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【廃道・隧道】山さ行がねが応援スレ【冒険・探索】

1とはずがたり@元林道部会長:2007/09/30(日) 23:18:53

山さ行がねが
http://yamaiga.com/index2.html
ヨッキれんを応援しようヽ(`Д´)ノ
皆の実行したアホな冒険譚も求む。

243とはずがたり:2014/06/17(火) 10:05:15
鉱山(ヤマ)さ行がねが♪シリーズ

秩父鉱山はニッチツの保有する鉱山http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1070723570/1310。規模縮小しつつ現在も石灰石を採取している。2006年に無住の地(OBが一人だけ住む)となったそうな。
皆,クルマで通勤出来る様になったと云う訳か?

それにしても凄い場所だなぁ。。西関東のどん詰まりという表現しか思い浮かばない。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E138.48.36.397N36.0.46.176&ZM=7
三峰口迄索道って!?と云う距離である。。。

秩父鉱山 2007.10.20
http://www.kanso.cside.com/neko_tabi/mine/chichibu/chichibu.htm

秩父鉱山は現在も稼動中であり、株式会社ニッチツが石灰を掘っている。
ダンプもひっきりなしに通る為、業務の邪魔にならぬように注意する必要がある。
こちらの方は秩父鉱山の小倉沢中学校出身の方で、今もその伝統・歴史を伝えようとされている方である。
心より敬意を表したい。
今回は稼動中の鉱山ということもあり、施設へ近づいて撮影はしていない。鉱山街の廃墟写真が中心となっている。

秩父鉱山は戦国時代、甲斐武田氏が採掘したのが始まりと伝えられている。
江戸期には平賀源内も金を求めて入山した。
1937年よりニッチツが柳瀬鉱業所より鉱山を買収し大規模に採掘を始めた。
金・銀・銅・鉛・亜鉛・鉄が採掘されたようだ。
1978年に採算が合わずに金属採掘を止め、以降大幅に規模を縮小し現在も石灰・珪砂のみを採掘している。
これにより埼玉県の金属鉱山は消滅した。

最盛期には標高860mの山中であるのにも関わらず2000人を越える人口を誇り、
ニッチツの用意した共同浴場・社宅・病院・学校・商店も完備、郵便局も存在した。
尚、郵便局は関東で最も到達困難な場所にある郵便局であり、郵政民営化の際にも廃局にならずに存続が決まった。

2006年9月には鉱山街から人が去り、遂に無住の地となった。
現在ではニッチツ事務所の裏にOBの方が犬と独り住んでいるだけであり、小倉沢は人口一人となった。
鉱山街はすでに自然に帰りつつある。
栄華を誇った秩父鉱山の今の姿をお伝えしたい。

244とはずがたり:2014/08/07(木) 19:46:15
見るだけで行った気になれる、東京近郊・車で日帰り登山動画&秘境散歩動画 せんてんすくらぶ.net
http://xn--y8jtaf8b0e7ewcb.net/

サイト管理人の生態
http://xn--y8jtaf8b0e7ewcb.net/prof.htm

ハンドルネーム:せんてんす (サイト名と同じです)…というか、ハンドルネームをサイト名にしているだけ。。。
発生地:東京湾で、ボウフラが突然変異…!?
発生年:花のサンパチ。同年代は、仮免横綱・双羽黒…(゚゚;)エエッ
性格:超硬派で、まじめなんだが、ふざけている二重人格…!?
生態1:色々あったが、今は独身(子孫無し)。決して、 ホモではないし、風俗遊びもしない…ひたすら山の中へ…(*^_^*)
生態2:炊事洗濯、何でもOK♪ 外食が苦手…(^o^;)
生態3:節約の鬼!1ヶ月の食費は1日3食で1万円ちょい! とにかく、節約節約♪ 要は、貧乏ね…(/--)/
趣味1:車が唯一の自己資産…(^o^;) 簡易キャンピングカー仕様!今回が、2代目のキャンパー♪(^o^)v
趣味2:独学で覚えた、パソコンも趣味。 HPも、専用ソフトは買わず、メモ帳とフリーソフトで作成♪ヘ(^o^)/

245とはずがたり:2014/08/07(木) 20:00:23

子連れの林道部,いいね♪

神奈川県道515号三井相模湖線 【最険狭道】
https://www.youtube.com/watch?v=vw3FQbNasRg

通行禁止区間があるが踏破はせずその両側のレポ

神奈川険道515号線
神奈川県相模湖町〜津久井町
2005・12・31来訪
http://www.geocities.jp/wxfff590/kanagawakenndou515.html

r515はやまいがでも取り上げられている。勿論踏破♪

神奈川県道515号 一般県道 三井相模湖線
http://yamaiga.com/road/kpr515/main.html

>>244のせんてんす氏の踏破動画

進化した神奈川県道515号・廃道区間踏破1/4@神奈川県相模原市緑区
https://www.youtube.com/watch?v=5FnVayw4ws8

246とはずがたり:2014/08/08(金) 09:57:13
>>54-56
山崎峠と三安鉱山は大峠と八谷鉱山に似ている。
前者は鉱山は宮城側にあるけど搬出は福島県側で鉱山は閉山,結局宮城県側は廃道化。後者は鉱山は山形側にあるけど搬出はやはり福島県側からで,現在鉱山は閉山,結局山形側が廃道化,である。
となればさしずめr107はR121旧道で,R121新道はr46(規格は全然違うけど)ってとこか。

wikiに拠ると1943頃閉山となっているので,戦後,鉱山開発の目的もあって県道整備してみたけど結局再開には至らなかったと云う感じではなかろうか?

山崎峠(宮城福島県道107号赤井畑国見線)
http://www.henari1.jp/H-6-001-A.htm


なんだこのマークは!?
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E140.32.49.991N37.53.51.161&ZM=9

廃道日記(Riding・Report)001-3(>>54から移転している)
http://dtm-rt.o.oo7.jp/3.dtm/6.ObRoad-Diary/project-2/001.kendou107/hido_deta2.html
考  察
〜鉱山の隆盛と七里沢隧道の放棄〜

 宮城県によれば今後もこの険道を正式な県道にする予定はなく、宮城県側の隧道及び接続道路は崩壊及び閉塞を持ってその人生を終える事となりそうである。隣にある県道46号線(小坂峠)で代用は十分に果たせるし、今後、飛躍的に交通量が増える予定もないからだ。
 隧道の竣工は「山形の廃道」様(http://www42.tok2.com/home/ht990/ )「全国隧道リスト」によると昭和28年である。当時、全長100m/幅3.2m(コンクリート改修部分の幅が記録されている。初期の素堀隧道の貫通・竣工は記録に無い。当然、中央アーチ部は幅2.5m程度しかない)の隧道を掘るのは大変な金額と労力を要したはずだ。因みに昭和11年の、宮城県内での地方費道路線認定(県道指定/準備)路線としては、ダントツに早く竣工している。これは昭和27年に一級国道4号/6号線が認定を受けた翌年に、隧道は竣工している事を意味する。(あの状態で、竣工というのも?)

そこでクローズアップされるのは七里沢鉱山の存在である。紫水晶や銅(亜鉛という資料もある)を産出する鉱山の最盛期は戦前・戦中であり、戦時中は鉱物は総て軍需産業に転用されただろう。実は当時の鉱山の廃墟がまだ残って(いる。…)面白いのは、この鉱山は独特のねじれ現象に徹頭徹尾振り回されたのだ、県境という立地条件故に。
 宮城県に在籍する鉱山「三安鉱山」は宮城の会社が運営し、主だった運営や労働者も宮城からが多かったようであるが、交通の地の利から掘り出した鉱石は福島に運び出され、東北本線藤田駅から各地に運ばれたのだ。

ここからは、全くの予想である。
 宮城県としては、昭和27年の道路新法による国道113号線の認定・整備(実際には28年)と共に、鉱石を宮城側に降ろす計画を立てていたのでは無いだろうか?すでに主立った関係者は宮城から出ているのだ。地元に対するその経済効果は計り知れないだろう。自動車の普及を見越して、国道開発に連動した県道延伸と考えるとつじつまが合う。そう考えると、途中から抗口を広げようとした意図も判る気がするのだが。

 ただ、想定外だったのは七里沢鉱山の閉鎖である。理由は不明だが可能性があるのは、隧道の計画時期より思った以上に鉱脈が細かったのではないだろうか?大正から昭和の初めはは紫水晶の産地として有名だった鉱山だが、その後は水晶より銅を生産していたらしい。国内需要の大きさの割に七里沢鉱山の埋蔵量はなく、隧道は貫通したところで、鉱山ごと放棄されてしまったのではないだろうか?
 また、産出する鉱物の価値が下がって、鉱山経営が成り立たなくなった可能性もある。この周辺は三安鉱山以外でも幾つか掘っている(試掘)らしくて、その時期もバラバラなのである。因みに三安鉱山は戦時中に一度倒れていて、その当時でも千人程度の抗夫が働いていたらしい。国見からも出資があり、また倒れたという資料も、昭和18年と鉱山統制がかかるころで、国の指針で戦争に必要な鉱床以外は閉鎖に追い込まれているはずなのだ。(軍需産業などと書いておいて、紫水晶が何に加工されたか知らないんですけど、掘り出されてるのはやっぱ銅?)
 因みに、現時点では戦後に三安鉱山が再起したのか?最終的な鉱山の放棄時期などについては、文献を見つける事が出来なかった。

247とはずがたり:2014/10/06(月) 11:26:43
廃物件発見!
http://tohazugatali.iza-yoi.net/NARA/r7/r7-00.html#ob

場所はここ
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.43.24.097N34.45.52.874&ZM=11

残念ながら県道傍で人目があるし,錦秋湖みたいに広くない溜池は立ち入り禁止で有刺鉄線も貼られてるんでよっきにあの橋の上に立ってくれとはいいづらいw

249とはずがたり:2014/11/01(土) 17:01:28
掛川スレで紹介したホムペ( http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1187487997/134http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1187487997/137 )だけどより本格的な中身っぽいのでこちらに。

(仮名)水窪地頭方第一隧道
http://d.hatena.ne.jp/cocora/searchdiary?word=%2A%5B%C5%B4%C6%BB%5D

250とはずがたり:2014/11/01(土) 19:12:33
これはレアでは!?

廃止された県道(廃道では無い・県道そのものの格下げ)に眠る白塗りされたヘキサ!
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1187487997/138-139

251とはずがたり:2014/11/01(土) 19:22:56
孔さ行がねが♪

2010-11-09
掛川市遊家 - 遊家隧道は存在するのか?
http://d.hatena.ne.jp/cocora/20101109/1289255118

252とはずがたり:2014/11/01(土) 19:30:02
よっきは未だレポしてないのかな?早川町だから絶対行ってるよねw

2012-11-04
山梨県道37号線 - (旧)角瀬トンネル
http://d.hatena.ne.jp/cocora/20121104/1352042470

253とはずがたり:2014/11/06(木) 15:54:32
【旧道倶楽部】
住道駅から近鉄八尾駅迄r21八尾枚方線の旧道(っぽい道)を辿ることが出来る

起点
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.37.36.969N34.42.20.475&ZM=10

(都)大阪生駒線との交点。
此処で大阪生駒線は一旦終わっている。俺が旧道に気付くきっかけとなった箇所。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.37.26.608N34.41.34.540&ZM=9

現道との交叉部
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.37.1.585N34.40.51.019&ZM=9

中央大通りとの交叉部である横枕交叉点
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.36.40.384N34.40.31.445&ZM=9

若江岩田駅の横
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.36.37.472N34.39.35.616&ZM=9

再び現道との交叉
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.36.29.283N34.38.46.683&ZM=9

萱振町2
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.36.29.385N34.38.1.894&ZM=11
直ぐに八尾中央線から離脱

八尾中心街(旧市街?)
この辺迄一本道
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.36.6.995N34.37.36.416&ZM=11

254とはずがたり:2014/11/06(木) 16:09:10
【旧道倶楽部】
168の生駒市付近

起点(R168現道より分岐)
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.41.57.563N34.44.25.458&ZM=8
終点(R168(南田原BPが出来て旧道に成っている)へ合流)
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.42.23.790N34.42.52.167&ZM=9

で,昔はr142+r104経由だったと仮定して,更に
分岐擬定点
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.41.59.545N34.42.6.354&ZM=10
擬定旧道が明瞭に開始する点
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.42.2.233N34.41.53.615&ZM=10
市道13号との交叉点。昔はここ(13号線側)に稲蔵神社の鳥居があったそうな
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.42.19.067N34.41.35.046&ZM=10
終点
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.42.31.351N34.41.9.838&ZM=10

壱分付近
旧道?
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.42.38.796N34.40.23.297&ZM=10

255とはずがたり:2014/11/08(土) 08:58:04
>>250を見に行く途中,この辺,流された木の廃橋があった♪
まあ大した遺構ではないけど,河原で遊んでいる内に時間なくなり原田森線に辿り着けなかった(;´Д`)
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E137.56.44.170N34.50.48.119&ZM=8

256とはずがたり:2014/12/15(月) 07:55:36
昨日決行。

R163から沈下橋を経由して入ってみてこの辺で断念
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.57.42.436N34.44.57.184&ZM=8

r4から入ってみてこの発電所付近で断念
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.57.50.278N34.44.26.773&ZM=8

257とはずがたり:2015/01/05(月) 09:58:51
名豊道路の豊川為当IC〜蒲郡ICの欠環部の連絡にr368国坂峠から数年前に知らん間に無料化されていたr525三河湾ドライブウェイに入ってみた。

ここ(三河湾ドライブウェイから市道への連絡路)廃道になってた。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E137.15.38.589N34.51.2.301&ZM=10

ここから三ヶ根側は通行止めになってた。特に表示にも気付かなかったのでいきなりの印象
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E137.13.43.773N34.51.56.593&ZM=10

途中も枯れ葉が結構路側に溜まっていて荒れた印象。

それは兎も角通行止にやむなく岡崎の看板に从い山を降りる。R1に合流は名電山中付近であった。

258とはずがたり:2015/01/16(金) 09:58:28
中央高速中部山岳ルートについて
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1070022351/3362-3363

この頁↓も更新しないと♪

妄想!新中央道
http://www42.tok2.com/home/dorozoku/shin-chuo/shin-chuo.html

妄想を完成させるには中部横断道の富士川との交叉部をはっきりさせないとあかんね。

259とはずがたり:2015/01/16(金) 21:17:24
>>258
本邦(多分)ネット初公開♪
中央高速比較代替ルート道志線地図(`・ω・´)
http://www42.tok2.com/home/dorozoku/shin-chuo/shin-chuo.html#doshi

またまた多分この縮尺ではネット初公開♪
中央高速,中部山岳貫通ルート地図(`・ω・´)
http://www42.tok2.com/home/dorozoku/shin-chuo/shin-chuo.html#akaishi

いやあ萌えますねぇ,否,寧ろ燃えるわあ♪♪

260とはずがたり:2015/01/16(金) 21:36:24
縦断図もアップ♪
http://www42.tok2.com/home/dorozoku/shin-chuo/shin-chuo.html#juudanzu

261とはずがたり:2015/01/18(日) 11:57:17
早川町のr810の終点(実際は起点)の雨畑から更に遡上した稲又から稲又谷を登り,青薙山の下を硯島トンネルで抜けて出てくる井川はこの辺,地名で云うと田代付近http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E138.11.57.938N35.21.49.458&ZM=8と思われる。

因みにインターの接続道路は「調査報告書」に拠ると大井川ICに関しては県道井川静岡線となっているが,現在その様な路線は無い様で,井川地区へのアクセスする主要地方道はr60南アルプス公園線(昼居渡[R362に接続]〜小河内[東俣林道に接続]・1973年認定)とr27井川湖御幸線(大日峠北麓〜御幸通・1960年認定)である。両線を併せた様な静岡から井川を結んでいた県道が調査のあった昭和30年代前半(1960年前頃)にはあった様だが詳細は不明(現時点ではwikiで調べたのみだけど)。

更に大井川IC付近はそのr80ですらなくその先の一般車通行止め(法面等が大変不安定なため、ゲート管理をし一般車両の通行を禁止http://www.city.shizuoka.jp/deps/rindou/rindoutuukoukiseihigasimata.html )の東俣林道上である様だ。

下の東俣林道の「6.49キロ 畑薙橋を渡る。」付近であろうかと思われる。凄い何も無さそうな所だ。

我流かもしれないMTB整備と林道ツーリング
林道東俣線 (静岡県静岡市葵区)(その1)
http://dts3800.blog117.fc2.com/blog-entry-277.html
走行日 平成24年8月25日

262とはずがたり:2015/01/18(日) 17:55:11
2014年10月25日(土) 15時46分掲載
秋の林道 JAF救助要請相次ぐ
秋の林道、深入り禁物 迷う、脱輪…JAFへの救助要請相次ぐ
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6136110

 各地の山が紅葉狩りやキノコ採りなどでにぎわう中、林道からの救助要請が日本自動車連盟(JAF)山形支部に相次いでいる。多くが道に迷ったり、脱輪したりしたとの内容だ。共通する原因は誰も知らない「穴場」を求めて深入りしたこと。林道は道幅が狭く、ガードレールがない区間も多いため、路肩から転落する危険性も高い。同支部は「通り抜けられるか事前に確認するのはもちろん、不安な場合は安易に入らないでほしい」としている。(山形新聞)

263とはずがたり:2015/01/20(火) 10:45:34
【r35久坂中ノ畑小浜線・r23小浜朽木高島線・おにゅう峠】
おにゅう峠(滋賀県側では小入,福井県側では遠敷。)は俺も制覇済みだ。しかも後輩たぶらかして,しかも走り屋仕様のインテTypeRで♪(・∀・)←攻める峠の種類間違ってるww正直済まんかったm(_ _)m
で,上根来の記事を読んだ時は全然気付かんかったけど,なんだあんとき通った筈の集落じゃねーか!!r23の未通区間がおにゅう峠だと間違えて記憶してた。
r23と云い,r61の祖父谷峠とか限界集落解体論者の俺としても主要地方道としてちょいと開通させて欲しいとは思ってしまう。前者はR303,後者はR162が併走しているから全く問題ないんだけど。。

r35未通区間の脇にある上根来(かみねごり)集落はこんな所
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1066974699/4727-4728

■この道往けば
林道上根来線編
http://blogs.yahoo.co.jp/rin7574/11993556.html
>正直、今回の訪問(実は仕事関係で来ることになった)は仲間が大勢いたこともあって、前回感じた恐怖を感じることはなかったです。←仕事で来れるなんて羨ましい(;´Д`)

>この林道が小浜から滋賀県に抜けることができる唯一の道です。
県境にはおにゅう峠(レポ未)という峠が控えていて、実は今回の探索の最大の目的はこいつだったのですが、あえなく土砂崩れ通行止め・・・。

福井県道35号久坂中ノ畑小浜線
http://blogs.yahoo.co.jp/rin7574/12002102.html
http://blogs.yahoo.co.jp/rin7574/GALLERY/show_image.html?id=12002102&no=9

■おにゅう峠/滋賀県と福井県を繋ぐ絶景林道ツーリング
http://touge1000.com/touge/4939/

>ストレートに打ち付ける山風。左右に広がる絶景。見上げた山肌には、折り重なるガードレール。なんて気持ちのいい林道なんだ。おにゅう峠に至る林道小入谷線は、ツーリング冥利に尽きる尾根を通す峠道になっていた。

>この違和感を感じるほどの明るく清々しい小入谷林道を上り切ると、生まれて間もない「おにゅう峠」に到着した。路面には、くっきりと福井県と滋賀県との県境が表れている。滋賀県側の林道小入谷線は、舗装林道。一転、福井県側の林道上根来線は、ダート林道と国境が明確に分かる。

おにゅう峠・Pass Hunting NO.103

調査:2014/05/03(土)
峠名:おにゅう峠(おにゅうとうげ)
路線:林道小入谷線(朽村側)・林道上根来線(小浜市側)
所在:滋賀県高島郡朽木村小入谷∧福井県小浜市上根来
座標:35.38686,135.79185
標高:830m、路面:オンロード&オフロード

■おにゅう峠 林道小入谷線
http://www.asahi-net.or.jp/~tk6k-oowk/touge/touge_onyuu.html

■福井県道23号主要地方道小浜朽木高島線
山奥へ分け入る若狭のダート道
http://turkey.6.pro.tok2.com/fukui023.html
>柱をよく見てみますと池河内林道起点との銘板が貼ってありました。ここから先は林道になるようです。

>林道起点の銘板より振り返ります。r23は右を流れる松永川を渡り三番滝まで続いているようですがどこから分岐しているのかよくわかりませんでした。

↑地図ではこの辺。道なりが林道で県道は曲がるようだ。
上のブログの写真にも特に分岐道は写ってないので山道みたいなものかもしれない。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.49.50.018N35.25.50.238&ZM=9

264とはずがたり:2015/01/20(火) 12:04:08
これはずげえ。こんな所に災害復旧ということで高率で国費が投入されるのは我慢ならんな。
とっとと指定解除して廃道にすべきである(;´Д`)
集落跡の記述をみると歴史の重みも感じざるを得ないのであるけど。。

r10はr27とともに金沢から砺波へ出る主要地方道。r10は湯涌温泉,r27は医王山経由。r27の整備っぷりは素晴らしい。

【日本最凶険道】開かずの富山県道54号線@2013−OP
https://www.youtube.com/watch?v=NSrazCJSg20

富山県道54号福光上平線
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E9%81%9354%E5%8F%B7%E7%A6%8F%E5%85%89%E4%B8%8A%E5%B9%B3%E7%B7%9A
古くは塩硝街道とよばれ、五箇山で産出した塩硝を金沢まで運ぶ重要なルートであった。

沿線集落跡[編集]
刀利:刀利集落はダム水没に伴い、1961年(昭和36年)に解村式を行い、1963年(昭和38年)に廃村。水没地東方山頂に刀利城跡があり、城主は宇野宗右衛門で佐々成政、前田利家に仕えたという。刀利は下刀利と上刀利に分かれ、現在の刀利山崎公園の直下、標高554mの丸山の南方に下刀利、700mほど上流に上刀利があった。上刀利には学校があった。
瀧谷:上刀利の更に上流にあった集落。ダム水没に伴い、1961年(昭和36年)に解村式を行い、1962年(昭和37年)廃村。
中河内:刀利ダムからの水没は免れたが1966年(昭和41年)に解村式を行い、廃村。現在は無住地。現在の国土地理院の地形図には地名すら載っていない。福光町立南部小学校中河内分校・福光町立福光中学校中河内分校跡の石柱が立てられている。この地は江戸期には遊廓があり、「中河内で見たような女郎が、今朝は湯涌の町で見た」の小唄[1]が残されている。昭和初期まで、ここから赤堂(あかんどう)山、大倉山を越えて、石川県石川郡犀川村の倉谷集落に通ずる道があった[2]。
下小屋:猿ヶ山西麓にあった集落。中河内と同様、刀利ダムからの水没は免れたものの、1966年(昭和41年)に解村式を行い、廃村。現在は無住地。現在の国土地理院の地形図には地名すら載っていない。福光町立太美山小学校下小屋分校跡の石柱が立てられている。昭和初期まで、ここから月ヶ原山を越えて、石川県石川郡犀川村の倉谷集落に通ずる道があった。1821年(文政4年)8月測量の『三洲測量図籍』[3]によると、「下古屋」とある。

気になったので逝ってみた。←女性あ8あいだオブローダーの方みたいだ♪
富山県道54号
http://www.geocities.jp/classicmegu/kiniikir54.html

平成9年頃は乗用車でも通り抜けれたのですが、今は完璧に四輪を阻む体勢。
東海北陸自動車道が併走して開通した事もあり、
後は放置&廃道の一途を辿っています。
ヘタレなおばちゃんですので、こういった道は徒歩と逝きたいワケですが
距離が長いしブナオ峠ってのを越えなくちゃあかんので、体力的に無理と悟り
レイドでおっかなびっくりの突撃となったのです。

使用車TT250Rレイド 2006.6.11探索

265とはずがたり:2015/01/23(金) 13:04:30
>>97-98>>219-223>>258-261
JSCEは日本土木学会。

2013年7月31日水曜日
第6回 元本四公団総裁 山根孟さん(後編)
http://blogs.jsce.jp/2013/08/6.html

■東条英機に却下された高速道路計画
山岡 … そもそも、高速道路の構想は、戦前まで遡るのですね?

山根 はい。高速道路建設の基礎調査が初めて、正式に行なわれたのは1940(昭和15)年〜1942(昭和17)年です。当時の内務省土木局が「重要道路整備調査」の一環として行なっています。民間でも同じ年に「東京〜下関間幹線道路建設促進同盟」が誕生し、「弾丸道路」という呼び名で高速道路への関心が高まりました。当時、ドイツでヒトラーが進めていたアウトバーンの高速道路網建設に刺激されたのです。…

山岡 政治を牛耳っていた軍部は、高速道路の建設に前向きだったのでしょうか。

山根 それにはエピソードがあります。内務省土木局は、「全国自動車国道網計画(5,490km)」をまとめます。その最優先区間として東京〜神戸をあげ、このうち名古屋から神戸間を緊急区間として実施計画を策定しております。名古屋〜大阪間は「木津川ルート」(いわゆる名阪国道)の計画です。この名古屋〜神戸間の高速道路建設費を2億円と概算し、予算要求を行なうことになりました。
それで、内務省の省議に予算案を提出した。当時の内務大臣は陸軍出身の東条英機です。東条大臣は、その案をひと目見るなり、「土木局は気が狂ったのか」と、差し戻したそうです。戦争遂行には莫大な国費がかかるのに、何を考えているのか、狂気の沙汰だ、との思いからでしょう。当時、東京と神戸の間の国道でさえ、自動車のすれ違いが困難な区間が多く、トラック輸送などの面で高速道路のニーズは高かったのですが……。戦局が悪化した1944年には、国鉄の新幹線計画と同時に高速道路調査も打ち切られました。

■ワトキンス調査団の秘話―政治家秘書の胆力
山岡 …高速道路建設が動きだすのは、やはりサンフランシスコ講和条約が発効し(1952年)、日本の主権が回復してからでしょうね。

山根 『高速道路と自動車』(現在の公益財団法人高速道路調査会発行の月刊誌)という雑誌で、「ワトキンス調査団報告45周年記念座談会」(2001年2,3月号)が行なわれ、そこで戦後の高速道路建設の始まりについて、興味深い話が開陳されています。1952年に、電源開発の高碕達之助総裁が、大学の研究者だった川本稔さんという方を秘書に登用し、吉田茂総理がヨーロッパ経由でアメリカへ行くのに同行せよと命じます。吉田総理は、東京から神戸まで高速道路をつくることに非常に熱心で、これまでにもドイツのアウトバーンやアメリカの高速道路を視察したりしていましたが、この時には資金面のメドをつけようとしていたようです。

山岡 高碕達之助は、水産技師から会社経営者、政治家に転身した人ですね。戦中は、満洲重工業総裁を務めました。日産コンツェルンの鮎川義介とも親しい。いわゆる満洲閥の人材で、電源開発総裁として佐久間ダムの建設にも尽力しています。戦後の道路や電源開発などの公共事業は、満洲閥の力で進められていますね。

山根 ええ、満洲で試みられた手法が、戦後の国づくりの実践に活かされた面はあるでしょう。高碕総裁の秘書となった川本さんは、もともと土木とは縁のない方でした。建設省の職員から2週間、昼夜兼行で道路に関するレクチャーを受け、米軍に掛け合って日本列島の立体地図を入手し、そこに高速道路のルートを全部描き入れて、吉田首相と一緒にアメリカへ渡ります。その後の顛末がおもしろい。座談会から川本氏の発言を引用しましょう。

266とはずがたり:2015/01/23(金) 13:06:25

 川本「吉田総理の考えは、当時、余剰農産物資が日本にどんどん入り、その資金である円がかなり溜まっているので、それを使わせてもらう交渉をしようということだったんです。しかし、ワシントンに乗り込んだところ、私の出番どころか初めからそれは潰されまして、吉田さんが私に、『残念だったけれども、ウォール・ストリートの法律事務所に君を預けるから、トールロード(Toll Road有料道路)のボンド(起債)を勉強してくれ』ということでニューヨークに私は預けられました(略)。  ……資金の問題でワールド・バンク(世界銀行)に行き、ミスター・ドールという日本の担当者に会い、『日本は道路をつくりたいんだ、金を貸してくれ』と言ったら、『ノー、日本は道路なんかいらない。日本はインシュラ・カントリー(島国)だから、マーチャント・マリーン(海運力)をもっと発展させろ、それが一番早道だ』という答えが返ってきました。私は『しかし、日本政府はどうしても道路が欲しいと言っているんだ。私は場合によってはアメリカの一流の専門家を日本へ連れて行くけれども、レポートを書いたら見てくれるか』と申したところ、『必ずしも金を貸すというわけにはいかんが、レポートはいつでも見てやる』と言われました。『ああそうか』ということで、私はワトキンスさんに頼んで、人選をしていただいたわけです」

山岡 なるほど、そこから「ワトキンス調査団」が編成され、あの有名な書きだし、「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれほど完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」で始まるレポートができるのですね。レポートを契機に道路づくりが始まります。それにしても、川本氏の世銀相手の粘り強い交渉力には感服します。…

■東海道と中央道を巡る大論争の始まり
山岡 さて、日本を調査したワトキンスは名神高速道路の経済的・技術的妥当性をまとめた報告書を提出、1956年8月帰国します。そこには「東京から名古屋までの中央道案は東海道案の代替案ではなく、経済開発のために望ましいもうひとつの計画である」としています。東名が先か、中央が先かで、政治を巻き込んだ大論争へと発展しますね。中央道と東海道の先陣争いです。

山根 中央道の大の推進者は、青木一男先生です。発端は1955年に議員立法として国会に提出された「国土開発縦貫自動車道建設法」でした。海岸線を走る道路ではなく、日本の内陸部を縦に背骨のように貫く高速道路を建設するための法律です。青木先生は、この立法に財政の専門家として関わられました。

山岡 青木さんは、大蔵官僚出身で、戦前から戦中にかけて大蔵大臣、大東亜大臣を歴任し、戦後、A級戦犯容疑で収容、釈放されてからは、参議院議員として政界で活躍された人ですね。お孫さんが民主党の参議院議員だった小宮山洋子さん。

山根 青木先生の見解は「わが国の産業、人口は特定の地域に集中しすぎている。交通の便をよくすることによって、今まで遅れている地方を開発し,人口の分散を図ることが国策の基本である」、「高速道路建設は自力でできる。お互いに働いて貯蓄し、それで高速道路を建設して子孫に残すべきである」という論旨です。

山岡 ああ、郵便貯金を使った財政投融資の発想ですね。財投は、明治に郵便貯金制度ができて間もなく始まった。その後、大蔵省資金運用部が担当しています。

■名神高速道路の着工と中央道・東海道論争の激化
山根 ワトキンス調査団の来日に先立ち、1956年4月、高速道路の建設・管理を担う日本道路公団が発足しております。57年4月には、国土開発縦貫自動車道建設法、高速自動車国道法が成立、公布されました。翌5月、国土開発幹線縦貫自動車道建設審議会が開催、名神高速道路の審議が進められ、10月15日、その整備計画が決定されました。これにより、名神高速道路の施行命令が発せられ、建設が始まることになりました。これには世銀借款が導入されます。
 これを機に、中央道・東海道論争が激化します。東海道を優先すべきだとの猛烈な運動に対し、青木先生は、東京・山梨・長野・岐阜の各知事、議長などの関係者を糾合して建設推進委員会の委員長に就任し、政治の舵取りをします。自民党内でも東海道派と中央道派に分裂、深刻な事態になりました。たまりかねた村上勇建設大臣が、「どうか中央道側で譲歩して東海道案も認めてもらいたい。中央道については、政府と自民党で建設促進の保証を与える」と青木先生に申し入れます。それで折れて、東海道案を認めることとなりました。
 1960年7月、中央自動車道の路線を定める法律(東京〜小牧間)と東海道幹線自動車国道建設法の両法の制定となり、62年5月、中央自動車道の東京富士吉田間と東名高速道路の東京〜静岡間の施行命令となります。63年10月には、東名高速道路の施行命令は全線にわたりました。

267とはずがたり:2015/01/23(金) 13:10:20
>>265-267

 中央道、東海道、両方の高速道路の同時着工が正式に認められ、いざ予算の配分。ここに至って、こんどは大蔵省と経済企画庁の事務当局が中央道着工反対の方針に固執します。東海道を先に通して、経済発展の果実をもぎ取りたいわけです。『道を拓く』という本に、青木先生がその顛末を寄稿しておられます。政府が東海道を先にして、中央道を後回しにするなら、重大な決心がある、と大平正芳官房長官と前尾繁三郎幹事長に対して、次のようにおっしゃいました。

青木「この期に及んでも東海道の建設費だけが先に決まって、中央道はあと回しになるということになるならば、自分は何の面目があって各県の諸君にまみえるのか。自分は当然責任をとるつもりである。しかし、その前に自民党と政府がいかに信用のおけないものであるかを天下に表明し、その上で自分の進退を決するが承知されたい」

山根 大平官房長官も前尾幹事長も大蔵省では、青木先生の後輩ですから、青木先生の有言実行の性格はよく知っています。そこから政府、自民党とも中央道を放置するわけにはいかなくなり、建設予算がついたんです。

■中央自動車道は、なぜ諏訪経由になったか? 青木一男の決断
山岡 中央道には政治の場での闘いが反映されていますねぇ。当時のマスコミの論調を見てみますと、中央道には批判的です。1959年12月29日付の読売新聞は「再考を要する中央高速道路」と題して、次のように論説しています。
「(建設省がまとめた中央道路線についての)報告書の結論としては、山岳道路につきものの豪雨、降雪、凍結、霧など気象的な悪条件の重なりと、勾配区間やトンネルが多いことから走行速度が制限されるため、高速道路としては不適である点をまず指摘している。さらに全長二九五キロのうち五割までがトンネル、橋梁などの構造物で占められているため、建設費は三二〇〇億円の巨額に達し、(中略)有料道路として非採算的であると結んでいる。この報告で明らかにされるまでもなく、中央道については、かなりの疑点がある」

山根 当初の中央道の計画は、富士吉田から身延町を経由して、飯田市に至ることになっていました。南アルプスを貫くわけです。この間に全長8,058mの赤石トンネルはじめ大小多数のトンネルがありました。世界一金のかかる道路建設になりそうでした。青木先生も、そのことは承知のうえで東海道との同時着工にこぎ着けた。
 しかし、その後、ご自身が欧州へ視察に行き、フランスとイタリアを結ぶモンブラン・トンネル(全長12,000m)の建設現場に赴き、大規模で困難な工事を目の当たりにして、建設省や道路公団の反対論にも理由があることを痛感します。帰国すると、従来の赤石山脈をぶち抜く案を変更し、諏訪地方を経由するルートに改めると提案したのです。

山岡 ははぁ。それで諏訪経由に変わるわけですか。一説には、青木氏が長野出身なので“我田引道”とばかり、自分に都合のいいように変えたとも言われていましたが……。

山根 いや、違いますね。赤石山脈を迂回するために諏訪経由にしたのです。

山岡 …急に予定していた高速道路が通らなくなった身延町とか下部町、長野県下伊那郡の町村などは、話が違う、と大反対したでしょう。

山根 そこから、また青木先生が、政治力を発揮して関係各団体を説得して回られました。ルートから外れた自治体には県が道路整備を重点的に行なうとか、手当ても用意されました。

■高速道路の全国展開へ

山根 1963年7月関越自動車道建設法、以後、東海北陸、九州横断、中国横断と自動車道建設法の立法が相次ぎ、国土開発縦貫、東海道幹線をあわせ、6建設法により、13路線、約5,000kmが定められました。建設省はこれらを包含し、全国にわたる自動車道路網32路線7,600kmを策定、国土開発幹線自動車道建設法を提案、1966年7月公布に至りました。同年同月には、中央道の甲府〜小牧間、東北縦貫道の岩槻〜仙台間、中国縦貫道の吹田〜落合間、美祢〜下関間、九州縦貫道の粕屋〜託麻間、北陸道の富山〜武生間の整備計画が決定、施行命令が発せられ、高速道路の建設は全国にわたります。…



268とはずがたり:2015/01/24(土) 20:20:15
国道に係わるあまりにもマニアックなクイズ
2014年05月08日 22:13
http://roadkawasaki.blog36.fc2.com/blog-entry-220.html

269とはずがたり:2015/01/26(月) 10:30:50
黒森峠
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E141.23.7.836N40.1.43.884&ZM=9

主要地方道 葛巻日影線(旧:葛巻安代線)
[ 2004/11 撮影 ]
http://www.geocities.jp/nocty_bypass/douro/2_touhoku/r30.html

道路レポート 岩手県主要地方道葛巻安代線 黒森峠
http://yamaiga.com/road/kuromori/main.html
探索日 2005年4月

土曜ワイド工場
道のない県道に挑む
http://portal.nifty.com/2008/07/19/b/
多分 2008年頃

270とはずがたり:2015/02/03(火) 08:16:07

原田橋は此処
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E137.47.40.056N35.4.44.483&ZM=9

原田橋が落ちると二時間半掛かるってのはこの辺(旧龍山村)経由して佐久間市街迄てことか?
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E137.49.6.188N34.59.51.292&ZM=8
東栄や二俣出た方が近そうだな。。

崩落の橋付近に仮設道路設置へ 浜松市
http://news.goo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-CK2015020202000085.html
中日新聞プラス2015年2月2日(月)05:00

\◆着工時期は未定
 浜松市は一日、土砂崩れによってつり橋「原田橋」(同市天竜区佐久間町)が崩落し、不通となっている国道473号の付近の天竜川河川敷に、仮設道路を設置する方針を明らかにした。事故現場の安全性を確認し崩落した橋の撤去などが済み次第、着工する。ただ、着工時期は未定で、完成しても天竜川が渇水期の五月末ごろまでしか利用できない。原田橋を利用していた住民は当面、車で対岸に出る場合、二時間半の迂回(うかい)を強いられる。
 仮設道路は、天竜川に樹脂製の大型パイプを並べて川の水を通し、その上に盛り土をして車が通行できるようにする。鈴木康友市長は「住民も困惑していると思うので、なるべく早い時期に仮設道路を造り、不便をかけないようにしたい」と市役所で記者団に述べた。天竜川の水量が増え、仮設道路が通行できなくなる六月以降の対応は、今のところ決まっていない。
 鈴木市長は同橋から約十五メートル下流に建設中の新原田橋について、「一五年度中に供用開始の予定だったが多少影響が出てくるだろう」と、開通が当初の予定よりも遅れる見通しを示した。

◆原因解明 長期化も
 浜松市天竜区佐久間町で三十一日、国道473号の原田橋(百三十八メートル)が崩落し、橋の上で土砂崩れを監視していた市職員二人が死亡した事故で、静岡県警は一日、予定していた実況見分を見合わせた。現場近くの斜面で小規模な落石が相次ぎ、二次災害の恐れがあったため。事故原因の究明が長期化する可能性もある。
 現場近くには天竜署員を中心に二十人以上が待機したが、石や土砂がひんぱんに落ちる不安定な状態が続き、三時間ほどで切り上げた。午後には浜松市の鈴木康友市長も現場を訪れ「予想だにしなかった」と厳しい表情で話した。土砂崩れ監視中の事故だったため、「橋上でなく対岸から監視する方法もあったかもしれない」と監視方法を見直す考えを示した。
 土砂崩れのあった周辺は日本最大の断層帯「中央構造線」に近く、過去の断層のズレで岩盤が劣化し、崩れやすいという。
 土砂崩れが起きた斜面は、市が優先的に防災対策をする国、県道の「要対策箇所」三百八十五カ所には含まれていなかったが、市は「近くに迂回(うかい)路がなく、災害で通れなくなると住民への影響が大きい」(道路課)として、今回土砂が崩れた山肌のすぐ上部に新年度、落石を防ぐ網二千平方メートルを張る予定だった。
 一方で、今回土砂が崩れた山肌にもすでに落石防止の網が張られ、それが根こそぎ崩れたため、市の担当者は「根本的に防災対策を見直したい」とも話した。
 浜松市の要請を受け、国土交通省中部地方整備局(名古屋市)も同日、上空からのヘリ調査班、橋梁調査班の計七人を派遣。二日以降、本格的な調査を進める。

271とはずがたり:2015/02/03(火) 09:07:01
R16東京環状線の形成過程は俺の中で解明されるべき課題の一つなんだけど,白井付近の地図をヨッキがみつけてきてる。

道路レポート 千葉県道280号白井流山線“木”狭区 後編
http://yamaiga.com/road/tpr280/main2.html
「実用道路地図北日本編」より
http://yamaiga.com/road/tpr280/old_2.jpg

残る謎はヨッキが「この辺りは,実際には該当するような道が見当たらない。」とある部分である。

土地区画整理で消えるなら解るが白井の旧中心部は北千葉NTの大規模造成区域から外れているので当然道が無くなることはあり得ない。

多分,現在では考えられない程狭隘な道が指定されていたのではないか,と云う事なんだが,それにしても解らない。
大島田付近が参考に成りそうだが,候補道路としてはこの辺だが,旧道は結構地図から辿れるもんなんだがなぁ。。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E140.6.3.061N35.45.55.156&ZM=10

272荷主研究者:2015/02/15(日) 01:11:19
>>270
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20150207/CK2015020702000078.html
2015年2月7日 中日新聞
崩落から1週間 新橋建設の判断難しく

 浜松市天竜区佐久間町の天竜川に架かる原田橋の崩落事故から七日で一週間。仮設道路は十七日開通が決まったが、すぐそばに建設中だった新橋の建設は、同じ場所で続けてよいのか判断できないままだ。区内には、山間部に架かる似たようなつり橋が四十一カ所ある。橋直近にある斜面の危険性を緊急点検する必要はないのだろうか。

 「今後、詳細な調査をする。まだ分からない」

 市土木部は四日の記者会見で、新橋がもう使えないのではとの質問に、こう答えた。土砂崩れの起きた斜面に亀裂が入ったかなど、建設コンサルタントに今後、地質調査を委託する。

 国土交通省国土技術政策総合研究所(茨城県つくば市)の玉越隆史・橋梁(きょうりょう)研究室長は「もう大規模には崩れない可能性もあり、対策をとれば建設を進めて大丈夫ということもありうる」と話す一方で、「二度と死者が出ないよう詳しく危険要因を調べるべきだ」と指摘する。

 事故現場周辺は落石の多い所で、「新橋架け替えの場所をもっと下流に」と望む住民の声が建設前にあった。

 市は当時、どこまで耳を傾けたのか。森下和市郎・道路課専門監は「地域の総意、合意は地元説明会などを通して得られたと考えている。一部反対が残るのでやめるというわけにはいかない」と話す。

 市は建設に当たり、両岸で道と橋をつなぐ橋台の下では岩盤を調べたが、今回崩れた斜面の地質調査はしていない。玉越室長は「斜面をどう見ていたかだが、どさっと崩れると思わなければ、斜面の地質までは調べないだろう」と市の対応にも理解を示す。

 つり橋は浜松市内に四十二あり、四十一が天竜区内に集中する。原田橋と同じように、橋をつるケーブルを斜面に固定するアンカー式も少なくない。山間部で長い橋を架けるのに適しているためだ。

 森下専門監は「今回は大量の土砂でつり橋のケーブルを引っ張る主塔が倒れ、それに引っ張られて斜面に打ったアンカーが抜けたのではないか」と話す。つり橋自体に危険があるとの見方には否定的だ。

 市土木部は「まず崩落現場の調査をし、それを踏まえ、他のつり橋周辺の斜面も調査するか、検討したい」としている。

(勝間田秀樹)

273とはずがたり:2015/02/27(金) 09:18:01
>>230

3177 :チバQ :2015/02/22(日) 13:27:16
http://www.asahi.com/articles/ASH2P625VH2PTIPE012.html?iref=com_rnavi_arank_nr01
朽ちる「軍艦島」どう残す 迫る倒壊…保存法探る
山崎聡、池田良2015年2月22日00時31分
 長崎市の沖合に浮かぶ軍艦島(正式名・端島)。炭鉱の閉山後、約40年間無人となっている「廃虚の島」だが、近年、独特の外観が映画のロケ地や観光スポットとして人気を集め、この夏はユネスコ世界文化遺産登録に期待がかかる。一方で島のシルエットを形作る建物群は刻々と崩壊しつつあり、保存への模索が続く。市の許可を得て、普段は立ち入り禁止の区域に入った。
 近代日本の産業を支えた炭鉱の島はいま、どうなっているのか。4日朝、長崎市の許可を得て、軍艦島で建物の劣化状況や補強手段を探る大学の研究グループに同行した。

 暗い鉱員社宅に足を踏み入れると、天井や壁がはがれ、床や階段に散乱していた。高層階の柵はほぼ朽ち果て、屋上の庭園は草が生い茂っていた。

 この島には日本最古の鉄筋コンクリートアパートがある。築99年。劣化が進み危険なので上層階に上れない。吹き抜けから四角く曇り空が見えた。

 かつての小中学校は基礎がむき出しになって海水にさらされ、芝浦工業大の浜崎仁准教授(コンクリート工学)は「倒壊は時間の問題だ」と漏らした。

274とはずがたり:2015/03/01(日) 11:29:32
2010年の記事。

>鉱山としてはまだ採掘可能でしたが、1987年に閉山されました
そのうち復活だな♪

>1912年にロープウェイが設置され、1929年に輸送力増強のため鉄道が開業しました。
索道って云って貰わないと気分が出ないぜw

2010年10月04日 15時00分05秒
運賃1円で乗れる「1円電車」が23年ぶりに常設で復活へ
http://gigazine.net/news/20101004_akenobe_1yen_train/

かつて日本に運賃が1円という全国最安の鉄道がありました。それが明延地区の鉱山鉄道(明神電車)です。これは、兵庫県にあった明延鉱山への輸送のために作られた鉄道で、1987年に鉱山が閉山となったことで廃線となりました。

その後、長らく使われていませんでしたが、2007年に経済産業省の近代化産業遺産認定遺産リストに選定されたこともあり、「ふるさと明延まつり」で仮軌道を敷いて20年ぶりに運転が行われました。その後も1年ごとにイベントで運転が行われていましたが、いよいよ常設の線路を設置して復活することになったそうです。

兵庫県の明延鉱山は日本一の鉱量を誇るスズ鉱山で、平安時代には採掘が始まっていたそうです。鉱山から神子畑にある選鉱所まで鉱石を輸送するため1912年にロープウェイが設置され、1929年に輸送力増強のため鉄道が開業しました。

鉱石輸送用の鉄道でしたが、鉱山で働く人のために人員輸送も行うようになり(当初は無料)、1949年から50銭、そして1952年からは1円で乗れるようになりました。このため「1円電車」と呼ばれるようになりましたが、このことが広く知られたことで興味本位で訪れる人が多くなり、運行に支障を来して正常業務ができないという状況にまで陥ったため、やがて部外者の乗車は禁止になりました。

鉱山の最盛期には鉱山関係の人口が4000人、娯楽施設には芸能人が訪れてショーをするほどの規模を誇りましたが、1985年のプラザ合意で急激に円高となりスズなどの市況が下落して赤字を出すことになり、鉱山としてはまだ採掘可能でしたが、1987年に閉山されました。1円電車もこのとき同時に廃線となりました。

鉄道は長らくそのままとなっていましたが、2007年に経済産業省が(PDFファイル)近代化産業遺産認定遺産リストに「生野・明延・神子畑鉱山関連遺産(通称:鉱石の道)」の一つとして「明神電車と蓄電池機関車」を挙げたこともあり、同年に行われた「第1回 ふるさと明延まつり」で仮軌道での復活を遂げました。

その後は1年ごとにイベントの中で機関車をレンタルして運転を行ってきましたが、今年からは常設軌道を敷き、機関車を購入して本格的に復活することになったそうです。軌道は旧社宅跡に敷かれ、全長は70mでカーブも体験できるJ字形。ちなみに、明神電車は現在も軌道が600mほど残されているそうで、地元としてはいつか600mを走らせたいと考えているそうです。

お披露目は10/24(日)開催の「第4回 あけのべ一円電車祭り」で行われます。当日は無料で1円電車に乗ることができ、乗車した人には復刻1円切符がプレゼントされます。このほか、近代化産業遺産に認定された総延長600mの明延鉱山探検行動の見学会(入坑料が必要)や、あけのべ探訪スタンプラリーなども開催されることになっています。

275とはずがたり:2015/03/10(火) 14:41:01
道路レポート林道樫山小匠線内の
和歌山県道234号長井古座線
http://yamaiga.com/road/kodakumi/main1.html

>本題からは離れるが、県道234号の行く末が気になるという人もいるだろう。
>私もその一人であったから、数分間脇道に逸れて、この県道がどうなっているかを追い掛けてみたところ――

>まず、左折直後は狭い道が(写真)、小匠集落の外れにある数軒の民家へ続いている。
そして民家を過ぎるとすぐに小匠川を橋で渡るのだが、この橋が軽トラ専用といった感じの狭さであった(写真)。
>橋を渡ると未舗装になり、畦道然とした道が小匠川の右岸に伸びているが、県道はこの道ではなく、橋を渡った直後に右の山の中へ入る。
>ただしそれは図面上のことであって、実際には道らしいものが見あたらなかったので、結局、小匠側の県道が辿れるのは、この名前も分からない橋までという事になるだろう。以上である。

こうr234長井側の終端部記述しているよっきであるが,地図だとこんな感じである。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.50.53.975N33.35.54.393&ZM=11

この地図だと太い橋に見えるのが,このhttp://yamaiga.com/road/kodakumi/kodakumi_15.jpg軽トラサイズの橋なのか?橋を渡って終わりという記述にも合致する。

しかし図面上の道ってのはこの橋の直ぐ上の川をどうやって渡ってゐるか解らないより細い道なんでわなかろうか??

この道はほぼ古座側の終端点まで峠付近の数百mを除いて山道として繋がっている様に見える。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.51.8.181N33.34.58.501&ZM=9

276とはずがたり:2015/03/10(火) 15:57:13
>>235>>275
周辺は王子製紙の植林地の様である。森の中の道が美しそう。
また凄い山の中のイメージだけど
>実際の標高は僅か130mほどでしかない
>直線距離ならば海までは10kmと離れていない
そうな。

紀伊山地の隔絶した山の中の印象だが随分海に近い。
それにしても小匠から一寸行っただけで高野・山手川・樫山と魅力的な廃道・廃村とは和歌山県奥が深い。(ただ過疎ってるだけとも云えるけど。。)

道路レポート 林道樫山小匠線  (山手川への脇道編)
http://yamaiga.com/road/kodakumi/main9.html
明治当時の里道(地図中の二重線の道)は、「高野〜(峠)〜山手川〜クジヤ平〜(峠)〜樫山」のルートであり、現在の川沿いの道は未完成だった。

場所はこの辺
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.50.28.897N33.34.43.382&ZM=7

この山越えの道について,最近ツン読した『峠の歴史学』服部英雄 2007年 朝日新聞と云う本に,昔の道は
>川沿いに道がつけられていることは意外に少なかった。なぜなら川沿いの道は山腹,崖の崩壊など災害に弱く,崩落の危険が常にあったからである
とあったがその法則に此処も合致していたと云えよう。(山の人工の道は水抜きを造って排水したのだそうな。また牛は橋の下が見えるとどんなにひっぱっても動かなくなってしまって使えなかったので橋は丸太の上にカマスを敷いてその上に土を被せたのだそうな(土橋)。)

クルマ社会になった現在では法面を固め,勾配を緩い川沿いが重宝され,更に昨今では長大なトンネルで一気に抜けるのが主になっている。

277とはずがたり:2015/03/10(火) 17:03:32
>>235>>275-276
驚異の河中道といい,豊富な水量見せつけられたし小匠ダムはギロチンを常時閉鎖して水力発電に使えないかとも思うんだけど(どうせ無人地帯やし古座川への道路は樫山林道が出来たしこちらは湖底に沈めても良い。道が必要ならこの辺http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.50.21.563N33.36.5.667&ZM=8に小匠集落から栃の川橋付近に直結するトンネルを掘るだけで良いな。→と思ったらなにやらふるさと林道小匠小森川線http://blogs.yahoo.co.jp/kumanophoto_ki/60690908.htmlとか造っとるやなないけーヽ(`Д´)ノ)

で,人が住まなくなってから立派な道路をガンガン通すのは本当に勿体ない。よっきはその辺に理解を示すから道路愛好家(道路とその利用者に対する愛がある。。)の限界なんだけどがんがん税金むしり取られてこんな所に無為にカネ棄てられるのはやるせない。

で,せめて発電ダムとしての利用の可能性も探りたい所だけど如何せん高低差が足りなさそうなのである。。ダムの標高が海抜25m付近ではねぇ。。しかし水量が豊富なんでベース電源的に常時一定量発電するのは行けるんではないか?

栃の川橋と集落の変遷
http://yamaiga.com/road/kodakumi/main5.html

>徒歩道を示す破線は沢山描かれているが、より重要度が高い二重線の里道に着目すると、樫山〜クジヤ平〜山手ノ川〜高野を結ぶ山越えの道が目を引く。

>その一方で、定住者がなくなった集落へ、「遅ればせながら」といった感じの道路整備が進んでいる。
樫山では古座川町中心部へ通じる新しい林道が開通し、高野にも、長大トンネルを含む「ふるさと林道小匠小森川線」が通じた。

>もっとも、この時期の道路整備も無駄ではないと個人的には思う。
>定住者がいなくなっても、集落跡に山林などの財産や、お金に替えられない想い出を残している旧住民は多いだろう。
>廃村と共に道が廃れて辿り着けなくなってしまった集落跡は、本当に救いがない。

小匠ダム
http://yamaiga.com/road/kodakumi/main1.html

>それでは、満水時の湖面は一体どの程度の広がりを持つのだろう。
>海抜約25mに立地する堤高37mの小匠ダムの貯水位を海抜50m附近と想定し、その等高線に沿って湖を描いてみたのが右図である。

>川の両岸は険しいが、河床の勾配は極めて緩やかであるため、2〜30mの水位上昇であっても、驚くほどに細長いダム湖が出現することが分かる。
>具体的には、小匠川本流沿いにダムから3km上流までが湖と化し、高野川沿いではそれ以上である。
>そして、これらの川に沿う林道もまた、2km以上先まで余裕で水没するようである。

>ちなみに、ダムの穴がある現在地は、水深15m以上の深さになると思われる。
>例の“ギロチン”が水圧に耐えられるのかという疑問を持つが、きっと大丈夫なのだろう…。

278とはずがたり:2015/03/16(月) 13:05:05
ツイッターはよくわからないんだけどヨッキが一本杉峠>>49>>62-64>>67に来てた気配があるぅ。まだレポはなかったような。。そのうち公開されるかな??

https://twitter.com/yokkiren
ヨッキれん/平沼義之 ?@yokkiren 3月3日
茨城県の一本杉峠付近から眺めた関東平野。
日本最大の平野はやっぱり半端じゃないな。
余りに広すぎて、茫洋たる様は海のようだ。

279とはずがたり:2015/04/25(土) 15:13:30
よっきの緊急ミニレポまだぁ〜!?

ひび割れで「最も危険」北鎌倉隧道、通行禁止へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150425-OYT1T50040.html?from=yrank_ycont
2015年04月25日 14時08分

 神奈川県鎌倉市は、JR北鎌倉駅近くにある「北鎌倉隧道(ずいどう)」(鎌倉市山ノ内)を、28日午前1時から通行禁止にすると発表した。

 内部に複数のひび割れなどが確認され、危険と判断した。

 市都市整備部によると、隧道はJR横須賀線に沿って走る市道にあり、長さ約7メートル、幅約2・5メートル、高さ約2メートル。岩塊がくりぬかれた様子が観光客に人気で、市民の一部からも保存を求める声が上がっている。

 県都市整備技術センターの点検調査によると、ひび割れは最大で長さ2・9メートル。地震などで衝撃を受けると岩石が剥落する危険があるという。天井付近に樹木の根が確認でき、国の4段階の基準で最も危険な「緊急措置段階」と判定された。

 市は、センターにさらに詳しい調査を依頼し、安全対策の方法を決める。

 通学路として隧道を使っている小学生や高校生らには、近くの円覚寺境内などを通ってもらう。一般の迂回(うかい)路は、北鎌倉駅南側の県道となる。

280名無しさん:2015/05/04(月) 03:06:15
茨城県の圏央道は今年中に開通予定となってはいるけど、
本当にできあがるのかねぇ・・・

全くと言ってしまえるくらいに開通しそうな気がしないなぁ。。。

281とはずがたり:2015/06/04(木) 19:15:28

「落下の橋」早く復旧して…半年通行止め続く
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150604-OYT1T50068.html?from=y10
2015年06月04日 13時12分

 福岡県粕屋町が管理する「駕与丁かよいちょう公園」で、公園内の池を横断するように架かっている「みずとり橋」(約160メートル)の一部が落下し、復旧の予定が立たないまま半年間も通行止めになっている。

 公園利用者からは「橋は公園のシンボル。ぜひ復旧してほしい」との声が出ている。

 みずとり橋は歩行者用のつり橋で、両端のコンクリート製土台と、池の中に立つ2本の橋脚をワイヤで結び、橋げたをつるす構造。昨年12月5日朝、散歩中の人が「バーン」という大きな音がして橋の一部が落ちたのに気づき、町に連絡した。

 土台の一方が池に向かって傾き、垂れ下がった橋げたが池につかっており、町は落下が進まないよう応急工事を行い、同月17日から通行止めにした。

 橋は1997年3月の建設。「工事に問題があったのではないか」との指摘も出た。しかし、工法が非常に珍しいうえ、設計した会社が倒産しており、町は学識者らによる調査検討委員会を設けて原因を究明し、復旧方法などを探ることにしている。

 町都市計画課によると、公園は一周約4キロで、橋を渡れば2キロの散策コースになる。駐車場からバラ園などへの近道で、公園利用者から「いつ開通するのか」といった問い合わせが相次いでいる。だが、池はかんがい用で、検討委の結論が出ても、農業用水の需要が減り水を抜く10月から翌年2月の農閑期でないと、工事に取りかかれないという。

 同課は「橋を撤去することは考えていない。復旧までの予定が決まらず、利用者には申し訳なく思っている」としている。(柿本高志)

2015年06月04日 13時12分

282とはずがたり:2015/06/20(土) 09:06:24
西武の正丸トンネルとか秋山渉の本拠地とかで有名な正丸峠。
旧道の正丸峠でバトルするんだけど,更に山道がある様だ。

正丸峠
http://ccsf.jp/~mwe/tour/20090411/5.html

283荷主研究者:2015/07/21(火) 22:42:58
永代通りの地下に自動車専用道路の計画があったとは!!この未成道路は極めて魅力的。百戦錬磨のヨッキと言えどもこの地下空間への潜入は至難の業だろうなぁ(笑)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150719/k10010159251000.html
2015年7月19日 18時21分 NHK
東京駅地下に謎の巨大空洞 地下トンネルの一部か

 JR東京駅の北側の地下に、長さ50メートルの巨大な空洞が残されているのが確認されました。およそ50年前に計画された地下トンネルの一部とみられますが、これまで使われたことはなく、どこにあるのかが分からなくなっていました。

 空洞が確認されたのはJR東京駅のすぐ北側の国道1号線の真下にあたる付近で、NHKの番組「ブラタモリ」の取材中に偶然、見つかったものです。空洞は幅6メートル、高さおよそ5メートルの穴が2本並んでトンネルのようにおよそ50メートルにわたって掘られています。

 この付近の地下を管理している東京メトロによりますと、昭和40年ごろに、当時計画のあった地下自動車道路の一部として掘られたとみられますが、一度も使われたことはなく詳しい資料も残されていないということです。

 空洞にはもともと出入り口が作られておらず、長い間、誰も実際に中を確認できませんでしたが、東京メトロによりますと、平成13年に穴を開けて安全性などを調査したという記録が残っているということです。しかし、その際にどこに穴を開けたかは記録されておらず、再び中に入れない状態となっていました。

 東京の地下の開発に詳しい東京メトロの丸山茂さんは「ずっと入り口が分からなくなっていたので、今回、偶然見つかって非常に驚いた。安全性には問題ないが、当時の建設計画は詳細が分からず謎が残る」と話しています。

http://mainichi.jp/mantan/news/20150720dyo00m200002000c.html
2015年07月20日 毎日新聞
ブラタモリ:50年前の“幻の地下自動車道”を偶然発見

「ブラタモリスペシャル 東京駅〜巨大地下空間は歴史の生き証人!?〜」の取材で発見された“幻の地下自動車道”

 タレントのタモリさんが街を訪ね歩くNHKのバラエティー番組「ブラタモリ」の取材中に、東京駅そばの永代通りの地下に、約50年前に作られた“幻の地下自動車道”を発見したことがこのほど明らかになった。50年近く前に進められていた地下工事が頓挫し、幻となっていた地下自動車道の入口で、見つかったのは自動車2車線分の空間が2本、計4車線の道路。番組の取材中に偶然発見したという。“幻の地下自動車道”にテレビカメラが潜入するのは初めてで、20日放送の「ブラタモリスペシャル 東京駅〜巨大地下空間は歴史の生き証人!?〜」で紹介される。

 “幻の地下自動車道”は、1967年当時の完成予想図によると、永代通りの八重洲側から丸の内側までのアンダーパスとして計画されていた小型自動車道で、当時は、急激に自動車の交通量が増えたこともあり、インフラ整備の際に空間を確保しておくため、地下鉄の工事に合わせて一部作られたものが、使用されないまま残っていた。東京メトロによると「存在は知っていたものの、どこに入り口があるのか分からなかった。今回、バリアフリーのための東西線大手町駅改装工事の際に、天板をはがしたところ、見つかった」という。

 「ブラタモリスペシャル 東京駅〜巨大地下空間は歴史の生き証人!?〜」では、東京駅周辺の地下に広がる巨大な空間に潜入。八重洲の地下に眠る江戸城の痕跡など丸の内から銀座まで広がる約18キロの地下空間の秘密を解き明かしていく。NHK総合で20日午後7時半から放送。

284とはずがたり:2015/07/22(水) 14:20:07
ここ?
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.46.16.682N35.40.51.645&ZM=10

>幅6メートル、高さおよそ5メートルの穴が2本並んでトンネルのようにおよそ50メートルにわたって掘られています。
巾6mだと2車線行ける?

>永代通りの八重洲側から丸の内側までのアンダーパスとして計画されていた小型自動車道
小型自動車道ってのがよく解らない。パリにあるとかいう小型自動車専用(大型トラックなど禁止の)って事?道路自体が八重洲⇔丸ノ内の短距離って事か?

呉服橋から東京駅迄高速バスがガンガン走っていてタクシーもうじゃうじゃいて混むから今からでも造るべきだな。

285とはずがたり:2015/07/22(水) 14:23:18
>>284
>巾6mだと2車線行ける?

道路構造令の説明パワポと思われるが,第3種第3級・第4種第2・3級だと幅員3mだそうな。
http://www.mlit.go.jp/road/sign/pdf/kouzourei_2-2.pdf
路側帯とか考えると2車線はきついかな。。上下各1車線か。
ただ40年前の計画では上下各2車線だったのかも。当時の道路構造令はどうなってたんかな?

286とはずがたり:2015/08/19(水) 21:31:37

夏休みの副業で忙しかったよっきが久々の更新。この辺だ。
気になる県道がr280入粟野・引田線+r281板荷・引田線のペアである。

周辺地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.37.51.838N36.33.36.471&ZM=7

r164板荷・玉田線

r281板荷・引田線

r14鹿沼・日光線

r280入粟野・引田線

r240石裂・上日向線

r177上久我・栃木線

r246草久・粟野線

r15鹿沼・足尾線

r32栃木・粕尾線

栃木県道280号入粟野引田線 坂本区間
http://yamaiga.com/koneta/koneta_208.html

r280+281入粟野・引田・板荷線とすると鹿沼市の内陸部を繋げる道路になる。更に山を越えるとr32辺りに接続する♪r32が栃木日光線とでもなりそうだw

287とはずがたり:2015/08/28(金) 22:38:14
>>190>>270>>272

原田橋 200メートル下流に再建 
http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?index_flg=1&comment_id=291215&comment_sub_id=0&category_id=136
2015/7/30 紙面から

◆浜松市発表 19年度開通

 浜松市天竜区佐久間町の天竜川で一月末、土砂崩れにより崩落した原田橋の再建について、浜松市は二十九日、崩落現場の二百メートル下流に長さ三百メートル、幅七・五メートルの橋を新たに架けると発表した。工期は五年で、供用開始は二〇一九年度となる見通し。検討中の三案から、住民の賛同が多かった案に絞り込んだ。

(ここまで 162文字/記事全文 758文字)

288とはずがたり:2015/08/28(金) 22:43:27
>>287-288
画像貼り忘れた。
http://tohazugatali.we b.fc2.com/road/291215.jpg

289とはずがたり:2015/09/06(日) 09:55:46
旧道と云うには余りに新しい廃止箇所だが橋は撤去されてる様だ。

山の道
各地の廃道・廃線・隧道・旧道の歴史と探索記録
福島県西白河郡西郷村 甲子道路廃止区間
http://yamanomichi.com/kashi

290とはずがたり:2015/09/21(月) 19:51:41
広島辺りはヨッキも未だあんま開拓してないよね。

広島険道(県道)最強 80号線を走破する
https://www.youtube.com/watch?v=11UK2mVTaQM

この辺
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E132.43.0.882N34.33.5.588&ZM=7

最強険道と煽る程のことはないな〜。
県道じゃ無くて林道で繋いである区間かな?

拡大部分だと道途切れてるけどw
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E132.43.11.760N34.33.10.104&ZM=10

291とはずがたり:2015/09/22(火) 06:40:21
>>290
指定されたの割と最近(とはいえ20年は経っちゃってる。。)なんだな

広島県道80号東広島向原線
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E9%81%9380%E5%8F%B7%E6%9D%B1%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%90%91%E5%8E%9F%E7%B7%9A

広島県道80号東広島向原線(ひろしまけんどう80ごうひがしひろしまむかいはらせん)は東広島市八本松東3丁目と安芸高田市向原町長田を結ぶ主要地方道である。

1993年(平成5年)5月11日 - 建設省(当時)告示第1,270号により主要地方道に認定される。
前身は広島県道339号内区米満線の全部分と広島県道340号久芳(くば)向原線および広島県道328号志和口向原線の各一部である。
1994年(平成6年)4月1日 - 広島県告示第406号により認定される。
2004年(平成16年)3月1日 - 高田郡の全6町が対等合併して安芸高田市が発足したことに伴い終点の地名表記が変更される(高田郡向原町長田→安芸高田市向原町長田)。
2005年(平成17年)2月7日 - 沿線にあった賀茂郡福富町が東広島市に編入される。

292とはずがたり:2015/11/01(日) 19:59:12
廃鉱山も興味あるけど(;´Д`)

廃鉱山探検 高井鉱山
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/1119

293とはずがたり:2015/11/01(日) 20:14:41
>>292
此所ら。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E138.26.34.500N36.37.9.389&ZM=8

毛無峠付近にあった硫黄鉱山の高井鉱山は群馬県側に移って小串鉱山となったようだ。
一寸調べてみると吾妻鉱山跡が見付かった。

吾妻鉱山
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E138.30.20.063N36.35.28.097&ZM=7

この吾妻鉱山は小串鉱山とは別らしい。

4/30/2006 草津町白根鉱山,嬬恋村石津鉱山,吾妻鉱山
http://heyaneko.we b.fc2.com/gh06.html
草津温泉の近くには,大正の頃から高度成長期まで複数の硫黄鉱山が稼動していました。このうち学校をもつ鉱山集落があったのは,草津町白根鉱山,嬬恋村石津鉱山,吾妻鉱山,小串の4か所です。これらの鉱山集落は,すべて閉山と同時に無人となりました。

入道沢鉱山
http://www.geocities.jp/kouzan_by_gnma/nyuudousawa01.html
群馬県内の硫黄鉱山と言えば、
・小串鉱山
・白根鉱山
・万座鉱山(湯釜から硫黄をほじくってた)
・吾妻鉱山
・石津鉱山
がよく知られている。

しかし、今まで存在を知らなかったが、もう一つ大きな硫黄鉱山があるらしい。
しかも国道から目視出来る場所に。

その鉱山の名は「入道沢鉱山」(通称)と言う。


で,此所らと云えば山行がでレポートされた上信鉱山である。
凄い索道で運び出していたらしい。

上信鉱業専用軽便線(未成線)
http://yamaiga.com/rail/joshin/main.html

ただヨッキは廃道や未成線には興味あっても鉱山に関しては余り関心が無いので上信鉱山に関してはよく判らない。上信鉱山で検索掛けてみると引っ掛かるのはこいつ。蝋石の鉱山らしい。群馬というか信越のこの辺は割と鉱物資源が豊富な様である。如何せん規模が小さいようだけど(;´Д`)

上信鉱山焼成炉(ロウ石山溶鉱炉 )
http://haikyo.crap.jp/s/9977.html

294とはずがたり:2015/11/01(日) 21:55:06
此処に詳しい。ドラマですなぁ。。
仁田沢は此処だが,r112の未成区間を挟んで毛無峠(先程の一代目高井鉱山)である。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E138.29.47.813N36.33.8.000&ZM=8

上信鉱山の足跡
http://hanaha09.exblog.jp/15337438

嬬恋村大前から北へおよそ6km、静かな物音ひとつ聞こえてこない干俣にある仁田沢集落です。
昭和15年、嬬恋村の干川石造さんがこの集落から分け入った山中に炭焼き窯を作ろうとしたところたまたまロウ石の鉱脈を発見した。
この山はロウ石山と呼ばれて10人ほどの村人たちでほそぼそと採掘が開始された。
ちょうど時代は太平洋戦争真っ只中、ロウ石に含有されていた酸化アルミに目を付けたのが当時の軍部。
この鉱石から金属アルミニウムを製造しようとしたのである。
アルミ資源の乏しい日本においてはおそらく藁をも掴む思いであったに違いない。
昭和18年には軍需産業に指定され大阪窯業、日窒工業、昭和電工3社で上信鉱山が設立され国家政策の一環として採掘が始まった。
昭和19年には250人ほどが動員され、鉱石は策道でふもとの仁田沢集落まで降ろされ、トラックで芦生田の草軽電鉄嬬恋駅、トロッコのような貨車で信越線軽井沢駅まで運ばれた。
その算出量は年間15000トンにも達したと言われている。
一方、群馬鉄山の鉄鉱石輸送に施設された太子-長野原-渋川にいたる貨物線に接続する鉄路も建設が進められた。
この国家をあげた大事業もすべての設備が完成を迎えないまま終戦と共にあえなく終わりを告げた。

戦後満州から一人の窯業技術者が引き上げてきた。
大阪窯業東京工場の片隅に放置されていた上信鉱山の鉱石の山を見てさまざまな分析を試みた。
ロウ石といわれていたものは実は加水ハロイサイト(Al2Si2O5(OH)4・2H2O)ということが分かった。
そのままでは耐火物原料としては不向き、焼成をしないと使えないことが分かった。
しかし、試験的に製造された耐火材料は1750℃以上にも耐えうる非常に優秀なものであることが分かったのだ、そして上信鉱山の視察も経て粘土質鉱山として開発する価値は充分と判断した。

これからが話は長くなる。
大阪窯業東京工場のこの技術者を訪れた二人の男が居た。
一人は吾妻郡中之条町の実業家で衆議院議員小渕光平、もう一人が光山電化工業社長の小渕浪次の兄弟だった。
小渕光平の次男は元総理大臣の小渕恵三。現衆議院議員の小渕優子は孫にあたる。
昭和29年に光山電化工業-上信鉱業所が開設され専ら耐火原料としての採掘の再興計画がスタートしたのである。
昭和31年にはハロイサイト鉱石の焼成炉の工事が始まった。そして翌年には高さ14m、直径4mのシャフトキルン、縦型焼成炉1号炉が操業を開始した。
焼成炉は稼動を開始したものの製品の売り先が決まらない。
焼成炉建設のための多額の借金に追い討ちをかけるように兄小渕光平が議員活動中に急死した。
悲嘆にくれていた小渕浪次の下に待ちに待った1枚の注文書が届いたのだ。
時はすでに昭和33年の10月、日本鋼管炉材部からのものであった。
2基目の焼成炉も完成間近、上信鉱山所は一挙に三交代勤務の焼成作業にこぎつけたのである。
鉱石として優秀であった上信ハロイサイトの需要はあっという間に広がり、生産も追いつかなくなってしまった。
山に捨て去っていた鉱石を振るった後の残渣まで処理され、ますます儲かる構造となった。
しかし、昭和38年(1963)に火災により鉱山事務所、宿舎を消失してしまった。
たまたま鉱脈も尽きかけていてこれを機に、上信鉱山所の閉鎖、光山電化工業は休眠扱いとなった。
最盛期わずか4年の活動であったがその間に挙げることのできた高収益は奇跡的なものとして語られています。

295とはずがたり:2015/11/01(日) 22:00:53
蝋石
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%86%E7%9F%B3

ろう石は、葉ろう石(パイロフィライト)などを含むロウ感のある鉱石である。単一の鉱物ではなく、いくつかの鉱物の集合体の名称である。流紋岩やデイサイトなどが熱水作用を受けて生成したと考えられている。
日本では、岡山県備前市三石、広島県庄原市勝光山などが産地。耐火煉瓦やガラス繊維などの原料として利用されている。
ろう石鉱物[編集]
ろう石を構成している鉱物をろう石鉱物という。葉ろう石のほか、カオリナイト、ダイアスポア、コランダム、絹雲母(セリサイト)、明ばん石などの鉱物が含まれている。

ろう石
上野三義
https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/63_02_05.pdf

296とはずがたり:2015/11/01(日) 22:13:54
上信鉱山は鉱脈が尽きつつあったと云うから仕方が無いけど,太子支線と吾妻線延伸部でそれぞれ群馬鉄山と上信鉱山からの鉱物搬出で賑わう姿を見てみたかった所。
また草軽電鉄も観光鉄道としてもっと活躍出来たんちゃうかという残念さもあり。

隧道レポート 干俣鉱石輸送鉄道の未成隧道 歴史解説編
http://yamaiga.com/tunnel/naganohara/main5.html

5/22/2006 六合村元山・品木
http://heyaneko.we b.fc2.com/gh08.html
# 8-1
草津温泉近辺の「廃校廃村」めぐり,二回目の目標は,草津の東隣,六合(Kuni)村元山(鉱山関係の廃村)と品木(ダム関係の廃村)です。
元山(Motoyama)は,昭和19年に開山した群馬鉄山の鉱山街として賑わいましたが,昭和40年の閉山とともに鉱山街は消滅しました。現在,鉱山跡地は「JFE奥草津休暇村」として活用されています。およそ1km先には5戸(H.18)の熊倉という集落があり,人気はありそうです。
一方,品木(Shinaki)は,草津温泉を流れる湯川の下流にある山村でしたが,強酸性の河川水を中和する目的で作られたダム(品木ダム:昭和40年竣工)の建設により水没しました。現在は湖から1km近く離れた高原面に,5戸(H.18)の新しい品木集落が作られています。

297とはずがたり:2015/11/01(日) 22:15:58
グンマーネタで強烈な1枚の一つ。
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B0%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC&es_sm=122&tbm=isch&imgil=9qWjWtU9GXWYtM%253A%253BQYZ68qK9Tz7X9M%253Bhttps%25253A%25252F%25252Ftabipedia.net%25252Ftours%25252F%25252525E3%2525252582%25252525B0%25252525E3%2525252583%25252525B3%25252525E3%2525252583%252525259E%25252525E3%2525252583%25252525BC&source=iu&pf=m&fir=9qWjWtU9GXWYtM%253A%252CQYZ68qK9Tz7X9M%252C_&biw=1366&bih=599&usg=__pCxdj2DhsFFgzjaimtrhdbklTQU%3D&ved=0CCoQyjdqFQoTCM-6n9ym78gCFQT-Ywod4UgOgQ&ei=3A82Vs_cJIT8jwPhkbmICA#imgrc=9qWjWtU9GXWYtM%3A&usg=__pCxdj2DhsFFgzjaimtrhdbklTQU%3D

これはなんと高井鉱山・小串鉱山のここ毛無峠付近のものらしい。
余りのシュールさに合成かと思ってたけど本物だったとわw

小串鉱山トレッキング
http://blog.livedoor.jp/urayamaex/archives/4889250.html

298とはずがたり:2015/11/25(水) 17:11:47
『鉄道廃線跡を歩くIII』の巻頭の宮脇先生の紀行文は南薩鉄道であった。
個人的には鹿児島交通世代なのだが,この南薩鉄道,支線が二つもあったらしい。
一つは加世田の外港的な?万世への枝線,もう一つは知覧への支線である。
枕崎へは現在も指宿枕崎線が通じているし知覧のある南九州市内も(知覧の遙か南の海岸沿いを)通ってはいるけど,復活できないかなぁ(;´Д`)

乗客が殆ど居ない山川以西は無くて良かったから喜入の北の瀬々串辺りから西に分岐して知覧,加世田,枕崎を通る路線が有った方が沢山の人に恩恵があったのではないか?
(昭和35年に山川〜頴娃が開通してるけど,この時昭和40年迄残っていた知覧線に向けて瀬々串〜知覧を国鉄が建設することで鹿児島交通と国鉄の相互乗り入れの形で鹿児島〜知覧〜加世田〜枕崎を残せたんじゃあ無いのかって事である。因みに伊集院〜枕崎は昭和58年の水害をきっかけに廃止となってしまったそうな。)

http://www.tokyoizen.com/kura/KGS/KGS090.html
明治32年(1899年)の創業。酒銘「萬世(ばんせい)」は、大正14年(1925年)に東加世田村が町制をしく時、南薩摩を流れる万之瀬川(まのせがわ)の「万」と加世田(かせだ)の「世」の字をとって「萬世不易(ばんせいふえき)―永遠に変わらないこと」の繁栄を願って地名を万世としたことに由来。

299とはずがたり:2015/12/02(水) 14:29:19
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1047289790/363-364
>【宮津線】丹後山田(野田川)━▲加悦鉄道━加悦―出石━▲出石鉄道━江原(豊岡)

『廃線跡を歩くIII』に拠ると,敷設法には京都府山田から兵庫県出石を経て豊岡へ至る鉄道として規定されて,山豊線と言われてたそうな。
で,出石鉄道が設立されたけど建設に苦労し,その際にこの予定線を山田〜出石〜江原に変更するように嘆願したけど認められなかった経緯もあったという。俺が加悦鉄道と出石鉄道を混ぜてってのも,そんなに荒唐無稽って訳では無いんだな♪荒唐無稽だけどw

江原も豊岡も変わらん様に思うんだけど。現在,出石も,江原の有った日高町も豊岡市に併呑されている。現行法制下なら江原発着でも可能という訳かw
加悦から江原経由でニッケルをガンガン搬出する姿見てみたかった(・∀・)

因みに山田は地名として求心力を発揮出来ず野田川駅から更に与謝野駅となっているようだ。
筑豊の山田は上山田と下山田だったし伊勢の山田は宇治山田だったし,日本を代表する地名の山田だけど駅名としてはどうも不遇である。

300とはずがたり:2015/12/14(月) 18:49:44
ひでえなぁ。。
自民党利権政治屋と建設官僚と土建屋が結託してこの無駄遣い三昧。
怒りしか湧かない。

道路レポート 青森県道256号青森十和田湖自転車道線(十和田市区間)
http://yamaiga.com/road/aotowa/main.html

301とはずがたり:2016/02/18(木) 14:15:55
>日本海に臨む近畿最北の水族館「城崎マリンワールド」の沖にある小島に「竜宮城」がある。今は上陸できないが、昭和25年に作られた観光施設
知らんかった。いってみてえ!(;´Д`)

2016.2.18 05:00
なぜここに駅が?「玄武洞駅」のミステリー…“豊田商事物件”と噂の廃虚ビルは何を語る 観光名所は川向こう
http://www.sankei.com/west/news/160218/wst1602180002-n1.html

 兵庫県豊岡市内に不思議な駅がある。JR山陰本線の「玄武洞駅」だ。160万年前の巨大溶岩跡があり、城崎温泉(同市)と並ぶ北近畿の観光名所である玄武洞公園への“玄関口”だが、公園は円山川をはさんで駅の対岸にあり、どうやって行くのかナゾだった。そこで調べてみると、駅がなぜここにあるのか、そのレゾンデートル(存在意義)が判明、栄枯盛衰の過去が見えてきた。さらに近くにはネットでも話題の廃虚があるなど、一帯はちょっとしたミステリーゾーンと化していた。

近くに船着き場

 豊岡市の中心街から円山川沿いの道を北へ、城崎温泉に向けて車を走らせていると、左手に見えてくるのが「玄武洞駅」だ。うっかりすると見逃してしまいそうなほど目立たない。

 駐車場も周囲にはなく、ようやくスペースを見つけて降車。歩いて駅に近づくと、特徴的な駅舎の青い屋根と青い跨線橋(こせんきょう)が見えた。

 時刻表を見ると、停車するのは上下線とも1時間に1本程度で、無人駅らしい寂寥感を漂わせている。駅前にあるバス停の待合所もペンキがはがれ、“朽ち果て感”が何ともいえない。

 「何のための駅なのか」。周囲を探索し、「玄武洞船着場」という看板の矢印の通り、円山川まで歩くとあった。さびついた看板だ。そこには「乗船希望の方はこちらへお電話ください(対岸より迎えにまいります)」の文字。電話番号と料金も書かれていた。

 「なんだ渡し船があるの?」 そう思ったが、どこかしっくり来ない。実はこれ、正式な営業路線ではなかった。

年間40万人の観光客

 玄武洞公園は、160万年前の火山活動でできた巨大溶岩跡で、規則正しい割れ目の岩石が連なる山陰海岸国立公園の名所。特別天然記念物でもある。江戸時代から観光スポットとして有名だったという。

 その対岸に明治45年、玄武洞駅ができた。現在のようなまともな道がなかった時代、両岸を行き来するのに欠かせなかったのが渡し舟。サオで漕ぐ小さな十石舟が往来していた光景は駅の開業で変わっていく。

 玄武洞への「玄関口」となった駅は、特に戦後復興期から高度経済成長期に観光客がどっと押し寄せた。十石舟はエンジン付の船となり、そして、昭和39年には株式会社「玄武洞観光渡船」が設立された。

302とはずがたり:2016/02/18(木) 14:16:12
>>301-302
 同社の船頭だった地元男性(83)が保管していたパンフレットからは、定員57人を最大に6隻の観光船を保有していたことがわかる。最盛期には年間40万人もの観光客を運び、「それはすごいにぎわい。観光バスもひっきりなしにやってきて客をはき出してくれた」と男性は振り返る。

 だが、その後、玄武洞公園へ直結する道路が整備され、次第に駅利用の客足は遠のき、45年には無人駅となった。地元の人々は無人化に反対の声を上げたが、当時の国鉄には届かなかった。渡船会社は営業を続けたものの、赤字が膨らみ、平成11年に廃業した。

噂が噂を呼ぶ赤煉瓦の巨大廃虚

 そんな過去を持つ玄武洞駅から北へ歩くと、赤煉瓦づくりの巨大な廃墟に遭遇する。落書きがされ、雑草が伸び放題の有様だが、その威容さは嫌でも目立つ。

 インターネットでも一部マニアに話題となっている廃墟は、約1万平方メートルの広大な敷地に計画されていたリゾートホテル。建物は使われることなく30年以上、雨風にさらされたままになっている。

 詳しい経緯について、地元の人たちに聞いても「あまりに古い話だからわからない」という。ナゾがナゾを呼び、バブル時代に起きた豊田商事事件絡みの物件ではないかという噂も飛び交った。高齢者を詐欺で食い物にし、会長が刺殺されたあの事件だ。

 噂は地元の人たちにも定着しているが、どうも真相は違うようだ。数少ない事情通の話では、昭和59年の着工後、欠陥工事が表面化して兵庫県内の施主と大阪府内の施工業者の間で裁判沙汰となり、計画が頓挫したという。

 それではなぜ、悪名高い豊田商事の名が1人歩きしたのか。市の関係者が示唆したのは、あるテレビドラマシリーズの影響だ。その中の一話が城崎温泉が舞台で、詐欺会社が所有していた廃墟ビルで相次いで変死者が発見されるというストーリーだった。人気シリーズだっただけに、「都市伝説」として定着したようだが、何人かの訳知り住民ははっきり「豊田商事の話はデマ」と言う。

 玄武洞周辺の廃墟はこれだけではない。ひともうけを狙ったバブルの遺物が点在していて、それを探すのも面白いかもしれない。

1日30人、寂りょう感漂う駅舎

 玄武洞駅の利用者は1日約30人。多くは通学客だといい、管理する豊岡駅やJR西日本福知山支社にも関連資料はほとんどない。

 電話で呼べばやってくる現在の渡し船は、事情を知らずに下車してしまう旅行者が時々いるため、路頭に迷わないよう、対岸で集客施設を営業する業者が親切心から始めた。適宜運航しているだけで、「主役」ではない。食堂や土産店が大繁盛していた玄武洞駅前の様子はもう残滓(ざんし)もないが、そんな風情は、当地の名物のカニと同じくらいの味わいがあるかもしれない。

 最後にもう一つ。玄武洞から離れ、日本海に臨む近畿最北の水族館「城崎マリンワールド」の沖にある小島に「竜宮城」がある。今は上陸できないが、昭和25年に作られた観光施設で、水族館敷地内にある浦島太郎伝説の亀のオブジェとともに、平成の現世では異彩を放っている。

 城崎温泉のついでに、こうした場所を訪ねてみるミステリーツアーはいかがだろう?

303とはずがたり:2016/02/29(月) 18:17:37

よっきの四国探索も間近か!?

特急「宇和海」、自転車そのまま持ち込みOKに JR四国
http://trafficnews.jp/post/49020/
2016.02.29 乗りものニュース編集部

JR四国が特急列車では珍しい、自転車をそのまま持ち込めるサービスを通年で始めます。

別料金は不要、1列車あたり2台分
 JR四国は2016年2月25日(木)、愛媛県内の松山〜宇和島間を走る特急「宇和海」で、自転車をそのまま車内へ持ち込めるサイクリスト向けの新サービスを実施すると発表しました。

 特急「宇和海」の車内を改造して、1列車あたり自転車2台分の「サイクルルーム」を新設。自転車を解体したり折りたたむことなく、列車へ持ち込むことを可能にするものです。下車してからすぐに自転車の旅へ出発できるといいます。


特急「宇和海」に用意される「サイクルルーム」と、そこに自転車を搭載した場合のイメージ(写真出典:JR四国)。
 3月26日(土)から通年での実施ですが、お盆や年末年始といった乗客の多い時期は、また曜日や時期によっては、サービスが行われないことがあります。自転車の積み降ろしは松山駅と宇和島駅限定です。

 利用は普通運賃と指定席特急料金のみで、別料金はいりません。しかし愛媛県内の「みどりの窓口」で発売される専用指定席特急券(サイクル宇和海)を購入する必要があります。

 自転車を列車へ載せたい場合は一般的に、専用の袋へ収納するといった作業が必要ですが、一部の地方鉄道などでは近年、そのまま載せられる「サイクルトレイン」を運行する例がしばしば見られます。

 ただ今回のように、特急列車でそのまま搭載可能なのは珍しい存在です。JR四国は2014年、高松〜松山間の特急「いしづち」でも期間限定ながら、自転車をそのまま車内へ持ち込めるサービスを行ったことがあります。

【了】

304とはずがたり:2016/03/03(木) 23:30:30
山行ががなかなか更新されないのでフライングw

天空の廃道「砂糠山の養蚕場跡」その7 〜歴史を知る〜 
http://www.kouzushima.info/s15-sanuka8.html

 調査結果
 
  養蚕場のことをまとめると。

【時期】
かいもの婆さん自身がそこに入って作業を始めたのが昭和47、48年あたり。
道やら畑を整備するのに3、4年かかった。
なので昭和43年から昭和45年くらいから工事は始まったのかな

【理由】
当時の国の方針(減反政策のような)で進めていた農業改革の一環で、
それにのっとった村が養蚕事業を始めた。

【当時の雰囲気】
おばあさんらはそこ(砂糠山、長根)で行うのは大反対していて、
現在の多目的広場あたり(多幸湾ファミリーキャンプ場付近)ならやる!
と、言ったらしいのだか結局、砂糠山で話を進められてしまった。

【廃墟になった時期、原因】

昭和55年から昭和58年あたりにはすでに放棄した。(行かなくなった)

放棄した理由は、
そこではそもそも桑の葉が足りず、蚕を育てられず死なせてしまった。
村の方から桑の葉を持ってきたりしたがやはりそれ自体馬鹿らしい、
お金ももらえないし、採算に合わないから辞めた。


【その他の話】

蚕も2回ほどやったが、結局だめで死んじゃった。
その時は泊まり込みでやっていた。

建物の小さい2棟が宿舎。
長い3棟が蚕を飼っていたところ。

ガスボンベとかも、多幸湾のほうから担いで持って行った。

水場は近くにあった。

ここに行く道は、天上山の櫛が峰から山道で行けたが、2000年の地震で崩壊
し道がなくなった。

同じくここから、長根に降りれる山道があったが2000年の地震で崩壊して道
がなくなった。


多幸湾からの海岸線の道は途中までは出来たけど、最後まではできなかった。
その道は今は天上山の崩壊で埋もれてる。


息子(当時中一)が生活で必要なガスボンベを担いで、磯を渡り養蚕場まで持っていった。

夏は勝手にここでキャンプをして遊んだ。

磯から山への索道意外にも、磯の途中まであった道からの水平方向の索道があった。

長根丸という船もあった。

305とはずがたり:2016/03/08(火) 12:49:03
稚内から遠軽迄と留萌から幌延迄復活して欲しいってのが妄想ベースでの持論だけどけど,こんな記事読むと士幌線と広尾線の復活は勿論,上川迄と様似迄も建設して繋げて欲しくもなるww
wikiに拠ると過疎化で糠平以北はほぼ無人となってるようだ。。北海道ばかでかいダム湖と水力発電所造れる場所,この20年の過疎化で出来てるんちゃうか!?
理性ベースでは巨大ダムには批判的だし,日高本線や留萌本線廃止已む無しの俺ではあるんだけど。。

湖に沈む幻のめがね橋「タウシュベツ川橋梁」を探しに 〜北の大地の産業遺産をめぐる旅〜
http://rurubu.travel/theme/column/22/
2015/9/3

306とはずがたり:2016/03/21(月) 23:02:12
>>304
良くある耳に蛸の話しだけど,日本硬直した補助金システムが地方の実情に合っていないと云う日本の中央集権制を批判したくも成る。
>養蚕は計画のはじめから無理があったようだ。二次構の事業基準にあわせた規模で施設を作る必要があり、敷地をもちあわせなかった村では農道も整備されぬ山奥に養蚕団地を造成したため事実上使用不可能にちかかった。行政が柔軟性を欠いたための失敗であった。
>『総合都市研究 第22号(1984)』掲載「都市的生活様式の実証研究(その1)―東京都神津島村調査報告―」より引用

しかし豊かな自然を破壊して(植生は復活しているように見えるけど貴重な植物は工事に来た内地の人間に持ち去られたとある)税金を無駄遣いして(国費負担率50%。おそらく村落の中で事業者押しつけられたおばあちゃんの借金が200万円),土建屋だけ儲かると云う構図は恐らく小泉政権から民主政権迄続けた折角の公共事業に頼らない日本という果敢なチャレンジをひっくり返したアベノミクスでも復活しているのであろうけど,一方的に地方が悪いと思ってた俺だが,土建屋が潤う中で,補助金貰う為に事業が農村の構造の中で強行され,善意の地方民が犠牲になってるような面もあるようだ。

官僚どもも自分らの天下り先のことだけ考えてる訳でもなく,多分,恐らく,ひょうっとかすると,日本の事も真剣に考えていて,基準にある筋肉質の興農事案が上がってきて日本の農業が発展すると考えてるんだろうけど,インセンティブ設計の段階で一定のリスクを負うからそれでスクリーニング出来る筈と考えてた様で(俺はそれすらやらないから無駄な事業が増えると思ってたけどそうでもないらしい),その段階で農村の身内ファシズムが発動してムラの為に誰かが犠牲にならないと行けないと云う,マイナスの無尽講的な構造の中で事業の受け手が作られてしまうと云う事もあるようだ。

道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道 机上調査編
http://yamaiga.com/road/sanukayama/main7.html

307とはずがたり:2016/04/05(火) 11:40:29
>現在はわずか2世帯が暮らすのみとなっている。
駅もインターもないのは当然だなぁ。。

>家族が暮らすには十分な米がとれていた
そうなのか。。

占冠「陸の孤島」ニニウへの難所・鬼峠 観光地化の可能性探る 峠越えイベントで当時の住民の苦労体験
03/25 07:00
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/dohoku/1-0250423.html

 【占冠】役場のある中央地区から交通の難所・鬼峠を越えて、陸の孤島といわれてきた村南部のニニウ地区を目指すイベント「鬼峠フォーラム」が今年も19、20の両日に開かれた。10回目の今回はこれまでの総括も兼ね、鬼峠の観光地としての可能性を考えた。20日に13人が参加した恒例の峠越えに同行し、当時の住民の生活に触れることで、寂れゆく鬼峠とニニウのあり方を探った。

 前日の雨で軟らかくなった雪に、スノーシューを履いた足が深く埋まる。鬼峠は実は2カ所ある。今回は馬そりを通すため、1929年(昭和4年)に開通した2代目鬼峠を行くルートを歩いた。山中の木々の間を1時間ほど縫うように登り、さらに林道を約1時間歩くと、標高640メートルの峠に到着。振り返ると占冠の家並みが小さく見え、遠方には夕張岳(1667メートル)が顔をのぞかせた。

 3時間ほど下ってニニウに到着し、63年まで同地区で暮らしていた会田静雄さん(80)と合流した。会田さんが住んでいた家は風雪で窓ガラスや壁が壊れ、廃屋となっていたが「家の裏で稲作をし、家族が暮らすには十分な米がとれていた」と当時を振り返った。

 高台のニニウ神社では、高さ、幅とも2メートルほどの小さな社の前に神酒と緑青(ろくしょう)の浮いたさい銭が供えられ、会田さんが子どものころから祭りで使われていた古い獅子舞の頭が納められていた。参加者は除雪、参拝をし、雪を踏み固めた土俵で奉納相撲を取った。

 50年代ごろまで、約30世帯が農業や林業で自給自足生活を送っていたニニウだが、60年代から人口の流出が加速。75年にはニニウ小中学校が閉校し、現在はわずか2世帯が暮らすのみとなっている。

 フォーラムは鬼峠を実際に歩き、住民の生活や歴史を知ることを目的に、実行委(山本敬介代表)が2007年から開催している。冬に行うのは、ヒグマ対策に加え、厳しい寒さの中でも生活のために峠を行き来した住民の苦労を体験するため。会田さんは「雪深い日でも、仕事があればほぼ毎日、スキーや馬で越えていた」と話す。

 ニニウは現在、地区を横断するような形で道東道が走り、林道も通っており、昔ほど「秘境」というわけではない。だが、豊かな自然以外にも、不便な地で住民がつつましく生きていた痕跡が色濃く残っていた。上富良野町出身でニニウについて研究する立松宏一さん(39)=旭川市在住=は「鬼峠を実際に歩き、山奥で質素な暮らしをした住民の生活に触れることは、豊かな文明を見直す機会になる」と期待する。

 限界集落が各地で問題視される中、ニニウの持つ寂寥(せきりょう)感は、地方の消滅が実際に起こり得るものだと訴えかける力を持つ。長崎県の端島(軍艦島)のように炭鉱の「廃虚」が観光地として注目され、世界文化遺産に登録された例もある。ニニウには夏の探索・周遊ルートの確立など課題も残るが、参加者からは「観光地としての潜在能力があるのでは」との声が上がった。

 中富良野町内の小学校で教諭を務める一永明彦さん(59)は「衰退の歴史を含め、子どもたちの学習の場に最適」と感想を述べた。(古市優伍)

308とはずがたり:2016/04/05(火) 11:41:53
県道スレ相当ぽいんだけどr136の夕張側の未開通区間,俺の北海道地図には細いながら緑線で繋がってる。。

ニニウのこれから
http://www.onitoge.org/ninew/

道道136号
夕張新得線
http://www.d4.dion.ne.jp/~s-sousai/yubari/index.htm

ニニウから夕張市との境界にかけての区間(占冠村の旧ニニウ夕張線区間)

 事業を申請しているが建設省のほうで採択していない模様。

村道日勝赤岩線改め道道占冠穂別線開通レポート
http://www.onitoge.org/ninew/w/20070414.htm
2007.4.14
本年11月に道東道トマムICが供用を開始すると,現在日勝峠を経由している車両の大多数が占冠経由にシフトすると予想され,旧村道日勝赤岩線は道央と道央を結ぶ重要な道路となる。

309とはずがたり:2016/05/02(月) 19:47:59
よっきさん,事件です!
こんな所に通行止めの標識が!?
https://www.google.co.jp/maps/@35.0544214,137.5999359,3a,75y,142.79h,76.93t/data=!3m6!1e1!3m4!1squh7Q12PynXt9_ldr-ZNyA!2e0!7i13312!8i6656

なんか分断県道r424振草三河川合停車場線の分岐臭いが,この写真とは違うな。。
http://www.geocities.jp/p_road12/aichi/ar424_3.htm

だいぶ香ばしい経路の県道だ。

310とはずがたり:2016/05/02(月) 20:02:26
此処から未通区間(1km程らしい)を抜けると宇連(うれ)である。

宇連
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/23.Aichi/Shitara_Ure.html

 大字川合は町内でも地理的に孤立しており(※)、町内から自動車で訪れるには鳳来町【現・新城市】を経由することになる。
 集落では管理家屋が1軒、廃屋が2軒のほか、神社(諏訪神社)が見られた。神社は現在も訪れている人がいるようで、手入れがされている。また集落には学校(神田(かだ)小学校宇連分校)があるが、存在は後から知ったためこれを見ることはなかった。HEYANEKO氏ほかの調査によると、支流(スキャン画像では下方)奥に朽ちた木造の校舎が残っているという。

愛知県・一般県道424号
振草三河川合停車場線
その4
http://www.geocities.jp/p_road12/aichi/ar424_4.htm
その5
http://www.geocities.jp/p_road12/aichi/ar424_5.htm

未成道の旧道っぽい区間の分岐があるのは此処のようだ。
http://map.goo.ne.jp/map/latlon/E137.36.55.506N35.2.2.907/zoom/10/

廃屋と神社のあるのは新道区間の橋の直進した道かな?

311とはずがたり:2016/05/02(月) 20:05:33
>>309-311
山の道が野放図に建設されるのには怒りを感じるし,好い加減にしろよと思うんだけどあと1kmで建設が放棄されてるのも怒りが。繋げばもう一寸役立つのに,此処迄造って止めるなら最初から造るなよなぁ。。

312とはずがたり:2016/05/02(月) 20:59:25
>>309-312
山道のr424振草三河川合停車場線の分岐点は此処だ。さっきのは只の河原かなんかへ降りるだけの道?
https://www.google.co.jp/maps/@35.0562085,137.6021742,3a,75y,192.52h,70.95t/data=!3m6!1e1!3m4!1sHZBjf_pa02o6FQ9dOuJzBw!2e0!7i13312!8i6656

向こう側の道路があんなに工事されてるのに取り付けの此方側が全く気配無しなんは何故だ?

313とはずがたり:2016/05/02(月) 21:03:36
r424の北側の欠落部の林道直進した箇所。

こんな所に立体交叉が!?
http://www.mapion.co.jp/m2/35.09071552633145,137.6170635031824,17

314とはずがたり:2016/05/02(月) 21:22:55
<浜松宇連田口ルート>
腹立たしいが後1km位なのだからr424がr32に繋がってれば良いのにと思う。

宮口(R362)r68浜北三ヶ日線→r299渋川都田停車場線(観音山)→r298(静岡県内)・r505(愛知県内)渋川鳳来線(越県道のナンバー統一ななされてない様だ。。)→r442鳳来佐久間線(静岡県内はr390)→市道(google mapのストリートビューにも載ってて抜け道としてはしっかりと認識されてるようだ)→r519七郷一色名号線→鳳来峡IC・三河川合(R151)─r424(鳳来湖)http://www.geocities.jp/p_road12/aichi/ar424_1.htm→--(未通)--─r32長篠東栄線(r424重複)→R473→田口(R257)がほぼ繋がる(田口は鉄道の終着駅だったこともある要衝である)。
渋川鳳来線や鳳来佐久間線のナンバー統一と併せて主要地方道浜松設楽線でも指定して欲しい所だw
三遠南信が豊橋(三河吉田)から遠州を経由するニュアンスが有るのに対して,浜松〜恵那は遠三東濃の流れである♪

R257が新東名の現道として併走しているのに対してこちらは三遠南信道の併走路だな〜。

315とはずがたり:2016/05/02(月) 21:28:25
やはりそうなんだな。何となく周囲の道路罔に対して違和感あったけど。

稲目トンネル
http://www.geocities.jp/p_road12/aichi_tn/ap_iname.htm

稲目トンネルは元は昭和43年に廃線となった豊橋鉄道田口線の鉄道用トンネルでした。鉄道廃止から10年間ほどは鉄道代替の豊橋鉄道のバス専用トンネルとして使われ、この間は出入り口に柵が設けられて一般車の通行は禁止されていました。
 当時、旧鳳来町と設楽町を結ぶ道路は旧来からの与良木峠を越える道しかなく、地元住民からは稲目トンネルの一般開放望む声が多く出されました。これを受けて全面改修を施したのが現在の稲目トンネルです。改修により大幅に拡幅され、鉄道トンネル時代の面影は全く残っていません。

316とはずがたり:2016/05/05(木) 11:41:59
これだけど,ここhttp://map.goo.ne.jp/map/latlon/E137.46.10.428N35.4.20.832/zoom/9/に浜松市と東栄町が接している箇所がある。
浜松市は元浦川で東栄町は元々振草と云う地名だったのでは?

http://www.k2.dion.ne.jp/~route-xx/Contents/Report/r293/r293_10.htm
さらに奥へ進むとr293沿いの岩にある文字が書かれた場所を発見した
 『ウラガワ』とは静岡県浜松市天竜区佐久間町浦川
 『フリクサ』とは愛知県北設楽郡東栄町振草
 と思われるが、これがある場所は愛知県内であり『ウラガワ』が指すのは浜松市の
 地名でここに境界線があるはずはなく、『フリクサ』もこの場所から10km程離れた
 場所の地名でここではない
 またしてもこの文字の意図するところは不明

317とはずがたり:2016/05/30(月) 10:18:21

武田尾〜道場間で不通の(未通の?)r327。災害で不通だそうな。開通してた様には見えないんだけど。
無駄な道路ばんばん造ってる様に見えるけど武田尾の陸の孤島が全く解消しないのは何故だ!?一寸R418の丸山地区に似て無くも無いロケーションであるw
けどこっちは新名神のSICが出来て既にJRの駅で阪神中枢部に直結だし便利になるぞ。武田尾宝塚パークタウンとでも銘打って宅地開発しよう♪
まあそれは兎も角俺のドミナントだし行ってみないと。。

道路情報 - 兵庫県道路総合管理システムhttp://road.civil.pref.hyogo.lg.jp/RoadLan/InternetGeneral/Common/RoadLan_Top.aspxより

http://road.civil.pref.hyogo.lg.jp/RoadLan/InternetGeneral/kisei/RoadLan_Regulation_Detail.aspx?RRID=3&RID=10570
路線 (一)県道327号切畑道場線
規制内容 全面通行止め
規制理由 災害復旧工事
規制場所 宝塚市玉瀬
規制期間 平成27年 2月 24日〜平成27年 6月 30日
規制時間 終日
対象車両 諸車全般

JR道場駅-武田尾駅間、兵庫県道327号線分断区間
http://ameblo.jp/gorou25/entry-11520875836.html
2013-04-29 22:06:03

兵庫県道327号切畑道場線
http://blog.goo.ne.jp/cherubimcaad10khs/e/0eb9012747faf27ce15babe9dfda513d
2013-11-25 19:03:48 | 兵庫県道

兵庫県道327号 切畑道場線(止)
http://michi.road.jp/Road/Hyg327_1.html

318とはずがたり:2016/06/21(火) 22:42:52
東京駅から電車で60分、「都心からもっとも近い廃村」はこうして生まれた
http://nikkan-spa.jp/1127656
2016.06.08 雑学

駅から見える海上自衛隊の基地

 東京駅からJR横須賀線で約1時間。横須賀駅からほど近い田浦という場所にその廃村はある。駅周辺は山に囲まれ閑散としているが、少し歩くと昔ながらの商店街や海上自衛隊の学校があり、自然と人工物が混在した風景が広がっている。

 そして駅から盛福寺というお寺を目指し15分ほど歩くと、京急本線とJR横須賀線が交差するポイントが見えてくる。それが今回の目的地「田浦廃村」の目印だ。ちょうど踏切を超えたエリアからが廃村になるのだが、草も伸び放題で手入れされておらず、どこか異世界への入り口のような雰囲気を漂わせている。

約30年手付かずの状態の理由は

 一体なぜこのような有様になってしまったのだろうか。横須賀市田浦の行政センターに問い合わせてみたところ「この辺りを開発しようとした業者が、何かしらのトラブルで断念せざるを得なくなり、そこから現在まで2〜30年ほど放置されている。行政も手をつけられない状態」との回答を得た。

 より詳しい事情を知ろうと、近くの田浦地区の住民(40代・女性)に話を聞いたところ「30年ほど前かな、丸紅が住宅開発しようとして、山に住む住民に半ば強制的に退去を命じたんです。だけど、この一帯はところどころにある柱の『波マーク』を見てわかるように、海軍の土地であるのと、道路の下には丹沢の山の方からつなげている水道管が4本走っています。それを避けて工事をしていくのには予想以上に費用がかさむようで、業者と揉めてしまったとか。そのまま計画自体が頓挫したようです。」と答えてくれた。

319とはずがたり:2016/08/03(水) 15:15:50
北摂と京都北山,俺の大好きなフィールドで未成道レポの充実♪

路面と勾配 f/k/a北摂ひっそり
http://nekotani.blog.fc2.com/

320とはずがたり:2016/08/04(木) 18:43:35
京都北山祖父谷峠関連
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1187488248/493-495

このバイクはいつの走行だ??

分断京都府道61号京都京北線
http://www.yamasita.jp/weblog/2012/05/post_175.html

国土地理院の北側の様子。あらぬ方へ向かってる様にも見えるが。。(;´Д`)
http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.14611111111111,135.73749999999998&z=15#16/35.176404/135.710485/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

321とはずがたり:2016/08/05(金) 23:45:36
これhttp://map.goo.ne.jp/map/latlon/E135.10.21.149N34.42.39.010/zoom/10/,廃トンネルだそうな。しかも有馬街道から再度山ドライブウェイに抜けれるなんて素敵トンネルじゃあないか。
カギ掛かっててワルニャンもできないようだが(;´Д`)
トンネル抜けたところの神戸港地方ってどんな地名だ?!

【神戸市兵庫区】廃トンネルと七三峠
http://nekotani.blog.fc2.com/blog-entry-332.html#comment2129
2014/05/07 00:10

322とはずがたり:2016/08/29(月) 20:08:41
大日本者神國也と云うきもいタイトルのブログ。
多奈川線があるのは川崎重工の軍需工場があったからで,支線開通に伴って南海本線上にあった深日駅が廃止と相成ったと云う事らしい。現在,川重の工場は勿論ないが関電多奈川発電所(休止中)はその敷地跡にあるそうな。
色々繋がってくる。で,こんな所に投下するのは地下壕の写真があるからw

川崎重工業株式會社 泉州工場
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1170.html

323名無しさん:2016/08/31(水) 13:38:02
>>322
文句があるなら引用するなカス

324とはずがたり:2016/08/31(水) 15:23:27
興味深い記事は政治信条に拘わらず引用させて頂いてます。

万が一ブログ主ご本人様でしたら大変失礼しました。今後とも歴史研究の進展を楽しみにしております。

325とはずがたり:2016/09/06(火) 09:54:32
福井県道174号だが未通県道ではなく鉱山県道だったようだ。http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1156427416/1595で取り上げたr175熊河池田線が次のナンバーで行き止まり県道としては現状では共通だがこちらは山を越える計画はないということのようだ。
中竜鉱山,なかなかよさげである。

むかし と いま
【週末探険隊合同探索】 過去と現在
http://ruin-explorer.com/nakatatu/nakatatu.html
撮影日 2008年3月

福井県道174号上大納下山線
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C%E9%81%93174%E5%8F%B7%E4%B8%8A%E5%A4%A7%E7%B4%8D%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E7%B7%9A

中竜鉱山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AB%9C%E9%89%B1%E5%B1%B1

中竜鉱山(なかたつこうざん)は、福井県大野郡和泉村(現大野市)に存在した鉱山。スカルン鉱床、気成鉱床からなり、古くは13世紀から銀山として、また近代になってからは亜鉛鉱山として知られる。モリブデン鉱などレアメタル鉱石も産出していた。1987年、円高により採算が悪化し閉山した後は、鉱山の跡地を利用した体験型鉱物博物館である「アドベンチャーランド中竜」(後述)として再利用された。
アドベンチャーランド中竜[編集]
専用バスにて地下120mまで移動しながら坑道の跡地、採掘現場を見学できる日本では珍しい博物館。途中、坑道に向かうバスの道の脇には当時の建物が多く残されている。また資源が枯渇して採掘を中止したわけではないことから、坑道に露出する生の鉱石が見ることができる。調査によると十年分の鉱石が残されて閉山したという。
国内外から鉱物マニアや地質学を学ぶ学生などが多数訪れていたが、来場者数減少のため2006年11月30日限りで営業を終了した。

326名無しさん:2016/09/29(木) 13:44:59
「どこの山行くの?」「霧ヶ峰」「エアコン!?」

夏も終わり涼しくなってきましたが、秋の行事に登山などを計画している方も多いのではないでしょうか?

そこで今回は「名前がかっこいい日本百名山の山」を調査・ランキングにしてみましたので、ご覧くださいませ。

1位鳳凰山 ほうおうざん 山梨県南アルプス市、韮崎市、北杜市 334票
2位剱岳 つるぎだけ 富山県中新川郡上市町、立山町 293票
3位霧ヶ峰 きりがみね 長野県茅野市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町、小県郡長和町 124票
4位御嶽山 おんたけさん 長野県木曽郡木曽町、王滝村、岐阜県下呂市、高山市 99票
5位皇海山 すかいさん 栃木県日光市、群馬県沼田市 78票
6位武尊山 ほたかやま 群馬県利根郡みなかみ町、川場村、片品村 76票
7位美ヶ原 うつくしがはら 長野県松本市、上田市、小県郡長和町 74票
8位八甲田山 はっこうださん 青森県青森市、十和田市 69票
9位槍ヶ岳 やりがたけ 長野県松本市、大町市、岐阜県高山市 58票
10位五竜岳 ごりゅうだけ 富山県黒部市、長野県大町市 46票
10位大菩薩岳 だいぼさつだけ 山梨県甲州市、北都留郡丹波山村 46票

12位霧島山 きりしまやま 宮崎県、鹿児島県 45票
13位羅臼岳 らうすだけ 北海道目梨郡羅臼町、斜里郡斜里町 42票
13位瑞牆山 みずがきやま 山梨県北杜市 42票
15位トムラウシ 上川総合振興局上川郡美瑛町、十勝総合振興局上川郡新得町 40票
16位早池峰 はやちね 岩手県宮古市、遠野市、花巻市 36票
16位天城山 あまぎさん 静岡県伊豆市、伊東市、賀茂郡東伊豆町、賀茂郡河津町 36票
18位穂高岳 ほたかだけ 長野県松本市、岐阜県高山市 33票
18位蓼科山 たてしなやま 長野県茅野市、北佐久郡立科町 33票
20位燧岳 ひうちだけ 福島県南会津郡檜枝岐村 31票

外部リンク:ranking.goo.ne.jp

327とはずがたり:2016/10/04(火) 14:43:32
じっぴコンパクト文庫『山さ行がねが』入手♪

328とはずがたり:2016/10/04(火) 14:52:00
google mapで岐阜県大野郡白川村加須良へ♪ここは砂利道もgoogle mapは珍しく攻めてる♪
https://www.google.co.jp/maps/@36.3237615,136.8455945,3a,75y,282.28h,93.26t/data=!3m7!1e1!3m5!1skRtjWNNOxxPzkaAbf-sYoA!2e0!6s%2F%2Fgeo0.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DkRtjWNNOxxPzkaAbf-sYoA%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D324.63397%26pitch%3D0!7i13312!8i6656

329とはずがたり:2016/10/04(火) 17:19:21
3161 名前:とはずがたり[] 投稿日:2016/10/04(火) 14:57:24
これがグーグルマップの終点。この先からよっきが出てきたのかw
それは兎も角本はネットに比べて読みにくいね。。
https://www.google.co.jp/maps/@36.3248312,136.8453212,3a,75y,349.77h,93.13t/data=!3m6!1e1!3m4!1sEHQ2f_Wgf_iREXmQZ2gtbw!2e0!7i13312!8i6656

330とはずがたり:2016/10/04(火) 17:23:03
加須良聚落はS27に林道起工,難工事の末S36(1961年,俺の生まれる10年前だ。。)に開通,そして僅か7年後のS43(1968年)には廃村となっている。
俺は怒りを込めて効果の無い過疎対策事業を糾弾してきたが,あれは過疎を推進し廃村を実現する為に行われていたんだな(;´Д`)

331とはずがたり:2016/10/04(火) 17:43:42
2章は数坂峠。
http://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.10.27.750N36.39.32.083/zoom/8/

332とはずがたり:2016/10/05(水) 18:17:16
大学生の頃か笠置の廃ホテルに肝試ししたけど犯罪だったか!まあ不法侵入は犯罪なんだけど騒ぐと迷惑だから本当に逮捕されるのか。大学生みたいな未成年じゃないとどうなんやろ??

廃旅館で”肝試し” 少年11人 家裁送致
http://news.goo.ne.jp/article/chuplus/nation/chuplus-CK2016100502000097.html
05:00中日新聞プラス

小松署 無断で侵入疑い
 廃旅館に無断で立ち入ったとして石川県警小松署は四日、軽犯罪法違反の疑いで県内の十七?十九歳の高校生や無職少年ら十一人を金沢家裁に送致したと発表した。「心霊スポット」として知られ、インターネットでも紹介されている場所で、少年らは肝試しと称して入り込み、大騒ぎして通報された揚げ句、“怖いおまわりさん”に叱られる羽目になった。
 送致容疑は七月三日午前一時十分ごろ、同県小松市の粟津温泉街近くにある廃旅館の敷地や建物に無断で侵入したとされる。署によるとネットで検索して初めて訪れたといい、十一人とも容疑を認めている。
 粟津温泉観光協会によると現場は一九九七年の廃業後は放置されたままで、敷地や建物を植物が覆い、昼間でも不気味な雰囲気がある。
 近隣住民は「十年ほど前から夏になるたび、肝試し目当ての若者グループが深夜に来て騒ぎ、うるさくて眠れない」と話す。今回は一一〇番が寄せられ、署員が駆けつけた。
 協会によると地元からは取り壊しの要望が出ているが、今のところ予定はない。署は二〇一三年と一五年にもこの廃旅館への侵入容疑で別の少年らを家裁送致しており、周辺のパトロールも強化している。

333とはずがたり:2016/10/07(金) 10:06:00
確かにr70でR42に繋ぐ方が整備する道路少なくて好いな。

鳥越林道
https://www.google.co.jp/maps/@33.9743342,136.1432467,14z

googleが諦めた地点。隧道と現道の落差1mをみたかったのにぃ・・舗装の一部が剥がれてるとは云えこんな手前で諦めるなんてだらしいないぞ!
https://www.google.co.jp/maps/@33.9678865,136.1255869,3a,75y,23.3h,73.84t/data=!3m7!1e1!3m5!1sRnALdBq4DpmWNScxgUYQxA!2e0!6s%2F%2Fgeo2.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DRnALdBq4DpmWNScxgUYQxA%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D156.14363%26pitch%3D0!7i13312!8i6656

334とはずがたり:2016/10/10(月) 22:48:50
秩父に謎多き巨大洞窟 埼玉県、全容解明の本格調査へ
http://www.asahi.com/articles/ASJ955JR6J95UTNB00Y.html?iref=com_favorite_03
中村純2016年9月12日19時15分

 奥秩父の険しい山中にある「瀧谷洞(ろうこくどう)」。関東最大級の洞窟といわれるが、容易に人が近づけず、未知の部分も多い。洞窟内からはクマの全身骨格やニホンオオカミの歯と類推される化石が見つかるなど学術的価値も高いとされ、全容解明へ埼玉県が本格調査に乗り出す。

 この洞窟は1989年、旧大滝村(現秩父市大滝)で民間の探検グループが発見した。形成期は数十万年以上前とみられ、洞内全体に鍾乳洞が広がる。大きさは推定で全長2・7キロ以上、高低差160メートル。関東では日原三又(にっぱらみつまた)洞(東京都奥多摩町)と並ぶ規模という。名前の由来になった高さ約50メートルの滝や深さ約30メートルの谷も確認されている。

 元同市大滝総合支所長の山中和則さん(62)は計10回、洞内に入ったことがあると話す。「それはもう神秘的な白さで、きれいで、自然の創造力に圧倒されっ放しでした」

 異例のスケールと幻想的な美し…

残り:611文字/全文:998文字

335荷主研究者:2016/10/22(土) 15:00:09

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201610/20161009_13022.html
2016年10月09日日曜日 河北新報
廃墟マニアの聖地売ります 問い合わせ次々

廃墟マニアの聖地ともなっている「化女沼レジャーランド」。現在、購入者を募っている

 大崎市古川小野の休園中のレジャー施設「化女沼レジャーランド」(後藤孝幸社長)が、施設と土地の年内売却を目指し、購入者を募っている。廃虚マニアの聖地ともなっている場所で、9月以降、十数件の問い合わせがあったという。

 化女沼レジャーランドは1979年、大崎市民の憩いの場である化女沼の東岸に開園。約15万平方メートルの敷地内に遊園地やゴルフ練習場、室内ゲートボール場、コテージなどが立ち並び、最盛期は年間20万人が利用した。バブル崩壊後は客足が遠のき、2001年10月に休園した。

 遊園地の観覧車やメリーゴーラウンドなどは解体されずにさび付き、近年の廃虚ブームで全国からマニアを呼び寄せている。後藤社長の許可の下で撮影会などが開かれている。

 「化女沼を一大観光地に」との夢を忘れられず、後藤社長は施設や土地の切り売りを拒んできた。しかし今年6月、転倒して膝を骨折し、つえを手放せなくなった。後藤社長は「私も85歳。いいかげんに我を折りなさいという照夜姫(化女沼の主とされる伝説上の女性)のご意思かもしれない」と思い、売却を考えるようになった。

 9月にテレビ番組で売却の意思が伝わると、北海道や関東地方、中部地方などから問い合わせがあった。

 視察に訪れる人からは「敷地内から湧く温泉を生かし保養施設を造る」「廃虚のテーマパークにしたい」といった提案が出ているという。後藤社長は「この土地を活用してくれるなら喜んでお譲りする」と話す。

 化女沼の環境美化に取り組む市民団体の代表は「東北自動車道の長者原スマートインターチェンジや東北新幹線の古川駅から近い。自然環境とマッチした施設に生まれ変わってほしい」と話す。

336とはずがたり:2016/11/04(金) 20:08:21

鉄建公団が建設した中の路線の予定駅マップの写しらしきものがあるが邪魔なので捨ててしまおうかと思うが棄てる前に転載しとく。稚内─浜頓別─北見枝幸─雄武─興部─紋別─中湧別─遠軽,幌延─羽幌―留萌─深川を公的資金で建設・維持できないもんかと北海道各線の廃止推進派の俺だから矛盾するけど思う。。

興浜線
興部──雄武--元稲府--北見音稲府--北見幌内--枝枝幸--北見音標……幌別(美幸線分岐)--北見枝幸──浜頓別
美幸線
美深──仁宇布--北見大曲--上穂志別--志美宇丹--辺毛内--歌登--下幌別--幌別(興浜線合流)(--北見枝幸)

白糠線
足寄---中足寄--螺流--茂螺流

こんなサイトもあった。

興浜線未成区間調査
http://www.tetsuroni.jp/haisen/kouhin/
廃線探索 興浜線(未成線)
http://www.hotetu.net/haisen/Hokkaido/140824kouhinsen.html

337とはずがたり:2016/11/18(金) 18:37:41
『地形図でたどる鉄道史 西日本編』を読む。

『国鉄全線各駅停車 駅』で知ってたけど良く解らなかった油津線が良く判った。wikiの記事https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8D%97%E7%B7%9A#.E5.AE.AE.E5.B4.8E.E7.9C.8C.E5.96.B6.E9.89.84.E9.81.93.E9.A3.AB.E8.82.A5.E7.B7.9A.E3.83.BB.E5.AE.AE.E5.B4.8E.E7.9C.8C.E5.96.B6.E8.BB.8C.E9.81.93.E2.86.92.E5.9B.BD.E6.9C.89.E9.89.84.E9.81.93.E6.B2.B9.E6.B4.A5.E7.B7.9Aを併用しつつ纏め。

先ずは妻─佐土原─宮崎と同じく宮崎県営鉄道(有吉忠一県知事は前任の千葉県でも県営鉄道を敷設している)に拠る建設で,1913年に(旧)飫肥─油津が開通したとのこと。途中駅は一里松の1箇所で,此処には後の日南線吾田駅(後の日南駅)が開設されている。

その後の県営鉄道の経営は乗合との競争で苦しかった様で1931年には(旧)飫肥を東飫肥に解消して飫肥市街地迄400m程延長し(新)飫肥を設置している。

1932年には星倉駅から分岐し飫肥杉や薪炭を搬出する県営軌道が大藤(おおとう)迄開通(5.3km・(貨)殿所、(貨)内之田、(貨)大藤が開設)し,大藤からは更に既設の北郷村迄の森林軌道が接続したとのこと。今も日南線によって北郷─飫肥─油津と辿れるのは心強いけど,更には高規格道路を造ってる様である。。早晩日南線も要らなくなりそうであるが,今でも既に要らんと云えば要らんのかも知れない。。
http://map.goo.ne.jp/map/latlon/E131.22.28.235N31.39.8.026/zoom/6/

この県営軌道の路盤は一部日南線に使用された様だが,白黒の細かい地図を見てると目が疲れてくるのでよく判らない。廃トンネルもこの辺にありそうなんだけど,ここhttp://yahoo.jp/u6Quwfか?道路になっちゃってるっぽい。

その頃現在の日南線が志布志線として志布志方面から延伸され,1935年には宮崎県営鉄道・県営軌道ともども国有化されて油津線(飫肥─油津6.8km・星倉─大藤5.3km)となる。

志布志線は1937(S12).4.19に大堂津から油津迄開業,それに先立つ4.5に(旧)油津駅は元油津と改称される。そして1941.10.28に志布志線が油津─北郷が開通し,同日油津線は廃止され,元油津─油津は貨物支線(1960年廃止)とされる。改軌が必要だった筈だけどどんな対応したんだろうか?複線で並べたのか?3線にしたのか?

その際,飫肥への進入経路はその先宮崎方面への延伸を鑑みて逆側にされて西側から進入する現在の形になって居る。この辺の経緯からちょい複雑で俺は何がどうなってるのか良く理解出来なかった様だ。
北郷の先に割合に長大なトンネルがあるけど,宮崎迄全通したのは1963年との事。北郷から先はその時に南宮崎から一気に開通した新しい路線だそうな。

兎にも角にも日南線は元来の根元である南都城─志布志が奪われて仕舞った形である。志布志線(1987.3.28廃止)と大隅線(1987.3.14)の一部,都城─志布志─鹿屋(─鹿児島へのフェリー乗り場)は復活したくもなる♪赤字でもネットワーク性を大事にしたいとする頼もしいJR九州なんだけどねー。
南都城─志布志─北郷を志布志線のままにしてたら廃止を免れたであろうか?それとも機械的に北郷以南が廃止されていたであろうか?

338とはずがたり:2016/11/18(金) 18:54:10
『地形図でたどる鉄道史 西日本編』を読む。

今回は大隅線篇
日南線が全通以前は志布志線だったのは知らなかったけどこちらが古江線という名前だったのは知っていたぞ♪
>>336で鹿児島へのフェリー迄復活と書いたけど,古江が重要な港町だったのは忘れていたけど(;´Д`)
今は垂水に鹿児島行きのフェリー乗り場があるらしい。
垂水・鹿屋は兎も角,古江は知らんなあと云う印象だけどこの辺では一番整備された港だったそうな。

先ずは南隅(なんぐう)軽便鉄道として建設されたが資金難で古江─鹿屋が建設出来ず,鹿屋の外港の高須(飛び地だったり関係が深かったそうな)迄建設してそこから北上したとこと。鹿屋─高須が1915に開通,自社で高須─鹿児島の船便も出したそうだが整備された古江港に対して高須港は西風等が原因の欠航が相次ぎ(恐らく鹿屋の古江外しの目論みは失敗),貨物輸送は馬車や自動車に移ってしまった為,1923年に古江迄延長開通したとのこと。

結局1935年に国有化されて国鉄古江線となる。1938年には改軌されたがその際に鹿屋駅でのスイッチバックが解消されたが市街地からは遠くなったそうな。垂水港迄復活・新設の際は是非,鹿屋市街に近づけるとともにそのまま古江迄直進させて距離を縮めたいw
改軌を機に,古江西線(古江─東串良)と古江東線(東串良─志布志)が合体されて直通運転が可能になり時間も短縮されたそうな。

その後国分迄開通するも閑散路線で廃止されちゃったのは皆様ご承知の通り。フェリーとの直通を考えて建設して欲しかった。

339とはずがたり:2016/11/18(金) 20:10:55
『地形図でたどる鉄道史 西日本編』を読む。

大蔵線・添田線・小倉裏線等

日田彦山線は元々小倉鉄道と云って,石炭搬出港の東小倉が起点で,石田迄は今は廃止されている。市街地からは離れてるが東小倉からは路面電車で連絡してたようだ。東小倉(─妙見─水町[信])─石田─香春(上香春)─大任─添田(上添田)を開通させて小倉鉄道は1943年に戦時買収により国有化,添田線となった。

1956年に城野付近で経路変更が行われて東小倉直行線は貨物線化,1962年に廃止された。妙見駅は貨物駅だったそうな。何を扱っていたのかね?

あと,小倉─黒崎間は元々陸軍の要請で内陸経由とされたが,官営八幡製鉄所の建設を機に海岸周りに建設され,旧線は大蔵線とされてたが1911年に市内電車(九州電軌後の西鉄)に譲る形で廃止となった様だ。
西鉄も廃止されてしまったしモノレールをこっちにも造れたりしないかねえ??

あと小倉付近も海岸寄りだが内陸部に建設せよという軍部の横槍に対して元々建設した九州鉄道は仮線だと言い張って海岸沿いに建設し,兪,本線造れとなると請願して小倉裏線の建設で手を打つ事になった。

小倉鉄道の東小倉駅からほぼ現国道3号線のルートで進んで豊州線(日豊本線)に接続,更に大蔵線に接続するものだったとのこと。1903年には準備完了し,1904年の日露戦争に全面的に使用されるものの輸送は1週間程で終わってその後は余り活用される事無く1917年には廃止になったそうな。
日本が列強になって海岸沿いをそれ程陸軍も恐れなくなったか?第一次大戦中の廃止である。

本所収の地図が細かくて目が痛くなってくるがネットには判りやすい図がいっぱいある。
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B0%8F%E5%80%89%E8%A3%8F%E7%B7%9A&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwimsdrvlLLQAhUEgbwKHeXpCJ0QsAQIKA&biw=1366&bih=638#imgrc=w6PsdxZlRBF8oM%3A

340とはずがたり:2016/11/20(日) 19:14:21

『地形図でたどる鉄道史 西日本編』を読む。

世知原線・臼ノ浦線・柚木線等の支線が簇生してた松浦線だけど,色々変遷が有ったようだ。

佐世保軽便鉄道が1920(T20)に相浦─柚木11.9kmを開業させ,翌1921年には左石(元大野)─上佐世保3.1kmが開通,上佐世保は当時の国鉄佐世保線の北佐世保に隣接していた。

今は中間駅の相浦であるが,小浦方面へ延伸する時に,実盛谷と云ふ乗換専用の分岐駅を今の本山駅の西側に設置して小浦へ直行(相浦は支線の終点となった)したが小浦が干満の差が大きくて積み出し港として荷役効率が悪かった(とは註:相浦の積み出し港としての機能は不十分だったのか?)ので更に臼ノ浦迄1931年に7.8km延伸,同年中に小浦北側の四ツ指から分岐して佐々迄1.7km建設して岡本彦馬鉄道に接続,1933年には佐世保軽便鉄道が岡本彦馬鉄道を買収してる(とは註:岡本彦馬鉄道の積み出し港は佐々から更に四ツ指駅の南隣だった様で此処迄線路が延びていた様だ)。

柚木▲(柚木線は1967.7の水害で不通,1967.8に廃止,柚木炭砿の廃坑は1972。)

大野(左石)─上佐世保・北佐世保━(佐世保線)━佐世保

実盛谷(現本山駅西方)─相浦◎(0kmポスト)

小浦◎

四ツ指(国有化時に四ツ井樋に改称)─大悲観(後の国鉄臼ノ浦駅は此処ら)─臼ノ浦◎(臼ノ浦線は1971廃止)

佐々(此処から先は松浦炭砿鉄道,その後の岡本彦馬専用鉄道)─(芳浦)?◎

肥前吉井

世知原▲(世知原線も1971廃止)

▲…炭砿・◎…積み出し港

1936年に国有化され,改軌工事が1939年から始められて1943年に北佐世保─相浦・左石─柚木が,1945.3に全線の改軌が終了した。

この改軌時に上佐世保は廃止されて北佐世保経由となった。
また実盛谷─真申(まさる)の山越え直結ルートは廃止され,盲腸線の終点だった相浦から真申迄建設して相浦が中間駅となる様に改良した。この辺は飫肥と北郷への県営軌道の関係>>337とよく似てゐる。

また臼ノ浦へは佐々からの接続に変更されて臼ノ浦駅は元大悲観駅付近に建設されたが,臨港線は旧臼ノ浦駅周辺迄伸びてゐた様だ。その時に四ツ指─大悲観は廃止された様だ。

松浦鉄道は頻繁運転で客も確保して善戦しているイメージだが,柚木線や世知原線,臼ノ浦線と云ったネットワーク性があればそれを活かせたかもしれないと思うと一寸惜しい。まあ廃止されたのは国鉄分割時に廃止になったのではなくその前の篠山線とか根北線が廃止になった時のものなのでまあ流石に惜しいと云うのは云い過ぎかw
柚木線は佐世保近郊になってて人口増えたりしてないかな??

341とはずがたり:2016/11/20(日) 19:25:10
松浦線の神田(こうだ)

佐々町〜日鉄神田炭鉱跡
カテゴリ:佐世保・北松炭田の炭鉱
http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51195682.html

342とはずがたり:2016/11/20(日) 22:04:11
『地形図でたどる鉄道史 東日本編』を読む。

苫小牧篇

北海道鉄道(北海道鉱業鉄道) 金山線 沼ノ端─辺富内(富内) 1923年開業 66.0km (将来的には金山迄延伸計画)
〃 札幌線 沼ノ端─苗穂 1926年開業 62.6km (両線は沼ノ端でスイッチバックで接続。室蘭本線の南側に駅)
苫小牧軽便鉄道(元々三井物産建設の線用鉄道) 苫小牧─沙瑠太(富川) 40.4km 1913開業
日高拓殖鉄道 沙瑠太─静内 大正末迄に開通

日高線 1927年に上記二線を国が買収。

1934年 北海道鉄道札幌線が室蘭本線乗り入れ開始。1940年には札幌─苫小牧の直通運転が開始され1943年には重要幹線との事で戦時国有化。同年金山線も国有化,上鵡川(→豊城)─鵡川に新線を建設して平行する上鵡川─沼ノ端を休止。

戦後の苫東開発によって1962年,日高本線が迂回,新線開通。


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