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西洋史

1 とはずがたり :2006/12/02(土) 18:08:31
地理的範囲:西洋人が開拓した新大陸アメリカや地中海世界として歴史を共有する中東史や西洋の植民地となったアフリカなどもここへ入れてしまって良かろう。
時間的範囲:余りに最近の話は各当該スレに。それ以前なら地球上が現在の陸地構成に成った以降ならいつでも可。

68 名無しさん :2016/11/23(水) 16:10:29
>>67

あり得たかもしれない世界史
 このフェニキア・ネットワークの頂点に立っていたのがカルタゴなのだが、地中海周辺に無数に分布していたフェニキア系の植民市の中でなぜカルタゴが中心とならざるを得なかったのか、という疑問に答えることが本書のもう一つの軸となっている。

 フェニキア・ネットワークは第一義的には交易網であるが、問題は経済的要因だけには還元し切れない。カルタゴは戦争の主体でもあった。「武器によって立つ者は武器によって滅ぶ」――この言葉はローマ帝国にももちろん当てはまるが、カルタゴ「帝国」にも同じようによく当てはまる。

 カルタゴは通商国家であると同時に、古代地中海でも目立った軍事強国であった。「商人=非軍事的」という図式は古代地中海世界の場合、あまり妥当しない。

 カルタゴが、特にシチリア島を舞台としてどんなに常に戦争に明け暮れていたか――その相手は「ローマ以前の地中海覇権」のもう一方のにない手であるギリシア人なのだが――は、本書の記述から理解されるであろう。

 同時に、フェニキア人の交易網の中で、前六世紀頃以降カルタゴが最大の結節点となっていく条件を問うていくと、そこには母市テュロスとの関係の問題、更には先述のカルタゴの宗教の問題が浮上して来る。

 佐藤氏の執筆部分はテュロス市をはじめとするフェニキア本土(シリア・パレスティナ)のフェニキア人の歴史を通観するとともに、植民市カルタゴの宗教についてポエニ語史料の分析を通じて光を当て、この問題に関する手がかりを与えている。

 ローマによるカルタゴ殲滅(前146年)は劇的であるが、そのことで地中海史はどう変わったのか、変わらなかったのか、ローマでなくカルタゴが地中海を統一することはあり得たのか、などなどローマ帝国成立直前の「まだカルタゴ人のいる風景」は世界史をめぐる様々な想念を呼び起こす。

 ポエニ戦争とハンニバルで有名なカルタゴをローマ史の文脈の中で考えるのではなく、逆にフェニキア・カルタゴを一つの展開軸とする地中海全史――その中にローマ史も包含され、そこから必然的にローマ帝国が生まれて来る――を考えるとしたらどうなるのか、このような問いが、読者のもとに届くことを願っている。

 読書人の雑誌「本」2016年11月

栗田 伸子

69 名無しさん :2017/01/15(日) 08:48:10
http://www.afpbb.com/articles/-/3113052
ネアンデルタール人が食人、ベルギーの洞窟遺跡から証拠
2017年01月04日 12:53 発信地:ゴイエ/ベルギー

【1月4日 AFP】ネアンデルタール人がウマやトナカイを食べるだけでなく、共食いもしていたことを示す証拠が、ベルギーのゴイエ(Goyet)洞窟群の奥深くで発見された。

 発見した研究チームによると、約4万年前に生きていた成人または若者4人と子ども1人、新生児1人の人骨には、内部の骨髄を取り出すために切断、粉砕された明確な痕跡があるという。

 ベルギー人考古学者のクリスティアン・カセイヤス(Christian Casseyas)氏は、アルデンヌ(Ardennes)の森にあるこの遺跡内の渓谷の中腹に位置する洞窟をのぞき込みながら「ここで食人が行われていたことは、反論の余地がない」と話す。

 ゴイエ洞窟の人骨は、ネアンデルタール人が現生人類ホモ・サピエンス(Homo sapiens)に取って代わられ、地球上で絶滅を迎えつつあった頃の年代を示している。またネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスとも交配していた。

 利口な現生人類によって絶滅に追いやられた原始的な穴居人と以前はみなされていたネアンデルタール人が実際には、死者の遺体を丁重に扱い、埋葬の儀式を行う洗練された人々だったことが、これまでの研究で明らかになっている。

 だが、ネアンデルタール人が死者を食べていたことを示す証拠も増えている。

 ネアンデルタール人による食人の事例はこれまで、スペインとフランスに存在した南欧のネアンデルタール人個体群でしか見つかっていなかった。

 ゴイエ洞窟群は、旧石器時代より住居として使われていた。全長250メートルに及ぶ洞窟の回廊部は、数メートル下を今も流れる小川のサムソン(Samson)川が石灰岩に穴を開けて形成した。

■骨髄を取り出す

 米カリフォルニア州立大学ノースリッジ校(California State University Northridge)の人類学者、エレーヌ・ルジェ(Helene Rougier)氏率いる国際研究チームは今回、ゴイエ洞窟で発見された人骨から、そこに居住していたネアンデルタール人が食人種だったことを証明した。

 人骨は「解体して肉を取り去るために」切断された痕跡を示していると、カセイヤス氏は指摘。ネアンデルタール人は「洞窟の入り口で見つかったトナカイやウマの骨を砕くのと同じ方法で、これらの人骨を粉砕していた。その目的は間違いなく、骨髄を取り出すためだ」と同氏は続けた。

 ルジェ氏はAFPの取材に、「実際に、ここで何人かのネアンデルタール人が死んで食べられたという結論を下すことができる」と語った。北欧でこのような証拠が見つかったのは初めて。同氏は2016年7月、ベルギーの洞窟に関する研究を英科学誌ネイチャー(Nature)系オンライン科学誌「サイエンティフィック・リポーツ(Scientific Reports)」に発表している。

「これらの人骨の一部は、フリント石器の刃を研ぎ直して切れ味を良くするための道具を作るのにも使われた」と、ルジェ氏は述べた。

 だが、食人行為が行われていた理由と、どの程度の規模で行われていたかについては、謎のままだ。

「組織的に行われていたのか。何らかの特別な時だけだったのか」とルジェ氏は問いかける。「この食人行為の背景にある理由をどのように解釈すべきか分からない。純粋に食べるための可能性もあるが、象徴的な行為だった可能性もある。理由は不明のままだ」と、ルジェ氏は話している。(c)AFP/Philippe SIUBERSKI

70 とはずがたり :2017/02/01(水) 20:24:36
>イングランド王国(現在の英国の中心部分を占めるイングランド地方にあった)がフランスのノルマンディー公によって征服されたのが1066年。それから1千年近くにわたり、英国では王室制度が続いてきた。
征服されたのがイングランド王国ならその前だった王制だし寧ろその後がフランスの植民地(ノルマンディ公領)で王国ではなくなったんでわ?

wikiで調べてみるとノルマンコンクエスト以前は国として纏まりが無く,ノルマン王朝以降王国として纏まりが出てきたって感じかな。

エリザベス女王がトランプ氏を公式招待へ ──王室の占める位置とは
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/11/post-6420.php
2016年11月25日(金)18時10分
小林恭子(在英ジャーナリスト)

<勝手に中米英大使を「指名」したトランプに面子を潰されたイギリスのメイ首相は、それでも米英関係を断絶させるわけにはいかないと、エリザベス女王にトランプを招待してもらう奥の手に出た。でもいったいなぜ、ここで女王が出てくるの?>(写真はエリザベス女王にお辞儀をするメイ首相)

何故、英女王の出番になった?
 最近になって、英女王が次期米大統領ドナルド・トランプ氏を来年6月か7月、英国に招待するというニュースが出た。

 表向きは英米2国の関係強化だ。確かにそういう意図があるのだが、ほかにもわけがあった。

 11月9日、米大統領選の翌日、不動産王トランプ氏が当選したことが判明した。英国の知的エリート層は一時的にパニックに陥った。まさか、人種差別的、女性蔑視的暴言を飛ばすトランプ氏が当選するとは思っていなかったからだ。 

 メイ首相はトランプ氏の当選確定後間もなくして祝福のメッセージを送った。しかし、今月12日、ニューヨークを訪れた英国独立党(UKIP)のナイジェル・ファラージ氏が首相を差し置いてトランプ氏と面会してしまった。

 ファラージ氏は英国の欧州連合(EU)からの独立(=ブレグジット)をもたらした政治家だ。しかし、EUからの脱退を主張してきたUKIPは長い間泡沫政党と見られており、下院議員は一人しかいない。

 欧州議会議員のファラージ氏自身は下院選挙で何度も落選している。だが、トランプ氏とは親しい関係を築いてきた。トランプ氏の選挙運動に参加したことさえある。

「外国の政治家としては初」の会合を首尾よく達成してしまったファラージ氏。「メイ政権はファラージ氏に頼んで、トランプ氏との『仲介役』になってもらったらどうだろう?」-そんな声が出てきた。「ファラージ氏を駐米大使にしてもいいのでは?」とも。

 ファラージ氏に「先を越された」ことで悔しさいっぱいの政権が繰り出してきたのが、王室である。エリザベス女王は英国のヒエラルキーのトップにいる。この人以上に高い存在はなく、国内外の人気も抜群だ。ファラージ氏の上昇を止められるのはエリザベス女王しかいなったのである。

 英国民と王室の関係を振り返ってみたい。(以下、「EUマグ」に掲載された筆者の記事「英国で新王子が誕生」から一部を抜粋した) 

1000年近く続く王室制度
 イングランド王国(現在の英国の中心部分を占めるイングランド地方にあった)がフランスのノルマンディー公によって征服されたのが1066年。それから1千年近くにわたり、英国では王室制度が続いてきた。

 例外はクロムウェル父子が護国卿として実権を握った共和制(1649-59年)のみだ。

 英国は現在、立憲君主制を取る。「君臨すれども統治せず」の原則は、国王の権限を制限したマグナ・カルタ(1215年)、権利の章典(1689年)などを経てこの形となった。

 エリザベス女王(90歳、在位1952年ー)は英国の元首であるほかに、16カ国の主権国家(英連邦王国)の君主であり、54の加盟国からなる英連邦および王室属領と海外領土の元首、英国会の首長でもある。

 在位は64年となり、ウィンザー朝(1917年ー)の第4代君主。ウインザー家の家系をたどると、18世紀にドイツからやってきたハノーバー朝で、ドイツ系の王族が現在まで続いている。

71 とはずがたり :2017/02/01(水) 20:24:57
>>70-71
皇室との違いは
 立憲君主制の英国と、天皇陛下が国の象徴となる皇室とでは政治に干渉しない点で共通しているが、異なる点も多い。例えば日本の場合は皇統に属する男系の男子が継承するが、英国では女性も王位を継承できる。

 英国では1960年代以降、より自由で柔軟な価値観が浸透し、親、会社の上司、そのほか社会のエスタブリッシュメント(支配者層)への敬意の念が薄れて行った。

 社会通念や価値観がより自由化、柔軟化した英国では王室批判のドキュメンタリー、新聞記事、ジョークは日常茶飯事だ。

 欧州のほかの国の王室ではほとんどが立憲君主制をとり、男女にかかわらず最初に出生した子供に次の元首となる権利が与えられるようになっている。

 エリザベス女王の公務の代表的なものとして、下院の会期オープニングの儀礼がある。毎回、女王が施政方針を読み上げる。

 実際にはこれは官邸が書き、女王が読む形をとっている。

 週に一度、首相との会合を持つ。この中で話された内容は一切外に漏らしてはいけないことになっている。

 政権交代の際には辞任する首相がバッキンガム宮殿に向かい、政権終了を報告する。入れ替わりに入ってくるのが次の首相候補だ。女王は「女王陛下の政府」を形成するよう、依頼する。

人気度は?
 複数の世論調査で王室への支持率はおおむね、高い。王室を廃止して共和制にしようと思う国民は「20%ほど」と言われている。唯一、批判が高まったのは、ダイアナ元皇太子妃がチャールズ皇太子との離婚後、自動車事故で亡くなった時(1997年)。エリザベス女王はスコットランドのバルモラル城に滞在しており、しばらくの間、国民の前に姿を現さなかった。

 メディアを通じて国民の不満感が伝わると、女王はロンドンに戻った。宮殿の前に積まれた、ダイアナ元妃を追悼する花束やメッセージに王室の家族全員が圧倒された。いかにダイアナ元妃が国民に深く愛されていたかが伝わってきた。

 女王はテレビで国民へのメッセージを流した。「女王として、そして一人の祖母として」の追悼の言葉だった。ここでまた、英国民はエリザベス女王の下に一つにまとまったのである。

[執筆者]
小林恭子(在英ジャーナリスト)
英国、欧州のメディア状況、社会・経済・政治事情を各種媒体に寄稿中。新刊『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス(新書)』(共著、洋泉社)

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

トランプ「異例の招待」に英国民猛反発でエリザベス女王の戸惑い
Donald Trump State Visit Puts Queen in ‘Very Difficult Position'
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1401100637/1175
2017年2月1日(水)17時06分
コナー・ギャフィー

72 とはずがたり :2017/02/14(火) 12:29:10
>外から持ち込んだカカオ豆を生産させるため、英国は巧妙な仕組みを作り出しました。まず、現地人に人頭税などの税金を課します。しかし、植民地化以前のアフリカでは貨幣がほとんど使用されていなかったため、現地人は税金の支払いに困ります。払わなければ、逮捕・投獄されるのは、目に見えています。そのなかで英国人はカカオの苗木などを現地人に提供し、生産されたカカオ豆を買い上げることで、現地社会に貨幣を流通させていきました。これによって、英国は税金を集める一方で、カカオ豆の生産を促していきました。そして、現地人が生産したカカオ豆は、英国が設立した専売公社(マーケティング・ボード)が独占的に買い上げ、輸出していったのです。
穢い事し続けてきた欧州は直接謝る事をせず進歩的な欧州による移民の受入と云ふ形で現在も贖罪していると云えなくもない。

ガーナは「チョコレートの国」か? チョコレートにみる「矛盾との向き合い方」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20170214-00067648/
六辻彰二 | 国際政治学者
2/14(火) 9:37

日本では一般的に、アフリカの国は、その国名すらほとんど知られていないことが珍しくありません。そのなかで、「ガーナ」は例外的に、少なくとも国名に関しては、知名度のある国の一つです。その「功績」が、あの製菓メーカーの商品名にあることは言うまでもなく、バレンタインが近づくにつれ、あちこちの広告でその名を目にする機会が増えます。

しかし、アフリカ研究を専攻し、ガーナを題材に博士論文を書いた身からすると、ガーナが「チョコレートの国」としてのみ認知されていることには、やや複雑な思いがあります。現在、ガーナの最大の輸出品は原油で、カカオ豆ではありません。そのうえ、ガーナは確かに世界第二のカカオ豆生産国ですが、現地ではチョコレートもココアもあまり消費されていません。

そのスウィートさと裏腹に、チョコレートにはビターな影がつきまといます。それは誕生から現在に至るまで、形を変えながらも一貫しているといえます。

なぜヨーロッパでチョコレート生産が盛んなのか
授業でよく学生に問いかけることの一つに、「ベルギーやフランスでチョコレート生産が盛んなことを、おかしいと思わないか」という質問があります。カカオ豆は熱帯性の作物で、寒冷地の多いヨーロッパではほとんど生産されていません。それにもかかわらず、これらの国でチョコレート生産が一大産業となっているのは、植民地主義の遺産に他なりません。

カカオ豆はもともと中南米原産の作物で、15世紀の大航海時代にスペイン人によってヨーロッパに伝えられ、チョコレートは18世紀頃までに貴族や富裕層、中間層にまで広まっていました。しかし、チョコレートがヨーロッパの庶民レベルで大量に消費されるようになった転機は、19世紀の産業革命にありました。

近代以前のヨーロッパは、世界的にみて貧しい土地だったといえます。寒冷地が多く、土地がやせているため、大量に商品を生産するための原料となる農作物は多くありませんでした(実際、ヨーロッパ原産の農作物は数えるほどしかない)。さらに、人口も多くなかったため、大量に商品を売りさばくために必要な消費者の頭数にも限界がありました(現在でも人口が1億人を超えるのはドイツだけ)。そのなかで、資本主義経済と科学技術だけが発展したために、ヨーロッパ諸国は原料の供給地および独占的な市場として植民地を確保するため、海外進出を加速させたのです。

軍事力をもって支配したうえで、それらの土地から農作物や天然資源を輸入し、そして自分たちが作った工業製品を独占的に売りつける。これが植民地支配の基本的な構図でした。もっとも、「自分たちの利益のために外の土地を支配する」というのは、いくらなんでも聞こえが悪いため、そのためにヨーロッパ人たちは高尚な理屈をひねり出しました。「『未開・野蛮な』アジアやアフリカを『文明化する』ことが『文明人たる白人の責務』である」と、半ば本気で語られるようになったのも、この頃でした。もちろん、これは外聞の悪さを覆い隠すための、理論武装以外の何物でもありませんでした(これは日本と同様ヨーロッパでも「植民地支配は悪いことばかりでなかった」という言い分の源流になっている)。

ともあれ、植民地支配はヨーロッパ発展のステップとなり、それにともない華麗な文化が花開くことになりました。英国といえば紅茶の国ですが、これは茶葉の生産地だったインドを支配し、ケニアなどアフリカの植民地でもその生産を奨励した結果、可能になりました。現代の日本で、特に2月14日前後にスポットがあたるベルギーやフランスのチョコレートも、植民地主義の遺産という意味では、ほぼ同様といえます。補足すれば、紅茶やチョコレートに付き物の砂糖も、アメリカ大陸において奴隷制のもとで大量に生産され、輸出されたことで、ヨーロッパで普及していきました。

73 とはずがたり :2017/02/14(火) 12:29:25
チョコレートが結ぶガーナとベルギー
ベルギーでは1894年に「カカオが成分の35パーセント以上を占めること」を定めた法律ができ、産業としてのチョコレート生産がほぼ確立されました。その後、1912年には、現在ベルギーを代表するチョコレート企業の一つであるノイハウスが、焙煎したナッツ類を混合させたプラリネを初めて世に送り出すなど、花形となる企業や商品も誕生。ベルギーは一躍チョコレート王国となったのです。

ただし、ベルギーは国力が小さく、英仏などとの植民地獲得競争にも出遅れたため、アフリカでの植民地はルワンダやコンゴなど、ごく少数にとどまりました。また、これらの土地は、カカオ豆生産に必ずしも適しません。そのため、ベルギーは英仏などの植民地からカカオ豆を輸入することで、チョコレート生産を活発化させたのです。

ベルギーのカカオ豆の輸入元の一つが、英国の植民地だったガーナ(英国人の当初の目的は金の採掘だったため、植民地名は「ゴールドコースト(黄金海岸)」というミもフタもないものだった)でした。ガーナでのカカオ豆生産も、やはり19世紀からの英国による植民地支配のもとで本格化しました。逆に言えば、それ以前のガーナの人々にとって、カカオ豆は全くといっていいほど馴染みのないものでした。

外から持ち込んだカカオ豆を生産させるため、英国は巧妙な仕組みを作り出しました。まず、現地人に人頭税などの税金を課します。しかし、植民地化以前のアフリカでは貨幣がほとんど使用されていなかったため、現地人は税金の支払いに困ります。払わなければ、逮捕・投獄されるのは、目に見えています。そのなかで英国人はカカオの苗木などを現地人に提供し、生産されたカカオ豆を買い上げることで、現地社会に貨幣を流通させていきました。これによって、英国は税金を集める一方で、カカオ豆の生産を促していきました。そして、現地人が生産したカカオ豆は、英国が設立した専売公社(マーケティング・ボード)が独占的に買い上げ、輸出していったのです。

こうしてガーナでは、現地人がカカオ豆をほとんど消費しないままに、その生産だけを行い、しかし利益の多くを英国が吸い上げる仕組みが完成しました。これはガーナ以外のアフリカの国でも、カカオ豆以外の農産物でも、ほとんど同様でした。

こうしてみたとき、チョコレート生産が植民地主義の遺産の象徴であることは確かで、そこには数多くの人々の苦難が凝縮されています。チョコレートは、それ自体に負けず劣らず、黒い歴史を背負っているといえるでしょう。

チョコレートと現代の「奴隷制」
現代でも、チョコレートには黒い話がつきまといます。なかでも、チョコレート産業は児童労働と人身取引の温床として、しばしば取り上げられます。

2014年段階で、コートジボワールとガーナのカカオ豆生産は、世界全体約60パーセントを占めます。しかし、これらの国のカカオ栽培の現場では15歳以下の子どもが数多く働いており、そういった子どものうちコートジボワールでは40パーセントが、ガーナでは10パーセントが、それぞれ学校に通っていないとILO(国際労働機関)は報告しています。

そのなかには、親の仕事を手伝っている子どもだけでなく、親の借金のカタとして、あるいは誘拐されて、売り飛ばされてきた子どもも含まれます。とりわけ、世界最大のカカオ生産国であるコートジボワールでのそれは深刻で、米国務省は同国のカカオ産業で10万人以上が無給労働や性的虐待などをともなう「最悪の形態の児童労働」のもとにあり、このうち約1万人を人身取引の犠牲者と試算しています。その「調達先」は国内だけでなく、マリやブルキナファソなどの周辺国からも、日本円に換算して一人当たり5000円ほどで売られてきているとみられます。アフリカはかつて白人により奴隷貿易の憂き目に遭いましたが、現代ではむしろアフリカ自身によって人間の商業取引が盛んに行われているのです。

ただし、外部もこれと無縁ではありません。2015年、スイスに本社のある世界的な食品メーカー、ネスレの系列に属する、コートジボワールの260のカカオ農園で、18歳未満の労働者が56名いることが発覚し、このうち27名は15歳未満でした。

カカオ栽培はもともと人手が頼りで、児童労働が蔓延しやすい環境にあります。そのため、ネスレをはじめとする世界のチョコレートメーカーは、米国議会の呼びかけに応じる形で、2001年に「最悪の形態の児童労働」をなくすために努力することを申し合わせました。しかし、申し合わせに法的拘束力はないため、その後もチョコレート産業では児童児童がしばしば報告されており、ネスレの件は一つの例に過ぎません。また、現地政府がこれに加担する、あるいは少なくとも見て見ぬ振りをすることも稀でなく、コートジボワールでは2010年にカカオ産業をめぐる汚職を報じた3人のジャーナリストが当局に逮捕されています。

74 とはずがたり :2017/02/14(火) 12:29:45
>>72-74
矛盾を「断つ」のではなく「ほぐす」忍耐
こうしてみた時、チョコレートは世界の矛盾の縮図とさえ映るかもしれません。

ただし、チョコレートそのものを忌避しても、拒絶しても、その暗い歴史が覆ることは決してありません。また、目立つ特定の企業や業界の商品をボイコットしたとしても、それは必ずしもチョコレートにまつわる問題を解決するとは限りません。開発途上国に蔓延する貧困や政府の汚職、企業活動に対する規制などの問題がそのままであるなら、人身取引や児童労働の現場が他の企業・業界に移動するだけで終わりかねないのです。つまり、複雑に入り組んだ問題に直面するなかで、万能の特効薬はないと言えるでしょう。

そのなかで重要なのは、言い古されたことではありますが、まず知ることしかありません。逆に、問題の複雑さにしびれを切らして、一気呵成に問題を解決しようとすれば、副作用だけが大きくなりがちです。フランス革命で「反革命的」とみなされた人々が「貧者に対する哀れみのために」相次いで断頭台の露と消えたことも、世界のあらゆる問題を一刀両断に解決する方法として「イスラーム国家の樹立」という処方箋を示した「イスラーム国」も、そして「安全のためなら何をしても許される」と豪語するトランプ氏も、この点では同じです。

「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さと言えるでしょう。人間社会につきものの矛盾と向き合うためには、無理やり「断つ」のではなく、「ほぐす」努力が必要なことを、甘くてほろ苦いチョコレートは語っているのかもしれません。

六辻彰二
国際政治学者
博士(国際関係)。アフリカをメインフィールドに、米中関係から食糧問題、宗教対立に至るまで、分野にとらわれず、国際情勢を幅広く、深く、分かりやすく解説します。

75 とはずがたり :2017/03/27(月) 22:59:37
「中間層の没落」とともに国家は衰退に向かう
トランプは「歴史の教訓」に逆らっている
http://toyokeizai.net/articles/-/161616?utm_source=goo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&utm_content=related
中原 圭介 :経営コンサルタント、経済アナリスト 2017年03月09日

古代ギリシャ以来の歴史は、中間層が疲弊すれば国家の衰退は避けられないことを教えてくれる(写真:Pakhnyushchyy / PIXTA)
歴史を振り返ってみると、かつて軍事・経済・文化で隆盛を誇った国々の多くが、中間層の没落をきっかけとして衰退し、最後には滅んでいきました。そこで今回は、歴史から中間層の重要性を学ぶために、都市国家として栄えた古代ギリシャの事例を見ていきたいと思います。

ギリシャの気候は、夏は暑く乾燥し、冬には少量の雨しか降らない地中海性気候に属しています。おまけに陸地には山が多く、大河や平野に恵まれていないため、穀物の生産には適していません。しかし、この地理的特性は、オリーブ・ブドウなどの果樹栽培や羊の牧畜には適していました。

ブドウ酒やオリーブ油は、作るのに特別な風土と技術を必要としただけでなく、貯蔵がとても簡単だったので、瓶に入れて長期のあいだ保存することができました。そのまま遠く離れた国や地域に運搬することができたため、ギリシャの特産物として高価な貿易品となり得たというわけです。

古代において、ギリシャの諸都市でブドウ酒とオリーブ油が特産物として作られ始めると、ユーラシアの内陸に住む人々、特に貴族や富裕な人々がこぞってそれらを求めるようになりました。ギリシャ産のブドウ酒とオリーブ油は貿易船が運航する地中海沿岸だけでなく、遠くロシアや中央アジアまで運ばれ、大量の穀物や貨幣と交換されるようになったのです。

貿易で利益を得た農民が繁栄を支えた

そのようにして、ブドウやオリーブを栽培する農民は、内陸部との貿易で莫大な利益を得られるようになりました。内陸部からギリシャへ穀物や金銭が大量に流入し、それに比例するようにギリシャの各々の都市国家(ポリス)の人口は増えていき、その後の繁栄の基礎を築いていったというわけです。

ブドウ酒やオリーブ油を生産する中小農民は、当時のポリス社会では理想的な市民として評価されていましたし、彼ら自身もそのように自覚していました。彼らは内陸部との貿易に積極的に参入して豊かになっただけでなく、忙しくない時期にはポリスの政治や行事にも奉仕者として参加していたからです。

そのうえで、中小農民は農産物の売り手としてだけでなく、生活必需品の買い手としても経済活動に参加するようになり、ポリス社会に経済的な豊かさを広めていく役割を果たしていました。そのような姿は、かつての米国の豊かな中間層に重なるところがあるように思われます。

鋳造貨幣が発明されて間もない紀元前650年頃、ポリス間における戦争の手法に重大な変化が起こることになります。武装した歩兵(重装歩兵)の密集軍団による新しい戦法、すなわち密集隊形(ファランクス)戦法が発明されたのです。それは、青銅製の兜(よろい)、鎧(かぶと)、すね当てを身に着け、青銅製の盾と鉄製の槍(やり)を持った重装歩兵が横一列に並んで突撃するというものでした。数千の重装歩兵が一団となって一斉攻撃を加えれば、たとえ貴族による屈強な騎兵隊であったとしても、あっという間に蹴散らされてしまったのです。

76 とはずがたり :2017/03/27(月) 22:59:49

それまでの戦争の主力は騎馬を利用する貴族でしたが、重装歩兵による戦法が圧倒的に有利であると知れ渡るようになると、ギリシャの各ポリスは市民からの徴兵を行い、できるだけ大規模な重装歩兵部隊をつくって訓練しなければなりませんでした。そのような環境下で、自費で武具を買いそろえて兵隊として活躍できる資質を持っていたのは、遠隔地との貿易で富裕になった農民、すなわち中小農民と呼ばれる人々だったのです。

彼らこそ、現代でいうところの「中間層」に位置する人々でした。彼らはギリシャの外から金銭を稼いでポリスへ税金を支払っていたうえに、それまで騎馬で戦っていた貴族に代わり、市民としてポリスの軍隊の主力となっていったからです。富裕な中小農民がポリスの財政・経済・軍事の中心となって、ポリス社会の隆盛を支えていたというわけです。

戦闘における連帯感が民主制を生んだ

興味深いことには、新しい戦法の発明は、各ポリスのギリシャ人に強い連帯意識を芽生えさせるというメリットまでもたらすようになりました。なぜなら、重装歩兵が密集して戦うための技術を身に付けるには、集団が連帯感を持って長い時間の訓練をしなければならなかったからです。

ギリシャの各ポリスが戦争で強かったのは、また、文明的にも経済的にも栄えたのは、そのような強い連帯感を基礎として、各々が自分たちのポリスに奉仕するという気持ちにあふれていたからです。それは、国家としても、社会としても、そこに住む人々の気持ちが一体感を保っていたということを意味しています。

高校の世界史の教科書などでは、市民(農民)が戦争で重要な役割を果たし政治的発言力が高まったため、歴史上で初めて、民主政という考え方が誕生することとなったと述べられていますが、私は民主政が誕生したもうひとつの大きな理由は、ポリスでの市民の連帯感にあったのではないかと考えています。古代アテネの政治家ペリクレスが当時の民主政について語った有名な演説がありますので、その一節をご紹介しましょう。

「私は敢ていうが、ポリス全体が安泰でさえあれば、個人にも益するところがあり、その益は、全体を犠牲にして得られる個人の幸福よりも大である。なぜならば、己れ一人盛運を誇っても己れの祖国が潰えれば、個人の仕合せも共に失せる」

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる」(トゥーキュディデース、久保正彰訳『戦史』岩波文庫より)

その当時のアテネ、ひいてはギリシャの民主政治の特徴とは、成年男性市民の全体集会である民会が多数決で国家の政策を決定し、できるだけ多くの市民が政治に参加することを求められたということです。そのような政治制度の誕生によって、ギリシャの各ポリスでは宗教に縛られない自由な考え方が生まれ、文化面では合理主義的な哲学や数学などが発達しました。その後、ギリシャの文化は、ローマの文化や14世紀のイタリアから始まるルネサンスの規範となっていくことになります。

紀元前500年〜紀元前480年の間に3回にもわたる大国ペルシャとの戦争に勝利したギリシャの諸都市国家は、当時の世界で最も繁栄を極めていた文明であるといえるでしょう。しかしながら、その繁栄は50年余りしか続きませんでした。アテネを中心とするポリスの連合であるデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟のあいだで、紀元前431年に植民地をめぐって悲惨な戦争が勃発してしまったのです。

長年にわたる従軍で農民が経済的に疲弊した

ペロポネソス戦争はギリシャ域内で30年近くも続いたため、ギリシャの各々のポリスは衰退していくのが避けることができませんでした。というのも、中小農民が長年にわたって従軍せざるをえず、そのあいだに農地が荒廃してしまったからです。農産物収入を失った農民は、生活のために金銭を必要としたので、借金に借金を重ね、最後には土地までも失ってしまったのです。

77 とはずがたり :2017/03/27(月) 23:00:03
>>75-77
貨幣経済が発達するにつれて、没落した農民は小作人や奴隷といった身分に転落していくかたわら、富裕な貴族や一部の大商人は農民が手放した土地を買い取り、ポリスの人々のあいだでは絶望的なまで経済的な格差が拡大していきました。その結果として、富裕な貴族や一部の大商人は大土地所有者となり、政治・経済の支配者として君臨していく一方で、小作人や貧民は不満を募らせて大土地所有者に強く対抗していくようになったのです。富裕な人々が支持する党派と貧民層が支持する党派の争いに発展し、裏切りや暗殺、追放などが横行することになり、ポリス社会の強みであった「国家のもとに奉仕する」という人々の心やまとまりは、ペロポネソス戦争が終わる頃には見事に失われてしまったというわけです。

国防の要であった豊かな中小農民が経済的に疲弊して従軍できなくなると、重装歩兵の密集集団による戦法は使えなくなりました。そこで各々のポリスは兵隊として傭兵を雇うようになったのですが、主として雇われたのは異民族や土地を失った没落農民などでした。当然のことながら、傭兵では強い連帯感やポリスへの忠誠心を持って戦うのは困難であり、ポリスの軍事力はかつてと比べると著しく弱まってしまいました。

そのような折の紀元前4世紀後半に、ポリスをつくらなかったギリシャ人の一派である北方のマケドニア王国では、フィリッポス2世のもとで財政と軍政の改革を進めます。そしてとうとう紀元前338年には、マケドニアはカイロネイアの戦いでギリシャ連合軍に圧倒的な勝利を収め、ギリシャ全域を支配することに成功したのです。戦意の低い傭兵を主力とするポリスの軍隊は、自国民で組織したマケドニア軍の敵ではなかったというわけです。

このように歴史を振り返ってみると、古代ギリシャの黄金時代は豊かな中間層の出現とともに生まれ、中間層の喪失によって終わりを迎えたということがわかります。豊かな中間層の喪失は、貧富の格差を拡大させ、国家の分断を引き起こし、国力を衰退させていったのです。

古代ギリシャは歴史上で初めて、豊かな中間層が失われると、軍事的にも政治的にも経済的にも国力が衰退していくという教訓を、後世の人々に如実に示した事例であるといえるでしょう。中間層が失われた国は滅びる。現代においては滅びるということはなくても、衰退は避けられない。それが歴史の教えるところなのです。

分断するアメリカは歴史的な危機を迎えた

昨今のアメリカでは、グローバル経済の進展や金融危機の後遺症などを経て、豊かな中間層から貧困層および貧困層予備軍に転落する人々が増える一方で、富が一部の支配者階級に集中するという傾向が強まってきています。2011年に「ウォール街を占拠せよ」をスローガンとして全米各地で行われた反格差デモ活動に象徴されるように、アメリカではすでに国家の分断が起こり始めているといえるでしょう。

さらに悲惨なことに、トランプ政権が誕生したことによって、人種による差別や対立という新たな国家の分断も起こってしまっています。トランプ大統領は移民・難民の入国を制限・停止するという方針をテロの危険性を和らげるための措置だと強弁していますが、それよりもヘイトクライムが横行していることのほうが、アメリカ社会の分断をいっそう促しているので大問題であると思われます。

歴史的な見地から判断すれば、経済格差と人種差別という複合的な国家の分断にさらされているアメリカの現状は、国家としての歴史的な危機を迎えているといっても過言ではないでしょう。アメリカが20年後、30年後に繁栄を享受できているか否かは、まさに国家の分断を回避できるかどうかにかかっているというわけです。


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