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蛸壺発想とと大局観について

17村山:2021/10/14(木) 07:10:34
私は小室直樹との共著に、『脱ニッポン型思考のすすめ』があり、この対談相手は京大で数学を学び、経済学者になるために、阪大の大学院に行き、そこで経済学を専攻しています。その辺の事情について、『「アスペ」の三畸人交遊録』に、次のような記述をしており、真に学問をする場に関し、世界に通用する発言を行い、日本の常識に反逆しています。
「・・・1950年代の経済学は、マルクス学派が卓越し、1960年代になると共に、近代経済学を謳うケインズが、一般理論で脚光を浴び、急速度に追い上げていた。旧帝大系はマルクス派で、旧高商系が近経を好み、商業都市の伝統から、阪大と大阪市大は近経という、不思議な現象があって、阪大の経済学部が輝き、それに小室直樹は影響された。
その頃の京大の経済学部は、マルクス経済学の全盛期で、高田保馬の高弟の青山秀一や、鎌倉昇が頑張っており、近代経済学では阪大が、高田教授の存在で日本一だった。また、東大の経済学部はお粗末で、文一の優秀な学生は法学部を選び、東京では一橋や慶應義塾に、優秀な教授がいたから、気の利いた学生はそれを知っており、経済学では西高東低だった。
日本のマーシャルと呼ばれて、『勢力論』(有斐閣)を書いた高田保馬教授は、日本人嫌いのケインズが、尊敬した唯一の経済学者で、高田が京大から阪大に移ったから、弟子たちもそれに従った。阪大に移った高田保馬教授は、ワルラス理論で近経を開始し、高田に従った若手の弟子には、森嶋通夫、市村真一、畑中道雄、安井琢磨がいて、阪大の近経の黄金時代を築いた。
小室直樹の話では、京大の数学科の学生時代に、ヒックスの『価格と資本』(岩波文庫)を読んで感動し、数学から経済学に転じたが、その翻訳本の序文を書いたのが、市村真一教授だった。また、市村教授が阪大にいたから、大学院は大阪大学に決め、指導教授にも選んだし、厳しく鍛えられたそうで、小室流の偏屈さは市村仕込みである。
この話には裏の話があって、市村真一が三回生の頃に書いた論文が、LSE(London School of Economics)のヒックスに認められ、彼の本の一章に「市村理論」として載り、二五歳の彼は有名になった。その後に取材したら、市村は神童だが天才ではなく、それ以降は鳴かず飛ばずで、晩年右翼の論客になった点では、西尾幹二と似た人生で、専門で息切れし反動化した。
LSEの森嶋通夫教授の話だと、小室はフルブライト奨学金を得て、日本を見限って渡米したが、先ずミシガン大学で、計量経済学を習得し、経済学の本質を徹底理解した。米国は黄金の60年代で、ケインズ学派の理論が、この世の春を極めていたから、乗数理論を使いこなす、サミュエルソンに師事し、小室はMITで経済学を仕上げた。・・・」
私の留学時代の級友の夫人は、パリの高等商業の卒業生で、そこは大学でなくポリテクニックに属し、アントワープの高等商業が、建学の手本になっており、実学の商業学は港町に発達した。だから。明治政府が作った高専は、神戸や横浜に位置したし、一ツ橋の前身の東京高専は、パリの高等商業を手本に、渋沢栄一が創立の努力をしたのです。
だから、官僚養成機関の東大は、法学部に行くのが本筋で、大学で商業を学ぶよりも、大阪の道修町で丁稚になり、商売を学ぶのが正道とされ、東大で経済学を学ぶ学生など、邪道扱いをされていた。私が高校生だった頃は、早稲田の商学部は無試験で、誰でも行けた大穴だったし、それで行った連中が、雄弁会に入って政治家になり、経済学を学ぶ学生は、理財科の伝統を持つ慶應か、一ツ橋を選んだものでした。
ラテン語ができなければ、ゼミに入れない上原専録や、有名でなくても実力を評価された、教授が一ツ橋にはいたが、東大の経済は三流で,法科に行けない者の吹き溜まりだった。一ツ橋でも社会学部は、慎太郎のような太陽族を生み、恥晒しをして情けないが、竹中平蔵が一ツ橋を受けたのは、東大の入試が中止になり、法学部に行けなかったせいだろう。
日本の大学の入試は、記憶力を試す暗記本意で、偏差値と言う虚妄に従い、独創性や判断力は評価せず、ディジタル人間を選ぶから、点取り虫や東大話法のお花畑だ。だから、政界は世襲代議士だし、官界の幹部役人は東大法科卒で、六法全書を丸暗記した連中が、三百代言を並べ立て、出世街道を目指すから、日本は国力を衰退させており、後進国に転落中なんです。」


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