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蛸壺発想とと大局観について

1村山:2007/12/19(水) 12:43:21
東山さんと朝香さんの議論は興味深く、私も参加したいのですが、スレッドが英語版の藤原さんの本についてで、場所が適当でないので新しいスレッドを立て泰と思います。とりあえず連絡性を保つために朝香さんのの意見を移してみました。

76 名朝香隆彦 投稿日: 2007/12/16(日) 23:31:56
東山さん仰せの『群盲象を撫でる』(大般涅槃経では『衆盲象を評す』とも呼ばれる)というご指摘は、先の小生のダラダラとした草稿レベルの拙文とは異なり、たった一言で「部分と全体像との関係性」、つまりラチオを言い表していると思われたことから、誠に正鵠を射た一文であるとともに、山根さんが部分だけで全体像への認識(≒物事の本質を見抜く)については全く思い寄ることなく、自らの枠組みの範囲に終始した狭い知識を主張することに対して、「頂門の一撃」を加えられたと感じました。
従いまして、山根さんの2年ほどの間に訪れた変節ぶり、及びそれに伴う過日のご発言(投稿内容)には、物事の本質を見抜けずに不毛な議論へ終始したと考えており、東山さん仰せの通り、山根さんは象の尻に触って異臭を嗅ぎ取り、「便所の臭いがする」と言ったと理解することにより、先にご紹介した小生の拙文レベルの草稿を推敲して2倍ほど長さの文章にはさせて頂いたものの、わざわざこの文章をそのままそっくりと山根さんのブログへ投稿する必然性や重要性を感じなくなってしまいました。
『象の尻に触って異臭を嗅ぎ取った』程度で全体を述べてしまう愚考に対して、正面切って異論を述べることで、下手をするとミイラ取りがミイラになってしまいかねないような愚かな道へ陥ることを避けるためにも、むしろ、先の東山さんのご指摘になる『群盲象を撫でる』という一文を利用させて頂き、簡潔で凝縮した文面にまとめ直して投稿することで、その文章が持つ背景はもちろんのこと、山根さんが今いる次元から乗り越えることを自身に気付いて頂き、このたびの件で「残念です」と見切り付けてしまいかねない一部読者の方々に対しても、今後より広い観点から見詰め直して期待を抱けるような投稿へ改める必要性を感じております。

よって、今回の件については再考した上で投稿するよう改めたいと考えます

2村山:2007/12/19(水) 12:51:06
「記事」のところに『財界にっぽん』に出た池口恵観さんと藤原さんの対談がかなりあります。特に今年の十二月号の記事は池口さんへの手紙では、安倍首相に辞任させるための提案は政権打倒の工作としてとても迫力がありました。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/abe12.htm
同じ頃に出た「AERA」の十一月五日号には「池口恵観師にすがる日本」という特集記事が出ていましたが、池口さんは多くの首相の相談役をしたり有名人を弟子にしたりで、右翼活動をする宗教家と書いてありました。
驚いたことに右翼団体から赤軍派まで付き合いがあるということでして、活動範囲からして人間の幅が広いみたいだから、同じようにいろんな人との付き合いのある藤原さんが親しくしても当たり前に感じました。
それでも普通の人から見れば右翼的な池口さんと反権力の藤原さんが親しいというだけで、「藤原という人間は怪しい男だ。権力のスパイではないか」と誤解されても不思議でないでしょう。
だから公認会計士の人が、詐欺まがいの商法で悪名高い野村證券でやり手の株の担当者だった落合さんと藤原さんが共著を出したと知って、胡散臭いと感じたとしても仕方がないといえそうですし、池口さんと親しいと知ればもっと強く非難して悪口を言う記事も沢山書かれるでしょう。
スケールの大きい人は幅広い付き合いがあるせいで怪しいと思われることも多いでしょうが、そういう世界が分からない大衆は一部を見て全体だと思い込むのは仕方がないのです。
情報を取るためにジャーナリストはいろんな人と付き合うけれども、相手に丸め込まれないことが大事だということであるし、清濁併せ呑むということになると誤解を生みかねないのは当然です。
それにしてもそうしたことを嫌う人もいるのは当然ですが、だからといって「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ということもあるし、それが気に食わなければは「井の中の蛙は大海を知らず」ということになるのではありませんか。

3朝香隆彦:2007/12/20(木) 00:40:21
村山さん。適切なご提案と早速ご対応いただきまして、有難うございます。
本来であれば、『英語版Japan's Zombie Politicsの出版について 』のスレッドに投稿する前に、小生が自ら新たなスレッドの立ち上げを行うべきでしたが、そのことに気付くことができず、誠に恐れ入ります。
また、話の連続性を保つために、小生の愚見を移して頂けましたことにつきましても、大変感謝いたします。

村山さん仰せの通り、『財界にっぽん』に掲載された記事中の、池口恵観法主へ宛てた書簡は、まさに「頂門の一針」どころか「頂門の一撃」(小生の造語)であり、それがどのような結果となったか、既に明白な事実として周知の通りと思います。

以前よりこのサイトを訪れている中で貴重なコメントを投稿して頂いている方々、藤原ブッククラスターの方々並びに著書の行間や書かれていない部分まで見ることの出来る方々、日頃の訓練を通じて冴えた目や洞察力を備えた方々とか、自らの枠組みを超えた方々、もしくは自らの枠組みを超えるべく日々の努力をかかさない方々につきましては、おそらくお気付きのことと思いますが、このたび言及させて頂いた公認会計士の人が、詐欺まがいの商法で悪名高い野村證券でやり手の株の担当者だった落合さんと藤原さんが共著を出版されたこととか、また、他の方々が池口さんと親しいと知ったことで、胡散臭さや非難めいた発言または記事を書くという行為については、いわゆる芸能ゴシップに近いレベルであると小生は考えております。
本来、書き手であるメディアやジャーナリストの殆どが、今や第五列に陣取って、その使命を放棄するどころか、積極的に体制へ迎合している姿こそ、「みっともない」を通り越して、藤原博士が嘗て著書で喝破された売文業者(≒プロスティテュート)そのものの姿であり、それはジャーナリズム精神の全く存在しない禁治産者になったといっても過言ではないと考えております。

大局観をつかんでいく過程においては、様々な付き合いを通して、スケールの大きく幅広い付き合いに至ることは当然であり、その中には「猛毒」を持つタイプの人たちが多くいることも確かですが、その毒にやられないようにしていくことこそ、修養の一環ではないかと思う次第です。

そうであればこそ、6年ほど前に『財界にっぽん』へ寄稿された「日本は〝賎民資本主義〟から脱却せよ」の「先物市場で消えた数十兆円と元首相の死」で指摘された内容は、非常に示唆に富んでいると考えており、誰某とのつきあいが云々という次元の話ではないことが明確に浮かび上がっていると思います。

http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/zaikai0107.html

4朝香隆彦:2007/12/20(木) 01:07:15
そして、このような指摘に対して、「証拠は?」とか「根拠は?」とか「出典は?」などと、仰せの方々につきましては、以前も坂口三郎さんの話に絡めて同様の投稿をさせて頂きましたが、それを若干修正した上で、ここに改めて再掲させて頂きます。

◆坂口三郎さんは戦前戦中にかけて活躍した高名な記者であり、また戦後は吉田内閣や芦田内閣の顧問や外郭団体のトップなども歴任しており、この時代の歴史の貴重な証言者でもあることは申し上げるまでもございません。

◆藤原肇(著)「朝日と読売の火ダルマ時代」(国際評論社)の中での坂口さんの著書「戦争国家の終焉」(東明社)の紹介箇所から以下引用(★)。

★証拠主義に毒されて筆の冴えない最近の論調に対して、「歴史の真実というものは、証拠や、証言や、証人や、記録や、日記などの資料によって、分かるものではない」と書き、「記録はあるのか、証拠はあるのか、証人はいるのか、などと言って詮索するのはチンピラ法律官僚のすることであって、大人のやることではない」と冴えて目で正論を吐いている。


この言葉の意味を理解できる人物が今や希少な存在になってしまったことは誠に嘆かわしいことですが、仮にネットから入手した情報をベースにしても、自らの足(これが実は肝要です)と頭を使って丹念に調査し、更には直観と演繹によって一定の結論に至ったのならば兎も角として、その殆どは安易にネット情報を取ったあげくに(実は取ったつもりが自分が取られていることには気が付いていないのですが)、そのまま鵜呑みに近い状態で雑音を撒き散らすような思考能力停止に陥っている御目出度い方々の多さには、驚愕を禁じえません。

そのような者の中には自らのプロフィールに堂々と新聞記者出身であることを名乗っていたり、欧州へ在住して海外の一流メディアに接する機会を持っている者などもいるようですが、せっかく物理的に脱藩しているにも関わらず、このような蛸壺的な思考体系から一歩も脱却できていないことは、これも逆立ちした劣等感の持ち主の一種と考えます。

古典や良書と呼ばれる書籍は勿論のこと、ネットにもいろいろとヒントは転がっているのですから、そこからは自らの足を使って飛び歩いて、時間をかけて捜し求めてみるのも一つの楽しみとなるでしょうし、またモノの見方の訓練にも繋がることは明らかです。

たとえ最初の切っ掛けはネットからの情報であっても、それを自らの足を使って時間をかけて捜し求めてみてこそ、初めて「物事の本質への認識に至る」のであり、そのプロセスを楽しむことも肝要であると思います。

5一色直正:2008/07/23(水) 13:52:16
「緊迫」も「躍動」も消えた政治と題した2008年07月21日づけの天木直人氏のブロックは、直言をする勇気ある人の心をよく現していた。
http://www.amakiblog.com/archives/2008/07/21/#001024
新聞や雑誌で偉そうなことを書く評論家やジャーナリストが、いったんテレビに出ると漫才師や芸能人と同じレベルで喋り、大衆に迎合してしまうのは情けないことである。
電波芸者と呼ばれた田原総一郎や竹村健一と同じように堕落して、手島龍一や田勢康弘までが営業活動にウツツを抜かしているのは、天木氏が言うようにアメリカならば「この薄汚い豚野郎はどいつもダメだ」ということになるのだろう。

6藤原肇:2009/02/21(土) 10:16:05
最近の日本は政治が全く機能していないために、無能な四流の人物が次々と首相になるだけでなく、国民のことを忘れて党利党略の政局に明け暮れ、支離滅裂な状態で暴風雨の海を漂流する幽霊船に似ており、これこそは「ゾンビ政治」そのものだと形容できる。まともな日本語も満足に喋れない麻生が首相になり、小学生よりもお粗末な識字能力を持ち合わせていないことは、既に多くの人が指摘して公知の事実であるし、政治の世界はヤクザ稼業と大差がなくなってしまい、それは大臣たちの人相を見れば一目瞭然である。
だが、それでも日本には未だまともな人もかなりいて、恥を知るので軽佻浮薄で狂ったメディアには登場しないで、真面目な気持ちで狂った世の中を心配しており、その一端は麻生内閣支持が一割をきる形で現れているが、メディアの質の低下の酷さには目を見張るものがある。
日本全体が狂った雰囲気が支配するタコ壷であり、それを十数倍に濃縮した形でタコ壷「日本村」化したのが、ロサンゼルスの日本人コミュニティであることは、「ロスの日米文化会館騒動に見る日系コミュニティの混迷」と題して、『財界 にっぽん』の2002.11月号に書いた。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/nichibei.html
それだけでなく『小泉純一郎と日本の運命(KZP)』と共に、「Japans Zombie Politics」の第八章に「L.A.‘s Deserted Little Tokyo」以下の部分でレポートしたが、ロスの日本人村の異常な生態については、ロスに多く存在する他の民族のコミュニティの識者たちから、軽蔑だけでなくボケ加減を嘲笑されているのに、「夜郎自大」でそれに気づく能力もないのだから情けない。
私はロスから250キロ離れた砂漠のオアシスに住んでおり、月に二度か三度は空港が三箇所もあるのでロス方面に行くし、まともな読者もいるので意見の交換や取材をした関係もある。今度の転居に関して多くの人からアドバイスがあり、特に身の安全への親切な配慮への感謝の気持ちで、蓄積した情報としての記録をまとめることが貴重だと思うので、情報のクラスター自体が全体像を描くことから、将来に本として出版するための習作になるが、長年の観察と調査したことを残しておきたい。
長らく滞在した米国を近く引き上げるに当たって、ロスの日本人村がいかに歪んだタコ壷であるかに関し、これからロスに来ようと考える若い人のために、予備知識と免疫用に役に立てばなによりと思い、参考資料として幾つかの見聞記を綴ることにする。

7朝香隆彦:2010/01/25(月) 11:10:31
さて、別のスレッドでも申し上げたように、国内の地域レベルでのみ云々している話題も含め、このスレッドに相応しい内容を展開していくために、まずは藤原博士の著書群から一部抜粋、ご紹介させて頂きたい。

***** 「賢者のネジ」(たまいらぼ出版)の“まえがき“より一部抜粋 *****
現役時代には緊張の中で対話を試みたので、青年層に知的な刺激を与えていた人だのに、脳の研究をしていた先生が定年になり、読み終えた後で何も残らない本を出して、「バカの壁」と題した変なお説教をし始めた。しかし、それは「脳内革命」の亜流に過ぎないものであり、知識を切り張りした知恵のない漫談だから、学問の評価を貶めて気づかないために、幾ら大学生が本を読まなくなったとはいえ、低下した学生の知性に変化を及ぼすこともない。
 このようなネジの緩んだ日本の現状を前にして、潰れたネジ山を加工して締め直すためには、インテリジェンスに基づく意識改革の導入で、賢者が伝える螺旋のピッチを教わる必要がある。しかも、同じ生命現象に生涯を賭けた学者でも、器質を扱えば「バカの壁」の前に佇むことで終わり、印税長者として浮かれ騒ぐだけだが、場の側面から挑戦し続けた清水博のように、日本には潜む竜人(Adept)は晩節を飾り、柳生石州斎の新陰流の神髄に迫って、対話を含む「生命知としての場の論理」(中公新書)の奥義書を著している。
 週刊誌と同じように読み捨て用の新書なら、石炭と同じでトンの単位で計量するし、紙くず新書は何百万部でも目方の問題だが、新陰流の奥義書に似た特別誂えの新書は、同じ炭素でもダイヤモンドの輝きに満ち、金剛石の評価は三つのCとカラットで決まる。それと同じ価値基準に従う賢者のネジは、意思は石でもイシスの密儀に由来しており、「夜半に白く煌めき燃える太陽を見る」ことで、自ら輝いて光子(フォトン)を体現するのである。

***** 「さらば暴政」(清流出版)より一部抜粋 *****
『日本人は繊細な文化の影響で細部に気配りし、小さな事象の蓄積で組み立てる特性を持ち、手際よく仕上げる営みに美意識を感じ』、『「花鳥風月」という耽美の世界への陶酔は、外に向かわずに内に閉じこもる形をとるために、タコツボ的な空間の中で執着愛になり、大きく広がる大局的な発想を疎外する弊害も伴う』
********** 

しかし、上記に続けて『それを克服すれば大飛躍へのチャンスになる』と述べておられることは、この書籍を一読したものであればすぐに気が付くことである。

***** 「さらば暴政」(清流出版)より一部抜粋 *****
『タコツボの中に定着した人間の特徴としては、いくら専門的な高等教育を受けた人でも、大局観と結んだ正邪の判断能力の欠如や、幅広い教養に裏打ちされた常識が風化して、総合的な世界観を持てない状態に陥ってしまう。それは、自分が所属する共同体の利害や伝統のために、敵対意識による排他的な感情に支配され、他者に対しての妬みや反感の気分を抱くことで、自閉的な共同体の価値観に拘束されるからだ。』

8朝香隆彦:2010/01/25(月) 13:17:50
さて、これら引用文を踏まえてタコツボ的な発想を持つ、(明示的または暗示的に)“他者に対しての妬みや反感の気分を抱くことで、自閉的な共同体の価値観に拘束される”方々の特徴を、読書や芸術鑑賞などを含めて物事を見るまたは観るという点から一言で表すと、自身の読解力や理解力の低さに気付かず(または見ないフリをして)、それらを正しく認識した上で乗り越えようとする努力より、原因を著者の側へ求めて反感の気分を抱くことで自己満足や自己完結に至っているのではと思わせてしまうことは、所謂「逆立ちした劣等感としての優越感」の表れの一種か亜流でしかなく、「論語読みの論語知らず」であれば、本質的なことや行間そして書いていない深い部分を読み取れず理解できずに、書いてある目に見えた部分の更に枝葉末節のみに拘ることとか、または何とか理解はできても実行へ移さないことを意味するが、何々全集の蒐集だけで満足するCollectionismは世間に数多く存在するし、これが膏肓に至るとFanaticを通り越してObsessive-Compulsive Disorderの系統にも近くなってしまうのではないかと危惧してしまう。

また、奥義書を著した碩学泰斗と知の巨人なる文化人が嘗て袂を分かった真相を知っている身からすると、騙し討ちに近いレベルの行為を働きかけた巨人に対し、事前に気づいた碩学泰斗の激怒が理由の一つにあるが、メディアの表層で浮かれている文化人、知識人、芸能人、また特定集団の紐付き学者達との交流を知的サロンと勘違いしている輩は、懐が暖かくなることはあっても心が寒くなっていくことは、彼らの心ある先輩や仲間達そして優れた腹心達が離れてしまったことに証明されてしまっているし、お遊び程度であることを十分わきまえた上で行なうならばお好きなようにとしか言うほかないものの、もし真面目にやっていると言うのならば噴飯ものだが、現在の厳しいご時勢からそうも言っていられない。

こういうことはそのような場所に深く入り込んでそこから情報や真相を引き出すよう駆使していかないと見えてこない話であり、この際「脇が甘い」とたちまちにしてやられてしまうことは、嘗てその著書の持つ普遍性と古典的な味わいから敬服し若干親交のあった先生の一人がものの見事に利用されたことがあるので、多少なりとも認識しているつもりだ。

9藤原肇:2010/11/13(土) 08:31:31
日本人のタコ壺発想の原因の一つに、日本人が地上波のテレビの下らない番組を見て、そこに登場する芸能人を中心にしたお粗末な番組を通じ、背景に出てくる世界の情景から、世界がこうだと見ているからではないかと思う。
日本以外の世界の国では地上波よりも、衛星放送の方が発達していて選択が多いし、質のいい番組に出あう可能性が圧倒的なことは、東南アジアでも中東を旅行して、ホテルでテレビのスイッチを押すだけで一目瞭然だ。
だから、NHKでも世界水準の番組を放映しているのであり、国内向け地上波の番組と衛星放送では内容に格段の差があり、国内の日本人は差別されている事実に気付かずに、サブスタンダードの劣悪番組を見せられている。
しかも、衛星放送の番組制作能力で、日本は既に東南アジア諸国に追い抜かれていて、辛うじてNHKの衛星放送があって存在感を持つだけで、東北アジア諸国の中でも台湾や韓国の方が、番組制作能力では進んでいることは明らかだ。
それがサムスンやエイサーの前のソニーの状態に反映していて、日本があらゆる面で三流国に転落している証拠になっているが、日本人は俗悪番組に浸り洗脳され、自分たちがタコ壺の中で惰眠していることも知らないでいる。
そのことを東南アジア諸国を訪れるたびに痛感させられている。

12西條謙太郎:2010/11/13(土) 10:32:56
東南アジア諸国でTVを見る時に日本との大きな差に気付くのは、天気予報
の時間である。日本以外のアジア諸国のたいていの国では、近隣諸国の主要
都市の天気に言及するのはあたり前であり、例えばSingaporeやMalaysiaで
は、近隣諸国はもとより飛行機で6、7時間かかる北京や上海、東京の天気
に到るまで地上波の毎時の放送で当然のようにカバーしている。
翻って、NHKをはじめとする日本の地上波の各局はどうか。残念ながら、お隣
のソウルや上海・北京の天気にすら一切言及しない蛸壺状態を果てしなく続
けているのが現状である。

もっと言えば、かつて、湾岸戦争の時にMalaysaiaのテレビが、イラク大使
の言い分とアメリカ大使の言い分を同じ時間を割いて等価に報道するのを見
て、つくづく日本にはメディア・リテラシーが皆無であるという結論になら
ざるを得ないという経験をしたこともあった。

この日本のお粗末な実態の背景には、日本の主要メディアが、国民の視野を
世界に広げないようにして、上手く管理していこうとする極めて狭量な発想
があり、言わば鎖国墨守マインドとでも言うべき、官僚的な発想に染まりき
っているという現実があるのではないだろうか?

そしてその元著は、江戸時代初期に、戦乱が続き新教・旧教の争いも激しかった当時の混沌
としたヨーロッパの動向を見据えて、 白黒つくまでは日和見でどことも深く
結ばないようとの深慮遠謀で鎖国政策を定めた、じつは超国際派 だった徳川
家康の当意即妙な政策を、そのあといつまでもいたずらに墨守した後世の硬
直化した官僚化した幕臣達にこそあり、その影響が今日まで続いているので
はないかとの感じを受けるのものである。

保守の質こそが問われていると解釈すべきではないだろうか。

13千々松 健:2010/11/14(日) 11:24:19
「情報」という言葉を曖昧、かつ場当たり的に使用して来たコトの自己反省を込めて、いま「情報の四階層」という説に注目したい。かつてアメリカの大統領が補佐官に対して、「私には情報ではなく事実を知らせてほしいのだ」と厳しく叱ったという有名な話がある。
1)この場合の事実に当たるのが雑多な潜在的な知レベルである Data階層で、
2)そこから抽出され意味付けされた知が Information階層の狭い意味の情報レベルである。
3)それをいつでもだれでも活用できるような形式知レベルにしたのが knowledge階層であり、
4)更に未来指向で行動するための智慧レベルに戦略化したものが Intelligence階層となる。
1)2)3)がフィードバックの知であるとすれば、4)はフィードフォワードの知であると言えましょう。この「インテリジェンス」を磨かなくては国はやがて崩壊するコトになるし、インテリジェンスを磨く教育や研修をすることが、例えば、ソニーが嘗てのソニーらしくなるための最重要課題になると思います。

14藤原肇:2019/01/04(金) 09:19:04
現在の日本がタコ壷発想に支配され手いるために、暴政の中で亡国現象に陥っていて、ゾンビ政治の蔓延を放置している理由は、大学知の解体に苦心でいる理由を知る上で、山本哲士の言説はとても参考になるので紹介する。
彼はジュネーブで研究していることにより、ヨーロッパの社会思想を学ぶ上で、とても興味深い視点を提供してくれる。
「ゾンビ政治の解体新書」の中で意味論の達人の中に、彼の名前を書き落としたことが悔やまれる。
https://www.youtube.com/watch?v=oHqMNRRXf6E

15asa:2019/01/05(土) 16:54:06
あけましておめでとうございます。

昨年末ですが、日露首脳会談で、北方領土問題を棚上げにして日露平和友好条約の締結を図るという発想そのものが、
ロシアのプーチン大統領に置かれましては、これが個人的な思い付きなどと言ったところで、
憲法9条にノーベル平和賞のお墨付きを賜るという発想そのものが、日本の国内で暮らす平凡な専業主婦による
単なる個人的な思い付きに過ぎないと言うことと、もしかして、同じ意味を持つものかも知れないことにこそ、
決して偶然とは言えない一つの歴史的な転機の始まりのきっかけにもなりうるのではないかと思わず想像して
しまったところなのですが?

16村山:2021/10/14(木) 07:07:11
小室直樹氏に関して「山根治BLOG」に、次のような記事が出ていた。ヨーロッパの伝統的な評伝と、日本の評伝における内容の違いは、こうした視点の情報や、シュテファン・ツヴァイク的な叡智が、有るか無いかの違いだと思う。
「・・・山根治ブログの特徴は、素晴らしい情報の宝庫だのに、索引の出来が悪いせいで、過去の記事を探し難くて、ラビリンスに入った印象が強く、奥の院にたどり着くまでの迷路が、錯雑して惜しい限りです。それは日本の図書館や、大学図書館でも同じことで、プロの司書の訓練が劣り、学問の場の大学でさえ、使う人の立場になっておらず、図書館が本の倉庫に過ぎません。
私はジャパノロジストについて、彼らの実力を知るには、書庫の蔵書の質を調査し、問題意識を探るのが最良と考え、十年以上を費やして、米国の大学の書庫巡りをしました。そして、日本学の講座を持っている、米国の20校以上の大学を訪れ、それで得た評価をベースに、日本学者と議論をしたが、それで相手の真贋を判断し、その一端は『「アスペ」の三畸人交遊録』や、他の拙著に書いてあります。
また、私はペパーダイン大学で、総長顧問をした時に、世界の百校余りを訪問し、総長や学長を相手にして、人材育成問題を論じたが、責任者の人格が決め手で、通俗的な有名校は無意味と知りました。だから、小泉や安倍を始め、菅や岸田などを首相にした、日本はとても一流国でなく、三流国だ判断することに、私は強い自信を持っており、それが私の評価力の基準です。
それで得た私の結論は、大学は建物に過ぎず、そこにいる学者の実力と、大学図書館の蔵書の質が、学部の格を決定づけており、大衆には一流大学とか、二流大学の呼称はあっても、一般化は無意味なのです。どの大学のどの学部は、ある時期は誰が教授だったから、横綱格だと形容できても、それは大学全体を示さず、優れた人が上に立って、適材適所が実現した時に、初めて一流と呼べるのです。
だから、私の人生の遍歴は、有名と言う虚名ではなく、一流の人材を訪ね歩き、その薫陶を仰いだのだし、市場に群がる大衆は、相手にしないで来たし、賎民資本主義に反抗してきた。そして、著書も未来の読者に向け、メッセージを送ったから、大衆相手の日本では、黙殺されて書評もなく、活字にする出版社も不在で、電子版で記録を残したのです。
大兄の「見えて来た裏の構図(6)」には、「大学の横綱格は東京大学、大関格は慶応大学と早稲田大学。東京大学は、政・官・財にわたるオ-ルラウンド・トリッキ-・プレイヤ-、いわば「日本一の大親分」、慶応大学は、財のトリッキ-・プレイヤ-、いわば「こそ泥の類(たぐい)」、早稲田大学は、政のトリッキ-・プレイヤ-、いわば「寝わざ師」。・・・」とある。
だが、後半部その通りだろうが、横綱や大関の格付けが、大いなる疑問だと思うのは、学問的な評価ではなくて、権勢欲の分布図だからでしょう。 続く

17村山:2021/10/14(木) 07:10:34
私は小室直樹との共著に、『脱ニッポン型思考のすすめ』があり、この対談相手は京大で数学を学び、経済学者になるために、阪大の大学院に行き、そこで経済学を専攻しています。その辺の事情について、『「アスペ」の三畸人交遊録』に、次のような記述をしており、真に学問をする場に関し、世界に通用する発言を行い、日本の常識に反逆しています。
「・・・1950年代の経済学は、マルクス学派が卓越し、1960年代になると共に、近代経済学を謳うケインズが、一般理論で脚光を浴び、急速度に追い上げていた。旧帝大系はマルクス派で、旧高商系が近経を好み、商業都市の伝統から、阪大と大阪市大は近経という、不思議な現象があって、阪大の経済学部が輝き、それに小室直樹は影響された。
その頃の京大の経済学部は、マルクス経済学の全盛期で、高田保馬の高弟の青山秀一や、鎌倉昇が頑張っており、近代経済学では阪大が、高田教授の存在で日本一だった。また、東大の経済学部はお粗末で、文一の優秀な学生は法学部を選び、東京では一橋や慶應義塾に、優秀な教授がいたから、気の利いた学生はそれを知っており、経済学では西高東低だった。
日本のマーシャルと呼ばれて、『勢力論』(有斐閣)を書いた高田保馬教授は、日本人嫌いのケインズが、尊敬した唯一の経済学者で、高田が京大から阪大に移ったから、弟子たちもそれに従った。阪大に移った高田保馬教授は、ワルラス理論で近経を開始し、高田に従った若手の弟子には、森嶋通夫、市村真一、畑中道雄、安井琢磨がいて、阪大の近経の黄金時代を築いた。
小室直樹の話では、京大の数学科の学生時代に、ヒックスの『価格と資本』(岩波文庫)を読んで感動し、数学から経済学に転じたが、その翻訳本の序文を書いたのが、市村真一教授だった。また、市村教授が阪大にいたから、大学院は大阪大学に決め、指導教授にも選んだし、厳しく鍛えられたそうで、小室流の偏屈さは市村仕込みである。
この話には裏の話があって、市村真一が三回生の頃に書いた論文が、LSE(London School of Economics)のヒックスに認められ、彼の本の一章に「市村理論」として載り、二五歳の彼は有名になった。その後に取材したら、市村は神童だが天才ではなく、それ以降は鳴かず飛ばずで、晩年右翼の論客になった点では、西尾幹二と似た人生で、専門で息切れし反動化した。
LSEの森嶋通夫教授の話だと、小室はフルブライト奨学金を得て、日本を見限って渡米したが、先ずミシガン大学で、計量経済学を習得し、経済学の本質を徹底理解した。米国は黄金の60年代で、ケインズ学派の理論が、この世の春を極めていたから、乗数理論を使いこなす、サミュエルソンに師事し、小室はMITで経済学を仕上げた。・・・」
私の留学時代の級友の夫人は、パリの高等商業の卒業生で、そこは大学でなくポリテクニックに属し、アントワープの高等商業が、建学の手本になっており、実学の商業学は港町に発達した。だから。明治政府が作った高専は、神戸や横浜に位置したし、一ツ橋の前身の東京高専は、パリの高等商業を手本に、渋沢栄一が創立の努力をしたのです。
だから、官僚養成機関の東大は、法学部に行くのが本筋で、大学で商業を学ぶよりも、大阪の道修町で丁稚になり、商売を学ぶのが正道とされ、東大で経済学を学ぶ学生など、邪道扱いをされていた。私が高校生だった頃は、早稲田の商学部は無試験で、誰でも行けた大穴だったし、それで行った連中が、雄弁会に入って政治家になり、経済学を学ぶ学生は、理財科の伝統を持つ慶應か、一ツ橋を選んだものでした。
ラテン語ができなければ、ゼミに入れない上原専録や、有名でなくても実力を評価された、教授が一ツ橋にはいたが、東大の経済は三流で,法科に行けない者の吹き溜まりだった。一ツ橋でも社会学部は、慎太郎のような太陽族を生み、恥晒しをして情けないが、竹中平蔵が一ツ橋を受けたのは、東大の入試が中止になり、法学部に行けなかったせいだろう。
日本の大学の入試は、記憶力を試す暗記本意で、偏差値と言う虚妄に従い、独創性や判断力は評価せず、ディジタル人間を選ぶから、点取り虫や東大話法のお花畑だ。だから、政界は世襲代議士だし、官界の幹部役人は東大法科卒で、六法全書を丸暗記した連中が、三百代言を並べ立て、出世街道を目指すから、日本は国力を衰退させており、後進国に転落中なんです。」


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