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西洋史

1 とはずがたり :2006/12/02(土) 18:08:31
地理的範囲:西洋人が開拓した新大陸アメリカや地中海世界として歴史を共有する中東史や西洋の植民地となったアフリカなどもここへ入れてしまって良かろう。
時間的範囲:余りに最近の話は各当該スレに。それ以前なら地球上が現在の陸地構成に成った以降ならいつでも可。

75 とはずがたり :2017/03/27(月) 22:59:37
「中間層の没落」とともに国家は衰退に向かう
トランプは「歴史の教訓」に逆らっている
http://toyokeizai.net/articles/-/161616?utm_source=goo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&utm_content=related
中原 圭介 :経営コンサルタント、経済アナリスト 2017年03月09日

古代ギリシャ以来の歴史は、中間層が疲弊すれば国家の衰退は避けられないことを教えてくれる(写真:Pakhnyushchyy / PIXTA)
歴史を振り返ってみると、かつて軍事・経済・文化で隆盛を誇った国々の多くが、中間層の没落をきっかけとして衰退し、最後には滅んでいきました。そこで今回は、歴史から中間層の重要性を学ぶために、都市国家として栄えた古代ギリシャの事例を見ていきたいと思います。

ギリシャの気候は、夏は暑く乾燥し、冬には少量の雨しか降らない地中海性気候に属しています。おまけに陸地には山が多く、大河や平野に恵まれていないため、穀物の生産には適していません。しかし、この地理的特性は、オリーブ・ブドウなどの果樹栽培や羊の牧畜には適していました。

ブドウ酒やオリーブ油は、作るのに特別な風土と技術を必要としただけでなく、貯蔵がとても簡単だったので、瓶に入れて長期のあいだ保存することができました。そのまま遠く離れた国や地域に運搬することができたため、ギリシャの特産物として高価な貿易品となり得たというわけです。

古代において、ギリシャの諸都市でブドウ酒とオリーブ油が特産物として作られ始めると、ユーラシアの内陸に住む人々、特に貴族や富裕な人々がこぞってそれらを求めるようになりました。ギリシャ産のブドウ酒とオリーブ油は貿易船が運航する地中海沿岸だけでなく、遠くロシアや中央アジアまで運ばれ、大量の穀物や貨幣と交換されるようになったのです。

貿易で利益を得た農民が繁栄を支えた

そのようにして、ブドウやオリーブを栽培する農民は、内陸部との貿易で莫大な利益を得られるようになりました。内陸部からギリシャへ穀物や金銭が大量に流入し、それに比例するようにギリシャの各々の都市国家(ポリス)の人口は増えていき、その後の繁栄の基礎を築いていったというわけです。

ブドウ酒やオリーブ油を生産する中小農民は、当時のポリス社会では理想的な市民として評価されていましたし、彼ら自身もそのように自覚していました。彼らは内陸部との貿易に積極的に参入して豊かになっただけでなく、忙しくない時期にはポリスの政治や行事にも奉仕者として参加していたからです。

そのうえで、中小農民は農産物の売り手としてだけでなく、生活必需品の買い手としても経済活動に参加するようになり、ポリス社会に経済的な豊かさを広めていく役割を果たしていました。そのような姿は、かつての米国の豊かな中間層に重なるところがあるように思われます。

鋳造貨幣が発明されて間もない紀元前650年頃、ポリス間における戦争の手法に重大な変化が起こることになります。武装した歩兵(重装歩兵)の密集軍団による新しい戦法、すなわち密集隊形(ファランクス)戦法が発明されたのです。それは、青銅製の兜(よろい)、鎧(かぶと)、すね当てを身に着け、青銅製の盾と鉄製の槍(やり)を持った重装歩兵が横一列に並んで突撃するというものでした。数千の重装歩兵が一団となって一斉攻撃を加えれば、たとえ貴族による屈強な騎兵隊であったとしても、あっという間に蹴散らされてしまったのです。

76 とはずがたり :2017/03/27(月) 22:59:49

それまでの戦争の主力は騎馬を利用する貴族でしたが、重装歩兵による戦法が圧倒的に有利であると知れ渡るようになると、ギリシャの各ポリスは市民からの徴兵を行い、できるだけ大規模な重装歩兵部隊をつくって訓練しなければなりませんでした。そのような環境下で、自費で武具を買いそろえて兵隊として活躍できる資質を持っていたのは、遠隔地との貿易で富裕になった農民、すなわち中小農民と呼ばれる人々だったのです。

彼らこそ、現代でいうところの「中間層」に位置する人々でした。彼らはギリシャの外から金銭を稼いでポリスへ税金を支払っていたうえに、それまで騎馬で戦っていた貴族に代わり、市民としてポリスの軍隊の主力となっていったからです。富裕な中小農民がポリスの財政・経済・軍事の中心となって、ポリス社会の隆盛を支えていたというわけです。

戦闘における連帯感が民主制を生んだ

興味深いことには、新しい戦法の発明は、各ポリスのギリシャ人に強い連帯意識を芽生えさせるというメリットまでもたらすようになりました。なぜなら、重装歩兵が密集して戦うための技術を身に付けるには、集団が連帯感を持って長い時間の訓練をしなければならなかったからです。

ギリシャの各ポリスが戦争で強かったのは、また、文明的にも経済的にも栄えたのは、そのような強い連帯感を基礎として、各々が自分たちのポリスに奉仕するという気持ちにあふれていたからです。それは、国家としても、社会としても、そこに住む人々の気持ちが一体感を保っていたということを意味しています。

高校の世界史の教科書などでは、市民(農民)が戦争で重要な役割を果たし政治的発言力が高まったため、歴史上で初めて、民主政という考え方が誕生することとなったと述べられていますが、私は民主政が誕生したもうひとつの大きな理由は、ポリスでの市民の連帯感にあったのではないかと考えています。古代アテネの政治家ペリクレスが当時の民主政について語った有名な演説がありますので、その一節をご紹介しましょう。

「私は敢ていうが、ポリス全体が安泰でさえあれば、個人にも益するところがあり、その益は、全体を犠牲にして得られる個人の幸福よりも大である。なぜならば、己れ一人盛運を誇っても己れの祖国が潰えれば、個人の仕合せも共に失せる」

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる」(トゥーキュディデース、久保正彰訳『戦史』岩波文庫より)

その当時のアテネ、ひいてはギリシャの民主政治の特徴とは、成年男性市民の全体集会である民会が多数決で国家の政策を決定し、できるだけ多くの市民が政治に参加することを求められたということです。そのような政治制度の誕生によって、ギリシャの各ポリスでは宗教に縛られない自由な考え方が生まれ、文化面では合理主義的な哲学や数学などが発達しました。その後、ギリシャの文化は、ローマの文化や14世紀のイタリアから始まるルネサンスの規範となっていくことになります。

紀元前500年〜紀元前480年の間に3回にもわたる大国ペルシャとの戦争に勝利したギリシャの諸都市国家は、当時の世界で最も繁栄を極めていた文明であるといえるでしょう。しかしながら、その繁栄は50年余りしか続きませんでした。アテネを中心とするポリスの連合であるデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟のあいだで、紀元前431年に植民地をめぐって悲惨な戦争が勃発してしまったのです。

長年にわたる従軍で農民が経済的に疲弊した

ペロポネソス戦争はギリシャ域内で30年近くも続いたため、ギリシャの各々のポリスは衰退していくのが避けることができませんでした。というのも、中小農民が長年にわたって従軍せざるをえず、そのあいだに農地が荒廃してしまったからです。農産物収入を失った農民は、生活のために金銭を必要としたので、借金に借金を重ね、最後には土地までも失ってしまったのです。

77 とはずがたり :2017/03/27(月) 23:00:03
>>75-77
貨幣経済が発達するにつれて、没落した農民は小作人や奴隷といった身分に転落していくかたわら、富裕な貴族や一部の大商人は農民が手放した土地を買い取り、ポリスの人々のあいだでは絶望的なまで経済的な格差が拡大していきました。その結果として、富裕な貴族や一部の大商人は大土地所有者となり、政治・経済の支配者として君臨していく一方で、小作人や貧民は不満を募らせて大土地所有者に強く対抗していくようになったのです。富裕な人々が支持する党派と貧民層が支持する党派の争いに発展し、裏切りや暗殺、追放などが横行することになり、ポリス社会の強みであった「国家のもとに奉仕する」という人々の心やまとまりは、ペロポネソス戦争が終わる頃には見事に失われてしまったというわけです。

国防の要であった豊かな中小農民が経済的に疲弊して従軍できなくなると、重装歩兵の密集集団による戦法は使えなくなりました。そこで各々のポリスは兵隊として傭兵を雇うようになったのですが、主として雇われたのは異民族や土地を失った没落農民などでした。当然のことながら、傭兵では強い連帯感やポリスへの忠誠心を持って戦うのは困難であり、ポリスの軍事力はかつてと比べると著しく弱まってしまいました。

そのような折の紀元前4世紀後半に、ポリスをつくらなかったギリシャ人の一派である北方のマケドニア王国では、フィリッポス2世のもとで財政と軍政の改革を進めます。そしてとうとう紀元前338年には、マケドニアはカイロネイアの戦いでギリシャ連合軍に圧倒的な勝利を収め、ギリシャ全域を支配することに成功したのです。戦意の低い傭兵を主力とするポリスの軍隊は、自国民で組織したマケドニア軍の敵ではなかったというわけです。

このように歴史を振り返ってみると、古代ギリシャの黄金時代は豊かな中間層の出現とともに生まれ、中間層の喪失によって終わりを迎えたということがわかります。豊かな中間層の喪失は、貧富の格差を拡大させ、国家の分断を引き起こし、国力を衰退させていったのです。

古代ギリシャは歴史上で初めて、豊かな中間層が失われると、軍事的にも政治的にも経済的にも国力が衰退していくという教訓を、後世の人々に如実に示した事例であるといえるでしょう。中間層が失われた国は滅びる。現代においては滅びるということはなくても、衰退は避けられない。それが歴史の教えるところなのです。

分断するアメリカは歴史的な危機を迎えた

昨今のアメリカでは、グローバル経済の進展や金融危機の後遺症などを経て、豊かな中間層から貧困層および貧困層予備軍に転落する人々が増える一方で、富が一部の支配者階級に集中するという傾向が強まってきています。2011年に「ウォール街を占拠せよ」をスローガンとして全米各地で行われた反格差デモ活動に象徴されるように、アメリカではすでに国家の分断が起こり始めているといえるでしょう。

さらに悲惨なことに、トランプ政権が誕生したことによって、人種による差別や対立という新たな国家の分断も起こってしまっています。トランプ大統領は移民・難民の入国を制限・停止するという方針をテロの危険性を和らげるための措置だと強弁していますが、それよりもヘイトクライムが横行していることのほうが、アメリカ社会の分断をいっそう促しているので大問題であると思われます。

歴史的な見地から判断すれば、経済格差と人種差別という複合的な国家の分断にさらされているアメリカの現状は、国家としての歴史的な危機を迎えているといっても過言ではないでしょう。アメリカが20年後、30年後に繁栄を享受できているか否かは、まさに国家の分断を回避できるかどうかにかかっているというわけです。

78 とはずがたり :2017/11/01(水) 12:30:16

宗教改革500年で式典=メルケル独首相、多様性尊重訴え
時事通信社 2017年11月1日 06時01分 (2017年11月1日 12時15分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20171101/Jiji_20171101X183.html

 【ベルリン時事】ドイツの神学者マルティン・ルター(1483?1546年)の宗教改革の始まりから500年となる10月31日、ゆかりの地、独東部ウィッテンベルクで記念式典が開かれた。出席者らは世界を大きく変えた歴史的節目を振り返った。
 地元メディアによると、父が牧師だったメルケル首相は式典で演説し、「われわれは寛容であることが欧州の精神だと学んだ」と述べ、宗教の自由や多様性を認めていく重要性を改めて強調した。

79 とはずがたり :2017/11/16(木) 15:07:26
もしも七年戦争でフランスが勝っていたら……――学校では学べない世界近現代史入門
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171115-00004732-bunshun-int&pos=1
11/15(水) 11:00配信 文春オンライン

北米、インドでの植民地戦争でイギリスが敗れていたら
大英帝国ではなく大仏帝国ができていたかもしれない

◆◆◆

 1984年に在外研修でパリ第三大学のマックス・ミルネール教授のゼミに出ていたときのこと。完璧なフランス語で発表するインド人の女子学生と親しくなり、なんでそんなにフランス語がうまいのかと尋ねてみると「だって、私、ポンディシェリー出身だから。フランス語は母国語(マザー・タング)なのよ」という答えが返ってきたので驚いた。インド史はおろか世界史にも疎かった私は1947年のインド独立までポンディシェリーを始めとするフランス植民地がインド亜大陸に数カ所残っていたことを知らなかったのである。

 このときの驚きが大きかったので、フランス領インドというものに興味を持つと同時にインドの領有を巡って英仏で18世紀に戦われたカーナティック(カルナータカ)戦争について調べ始め、さらには北米での英仏植民地戦争であるフレンチ・インディアン(正式にはフレンチ・アンド・インディアン)戦争、およびそれらと連動して行われたヨーロッパ大陸での七年戦争そのものにも強い関心を抱くようになった。そして、これら18世紀の英仏植民地戦争の勝敗が、その後の英仏の運命を大きく変えたことが見えてきた。

ルイ14世、植民地経営に乗り出す
 フランスが新大陸やインドにおける植民地貿易に本格的に参入したのはポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスに比べるとずいぶんと遅く、ルイ14世の親政開始4年目の1664年のことである。財務長官コルベールが重商主義に基づき、1604年に創設されながら機能していなかった「フランス東インド会社」を国策会社として改組・再建し、英蘭との競争に乗り出したのである。

 コルベールは重商主義を強力に推し進めるために、原料(綿糸)の供給地として、またフランス製の贅沢(ぜいたく)品の消費地としてインドを開拓するしかないと信じて、「東インド会社」に莫大な資金を注ぎ込んだのである。

 その結果、フランス東インド会社は後発であるにもかかわらず、イギリス東インド会社、オランダ東インド会社の牙城に食い込むことに成功し、これらの有力な対抗馬にまで成長した。国策会社として豊かな資金を用いてインド洋に浮かぶブルボン島(現レユニオン島)、フランス島(現モーリシャス島)を中継基地として整備できたことが大きかった。さらに、インドの拠点として藩王からインド東海岸のポンディシェリーを買い取り、ベンガル地方にもシャンデルナゴルを確保することができた。幹部に元オランダ東インド会社平戸商館長だったフランソワ・カロンを迎え、ポンディシェリー商館長にフランソワ・マルタンなど貿易実務に長けた人材を配置したこともあり、貿易量は急速に拡大した。

 ところが1682年にヴェルサイユ宮殿がほぼ完成し、宮廷の移転が完了したころから風向きが変わる。財政逼迫(ひっぱく)を理由にヴェルサイユの追加工事に首を縦に振らないコルベールに対して大王が不満を募(つの)らせ、彼のライバルである陸軍大臣ルーヴォワに寵愛(ちょうあい)を移したのである。コルベールがそのショックで1683年に死ぬと、「東インド会社」は総会で清算され、新会社として再出発することとなった。

 しかし、東インド会社が立ちいかなくなった最大の原因は1680年代からフランスの野心が海洋覇権ではなく大陸覇権へとシフトしたことである。いいかえると、ルイ14世のアドヴァイザーがコルベールからルーヴォワに変わったことにより、ルイ14世の自己表現対象が築城から戦争に移り、海外覇権は関心の埒外(らちがい)に置かれてしまうのだ。

 さらに事態を悪くしたのは、秘密結婚していたカトリック過激派マントノン夫人の差し金でルイ14世が信教の自由を保障したナントの勅令を1685年に廃止してしまったことである。これにより、コルベールが育成した産業の担い手であったプロテスタントが国外に追放され、フランスは貴重な人的資源を失うことになる。

 1715年にルイ15世がわずか5歳で即位すると、摂政となったオルレアン公は財政再建のためスコットランドから流れてきた元銀行家で殺人犯のアヴァンチュリエ(山師)ジョン・ローが勧める「システム」を採用する。

80 とはずがたり :2017/11/16(木) 15:07:53

 すなわち、ローは兌換(だかん)銀行券の発券銀行として「バンク・ジェネラル」を設立し、次にそれを中央銀行に組織替えすると、金保有量をはるかに超えた銀行券(紙幣)を大量に発行する。ついで、「東インド会社」を再建して、これを他の国策会社と合併してインド貿易と北米貿易を連結させた「フランス両インド会社」へと改組する。それと並行して、北米のフランス植民地ルイジアナに河口港ヌヴェル・オルレアン(ニュー・オーリンズ)を建設し、ミシシッピー開発を業務とするミシシッピー会社(「西インド会社」)を設立、その株式を大々的に売り出すことにする。しかも、株式は額面価格の国債による株式転換が可能としたため、人気が沸騰(ふっとう)。目先の欲にくらんだ人々は政府に償還義務のある国債を償還義務のない株式に転換したので、政府の負債(国債)は大幅に減少した。ミシシッピー会社の株券は額面の20倍となり、フランスの歴史初のバブルが発生、証券取引所だったカンカンポワ通りは押すな押すなの大賑(にぎ)わいとなった。ローは財務長官の座に上りつめ、銀行券を安倍首相と同じく「ジャンジャン」刷りまくったから、通貨供給量は4倍となり、フランス人は急にみんな金持ちになったかのような多幸感に酔いしれた。

 だが、夢はいつかは覚める。ミシシッピー会社が幽霊会社だという噂が流れると、売りが売りを呼び、人々は銀行の窓口に殺到して兌換を要求したから、たちまちフランス初の取り付け騒ぎが起きる。かくて一瞬のうちにバブルは崩壊し、ジョン・ローは財務長官を辞任すると国外に逃亡、最後は尾羽打ち枯らしてヴェネチアで死んだ。

 このバブル崩壊で、民衆はなけなしの財産を失ったが、逆に国債がほとんど償還されて収支が改善されたフランス国家は1720年代後半にはかつてないほどの元気を取り戻していた。つまり国家デフォルトにより財政再建が成ったのである。

 そして、財政が元気を取り戻すと、フランスは自らが海洋国家でもあったことを突然に思い出すらしく、1720年代後半から海洋覇権の奪取に再挑戦することになる。ヨーロッパでの七年戦争終結まで続く、インドと北米における英仏戦争はこうして準備されたのである。

フランスの北米進出
 フランス植民地として先行していたのは北米である。起源は、北米の北側を抜けるアジア航路の存在を信じたサン・マロ出身の探検家ジャック・カルティエがフランソワ1世の保護を受けて1534年から探検に出発、現在のモントリオールまで到達して、フランスによるケベック領有の道を開いたことに求められる。

 フランスは1603年、アンリ4世に交易独占権を与えられたピエール・デュ・グァ・ド・モンがサミュエル・ド・シャンプランとともにセントローレンス川の水路が狭くなる地点にビーヴァーの毛皮を交易する都市ケベックを建設する。これが北米最大のフランス植民地ヌヴェル・フランスの始まりである。しかし、ケベック建設で一気に入植者が増えたかというと、そうはならなかった。

「先住民の手を借りることのできた毛皮交易は、ヨーロッパ人の人手を多くは必要とせず、加えてヴァージニア植民地のタバコのような魅力ある商品作物がなかったため、ヌーヴェル・フランスは入植者を引きつけることができなかったのである」(木村和男編『カナダ史』山川出版社)

 ヌヴェル・フランスの入植者は1645年の時点でも600人、年季奉公人を入れても1000人足らずで近隣のイギリス植民地とは比べ物にならないくらい少なかった。理由はイギリス植民地が本国に居場所のないプロテスタントを積極的に受け入れたのに対し、ヌヴェル・フランスではルイ13世の宰相リシュリューが植民会社の特許状条項によってプロテスタント信仰を禁止したため、本国で住みづらくなったプロテスタントの受け皿とはならなかったことである。これが後々、フレンチ・インディアン戦争の敗因となる。

 コルベールは重商主義政策の一環として植民の増加を図ったがヌヴェル・フランスでは極端に男女比が偏っていたので、「国王の娘たち」と呼ばれる770人の独身女性をヌヴェル・フランスに送ることにした。その大半はパリの孤児院の出身者で中には刈り込みにあって逮捕された娼婦もいた。アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』では詐欺容疑で逮捕されたマノンはアメリカに送られることになり、シュヴァリエ・デ・グリュがそれに同行するが、マノンはまさにこうした「国王の娘たち」の1人だったのである。

 このようにコルベールはヌヴェル・フランスの植民の増加に心を砕いたが、換金性商品が毛皮に限られていたため人口は拡大しなかった。ヌヴェル・フランスの発展が始まるのは、1720年代以降、毛皮交易に代わって小麦取引が中心になってからである。だが、農業と商業が発展の兆しを見せはじめたころ、北米のフランス植民地全体に悲劇が襲う。ヨーロッパの戦争を反映したイギリス植民地との戦争である。

81 とはずがたり :2017/11/16(木) 15:08:47
 七年戦争よりも早く1754年に始まったフレンチ・インディアン戦争で、真っ先に被害を受けたのは、ヌヴェル・フランスとは別に形成されたフランス植民地アカディア(現在のノヴァスコシア、ニューブランズウィック、プリンスエドワード諸島など)である。アカディアには1633年頃からラ・ロシェル出身者300人が入植し、沼沢地を埋め立てて苦心のすえに開拓地を築いた。イギリス植民地ジェイムズタウンと隣接していたこともあり、ヨーロッパで戦争が起きるたびに支配者が目まぐるしく交替したため、住民は自らをアカディア人と名乗り、英仏どちらにも属さない自主独立路線を歩むことにしたが、フレンチ・インディアン戦争が始まるとこうした中立路線も意味をなさなくなる。

「彼ら(イギリス軍)は一七五五年ボセジュールなどシグネット地峡にある砦を攻略したが、この成功を契機に、彼らがこれまで腐心してきたアカディア人の処遇の最終的決着に踏み切った。同年八月ノヴァスコシア総督チャールズ・ローレンスは約一万五〇〇〇人のアカディア人にたいして強制追放を命じたのである。その結果、同年中に三〇〇〇人以上が土地や財産を没収されて十三植民地に離散した」(前掲『カナダ史』)

 ロングフェローの『エヴァンジェリン――アカディアの恋物語』が伝えるこのディアスポラにより、アカディア人たちはヌヴェル・フランスやフランス本国、あるいはルイジアナ植民地に散っていった。ルイジアナに移ったアカディア人たちは現在アケイディアナと呼ばれる土地に定着し、ケイジャンという独特の料理を生み出した。

 フレンチ・インディアン戦争はというと、こちらは前半はモンカルム将軍率いるフランス軍優位で推移した。フランス軍が軍事顧問団方式でインディアンの部隊を組織し、圧倒的に少数の自軍と同盟させて奇跡的勝利を勝ち得たのである。

 ところが、大敗北の知らせがイギリス本国に届くと、ホイッグ党のウィリアム・ピット(大ピット)の強硬外交派がニューカッスル内閣を組織し、1758年に大規模な正規軍を北米に送り込むと同時に、フランス艦隊が出撃できないように大陸封鎖を行った。

 これに対し、ヨーロッパの戦いに戦力を集中したいフランスはヌヴェル・フランスを救うために増援軍を送るのに消極的だった。

 結局、この本国政府の姿勢の差がもろに北米での戦闘に影響を与えることになった。1758年、難攻不落のルイブール砦が陥落、翌年にはヌヴェル・フランスの中心都市であるケベックの砦が陥落して勝敗は決した。1760年9月に総督ヴォドリュイユ侯が降伏文書にサインしてヌヴェル・フランスはイギリスの軍政下に置かれることとなった。そして1763年のパリ条約でフランスはミシシッピー以東の北米植民地をイギリスに割譲、ミシシッピー以西のルイジアナもスペインに譲渡し、北米植民地をすべて失うことになったのである。

インドの運命を決めた英仏決戦
 それでは、七年戦争に連動した植民地の戦いのもう一方の極であるインドでの戦争はどのように展開していたのだろうか?

 フランスはジョン・ローのデフォルトで国債が帳消しになり、国力が回復すると1730年代からポンディシェリーを拠点にイギリスの「東インド会社」と激しい鍔(つば)ぜり合いを演じるようになる。

 英仏の東インド会社の違いは、イギリスのそれがあくまで民営であったのに対し、フランスのそれは国策会社の色彩が強かったことに尽きる。そのため、フランス東インド会社の軍隊はフランス本国から派遣されたフランス領インド総督の指揮下に置かれ、実態的にはフランス植民地軍と同じだった。

 このフランス・インド総督軍とイギリスの東インド会社の軍隊がインドの地方の太守国の内紛に介入して三次にわたって戦ったのがカーナティック戦争である。

 カーナティック戦争では、第二次の戦争までは、フランス領インド総督ジョゼフ=フランソワ・デュプレックスの総指揮によりイギリスの東インド会社軍に対して有利に戦いを進めていた。

 デュプレックスはフランス東インド会社の総書記をつとめた父親の勧めで1720年に「フランス両インド会社」に就職、ポンディシェリーに赴任すると、たちまち頭角を現し、1742年にはフランス領インド総督に任命された。

 デュプレックスが採用した軍事方針は、軍事顧問団方式でインド人歩兵にフランス式の操銃訓練を施して、フランス人将校の指揮下に置くというものである。こうして組織化された現地軍は騎兵中心のインド諸侯軍を撃破し、これを配下においたり、同盟を組んだりして、イギリスとの対決に備えた。

82 とはずがたり :2017/11/16(木) 15:09:27

 具体的には第一次カーナティック戦争(1744〜1748)ではマドラスの戦いでイギリス軍を撃破してマドラスを占領、第二次カーナティック戦争(1749〜1754)でも、ニザーム王国やカルナータカ太守国の内紛に介入して、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社軍と互角の戦いを展開したが、1754年に突如、デュプレックスが本国政府によって召喚(しょうかん)されたことで情勢は混沌としてくる。

 本国政府は、出先機関であるインド総督府と東インド会社が戦線を拡大し、膨大な資金をつぎ込んで戦争を継続していることを憂慮し、戦争よりも貿易と判断して、独断専行の廉(かど)でデュプレックスを本国に召喚したのである。

 このデュプレックス召喚はインド戦争に破局的影響を及ぼした。それは七年戦争と連動して起こった第三次カーナティック戦争(1758〜1763)で鮮明となる。

 もっとも、デュプレックスが召喚された後でも、フランス・インド総督軍はなお大きな戦力を保持しており、勢力圏はイギリスと拮抗していた。ところが、1757年に起こったプラッシーの戦いで勢力バランスが大きく崩れる。フランス・インド総督軍が支援したベンガル太守軍がクライヴ率いる東インド会社軍に完敗し、ベンガル地方は完全にイギリスの勢力下に置かれてしまったからである。とはいえ、教科書の記述にあるようにプラッシーの戦い1つでインドにおける英仏の戦いに決着がついたわけではない。プラッシーの戦いではフランス・インド総督軍の損害は軽微で、いまだに多くの領土と軍隊を保持していたからだ。

 インドにおける英仏の戦いに決着がついたのは第三次カーナティック戦争後半の1760年、本国政府海軍からの大増援を受けたイギリス東インド会社軍がヴァンディヴァッシュの戦いでフランス・インド総督軍を完膚(かんぷ)なきまでに破ったときのことである。この戦いでもヨーロッパ戦線で苦戦を強いられていたフランス本国政府が増援部隊を派遣できなかったことが運命の分かれ目となった。

 1763年2月にパリ条約が締結され、フランスはポンディシェリーとシャンデルナゴルを除くインド領をすべて失った。その後、フランス領インドは両都市を拠点に細々と貿易活動を続けたが、1947年のインド独立を機にインドに返還されたのである。

83 とはずがたり :2017/11/16(木) 15:09:39
>>79-83
大仏帝国を夢想する
 と、このように、ヨーロッパの七年戦争と連動して北米とインドで繰り広げられた英仏の戦いを概観してみると、海洋国家として首尾一貫していたイギリスに比べ、大陸国家と海洋国家という2つの側面で逡巡が繰り返されたフランスは不利だったことがわかる。フランスは2つの植民地戦で負けるべくして負けたのである。

 ただ、そうはいうものの、パリ条約でイギリスが北米とインドの覇権を得たことは、その後の世界史に非常に大きな影響を及ぼした。

 それは、もし七年戦争でフランスが勝利していたらと歴史にイフをかけてみればすぐに明らかになる。北米とインドにおけるフランスの勝利により、フランスは余剰人口のはけ口を北米とインドに見出すことができたので、パリへの人口集中は起こらず、したがってフランス革命も起こらなかったはずである。ブルボン王朝がいまも続き、フランスは王国のままであったろう。

 反対にイギリスは17世紀にエンクロージャー・ムーブメントなどでマルクスのいう原始的蓄積(農民が土地から切り離され、労働力しかもたないプロレタリアとなること)が行われているにもかかわらず、植民地を失ったため余剰人口のはけ口がなくなり、プロレタリアがロンドンに溢れ、イギリス革命が起こったかもしれない。さらにマルクスの予言したとおりに、イギリスに初の共産主義政権が誕生していた可能性もある。となると、スコットランド、アイルランドは独立し、イギリス連合王国は空中分解していた可能性が強い。優秀なインド木綿の輸入超過に苦しんだイギリスが一計を案じて、綿花をアメリカに運んで安価な原料供給地とし、自国の綿織物工業の育成につとめるというようなことはなかっただろう。アメリカ綿花がなかったらイギリスに産業革命は起こらなかったはずだし、インドの綿織物工業が解体されることもなかったにちがいない。従って大英帝国も成立せず、19世紀はパクス・ブリタニカならぬパクス・フランカの世紀となっていたと思われる。

 また、中国茶のこれまた輸入超過に業を煮やしたイギリスがインドのダージリンやアッサムなどの土地を選んで茶を栽培し、中国からの輸入を減らすと同時に、インド茶を北米への重要な輸出商品とすることができたのも2つの植民地を領有していた賜物(たまもの)である。

 さらにいえば、インドを失ったフランスが紅茶消費国とならなかったことも七年戦争の影響だし、フランスがわずかに残された西インド諸島産のコーヒーに依存するコーヒー愛飲国となったのもパリ条約の結果なのである。そればかりではない。インドと北米がフランス植民地にとどまった場合、まちがいなく世界の共通語はフランス語になっていたものと思われる。となると、天の邪鬼(あまのじゃく)な私は専攻としてフランス文学ではなく英文学を選んでいたかもしれない。

 と、このようにパラレル・ワールドが簡単に描けるのだから、七年戦争こそは現在に至る世界史の分水嶺であり、18世紀から21世紀にかけての世界史を完全に変えたのである。

鹿島 茂

84 とはずがたり :2017/11/27(月) 20:01:47

英海軍がバッキンガム宮殿の警護に、衛兵交代式357年の歴史で初
AFPBBNews 2017年11月27日 14時20分 (2017年11月27日 16時00分 更新)
https://www.excite.co.jp/News/world_g/20171127/Afpbbnews_112055.html

【11月27日 AFP】英ロンドンにあるエリザベス女王(Queen Elizabeth II)の公邸、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)で26日、名物の衛兵交代式に英国海軍(Royal Navy)が登場し、357年に及ぶ交代式の歴史上初めて警護任務を引き継いだ。

 世界中から訪れる観光客に人気の衛兵交代式は通常、赤い制服がトレードマークの近衛歩兵連隊が行う。交代式の歴史は1660年にチャールズ2世(Charles II)が王政復古をとげた際にさかのぼるが、海軍が警護任務を引き継ぐのは今回が初。海軍兵士が王宮の警護を担当するのは実に400年以上ぶりとなる。

 英国は2017年を「海軍の年(Year of the Navy)」と位置付けており、今回、海軍は祝賀行事の一環としてバッキンガム宮殿の警護任務を一時的に引き継いだ。

 交代式では、選抜された48人の水兵らが海軍伝統の紺色の制服を身にまとって初めての行進に臨んだ。海軍本部で1か月にわたって複雑な交代式の手順を訓練してきたという。

 27日には、この48人を含む86人の海軍兵士が初めてウインザー城(Windsor Castle)の護衛任務を担うほか、今後数週間かけてロンドン塔(The Tower of London)やセント・ジェームズ宮殿(St James's Palace)でも護衛を担当する。(c) AFP/AFPBB News


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