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化学・薬品産業総合スレッド
1793
:
荷主研究者
:2017/01/03(火) 22:37:12
>>1792-1793
続き
石化参入と撤退
1950年代になると、創業事業である肥料産業が凋落の色を濃くしていた。「一方で、新しい波として石化産業が出てきて、それに乗らないとダメという雰囲気があった」。実は、日産化学は早くから石化参入を模索していた。「長岡で開発された新たな天然ガス田の利用や、富山では原油分解法によるコンビナートを計画したが、いずれも失敗した」。
「『モンテ参り』もそうだった」。モンテ参りとは、日本の石油化学工業の黎明期だった50年代に、イタリアの化学会社モンテカチーニ社に在籍していたナッタ博士のもとへ、日本の名だたる化学会社がこぞって訪れた現象のことを指す。お目当ては、ナッタ博士が持つポリプロピレンの製法特許だった。「特許使用権の獲得競争で当社はトップを走っていて、仮契約までいったが土壇場で他社にやられた」。財閥系の大手企業の育成を考えていた通産省(現経済産業省)の意向があったとみられている。
「結局、1963年に最終列車に飛び乗るように、石化に参入することとなった」。日本興業銀行(現みずほ銀行)から、丸善石油化学の千葉(五井)コンビナートに誘導品企業として参画する打診があり、これを受けたのだ。紆余曲折を経ながら日産化学は、千葉で高級アルコール、合成洗剤原料、ポリエチレン、塩化ビニールモノマー・同ポリマーを次々と建設していった。「当時としては、産業の選択肢としては他になかった。石化なき化学会社が成り立つのか、という雰囲気だった。しかし、それらは体力勝負の世界であり、2度のオイルショックを経て88年に完全撤退した。この間の収支は、黒字だったのが3年、収支ゼロが3年。残りは赤字だった。惨憺たる結果であり、石化事業を続けるパワーはもうなかった」。世の中がバブル経済に湧くなかでの決断だった。
過去と決別する中計
主力事業から撤退した後、日産化学はどうするべきなのか。88年、徳島副社長を通じ中期経営計画の策定を命じられた藤本氏は「各事業部の部長クラスを集めて全事業の洗い出しをした。このときに考えたのは、みんなの心を一つにすること、自信を取り戻すことだった。多少情緒的になっても物語風に分かり易く、ああ、日産化学はこっちに行くのだと分かる計画にしたかった」。
1年後の89年(平成元年)、日産化学は『平成元年度中期計画(89―93年)』を発表した。「当時まだどの会社も使ったことのない"価値創造型企業"という御旗を立て、スペシャリティ部門の売上高を50%以上とする事業構造転換を進め、早期復配の実現と売上高1000億円回復を明確に打ち出した。振り返ればこの平成元年中計こそが、日産化学の分水嶺だった」。みなが力を合わせて変革に挑めば、高収益企業として蘇ることができる。過去と決別しやり遂げよう。そう呼びかけるこの中計が社員の心を一つにさせていった。
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