしょうか?そう考えると、この事件と、757さんのケースの差は、単に757さんと対決した
愛人さんが殺人を犯すほど常軌を逸していなかった。外道は外道なりに小指のつめの先程度にはマトモな
ところが残っていたというだけなのではないでしょうか?

どちらにしても、怖い話に変わりはありませんね。757さんのお子様達に何事もなくて、本当に良かったです。

760mnh:2011/02/13(日) 05:30:40
横ですが。
「八日目の蝉」、人気のある本ですよね。
私はちょっと駄目だったけど。
子供を誘拐して逃げる話なんですけど…主人公はものすごく子供に執着している
けれど、育てるという視点に欠けているんです。
普通に結婚して子供が生まれていたら、私も夫から守られ、親から守られするはずだ、
みたいな記述が随所に見られ、いやいや、あんた、子供産んだら守る人になるん
だよ、あんたみたいに守られたい病の人は、やめといたほうがいいよ、と説教したく
なる。
で、逃亡中だから仕方がないんだけど、いろんなところにもぐりこむのだが、
それがことごとく、自分の保護者を求める行為のようでね。気持ちが悪い。

それで誘拐された子供は、親元に戻されるんだが、家庭の中の異分子になってしまい、
親とは上手くいかない。ところが彼女もまた不倫をして妊娠する。
産もう、と決断するのはいいんだが、さぁ親に会いに行こう、受け入れてもら
えるかどうかわからないけど、子供ができたから受け入れてもらいたい、
という流れになる結末なんですよ。
え、親になるのに、なんで保護者を求めるの、親になるって大人になるって
ことだと何でわからないの、と、またしても説教したくなる。

その上、思いっきり、男性不在の小説なんですよ。相手の人柄とかほとんど
描かれていない。
ただもう子供を持つと、孤独じゃなくなる、守ってもらえると思い込んでいる
病気というのかな…母性がどうとか評されていましたけど、母性というより、
インナーチャイルド全開!でしたね。

それで日野も、この手の内面の幼さが起した犯罪だったのかな、と思いました。

761無精髭:2011/02/14(月) 00:56:46
ななしさんを俺さんは慰めていらっしゃるのですね。優しいなぁ。


>>757
ななしさんの書き込みで興味深いのは、妻(不倫の被害者)の視点を前面に
押し出そうとしている点ではなくて、キャシーが妻を逆恨みしていたかも
知れないことを示唆している点ですね。

キャシーが妻に対してどの時期にどんな気持ちを抱いていたかなんてこと、
事件記事にはほとんど書かれていないですからね。情報が不足しているからには、
キャシーが妻に対し憎しみを抱いていなかったとか、キャシーの妻に対する恨みの方が
妻のキャシーに対する恨みよりも弱いなんてことは、全然自明じゃないわけです。

したがって、誰の証言を信じるかによって・事件当事者の誰に感情移入するかによって、
キャシーや妻に対する印象は異なるでしょう。逆を言えば、キャシーや妻の印象は
何ら確定的なものではなく(つまり事実ではなく)、第三者の信念や感情によって
玉虫色のように変化するということです(しょせん各人の解釈に過ぎない)。

ななしさんご自身の場合、憎悪に燃えてたのは旦那さんの元不倫相手の女性
とのことですが、本件の場合は、キャシーではなく妻とされることが多い
みたいです。ココが私にとっては謎なんですよねぇ。


しかし、以上は、ななしさんの視点から本件を眺めるとこうなるという話であって、
ななしさんの体験を本件と同列化すると、ななしさんの証言の信憑性も実は怪しく
なります。旦那さんの元不倫相手の言い分を詳しく聞いたわけでもない第三者から
すれば、ななしさんの言い分だけを鵜呑みにして元不倫相手の女を悪者扱いすることは
絶対に避けなければなりません。不倫が悪いとか殺人が悪いとかいったことを抜きに
した場合、ななしさんの言い分を善意に解釈できるなら、キャシーの言い分も善意に
解釈できるはずですし、キャシーの言い分を悪意に解釈できるなら、ななしさんの
言い分も悪意に解釈できるはずです。

こういうディレンマを回避するためにこそ、事件当事者の持つイメージは不確定である
が故に無視すべきである、法的にせよ、道徳的にせよ、悪いかどうかは、当事者の
イメージとは関係なく判断すべきだということに徹するべきではないでしょうか。
言い換えれば、その人間が悪いかどうかということよりも、その人間が行った
「行為」が悪いかどうかを問うべきではないでしょうか。


>>759
誰も罵ってないのに「罵られた」と感じることと、罵られたら復讐することは
違いますよね。この二つが繋がるとすれば、罵られてもないのに「罵られた」
と感じる人が、同時に天然記念物並みに復讐心旺盛な人でもあった場合ですよね。
これはかなりレアなケースですよねw

ななしさんの発言により、被害妄想の強めな人でも犯罪に走るわけではない
というのが分かりました。つまり、被害妄想狂は復讐の鬼とは限らないわけです。
これは実に貴重な証言。

しかし、一方で、侮辱されたら犯罪を犯してまでも復讐するかも知れないとか
いったことを公の場で恥ずかしげもなく発言する人をたまに見かけますけど、
実際、こういう人って他人から罵られてもないのに「罵られた」とか感じちゃう
ことがあるんでしょうかねぇ。つまり、感情の抑制が効かない人は、同時に
被害妄想狂なのか、もしくはそうなるリスクは高いのかっていうのが気になるところ。

762無精髭:2011/02/14(月) 01:31:24
>>760
その小説で母性が中途半端に描かれている(?)のは、作者の角田光代氏が意図したからじゃないでしょうかね。

インタビュー:角田光代、「八日目の蝉」で描く母性の問題
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19480920110210

―――
 「(最近の子供虐待の新聞報道には)実の母親なのになぜ虐待ができるのかという論調が非常に多いが、そこで父性は問われないのだろうかとか、母性というものをあまりにも当たり前に女性に押し付けているのではないか。そのことが女性たちを苦しめているのではないか」と同氏はこの小説のテーマを語った。

 また母性に対する過度な期待は日本独特のものではないかとも指摘。「周りがあまりに母親とはこういうものだと決め付けているだけに、子供をかわいく思えないと自分は母親失格だと、無言のプレッシャーに追い詰められている女性は多いのではないか」と話す。
―――

上のインタビューを読む限りでは、どうやら従来の母性観を否定、または空洞化な母性を
父性(保護者)によって補完することで刷新することをテーマにしたかったみたいですね。

角田氏にしてみれば、mnhさんの発言―――「子ども産んだら守る人になる」とか「親になる
って大人になるってこと」こそが母性の押し付けに他ならないのだと思います。実際には母性に
何でもかんでもやりこなせるわけがない、女性一人の力では子の親という役割は務まらないから、
誰かの助けが必要だってことを角田氏は強調したかったんじゃないでしょうか。「自分の保護者
を求める行為」を多く描写したのは、そういう不完全な母性が実は一般的である(虐待を起こさ
ないのは単に恵まれているだけである)ことを読者に伝えたかったからではないかと思います。

>その上、思いっきり、男性不在の小説なんですよ。相手の人柄とか/ほとんど描かれていない。

いいんですよ。角田氏的にはそれでも。さっき言ったように、母親に育児の責任を押し付けるのは
過度なストレスを与えることになるから、父親も半分くらいは責任持てよ、周囲も理解の上、協力
してよって感じでしょう。

インタビューで語ったテーマで小説を書きたかったんなら、別に不倫&赤ちゃん泥棒なんて
ストーリーにする必要はないと思われるかも知れませんが、非力な女性が誰からの協力も
得られない環境下で育児の責任を一身に担ったらどうなるのか、という思考実験を行いた
かったのであれば、主人公が不倫して、愛人の子どもを盗み、逃げながら育てるという設定は、
案外いい線いってるんじゃないでしょうか。こんなふうに書くと、身も蓋もないのですが。

「八日目の蝉」という題名の由来にもマッチするでしょうし。

まぁ、角田氏の言ってることは小説の話の中でなら通用するんですけど、事実は小説よりも
奇なりと言いますし、現実の話にまで持って行くとあまりにも視野が狭すぎる考え方ですね。

763無精髭:2011/02/14(月) 01:33:25
角田氏は心理学者でも社会学者でもないので、前レスで挙げたような印象論で語るしかないので
しょうけど、虐待が起きる原因は、親自身の成育環境や、親の精神・人格の問題、子どもの性格
や健康状態や障害、経済的状況、夫婦間のトラブル、核家族化、等々、たくさんあるわけですよ。
そういうのが複雑に絡み合って虐待は起きるわけですね。角田氏のような直感的な推測は、小説を
書く上では格好のモチベーションになるのかもしれませんが、実際の虐待について考察する上では
あまり役立ちそうにありません。

(日本独特の)母性に対する周囲の期待感が虐待を生む遠因になっているなんて簡単に言いますけど、
母性押し付け論調の根源であるとされる新聞やニュースを見ない人とか、「母親とはこういうもの
だと決め付けて」くるような周囲とか地域社会から切り離された人って珍しくないので、角田氏が
指摘するような「無言のプレッシャー」を感じずに虐待している親だって少なからずいなきゃおかしい
はずです。むしろ、周囲からの押し付けが、親の中で虐待の抑止力になるようなモラル形成への
きっかけになっている可能性もあるんじゃないでしょうか。親としての自覚を促すという意味で。
だとしたら、押し付けの圏外にいる人間のほうが虐待を起こしやすいという考え方も当然できるでしょう。

あと、角田氏の推測とは対照的に、母性本能を否定し、女性の社会進出をラディカルに推し進めるべきだと
主張する一部のフェミニズムの影響のために、子どもを可愛く思えなくてもいい、出産や育児は女性の社会
進出において障害になるのだ、といった考えが社会に浸透したことが虐待増加の背景にあるという仮説も
あります。つまり、角田氏が想定するような「母性の押し付け」など、実社会ではすでに機能を失効して
いる可能性がある、だからこそ虐待が増えているのだとも言えるわけです。まさにアンチノミーですな。

http://fs1.law.keio.ac.jp/~hkatoh/gyakutai/2_1_B.htm

上に挙げたデータの中で角田氏の主張に一番近いと思われるのは、「育児負担感の増加」の箇所でしょう。
しかし、それも角田氏が推測するような「周りからの押し付け」が直接的な原因じゃなくて、そもそも相談
できる相手が誰もいないとか、保育園が足りないとか、育児を始めてみたら思った以上に大変だったとか
いったことに端を発していることでしょう。更に言うと、父性が問われる・問われない以前に、父親が
育児に参加しているかどうかの問題でしょう。察するに、角田氏には社会問題を物質的な問題からでは
なくて、精神的な問題から論じたがる癖があるんじゃないかなあ。それが小説家たるゆえんなのかも...。

764無精髭:2011/02/14(月) 01:35:32
余談ですが、角田氏の小説観には賛同できかねますなぁ。

―――
 角田氏はこの20年で日本の小説をめぐる環境は大きく変わったと指摘する。若い作家が増え、ジャンルが多様になり、小説に対しての敷居が低くなったことで、より身近なものとなった一方、「チープ」になったという。「チープになったという言葉はネガティブすぎるかもしれないが、ほとんど多くの読者の価値観が似てきてしまい、読んでわからない、難解なものをつまらないというようになったのは残念」と語った。
―――

若い作家が増えたら小説がチープになるって、これは若い書き手を軽視した言葉だし、大体、
年寄りの方が若者よりも良い小説を書くって決めたのは誰なんだと。同じ年寄りじゃないかと。

あと、ジャンルが多様になったら小説がチープになるって、ある特定のジャンルが小説界を
守っているしこれからも牽引すべきなんだーとかいった、よくありがちな古臭い文学観です。
良い小説の条件はジャンルの創造ではない、小説家個人の創造力である、とか、文学の伝統を守る、
とか、聞こえはいいですけど、こういうのって、自分たちの狭い世界だけで享受されている、だから
全然普遍的じゃない価値を一元的なものだと偽るために、他のジャンルに対して排外的になっている
原理主義者みたいなところがありますよ。

若い書き手が増えて小説の質が落ちることと、読み手が馬鹿になることの繋がりも良く分からない
ですね。若い書き手がチープな小説を大量生産しているから読み手が十分に教育されない、そして
チープな小説ばかり読んでる読者が「私でも小説書けるヮ」とか勘違いを起こして、それ以上に
チープな小説を書いちゃってまた読者が十分に教育されない、そういう悪循環が働いているとか
言いたいんでしょうかね。むしろ、こっちのほうが「残念」な小説観じゃないかと。

そのくせ、自分の小説は広く読まれてもチープにならないって言うんでしょ。

敷居が低くなったというのは、ライトノベルとかケータイ小説の台頭のことを指しているんだと
思いますが、見方を変えれば今までは敷居が高すぎた―――そのくせ敷居の向こう側には大した
ものがなかった―――人々の多様な欲求を満たせるだけの普遍的な価値がなかった、だから人々は
欲求を満たすために、まずは敷居のこちら側で新たなジャンルを次々と生成するしかなかった、
というのが実状ではないかと。

下記でもおんなじことを言ってますが。
http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/200810/10toku1.php
文学が人間の感情の多様性を支えるってのは、驕りでなくて何なのかと。で、ジャンルが
多様になれば、価値観も多様になるでしょう、常識的に考えて。それなのに、なんで逆に
価値観が画一化・平板化するんでしょうか。あと、高級な文学が読まれないことと、人間の
感情が荒廃していることなんて何のカンケーもねーよ、と言いたいですな。

まぁ、とにかくこういう感性の古臭くて、視野も狭く、おまけに不勉強な人が文学賞の
選考委員とかやってるんですから、日本の文壇も相当やばい。


おまけ。こんなのありましたー。

Mother (テレビドラマ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/Mother_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

765紫煙狼:2011/02/14(月) 16:20:21
>>761
ん?レアケースを想定してはマズかった?

>罵られてもないのに「罵られた」と感じる人
これは珍しくないよねぇ。脅されても居ないのに「脅された」と騒ぐ人とか
最近見たような気がするよ?もしかしたら髭さんにも心当たりが有るのでは?
これは「レアな人」というよりは、むしろ「アレな人」だよね。

>復讐心旺盛な人
これは「旺盛」をどう定義するかにもよる。けれど、そもそも復讐心と言うのは
被害感情に依存するものであって、客観的事実としての被害の大きさとは無関係
ではないのかなぁ?実際、このスレには「月に代わってお仕置きよ(はーと)」という
復讐代行業の人(被害感受性豊かな人?)が非常に多いように見受けられますよ?

と、考えると上記の二つを同時に満たすなんてのは「極めてレア」とは言えない。
だから、問題は「復讐心を満たす為には犯罪をも厭わない」人がレアなのだよね。
でも、それを言い出したら「刑事犯罪を起こす人」自体がそもそもレアじゃないか?

敢えて言うならば、レアな人は、アレな人に多そうな(自粛)

766無精髭:2011/02/16(水) 12:51:49
せっかく忘れてたのに、あの人のことを思い出しちゃいましたよ...(泣)。
と言うのは嘘で、別のスレでシェンさんから、あの人のことを忘れたほうが
いいと助言されましたけど、実を言いますと、かえってそれがあの人のこと
についてもっと深く考えるきっかけになってしまいまして、、、実は、あれ
からあれこれと書き溜めていたんです。近いうちにまとめて投稿しますが、
それと>>761のご指摘の箇所は密接に関係しております。

さて、レアケースについてですけど、私はシェンさんやななしさんのように
我慢強くもなければ、石橋を叩いて渡るようなタイプでもないので、誰かの
勝手な都合で自分が不利な状況に追い込まれたりなんかしたら、言うべきことは
言ってやりますし、場合によっては法的手段も辞さないつもりです。で、それには
相手がレア、もといアレであるかも知れないといった推測は邪魔になる、というか、
無視せざるを得ません。他人の中にアレな人間が結構な割合で存在するなんて
思ってたら、危なっかしくて何もできない、ただ泣き寝入りするしかありません。
まぁ、ですから、可能性は否定できないんでしょうけど、それを基に行動計画を
立てる気にはなれないなぁ、といったところですかね。レアケースを想定するのが
マズイというより、レアケースであってくれなきゃ文句一つも言えないので非常に
困ります(笑)。

>罵られてもないのに「罵られた」と感じる人

どうでしょう。各人の人生経験によるのかも知れませんけど、少なくとも私に
とってはレアケースでしたね。ななしさんに因縁を付けた人とか、例の御仁の
ような極端な人物には、リアルではメッタにお目にかかれないです。

いや、まぁ、しかし、それが仮に誰にとっても珍しくない存在だとしても、です。
私は、罵られてもないのに「罵られた」と感じる人という存在を、二重の意味で
捉えているというか、二つのタイプに分けているというか、少し複雑に理解して
いるようです。

私からすると、ななしさんの旦那さんの元不倫相手とか、あの人の場合、被害
妄想狂であるかどうかという以前に独自文法を操る人だったから、人間不振に
陥るまで精神的被害が彼らの中で拡大してしまったのか、それとも、もともと
単に傷つきやすいメンタリティの持ち主だったから被害妄想から抜け出せなく
なってしまったのか、それが謎なんですよ。つまり、被害感情(精神的虚弱)
が先か、独自文法(知的不能)が先か、ということです。普段は頭がいいのに、
口論になると熱くなりすぎて頭が回らなくなる人もいれば、頭が悪いからこそ、
何でもかんでも誹謗中傷と受け取ってしまう人もいるんじゃないでしょうか。

ちなみに、独自文法に囚われている場合、極端な話、実際に被害感情を抱いて
いなくても、被害者ぶることができると思います。なぜって、普通は罵詈雑言
でないとされる言葉遣いも、罵りの言葉と解する文法・語法に照らし合わせれば、
文法・語法上の「客観的事実」と言えるからです。言い換えると、独自文法の
持ち主には、自分が当の言葉を投げかけられてどう感じるかということを抜きに
しても、それが罵りの言葉であることは自明なわけです。つまり、自分に向け
られた言葉が罵りの言葉であると認識することと、その言葉で傷つくことは違う、
ということです。罵りの言葉であると認識するに留まり、心に大したダメージを
負わない人は、被害感情抜きに被害を訴えることができるでしょう。そして、
周りもなんとなくそれに惑わされることがあるかも知れません。彼にとっては、
自分が傷ついたということよりも、誹謗中傷されたという事実のほうが大事であり、
誹謗中傷した相手を槍玉に挙げることのほうがもっと大事なのです。

767無精髭:2011/02/16(水) 12:52:13
>復讐心旺盛な人

罵られたらやり返すヤツは珍しくないが、過剰にやり返すやつは珍しいって話
ですよね、分かります。「復讐心旺盛」という表現を使ったのは、被害感情を
念頭に置いていたからではなく、攻撃本能とか、衝動性、暴力性を意識していた
からです。ストレスを入れる器が小さい、ということなのかも知れませんが。
という次第なので、もちろん、過剰報復を内から支える心情的基盤のことを
「復讐心旺盛」というふうに私は定義、というか念頭においていました。これは
殺人までエスカレートしかねないケースと補い合う関係ではないでしょうか。

つまり、被害感情は復讐心(報復感情)の必要条件ですが、十分条件
ではないというようなことを言いたかったわけです。

とは言うものの、復讐心が被害感情に依存するかどうかまでは、私にはどうも
良く分からないんです。仮に依存するかどうかを勝手に決めていいのだとすると、
それこそ「被害感情」の方を定義しなければならないと思います。これは独自文法の
問題とも絡むのですが、たとえばシェンさんが仰っているような「復讐代行業の人」は、
被害感情を持っているのですよね。私にはそれがとても不思議です。自分が直接被害を
受けたワケでもなければ、被害者の関係者でもないのに、なぜ被害感情を持つことが
できるのでしょうか。この場合の被害感情というのは、被害者やその関係者が抱く
感情とは別種のものであるはずです。これはたぶん同情とか共感というヤツです。

仮にこれを被害感情と呼ぶことが許されるとしても、私が思うに、もう一つ問題が
あります。私たちから見てお門違いな復讐心を抱く人は、メディアの情報(真偽の
ほどは別にしても)に触れたのをきっかけにして、復讐心なり被害感情なりを
抱き始めるわけでしょう。真実であろうがデマであろうが、情報として存在する
ことは客観的な事実であるのだから、そういうものでしか赤の他人の犯罪被害を
知ることができない(被害者やその関係者じゃない)完全なる第三者の場合、
復讐心や被害感情は、客観的事実と無関係と言えるどころか、客観的事実の内容に
大きく左右されざるを得ません。

768紫煙狼:2011/02/17(木) 02:49:01
>>766
実は>>765の文章は、およそ5倍の分量から削って削ってあの量にして物でして…(苦笑)

・万引き犯を追いかけて捕まえたら刺し殺された
・イヤホンの音漏れを注意したら刺し殺された
・精神病患者の治療をしていたら撃ち殺された
・飛行機が墜落して多数の死者が出た

これらはいずれも実際に起きた事件ですよね?確かに極めてレアなケースです。
しかし、これらの事件のおかげで、万引き犯を追い詰めてはいけないという認識が広がり、
一時的に、もしかすると今でも、万引き犯の対応をする人は慎重に対応するようになりました。
イヤホンの音漏れを注意することに、一瞬なりとも頭を恐怖がよぎるようになった人がいます。
攻撃的兆候の強い精神病患者の治療に後ろ向きになる医者が増えました。
もとから飛行機嫌いの人の「飛行機が嫌いな理由」が増えました。

良いか悪いかではなく、可能性が高いか低いかではなく、どんなに稀な事象であっても、
たった一度の実例があれば、それが通常考えられない事であるほど、過敏になる人がいる。
似た経験をしたことがあれば、自分や家族が被害者になっていたかもしれないと思うのは、
これはもう、数学の世界の話ではなく、心理学の世界の話ですよ。羹に懲りて膾吹くというのは、
元来、行き過ぎ・やりすぎを嘲笑う諺だと思いますが、本人にとっては大問題なのですよ。
だから、日野OL放火殺人なんてのは極めてレアな事件ではあるけれど、そのたった一度の実例で
恐怖におののく人には「自分にも降りかかりかねない事象」なのですよ。

「明日、試験なんだ。落ちたらどうしよう?」という問いに対して
「なら、一度テキストを読み返しておいたら?」という返答は間違ってはいないはず。
「いや、合格率95%の簡単な試験だから大丈夫でしょう」という返答が正しいといえるのは、
それまで不安を感じている本人が充分に対策をしてきたと認められる場合だけでしょう。

と、言うと「お前は恐怖をあおっているだけじゃなかったか?」と言われそうですが、
私が言及した例では、すでに危機は脱しているのだから、あとは無事を喜ぶだけで充分に
彼女も安心する…。もしかすると「一層、無事であることへの喜びも深まるだろう」という
勝手な判断に基づくものであって、さすがに「今、丁度、夫の愛人とモメていて…」という話なら、
私も「危険だよ〜」とは言えないよなぁ(苦笑)

769紫煙狼:2011/02/17(木) 02:49:31
>>767
「主観と客観」のような哲学的な方向に話を引っ張るツモリはないのですが(笑)

「女生徒一人が路上で30箇所以上刺され失血死した」と被害者の生前の顔写真入りで新聞に
載ったとして、ここまでの情報は髭さんにとっても、私にとっても客観的事実でよいと思います。
が、ここに同情なり共感という要素(被害感情・復讐心の代行)を私情抜きで定量的に持つことが
出来る人はどれだけいるのでしょうね?実は客観的事実だけでは同情すべきなのかどうかさえ
判断がつかないはずなのではないでしょうか?(それが髭さんのスタンスだよね?)

ところが公開された女生徒の顔写真が…。まぁブスと言うか何というか、見られたものではない。
とたんに人の同情は色々な方向に分岐するわけですよ。
・こんな不細工は、案外本人も死んでよかったんじゃないの?(2chにありがち)
・不細工は世の中に不要だから犯人も不細工を狙ったんだね。
・ただでさえ不細工と言うハンデを持って、それでも一生懸命生きている人を殺すなんて!!
・世間一般の評価は別に、実は俺はこういうタイプが好きだから、殺したやつは許せない

逆に超美少女だったとしても、結果はそう変わらない。
・美人は何かと妬まれるっていうしね。刺されるようなことでもしてたんじゃないの?
・そりゃ、殺すなら不細工より美人を殺したいっていう犯人の気持ちも分からないでもないよな
・世間一般の評価は別に、実は俺はこういうタイプがキライだから、どーでもいい

「30箇所以上刺して」という情報も主観と無縁ではいられない。30箇所以上さすという行為が
残忍極まりないと考えて加害者に怒りをもつ者もいれば、逆に、それなりの事情があったに違いないと
加害者サイドからものを見ようとする者もいる。もちろん、多角的に考えあらゆる方向から見極める
ことで客観的であろうとする努力は認めても良いけれど、実際に客観的と言って差し付けないレベルまで
客観的を目指す義務を負う人は殆どいないのだから、結局、自分の主観の居心地の良いところで探求は
終わってしまう。そうでなければ、そもそも自分が関与しない事件の登場人物に感情移入する人が
増えたとしても、その事件に対して皆が持つ同情と言うのは、およそ誤差の範囲内に収まる…。つまり
皆がみな似たり寄ったりの結論で終わるはずじゃないですかね?「師匠死ね」とか「キャシー最悪」と
いう不毛な論争が延々と続くワケがない。一番客観的であってしかるべき部外者でさえ、なかなか
主観を排除することは出来ないって事ですよ。

770紫煙狼:2011/02/17(木) 02:49:55
もう少し付け加えさせてください。

そもそも人は快楽に対して正確な量的判断を求められることはないのです。「1つ2つ3ついっぱい」でいい。
ところが、不快感に対しては非常にシビアに量的判断をする。でなければ、病院にいくとか手当てするという、
生存するために必要な行為の判断が難しくなる。だから同じ物でも得たときと失ったときでは、失ったときの方が
心を大きくゆすぶられる訳です。

「結婚して、子供が出来て、幸せな日々を得た喜び」「妻・子供を同時に突発性の病魔に奪われた悲しみ」
これをどこまでも数学的に処理すれば「妻と子供を得て」「妻と子供を失う」のですからプラマイゼロ。
あえて言うなら、別れの時で続いた幸せな日々の分、トータルでプラスですよね?でも、心という要素は、
そんな単純計算を絶対に認めない。

失った物の、その人にとっての価値と言う主観的基準も存在する。たかがバナナ1本、という価値観と
俺のバナナ取りやがったな!という価値観、これはその人の主観に依存するものでしょう?

復讐代行業なんてのは「そもそもが負の方向に陥りやすい人の主観(被害感情)に依存する」とでも考えなければ
説明のつかない話ではないでしょうかしら?もちろん、この先には自分は被害にあっていないはずなのに、
なぜか興味本位で過去の事件を調べて勝手に登場人物に復讐心を持つという迷惑な人の存在を確認できるわけです。

なるほどね、記事という客観的事実の存在がなければ、主観を呼び起こすことは出来ない…。

いや?本当にそう?実際は「勝手に妄想に浸った挙句、一人で被害感情を高ぶらせて」という事例もあるでしょう。
先ほど出した精神科医の例では客観的事実は「治療した」のではないでしょうか?でも患者の主観的事実は、
それとはかけ離れていた結果、勝手に復讐心を燃やして拳銃を手に取ったのではないでしょうか?

こう考えると、延長線上に
>そもそも復讐心と言うのは被害感情に依存するものであって、
>客観的事実としての被害の大きさとは無関係ではないのかなぁ?
と考えただけの話なんです。

771桃煙狸:2011/06/02(木) 06:03:25
被害者がブスなのか超美少女なのか
とか、どこまでも数学的に処理すれば
「妻と子供を得て」「妻と子供を失う」のですからプラマイゼロ
とか、どこまでも薄っぺらいな。

772恐縮です。:2011/06/07(火) 21:01:39
このスレどこまで行っても堂々廻りなのが、事件の本質なのかも知れません。
お互い住む世界の違う人達のやり取りなので、正直宇宙人同士。
言葉が違うから通じない。

773恐縮ですか?:2011/06/08(水) 01:39:28
「既婚の中年男が、部下である若き未婚の女性と不倫している」と聞いたら誰でも
手練手管の中年男が主導権を握って、若い女性を弄んでいる図しか思い浮かばない。
多くの視聴者が「女性は弱者であり、男たるもの弱者を守る存在であって欲しい」と
思っていて「ささやかな幸せを求め、愛に生きる女」の姿に共感し「より立場の弱い
方の女を応援したい」と感じてしまう。

そんなメロドラマ性をこの事件に期待し、予定調和にそぐわない台本にダメ出しする、
ハタ迷惑な脚本家やディレクターが後を絶たないって事では?

774こだま:2012/01/28(土) 15:00:56
この事件、まだ2chで話題になってるんですね。
加害者と事件後、かわら版なるもので、接する機会があり少しは
彼女よりの応援者でしたが、詳細書けませんが、やはり異常な神経というか
劇場型な人です。
人の優しさ思いやりを受け入れる人になって、早く世間に出てやり直しほしい
ものです。
やはり、子供二人殺した罪で、死刑にならなかったのは、裁判官の温情だと
心に刻んでほしいものです。

775無精髭:2012/01/28(土) 23:55:40
2chのスレを覗いてみました。大した感想はないですが。

いつも思っていることですが、被害者・加害者に関わらず相手を叩いていると、いつか予期せぬ形で自分に跳ね返ってくるかも知れません。
スマイリーキクチさんの件もありましたし
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/kurashi/2011/11/25/1335.html
日々のストレス発散はほどほどにしておいたほうがいいですよね。

あと、こんな書き込みがありました。
http://logsoku.com/thread/toro.2ch.net/news2/1317728689/544-
boroさんの当事件についての書き方が加害者寄りに思われるということで、すでに>>533-535>>540で議論されていることですが、これについては少し異論があります。

まず、情報が客観的な形で存在する―――誰でも同じ情報にアクセスできるということと、その情報の質が客観的である―――伝え手の主観を排しているということは違うということに留意すべきです。

また、放火殺人に帰結した不倫という一連の出来事についての言説は、その殆どが加害者側から出された情報で構成されているかの観があり、すでにその時点で情報全体の客観性(中立性)は保障されたものではありません。

boroさんは、この事件に限らず全ての事件について文献を基にして記事をお書きになっていますから、この場合の客観性というのは、感情を排するという意味での客観性のことではなく、文献中の記述に対しての客観性のことでしょう。それは、インプット・アウトプットの両面から目の前の情報内容に対し忠実に接するということですから、文献中の記述が主観的、ないし関係者の一人を中心にしたものであれば、それを基にした記事もその傾向が反映されざるを得ないわけですね。もちろん、文献の選択にboroさん自身の主観が働いてしまった、ということはあるのでしょうけど、当事件の関連文献の多くが加害者側から出た情報に依拠しているようですし、逆に被害者側から出された既存の情報に比重を置いて当事件の詳細を書くのは非常に困難であるという事情も考慮すれば、boroさんの文献の選択もあながちバイアスが効いているとも言えないのではないでしょうか。

雑談スレでのboroさんの書き込みを読んでいたことも手伝って、私は以上のように得心いたしました。

以下は、何年か前に別スレでもリンクを張った記事ですけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9

ところで、以上は>>767「真実であろうがデマであろうが、情報として存在する/ことは客観的な事実であるのだから、」以下の主張ともリンクする考えです。冒頭で挙げた2chの書き込みや村雨さんの問題提起は決して珍しいものではなく、他に事例がいくらでも転がっているくらい現実味を帯びたものであって、だからこそ>>767での解釈の余地も生じるわけです(雑談スレでのゴタゴタや震災で、この件について書き溜めていた文章の存在をすっかり忘れていたので、近いうちにまとめて投稿したいと思います)。

776無精髭:2012/01/29(日) 23:40:07
そういえば、2chという言葉で思い出したのですが
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/p03.html
http://web-en.com/main5_023.html
ねらーの自治性としての側面、そして倫理性でもあるアイロニーが失われつつある、と言われて久しいですが、哀しいことですね。

ただ、本件に関してはあまりユーザーややり取りの質に変化は見られないと思いますけど。
http://www.geocities.jp/logupper/hino/hino02.html

本件のような実際に起きた事件に関する言説の場としても、2ちゃんねるに期待がないわけではないので、どうせ暇つぶしやストレス発散をするなら、本件について安易な一元論化を許さない・徹底的な相対化や、極限まで距離を置いた・斜に構えた果てにもはや本件について語っているとは思えないほどの脱線振り、暴走振りを発揮してもらいたいものです。被害者悪い、加害者悪い、といくら表現を変えて主張しても、先のような欲望を満たす上では不完全燃焼に終わる気がして仕方ないのです。

実際の事件を語ることで、関係者に対する実害を伴わずに暇つぶしやストレス発散をするには、相当の工夫と機転が必要かと思いますが、それは各人の腕の見せ所でしょう。


さて、ほぼ一年前に自分で書いた覚書を読み返してみましたが、本当に思いついたことを書き散らした程度のものなので、個々の文章間における論旨のつながりやら、そもそもどうしてこんなことを書いたのかすらも忘れている部分が多く、とどのつまり、当時の問題意識に頭を切り替えて、これを起承転結のある文章に纏めるのは無理だと判断しました。それでも一応通読できる程度には文の体裁を整える必要がありましたので、10分の1くらいは削って、少し書き足しましたが、結局、ほぼ原型と変わらないものを以下に投稿することにいたします。いずれにせよ、遅きに失した感は否めませんが。

―――

私とシェンさんとの意見の齟齬がどこにあるのかをハッキリさせるためにも、
まずは>>769の論点を私なりに整理させていただく必要がありそうです。

>「女生徒一人が路上で30箇所以上刺され失血死した」と被害者の生前の顔写真入りで新聞に載った

客観的事実に違いないが、これだけでは復讐心にまで成長しうるほどの強い同情を被害者に対して抱くことは
できない。そのためには私情が不可欠である。

>公開された女生徒の顔写真が…ブスor美少女

被害者の顔写真を主観的判断で評価することで得られた、主観的事実というべきもの。
客観的事実が主観というフィルターを通して同情の対象とされていくことを示す。
主観的事実とは各人各様の事実である。自分にとっては主観的事実だからといって、
他人にとっても主観的事実であるとは限らない。

>客観的事実は主観に対して一様の影響力を持つことはできない

各人が自らの価値観に見合った解釈に安住する。でなければ、客観的事実の同一性により
各人の解釈の差は埋まるはず。しかし、実際には各人の意見はバラバラである。したがって、
客観的事実は各人の主観を統一することができない。逆に、主観からすれば、客観的事実を
認識する上で、己の判断基準・価値基準(外部に対する評価・解釈的なもの)を排することが
できない。

客観的事実が誰から見ても同一であるのに、各人の主観が多様であるのは、主に主観に原因
がある、というのがシェンさんの主張。

シェンさんの論旨を簡潔にまとめると以下のようになるでしょう。

(1)客観的事実が主観に及ぼしうる心的効果の限界を指摘する。
(2)客観的事実が私情を通して捉えられたときの同情(解釈)多様性を指摘する。
(3)逆戻りして、実際の同情は多様である。だから、事実は私情を通して捉えられているに違いない。そこに客観的事実の限界がある。

一方、私の主張は「客観的事実の存在がなければ、主観を呼び起こすことは出来ない」というもの
ではなくて、「客観的事実は第三者の主観に大きな影響を及ぼす」というものです。シェンさんが
主観一般を考察対象としているのに対し、私はある事態に対する第三者の主観以外には、これと
いって言及しておりません。そして、私は、客観的事実が主観(的内容?事実?)の原因であると
主張したのではなくて、客観的事実が主観に与える影響の大きさを示唆したに留まっております。

777無精髭:2012/01/29(日) 23:42:58
つまり、私とシェンさんの食い違いが何に起因するかと言うと―――

・事象・状況に対する立場上の違いから主観を区別するかしないか。
・客観的事実を既存の主観内容に対する影響因子と見なすか、主観内容が生じるための要因と見なさないか。

以上の二点かと思われます。しかしながら、後者の相違点というのは、そもそも同じ問題において対立する
論点なのでしょうか? どちらも客観的事実とは無縁に主観が存在していることを前提にしつつ、一方は
影響因子(可塑性)についての問い、もう一方は生成(存在)要因についての問いかと思うのですが。
また、前者の相違点は、主観に関する一般論・総論的考察と特殊論・各論的考察の相違かと思われるかも
知れませんが、そう話は簡単ではなく、シェンさんは、主観に関して個人的な違いを指摘しておられますが、
立場上の違いには言及されていない、というより、ある理由からその違いを無視することができるという
ように書かれていらっしゃいます(この点については、私の考えと併せて後述いたします)。

さて、私とシェンさんにおいて意見が一致している点を挙げてみましょう。それは、上記(1)についてです。
客観的事実が主観に及ぼしうる心的効果が存在することには何ら不思議はありません。かといって、自然に
任せるままに、その限界が何の対処もなくそのまま放置されるのであれば、主観は客観的事実を(心的・感情的に)
認識(感知)し得ないでしょう。だから、その間隙を埋めるために主観の側から私情が動員されます。
これは確かなことだと思われますので、さしずめ問題なのは次の二点です。

(a)実際の同情は多様であるか
(b)どの客観的事実も私情を通して捉えられているか

前者は上の(3)の肝となる部分への疑問。後者は(2)と(3)に跨った疑問となるでしょう。


(a)実際の同情は多様であるか

いきなり自ら出鼻を挫くようで恐縮ですが、ある被害に対する人々の同情が多様かどうかを
調べる上で、人々が全く同じ情報を共有しているとは限らないということは非常に悩ましい
ところです。なぜなら、一つの客観的な情報を知ることで人々の同情が多様になるかどうかを
知りたいのに、一つの客観的事実を伝える客観的な情報が沢山あったりしたら、人々の様々な
同情は、様々な情報を知ることで生まれるのか、一つの客観的な情報を知るだけでも生まれ
うるのかが、分からなくなるからです。

被害に関する情報は、捜査の進展や各種報道機関の情報収集等を含む時間経過の中で、それが
起きた時間や場所の情報、さらに被害者や加害者の情報、警察の捜査や取調べなどの情報、
そしてそれらに対する評価的言説などと組み合わさることにより、一つの膨大な事件情報を
構成する一要素となります。

一つの客観的な情報内容が一意的である(誰から見ても同一の存在で、かつ単一の意味を持つ)
ということと、一つの客観的な情報内容が多義的である(誰から見ても同一の存在で、かつ
あいまいな意味を持つ)というのは違いますから、これに併せて、一つの事件が多くの情報で
伝達されている状況、情報そのものの多様性、こういったものに晒されている人々の間で意見が
割れることと、私情の個人差が原因で意見が割れることは区別しなければなりません。

多様性とはどのようなものかを考える上で欠かせないのは、一方で各人の私情に即した多様性、
そして他方で私情とは異なる多様性の区別であり、人は、知識の複数性と私情の固有性を同じ
主観に宿している、というわけです。

そこで私が思うのは、実際は各人の同情が多様なのではなく、ただ多様に見えるというだけで、
それは各人が発する言葉が多様であることに起因しているからなのかも知れない、ということです。
つまり、表層上異なって見えるものが本質まで異なっているとは限らないのです。少なくとも、
ネットでの言説に対して多少でも注意深くあろうとする者であれば、ネット上で行き交う様々な
同情の声を、個々人の基底的な価値観なり本心なりが直に反映されたものであると額面通りに
受け取るわけには参りますまい。

778無精髭:2012/01/29(日) 23:46:16
(b)どの客観的事実も私情を通して捉えられているか

シェンさんが例に挙げたような客観的事実だけでは「同情なり共感という要素(被害感情・復讐心の代行)」を
「定量的に持つこと」ができないだろうという点については、おそらくそうではないかと思います。

ただ、この場合は、客観的事実云々というのは関係なく、単に情報不足だから、事件への(ある一定以上の)
関心を呼び起こせないということはあるかと思います(情報不足、すなわち謎が多いからこそ、特に興味を
引かれるという人も中にはいるでしょうが)。日時や場所、事件に関する詳しい経緯や加害者に関する情報
などが分かれば、人々の関心を呼び起こすことはできるかも知れません。あるいは、犯行現場が現に自分の
住んでいる場所とか実家とか思い入れのある場所に近かったり、女生徒と同じ年頃の子どもを持っていたり
すれば、事件への特別な関心は湧くのではないでしょうか。

私が言いたいのは、ある一定以上の情報が提供されていない、もしくは自分と事件との間に関連がほとんど
ないことが情報を通じて分かる場合、さまざまな憶測が飛び交う余地も生まれるのではないか、ということです。
これは事実関係が不明な場合でも同様ではないでしょうか(狭山事件の場合など)。

まず、各人の立場が違うのを理由に被害感情を区別することをシェンさんは拒否するわけですよね。

犯罪の直接被害者が被害感情を持つ。
犯罪被害者の関係者が被害感情を持つ。
犯罪報道で第三者が被害感情(?)を持つ。

客観的被害の大きさとは無関係に主観的被害が拡大しうる―――実際の被害がない場合でも
被害感情が生まれることがあるのを根拠に、この三つを同質のものであると見なすわけですよね。
そして、赤の他人の犯罪被害を報道で知って同情することと、単なる被害妄想を持つことは、
実際に被害を受けていないのに被害感情を持つ、という点で本質的に同じものとのことですから、
犯罪被害者が持っている被害感情も妄想的部分があるということですよね。

ところで、被害感情というのは、被害を受けるのは自分である、害悪は自分の外部からやってくる
という意識を伴うものです。直接被害者がそのような被害感情を持つのは当然であるとして(実際には
自分が被害に遭っているのに被害者は他人だと思う人も稀にいるかもしれませんが)、その関係者が
そのような被害感情を持つことができるのは、直接被害者と自分を同一視するからですよね。自分と、
家族や友人とはいえ他者を同一視できることの延長線上に、自分と赤の他人を同一視できることも
見えてくるわけでしょう。しかし、一般に家族とか友人に同情するのと比べて、見ず知らずの他人に
同情するのは、そうすんなりとはいかないものでしょう。


さて、ようやく本題に移りますが、本当に被害感情は客観的被害の影響を受けないのでしょうか。

実際の犯罪被害から生まれた被害感情
家族が犯罪に巻き込まれたことから生まれた被害感情
全くの赤の他人が犯罪被害に遭ったことから生まれた被害感情

事を「主観と客観」という原理原則的な話にまで拡大させるなら、シェンさんの仰る通り
なのでしょうけど、私とシェンさんとで意見が食い違っているのは、おそらくそんなに
大げさな話ではないですよ。先述したように、私は「どんな立場にあろうが人間の主観は
客観的事実から生まれる」とは言ってなくて、「ある事態に対して第三者的立場にいる
人間の主観は、ある事態についての客観的事実から大きな影響を受けざるを得ない」と
言っているのですね。よくマスコミの印象操作がネットで批判されたりとか、社会調査の
作為性が問題になったりとかしますが、そういうものにまんまと嵌ってしまう人たちが
いるからこそ、私は「客観的事実の内容に大きく左右されざるを得ない」と書きました。

ご存知のように、震災・原発事故・放射能の件についても、各人のリテラシーの差―――
主観の違いによって意見が紛糾しましたけど、別の側面では、情報に踊らされたという見方も
できるでしょうし、政府の情報公開・秘匿に対する世論の反応を見るにつけ、いかに情報が
自分たちの判断や行動に多大な影響を及ぼしうるものなのかを国民は自覚している、と言っても
構わないのではないでしょうか。

くどいようですが、客観的事実としての情報さえも主観と無縁ではいられない、という点には
同意しております。しかしながら、私見では、客観的事実としての情報が主観に深刻かつ多大な
影響を及ぼす可能性があるような気がしてならないのです。

779無精髭:2012/01/29(日) 23:47:57
断片的な情報一つ取っても、様々な解釈がありうる・人によって解釈が異なる、というのは
よく分かるのですが、情報内容が不確かな場合とか、事実の記述よりも解釈(評価情報)の方が
多くを占めている場合では、それを享受する人々の内でも、何らかの傾向なり偏りが見られる
のではないでしょうか。人々の意見の違い・争いは、情報の客観性ではなく、個別主観の特殊性に
起因するというシェンさんの説が正しいなら、どんな情報に対しても各主観の区別なり差異なりが
一様に反映されるはずですが、実際は情報によって主観の間で一致が多く見られたり、反対に
ばらつきが激しかったりするのではないでしょうか。これを同情とか共感の偏差、と言っていいか
どうかは分かりませんが、シェンさんの説に従えば、人々の同情や共感の偏差は、どんな情報に
対しても関係なくランダムに定まっているかのように観察されるはず。しかし、それを評価する上で
意見の割れやすい・割れにくい(賛同または反発の流れを形成しやすい)情報というのはやはりあるでしょう。

繰り返しますが、実際は情報内容の違いによって人々の同情の偏差は大きかったり小さかったり
しますよね? たとえば、女子コンクリの場合。第三者による意見の大半が、被害者への同情と
加害者に対する憎しみで占められているかと思うのですが、あの事件にもし、被害者に明確な落ち度が
あった、とか、一種の報復だったとかいった事実があって、誰もが確認できるように報道されていた
としたら、日野OLのような泥沼になったかも知れません。日野OLの場合は、シェンさんも私も夙に
指摘しているように、事実関係に不明な部分が多いですし、事実関係が分かっている部分でも、それを
構成する要素であるキャシーの証言には信憑性の疑わしい部分もあります。このような情報内容では、
第三者間において意見(解釈)が分かれるのは半ば必然であると言えるのではないでしょうか。もし、
そこに決定的な物証―――妻とキャシーの会話を録音したテープなどが見つかりさえすれば、
これまでのように異なる意見が拮抗するかのような事態から脱却し、趨勢が変わるかも知れません。
また、秋葉原通り魔の加藤被告についても、被告の生い立ちを知るのと知らないのとでは、そこに
集中する同情・反感の量は異なるのではないでしょうか。ある事実の発見によって、加害者サイドから
被害者サイドに同情の対象が移る人もいるでしょう(逆もまた然り)。逆に、事実なしに解釈を深める
だけでそういう転向を遂げる人はほとんどいないのではないでしょうか。

別に実際の事件報道でなくとも良いのです。事実を記述した文章は読み手に対して真偽を
問わせる方向へと誘導し、評価を記述した文章は読み手に対して肯定と否定(あるいは留保)
のいずれかの印象を抱くように仕向け、あいまいな文章は読み手に対して意味を確定させる
ことを中々許さないものでしょう。

シェンさんが例として挙げている架空の新聞報道にしても、情報の質的な違いが人々の意見を
別々の意味で分岐させてしまうとも考えられます。

・女子高生が刺された
・女子高生が美人(ブス)だった

いずれに対しても人々の意見は分岐するでしょうが、前者が事実、後者が評価である以上、
分岐の種類が異なるのではないでしょうか。前者においては、なぜ刺されたのかについて意見が
分岐することが多いのに対し、後者においては、前者と違って事件に関係ない話題で意見が
分岐しうる(ただ、意見が分かれたとしても事件をネタにして盛り上がっている点では同等かも)、
といった違いが見られるとか。人々がどの事実に注目するかは、各人の主観によって決まるのでしょうが、
注目するも何も事実がなければ、分岐(主観の違いが顕在化すること)もありえないでしょう。

ただ、注意していただきたいのは、私が言っているのは、美人とかブスなどと評価される客観的
対象がなければ、それを評価する主観も起こりえないという話ではないのです。ある客観的事実の
有無以前に主観が存在するのは自明でしょう。そして、その事実を受容するのも主観以外にはありえません。
ただ、全ての人間は主観に囚われているという考えは、各人の主観が現に異なっていること、及び
いかに異なっているかの説明にはなるでしょうが、各人の主観がどのように生成し変化していくかの
説明にはならないです。それを説明するためには、ある特定の人物の主観が客観的事実をいかに加工して
主観的事実としたかを、そして、それが元の客観的事実と比較していかに異なっているかを、
彼の言動という客観的事実から推理する必要があるでしょう。

780無精髭:2012/01/29(日) 23:49:05
ちなみに、これに関するシェンさんの表現をものすごく抽象化すると、ある主観は別の主観に依存する、
ということですよね。たとえば、復讐心という主観は被害感情という主観に依存する、とか。
解釈は別の解釈を呼び起こす、とも言い直せるかと。こう書くと同語反復みたいなので、胡散
臭さが漂う気がしなくもないのですが、実は私が>>766の後半で「独自文法」を仮定した時の
考え方に極めて近い考え方だと思います。私はそこで「客観的な文法では誤りとされる言語使用が、
独自文法においては客観的事実とされる場合がある」というような意味のことをお書きしましたが、
それはシェンさんが書いて下さった「主観的判断」の一節や、「主観的事実」の問題とほとんど
同じものだと思って下さって構いません。主観が自らを対象化することで負のスパイラルが働く
ということに反対する者などおそらくいないのではないでしょうか。もちろん、私が提起した問題も
それ自体では、復讐の鬼の出現というレアケースを十全に説明するための道標にはなりえません。


シェンさんは、かなりレアケースに寄り添った考え方をしているなあと思いますが、
私は、ネットユーザーの主観の多様性と、キャシーとか医者を刺し殺した患者の主観の
特異性を分けないと共感についてうまく説明できない、と思うんですよね。

なぜって、主観の多様性だけで共感とか同情を説明しちゃうと、たとえばキャシーに同情する者たちが
次々と現われても、それぞれ勝手な動機で同情してるだけだから、そういう人たち同士の間で意見が一致
したとしても、ただの偶然、ってことになっちゃうから。俺はこういう考えだけど、お前もそうなんだね、、、
コレで終わり。ここまでしか説明できない。しかし実際、同じ考えの持ち主達は往々にして、俺とお前は
仲間だ、というところにまで発展しますけど、紫煙狼さんの考えだと、それを奇怪な現象としてしか
捉えられないのではないかなぁ。

共感や同情という心理作用の場というのは、何も自分と被害者という縦のつながりだけではなく、
同じ被害者に対して共感(反感)する者同士の横のつながりもありますからね。(第三者による)
共感・同情には、ある事象に対する作用の面とは別に、他の共感・同情に対する作用の面、つまり
横のつながりに対する共感・同情の連鎖も無視できません。ジャスミン革命等のきっかけとなった
と言われるソーシャルメディアでは、おそらくその傾向が顕著に出ているのではないでしょうか。

シェンさんが挙げてくださった、様々な共感(反感)のパターンも、他人の影響を免れているとは
限りません。他人や周りの雰囲気に感化されやすい人はいますし、何にでも反対したがる天邪鬼な人
もいます。他人がこうしているからという理由も、自分の共感(反感)の仕方に影響を与える可能性は
あるでしょう。言うまでもなく、他人がしている共感・同情というのも自己にとっては客観的事実に
違いないのです。

シェンさん流の主観説に従うと、第三者同士で共感したり同情したりすることは、単にその人たちの
主観が似ているからであって、個々人の主観が似ているのは偶然に過ぎない、ということになるんで
しょうけど、ある事象に対する共感や同情の面では一致しているかに見える人たちでも、他のことに
なると意見が異なる、全然似ていない主観を持っているなんてことがありますからね。先に挙げた
革命でも、一致団結して独裁政権を倒したは良いが、その後どうやって新たな国づくりをするかについて
皆が皆好き勝手なことを言い出して意見がまとまらないなんて事態に陥ったそうですね。

―――

781こだま:2012/01/30(月) 23:23:03
キャッシーは
何度か写真見ましたが、そこそこな顔でしたが。。。。
それと、妹さんは結婚して幸せにしています。

782紫煙狼:2012/01/30(月) 23:28:40
無精髭さんの熱いラブコールを無視するわけにはいきませんなぁ(笑)僕はいつでも臨戦態勢よ(はぁと)

>私とシェンさんとの意見の齟齬がどこにあるのかをハッキリさせるためにも、
そもそも、無精髭さんと私の意見の間に「齟齬」なんてありますかしら?

無精髭さんは「一般的に主観は客観的事実に影響される」と言っていて、これは私も認めているつもりです。
それに対して私は「復讐心の強さは主観に影響され、必ずしも客観的被害の大小に比例しない」と言っています。
二つとも同時に成立しうると思いますが、いかがでしょう?

あと「客観的事実の存在がなければ、主観を呼び起こすことは出来ない」は私の言葉ですよね。
これは>>770で言う「なぜか興味本位で過去の事件を調べて勝手に登場人物に復讐心を持つという迷惑な人」にとって
「客観的事実が及ぼした影響」を抽出しただけで、常に「客観的事実の存在がなければ、主観を呼び起こすことは出来ない」
が成立するという意図ではありませんでした。これは私の書き方が悪かったですね。

むしろ、私が言わんとしていたのは
「なぜか興味本位で過去の事件を調べて勝手に登場人物に復讐心を持つという迷惑な人」が欲しているのは
「感情移入しやすくて、誰かを罵る大義名分をこしらえやすいスキャンダラスな事件記事」であって、
本人達はそれを「正義だ」などと言っている。本人達は大真面目に「社会の不正に対する正義の心」として
登場人物を罵倒し、さも、自分が事件の生き証人であったり、さも、当事者であるかのように言うけれど、
実際はそんな「正義」なんていう大層なものではなく、単に悪趣味な覗き見主義であったり、自分の日ごろの
鬱憤を晴らす題材としてのイケニエを求め「こいつ相手なら、罵詈雑言を浴びせかけても多くの賛同を得られるだろう」
なんていう「さもしい・見下げ果てた根性」の表れに過ぎないのではないか?ということです。
(それこそ、太宰の何とかにも通じるものがある。)

つまり、無精髭さんは「たまたま事件を知ってしまった人が、顛末を知り、主観を動かされた」と考えるのに対し、
私は「もともと主観を動かすために、利便性の高い客観的事実を探していた人が、たまたま事件を知った」と考えます。
おそらく、無精髭さんは本当に前者に属するのでしょう。実は私も前者に属するクチです。そういう意味では、
後者に属する人と言うのは「非常にレアケース」なのだろうとはおもいます。

ですが、ある意味、このスレが延々と同じことの繰り返しなのは「世間的にはレアケースな人が密集した」からでは?
そして、レアな人にはアレな人が(自主規制)とでも考えなければ、説明が付かないというコトです。

ちなみに>>771
>どこまでも薄っぺらいな。
あなたは、読み込みが薄い(笑)

783無精髭:2012/02/02(木) 21:27:24
正直に言いますと、不毛な論争が終わらないことと、そこにアレな人が参加していることの因果関係が
よく分かんなかったんですよね。

アレな人がいなくても論争ってしばしば不毛なやり取りに発展しますし。とはいえ、不毛かどうかはともかく、
論争に参加すること自体がレアだし、ある意味ではアレだとはいえるのでしょうが、それでも、シェンさんの
想定されているだろう「アレ」でなくても別にいい気がするし。

で、いろいろ考えてみた末、ある事象が起こる原因についてこういうふうにしか説明できない、とシェンさんが
仰るのがイマイチピンとこなかったのは、シェンさんが想定されている事象を、そもそも私が同じように認識
できていなかったからなのだろうと思い至りました。

というのも、客観的に見れば同じことの繰り返しでも、その実態は、一部のアレな人々が事件に固執している
のではなく、普通の人が短期間に現れては消え、また新しい人が短期間に現れては消え…、これが繰り返されて
いるだけ、という可能性もあるからです。事件関係者に同情したり、あるいは責めたりする気持ちが湧くのは
特におかしな感覚とはいえないでしょうし、自分の私的な意見を、後先の考えもなく、うっかり・おおげさに
公言してしまうような失敗、おっちょこちょいな癖、というのも別段珍しいものではないでしょう。

>つまり、無精髭さんは「たまたま事件を知ってしまった人が、顛末を知り、主観を動かされた」と考える

まさにその通りです。なので、

>「もともと主観を動かすために、利便性の高い客観的事実を探していた人が、たまたま事件を知った」

そうでない可能性もある(そうでない人が(も)原因かも知れない)ので、いくらなんでも「アレな人がいる
とでも考えなければ、説明がつかない」ことはないだろう、と思ったのでした。もちろん、シェンさんの想定
されているような状況が、現在のこのスレの実態なのだとすれば、仰るように考えないと説明がつかないと思います。


以上の点を除けば、シェンと私の違いは、認識論上の問題にあるのではなく、また、同じ問題において対立
しているのでもなく、この事件とそこに群がる人たちをどう捉えるかという点にあるというだけですね。要するに、
同じ問題に異なるアプローチをしている、あるいは、異なる個別問題に関心がある、ということでしょう。

たとえば、AKBなり、ある人気商品なりに、コアなファンなり、愛着を持った固定客なりがいて、それに
興味のない人たちから見たら、全く意味のなさそうな議論なり、情報交換なりに日々勤しんでいたとして、
こういった現象を分析するのに、シェンさんは、消費者の行動や心理、つまり人間の方に注目するのに対し、
私は、商品としてのアイドルやその売り方や広告、つまり物や情報に注目するわけです。

主体か環境か、の違いと言ってもいいでしょう。

私が思うに、特定の何かに執着する人は、それだけで(周りと比べて)少し変な人ですけど、「延々と
同じことの繰り返し」ならぬ「同じことを飽きもせず繰り返す」のは、そうすること自体が快感に
なっているからじゃないかと思っています。ちょっとした刺激に対してもドーパミンが出まくりなわけです。

もちろん、他の人が特に何も感じないことにある人が快感を感じているなら、よし、そいつだけを調査対象
にしようという話になるのは自然だと思います。それでも、そいつだけを、否、そいつの頭なり心理なりだけを
調べたとしても、快感を覚えること一般の仕組み、快感時の脳の働き一般を知ることはできるでしょうけど
(頭か心によほどの異常を抱えている者でもない限り、各主体間において算出される個体差は、それこそ誤差かと)、
なぜその人はそれに快感を感じるのか、というような、特殊事例に関する問いには、その応答として、やはり
具体的な客観物の分析も不可欠である、と思われるんですよね。

実を言いますと、「利便性の高い客観的事実」っていう表現を私は気に入っていて、その「事実」は、
アレな人にとってそうであるばかりでなく、それ以外の人にもそうであるかも知れませんよね。
フツーの人が、この事件を知ってアレな人になった、あるいは、今まで潜伏していたアレな素質を
開花させた、という事態も考えられるので。

784無精髭:2012/02/02(木) 21:58:04
すみません。前のレスで、敬称をお付けするのを忘れた箇所がございました。これが先ほど申した、
おっちょこちょいな癖、というやつです。で、シェンさんとか私をよく知らない人がこのやり取りを見たら、
二人は喧嘩しているように思われるかもしれません。逆に、アレな人の事情をよく知らない私からすれば、
シェンさんに不毛だと思われているやり取りをいつまで経っても続けている連中は、時間つぶしかストレス
発散のために戯れているだけとしか思われません(苦笑)。本当は事件のことなんかどうでもよくって、
単にいけ好かないことを書き込んでくる奴を叩き潰すのが楽しいだけなんじゃないかと。

さて、前置きはこれくらいにして、もうちょっと続けます。

―――

うむむ。シェンさんの見解は、事象を合理的に説明する点において汎用的かつ万能だと思うのですが、
では、こう考えてみてはどうでしょうか?

>つまり、無精髭さんは「たまたま事件を知ってしまった人が、顛末を知り、主観を動かされた」と考えるのに対し、
>私は「もともと主観を動かすために、利便性の高い客観的事実を探していた人が、たまたま事件を知った」と考えます。

>>769でも仰っているように、数ある事件の中でも、この事件って意見が割れていますよね。たとえば、加害者を擁護する
人たちと被害者を擁護する人たちのどちらが優勢かもはっきりしない。第一、誰が本当の加害者・被害者なのかという時点で
意見が割れている始末ですから。

その点、女子コンクリなどと違うわけですよ。女子コンクリの場合、誰が悪いかで意見が割れるなんて事態にはおそらく
滅多にお目にかかれないでしょう。

にもかかわらず、女子コンクリの件でも日野olの件でも、皆が話し合うことと言えば、大抵おんなじことの繰り返し・
蒸し返しです。そこで私は、ともに一部の人々にとって長らく人気のコンテンツでありながら、女子コンクリと日野olにおいては、
それぞれ一部の人を引き付けている要因が異なるのではないか、と考えているのです。そして、ここが重要なのですが、
その要因の違いは各人の主観の特異性に起因しているというより、ちゃんと誰にでも確認できる(すなわち客観的な)もので、
各事件に関する情報の違いに対応しているのではないかというのが私の見立てです。

その上で、私は、いわゆる正義の味方気取りの人が、なぜ本件のような事件に興味を持つのかなぁ、と不思議に思うんです。
そういう人にとっては、善悪の構図がはっきりとしていて分かりやすく、自分の欲望を曝け出しても他人から文句を言われる
どころか賛同される可能性が高い、いわば自身にふさわしい話題や場所というのがあるはずなのに、わざわざ日野OLのような
狭い人間関係のどろどろとした愛憎劇を自らの正義感を満たすための話題なり舞台なりに選ぶっていうのは、俄かには信じ難い
ことです。アレな人が私利私欲を満たすためにわざわざ格好のネタを探しているのが事実だとすれば、なお更です。


あと、「このスレが延々と同じことの繰り返し」という点については、私個人としては全力で反対するしかないなぁ。
他の方もシェンさんと同じことを書いていらっしゃいますけど、そういう書き込みを目にするごとに、自分を特別視
するわけではないですが、私の努力は報われていないんだなぁ、という感慨に浸ってしまいます。これでも私は、
議論がフレーム化・陳腐化しないように結構無理して頑張ってるつもりなんですが(苦笑)。現に、このスレで
こうやってシェンさんとしているやり取りも、他所で飽かず行われているであろう「延々と同じことの繰り返し」
の中からは、おそらく生まれないのではないでしょうか。

これは個人的な意見ですけど、キャシーを擁護するにしろ師匠の妻を非難するにしろ、もうちょっと骨のある、そして
合理的な議論を展開していただきたいものです。キャシー批判や妻擁護の議論はもはや出尽くした感がありますので、
これに反対する立場の人たちには、そろそろこれに対する有効な反論を期待する所存。いつまでも先行者のそれと
大して変わらない内容の発言ばかりされても、こちらは困惑するばかりです。

785紫煙狼:2012/02/06(月) 23:35:59
>>783
>アレな人がいなくても論争ってしばしば不毛なやり取りに発展しますし。
正解といえるものが存在しない話題って、しばしば不毛なやり取りに発展しがちですね。
評価の仕方によって、相反する意見のどちらも正しいと言わざるを得ない場合があって、
でも、活発に意見している人は対立する意見と共存できないからエスカレートする場合。
こういうときは、ハタから見ると非常に不毛です。 (例)SMAPが一番か、嵐が一番か、KA-TUNが一番か…。

でも、こと、この事件に関しては、正解が存在しないから続いているとは言いがたいですね。

>正直に言いますと、不毛な論争が終わらないこ(中略)よく分かんなかったんですよね。
うん、そこは少なくとも私は説明を端折っていたフシがありますね。なにしろ、晴れた日の
頭上に広がる素晴らしい世界を冒涜するかのようなハンドルネームの大馬鹿者が脳裏に
あったものですから、無精髭さんには言わずとも伝わるかと…(笑)

まぁ、アホゾラさんを代表とするような「正義の名の下、師匠夫婦を晒してしまえ」派のヒトとか、
そうでなくとも、さしたる過失があるわけでもない妻に「嫌悪感を抱く」などと言って憚らない
「およびでない人々」とかが居るおかげで、このスレは延々と同じことを繰り返しているわけです。

無精髭さんは、こういう「勘違いさん」たちが後を絶たない理由を、これらの人々が受け取った
情報に何らかの問題があるから、勘違いさんたちが量産されている…と思ってはいませんか?

とある学校で数学のテストをしたら、生徒の大半が同じ間違いをした。とすれば、一番有力な説明は
「そこの数学教師の教え方に、間違いを誘発するような何かがあった」もしくは、その問題に生徒が
陥りがちな間違いを誘発する「ひっかけ」があった、となるでしょう。

でも、軽く世の中を見渡して、この事件に関する記述・記載・記事なんてのは、どれも大同小異で、
文章が秀逸であるとか、良く纏まっているとか、ちょっと読みづらいとか、ちょっと表現が変とか
あるにせよ、妻を極めて悪逆非道な人物に描いていたり、キャシーを極めて薄倖の佳人に描いている
ようなモノは見当たりません。もし、そういう情報を読んでいたとしても、無限回廊の事件記事を読めば
「そういう事実に即さない(妄想の域を出ない)情報」と「客観的事実」の相違には気付くはずです。

無精髭さんは前から「日野OL放火殺人事件に格別の思い入れは無い」というようなコトを言っていましたよね?

つまり、無精髭さんはこの事件自体への興味と言うよりは、この事件に対する各人の意見が、どうしてこんなに
多様になるのか、どうして同じことの繰り返しになるのか、なぜワケのわからぬ言いがかりのような意見を
恥ずかしいとも思わずに言ってのける馬鹿者どもが多いのか、というところの方が興味の対象なのだと、
私は勝手に理解していますが、それは、このスレに投稿する者の中では少数派…まさにレアだと思います。

むしろ、この事件のスキャンダラスで意表をついた結末までを、お昼のメロドラマの愛憎劇を楽しむ感覚で読みふけり、
その登場人物に感情移入し、ドラマ批評をする感覚のまま、現実に起きた悲しい事件にモノ申そうとする輩が後を絶たない
のではないか、そういうヒトの方が多いのではないか、と私は考えています。

つまり、私が見る限り、困ったサンたちが目にした情報に問題があるのではなく、困ったサンたちの
「情報の受け取り方」に何らかの恣意的なねじ曲げが存在するのではないか、というのが私の着眼点です。

786紫煙狼:2012/02/06(月) 23:36:43
妻に関しても、詳細な記述が殆ど存在しない「妻」に対して、詳細な記述が無いのをいいことに、妄想で補完して、
「嫌悪すべき、憎悪すべき妻像」を勝手に作り上げて、勝手に物語を面白おかしくして、現実と妄想の区別が
出来なくなった状態で「自分が作り上げた妻像への悪口雑言」を、喚き立てているのではないか、と思うのです。

だって、キャシーは師匠に騙されていた。師匠は女を手玉に取るスケコマシだ!と仮定するなら、
妻だって師匠に騙されていた。しかも、今尚、騙され続けているかもしれない。と想像するほうが、
よっぽど分かりやすいと思いませんか?

なのに、妻を批難する人々は、まるで、師匠と妻が共謀してキャシーをジワリジワリと追い詰めて行ったかのように、
あたかも、キャシーが「人殺し」という暴挙に出ざるを得ない方向に(知っていて)導いていったかのように解釈
しているでしょう?私は実際の妻がどういうヒトなのかは一切存じませんが、少なくとも、どこの記述を見ても、
そういう人物像を裏付けるモノは「ひとっつも」ありませんよ。

キャシーの中絶にしてもね。「中絶は殺人である」という考え方など「中絶」に対する心理的抵抗感を持つ人は
多いでしょうが、そもそも「中絶」をしたくないなら「正しく避妊」すれば良かったワケですよね?
まぁ、百歩譲って、避妊していたが、外科手術以外の方法で100%避妊するのは難しい。作る気はなかったが
授かってしまった…という状況だったとしても、キャシーには「産んで認知させる」という選択肢もあった。
まぁ、何より「師匠が離婚して自分のところに来るまで、肉体関係を持たない」のが当たり前ですよ。

ところが実際は「奥さんと同じにして欲しい」という欲望から避妊を拒んだ、となれば、受胎するのも仕方の
無い話で、挙句、キャシーが薬を盛られて意識を失っている間に強制的に中絶させられたならまだしも、
師匠の説得に負けて中絶と言う選択肢に同意したのは「キャシー自身」ですから、言い方を変えれば、
「キャシーのお腹の子供を殺したのはキャシー自身」であって、少なくとも妻ではない。自分で自分の子供を
中絶するという方法に同意した以上、これは他人に何を言われても仕方が無いでしょう。

もし、キャシーの供述どおり「掻き出して平気なヒトなのよ」発言があったとしても、それを恨みに思うなど
お門違いも甚だしい。お腹の子の父親に祝福されないとしても、自分ひとりででも産んで育てる、という選択肢より
中絶という選択肢の方が平気だったから、そちらを選んだのであって、苦しんだとか、悩んだとか、悲しんだと
言ってみた所で「わが子を手にかけた鬼畜母」であることに変わりはない。わが子を殺された悲劇の母ではなく、
わが子を殺した張本人なのですよ。自己憐憫にふけるのもいい加減にして欲しい。

787紫煙狼:2012/02/06(月) 23:37:09
また、考えようによっては、妻なんてのは、可哀想に可哀想を重ねたほど哀れなヒトですよ。

かわいい子供と、優しい夫。平凡だけれど幸せな日々を送っていたら、ある日突然、青天の霹靂。
実は夫が不貞を働いていたことを知らされる。でも、妻は気付いていないけれど、夫は稀代のスケコマシ。
上手い具合に「オレは悪くない。悪いのはキャシーだ。」くらいにまるめこまれて。妻は妻なりに
夫を愛しているし。キャシーさえ居なくなれば、また、平々凡々なりの幸せの日々が戻ってくるのですから、
夫からキャシーを遠ざけ、幸せな家庭を守るためなら何でもしますよ。

稀代のスケコマシーに騙されてそれに気付かないような妻ですから、彼女だって色々苦労して手に入れた
ほんの小さな、でも何物にも変えがたい幸せを壊されそうになったら半狂乱ですよ。それを批難するなんて、
赤い血の流れている人間のするべきことだとは思えませんね。

まして、結果的に、大切な子供達を焼き殺されて。それでもまだ、夫の真の姿に気付くことなく、
いまだに夫婦を続けているのだとすれば、それは嫌悪されるべきというより、
「こんな目に遭っても、まだ気付かないなんて、哀れなヒト。馬鹿な女。」と同情されるべき。

もしくは、もし妻が師匠と離婚していたら、師匠は「野放し」にされていたわけで、
こんな「下半身に閉まりのないオトコ」を世に放つことなく、捕まえ続けてくれているのだから
「なんて奇特なヒト。ご立派!」と感謝されこそすれ、嫌悪されたり批判される筋合いは、これっぽっちもない。


ね、おなじ「足りない情報を妄想で埋める」なら、こういう方向の「勘違い」があってもイイわけですよ。
ところが、みんな、一様に妻を悪者に仕立て上げる。なぜなら、その方が面白いからですよ。
その方が「後味の悪さを楽しめる」からですよ。最初からキャシーを弱者に仕立て上げるためには、
妻は強くて、女の汚い部分だけで生きているようなヒトに仕立て上げたいという「ねじまげ」が存在するからですよ。

そういうシナリオを好み、そういう脚色をしたい人々にとっては、事実も正解も、既にどうでもいいのですよ。
そして、現実を突きつけられても、自分の妄想のシナリオにそぐわないから「納得しない」のですよ。
だから、正論をぶつけられても、自分のシナリオを受け入れてくれる場所を捜し求めて、2chで同じ話題のスレを
「やられても、やられても、めげることなく、何度でも立ち上げる」のですよ。結局、何度やっても、
どこでやっても、正論をぶつけられて、自己実現の場を失うから、場所を変えて同じことをくり返すのですよ。
そして、ごく稀に、そういう妄想で脚色された非現実と、現実の情報の区別が出来ない、スキあらばいつでも
非現実の世界に没頭したいと待ち望んでいる「困ったサン予備軍」が感染して、発病するのですよ。

788紫煙狼:2012/02/06(月) 23:37:29
悲しいかな、浮気だ、不倫だ、横恋慕だ、などと言う話題は見に周りに掃いて捨てるほど溢れています。

生まれて初めて恋愛感情を持った相手に告白され、円満に交際し、順調に結婚し、めくるめく幸せの日々の中
子供を授かり、他の異性に心を動かされることも無く、浮気もせず、横恋慕もされず、死が二人を分かつまで、
互いを思いやり一生を添い遂げる。自分もそうなら、自分の周りもみなそういう人々だけで、それこそ、不倫とか
浮気なんて、小説の中でしか起きない出来事で、いまひとつ実感もわかない。ってか、夫以外、妻以外の異性と
どうこうしようだなんて、身の毛もよだつ。。。

なんてヒトは、極めて稀で。

浮気した事があるとか、浮気された事があるとか、浮気心が疼いた事があるとか、あやうく浮気されかけたとか。
不倫している友達が居るとか、恋愛でボロボロになった友達が居るとか、殆どの人々が、愛憎劇の泥沼を身近に
知っているわけですよ。直接的・間接的に経験しているわけですよ。

そして、人様に起きた出来事を、あろうことか、自分の経験と照らし合わせて、勝手に理解したツモリになりたい
わけですよ。あたかも当事者の一人であるかのごとく「経験者は語る」したいわけですよ。あまつさえ、事実を
自分に理解できるストーリーに改ざんするわけですよ。そして、登場人物を批判して、自分だけは気分よくなりたい。

キャシーに同情するのも自分のためなら、妻や師匠を晒し上げるのも自分のため。そして、それが正義だと信じて疑わない。
自分の醜い欲望を満たすために、現実に起きた悲しい事件、悲惨で酸鼻をつく事件を利用していることに気付いていない。
それが「妻批判」の正体だと私は考えています。だから「アレなヒト」と表現しています。

そういう意味では、これからも後から後からやってくる「妻批判」の方々は、「不倫」と「殺人事件」を切り分けて、
それぞれに善悪のジャッジを下している人も稀だし、それが出来ていても「不倫」へのジャッジメントが非常にお粗末であると
私は予言します。こういう「事の大小」の区別も出来ない「困ったサン」が居なくならない限り、このスレが廃れることも、
不毛なやり取りが解消されることもないと断言します。

もし、この予言、この断言が、本当にそのとおりになったら…。
無精髭さんの頭には「?」が増え、僕の胃には穴が増えるのでしょうなぁ…(泣)

789雄峰:2012/02/08(水) 23:40:05
紫煙狼氏の意見は、何かに対する怒りをもって書かれている。

その何か、とは、誰もが持っている心の闇のようなものではないか。

正義を騙る偽善に対する偽悪のようなものを感じました。

790無精髭:2012/02/10(金) 22:32:54
いくら妄想豊かな私でも、あの御仁みたいな人が何人も密集している(?!)なんて
状況は想像できませんでしたw 勘弁してくださいよぉ。

まぁ、あの御仁については、シェンさんと老婆心さんの文章が、言い回しが異なるだけで
論理的には同一内容であるのを見抜けなかったのか何なのか、前者に反撥したのなら当然後者
にも反撥すべきところを、何を血迷ったのか理解を示してしまった、というのが印象的でした。

でも、たとえ同一内容の情報でも、形式が異なると同一内容だと認識できなくなる人の典型
だと言えなくもないので、アレな人は情弱である(情報に流されやすい)という私の考えの
正しさを証明してくれるような恩人でもあるのかもw まぁ、冗談ですが。


ただ、このスレを辿ってみると分かりますが、妻に批判的な人たちにも色んな人がいるわけで、
シェンさんが仰るようにアレな人も結構いますけど、私が言うように普通の人もそれなりにいるのでは
ないかと。これは私が勝手に考えた区別ですけど、妻批判をしている人でも、あくまで情報の枠の中で
批判している人と、更にそこからはみ出て、自身の経験に(必要以上に・極端に)引き付けて批判する人
とがいて、それぞれ毛色が異なるのではないかなぁ、と思っています(ちなみに、事件情報を自身の経験を
基に解釈するのが普通ですが、後者の人の場合、いわば事件情報という主と自身の経験という従の関係が
逆転していて、自身の経験を事件情報を用いて再確認・再肯定・再強化するのです)。

私が念頭に置いている「妻批判の人たち」というのは、基本的に、情報に対して特殊な解釈を
施しているというよりも、情報の一部分(記事のある一文)にこだわりを持ち、そこから
ストレートに感情(生理的反応)を呼び起こされている、という気がします。私見では、捻じ曲げも
何も、彼らは出された情報を(良くも悪くも)そのまんま受け取っていて、登場人物に特別な感情移入も
しなければ、その時の状況も読み取りもせず、普段の生活で自身がそれに従っているところの、大抵仲間内
でしか通用しない常識でもって、性急に評価を下そうとする傾向があります。たとえば以下のように。

 「有紀恵には(中略)悪いという気持ちがあった。だから、ひたすら、すみませんを繰り返すだけだった。その素直な応対に雅子は拍子抜けしてしまい、電話を勝手に切った」
 一度諦めたのに、
 「だが、それだけでは終わらなかった。毎夜のように雅子は有紀恵に電話をかけ、罵詈雑言を浴びせた(下略)」
 なんだ、この粘着。
 不倫する奴も悪いが、これは明らかにストーカー。
 放火殺人を仕出かしたキャシーの前に犯罪行為に走った馬鹿がいたんだな。

 「『生きた子どもを平気でお腹から掻き出すような人なのよ、あなたは』」
 どんな相手にだって、人として言っちゃいけないことがあるだろ!

 「雅子は『彼女に支払い能力があるとかないとか、(中略)私だけは許さない』と言いきった」
 とか啖呵切ったくせに
 「1997年(平成9年)7月、杉田夫妻との和解が成立した。(中略)さらに3155万円の支払いの義務に応じることに同意した」
 和解してんじゃねーよ。結局、金が欲しかったのかよ。

 「杉田は事件後、依願退職させられたが、妻と離婚することもなく、一男一女をもうけている」
 よく不倫した奴と縒り戻せるよな。子どもまで作ってさ。気持ち悪りぃ。

もしかしたらシェンさんには、これぞアレな人たちの典型的反応じゃないかと思われるかも知れませんし、
あるいはこういう反応の裏には穢れた欲望が渦巻いているのだと仰るのかもわかりませんが、私はそういう
判断をあえて保留して、次のように考えるのです。上記のような反応をする人たちというのは、情報の
ある細部にしか関心がなく、それはいわば情報を断片的にしか受け取っていないのと変わらないので、
おそらくこういう人たちの頭の中では情報の内容がリアルだと感じられていない、何かフィクションのように
感じられているのではないかと。ここに、情報の受け手が自由に善悪の評価を下しても何の問題も生じない
という錯覚、驕り、大いなる勘違いが流れ込むわけです。しかし、これは裏を返せば、一旦その人に情報を
リアルだと思わせればそういう考えなり発想は(嘘を付き通しでもしない限り)なくなるわけで、そのためには
誰かが協力して、断片的な情報をもっと大きな情報の文脈へと統合してやったり、登場人物やそれを取り巻く
状況について詳しい情報を付与してやったりすることが必要なのです。

791無精髭:2012/02/10(金) 22:34:29
その役目を担うのは、大抵の場合は見ず知らずの他人ではなくて、親兄弟だったり教師だったり親友だったり
恋人だったり教祖さまだったりするのかも知れませんが、いずれにせよ、更生の可能性がある人、否、他人の
説得を聞き入れられて自分の考えを修正できるくらいには頭の柔らかい人なら、妻批判をしていてもまだ
普通の人の範疇に入るのではないかと思います。あと、個人的な動機でやってるのではなく、もっぱら
コミュニケーションのためにやってる人だっているかも、とか考えております。こういう人については、
治療は可能、もしくはネタでやっているのだから治療はそもそも不要、ということになるのかも知れません。

大体、妻に対して批判的な考えを持つからアレだ、というのではなく、そういう考えを変えることが
できないからアレなのでしょう。はっきり言って私なら、今妻批判している人の十倍くらいひどい
ことを書けますが、だからといって無精髭はアレだということにはならないので。

普通の人には妻批判なんて発想自体がありえないだろう、と考える人がいたとすれば、実はそのような人の
考え方こそ偏狭に他なりません。こんなことを言うと人によっては驚かれるかも知れませんが、妻批判の
おかしさを徹底的に反駁するには、まずは試しに自分も妻批判をしてみて、その思考過程のおかしさを身を
もって知ることが必要だとさえ、私は思っているのですよ。

私の経験から言わせていただくと、妻批判(妻の粗探し)は簡単にできるが、(ちゃんとした)妻擁護は
それよりもいくらか難しい。要は頭を使わなきゃならないわけです。こういう実感があるために、私は、
妻批判をしている人は殆ど頭を使っていないのではないかと疑うのです。そして、こちらからの働きかけ
によって多少なりとも頭を使うようになれば、もしかしたら妻擁護の可能性に気づくことだってあるかも
知れないなどと淡い期待を持つ次第なのです。


そもそも論になってしまうかも知れませんが、アレな人っていうのは話が通じないだろうからお手上げ
なんですよね。話が通じないというのは、説得が効かない、相互理解がありえない、ということですから、
その人には何を言っても無駄になるのです。ですから、そういう人がこちらに書き込んできても、それに
対して反論を書くとなれば、その人自身に向けてではなく、第三者に向けて書くことになる。でなければ、
そもそも無視するか。

でも、それじゃあまりにもペシミスティックだから、実際はどうであれ、とりあえず相手は話が通じる、
説得が効く、相互理解がありえる、という意味で、普通の人であるということにして相手をするゼ、
という心構えで行くわけです(…と書いていてふと気づいたのですが、以上の話は>>766中段にある、
自分と揉めている人をレアケースだと思わない云々の話に繋がってましたw)。


そういう前提に立った上で、相手の内側に存する情報である欲望とかパーソナリティよりも、外側に存する
情報である「言葉」やコンテキストに着目するのは、以下の考察からも合理的だと考えております。前に
シェンさんがバナナを例に出して考えを展開されていらっしゃいましたので、私もそれに倣うことといたしましょう。

いくらバナナの(物としての)客観的性質を分析したり、学術的特徴(「熱帯アジア原産の
バショウ科の植物で...」)を調べても、「たかがバナナ」という価値観や「俺の大切なバナナ」
という価値観などのような、各人において異なる様々な価値観は抽出できないのは自明です。

ところで、バナナとその人しか存在しない世界なんてものはありえませんので、両者の関係性を
考える上では、それらを取り巻く状況、彼の価値観とバナナという具体物の価値が結びつく情況を
明らかにする必要があります。

さて、状況(情況)分析の結果、たとえば当のバナナが誰かからの贈り物であることや、一房
数千円もするバナナであることが明らかになるかも知れません。どこのスーパーでも売ってるような
バナナにはこれといったストーリーはありませんが、人から貰ったバナナや高級なバナナには、
特別なストーリーが付加価値としてあるわけですね。そして、そういう状況が明らかにされることで、
「俺の大切なバナナ」という価値観は、それを判断基準としている主観以外の第三者にも幾分か理解
しやすいものになろうかと思われます。

ここで重要なのは、ある人にとっての物の価値について考えるのに、もっぱらその人の主観的基準を
掘り下げるよりも、ただ状況(情況)を明らかにする方が、少なくとも第三者の理解の助けにはなる、
ということです。「なるほど、そういう事情があるからそういう価値を見出すのか」といった具合に。

792無精髭:2012/02/10(金) 22:47:38
まあ、話があちこちに脱線しているように思われるでしょうけど、私個人としては、世界のグローバル化と
情報化に伴って、これからの日本社会においても他者とのコミュニケーションコストは上がっていかざるを
得ないでしょうし、結局それはアレな人が増えてくる、身近なところにいても何ら不思議ではないという
ことですから、そういう人とも同じ国、同じ社会で生きていかなくてはならない以上、うまい共存・共栄の
仕方を探る努力は怠ってはいけないな、と思うわけです(苦笑)。

で、もうちょっと「情報」の問題に絡めて考察を続けてみます。

日野olを巡る第三者間のやり取りが、シェンさんが仰るような事態になってしまう、そもそもの原因として、
加害者中心に書かれた事件記事や、マスコミの偏向報道、キャシーのインタビューや手記を載せた各週刊誌の
手法を挙げる人たちがいますが、私は彼らに一理あるとは思いながらも、そういう考えと自分の考えとは
一線を画しているつもりなんです。理由は簡単で、先述の人たちは既存の情報がいわば主観的(一人物中心的)
であるのが問題であり、その主観に同一化(主体に感情移入)する輩が次々と現れてしまうのだと主張して
いるのに対し、私は既存の情報は受け手によってどうとでも解釈できると思っていて、その意味ではむしろ
客観的だとさえ思っているからです(ちなみに、既存の情報が本当に主観的だったら第三者の間で揉め事が起きる
機会はずいぶんと減ったのでは)。もう少し詳しく言うと、一つの主観の他にいくつもの主観を内在、あるいは
併記している(いわば複主観的、ないし並列主観的)ように思われ、それが「問題」だとは全く思いませんが、
様々な意見を生む主な要因の一つになっている(多様な意見が出てくる傾向に拍車をかけている)のではないか
と思っているのです。受け手にしてみれば、情報内の主体が複数あり、各々が別の主体を相対化しているように
見えるはずで、受け手によってどうとでも解釈できるという意味では、客観的とも言えるのではないかと。
ただし、キャシー視点(というか主体)の記述がかなりの部分を占めている点は否めませんが。

ただ、主観的だろうが客観的だろうが事実はきちんと伝わるので、既存の事件情報に何らかの瑕疵があるとは
言えないでしょう。ですから、強いて論うのであれば、情報に何らかの問題があるから勘違いさんが量産されている、
というよりも、(情報そのものに問題がない以上は)本件そのものに何らかの問題があるから勘違いさんが量産
されている、と考えるべきなのかも知れませんね。

しかしながら、既存の情報に問題があろうが、事件そのものに問題があろうが、私としてはそこにこだわる
つもりは少しもないのです。なので、たとえば無限回廊の記事について、ある箇所を削除したりある記述を
付け加えたりすることを推奨するつもりは全くないですね。


ところで、一口に情報と言っても、無限回廊のような事件記事だけが情報ではなくて、事件情報を読んだ人たちが
話し合ったことも情報になりますし、独自に取材して得たネタも情報になります。

アレな人の言うことがおかしな原因は、私たちの知らない情報を基にしているからかも知れないのです。
2chでは、キャシーの家族構成について色んな憶測が飛び交っていますし、師匠については賠償金で夜遊び
したのを週刊誌にすっぱ抜かれたとか言われていますし、妻についてはヤンキーとか言われてますし、
まあ言いたい放題なんですけど、私がふと思ったのは、あれ? この人たちってもしかしたら、私たちと
共通の情報を基にやりとりしているのではなく、そもそも前提にしている情報が大きく異なるのではないか、
ということなんですね。公には一切出回っていない特ダネ情報を個人が掴んでいる、あるいは複数人で
共有している可能性は無きにしも非ずなので。

しかし、これは別にこの事件に限ったことではなく、2chの情報を鵜呑みにしてここに勇んでやってきた人が
メッキを剥がされてスゴスゴと元いた巣へと帰って行った、なんてケースがありましたが、同じことを
テーマにして話し合っているつもりでも、各々全く違う情報を基にやり取りしているなんてことは決して
珍しくはないでしょう。

793無精髭:2012/02/10(金) 22:48:19
以上、長々と書き込んで参りましたが、最後に、本音と呼ぶにはあまりにも情けない弱音みたいな感想をば。

実を申しますと、私としては、被害者批判とか、そもそも事件とは無関係な人・自らの意思と関係なく
巻き込まれてしまった人に対する批判の問題性を指摘していく気概よりも、事件とは無関係で、大した
情報も持っていない第三者がしたり顔で事件や関係者を論評することに対する違和感の方が強いのです
(私がやっていることといえば、そういうお節介な人の主張に寄り添い、それとは異なる解釈の可能性を
指摘するために、ああでもない・こうでもないと長文を書き込むくらいです)。

シェンさんは、先回のレスでは、妻批判をする人の問題にしか触れていらっしゃらなかったですが、
これまでの書き込みを拝見いたしますに、キャシー批判をする人の問題とも併せて考慮した上で、
この事件に関する第三者の勝手な論争の不毛性や有害性については、妻批判を繰り返す輩の責任に
ばかり押し付けられるような性質ではないと考えている私に共通するものを誠に勝手ながら感じ
取っているのですが、いかがでしょう? この事件で誰が一番悪いかみたいなことを話し合ったり、
事件関係者を断罪しようとしたりするのは、吊るし上げと大差なく、本当に下品だな、としか
思えないのです。

794元NEC:2012/07/25(水) 17:36:06
師匠は結果離婚もせず
子供にも恵まれ
仕事を失ったけど
損害賠償の金はもらえた。

キャッシーは仮出所したら
どうするんだろうね?

795:2012/08/03(金) 11:42:35
死んだ子がかわいそのこじゃなくて可哀想。
バカ女。

797あみ:2012/10/27(土) 12:21:10
師匠とその嫁許せない!
私が殺してやろうか

798芝生:2012/10/31(水) 16:26:03
キャシー出てきましたか?

800boro:2013/09/24(火) 20:46:21
不適切な投稿を削除しました。

801unkoman:2015/04/23(木) 12:32:56
仮釈放はありません。

死刑スレスレの無期には仮はないんです。

802たま:2017/05/27(土) 20:36:21
>>15
一番の犠牲者は子供達だとは思う。
不倫相手の妻に復讐したいというより、
同じ女として子を失った悲しみを理解して
欲しかったんではないかと。
妻は夫を許してはいないと思う。
今の二人の子供を見れば否が応でも
自分の不倫のせいで死んだ子供を思い出すでしょうから、妻の夫に対する復讐のように思います。

803テスト:2019/01/12(土) 04:04:33
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