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日本の城郭

1 日帝極右保守反動分子 :2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

351 荷主研究者 :2016/12/04(日) 20:36:34

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20161119000162
2016年11月19日 22時50分 京都新聞
初期伏見城、石垣と堀発見 慶長地震で倒壊か

高さ2・8メートル、南北14・5メートルにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡(京都市伏見区桃山町泰長老)

 豊臣秀吉が造営した初期の伏見城(指月(しげつ)城)とみられる石垣と堀が19日までに、京都市伏見区で見つかった。関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)が発表した。指月城とみられる石垣は過去にも部分的に見つかっているが、6〜7段積まれた本格的な石垣の発見は初めて。

 調査地は、伏見区桃山町泰長老と同区常盤町にまたがる公務員宿舎跡地で、文献などから指月城の西側と推定される。堀は幅20メートルに及ぶ可能性があり、高さ2・8メートルの石垣が南北14・5メートルにわたって確認された。自然石や割り石を積み、隙間に小石を埋めていた。

 指月城は1592(文禄元)年、秀吉が隠居所として指月の丘に建設を始め、天守を備えた本格的な城へと改造したが、96年の慶長伏見地震で倒壊。北東の木幡山に後期の伏見城を建立した。

 見つかった石垣に地震で崩壊した跡はなかったが、堀にたまった泥には、建具の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていた。

 吉川代表は「地震で倒壊した建物の瓦だと考えられ、地震以前に築かれた初期の伏見城の石垣と言える。それぞれの石の平らな面を表にして積み上げるなど手が込んでいる」と話している。

 一般向けの現地説明会は行わない。

352 荷主研究者 :2016/12/04(日) 20:47:18

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201611/CK2016112202000187.html
2016年11月22日 東京新聞
箕輪城の大規模城門を復元 戦国時代の関東の城郭で最大

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2016112202100085_size0.jpg
復元された箕輪城の大規模城門=高崎市で

 国指定史跡箕輪城跡(高崎市箕郷町)の大規模城門「郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)」の復元が完成し21日、報道陣に公開された。市教育委員会によると、戦国時代の関東地方の城郭で規模が確認されている中では最大規模という。 (大沢令)

 市教委によると、復元された城門は、幅5.73メートル、奥行き3.48メートル、高さ6.48メートルの櫓門(やぐらもん)。徳川家康の家臣で最大石高12万石の領地を拝領した井伊直政の時代(1590〜98年)に使われていた。発掘調査で確認された礎石の配置を基に全国の現存する城門や城絵図を分析し、2014年度から復元工事を進めていた。工事費は約9000万円。

 国史跡での戦国時代の城門復元は6例目という。

 箕輪城は1500年ごろ、長野氏が築城。武田信玄によって落城後は武田、織田、北条、徳川と主が変わり、井伊直政が1598年に城を高崎に移して廃城した。

 23日の完成式典後、一般公開される。

353 とはずがたり :2016/12/15(木) 08:43:07

「井伊直虎」別の男性が名乗った名前か 新たな見解
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161215/k10010807221000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002&nnw_opt=ranking-social_a
12月15日 4時01分

来年放送されるNHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公で、戦国時代に活躍した井伊直虎について、新たに確認された古文書から、実際には井伊家の女性ではなく、別の男性が名乗った名前だとする見解を、京都の井伊美術館の館長が発表しました。直虎をめぐっては、別の古文書などから、従来どおり女性だとする研究者もいて、今後の研究の進展が期待されます。
井伊直虎については残されている史料が極めて少なく、戦国時代に今の静岡県浜松市の一部を治めていた人物として、「次郎直虎」という表記で登場します。
同じ時期に井伊家の当主の娘が「次郎法師」と名乗っていたという古文書があることなどから、研究者の間では、この女性を直虎と見なす考えが出されています。

これに対して、井伊家の研究をしている京都の井伊美術館の井伊達夫館長が、江戸時代に井伊家の家臣が記した古文書が新たに確認されたとして、直虎に関する見解を発表しました。
それによりますと、井伊家の支配地域が混乱したため、今川家の家臣の息子が「井伊次郎」という名前で送り込まれたと記されていたということです。
井伊館長は、「井伊次郎」の父親と見られる今川家の家臣が、「次郎直虎」の名が記された史料にも登場することなどから、直虎はこの井伊次郎と見なすのが妥当だとしています。
井伊館長は「記述には臨場感があるうえ、ほかの史料と話の流れも一致し、信頼性は高いと考えている」と話しています。

直虎をめぐっては、以前見つかっている古文書などから、従来どおり女性だとする研究者もいて、今後の研究の進展が期待されます。
井伊家の歴史に詳しい静岡大学名誉教授の小和田哲男さんは、「今回の古文書には直虎が井伊次郎だと直接書かれておらず、矛盾点もあり、従来の説が変わるとは考えていない。ただ、これまでの説も含めて、さらに研究する余地が出てきた」と話しています。

354 荷主研究者 :2017/02/26(日) 17:58:22

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170218000045
2017年02月18日 11時47分 京都新聞
二条城東大手門、きらびやか 四弁唐花模様も復元

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20170218112144kazarikanagu450.jpg
豪華な飾り金具がよみがえった東大手門(京都市中京区・二条城)

 修理工事が行われている二条城(京都市中京区)の東大手門で、柱を装飾する「錺(かざり)金物」の取り付け作業が17日、報道関係者に公開された。城門では珍しい金箔(きんぱく)を施した金物で、建設当時のきらびやかな姿がよみがえった。

 東大手門は1603(慶長8)年の築城後に改築され、1662(寛文2)年に現在の櫓(やぐら)門の姿になった。国の重要文化財に指定され、2014年10月から屋根や大扉、城壁などの修理を行っている。

 錺金物は、柱の上下端などに取り付ける銅板の装飾品。修理では約150枚の金物を取り外して金箔と墨による塗装を施し、四弁唐花(しべんからはな)模様が輝く往時の姿を復元した。

 二条城事務所によると、城の正門に金箔の金物を使用している例は、姫路城でも確認されているが、全国では極めてまれ。同事務所の後藤玉樹保存整備課長は「二条城は朝廷との儀式、儀礼の場として造られた。その威厳を示すのにふさわしい姿が戻った」と話す。

 東大手門の工事は3月に終了し、入場門として同22日から通行できる。

355 とはずがたり :2017/03/26(日) 22:41:16
地元住民もびっくり 和田山で発見の「山城跡」
http://news.goo.ne.jp/article/kobe/region/kobe-20170326006.html
09:00神戸新聞

地元住民もびっくり 和田山で発見の「山城跡」
山城跡で見学の住民らを案内する横尾正信さん=朝来市和田山町桑原
(神戸新聞)
 兵庫県朝来市和田山町桑原で見つかった山城跡の現地説明会が25日にあり、住民ら約20人が山に登って見学した。地元では戦国時代に見張り所があったと伝わっており、一帯を「城垣(しろげえ)」という地名で呼ぶという。

 市内の山城や古墳を調べる「ふるさとのお宝探検隊」の横尾正信さん(67)=同町岡=が昨年末に見つけた。

 山陰道に面する尾根上に築かれ、主郭部分は南北35メートル、東西13メートル。主郭の周りの斜面は人工的に削って急角度にする「切岸(きりぎし)」が用いられ、主郭を囲むように平らにならした「帯曲輪(くるわ)」も確認できる。

 平地からの高さは約40メートルと比較的低い位置にあり、尾根続きの山頂には、戦いで最後にこもる「詰め城」とみられる山城遺構もあるという。横尾さんは「城主の館は別にあったと考えられ、普段は見張りしか置いていなかったのではないか」との自説を紹介した。

 桑原区長の藤井義光さん(67)は「子どもの頃に登ったという人もいるが、山城跡だったとは。主郭をぐるりと囲む曲輪の大きさに驚いた」と話していた。(長谷部崇)

356 とはずがたり :2017/05/10(水) 23:29:33
武田信玄の子孫 「息子の代でやっと江戸から甲斐に帰ることができた」
https://dot.asahi.com/wa/2013082200023.html
(更新 2013/8/24 11:30)

武将の末裔 ― 史上初! 子孫52人の秘話と秘宝 決定版(週刊朝日ムック)
朝日新聞出版
定価:994円(税込)
978-4022770332

 戦国武将のなかでも一際人気を博す武田信玄。武田家第16代当主・武田邦信氏(65)が、ご先祖さまの秘話と今の武田家を語る。

*  *  *
 武田家の系統はあまたありますが、公式に武田家の正系と認められたのは、私の家系でした。

 1915年、大正天皇から、治水への貢献などが認められて、武田信玄に従三位が贈られました。受け取る人は正統の子孫でなければなりません。名乗りを上げた家はなんと、36家。

 山梨県が10年以上調査し、信玄の次男・信親(のぶちか)の家系と七男・信清(のぶきよ)の家系に絞り込みました。最終的に信親の子孫である武田信保(のぶやす)に信玄の従三位が贈られました。これが私の祖父です。

 決め手の一つが信玄の菩提(ぼだい)寺である恵林寺の記録でした。信玄の法要を施主として代々行ってきたことが書かれていました。戦国大名の武田氏滅亡後、信親の子孫は、幕府によって江戸前期から江戸に住まわされていましたが、法要のたびに馬やかごで何日もかけて行っていたのでしょう。

 江戸時代、武田家は、朝廷への使いをする「高家(こうけ)」となり、屋敷は、JR新橋駅烏森口あたりにありました。祖父の代には、東京・新宿の百人町に住んでいました。3千坪の土地があり、人に貸し、裕福な暮らしをしていたようです。そのうちの一人に帝国ホテルの料理長がいて、毎朝出勤前に祖父の朝食を作っていたそうです。父が法大生のときには、馬で通っていたといいます。

 ただ、戦後の財産税によって、土地を失ったと聞いています。その後、畑が広がっていた東京・世田谷に移りました。畑の先にある牧場にビンを持っていき、牛乳を買っておやつとして飲むのが楽しみでした。

 そんなわけで私は東京で生まれ育ち、総合商社の丸紅でサラリーマン生活を送りました。東京では信玄の末裔(まつえい)だと言っても「へえ」というくらいの反応しかありません。

 信玄が誇りとなっている山梨は全く違います。武田家の家臣だった家が多く残っており、家臣の子孫でつくる「武田家旧温会」の会員も多くいらっしゃる。父からも「武田家を慕ってくださる方々をがっかりさせるなよ」ときつく言われていました。今は、月に1度程度、信玄関係の行事などで山梨に行きます。

 13年前、私の長男・英信(ひでのぶ・38)が「江戸に連れてこられた武田家は、自分の代で戻るんだ」と言って山梨県に移住しました。甲府市役所で働いています。注目されているから、うっかりしたことはできません。用事がないのに、わざわざ英信を見に市役所へ来る人もいるのですよ。(笑い)

※週刊朝日  2013年8月30日号

357 とはずがたり :2017/05/10(水) 23:30:09
織田家第18代当主「『本能寺の変』後、2系統4家が江戸時代まで大名として生き残る」
https://dot.asahi.com/wa/2014110500090.html
(更新 2014/11/ 7 07:00)

武将の末裔 ― 史上初! 子孫52人の秘話と秘宝 決定版(週刊朝日ムック)
朝日新聞出版
定価:994円(税込)
978-4022770332

 日本人で知らない人はいないであろう織田信長。今では人気の武将として知られるが、織田家第18代当主・織田信孝(のぶたか)氏は「人気が出すぎ」だと指摘する。

*  *  *
 うちは、織田信長の子孫の中でも、次男・信雄(のぶかつ)が先祖になる直系の子孫です。

 信雄は、本能寺の変で信長と後継者だった兄の信忠が亡くなったあと、弟の信孝と争い勝利します。その後、台頭する秀吉に対して、家康と手を結び小牧・長久手の戦いを起こしますが、結局秀吉と和睦。以降は秀吉に従いました。大坂の陣では、家康側につき、大和松山(奈良県宇陀市)を与えられました。

 大和松山藩は五男の高長が継ぎ、信長から6代目の信休のときに、兵庫県丹波市にあった柏原(かいばら)藩に移りました。僕で18代目です。

 織田家では、2系統4家が大名として江戸時代も生き残ります。信雄系が、うちの柏原藩と天童藩(山形県天童市)。信長の弟・有楽斎(うらくさい)の系統では、柳本藩(奈良県天理市)と芝村藩(奈良県桜井市)があります。どの織田家も似たり寄ったりの規模ですが、柏原藩は2万石しかありません。小さく細々とやってきました。

 僕の曾祖父・信親(のぶちか)のときに明治維新がありました。信親は新政府軍について、自ら兵を率いて戦に出たと聞いています。

 祖父の信大(のぶひろ)は、東京美術学校(現・東京芸大)を出て、白木屋(現・東急百貨店)という百貨店の美術部で働いていたそうです。祖父の代までは、東京・恵比寿に2千坪の屋敷がありました。今も残っていたら、もっと楽ができたのかもしれません(笑)。

 僕の代になると、資産と言えるようなものは何一つないです。柏原に残る蔵には、鎧兜やなぎなたがありましたけど、金銭的には二束三文でしょう。

 それにしても、信長の人気って、僕が子どものころは、今ほどではなかったように思います。小学生のとき、授業で比叡山延暦寺の焼き打ちの話が出てきました。そこで誰かが「織田の先祖は人をたくさん殺した」みたいなことを言って、教室がちょっと盛り上がったことがありました。こちらは困ったけれど、一般的なイメージが、信長イコール英雄では決してなかった。ネガティブな部分も語られていたわけです。

 実際、長島一向一揆の制圧をはじめとして、多くの人を殺していますから。あれだけのことをして、よく家が続いたと思うくらい。

 それが今は、新しい時代をつくるためには、強引な手段が必要だったとか、比叡山も平和な人たちではなく僧兵がいただろう、と言う人がけっこう多い。子孫としては複雑で、マイナス面が語られなくなったぶん、人気出すぎの感もある。信長の“名声インフレ”ですよ(笑)。

 これは僕の実感ですけど、“名声インフレ”が起こったのは、津本陽さんの「下天は夢か」が日経新聞に連載された1980年代半ばあたりからです。その少し前には「信長の野望」というゲームが発売されましたし、90年代に入るとNHK大河ドラマ「信長」が放送されています。

 経済が成熟して、社会の仕組みや価値観を変えるような新しいことが求められるようになった。それで、秀吉や家康のように努力型や忍耐型ではなく、誰も思いつかないことをする天才型の信長がすごく魅力的に見えるんじゃないかな。

(構成 本誌・横山健)

※週刊朝日  2014年11月14日号

358 とはずがたり :2017/06/04(日) 13:51:59
全国初の木造本格復元だった掛川城天守閣、なぜ鉄筋を選択しなかったのか?
https://thepage.jp/aichi/detail/20170531-00000004-wordleaf
2017.05.31 12:45

 今春、4選を果たした名古屋市の河村たかし市長が執念を燃やしている名古屋城天守閣の木造化。「未来の世代まで残せる市民の財産を」との首長そして政治家としての思いがあるようだ。そんな木造天守閣を全国で初めて本格復元したのは静岡県掛川市だった。掛川市はなぜ木造復元したのか? 天守閣木造復元の思いを探った。

掛川のシンボル、掛川城。20年以上前に全国で初めて天守閣が本格木造復元された
 掛川城は、室町時代の1505(永正2)年に築城され、安土桃山時代、豊臣秀吉の家臣、山内一豊によって城郭と城下町の整備が行われた。しかし、江戸時代に起きた安政の大地震により天守閣や城門が崩壊、天守閣は再建されることなく明治維新を迎え、廃城令により建物の一部を残して撤去された。復元前は、天守台と堀の一部、安政の大地震後に再建された二の丸御殿など一部の遺構が往時の面影をとどめるにすぎない状態であったという。

 掛川城を復元できないだろうかとの思いは、掛川市では昔から街づくりの施策として語られていたようだが、莫大な費用がかかることから現実的な取り組みにまで進展することはなかった。それが現実味を帯び始めたのは、昭和63年(1988年)に東海道新幹線の掛川駅を市民の力で誘致し建設したことだったという。

 新幹線の次は掛川城の復元だと気運が自然に高まっていったのだ。掛川市では昭和52年(1977年)から平成17年(2005年)にかけて、現在、日本茶業中央会会長や大日本報徳社社長などを務める榛村純一氏が7期28年間にわたり市長を務めている。

 榛村氏は、生涯学習を通じた街づくりを提唱し、生涯学習都市宣言をするなどして市の施策に取り組んだ。榛村氏の考えに共鳴した篤志家より掛川市に5億円もの寄付があり、多額の寄付金により掛川城復元は財政的にも現実的なものになっていったのだ。

 しかし、戦後、復元された城は、ほぼすべて鉄筋コンクリート製という時代であった。復元工事を議論する市議会全員協議会で当時市長の榛村氏は「本格的な木造天守閣の建設は全国でも初めてで、それだけに実施設計は難しく、工事費は鉄骨で行えば6億円位だが木造でやればその倍になる」と説明している。

 鉄筋の道をとらず、木造復元を選択した理由は何か? それは、最終的には榛村氏の思い、考えによるものであったと考えられる。榛村氏の家業は林業。掛川市森林組合長や県森林組合連合会専務理事を務め木の文化に強い思いがあった。

 榛村氏は、「木の文化によるまちづくりの意義と効果」と題した文章の中で、木の文化、木造建築にこだわる理由として、自身が林業や森林組合長をやってきたこと、環境問題、木造建造物の教育的、精神的な側面の3点を上げ、こうした自身の理念を集約したものが掛川城の復元だったと明かしている。

 しかし、その建設は、建築基準法にかかる問題への対処や津軽半島から材木を仕入れるなど大きな苦労があったようだ。また、天守閣の設計は、山内一豊が掛川城を模して建てたとされる高知城をもとに行われたという。

 掛川城は平成2年(1990年)8月から復元工事が行われ、平成6年(1994年)4月に竣工、一般公開された。木造復元から20年以上を経た現在、掛川城は地域のシンボル、観光資源として定着し年間14万人もの人が訪れている。

359 荷主研究者 :2017/06/11(日) 13:29:18

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20170530/CK2017053002000056.html
2017年5月30日 中日新聞 
犬山城の国史跡指定目指す 市、年度内申請を視野に協議

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2017052902100250_size0.jpg
絵図などから1840年の城山を再現した模型。門は18棟、やぐらは13棟あった=犬山市文化史料館で

 犬山市が犬山城の国の史跡指定を本格的に目指すことになった。本年度内の文化庁への申請を視野に関係者と協議していく。山田拓郎市長が二十六日の市総合教育会議や二十九日の定例会見で史跡指定に意欲を示した。

 犬山城は天守は国宝だが、城郭跡は文化財に指定されていない。史跡指定によって国の補助を有利に受けられ、それらを元手に城山の整備を進める。

 史跡指定の対象は最小限とし、天守のある城山や、大手門があった市福祉会館周辺などを念頭に置いている。ただ、史跡指定されると土地利用について制限がかかるため、申請には土地所有者ら関係者の理解が必要となる。

 併せて山田市長は、現時点では構想と断った上で「将来的には各地に移築された門ややぐらを復元し、元々の城山の状態に近づけていきたい。長い時間、例えば五十年ぐらいかけてやっていけないかと思っている」と述べた。

 犬山城は一八七三(明治六)年の廃城令の後、建物の一部が旧城下町などで構成する稲置村に払い下げられた。村はこの後、門とやぐら、小屋を寺社や個人に売却した。同じく明治時代に城跡が公園となった際にも門ややぐら、倉庫、高塀が払い下げられた。

 このうち六つの門と一つのやぐらが現存していることが分かっている。門は一宮市(二棟)、犬山市(二棟)と扶桑、大口両町で寺院の門に、また旧桐(きり)の丸隅やぐらが江南市で土蔵として使われている。江戸時代の大火に際して、再建のために描かれた詳細な図面が残っている門ややぐらもある。

 (三田村泰和)

360 荷主研究者 :2017/06/11(日) 14:29:19

http://www.sankei.com/region/news/170602/rgn1706020038-n1.html
2017.6.2 07:03 産経新聞
高山右近の高槻城から大堀、木橋橋脚など出土 「築城過程知る貴重な資料」

 戦国時代のキリシタン大名、高山右近(1552〜1615年)が城主だった高槻城(高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかり、同市教育委員会が1日、発表した。市教委は「城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料」としている。

 高槻城は右近の居城として知られるが、城の痕跡は地下に残るのみで、それも元和3(1617)年に江戸幕府が行った大修築による。400年を迎えた今年、日本城郭協会(東京都品川区)により「続日本100名城」に選ばれた。

 今回の調査では、三の丸から二の丸北側の城門「不明門(緊急時のみに使われる門)」に通じる木橋の橋脚計21本を確認。理由は分からないが、いずれも堀底から高さ約2・5メートル部分で切断されていた。木橋は、仏日寺(池田市畑)が所蔵する「高槻城絵図」(江戸時代前期に製作)に記載がなく、城郭の変遷をとらえ直す重要な手がかりになるという。また、不明門の増築時に資材などを搬入する仮設通路として使われたとみられる土橋も確認された。

 このほか、右近が城主だった16世紀に拡張したとみられる大堀を発見。底幅約9メートルの修築状況などから、織田信長も攻めあぐねた城の堅牢なつくりが裏付けられた。徳川幕府による大修築では、右近時代のこの大堀を埋めて外堀がつくられるなど戦国時代から江戸時代にかけて修築されてきた城の変遷がうかがえるという。

 また大堀の土層から、豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第で使われた軒平瓦と同じ唐草文様の掛平瓦(長さ28センチ)が出土。瓦は豊臣政権下の時期に搬入されたと考えられ、高槻城が秀吉の御座所(居室)のような存在だったことも明らかになった。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「政治的、軍事的、経済的な面から増改築が繰り返された高槻城の歴史を探る上で意義深い発見だ」としている。

 現地説明会は3日午前10時〜正午。阪急高槻市駅から徒歩約8分、JR高槻駅から徒歩約15分。問い合わせは高槻市立埋蔵文化財調査センター(電)072・694・7562。


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