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西洋史

82とはずがたり:2017/11/16(木) 15:09:27

 具体的には第一次カーナティック戦争(1744〜1748)ではマドラスの戦いでイギリス軍を撃破してマドラスを占領、第二次カーナティック戦争(1749〜1754)でも、ニザーム王国やカルナータカ太守国の内紛に介入して、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社軍と互角の戦いを展開したが、1754年に突如、デュプレックスが本国政府によって召喚(しょうかん)されたことで情勢は混沌としてくる。

 本国政府は、出先機関であるインド総督府と東インド会社が戦線を拡大し、膨大な資金をつぎ込んで戦争を継続していることを憂慮し、戦争よりも貿易と判断して、独断専行の廉(かど)でデュプレックスを本国に召喚したのである。

 このデュプレックス召喚はインド戦争に破局的影響を及ぼした。それは七年戦争と連動して起こった第三次カーナティック戦争(1758〜1763)で鮮明となる。

 もっとも、デュプレックスが召喚された後でも、フランス・インド総督軍はなお大きな戦力を保持しており、勢力圏はイギリスと拮抗していた。ところが、1757年に起こったプラッシーの戦いで勢力バランスが大きく崩れる。フランス・インド総督軍が支援したベンガル太守軍がクライヴ率いる東インド会社軍に完敗し、ベンガル地方は完全にイギリスの勢力下に置かれてしまったからである。とはいえ、教科書の記述にあるようにプラッシーの戦い1つでインドにおける英仏の戦いに決着がついたわけではない。プラッシーの戦いではフランス・インド総督軍の損害は軽微で、いまだに多くの領土と軍隊を保持していたからだ。

 インドにおける英仏の戦いに決着がついたのは第三次カーナティック戦争後半の1760年、本国政府海軍からの大増援を受けたイギリス東インド会社軍がヴァンディヴァッシュの戦いでフランス・インド総督軍を完膚(かんぷ)なきまでに破ったときのことである。この戦いでもヨーロッパ戦線で苦戦を強いられていたフランス本国政府が増援部隊を派遣できなかったことが運命の分かれ目となった。

 1763年2月にパリ条約が締結され、フランスはポンディシェリーとシャンデルナゴルを除くインド領をすべて失った。その後、フランス領インドは両都市を拠点に細々と貿易活動を続けたが、1947年のインド独立を機にインドに返還されたのである。


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