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日本の城郭

1 日帝極右保守反動分子 :2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

359 荷主研究者 :2017/06/11(日) 13:29:18

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20170530/CK2017053002000056.html
2017年5月30日 中日新聞 
犬山城の国史跡指定目指す 市、年度内申請を視野に協議

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2017052902100250_size0.jpg
絵図などから1840年の城山を再現した模型。門は18棟、やぐらは13棟あった=犬山市文化史料館で

 犬山市が犬山城の国の史跡指定を本格的に目指すことになった。本年度内の文化庁への申請を視野に関係者と協議していく。山田拓郎市長が二十六日の市総合教育会議や二十九日の定例会見で史跡指定に意欲を示した。

 犬山城は天守は国宝だが、城郭跡は文化財に指定されていない。史跡指定によって国の補助を有利に受けられ、それらを元手に城山の整備を進める。

 史跡指定の対象は最小限とし、天守のある城山や、大手門があった市福祉会館周辺などを念頭に置いている。ただ、史跡指定されると土地利用について制限がかかるため、申請には土地所有者ら関係者の理解が必要となる。

 併せて山田市長は、現時点では構想と断った上で「将来的には各地に移築された門ややぐらを復元し、元々の城山の状態に近づけていきたい。長い時間、例えば五十年ぐらいかけてやっていけないかと思っている」と述べた。

 犬山城は一八七三(明治六)年の廃城令の後、建物の一部が旧城下町などで構成する稲置村に払い下げられた。村はこの後、門とやぐら、小屋を寺社や個人に売却した。同じく明治時代に城跡が公園となった際にも門ややぐら、倉庫、高塀が払い下げられた。

 このうち六つの門と一つのやぐらが現存していることが分かっている。門は一宮市(二棟)、犬山市(二棟)と扶桑、大口両町で寺院の門に、また旧桐(きり)の丸隅やぐらが江南市で土蔵として使われている。江戸時代の大火に際して、再建のために描かれた詳細な図面が残っている門ややぐらもある。

 (三田村泰和)

360 荷主研究者 :2017/06/11(日) 14:29:19

http://www.sankei.com/region/news/170602/rgn1706020038-n1.html
2017.6.2 07:03 産経新聞
高山右近の高槻城から大堀、木橋橋脚など出土 「築城過程知る貴重な資料」

 戦国時代のキリシタン大名、高山右近(1552〜1615年)が城主だった高槻城(高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかり、同市教育委員会が1日、発表した。市教委は「城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料」としている。

 高槻城は右近の居城として知られるが、城の痕跡は地下に残るのみで、それも元和3(1617)年に江戸幕府が行った大修築による。400年を迎えた今年、日本城郭協会(東京都品川区)により「続日本100名城」に選ばれた。

 今回の調査では、三の丸から二の丸北側の城門「不明門(緊急時のみに使われる門)」に通じる木橋の橋脚計21本を確認。理由は分からないが、いずれも堀底から高さ約2・5メートル部分で切断されていた。木橋は、仏日寺(池田市畑)が所蔵する「高槻城絵図」(江戸時代前期に製作)に記載がなく、城郭の変遷をとらえ直す重要な手がかりになるという。また、不明門の増築時に資材などを搬入する仮設通路として使われたとみられる土橋も確認された。

 このほか、右近が城主だった16世紀に拡張したとみられる大堀を発見。底幅約9メートルの修築状況などから、織田信長も攻めあぐねた城の堅牢なつくりが裏付けられた。徳川幕府による大修築では、右近時代のこの大堀を埋めて外堀がつくられるなど戦国時代から江戸時代にかけて修築されてきた城の変遷がうかがえるという。

 また大堀の土層から、豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第で使われた軒平瓦と同じ唐草文様の掛平瓦(長さ28センチ)が出土。瓦は豊臣政権下の時期に搬入されたと考えられ、高槻城が秀吉の御座所(居室)のような存在だったことも明らかになった。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「政治的、軍事的、経済的な面から増改築が繰り返された高槻城の歴史を探る上で意義深い発見だ」としている。

 現地説明会は3日午前10時〜正午。阪急高槻市駅から徒歩約8分、JR高槻駅から徒歩約15分。問い合わせは高槻市立埋蔵文化財調査センター(電)072・694・7562。

361 荷主研究者 :2017/11/19(日) 12:01:41

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23548180W7A111C1LB0000/
2017/11/16 15:10 日本経済新聞 北陸
福井城「山里口御門」を復元 報道機関に公開

 福井県は16日、10月に完成した福井城の本丸西側の門「山里口御門」を報道機関に公開した。櫓(やぐら)門と棟門、土塀から成り、総事業費は約8億2千万円。福井市中心部の観光資源の整備と、県都の歴史を再確認してもらうことが目的だ。25日は一般向けの内覧会を開き、道路の舗装やバリアフリーを整備した上で、2018年3月に正式オープンする。

 山里口御門は1606年、福井城築城とともに造られ、何度か再建された後、明治時代の廃城令で取り壊されたという。藩主が西三の丸の御座所から本丸に向かう際に通ったとされている。

 櫓門の上にはもともと武器庫だった57平方メートルほどの空間があり、門の歴史をパネルで紹介したり、イベントで活用したりする予定だ。柱やはり、石垣には笏谷石(しゃくだにいし)や杉など6割で県産材を使った。

 事業費の一部は、インターネットなどを通じて集める県民からの募金で賄う。これまでに約890万円集まっており、現在も募集している。

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20171117/CK2017111702000015.html
2017年11月17日 中日新聞
「山里口御門」150年前の姿に 25日に一般向け内覧会

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2017111602100191_size0.jpg
建物工事が完成し公開された、2階建ての櫓門(右)と棟門=福井市の福井城跡西側で

 県が福井市の福井城跡西側で復元を進めている山里口御門(やまざとぐちごもん)の建物と土塀が完成し、16日に報道関係者に公開された。25日には1日限定で一般向け内覧会を開く。通路や階段などの整備が残っており、完成は3月下旬を予定している。

 山里口御門は、藩主が本丸に登城する際にくぐったとされる。明治初期に廃城令で壊されたと伝わり、約百五十年ぶりに往時の姿でよみがえった。現場では昨年五月に石垣の修復を終え、建物の工事を進めてきた。

 外側の「棟門(むなもん)」と内側の「櫓門(やぐらもん)」からなる「枡形(ますがた)門」で、二〇〇八年に復元された御廊下橋(おろうかばし)から入り、棟門をくぐって左に曲がると櫓門がそびえる構造となっている。

 門の上に部屋がある櫓門は、高さ八・四メートルの切り妻造り。屋根瓦には笏谷(しゃくだに)石を使い、壁は丹南地方に伝わる手法を用いた漆喰(しっくい)塗で仕上げられた。武器庫などに使われていたと考えられる内部は、床面積五十七平方メートルで梁(はり)にマツ、床や壁にヒノキ、天井の板に寄付者の名が書かれたスギ材を用いた。六割ほどを県産材でまかなったという。事業費は八億二千万円。

 内覧会は二十五日午前九時から午後四時まで。午前十時からと午後二時からの二回、県などの担当者による説明会がある。事前申し込みは不要で参加無料。(問)県交通まちづくり課=0776(20)0724

 (中崎裕)

362 とはずがたり :2017/11/28(火) 19:59:39
徹底的に今川推しの俺だが,云われてみればそうだな♪

再評価される今川氏真の処世術 戦国時代にアーリーリタイアを実現
https://www.excite.co.jp/News/smadan/E1510305047667/
スマダン 2017年11月28日 10時00分
ライター情報:長井雄一朗

アーリーリタイア(早期リタイア)という生き方があります。定年を待たずに、早い人は20代で会社勤めを辞め、第2の人生を選ぶ生活のことです。

歴史に目を移せば、戦国大名としては滅亡しましたが、文化人として生き延びた戦国武将がいます。それが、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の息子である今川氏真です。義元の死後、氏真なりに領国経営に乗り出しますが、武田信玄と徳川家康の挟み撃ちにあい、もはやこれまでという窮地に陥ります。
それでもさまざまなパイプを活かし、各地を転々として、ある時は、かつての部下である家康に頭を下げ、家臣になり、またある時は父を殺した織田信長の前で蹴鞠(けまり)をあざやかに披露。政治の世界では成功しませんでしたが、人脈と豊富なノウハウでセカンドライフを楽しみます。これまでの歴史的な考え方では、「今川氏を滅亡させた愚かな君主」というのが一般的でしたが、現在で言うアーリーリタイアの生き方を戦国の世で体現したまれな人物として再評価する声があがっています。
今回、戦国史が専門で、今川氏の研究に詳しい駒澤大学文学部の久保田昌希教授に、氏真の人生を元に現在に生きる知恵について話をうかがいました。

駒澤大学文学部の久保田昌希教授

義元の弔い合戦をせずに経営に乗りだす

今川氏真の戦国大名としての評価は「愚かな君主」のイメージでしたが、その後、今川氏を存続させるための処世術は再評価がなされています。

久保田昌希(以下、久保田) 今川氏真の人生は、本人自身が納得したかどうかは分りません。
ただ、戦国時代の周辺の勢力図には、織田信長、武田信玄、上杉謙信などがおり、戦国大名として今川氏を存続することは無理だったと思います。父・義元から見ると劣りますが、一方優れた処世術は持っていました。

――氏真の内政はいかがだったでしょう。
久保田 永禄元年(1558年)に氏真の文書がはじめて発給されます。特に神社に対する流鏑馬銭等の徴収を安堵する内容で、これは当主の権限でした。この頃から、駿河国・遠江国(現静岡県)の経営が氏真に任されていきました。

――義元の死後、氏真の動向はあまりクローズアップされていません。
久保田 義元の死後、織田を打倒するため弔い合戦をするのではなく、領国の経営に乗り出します。
これは理由があり、桶狭間の戦いで戦死した武将も多く、その家ごとにショックを抱えていましたから、まず安定を考えていたのでしょう。桶狭間の戦いが永禄3年(1560年)ですから、その後、氏真名義での文書が当然多く発給されます。
大河ドラマの『おんな城主 直虎』でやりました「井伊谷徳政令」の話ですが、あれは、井伊谷や井伊氏をつぶしたいがために徳政令を発令したのではないと考えています。
氏真は徳政令を出することで徳のある政治を行いたいという考え方を持っていたのではないでしょうか。ただそうなると金貸しはたまったものではありませんので、徳政令に従った金貸しには、損だけさせるのではなく特権商人としての地位を認めるなど、バランスの取れた政治も行なっていました。ちなみに、徳政令は、個別に義元も出しています。
ほかには、富士大宮楽市も行い、信長より一歩先んじて、当時の楽市楽座政策に影響を与えたと思われます。そういう意味でも悪政を強いたわけではありません。

363 とはずがたり :2017/11/28(火) 19:59:50

戦国時代の常識「討ち死に」をせず生きる道を選ぶ

その後、東は信玄、西は徳川家康の挟み撃ちにあい、懸川城に包囲されます。戦国時代では「もはやこれまで」と城を枕にして討ち死にするのが戦国大名の生き方かもしれませんが、あえて生きる道を選びました。
現在の掛川城

久保田 しかし、領国経営に一定の成果を収めても桶狭間で破れたことの影響は大きく、今川氏は大名としては無理ですがここで有力大名の部下となり与力大名として存続しようと考えたのではないでしょうか。
追い詰められて一族全員自死した武田勝頼と比較しますと、非常に対照的な生き方です。
義元は家康を幼い頃から駿河で養育し、名軍師・太原雪斎の教育も受けさせました。氏真と家康は年齢もそう変わりませんし、独自のパイプもあったのでしょう。懸川城籠城では戦うだけではなく、交渉も行なっていました。同時に、氏真の奥さんである早川殿は北条氏康の娘ですから、北条氏とも交渉し、逃げ場を確保するため努力をしていたと思います。
徳川氏や北条氏とのパイプがあり、それが上手く生きて、近世に幕府が編纂した「新編相模国風土記稿」によると、氏真は早川殿の実家になる小田原城に近い相模国早川に館を構えたようです。
その後、北条氏康の息子である氏政が武田氏と同盟を組むと、北条氏を頼ることも難しくなったため、家康の居城である浜松へと今度は移ることになります。
懸川城で破れてから、実は氏真は一歩一歩地道に交渉し、生きる道を選択していたのです。

妻と二人三脚で今川氏を存続させる

戦国大名では男性がクローズアップされがちですが、氏真の場合はパートナーの力も大きかったようです。

久保田 氏真の妻の早川殿は、駿府から懸川に逃げる際、輿にも乗れず歩き通しました。ですからしっかりした気性を持っていたのでしょう。早川殿の祖母は、今川氏四代を補佐し、「大方」と呼ばれ、尊敬されました。北条氏に嫁した母・瑞渓院が娘・早川殿を育てました。今川氏を取り巻く女性たちの存在やアドバイスにより、今川氏は戦国時代にさらに成長し、今度は戦国大名としては滅亡した今川氏を存続するために、早川殿は氏真を支えます。
早川殿は氏真にずっと付き添っていますが、氏真が間違った道を選ばず、乱れた生活をしなかったことは、早川殿の力が大きかったと推察しています。
戦国大名の家で女性たちがどのような役割を果たしたかより研究が進展すると、さらに戦国大名像も変わっていくでしょう。

――その後、信長は氏真に対して、蹴鞠を所望します。並の神経であれば、自分の父を殺した相手に蹴鞠を見せるのは、プライドが許さないと思うのですが。
久保田 プライドもあった一方、戦国大名としてはつぶれても、今川氏を存続するためにどう行動するかを早川殿と相談し、割り切って考えていたのでしょう。
そこで復讐をするよりも、蹴鞠を披露してなにかチャンスがあればという考えもあったと思いますが、「あれが武田や徳川に滅ぼされた氏真か」と当然、話題になるわけです。並の神経ではありません。

364 とはずがたり :2017/11/28(火) 20:00:06
>>362-364
――大名復帰のチャンスもあったようですね。
久保田 氏真は、「長篠の戦い」で後詰めをつとめたり、手柄をたて、遠江の牧野城番をつとめたりするなど、がんばれば戦国大名に復帰できた可能性はありました。
実際、家康も信長も与力大名として氏真を駿河国のなんらかを任せようとする考えはあったかもしれませんが、やはりそれだけの器量はなかったのでしょう。牧野城番をつとめた後、完全に政治から離れ、文化人として生きることになります。
最近、流行の言葉で言えば、アーリーリタイアですが、その後の人生は生き生きとしたものです。
しかし、氏真の人生や生き方が果たして、自身ですべて決定したかは疑問です。氏真の決定には、早川殿の判断が大きいと考えています。

――氏真のパートナーである早川殿との二人三脚の人生が、今川氏存続のカギであったと言うことですか。
久保田 氏真は京都に暮らし、和歌を詠み、多くの文化人との交流を楽しみました。悪くない人生です。氏真と早川殿の肖像画がともに伝わっていますが、本当に仲が良かった証拠です。
氏真は政治の世界から身を引くことで生き残りの打開策を見つけ、文化で食べていくことで新たな生き方を見つけました。
早川殿としては氏真の次の言行が自分や子どもにも跳ね返ってきますから、生き残ってもらわないと困る。氏真を監視しつつ、財布のひもをしっかりと握り、チャンスが来るのを待っていたと思います。
氏真の現代の教訓や処世術として伝えるのであれば、当たり前ですが、良きパートナーに恵まれることが人生を救う道にもつながるということです。
ほかにももっと有名な例があります。信長はどちらかといえば奥さんに恵まれませんでしたが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の女遊びがひどく、奥さんのおねねが信長に言いつけるのですが、信長は、「藤吉郎はけしからん。今後は常に堂々としてこの手紙を藤吉郎に見せなさい」という手紙が残っています。おそらく信長は、藤吉郎夫婦をうらやましく見つめていたのでしょう。秀吉の天下取りにおねねが果たした役割は決して小さくありません。

見直される氏真の生き方

――その後、家康は征夷大将軍になり、天下を治めるに至りました。氏真は嬉しかったでしょう。
久保田 幼なじみである家康が天下を取ったことで今川氏の運命も好転します。氏真は気安さから家康のもとを足繁く訪問し、あまりに長話するものですから、江戸城から離れた品川に屋敷を与えた話も伝わっています。
ただそういう気安さや人脈が生きて、孫の直房が江戸幕府に仕え、公家と幕府の連絡役や接待役である高家に取り立てられました。
今川氏研究は大河ドラマの影響もあり、研究が進展しています。歴史はどの時代でも、見直しがはかられています。氏真と早川殿夫婦の生き方の再評価もそのうちの一つです。それは現代の方々への教訓にもなり、指針にもなるでしょう。
今、ブラック企業でサラリーマンやOLの方が苦悩され、中には自殺の道を選ぶこともあります。これは本当に悲しいことです。ですから1人で悩みを決して抱え込まないことが大切です。
1人で解決できないことも二人三脚であれば解決できるいい事例がこの氏真と早川殿の人生から学ぶことができます。
ぜひ、若い方には歴史から自分の生き方を模索し、豊かな人生を歩んで欲しいと願っています。
――ありがとうございました。
(長井雄一朗)

365 荷主研究者 :2017/12/02(土) 20:17:38

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20171118/CK2017111802000053.html
2017年11月18日 中日新聞
国史跡指定・名勝範囲拡大で整備に弾み 犬山城跡と名古屋城二之丸庭園

国宝の天守が立っている城山などが史跡に指定された犬山城

 国の文化審議会の答申で、県内からは「犬山城跡」(犬山市)の史跡指定と、名勝「名古屋城二之丸庭園」(名古屋市中区)の指定範囲拡大が盛り込まれた。

 犬山城は天守が一九三五(昭和十)年に国宝に指定されたが、その他の城跡は文化財ではなかった。史跡指定によって国の補助を有利に受けられ、城山の整備を進めていく。

 山田拓郎市長は「史跡化をその先の展開の足掛かりにしたい。時間はかかるだろうが、堀や門、やぐらなどを復元し、元の犬山城の姿に戻して未来に手渡したい」と話した。

 天守などを所有する公益財団法人「犬山城白帝文庫」理事長で城主末裔(まつえい)の成瀬淳子さんは「長く城を守ってきた成瀬家にとっても慶事。指定をきっかけにみんなの城という意識が一層高まってほしい」と話した。

 犬山城は、戦国時代の一五三七(天文六年)の築城と伝わるが、確実な史料はない。現存する天守で最も古い形式を持ち、元は二階建てだったが、いずれかの時代に望楼(三、四階)を載せた現在の姿になった。

 一六一七(元和三)年に二代将軍の徳川秀忠が尾張藩付家老・成瀬正成を城主とし、成瀬家が代々城を守った。明治以後も成瀬家が二〇〇四年まで個人所有し、市が管理してきた。

 年間入場者は昨年、過去最多の五十四万人。ここ十数年で二・五倍となり、入場料の一部を市の特別会計に積み立てて修理費などに充てている。

 名古屋城二之丸庭園は、初代尾張藩主・徳川義直が居館としていた二之丸御殿の北側に造営。大規模な大名庭園の遺構として芸術的、学術的価値が高いとされ、一九五三(昭和二十八)年、国の名勝に指定された。

 指定済みの五千百平方メートルに加え、東庭園や南池、御茶屋跡など二万五千三百平方メートルを追加し、指定範囲は計三万四百平方メートルとなる。

 二之丸の一角にある県体育館は二〇二六年までに名城公園北園(名古屋市北区)へ移転することが決まっており、二之丸を含めた名古屋城の再整備にも弾みがつきそうだ。

 (三田村泰和、梅田歳晴)

366 名無しさん :2017/12/17(日) 13:02:44
https://spice.eplus.jp/articles/162465

お城ファンが実際に訪れた日本の城ランキング、3位は松本城、NHK大河ドラマの影響であのお城も人気上昇
ニュース イベント/レジャー
2017.12.13
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日本の城をテーマとしたGPSスタンプラリーアプリ「発見!ニッポン城めぐり」が、 アプリ利用者のGPS(位置情報)データを独自に解析した『お城ファンが実際に訪れた日本のお城ランキングTOP300(2017年版)』を発表した。

このランキングは、 年間4億件以上の位置情報ビッグデータを独自に解析したもので、2017年1月1日〜2017年11月30日の期間中、同アプリの利用者であるお城ファン13万人超を対象として、実際に城のエリア内で計測された位置情報データを独自の基準に基づいて解析し訪問者数を集計したもの。従来の人気投票や、管理事務所などがあるお城の入場者数ランキングとは異なり、これまで計測することができなかった無人の城跡などを含めたランキングとなっている。

ランキング対象となる城は、「日本100名城」「続日本100名城」などの一般的に良く知られる城はもちろん、 北は北海道・南は沖縄まで全国に実在した約3,000城が対象となっている。中には天守等の建物もなく、遺構も残っていない城跡も含まれている。

気になるランキングは、日本初の世界遺産あり言わずと知れた名城・姫路城が前回に続き安定の1位を獲得。そして2位の彦根城、13位の浜松城、88位の井伊谷城と、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の放送により井伊氏関連城郭の訪問者数が増加していることは2017年の特筆すべき点といえる。

また、4月に公益財団法人日本城郭協会から「続日本100名城」が発表されたことにより、そこに選定された城郭の多くが昨年よりも順位を上げている(または圏外から初登場している)ことも、今年のランキングの特徴となっている。

好きなお城ランキング
お城ファンが実際に訪れた日本全国のお城ランキングTOP300(2017年版)
順位 城郭名(*は日本100名城、 #は続日本100名城)
1位(―) 姫路城(兵庫県姫路市)*
2位(↑) 彦根城(滋賀県彦根市)*
3位(―) 松本城(長野県松本市)*
4位(↑) 犬山城(愛知県犬山市)*
5位(↑) 高知城(高知県高知市)*
6位(↑) 松江城(島根県松江市)*
7位(↑) 松山城(愛媛県松山市)*
8位(↓) 備中松山城(岡山県高梁市)*
9位(↑) 竹田城(兵庫県朝来市)*
10位(↓) 上田城(長野県上田市)*
11位(↑) 名古屋城(愛知県名古屋市)*
12位(↑) 岡山城(岡山県岡山市)*
13位(↑) 浜松城(静岡県浜松市)#
14位(↓) 小田原城(神奈川県小田原市)*
15位(↑) 丸岡城(福井県坂井市)*
16位(―) 会津若松城(福島県会津若松市)*
17位(↓) 丸亀城(香川県丸亀市)*
18位(↓) 大坂城(大阪府大阪市)*
19位(↑) 躑躅ヶ崎館[武田氏館](山梨県甲府市)*
20位(↑) 岐阜城(岐阜県岐阜市)*
21位(↑) 高取城(奈良県高取町)*
22位(↓) 二条城(京都府京都市)*
23位(↑) 岡崎城(愛知県岡崎市)*
24位(↑) 高松城(香川県高松市)*
25位(↑) 甲府城(山梨県甲府市)*
26位(↑) 岩村城(岐阜県恵那市)*
27位(↑) 仙台城(宮城県仙台市)*
28位(↑) 駿府城(静岡県静岡市)*
29位(―) 苗木城(岐阜県中津川市)#
30位(↓) 掛川城(静岡県掛川市)*
31位(↑) 広島城(広島県広島市)*
32位(↑) 宇和島城(愛媛県宇和島市)*
33位(↑) 松坂城(三重県松阪市)*

367 名無しさん :2017/12/17(日) 13:09:27
>>366

34位(↓) 弘前城(青森県弘前市)*
35位(↓) 和歌山城(和歌山県和歌山市)*
36位(↓) 金沢城(石川県金沢市)*
37位(↓) 熊本城(熊本県熊本市)*
38位(↑) 福井城(福井県福井市)#
39位(↓) 今治城(愛媛県今治市)*
40位(↓) 忍城(埼玉県行田市)#
41位(↓) 津山城(岡山県津山市)*
42位(↑) 川越城(埼玉県川越市)*
43位(↑) 長篠城(愛知県新城市)*
44位(↑) 府内城(大分県大分市)*
45位(↑) 高島城(長野県諏訪市)#
46位(↑) 岸和田城(大阪府岸和田市)#
47位(↓) 白河小峰城(福島県白河市)*
48位(↓) 伊賀上野城(三重県伊賀市)*
49位(↓) 篠山城(兵庫県篠山市)*
50位(↑) 福知山城(京都府福知山市)#
51位(↓) 松代城(長野県長野市)*
52位(↑) 大洲城(愛媛県大洲市)*
53位(↑) 米沢城(山形県米沢市)#
54位(↓) 江戸城(東京都千代田区)*
55位(↓) 郡上八幡城(岐阜県郡上市)#
56位(↑) 盛岡城(岩手県盛岡市)*
57位(↓) 高遠城(長野県伊那市)*
58位(↓) 小諸城(長野県小諸市)*
59位(↑) 佐賀城(佐賀県佐賀市)*
60位(↑) 大和郡山城(奈良県大和郡山市)#
61位(↑) 足利氏館(栃木県足利市)*
62位(―) 明石城(兵庫県明石市)*
63位(↓) 安土城(滋賀県近江八幡市)*
64位(↑) 湯築城(愛媛県松山市)*
65位(↓) 越前大野城(福井県大野市)#
66位(↑) 佐土原城(宮崎県宮崎市)#
67位(↓) 一乗谷城(福井県福井市)*
68位(↑) 七尾城(石川県七尾市)*
69位(↑) 白石城(宮城県白石市)#
70位(↑) 小倉城(福岡県北九州市)#
71位(―) 大垣城(岐阜県大垣市)#
72位(↓) 鳥取城(鳥取県鳥取市)*
73位(↑) 島原城(長崎県島原市)*
74位(↑) 延岡城(宮崎県延岡市)#
75位(↑) 土浦城(茨城県土浦市)#
76位(↑) 小牧山城(愛知県小牧市)#
77位(↓) 新発田城(新潟県新発田市)*
78位(↑) 赤穂城(兵庫県赤穂市)*
79位(↓) 新田金山城(群馬県太田市)*
80位(↑) 吉田城(愛知県豊橋市)#
81位(↓) 福岡城(福岡県福岡市)*
82位(↑) 田中城(静岡県藤枝市)
83位(↑) 鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)*
84位(↑) 小机城(神奈川県横浜市)#
85位(↑) 松前城(北海道松前町)*
86位(↓) 沼田城(群馬県沼田市)#
87位(↑) 出石城(兵庫県豊岡市)#
88位(↑) 井伊谷城(静岡県浜松市)
89位(↑) 美濃金山城(岐阜県可児市)#
90位(↓) 福山城(広島県福山市)*
91位(↑) 三原城(広島県三原市)#
92位(↑) 唐津城(佐賀県唐津市)#
93位(↓) 富山城(富山県富山市)#
94位(↓) 山中城(静岡県三島市)*
95位(↓) 春日山城(新潟県上越市)*
96位(初) 棚倉城(福島県棚倉町)
97位(↑) 高田城(新潟県上越市)#
98位(↑) 五稜郭(北海道函館市)*
99位(↑) 平戸城(長崎県平戸市)*
100位(↓) 名胡桃城(群馬県みなかみ町)#
※ 順位横の()内は昨年のランキングからの変動を表します。
(―)変動なし、 (↑)上昇、 (↓)下降、 (初)初登場
※ 101位以降のランキングは「発見!ニッポン城めぐり」webサイト( https://cmeg.jp/ )に掲載。

368 とはずがたり :2017/12/27(水) 15:24:25
城や寺の「うぐいす張り」、実は「忍び返し」ではない?
https://www.asahi.com/articles/ASKD90045KD8PTFC012.html?iref=com_alist_8_05
岡田匠2017年12月27日12時05分

敵の侵入を知らせるためと言われてきた「うぐいす張り」は長い年月がたって金具が緩んだことが原因だった。京都・知恩院では修理したことで鳴っていた廊下が鳴らなくなり、老朽化によって鳴っていなかった廊下が鳴るようになった。
写真・図版
ウグイスの鳴き声に似た音が鳴る知恩院の廊下=京都市東山区、楠本涼撮影

 浄土宗総本山知恩院や世界遺産・二条城(いずれも京都市)で知られる「うぐいす張り」。廊下を歩くとキュッキュッと音が鳴るため、「忍び返し」とも言われ、侵入者を知らせるための工夫とされてきた。だが、その説に疑問符がついているという。

 「平成の大修理」が進む知恩院。江戸前期にできた御影堂(みえいどう、国宝)など建物四つをつなぐ廊下(約550メートル)が、うぐいす張りだ。案内板で「侵入者を防ぐための工夫を凝らしたもので(中略)長さも音色も日本一」と説明している。

 だが、建物の一つは2011年に修理を終えて以降、廊下を歩いても音が鳴らなくなった。一方、別の場所にある阿弥陀堂はうぐいす張りと呼ばれていなかったが、再建から100年余りたった近年、音が出るようになった。

 音の原因は、床板を固定する金具「目かすがい」と釘にある。

 建築当初、金具は釘でしっかり…


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